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== 人物・来歴 ==
== 人物・来歴 ==
1911年、[[佐賀県]][[東松浦郡]][[相知町]](現[[唐津市]])に生まれる。[[下村湖人]]の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の[[佐賀県立唐津東高等学校]])卒業後、周囲が[[旧制高等学校]]の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])体育に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・[[山梨県立甲府第一高等学校]])、旧制広島一中(現・[[広島県立国泰寺高等学校]])に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、[[千葉県立佐原白楊高等学校|千葉県立佐原高等女学校]]校長、[[千葉県立船橋高等学校]]校長を務める。この間、1947年に[[日本社会党]]の要請を受けて、[[千葉県知事]]選挙に同党公認候補として立候補しているが、社会党内の調整の遅れで一度は出馬辞退をするなど選挙戦に出遅れた影響もあって3位(99,244票)で落選している<ref>千葉県史料研究財団 編『千葉県の歴史 通史編 近現代史3』(千葉県、2009年) 第1編第2章P137-139</ref>。その後、創立まもない[[習志野市立習志野高等学校]]校長として、同校を全国屈指の文武両道の学校に育てる。習志野高校は、名将市原監督の下、全国高校野球選手権大会で優勝を飾る。山口の評判を聞きつけた東海大学創立者の[[松前重義]]は山口を[[東海大学第一高等学校]]校長に招き、のち[[東海大学]][[体育学部]]教授に任命、東海大学体育学部長も務めた。スポーツの普及に全力をかたむけた山口は、[[国民体育大会]]委員長を務めたり、スポーツ外交団として、[[中華人民共和国]]、冷戦下の[[朝鮮民主主義人民共和国]]や[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を訪問。アマチュアスポーツ界の重鎮として、[[日本体育協会]]理事を経て、副会長に就任する。病に倒れた後は[[名誉]][[副会長]]。
1911年、[[佐賀県]][[東松浦郡]][[相知町]](現[[唐津市]])に生まれる。[[下村湖人]]の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の[[佐賀県立唐津東高等学校]])卒業後、周囲が[[旧制高等学校]]の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、[[東京高等師範学校]](のちの[[東京教育大学]])体育学部に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・[[山梨県立甲府第一高等学校]])、旧制広島一中(現・[[広島県立国泰寺高等学校]])に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、[[千葉県立佐原白楊高等学校|千葉県立佐原高等女学校]]校長、[[千葉県立船橋高等学校]]校長を務める。この間、1947年に[[日本社会党]]の要請を受けて、[[千葉県知事]]選挙に同党公認候補として立候補しているが、社会党内の調整の遅れで一度は出馬辞退をするなど選挙戦に出遅れた影響もあって3位(99,244票)で落選している<ref>千葉県史料研究財団 編『千葉県の歴史 通史編 近現代史3』(千葉県、2009年) 第1編第2章P137-139</ref>。その後、創立まもない[[習志野市立習志野高等学校]]校長として、同校を全国屈指の文武両道の学校に育てる。習志野高校は、名将市原監督の下、全国高校野球選手権大会で優勝を飾る。山口の評判を聞きつけた東海大学創立者の[[松前重義]]は山口を[[東海大学第一高等学校]]校長に招き、のち[[東海大学]][[体育学部]]教授に任命、東海大学体育学部長も務めた。スポーツの普及に全力をかたむけた山口は、[[国民体育大会]]委員長を務めたり、スポーツ外交団として、[[中華人民共和国]]、冷戦下の[[朝鮮民主主義人民共和国]]や[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を訪問。アマチュアスポーツ界の重鎮として、[[日本体育協会]]理事を経て、副会長に就任する。病に倒れた後は[[名誉]][[副会長]]。


1978年、既に老境を迎えた山口であったが、明治維新の志士を多く輩出した[[長州藩]]の[[松下村塾]]の[[吉田松陰]]の理想を現代に再現させるべく学校の創立を企図する。金はないが人脈はあった山口は千葉県[[八千代市]]の地元の名士で、当時千葉県議会議員であった[[江口一雄]]から、千葉県八千代市村上の広大な梨畑が広がる土地を無償提供され、ここに八千代松陰学園が創立されたのである。山口久太は初代理事長兼校長に就任し、1989年に後任の山下章が2代目校長になった事で兼務は終了した。山口の口癖は「日本一になれ!」であり、それはスポーツでは野球の[[甲子園]]出場であり、勉学では[[東京大学]]合格者を輩出することであった。開校2年目に、春の[[選抜高等学校野球大会]]出場、のちには、夏の[[全国高等学校野球選手権大会]]にも出場を果たした。近年では、八千代松陰高校から東京大学合格者も出るようになった状況を見れば、山口の理想は実現したと言えるだろう。ただし、創立者山口は、1983年以来体調を崩し、1993年に世を去っている。山口の具体的な学校発展は、[[神奈川県]]屈指の進学校で、高校野球の全国優勝で全国に名を轟かせ、多くの東京大学合格者を輩出してきた[[桐蔭学園]]をモデルにしていたと言われる。
1978年、既に老境を迎えた山口であったが、明治維新の志士を多く輩出した[[長州藩]]の[[松下村塾]]の[[吉田松陰]]の理想を現代に再現させるべく学校の創立を企図する。金はないが人脈はあった山口は千葉県[[八千代市]]の地元の名士で、当時千葉県議会議員であった[[江口一雄]]から、千葉県八千代市村上の広大な梨畑が広がる土地を無償提供され、ここに八千代松陰学園が創立されたのである。山口久太は初代理事長兼校長に就任し、1989年に後任の山下章が2代目校長になった事で兼務は終了した。山口の口癖は「日本一になれ!」であり、それはスポーツでは野球の[[甲子園]]出場であり、勉学では[[東京大学]]合格者を輩出することであった。開校2年目に、春の[[選抜高等学校野球大会]]出場、のちには、夏の[[全国高等学校野球選手権大会]]にも出場を果たした。近年では、八千代松陰高校から東京大学合格者も出るようになった状況を見れば、山口の理想は実現したと言えるだろう。ただし、創立者山口は、1983年以来体調を崩し、1993年に世を去っている。山口の具体的な学校発展は、[[神奈川県]]屈指の進学校で、高校野球の全国優勝で全国に名を轟かせ、多くの東京大学合格者を輩出してきた[[桐蔭学園]]をモデルにしていたと言われる。

2019年8月15日 (木) 05:27時点における版

山口 久太(やまぐち ひさた、1911年4月26日 - 1993年7月12日[1])は、日本教育者。元日本体育協会副会長、会長代理、名誉副会長。東海大学体育学部長、東海大学名誉教授

人物・来歴

1911年、佐賀県東松浦郡相知町(現唐津市)に生まれる。下村湖人の薫陶を受け、旧制唐津中学(現在の佐賀県立唐津東高等学校)卒業後、周囲が旧制高等学校の進学を薦める中、日本一の体育教師を目指して、東京高等師範学校(のちの東京教育大学)体育学部に進学する。1934年3月、東京高等師範学校体育科を卒業。体育教諭として、旧制甲府中(現・山梨県立甲府第一高等学校)、旧制広島一中(現・広島県立国泰寺高等学校)に奉職。戦後千葉県に体育担当地方事務官として招かれて、千葉県立佐原高等女学校校長、千葉県立船橋高等学校校長を務める。この間、1947年に日本社会党の要請を受けて、千葉県知事選挙に同党公認候補として立候補しているが、社会党内の調整の遅れで一度は出馬辞退をするなど選挙戦に出遅れた影響もあって3位(99,244票)で落選している[2]。その後、創立まもない習志野市立習志野高等学校校長として、同校を全国屈指の文武両道の学校に育てる。習志野高校は、名将市原監督の下、全国高校野球選手権大会で優勝を飾る。山口の評判を聞きつけた東海大学創立者の松前重義は山口を東海大学第一高等学校校長に招き、のち東海大学体育学部教授に任命、東海大学体育学部長も務めた。スポーツの普及に全力をかたむけた山口は、国民体育大会委員長を務めたり、スポーツ外交団として、中華人民共和国、冷戦下の朝鮮民主主義人民共和国東ドイツを訪問。アマチュアスポーツ界の重鎮として、日本体育協会理事を経て、副会長に就任する。病に倒れた後は名誉副会長

1978年、既に老境を迎えた山口であったが、明治維新の志士を多く輩出した長州藩松下村塾吉田松陰の理想を現代に再現させるべく学校の創立を企図する。金はないが人脈はあった山口は千葉県八千代市の地元の名士で、当時千葉県議会議員であった江口一雄から、千葉県八千代市村上の広大な梨畑が広がる土地を無償提供され、ここに八千代松陰学園が創立されたのである。山口久太は初代理事長兼校長に就任し、1989年に後任の山下章が2代目校長になった事で兼務は終了した。山口の口癖は「日本一になれ!」であり、それはスポーツでは野球の甲子園出場であり、勉学では東京大学合格者を輩出することであった。開校2年目に、春の選抜高等学校野球大会出場、のちには、夏の全国高等学校野球選手権大会にも出場を果たした。近年では、八千代松陰高校から東京大学合格者も出るようになった状況を見れば、山口の理想は実現したと言えるだろう。ただし、創立者山口は、1983年以来体調を崩し、1993年に世を去っている。山口の具体的な学校発展は、神奈川県屈指の進学校で、高校野球の全国優勝で全国に名を轟かせ、多くの東京大学合格者を輩出してきた桐蔭学園をモデルにしていたと言われる。

なお、自由民主党衆議院議員である園田博之は習志野高校校長時代の教え子である。

1943年勲六等瑞宝章受章、1974年藍綬褒章受章、1981年勲三等瑞宝章受章[1]

著書

  • 「草原有情ーモンゴル遠征の記録」、東海大学出版会、1970年
  • 「チョンリマの国朝鮮」、東海大学出版会、1972年
  • 『わが青春-その光と陰の中で』、学校法人八千代松陰学園、1985年

脚注

  1. ^ a b 『現代物故者事典1991〜1993』(日外アソシエーツ、1994年)p.621
  2. ^ 千葉県史料研究財団 編『千葉県の歴史 通史編 近現代史3』(千葉県、2009年) 第1編第2章P137-139

関連項目

外部リンク