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「国民革命軍」の版間の差分

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北伐 -> 北伐 (中国国民党) {{出典の明記|date=2019年4月}}
 
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'''国民革命軍'''(こくみんかくめいぐん、{{ピン音|Guómín Gémìng Jūn}})は[[1925年]]から[[1947年]]まで[[中国国民党]]の軍であり、[[1928年]]からの中国国民党による[[一党制]]の期間には[[中華民国]]の[[国]]でもあった。
'''国民革命軍'''(こくみんかくめいぐん、{{ピン音|Guómín Gémìng Jūn}}、{{lang-en| National Revolutionary Army}})は[[1925年]]から[[1947年]]にかけて存在した[[中国国民党]]の隊。1925年に当時の[[国民政府]]本拠地の[[広東省 (中華民国)|広東省]]で建された。


[[コミンテルン]]の支援がその背景にあり、その前年に[[国共合作|第一次国共合作]]が成立していた。[[1926年]]からの[[北伐 (中国国民党)|北伐]]で[[北京政府]]を倒し、[[1928年]]に[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の開府後は国軍になった<ref name="kk">{{Cite web|url=https://kknews.cc/history/l6n8q2.html|title=制服誘惑:國民黨軍隊戎裝變遷|author=每日頭條|date=2016-01-21|accessdate=2019-10-20}}</ref>。なお、[[蔣介石]]は[[北伐 (中国国民党)|北伐]]中に[[コミンテルン]]との決別を宣言して[[反共主義|反共]]化している。
元々は[[軍閥]]割拠の状態であった中国を国民党が統一する目的を持って[[ソビエト連邦]]の援助で組織され、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では[[北洋軍閥]]と、[[日中戦争]]では[[日本軍]]と、さらに[[国共内戦]]では[[中国人民解放軍]]との主な会戦を戦った。


[[1937年]]に[[日中戦争]]が始まると[[第二次国共合作]]が成立し、[[1945年]]まで[[日本軍]]と交戦した。当時の日本側は主に'''国民党軍'''と呼び、1940年の[[汪兆銘政権]]成立後は'''重慶軍'''と呼んでいた。日本軍降伏後の1945年9月から[[国共内戦]]が始まり、中国大陸の支配権を巡って[[中国人民解放軍|中国共産党軍]]と交戦した。[[1947年]]の[[中華民国憲法]]の発布に伴い、国民革命軍は[[中華民国国軍]]に改称した。共産党側の攻勢によって中国大陸の国民党支配地域がほぼ消滅した[[1949年]]に、[[台湾]]へ転進した。
日中戦争期には指揮は別ながら[[中国共産党]]の軍隊は名目上は国民革命軍に編入されていたが、国共内戦時には中国人民解放軍を組織するため分離された。

[[1947年]]の[[中華民国憲法]]の発布と[[ユーラシア大陸|大陸本土]]の中国国民党支配域がほぼ消滅した事により、国民革命軍は[[中華民国国軍]]と名称を変え、[[1949年]]に[[台湾]]へ逃れた。
日本では[[国民政府]]軍、国府軍、国民党軍、[[重慶市|重慶]]軍などと呼んでいた。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
1925年、[[中国国民党]]は[[広東省 (中華民国)|広東省]]に[[広州国民政府 (1925年-1926年)|広州国民政府]]を設置し、その実働部隊である国民革命軍が建軍された。これはほぼ[[コミンテルン]]の支援によるものだった。その前年に[[第一次国共合作]]が成立しており、[[中国共産党|中国共産党員]]が国民党に加入していた。コミンテルンの目的は共産党員を「[[細胞 (政党)|細胞]]」として国民党に植え付けておき、[[オルグ (社会運動)|オルグ]]活動で共産[[シンパ]]を増やしてゆくゆくは乗っ取らせるための寄生先として利用することにあった。将校の多くは[[黄埔軍官学校]]の卒業生であり、その初代校長であった[[蔣介石]]が最高指揮官に就任した。著名な指揮官に[[杜聿明]]や[[陳誠]]がいた。1926年から[[北京政府]]を倒して中国全土を統一するための[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が開始されたが、早くも1927年に共産党員が[[上海クーデター]]と[[南昌蜂起]]を起こしたので、蔣介石は[[コミンテルン]]との決別を宣言して共産党員を弾圧対象にした。
国民革命軍は、北伐により[[中国]]を統一することを使命とする軍隊として1925年に[[中国国民党]]によって建軍された。[[コミンテルン]]の支援を得て組織され、[[三民主義]]のイデオロギーに基づき指導が行われ、党、政府、軍の区別がはっきりしないことが度々あった。軍の[[将校]]の多くは[[黄埔軍官学校]]を卒業し、この学校の最初の校長であった[[蒋介石]]は1925年、後に成功する北伐が開始される前に国民革命軍の[[最高指揮官]]に就任した。国民革命軍の有名な[[司令官]]には蒋介石以外にも[[杜聿明]]と[[陳誠]]がいた。

1928年、蔣介石は[[北京政府]]の攻略に成功して表向き中国全土を統一し、[[南京市|南京]]を首都とする[[国民政府|南京国民政府]]が中国の中央政府となったが、すぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた[[中原大戦]]において決定的勝利を収めるも混乱の収束までは到らなかった。1931年の[[満洲事変]]で日本軍が[[満洲]]全土を占領し、[[毛沢東]]も[[江西省 (中華民国)|江西省]]に[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト政府]]を打ち立てていた。共産党を最危険視していた蔣介石は総力を挙げて江西省を攻撃し、1934年に[[瑞金市|瑞金]]を包囲した。進退窮まった毛沢東は瑞金を脱出して[[長征]]を開始し、1936年に[[陝西省 (中華民国)|陝西省]]まで辿り着いたが、蔣介石はこれを追い詰めて再び大軍で共産党軍を包囲した。この時の戦力比は国民革命軍200万に対して共産党軍は1万人程であった。しかし同年12月に[[西安事件]]が発生して友軍の[[張学良]]に監禁された蔣介石は、共産党軍との休戦と[[統一戦線|抗日統一戦線]]の結成を承諾した。

1937年、[[盧溝橋事件]]から[[日中戦争]]が始まると、[[第二次国共合作]]が成立して、[[共産党軍]]は華北の[[八路軍]]と華南の[[新四軍]]に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に[[南京市|南京]]が陥落すると国民政府は[[重慶市|重慶]]に退却した。日中両軍の泥沼の戦いが続く中で、[[毛沢東]]は農村から都市部にかけての民衆の支持層を増やして急速に共産勢力を拡大していた。1945年に日本軍が降伏すると国民革命軍から八路軍が分離して国共合作は破られ、1946年に[[国共内戦]]の火蓋が切られた。1947年に国民革命軍は中華民国国軍に改称した。この内戦では共産党側が優勢になり、敗退を重ねて[[広州市|広州]]まで追い詰められた蔣介石は、生き残った中華民国国軍部隊とともに[[台湾]]に転進し、政府を[[台北市|台北]]に移した。


[[日中戦争]]の時期には[[中国共産党]]の軍隊は名目上は国民革命軍の一部として[[八路軍]]と[[新四軍]]を組織して戦ったが、この協力体制は後に崩壊した。中国の国共内戦において国民革命軍には、[[脱走兵]]の発生や、多数の[[部隊]]が部隊ごと中国共産党側に寝返るという問題を抱えていた。[[1949年]]に人民解放軍に敗北した後は台湾に逃れ、後に[[中華民国国軍]]と名称を変え、今日に至っている。
== 組織 ==
== 組織 ==
=== 概要 ===
=== 概要 ===
[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]]
[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]]
[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の時代、[[漢口]]の英国租界の中へ行進する国民革命軍兵士]]
[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の時代、[[漢口]]の英国租界の中へ行進する国民革命軍兵士]]
国民革命軍はその存続した期間を通して370個の標準[[師団]] (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の[[騎兵]]師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個の師団に、およそ430万人の正規兵を入隊させた。実際には多くの師団はふたつ以上の別の師団から構成され、同時に活動してなかった。また、新師団は戦争初期に失われた標準の師団に代わるものとして編成され、古い師団の番号が与えられた。ゆえにどの時代でも活動していた師団の数は前述の総数よりかなり少ない。
国民革命軍はその存続した期間を通して370個の標準[[師団]] (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の[[騎兵]]師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個の師団に、およそ430万人の正規兵を入隊させた。実際には多くの師団は複数の師団を統合するたちで編成されたものですべてが同時に活動していたわけではない。また、新師団は戦争初期に失われた標準の師団に代わるものとして編成され、古い師団の番号が与えられた。ゆえにどの時代でも活動していた師団の数は前述の総数よりかなり少ない。記録によれば、[[1941年]]の中国では380万人の兵士がおり、246個の師団は最前線に、70個の師団が後方に配置されていた

記録によれば、[[1941年]]の中国では380万人の兵士がおり、246個の師団は最前線に、70個の師団が後方に配置されていた。

国民革命軍の師団は普通、5,000 - 6,000の兵からなったが、[[日本軍|日本]]を含めた他国の師団なら10,000 - 15,000の兵を擁した。[[中独合作]]の下、ドイツ式の訓練を受けた師団は14,000の定員から成った<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>。


国民党政権直属の部隊と[[軍閥]]や共産党軍から編入した部隊は装備・練度・規律に大きなばらつきがあった。
国民革命軍の師団は普通、5,000 - 6,000の兵からなったが、[[日本軍|日本]]を含めた他国の師団なら10,000 - 15,000の兵を擁した。[[中独合作]]の下、ドイツ式の訓練を受けた師団は14,000の定員から成った<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>。国民党直属の部隊と地方[[軍閥]]や共産党軍から編入した部隊の間には装備・練度・規律に大きなばらつきがあった。


兵員の募集では、[[戸籍]]が整備されていなかったので恣意的な[[徴兵制|徴兵]]が行われ、兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。兵士には給与や食糧もろくに支給されず、各兵士が武器を使って一般市民を脅し、金品を徴発するのが兵士の[[権利]]考えられていた。兵士による一般市民の暴行、[[強姦|レイプ]]も頻繁に起き[[人]]珍しくなかった兵士の戦意低く、殆ど兵が常に逃亡の準備に[[便衣]]を隠し持っていた。[[戦闘]]では兵士を監視する為に頻繁に[[督戦隊]]が組織され、逃亡する兵士を射殺した。その他に兵士の逃亡を防ぐ為に、兵士が入った[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に鎖で兵士を繋ぎ止めることなど実行された。
兵員の募集では、[[戸籍]]が整備されていなかったので恣意的な[[徴兵制|徴兵]]が行われ、町の溜まり場などで兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような狩りが横行していたという。兵士への給与や食糧支給は不十分で、各兵士が武器を使って一般市民から金品を略奪するも頻発していた。兵士による一般市民の暴行も頻発しており、殺ったといわれる。兵士たち士気と戦意は概ね低く、戦闘中の逃亡も多発しており、便衣行為もよく見られた。一方で広州や武漢などの都市で徴兵された部隊のモラルは高く、広西省出身の部隊は勇猛さで知られていた。[[戦闘]]では兵士を監視する為に頻繁に[[督戦隊]]が組織され、逃亡する兵士を射殺した。その他に兵士の逃亡を防ぐ為に、兵士が入った[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に鎖で兵士を繋ぎ止めることなど実行されたといわれる。そのため、西洋の軍事批評家の多くは国民革命軍が全体として[[20世紀]]の軍隊というより[[19世紀]]を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>

そのため、西洋の軍事批評家の多くは国民革命軍が全体として[[20世紀]]の軍隊というより[[19世紀]]を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>。


=== 主力部隊 ===
=== 主力部隊 ===
[[ファイル:Wuhan german divs.jpg|thumb|ドイツ式装備をした国民革命軍]]
[[ファイル:Wuhan german divs.jpg|thumb|ドイツ式装備をした国民革命軍]]
国民革命軍の主力部隊となったのは、[[中独合作|ドイツ軍事顧問団]]によってドイツ式訓練と装備をした8個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第36師、第87師、第88師、予備師団である。その他にもドイツ式訓練をうけ、中国式装備をした12個の師団があった。<br/ >
国民革命軍の主力部隊となったのは、[[中独合作|ドイツ軍事顧問団]]によってドイツ式訓練と装備をした8個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第36師、第87師、第88師、予備師団である。その他にもドイツ式訓練をうけ、中国式装備をした12個の師団があった。

残りの師団は元軍閥に所属していたため、定員割れであり、概して訓練もされていなかった。約40個程度の国民革命軍の師団には欧州製の装備が配備された。<br/ >
残りの師団は元軍閥に所属していたため、定員割れであり、概して訓練もされていなかった。約40個程度の国民革命軍の師団には欧州製の装備が配備された。<br>


=== 機械化部隊 ===
=== 機械化部隊 ===
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機甲連隊と火砲連隊は第五軍の直接の指揮下に置かれ、第200師は同じ軍の[[機械化歩兵]]師団になった。この軍は車両の損失と機械の故障のため装甲部隊を減らしながら[[1939年]]から[[1940年]]にかけては[[広西省]]の[[賓陽作戦|桂南会戦]]、[[1942年]]には[[雲南省|雲南]]・[[ミャンマー]]における会戦を戦った。
機甲連隊と火砲連隊は第五軍の直接の指揮下に置かれ、第200師は同じ軍の[[機械化歩兵]]師団になった。この軍は車両の損失と機械の故障のため装甲部隊を減らしながら[[1939年]]から[[1940年]]にかけては[[広西省]]の[[賓陽作戦|桂南会戦]]、[[1942年]]には[[雲南省|雲南]]・[[ミャンマー]]における会戦を戦った。
[[ビルマの戦い]]の遅い時期、現地の国民革命軍は[[M4中戦車|シャーマン戦車]]が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。
[[ビルマの戦い]]の遅い時期、現地の国民革命軍は[[M4中戦車|シャーマン戦車]]が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。

== 編制単位 ==
国民革命軍の編制単位と序列は、以下の通りである。[[戦区]]は[[日中戦争]]が始まった1937年7月から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を管理した。1938年末以降は10区以上になった。兵力の多い戦区では兵団が設けられた。1944年末に設置された[[中国陸軍総司令部]]は戦区と同等であり、[[インドシナ半島|インドシナ]]と[[華南]]方面でアメリカ陸軍イギリス陸軍と共同作戦するための組織だった。作戦上の基本単位は集團軍であり、戦術上の基本単位は軍であった。

# '''国民政府軍事委員会'''
# '''行営''' -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。1個以上の戦區を指導した。
# '''戦區''' -- 一定の作戦区域を受け持ち、複数の集團軍とその他を持った。
#* '''兵團''' -- 兵力の多い戦區を分割指揮するために設置された。
# '''集團軍''' -- 2個以上の軍とその他を持った。戦時用の編制単位。1926~28年と1937~45年に存在。
#* '''路軍''' -- 1個以上の軍とその他を持った。平時用の編制単位。1929~37年に存在。
#* '''方面軍''' -- [[北伐 (中国国民党)|北伐]]時の集團軍下のものは1926~28年に存在。2個以上の軍を指揮した。[[中国陸軍総司令部]]下のものは1944~45年に存在。
#* '''軍團''' -- 1928年から存在。1928年は蒋介石直属の小型集團軍だった。1932年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位になった。1937年以降は集團軍の小型版になり1個以上の軍とその他を持った。
# '''軍''' -- 軍団。通常2個の師を基盤にし、それに砲兵團や工兵團などの支援を付けた。
# '''師''' -- 師団。教導團(全兵員を教化する模範部隊)を中核にし、通常2個の旅を持った。歩兵師と騎兵師があった。
#*'''独立旅''' -- 旅を増強した師の小型版。
# '''旅''' -- 旅団。通常2個の團を持った。歩兵旅と騎兵旅があった。
# '''團''' -- 連隊。ここから全軍中の通し番号が振られた。
# '''營''' -- 大隊
# '''連''' -- 中隊
# '''排''' -- 小隊
# '''班''' -- 分隊

指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団と集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮であった。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長、營長、連長、排長、班長であった。


== 軍階 ==
== 軍階 ==
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!|階級
!|階級
!|右に示された階級章の兵科色
!|军兵种
!|階級章の例
!|肩当て
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!rowspan=5|将官
!rowspan=5|将官
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!rowspan=3|校官
!rowspan=3|校官
|[[上校]]
|[[上校]]
|[[兵]]
|[[兵]]
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|[[中校]]
|[[中校]]
|[[兵]]
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|[[File:12陆军中校.png|100px]]
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|[[少校]]
|[[少校]]
|[[兵]]
|[[兵]]
|[[File:11陆军少校.png|100px]]
|[[File:11陆军少校.png|100px]]
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|-
!rowspan=3|尉官
!rowspan=3|尉官
|[[上尉]]
|[[上尉]]
|[[军乐]]
|[[軍楽隊]]
|[[File:10陆军上尉.png|100px]]
|[[File:10陆军上尉.png|100px]]
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|[[中尉]]
|[[中尉]]
|[[兵]]
|[[兵]]
|[[File:09陆军中尉.png|100px]]
|[[File:09陆军中尉.png|100px]]
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|[[少尉]]
|[[少尉]]
|測量兵
|[[测绘]]
|[[File:08陆军少尉.png|100px]]
|[[File:08陆军少尉.png|100px]]
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|-
!rowspan=1|准軍官
!rowspan=1|准軍官
|[[准尉]]
|[[准尉]]
|[[兵]]
|[[兵]]
|[[File:07陆军准尉.png|100px]]
|[[File:07陆军准尉.png|100px]]
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!rowspan=3|士官
!rowspan=3|士官
|[[上士]]
|[[上士]]
|[[军]]
|
|[[File:06陆军上士.png|100px]]
|[[File:06陆军上士.png|100px]]
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|-
|[[中士]]
|[[中士]]
|[[军医]]
|[[衛生兵]]
|[[File:05陆军中士.png|100px]]
|[[File:05陆军中士.png|100px]]
|-
|-
|[[下士]]
|[[下士]]
|[[讯]]
|通信兵
|[[File:04陆军下士.png|100px]]
|[[File:04陆军下士.png|100px]]
|-
|-
144行目: 162行目:
|-
|-
|[[一等兵]]
|[[一等兵]]
|[[机械化部队]]
|械化部
|[[File:02陆军一等兵.png|100px]]
|[[File:02陆军一等兵.png|100px]]
|-
|-
|[[二等兵]]
|[[二等兵]]
|[[兵]]
|[[兵]]
|[[File:01陆军二等兵.png|100px]]
|[[File:01陆军二等兵.png|100px]]
|}
|}

=== 軍編成 ===
国民革命軍の単位の構造は以下の通りである。各単位はそのすぐ上の単位に対して必ずしも下位であるわけではないことには注意が必要である。例えばいくつかの連隊(團) は軍集団(集團軍)の下位に置かれたことが分かっている。

'''国民政府軍事委員会'''<br/ >
'''最高司令官'''<br/ >
[[蒋介石]] [[1925年]] - [[1947年]]
* [[軍区]] ×12(軍區)
** [[兵団]] ×4(兵團)
*** [[軍集団]] ×40(集團軍)
**** [[方面軍]] (路軍)
***** [[軍]] ×30(軍)
****** [[軍団]] ×133(軍團)
******* [[師団]] (師)
******** [[旅団]] (旅)
********* [[連隊]] (團)
********** [[大隊]] (營)
*********** [[中隊]] (連)
************ [[小隊]] (排)
************* [[分隊]] (班)


== 装備 ==
== 装備 ==
{{main|軍服 (中華民国)}}
{{main|軍服 (中華民国)}}


中国の武器は主に[[漢陽区|漢陽]]、[[広東]]、及び[[太原]]で生産された。ただしドイツ人に訓練された師団のほとんどが標準とした小銃は7.92mmの[[Gew98]]と[[Kar98k]]というドイツ製であった。しかし、中国の通常の師団ではその標準の小銃は'[[漢陽88式小銃]]'という[[:en:Gewehr 1888|Gew88]]のコピーと'[[中正式歩槍|中正式小銃]]'という[[:en:Gewehr 1898|Gew98]]のコピーであった。標準の[[軽機関銃]]は7.92mmの[[ZB26 (機関銃)|ZB26軽機関銃]]というチェコ製の中国におけるコピーであった。ベルギー製、フランス製の軽機関銃もあった。また、国民革命軍はドイツから[[MG34 (機関銃)|MG34機関銃]]を購入せず、彼ら自身によるそのモデルのコピーを生産した。これらの師団では通常、各[[小隊]]に軽機関銃がひとつずつあった。[[重機関銃]]は主にドイツからの設計図をもとに現地生産された[[水冷|水冷式]]の[[24式重機関銃]]([[マキシム機関銃]])であった。平均すると各[[大隊]]ごとに重機関銃はひとつずつ与えられた([[第二次世界大戦]]における実際のドイツ師団の三分の一から半分程度である)。標準の携帯銃は、7.63mmの[[モーゼルC96]]セミオート拳銃、あるいはフルオートの[[モーゼルC96#モーゼル・シュネルフォイヤー|モーゼル・シュネルフォイヤー]]であった。 これらのフルオートマチックのタイプは第二次世界大戦の終了前に中国軍で不足したサブマシンガンと小銃の代わりに使用された。日中戦争の期間は国民革命軍は彼ら自身の武器の不足とその品質の悪さがあり、得られた日本製の武器と装備をかなり利用した。
中国の武器は主に[[漢陽区|漢陽]]、[[広東]]、及び[[太原]]で生産された。ただしドイツ人に訓練された師団のほとんどが標準とした小銃は7.92mmの[[Gew98]]と[[Kar98k]]というドイツ製であった。しかし、中国の通常の師団ではその標準の小銃は'[[漢陽88式小銃]]'という[[Gew88]]のコピーと'[[中正式歩槍|中正式小銃]]'という[[Gew98]]のコピーであった。標準の[[軽機関銃]]は7.92mmの[[ZB26 (機関銃)|ZB26軽機関銃]]というチェコ製の中国におけるコピーであった。ベルギー製、フランス製の軽機関銃もあった。また、国民革命軍はドイツから[[MG34 (機関銃)|MG34機関銃]]を購入せず、彼ら自身によるそのモデルのコピーを生産した。これらの師団では通常、各[[小隊]]に軽機関銃がひとつずつあった。[[重機関銃]]は主にドイツからの設計図をもとに現地生産された[[水冷|水冷式]]の[[24式重機関銃]]([[マキシム機関銃]])であった。平均すると各[[大隊]]ごとに重機関銃はひとつずつ与えられた([[第二次世界大戦]]における実際のドイツ師団の三分の一から半分程度である)。標準の携帯銃は、7.63mmの[[モーゼルC96]]セミオート拳銃、あるいはフルオートの[[モーゼルC96#モーゼル・シュネルフォイヤー|モーゼル・シュネルフォイヤー]]であった。 これらのフルオートマチックのタイプは第二次世界大戦の終了前に中国軍で不足したサブマシンガンと小銃の代わりに使用された。日中戦争の期間は国民革命軍は彼ら自身の武器の不足とその品質の悪さがあり、得られた日本製の武器と装備をかなり利用した。


いくつかの師団には37mm[[3.7 cm PaK 36]][[対戦車砲]]と[[エリコン]]、マドセン、あるいはゾロトゥルン社製の[[迫撃砲]]の両方もしくは片方が配備された。各歩兵師団はフランス・ブラント社製81mm迫撃砲6門と ゾロトゥルン社製20mm[[機関砲]]6門を持った。いくつかの独立旅団と大砲連隊には[[ボフォース]]社製72 mm L/14、あるいは[[クルップ]]社製72mm L/29 [[山砲]]と[[ラインメタル]]社製150mm [[15cm sFH 18|L/32 sFH 18]][[榴弾砲]]24門(1934年購入)とクルップ社製 150mm [[15cm sFH 18|L/30 sFH 18]][[榴弾砲]]24門(1936年購入)が配備された。
いくつかの師団には37mm[[3.7 cm PaK 36]][[対戦車砲]]と[[エリコン]]、マドセン、あるいはゾロトゥルン社製の[[迫撃砲]]の両方もしくは片方が配備された。各歩兵師団はフランス・ブラント社製81mm迫撃砲6門と ゾロトゥルン社製20mm[[機関砲]]6門を持った。いくつかの独立旅団と大砲連隊には[[ボフォース]]社製72 mm L/14、あるいは[[クルップ]]社製72mm L/29 [[山砲]]と[[ラインメタル]]社製150mm [[15cm sFH 18|L/32 sFH 18]][[榴弾砲]]24門(1934年購入)とクルップ社製 150mm [[15cm sFH 18|L/30 sFH 18]][[榴弾砲]]24門(1936年購入)が配備された。
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== 関連項目 ==
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*[[黄埔軍官学校]]
*[[黄埔軍官学校]]
*[[北伐 (中国国民党)]] - [[中ソ紛争]] - [[中原大戦]] - [[長征#国民革命軍の「囲剿」|囲剿]] - [[満事変]] - [[日中戦争]] - [[国共内戦#日中戦争後の軍事対立|日中戦争後の国共内戦]]
*[[北伐 (中国国民党)]] - [[中ソ紛争]] - [[中原大戦]] - [[長征#国民革命軍の「囲剿」|囲剿]] - [[満事変]] - [[日中戦争]] - [[国共内戦|日中戦争後の国共内戦]]
*[[介石]]
*[[介石]]
*[[中独合作]]
*[[中独合作]]
*[[中華民国国軍]]
*[[中華民国国軍]]

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國民革命軍
National Revolutionary Army (NRA)
国民革命軍の軍旗
国民革命軍の軍旗
活動期間 1925年1947年
国籍 中華民国の旗 中華民国
忠誠 中国国民党
中華民国の旗 国民政府
兵科 陸軍海軍空軍
主な戦歴 北伐
長征
中原大戦
日中戦争
国共内戦
指揮
著名な司令官 蔣介石
張学良
閻錫山
馮玉祥
白崇禧
孫立人
何応欽
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国民革命軍(こくみんかくめいぐん、拼音: Guómín Gémìng Jūn英語: National Revolutionary Army)は、1925年から1947年にかけて存在した中国国民党の党軍隊。1925年に当時の国民政府本拠地の広東省で建軍された。

コミンテルンの支援がその背景にあり、その前年に第一次国共合作が成立していた。1926年からの北伐北京政府を倒し、1928年南京を首都とする中華民国の開府後は国軍になった[1]。なお、蔣介石北伐中にコミンテルンとの決別を宣言して反共化している。

1937年日中戦争が始まると第二次国共合作が成立し、1945年まで日本軍と交戦した。当時の日本側は主に国民党軍と呼び、1940年の汪兆銘政権成立後は重慶軍と呼んでいた。日本軍降伏後の1945年9月から国共内戦が始まり、中国大陸の支配権を巡って中国共産党軍と交戦した。1947年中華民国憲法の発布に伴い、国民革命軍は中華民国国軍に改称した。共産党側の攻勢によって中国大陸の国民党支配地域がほぼ消滅した1949年に、台湾へ転進した。

歴史

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1925年、中国国民党広東省広州国民政府を設置し、その実働部隊である国民革命軍が建軍された。これはほぼコミンテルンの支援によるものだった。その前年に第一次国共合作が成立しており、中国共産党員が国民党に加入していた。コミンテルンの目的は共産党員を「細胞」として国民党に植え付けておき、オルグ活動で共産シンパを増やしてゆくゆくは乗っ取らせるための寄生先として利用することにあった。将校の多くは黄埔軍官学校の卒業生であり、その初代校長であった蔣介石が最高指揮官に就任した。著名な指揮官に杜聿明陳誠がいた。1926年から北京政府を倒して中国全土を統一するための北伐が開始されたが、早くも1927年に共産党員が上海クーデター南昌蜂起を起こしたので、蔣介石はコミンテルンとの決別を宣言して共産党員を弾圧対象にした。

1928年、蔣介石は北京政府の攻略に成功して表向き中国全土を統一し、南京を首都とする南京国民政府が中国の中央政府となったが、すぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた中原大戦において決定的勝利を収めるも混乱の収束までは到らなかった。1931年の満洲事変で日本軍が満洲全土を占領し、毛沢東江西省中華ソビエト政府を打ち立てていた。共産党を最危険視していた蔣介石は総力を挙げて江西省を攻撃し、1934年に瑞金を包囲した。進退窮まった毛沢東は瑞金を脱出して長征を開始し、1936年に陝西省まで辿り着いたが、蔣介石はこれを追い詰めて再び大軍で共産党軍を包囲した。この時の戦力比は国民革命軍200万に対して共産党軍は1万人程であった。しかし同年12月に西安事件が発生して友軍の張学良に監禁された蔣介石は、共産党軍との休戦と抗日統一戦線の結成を承諾した。

1937年、盧溝橋事件から日中戦争が始まると、第二次国共合作が成立して、共産党軍は華北の八路軍と華南の新四軍に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に南京が陥落すると国民政府は重慶に退却した。日中両軍の泥沼の戦いが続く中で、毛沢東は農村から都市部にかけての民衆の支持層を増やして急速に共産勢力を拡大していた。1945年に日本軍が降伏すると国民革命軍から八路軍が分離して国共合作は破られ、1946年に国共内戦の火蓋が切られた。1947年に国民革命軍は中華民国国軍に改称した。この内戦では共産党側が優勢になり、敗退を重ねて広州まで追い詰められた蔣介石は、生き残った中華民国国軍部隊とともに台湾に転進し、政府を台北に移した。

組織

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概要

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国民革命軍の騎兵隊
北伐の時代、漢口の英国租界の中へ行進する国民革命軍兵士

国民革命軍はその存続した期間を通して370個の標準師団 (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の騎兵師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個の師団に、およそ430万人の正規兵を入隊させた。実際には多くの師団は複数の師団を統合するかたちで編成されたもので、すべてが同時に活動していたわけではない。また、新師団は戦争初期に失われた標準の師団に代わるものとして編成され、古い師団の番号が与えられた。ゆえにどの時代でも活動していた師団の数は前述の総数よりかなり少ない。記録によれば、1941年の中国では380万人の兵士がおり、246個の師団は最前線に、70個の師団が後方に配置されていた。

国民革命軍の師団は普通、5,000 - 6,000の兵からなったが、日本を含めた他国の師団なら10,000 - 15,000の兵を擁した。中独合作の下、ドイツ式の訓練を受けた師団は14,000の定員から成った[2]。国民党直属の部隊と地方軍閥や共産党軍から編入した部隊の間には装備・練度・規律に大きなばらつきがあった。

兵員の募集では、戸籍が整備されていなかったので恣意的な徴兵が行われ、町の溜まり場などで兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような人狩りが横行していたという。兵士への給与や食糧支給は不十分で、各兵士が武器を使って一般市民から金品を略奪することも頻発していた。兵士による一般市民の暴行も頻発しており、殺害もあったといわれる。兵士たちの士気と戦意は概ね低く、戦闘中の逃亡も多発しており、便衣行為もよく見られた。一方で広州や武漢などの都市で徴兵された部隊のモラルは高く、広西省出身の部隊は勇猛さで知られていた。戦闘では兵士を監視する為に頻繁に督戦隊が組織され、逃亡する兵士を射殺した。その他に兵士の逃亡を防ぐ為に、兵士が入ったトーチカに外から鍵を懸けたり、塹壕に鎖で兵士を繋ぎ止めることなども実行されたといわれる。そのため、西洋の軍事批評家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った[3]

主力部隊

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ドイツ式装備をした国民革命軍

国民革命軍の主力部隊となったのは、ドイツ軍事顧問団によってドイツ式訓練と装備をした8個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第36師、第87師、第88師、予備師団である。その他にもドイツ式訓練をうけ、中国式装備をした12個の師団があった。

残りの師団は元軍閥に所属していたため、定員割れであり、概して訓練もされていなかった。約40個程度の国民革命軍の師団には欧州製の装備が配備された。

機械化部隊

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国民革命軍は少数の装甲車両と機械化部隊を持っているだけだった。1937年の戦争開始の時点では機甲部隊(装甲部隊)は3つの機甲大隊で組織され、各国から入手した戦車装甲車を持っていた。これらの大隊の大部分が上海戦南京戦で破壊された後は、ソビエト連邦イタリア王国から入手した新しい戦車、装甲車およびトラックにより唯一の機甲師団である第200師の編成が可能になった。1938年6月の師団再編の後、この師団は結局機甲師団としては存続しなかった。

機甲連隊と火砲連隊は第五軍の直接の指揮下に置かれ、第200師は同じ軍の機械化歩兵師団になった。この軍は車両の損失と機械の故障のため装甲部隊を減らしながら1939年から1940年にかけては広西省桂南会戦1942年には雲南ミャンマーにおける会戦を戦った。 ビルマの戦いの遅い時期、現地の国民革命軍はシャーマン戦車が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。

編制単位

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国民革命軍の編制単位と序列は、以下の通りである。戦区日中戦争が始まった1937年7月から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を管理した。1938年末以降は10区以上になった。兵力の多い戦区では兵団が設けられた。1944年末に設置された中国陸軍総司令部は戦区と同等であり、インドシナ華南方面でアメリカ陸軍イギリス陸軍と共同作戦するための組織だった。作戦上の基本単位は集團軍であり、戦術上の基本単位は軍であった。

  1. 国民政府軍事委員会
  2. 行営 -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。1個以上の戦區を指導した。
  3. 戦區 -- 一定の作戦区域を受け持ち、複数の集團軍とその他を持った。
    • 兵團 -- 兵力の多い戦區を分割指揮するために設置された。
  4. 集團軍 -- 2個以上の軍とその他を持った。戦時用の編制単位。1926~28年と1937~45年に存在。
    • 路軍 -- 1個以上の軍とその他を持った。平時用の編制単位。1929~37年に存在。
    • 方面軍 -- 北伐時の集團軍下のものは1926~28年に存在。2個以上の軍を指揮した。中国陸軍総司令部下のものは1944~45年に存在。
    • 軍團 -- 1928年から存在。1928年は蒋介石直属の小型集團軍だった。1932年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位になった。1937年以降は集團軍の小型版になり1個以上の軍とその他を持った。
  5. -- 軍団。通常2個の師を基盤にし、それに砲兵團や工兵團などの支援を付けた。
  6. -- 師団。教導團(全兵員を教化する模範部隊)を中核にし、通常2個の旅を持った。歩兵師と騎兵師があった。
    • 独立旅 -- 旅を増強した師の小型版。
  7. -- 旅団。通常2個の團を持った。歩兵旅と騎兵旅があった。
  8. -- 連隊。ここから全軍中の通し番号が振られた。
  9. -- 大隊
  10. -- 中隊
  11. -- 小隊
  12. -- 分隊

指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団と集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮であった。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長、營長、連長、排長、班長であった。

軍階

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階級 右に示された階級章の兵科色 階級章の例
将官 特級上将
一級上将
二級上将
中将
少将
校官 上校 砲兵
中校 騎兵
少校 憲兵
尉官 上尉 軍楽隊
中尉 砲兵
少尉 測量兵
准軍官 准尉 騎兵
士官 上士 軍需兵
中士 衛生兵
下士 通信兵
士兵 上等兵 工兵
一等兵 機械化部隊
二等兵 憲兵

装備

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中国の武器は主に漢陽広東、及び太原で生産された。ただしドイツ人に訓練された師団のほとんどが標準とした小銃は7.92mmのGew98Kar98kというドイツ製であった。しかし、中国の通常の師団ではその標準の小銃は'漢陽88式小銃'というGew88のコピーと'中正式小銃'というGew98のコピーであった。標準の軽機関銃は7.92mmのZB26軽機関銃というチェコ製の中国におけるコピーであった。ベルギー製、フランス製の軽機関銃もあった。また、国民革命軍はドイツからMG34機関銃を購入せず、彼ら自身によるそのモデルのコピーを生産した。これらの師団では通常、各小隊に軽機関銃がひとつずつあった。重機関銃は主にドイツからの設計図をもとに現地生産された水冷式24式重機関銃マキシム機関銃)であった。平均すると各大隊ごとに重機関銃はひとつずつ与えられた(第二次世界大戦における実際のドイツ師団の三分の一から半分程度である)。標準の携帯銃は、7.63mmのモーゼルC96セミオート拳銃、あるいはフルオートのモーゼル・シュネルフォイヤーであった。 これらのフルオートマチックのタイプは第二次世界大戦の終了前に中国軍で不足したサブマシンガンと小銃の代わりに使用された。日中戦争の期間は国民革命軍は彼ら自身の武器の不足とその品質の悪さがあり、得られた日本製の武器と装備をかなり利用した。

いくつかの師団には37mm3.7 cm PaK 36対戦車砲エリコン、マドセン、あるいはゾロトゥルン社製の迫撃砲の両方もしくは片方が配備された。各歩兵師団はフランス・ブラント社製81mm迫撃砲6門と ゾロトゥルン社製20mm機関砲6門を持った。いくつかの独立旅団と大砲連隊にはボフォース社製72 mm L/14、あるいはクルップ社製72mm L/29 山砲ラインメタル社製150mm L/32 sFH 18榴弾砲24門(1934年購入)とクルップ社製 150mm L/30 sFH 18榴弾砲24門(1936年購入)が配備された。

歩兵の制服は、人民服を基本とし調整されたものである。国民革命軍の部隊の主な移動手段は徒歩だったため、兵士及び将校も同様に巻脚絆を標準とした。ヘルメットはこれらの師団を最も特徴づけるものだった。1935年からドイツ・シュタールヘルム社製M1935ヘルメット(欧州戦線では終戦間近までドイツ国防軍の標準仕様であった)が生産され、国民革命軍は1936年までに横に中華民国の青天白日の紋章がついた31万5千個を輸入した。他にはアドリアンヘルメット(フランス軍のヘルメット)、ブロディヘルメット(イギリス軍のヘルメット)、後期にはM1ヘルメット(アメリカ軍のヘルメット)も使用された。他の装備には兵士のための布靴、将校の為の革靴、及び高級将校の為の皮製ブーツがあった。全兵士に弾薬、弾薬ポーチもしくはハーネス、スキットルコンバット・ナイフ、食料袋、及びガスマスクが配給された。

脚注

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関連項目

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外部リンク

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