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「ハリファックス大爆発」の版間の差分

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{{Infobox 民間人の攻撃
{{参照方法|date=2016年12月}}
|title=ハリファックス大爆発
{{Infobox 事故
|image = [[File:Halifax Explosion - harbour view - restored.jpg|270px]]
|image=Halifax Explosion blast cloud restored.jpg
|caption=[[火災積雲]]の写真
|caption = 爆発で廃墟と化したハリファックス港
{{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=250|type=point}}
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'''ハリファックス大爆発'''(ハリファックスだいばくはつ、{{Lang-en-short|Halifax Explosion}})は、[[1917年]][[12月6日]]に発生した[[爆発]][[事故]]。[[火薬]]によるものとしては世界最大級の爆発を記録した事件である。


'''ハリファックス大爆発'''(ハリファックスだいばくはつ、{{lang-en|Halifax Explosion}})は、[[1917年]]12月6日朝、[[カナダ]]の[[ノバスコシア州]][[ハリファックス]]で発生した大災害である。アッパー・{{仮リンク|ハリファックス港|en|Halifax Harbour}}と{{仮リンク|ベッドフォード湾|en|Bedford Basin}}を繋ぐ狭い水路で、ノルウェー船「イモ(Imo)」が、[[爆発物|高性能爆薬]]を積んだフランスの貨物船「モンブラン(Mont-Blanc)」と衝突し、モンブランで発生した火災が積荷に燃え移り、ハリファックスの{{仮リンク|リッチモンド (ノバスコシア州)|en|Richmond, Nova Scotia|label=リッチモンド地区}}を破壊する大爆発を起こした。爆風や破片、火災、建物の倒壊により約2,000人が死亡したほか、推定9,000人が負傷した<ref name=cbc>{{Cite web |url= http://www.cbc.ca/halifaxexplosion/he2_ruins/he2_ruins_explosion.html |title= Halifax Explosion 1917 |publisher= CBC |date=2003-09-19 |accessdate= 2011-02-25}}</ref>。この爆発は、核兵器開発以前に発生した[[人によって引き起こされた核爆発以外の大爆発一覧|人によって引き起こされた最大の爆発]]であり<ref name=TimeDisaster>{{Cite book |title= Time: Disasters that Shook the World |publisher= Time Home Entertainment |year=2012 |page=56 |isbn=1-60320-247-1}}</ref>、おおよそTNT換算で2.9キロトンに等しいエネルギーを放出した{{Sfn|Ruffman|Howell|1994|p=276}}。
== 概要 ==
[[ファイル:Halifax explosion - Imo.jpg|200px|thumb|座礁した貨物船・イモ]]
[[1917年]][[12月6日]]に[[カナダ]]、[[ノバスコシア州]]の[[ハリファックス]]港で軍用火薬を積んだ[[フランス]]船籍の[[貨物船]]モンブランと[[ノルウェー]]船籍の貨物船イモが衝突し、モンブラン船上にあった[[ドラム缶]]入りの[[ベンゾール]]に[[着火]]し、それが船倉の[[トリニトロトルエン]] (TNT)、[[ピクリン酸]]、[[火薬|綿火薬]]等、約2,600トンの火薬類に燃え移った。


モンブランはフランス政府の依頼で、[[ニューヨーク]]からハリファックス経由でフランスの[[ボルドー]]まで高性能爆薬を運んでいた。午前8時45分頃、モンブランは約1ノットの低速で、ニューヨークでベルギー向けの補給物資を積むため{{仮リンク|ベルギー救援委員会|en|Commission for Relief in Belgium}}が用船した空荷のイモと衝突した。モンブランで発生した火災は忽ち手が付けられなり、約20分後の午前9時4分35秒、モンブランが爆発した。
モンブランの[[船員]]や[[水先案内人]]は[[ボート]]でハリファックスの対岸にある[[ダートマス]]へ逃げたが、火災を起こした無人の船はその後ハリファックスの[[波止場]]に流れつき、約25分後に大爆発した。そして集まった[[消火]]隊、[[救助]]隊、[[野次馬|見物人]]など約2,000人が[[死亡]]、約9,000人が[[負傷]]し、市の大半は[[廃墟]]になった。


リッチモンド市街を含む、半径800メートル内のほぼ全ての建物が吹き飛んだ{{Sfn|Armstrong|2002|p=42}}。[[P波|圧力波]]が木を折り、線路をねじ曲げ、建物を粉砕し、[[津波]]により陸地へ押し流されたイモを含む船を座礁させ、モンブランの破片を数キロメートル四方にまき散らした。街中の窓で無傷のものはほとんど無かった。港の対岸の{{仮リンク|ダートマス (ノバスコシア州)|en|Dartmouth, Nova Scotia|label=ダートマス}}にも被害が広がった<ref name=cbc/>。爆発により生じた津波は、数世代にわたり{{仮リンク|タフツ・コーブ (ノバスコシア州)|en|Tufts Cove, Nova Scotia|label=タフツ・コーブ}}に住んでいた[[ファースト・ネーション]]、[[ミクマク|ミクマク族]]の集落を押し流した。
== 地理条件 ==
[[Image:Halifax, Nova Scotia, looking north from a grain elevator towards Acadia Sugar Refinery, ca. 1900.jpg|right|thumb|290px|大爆発事故前の[[ハリファックス]]]]
[[File:McNabs Island.png|thumb|290px|現代の地図。右下(南東)側が大西洋。狭い水路の西にハリファックス、東にダートマス。地図左上に泊地。]]


救助活動は直ちに始まり、病院はすぐに満杯になった。ノバスコシアや[[ニューブランズウィック州|ニューブランズウィック]]を越えてきた救援列車が爆発当日から到着した。一方、カナダ中央部や[[アメリカ合衆国北東部]]からの列車は吹雪のために遅延した。災害直後から、家を失った多くの人々を収容する仮設避難所の建設が始まった。初期尋問ではモンブランに爆発の責任があったとされたが、後の主張により両船に責任があるものと決定された。{{仮リンク|ノースエンド (ハリファックス)|en|North End, Halifax|label=ノースエンド}}には、爆発の犠牲者を悼む記念物が複数ある。
ハリファックスはノバスコシア州の州都で当時の人口は5万人であった。


==背景==
当時ハリファックスでは[[第一次世界大戦]]にともない[[北アメリカ]]から[[ヨーロッパ]]への[[軍需品]]の積み出しが行われ、外洋船の往来が盛んであった。
{{See|{{仮リンク|ハリファクスの歴史|en|History of Halifax}}|{{仮リンク|ダートマス (ノバスコシア州)|en|Dartmouth, Nova Scotia}}|{{仮リンク|ノバスコシアの歴史|en|History of Nova Scotia}}}}


[[ファイル:Halifax, Nova Scotia, looking north from a grain elevator towards Acadia Sugar Refinery, ca. 1900.jpg|thumb|left|カントリーエレベーターから北のアカディア製糖工場方向を観た1900年頃の光景。後に1917年の大爆発で破壊された。]]
ハリファックスは自然の良港で[[不凍港|冬も凍らず]]、しかも[[フランス]]、[[イギリス]]へ最短距離の位置にあった。港は南北に細長い[[入り江]]をなして、長さ15km、幅は狭いところで0.5kmで、西側に[[市街地|市街]]があり前面に[[埠頭]]が並び、東側は人口7,000人の[[ダートマス]]があった。北側には袋状の広い[[泊地]]が開けており、[[北アメリカ大陸]]からの軍需物資輸送船は、そこに集結し、[[Uボート|ドイツ潜水艦]]対策のため船団を組んで[[大西洋]]を渡っていた。入り江の南端の入り口、外洋に開く手前にはドイツ潜水艦の侵入を防ぐための対潜網が敷設されており、夜間は閉鎖し、朝定時に開いた。


ハリファックスはハリファックス港の西岸にあり、ダートマスは東岸に位置する。ハリファックスとダートマスは戦争で栄えてきた。ハリファックス港は、[[イギリス海軍]]の北米における最重要基地の一つかつ戦時貿易の中心地であり、[[アメリカ独立戦争]]、[[ナポレオン戦争]]、[[米英戦争]]では、敵国船を襲う[[私掠船]]の母港であった{{Sfn|Mac Donald|2005|p=5}}{{Sfn|Flemming|2004|p=9}}。
この時期のハリファックス港は常に混雑しており、外洋船、[[フェリー]]、[[艀]]、[[漁船]]が入り乱れ、港の管理が不十分であり、船舶の小さな衝突は頻繁に発生していた。


1880年の{{仮リンク|カナダ大陸横断鉄道|en|Intercolonial Railway}}とディープウォーター・ターミナル(Deep Water Terminal)の完成は、蒸気船貿易を増やし、港湾地区の発展を加速化させた{{Sfn|Flemming|2004|p=11}}。しかしハリファックスは、地元の工場がカナダ中央部の競合他社に敗北すると、1890年代には経済的に低迷した<ref>{{Cite book|author= Fingard, Judith; Guildford, Janet; Sutherland, David|title=Halifax: The First 250 Years|year=1999|publisher=Formac Publishing|page=98}}</ref>。イギリスの守備隊も1905年暮れと1906年初頭にハリファックスから去った{{Sfn|Bird|1995|p=36}}{{Sfn|Armstrong|2002|pp=10-11}}。カナダ政府はイギリス海軍から{{仮リンク|王立海軍工廠 (ハリファックス)|en|Royal Naval Dockyard, Halifax|label=ハリファックス海軍工廠}} (現在の{{仮リンク|ハリファックス海軍基地|en|CFB Halifax}})<ref>{{Cite book|isbn=978-1-55488-907-5|authors=Johnston, William; Rawling, William; Gimblett, Richard|title=The Seabound Coast|publisher=Dundurn Press|year=2011|page=96}}</ref>を引き継ぎ、1910年に[[カナダ海軍]]が創設されると、その司令部となった{{Sfn|Armstrong|2002|pp=9-11}}。
== 人と船と積荷 ==
[[ノルウェー]]船籍の貨物船イモ(SS_Imo・5,043トン)はホーコン船長 (Captain Haakon) と39名が乗り組み、前日中(12月5日)に石炭を積み込み出港する予定だったが、順番待ちと作業の遅れで日没を過ぎたため出港を見合わせた。水先案内人ウィリアム・ヘイズ (William Hayes) を乗せ北側の泊地で夜を過ごし、朝早く入り江を南下してきた。
この時イモは空船で次の寄港地[[ニューヨーク]]で[[ベルギー]]向け民需品(援助物資)を積む予定であった。


[[第一次世界大戦]]の直前、カナダ政府は港と付属施設の増強を開始した{{Sfn|Flemming|2004|p=13}}。第一次世界大戦の勃発により、ハリファックスは注目を取り戻した。カナダ海軍は外洋を航行可能な船をほとんど保有していないため、イギリス海軍が大西洋の貿易航路を守る責任を負うこととなり、ハリファックスが北アメリカでの作戦基地に再び選ばれた{{Sfn|Bird|1995|pp=37-38}}。港の運営は1915年に、エドワード・ハリントン・マーティン(Edward Harrington Martin)大佐の監督の下、カナダ海軍の指揮下に置かれることとなった。1917年には、ハリファックスに警備艇、タグボート、掃海艇を含む艦隊が増強されつつあった{{Sfn|Armstrong|2002|pp=10, 14}}。
[[フランス]]船籍のモンブラン([[:en:SS_Mont-Blanc|SS_Mont-Blanc]]・3,121トン)は前夜の到着で入港できず、対潜網の外側で待機していた。[[戦時]]中でなければ[[引退]]していたであろう老朽船<ref group="注">[[1899年]]に不定期貨物船 ([[:en:Tramp trade]])として建造、1915年にCGT(Compagnie Générale Transatlantique, カンパニー・ジェネラール・トランザトランティーク ([[:fr:Compagnie Générale Transatlantique|fr]]) または「フランス・ライン」、現在は[[CMA CGM]])が取得。</ref>であった。フランス人船長、エメー・ル・メデック (Aimé Le Medec) はこの船での航海は初めてであった。水先案内人、フランシス・マッケイ (Francis Mackey) は前日夕方に港外で乗船していた。この船は第1表に掲げた火薬などの危険な貨物を数日前に[[ニューヨーク]]で積み込んでいた。積荷の危険性を考慮して11月に船倉を[[材木]]で内張りし[[銅]][[釘]]を使った改装を施していた。火薬類は船倉に、ベンゾールは[[甲板|デッキ]]にあり、船上は火気厳禁であった。
ニューヨークを[[12月1日]]に出港し、ハリファックスから船団を組みフランスへ向かう予定で、船団に加わる他の船舶を待っていた。
なお、火薬積載船は、[[危険物]]の取り扱いを示す[[国際信号旗]](B旗)を掲げる規則になっているが、この時はドイツの潜水艦の標的となる可能性を避けて掲げていなかった。


ハリファックスとダートマスの人口は、1917年にはそれぞれ6万人と6万5千人にまで増加した<ref>{{Cite web |url= http://thechronicleherald.ca/metro/1172270-halifax-explosion-memorial-service-draws-large-crowd |title= Halifax Explosion memorial service draws large crowd |author= Mellor, Clare |work= Journal News |date=2013-12-06|deadurl=yes |archiveurl=http://web.archive.org/web/20171107033202/http://thechronicleherald.ca/metro/1172270-halifax-explosion-memorial-service-draws-large-crowd |archivedate= 2017-11-07 |accessdate=2019-03-29}}</ref>。護送船団がヨーロッパ戦線へ人間、動物、補給品を運んでいた。ノバスコシアにおける主要な積出港は、[[ケープ・ブレトン島]]の[[シドニー (ノバスコシア州)|シドニー]]とハリファックスの2ヶ所であった<ref>{{Cite journal |title= Sydney, Nova Scotia and the U-Boat War, 1918 |author1=Tennyson, Brian |author2= Sarty, Roger |journal= Canadian Military History |volume=7 |issue=1 |year=1998 |pages= 29-41}}</ref>。ハリファックスには負傷兵が病院船で運び込まれ、新たな軍病院が建設された{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|pp=12-13}}。
{| class="wikitable"
|+ 第1表 モンブランの積荷リスト
|-
!品名!!数量
|-
||[[トリニトロトルエン]] (TNT)||227t
|-
||湿ピクリン酸||1,602t
|-
||乾ピクリン酸||544t
|-
||[[綿火薬]]||56t
|-
||[[ベンゾール]]||223t
|-
|}


大西洋を横断する船舶に対する{{仮リンク|U-ボート作戦 (第一次世界大戦)|en|U-boat Campaign (World War I)|label=ドイツ軍の潜水艦作戦}}の成功を受けて、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は、ヨーロッパに運ぶ物資や兵士の損害を抑えるため、[[護送船団]]システムを構築した{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=12}}。ハリファックス港の北東端に位置するベッドフォード湾に{{仮リンク|商船|en|Merchant ship|redirect=1}}が集められ、2組の{{仮リンク|防潜網|en|anti-submarine net}}とカナダ海軍の警備艇に守られた{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=13}}。
== 爆発に到る経過 ==
事故当日の朝、イモは港の北側の泊地から南下し、モンブランは7時30分に対潜網が開くと同時に北上して来た。


船団はイギリス海軍の巡洋艦や駆逐艦の護衛を受け出港した{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=9-10}}。大規模な守備隊が、要塞や砲台、防潜網で街を守った。これらは街に軍隊、産業、住宅地の拡大をもたらし、港を通過する貨物量は約9倍に増加した{{Sfn|Mac Donald|2005|p=8}}。北アメリカの港へ向かう全ての中立国船は、検査のためハリファックスに寄らなければならなかった<ref name=scan>{{Cite journal|url=http://www.cnrs-scrn.org/northern_mariner/vol10/tnm_10_4_39-50.pdf|author=Scanlon, Joseph|title=Sources of threat and sources of assistance: the maritime aspects of the 1917 Halifax Explosion|journal=The Northern Mariner|pages=39-50|volume=X|issue=4|date= 2000-10}}</ref>。
水上交通は通常右側通行であるが、ハリファックス港では南の海から入港する船は右側(東側)を通ると埠頭に遠いので、左側を通ることが多かった。イモの乗員はそれを知っていて左側を南下し、左側を通って北上する2隻の船とすれ違った。
[[File:Halifax Explosion blast cloud restored.jpg|thumb|160px|left|爆発から15-20秒後に撮影された、煙を捉えた写真(撮影者不詳)。]]
ところが3隻目のモンブランは、朝もやの中を規則どおり右側(東側)を通って北上した。そして同じ東側を南下してくるイモを見つけ、西側を「規則通り」通れと汽笛で信号した。しかしイモは針路を変えずに東側を通ると返答し、より東側に寄った。両船は港内規則の4[[ノット]]以下よりかなり速く、7ノットぐらいで航行していたという証言がある。


== 災害 ==
汽笛の応酬をしているうちに両船はたちまち近づき、衝突を避けようとモンブランは左に転針し、イモは全速力後進をかけた。だがイモは右に大きく振れ、舳先がモンブランの右側に衝突した。8時45分頃であった。衝突と言っても接触程度であり通常ならば小さな事故で済んだが、モンブランには[[ベンゾール]]が入ったドラム缶220トンがデッキに3段に積んであり、倒れたドラム缶からベンゾールが漏れ、接触の際の火花で引火し、多量の黒煙を上げ、その火はやがて船倉の爆薬に燃え移った。
[[ファイル:McNabs Island.png|thumb|upright=1.2|現在のハリファックスとダートマスの地図。ベッドフォード湾は地図の左上にあり、ダートマスとハリファックスの間にあるナローズは、右下にある大西洋と繋がっている。爆発は、ナローズの南岸(ハリファックス側)、現在の{{仮リンク|A・マレー・マッカイ橋|en|A. Murray MacKay Bridge}}(赤)と{{仮リンク|アンガス・L・マクドナルド橋|en|Angus L. Macdonald Bridge}}(オレンジ)の間で発生した。]]


ノルウェー船イモ(ハーコン・フロム(Haakon From)船長)は、ベルギー向けの補給物資を運ぶため、オランダを出港しニューヨークへ向かう途中であった{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=16}}。同船は中立検査のため12月3日にハリファックスに入港し、燃料補給を待ちながらベッドフォード湾に2日間停泊した<ref name="nasa">{{Cite journal|url = http://nsc.nasa.gov/SFCS/SystemFailureCaseStudyFile/Download/296|title = Kiloton killer|journal = System Failure Case Study|publisher = NASA|date = 2013-01|volume = 7|issue = 1|last = Lilley|first = Steve}}</ref>。イモは12月5日に出港許可が下りたが、燃料の石炭がその日の午後遅くまで到着せず出港が遅れ、防潜網が夜間に引き上げられるまで燃料補給は完了しなかった。そのため、イモは翌朝まで錨を上げることができなかった{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=16}}{{Sfn|Flemming|2004|p=18}}。
積荷が大量の爆発物であることを知っていたモンブランの乗組員は積極的に消火をせず(消火は不可能だったと証言している)、すぐにボートに乗り移り、ハリファックス対岸のダートマスに逃げた。逃げる途中彼らは、他の人や船に逃げろと叫んだが、[[フランス語]]であったため理解されなかった。ドイツ潜水艦の目標となるのを避けて火薬積載を示す国際信号旗で掲げていなかったことも災いした。


フランスの貨物船モンブラン(エメ・ル・メデック(Aimé Le Medec)船長)は、12月5日遅くにニューヨークから到着した。同船は[[トリニトロトルエン|TNT]]と[[ピクリン酸]]の火薬、高可燃燃料の{{仮リンク|ベンゾール|en|benzole|redirect=1}}、[[ニトロセルロース]]を満載していた{{Sfn|Flemming|2004|p=16}}。ヨーロッパへの出発準備中で、ベッドフォード湾に集結している船団に合流する予定であったが、遅延のため防潜網が引き上げられる前に入港することができなかった{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=16}}。大戦前には危険物を積む船は入港できなかったが、ドイツ軍潜水艦の危険性を受け、規制が緩和されていた{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=19-20}}。
燃え上がり漂流する無人のモンブランは、ハリファックスの第6埠頭に流れ着き、火は埠頭にあった木造の建物に燃え移った。


ベッドフォード湾との行き来には、ナローズ(Narrows)と呼ばれる海峡を通過する必要があった。船は接近する船とすれ違うとき、言い換えると両港間を移動しなければならない船は、右側を航行するものとされていた{{Sfn|Armstrong|2002|p=34}}。港内での速度は5ノットに制限されていた{{Sfn|Armstrong|2002|pp=32-33}}。
そして、消防隊、救助のため集まった人や船、見物人の真っ只中でモンブランは大爆発した。時刻は9時4分35秒で船の衝突から爆発まで約25分経っていた。


=== 衝突と火災 ===
爆発の煙は上空7,000mまで上がり、広範囲から望見された。
{{External media | width = 210px | float = right | audio1 = [http://www.cbc.ca/archives/entry/mont-blanc-pilot-francis-mackey-recalls-halifax-1917-explosion モンブランの水先案内人フランシス・マッケイがハリファックス大爆発を回顧する(英語)]。6:38、[[カナダ放送協会]]<ref name="CBCArchives">{{Cite web |title= Mont-Blanc pilot Francis Mackey recalls Halifax 1917 explosion |work= |publisher= Canadian Broadcasting Corporation, CBC Archives |date = 1967-10-03 |url= http://www.cbc.ca/archives/entry/mont-blanc-pilot-francis-mackey-recalls-halifax-1917-explosion |accessdate= 2016-10-14}}</ref> }}


水先人のウィリアム・ヘイエス(William Hayes)を乗せたイモは、12月6日午前7時30分頃、警備艇{{仮リンク|CSS アカディア|en|CSS Acadia|label=アカディア}}からの信号でベッドフォード湾を離れることを許可された<ref>{{Cite web |url= http://marinecurator.blogspot.ca/2013/12/halifax-harbour-remembers-halifax.html |author= Conlin, Dan |title= The Harbour Remembers the Halifax Explosion |publisher= Maritime Museum of the Atlantic |date= 2013-12-06 |accessdate=2019-03-29}}</ref>。イモは石炭の積載での遅れを取り返そうと、港の制限速度をはるかに超えてナローズへ進入した<ref name=nasa/>。イモは、港の間違った側(西側)を水先案内されていたアメリカの{{仮リンク|不定期貨物船|en|Tramp trade}}クララ(Clara)と遭遇した{{Sfn|Flemming|2004|p=23}}。両船の水先人は右側通行ですれ違うことで合意した{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=30-31}}。イモはその直後、ナローズの中央近くを港からベッドフォード湾へ航行していた[[タグボート]]の{{仮リンク|ステラ・マリス (船)|en|Stella Maris (ship)|label=ステラ・マリス}}を追い越した後、さらにダートマス側へ舳先を向けることを強いられた。ステラ・マリスの船長ホレーショ・ブラネン(Horatio Brannen)は、猛スピードで接近するイモを見て、事故を回避するため船を西岸へ近づけさせた{{Sfn|Flemming|2004|p=24}}{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=17}}{{Sfn|Mac Donald|2005|p=33}}。
== 爆発による被害 ==
[[Image:Halifax Explosion Aftermath LOC 1.jpg|thumb|240px|被害に遭った家屋]]
爆発によりモンブランの船体は粉々になり、[[大砲]]の砲身が町を越え4km、錨の一部(0.5トン)は逆方向に5km飛ぶほどだった。爆発地点周辺の2km四方は完全に破壊され、さらに各所で起きた火災や爆発の衝撃で起きた18mの高さの[[津波]]などで約13,000軒の建物が全半壊、家を失った市民は6,000人に及んだ。衝突したイモはブリッジや上甲板一部構造物と水先案内人、船長ら3人が吹き飛ばされ、乗組員4名は火傷などで犠牲になり船体は津波に持ち上げられダートマスで座礁した。港の周辺には[[鉄道駅]]や[[発電所]]・[[電報電話局]]に[[郵便局]]など中枢機能が集中しており、市から外部への連絡が一時途絶した。また現場の周辺は[[工場]]密集地帯で、その従業員や管理職など中流・下流の市民が居住。南側の小高い丘を挟んだ比較的上流階級が住む一帯([[学校]]や[[病院]]・カナダ軍の駐屯地なども立地)が比較的軽微な被害で済んだのと明暗を分けた。


モンブランには1917年12月5日夜から、ベテランの水先案内人フランシス・マッケイ(Francis Mackey)が乗船していた。マッケイはモンブランの積荷に護衛船のような「特別な防護」がされているか尋ねたが、何の防護もなかった<ref name=nasa/>。モンブランは12月6日午前7時30分に航行開始し、朝に{{仮リンク|ジョージ島 (ノバスコシア州)|en|Georges Island (Nova Scotia)|label=ジョージ島}}と{{仮リンク|ピア21 (ハリファックス)|en|Pier 21|label=ピア21}}の間の防潜網が開けられると2番目に入港した<ref>{{Sfn|Kitz|1989|p=15}}</ref>。モンブランはベッドフォード湾へ向け港のダートマス側に進路をとった{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=15–19, 27}}{{Sfn|Flemming|2004|pp=17, 22}}{{Sfn|Armstrong|2002|p=32}}。マッケイはハリファックス・ダートマス間のフェリーや小型艇を見張った{{Sfn|Mac Donald|2005|p=32}}。{{Convert|0.75|mi}}離れた地点でイモを最初に発見したが、イモはモンブランを遮るように、モンブランの右舷へ向かって進路をとることが懸念されるようになった。マッケイは通行権を持っていることを示すため短い警笛を1回鳴らしたが、イモはその位置を認めないことを示す警笛を2回鳴らしてきた{{Sfn|Kitz|1989|p=15}}{{Sfn|Flemming|2004|p=24}}<ref>{{Cite web |url=http://www.halifaxexplosion.org/collision3.html |authors=Ruffman, Alan; Findley, Wendy |year=2007 |title= The Collision |work= The Halifax Explosion|accessdate=2019-03-29}}</ref>。船長はモンブランに機関を停止し、ナローズのダートマス側へ近づくよう、舳先をわずかに右へ向けるよう命令した。他の船が同様に右へ向かうことを期待して警笛を1回鳴らしたが、再び警笛を2回鳴らされた{{Sfn|Mac Donald|2005|p=38}}。
爆発では1,500人がほぼ即死、その日の夜半から翌日にかけての[[寒波]]の到来や大雪によって倒壊した家の下敷きになったまま凍死するなど、その後の数日間で400人が死亡している。また失明者も約200名に上った。最初の火災発生時にベンゾールのドラム缶が小さな爆発を起こして火を吹きながら空中を高く飛ぶのを多くの住民が家の中から窓越しに目撃していたところ、直後の爆発の衝撃で割れた窓ガラスによって目を損傷したことによる。


[[ファイル:Halifax explosion - Imo.jpg|thumb|left|爆発後、港のダートマス側に座礁した「イモ」]]
対岸のダートマスは爆発地点から距離があり、人口も少なかったものの、それでも100人ほどが死亡した。
近くにいた船の船員は連続する警笛を聞いて、衝突が迫っていることを認識し、イモがモンブランに向かって進むのを見るため集まっていた{{Sfn|Mac Donald|2005|p=39}}。この時には両船とも機関を停止していたが、慣性でゆっくりと互いに向って進んでいった。衝撃により積荷が爆発することを恐れて船を座礁させることができず、マッケイは衝突回避に向けた最後の賭けで、モンブランに港のほうへ大きく面舵をとらせ、イモの舳先を横切ろうとした。イモが動力機関を逆回転させていることを知らせるために突如警笛を3回鳴らしたとき、二隻はほぼ平行となった。イモは空船で喫水線が高いことと右回転プロペラによる{{仮リンク|プロペラ効果|en|Propeller walk|label=横移動}}が重なり、船首をモンブランのほうへ変えた。そしてモンブランの右舷、第一船倉にイモの船首が突っ込んだ{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=40-41}}<ref name=nasa/>。
[[Image:Panoramic view of damage to Halifax waterfront after Halifax Explosion, 1917.jpg|thumb|800px|爆発直後の[[ハリファックス]]市街|center]]


午前8時45分、両船は衝突した{{Sfn|Flemming|2004|p=25}}。モンブランの被害は甚大でなかったが、穴の開いた樽が倒れて、ベンゾールが甲板にあふれ船倉に勢いよく流れ込んだ。イモは機関が壊れたため、すぐに離れたが、モンブランの船体内部に火花を起こした。これらが揮発したベンゾールに引火した。火災は喫水線で発生し、たちまち舷沿いに上へ拡大。濃く黒い煙に包まれ、今すぐにでも爆発する恐れから、船長は船員に退艦を命令した{{Sfn|Kitz|1989|p=19}}{{Sfn|Flemming|2004|p=25}}。ハリファックス市民は、この壮観な火事を見ようと、通りに集まったり、自宅や職場の窓辺に立った{{Sfn|Kitz|1989|pp=22-23}}。モンブランの必死の船員は2艘の救命ボートから他の船へ今にも爆発しそうだと叫んだが、騒音と混乱のために聞き取ることはできなかった{{Sfn|Mac Donald|2005|p=49}}。救命ボートが港を横切りダートマスへ向かう間、放棄されたモンブランは漂流を続け、リッチモンド通りの端近くにある第6埠頭に接岸した{{Sfn|Flemming|2004|pp=25-26}}。
== 救援 ==
ハリファックス市内で被害を免れた地域から[[医師]]、[[看護師]]、救援人員が集まり、ただちに救援活動が始まった。医療スタッフが不足したため、市内の[[ダルハウジー大学]]の医学生が動員された。1年生はその年の9月に入学したばかりだったが、この活動で多大の実務経験を得たといわれている。


衝突が起こった時、2隻の{{仮リンク|平底船|en|scow}}を曳航していた{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=17}}ステラ・マリスは火災に即座に対応した。はしけを停泊させて第6埠頭へ後進し、消火ホースで燃え盛るモンブランに放水した{{Sfn|Mac Donald|2005|p=46}}。タグボートの船長ホレーショ・ブラネンとその船員は、彼らの消火ホースで消すには火災が強すぎると認め、モンブランから後退した。巡洋艦{{仮リンク|ハイフライヤー (1898年建造の船)|en|HMS Highflyer (1898)|label=ハイフライヤー}}の捕鯨ボートと、[[ナイオビ (防護巡洋艦)|ナイオビ]]の{{仮リンク|ピンネス (ボート)|en|Pinnace (ship's boat)|label=ピンネス}}が接近した。ブラネンとナイオビのアルバート・マティソン(Albert Mattison)はモンブランの船尾に綱を付け、埠頭に火が移らないよう引き離すことで合意した。最初用意された5インチ(127ミリメートル)の{{仮リンク|曳索|en|hawser}}は細すぎると思われ、10インチ(254ミリメートル)の曳索にするよう命令が出された。この時爆発が起こった{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=50-51}}。
市の消防隊は隊長、副隊長が爆死し、最新式の消防自動車が破壊されたので、近隣町村の消防隊が来援した。


=== 爆発 ===
朝にハリファックスを出港していたアメリカの医療船は、次々と人員と物資を持って引き返して来た。
[[ファイル:Halifax Explosion - harbour view - restored.jpg|thumb|upright=1.1|港のダートマス側から見た、爆発から2日後のハリファックスの惨状。港の向こう側に「イモ」が見える。]]
{{External media | width = 210px | align = right | audio1 = [http://www.cbc.ca/archives/entry/determining-90435-am-as-the-precise-time-of-the-halifax-explosion ハリファックス大爆発の正確な時間を午前9時4分35秒と確定(英語)]。6:54、1992年12月4日、[[カナダ放送協会]]<ref name="CBC Archive">{{Cite web | title =Determining 9:04:35 a.m. as the precise time of the Halifax Explosion | work = | publisher =[[カナダ放送協会]] | date = 1992-12-04| url =http://www.cbc.ca/archives/entry/determining-90435-am-as-the-precise-time-of-the-halifax-explosion | accessdate = 2016-10-14 }}</ref> }}


午前9時4分35秒、モンブランの手が付けられなくなった炎が積荷の高性能爆薬に引火した{{Sfn|Mac Donald|2005|p=58}}。モンブランは完全に吹き飛び、強い爆風が秒速1,000メートルを超える速度で広がった。爆発の瞬間、爆心の大気は5,000℃、数千気圧になった{{Sfn|Ruffman|Howell|1994|p=277}}<ref name=nasa/>。白熱した鉄の破片がハリファックスとダートマスに降った{{Sfn|Mac Donald|2005|p=62}}。砲身が融解したモンブランの90ミリ砲が、爆発地点から約5.6キロメートル北、ダートマス地区の{{仮リンク|アルブロ湖|en|Albro Lake}}付近に落下し、0.5トンある錨の軸は3.2キロメートル南の{{仮リンク|アームデール (ノバスコシア州)|en|Armdale, Nova Scotia|label=アームデール}}に落下した{{Sfn|Kitz|1989|p=25}}。
[[セントローレンス川]]は既に氷結していたので、カナダ最大の都市[[モントリオール]]からは救援が来られなかった。[[ボストン]]とは約1,000kmの距離で鉄道が通じていたため、爆発直後から救援活動が始まり、医者、医料品、救援隊、救援物資が続々と送りこまれた。ハリファックス市民はこれに感謝の気持ちを持ち続け、約90年経った今でも毎年巨大な[[ボストン・クリスマス・ツリー|クリスマスツリー]]をボストンに贈っている。


白煙は3600メートル超まで上昇した<ref>港から約28キロメートルの地点にいた、本国へ向かうカナダの商船「アカディアン」のキャンベル(W. M. A. Campbell)船長は、六分儀で爆雲の高さが3,600メートルと測定した。{{Harvnb|Ruffman|Howell|1994|p=323}}</ref>。衝撃波は音速の約23倍で広がり、207キロメートル離れた[[ケープ・ブレトン島]]や、180キロメートル離れた[[プリンスエドワードアイランド州|プリンスエドワード島]]でも観測された<ref name=nasa/>{{Sfn|Mac Donald|2005|p=63}}。爆発により160ヘクタールを超える地域が完全に破壊され{{Sfn|Kitz|1989|p=25}}、大量の海水が押し出されたことで港の海底が瞬間的に露出した。隙間を埋めるように押し寄せた海水で[[津波]]が発生し{{Sfn|Mac Donald|2005|p=66}}、その高さは港のハリファックス側で高水標から18メートルの高さに達した<ref>{{Cite book|last1=Krehl|first1=Peter|title=History of shock waves, explosions and impact a chronological and biographical reference|date=2007|publisher=Springer|isbn=978-3-540-30421-0|page=459}}</ref>。イモは津波によりダートマス海岸に押し流された{{Sfn|Kitz|1989|p=26}}。爆風により、捕鯨船の1人を除いた全員、ピンネスの全員、ステラ・マリスの26人中21人が死亡した。ステラ・マリスはダートマス海岸に押し流され、酷く損傷を受けた。船長の息子ウォルター・ブラネン(Walter Brannen)一等航海士は、爆風により船倉内に吹き飛ばされ、他の4人と同様に生き残った{{Sfn|Armstrong|2002|pp=42-43}}。モンブランの船員は1人を除いた全員が生き残った{{Sfn|Flemming|2004|p=47}}。
== 裁判 ==
人的、経済的に多大の損害を受けたハリファックスの住民感情を考慮して、1週間後に査問会議が開かれた。


1,600人以上が即死、9,000人が負傷し、そのうち300人超が後日死亡した<ref name=nasa/>。半径2.6キロメートル以内の12,000棟を超える全ての建物が、破壊されるか甚大な被害を受けた{{Sfn|Mac Donald|2005|p=66}}。自宅から火事を見ていた者のうち数百人は、爆風により目の前の窓ガラスを粉砕され失明した{{Sfn|Gilmour|2001|p=119}}。ストーブやランプも爆風で倒れ、ハリファックス中に火事を引き起こした{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=21}}。特に{{仮リンク|ノースエンド (ハリファックス)|en|North End, Halifax|label=ノースエンド}}では、住民が自宅に取り残されたまま街区全体が猛火に包まれた。爆発で吹き飛ばされ衣服を引き裂かれた消防士のビリー・ウェルズ(Billy Wells)は、生存者が見た惨状をこう表現した「恐ろしい光景だった。窓の外に死体がぶら下がり、頭がない死体や頭上の電信線まで飛ばされた死体もあった。」。彼は消防車「パトリシア号」の隊員8人のうち唯一の生存者であった{{Sfn|Mac Donald|2005|p=71}}。
この会議で港の管理責任者がイモは出港を届け出ていないという重大な事実を持ち出したが、実際はこの届け出自体が有名無実で習慣的に実行されていなかったことが明らかになった。さらに、イモの所有者が雇った[[弁護士]]によって最後に転針したモンブランに全責任があるという結論で終結した。このため、モンブランの船長、水先案内人、港の管理責任者の3人が殺人罪で起訴・収監され、これに対してモンブランの所有者側は直ちにカナダの[[最高裁判所]]に提訴した。これは更に[[枢密院 (イギリス)|英国枢密院]]に持ち込まれ、最終的にイモとモンブランが2票ずつ、両方に同等の責任があるとし、殺人罪に問われた3人は証拠不十分で釈放された。


アカディア製糖工場(Acadia Sugar Refinery)といった、第6埠頭付近にあったレンガ造や石造の大工場は消滅して瓦礫の山となり、ほとんどの労働者が死亡した{{Sfn|Armstrong|2002|p=42}}。爆発地から1.5キロメートル離れた{{仮リンク|ノバスコシア紡績会社|en|Nova Scotia Cotton Manufacturing Company|label=ノバスコシア紡績工場}}は、火災とコンクリートの床が崩れて破壊された{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=43}}。{{仮リンク|王立カナダ海軍大学校|en|Royal Naval College of Canada}}の建物は酷く損傷し、複数の生徒と教官が重傷を負った<ref>{{Cite news|last=Chaplin |first=Charmion |url=http://www.forces.gc.ca/site/commun/ml-fe/article-eng.asp?id=2862 |title=The Royal Naval College of Canada Closes |work=The Maple Leaf |volume=9 |number=23 |date=2006-06-01 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120401182805/http://www.forces.gc.ca/site/commun/ml-fe/article-eng.asp?id=2862 |archivedate=2012-04-01 }}</ref>。リッチモンド車両基地と駅は破壊され、鉄道員55人が死亡し、500両を超える車両が破壊・損傷した。カナダで最も活気がある駅の一つである{{仮リンク|ノースストリート駅 (ハリファックス)|en|North Street Station (Halifax)|label=ノースストリート駅}}も酷く損傷した<ref name=smith>{{Cite journal|author=Smith, Douglas|title=The Railways and Canada's Greatest Disaster: The Halifax Explosion, December 6, 1917|journal=Canadian Rail|issue=431|date=November-December 1992|pages=202-212}}</ref>。
== その他 ==

本爆発事故を調査する過程において、その威力の大きさが[[爆風|反射波]]によるものであることがわかった。その後の兵器に利用され、[[原子爆弾]]も上空で爆発させることによって破壊力を増した。
[[ファイル:Panoramic view of damage to Halifax waterfront after Halifax Explosion, 1917.jpg|thumb|upright=3.4|center|爆発から数日後、製糖工場の廃墟から、跡形もなくなったリッチモンド通り越しに見た波止場の光景。爆発時点の第6埠頭の残骸が右端にある。]]
爆発が発生した第6埠頭から約{{Convert|750|ft}}の車両基地にいた、大陸横断鉄道の運行管理者{{仮リンク|ビンス・コールマン (鉄道運行管理者)|en|Vince Coleman (train dispatcher)|label=ビンス・コールマン}}の自己犠牲がなければ死者数はさらに増えたかもしれなかった。彼と同僚のウィリアム・ロヴェット(William Lovett)は船員から燃え盛るモンブランの危険な積荷のことを知り、逃げ始めた。コールマンは、[[セントジョン (ニューブランズウィック州)|ニューブランズウィック州セントジョン]]から近づく旅客列車があと数分で到着するはずだと思い出し、独り持ち場へ戻り、列車を止めるため緊急電信を送り続けた。いくつかのメッセージが記録されており、{{仮リンク|大西洋海事博物館|en|Maritime Museum of the Atlantic}}のものにはこうある、「列車を止めろ。第6埠頭に向かっている弾薬船が港内で火事になり爆発しそうだ。これが私の最後のメッセージと思ってほしい。さようなら」。コールマンのメッセージはハリファックスに近づいている全列車を停止させることとなった。電信は大陸横断鉄道の他の駅で受信され、鉄道員が即座に対応するのに役立った<ref name=conlin>{{Cite web|url=https://maritimemuseum.novascotia.ca/what-see-do/halifax-explosion/vincent-coleman-and-halifax-explosion|author=Conlin, Dan|title=Vincent Coleman and the Halifax Explosion|publisher=Maritime Museum of the Atlantic|accessdate=2015-04-25}}</ref>{{Sfn|Mac Donald|2005|pp=1-3}}。セントジョンからの夜行である第10旅客列車は、警告に従い、爆発から安全距離にある{{仮リンク|ロッキングハム (ノバスコシア州)|en|Rockingham, Nova Scotia|label=ロッキングハム}}で停止し、約300人の乗客を救ったと信じられている。コールマンは自分の持ち場で爆発により死亡した<ref name=conlin/>。彼は1990年代に{{仮リンク|ヘリテージ・ミニッツ|en|Heritage Minute}}で表彰され、2000年にカナダ鉄道殿堂入りとなり<ref>{{Cite web|url=http://www.railfame.ca/sec_ind/heroes/en_2004_ColemanV.asp|publisher=Canadian Railway Hall of Fame|title=Vince Coleman (2004)|accessdate= 2015-06-13}}</ref>、そして2018年には新たな{{仮リンク|ハリファクス・ダートマスフェリー|en|Halifax-Dartmouth_Ferry_Service}}に彼の名前が付けられた<ref>{{Cite news|last1=Quon|first1=Alexander|title=Halifax officially unveils municipality’s newest ferry, the Vincent Coleman|url=https://globalnews.ca/news/4082383/halifax-ferry-vincent-coleman/|accessdate= 2018-05-15|work=Global News}}</ref>。

== 救助活動 ==
[[ファイル:Aftermath in Halifax of the great Halifax explosion 1917.jpg|thumb|爆発後のハリファクス]]
{{External media | width = 210px | float = right | video1 = [http://www.cbc.ca/archives/entry/halifax-explosion-surviving-the-disaster ハリファックス大爆発の生存者(英語)]。6:54、1957年12月1日、[[カナダ放送協会]]<ref name="CBCa">{{Cite web | title =Surviving the disaster of the Halifax Explosion | work = | publisher = [[カナダ放送協会]] | date = 1957-12-01 | url =http://www.cbc.ca/archives/entry/halifax-explosion-surviving-the-disaster | accessdate = 2016-10-14 }}</ref> }}
最初の救助活動は、隣人や同僚が建物から犠牲者を引きずり出したり掘り出したりすることで始まった。初期の非公式な対応にすぐに、生き残った警察官や消防士、到着し始めた軍人が加わった。作業車を持つ者も同様であり、あらゆる種類の、乗用車やトラック、配達用ワゴンが負傷者を収容するために使われた<ref>{{Cite web|url=http://thechronicleherald.ca/metro/1256017-weekend-focus-helping-hands-for-victims-of-halifax-explosion|work=The Chronicle Herald|title=Helping hands for victims of Halifax Explosion|author=Shiers, Kelly|date=2014-12-06|deadurl=yes |archiveurl=http://web.archive.org/web/20171206195203/http://thechronicleherald.ca/metro/1256017-weekend-focus-helping-hands-for-victims-of-halifax-explosion |archivedate= 2017-12-06 |accessdate=2019-03-29}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://marinecurator.blogspot.ca/2013/12/pennies-from-hell.html |author=Conlin, Dan|title=Pennies from Hell: A Milkman's pennies from the Halifax Explosion|publisher=Maritime Museum of the Atlantic|date=2013-12-05 |accessdate=2019-03-24}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://exhibits.hsl.virginia.edu/halifax/volunteers/|publisher=University of Virginia|title=Volunteers|work=From one moment to the next: the Halifax Explosion|year=2007|accessdate=2019-03-29}}</ref>{{Sfn|Flemming|2004|pp=53-55}}。大量の犠牲者が市の病院に運び込まれたが、たちまち病院から溢れた{{Sfn|Kitz|1989|p=53}}。キャンプ・ヒル(Camp Hill)にある新しい軍病院は、12月6日に約1,400人の犠牲者を受け入れた{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=73}}。

災害に最初に対応した者の中には消防士もいた。彼らはモンブランに急行し、爆発が起きる前に消火しようとした{{Sfn|Glasner|2011|p=30}}。また爆発後も、ハリファックス中から、そして当日中に救援列車に乗って、200キロメートル離れた{{仮リンク|アマースト (ノバスコシア州)|en|Amherst, Nova Scotia|label=アマースト}}や、260キロメートル離れた[[モンクトン]]から支援のため駆け付けた消防隊とともに働いた<ref name=conlin/><ref name=hpff/>。{{仮リンク|ハリファックス地方火災救急サービス|en|Halifax Regional Fire and Emergency|label=ハリファックス消防署}}の西通り第2署は、カナダ初の消防自動車「パトリシア号」の乗員とともに第6埠頭へ最初に到着した。爆発の瞬間には、火事がドックへ広がる中、ホースを伸ばしている最中であった。この日、ハリファックス消防署の隊員9人が殉職した<ref name=hpff>{{Cite web|url=http://www.hpff.ca/memorials/halifax-explosion/|title=Memorials - The Halifax Explosion|publisher=Halifax Professional Fire Fighters Association|accessdate= 2015-04-29}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://halifaxmag.com/cover/the-last-alarm/|work=Halifax Magazine|title=The last alarm|author=Landry, Janice|date= 2012-11-28|accessdate=2019-03-24}}</ref>。

港内にいたイギリス海軍の巡洋艦は、救助隊を組織し陸上へ派遣した。[[武装商船]]チャンギノラ(Changuinola)、ナイト・テンプラー(Knight Templar)、{{仮リンク|カルガリアン (1913年建造の船)|en|HMS Calgarian (1913)|label=カルガリアン}}とともに巡洋艦{{仮リンク|ハイフライヤー (1898年建造の船)|en|HMS Highflyer (1898)|label=ハイフライヤー}}が、救助隊と医師を乗せたボートを岸に送り、すぐに負傷者を運び始めた{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=21}}。[[アメリカ沿岸警備隊]]の小艇{{仮リンク|モリル (1889年建造の船)|en|USRC Morrill (1889)|label=モリル}}も救助隊を送った<ref>{{Cite book|last1=Larzelere|first1=Alex|title=The Coast Guard in World War I: an Untold Story|date=2003|publisher=Naval Institute Press|isbn=978-1-55750-476-0|pages=74, 79-80}}</ref>。沖合ではアメリカ海軍の巡洋艦[[タコマ (防護巡洋艦)|タコマ]]と仮装巡洋艦{{仮リンク|クロンプリンツ・ヴィルヘルム|en|SS Kronprinz Wilhelm|label=フォン・ステューベン}}がアメリカへ向けハリファックス沖を通過していた。タコマは爆風により酷く揺れ、乗員は{{仮リンク|総員配置|en|general quarters}}についた<ref>{{Cite web|url=http://www.crhnet.ca/sites/default/files/library/HazNet_Special_Edition_2014-01-15.pdf|work=HazNet|date=Winter 2014|title=Blasts from the past|page=9|accessdate=2019-03-24}}</ref>。立ち上る大きな煙の塊を見て、タコマは進路を変更し午後2時に救助支援のため到着、フォン・ステューベンはその30分後に到着した{{Sfn|Mac Donald|2005|p=70}}。修理のためハリファックスのドックにいた、アメリカの蒸気船オールド・コロニー(Old Colony)は小さな被害を受けたが、港内にいたイギリス・アメリカ海軍の船医と用務員を乗せて、すぐに病院船となった{{Sfn|Armstrong|2002|pp=28-29, 68}}。

呆然とした生存者たちは、すぐに爆発がドイツ軍の飛行機から落とされた爆弾によるものと怖がった{{Sfn|Mac Donald|2005|p=70}}。砲台と兵舎にいた部隊は街が攻撃された場合に備えて直ちに出動したが、爆発の原因と場所が特定されたため、一時間もしないうちに、防衛から救出へ任務を変更した。行動可能な全部隊が港の要塞と兵舎からノースエンドへ召集され、生存者を救出し、市内の軍病院2ヶ所を含む病院へ搬送した{{Sfn|Armstrong|2002|pp=57-58}}。

混乱に加えて、第二の爆発が恐れられた。ウェリントン駐屯地(Wellington Barracks)の弾薬庫で水兵が消火した時、通風孔から蒸気の雲が噴き出た。火はすぐに消されたが、雲が離れた場所から見え、たちまち別の爆発が迫っているとの噂になった{{Sfn|Armstrong|2002|pp=58-59}}。軍服姿の将校が皆にその地区から去るよう命令した{{Sfn|Mac Donald|2005|p=100}}。噂は街中に広がり、多くの家族が自宅から逃げた。正午近くに恐怖が去るまで二時間以上にわたり、混乱が活動を妨害した<ref name="AtCityHall">{{Cite web |url=http://www.cbc.ca/halifaxexplosion/he3_shock/he3_shock_city_hall.html |title=The Halifax Explosion - At city hall |publisher=CBC |accessdate=2012-01-20}}</ref>{{Sfn|Flemming|2004|p=58}}。救助活動を行っていた多くの者が避難を無視し、海軍の救助隊は港で活動を中断せず続けた{{Sfn|Flemming|2004|p=58}}{{Sfn|Armstrong|2002|p=60}}。

災害の中心地にある操車場で生き残った鉄道員たちは救援活動に執りかかり、港やがれきの下から人々を救出した。セント・ジョン(Saint John)発の夜行列車はハリファックスに向かっている最中に爆風を受けたが、軽微な被害で済んだ。同列車は線路が残骸で遮られるまでリッチモンドへ走行し続けた。列車の乗客と兵士は、車両の緊急脱出器具を持ち出し家から被災者を救い出し、寝台車のシーツを包帯として使った。同列車は、負傷者を乗せて医者とともにハリファックスを1:30に出発し、{{仮リンク|トゥルーロ (ノバスコシア)|en|Truro, Nova Scotia|label=トゥルーロ}}へ向かった<ref name=conlin/>{{Sfn|MacMechan|Metson|1978|pp=42-43}}。

{{仮リンク|マッカラン・グラント|en|MacCallum Grant}}{{仮リンク|ノバスコシア副総督|en|Lieutenant Governor of Nova Scotia|label=副総督|redirect=1}}の指揮で、主要な市民が正午頃ハリファックス救援委員会を立ち上げた。同委員会は、ハリファックスとダートマス向けの医療救援の組織化、輸送、食料、避難所の提供、被害者のための医療や埋葬費用の負担を受け持った<ref name="AtCityHall" />{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=31}}。委員会は1976年まで存続し、再建や救援活動に加わり、後に生存者向けの住居を提供した{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=32}}<ref>{{Cite web|url=http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/halifax-relief-commission/|work=The Canadian Encyclopedia|title=Halifax Relief Commission|author=Kernaghan, Lois|date=2013-12-16|accessdate=2019-03-24}}</ref>。

救援列車がカナダ大西洋岸やアメリカ合衆国北東部から急派された。最初の列車は、医療関係者や物資を積んで午前10時頃トゥルーロを出発し、正午までにハリファックスに到着。午後3時には負傷者と住宅難民を乗せてトゥルーロへ戻った。線路はベッドフォード湾の西端のロッキンガムの先で不通になっていた。負傷者のもとに行くために、救助隊は軍が道路をきれいにした場所まで廃墟の街を通って歩かなければならなかった{{Sfn|Kitz|1989|pp=64-65}}。日暮れまでに12本の列車が、ノバスコシアのトゥルーロ、{{仮リンク|ケントビル (ノバスコシア州)|en|Kentville, Nova Scotia|label=ケントビル}}、アンハースト(Amherst)、{{仮リンク|ステラトン (ノバスコシア州)|en|Stellarton, Nova Scotia|label=ステラトン}}, {{仮リンク|ピクトー|en|Pictou}}、[[シドニー (ノバスコシア州)|シドニー]]、ニューブランズウィックの{{仮リンク|サックビル (ニューブランズウィック州)|en|Sackville, New Brunswick|label=サックビル}}、[[モンクトン]]、セント・ジョンからハリファクスに到着した{{Sfn|MacMechan|Metson|1978|p=42}}<ref name=smith/>。

救援活動はハリファクスを覆った{{Convert|16|in|cm}}の大雪により、翌日は妨害された。カナダの他地域やアメリカ合衆国から来る途中の列車は吹き溜まりで立ち往生し、爆発後に急いで修理された電信線は再び使えなくなった。ハリファックスは嵐により孤立し、救援委員会は生存者の探索の一時休止を強いられた。が、嵐は街中の消火活動の助けになった<ref>{{Cite news |url=https://news.google.com/newspapers?id=vgpkAAAAIBAJ&sjid=v3oNAAAAIBAJ&pg=1667%2C4270484 |title=Injured dying in snowbound relief trains |work=Calgary Daily Herald |date= 1917-12-08 |page=1}}</ref><ref>{{Cite journal|url=http://www.oumedicine.com/docs/ad-psychiatry-workfiles/allthedrt_fall_2008.pdf?sfvrsn=2|pages=9-12|journal=The Newsletter of the Child & Family Disaster Research Training & Education Initiative|title=Disasters in history: the Halifax Explosion of 1917|volume=4|issue=3|date=Fall 2008}}</ref>。

== 破壊および人的損害 ==
[[ファイル:Halifax Explosion Aftermath LOC 2 - restored.jpg|thumb|upright=1.15|爆発後の光景:ハリファックス博覧会ビル。最後の死体は1919年、ここで発見された{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=62}}。]]
[[ファイル:Halifax Explosion Aftermath LOC 1 - retouched.jpg|thumb|upright=1.15|爆発後の光景:ゲッティンゲン(Göttingen)通りとケイ(Kaye)通りの南東角にあった、聖ヨハネ修道院(St. Joseph's Convent)。]]
[[ファイル:Maritime Conservatory June 2015.jpg|thumb|遺体安置所として使用されたシェブクト・ロード・スクール(Chebucto Road School)]]
爆発による正確な死者数は不明である。{{仮リンク|ノバスコシア・アーカイブス|en|Nova Scotia Archives and Records Management}}が2002年に編纂した公式データベースであるThe Halifax Explosion Remembrance Bookでは、犠牲者を1,950人としている<ref name=pans>{{Cite web|url=https://novascotia.ca/archives/remembrance/ |title=Halifax Explosion Remembrance Book |publisher=Public Archives of Nova Scotia |date=2009-11-26 |accessdate=2019-03-29}}</ref>。1,600人もの人々が、爆風や津波、建物の崩壊で即死した。最後の死体である、博覧会ビルで死亡した管理人は1919年夏まで収容されなかった{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=62}}。さらに9,000人が負傷した<ref name=scan/>。爆発と火災で1,630棟の住居が破壊され、12,000棟が損傷した。約6,000人が家を失い、25,000人は避難所が不足していた<ref>{{Cite web|url=https://maritimemuseum.novascotia.ca/what-see-do/halifax-explosion/halifax-explosion-infosheet|title=Halifax Explosion infosheet|publisher=Maritime Museum of the Atlantic|author=Kitz, Janet|date=2009-02-19 |accessdate=2019-03-29}}</ref><ref name=canen>{{Cite web |last=Kernaghan |first=Lois |last2=Foot |first2=Richard |url=http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/halifax-explosion/ |title=Halifax Explosion |work=The Canadian Encyclopedia |date=2015=03-04|accessdate=2019-03-24}}</ref>。工業地区は大部分が失われ、犠牲者の中には多くの労働者が含まれ、造船所は大被害を受けた<ref name=dev>{{Cite web |url=http://www.cbc.ca/halifaxexplosion/he3_shock/he3_shock_destruction.html|publisher=CBC|title=The destruction|work=City in Shock|accessdate=2015-04-30}}</ref>。

アルダーマン・R・B・コールドウェル(Alderman R. B. Coldwell)を委員長とする死体安置委員会が、爆発当日の朝すぐに{{仮リンク|ハリファックス市役所|en|Halifax City Hall}}内に設置された。{{仮リンク|ウエストエンド (ハリファックス)|en|West End, Halifax|label=ウエストエンド地区}}にあるシェブクト・ロード・スクール(Chebucto Road School、現在のMaritime Academy of Performing Arts)が中央死体安置所に選ばれた{{Sfn|Flemming|2004|p=67}}。{{仮リンク|王立カナダ工兵隊|en|Royal Canadian Engineers}}の中隊が学校の地下室を死体置き場に、教室をハリファックス検死官の事務所に修理・改造した。死体を積んだトラックや荷馬車がすぐに到着した{{Sfn|Kitz|1989|p=60}}。死体置き場が作られると、アーサー・S・バーンステッド(Arthur S. Barnstead)検死官はコールドウェルから引き継ぎ、慎重に死体を数え描写するシステムを実行した。これは彼の父ジョン・ヘンリー・バーンステッド(John Henry Barnstead)が1912年に[[タイタニック号沈没事故|タイタニック号の犠牲者]]を識別するために開発したシステムに基づいていた<ref>{{Cite web|url=http://maritimemuseum.novascotia.ca/what-see-do/titanics-halifax-connection/titanic-information|title=Titanic Infosheet|publisher=Maritime Museum of the Atlantic|accessdate= 2015-04-30}}</ref>。

爆発による負傷の多くが、例えば飛散したガラスや爆発の閃光を原因するもので、永久的な障害となった。数千人が港内で燃える船を見るため立ち止まっていた。建物の中にいた多くの者が粉々になった窓ガラスの破片を直接浴びた。約5,900人が目を負傷し、うち41人が失明したとの報告がある{{Sfn|Mac Donald|2005|p=234}}。

被害額は約3,500万カナダドル(現在の{{Inflation|CA|35|1917|r=0}}00万カナダドル)と推計された<ref name=canen/>。様々なところから約3,000万ドルの財政支援が行われた{{sfn|Armstrong|2002|p=213}}。その中には連邦政府からの18百万ドル、イギリス政府からの400万ドル超、マサチューセッツ州からの75万ドルが含まれていた<ref>{{Cite web|url=https://www.halifax.ca/recreation/arts-culture-heritage/halifax-explosion/halifax-explosion-history|publisher=Tourism Halifax|title=Halifax Explosion|accessdate=2015-04-30}}</ref>。

===ダートマス ===
ダートマスはハリファックスほど人口が密集しておらず、港を挟んで爆心地から距離があったが、それでも大被害を負った。ダートマス側で約100人が死亡したと推定されている。窓は粉々に割れ、{{仮リンク|オランド醸造所|en|Oland Brewery}}やスタール製造会社(Starr Manufacturing Company)の一部を含む、多くの建物が損傷を受けたり、破壊された<ref name=dev/>。ダートマスにあった唯一の病院である{{仮リンク|ノバスコシア病院|en|Nova Scotia Hospital}}では、犠牲者の多くが治療を受けた{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=109}}。

=== ミクマク集落 ===
ベッドフォード湾のダートマス側にある入り江とその周囲には、[[ミクマク]]族の小さな飛び地があった。ハリファックスの第9埠頭の真向かいに位置する{{仮リンク|タフツ・コーブ (ノバスコシア)|en|Tufts Cove, Nova Scotia|label=タフツ・コーブ}}(タートル・グローブ(Turtle Grove)とも呼ばれる)にコミュニティがあった。その居住は18世紀にさかのぼるが、白人入植者の地主がミクマク族の住民を追い出そうとして対立していた。爆発前のはるか前から、{{仮リンク|先住民及び北部格差是正庁|en|Indigenous and Northern Affairs Canada|label=先住民サービス局}}がミクマク族に土地を諦めさせようとしていたが、爆発時には解決していなかった{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=87}}<ref name=":0">{{Cite journal|last1=Remes|first1=Jacob|title=Mi'kmaq in the Halifax Explosion of 1917: Leadership, Transience, and the Struggle for Land Rights|journal=Ethnohistory|date=2014|volume=61|issue=3|pages=445-466|doi=10.1215/00141801-2681732|url=http://ethnohistory.dukejournals.org/content/61/3/445.abstract|accessdate=2016-07-12}}</ref>。モンブランの火災は港の両岸の多くの見物人の注意を引いた<ref name=dev/>。集落の建造物は爆発と津波により消滅した<ref name=canen/>。ミクマク族の正確な死者数は不明だが、9人の遺体が収容され、災害後に集落は再建されなかったと記録されている{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=88}}。犠牲者の記録(Halifax Remembrance Book)にはタフツ・コーブで死亡した16人が記載されている。ただし記載された死者全員が先住民ではない<ref name=pans/>。生存者は、概して酷い状態の人種的に隔離された建物に住み、やがてノバスコシア各地に離散した<ref name=":0" />。

=== アフリクビル ===
{{仮リンク|ハリファックス半島|en|Halifax Peninsula}}に隣接するベッドフォード湾の南岸にあった、{{仮リンク|アフリクビル|en|Africville}}の[[黒人]]街は、南に向かって高くなっている斜面の影となり、爆風の直撃を免れた<ref name=dev/>。アフリクビルの小さい脆弱な家屋は爆発によりひどい被害を受けた<ref name=tat/>。住民5人が死亡したと記録されている<ref>{{Cite web|url=https://novascotia.ca/archives/virtual/remembrance/Results.asp?Search=Africville&fieldSelect=keyword |title=Halifax Explosion Book of Remembrance |publisher=Public Archives of Nova Scotia |date=2010-12-02 |accessdate= 2011-02-25}}</ref>。アフリクビルはわずかな寄付支援金しか受け取ることができず、爆発後に他地区のような革新的な再建は行われなかった<ref name=tat>{{Cite web|url=http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/africville/|work=The Canadian Encyclopedia|title=Africville|author=Tattrie, Jon|date=2014-01-27 |accessdate=2019-03-29}}</ref><ref name=heb>{{Cite journal|title=Building the old new order: Halifax in the wake of the great explosion|author=Hebert, Michelle|journal=New Maritimes|volume=14|issue=4|date=March-April 1996|pages=4-15}}</ref>。

== 捜査 ==
ハリファックスの多くの市民が当初、爆発はドイツ軍の攻撃によるものと信じた{{Sfn|Glasner|2011|p=123}}。{{仮リンク|ザ・クロニクル・ヘラルド|en|The Chronicle Herald|label=ハリファックス・ヘラルド}}は、ドイツ人が爆発の被害者を嘲笑しているなどと、しばらくの間、それが事実であると喧伝し続けた{{Sfn|MacMechan|Metson|1978|p=143}}。イモの操舵手のノルウェー人、ヨハン・ヨハンセン(John Johansen)は、爆発で負った重傷の治療を受けている間、怪しい行動を取っていたと憲兵に通報された。ヨハンセンは、ドイツ語で書かれたと思しき手紙を所持しているのを発見されると、ドイツのスパイ容疑で逮捕された<ref>{{Cite news|url=https://pqasb.pqarchiver.com/courant/doc/556533267.html?FMT=ABS&FMTS=ABS:AI&type=historic&date=Dec 14, 1917&author=&pub=Hartford Courant&edition=&startpage=&desc=HELMSMAN OF SHIP THAT HIT MONT BLANC, HELD AS SPY|title=Helmsman of ship that hit Mont Blanc held as spy|date=1917-12-14|work={{仮リンク|Hartford Courant|en|Hartford Courant}}|page=1}}</ref>。しかし実際にはノルウェー語で書かれたものであることが明らかになった{{Sfn|MacMechan|Metson|1978|p=143}}。爆発直後、ハリファックスのドイツ人生存者のほとんどが検挙され投獄された{{Sfn|Armstrong|2002|p=113}}<ref>{{Cite news|title=Elements still scourge desolated city of Halifax, 1050 bodies at morgues; all Germans being arrested|date= 1917-12-10|work={{仮リンク|ザ・ガゼット (モントリオール)|en|The Gazette (Montreal)|label=The Gazette}}|page=1|volume=CXLVL|issue=295}}</ref>。ドイツ人の関与の噂は残っていたが、本当の爆発原因が知られるようになって、ようやく恐怖が消え失せた<ref>{{Cite journal|journal=Journal of the Royal Nova Scotia Historical Society|title=The Halifax Explosion and the spread of rumour through print media, 1917 to the present|author1=Graham, Gayle |author2=MacDonald, Bertrum |year=2014|volume=17|page=92}}</ref>。

衝突の原因を捜査するため海難審判が組織された。審判は1917年12月13日に{{仮リンク|ハリファックス裁判所|en|Halifax Court House}}で開廷し、ジャスティス・アーサー・ドライスデール(Justice Arthur Drysdale)が審判長を務めた{{Sfn|Flemming|2004|p=71}}。1918年2月4日に出された審判報告書は、モンブランの船長エメ・ル・メデック、水先人フランシス・マッケイ、それと、港や水路、対潜防御を担当する王立カナダ海軍主任検査官のF・エヴァン・ワイアット(F. Evan Wyatt)中佐に衝突の責任があると非難した{{Sfn|Flemming|2004|p=71}}。強い反フランス感情がある地元の意見と、イモの弁護士チャールズ・バーシェル(Charles Burchell)が用いた「ストリートファイター」風の討論に恐らく影響を受けていた、自治領海難審判官L・A・デメールズ(L. A. Demers)の「モンブランの責任はどんな犠牲を払っても衝突を確実に回避することだけであった」という意見に、ドライスデールは同意した<ref>{{Cite book|authors=Johnston, William; Rawling, William; Gimblett, Richard; MacFarlane, John|title=The seabound coast|date=2010|publisher=Dundurn Press|isbn=978-1-55488-908-2|pages=525-526}}</ref>{{Sfn|Armstrong|2002|pp=113-114, 122}}。W・A・ヘンリー(W. A. Henry)検事によれば、これはイモが水路の間違った側を通過したことを非難されるものと予期していた「ほとんどの人々にとって大きな驚き」であった{{Sfn|Armstrong|2002|p=187}}。三人は、リチャード・A・マクロード(Richard A. McLeod)判事の予備審問で{{仮リンク|故殺|en|manslaughter|redirect=1}}および[[過失犯|刑事過失]]により訴追され、裁判所に送られた。{{仮リンク|ノバスコシア最高裁判所|en|Nova Scotia Supreme Court}}の司法官{{仮リンク|ベンジャミン・ラッセル (カナダの政治家)|en|Benjamin Russell (Canadian politician)|label=ベンジャミン・ラッセル}}は、これらの訴追を裏付ける証拠がないことを見つけた。マッケイは[[ヘイビアス・コーパス]]により釈放され、起訴も取り下げられた。ル・メデックの訴追も却下された。残るワイアットだけが大陪審にかけられた。1918年4月17日、陪審団は1日かからずに終わった裁判で彼を無罪とした{{Sfn|Mac Donald|2005|p=270}}{{Sfn|Armstrong|2002|pp=196-201}}。

ドライスデールは、2隻の所有者が互いに損害賠償請求する最初の民事訴訟も監督した。彼の判決(1918年4月27日)は、モンブランに完全な責任があるとした。[[カナダ最高裁判所]]の控訴審(1919年5月19日)、ロンドンの{{仮リンク|枢密院司法委員会|en|Judicial Committee of the Privy Council}}(1920年5月22日)は、モンブランとイモが、衝突を引き起こした航行上のミスに関し等しく責任があると決定した{{Sfn|Flemming|2004|p=71}}{{Sfn|Armstrong|2002|p=187}}<ref>{{Cite journal|journal=Journal of the Royal Nova Scotia Historical Society|author=Kitz, Janet|title=The Inquiry into the Halifax Explosion of December 6, 1917: the legal aspects|volume=5|year=2002|page=64}}</ref>。関係者は誰も有罪を宣告されたり、災害を引き起こした行動で起訴されたりすることはなかった<ref name=canen />。

== 再建 ==
[[ファイル:No 3905 Page 25, gare du Nord.jpg|thumb|{{仮リンク|ノースストリート駅 (ハリファックス)|en|North Street Station (Halifax)|label=ノースストリート駅}}の瓦礫を片付ける労働者。]]

爆発から間もなく、瓦礫を片付け、建物を修復し、爆発で家を失った生存者の仮設住宅を建てる作業が開始された。1918年1月下旬時点で、まだ約5千人は家がなかった{{Sfn|Flemming|2004|p=73}}。ロバート・ロウ(Robert Low)大佐が率いる再建委員会は、マサチューセッツ=ハリファックス救援基金(Massachusetts-Halifax Relief Fund)から資金を得て832軒の住宅を建設した{{Sfn|Flemming|2004|p=74}}。

12月7日、サウスエンドの臨時駅で鉄道が部分的に再開した。12月9日、線路が清掃され、{{仮リンク|ノースストリート駅 (ハリファックス)|en|North Street Station (Halifax)|label=ノースストリート駅}}が再開し、全面運行が復活した。{{仮リンク|カナダ国有鉄道|en|Canadian Government Railways|redirect=1}}は、操車場の清掃と修復および鉄道桟橋と海軍工廠の再建を行う特別部隊を編成した。ほとんどの埠頭は12月末には操業を再開し、1月までに修理された<ref name=smith/>。ノースエンド・ハリファックスのリッチモンド地域は、爆発の矢面に立った<ref name=dev/>。1917年時点で、労働者階級が住む地域とみられたリッチモンドには舗装道路がほとんどなかった。爆発後、ハリファックス救援委員会はリッチモンドの再建をノースエンドの改良・近代化の機会であるとした。イギリス人の都市計画家[[トーマス・アダムス (都市計画家)|トーマス・アダムス]]とモントリオールの建築事務所{{仮リンク|ロス・アンド・マクドナルド|en|Ross and Macdonald}}がリッチモンドの新しい住宅計画を作成するために集められた。アダムスはビクトリア風の[[田園都市|田園都市運動]]に刺激されて、緑地へのアクセスや低層・低密度で複合機能を持つ市街地を作ることを企図した{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=53}}<ref name=heb/>。並木がある舗装された大通りに面して326戸の住宅が設計された{{Sfn|Flemming|2004|pp=80–81}}。その住宅は革新的な防火素材であるハイドロストーンと呼ばれる圧縮セメントのブロックで建てられた{{Sfn|Flemming|2004|p=81}}<ref name=heb/>。1919年3月までには最初の家に入居が行われた{{Sfn|Flemming|2004|p=81}}。完成すると、住居、ビジネス街、公園のある{{仮リンク|ザ・ハイドロストーン|en|The Hydrostone}}地域は、ハリファックスのノースエンドのコミュニティに新たな感性を生み出すのを助けた。現在では高級住宅街や商業地区となっている{{Sfn|Kitz|Payzant|2006|p=56}}。対照的に、アフリクビルの貧しく未開発の地域は再建事業に含まれなかった<ref name=heb/>。

ハリファックス海軍工廠の全ての建物、巡洋艦「[[ナイオビ (防護巡洋艦)|ナイオビ]]」、ドッグそのものは何らかの修理が必要となった。しかし掃海艇や警備艇は全て無傷であった{{Sfn|Armstrong|2002|p=98}}。[[ロバート・ボーデン]]首相は、政府は「ハリファックス港を再建するため全面協力する。これは大英帝国にとって最重要だ」と誓約した{{Sfn|Armstrong|2002|p=99}}。アメリカ海軍「タコマ(Tacoma)」のシミントン(Symington)船長は港は数か月使用できないと推測したが{{Sfn|Armstrong|2002|p=105}}、12月11日には護送船団が出発し、クリスマス前に海軍工廠は再稼働した{{Sfn|Armstrong|2002|pp=108-110}}

== レガシー ==
{{See also|{{仮リンク|大衆文化におけるハリファックス大爆発|en|Halifax Explosion in popular culture}}}}
[[ファイル:Halifax Memorial Bell Tower.jpg|thumb|ハリファックス大爆発メモリアル・ベルタワー]]
ハリファックス大爆発は、[[人によって引き起こされた核爆発以外の大爆発一覧|人間が引き起こした核爆発以外の大爆発]]の一つである。1994年にハリファックスの歴史家ジェイ・ホワイト(Jay White)は130の大爆発を幅広く比較し、「ハリファックス大爆発は、5つの要素:被害者数、爆発力、廃墟の半径、爆発物の量、破壊された資産の総額を複合的に考察する限り、全体的な規模で並ぶものがない。」と結論付けた{{Sfn|Ruffman|Howell|1994|p=266}}。長い間、ハリファックス大爆発は大きな爆発を比較する上での基準となった。例えば、[[日本への原子爆弾投下|広島への原子爆弾投下]]の報道で「[[タイム (雑誌)|タイム]]」誌は、[[リトルボーイ]]の爆発力はハリファックス大爆発の7倍だと述べた<ref name=TimeDisaster/>。

爆発による多数の目の負傷者は、医師の一部に負傷した目の治療方法のより良い理解をもたらし、[[ダルハウジー大学]]教授のヴィクトリア・アレン(Victoria Allen)によると、「新たに設立された{{仮リンク|カナダ国立失明研究所|en|Canadian National Institute for the Blind}}により、ハリファックスは失明治療の中心として世界的に知られるようになった」<ref name=jogc>{{Cite journal|author=Allen, Victoria|title=Barometer rising|journal=JOGC|volume=33|issue=7|date= 2011-07|pages=693-694}}</ref>。こうした災害での組織的な[[小児科学|小児科]]治療の欠如も、ボストンから応援に来た外科医の{{仮リンク|ウィリアム・E・ラッド|en|William E. Ladd}}により言及された。ラッドの爆発への洞察は、彼を北アメリカにおける[[小児外科学]]専門家のパイオニアにさせたと一般的に信じられている<ref name=jogc/><ref name="Goldbloom">{{Cite journal|last=Goldbloom|first=Richard B.|date=1986-05|title=Halifax and the Precipitate Birth of Pediatric Surgery|journal=Pediatrics|volume=77|issue=5 |page=764|pmid=3517802|url=http://pediatrics.aappublications.org/content/77/5/764.abstract|ref=harv|subscription=yes}}</ref>。また、ハリファックス大爆発は{{仮リンク|公衆衛生|en|public sanitation|FIXME=日本語版記事は[[:en:Public health]]とリンク}}や{{仮リンク|出産看護|en|maternity care}}周辺を含む医療制度改革を促進した<ref>{{Cite news|url=https://www.winnipegfreepress.com/arts-and-life/life/health/hope-amid-the-rubble-how-the-disastrous-halifax-explosion-sparked-reform-450382313.html|work=Winnipeg Free Press|author=Tutton, Michael|date=2017-10-11|title=Hope amid the rubble}}</ref>。

[[ファイル:Mont Blanc Anchor Site 1.JPG|thumb|モンブランのアンカーシャフト]]

大爆発はハリファックス全ての家族や労働者集団に悪影響を及ぼしたことから、生存者にとって酷く衝撃的なものであり、その記憶は広く抑圧された。爆発1周年の記念式典の後、市は数十年間式典を行わなかった。2回目の式典が行われたのは50周年の1967年であり、その後も行われなかった<ref>{{Cite web| url=https://globalnews.ca/news/3889589/how-the-halifax-explosion-was-nearly-forgotten/ |title=The silence after the blast: How the Halifax Explosion was nearly forgotten |last=Bundale |first=Brett |date=2017-11-30 |work=Global News |accessdate=2018-01-15}}</ref>。

1964年、爆発の犠牲者を忘れないよう設計された{{仮リンク|ハリファックス・ノース・メモリアル図書館|en|Halifax North Memorial Library}}の建設が開始された。図書館の入り口には、大爆発を記憶するために建てられた最初のモニュメントである{{仮リンク|ハリファックス大爆発メモリアル・スカラプチャー|en|Halifax Explosion Memorial Sculpture}}が、芸術家の{{仮リンク|ジョルディ・ボネ|en|Jordi Bonet}}により制作された。この彫刻は2004年にハリファックス地方行政区(Halifax Regional Municipality)により解体され、部品は散逸し失われた<ref>{{Cite web|url=https://www.theglobeandmail.com/news/national/atlantic/ns-group-tries-to-bring-memorial-sculpture-back-to-life/article2124752/ |title=Precious Metals: N.S. group tries to bring memorial sculpture back to life|work=Globe and Mail|date=2011-08-09|author=Moore, Oliver|deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304085249/http://www.theglobeandmail.com/news/national/atlantic/ns-group-tries-to-bring-memorial-sculpture-back-to-life/article2124752/ |archivedate= 2016-03-04 |accessdate=2019-03-29}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.halifaxpubliclibraries.ca/hnmemorial/index.html|publisher=Halifax Public Libraries|title=Remembering the victims|year=2010|deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180608074218/http://www.halifaxpubliclibraries.ca/hnmemorial/index.html |archivedate= 2018-08-10 |accessdate=2019-03-29}}</ref>。2015年、破片の残りが、彫刻を記念展示物に戻そうという運動が行われたにもかかわらず、モントリオールに住むボネの家族に引き渡された<ref>"Mainstreet", ''CBC Radio'', February 7, 2018</ref>。ハリファックス大爆発メモリアル・ベル(Halifax Explosion Memorial Bells)は1985年に建てられ、「爆心地」に面するフォート・ニードハムの丘(Fort Needham Hill)にある巨大なコンクリート製の彫刻に近くの教会から記念の[[カリヨン]]が移された。ベルタワーでは毎年12月6日に市民による式典が開催される。レディ・ハモンド通り(Lady Hammond Road)にあるハリファックス消防署にある記念物は、爆発で殉職した消防士を顕彰している<ref>{{Cite web|url=http://www.halifax.ca/HalifaxExplosion/Monuments.html |title=Halifax Explosion Monuments |publisher=Halifax Regional Municipality |year=2011 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111105021841/http://www.halifax.ca/HalifaxExplosion/Monuments.html |archivedate= 2011-11-05 |accessdate=2019-03-29}}</ref>。モンブランの破片は、爆発の記念物として、ダートマスのアルブロ・レイク道路(Albro Lake Road)、レガッタ・ポイント(Regatta Point)のほか各地に置かれている。{{仮リンク|フェアビュー墓地 (ノバスコシア州ハリファックス)|en|Fairview Cemetery, Halifax, Nova Scotia|label=フェアビュー墓地}}とバイヤーズ・ロード墓地(Bayers Road Cemetery)には爆発の犠牲者の集団墓所がある。把握されている犠牲者全員の名前を載せたメモリアルブックがハリファックス・ノース・メモリアル図書館と、ハリファクス大爆発に関する大規模な常設展示がある大西洋海事博物館(Maritime Museum of the Atlantic)で展示されている.{{Sfn|Flemming|2004|pp=91-92}}<ref>{{Cite web|url=http://www.halifaxpubliclibraries.ca/assets/files/resource-lists/hfx_explosion.pdf|publisher=Halifax Public Libraries|title=Explosion in Halifax Harbour, December 6, 1917|accessdate= 2015-05-02}}</ref>。{{仮リンク|ハロルド・ギルマン|en|Harold Gilman}}が、災害を記憶する絵の制作を任された。その作品「夕暮れのハリファックス港(Halifax Harbour at Sunset)」は「港が邪魔されずに見えるよう視点を後ろに下げたため、最近の荒廃をあまり伝えなかった」<ref>{{Cite web|url=http://www.tate.org.uk/art/research-publications/camden-town-group/harold-gilman-r1105360|author=Bonett, Helena|work=The Camden Town Group in Context|date=2012-05|title=Harold Gilman|publisher=Tate|accessdate=2019-03-24}}</ref>。

[[ファイル:2010 Boston Halifax Christmas tree on Boston Common USA 5273771973.jpg|thumb|upright|2010年の[[ボストン・クリスマス・ツリー]]]]
{{仮リンク|ヒュー・マクレナン|en|Hugh MacLennan}}の小説「{{仮リンク|Barometer Rising|en|Barometer Rising}}」(1941年)は、爆発があった時代のハリファックスを舞台としており、爆発がハリファックスに与えた衝撃について慎重に調査した描写を盛り込んでいる{{Sfn|Williams|2009|pp=78, 81-85}}<ref name=trio/>。マクレナンの後、ジャーナリストの{{仮リンク|ロバート・マクニール|en|Robert MacNeil}}は「{{仮リンク|Burden of Desire|en|Burden of Desire}}」(1992年)を書き、大爆発を当時の社会的・文化的変化のメタファーとして用いた<ref name=trio>{{Cite news|newspaper=The Globe and Mail|title=A trio on the verge of exploding|author=Macfarlane, David|date=1992-03-07|page=C20}}</ref>。マクレナンとマクニールが大爆発をロマンス小説としたのは、{{仮リンク|フランク・マケルベイ・ベル|en|Lieutenant-Colonel Frank McKelvey Bell}}が書いた短編小説「{{仮リンク|A Romance of the Halifax Disaster|en|A Romance of the Halifax Disaster}}」(1918年)に似ていた。この作品は若い女と負傷した兵士の恋愛を描いたものである{{Sfn|Veinot|2007|p=1}}。ケリー・ロス・レッキー(Keith Ross Leckie)は2003年にテレビのミニシリーズ「{{仮リンク|Shattered City: The Halifax Explosion|en|Shattered City: The Halifax Explosion}}」の脚本を書いた。ただし、{{仮リンク|ジャネット・キッツ|en|Janet Kitz}}のノンフィクション「{{仮リンク|Shattered City: The Halifax Explosion and the Road to Recovery|en|Shattered City: The Halifax Explosion and the Road to Recovery}}」(1990年)とは関係はない。この作品は事実の歪曲と不正確な点を批判された{{Sfn|Veinot|2007|pp=19–20}}。

1918年にハリファックスは、ボストン赤十字社とマサチューセッツ公共安全委員会が災害直後に行った支援への感謝と記念として、ボストンにクリスマスツリーを贈った<ref>{{Cite news|last=Beam |first=Alex |url=http://www.boston.com/news/globe/living/articles/2005/11/29/trees_roots_get_lost_in_this_flap/ |title=Tree's roots get lost in this flap|work=The Boston Globe |date=2005-11-29}}</ref>。この贈り物は1971年に、爆発後のボストンの支援に感謝するとともにクリスマスツリー輸出の宣伝のため、年一度巨木の寄付を始めた{{仮リンク|ルーネンバーグ郡 (ノバスコシア州)|en|Lunenburg County, Nova Scotia|label=ルーネンバーグ郡}}クリスマスツリー生産者協会(Lunenburg County Christmas Tree Producers Association)により復活した。後にノバスコシア州政府により引き継がれ、貿易と観光宣伝はもちろんのこと、善意の証として続いている<ref>{{Cite journal|author=Campbell, Mark|title=Tree Expert Picks Province's Annual Gift to Boston|journal=Nova Scotia Magazine|date=November 1993|page=12}}</ref>。この木が[[ボストン・クリスマス・ツリー]]であり、ホリデーシーズンに[[ボストンコモン]]で灯される。両市にとっての象徴的な重要性に敬意を表して、ノバスコシア自然資源部(Nova Scotia Department of Natural Resources)は、ツリーの選定に特別なガイドラインを設けている<ref name="Dedham Times">{{Cite news | author=Heald, Hana | title=Nova Scotia's Christmas Tree gift to Boston has a Dedham connection| work=The Dedham Times| date=2006-12-15| volume=14| issue=51| page=3}}</ref>。

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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{Reflist|30em}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連文献 ==
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==関連項目==
* {{仮リンク|弾薬輸送または貯蔵中の事故の一覧|en|List of accidents and incidents involving transport or storage of ammunition}}
* [[ブラック・トム大爆発]]
* [[ポートシカゴの惨事]]
* {{仮リンク|ボンベイ大爆発 (1944年)|en|Bombay Explosion (1944)}} - [[ボンベイ]]港で発生した船の爆発事故。
* [[テキサスシティ大災害]] - 貨物船の爆発事故。
* {{仮リンク|ベーデンハムの爆発|en|Explosion of the RFA Bedenham}} - [[ジブラルタル]]港で発生した弾薬船の爆発事故。
* {{仮リンク|リップル・ロック|en|Ripple Rock}}

==外部リンク==
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* [http://www.cbc.ca/halifaxexplosion/ CBC Halifax Explosion Web Site]: a large interactive web site about the explosion
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* [https://www.historicacanada.ca/content/think-like-a-historian/halifax-explosion Think Like a Historian: The Halifax Explosion] Historica Canada video series.


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2019年4月3日 (水) 14:25時点における版

ハリファックス大爆発
火災積雲の写真 地図
場所 カナダ、ノバスコシア州ハリファックス
日付 1917年12月6日
午前9時4分35秒 (AST)
死亡者 2,000人(概算)(確定:1,950人)
負傷者 9,000人(概算)
テンプレートを表示

ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、英語: Halifax Explosion)は、1917年12月6日朝、カナダノバスコシア州ハリファックスで発生した大災害である。アッパー・ハリファックス港英語版ベッドフォード湾英語版を繋ぐ狭い水路で、ノルウェー船「イモ(Imo)」が、高性能爆薬を積んだフランスの貨物船「モンブラン(Mont-Blanc)」と衝突し、モンブランで発生した火災が積荷に燃え移り、ハリファックスのリッチモンド地区英語版を破壊する大爆発を起こした。爆風や破片、火災、建物の倒壊により約2,000人が死亡したほか、推定9,000人が負傷した[1]。この爆発は、核兵器開発以前に発生した人によって引き起こされた最大の爆発であり[2]、おおよそTNT換算で2.9キロトンに等しいエネルギーを放出した[3]

モンブランはフランス政府の依頼で、ニューヨークからハリファックス経由でフランスのボルドーまで高性能爆薬を運んでいた。午前8時45分頃、モンブランは約1ノットの低速で、ニューヨークでベルギー向けの補給物資を積むためベルギー救援委員会英語版が用船した空荷のイモと衝突した。モンブランで発生した火災は忽ち手が付けられなり、約20分後の午前9時4分35秒、モンブランが爆発した。

リッチモンド市街を含む、半径800メートル内のほぼ全ての建物が吹き飛んだ[4]圧力波が木を折り、線路をねじ曲げ、建物を粉砕し、津波により陸地へ押し流されたイモを含む船を座礁させ、モンブランの破片を数キロメートル四方にまき散らした。街中の窓で無傷のものはほとんど無かった。港の対岸のダートマス英語版にも被害が広がった[1]。爆発により生じた津波は、数世代にわたりタフツ・コーブ英語版に住んでいたファースト・ネーションミクマク族の集落を押し流した。

救助活動は直ちに始まり、病院はすぐに満杯になった。ノバスコシアやニューブランズウィックを越えてきた救援列車が爆発当日から到着した。一方、カナダ中央部やアメリカ合衆国北東部からの列車は吹雪のために遅延した。災害直後から、家を失った多くの人々を収容する仮設避難所の建設が始まった。初期尋問ではモンブランに爆発の責任があったとされたが、後の主張により両船に責任があるものと決定された。ノースエンド英語版には、爆発の犠牲者を悼む記念物が複数ある。

背景

カントリーエレベーターから北のアカディア製糖工場方向を観た1900年頃の光景。後に1917年の大爆発で破壊された。

ハリファックスはハリファックス港の西岸にあり、ダートマスは東岸に位置する。ハリファックスとダートマスは戦争で栄えてきた。ハリファックス港は、イギリス海軍の北米における最重要基地の一つかつ戦時貿易の中心地であり、アメリカ独立戦争ナポレオン戦争米英戦争では、敵国船を襲う私掠船の母港であった[5][6]

1880年のカナダ大陸横断鉄道英語版とディープウォーター・ターミナル(Deep Water Terminal)の完成は、蒸気船貿易を増やし、港湾地区の発展を加速化させた[7]。しかしハリファックスは、地元の工場がカナダ中央部の競合他社に敗北すると、1890年代には経済的に低迷した[8]。イギリスの守備隊も1905年暮れと1906年初頭にハリファックスから去った[9][10]。カナダ政府はイギリス海軍からハリファックス海軍工廠英語版 (現在のハリファックス海軍基地英語版[11]を引き継ぎ、1910年にカナダ海軍が創設されると、その司令部となった[12]

第一次世界大戦の直前、カナダ政府は港と付属施設の増強を開始した[13]。第一次世界大戦の勃発により、ハリファックスは注目を取り戻した。カナダ海軍は外洋を航行可能な船をほとんど保有していないため、イギリス海軍が大西洋の貿易航路を守る責任を負うこととなり、ハリファックスが北アメリカでの作戦基地に再び選ばれた[14]。港の運営は1915年に、エドワード・ハリントン・マーティン(Edward Harrington Martin)大佐の監督の下、カナダ海軍の指揮下に置かれることとなった。1917年には、ハリファックスに警備艇、タグボート、掃海艇を含む艦隊が増強されつつあった[15]

ハリファックスとダートマスの人口は、1917年にはそれぞれ6万人と6万5千人にまで増加した[16]。護送船団がヨーロッパ戦線へ人間、動物、補給品を運んでいた。ノバスコシアにおける主要な積出港は、ケープ・ブレトン島シドニーとハリファックスの2ヶ所であった[17]。ハリファックスには負傷兵が病院船で運び込まれ、新たな軍病院が建設された[18]

大西洋を横断する船舶に対するドイツ軍の潜水艦作戦英語版の成功を受けて、連合国は、ヨーロッパに運ぶ物資や兵士の損害を抑えるため、護送船団システムを構築した[19]。ハリファックス港の北東端に位置するベッドフォード湾に商船英語版が集められ、2組の防潜網英語版とカナダ海軍の警備艇に守られた[20]

船団はイギリス海軍の巡洋艦や駆逐艦の護衛を受け出港した[21]。大規模な守備隊が、要塞や砲台、防潜網で街を守った。これらは街に軍隊、産業、住宅地の拡大をもたらし、港を通過する貨物量は約9倍に増加した[22]。北アメリカの港へ向かう全ての中立国船は、検査のためハリファックスに寄らなければならなかった[23]

災害

現在のハリファックスとダートマスの地図。ベッドフォード湾は地図の左上にあり、ダートマスとハリファックスの間にあるナローズは、右下にある大西洋と繋がっている。爆発は、ナローズの南岸(ハリファックス側)、現在のA・マレー・マッカイ橋英語版(赤)とアンガス・L・マクドナルド橋英語版(オレンジ)の間で発生した。

ノルウェー船イモ(ハーコン・フロム(Haakon From)船長)は、ベルギー向けの補給物資を運ぶため、オランダを出港しニューヨークへ向かう途中であった[24]。同船は中立検査のため12月3日にハリファックスに入港し、燃料補給を待ちながらベッドフォード湾に2日間停泊した[25]。イモは12月5日に出港許可が下りたが、燃料の石炭がその日の午後遅くまで到着せず出港が遅れ、防潜網が夜間に引き上げられるまで燃料補給は完了しなかった。そのため、イモは翌朝まで錨を上げることができなかった[24][26]

フランスの貨物船モンブラン(エメ・ル・メデック(Aimé Le Medec)船長)は、12月5日遅くにニューヨークから到着した。同船はTNTピクリン酸の火薬、高可燃燃料のベンゾール英語版ニトロセルロースを満載していた[27]。ヨーロッパへの出発準備中で、ベッドフォード湾に集結している船団に合流する予定であったが、遅延のため防潜網が引き上げられる前に入港することができなかった[24]。大戦前には危険物を積む船は入港できなかったが、ドイツ軍潜水艦の危険性を受け、規制が緩和されていた[28]

ベッドフォード湾との行き来には、ナローズ(Narrows)と呼ばれる海峡を通過する必要があった。船は接近する船とすれ違うとき、言い換えると両港間を移動しなければならない船は、右側を航行するものとされていた[29]。港内での速度は5ノットに制限されていた[30]

衝突と火災

音楽・音声外部リンク
モンブランの水先案内人フランシス・マッケイがハリファックス大爆発を回顧する(英語)。6:38、カナダ放送協会[31]

水先人のウィリアム・ヘイエス(William Hayes)を乗せたイモは、12月6日午前7時30分頃、警備艇アカディア英語版からの信号でベッドフォード湾を離れることを許可された[32]。イモは石炭の積載での遅れを取り返そうと、港の制限速度をはるかに超えてナローズへ進入した[25]。イモは、港の間違った側(西側)を水先案内されていたアメリカの不定期貨物船英語版クララ(Clara)と遭遇した[33]。両船の水先人は右側通行ですれ違うことで合意した[34]。イモはその直後、ナローズの中央近くを港からベッドフォード湾へ航行していたタグボートステラ・マリス英語版を追い越した後、さらにダートマス側へ舳先を向けることを強いられた。ステラ・マリスの船長ホレーショ・ブラネン(Horatio Brannen)は、猛スピードで接近するイモを見て、事故を回避するため船を西岸へ近づけさせた[35][36][37]

モンブランには1917年12月5日夜から、ベテランの水先案内人フランシス・マッケイ(Francis Mackey)が乗船していた。マッケイはモンブランの積荷に護衛船のような「特別な防護」がされているか尋ねたが、何の防護もなかった[25]。モンブランは12月6日午前7時30分に航行開始し、朝にジョージ島英語版ピア21英語版の間の防潜網が開けられると2番目に入港した[38]。モンブランはベッドフォード湾へ向け港のダートマス側に進路をとった[39][40][41]。マッケイはハリファックス・ダートマス間のフェリーや小型艇を見張った[42]。0.75マイル (1.21 km)離れた地点でイモを最初に発見したが、イモはモンブランを遮るように、モンブランの右舷へ向かって進路をとることが懸念されるようになった。マッケイは通行権を持っていることを示すため短い警笛を1回鳴らしたが、イモはその位置を認めないことを示す警笛を2回鳴らしてきた[43][35][44]。船長はモンブランに機関を停止し、ナローズのダートマス側へ近づくよう、舳先をわずかに右へ向けるよう命令した。他の船が同様に右へ向かうことを期待して警笛を1回鳴らしたが、再び警笛を2回鳴らされた[45]

爆発後、港のダートマス側に座礁した「イモ」

近くにいた船の船員は連続する警笛を聞いて、衝突が迫っていることを認識し、イモがモンブランに向かって進むのを見るため集まっていた[46]。この時には両船とも機関を停止していたが、慣性でゆっくりと互いに向って進んでいった。衝撃により積荷が爆発することを恐れて船を座礁させることができず、マッケイは衝突回避に向けた最後の賭けで、モンブランに港のほうへ大きく面舵をとらせ、イモの舳先を横切ろうとした。イモが動力機関を逆回転させていることを知らせるために突如警笛を3回鳴らしたとき、二隻はほぼ平行となった。イモは空船で喫水線が高いことと右回転プロペラによる横移動英語版が重なり、船首をモンブランのほうへ変えた。そしてモンブランの右舷、第一船倉にイモの船首が突っ込んだ[47][25]

午前8時45分、両船は衝突した[48]。モンブランの被害は甚大でなかったが、穴の開いた樽が倒れて、ベンゾールが甲板にあふれ船倉に勢いよく流れ込んだ。イモは機関が壊れたため、すぐに離れたが、モンブランの船体内部に火花を起こした。これらが揮発したベンゾールに引火した。火災は喫水線で発生し、たちまち舷沿いに上へ拡大。濃く黒い煙に包まれ、今すぐにでも爆発する恐れから、船長は船員に退艦を命令した[49][48]。ハリファックス市民は、この壮観な火事を見ようと、通りに集まったり、自宅や職場の窓辺に立った[50]。モンブランの必死の船員は2艘の救命ボートから他の船へ今にも爆発しそうだと叫んだが、騒音と混乱のために聞き取ることはできなかった[51]。救命ボートが港を横切りダートマスへ向かう間、放棄されたモンブランは漂流を続け、リッチモンド通りの端近くにある第6埠頭に接岸した[52]

衝突が起こった時、2隻の平底船英語版を曳航していた[36]ステラ・マリスは火災に即座に対応した。はしけを停泊させて第6埠頭へ後進し、消火ホースで燃え盛るモンブランに放水した[53]。タグボートの船長ホレーショ・ブラネンとその船員は、彼らの消火ホースで消すには火災が強すぎると認め、モンブランから後退した。巡洋艦ハイフライヤー英語版の捕鯨ボートと、ナイオビピンネス英語版が接近した。ブラネンとナイオビのアルバート・マティソン(Albert Mattison)はモンブランの船尾に綱を付け、埠頭に火が移らないよう引き離すことで合意した。最初用意された5インチ(127ミリメートル)の曳索英語版は細すぎると思われ、10インチ(254ミリメートル)の曳索にするよう命令が出された。この時爆発が起こった[54]

爆発

港のダートマス側から見た、爆発から2日後のハリファックスの惨状。港の向こう側に「イモ」が見える。
音楽・音声外部リンク
ハリファックス大爆発の正確な時間を午前9時4分35秒と確定(英語)。6:54、1992年12月4日、カナダ放送協会[55]

午前9時4分35秒、モンブランの手が付けられなくなった炎が積荷の高性能爆薬に引火した[56]。モンブランは完全に吹き飛び、強い爆風が秒速1,000メートルを超える速度で広がった。爆発の瞬間、爆心の大気は5,000℃、数千気圧になった[57][25]。白熱した鉄の破片がハリファックスとダートマスに降った[58]。砲身が融解したモンブランの90ミリ砲が、爆発地点から約5.6キロメートル北、ダートマス地区のアルブロ湖英語版付近に落下し、0.5トンある錨の軸は3.2キロメートル南のアームデール英語版に落下した[59]

白煙は3600メートル超まで上昇した[60]。衝撃波は音速の約23倍で広がり、207キロメートル離れたケープ・ブレトン島や、180キロメートル離れたプリンスエドワード島でも観測された[25][61]。爆発により160ヘクタールを超える地域が完全に破壊され[59]、大量の海水が押し出されたことで港の海底が瞬間的に露出した。隙間を埋めるように押し寄せた海水で津波が発生し[62]、その高さは港のハリファックス側で高水標から18メートルの高さに達した[63]。イモは津波によりダートマス海岸に押し流された[64]。爆風により、捕鯨船の1人を除いた全員、ピンネスの全員、ステラ・マリスの26人中21人が死亡した。ステラ・マリスはダートマス海岸に押し流され、酷く損傷を受けた。船長の息子ウォルター・ブラネン(Walter Brannen)一等航海士は、爆風により船倉内に吹き飛ばされ、他の4人と同様に生き残った[65]。モンブランの船員は1人を除いた全員が生き残った[66]

1,600人以上が即死、9,000人が負傷し、そのうち300人超が後日死亡した[25]。半径2.6キロメートル以内の12,000棟を超える全ての建物が、破壊されるか甚大な被害を受けた[62]。自宅から火事を見ていた者のうち数百人は、爆風により目の前の窓ガラスを粉砕され失明した[67]。ストーブやランプも爆風で倒れ、ハリファックス中に火事を引き起こした[68]。特にノースエンド英語版では、住民が自宅に取り残されたまま街区全体が猛火に包まれた。爆発で吹き飛ばされ衣服を引き裂かれた消防士のビリー・ウェルズ(Billy Wells)は、生存者が見た惨状をこう表現した「恐ろしい光景だった。窓の外に死体がぶら下がり、頭がない死体や頭上の電信線まで飛ばされた死体もあった。」。彼は消防車「パトリシア号」の隊員8人のうち唯一の生存者であった[69]

アカディア製糖工場(Acadia Sugar Refinery)といった、第6埠頭付近にあったレンガ造や石造の大工場は消滅して瓦礫の山となり、ほとんどの労働者が死亡した[4]。爆発地から1.5キロメートル離れたノバスコシア紡績工場英語版は、火災とコンクリートの床が崩れて破壊された[70]王立カナダ海軍大学校英語版の建物は酷く損傷し、複数の生徒と教官が重傷を負った[71]。リッチモンド車両基地と駅は破壊され、鉄道員55人が死亡し、500両を超える車両が破壊・損傷した。カナダで最も活気がある駅の一つであるノースストリート駅英語版も酷く損傷した[72]

爆発から数日後、製糖工場の廃墟から、跡形もなくなったリッチモンド通り越しに見た波止場の光景。爆発時点の第6埠頭の残骸が右端にある。

爆発が発生した第6埠頭から約750フィート (230 m)の車両基地にいた、大陸横断鉄道の運行管理者ビンス・コールマン英語版の自己犠牲がなければ死者数はさらに増えたかもしれなかった。彼と同僚のウィリアム・ロヴェット(William Lovett)は船員から燃え盛るモンブランの危険な積荷のことを知り、逃げ始めた。コールマンは、ニューブランズウィック州セントジョンから近づく旅客列車があと数分で到着するはずだと思い出し、独り持ち場へ戻り、列車を止めるため緊急電信を送り続けた。いくつかのメッセージが記録されており、大西洋海事博物館英語版のものにはこうある、「列車を止めろ。第6埠頭に向かっている弾薬船が港内で火事になり爆発しそうだ。これが私の最後のメッセージと思ってほしい。さようなら」。コールマンのメッセージはハリファックスに近づいている全列車を停止させることとなった。電信は大陸横断鉄道の他の駅で受信され、鉄道員が即座に対応するのに役立った[73][74]。セントジョンからの夜行である第10旅客列車は、警告に従い、爆発から安全距離にあるロッキングハム英語版で停止し、約300人の乗客を救ったと信じられている。コールマンは自分の持ち場で爆発により死亡した[73]。彼は1990年代にヘリテージ・ミニッツ英語版で表彰され、2000年にカナダ鉄道殿堂入りとなり[75]、そして2018年には新たなハリファクス・ダートマスフェリー英語版に彼の名前が付けられた[76]

救助活動

爆発後のハリファクス
映像外部リンク
ハリファックス大爆発の生存者(英語)。6:54、1957年12月1日、カナダ放送協会[77]

最初の救助活動は、隣人や同僚が建物から犠牲者を引きずり出したり掘り出したりすることで始まった。初期の非公式な対応にすぐに、生き残った警察官や消防士、到着し始めた軍人が加わった。作業車を持つ者も同様であり、あらゆる種類の、乗用車やトラック、配達用ワゴンが負傷者を収容するために使われた[78][79][80][81]。大量の犠牲者が市の病院に運び込まれたが、たちまち病院から溢れた[82]。キャンプ・ヒル(Camp Hill)にある新しい軍病院は、12月6日に約1,400人の犠牲者を受け入れた[83]

災害に最初に対応した者の中には消防士もいた。彼らはモンブランに急行し、爆発が起きる前に消火しようとした[84]。また爆発後も、ハリファックス中から、そして当日中に救援列車に乗って、200キロメートル離れたアマースト英語版や、260キロメートル離れたモンクトンから支援のため駆け付けた消防隊とともに働いた[73][85]ハリファックス消防署英語版の西通り第2署は、カナダ初の消防自動車「パトリシア号」の乗員とともに第6埠頭へ最初に到着した。爆発の瞬間には、火事がドックへ広がる中、ホースを伸ばしている最中であった。この日、ハリファックス消防署の隊員9人が殉職した[85][86]

港内にいたイギリス海軍の巡洋艦は、救助隊を組織し陸上へ派遣した。武装商船チャンギノラ(Changuinola)、ナイト・テンプラー(Knight Templar)、カルガリアン英語版とともに巡洋艦ハイフライヤー英語版が、救助隊と医師を乗せたボートを岸に送り、すぐに負傷者を運び始めた[68]アメリカ沿岸警備隊の小艇モリル英語版も救助隊を送った[87]。沖合ではアメリカ海軍の巡洋艦タコマと仮装巡洋艦フォン・ステューベン英語版がアメリカへ向けハリファックス沖を通過していた。タコマは爆風により酷く揺れ、乗員は総員配置英語版についた[88]。立ち上る大きな煙の塊を見て、タコマは進路を変更し午後2時に救助支援のため到着、フォン・ステューベンはその30分後に到着した[89]。修理のためハリファックスのドックにいた、アメリカの蒸気船オールド・コロニー(Old Colony)は小さな被害を受けたが、港内にいたイギリス・アメリカ海軍の船医と用務員を乗せて、すぐに病院船となった[90]

呆然とした生存者たちは、すぐに爆発がドイツ軍の飛行機から落とされた爆弾によるものと怖がった[89]。砲台と兵舎にいた部隊は街が攻撃された場合に備えて直ちに出動したが、爆発の原因と場所が特定されたため、一時間もしないうちに、防衛から救出へ任務を変更した。行動可能な全部隊が港の要塞と兵舎からノースエンドへ召集され、生存者を救出し、市内の軍病院2ヶ所を含む病院へ搬送した[91]

混乱に加えて、第二の爆発が恐れられた。ウェリントン駐屯地(Wellington Barracks)の弾薬庫で水兵が消火した時、通風孔から蒸気の雲が噴き出た。火はすぐに消されたが、雲が離れた場所から見え、たちまち別の爆発が迫っているとの噂になった[92]。軍服姿の将校が皆にその地区から去るよう命令した[93]。噂は街中に広がり、多くの家族が自宅から逃げた。正午近くに恐怖が去るまで二時間以上にわたり、混乱が活動を妨害した[94][95]。救助活動を行っていた多くの者が避難を無視し、海軍の救助隊は港で活動を中断せず続けた[95][96]

災害の中心地にある操車場で生き残った鉄道員たちは救援活動に執りかかり、港やがれきの下から人々を救出した。セント・ジョン(Saint John)発の夜行列車はハリファックスに向かっている最中に爆風を受けたが、軽微な被害で済んだ。同列車は線路が残骸で遮られるまでリッチモンドへ走行し続けた。列車の乗客と兵士は、車両の緊急脱出器具を持ち出し家から被災者を救い出し、寝台車のシーツを包帯として使った。同列車は、負傷者を乗せて医者とともにハリファックスを1:30に出発し、トゥルーロ英語版へ向かった[73][97]

マッカラン・グラント英語版副総督英語版の指揮で、主要な市民が正午頃ハリファックス救援委員会を立ち上げた。同委員会は、ハリファックスとダートマス向けの医療救援の組織化、輸送、食料、避難所の提供、被害者のための医療や埋葬費用の負担を受け持った[94][98]。委員会は1976年まで存続し、再建や救援活動に加わり、後に生存者向けの住居を提供した[99][100]

救援列車がカナダ大西洋岸やアメリカ合衆国北東部から急派された。最初の列車は、医療関係者や物資を積んで午前10時頃トゥルーロを出発し、正午までにハリファックスに到着。午後3時には負傷者と住宅難民を乗せてトゥルーロへ戻った。線路はベッドフォード湾の西端のロッキンガムの先で不通になっていた。負傷者のもとに行くために、救助隊は軍が道路をきれいにした場所まで廃墟の街を通って歩かなければならなかった[101]。日暮れまでに12本の列車が、ノバスコシアのトゥルーロ、ケントビル英語版、アンハースト(Amherst)、ステラトン英語版, ピクトー英語版シドニー、ニューブランズウィックのサックビル英語版モンクトン、セント・ジョンからハリファクスに到着した[102][72]

救援活動はハリファクスを覆った16インチ (41 cm)の大雪により、翌日は妨害された。カナダの他地域やアメリカ合衆国から来る途中の列車は吹き溜まりで立ち往生し、爆発後に急いで修理された電信線は再び使えなくなった。ハリファックスは嵐により孤立し、救援委員会は生存者の探索の一時休止を強いられた。が、嵐は街中の消火活動の助けになった[103][104]

破壊および人的損害

爆発後の光景:ハリファックス博覧会ビル。最後の死体は1919年、ここで発見された[105]
爆発後の光景:ゲッティンゲン(Göttingen)通りとケイ(Kaye)通りの南東角にあった、聖ヨハネ修道院(St. Joseph's Convent)。
遺体安置所として使用されたシェブクト・ロード・スクール(Chebucto Road School)

爆発による正確な死者数は不明である。ノバスコシア・アーカイブス英語版が2002年に編纂した公式データベースであるThe Halifax Explosion Remembrance Bookでは、犠牲者を1,950人としている[106]。1,600人もの人々が、爆風や津波、建物の崩壊で即死した。最後の死体である、博覧会ビルで死亡した管理人は1919年夏まで収容されなかった[105]。さらに9,000人が負傷した[23]。爆発と火災で1,630棟の住居が破壊され、12,000棟が損傷した。約6,000人が家を失い、25,000人は避難所が不足していた[107][108]。工業地区は大部分が失われ、犠牲者の中には多くの労働者が含まれ、造船所は大被害を受けた[109]

アルダーマン・R・B・コールドウェル(Alderman R. B. Coldwell)を委員長とする死体安置委員会が、爆発当日の朝すぐにハリファックス市役所英語版内に設置された。ウエストエンド地区英語版にあるシェブクト・ロード・スクール(Chebucto Road School、現在のMaritime Academy of Performing Arts)が中央死体安置所に選ばれた[110]王立カナダ工兵隊英語版の中隊が学校の地下室を死体置き場に、教室をハリファックス検死官の事務所に修理・改造した。死体を積んだトラックや荷馬車がすぐに到着した[111]。死体置き場が作られると、アーサー・S・バーンステッド(Arthur S. Barnstead)検死官はコールドウェルから引き継ぎ、慎重に死体を数え描写するシステムを実行した。これは彼の父ジョン・ヘンリー・バーンステッド(John Henry Barnstead)が1912年にタイタニック号の犠牲者を識別するために開発したシステムに基づいていた[112]

爆発による負傷の多くが、例えば飛散したガラスや爆発の閃光を原因するもので、永久的な障害となった。数千人が港内で燃える船を見るため立ち止まっていた。建物の中にいた多くの者が粉々になった窓ガラスの破片を直接浴びた。約5,900人が目を負傷し、うち41人が失明したとの報告がある[113]

被害額は約3,500万カナダドル(現在の69600万カナダドル)と推計された[108]。様々なところから約3,000万ドルの財政支援が行われた[114]。その中には連邦政府からの18百万ドル、イギリス政府からの400万ドル超、マサチューセッツ州からの75万ドルが含まれていた[115]

ダートマス

ダートマスはハリファックスほど人口が密集しておらず、港を挟んで爆心地から距離があったが、それでも大被害を負った。ダートマス側で約100人が死亡したと推定されている。窓は粉々に割れ、オランド醸造所英語版やスタール製造会社(Starr Manufacturing Company)の一部を含む、多くの建物が損傷を受けたり、破壊された[109]。ダートマスにあった唯一の病院であるノバスコシア病院英語版では、犠牲者の多くが治療を受けた[116]

ミクマク集落

ベッドフォード湾のダートマス側にある入り江とその周囲には、ミクマク族の小さな飛び地があった。ハリファックスの第9埠頭の真向かいに位置するタフツ・コーブ英語版(タートル・グローブ(Turtle Grove)とも呼ばれる)にコミュニティがあった。その居住は18世紀にさかのぼるが、白人入植者の地主がミクマク族の住民を追い出そうとして対立していた。爆発前のはるか前から、先住民サービス局英語版がミクマク族に土地を諦めさせようとしていたが、爆発時には解決していなかった[117][118]。モンブランの火災は港の両岸の多くの見物人の注意を引いた[109]。集落の建造物は爆発と津波により消滅した[108]。ミクマク族の正確な死者数は不明だが、9人の遺体が収容され、災害後に集落は再建されなかったと記録されている[119]。犠牲者の記録(Halifax Remembrance Book)にはタフツ・コーブで死亡した16人が記載されている。ただし記載された死者全員が先住民ではない[106]。生存者は、概して酷い状態の人種的に隔離された建物に住み、やがてノバスコシア各地に離散した[118]

アフリクビル

ハリファックス半島英語版に隣接するベッドフォード湾の南岸にあった、アフリクビル英語版黒人街は、南に向かって高くなっている斜面の影となり、爆風の直撃を免れた[109]。アフリクビルの小さい脆弱な家屋は爆発によりひどい被害を受けた[120]。住民5人が死亡したと記録されている[121]。アフリクビルはわずかな寄付支援金しか受け取ることができず、爆発後に他地区のような革新的な再建は行われなかった[120][122]

捜査

ハリファックスの多くの市民が当初、爆発はドイツ軍の攻撃によるものと信じた[123]ハリファックス・ヘラルド英語版は、ドイツ人が爆発の被害者を嘲笑しているなどと、しばらくの間、それが事実であると喧伝し続けた[124]。イモの操舵手のノルウェー人、ヨハン・ヨハンセン(John Johansen)は、爆発で負った重傷の治療を受けている間、怪しい行動を取っていたと憲兵に通報された。ヨハンセンは、ドイツ語で書かれたと思しき手紙を所持しているのを発見されると、ドイツのスパイ容疑で逮捕された[125]。しかし実際にはノルウェー語で書かれたものであることが明らかになった[124]。爆発直後、ハリファックスのドイツ人生存者のほとんどが検挙され投獄された[126][127]。ドイツ人の関与の噂は残っていたが、本当の爆発原因が知られるようになって、ようやく恐怖が消え失せた[128]

衝突の原因を捜査するため海難審判が組織された。審判は1917年12月13日にハリファックス裁判所英語版で開廷し、ジャスティス・アーサー・ドライスデール(Justice Arthur Drysdale)が審判長を務めた[129]。1918年2月4日に出された審判報告書は、モンブランの船長エメ・ル・メデック、水先人フランシス・マッケイ、それと、港や水路、対潜防御を担当する王立カナダ海軍主任検査官のF・エヴァン・ワイアット(F. Evan Wyatt)中佐に衝突の責任があると非難した[129]。強い反フランス感情がある地元の意見と、イモの弁護士チャールズ・バーシェル(Charles Burchell)が用いた「ストリートファイター」風の討論に恐らく影響を受けていた、自治領海難審判官L・A・デメールズ(L. A. Demers)の「モンブランの責任はどんな犠牲を払っても衝突を確実に回避することだけであった」という意見に、ドライスデールは同意した[130][131]。W・A・ヘンリー(W. A. Henry)検事によれば、これはイモが水路の間違った側を通過したことを非難されるものと予期していた「ほとんどの人々にとって大きな驚き」であった[132]。三人は、リチャード・A・マクロード(Richard A. McLeod)判事の予備審問で故殺英語版および刑事過失により訴追され、裁判所に送られた。ノバスコシア最高裁判所英語版の司法官ベンジャミン・ラッセル英語版は、これらの訴追を裏付ける証拠がないことを見つけた。マッケイはヘイビアス・コーパスにより釈放され、起訴も取り下げられた。ル・メデックの訴追も却下された。残るワイアットだけが大陪審にかけられた。1918年4月17日、陪審団は1日かからずに終わった裁判で彼を無罪とした[133][134]

ドライスデールは、2隻の所有者が互いに損害賠償請求する最初の民事訴訟も監督した。彼の判決(1918年4月27日)は、モンブランに完全な責任があるとした。カナダ最高裁判所の控訴審(1919年5月19日)、ロンドンの枢密院司法委員会英語版(1920年5月22日)は、モンブランとイモが、衝突を引き起こした航行上のミスに関し等しく責任があると決定した[129][132][135]。関係者は誰も有罪を宣告されたり、災害を引き起こした行動で起訴されたりすることはなかった[108]

再建

ノースストリート駅英語版の瓦礫を片付ける労働者。

爆発から間もなく、瓦礫を片付け、建物を修復し、爆発で家を失った生存者の仮設住宅を建てる作業が開始された。1918年1月下旬時点で、まだ約5千人は家がなかった[136]。ロバート・ロウ(Robert Low)大佐が率いる再建委員会は、マサチューセッツ=ハリファックス救援基金(Massachusetts-Halifax Relief Fund)から資金を得て832軒の住宅を建設した[137]

12月7日、サウスエンドの臨時駅で鉄道が部分的に再開した。12月9日、線路が清掃され、ノースストリート駅英語版が再開し、全面運行が復活した。カナダ国有鉄道英語版は、操車場の清掃と修復および鉄道桟橋と海軍工廠の再建を行う特別部隊を編成した。ほとんどの埠頭は12月末には操業を再開し、1月までに修理された[72]。ノースエンド・ハリファックスのリッチモンド地域は、爆発の矢面に立った[109]。1917年時点で、労働者階級が住む地域とみられたリッチモンドには舗装道路がほとんどなかった。爆発後、ハリファックス救援委員会はリッチモンドの再建をノースエンドの改良・近代化の機会であるとした。イギリス人の都市計画家トーマス・アダムスとモントリオールの建築事務所ロス・アンド・マクドナルド英語版がリッチモンドの新しい住宅計画を作成するために集められた。アダムスはビクトリア風の田園都市運動に刺激されて、緑地へのアクセスや低層・低密度で複合機能を持つ市街地を作ることを企図した[138][122]。並木がある舗装された大通りに面して326戸の住宅が設計された[139]。その住宅は革新的な防火素材であるハイドロストーンと呼ばれる圧縮セメントのブロックで建てられた[140][122]。1919年3月までには最初の家に入居が行われた[140]。完成すると、住居、ビジネス街、公園のあるザ・ハイドロストーン英語版地域は、ハリファックスのノースエンドのコミュニティに新たな感性を生み出すのを助けた。現在では高級住宅街や商業地区となっている[141]。対照的に、アフリクビルの貧しく未開発の地域は再建事業に含まれなかった[122]

ハリファックス海軍工廠の全ての建物、巡洋艦「ナイオビ」、ドッグそのものは何らかの修理が必要となった。しかし掃海艇や警備艇は全て無傷であった[142]ロバート・ボーデン首相は、政府は「ハリファックス港を再建するため全面協力する。これは大英帝国にとって最重要だ」と誓約した[143]。アメリカ海軍「タコマ(Tacoma)」のシミントン(Symington)船長は港は数か月使用できないと推測したが[144]、12月11日には護送船団が出発し、クリスマス前に海軍工廠は再稼働した[145]

レガシー

ハリファックス大爆発メモリアル・ベルタワー

ハリファックス大爆発は、人間が引き起こした核爆発以外の大爆発の一つである。1994年にハリファックスの歴史家ジェイ・ホワイト(Jay White)は130の大爆発を幅広く比較し、「ハリファックス大爆発は、5つの要素:被害者数、爆発力、廃墟の半径、爆発物の量、破壊された資産の総額を複合的に考察する限り、全体的な規模で並ぶものがない。」と結論付けた[146]。長い間、ハリファックス大爆発は大きな爆発を比較する上での基準となった。例えば、広島への原子爆弾投下の報道で「タイム」誌は、リトルボーイの爆発力はハリファックス大爆発の7倍だと述べた[2]

爆発による多数の目の負傷者は、医師の一部に負傷した目の治療方法のより良い理解をもたらし、ダルハウジー大学教授のヴィクトリア・アレン(Victoria Allen)によると、「新たに設立されたカナダ国立失明研究所英語版により、ハリファックスは失明治療の中心として世界的に知られるようになった」[147]。こうした災害での組織的な小児科治療の欠如も、ボストンから応援に来た外科医のウィリアム・E・ラッド英語版により言及された。ラッドの爆発への洞察は、彼を北アメリカにおける小児外科学専門家のパイオニアにさせたと一般的に信じられている[147][148]。また、ハリファックス大爆発は公衆衛生[要リンク修正]出産看護英語版周辺を含む医療制度改革を促進した[149]

モンブランのアンカーシャフト

大爆発はハリファックス全ての家族や労働者集団に悪影響を及ぼしたことから、生存者にとって酷く衝撃的なものであり、その記憶は広く抑圧された。爆発1周年の記念式典の後、市は数十年間式典を行わなかった。2回目の式典が行われたのは50周年の1967年であり、その後も行われなかった[150]

1964年、爆発の犠牲者を忘れないよう設計されたハリファックス・ノース・メモリアル図書館英語版の建設が開始された。図書館の入り口には、大爆発を記憶するために建てられた最初のモニュメントであるハリファックス大爆発メモリアル・スカラプチャー英語版が、芸術家のジョルディ・ボネ英語版により制作された。この彫刻は2004年にハリファックス地方行政区(Halifax Regional Municipality)により解体され、部品は散逸し失われた[151][152]。2015年、破片の残りが、彫刻を記念展示物に戻そうという運動が行われたにもかかわらず、モントリオールに住むボネの家族に引き渡された[153]。ハリファックス大爆発メモリアル・ベル(Halifax Explosion Memorial Bells)は1985年に建てられ、「爆心地」に面するフォート・ニードハムの丘(Fort Needham Hill)にある巨大なコンクリート製の彫刻に近くの教会から記念のカリヨンが移された。ベルタワーでは毎年12月6日に市民による式典が開催される。レディ・ハモンド通り(Lady Hammond Road)にあるハリファックス消防署にある記念物は、爆発で殉職した消防士を顕彰している[154]。モンブランの破片は、爆発の記念物として、ダートマスのアルブロ・レイク道路(Albro Lake Road)、レガッタ・ポイント(Regatta Point)のほか各地に置かれている。フェアビュー墓地英語版とバイヤーズ・ロード墓地(Bayers Road Cemetery)には爆発の犠牲者の集団墓所がある。把握されている犠牲者全員の名前を載せたメモリアルブックがハリファックス・ノース・メモリアル図書館と、ハリファクス大爆発に関する大規模な常設展示がある大西洋海事博物館(Maritime Museum of the Atlantic)で展示されている.[155][156]ハロルド・ギルマンが、災害を記憶する絵の制作を任された。その作品「夕暮れのハリファックス港(Halifax Harbour at Sunset)」は「港が邪魔されずに見えるよう視点を後ろに下げたため、最近の荒廃をあまり伝えなかった」[157]

2010年のボストン・クリスマス・ツリー

ヒュー・マクレナン英語版の小説「Barometer Rising英語版」(1941年)は、爆発があった時代のハリファックスを舞台としており、爆発がハリファックスに与えた衝撃について慎重に調査した描写を盛り込んでいる[158][159]。マクレナンの後、ジャーナリストのロバート・マクニール英語版は「Burden of Desire英語版」(1992年)を書き、大爆発を当時の社会的・文化的変化のメタファーとして用いた[159]。マクレナンとマクニールが大爆発をロマンス小説としたのは、フランク・マケルベイ・ベル英語版が書いた短編小説「A Romance of the Halifax Disaster英語版」(1918年)に似ていた。この作品は若い女と負傷した兵士の恋愛を描いたものである[160]。ケリー・ロス・レッキー(Keith Ross Leckie)は2003年にテレビのミニシリーズ「Shattered City: The Halifax Explosion英語版」の脚本を書いた。ただし、ジャネット・キッツ英語版のノンフィクション「Shattered City: The Halifax Explosion and the Road to Recovery英語版」(1990年)とは関係はない。この作品は事実の歪曲と不正確な点を批判された[161]

1918年にハリファックスは、ボストン赤十字社とマサチューセッツ公共安全委員会が災害直後に行った支援への感謝と記念として、ボストンにクリスマスツリーを贈った[162]。この贈り物は1971年に、爆発後のボストンの支援に感謝するとともにクリスマスツリー輸出の宣伝のため、年一度巨木の寄付を始めたルーネンバーグ郡英語版クリスマスツリー生産者協会(Lunenburg County Christmas Tree Producers Association)により復活した。後にノバスコシア州政府により引き継がれ、貿易と観光宣伝はもちろんのこと、善意の証として続いている[163]。この木がボストン・クリスマス・ツリーであり、ホリデーシーズンにボストンコモンで灯される。両市にとっての象徴的な重要性に敬意を表して、ノバスコシア自然資源部(Nova Scotia Department of Natural Resources)は、ツリーの選定に特別なガイドラインを設けている[164]

脚注

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  13. ^ Flemming 2004, p. 13.
  14. ^ Bird 1995, pp. 37–38.
  15. ^ Armstrong 2002, pp. 10, 14.
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参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

座標: 北緯44度40分9秒 西経63度35分47秒 / 北緯44.66917度 西経63.59639度 / 44.66917; -63.59639