コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「小尾乕雄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
特別:投稿記録/MurakosokoheiLTA:GRIMM)の編集3版を取り消して2018年6月29日 (金) 02:53 (UTC) の版に戻す
Obitorao (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目: 4行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[長野県諏訪清陵高等学校|旧制長野県立諏訪中学校]]、[[東京高等師範]]、[[東京文理科大学]]を卒業。専門は[[国文学]]。
[[長野県諏訪清陵高等学校|旧制長野県立諏訪中学校]]、[[東京文理科大学]]、[[東京教育大学]]を卒業。専門は[[国文学]]。
[[東京都立駒場高等学校|東京府立第三高等女学校]]などで[[教諭]]を務め、その後、[[東京都]][[視学]]となる。
[[東京都立駒場高等学校|東京府立第三高等女学校]]などで[[教諭]]を務め、その後、[[東京都]][[視学]]となる。



2019年2月12日 (火) 01:53時点における版

小尾 乕雄(おび とらお、1907年明治40年)7月29日 - 2003年平成15年)2月23日)は、主に昭和時代に活動した教育者である。山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市)出身。

東京都教育委員会教育長学校法人文教大学学園名誉学園長・学園長・理事長文教大学立正女子大学)・文教大学女子短期大学部立正女子大学短期大学部学長財団法人日本青年館理事長、日本私立短期大学協会会長などを歴任する。

経歴

旧制長野県立諏訪中学校東京文理科大学東京教育大学を卒業。専門は国文学東京府立第三高等女学校などで教諭を務め、その後、東京都視学となる。

1960年昭和35年)から1967年(昭和42年)まで東京都教育委員会教育長を務めた。在任中、通達として、1965年(昭和40年)11月19日進学指導の中止を骨子とした「入試準備教育の是正について」(通称・第1次小尾通達)、翌年の1966年(昭和41年)2月11日に「学校と家庭の教育上の協力について」(通称・第2次小尾通達)を出した。その予想外の反響1967年(昭和42年)、都立高等学校入学者選抜学校群制度を導入した。

1967年(昭和42年)から1989年(平成元年)まで学校法人文教大学学園の理事長を務めており[1]、その間に文教大学(立正女子大学)学長・文教大学女子短期大学部(立正女子大学女子短期大学部)学長も務めている。その後に、学校法人文教大学学園の学園長を経て名誉学園長となる。学校法人文教大学学園の理事長は、1993年(平成5年)から2001年(平成13年)まで、長男・小尾圭之助が引き継いだ。

そのほかに、1969年(昭和44年)11月12日には、財団法人日本青年館の第14代理事長にも就任した。

著書

単著

共著

脚注

  1. ^ 歴代理事長 (学校法人文教大学学園)

関連項目

外部リンク