「プリンセス・アリス (客船・1865年)」の版間の差分
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2019年3月28日 (木) 10:29時点における版
衝突の画家の印象(Artist's impression of the collision) | |
日付 | 1878年9月3日 |
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時刻 | 午後7時20分と午後7時40分の間 |
場所 | テムズ川ガリオンズ・リーチ(Gallions Reach) |
原因 | 衝突 |
死傷者 | |
死者600名ないし700名 |
プリンセス・アリス(SS Princess Alice)、以前は『ビュート』(PS Bute)、は、テムズ川で『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)と衝突したのち、1878年9月3日に沈没した、旅客外輪船である。600名ないし700名が死亡し、その全員が『プリンセス・アリス』(Princess Alice)のからで、イギリスの内陸水路海運事故の最大の死者数であった。旅客名簿が作られたり員数調査がなされたりしなかったため、正確な死者数はけっしてわかっていない。
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、1865年にスコットランドグリーノックで建造され、スコットランドで2年間、利用されたのち、ウォーターマンズ・スティーム・パケット社(Waterman's Steam Packet Co)に買われ、テムズ川で乗客を運んだ。1878年までに、ロンドン・スティームボート社(London Steamboat Co)によって所有され、ウィリアム・R・H・グリンステッド(William R. H. Grinstead)によって船長を務められた。この船は、ロンドン橋近くのスワン・ピアー(Swan Pier)とケントのシェアーネス(Sheerness)とのあいだで、ストッピング・サービスで(on a stopping service)乗客を往復、輸送した。1878年9月3日の日没後1時間の復航で、彼女はトリックコック・ポイント(Tripcock Point)を通過してガリオンズ・リーチ(Gallions Reach)に入ったし、進路を間違えて『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)によって当てられた。衝突地点は、テムズ川の、ロンドンの未処理の下水75000000英ガロン(340000立方メートル)の放出されたばかりの所であった。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、ただちに3分割し、すばやく沈んだ。乗客らは、高度に汚染された水で溺死した。
グリンステッドは衝突で死亡したため、その後の捜査は、どの進路をとることになっていると彼が考えたかを立証しなかった。検視官の審問における陪審は、双方の船に過失があると見なしたが、より多くの責任が石炭船のほうに負わされた。商務委員会(Board of Trade)が行った照会で、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は正しい進路をたどっていなかったし、有責である、とわかった。沈没の余波のなか、下水の放出と処理に変更が加えられ、それは、海に運ばれ、海に放出された。海上警察隊(Marine Police Force) - ロンドン警視庁のテムズ川警備の責任を負う部門 - にはスチーム・ローンチ(steam launch)が配備されたが、これはその時点まで使用されていた手漕ぎボートが不十分であると判明した後であった。衝突の5年後、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)はビスケー湾で沈没し、乗組員40人全員が死亡した
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背景
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)
スコットランド、グリーノックの ケアード社(Caird&Company)は、1865年3月29日に旅客パドルスチーマー『ビュート』(Bute)を進水させた[1][2]。彼女は1865年7月1日に就航した[3]。この船は、長さ219.4 ft (66.9 m)、幅20.2 ft (6.2 m)、総登録トン数432トンであった[4]。『ビュート』(Bute)は、ウィームス・ベイ鉄道会社(Wemyss Bay Railway Company)のために建造されていて、この会社はウィームス・ベイ(Wemyss Bay)とロスシーとの間で乗客を輸送した。1867年に、ウォーターマンのスティーム・パケット社(Steam Packet Co.)に売られ、テムズ川で運行した。この会社が、ヴィクトリア_(イギリス女王)の第3子(1843年-1878年)の名にちなんで、船名を『プリンセス・アリス』(Princess Alice)に変えた。1870年にウーリッジ・スティーム・パケット社(Woolwich Steam Packet Company)に売られ、遊覧汽船(excursion steamer)として運行された[5][6][7][8]。この会社はのちにロンドン・スティームボート社(London Steamboat Company)に社名を変えた[5][6][7][8] 。1873年に、船はペルシアのシャーナーセロッディーン・シャーをテムズ川をグリニッジまで運び、多くの地元住民に「シャーの船」("The Shah's boat")として知られるようになった。
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)がウーリッジ・スティーム・パケット社に取得されたとき、この会社は新しいボイラーの設置と5つの隔壁を水密にすることをふくむ、いくつかの変更を船に加えた。船は商務委員会によって検査されていて、安全であると認められた[5][9]。1878年に、商務委員会による別の検査で、ロンドンとグレーヴセンド(Gravesend)との間で最大936人の乗客を穏やかな水上で輸送することが許された[6]。
『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)
石炭船『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は1870年にニューキャッスルで建造され、メサーズ・オヴ・ニューキャッスル(Messrs Hall of Newcastle)によって所有された。総登録トン数は1376トンで、長さは254.2 ft (77.5 m)、32 ft (9.8 m)であった。船倉の深さは19 ft (5.8 m)であった[6][10][11]。船長はトマス・ハリソン大尉(Captain Thomas Harrison)であった[12]。
1878年9月3日
1878年9月3日に、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、「ムーンライト・トリップ」("Moonlight Trip")で、ロンドン橋近くのスワン・ピアーから、下流、ケントの[Sheerness]までの往復航行をしていた。航行中、ブラックウォール(Blackwall)、ノース・ウーリッジ(North Woolwich)、そしてロシャーヴィル・ガーデンズ(Rosherville Gardens)に寄港した。船上のロンドン市民の多くは、ロシャーヴィルに行き、40年前に建てられていた遊園地を訪ねた。ロンドン・スティーム社は船を数隻、所有していたから、乗客は希望すれば、チケットを取り替えて、当日、航行し続けて、あるいは違う船で、使うことができた。スワン・ピアーからロシャーヴィルのチケットの運賃は、2シリングであった[13][14]。
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、スワン・ピアーに戻ると、午後6時30分ころにロシャーヴィルに向けて出航した。彼女はほぼ満員の乗客を運んでいたが、名簿は残されておらず、乗客の正確な人数は不明である[15][16]。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の船長、47歳の大尉ウィリアム・グリンステッド(William Grinstead)は、彼の操舵手がグレーヴスエンド(Gravesend)にとどまることを許可し、彼を、或る乗客、ジョン・エイヤーズ(John Ayers)という海員と交代させた。エイヤーズは、テムズ川の、あるいは『プリンセス・アリス』(Princess Alice)のような船舶の舵をあやつることの、経験がほとんどなかった[14]。午後7時20分と午後7時40分の間に、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)はトリップコック・ポイント(Tripcock Point)を通過し、ガリオンズ・リーチ(Gallions Reach)に入ってノース・ウーリッジ・ピアー(North Woolwich Pier) - そこに多くの乗客が上陸する予定であった - からの視界に入っていた、とそのとき『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)が目撃された[13][17]。『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は、通常は、石炭をアフリカに運搬したが、ちょうど乾ドックで再塗装されたばかりだった。彼女は、エジプト、アレクサンドリア向けの石炭を途中で船に載せるためにニューキャッスルまで航行する予定だった。ハリソンは、その状況に慣れていなかったので、経験のあるテムズ川の水先案内人クリストファー・ディックスを雇ったが、彼はそうすることを義務づけられてはいなかった[12][18]。 [注釈 1] 『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)には高くされた船首楼(raised forecastle)があったので、ディックスは前がよく見えず、それで或る海員が置かれた[19]。
ミルウォールを出航するや、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は5ノットで川を下って進んだ。彼女は、他の船舶が邪魔になる場所を除いて、だいたいは川の真ん中を進んだ。ガリオンズ・リーチに近づくと、ディックスは、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の赤いポート・ライト(red port light)がそれらの右舷を通過する進路を近づいているのが見えた[20]。グリンステッドは、潮に逆らって川を上って行き、川の南側でゆるやかな水域(slack water)を探すという通常の船頭の慣習に従った[21]。 [注釈 2] 彼は船の進路を変え、船を『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の進路に連れて行った。差し迫った衝突を見て、グリンステッドは、より大きい船に向かって叫んだ「おまえどこにくるんだ! これは驚いた! おまえどこにくるんだ!」("Where are you coming to! Good God! Where are you coming to!")[23][24] [注釈 3] ディックスは、船を操縦して衝突進路からはずそうとし、エンジンを「全速後進」("reverse full speed")に入れるように命じたが、遅すぎた。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、右舷側の外車輪覆いの直ぐ前に13度の角度で打撃を受けた。2分割され、4分間もかからずに沈んだ - 複数のボイラーは沈みながら構造から離れた[26]。
『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の乗組員は、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の乗客が登るように甲板から複数のロープを垂らした。彼らはまた、人々がつかまるために水に浮かぶものなら何でも投げた[27]。『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の乗組員はまた、救命ボートを進水させ、14人を救助し、そして近くに係留されたボートの乗組員も同じことをした。テムズ川両岸の住民、特に地元の工場のボートマンらは、船を進水させて救える人を救った[28][29]。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の乗客の多くは泳げなかった。女性らが身に着けていた長く重いドレスもまた、浮いていようとする彼女らの努力を妨げた[30]。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の姉妹船『デューク・オブ・テック』(Duke of Teck)は、彼女の後方10分間のところで蒸気力で動いていた。彼女の到着は、水中に残された人を救うには遅すぎた[31]。甲板の下またはサルーンにいた2人だけが、衝突後、生存していた[32]。後でサルーンを調べた或る潜水夫は、乗客らが出入り口で、ほとんどはまだ直立して、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた、と報告した[33]。
約130人が衝突から救助されたが、数人がのちに、水を摂取したことで死んだ[13]。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は、ロンドンの下水ポンピング・ステーションが設置された地点で沈没した。下水道からの未処理下水7500万英ガロン(34万立方メートル)の1日2回の放出は、バーキング_(ロンドン)のアビー・ミルズ・ポンピング・ステーション(Abbey Mills Pumping Station)とクロスネス・ポンピング・ステーション(Crossness Pumping Station)で、衝突の1時間前におこなわれていた[34]。衝突直後の『タイムズ』宛ての手紙の中で、或る化学者は流出を次のように説明した。
分解され発酵している下水の途切れない柱が2本、有害ガスを含むソーダ水のようにしゅうしゅう音を立てている、黒いから水が何マイルにもわたって染まり、汚れた遺体安置所の臭いを放っていて、すべての人に記憶されるだろう...特に憂鬱にさせるような、吐き気を催させるようなものとして[35]。
水はまた、ベックトン・ガス・ワークス(Beckton Gas Works)からの未処理の排出物と、いくつかの地元の化学工場によって汚染されていた[36]。水の汚れを増したことには、その日の早いころに、テムズ・ストリート(Thames Street)で火災が発生し、油とガソリンが川に入る結果になっていた[34]。
『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は、デプトフォードで錨をおろし、当局の行動と審問を待った。その夜、ハリソン(Harrison)と一等航海士ベルディング(Belding)は、この出来事について説明するために航海日誌ship's logを書いた:
6時30分、ミルウォール、ウェスト・ドックを発つ 水先案内人ミスタ・ディックス担当。ゆっくり進む、船長と水先案内人は上のブリッジに ... 至軽風と天気 すこしもやがかかっている。午後7時45分、ガリオンズ・リーチを半速で進む。リーチの中心近くにいて、遊覧汽船が、その赤とマストヘッドライトを示しながら、バーキング・リーチ(Barking Reach)をこちらに来るのを見て、本船がトリップコック・ポイントに向かって進み続けるために舵を取った。その船が近づいたとき、相手が取舵を取るのを見て、その直後、見ると彼女が面舵を取り、本船の直前を横切ろうとし、左舷の船首のすぐ下に緑灯を見せている。衝突は不可避とわかり、本船のエンジンを止め、全速後進させ、両船が衝突したとき、「バイウェル・キャッスル」の船首が相手汽船に食い込み、そこは乗客で一杯で、大破した。ただちに救命手段をとり、船首ごしに乗客のうち数人の男を船首ごしに引っ張り上げた。船じゅうにロープの端を投げ、救命ブイ4つ、梯子、板数枚を投げ、ボート3隻を出し、援助の間ずっと汽笛を鳴らし続けたが、その援助は浜からのボート数隻と通りかかった汽船からのボート1隻によって与えられた。遊覧汽船が『プリンセス・アリス』(Princess Alice)だと判明し、非常に多くの乗客を救出に成功し、夜間に投錨した。午後8時30分ごろ、汽船「デューク・オヴ・テック」が来て、横付けし、ボートで岸に運ばれなかった乗客を連れて行った[37]。
余波
死者の回収
沈没のニュースは、ロンドンの中心部に電信で伝えられ、すぐにスワン・ピアー(Swan Pier)で汽船の帰還を待っている人たちに漏れ出た。親戚らは、ブラックフライアーズ(Blackfriars)近くのロンドン・スティームボートの事務所に行き、より多くのニュースを待った。多くは、列車に乗りロンドン・ブリッジ駅からウーリッジ・アーセナル駅に行った[39]。群衆は、夜間に、そして次の日になっても、大きくなったが、これは親戚も観光客もどちらもウーリッジに行ったためである。追加の警察が召集され、群衆の統制を助け、陸に上げられた遺物を取り扱った[40]。複数の遺体が、上流のライムハウス(Limehouse)から下流のイアリス(Erith)まで押し流されたという報告が入ってきた[13][41]。遺体が陸に上げられたとき、それらは、中央にではなく身元特定のために地元で保管されたが、ほとんどはウーリッジ・ドックヤード(Woolwich Dockyard)で終わった。親戚は、行方不明の家族を探すために、テムズ川の両側の数箇所の間を移動しなければならなかった[42][43]。地元の水夫らは、遺体を探すのに1日2ポンドで雇われた。彼らは、回収した1体あたり最低5シリングを支払われたが、それはときには死体をめぐる戦いにつながった[44]。拾われたそれらのうち1体はグリンステッド、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の船長のそれであった[45]。
テムズの遺体は、下水と地元の産業産出物とからの汚染のために、ねば土(slime)で覆われていて、きれいにするのが難しいと判った。遺体は通常よりも速いペースで腐敗し始め、遺体の多くは異常に膨張していた。犠牲者らの着衣もまた、急速に腐敗し始め、汚染された水に浸されたのち変色した。生存者のうち16人が、2週間以内に死亡し、他の何人かは、病気であった[34][46]。
審問
9月4日に、ウェストケントの検死官チャールズ・カーッター(Charles Carttar)は、自分の地域で審問を開いた。その日、彼は陪審員を連れて行き、ウーリッジ・タウン・ホールとウーリッジ・ピアーで複数の死体を見せた。北岸にはもっと多くの遺体があったが、これは彼の管轄外であった[47]。サウス・エセックスの検視官チャールズ・ルイス(Charles Lewis)は、商務委員会と内務省を訪れ、自分の管轄内の遺物をウーリッジに移動させて、たった1か所ですべての犠牲者を網羅し証言を聞くことができる1つの審問を許可してもらおうとしたが、法律では、審問が開かれ一時中断されるまで、死者を移動させることはできなかった[48]。そのかわりに、彼は、審問を開いて彼の権威の下で正式に遺体の身元を特定し、その後カーッター(Carttar)の事例が結論に達するまで手続を一時中断した。彼は埋葬命令を出し、遺物はそれからウーリッジに移された[49][50]。
干潮時には、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)のレールの一部がウォーターラインの上に見えていた。船を引き上げる計画は、9月5日に潜水夫が難破船の残骸を調べることで始まった。彼は、船が3つの部分--前部、後部そしてボイラー--に分かれていたことを知った。彼は、まだ船上にいくつかの遺体があることを報告した[51]。翌日に長い前部セクションを引き上げる作業が、始まったが、その長さは27メートル (90 ft)であった。これは、干潮時に--9月7日午前2時00分--ウーリッジで浜に引き上げられた。彼女が浜に上げられている間、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)はロンドンを去ったが、船長はいなかったし、船長は留まった[52][53]。翌日、大勢の群衆がふたたびウーリッジを訪れ、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の引き上げられた部分を見た。戦いが最高の有利な地点を求めてところどころで勃発したし、人々は難破船まで漕いで行きおみやげをもぎ取った。追加の警察官250人が、群衆を制御するために召集された[54][43]。その晩、群衆の大半が帰宅したのち、船の、より大きな後部が引き上げられ、船首の隣に浜に上げられた[55]。
遺体の多くの分解の加速率のため、いまだなお未確認の多くの死体の埋葬は、9月9日にウーリッジ共同墓地(Woolwich cemetery)で行われた[34][36]。数千人が参加した[56]。 [注釈 4] 棺にはすべて、警察の身元確認番号があって、それはまた、後の身元確認を助けるために保持された着衣と私物に付けられた[57][58]。同じ日に150人以上の被害者の個人葬儀が行われた[60]。 ★
カーッター(Carttar)の調査の最初の2週間は、遺体の正式な身元確認と、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の難破現場を訪れ、遺物を調査するために過ごされた[61]。9月16日から、手続きは衝突の原因を調査し始めた。カーッターは、始め事故の報道を嘆いて始めたところ、それは『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)が誤っていて責任を負うべきであることを強く示唆した。彼は、手続きを、ウィリアム・ビーチリー(William Beechley)、前向きに明白に身元が特定された1人目の遺体に集中した。カーッターは陪審に、彼らがどの評決に達してもそれは、残りの犠牲者にあてはまる、と説明した[62]。無数のテムズ川のボートマンが証人として現れたが、彼らは全員、当時その地域で活動していた。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)がたどった進路に関する彼らの話は、かなり異なっていた。テムズ川を遡上する大部分の遊覧船は、トリップコック・ポイントを周り、北岸に向かい、より好ましい水流を利用したものであった。もし『プリンセス・アリス』(Princess Alice)がそうしていたならば、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は明らかに彼女の後ろを進んだであろう。証人数人は、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)がトリップコック・ポイントを一周した後、彼女は流れによって川の中心に押しやられた、と述べた。船はそれから、港の方に向こうとしたが、もしそうであれば彼女は川の南岸に近づいていたであろうが、そうしながら『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の船首を横に突っ切っていた。近くで係留していた他の複数の船の、衝突を目撃した船長数人が、この一連の出来事に同意した。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の主航海士(chief mate)は、自分の船が方向を変えたことを否定した[63]。
審問の間、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の機関助手ジョージ・パーセル(George Purcell)から証言が取られた。沈没の夜に、彼は何人かの人々に、船の船長と乗組員は酔っている、と語っていた。宣誓の下で彼は主張を変え、彼らはしらふだ、自分はだれかが酔っていると主張した記憶はない、と述べた。『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の乗組員の他のメンバーから得られた証言によると、酔っていたのはパーセル(Purcell)だったことがわかった。或る乗組員は言った、「パーセルは大多数の機関助手のようだった。彼は飲み物でひどくなっていたが、当直をつとめられないほど悪くはなかった」("Purcell was like the generality of firemen.He was rather the worse for drink, but not so bad that he could not take his watch".)[64]また、船が沈んだ時点でのテムズ川の、そして『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の建造および安定性の、証言が得られた[65]。11月14日に、12時間の討議ののちに、審問は評決を下した。陪審員19人のうち4人が、声明に署名することを拒否した[66]。評決は:
前述のウィリアム・ビーチー(William Beachey)その他の死亡が、衝突からテムズ川の水域に溺れたことによって引き起こされ、その衝突は『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)と呼ばれる蒸気船と『プリンセス・アリス』(Princess Alice)と呼ばれる蒸気船との間で日没後に起こり、それによって『プリンセス・アリス』(Princess Alice)は2分され、沈没したこと。『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)がエンジンを適時に、慎重に動かし、停止させ、逆に動かすという必要な予防措置を講じなかったことと、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)が停止し後進することをしないことによって衝突の一因となったこと。もしテムズ川のすべての蒸気航行に対して適切かつ厳格な規則と規制(rules and regulations)が定められているならば、陪審の意見におけるすべての衝突は、将来的に、回避されるかもしれないということ。
追加事項:
- われわれは、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)が、9月3日に、耐航性があった、と考えている。
- われわれは、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)には適切かつ十分に人員を配置されていなかった、と考えている。
- われわれは、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)に乗っている人の数が賢明以上(more than prudent)であった、と考えている。
- われわれは、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の船上での救命手段は、彼女のクラスの船には不十分だった、と考える。[67]
商務委員会の調査
検死審問と同時に行なわれているのは、商務委員会の調査であった。責任は、ハリソン大尉、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の乗組員2人、そして『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の一等航海士ロング(Long)にあるとされた。聴聞(hearing)の開始時に、全員が免許を一時停止されていた。 [注釈 6]。 商務委員会の手続きは、1878年10月14日から始まり、11月6日まで続いた。委員会は、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)が商務委員会規則の規則29の節(d)(Rule 29, Section (d) of the Board of Trade Regulations)と1872年のテムズ川保護委員会の規則(Regulations of the Thames Conservancy Board, 1872)に違反したことを明らかにした。これは、もし2隻の船が互いに相手の方に向かっているならば、彼らは互いの左舷側を通過するべきである、と述べた。 [注釈 7] 『プリンセス・アリス』(Princess Alice)はこの手続きに従わなかったため、委員会は、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)が責めを負うべきであること、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)が衝突を回避しえなかったことがわかった。『ザ・マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian)。1878年11月10日}}[71]
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)を所有していた会社は、『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の所有者を相手取って2万ポンドを求めて訴訟を起こした。 『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の所有者は2000ポンドを求めて反訴した。 [注釈 8] この事例は、1878年後半に高等法院の海事部(Admiralty Division)で審理された。2週間後、判断は、双方の船が衝突の責めを負うべきであるというものであった[73][74]。
乗客名簿--あるいは乗船した人々の人数の記録--は『プリンセス・アリス』(Princess Alice)に保存されていなかったので、死亡した人々の人数を計算することは不可能であった。数字は600から700までさまざまである[75]。 [注釈 9] 『タイムズ』によれば、「検死官は川から回収されていない60ないし80の遺体があると信じている。したがって失われた生命の総数は630ないし650であったにちがいない」("the coroner believes that there are from 60 to 80 bodies unrecovered from the river.The total number of lives lost must thus have been from 630 to 650")[76]。マイケル・フォーリー(Michael Foley)は、テムズ川での災害の調査で、つぎのように述べている「最終的な死亡者数の証拠はなかった。しかし、最終的には約640が回収された」("there was no proof of the final death toll.However, around 640 bodies were eventually recovered")[48]。この沈没は、イギリスで最悪の内水での災害(the worst inland disaster on water in the UK)であった[17]。
犠牲者のためのマンションハウス_(ロンドン)基金が、沈没の余波のなかロンドン市長によって開かれた[77]。それが閉鎖するまでに、それは3万5000ポンドを集め、犠牲者の家族の間で分配された[78]。 [注釈 10]
結果とその後の出来事
1880年代に、ロンドンの[メトロポリタンの作業委員会]は、未処理の廃棄物を川に投棄するのではなく、クロスネスとベックトンの下水を浄化し始め[79]、一連の6隻のスラッジ・ボート(a series of six sludge boats)が投棄のために北海に廃棄物を運ぶように命じられた。1887年6月に発注された1隻目のボートは、『バゾルゲット』(Bazalgette)と命名された - ロンドンの下水システムを再建していたジョセフ・バゾルゲット(Joseph Bazalgette)にちなんで。海洋投棄の慣習は、1998年12月まで続いた[80]。
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)が沈没するまで、海上警察隊(Marine Police Force) - テムズ川の警備の責任を負ったロンドン警視庁の部門[注釈 11] - 仕事を手漕ぎボートに頼っていた。『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の沈没事故の審問で、これらが、役割の要件には不十分である、それらはスティーム・ランチ(steam launch)に置き換えるべきである、とわかった。最初の2隻のランチは、1880年代半ばに運行を開始した。1898年までに8隻が働いていた[81]。ロイヤル・アルバート・ドック(Royal Albert Dock)は、1880年にオープンし、重量物運送をより小さいボートから分離するのに役立った。これと、ボートへの緊急信号灯の世界的な採用とは、両方ともに将来の悲劇を避けるのを助けた[13]。
2380人が六ペンス基金(sixpenny]] fund)に寄付したのちに、1880年5月にウーリッジ共同墓地(Woolwich Cemetery)に記念のケルト十字架(memorial Celtic cross)が建てられた。地元の教区教会セイント・メアリー・マグダリン・ウーリッジ(St Mary Magdalene Woolwich)もまたのちに、ステンドグラスの記念の窓を設置した[82]。2008年に、国営宝くじ(National Lottery)助成金は、バーキング・クリーク(Barking Creek)での、沈没130周年を記念する記念プラーク(memorial plaque)の設置に資金を供給した[83][84]。
『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の所有者ロンドン・スティーム社(London Steamboat Co)は、この船の残骸をテムズ川管理委員会(Thames Conservancy)から350ポンドで購入した。 [注釈 12] 複数のエンジンは回収され、残りは或る船舶解体業者に送られた[83]。ロンドン・スティームボート社は、6年もしないうちに破産し、後継者らはその3年後に財政難に直面した。歴史家ジェリー・ホワイト(Jerry White)によれば、鉄道やバス・サービスとの競争とあいまって、『プリンセス・アリス』(Princess Alice)の沈没事故が、「潮汐のあるテムズ川を喜びの場としてはだめにすることで ... 何らかの衝撃を及ぼした」("had some impact ... in blighting the tidal Thames as a pleasure-ground")[85]『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は、1883年1月29日に、アレクサンドリアとハル(Hull)の間を航行していて失踪したと報告された。それは綿実と豆の貨物を運んだ。1883年2月に、複数の新聞が、最終報告を伝えた:
汽船『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)が数年前、ウーリッジ沖で、サルーン・ボート『プリンセス・アリス』(Princess Alice)に衝突して、ビスケー湾で、『ケンミュア・キャッスル』(Kenmure Castle)にとって致命的であると判った強風のなか、沈んだ、と考えられている。 『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)は、乗組員40人と、エジプトの産物から成る貨物を運んだ。『ザ・マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian)1883年2月13日}}
注釈と脚注
注釈
- ^ ディックスは34年間、川の水先案内人であった。彼は、2ポンド4シリング3ペンスで『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)を、乾ドックからグレーヴスエンドの開水域に持って行った[18]。
- ^ 通常の慣習は船員らに受け入れられた。規則を明確にした、韻文に助けられて記憶する、或るパンフレットが、1867年に商務省海事局のトマス・グレイ(Thomas Gray)によって「道の規則」("Rule of the Road")として出版された[22]。
- ^ 一部の出典では叫び声を「おいおい! おまえどこにくるんだ?」("Hoy hoy! Where are you coming to!")とする[25]。
- ^ その日に埋葬された正確な人数は、さまざまである。ジョーン・ロック(Joan Lock)は、2013年に沈没の歴史を発表して、それは74人であると述べている(午前に13人、午後に61人)[57]。『ザ・デイリー・ニューズ』(The Daily News (UK))は、 84人(女45人、男21人、女の子12人、男の子6人)と報じた[58]。『ザ・デイリー・テレグラフ』(The Daily Telegraph)は、数字を83人(女47人、男18人、子供18人)とし[56]、『ザ・スコッツマン』(The Scotsman)は、92人とした[59]。
- ^ 1878年9月3日の日の入りは、午後6時42分であった[68]。
- ^ 『バイウェル・キャッスル』(Bywell Castle)の水先案内人ディックスは、三位一体水先案内協会(Trinity House)から免許を持っていた。これもまた一時停止され、組織は同様の調査を引き受け、その後、彼の免許は返された[69]
- ^ 商務委員会規則の規則29の節(d)(Rule 29, Section (d) of the Board of Trade Regulations)と1872年のテムズ川保護委員会の規則(Regulations of the Thames Conservancy Board, 1872)には、「蒸気力による2隻の船が、衝突のリスクを伴うように、端を接して、またはほとんど端を接している場合は、両者の舵を取舵にしてそれぞれが相手の左舷側を通過するようにする」("If two vessels under steam are meeting end on, or nearly end on, so as to involve risk of collision, the helms of both shall be put to port so that each may pass on the port side of the other")とある[70]。
- ^ 1878年の2万ポンドは、2024の約2,450,000ポンドに相当する。1878年の2000ポンドは、消費者物価指数のインフレ尺度に基づく計算によれば、2024のおよそ250,000に相当する[72]。
- ^ 複数の出典は、死者の数を「およそ640」("around 640")[17]、650[13][39]、そして700としている[34]。
- ^ 1878年の3万5000ポンドは、インフレーションの尺度である消費者物価指数に基づく計算によれば、2024のほぼ4,290,000に相当する[72]。
- ^ 水上警察隊は、1798年に結成され、河川での取引に関連する略奪と汚職を阻止した[81]。
- ^ 1878年の350ポンドは、インフレーションの尺度である消費者物価指数によれば、2024の40,000ポンドに相当する[72]。
脚注
- ^ Deayton 2013, pp. 149–150.
- ^ "Launches". Greenock Telegraph.
- ^ "The Wemyss Bay Railway Company Again". Glasgow Herald.
- ^ Princess Alice, ship 1052614.
- ^ a b c "Loss of the Princess Alice". The Globe.
- ^ a b c d Lock 2013, p. 156.
- ^ a b Thurston 1965, pp. 120–121.
- ^ a b Foley 2011, p. 69.
- ^ Thurston 1965, p. 121.
- ^ Stark 1878, p. 7.
- ^ Bywell Castle, ship 1063546.
- ^ a b Lock 2013, p. 11.
- ^ a b c d e f Evans 2018.
- ^ a b Foley 2011, p. 70.
- ^ "The Collision on the Thames". The Times. 5 September 1878.
- ^ Lock 2013, p. 13.
- ^ a b c Heard 2017.
- ^ a b Thurston 1965, p. 33.
- ^ Lock 2013, p. 14.
- ^ Thurston 1965, p. 35.
- ^ Dix 1985, p. 96.
- ^ Thurston 1965, pp. 36–37.
- ^ Thurston 1965, p. 23.
- ^ Lock 2013, p. 15.
- ^ "The Collision on the Thames". The Times. 19 September 1878.
- ^ Heard 2017; Thurston 1965, pp. 29–30; Ackroyd 2008, p. 388.
- ^ Lock 2013, p. 16.
- ^ Lock 2013, pp. 19–21.
- ^ Thurston 1965, p. 41.
- ^ Foley 2011, p. 71.
- ^ Lock 2013, p. 22.
- ^ Thurston 1965, p. 25.
- ^ Ackroyd 2008, p. 388.
- ^ a b c d e Ackroyd 2008, p. 389.
- ^ "A Pharmaceutical Chemist Writes". The Times.
- ^ a b Guest 1878, p. 56.
- ^ "The Collision on the Thames". Shipping and Mercantile Gazette.
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- ^ a b Thurston 1965, pp. 53–54.
- ^ Lock 2013, pp. 25–26.
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- ^ Lock 2013, p. 26.
- ^ a b Thurston 1965, p. 63.
- ^ Foley 2011, p. 76.
- ^ Lock 2013, p. 65.
- ^ Guest 1878, pp. 55–56.
- ^ "The Catastrophe on the Thames". The Manchester Guardian. 5 September 1878.
- ^ a b Foley 2011, p. 77.
- ^ Thurston 1965, p. 59.
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- ^ Thurston 1965, pp. 60–61.
- ^ "The Catastrophe on the Thames". The Manchester Guardian. 9 September 1878.
- ^ Lock 2013, p. 62.
- ^ a b "The Terrible Disaster on the Thames". The Daily Telegraph.
- ^ a b Lock 2013, pp. 66–67.
- ^ a b "The Disaster on the Thames". The Daily News.
- ^ "The Steamboat Disaster on the Thames". The Scotsman.
- ^ Lock 2013, p. 68.
- ^ Guest 1878, p. 59.
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- ^ Foley 2011, pp. 81–82.
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- ^ Thurston 1965, p. 118.
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- ^ Thurston 1965, p. 151.
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- ^ Dobraszczyk 2014, p. 55.
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出典
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インターネットとテレヴィジョン・メディア
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外部リンク
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- Thames Police Museum record(英語)