「戦争レクイエム」の版間の差分
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『'''戦争レクイエム'''』(せんそうレクイエム、{{lang-en|'''''War Requiem'''''}})作品66は、[[イギリス]]の作曲家[[ベンジャミン・ブリテン]]が[[1962年]]に発表した[[管弦楽]]付き[[合唱]]作品である<ref name="マシューズ(21)">デイヴィッド・マシューズ、中村ひろ子・訳『ベンジャミン・ブリテン』、春秋社、2013年12月20日、ISBN 978-4-393-93578-1、(21)頁</ref>。テクストには[[ラテン語]]による[[カトリック]]の典礼文と、[[第一次世界大戦]]に従軍し25歳の若さで戦死したイギリスの詩人'''[[ウィルフレッド・オーウェン]]'''([[1893年]]~[[1918年]])による英語の[[詩]]が使われており<ref name="井上293">井上太郎『レクイエムの歴史-死と音楽の対話』、平凡社、1999年1月19日、ISBN 4-582-84185-6、293頁</ref>、[[第二次世界大戦]]における全ての国の犠牲者を追悼する<ref name="FD302">ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、實吉晴夫・田中栄一・五十嵐蕗子・訳『自伝フィッシャー=ディースカウ-追憶-』国際フランツ・シューベルト協会刊行シリーズ3、メタモル出版、1998年2月16日、ISBN 4-89595-189-8、302頁</ref>とともに、[[戦争]]の不合理さを告発し世界の[[平和]]を願う作品となっている<ref name="解説全集376">菅野浩和(項目執筆)『最新名曲解説全集 第24巻 声楽曲IV』、音楽之友社、1981年6月1日、ISBN 4-276-01024-1、376頁</ref><ref name="小林179">小林敬子「ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクイエム』―「楽曲」と「演奏」―」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』、2012年11月、179頁</ref>。 |
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{{出典の明記|date=2013年9月}} |
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『'''戦争レクイエム'''』(せんそうレクイエム、''War Requiem'')は、[[ベンジャミン・ブリテン]]の作曲した[[レクイエム]](死者のための[[ミサ]]曲)である。ブリテンの代表作として筆頭に上げられる。戦後最大のレクイエムで彼の集大成とも言えるこの作品は、単に[[第二次世界大戦]]の犠牲者のためのレクイエムではなく、かと言って通常の[[教会音楽]]でもない。 |
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3人の[[ソロ (音楽)|独唱者]]と[[混声合唱]]および[[児童合唱]]、大小2つのオーケストラにより演奏され、所要時間は約1時間25分<ref name="スコアxvi ">フルスコア「BRITTEN WAR REQUIEM・FULL ORCHESTRAL SCORE」、Boosey & Hawkes Music Publishers LTD ISBN 0-85162-198-8、(xvi)頁</ref>。「第1章 '''レクイエム・エテルナム'''(永遠の安息)」、「第2章 '''ディエス・イレ'''(怒りの日)」、「第3章 '''オッフェルトリウム'''(奉献唱)」、「第4章 '''サンクトゥス'''(聖なるかな)」、「第5章 '''アニュス・デイ'''(神の子羊)」、「第6章 '''リベラ・メ'''(我を解き放ちたまえ)」の6つの楽章で構成されている<ref name="解説全集377">菅野、前掲書377頁</ref>{{Refnest|group="注"|各楽章について、「第○章」という表現は菅野(1981)及び小林(2012)に従った。向井(2013)は「第○部」という表現を使用している。}}。なお、第6章「リベラ・メ」で使われているラテン語のテクスト「リベラ・メ」と「イン・パラディスム(楽園にて)」は、それぞれ「死者のための[[ミサ]]」が終わった後の「赦祷式」と、柩を墓地へ運ぶ時のためのものであり、本来は「[[レクイエム]]」の典礼文には含まれない<ref name="井上252">井上、前掲書252頁</ref>{{Refnest|group="注"|「リベラ・メ」と「イン・パラディスム」は、[[ガブリエル・フォーレ]]の『[[レクイエム (フォーレ)|レクイエム]]』にも使われている<ref name="井上252"/>。}}。 |
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ブリテンはこの曲の[[総譜|スコア]]冒頭に次のような、詩人[[ウィルフレッド・オーウェン]]の一節を書き記している。 |
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<blockquote>私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。詩はその悲しみの中にある。詩人の為しうる全てとは、警告を与えることにある。</blockquote> |
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== 作品の特徴 == |
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この文は「戦争レクイエム」の持つ性格を端的に現しているだけでなく、戦争を二度と繰り返さない為の作者の深い祈りがこもっている。ブリテン自身[[平和主義者]]で[[第二次世界大戦]]の兵役を拒否して[[アメリカ]]に滞在し、戦中の1942年に帰国し[[良心的兵役拒否]]者となった。 |
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[[File:Wilfred Owen à l'Arrouaise.jpg|right|180px|thumb|ウィルフレッド・オーウェン]] |
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『戦争レクイエム』の特徴は、典礼文とオーウェンの詩を対比・融合させ<ref name="井上293" />、カトリックの「死者のためのミサ」の世界と現実的な世界を交錯させている点にある<ref name="井上294">井上、前掲書294頁</ref>。オーウェンは、第一次世界大戦に従軍して戦争の現実を目の当たりにし、殺し殺される運命にある兵士の苦悩や自己の内面の葛藤を表現した詩人である{{Refnest|group="注"|第一次世界大戦に際して書かれた「戦争詩」の多くは、依然として武勇や愛国心、兵士の死をロマンチックに歌っていた<ref name="岡田55">岡田仁「WILFRED OWENの戦争詩にみられるROMANTICISMの変遷について」『Artes liberales』、岩手大学教養部、1973年1月1日、55頁</ref>。}}{{Refnest|group="注"|オーウェンは第一次世界大戦の休戦協定が結ばれる1週間前の1918年[[11月4日]]に戦死した<ref name="佐藤133">佐藤芳子(訳・注)『ウィルフレッド・オウエン研究(第一巻)ウィルフレッド・オウエン戦争詩篇』、近代文藝社、1993年7月30日、ISBN 4-7733-1775-2、133頁</ref>。}}<ref name="岡田54">岡田(1973年)、54頁</ref>。オーウェンの詩作に対する姿勢は彼の詩集の序文に現れており{{Refnest|group="注"|オーウェンの詩集『ウィルフレッド・オウエン詩篇』は、オーウェンの死後、[[1920年]]に{{仮リンク|ジークフリード・サスーン|en|Siegfried Sassoon}}によって編まれた<ref name="佐々木206">佐々木隆爾「世界大戦に対して警告を発した人たち-ベンジャミン・ブリテンとウィルフレッド・オウエン-」メトロポリタン史学会・編『20世紀の戦争-その歴史的位相』、有志社、2012年7月20日、ISBN 978-4-903426-59-4、前掲書206頁</ref>。その序文はオーウェンが生前に、将来出版を予定していた詩集『不具になった者たち、およびその他の詩篇』の序文として構想していたものである<ref name="佐藤12">佐藤、前掲書12頁</ref>。}}、『戦争レクイエム』の[[総譜|スコア]]の扉ページには、その一節が次のように引用されている。 |
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<blockquote>''My subject is War. and the pity of War.<br/>The Poetry is in the pity... <br/>All a poet can do today is warn.''<ref name="スコア内表紙">フルスコア、扉ページより引用</ref><br/><br/>私の詩の主題は戦争であり、戦争の哀れさである。<br/>詩はその哀れさの中にある。・・・・・・<br/>今日、詩人がなしうることは、警告することだけである。<ref name="佐藤11">佐藤、前掲書11頁より引用</ref></blockquote> |
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『戦争レクイエム』の作曲にあたり、ブリテンはオーウェンの作品から9篇の詩を選び出し、ミサの典礼文と巧みに組み合わせてテクストを構成した<ref name="向井62">向井大策「こだまする記憶:ベンジャミン・ブリテン《戦争レクイエム》における追悼の詩学」『エオリアン論集第1号』、上野学園大学音楽文化研究センター、2013年、ISSN 2188-4641、62頁</ref><ref name="解説全集376" />。例えば第2章「ディエス・イレ」において典礼文が「[[最後の審判]]」のラッパに言及した後に[[軍隊]]の[[ビューグル|消燈ラッパ]]が登場する詩が置かれるといったように、テクストは緊密に結び付けられている<ref name="マシューズ174">マシューズ、前掲書174頁</ref>。ブリテンはこの作品におけるオーウェンの詩の役割を「レクイエムの一種の注釈<ref name="FD302" />」と説明しているが、第3章「オッフェルトリウム」において[[聖書]]に出てくる逸話が全く違う結末に置き換えられてしまうように、オーウェンの詩は直前に置かれた典礼文の内容を転覆し、あるいは戦争に対する[[キリスト教]]の態度そのものを批判するかのように配置されており<ref name="向井62" /><ref name="マシューズ174" />、二つのテクストはフィナーレ部分において融和するまで厳しく対立し続けている<ref name="小林180" />。 |
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また、独特な[[管弦楽法|オーケストレーション]]により、テクストだけでなく楽曲の[[テクスチュア]]も対比されるようになっている。演奏者は大きく三つのグループに分けられており、「'''ソプラノ独唱・混声合唱とオーケストラ'''」はラテン語の典礼文による歌とその伴奏を担当し<ref name="向井60">向井(2013年)、60頁</ref><ref name="スコアv">フルスコア、(v)頁</ref>、「'''テノール独唱・バリトン独唱と12名の奏者による室内オーケストラ'''」はオーウェンの詩による歌とその伴奏を担当するようになっている<ref name="向井60" /><ref name="スコアv" />{{Refnest|group="注"|例外として、第5章「アニュス・デイ」の最後にテノール独唱がラテン語の典礼文を歌う箇所がある(後述)。}}。また、「'''児童合唱とオルガン'''」のグループはラテン語の典礼文を歌うが遠くに置かれ<ref name="向井60" /><ref name="スコアv" />、遠近感のある響きが得られるようになっている<ref name="カルショー440">ジョン・カルショー、山崎浩太郎・訳『レコードはまっすぐに-あるプロデューサーの回想-』、学習研究社、2005年5月9日、ISBN 978-4-05-402276-8、440頁</ref>。なお、二つのグループが異なるテンポで演奏する場面もあり、ブリテン自身はこの曲の演奏には2名の[[指揮者]]が必要だと考えていた{{Refnest|group="注"|実際には1人の指揮者でも演奏される。}}<ref name="カルショー142">カルショー、前掲書142頁</ref>。 |
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このように『戦争レクイエム』は、ラテン語と英語、典礼文と詩、レクイエムと歌曲、オーケストラと室内楽など、様々な要素が対比され<ref name="向井60">向井(2013年)、60頁</ref>、テクストと音楽の両面において複雑で多元的な構造を持つ{{Refnest|group="注"|『戦争レクイエム』の構造の複雑さについては、[[マイケル・ティペット]]の影響が指摘されている<ref name="ロス455">アレックス・ロス、柿沼敏江・訳『20世紀を語る音楽・2』、みすず書房、2010年11月24日、ISBN 978-4-622-07573-8、455頁</ref>。}}<ref name="ロス455" />新しいレクイエム(死者のためのミサ曲)の形式による作品となっている<ref name="菅野376">菅野、前掲書376頁</ref>。 |
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== ブリテンと平和主義 == |
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[[File:Benjamin Britten, London Records 1968 publicity photo.png|right|200px|thumb|ベンジャミン・ブリテン]] |
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ブリテンは生来優しく繊細な性格で暴力を嫌っており<ref name="小林186">小林(2012年)、186頁</ref>、作曲の師である[[フランク・ブリッジ]]からも[[平和主義]]の影響を受けていた<ref name="佐々木210">佐々木、前掲書210頁</ref><ref name="伊東302">伊東好次郎「W.オーエンの戦争詩を音楽化したブリテンの『戦争レクイエム』」、『人間と言葉』刊行会・編『勇康雄先生喜寿記念 人間と言葉』、リーベル出版、1994年9月27日、ISBN 4-89798-415-7、302頁</ref>。[[1935年]]には映画音楽の制作を通して詩人の[[W・H・オーデン]]と出会い親交を深めるが、その影響で平和主義の傾向はさらに強固なものになった<ref name="マシューズ43-45">マシューズ、前掲書43-45頁</ref><ref name="井上291">井上、前掲書291頁</ref>。オーウェンの影響を強く受けていたオーデンは<ref name="井上293" />周囲の者に対してオーウェンの詩を読むことを熱心に勧めており<ref name="伊東303">伊東、前掲書303頁</ref>、ブリテンはこの頃にオーデンを通じてオーウェンを理解する手がかりを得ていた可能性が考えられる<ref name="伊東303" />。そのオーデンは[[1939年]]1月にアメリカ大陸に移住し<ref name="マシューズ65">マシューズ、前掲書65</ref>、同年5月にはブリテンも親友[[ピーター・ピアーズ]]とともにイギリスを離れ、カナダ・アメリカに向かった{{Refnest|group="注"|ブリテンがこの時期にアメリカ大陸に渡ったことについては、オーデンがアメリカに移住したことのほか、アメリカに自由な創造の場を求めたこと<ref name="伊東303" />、1938年にアメリカの作曲家[[アーロン・コープランド]]がブリテンの自宅を訪問したこと<ref name="マシューズ65" />、近づきつつあった戦争を避けようとしたことなど<ref name="小林178">小林(2012年)、178頁</ref>、様々な理由やきっかけがある。}}<ref name="佐々木211">佐々木、前掲書211頁</ref>。同年9月には第二次世界大戦が勃発し、イギリスの友人からは帰国を促す手紙が届くが、ブリテンはさらに数年間アメリカにとどまり続けた<ref name="佐々木212">佐々木、前掲書212頁</ref>。アメリカ滞在中の[[1940年]]には日本政府の委嘱により『[[シンフォニア・ダ・レクイエム]]』作品20を作曲しているが、この曲についてはブリテン自身が新聞に「私が作品に込めようとしているのは私自身の反戦的信条のすべて<ref name="佐々木212" />」だと寄稿しており{{Refnest|group="注"|1940年4月27日付け『The NewYork Sun』<ref name="佐々木212" />}}、平和主義的な内容や典礼文に基づく楽章タイトル{{Refnest|group="注"|第1楽章「ラクリモサ(涙の日)」、第2楽章「ディエス・イレ(怒りの日)」、第3楽章「レクイエム・エテルナム(永遠の安息)」。なお、管弦楽曲であり声楽は含まれない。}}など、『戦争レクイエム』を予告する作品であると言える<ref name="佐々木213">佐々木、前掲書213頁</ref><ref name="小林179" />。 |
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その後、[[ホームシック]]になったブリテンはピアーズとともに[[1942年]]4月17日にイギリスに帰国すると<ref name="マシューズ91">マシューズ、前掲書91頁</ref>、裁判所に対して[[良心的兵役拒否]]を申し出た。 |
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{{Quotation|私はあらゆる人間の中に神の心があることがあることを信じているので、殺すことはできません。(略)私は人生のすべてを創造行為に捧げてきましたので、殺す行為に加担することはできません。(後略)|ブリテン|デイヴィッド・マシューズ、中村ひろ子・訳『ベンジャミン・ブリテン』、春秋社、2013年12月20日、ISBN 978-4-393-93578-1、92頁より引用(一部省略)}} |
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この申し出は最終的に1943年5月に認可され<ref name="佐々木213">佐々木、前掲書213頁</ref>、ブリテンは、同じく良心的兵役拒否者となったピアーズとともに「戦意高揚のための音楽家・美術家委員会(CEMA)」のためのコンサートを行った<ref name="佐々木213" /><ref name="マシューズ95">マシューズ、前掲書95頁</ref>。その一方で、ブリテンやピアーズの友人の中には、従軍し大戦の犠牲となった者もいる。ロジャー・バーニー、デヴィッド・ギルは戦死し、マイケル・ハリディは従軍中に行方不明となった<ref name="小林179-180">小林(2012年)、179-180頁</ref>。『戦争レクイエム』は、この3名と1959年に自殺したピアーズ・ダンカリーの思い出に捧げられ<ref name="小林179-180" />、スコアには4人の友人の名前が記されている<ref name="スコアxv">フルスコア、(xv)頁</ref>。 |
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平和主義者のブリテンではあったが第二次世界大戦を扱った作品は決して多くない<ref name="マシューズ155">マシューズ、前掲書155頁</ref>{{Refnest|group="注"|ブリテンの伝記を著したデイヴィット・マシューズは、「第二次世界大戦に直接言及した作品は、たった二曲である。」としている<ref name="マシューズ155" />。}}。第二次世界大戦が終結した1940年代後半には、戦争や暴力に反対する内容の大規模な合唱曲を構想するが、それらは実を結ばず{{Refnest|group="注"|[[1945年]]には[[原子爆弾|原爆]]投下に抗議するためのオラトリオ『メア・クルパ(わが過ちにより)』、[[1948年]]には暗殺された[[マハトマ・ガンディー]]を悼む『ガンディー・レクイエム』が構想されたが、いずれも完成には至らなかった<ref name="向井64">向井(2013年)、64頁</ref>。}}、[[1955年]]には、{{仮リンク|イーディス・シットウェル|en|Edith Sitwell}}の詩による、[[ザ・ブリッツ|ロンドン空襲]]を扱った『{{仮リンク|カンティクル第3番「なおも雨は降る」|en| Canticle III: Still falls the rain}}』作品55を作曲している<ref name="マシューズ154-155">マシューズ、前掲書154-155頁</ref>。これはブリテンが第二次世界大戦に直接言及した数少ない作品の一つである<ref name="マシューズ155" />。 |
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== 作曲の経緯 == |
== 作曲の経緯 == |
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[[File:Churchill CCathedral H 14250.jpg |right|280px|thumb|空襲で破壊された聖マイケル大聖堂を訪れたチャーチル(1941年)]] |
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この曲は名目上、[[1962年]][[5月]]に英国[[ウォリックシャー]]の[[コヴェントリー]]にある聖マイケル教会に新たに建立された大聖堂の献堂式を行うために、この教会の委嘱によって書かれた。この教会自体も第二次世界大戦中の[[1940年]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の大空爆によって破壊されたのであった。この空爆はその後「空爆で破壊する」という意味を持つcoventrateという新しい[[動詞]]を生み出すほどの有名なもので、いわばイギリス国民にとって第二次世界大戦を象徴すると言っても過言ではないほど悲惨な体験の一つであった。ブリテンは[[1960年]]後半から、作曲中であった他作品を中止してこの作品に取り組み、[[1961年]]12月に完成させた。そして予定通り[[1962年]]5月30日の献堂式に初演された。 |
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[[File:Coventry Cathedral Interior, West Midlands, UK - Diliff.jpg|right|280px|thumb|再建された大聖堂の内部]] |
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[[1958年]][[10月7日]]、ブリテンは、第二次世界大戦で破壊された{{仮リンク|聖マイケル大聖堂(コヴェントリー大聖堂)|en|Coventry Cathedral}}の再建を祝う献堂式ための楽曲を委嘱され、このことが『戦争レクイエム』が生まれる直接のきっかけとなった<ref name="佐々木209-210">佐々木、前掲書209-210頁</ref>。 |
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大聖堂がある[[コヴェントリー]]はイギリス中部の[[ウォリックシャー]]州にある工業都市で、第二次世界大戦中の[[1940年]][[11月14日]]に[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の激しい空襲を受けた{{Refnest|group="注"|コヴェントリーに対する空襲は11時間にもわたり執拗に行われ<ref name="佐々木208">佐々木、前掲書208頁</ref>、その後「空爆で破壊する」という意味を持つ '''''coventrate''''' という新しい動詞を生み出すこととなった。}}。市のシンボルであった大聖堂もこの時に破壊されたが<ref name="佐々木206-209">佐々木、前掲書206-209頁</ref>、戦後、建築家{{仮リンク|バジル・スペンス|en|Basil Spence}}の設計による現代的な新しい大聖堂が破壊された聖堂の廃墟に隣接して建てられることとなり<ref name="向井58">向井(2013年)、58頁</ref>{{Refnest|group="注"|ブリテンは、スペンスが新旧の建物を融合させたことを「戦争からの和解」を象徴するものとしてとらえた<ref name="伊東306">伊東、前掲書306頁</ref>。}}、彫刻家{{仮リンク|ジェイコブ・エプスタイン|en|Jacob Epstein}}、画家の{{仮リンク|グレアム・サザーランド|en|Graham Sutherland}}、{{仮リンク|ジョン・パイパー|en|John Piper (artist)}}、[[エリザベス・フリンク]]など多くの芸術家がこの再建に関わった<ref name="カルショー408">カルショー、前掲書408頁</ref>。 |
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ブリテンへの作曲の委嘱は、献堂式ために組織された式典芸術委員会から行われたが{{Refnest|group="注"|依頼状は、式典芸術委員会のメンバーで、ブリテンと親交があったジョン・ロウエを通じてブリテンに送られた<ref name="佐々木210" >佐々木、前掲書210頁</ref>。}}、英国王室楽長であった[[アーサー・ブリス]]を差し置いてブリテンが起用されたことは、当時のイギリス楽壇では意外性をもって受け止められた<ref name="カルショー408" />。 |
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献堂式の音楽については、「30分から40分の堅固な作品で、歌詞は神聖なものか世俗的なものかどちらでもよい<ref name="キルデア2">ポール・キルデア、堺則恒・訳「歴史の証言」(1962初演CD日本流通版ライナーノート)、テスタメント・レコード社、2013年、SBT1490、2頁</ref>」という条件があるだけで、内容は作曲者に一任されていた<ref name="向井58">向井(2013年)、58頁</ref>。指揮者でありブリテンに関する著作がある{{仮リンク|ポール・キルデア|en|Paul Kildea}}は、委嘱を受ける数年前からブリテンが構想を進めていた「20世紀のヨーロッパでの出来事のための」ミサ曲{{Refnest|group="注"|1957年1月にブリテンが友人にミサ曲の作曲について語ったという記録がある<ref name="キルデア2" />。}}が『戦争レクイエム』につながり<ref name="キルデア2" />、ミサの典礼文とオーウェンの詩を並列させる計画もすでに考えられていたとしている<ref name="キルデア2" />。なお、ブリテンは、委嘱を受けた1958年の作品『{{仮リンク|ノクターン (ブリテン)|label="ノクターン"|en|Nocturne (Britten)| preserve=1}}』作品66の第6章「彼女はおだやかに最期の吐息をついて眠る」でオーウェンの詩に曲付けし<ref name="マシューズ166">マシューズ、前掲書166頁</ref>、同年7月16に放送された[[BBC]]の番組「私の選んだ詩と曲」でもオーウェンの「奇妙な出会い(''Strange Meeting'')」(この詩は『戦争レクイエム』のテクストにも使われている)を取り上げ、これに曲を付けている<ref name="佐々木214">佐々木、前掲書214頁</ref><ref name="伊東307">伊東、前掲書307頁</ref>。ブリテンは早くからイギリスの詩に親しむとともに、詩を使った音楽表現の可能性を追究して実験を重ねてきており{{Refnest|group="注"|古今のイギリスの詩人の作品を扱った1949年の『[[春の交響曲]]』作品44は、そうした「実験」の成功例である<ref name="伊東307" />。}}、典礼文とオーウェンの詩を組み合わせるという試みは、そうした「実験」の積み重ねの上にあったと言える<ref name="伊東307" />。 |
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ブリテンは作曲にあたり、公私ともにブリテンのパートナーであった[[テノール]]の'''[[ピーター・ピアーズ]]'''、かねてから親交があった[[ドイツ]]の[[バリトン]]、'''[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]'''、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソプラノ]] 、'''[[ガリーナ・ヴィシネフスカヤ]]'''の3名が独唱者として歌うことを念頭に置いていた<ref name="向井58" />。第二次世界大戦におけるヨーロッパでの中心的交戦国であり、いずれも甚大な被害を受けたイギリス・ドイツ・ソ連の演奏家が同じステージで歌うことにより、作品の内容だけでなく、演奏行為それ自体にも「戦争からの和解」というメッセージ性を持たせようとしたのである<ref name="向井58" />。 |
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まだ作曲の途上にあった[[1961年]][[2月16日]]には早くもフィッシャー=ディースカウに手紙を送り、作曲中の作品の趣旨を説明するとともに初演への出演を依頼し、3月1日には快諾を得ている<ref name="佐々木216">佐々木、前掲書216頁</ref>。この手紙の中で「作品は年内には完成する」と予告していたとおり<ref name="佐々木216" />、同年[[12月20日]]に[[オールドバラ]]の自宅でスコアが完成した<ref name="解説全集376" />。なお、作曲の委嘱を受けてから作品が完成するまでの約3年間には、『{{仮リンク|ミサ・ブレヴィス|en|Missa Brevis (Britten)|preserve=1}}』作品63(1959年)、歌劇『[[夏の夜の夢 (ブリテン)|真夏の夜の夢]]』作品64(1960年)や、ヴィシネフスカヤの夫であるソ連のチェロ奏者[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]のための{{Refnest|group="注"|1960年にロンドンで行われた演奏会で、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[チェロ協奏曲第1番 (ショスタコーヴィチ)|チェロ協奏曲第1番]]を弾くロストロポーヴィチの演奏にブリテンは興奮し、翌日に面会してソナタを作曲することを申し出た<ref name="マシューズ171-172">マシューズ、前掲書171-172頁</ref>。}}「{{仮リンク|チェロ・ソナタ (ブリテン)|label=チェロ・ソナタ|en|Cello Sonata (Britten)| preserve=1}}」作品65(1961年)などの作品が手がけられている<ref name="マシューズ作品表">マシューズ、前掲書(16)~(26)頁</ref>。 |
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一方、ブリテンが手がける「献堂式の作品」については、その構想の一部がすでに世間に知れ渡っていたが、祝賀の式典にレクイエムが使われることをはじめとして、第二次世界大戦で破壊された大聖堂の献堂式に第一次世界大戦中に書かれたオーウェンの詩が使われること、さらには、大聖堂を破壊した当のドイツから独唱者が参加する予定であることに対し、人々は懸念を抱いた{{Refnest|group="注"|こうしたことに対する懸念の声は、初演後には沈静化した<ref name="カルショー425">カルショー、前掲書425頁</ref>。}}<ref name="カルショー409">カルショー、前掲書409ページ</ref>。 |
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== 初演 == |
== 初演 == |
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[[File:Mstislav Rostropovich and Galina Vishnevskaya NYWTS cropped.jpg |right|180px|thumb|ヴィシネフスカヤ(右)とロストロポーヴィチ]] |
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ブリテンはこの大作の初演のソリストを、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソプラノ]]、[[ガリーナ・ヴィシネフスカヤ]]、[[イギリス]]の[[テノール]]、[[ピーター・ピアーズ]]、[[ドイツ]]の[[バリトン]]、[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]とすることを初めから考慮して作曲したといわれる{{誰2|date=2013年9月}}。第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の中心的交戦国であり、戦争の恐怖と被害を身に沁みて体験したこれら三国の最も優秀な歌手を一堂に集めることで、真の和解を確認して平和への誓いを固めたいという願いからだった。折りしも[[1962年]]といえば[[冷戦]]の真っ只中であり、そうした時代に初演を迎えるからこそ意義のあった作品である。 |
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初演に向けての大きな問題点はヴィシネフスカヤの出演が確定していないことであった。すでに1961年の夏、[[オールドバラ音楽祭]]にヴィシネフスカヤが出演した際、ブリテンは彼女に『戦争レクイエム』への出演を直接依頼し快諾を得ていたが<ref name="ガリーナ404-406">ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、和田旦・訳『ガリーナ自伝-ロシア物語』、みすず書房、1987年5月15日、ISBN 4-622-00252-3、404-406頁</ref>ソ連当局が出演許可を与えていなかったのである。ブリテンはソ連文化省に手紙を送り、ヴィシネフスカヤも文化省の[[エカチェリーナ・フルツェワ]]に直談判を行ったがソ連当局は出演を拒み続けていた<ref name="ガリーナ406-407">ヴィシネフスカヤ、前掲書406-407頁</ref>{{Refnest|group="注"|ヴィシネフスカヤの自伝には、ブリテンがソ連文化省外国局長ウラディミール・ステパーノフあてにヴィシネフスカヤの出演許可を申し出た1961年12月14日付けの手紙が掲載されている<ref name="ガリーナ546-547">ヴィシネフスカヤ、前掲書546-547頁</ref>。ヴィシネフスカヤによれば、この手紙は文化省のゴミ箱に捨てられていたものを、文化省職員を通じてもらったものである<ref name="ガリーナ406-407" />。}}{{Refnest|group="注"|ソ連がヴィシネフスカヤの出演を認めなかった理由は、ソ連の歌手が旧敵国のドイツ人と共演することに反対だったからとされているが<ref name="マシューズ174"/>、ヴィシネフスカヤの自伝によれば、コヴェントリーの再建にドイツが協力したこととされている<ref name="ガリーナ406-407" />。}}。『戦争レクイエム』が完成した1961年といえば[[ベルリンの壁]]の建設や[[アメリカ]]と[[キューバ]]の断交など[[冷戦]]に伴う緊張が高まっていた時期ではあったが{{Refnest|group="注"|初演の約半年後にあたる1962年10月には[[キューバ危機]]が勃発している。}}東西の文化的な交流が途絶えていた訳ではなく、まさに『戦争レクイエム』の初演が行われる直前の1962年5月、ヴィシネフスカヤは[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]での『[[アイーダ]]』公演のためイギリスを訪れていたのである<ref name="ガリーナ404-406" />。ソ連当局の許可さえ得られれば彼女はそのままイギリスに残って『戦争レクイエム』に出演できるはずであり、ブリテンやロストロポーヴィチは間際まで粘り強く交渉を行った<ref name="ガリーナ408">ヴィシネフスカヤ、前掲書408頁</ref>。しかしその努力も空しく、『アイーダ』公演の最終日、ヴィシネフスカヤに帰国命令が下された<ref name="ガリーナ408" />。 |
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ヴィシネフスカヤの代役はイギリスのソプラノ歌手[[ヘザー・ハーパー]]が務めることとなった{{Refnest|group="注"|ハーパーは後に(1991年)、[[リチャード・ヒコックス]]指揮による『戦争レクイエム』のレコーディングにソリストとして参加している<Ref>[[シャンドス]]社のSACD(CHSA 5007(2))</ref>。}}。ブリテンはあらかじめ、ヴィシネフスカヤが出演できなかった場合に備え、ハーパーに準備するよう依頼していたのである<ref name="カルショー412">カルショー、前掲書412頁</ref>。とは言え、代役が正式に決まったのは本番直前であり、ハーパーはわずか10日間の猶予期間で本番に臨まなければならなかった<ref name="キルデア4">キルデア、前掲書4頁</ref>。 |
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[[1962年]][[5月30日]]、コヴェントリーの聖マイケル教会における初演は、ピアーズ(テノール)、フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ハーパー(ソプラノ)の3名の独唱者、[[メレディス・デイヴィス]]指揮による[[バーミンガム市交響楽団]]、コヴェントリー祝祭合唱団、レミントンとストラットフォードのホーリー・トリニティ教会児童合唱団、ブリテン自身の指揮による{{仮リンク|メロス・アンサンブル|en|Melos Ensemble}}によって行われた<ref name="ライナー9">長谷川勝英「戦争レクイエム(ブリテン指揮ロンドン交響楽団ほか)CD」ライナーノート、ユニバーサルミュージック合同会社、2006年、UCCD-3633/4、9頁</ref>。 |
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この時の演奏では、第2章「ディエス・イレ」の途中で[[ファンファーレ]]を担当する[[金管楽器]]奏者が出るタイミングを完全に見失ってしまうなどのミスがあり<ref name="キルデア3">キルデア、前掲書3頁</ref>、ブリテンはその出来栄えに満足しなかったが<ref name="キルデア3" />、聴衆には好意的に受け止められた<ref name="小林180">小林(2012年)、180頁</ref>。出演者のフィッシャー=ディースカウもフィナーレの部分では戦死した友人や戦争にまつわる様々な思いが去来し{{Refnest|group="注"|フィッシャー=ディースカウには、第二次世界大戦中にアメリカ軍の[[捕虜]]になった経験があった<ref name="キルデア1">キルデア、前掲書1頁</ref>。}}、涙ぐみながら歌ったという<ref name="小林185">小林(2012年)、185頁</ref>。 |
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初演当日の演奏はBBCが[[モノラル録音]]しており<ref name="カルショー426">カルショー、前掲書426頁</ref>、ブリテンの生誕100年にあたる[[2013年]]にイギリスの{{仮リンク|テスタメント社|en|Testament Records (UK)}}がCD化している。 |
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== 作品に対する反響 == |
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[[File: Dmitri Shostakovich credit Deutsche Fotothek adjusted.jpg |right|180px|thumb|ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]] |
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『戦争レクイエム』によってブリテンの作曲家としての名声は頂点に達した<ref name="マシューズ175" /><ref name="向井59" />。音楽評論家の{{仮リンク|ウィリアム・マン|en|William Mann (critic)}}は、初演に先立って『[[タイムズ]]』紙に「ブリテンの傑作が戦争を告発する」という記事を匿名で発表し、「この作品だけが……人間の中に目を覚ます野蛮さを告発し、生きとし生ける者の魂を揺り動かすことができる。<ref name="向井59">向井(2013年)、59頁</ref>」と書き、初演後も「ブリテンが今までに我々に与えてくれた最高傑作<ref name="小林180" />」と高く評価した。音楽学者の{{仮リンク|ピーター・エヴァンズ|en|Pete Evans (musicologist)}}は、「『戦争レクイエム』が呼び起こした音楽的感銘の大きさは、新曲の初演を聴いた近年のどの記憶をも凌駕している。<ref name="佐々木230">佐々木、前掲書230頁</ref>」と書き、脚本家の[[ピーター・シェーファー]]は、雑誌『{{仮リンク|タイム・アンド・タイド|en| Time and Tide (magazine)}}』で、「かつてわが国で作曲された宗教曲の中で最も荘重かつ感動的な作品であり、20世紀に作られた最も偉大な音楽作品の一つであると信ずる。<ref name="佐々木230" />」と賞賛した。 |
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この曲を高く評価したのは一部の専門家にとどまらなかった。後述するように、初演の翌年に発売された自作自演の[[LP盤|LPレコード]]は現代の作曲家の作品としては異例の売れ行きを記録し、今日では全世界において『戦争レクイエム』は名曲であると見なされている<ref name="マシューズ175">マシューズ、前掲書175頁</ref>。 |
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一方、ブリテンと親交が深かったソ連の[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]は、1963年の夏にブリテンから送られた楽譜と録音により『戦争レクイエム』を知り、「人間精神の偉大な作品」の一つであると感嘆したが<ref name="ロス456">ロス、前掲書456頁</ref>、他の作曲家による「死」を扱った作品と同様、最後は浄化されるような雰囲気で美しく終わってしまうことには納得がいかなかった<ref name="千葉160">千葉潤『作曲家◎人と作品 ショスタコーヴィチ』、音楽之友社、2005年4月1日、ISBN 978-4-276-22193-2、160頁</ref>。ショスタコーヴィチが[[1969年]]に作曲した[[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番]]は、彼の「死は誰にでも訪れるものであり、感傷を交えないで描かれるべき<ref name="ロス459">ロス、前掲書459頁</ref>」という考えを具現化したものであり、作品はブリテンに献呈された{{Refnest|group="注"|この前年([[1968年]])には、ブリテンが歌劇『{{仮リンク|放蕩息子 (ブリテン)|label=放蕩息子|en| The Prodigal Son (Britten)|preserve=1}}』作品81をショスコターヴィチに献呈している<ref name="千葉160" />。}}。これは『戦争レクイエム』に対する回答でもあり、ショスタコーヴィチは作品を通してブリテンとの対話を試みたのである<ref name="千葉160" />。 |
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1962年5月のコヴェントリーでの初演の後、『戦争レクイエム』は同年12月6日に[[ウェストミンスター大聖堂]]で再演され、その後2~3年のうちにイギリス国内の主要都市のほとんどで演奏されるようになった<ref name="伊東310">伊東、前掲書310頁</ref>。また、イギリス国外では、初演から約半年後の1962年[[11月18日]]に[[西ドイツ]]で初演されたのをはじめとして{{Refnest|group="注"|[[コリン・デイヴィス]]指揮、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]による<ref name="小林184-185">小林(2012年)、184-185頁</ref>。}}<ref name="小林184-185" />、[[1963年]]7月にはアメリカ<ref name="伊東310" />および南半球初となるニュージーランド<ref name="小林184-185" />で、[[1964年]]1月にはオランダ<ref name="小林184-185" />で、[[1965年]]には[[2月13日]]に[[東ドイツ]]初演が行われた{{Refnest|group="注"|[[クルト・ザンデルリンク]]指揮による<ref name="小林184-185" />。}}<ref name="小林184-185" />直後の[[2月22日]]に日本初演が行われている<ref name="小林184-185" />。なお、日本初演は[[東京文化会館]]において、{{仮リンク|デイヴィッド・ウィルコックス|en|David Willcocks}}の指揮{{Refnest|group="注"|ブリテンが指揮する予定であったが、病気のために来日できず、ウィルコックスに変更となった<ref name="佐々木231">佐々木、前掲書231頁</ref>。}}、[[読売日本交響楽団]]その他{{Refnest|group="注"|合唱は[[二期会]]、[[藤原歌劇団]]、[[日本合唱団]]、[[東京混声合唱団]]、[[東京少年少女合唱隊]]。独唱者はソプラノ[[伊藤京子 (ソプラノ歌手)|伊藤京子]]、テノール[[中村健]]、バリトン[[立川澄人]]であった<ref name="伊東310" /><ref name="佐々木231" />。}}によって演奏された<ref name="小林184-185" />。 |
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『戦争レクイエム』は作品の性格上、平和を祈念する行事などに合わせて演奏されることもある。上記の西ドイツ初演は[[ベルリン]]での第一次世界大戦の終結記念日に<ref name="小林184-185" />、東ドイツ初演は[[ドレスデン爆撃]]の20周年に合わせて行われており<ref name="小林184-185" />、イギリスでは1964年に{{仮リンク|オットーボイレン|en|Ottobeuren}}での英独首脳会談に合わせて演奏されている<ref name="FD315">フィッシャー=ディースカウ、前掲書315頁</ref>。日本では、[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]の40周年にあたる[[1985年]]に[[小澤征爾]]が広島で演奏しているほか<ref name="小林184-185" />、[[東京大空襲]]で被害が大きかった東京都[[墨田区]]においては、[[1997年]]に[[すみだトリフォニーホール]]の杮落とし公演で[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]指揮[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]による演奏が行われ、その後も[[2008年]][[3月23日]]に「すみだ平和祈念コンサート」で[[クリスティアン・アルミンク]]の指揮により取り上げられている<ref>{{Cite web |url=https://www.triphony.com/concert/archive/peace_concert/|title=すみだ平和祈念コンサートアーカイブ |publisher=[[すみだトリフォニーホール]] |accessdate=2019-12-29}}</ref>。このように、『戦争レクイエム』は演奏する場所や日時にも大きな意味を持つ、社会性の大きい作品としても認知されている<ref name="小林185">小林(2012年)、185頁</ref>。 |
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== 自作自演による初録音 == |
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[[File:Galina Vishnevskaya 1963.jpg|right|180px|thumb|ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(1963年)]] |
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1962年1月、まだ初演前の『戦争レクイエム』の手稿をブリテンから見せられた[[デッカ・レコード]]のプロデューサー、{{仮リンク|ジョン・カルショー|en|John Culshaw}}は作品の素晴らしさに気づき、ただちにレコード化を思い立った<ref name="カルショー410-411">カルショー、410-411頁</ref>。デッカの重役はレコーディングにかかる経費を抑えるため初演をライブ録音することを提案したが、カルショーは大聖堂での演奏が響きすぎることなどを理由に初演を録音することには反対し、彼の主張どおり、日をあらためてセッション録音が行われることとなった<ref name="カルショー414-415">カルショー、前掲書414-415頁</ref>。ただし、ブリテンの体調が良くなかったこともあって録音の計画は延期を重ね、初演の翌年にずれこんだ<ref name="FD304">フィッシャー=ディースカウ、前掲書304頁</ref>。 |
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[[1963年]]の1月3日~5日、7日、8日、10日の6日間にわたって、ロンドンの{{仮リンク|キングズウェイ・ホール|en|Kingsway Hall}}でデッカによりレコーディングが行われた<ref name="ライナー44">長谷川、前掲書44頁</ref>。オーケストラはバーミンガム市交響楽団から[[ロンドン交響楽団]]に変わり、指揮はブリテンが1人で行った{{Refnest|group="注"|初演の指揮を務めたメレディス・デイヴィスは無名に近く、カルショーはレコーディングの指揮はブリテン1人で行うことを望んでいた<ref name="カルショー413-415">カルショー、前掲書413-415頁</ref>。}}。テノールとバリトンの独唱者は初演に引き続きピアーズとフィッシャー=ディースカウが務め、今回はヴィシネフスカヤの参加が可能となったため、ようやくブリテンが構想した理想的な独唱者が一同に会することとなった<ref name="カルショー442">カルショー、前掲書442頁</ref>。なお、当時フィッシャー=ディースカウはデッカと契約関係になかったため出演交渉には困難が予想されたが<ref name="カルショー426">カルショー、前掲書426頁</ref>、カルショーに頼まれたブリテンがフィッシャー=ディースカウに電話をかけ<ref name="カルショー436-437">カルショー、前掲書436-437頁</ref>、フィッシャー=ディースカウは当時の契約会社に交渉し、デッカの録音に自分が参加することを認めさせた<ref name="FD304" />。 |
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カルショーはブリテンが意図した音楽の遠近感を出すため、混声合唱とソプラノ独唱はオーケストラ後方のバルコニーに配置してマイクを置き、男性独唱と室内オーケストラは指揮者の後方に、児童合唱はバルコニーの角にマイクをつけずに配置するなど、セッティングを重視してレコーディングを行った<ref name="カルショー440" />。ただし、この独特なセッティングは思わぬトラブルも招いた。初めて参加したヴィシネフスカヤが、ソリストのうち自分だけ立ち位置が違っていることを差別だと誤解して激しく取り乱し、初日の録音はヴィシネフスカヤ抜きで行わざるを得なかったのである<ref name="カルショー443-446">カルショー、前掲書443-446頁</ref>。なお、その後ヴィシネフスカヤの誤解は解け、2日目からは何事もなかったようにレコーディングに参加した<ref name="カルショー443-446" />。 |
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完成した自作自演のレコード{{Refnest|group="注"|ジャケットデザインは、漆黒の背景に白地で作曲者名と作品名が書かれ、会社のロゴだけが入ったシンプルなものが採用された。会社側は瀕死の兵士などを描いたデザイン案を準備していたが<ref name="カルショー448">カルショー、前掲書448頁</ref>、カルショーはそれが気に入らず、[[ブージー・アンド・ホークス]]社によるフルスコア表紙のデザインをそのまま流用した<ref name="カルショー449-451">カルショー、前掲書449-451頁</ref>。}}は、発売から1年で20万枚という、クラシック音楽としては異例の売り上げを記録し<ref name="マシューズ176">マシューズ、前掲書176頁</ref>、第6回[[グラミー賞]]において「クラシカル・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「最優秀合唱(オペラを除く)パフォーマンス賞」、「[[グラミー賞 クラシック現代作品部門|最優秀クラシック・コンテンポラリー・作曲賞]]」の3賞に輝き<ref>{{Cite web |url=https://www.grammy.com/grammys/awards/6th-annual-grammy-awards-1963|title=6th Annual GRAMMY Awards (1963)|publisher=[[Recording Academy]] |accessdate=2019-12-30}}</ref>、日本においても[[音楽之友社]]の第1回[[レコード・アカデミー賞|レコード・アカデミー大賞]]を受賞している<ref>{{Cite web |url=https://www.ongakunotomo.co.jp/m_square/record_academy_total/1963.html |title=レコード・アカデミー賞|publisher=[[音楽之友社]] |accessdate=2019-12-30}}</ref>。 |
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なお、レコーディングの際、カルショーはブリテンに無断でリハーサルの様子を隠し録りしていた。16時間に及ぶテープから50分に編集して作られた特製レコード{{Refnest|group="注"|編集後、リハーサルを録音したテープのうち未使用部分は全て破棄された<ref name="カルショー448">カルショー、前掲書448頁</ref>。}}は、同年11月にブリテン50歳の誕生日を祝って贈呈されたが{{Refnest|group="注"|ブリテンに贈られた特製レコードには「BB50」(ベンジャミン・ブリテンの頭文字と「50歳」)というカタログ番号が付けられていた<ref name="カルショー447">カルショー、前掲書477頁</ref>。}}ブリテンはこのサプライズを喜ばず、特製レコードはその後封印されてしまった<ref name="カルショー447-448">カルショー、前掲書447-448頁</ref>。この音源は1999年に再発売された自作自演のCDに付けられ、ブリテンが自作をリハーサルする様子が一般にも知られるようになった<ref name="カルショー487">カルショー、前掲書487頁</ref>。そこでは、ユーモアを交えながらも、「ヒステリーを起こすように」「もっと背筋が寒くなるように」など、言葉巧みに自作のイメージを伝えようとするブリテンの仕事ぶりが記録されている<ref>ドナルド・ミッチェル、木村博江・訳「奇妙な物語-録音されたブリテンのリハーサル」(自作自演CDライナーノートに収録)、2006年、UCCD-3633/4</ref>。 |
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しかしガリーナ・ヴィシネフスカヤは、夫であり作曲者の友人でもあった[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]の急病と[[ソビエト連邦|ソ連]]当局の出国停止命令により渡英不可能となり、コヴェントリー聖マイケル教会における実際の初演(1962年5月30日)は次のメンバーで行われた。 |
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*総指揮:[[メレディス・デイヴィス]] |
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*小管弦楽団指揮:作曲者 |
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*ソリスト |
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**[[ヘザー・ハーパー]](ソプラノ) |
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**ピーター・ピアーズ(テノール) |
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**ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス) |
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*管弦楽:[[バーミンガム市交響楽団]] |
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*小管弦楽:[[メロス・アンサンブル]] |
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*合唱:コヴェントリー祝祭合唱団 |
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*児童合唱:ストラトフォード{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}児童合唱団 |
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ヴィシネフスカヤの代役として出演したイギリスのソプラノ、[[ヘザー・ハーパー]]に与えられた猶予期間はわずか10日間だったが、彼女は見事に歌い上げ、初演は各方面から大絶賛を受けた。しかし、作曲者は曲の真価と偉大さに相応しくない不満な出来であったという。この曲は引き続いて[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター寺院]]や[[ロイヤル・アルバート・ホール]]で演奏されたが、完璧な演奏とブリテンが自負したのはその後ロンドンの[[キングズウェイ・ホール]]で[[ロンドン交響楽団]]と演奏し、総指揮もブリテン自身が執った録音が最初だった。この録音にはヴィシネフスカヤも参加した。 |
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== 編成 == |
== 編成 == |
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=== 声楽 === |
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*[[ソプラノ]]独唱、[[テノール]]独唱、[[バリトン]]独唱 |
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*[[混声合唱|混声8部合唱]] |
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*[[児童合唱]] |
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=== オーケストラ === |
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*[[フルート]] 3(第3フルートは[[ピッコロ]]持ち替え) |
*[[フルート]] 3(第3フルートは[[ピッコロ]]持ち替え) |
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*[[オーボエ]] 2 {{Refnest|group="注"|フルスコアの楽器編表は「3 Oboes」となっているが<ref name="スコアxvi" />、「2 Oboes」誤りである。}} |
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*[[オーボエ]] 2 |
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*[[コーラングレ|イングリッシュホルン]] |
*[[コーラングレ|イングリッシュホルン]] |
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*[[クラリネット]] 3(第3クラリネットは[[小クラリネット|E♭管]]と[[バスクラリネット]]持ち替え) |
*[[クラリネット]] 3(第3クラリネットは[[小クラリネット|E♭管]]と[[バスクラリネット]]持ち替え) |
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39行目: | 96行目: | ||
*[[チューバ]] 1 |
*[[チューバ]] 1 |
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*[[ピアノ]] |
*[[ピアノ]] |
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*[[オルガン]](あるいは[[ハーモニウム]])※オルガンは児童合唱と共に離れた場所から聞こえるようにするため、ハーモニウムかポータブル・オルガンを使うことが望ましい。グランド・オルガンは第6章のみ任意で使用する<ref name="スコアxvi" />。 |
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*[[オルガン]](あるいは[[ハーモニウム]]) |
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*[[ティンパニ]] |
*[[ティンパニ]] |
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*[[打楽器]] |
*[[打楽器]] ([[スネアドラム|サイドドラム]]2、[[テナードラム]]、[[バスドラム]]、[[タンブリン]]、[[トライアングル]]、[[シンバル]]、[[カスタネット]]、[[むち (楽器)|鞭]]、[[木魚|チャイニーズ・ブロック]]、[[タムタム|銅鑼]]、[[鐘|鐘(C,F#)]]、[[ヴィブラフォン]]、[[グロッケンシュピール]]、[[アンティークシンバル|アンティークシンバル(C,F#)]]) {{Refnest|group="注"|フルスコアの編成表ではティンパニを除く打楽器は「4 player」と書かれているが、第6章「リベラ・メ」の最強奏部では、トライアングル(ロール)、シンバル(ロール)、サイドドラム(ロール)、テナードラム(ロール)、バスドラム(ロール)、銅鑼の、6つの楽器が同時に出てくる小節がある<ref name="スコア211">フルスコア、211頁</ref>。}} |
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*[[弦楽合奏|弦五部]]([[ヴァイオリン]]第1・第2、[[ヴィオラ]]、[[チェロ]]、[[コントラバス]]) |
*[[弦楽合奏|弦五部]]([[ヴァイオリン]]第1・第2、[[ヴィオラ]]、[[チェロ]]、[[コントラバス]]) |
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=== 室内オーケストラ === |
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*フルート 1(ピッコロ持ち替え) |
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室内楽 |
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* |
*オーボエ 1(イングリッシュホルン持ち替え) |
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*クラリネット 1 |
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*[[オーボエ]]([[コーラングレ|イングリッシュホルン]]持ち替え) |
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* |
*ファゴット 1 |
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*ホルン 1 |
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*[[ファゴット]] |
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*打楽器(ティンパニ3個、サイドドラム、バスドラム、シンバル、銅鑼) |
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*[[ホルン]] |
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*[[ハープ]] 1 |
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*[[打楽器]]([[ティンパニ]]3個、サイドドラム、バスドラム、シンバル、鐘) |
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* |
*ヴァイオリン第1・第2(各1) |
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* |
*ヴィオラ 1 |
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* |
*チェロ 1 |
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* |
*コントラバス 1 |
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*[[ハープ]] |
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声楽 |
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*[[混声合唱|混声4部合唱]] |
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*[[児童合唱]] |
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*[[ソプラノ]]独唱 |
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*[[テノール]]独唱 |
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*[[バリトン]]独唱 |
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初演の指揮者は本管弦楽団と室内管弦楽団の二人であったが、近年は一人でやるのが多く、二人必要な場合は指導が困難でやはり異なったテンポが求められる児童合唱の方に[[副指揮者]]を置く場合が多い。 |
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== 構成 == |
== 構成 == |
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=== 第1章:レクイエム・エテルナム(永遠の安息)=== |
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演奏時間は約90分(各13分、30分、10分、10分、5分、22分) |
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{{wikisourcelang|en| Poems by Wilfred Owen/Anthem for Doomed Youth |オーウェン「戦死の宿命にある若者たちへの聖歌(Anthem for Doomed Youth)」}} |
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[[嬰ヘ|嬰ヘ音]]と[[ハ (音名)|ハ音]]の[[増四度]](または転回した[[減五度]])の不安定な響きと、弔いの鐘の音が特徴的であり、ラテン語の「永遠の安息」という歌詞とは裏腹に不安を掻き立てる音楽になっている<ref name="小林180">小林(2012年)、180頁</ref>。途中からテノール独唱がオーウェンの詩「'''戦死の宿命にある若者たちへの聖歌'''<ref name="佐藤27">佐藤、前掲書27頁</ref>(''Anthem for Doomed Youth'')」を歌うが、「家畜のように死んでゆく若者たちに 何の鐘があろうか。ただ 恐ろしい大砲の怒りのさく烈があるだけだ。<ref name="佐藤27" />」に始まる歌詞は、典礼文への抗議の言葉となっている。最後は嬰ヘ音とハ音の鐘が鳴り、ラテン語の「主よ、憐れみたまえ。」による短い結尾部分となり、最後は[[ヘ長調]]の[[主和音]]で閉じられる。なお、この結尾の音楽は歌詞を変えて第2章と第6章の最後にも付けられる。 |
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=== 第2章:ディエス・イレ(怒りの日)=== |
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第1曲:入祭唱 Introitus |
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{{wikisourcelang|en| But I was Looking at the Permanent Stars | オーウェン「But I was Looking at the Permanent Stars」 }} |
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# Requiem aeternam“永遠の安息を与えたまえ”(合唱、少年合唱) |
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{{wikisourcelang|en| The Next War |オーウェン「次の戦争(The Next War)」}} |
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# オーエンの詩“What passing-bells for these who die as cattle? |
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{{wikisourcelang|en| Sonnet On Seeing a Piece of our Heavy Artillery Brought into Action |オーウェン「ソネット-われらの大砲の一つが使用されているのを見て-(Sonnet:On Seeding A Piece Of Our Artillery Brought Into Action)」}} |
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(家畜のように死んでゆく兵士たちにどんな弔鐘があるというのか?)” |
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{{wikisourcelang|en| Poems by Wilfred Owen/Futility |オーウェン「むなしさ(Futility)」}} |
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(テノール):エピソード風な部分。 |
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# キリエ Kyrie(あわれみの賛歌) |
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(合唱):付け足し的にごく短いが同じ部分が第二曲と第六曲の最後にも付けられる。 |
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約25分を要する<ref name="佐々木220">佐々木、前掲書220頁</ref>長い楽章である。[[最後の審判]]を歌うラテン語の典礼文にオーウェンの詩が4篇挿入され、形式的に複雑な構成になっている<ref name="解説全集376" />。 |
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冒頭に金管群が奏でる[[ファンファーレ]]は、最後の審判を告げるラッパと軍隊のラッパの2つのイメージが重ねられており<ref name="小林181">小林(2012年)、181頁</ref>、この後に何度も登場する重要なモチーフである(以下「ラッパの動機」と呼ぶ。){{Refnest|group="注"|ファンファーレを軍国主義的なイメージと重ねる技法は[[1939年]]に作曲した『[[英雄のバラッド]]』作品14でも使われており、「ディエス・イレ」ではこれを更に洗練させている<ref name="佐々木211">佐々木、前掲書211頁</ref>。}}。4分の7拍子で歌われる「怒りの日」の旋律は、[[グレゴリオ聖歌]]「[[怒りの日]]」には基づいていないが、使っている音の構成や音域にはやや類似している点がある<ref name="小林181" />。「ラッパの動機」と「怒りの日」の旋律が交互に演奏されながら盛り上がり、「奇異なるラッパ(''Tuba mirum'')」の部分では同時に演奏される。その後、次第に音楽はおさまり、「ラッパの動機」が木管楽器に移ると、オーウェンの詩の断片「'''だが私は恒星を見つめていた'''<!--暫定的な訳-->(''But I was Looking at the Permanent Stars'')」がバリトン独唱によって歌われる。ここで描かれるのは、川岸にある野営地の夜の情景、消燈ラッパが響く中で明日への不安を抱きつつ眠る少年兵の姿である。歌い出しの歌詞である「ラッパが歌った(''Bugles Sang'')」は、「ラッパの動機」と同じく上行する[[分散和音]]で歌われる。 |
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音楽が一旦おさまるとソプラノ独唱が初めて登場し、合唱とともにラテン語で「世を裁くために記された記録が差し出され」と歌う。続くオーウェンの詩「'''次の戦争'''<ref name="佐藤82">佐藤、前掲書82頁</ref>(''The Next War'')」では、テノール独唱とバリトン独唱が「戦場では、おれたちは全く親しげに「死」に向かって歩いていった。<ref name="佐藤82" />」と、戦場で日常茶飯事であった死を「楽しげに」歌う<ref name="佐々木221">佐々木、前掲書221頁</ref>。 |
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第2曲:続唱 Sequentia(怒りの日) |
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# Dies irae“その日こそ怒りの日”(合唱):金管群の地味な[[ファンファーレ]]で始まる。 |
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# オーエンの詩“Bugles sang, sadd'ning the evening air(ラッパが夕べの大気を悲しげに破ってうたう)”(バリトン) |
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# Liber scriptus“世を裁くために記された記録が”(ソプラノ、小合唱) |
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# オーエンの詩“Out there, we've walked quite friendly up to Death(戦場で、ぼくたちはごく親しげに死神にむかって歩み寄っていった)”(テノール、バリトン) |
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# Recordare“思い起こせ”(合唱) |
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# オーエンの詩“Be slowly lifted up, thou long black arm(汝の長く黒い腕がゆっくりと持ち上げられ)”(バリトン) |
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# Dies irae“その日こそ怒りの日”(合唱) |
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# Lacrimosa dies illa“その日こそ涙の日”(ソプラノ、合唱) |
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# オーエンの詩“Move him(彼を動かせ)”(テノール) |
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# Lacrimosa dies illa“その日こそ涙の日”(ソプラノ、合唱) |
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# オーエンの詩“Think how it wakes the seeds(考えてみよう、それがどうして種を生えさせるのか)”(テノール) |
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# Qua resurget ex favilla“それは灰の中からよみがえる日”(ソプラノ、合唱) |
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# オーエンの詩“Was it for this the clay grew tall?(土が大きく盛り上がるというのは、このためだったのか?)”(テノール) |
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# Iudicandus homo reus“罪人が裁きを受ける日”(ソプラノ、合唱) |
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# オーエンの詩“O what made fatuous sunbeams toil(おお、いったい何が気むずかしい日光に)”(テノール) |
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# Pie Iesu Domine“慈悲深き主イエスよ”(ソプラノ、合唱) |
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次の「慈しみ深いイエスよ、思い出したまえ」は女声合唱のみで歌われ、テンポが速くなる「呪われし者共を罰し」からは男声合唱に交替し、そのままオーウェンの詩「'''ソネット-われらの大砲の一つが使用されているのを見て-'''<ref name="佐藤81">佐藤、前掲書81頁</ref>(''Sonnet:On Seeding A Piece Of Our Artillery Brought Into Action'')」につながる{{Refnest|group="注"|ここでのテンポの切り替えは、前の部分の八分音符5つが続く部分の五連符5つと同じになるように指示されている<ref name="スコア67">フルスコア、67頁</ref>。}}。室内オーケストラのティンパニによる五連符を伴ってバリトン独唱が ''f'' で歌い、その合いの手として'''オーケストラの'''トランペットが「ラッパの動機」を奏でる{{Refnest|group="注"|初演ではこの「ラッパの動機」で金管楽器が「落ちて」しまった(前述)。}}<ref name="解説全集383">菅野、前掲書383頁</ref>。「神がお前(大砲のこと)を呪い給い・・・・・・<ref name="佐藤81" />」と激しく歌われる<ref name="井上297">井上、前掲書297頁</ref>フレーズの頂点で「ラッパの動機」がオーケストラのティンパニ、バスドラム、ピアノのクレッシェンドを伴って盛り上がり「怒りの日」の再現になだれこむ<ref name="スコア71">フルスコア、71頁</ref>。この後は次第にテンポを落とし、合唱を従えたソプラノ独唱による「涙の日(ラクリモサ)」に続く。ゆっくりとした美しい音楽<ref name="小林182">小林(2012年)、182頁</ref>だが、4分の7拍子のリズムが「怒りの日」から続いている。続けてオーウェンの詩「'''むなしさ'''<ref name="佐藤43">佐藤、前掲書43頁</ref>(''Futility'')」がテノール独唱によって[[レチタティーヴォ]]風に歌われる<ref name="スコア82">フルスコア、82頁</ref>。[[フランス]]の冬の戦場で、戦友の遺体を前に太陽の光がもはや彼を目覚めさせることがないことを嘆く。ここに「涙の日」の音楽がオーバーラップし<ref name="佐々木222">佐々木、前掲書222頁</ref>、「こんなことになるために 土くれは大きくなったというのか。<ref name="佐藤43" />」と「涙にくれる その日こそ 灰の中よりよみがえる日」とが交互に歌われ、聴く者の心を打つ<ref name="小林182" />。第1章の末尾と同様に、無伴奏の合唱が「慈悲深きイエス、主よ、彼らに平安を与えたまえ。」と歌い、静かに「怒りの日」を締めくくる。 |
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第3 |
=== 第3章:オッフェルトリウム(奉献唱) === |
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{{wikisourcelang|en| Poems by Wilfred Owen/Parable of the Old Men and the Young |オーウェン「老人と若者の寓話(The Parable of the Old man and the Young)」}} |
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# Domine Iesu Christe“主イエス・キリストよ”(少年合唱) |
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[[創世記]]の「[[イサクの燔祭|アブラハムとイサク]]」の逸話に因んでおり、オーウェンの詩は典礼文に対する辛辣なアイロニーとなっている<ref name="向井60" />。オルガンを伴う児童合唱による導入部に続き、主部では合唱が「主がその昔アブラハムとその子孫とに約束したもうた・・・・・・」を、伝統的な作法どおり[[フーガ]]により歌う<ref name="井上297">井上、前掲書297頁</ref>。引き続きテノール独唱とバリトン独唱により、オーウェンの詩「'''老人と若者の寓話'''<ref name="佐藤25">佐藤、前掲書25頁</ref>(''The Parable of the Old man and the Young'')」が歌われる。我が子を殺して生贄にするよう神に命じられた[[アブラハム]]は、[[イサク]]を縛りつけ殺そうとするが(ここで「ラッパの動機」が奏でられる<ref name="解説全集384">菅野、前掲書384頁</ref>。)、アブラハムの強い信仰を見届けた神は天使を遣わして殺害をやめさせようとする。ここまでは創世記と同じであるが、オーウェンの詩では天使の勧告にもかかわらず、アブラハムはイサクを殺してしまう。テノール独唱とバリトン独唱が「いうならば、ヨーロッパの子孫の半ばを、ひとりずつ<ref name="佐藤25" />(殺したのである)・・・・・・」のフレーズを、休止を挟みながら繰り返す背後では、児童合唱が静かに「主よ、称賛の生贄と祈りを捧げ奉る」と歌うが、この部分の児童合唱は独唱よりも遅いテンポで演奏され<ref name="解説全集384" />、まるで違った次元から響くように聞こえる<ref name="解説全集384" />。その後、フーガの再現となるが、終始 ''pp'' 以下のデュナーミクで演奏され、最後は消えるように終わる<ref name="解説全集385">菅野、前掲書385頁</ref>。 |
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# オーエンの詩“So Abram rose, and clave the wood, and went(かくて、アブラハムは立ちあがり、たきぎを割り、出かけていった)” (テノール、バリトン) |
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# Hostias et preces“いけにえと祈りを”(合唱、少年合唱) |
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なお、天使がアブラハムを止めようとする場面の音楽は、自作の『{{仮リンク|カンティクル第2番「アブラハムとイサク」|en|Canticles (Britten)}}』作品51([[1952年]])の冒頭部を引用している<ref name="マシューズ175">マシューズ、前掲書175頁</ref>。 |
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第4 |
=== 第4章:サンクトゥス(聖なるかな)=== |
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{{wikisourcelang|en| The End (Owen)|オーウェン「最後(The End)」}} |
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大きく2つに区分される<ref name="解説全集385">菅野、前掲書385頁</ref>。前半は、[[ガムラン]]を思わせる<ref name="井上298">井上、前掲書298頁</ref>{{Refnest|group="注"|ブリテンは[[1939年]]に[[コリン・マクフィー]]を通じてガムラン音楽を知り<ref name="マシューズ75-76">マシューズ、前掲書75-76頁</ref>、その影響は『{{仮リンク|ポール・バニヤン (ブリテン)|label=ポール・バニヤン|en|Paul Bunyan (operetta)|preserve=1}}』や『[[ピーター・グライムズ]]』、『{{仮リンク|パゴダの王子|en|The Prince of the Pagodas}}』、『{{仮リンク|ヴェニスに死す (ブリテン)|label=ヴェニスに死す|en|Death in Venice (opera)| preserve=1}}』など、後の数々の作品に及んだ<ref name="マシューズ76、105、157、196">マシューズ、前掲書76頁、105頁、157頁、196頁</ref>。}}金属打楽器{{Refnest|group="注"|ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、アンティーク・シンバル(小さなシンバルで代用することが可能)、鐘(金属のバチで叩く)およびピアノである<ref name="スコア140">フルスコア、140頁</ref>。}}の[[トレモロ]]に乗ったソプラノ独唱に始まる。なお、トレモロの音は最初が「嬰ヘ音」、次が「ハ音」である<ref name="スコア140" />。輝かしいファンファーレ<ref name="小林183">小林(2012年)、183頁</ref>を伴った壮大な<ref name="解説全集386">菅野、前掲書386頁</ref>「いと高き天にホザンナ」が合唱によって歌われ、その中間部にはソプラノ独唱と合唱による「ベネディクトゥス」が置かれている<ref name="解説全集386" />。後半は、バリトン独唱によるオーウェンの詩「'''最後'''<ref name="佐藤87">佐藤、前掲書87頁</ref>(''The End'')」が、神を讃える輝かしい前半と対照をなすように置かれる<ref name="小林183">小林(2012年)、183頁</ref>。この詩の「生はこれらの死んだ体を蘇らせてくれるのだろうか。本当に、すべての死を取り消し、すべての涙を鎮めてくれるのだろうか。<ref name="佐藤87" />」という問いかけの言葉は、オーウェンの墓碑銘にも使われている<ref name="佐藤87-88">佐藤、前掲書87-88頁</ref>{{Refnest|group="注"|正確な墓碑銘は、"''SHALL LIFE RENEW THESE BODIES? OF A TRUTH ALL DEATH WILL HE ANNUL''" であり、これはオーウェンの母親スーザンが選んだものである<ref name="佐藤87-88" />。}}。 |
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=== 第5章:アニュス・デイ(神の子羊)=== |
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前曲と同じ意味で音が水平に動く難解な跳躍進行を避けた構築。 |
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{{wikisourcelang|en| At a Calvary near the Ancre|オーウェン「アンクル河近くのキリストの十字架像のあるところで(At a Calvary near the Ancre)」}} |
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# Sanctus“聖なるかな”(ソプラノ、合唱) |
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16分の5拍子の静かな音楽であり<ref name="ライナー9" />、6つの楽章中で最も短い<ref name="解説全集386" />。この楽章ではオーウェンの詩が中心であり、その合間にラテン語の典礼文が歌われる構成となっている。弦楽器による短い前奏があり、テノール独唱がオーウェンの「'''アンクル河近くのキリストの十字架像のあるところで'''<ref name="佐藤77">佐藤、前掲書77頁</ref>(''At a Calvary near the Ancre'')」を歌い、混声合唱が「神の子羊、世の罪を除き給う主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ。」と典礼文による合いの手を入れる。なお、この楽章の混声合唱は座って歌うよう指示されている<ref name="スコア171">フルスコア、171頁</ref>。オーウェンの詩の最後の一節「法学者たちは、すべての国民たちに口やかましく言い、国家に対する忠誠を押しつけるが、大いなる愛を愛する者たちは自らの命を投げ出すが、憎むことはないのだ。<ref name="佐藤77" />」の部分では、抗議するように音楽が高まり、「国家に対する忠誠を押しつける」という言葉が ''f'' で歌われるが、諦めたように音楽がおさまる<ref name="小林183">小林(2012年)、183頁</ref>。続けてテノール独唱が、英語でなく'''ラテン語で'''「彼らに平和を与えたまえ(''Dona nobis pacem'')」と歌い静かに終わる<ref name="佐々木226">佐々木、前掲書226頁</ref>。 |
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# オーエンの詩“After the blast of lightning from the East(東方から一筋のいなずまがひらめいたのち)”(バリトン) |
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=== 第6章:リベラ・メ(我を解き放ちたまえ)=== |
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{{wikisourcelang|en|Poems by Wilfred Owen/Strange Meeting|オーウェン「奇妙な出会い(Strange Meeting)」}} |
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全曲のクライマックスが置かれており<ref name="ロス455" />、三つの部分に区分される<ref name="解説全集388">菅野、前掲書388頁</ref>。第一の部分は[[打楽器]]の[[葬送行進曲]]風のリズムにのり<ref name="井上299">井上、前掲書299頁</ref>、亡者が地獄でつぶやくように<ref name="小林184">小林(2012年)、184頁</ref>「我を解き放ちたまえ・・・・・・」と合唱が歌う。音楽は[[不協和音]]や[[半音階]]を使いながら次第に緊張感を高めていく<ref name="小林184" />。途中からはソプラノ独唱も加わり、やがて「怒りの日」が再現され、オーケストラと合唱が ''fff'' で爆発する<ref name="ロス455" /><ref name="スコア211">フルスコア、211頁</ref>。これが静まると、オーウェンの詩集の最初に収められている作品「'''奇妙な出会い'''<ref name="佐藤13">佐藤、前掲書13頁</ref>(''Strange Meeting'')」による第二の部分となる<ref name="解説全集388" />。戦死したイギリス兵が地獄でドイツ兵と出会って言葉を交わすという内容であり(原詩には地獄にいることに気づく部分があるが{{Refnest|group="注"|「''And by his smile, I knew that sullen hall'', '''''By his dead smile, I knew we stood in Hell.'''''<ref name="佐藤135">佐藤、前掲書135頁</ref>」}}、ブリテンはここを割愛している<ref name="佐々木227">佐々木、前掲書227頁</ref>。)、室内オーケストラの伴奏には ''pp'' に加え「冷たく(''cold'')」の指示がある<ref name="スコア218">フルスコア、218頁</ref>。静寂の中、イギリス兵(テノール独唱)、ドイツ兵(バリトン独唱)がレチタティーヴォ風に歌う<ref name="井上299">井上、前掲書299頁</ref>。ドイツ兵は生前の希望と戦争の悲哀を歌った後、「私は君が殺した敵だよ<ref name="佐藤13" />。」と明かし、「さあ、一緒に眠ろうじゃないか・・・・・・ <ref name="佐藤13" />(''Let us sleep now....'')」と語りかける。最後の語りかけからが第三の部分であり<ref name="解説全集388">菅野、前掲書388頁</ref>、テノール独唱とバリトン独唱が「'''''Let us sleep now'''''」を繰り返す中{{Refnest|group="注"|ブリテンにとって「眠り」は恐怖や不安から逃れられる唯一の場であり、そのことが作品にも表れている<ref name="マシューズ4-5">マシューズ、前掲書4-5頁</ref>。}}、オルガンを伴った児童合唱による「楽園にて(イン・パラディスム)」の典礼文「天使が汝らを天国に導き・・・・・・」が重なり、ソプラノ独唱や混声合唱、オーケストラも次々と加わって豊かな響きとなる<ref name="解説全集389" />{{Refnest|group="注"|スコアでは、最も演奏者が多いページで50段にも及ぶ<ref name="スコア236">フルスコア、236頁</ref>。ただし、コントラファゴット奏者、ピアニストと何人かの打楽器奏者は休んでいる<ref name="スコア236"/>。}}。英語のテクストとラテン語のテクストが同時が歌われ、演奏者の音楽が一つに融和する、この曲の最も感動的な場面である<ref name="小林184">小林(2012年)、184頁</ref>。やがて「嬰ヘ音」と「ハ音」による鎮魂の鐘が回帰し、無伴奏合唱の「アーメン」により静かに曲は閉じられる<ref name="解説全集389">菅野、前掲書389頁</ref>。 |
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== 脚注 == |
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第5曲: アニュス・デイ Agnus Dei(神の子羊) |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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短い5拍子の動きのある音楽。 |
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* ヴィシネフスカヤ,ガリーナ、和田旦・訳『ガリーナ自伝-ロシア物語』、みすず書房、1987年5月15日、{{ISBN2| 4-622-00252-3}} |
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# オーエンの詩“One ever hangs where shelled roads part(かりそめにも爆撃された道路の裂け目で絞殺されるものなのか)”(テノール) |
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* 伊東好次郎「W.オーエンの戦争詩を音楽化したブリテンの『戦争レクイエム』」、『人間と言葉』刊行会・編『勇康雄先生喜寿記念 人間と言葉』、リーベル出版、1994年9月27日、{{ISBN2| 4-89798-415-7}} |
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# Agnus Dei“神の子羊”(合唱) |
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* 井上太郎『レクイエムの歴史-死と音楽の対話』、平凡社、1999年1月19日、{{ISBN2| 4-582-84185-6}} |
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# オーエンの詩“Near Golgotha strolls many a priest(ゴルゴタの丘の近くで多くの司祭がぶらぶら歩いている)”(テノール) |
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* 岡田仁「WILFRED OWENの戦争詩にみられるROMANTICISMの変遷について」『Artes liberales』、岩手大学教養部、1973年1月1日 |
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# Agnus Dei“神の子羊”(合唱) |
|||
* カルショー,ジョン、山崎浩太郎・訳『レコードはまっすぐに-あるプロデューサーの回想-』、学習研究社、2005年5月9日、{{ISBN2| 978-4-05-402276-8}} |
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# オーエンの詩“The scribes on all the people(全人民の記録係たちは)”(テノール) |
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* キルデア,ポール、堺則恒・訳「歴史の証言」(1962初演CD日本流通版ライナーノート)、テスタメント・レコード社、2013年、SBT1490 |
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# Agnus Dei“神の子羊”(合唱) |
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* 小林敬子「ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクイエム』―「楽曲」と「演奏」―」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』、2012年11月 |
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# オーエンの詩“But they who love the greater love(しかし、より大いなる愛をいつくしむ人々は)”(テノール) |
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* 佐々木隆爾「世界大戦に対して警告を発した人たち-ベンジャミン・ブリテンとウィルフレッド・オウエン-」メトロポリタン史学会・編『20世紀の戦争-その歴史的位相』、有志社、2012年7月20日、{{ISBN2| 978-4-903426-59-4}} |
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# Dona eis requiem sempiternam“彼らに永遠の安息を与えたまえ”(合唱) |
|||
* 佐藤芳子(訳・注)『ウィルフレッド・オウエン研究(第一巻)ウィルフレッド・オウエン戦争詩篇』、近代文藝社、1993年7月30日、{{ISBN2| 4-7733-1775-2}} |
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# Dona nobis pacem“我らに平安を与えたまえ”(テノール) |
|||
* 菅野浩和(項目執筆)『最新名曲解説全集 第24巻 声楽曲IV』、音楽之友社、1981年6月1日、{{ISBN2| 4-276-01024-1}} |
|||
* 谷口昭弘「20・21世紀における音楽とキリスト教:現代社会との関係で考える」『フェリス女学院大学キリスト教研究所紀要』、2016年3月、{{NAID|120005753407}} |
|||
* 千葉潤『作曲家◎人と作品 ショスタコーヴィチ』、音楽之友社、2005年4月1日、{{ISBN2| 978-4-276-22193-2}} |
|||
* 長谷川勝英「戦争レクイエム(ブリテン指揮ロンドン交響楽団ほか)CD」ライナーノート、ユニバーサルミュージック合同会社、2006年、UCCD-3633/4 |
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* フィッシャー=ディースカウ,ディートリッヒ、實吉晴夫・田中栄一・五十嵐蕗子・訳『自伝フィッシャー=ディースカウ-追憶-』国際フランツ・シューベルト協会刊行シリーズ3、メタモル出版、1998年2月16日、{{ISBN2| 4-89595-189-8}} |
|||
* ブリテン,ベンジャミン「BRITTEN WAR REQUIEM・FULL ORCHESTRAL SCORE」、Boosey & Hawkes Music Publishers LTD {{ISBN2| 0-85162-198-8}} |
|||
* マシューズ,デイヴィッド、中村ひろ子・訳『ベンジャミン・ブリテン』、春秋社、2013年12月20日、{{ISBN2| 978-4-393-93578-1}} |
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* ミッチェル,ドナルド、木村博江・訳「奇妙な物語-録音されたブリテンのリハーサル」(自作自演CDライナーノートに収録)、2006年、UCCD-3633/4 |
|||
* 向井大策「こだまする記憶:ベンジャミン・ブリテン《戦争レクイエム》における追悼の詩学」『エオリアン論集第1号』、上野学園大学音楽文化研究センター、2013年、{{ISSN| 2188-4641}} |
|||
* ロス,アレックス、柿沼敏江・訳『20世紀を語る音楽・2』、みすず書房、2010年11月24日、{{ISBN2| 978-4-622-07573-8}} |
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第6曲:リベラ・メ Libera me(我を救いたまえ) |
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打楽器で始まり、最後の部分のスコアリングは旋法風に40段以上に分割される美しい音楽。 |
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# Libera me“我を救いたまえ”(ソプラノ、合唱) |
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# オーエンの詩“It seemed that out of battle I escaped(ぼくは戦闘から脱出して)”(テノール) |
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# オーエンの詩“'None,' said the other(「どんな人だって」とべつの兵士が言った)”(バリトン) |
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# オーエンの詩“Let us sleep now(さあ、もう眠ろうよ)”(テノール、バリトン) |
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# In paradisum“楽園に”(ソプラノ、合唱、少年合唱) |
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# Requiescant in pace.“安らかに眠れ”(合唱) |
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2020年1月24日 (金) 15:51時点における版
『戦争レクイエム』(せんそうレクイエム、英語: War Requiem)作品66は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンが1962年に発表した管弦楽付き合唱作品である[1]。テクストにはラテン語によるカトリックの典礼文と、第一次世界大戦に従軍し25歳の若さで戦死したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェン(1893年~1918年)による英語の詩が使われており[2]、第二次世界大戦における全ての国の犠牲者を追悼する[3]とともに、戦争の不合理さを告発し世界の平和を願う作品となっている[4][5]。
3人の独唱者と混声合唱および児童合唱、大小2つのオーケストラにより演奏され、所要時間は約1時間25分[6]。「第1章 レクイエム・エテルナム(永遠の安息)」、「第2章 ディエス・イレ(怒りの日)」、「第3章 オッフェルトリウム(奉献唱)」、「第4章 サンクトゥス(聖なるかな)」、「第5章 アニュス・デイ(神の子羊)」、「第6章 リベラ・メ(我を解き放ちたまえ)」の6つの楽章で構成されている[7][注 1]。なお、第6章「リベラ・メ」で使われているラテン語のテクスト「リベラ・メ」と「イン・パラディスム(楽園にて)」は、それぞれ「死者のためのミサ」が終わった後の「赦祷式」と、柩を墓地へ運ぶ時のためのものであり、本来は「レクイエム」の典礼文には含まれない[8][注 2]。
作品の特徴
『戦争レクイエム』の特徴は、典礼文とオーウェンの詩を対比・融合させ[2]、カトリックの「死者のためのミサ」の世界と現実的な世界を交錯させている点にある[9]。オーウェンは、第一次世界大戦に従軍して戦争の現実を目の当たりにし、殺し殺される運命にある兵士の苦悩や自己の内面の葛藤を表現した詩人である[注 3][注 4][12]。オーウェンの詩作に対する姿勢は彼の詩集の序文に現れており[注 5]、『戦争レクイエム』のスコアの扉ページには、その一節が次のように引用されている。
My subject is War. and the pity of War.
The Poetry is in the pity...
All a poet can do today is warn.[15]
私の詩の主題は戦争であり、戦争の哀れさである。
詩はその哀れさの中にある。・・・・・・
今日、詩人がなしうることは、警告することだけである。[16]
『戦争レクイエム』の作曲にあたり、ブリテンはオーウェンの作品から9篇の詩を選び出し、ミサの典礼文と巧みに組み合わせてテクストを構成した[17][4]。例えば第2章「ディエス・イレ」において典礼文が「最後の審判」のラッパに言及した後に軍隊の消燈ラッパが登場する詩が置かれるといったように、テクストは緊密に結び付けられている[18]。ブリテンはこの作品におけるオーウェンの詩の役割を「レクイエムの一種の注釈[3]」と説明しているが、第3章「オッフェルトリウム」において聖書に出てくる逸話が全く違う結末に置き換えられてしまうように、オーウェンの詩は直前に置かれた典礼文の内容を転覆し、あるいは戦争に対するキリスト教の態度そのものを批判するかのように配置されており[17][18]、二つのテクストはフィナーレ部分において融和するまで厳しく対立し続けている[19]。
また、独特なオーケストレーションにより、テクストだけでなく楽曲のテクスチュアも対比されるようになっている。演奏者は大きく三つのグループに分けられており、「ソプラノ独唱・混声合唱とオーケストラ」はラテン語の典礼文による歌とその伴奏を担当し[20][21]、「テノール独唱・バリトン独唱と12名の奏者による室内オーケストラ」はオーウェンの詩による歌とその伴奏を担当するようになっている[20][21][注 6]。また、「児童合唱とオルガン」のグループはラテン語の典礼文を歌うが遠くに置かれ[20][21]、遠近感のある響きが得られるようになっている[22]。なお、二つのグループが異なるテンポで演奏する場面もあり、ブリテン自身はこの曲の演奏には2名の指揮者が必要だと考えていた[注 7][23]。
このように『戦争レクイエム』は、ラテン語と英語、典礼文と詩、レクイエムと歌曲、オーケストラと室内楽など、様々な要素が対比され[20]、テクストと音楽の両面において複雑で多元的な構造を持つ[注 8][24]新しいレクイエム(死者のためのミサ曲)の形式による作品となっている[25]。
ブリテンと平和主義
ブリテンは生来優しく繊細な性格で暴力を嫌っており[26]、作曲の師であるフランク・ブリッジからも平和主義の影響を受けていた[27][28]。1935年には映画音楽の制作を通して詩人のW・H・オーデンと出会い親交を深めるが、その影響で平和主義の傾向はさらに強固なものになった[29][30]。オーウェンの影響を強く受けていたオーデンは[2]周囲の者に対してオーウェンの詩を読むことを熱心に勧めており[31]、ブリテンはこの頃にオーデンを通じてオーウェンを理解する手がかりを得ていた可能性が考えられる[31]。そのオーデンは1939年1月にアメリカ大陸に移住し[32]、同年5月にはブリテンも親友ピーター・ピアーズとともにイギリスを離れ、カナダ・アメリカに向かった[注 9][34]。同年9月には第二次世界大戦が勃発し、イギリスの友人からは帰国を促す手紙が届くが、ブリテンはさらに数年間アメリカにとどまり続けた[35]。アメリカ滞在中の1940年には日本政府の委嘱により『シンフォニア・ダ・レクイエム』作品20を作曲しているが、この曲についてはブリテン自身が新聞に「私が作品に込めようとしているのは私自身の反戦的信条のすべて[35]」だと寄稿しており[注 10]、平和主義的な内容や典礼文に基づく楽章タイトル[注 11]など、『戦争レクイエム』を予告する作品であると言える[36][5]。
その後、ホームシックになったブリテンはピアーズとともに1942年4月17日にイギリスに帰国すると[37]、裁判所に対して良心的兵役拒否を申し出た。
私はあらゆる人間の中に神の心があることがあることを信じているので、殺すことはできません。(略)私は人生のすべてを創造行為に捧げてきましたので、殺す行為に加担することはできません。(後略) — ブリテン、デイヴィッド・マシューズ、中村ひろ子・訳『ベンジャミン・ブリテン』、春秋社、2013年12月20日、ISBN 978-4-393-93578-1、92頁より引用(一部省略)
この申し出は最終的に1943年5月に認可され[36]、ブリテンは、同じく良心的兵役拒否者となったピアーズとともに「戦意高揚のための音楽家・美術家委員会(CEMA)」のためのコンサートを行った[36][38]。その一方で、ブリテンやピアーズの友人の中には、従軍し大戦の犠牲となった者もいる。ロジャー・バーニー、デヴィッド・ギルは戦死し、マイケル・ハリディは従軍中に行方不明となった[39]。『戦争レクイエム』は、この3名と1959年に自殺したピアーズ・ダンカリーの思い出に捧げられ[39]、スコアには4人の友人の名前が記されている[40]。
平和主義者のブリテンではあったが第二次世界大戦を扱った作品は決して多くない[41][注 12]。第二次世界大戦が終結した1940年代後半には、戦争や暴力に反対する内容の大規模な合唱曲を構想するが、それらは実を結ばず[注 13]、1955年には、イーディス・シットウェルの詩による、ロンドン空襲を扱った『カンティクル第3番「なおも雨は降る」』作品55を作曲している[43]。これはブリテンが第二次世界大戦に直接言及した数少ない作品の一つである[41]。
作曲の経緯
1958年10月7日、ブリテンは、第二次世界大戦で破壊された聖マイケル大聖堂(コヴェントリー大聖堂)の再建を祝う献堂式ための楽曲を委嘱され、このことが『戦争レクイエム』が生まれる直接のきっかけとなった[44]。
大聖堂があるコヴェントリーはイギリス中部のウォリックシャー州にある工業都市で、第二次世界大戦中の1940年11月14日にドイツ空軍の激しい空襲を受けた[注 14]。市のシンボルであった大聖堂もこの時に破壊されたが[46]、戦後、建築家バジル・スペンスの設計による現代的な新しい大聖堂が破壊された聖堂の廃墟に隣接して建てられることとなり[47][注 15]、彫刻家ジェイコブ・エプスタイン、画家のグレアム・サザーランド、ジョン・パイパー、エリザベス・フリンクなど多くの芸術家がこの再建に関わった[49]。 ブリテンへの作曲の委嘱は、献堂式ために組織された式典芸術委員会から行われたが[注 16]、英国王室楽長であったアーサー・ブリスを差し置いてブリテンが起用されたことは、当時のイギリス楽壇では意外性をもって受け止められた[49]。
献堂式の音楽については、「30分から40分の堅固な作品で、歌詞は神聖なものか世俗的なものかどちらでもよい[50]」という条件があるだけで、内容は作曲者に一任されていた[47]。指揮者でありブリテンに関する著作があるポール・キルデアは、委嘱を受ける数年前からブリテンが構想を進めていた「20世紀のヨーロッパでの出来事のための」ミサ曲[注 17]が『戦争レクイエム』につながり[50]、ミサの典礼文とオーウェンの詩を並列させる計画もすでに考えられていたとしている[50]。なお、ブリテンは、委嘱を受けた1958年の作品『"ノクターン"』作品66の第6章「彼女はおだやかに最期の吐息をついて眠る」でオーウェンの詩に曲付けし[51]、同年7月16に放送されたBBCの番組「私の選んだ詩と曲」でもオーウェンの「奇妙な出会い(Strange Meeting)」(この詩は『戦争レクイエム』のテクストにも使われている)を取り上げ、これに曲を付けている[52][53]。ブリテンは早くからイギリスの詩に親しむとともに、詩を使った音楽表現の可能性を追究して実験を重ねてきており[注 18]、典礼文とオーウェンの詩を組み合わせるという試みは、そうした「実験」の積み重ねの上にあったと言える[53]。
ブリテンは作曲にあたり、公私ともにブリテンのパートナーであったテノールのピーター・ピアーズ、かねてから親交があったドイツのバリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ソ連のソプラノ 、ガリーナ・ヴィシネフスカヤの3名が独唱者として歌うことを念頭に置いていた[47]。第二次世界大戦におけるヨーロッパでの中心的交戦国であり、いずれも甚大な被害を受けたイギリス・ドイツ・ソ連の演奏家が同じステージで歌うことにより、作品の内容だけでなく、演奏行為それ自体にも「戦争からの和解」というメッセージ性を持たせようとしたのである[47]。
まだ作曲の途上にあった1961年2月16日には早くもフィッシャー=ディースカウに手紙を送り、作曲中の作品の趣旨を説明するとともに初演への出演を依頼し、3月1日には快諾を得ている[54]。この手紙の中で「作品は年内には完成する」と予告していたとおり[54]、同年12月20日にオールドバラの自宅でスコアが完成した[4]。なお、作曲の委嘱を受けてから作品が完成するまでの約3年間には、『ミサ・ブレヴィス』作品63(1959年)、歌劇『真夏の夜の夢』作品64(1960年)や、ヴィシネフスカヤの夫であるソ連のチェロ奏者ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのための[注 19]「チェロ・ソナタ」作品65(1961年)などの作品が手がけられている[56]。
一方、ブリテンが手がける「献堂式の作品」については、その構想の一部がすでに世間に知れ渡っていたが、祝賀の式典にレクイエムが使われることをはじめとして、第二次世界大戦で破壊された大聖堂の献堂式に第一次世界大戦中に書かれたオーウェンの詩が使われること、さらには、大聖堂を破壊した当のドイツから独唱者が参加する予定であることに対し、人々は懸念を抱いた[注 20][58]。
初演
初演に向けての大きな問題点はヴィシネフスカヤの出演が確定していないことであった。すでに1961年の夏、オールドバラ音楽祭にヴィシネフスカヤが出演した際、ブリテンは彼女に『戦争レクイエム』への出演を直接依頼し快諾を得ていたが[59]ソ連当局が出演許可を与えていなかったのである。ブリテンはソ連文化省に手紙を送り、ヴィシネフスカヤも文化省のエカチェリーナ・フルツェワに直談判を行ったがソ連当局は出演を拒み続けていた[60][注 21][注 22]。『戦争レクイエム』が完成した1961年といえばベルリンの壁の建設やアメリカとキューバの断交など冷戦に伴う緊張が高まっていた時期ではあったが[注 23]東西の文化的な交流が途絶えていた訳ではなく、まさに『戦争レクイエム』の初演が行われる直前の1962年5月、ヴィシネフスカヤはロイヤル・オペラ・ハウスでの『アイーダ』公演のためイギリスを訪れていたのである[59]。ソ連当局の許可さえ得られれば彼女はそのままイギリスに残って『戦争レクイエム』に出演できるはずであり、ブリテンやロストロポーヴィチは間際まで粘り強く交渉を行った[62]。しかしその努力も空しく、『アイーダ』公演の最終日、ヴィシネフスカヤに帰国命令が下された[62]。
ヴィシネフスカヤの代役はイギリスのソプラノ歌手ヘザー・ハーパーが務めることとなった[注 24]。ブリテンはあらかじめ、ヴィシネフスカヤが出演できなかった場合に備え、ハーパーに準備するよう依頼していたのである[64]。とは言え、代役が正式に決まったのは本番直前であり、ハーパーはわずか10日間の猶予期間で本番に臨まなければならなかった[65]。
1962年5月30日、コヴェントリーの聖マイケル教会における初演は、ピアーズ(テノール)、フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ハーパー(ソプラノ)の3名の独唱者、メレディス・デイヴィス指揮によるバーミンガム市交響楽団、コヴェントリー祝祭合唱団、レミントンとストラットフォードのホーリー・トリニティ教会児童合唱団、ブリテン自身の指揮によるメロス・アンサンブルによって行われた[66]。
この時の演奏では、第2章「ディエス・イレ」の途中でファンファーレを担当する金管楽器奏者が出るタイミングを完全に見失ってしまうなどのミスがあり[67]、ブリテンはその出来栄えに満足しなかったが[67]、聴衆には好意的に受け止められた[19]。出演者のフィッシャー=ディースカウもフィナーレの部分では戦死した友人や戦争にまつわる様々な思いが去来し[注 25]、涙ぐみながら歌ったという[69]。
初演当日の演奏はBBCがモノラル録音しており[70]、ブリテンの生誕100年にあたる2013年にイギリスのテスタメント社がCD化している。
作品に対する反響
『戦争レクイエム』によってブリテンの作曲家としての名声は頂点に達した[71][72]。音楽評論家のウィリアム・マンは、初演に先立って『タイムズ』紙に「ブリテンの傑作が戦争を告発する」という記事を匿名で発表し、「この作品だけが……人間の中に目を覚ます野蛮さを告発し、生きとし生ける者の魂を揺り動かすことができる。[72]」と書き、初演後も「ブリテンが今までに我々に与えてくれた最高傑作[19]」と高く評価した。音楽学者のピーター・エヴァンズは、「『戦争レクイエム』が呼び起こした音楽的感銘の大きさは、新曲の初演を聴いた近年のどの記憶をも凌駕している。[73]」と書き、脚本家のピーター・シェーファーは、雑誌『タイム・アンド・タイド』で、「かつてわが国で作曲された宗教曲の中で最も荘重かつ感動的な作品であり、20世紀に作られた最も偉大な音楽作品の一つであると信ずる。[73]」と賞賛した。
この曲を高く評価したのは一部の専門家にとどまらなかった。後述するように、初演の翌年に発売された自作自演のLPレコードは現代の作曲家の作品としては異例の売れ行きを記録し、今日では全世界において『戦争レクイエム』は名曲であると見なされている[71]。
一方、ブリテンと親交が深かったソ連のドミートリイ・ショスタコーヴィチは、1963年の夏にブリテンから送られた楽譜と録音により『戦争レクイエム』を知り、「人間精神の偉大な作品」の一つであると感嘆したが[74]、他の作曲家による「死」を扱った作品と同様、最後は浄化されるような雰囲気で美しく終わってしまうことには納得がいかなかった[75]。ショスタコーヴィチが1969年に作曲した交響曲第14番は、彼の「死は誰にでも訪れるものであり、感傷を交えないで描かれるべき[76]」という考えを具現化したものであり、作品はブリテンに献呈された[注 26]。これは『戦争レクイエム』に対する回答でもあり、ショスタコーヴィチは作品を通してブリテンとの対話を試みたのである[75]。
1962年5月のコヴェントリーでの初演の後、『戦争レクイエム』は同年12月6日にウェストミンスター大聖堂で再演され、その後2~3年のうちにイギリス国内の主要都市のほとんどで演奏されるようになった[77]。また、イギリス国外では、初演から約半年後の1962年11月18日に西ドイツで初演されたのをはじめとして[注 27][78]、1963年7月にはアメリカ[77]および南半球初となるニュージーランド[78]で、1964年1月にはオランダ[78]で、1965年には2月13日に東ドイツ初演が行われた[注 28][78]直後の2月22日に日本初演が行われている[78]。なお、日本初演は東京文化会館において、デイヴィッド・ウィルコックスの指揮[注 29]、読売日本交響楽団その他[注 30]によって演奏された[78]。
『戦争レクイエム』は作品の性格上、平和を祈念する行事などに合わせて演奏されることもある。上記の西ドイツ初演はベルリンでの第一次世界大戦の終結記念日に[78]、東ドイツ初演はドレスデン爆撃の20周年に合わせて行われており[78]、イギリスでは1964年にオットーボイレンでの英独首脳会談に合わせて演奏されている[80]。日本では、原爆投下の40周年にあたる1985年に小澤征爾が広島で演奏しているほか[78]、東京大空襲で被害が大きかった東京都墨田区においては、1997年にすみだトリフォニーホールの杮落とし公演でムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮新日本フィルハーモニー交響楽団による演奏が行われ、その後も2008年3月23日に「すみだ平和祈念コンサート」でクリスティアン・アルミンクの指揮により取り上げられている[81]。このように、『戦争レクイエム』は演奏する場所や日時にも大きな意味を持つ、社会性の大きい作品としても認知されている[69]。
自作自演による初録音
1962年1月、まだ初演前の『戦争レクイエム』の手稿をブリテンから見せられたデッカ・レコードのプロデューサー、ジョン・カルショーは作品の素晴らしさに気づき、ただちにレコード化を思い立った[82]。デッカの重役はレコーディングにかかる経費を抑えるため初演をライブ録音することを提案したが、カルショーは大聖堂での演奏が響きすぎることなどを理由に初演を録音することには反対し、彼の主張どおり、日をあらためてセッション録音が行われることとなった[83]。ただし、ブリテンの体調が良くなかったこともあって録音の計画は延期を重ね、初演の翌年にずれこんだ[84]。
1963年の1月3日~5日、7日、8日、10日の6日間にわたって、ロンドンのキングズウェイ・ホールでデッカによりレコーディングが行われた[85]。オーケストラはバーミンガム市交響楽団からロンドン交響楽団に変わり、指揮はブリテンが1人で行った[注 31]。テノールとバリトンの独唱者は初演に引き続きピアーズとフィッシャー=ディースカウが務め、今回はヴィシネフスカヤの参加が可能となったため、ようやくブリテンが構想した理想的な独唱者が一同に会することとなった[87]。なお、当時フィッシャー=ディースカウはデッカと契約関係になかったため出演交渉には困難が予想されたが[70]、カルショーに頼まれたブリテンがフィッシャー=ディースカウに電話をかけ[88]、フィッシャー=ディースカウは当時の契約会社に交渉し、デッカの録音に自分が参加することを認めさせた[84]。
カルショーはブリテンが意図した音楽の遠近感を出すため、混声合唱とソプラノ独唱はオーケストラ後方のバルコニーに配置してマイクを置き、男性独唱と室内オーケストラは指揮者の後方に、児童合唱はバルコニーの角にマイクをつけずに配置するなど、セッティングを重視してレコーディングを行った[22]。ただし、この独特なセッティングは思わぬトラブルも招いた。初めて参加したヴィシネフスカヤが、ソリストのうち自分だけ立ち位置が違っていることを差別だと誤解して激しく取り乱し、初日の録音はヴィシネフスカヤ抜きで行わざるを得なかったのである[89]。なお、その後ヴィシネフスカヤの誤解は解け、2日目からは何事もなかったようにレコーディングに参加した[89]。
完成した自作自演のレコード[注 32]は、発売から1年で20万枚という、クラシック音楽としては異例の売り上げを記録し[92]、第6回グラミー賞において「クラシカル・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「最優秀合唱(オペラを除く)パフォーマンス賞」、「最優秀クラシック・コンテンポラリー・作曲賞」の3賞に輝き[93]、日本においても音楽之友社の第1回レコード・アカデミー大賞を受賞している[94]。
なお、レコーディングの際、カルショーはブリテンに無断でリハーサルの様子を隠し録りしていた。16時間に及ぶテープから50分に編集して作られた特製レコード[注 33]は、同年11月にブリテン50歳の誕生日を祝って贈呈されたが[注 34]ブリテンはこのサプライズを喜ばず、特製レコードはその後封印されてしまった[96]。この音源は1999年に再発売された自作自演のCDに付けられ、ブリテンが自作をリハーサルする様子が一般にも知られるようになった[97]。そこでは、ユーモアを交えながらも、「ヒステリーを起こすように」「もっと背筋が寒くなるように」など、言葉巧みに自作のイメージを伝えようとするブリテンの仕事ぶりが記録されている[98]。
編成
声楽
オーケストラ
- フルート 3(第3フルートはピッコロ持ち替え)
- オーボエ 2 [注 35]
- イングリッシュホルン
- クラリネット 3(第3クラリネットはE♭管とバスクラリネット持ち替え)
- ファゴット 2
- コントラファゴット 1
- ホルン 6
- トランペット 4
- トロンボーン 3
- チューバ 1
- ピアノ
- オルガン(あるいはハーモニウム)※オルガンは児童合唱と共に離れた場所から聞こえるようにするため、ハーモニウムかポータブル・オルガンを使うことが望ましい。グランド・オルガンは第6章のみ任意で使用する[6]。
- ティンパニ
- 打楽器 (サイドドラム2、テナードラム、バスドラム、タンブリン、トライアングル、シンバル、カスタネット、鞭、チャイニーズ・ブロック、銅鑼、鐘(C,F#)、ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、アンティークシンバル(C,F#)) [注 36]
- 弦五部(ヴァイオリン第1・第2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
室内オーケストラ
- フルート 1(ピッコロ持ち替え)
- オーボエ 1(イングリッシュホルン持ち替え)
- クラリネット 1
- ファゴット 1
- ホルン 1
- 打楽器(ティンパニ3個、サイドドラム、バスドラム、シンバル、銅鑼)
- ハープ 1
- ヴァイオリン第1・第2(各1)
- ヴィオラ 1
- チェロ 1
- コントラバス 1
構成
第1章:レクイエム・エテルナム(永遠の安息)
嬰ヘ音とハ音の増四度(または転回した減五度)の不安定な響きと、弔いの鐘の音が特徴的であり、ラテン語の「永遠の安息」という歌詞とは裏腹に不安を掻き立てる音楽になっている[19]。途中からテノール独唱がオーウェンの詩「戦死の宿命にある若者たちへの聖歌[100](Anthem for Doomed Youth)」を歌うが、「家畜のように死んでゆく若者たちに 何の鐘があろうか。ただ 恐ろしい大砲の怒りのさく烈があるだけだ。[100]」に始まる歌詞は、典礼文への抗議の言葉となっている。最後は嬰ヘ音とハ音の鐘が鳴り、ラテン語の「主よ、憐れみたまえ。」による短い結尾部分となり、最後はヘ長調の主和音で閉じられる。なお、この結尾の音楽は歌詞を変えて第2章と第6章の最後にも付けられる。
第2章:ディエス・イレ(怒りの日)
約25分を要する[101]長い楽章である。最後の審判を歌うラテン語の典礼文にオーウェンの詩が4篇挿入され、形式的に複雑な構成になっている[4]。 冒頭に金管群が奏でるファンファーレは、最後の審判を告げるラッパと軍隊のラッパの2つのイメージが重ねられており[102]、この後に何度も登場する重要なモチーフである(以下「ラッパの動機」と呼ぶ。)[注 37]。4分の7拍子で歌われる「怒りの日」の旋律は、グレゴリオ聖歌「怒りの日」には基づいていないが、使っている音の構成や音域にはやや類似している点がある[102]。「ラッパの動機」と「怒りの日」の旋律が交互に演奏されながら盛り上がり、「奇異なるラッパ(Tuba mirum)」の部分では同時に演奏される。その後、次第に音楽はおさまり、「ラッパの動機」が木管楽器に移ると、オーウェンの詩の断片「だが私は恒星を見つめていた(But I was Looking at the Permanent Stars)」がバリトン独唱によって歌われる。ここで描かれるのは、川岸にある野営地の夜の情景、消燈ラッパが響く中で明日への不安を抱きつつ眠る少年兵の姿である。歌い出しの歌詞である「ラッパが歌った(Bugles Sang)」は、「ラッパの動機」と同じく上行する分散和音で歌われる。
音楽が一旦おさまるとソプラノ独唱が初めて登場し、合唱とともにラテン語で「世を裁くために記された記録が差し出され」と歌う。続くオーウェンの詩「次の戦争[103](The Next War)」では、テノール独唱とバリトン独唱が「戦場では、おれたちは全く親しげに「死」に向かって歩いていった。[103]」と、戦場で日常茶飯事であった死を「楽しげに」歌う[104]。
次の「慈しみ深いイエスよ、思い出したまえ」は女声合唱のみで歌われ、テンポが速くなる「呪われし者共を罰し」からは男声合唱に交替し、そのままオーウェンの詩「ソネット-われらの大砲の一つが使用されているのを見て-[105](Sonnet:On Seeding A Piece Of Our Artillery Brought Into Action)」につながる[注 38]。室内オーケストラのティンパニによる五連符を伴ってバリトン独唱が f で歌い、その合いの手としてオーケストラのトランペットが「ラッパの動機」を奏でる[注 39][107]。「神がお前(大砲のこと)を呪い給い・・・・・・[105]」と激しく歌われる[108]フレーズの頂点で「ラッパの動機」がオーケストラのティンパニ、バスドラム、ピアノのクレッシェンドを伴って盛り上がり「怒りの日」の再現になだれこむ[109]。この後は次第にテンポを落とし、合唱を従えたソプラノ独唱による「涙の日(ラクリモサ)」に続く。ゆっくりとした美しい音楽[110]だが、4分の7拍子のリズムが「怒りの日」から続いている。続けてオーウェンの詩「むなしさ[111](Futility)」がテノール独唱によってレチタティーヴォ風に歌われる[112]。フランスの冬の戦場で、戦友の遺体を前に太陽の光がもはや彼を目覚めさせることがないことを嘆く。ここに「涙の日」の音楽がオーバーラップし[113]、「こんなことになるために 土くれは大きくなったというのか。[111]」と「涙にくれる その日こそ 灰の中よりよみがえる日」とが交互に歌われ、聴く者の心を打つ[110]。第1章の末尾と同様に、無伴奏の合唱が「慈悲深きイエス、主よ、彼らに平安を与えたまえ。」と歌い、静かに「怒りの日」を締めくくる。
第3章:オッフェルトリウム(奉献唱)
創世記の「アブラハムとイサク」の逸話に因んでおり、オーウェンの詩は典礼文に対する辛辣なアイロニーとなっている[20]。オルガンを伴う児童合唱による導入部に続き、主部では合唱が「主がその昔アブラハムとその子孫とに約束したもうた・・・・・・」を、伝統的な作法どおりフーガにより歌う[108]。引き続きテノール独唱とバリトン独唱により、オーウェンの詩「老人と若者の寓話[114](The Parable of the Old man and the Young)」が歌われる。我が子を殺して生贄にするよう神に命じられたアブラハムは、イサクを縛りつけ殺そうとするが(ここで「ラッパの動機」が奏でられる[115]。)、アブラハムの強い信仰を見届けた神は天使を遣わして殺害をやめさせようとする。ここまでは創世記と同じであるが、オーウェンの詩では天使の勧告にもかかわらず、アブラハムはイサクを殺してしまう。テノール独唱とバリトン独唱が「いうならば、ヨーロッパの子孫の半ばを、ひとりずつ[114](殺したのである)・・・・・・」のフレーズを、休止を挟みながら繰り返す背後では、児童合唱が静かに「主よ、称賛の生贄と祈りを捧げ奉る」と歌うが、この部分の児童合唱は独唱よりも遅いテンポで演奏され[115]、まるで違った次元から響くように聞こえる[115]。その後、フーガの再現となるが、終始 pp 以下のデュナーミクで演奏され、最後は消えるように終わる[116]。
なお、天使がアブラハムを止めようとする場面の音楽は、自作の『カンティクル第2番「アブラハムとイサク」』作品51(1952年)の冒頭部を引用している[71]。
第4章:サンクトゥス(聖なるかな)
大きく2つに区分される[116]。前半は、ガムランを思わせる[117][注 40]金属打楽器[注 41]のトレモロに乗ったソプラノ独唱に始まる。なお、トレモロの音は最初が「嬰ヘ音」、次が「ハ音」である[120]。輝かしいファンファーレ[121]を伴った壮大な[122]「いと高き天にホザンナ」が合唱によって歌われ、その中間部にはソプラノ独唱と合唱による「ベネディクトゥス」が置かれている[122]。後半は、バリトン独唱によるオーウェンの詩「最後[123](The End)」が、神を讃える輝かしい前半と対照をなすように置かれる[121]。この詩の「生はこれらの死んだ体を蘇らせてくれるのだろうか。本当に、すべての死を取り消し、すべての涙を鎮めてくれるのだろうか。[123]」という問いかけの言葉は、オーウェンの墓碑銘にも使われている[124][注 42]。
第5章:アニュス・デイ(神の子羊)
16分の5拍子の静かな音楽であり[66]、6つの楽章中で最も短い[122]。この楽章ではオーウェンの詩が中心であり、その合間にラテン語の典礼文が歌われる構成となっている。弦楽器による短い前奏があり、テノール独唱がオーウェンの「アンクル河近くのキリストの十字架像のあるところで[125](At a Calvary near the Ancre)」を歌い、混声合唱が「神の子羊、世の罪を除き給う主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ。」と典礼文による合いの手を入れる。なお、この楽章の混声合唱は座って歌うよう指示されている[126]。オーウェンの詩の最後の一節「法学者たちは、すべての国民たちに口やかましく言い、国家に対する忠誠を押しつけるが、大いなる愛を愛する者たちは自らの命を投げ出すが、憎むことはないのだ。[125]」の部分では、抗議するように音楽が高まり、「国家に対する忠誠を押しつける」という言葉が f で歌われるが、諦めたように音楽がおさまる[121]。続けてテノール独唱が、英語でなくラテン語で「彼らに平和を与えたまえ(Dona nobis pacem)」と歌い静かに終わる[127]。
第6章:リベラ・メ(我を解き放ちたまえ)
全曲のクライマックスが置かれており[24]、三つの部分に区分される[128]。第一の部分は打楽器の葬送行進曲風のリズムにのり[129]、亡者が地獄でつぶやくように[130]「我を解き放ちたまえ・・・・・・」と合唱が歌う。音楽は不協和音や半音階を使いながら次第に緊張感を高めていく[130]。途中からはソプラノ独唱も加わり、やがて「怒りの日」が再現され、オーケストラと合唱が fff で爆発する[24][99]。これが静まると、オーウェンの詩集の最初に収められている作品「奇妙な出会い[131](Strange Meeting)」による第二の部分となる[128]。戦死したイギリス兵が地獄でドイツ兵と出会って言葉を交わすという内容であり(原詩には地獄にいることに気づく部分があるが[注 43]、ブリテンはここを割愛している[133]。)、室内オーケストラの伴奏には pp に加え「冷たく(cold)」の指示がある[134]。静寂の中、イギリス兵(テノール独唱)、ドイツ兵(バリトン独唱)がレチタティーヴォ風に歌う[129]。ドイツ兵は生前の希望と戦争の悲哀を歌った後、「私は君が殺した敵だよ[131]。」と明かし、「さあ、一緒に眠ろうじゃないか・・・・・・ [131](Let us sleep now....)」と語りかける。最後の語りかけからが第三の部分であり[128]、テノール独唱とバリトン独唱が「Let us sleep now」を繰り返す中[注 44]、オルガンを伴った児童合唱による「楽園にて(イン・パラディスム)」の典礼文「天使が汝らを天国に導き・・・・・・」が重なり、ソプラノ独唱や混声合唱、オーケストラも次々と加わって豊かな響きとなる[136][注 45]。英語のテクストとラテン語のテクストが同時が歌われ、演奏者の音楽が一つに融和する、この曲の最も感動的な場面である[130]。やがて「嬰ヘ音」と「ハ音」による鎮魂の鐘が回帰し、無伴奏合唱の「アーメン」により静かに曲は閉じられる[136]。
脚注
注釈
- ^ 各楽章について、「第○章」という表現は菅野(1981)及び小林(2012)に従った。向井(2013)は「第○部」という表現を使用している。
- ^ 「リベラ・メ」と「イン・パラディスム」は、ガブリエル・フォーレの『レクイエム』にも使われている[8]。
- ^ 第一次世界大戦に際して書かれた「戦争詩」の多くは、依然として武勇や愛国心、兵士の死をロマンチックに歌っていた[10]。
- ^ オーウェンは第一次世界大戦の休戦協定が結ばれる1週間前の1918年11月4日に戦死した[11]。
- ^ オーウェンの詩集『ウィルフレッド・オウエン詩篇』は、オーウェンの死後、1920年にジークフリード・サスーンによって編まれた[13]。その序文はオーウェンが生前に、将来出版を予定していた詩集『不具になった者たち、およびその他の詩篇』の序文として構想していたものである[14]。
- ^ 例外として、第5章「アニュス・デイ」の最後にテノール独唱がラテン語の典礼文を歌う箇所がある(後述)。
- ^ 実際には1人の指揮者でも演奏される。
- ^ 『戦争レクイエム』の構造の複雑さについては、マイケル・ティペットの影響が指摘されている[24]。
- ^ ブリテンがこの時期にアメリカ大陸に渡ったことについては、オーデンがアメリカに移住したことのほか、アメリカに自由な創造の場を求めたこと[31]、1938年にアメリカの作曲家アーロン・コープランドがブリテンの自宅を訪問したこと[32]、近づきつつあった戦争を避けようとしたことなど[33]、様々な理由やきっかけがある。
- ^ 1940年4月27日付け『The NewYork Sun』[35]
- ^ 第1楽章「ラクリモサ(涙の日)」、第2楽章「ディエス・イレ(怒りの日)」、第3楽章「レクイエム・エテルナム(永遠の安息)」。なお、管弦楽曲であり声楽は含まれない。
- ^ ブリテンの伝記を著したデイヴィット・マシューズは、「第二次世界大戦に直接言及した作品は、たった二曲である。」としている[41]。
- ^ 1945年には原爆投下に抗議するためのオラトリオ『メア・クルパ(わが過ちにより)』、1948年には暗殺されたマハトマ・ガンディーを悼む『ガンディー・レクイエム』が構想されたが、いずれも完成には至らなかった[42]。
- ^ コヴェントリーに対する空襲は11時間にもわたり執拗に行われ[45]、その後「空爆で破壊する」という意味を持つ coventrate という新しい動詞を生み出すこととなった。
- ^ ブリテンは、スペンスが新旧の建物を融合させたことを「戦争からの和解」を象徴するものとしてとらえた[48]。
- ^ 依頼状は、式典芸術委員会のメンバーで、ブリテンと親交があったジョン・ロウエを通じてブリテンに送られた[27]。
- ^ 1957年1月にブリテンが友人にミサ曲の作曲について語ったという記録がある[50]。
- ^ 古今のイギリスの詩人の作品を扱った1949年の『春の交響曲』作品44は、そうした「実験」の成功例である[53]。
- ^ 1960年にロンドンで行われた演奏会で、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番を弾くロストロポーヴィチの演奏にブリテンは興奮し、翌日に面会してソナタを作曲することを申し出た[55]。
- ^ こうしたことに対する懸念の声は、初演後には沈静化した[57]。
- ^ ヴィシネフスカヤの自伝には、ブリテンがソ連文化省外国局長ウラディミール・ステパーノフあてにヴィシネフスカヤの出演許可を申し出た1961年12月14日付けの手紙が掲載されている[61]。ヴィシネフスカヤによれば、この手紙は文化省のゴミ箱に捨てられていたものを、文化省職員を通じてもらったものである[60]。
- ^ ソ連がヴィシネフスカヤの出演を認めなかった理由は、ソ連の歌手が旧敵国のドイツ人と共演することに反対だったからとされているが[18]、ヴィシネフスカヤの自伝によれば、コヴェントリーの再建にドイツが協力したこととされている[60]。
- ^ 初演の約半年後にあたる1962年10月にはキューバ危機が勃発している。
- ^ ハーパーは後に(1991年)、リチャード・ヒコックス指揮による『戦争レクイエム』のレコーディングにソリストとして参加している[63]。
- ^ フィッシャー=ディースカウには、第二次世界大戦中にアメリカ軍の捕虜になった経験があった[68]。
- ^ この前年(1968年)には、ブリテンが歌劇『放蕩息子』作品81をショスコターヴィチに献呈している[75]。
- ^ コリン・デイヴィス指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による[78]。
- ^ クルト・ザンデルリンク指揮による[78]。
- ^ ブリテンが指揮する予定であったが、病気のために来日できず、ウィルコックスに変更となった[79]。
- ^ 合唱は二期会、藤原歌劇団、日本合唱団、東京混声合唱団、東京少年少女合唱隊。独唱者はソプラノ伊藤京子、テノール中村健、バリトン立川澄人であった[77][79]。
- ^ 初演の指揮を務めたメレディス・デイヴィスは無名に近く、カルショーはレコーディングの指揮はブリテン1人で行うことを望んでいた[86]。
- ^ ジャケットデザインは、漆黒の背景に白地で作曲者名と作品名が書かれ、会社のロゴだけが入ったシンプルなものが採用された。会社側は瀕死の兵士などを描いたデザイン案を準備していたが[90]、カルショーはそれが気に入らず、ブージー・アンド・ホークス社によるフルスコア表紙のデザインをそのまま流用した[91]。
- ^ 編集後、リハーサルを録音したテープのうち未使用部分は全て破棄された[90]。
- ^ ブリテンに贈られた特製レコードには「BB50」(ベンジャミン・ブリテンの頭文字と「50歳」)というカタログ番号が付けられていた[95]。
- ^ フルスコアの楽器編表は「3 Oboes」となっているが[6]、「2 Oboes」誤りである。
- ^ フルスコアの編成表ではティンパニを除く打楽器は「4 player」と書かれているが、第6章「リベラ・メ」の最強奏部では、トライアングル(ロール)、シンバル(ロール)、サイドドラム(ロール)、テナードラム(ロール)、バスドラム(ロール)、銅鑼の、6つの楽器が同時に出てくる小節がある[99]。
- ^ ファンファーレを軍国主義的なイメージと重ねる技法は1939年に作曲した『英雄のバラッド』作品14でも使われており、「ディエス・イレ」ではこれを更に洗練させている[34]。
- ^ ここでのテンポの切り替えは、前の部分の八分音符5つが続く部分の五連符5つと同じになるように指示されている[106]。
- ^ 初演ではこの「ラッパの動機」で金管楽器が「落ちて」しまった(前述)。
- ^ ブリテンは1939年にコリン・マクフィーを通じてガムラン音楽を知り[118]、その影響は『ポール・バニヤン』や『ピーター・グライムズ』、『パゴダの王子』、『ヴェニスに死す』など、後の数々の作品に及んだ[119]。
- ^ ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、アンティーク・シンバル(小さなシンバルで代用することが可能)、鐘(金属のバチで叩く)およびピアノである[120]。
- ^ 正確な墓碑銘は、"SHALL LIFE RENEW THESE BODIES? OF A TRUTH ALL DEATH WILL HE ANNUL" であり、これはオーウェンの母親スーザンが選んだものである[124]。
- ^ 「And by his smile, I knew that sullen hall, By his dead smile, I knew we stood in Hell.[132]」
- ^ ブリテンにとって「眠り」は恐怖や不安から逃れられる唯一の場であり、そのことが作品にも表れている[135]。
- ^ スコアでは、最も演奏者が多いページで50段にも及ぶ[137]。ただし、コントラファゴット奏者、ピアニストと何人かの打楽器奏者は休んでいる[137]。
出典
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- ロス,アレックス、柿沼敏江・訳『20世紀を語る音楽・2』、みすず書房、2010年11月24日、ISBN 978-4-622-07573-8