「ノート:後ウマイヤ朝アミール領」の版間の差分
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返信と書籍情報追加。 |
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|colspan=5 ! style="background-color:#dfd" | 756年以降を「後ウマイヤ朝」と分類する |
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| 佐藤健太郎 || スペイン史 1(世界歴史大系) || 2008 || ムスリムの征服以降は基本的には「アンダルス」など、厳密な用語は用いない。 |
| 佐藤健太郎 || スペイン史 1(世界歴史大系) || 2008 || ムスリムの征服以降は基本的には「アンダルス」など、厳密な用語は用いない。756年以降「後ウマイヤ朝」として言及。カリフ位宣言を画期とするが、厳密な時代区分を行わない。 || |
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| 安達かおり || イスラム・スペインとモサラベ || 1997 || イベリア半島のムスリム政権を「アンダルス」と呼びその歴史を「属州期」(711~)「後ウマイヤ朝」(756~)に分ける || イベリアのムスリム政権の王権概念について記述あり。 |
| 安達かおり || イスラム・スペインとモサラベ || 1997 || イベリア半島のムスリム政権を「アンダルス」と呼びその歴史を「属州期」(711~)「後ウマイヤ朝」(756~)に分ける || イベリアのムスリム政権の王権概念について記述あり。 |
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| 黒田祐我 || レコンキスタの実像 || 2016 || イベリアのムスリム政権について「後ウマイヤ朝」。より一般的には「アンダルス」 || キリスト教側がムスリムのイベリアを指す「アンダルス」という概念に抵抗して西ゴート王国からの継続性の主張、新ゴート主義を展開したことについての言及あり。 |
| 黒田祐我 || レコンキスタの実像 || 2016 || イベリアのムスリム政権について「後ウマイヤ朝」。より一般的には「アンダルス」 || キリスト教側がムスリムのイベリアを指す「アンダルス」という概念に抵抗して西ゴート王国からの継続性の主張、新ゴート主義を展開したことについての言及あり。 |
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| 林邦夫 || 西欧中世史研究入門 増補改訂版 || 2005 || イベリアのムスリム政権について「後ウマイヤ朝」、アミール・カリフ位による区分は行わない || 英独仏中心に書かれていてイベリアの記述は解像度が低い |
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| D・W・ローマックス || レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動 || 1996 || 756年以降「後ウマイヤ朝スペイン」など。文脈により「アンダルス」など。またアミール時代とカリフ時代で特に時代区分は行わない || 戦争が主題の書籍。 |
| D・W・ローマックス || レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動 || 1996 || 756年以降「後ウマイヤ朝スペイン」など。文脈により「アンダルス」など。またアミール時代とカリフ時代で特に時代区分は行わない || 戦争が主題の書籍。 |
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| 余部福三 || イスラーム全史 || 1991 || イベリアのムスリム政権は「アンダルス」、王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」|| |
| 余部福三 || イスラーム全史 || 1991 || イベリアのムスリム政権は「アンダルス」、王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」|| |
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| 余部福三 || アラブとスペイン || 1992 || イベリアのムスリム政権は「アンダルス」、王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」|| |
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| シドファル || アンダルシア文学史 || 1983 || イベリア半島のムスリム権力に固有の名称を与えず、厳密な時代区分もしない。必要がある時は「アミール体制」などと呼称 || 政治史や社会史を対象にした書籍ではない。 |
| シドファル || アンダルシア文学史 || 1983 || イベリア半島のムスリム権力に固有の名称を与えず、厳密な時代区分もしない。必要がある時は「アミール体制」などと呼称 || 政治史や社会史を対象にした書籍ではない。 |
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| W・M・ワット || イスラーム・スペイン史 || 1976 || 756年以降「ウマイヤ朝アミール領」、912年以降「ウマイヤ朝カリフ」 || |
| W・M・ワット || イスラーム・スペイン史 || 1976 || 756年以降「ウマイヤ朝アミール領」、912年以降「ウマイヤ朝カリフ」 || |
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| フィリップ・K・ヒッティ || アラブの歴史(下) || 1983 || イベリアのムスリム政権は本文中では明確な名前を与えられず「アミール権」「カリフ権」等の用語で言及。節名は「スペインのウマイヤ家アミール領」「コルドヴァのウマイヤ朝カリフ権」 || |
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{{返信|[[利用者:TEN|TEN]]さん}} 「[[マムルーク朝]]の記事と[[バフリー朝]]・[[チェルケス朝]]の記事を併存させるような違和感を感じます。」とのことですが、日本語では「○○朝」を使いすぎなんです。[[マムルーク朝]]は「国家」「ダウラ」で、[[バフリー朝]]とか[[ブルジー朝]]とかは (血族ではないですけど)、「王朝」「スラーレ」です。ザックリ言うと、[[イングランド王国]]に、[[ノルマン朝]]、[[プランタジネット朝]]、[[テューダー朝]]などがあったのと似たようなものです。ただ、[[バフリー朝]]と[[ブルジー朝]]に分ける問題と「アミール時代」と「カリフ時代」とに分ける問題とでは、少し次元が違うお話だと思います。--[[利用者:Takabeg|Takabeg]]([[利用者‐会話:Takabeg|会話]]) 2019年5月28日 (火) 12:04 (UTC) |
{{返信|[[利用者:TEN|TEN]]さん}} 「[[マムルーク朝]]の記事と[[バフリー朝]]・[[チェルケス朝]]の記事を併存させるような違和感を感じます。」とのことですが、日本語では「○○朝」を使いすぎなんです。[[マムルーク朝]]は「国家」「ダウラ」で、[[バフリー朝]]とか[[ブルジー朝]]とかは (血族ではないですけど)、「王朝」「スラーレ」です。ザックリ言うと、[[イングランド王国]]に、[[ノルマン朝]]、[[プランタジネット朝]]、[[テューダー朝]]などがあったのと似たようなものです。ただ、[[バフリー朝]]と[[ブルジー朝]]に分ける問題と「アミール時代」と「カリフ時代」とに分ける問題とでは、少し次元が違うお話だと思います。--[[利用者:Takabeg|Takabeg]]([[利用者‐会話:Takabeg|会話]]) 2019年5月28日 (火) 12:04 (UTC) |
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:{{返信}} マムルーク朝の例が歴史学的には次元の違う話だということはもちろんその通りだと思います。ここで私が感じる違和感は、Wikipediaの記事として両者を並立させた場合、そのままでは内容がほとんど同じ(あるいは部分の抽出)になる点です。また、日本語でほとんど用例のない「コルドバ首長国」(またはそれと同一概念を示す何等かの名前)の記事と、欧米における慣用的な理解と一致しないものの日本語では普及している「後ウマイヤ朝」という記事が併存するのはいろいろとわかりづらく、また記事ごとの記述範囲分担も困難と思います。なので、政治勢力としての「コルドバのムスリム政権」の記述は後ウマイヤ朝の記事に集約してしまい、日本と欧米での理解の差などは、ねをなふみそねさんの最初の提案にあるように本記事の改名後の記事で「日本と世界の歴史学界の研究史に軽く触れる」という形が綺麗かなと思う次第です(もっともここは私は貢献できないかもしれませんが^^;)。 |
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:あるいは、無理に「コルドバのムスリム政権」の記事を作らずに、そうした説明は「[[アンダルス]]」に置くのもありかもしれないとも思います。この場合、最初に指摘されているように、[[wikidata:Q1337854]]に対応する日本語版の記事が無くなる、という問題はあるので、やや強引ですが[[コルドバ首長国]]をリダイレクトではなく曖昧さ回避にして[[アンダルス]]と[[後ウマイヤ朝]]に分岐させる、というような形式も取り得るかもしれないと思います。 |
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:端的に言って「Emirate of Córdoba」の記事が存在するのであれば、対応する「Caliphate of Córdoba」の記事が必要で、それは「後ウマイヤ朝」とは違う、という考えです。故に「コルドバ首長国」と「後ウマイヤ朝」の記事は併存させるのに相応しくないと思います。しかし、「Emirate of Córdoba」「Caliphate of Córdoba」・・・(例えば「アンダルスのアミール領」「西カリフ国」というような感じになるでしょうか・・)という記事構成にするのは、日本語の出典による限り「Wikipedia独特の書き方」という感が強くなるのではないかと思います。--[[利用者:TEN|TEN]]([[利用者‐会話:TEN|会話]]) 2019年5月28日 (火) 15:49 (UTC) |
2019年5月28日 (火) 15:49時点における版
改名とリダイレクト化の提案
2019年4月ごろから「現代のアラビア(ペルシア)湾岸諸国以外の英語で "emirate" と呼ばれる政権を「首長国」と呼ぶことは適切か?」という議論というか調査を、ノート:クレタ首長国#「クレタ首長国」について(現在は「イスラーム期のクレタ」に改名済み)で行いました。結論としては「理由は明確でないものの歴史学の専門家は「首長国」という言葉を一切使っていない(ただし湾岸諸国を除く)」と言えます。
- 「コルドバ首長国」なる歴史用語も、日本の図書館に普通に置いてある本では用例を見出すことができません。「コルドバ首長国」は、端的にウィキペディア用語で言うと、独自研究です。
- 「コルドバ首長国」が使われていない理由の1つ目は、そもそも「首長国」という用語に問題があり、歴史学者はこの用語を避けるからと思われます。
- 「コルドバ首長国」が使われていない理由の2つ目は、スペイン史を専門とする日本の歴史学者はこの時代のこの王朝のことを「後ウマイヤ朝」と呼ぶからです。このことは例えば『イスラム事典』(平凡社、1982年)の序章、佐藤次高氏による「歴史の中のイスラーム教徒」などに書かれています。
したがって、ネット上で「コルドバ首長国」なる歴史用語が実体を持ち、一人歩きしはじめる前に、何らかの対処をしたいと考えています。具体的には、以下の対処法が取りうると思います。
- 「コルドバ首長国」を「後ウマイヤ朝」に統合(コルドバ首長国はリダイレクト化されます)。
- 「コルドバ首長国」を何か、問題のない記事名(例えば、「君主がアミールを称していた時期の後ウマイヤ朝」)に改名する。
- 改名後の記事には日本と世界の歴史学界の研究史について軽く触れる。
- リダイレクト「コルドバ首長国」を削除。あるいは、リダイレクト「コルドバ首長国」を残す。
- ノートページは移動しない。あるいは、後ウマイヤ朝に統合する。
以上に述べた提案に対して、何かご意見や追加の提案があれば、このノートページにお書きください。特にご意見なければ「改名+リダイレクト残す+ノートページ移動しない」コンボで進めようかなと考えております。wikidata:Q1337854 に対応する記事が存在した方が、一般的な読者に対して親切だと思われるからです。--ねをなふみそね(会話) 2019年5月23日 (木) 00:49 (UTC)
コメント これは時間をかけて検討したほうがいいと思います。それに、Wikipedia:改名提案への記載と{{改名提案}}の添付もありませんし、Wikipedia:統合提案への記載と{{統合提案}}の添付もありません。また、初版立項者の利用者:McYataさんがアクティヴのようですので、エチケットとして、声をかけて意見を伺ってみたほうがよいと思います。この記事が後ウマイヤ朝の一時期を指しているだけというのは全くもってその通りなのですが、W.M.ワット著、黒田壽郎・柏木英彦訳『イスラーム・スペイン史』岩波書店、1976年4月 では、「ウマイヤ朝アミール領」という用語が使用されていますし、ハンス・ユルゲン・マルクス「正しい戦争はあるか―歴史の答え―」『南山神学』27号(2004年2月)pp. 1-43 には、「コルドヴァ首長国」([バ]じゃなくて、何故か[ヴァ])という表記があります。英語の文献ですと、The Emirate of Córdoba という名称が割と使用されているので、「日本の学界ペディア」になってしまうとWP:JPOV違反の恐れもあるような気がしています。ということで、慌てずのんびりやりましょう。--Takabeg(会話) 2019年5月24日 (金) 13:32 (UTC)
- コメント 初版作成者です。クレタの議論も読ませていただきました。1年前にこれを立項した経緯としては、en:Emirate of Córdobaを読んで「カリフを名乗って初めて後ウマイヤ朝と言える、なるほど外国ではそういう捉え方が一般的なのか」と感じて、そこまで深く調べることもなく翻訳してしまった、というのが正直なところです。日本では君主がカリフでもアミールでも、独立国でも従属国でも、とりあえず「朝」と呼ぶようになっていますから、名乗りが変わっただけで新たな歴史記事を作るのは難しいのかもしれません。後ウマイヤ朝の建国年について他言語版を見てみると、スペイン語版や英語版をはじめ多くが929年(Emirate of Córdobaの後継とみなす)としている一方で、アラビア語版は日本語版と同じく756年(アッバース革命直後から)をとっているようです。個人的には、世界的に比較的広く使われている概念として記事を残し、研究史を載せるという形が良いと思うのですが、Emirateの適当な訳が定まらず訳例もほとんどないとなると、統合でも仕方ないのではないでしょうか。それと別件になりますが、この記事を作った頃に関連人物記事をいくつか作ったのですが、アラビア語理解の不足のため、誤ったタイトルばかりをつけてしまいました。そのため、今になってねをなふみそねさんとTakabegさんのお手を煩わせることになってしまっています。大変申し訳ありません。--McYata(会話) 2019年5月25日 (土) 02:33 (UTC)
- @McYataさん、本件の場合、「誤ったタイトル」というのは言い過ぎです。例えば、R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図 The Hamlyn Historical Atlas』東京書籍、昭和57年4月1日 第1版発行、0020-553050-5313、49頁:「22 カール大帝の帝国」には「コルドバ首長国」とあります。Emirate of Cordoba という英語の日本語訳は、たいてい「コルドバ首長国」になるということだと思います。また、前嶋信次『イスラムとヨーロッパ: 前嶋信次著作選 2』平凡社、2000年7月1日発行、ISBN 4-582-80673-2、189頁。「アブドル・ラフマーン一世とその子孫とがアミールの称号のもとにコルドバの都に君臨したので、これを「コルドバのアミール時代」と呼び、イベリアのイスラム時代史の第二期とする。」、カロリーナ・ドメネク=ベルダ「9世紀の西地中海-古銭学のデータから」『人文學』第二百二号、2018年11月、同志社大学人文学会。では、「アル・アンダルスのアミール期」、「アミール期」という用語が使用されています。帝国書院=ウェスターマン社『世界歴史地図 Atlas of World History』帝国書院、昭和57年4月1日発行、では、46頁の「コルドバ回教国」と48頁の「コルドバ=カリフ国」とを使い分けています。したがって、「コルドバ首長国」、「コルドバ・アミール国」、「コルトバのアミール時代」、「アンダルスのアミール期」などなど記事名の候補はいくつかあると思いますが、単独立項することについては、その特筆性に問題がないと考えます。「後ウマイヤ朝」の扱いについてですが、『ブリタニカ国際大百科事典 第2巻』 (嶋田襄平)、『アジア歴史事典 第1巻』 (小林元)、『世界歴史事典 第1巻』 (嶋田襄平)では「ウマイヤ朝」の中で「後ウマイヤ朝」が解説されています。『日本大百科全書 第8巻』(花田宇秋)、『世界大百科事典 第9巻』 (私市正年) では「後ウマイヤ朝」が単独立項されていますが、情報量としては若干少なめな感じです。「後ウマイヤ朝をウマイヤ朝に統合しよう」と提案する利用者は余りいないと思いますが、参考までに。--Takabeg(会話) 2019年5月25日 (土) 16:25 (UTC)
- 増田義郎日本語版監修『大陸別世界歴史地図1 ヨーロッパ大陸歴史地図』東洋書林、2001年6月1日 第1刷発行、ISBN 4-88721-503-7、67頁:「カール大帝の帝国 814年」では、「コルドバ回教国」、69頁:「火と剣―異教徒との戦い 910年頃」では、「コルドバ回教国」、78頁:「スペイン・レコンキスタ」では「コルドバ・カリフ国」となっています。--Takabeg(会話)
- 返信 (Takabegさん宛) ええ、コルドバ首長国という(もしくはそれに類する)用例が実際にあるのは、既に前のTakabegさんのコメントで理解しております。あくまでも「別件」として、関連項目で行われている改名提案に触れて「誤ったタイトル」と言っただけです。当項目のページ名と内容に関する議論については、お二人が深めている状況ですので、もう私のような浅学がコメントできることは無いです。すみません。この機会に、しっかり学ばせていただきたいと思います。--McYata(会話) 2019年5月26日 (日) 05:31 (UTC)
- 「余り謙遜なさらずに」という趣旨で書きました。何か誤解を与えてしまったようでしたら申し訳ありません。それと、私も本件に関しては「素人」ですので、一緒に意見交換ができたら幸いです。--Takabeg(会話) 2019年5月26日 (日) 14:19 (UTC)
- 返信 (Takabegさん宛) ええ、コルドバ首長国という(もしくはそれに類する)用例が実際にあるのは、既に前のTakabegさんのコメントで理解しております。あくまでも「別件」として、関連項目で行われている改名提案に触れて「誤ったタイトル」と言っただけです。当項目のページ名と内容に関する議論については、お二人が深めている状況ですので、もう私のような浅学がコメントできることは無いです。すみません。この機会に、しっかり学ばせていただきたいと思います。--McYata(会話) 2019年5月26日 (日) 05:31 (UTC)
- 他言語版を覗いてみました。「カリフ国」系のタイトルで「929年-1031年」をカヴァーするものが多数派ですが、「カリフ国」系のタイトルで「756年-1031年」をカヴァーしているのが、hu:Córdobai Kalifátus、no:Córdoba-kalifatet、mk:Кордопски Калифат、lt:Kordobos kalifatas、eu:Kordobako Kalifa-herria、ro:Califatul Córdoba、arz: الدوله الامويه فى الاندلس、sq:Hilafeti i Kordobës、ta:குர்துபா கலீபகம்です。「後ウマイヤ朝」系はko:후우마이야 왕조 (日帝残滓?)とzh:后倭马亚王朝です。少しかわっているのは、tr:Endülüs Emevî Devletiで、これは「アンダルス・ウマイヤ国」というタイトルの下、エミール時代とカリフ時代とをカヴァーしています。--Takabeg(会話) 2019年5月25日 (土) 16:25 (UTC)
- 肝心のアラビア語版は ar:الدولة الأموية في الأندلس。 直訳すると「アンダルスのウマイヤ家の国」で、日本語で言う「後ウマイヤ朝」と大体同じ概念を指すと言っていい。さらに arwpには Emirate of Cordoba に相当する概念がありません。日本の歴史学者の歴史認識は、欧米世界よりはイスラーム世界の歴史認識に近いようです。ところで、とりあえず、統合で処理する路線はなしということでよろしいでしょうか。改名提案タグを貼ります。--ねをなふみそね(会話) 2019年5月26日 (日) 01:55 (UTC)
- アラビア語版のar: إمارة قرطبة (Emirate of Cordoba)は、ar: الأندلس#الإمارة الأُمويَّة (إمارة قُرطُبة) (アンダルス) にリダイレクトされています。--Takabeg(会話) 2019年5月26日 (日) 14:19 (UTC)
コメント クレタの方の調査にかなり関わったこともあり、一応コメントさせていただきます。関連する書籍のこの時代についての言及を下部表の通り確認しました。つらつらと眺めていての感想ですが、
- 原則として「コルドバ首長国」という用語は日本の学界では使用されない(Takabegさん紹介の出典も、著者が明らかにアンダルス史を専門にしておらず、Emirate of Cordobaを直訳した可能性大だと思います)
- 「後ウマイヤ朝」政権をアミール位とカリフ位の使用によって区別する方法は少なくとも日本語の出典では一般的ではない(つまり「コルドバ首長国」に該当する概念は基本的に使用されない)。
- 「後ウマイヤ朝」という用語は一般的であるが、排他的に使用されるほどではない。特に訳書ではあまり使用されていない傾向がある。
- 一般的にイベリア半島のムスリム政権を指す用語として包括的に使用されているのは「アンダルス」「アル=アンダルス」であり、711年の西ゴート王国征服から11世紀の後ウマイヤ朝の崩壊まで一貫して使用される傾向がある。
- 「 アンダルス」が「ムスリム支配」を体現した用語であることは、同時代のキリスト教徒諸侯に意識されていた。
- 「後ウマイヤ朝」に該当する政権とそれ以前のムスリム政権は同時代中には厳密に区別されていなかった。むしろ後世になって整理が行われている。
- というような感じです。前嶋信次氏の分類になる「アミール期」を区分する方法は、実際のところあまり一般的に採用されているようには見えず、特にスペインの通史で使用されていないのが気になります。日本語の後ウマイヤ朝の用例が原則的にはアブド・アッラフマーン1世以降を指すことを考えれば、個人的にはこの「アミール期」は現状では少数の学者の「見解」に過ぎず、「後ウマイヤ朝」の記事内に内包されるべきではないかと思います。どの書籍でもアブド・アッラフマーン3世によるカリフ位の使用を画期として扱ってはいるので、外国語版との対応は難しいところではありますが・・・。
- この記事のあり様について、個人的にはねをなふみそねさんの見解に近く、「アンダルスのアミール」などの記事名に変更した上で、統治者理念(王権概念)や日本と諸外国での研究動向、取り扱いの違いなどに触れる記事にし、「コルドバ首長国」自体は後ウマイヤ朝、またはアンダルスへのリダイレクトにするのがすっきりするのではないかと考えます。少なくとも日本語の各種書籍から考える限り、「アミール期」の記事を「後ウマイヤ朝」の記事と共に併存させるのは、マムルーク朝の記事とバフリー朝・チェルケス朝の記事を併存させるような違和感を感じます。
- ちなみに、初版立項者に何ら手のつけようのない完璧な記事の投稿が求められているわけではないので、McYataさんが改名議論を「手を煩わせる」と認識する必要はないと思います。対象の記事に健全な加筆活動が続けられているというだけですし、Wikipedia外の話ではありますがモンゴルの四汗国が諸ウルスとイル・ハン朝という呼称に代わっていったように、より適切度の高い名称への変更は歴史分野では適時行われるものだと思います。--TEN(会話) 2019年5月27日 (月) 08:16 (UTC)
著者 | タイトル | 発行 | 内容 | 備考 |
---|---|---|---|---|
756年以降を「後ウマイヤ朝」と分類する | ||||
佐藤健太郎 | スペイン史 1(世界歴史大系) | 2008 | ムスリムの征服以降は基本的には「アンダルス」など、厳密な用語は用いない。756年以降「後ウマイヤ朝」として言及。カリフ位宣言を画期とするが、厳密な時代区分を行わない。 | |
安達かおり | イスラム・スペインとモサラベ | 1997 | イベリア半島のムスリム政権を「アンダルス」と呼びその歴史を「属州期」(711~)「後ウマイヤ朝」(756~)に分ける | イベリアのムスリム政権の王権概念について記述あり。 |
佐藤次高 | イスラーム世界の興隆(世界の歴史 8) | 1997 | 756年以降「後ウマイヤ朝」。カリフ位宣言を画期とするが、厳密な時代区分を行わない。 | |
阿部俊大 | レコンキスタと国家形成 | 2016 | イベリアのカリフ政権について「後ウマイヤ朝」「イスラーム勢力」など。アミール期については言及がない。 | 対象とする時代が異なりあまり参考にならない。 |
黒田祐我 | レコンキスタの実像 | 2016 | イベリアのムスリム政権について「後ウマイヤ朝」。より一般的には「アンダルス」 | キリスト教側がムスリムのイベリアを指す「アンダルス」という概念に抵抗して西ゴート王国からの継続性の主張、新ゴート主義を展開したことについての言及あり。 |
林邦夫 | 西欧中世史研究入門 増補改訂版 | 2005 | イベリアのムスリム政権について「後ウマイヤ朝」、アミール・カリフ位による区分は行わない | 英独仏中心に書かれていてイベリアの記述は解像度が低い |
D・W・ローマックス | レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動 | 1996 | 756年以降「後ウマイヤ朝スペイン」など。文脈により「アンダルス」など。またアミール時代とカリフ時代で特に時代区分は行わない | 戦争が主題の書籍。 |
厳密な名称を与えない | ||||
柴修身 | 古都トレド 異教徒・異民族共存の街 | 2016 | 後ウマイヤ朝時代以前は対象外。11世紀以前のムスリム権力・社会に触れる際は「アル=アンダルス」等と呼称。 | |
永川玲二 | アンダルシーア風土記 | 1999 | イベリアのムスリム政権は一貫して「アル=アンダルース」。王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」。「後ウマイヤ朝」という呼称を使用しない。 | 2014年オンデマンド版で確認 |
余部福三 | イスラーム全史 | 1991 | イベリアのムスリム政権は「アンダルス」、王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」 | |
余部福三 | アラブとしてのスペイン | 1992 | イベリアのムスリム政権は「アンダルス」、王家に触れる場合には「ウマイヤ朝」 | |
シドファル | アンダルシア文学史 | 1983 | イベリア半島のムスリム権力に固有の名称を与えず、厳密な時代区分もしない。必要がある時は「アミール体制」などと呼称 | 政治史や社会史を対象にした書籍ではない。 |
Ch-E・デュフルク | イスラーム治下のヨーロッパ 衝突と共存の歴史 | 1997 | イベリア半島のムスリム権力に固有の名称を与えず、厳密な時代区分もしない。必要がある時は「ムスリム」などと呼称 | |
C・サンチェス・アルボルノス | スペインとイスラム あるヨーロッパの中世 | 1988 | イベリア半島のムスリム権力に固有の名称を与えず、必要がある時は「アンダルス」「独立アミール領」などと呼称 | 人名表記が恐らくスペイン語訛カナ転写(アブド・アッラフマーン⇒アブデラマン) |
W・M・ワット | イスラーム・スペイン史 | 1976 | 756年以降「ウマイヤ朝アミール領」、912年以降「ウマイヤ朝カリフ」 | |
フィリップ・K・ヒッティ | アラブの歴史(下) | 1983 | イベリアのムスリム政権は本文中では明確な名前を与えられず「アミール権」「カリフ権」等の用語で言及。節名は「スペインのウマイヤ家アミール領」「コルドヴァのウマイヤ朝カリフ権」 | |
その他、参考にあまりならないもの。 | ||||
本田寛信 | イスラム世界の発展(ビジュアル版世界の歴史6) | 1985 | 756年に「いわゆる後ウマイヤ朝を開き~」という記述がある。 | イベリア半島の記述は貧弱であまり参考にならない。 |
板垣雄三 | 図説世界文化地理大百科 イスラム世界 | 1988 | 「スペインのウマイヤ朝」という言及があり。 | イベリア半島の記述は貧弱であまり参考にならない。 |
返信 (ねをなふみそねさん宛) 佐藤次高氏による「歴史の中のイスラーム教徒」とのことですが、『新イスラム事典』2002年3月11日 初版第1刷発行、ISBN 4-582-12633-2、21頁。総説「歴史の中のイスラム教徒」のなかの「イスラム帝国の分裂―カリフの鼎立」(この箇所は、佐藤さんではなくて嶋田襄平さんが書いているのではないかと思われます)には、「しかし756年にはウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、コルドバに自立してウマイヤ朝を再興した。これを後ウマイヤ朝と呼ぶのは、日本だけの慣用である。コルドバのウマイヤ朝は、、、」とあります。後ウマイヤ朝にソースとして添付しておいたほうがよいかもしれません。それと、かつてノート:後ウマイヤ朝でも議論があったようです。--Takabeg(会話) 2019年5月28日 (火) 12:04 (UTC)
返信 (TENさん宛) 「マムルーク朝の記事とバフリー朝・チェルケス朝の記事を併存させるような違和感を感じます。」とのことですが、日本語では「○○朝」を使いすぎなんです。マムルーク朝は「国家」「ダウラ」で、バフリー朝とかブルジー朝とかは (血族ではないですけど)、「王朝」「スラーレ」です。ザックリ言うと、イングランド王国に、ノルマン朝、プランタジネット朝、テューダー朝などがあったのと似たようなものです。ただ、バフリー朝とブルジー朝に分ける問題と「アミール時代」と「カリフ時代」とに分ける問題とでは、少し次元が違うお話だと思います。--Takabeg(会話) 2019年5月28日 (火) 12:04 (UTC)
- 返信 マムルーク朝の例が歴史学的には次元の違う話だということはもちろんその通りだと思います。ここで私が感じる違和感は、Wikipediaの記事として両者を並立させた場合、そのままでは内容がほとんど同じ(あるいは部分の抽出)になる点です。また、日本語でほとんど用例のない「コルドバ首長国」(またはそれと同一概念を示す何等かの名前)の記事と、欧米における慣用的な理解と一致しないものの日本語では普及している「後ウマイヤ朝」という記事が併存するのはいろいろとわかりづらく、また記事ごとの記述範囲分担も困難と思います。なので、政治勢力としての「コルドバのムスリム政権」の記述は後ウマイヤ朝の記事に集約してしまい、日本と欧米での理解の差などは、ねをなふみそねさんの最初の提案にあるように本記事の改名後の記事で「日本と世界の歴史学界の研究史に軽く触れる」という形が綺麗かなと思う次第です(もっともここは私は貢献できないかもしれませんが^^;)。
- あるいは、無理に「コルドバのムスリム政権」の記事を作らずに、そうした説明は「アンダルス」に置くのもありかもしれないとも思います。この場合、最初に指摘されているように、wikidata:Q1337854に対応する日本語版の記事が無くなる、という問題はあるので、やや強引ですがコルドバ首長国をリダイレクトではなく曖昧さ回避にしてアンダルスと後ウマイヤ朝に分岐させる、というような形式も取り得るかもしれないと思います。
- 端的に言って「Emirate of Córdoba」の記事が存在するのであれば、対応する「Caliphate of Córdoba」の記事が必要で、それは「後ウマイヤ朝」とは違う、という考えです。故に「コルドバ首長国」と「後ウマイヤ朝」の記事は併存させるのに相応しくないと思います。しかし、「Emirate of Córdoba」「Caliphate of Córdoba」・・・(例えば「アンダルスのアミール領」「西カリフ国」というような感じになるでしょうか・・)という記事構成にするのは、日本語の出典による限り「Wikipedia独特の書き方」という感が強くなるのではないかと思います。--TEN(会話) 2019年5月28日 (火) 15:49 (UTC)