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{{pp-vandalism|small=yes}} |
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{{Otheruses|日本の特別攻撃隊|特攻全般|特別攻撃隊}} |
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{{Otheruses|制度上の神風特別攻撃隊|特攻全般|特別攻撃隊|日本陸軍における対艦船の航空特攻隊|と号部隊}} |
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[[ファイル:D4Y3_Yoshinori_Yamaguchi_colorized.jpg|thumb|260px|right|[[エセックス (空母)|空母エセックス]]に突入を試みる神風特攻隊の特攻機]] |
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{{軍隊資料 |
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[[ファイル:A6M_damaged_by_USS Essex_(CV-9)_1945.jpeg|thumb|260px|right|[[エセックス (空母)|空母エセックス]]に突入を試みる神風特攻隊の特攻機]] |
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|名称 = 神風特別攻撃隊 |
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'''神風特別攻撃隊'''(かみかぜとくべつこうげきたい{{sfn|吉田|2017|p=「特攻隊」}}、しんぷうとくべつこうげきたい<ref name="昭和時代">{{Cite news|title=連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926〜44年) 第48回「特攻・玉砕」|newspaper=読売新聞|date=2014-02-15|page=18}}</ref>)は、[[第二次大戦]]で[[旧日本軍]][[陸海軍]]が[[体当たり]][[戦法]]のため[[編制]]した、[[特別攻撃隊]]{{sfn|松村|2017|p=「特別攻撃隊」}}。略称は「'''神風'''」、「'''神風特攻隊'''」{{sfn|上野|2017|p=「神風」}}、「'''特攻隊'''」{{sfn|吉田|2017|p=「特攻隊」}}。 |
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|名称英名 = |
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|画像 = |
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|画像説明 = |
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|画像2 = |
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|創設 =[[1944年]]([[昭和]]19年)[[10月20日]] |
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|廃止 =[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]](終戦) |
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|再編成 = |
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|再廃止 = |
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|国籍 ={{Flagicon|JPN1889}}[[大日本帝国]] |
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|所属 =[[大日本帝国海軍]] |
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|規模 = |
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|兵科 = |
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|兵種 = |
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|人員 = |
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|所在地 = |
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|編成地 = |
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|通称号 = |
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|愛称 = |
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|護衛対象 = |
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|守護聖人 = |
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|補充担任 = |
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|上級部隊 = |
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|最終上級部隊 = |
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|担当地域 = |
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|最終位置 = |
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|主な戦歴 =[[太平洋戦争]] |
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|特記事項 = |
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|現司令官 = |
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[[ファイル:Navy Kamikaze Lieutenant.jpg|thumb|260px|right|1945年3月21日、戦友の遺骨を抱いて出撃する神風特攻隊[[神雷部隊]]三橋謙太郎大尉]] |
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[[ファイル:Ensign Kiyoshi Ogawa hit Bunker Hill (new).png|thumb|200px|right|1945年5月11日に空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]]に突入した神風特別攻撃隊「第7昭和隊」[[小川清]]少尉]] |
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[[ファイル:D4Y3 Yoshinori Yamaguchi colorized.jpg|thumb|240px|right|[[エセックス (空母)|空母「エセックス」]]に突入を試みる神風特別攻撃隊「香取隊」山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗の[[彗星 (航空機)|彗星]]艦爆(白黒写真に着色)]] |
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'''神風特別攻撃隊'''(かみかぜとくべつこうげきたい{{sfn|kotobank-特攻隊}}{{Sfn|kotobank-神風特別攻撃隊-a}}{{Sfn|kotobank-神風特別攻撃隊-b}}{{Sfn|kotobank-神風特別攻撃隊-c}}、しんぷうとくべつこうげきたい{{Sfn|kotobank-特別攻撃隊}}<ref name="昭和時代">{{Cite news|和書 |title=連載<昭和時代>第3部 戦前・戦中期(1926〜44年)第48回「特攻・[[玉砕]]」|newspaper=[[読売新聞]]|date=2014-02-15|page=18}}</ref><ref name="金子2005p52-53">{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=52-53}}</ref>、{{旧字体|'''神󠄀風特別攻擊隊󠄁'''}})は、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]で[[大日本帝国海軍]]によって編成された[[航空機搭載爆弾|爆装航空機]]による[[体当たり攻撃]]部隊([[特別攻撃隊]])と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊<ref name="金子2005p159-160">{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=159-160|loc=第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件}}</ref>。攻撃目標は艦船<ref name="千早ほか1994p280-281">{{Harvnb|千早ほか|1994|pp=280-281}}</ref>。略称は「'''神風'''」「'''神風特攻隊'''」{{sfn|kotobank-神風}}。隊名の発案者<ref group="注">これは猪口の証言によるものであり、{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=108}}によれば、[[大西瀧治郎]]がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。</ref>・[[猪口力平]]によれば、「神風」の読みは[[音読み]]の「しんぷう」であるが、当時の[[ニュース映画]]<ref>{{Cite web ja |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009181198_00000 |title=神風特別攻撃隊 |website=NHKアーカイブス |publisher=[[日本放送協会]] |access-date=2024-07-28}}</ref>で[[訓読み]]の「かみかぜ」と読んだものが上映されたことでこれが定着した<ref name="金子2005p52-53"/>。[[昭和]]19年(1944年)10月から[[日本の降伏|終戦]]までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。 |
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== 概要 == |
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飛行機に爆装して体当たりした「[[航空]]特攻」と、[[特殊潜航艇]]や[[人間魚雷]]などの「[[海上]]特攻」とがあった{{sfn|松村|2017|p=「特別攻撃隊」}}。 |
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日本国内では戦後になって、'''軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対する批判'''がされてきたが<ref>{{Cite news |和書|title=特攻を拒否できなかった空気 「理想」になった楠木正成|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2020-08-15|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8G4S76N81UCVL003.html |accessdate=2024-06-15}}</ref>、[[アメリカ海軍]]を主力とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]][[海軍]]に多大な損害を与えたこともあって、[[米国戦略爆撃調査団]]から「'''日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器'''」と評され{{sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}、[[海軍大学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ海軍大学校]]の[[教科書]]では「'''Kamikazeは人間が操縦する[[巡航ミサイル]]であり、精密攻撃の時代の[[海戦]]を予兆していた。'''」とも指摘されている{{sfn|Naval War College|2018|p=87}}。 |
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「'''神風'''」は[[猪口力平]]が名付けた「'''しんぷう'''」が正式な読み方であるが、当時の[[ニュース映画]]が誤って「'''かみかぜ'''」と読み上映したことで「かみかぜ」が定着した<ref name="昭和時代"/>。 |
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[[本土決戦]]に備えて[[白兵戦]]を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が[[昭和]]20年(1945年)に組織されたほか<ref>{{Cite news |和書 |title=本土決戦へ、少女は志願した 特攻後続隊の入隊記録発見 |date=2019-12-08 |newspaper=[[朝日新聞|朝日新聞DIGITAL]] |author=伊藤智章 |url=https://www.asahi.com/articles/ASMD3360GMD3OIPE002.html |accessdate=2024-07-29}}</ref> 、[[大日本帝国陸軍]]の[[と号部隊]]を含む[[特攻]]全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。 |
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== 制度 == |
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[[捷号作戦]]時に[[大西瀧治郎]]中将によって定められた神風特別攻撃隊の編成、隊員の扱いは次の通り。神風特別攻撃隊は爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成し、一攻撃単位の編成基準は概ね、爆装体当たり攻撃隊を爆戦(爆装[[戦闘機]])、艦爆([[艦上爆撃機]])、水爆([[水上攻撃機]])による3 - 4機、掩護ならびに戦果確認部隊は戦闘機、艦偵(艦上[[偵察機]])2 - 3機。隊名は編成時期、ならびに爆装の機種により、第一・第二神風特別攻撃隊と呼称し、さらに各攻撃単位に対し、特別隊名を付与する。隊名は第一聯合基地航空部隊指揮官が命名する。隊員の官職氏名は事前に発表せず、任務を完遂したもののみ事後に発表する。一攻撃単位の全機が未帰還で不明の場合で完遂したと推定されるもの、直掩隊で任務中自爆したと推定される者は完遂した者と同じ取り扱いとする。正式発表(報告)は各司令官、司令の報告に基づき、認定の上、第一聯合基地航空部隊司令部において行う<ref name="金子2005p159-160" />。 |
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神風特攻隊の当初の目標は、敵[[航空母艦|空母]]の使用不能であり、最初の出撃となったフィリピンの戦いでは、そのように動いたが、フィリピンの戦いはそのまま長期化したため(「[[フィリピンの戦い (1944-1945年)]]」参照)、目標を敵主要艦船に広げ、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref name="千早ほか1994p280-281" />。 |
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最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、[[零式艦上戦闘機|零戦]]を改修したものを利用した。もともと零戦は[[反跳爆撃]]の訓練に使用されていたため、250キロ爆弾を搭載することができたので、特攻用への改修は、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、それは体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾が使用されることになり、艦爆その他も特攻に使われるが、航空機に特別な工作を必要とするものではなかった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=136}}</ref>。 |
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== 読み方 == |
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当時、日本公式には「神風」を「かみかぜ」と読むのが一般的だったが、猪口力平自身は「人間が『かみかぜ』じゃおかしいから『しんぷう』と読むんだ」と、ずっと『しんぷう』と読んでいた。彼の影響で、フィリピン現地の日本部隊はずっと「しんぷう」と読んでいたが、日本同盟通信の小野田政記者は「かみかぜ」という読みで日本内地の新聞に寄稿していた。<ref>[https://gendai.media/articles/-/82587?page=1&imp=0 戦時中のメディアは「特攻」をどう報じ、国民はどう受け止めたのか].現代メディア,2021年4月29日</ref> |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 特別攻撃の発想 === |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Admiral Takijiro Onishi.gif|thumb|200px|大西瀧治郎]] |
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[[ファイル:Eiitirou Jyou.jpg|thumb|200px|城英一郎]] |
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日本海軍の航空機による体当たり戦術は、太平洋戦争および神風特攻隊の創設以前に、日本海軍航空隊の草分けである[[山本五十六]]が言及していた<ref name="史伝山本元帥コマ104"/>。 |
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[[大西瀧治郎]]が創設した神風特別攻撃隊は[[城英一郎]]の研究を着想にしている<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=324}}</ref>。[[霞ヶ浦海軍航空隊]]で[[山本五十六]]・大西・城は親密な関係にあった{{R|城日記04}}。また、城英一郎は[[1926年]]([[大正]]15年)8月20日に結婚しており、これにより[[山本栄]][[少佐]](山本も同時期に霞ヶ浦海軍航空隊所属)の義弟となった{{R|城日記04}}。山本栄は最初の神風特別攻撃隊が編成された[[第二〇一海軍航空隊]](201空)司令である{{R|城日記04}}。 |
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[[1931年]](昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は[[海軍大学校]]卒業時の作業答案を[[山本五十六]]少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く{{R|城日記05}}。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した{{R|城日記05}}<ref name="城日記281">『[[#城日記|城英一郎日記]]』281-283頁、「(昭和18年)六月五日(土)曇」</ref>。[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]予備交渉に参加した山本は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った<ref>{{Citation|和書|title=常在戦場|year=1943|ref=常在戦場|author=米内光政|month=12|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|editor=}}コマ36-37(原本59-60頁)「一日[[元帥 (日本)|元帥]]と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を亂暴な男と思ふだらう。しかし考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。[[真珠湾攻撃|眞珠灣攻撃]]の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た」</ref><ref name="史伝山本元帥コマ104">{{Citation|和書|title=史伝山本元帥|year=1944|ref=史伝山本元帥|author=渡辺幾治郎|month=8|url={{NDLDC|1908682/104}}|chapter=|publisher=千倉書房|editor=}}コマ105(原本190-191頁)「[[皇軍]]の伝統的精神」</ref>。 |
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[[1924年]](大正13年)9月1日、山本五十六海軍大佐は[[霞ヶ浦海軍航空隊]]附となる<ref>[{{NDLDC|2955732/3}} 大正13年9月2日(火)官報第3609号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ3(山本、補霞ヶ浦海軍航空隊附)</ref>(山本は大正13年12月1日より同隊副長。大正14年12月1日、転任)<ref>[{{NDLDC|2955832/11}} 大正13年12月2日(火)官報第3684号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ11(山本、補霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長)</ref><ref>[{{NDLDC|2956132/7}} 大正14年12月2日(水)官報第3982号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ7(山本免職)</ref>。 |
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この時、太平洋戦争における神風特攻隊を実施した[[大西瀧治郎]]少佐(同隊に大正14年1月7日〜15年2月1日まで配属)<ref>[{{NDLDC|2955859/5}} 大正14年1月8日(木)官報第3711号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ5(大西、補霞ヶ浦海軍航空隊教官)</ref><ref>[{{NDLDC|2956181/4}} 大正15年2月2日(火)官報第4030号。国立国会図書館デジタルコレクション]コマ4(大西、免霞ヶ浦海軍航空隊教官)</ref>と[[城英一郎]]大尉(同隊に大正12年2月10日〜昭和2年11月15日まで生徒・教官時代含め所在)も霞ヶ浦海軍航空隊に所属しており、山本・大西・城は親密な関係になった<ref name="城日記04">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]4-5頁</ref>。城英一郎は[[1926年]](大正15年)8月20日に結婚したが、これにより[[山本栄]]少佐(同隊に大正11年12月〜15年5月まで配属)の義弟となった<ref name="城日記04"/>。後年、山本栄は神風特別攻撃隊が出撃した[[第二〇一海軍航空隊]]司令となった<ref name="城日記04"/>。 |
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[[1941年]](昭和16年)12月、[[大東亜戦争]]が勃発。[[1943年]](昭和18年)2月中旬頃、日本軍は[[B-29 (航空機)|B-29型超重爆]]の開発情報を掴み、春頃に「B-29対策委員会」を設置した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=300-301|loc=B-29対応策}}。4月17日、[[東條英機]][[陸軍大臣]]は局長会議で敵超重爆や[[防空]]の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=300-301|loc=B-29対応策}}<ref group="注">高空を高速で侵入し、防御火力が厚い[[戦略爆撃機]]に対する[[枢軸国]]防空戦闘機による体当たり攻撃の例としては、[[震天制空隊]](日本)や[[エルベ特別攻撃隊]]([[ナチス・ドイツ]])を参照。</ref>。 |
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[[1931年]](昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は[[海軍大学校]]卒業時の作業答案を[[山本五十六]]少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く<ref name="城日記05">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]5-6頁</ref>。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した<ref name="城日記05"/><ref name="城日記281">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]281-283頁『(昭和18年)六月五日(土)曇』</ref>。 |
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1943年[[4月18日]]、山本五十六大将([[連合艦隊司令長官]])が[[海軍甲事件|戦死]]した{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=371|loc=山本聯合艦隊司令長官の戦死}}<ref>{{アジア歴史資料センター|A06031086900|写真週報274号}}p.10「一億山本元帥の後につヾかん」/{{アジア歴史資料センター|A06031050700|週報第345号}}p.9「<ins>山本司令長官を悼む</ins>千古不滅の武勲」</ref>。同年[[6月5日]]、城英一郎大佐([[昭和天皇]][[侍従武官]])は、特別縁故者として山本の葬儀に参列{{R|城日記08|城日記281}}。かつて山本と「航空機体当たり」を検討したことを回想する{{R|城日記08|城日記281}}。同年[[6月22日]]、城は自らを指揮官とする「特殊攻撃隊」の構想をまとめる{{R|城日記08}}<ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』288頁「(昭和18年)六月二二日(半晴)当直」</ref>。投入予定海域は[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン諸島]]および[[ニューギニアの戦い|ニューギニア]]方面で、敵大型艦([[戦艦]]、[[航空母艦|空母]])は大破、特設空母([[軽空母]])や[[巡洋艦]]は大破または撃沈、[[駆逐艦]]や輸送船は撃沈を期待というものだった<ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』290-291頁「(昭和18年)六月二八日(月)曇 小雨 当直」</ref>。[[6月29日]]、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長の大西瀧治郎中将に説明した{{R|城日記08}}<ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』292頁、「(昭和18年)六月二九日(火)半晴」</ref>。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった<ref>[[#特攻特質|特攻作戦の特質]] pp. 5-6</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=322-324}}</ref>{{R|城日記294}}。[[ニュージョージア島の戦い]]勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する<ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』292-293頁、「(昭和18年)六月三〇日(水)曇」</ref>。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり{{R|城日記08|城日記294}}、その後も個人的に特攻隊について研究し、[[海軍航空本部]]の[[高橋千隼]]課長らにも相談していた{{R|城日記08}}<ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』300頁、「(昭和18年)七月一七日(土)晴 当直」</ref><ref>『[[#城日記|城英一郎日記]]』302頁、「(昭和18年)七月二二日(木)晴(略)帰途、航本〔航空本部〕に立寄り、高橋課長と特空〔特殊航空隊〕を語る。鮫島中将宅を訪ふ。」</ref>。 |
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[[1934年]](昭和9年)、[[第二次ロンドン海軍軍縮会議]]予備交渉に参加した[[山本五十六]]少将は<ref>{{Citation|和書|title=<small>米英撃滅の人柱</small> 山本五十六元帥|year=1943|ref=高幣、山本元帥|author=高幣常市|month=10|url={{NDLDC|1719948/78}} 国立国会図書館デジタル資料|chapter=九、ロンドンに於ける山本元帥|publisher=蒼生社|editor}}</ref>、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという<ref>{{Citation|和書|title=常在戦場|year=1943|ref=常在戦場|author=米内光政|month=12|url={{NDLDC|1058250/35}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=周到なる準備|publisher=大新社|editor=}}コマ36-37(原本59-60頁)『一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を亂暴な男と思ふだらう。しかし考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』</ref><ref name="史伝山本元帥コマ104">{{Citation|和書|title=史伝山本元帥|year=1944|ref=史伝山本元帥|author=渡辺幾治郎|month=8|url={{NDLDC|1908682/104}}|chapter=|publisher=千倉書房|editor=}}コマ104-106(原本188-193頁)『皇軍の伝統的精神』</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)6月下旬、日本海軍は[[マリアナ沖海戦]]に大敗(城も「[[千代田 (空母)|千代田]]」艦長として参加){{R|城日記10}}。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=122}}</ref>。また[[第一機動艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]中将、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将、軍令部総長[[及川古志郎]]大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した{{R|城日記10}}。 |
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[[1941年]](昭和16年)12月の[[太平洋戦争]]勃発後、[[ミッドウェー海戦]]や[[ガダルカナル島の戦い]]を経て戦況は悪化、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)も[[1943年]](昭和18年)[[4月18日]]の[[海軍甲事件]]で戦死した(連合艦隊参謀長[[宇垣纏]]中将重傷)<ref>{{アジア歴史資料センター|A06031086900|写真週報274号}}p.10『一億山本元帥の後につヾかん』</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A06031050700|週報第345号}}p.9『<ins>山本司令長官を悼む</ins>千古不滅の武勲』</ref>。同年[[6月5日]]、[[城英一郎]]大佐([[昭和天皇]][[侍従武官]])は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列<ref name="城日記08">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]8-9頁</ref><ref name="城日記281"/>。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する<ref name="城日記08"/><ref name="城日記281"/>。[[6月22日]]、城は自らを指揮官とする'''特殊攻撃隊'''の構想をまとめる<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]288頁『(昭和18年)六月二二日(半晴)当直』</ref>。投入予定海域は[[ソロモン諸島]]および[[パプアニューギニア|ニューギニア]]方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった<ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]290-291頁『(昭和18年)六月二八日(月)曇 小雨 当直』</ref>。 |
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[[6月29日]]、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長[[大西瀧治郎]]中将に説明した<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292頁『(昭和18年)六月二九日(火)半晴』</ref>。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった<ref>[[神風特別攻撃隊#特攻特質|特攻作戦特質pp]].5-6</ref><ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁</ref><ref name="城日記294">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]294頁『(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨』</ref>。 |
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[[ニュージョージア島の戦い]]勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する<ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]292-293頁『(昭和18年)六月三〇日(水)曇』</ref>。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり<ref name="城日記08"/><ref name="城日記294"/>、その後も個人的に特攻隊について研究し、[[海軍航空本部]]の[[高橋千隼]]課長等にも相談していた<ref name="城日記08"/><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]300頁『(昭和18年)七月一七日(土)晴 当直』</ref><ref>[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]302頁『(昭和18年)七月二二日(木)晴(略)帰途、航本〔航空本部〕に立寄り、高橋課長と特空〔特殊航空隊〕を語る。鮫島中将宅を訪ふ。』</ref>。 |
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マリアナ沖海戦後、[[岡村基春]]大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった<ref>{{Harvnb|秦郁彦|1999|p=509}}</ref>。さらに、[[第二五二海軍航空隊]](252空)司令[[舟木忠夫]]大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』{{Full citation needed|date=2024年7月}}<!--奥宮『海軍特別攻撃隊』には1980年刊と1982年刊が存在。どちら?-->([[朝日ソノラマ]])45頁</ref>、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=26-27}}</ref><ref name="戦史叢書45p502">{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=502}}</ref>。既にこの頃、日本海軍の中央で[[特攻兵器]]の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係ない別物だった<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=346}}</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は[[千歳型航空母艦|瑞鳳型航空母艦]]4番艦[[千代田 (空母)|千代田]]艦長に任命される<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072095800|昭和19年2月15日(発令2月15日)海軍辞令公報(部内限)第1322号 p.11}}(城英一郎、補千代田艦長)</ref><ref name="城日記10">[[神風特別攻撃隊#城日記|城英一郎日記]]10-11頁</ref>。 |
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6月下旬、日本海軍は[[サイパン島の戦い]]にともなう[[マリアナ沖海戦]]に大敗(城も千代田艦長として参加)<ref name="城日記10"/>。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁</ref>。また[[第一機動艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]中将、連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将、軍令部総長[[及川古志郎]]大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した<ref name="城日記10"/>。 |
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中央で着々と航空特攻開始に向けての機運が高まる中、前線では未だ通常の航空作戦によるアメリカ軍艦隊の迎撃策の準備が進められていた。次にアメリカ軍の侵攻が予想される[[フィリピン]]に配置されていた201空では、[[零式艦上戦闘機]]を[[爆戦]]として運用し、[[急降下爆撃]]でアメリカ軍艦隊を攻撃しようと計画しており、副長[[玉井浅一]]中佐のもとで連日猛訓練を行っていた<ref>{{Harvnb|小野田政|1971|p=20}}</ref>。しかし、戦闘機搭乗員には急降下爆撃は難易度が高く、より容易な[[反跳爆撃]]に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしている<ref>{{Harvnb|小野田政|1971|p=21}}</ref>。 |
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マリアナ沖海戦後、[[岡村基春]]大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁</ref>。さらに、252空司令[[舟木忠夫]]大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁</ref>、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁</ref>。この頃すでに、日本海軍の中央で[[特攻兵器]]の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁</ref>。 |
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=== ダバオ誤報事件 === |
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[[1944年]](昭和19年)[[10月5日]]、大西が[[第一航空艦隊]]司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった[[杉山利一]]に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁</ref>。大西は出発前、[[海軍省]]で海軍大臣[[米内光政]]大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』p224</ref>。また、[[及川古志郎]]軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」<ref>丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁</ref>「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁</ref>。大西は、軍令部航空部員[[源田実]]中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして[[零戦]]150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁</ref>。 |
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{{See also|ダバオ誤報事件}} |
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1944年9月に入ると、フィリピン[[ミンダナオ島]]の[[第一航空艦隊]](一航艦)司令部がある[[ダバオ]]は連日のようにアメリカ軍の[[空襲]]を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に[[第32特別根拠地隊]][[サランガニ州|サランガニ]]見張所が「湾口に敵[[上陸用舟艇]]が見える」との報告を行った。一航艦司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000[[メートル|m]]まで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部は[[ミンタル]]([[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[師団]]司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の[[寺岡謹平]]中将は、航空機を[[セブ島]]に退避させ、司令部は[[バレンシア (ブキドノン州)|バレンシア]]に後退することと決めた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.320}}</ref>。しかし敵上陸に確信が持てなかった主席参謀の[[猪口力平]]は、[[小田原俊彦]]参謀長と松浦参謀にダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように依頼した。10日夕方になって、両参謀と自己判断で偵察飛行した第201海軍航空隊副長[[玉井浅一]]中佐によって敵上陸はまったくの誤報であることが判明し、猪口は「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電している<ref group="注">戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに[[芙蓉部隊]]の指揮官として有名となった[[美濃部正]]少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書『大正っ子の太平洋戦記』(方丈社)などで主張しているが、事件後に現地調査した軍令部参謀の[[奥宮正武]]中佐は玉井の偵察飛行で判明したと証言している。</ref><ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.330}}</ref><ref>{{Harvnb|石川真理子|2016|loc=電子版, 位置No.1286}}</ref><ref>{{Harvnb|奥宮正武|1996|loc=電子版, 位置No.912}}</ref>。この事件はのちに海軍最大の不祥事の一つとして、「ダバオ誤報事件」(または[[平家]]の大軍が、[[水鳥]]が立てた羽音を[[源氏]]の襲来と誤認して逃げ散った「[[富士川の戦い]]」の故事にちなんで「ダバオ水鳥事件」とも)と呼ばれることになった<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=42}}</ref> 。この誤報によりセブ島に集中していた航空機のうち、ダバオへの帰還が遅れた約100機が9月12日にアメリカ軍の空襲を受けて、地上で80機を撃破されるという大失態を演じているが、このうち50機が主力戦闘機の零戦であり、一航艦はアメリカ軍上陸前に戦力をすり潰してしまった<ref name="冨永 1972 43">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=43}}</ref> 。 |
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「ダバオ誤報事件」で戦力を消耗した201空ではあったが、9月22日、その報復としてこれまで爆戦隊の訓練を取り仕切ってきた戦闘301飛行隊長[[鈴木宇三郎]]海軍大尉が指揮官となり、爆戦の零戦十数機を率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を行っている。その後の9月25日、爆戦隊の指揮と訓練指導を期待されて[[艦上爆撃機]]の搭乗員で訓練教官でもあった[[関行男]]大尉が、戦闘301飛行隊の分隊長として着任し、のちに[[台湾沖航空戦]]で鈴木が戦死したため、その後任として戦闘301飛行隊長に昇進している<ref>{{Harvnb|小野田政|1971|p=22}}</ref>。 |
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同年[[10月9日]]、[[フィリピン]]に向けて出発した大西は、到着までに[[台湾]]・新竹で航空戦の様子を見学し、[[多田武雄]]中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官[[豊田副武]]大将にも「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった[[場の空気|空気]]にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。 |
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=== 大西中将が第一航空艦隊司令長官着任 === |
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フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官[[寺岡謹平]]中将に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の[[甲板]]の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁</ref>。 |
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[[1944年]](昭和19年)[[10月5日]]、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった[[杉山利一]]に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという<ref name="戦史叢書45p502" />。大西は出発前、[[海軍省]]で海軍大臣[[米内光政]]大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|p=224}}</ref>。また、[[及川古志郎]]軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|pp=13-16}}</ref>「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=705}}</ref>。大西は、軍令部航空部員[[源田実]]中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=109}}</ref><ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|p=89}}</ref>。 |
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[[ファイル:Arima Masafumi.jpg|thumb|200px|台湾沖航空戦で自ら特攻出撃して戦死した有馬正文中将]] |
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同年[[10月9日]]、大西はフィリピンに向けて出発したが、[[台湾沖航空戦]]が開始されており、途中で[[台湾]]に立ち寄って[[新竹]]で航空戦の様子を見学した。日本軍の苦戦ぶりを見て愕然とし、[[多田武雄]]中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官[[豊田副武]]大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が[[雷撃]][[爆撃]]をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった[[場の空気|空気]]にならなければ(特攻は)実行できない」と語っている<ref>{{Harvnb|豊田副武|2017|loc=電子版, 位置No.2203}}</ref>。台湾沖航空戦ではアメリカ軍空母にほとんど損害を与えていなかったのにもかかわらず、[[大本営]]は戦果誤認で大戦果を報じ、軍令部はフィリピンの一航艦にも追撃を命じた。[[第二六航空戦隊|第26航空戦隊]]司令の[[有馬正文]]中将は、常々「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っていたが<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=155">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=155}}</ref>、出撃命令が下ると、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのは[[パイロット (航空)|パイロット]]たちの士気が高い今である」と述べて、[[1944年]][[10月15日]]、参謀や副官が止めるのも聞かず有馬は自ら[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]に搭乗した。有馬は出撃時に軍服から少将の[[襟章]]を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字も削り取っており、最初から帰還するつもりはなかった<ref name="冨永 1972 48">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=48}}</ref>。有馬が搭乗した一式陸攻はアメリカ軍[[機動部隊]]の150[[キロメートル|km]]前方で艦載戦闘機の迎撃によって撃墜され、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=155"/>。しかし有馬の特攻出撃を知った大西はより航空特攻開始への意を強くし、フィリピンで作戦中の[[第2飛行師団 (日本軍)|陸軍第二飛行師団]]参謀の[[野々垣四郎]]中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」と、陸軍の航空特攻開始にも影響を与えている<ref name="戦史叢書17 1968 706">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=706}}</ref>。 |
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大西はフィリピンに到着すると、前任者の寺岡に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の[[飛行甲板]]の撃破として、発着艦能力を奪って[[戦闘艦|水上部隊]]を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=502-504}}</ref>。 |
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寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長[[小田原俊彦]]少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「[[軍需局]]の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、[[重油]]・[[ガソリン]]は半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで[[満州事変]]の頃まで[[大日本帝国]]を巻き戻す。[[フィリピン]]を最後の戦場とする。特攻を行えば[[昭和天皇|天皇陛下]]も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』63頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199</ref>。{{#tag:ref|このコンセプトは[[米内光政]]海軍大臣によるものと言われる<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年303-304頁</ref>。|group="注"}} |
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寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長[[小田原俊彦]]少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「[[軍需局]]の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油・ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで[[満州事変]]の頃まで[[大日本帝国]]を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば[[昭和天皇|天皇陛下]]も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|p=63}}</ref><ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|p=197-199}}</ref>{{#tag:ref|このコンセプトは[[米内光政]]海軍大臣によるものと言われる<ref>{{Harvnb|大野芳|1980|pp=303-304}}</ref>。|group="注"}}{{#tag:ref|この証言は、大西瀧治郎が公言したものではない。角田和男が小田原俊彦大佐から聞いた話である。大西自身は終戦講和に強く反対したことから、この証言に懐疑的な見解を持つ研究者もいる<ref>{{Harvnb|畑中|2015|p=133-138}}</ref>。|group="注"}}。 |
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同年[[10月19日]]、大西は[[マニラ]]艦隊司令部に[[クラーク空軍基地]]の761空司令[[前田孝成]]大佐、飛行長[[庄司八郎]]少佐と、[[マバラカット基地]]の201空司令[[山本栄]]中佐、飛行長[[中島正]]少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫37-41頁</ref>。 |
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=== 航空機による体当たり攻撃開始決定 === |
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=== 創設 === |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Yukio seki.jpg|thumb|200px|関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)]] |
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同年[[10月19日]]、大西は[[マニラ]]艦隊司令部に[[クラーク空軍基地]]の[[第七六一海軍航空隊]](761空)司令[[前田孝成]]大佐、飛行長[[庄司八郎]]少佐と、[[マバラカット]]基地の201空司令[[山本栄]]中佐、飛行長[[中島正]]少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は、午後の攻撃隊の出撃を見送ったのちに、車でマニラを目指したため到着が遅れ、大西は何かあったと心配して自らマバラカットに出向くことにし、すれ違いとなった<ref name="戦史叢書56 1972 111">{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=111}}</ref>。すれ違いとなった山本は、マニラ東部の[[ニコルス]]基地に出向き、中島の操縦する零戦の胴体に乗り込んでマバラカット基地を目指したものの、中島が操縦する零戦は発動機が故障し、水田の中に不時着してしまった。2人は通りかかった陸軍のトラックに救助されたが、中島は顔面に軽傷を負っただけで済んだものの、山本は左足を骨折していた<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=280}}</ref>。山本は再びマニラの司令部に戻ると、[[軍医]]の応急手当を受けながらすぐに[[小田原俊彦]]参謀長に電話をし、小田原から今日の大西の要件が特攻開始の打診で会ったことを聞くと、「当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている([[玉井浅一]])副長とよくお打ち合わせくださるよう」と大西に伝えてもらうよう依頼している<ref name="猪口 1951 loc=電子版, 位置No.874">{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.874}}</ref>。 |
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1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀[[猪口力平]]、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀[[吉岡忠一]]中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「[[空母]]を一週間くらい使用不能にし、[[捷一号作戦]]を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111</ref>。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁</ref>。 |
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1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長[[玉井浅一]]中佐、一航艦首席参謀猪口、26航空戦隊参謀兼一航艦参謀[[吉岡忠一]]中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、[[捷一号作戦]]を成功させるため、零戦に250[[キログラム|kg]]爆弾を抱かせて体当りをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=47}}</ref>。一同は、爆弾の効果としては、飛行機と一緒に突っ込ませるよりも、高い高度から投下した方が破壊力は大きいという理解であったが、もはや通常の爆撃法には期待はもてないのであれば、威力は多少減殺しても確実に命中できる方法(体当り)をとるべきという認識は共有できたものの、すぐに結論をだすことはできなかった<ref name="戦史叢書56 1972 111"/>。これに対して玉井はまず吉岡に、「零戦に250キロ爆弾を積んで体当りをやってどのくらい効果があるものだろうか?」と尋ねたところ、吉岡は、「空母の飛行甲板を破壊し発着艦を阻止すること位は出来ると思います」と答えている<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.32}}</ref>。その答えを聞いた玉井は、司令の山本が不在だったために「ご主旨はよくわかりましたが、201空から特攻隊の搭乗員を出すということになると、司令や飛行長の意向も計らねばなりません」と返答したが、大西は押し通すように「司令たちはマニラに呼んだが、一向に着かない。今は副長の意向を司令の意向と考えたいがどうか」と特攻を決行するかは玉井に一任した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.41}}</ref>。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=50}}</ref>。 |
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「指揮官の選定は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は[[関行男]]を指名した<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113</ref>。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113</ref>が、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って[[遺書]]を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った<ref>文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁</ref>。 |
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「指揮官の選定は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は戦闘第301飛行隊長の[[関行男]]を指名した。玉井が関を思いついた理由としては、戦闘の合間を見ては、再三再四にわたって熱心に戦局に対する所見を申し出て出撃への参加を志願し、玉井の脳裏に「この先生なかなか話せる男だ」という強い印象が残っていたからとされているが<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.768}}</ref>、猪口も兵学校教官時代から関のことを、テニス好きのスマートな男だが、気は強い男と熟知しており、異存はなかった<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.74}}</ref>。猪口の賛同を得た玉井は、就寝中の関を起こしに従兵を関の私室に行かせた。関はこのとき熱帯性下痢を患い軍医の指示で絶食し静養中であったが、やがて[[カーキ]]色の[[第三種軍装]]を身に着けて玉井に部屋を訪れた。玉井は関に椅子をすすめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と告げた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.85}}</ref>。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=113}}</ref>。熟考の時間はわずか数秒という証言もあるが<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.88}}</ref>、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」とためらったが、玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押したため、結論を先延ばしすることはできないと決断し、「承知しました」とたった一言で返答したとする証言もある。その際、玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」と関に感謝の言葉を述べたという<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2029}}</ref>。戦後に玉井が関の慰霊祭に参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答を避けたのち、翌朝になって「引き受けます」と承諾したなどと友人に話しているが、これは、関が了承したあとの経緯から見ても時系列的に矛盾することが多く、玉井の記憶違いである<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2039}}</ref>。関が了承した後、玉井と関は士官室兼食堂に移動したが、そこに大西と猪口と大西の副官の[[門司親徳]]中尉も合流した。猪口は関に「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ」と語りかけたが、関は「いや」と言葉少なに答え、猪口は「そうか、チョンガーじゃなかったか」と言った。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗い[[ランプ (照明器具)#カンテラ|カンテラ]]の下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めた<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=281}}</ref>。 |
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特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁</ref>。{{#tag:ref|甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として、「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと<ref>御田重宝『特攻』講談社23頁</ref>」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書84-85頁</ref>。|group="注"}}飛行長だった[[中島正]]によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという<ref>丸『特攻の記録』光人社NF文庫95-96頁</ref>。 |
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その後、特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛(甲種[[海軍飛行予科練習生]])10期生を中心に33名を集めて「大西長官より次なる作戦実施方法が指令された。それは特攻作戦である。今この基地にある零戦に250キロ爆弾を抱かせ敵空母に体当りする事である」「これは絶対に生還することの出来ない無常なものであるが、これは絶対にやらなければならない事である。ただしながらこの作戦行動と戦果のすべてが日本の歴史に{{読み|燦然|さんぜん}}と輝き残るのである」「私はこの輝かしい歴史の1頁を甲十期搭乗員のお前らに飾らせてやりたいと思ったからだ」「お前たちは誰より可愛い。だから一番可愛いお前たちを日本の歴史に其の名を載せて、悠久の神として祭ってやりたいのだ。この気持ちをわかって欲しい。ただし、これは命令ではない。あくまでもお前たちの志願である」と特攻への志願を募った<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2015|p=258}}</ref>。玉井から集合を命じられたのは、日頃の労をねぎらって豪華な食事をごちそうしてもらえるぐらいに考えていた搭乗員たちは、突然の特攻志願の募集に一瞬大きなショックを受け、「毎日決死の思いで戦っているこの状況ですら、もはや間に合わない状況なのか?」と一同はしばし沈黙を続けて、部屋は重苦しい空気に包まれた。そこで、副長が「この国難を救う為に率先志願したい者は挙手してほしい」と再度志願を募った<ref name="神立尚紀 2015 259">{{Harvnb|神立尚紀|2015|p=259}}</ref>。 |
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玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p112</ref>。しかし、志願した山桜隊・[[高橋保男]]によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁</ref>」、同じく志願者の[[井上武]]によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という<ref>御田重宝『特攻』講談社15-16頁</ref>。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁</ref>、志願した[[浜崎勇]]は「仕方なくしぶしぶ手をあげた<ref>渡辺大助『特攻絶望の海に出撃せよ』新人物往来社36頁</ref>」、[[佐伯美津男]]は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している<ref>『零戦、かく戦えり!』零戦搭乗員会編 文芸春秋307-308頁</ref>。 |
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この後は関係者によって記憶が異なっており、玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=112}}</ref>。志願した山桜隊・[[高橋保男]]によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚<ref>{{Harvnb|森史朗|2006|p=105-107}}</ref>」、同じく志願者の[[井上武 (海軍軍人)|井上武]]によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という<ref>御田重宝『特攻』(講談社){{Full citation needed|date=2024年8月}}<!--1988年刊と1991年刊の文庫版が存在。どちら?-->15-16頁</ref>。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、副長の言葉ののちに、気持ちの整理がついた者からぽつりぽつりと重そうに手が上がったという者や<ref name="神立尚紀 2015 259"/>、副長ではなく玉井が再度、「行くのか? 行かんのか?」と一喝したことで、一同の手がすぐに上がったと証言する者や<ref name="森史朗『特攻とは何か』(文春新書)87-88頁">{{Harvnb|森史朗|2006|pp=87-88}}</ref>、志願した[[浜崎勇]]は「仕方なくしぶしぶ手をあげた<ref>渡辺大助『特攻 絶望の海に出撃せよ』([[新人物往来社]]){{Full citation needed|date=2024年8月}}<!--2005年刊と2009年刊の文庫版が存在。どちら?-->36頁</ref>」、[[佐伯美津男]]は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している<ref>零戦搭乗員会編『零戦、かく戦えり!』(文芸春秋){{Full citation needed|date=2024年8月}}<!--2004年刊と2016年刊の文庫版が存在。どちら?-->307-308頁</ref>。そうやって募った志願者のなかから、最終的に24名の特攻隊を編成した<ref name="森史朗『特攻とは何か』(文春新書)87-88頁"/>{{#tag:ref|甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと<ref>御田重宝『特攻』([[講談社]])23頁</ref>」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている<ref>{{Harvnb|森史朗|2006|pp=84-85}}</ref>。|group="注"}}。 |
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猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「'''神風特別攻撃隊'''」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に[[本居宣長]]の歌「'''敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花'''」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社45頁</ref>。 |
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=== 特攻 |
=== 神風特別攻撃隊編成 === |
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[[ファイル:Yoshiyasu Kuno.jpg|thumb|200px|神風特別攻撃隊大和隊指揮官久納好孚中尉]] |
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1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の[[門司親徳]]に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された<ref>戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦114頁、金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫61頁</ref>。 |
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猪口は航空機による体当たり攻撃隊の編成が決定されるとその部隊名について、郷里の古剣術の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、「神風隊というのはどうだろう」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意した。また大西は、各隊に[[本居宣長]]の[[和歌]]「[[敷島]]の [[大和心]]を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1963|p=45}}</ref>。しかし大西がフィリピンに出発する前に、軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際には「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島・朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されていたため、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=108}}</ref>。 |
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1944年(昭和19年)10月20日朝、マバラカットにいた大西が副官の門司と朝食をとっていると玉井がやってきて「そろいました」と報告してきた。大西らが宿舎の中庭に出ると20数名の搭乗員が整列しており、右の先頭に関が立っていた。整列した特攻隊員の前には木箱が置いてあり、大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて訓示を行った<ref name="門司親徳 1978 282">{{Harvnb|門司親徳|1978|p=282}}</ref>。 |
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機密第202359番電 1944年10月20日発信 |
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{{quotation|<poem> |
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「体当り攻撃隊を編成す」 |
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この体当り攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。今の戦況を救えるのは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君たちのような純真で気力に満ちた人たちである。みんなは、もう命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果の戦果を知ることが出来ないのが心残りであるに違いない。自分は必ずその戦果を上聞に達する。国民に代わって頼む。しっかりやってくれ。 |
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1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、 |
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</poem>}} |
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敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。 |
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訓示の途中、大西の身体は小刻みに震え、顔は蒼白で引きつっていた。同席していた[[従軍記者|報道班員]]の[[日本映画社]][[稲垣浩邦]]カメラマンも撮影もせずに聞き入っていた。門司も深い感慨を覚えたが涙が出ることはなく、行くとこまで行ったという突き詰めた感じがしたという<ref name="門司親徳 1978 282"/>。そのあと、大西は特攻隊員一人一人と握手すると再び宿舎の士官室に戻って、神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司に命じたが、門司はそんな命令書を作った経験もなく戸惑っていたので、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は連合艦隊・軍令部・海軍省など中央各所に発信された<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=114}}</ref><ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|p=61}}</ref>。 |
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今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。 |
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2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。 |
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司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。 |
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3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。 |
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4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。 |
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{{quotation|<poem> |
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10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官[[三川軍一]]中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には[[第二航空艦隊]]司令長官・[[福留繁]]中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 504頁</ref>。 |
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機密第202359番電 1944年10月20日発信 |
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「体当り攻撃隊を編成す」 |
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1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、 |
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敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。 |
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今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。 |
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2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。 |
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司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。 |
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3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。 |
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4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。 |
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</poem>}} |
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前日に搭乗した零戦の不時着で大西と会えなかった中島は、20日の夜明けを待って車でマバラカットに到着したが、司令部で特攻発動の命令と関が全特攻隊員の指揮官に任じられたことを知り、さらに[[セブ島]]にて特攻隊を編制するよう指示を受けた<ref name="猪口 1951 loc=電子版, 位置No.874"/>。そこで中島は、すでに特攻に志願し、さきほど大西の訓示を受けたばかりの大和隊4名を引き連れて、合計8機の零戦に分乗してマバラカットを発ってセブ島に向かった。飛行場に着陸した中島は搭乗員と整備士全員の集合を命じて、必中必殺の体当り部隊「神風特別攻撃隊」が編成され、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名され、自分が引き連れてきた4名はその志願者であることを説明し、「私はセブ基地における特攻隊の編成を命じられて来た。志願する搭乗員は等級氏名を書き封筒に入れて密封し先任搭乗員を通じて私の所に届けよ」「家庭の事情によって志願出来ない者もいることと思う。飛行機の数は少ないので、志願できないものは正直に白紙を入れよ。私は誰にもこの内容を公表しない」などと特攻への志願者を募った<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.170}}</ref>。 |
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神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・[[関行男]]ではなく、大和隊隊長・[[久納好孚]]中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・[[佐藤馨上]]飛曹が未帰還となる。そして同月[[10月25日]]午前10時49分、敷島隊指揮官の関(戦死後中佐)以下6機が護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]を撃沈し、初戦果を挙げて活路を開いたが、突入する水上部隊だった第一遊撃部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]座乗)が突然反転したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。 |
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その後、中島はセブ基地の司令部に入ったが、2階の作戦室兼寝室に入るや階段を上ってくる足音が聞こえて、作戦室の扉をノック後に[[海軍予備員|海軍予備学生]]の[[久納好孚]]中尉が入ってきた。久納は中島の顔を見るなり「私が特攻隊から除外されることはないでしょうね?」と中島に尋ねた。中島は久納の物静かであるが心中に烈々たるものを秘めているという性格を知り尽くしており、必ず志願すると思っていたため「君の乗る特攻機は、ちゃんとマバラカットから持ってきてるよ」と答えると、久納はにっこりと笑って敬礼し、作戦室を退出していった<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1007}}</ref>。久納は[[法政大学]]在学時からピアノの演奏に秀でており、志願ののち、中島と久納は夕食をともにしたが、その際に久納はピアノを演奏している。久納の演奏を聴いていた他の士官たちはあふれる涙をおさえることができなかったという<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1017}}</ref>。久納は大学生出身の予備士官で兵学校出身者よりは気さくに下士官や兵士と付き合い、また操縦技術にも優れていたため人望も厚く、久納の志願は下士官以下の特攻隊員の志願を後押しした<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2315}}</ref>。 |
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第一航空艦隊航空参謀・[[吉岡忠一]]中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年71、74頁</ref>。軍令部部員・[[奥宮正武]]によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・[[淵田美津雄]]大佐の慎重な処置ではないかという<ref>御田重宝『特攻』講談社107頁</ref>。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社281-282頁</ref>。 |
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その後も、中島のもとには志願者が次々と訪れた。まずは偵察機隊から[[特務士官]]の国原千里少尉が来ると不満そうに「飛行長は、下士官兵に対しては神風特攻の志願を聞かれた。それなのに准士官以上にはなんの話もされない。我々はどうしてくれるのですか」と詰め寄ってきたので、中島は微笑みながら「准士官以上はどうするのかな?」と尋ねると、国原は「ひとり残らず熱望です」と答えたので、中島は「それだから何も聞かないのではないか」と国原の志願を了承すると、国原は「ありがとうございます」と喜んで出て行ったという<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1037}}</ref>。しかし、兵学校出身者や予備士官と異なり、兵卒からたたき上げの准士官は同じ士官と言えども年齢が高く、30歳を超えるであろう後ろ姿を見た中島は「妻子がいるのであろうが、残る家族のことをどう考えているのか」と痛ましく感じた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.201}}</ref>。 |
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大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った<ref>門司親徳『空と海の涯で-第一航空艦隊副官の回想』光人社NF文庫</ref>。 |
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もっとも決断をためらったのが久納と同じ海軍予備学生の[[植村真久]]少尉で、植村は[[立教大学]]でサッカー部の主将であったが、[[学徒動員]]で海軍予備学生となり、戦闘機搭乗員となっていた。植村は20日の深夜に中島のもとを訪れたが、何も言い出せないまま一旦は帰ってしまった。翌晩も中島の作戦室に上がってきて、中島になんともないことを話しかけるとそのまま作戦室を後にした。さらに、3日連続となる翌晩の深夜にも中島のもとを訪れたので、中島は植村の心中を察して「君は再三やってくるが、特攻を志願にきたのではないか」と切り出すと、植村はすまなそうに「じつはそうなのです」「飛行長の顔を見ると、どうしてもそれが言い出せないのです。ご存じのように、私は他の者よりも操縦技術がまずいものですから」「私は先日も、訓練で大切な飛行機をこわしました」「私は自分が{{読み|技倆|ぎりょう}}がまずいのをよく知っているのですが、こればっかりはどうしても諦めきれないのです」と話したので、中島は感動のあまり声を失ったが、ようやく立ち上がって植村の肩を叩くと、「心配するな、お前ぐらいの技倆があれば、特攻隊員には十分だ。俺がきっとよい機会をみつけてやる、心配せずに寝ろ」と語りかけた。植村の表情はようやく明るくなって「よろしくお願いします」と部屋を出て行ったが<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1081}}</ref>、植村は既に結婚し長女素子も誕生しており、志願後に素子に向けた遺書を書いている。素子は戦後に父親と同じ立教大学に進学し、在学中に[[靖国神社]]の拝殿で亡父に向けて日本舞踊を奉納している<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=174}}</ref>。 |
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=== 拡大 === |
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10月26日、[[及川古志郎]][[軍令部総長]]は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。[[昭和天皇]](大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦についてはご存じなく、同月28日には御説明資料も作成された<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 526-527頁</ref>。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。そのお言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、[[第二〇一海軍航空隊|第201航空隊]]飛行長[[中島正]]少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた<ref>猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊』P111、太田尚樹『天皇と特攻隊』P20、読売新聞社編『昭和史の天皇〈1〉』</ref>。 |
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中島の手元には20数通の志願書が先任搭乗員から届けられたが、白紙の志願書は2通のみで、他は全員熱望であった。白紙の2名もいずれも病気で航空機の操縦ができない搭乗員のものであったという<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1048}}</ref>。 |
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敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官[[福留繁]]中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p155-159</ref>。 |
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=== 神風特別攻撃隊初出撃 === |
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大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した<ref>森史朗『特攻とは何か』文春新書150-152頁</ref>。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と特攻作戦は自分で指導し自らが責任を取るという姿勢を明らかにした。これは大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬとの意思表示であったと思われる<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 706頁</ref>。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p161-163</ref>。 |
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[[File:19441025 pilots of japanese 201 naval air corps farewell.jpg|right|270px|thumb|1944年10月21日の、大西と敷島隊の訣別の水盃と報じられた映像の一部。実際は10月20日に大西と特攻隊員が談笑した後に撮影されたものであり服装もバラバラ、敷島隊に加えて大和隊の隊員も入っている]] |
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10月20日の15時頃に、敵艦隊を[[サマール島]]東方海面に発見したという報告が司令部に寄せられた。午前中に特攻隊員に訓示していた大西はまだマバラカットにおり、猪口は敵の位置を書き込んである海図を持って、[[バンバン川]]の河原で関ら特攻隊員と雑談を交わしていた大西に「特別攻撃隊には距離いっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」と判断をあおいだところ、大西は、「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の勝算のない場合、おれは決して出さない」と答えている。猪口はこの大西の攻撃自重の判断を聞いて、大西が初回の特攻にどれだけ慎重であるか思い知らされたが、これ以降新しい情報もなかったため、大西は一旦マニラに帰還することとした<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.918}}</ref>。帰り間際、大西は副官の門司の水筒に目を付けると「副官、水が入っているか」と尋ねたので、門司が水筒を大西に渡すと、大西はまず水筒の蓋で自ら水を飲み、次いで猪口と玉井にも水を飲ませて、その後水筒ごと玉井に手渡し、あとは玉井が並んでいる関大尉以下7名の特攻隊員に水をついでいった<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=286}}</ref>。このときの様子をカメラマンの稲垣が撮影しており、のちに内地で、10月21日の関率いる敷島隊の出撃前の様子として[[日本ニュース]]で報道されたが、実際にはその前日の出来事で、敷島隊と大和隊両隊の隊員が入っており、敷島隊のなかでも[[永峯肇]]と[[大黒繁男]]の2名が入っておらず、待機姿勢であるので服装もバラバラで、飛行服を着ているのは関と[[山下憲行]]の2名のみ、残りの5名は防暑服を着用している<ref name="ReferenceA">{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2335}}</ref>。稲垣は玉井から事前に「重大なことがあるから一緒に来るように」と呼び出されており、撮影に準備をしていたのでこのシーンを撮影できたものであるが、大西は特攻隊員への訓示でも述べた通り、神風特別攻撃隊の国民への周知について強い拘りを持っており、この「決別の水盃」のシーンも敢て大西が意図して撮影させたという意見もある<ref name="ReferenceA"/>。 |
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この夜に、報道班員の[[同盟通信]]記者[[小野田政]]は、入院していた201空司令の山本の許可をとって、関を取材すべくマバラカットの基地に向かった。関と小野田はバンバン川の河原の砂利石の上に腰を下ろしたが、関は二人きりになったところを見計らって「報道班員、日本はもうおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」、[[艦上爆撃機]]出身者らしい関の自信にあふれた言葉ではあったが、関には一度も急降下爆撃の実戦は経験していなかった<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2423}}</ref>。関はさらに「ぼくは天皇陛下とか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と冗談めいた口調で言い切った。201空に着任以来、艦爆出身のよそ者で本心を打ち明ける同僚もなく、隊では孤立ぎみであった関は、同じくよそ者の記者の小野田に一気に心の鬱積を解き放ったかのようであった。さらに関は小野田を前にして、胸ポケットに大事にしまっていた新妻満里子の写真を見せびらかすと、その美しさを褒め、茶目っ気たっぷりに写真にキスしてみせるなど戯けて見せた。最後に関は一緒に出撃する他の特攻隊員らのことを慮って「ぼくは短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ([[芸者遊び]])もしなければ、女も知らないで死んでいく……」と話している<ref name="名前なし_2-20240629114902">{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2434}}</ref>。 |
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これは現地で取られた応急的非常措置であり、現用の飛行機、爆弾をそのまま使用したに過ぎず、中央は所要の飛行機、人員の補給、補充を増加しただけであったが、特攻の常用化に伴い、航空戦備の緊急課題は特攻に移っていった。1945年2月中旬、連合軍に硫黄島が攻略され、沖縄が攻略されるのも遠くないと考えた軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって[[第十航空艦隊]]を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日となった。陸軍の[[一〇〇式司令部偵察機]]が敵機動部隊発見を知らせてきたため、この日、マバラカットからは敷島隊4機と朝日隊3機と護衛戦闘機隊が出撃することとなった。玉井は昨日大西が残していった副官門司の水筒を取り出すと、昨日と同様に一人一人に別れの水を注ぎ、自ら音頭をとって「[[海ゆかば]]」を合唱した。玉井は関らに「攻撃目標の第一は空母、まず大型、中型、小型の順に狙え。ついで[[戦艦]]、[[巡洋艦]]、[[駆逐艦]]の順だ」「突入高度は3,000m、低空で進入し、事前に高度をとり、切り返してつっこめ」と徹底した<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2563}}</ref>。関は熱帯性の下痢を患って治療中で絶食しており無精ひげも伸び放題であったが、この日は朝から「今日、ぶつかりにゆくんですよ、顔くらいきれいにして行きたいと思ってね」と[[軍医]]の[[副島泰然]]大尉にひげそりを依頼し、さっぱりしていた。初めて特攻のことを聞いた副島は、絶食中の関に少しでも力がつくようにと、[[虎屋]]の丸筒[[羊羹]]を差し入れている<ref name="豊田穣 1980 loc=電子版, 位置No.291">{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.291}}</ref>。やがて玉井から出撃が下命されると、関は玉井の前に立ち「只今より出発します」と決然と挨拶し、紙に包んだ関以下特攻隊員全員の[[遺髪]]を「副長、お願いします」と言って手渡した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.301}}</ref>。午前8時に関率いる敷島隊と朝日隊は、司令部や整備員たちの「帽振れ」に送られて離陸したが<ref name="豊田穣 1980 loc=電子版, 位置No.221">{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.221}}</ref>、このときの光景を昨日大西と関らの「決別の水杯」のシーンを撮影した稲垣が撮影しており、後日、10月20日の撮影分と合成して一連の出撃シーンとして日本ニュースで放映された<ref name="ReferenceA"/>。関らは悪天候で敵艦隊を発見することができず全機帰還したが、関は報告の際に玉井の前でうなだれるばかりであった。卑怯者と思われたくないとする関の気持ちの表れであったが、玉井はこれをねぎらって宿舎に帰している<ref name="豊田穣 1980 loc=電子版, 位置No.221"/>。 |
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神風特攻隊は[[1945年]](昭和20年)8月15日の終戦まで続いた。第五航空艦隊司令長官として[[沖縄戦]]における航空特攻を指揮した[[宇垣纏]]中将も、特攻に出撃して戦死した(宇垣は[[海軍甲事件]]当時の連合艦隊参謀長)。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p475</ref>。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。 |
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セブ島にも「敵機動部隊発見」の報告があり、中島は即、大和隊に出撃を命令、整備員からは今までの経験則から40分で出撃準備が完了するとの報告があった。中島はその報告を聞くと出撃する特攻隊員らと航空図を見ながら打ち合わせを行っていたが、この日は整備士が迅速な作業をしたので、わずか10分で出撃準備が完了してしまった。中島は滑走路に爆装した零戦が整列している状況は危険と慌てたが、打ち合わせや注意事項の言い渡しが終わっていなかったので、端折ってこれを完了させ、いざ出撃と特攻隊員が機体に乗り込もうとした矢先、アメリカ軍の艦載機が来襲してきた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=電子版, 位置No.1104}}</ref>。201空は先日も「ダバオ誤報事件」のさいに同じセブ島で地上で多数の零戦を撃破されるという失態を演じていたが<ref name="冨永 1972 43"/>、約1か月後も同様の失敗をして、地上に並べていた6機の零戦が撃破された。幸いにも搭載していた爆弾が誘爆することはなく、特攻隊員に死傷者が出なかったので、中島はただちに予備機による出撃を命じ、2機の爆装零戦と1機の護衛が準備された。爆装零戦に搭乗するのは久納と[[大坪一男]]一飛曹と決まった。久納は中島に「私は戦果を新聞やラジオで発表してもらうのが目当てで突入するのではありません。日本軍人として、天皇の為、国家の為、この身体がお役に立てば本望であります」「いまは飛行機が足らないときです。わざわざ直援機をつけるのはもったいない話です。どうか特攻機だけでやらせて下さい」と直談判した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.231}}</ref>。中島が護衛戦闘機は新聞やラジオが目的ではなく、作戦資料として実態を把握したいだけと説くと、次に久納は機体が軽くなって航続距離が伸びるからと[[機銃]]を外してほしいと申し出し、それに中島が突入するまでは敵戦闘機に発見されたら空戦で切り抜けねばならないから機銃は外せないと説くなど、出撃直前まで押し問答をしている。出撃の時間となると久納は諦めて「敵の空母が見つからぬときは、私は[[レイテ湾]]に突入します。レイテに行けば獲物に困ることはないでしょう」と言い残し、16時25分に2機編隊で1機の護衛機を連れて出撃した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.240}}</ref>。 |
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== 名称と発表 == |
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「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の[[猪口力平]]中佐によれば、郷里の道場「'''神風(しんぷう)'''流」から取ったものである<ref>金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53</ref>。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長[[玉井浅一]]中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113頁</ref> |
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途中で攻撃隊は天候に阻まれて、特攻の大坪機と護衛機はセブ島に帰還したが、隊長の久納は帰還せず行方不明となった。突入との打電もなかったが、出撃前に中島にレイテに向かうと誓っていたので、そのままレイテ湾に向かったと見なし、中島は「本人の特攻に対する熱意と性情より判断し、不良なる天候を冒し克く敵を求め体当り攻撃を決行せるものと推定」と報告した<ref name="戦史叢書56 1972 116">{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=116}}</ref>。この久納の未帰還をもって「特攻第1号」は関ではなく、久納好孚を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。第一航空艦隊航空参謀・[[吉岡忠一]]中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という<ref>{{Harvnb|大野芳|1980|loc=pp. 71, 74}}</ref>。軍令部部員・[[奥宮正武]]によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・[[淵田美津雄]]大佐の慎重な処置ではないかという<ref>御田重宝『特攻』(講談社)107頁</ref>。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視、海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している<ref>{{Harvnb|千早ほか|1994|pp=281-282}}</ref>。この日の連合軍の損害は[[オーストラリア海軍]]の[[重巡洋艦]]「[[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]]」が特攻により損傷し、「オーストラリア」はこの特攻で{{仮リンク|エミール・デシャニュー|en|Emile Dechaineux}}艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死、{{仮リンク|ジョン・オーガスティン・コリンズ|en|John Augustine Collins}}司令官を含む34名が負傷するなど大きな損害を受けたが、これを久納の戦果という意見もある。しかし、「オーストラリア」が特攻を受けたのは早朝6:05とされており、久納の出撃時間より10時間も前で時間が前後する上<ref name=" Dechaineux">{{Cite web |url=http://www.navy.gov.au/biography/captain-emile-frank-verlaine-dechaineux |title=Captain Emile Frank Verlaine Dechaineux|language=英語 |accessdate=2019-10-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191022154825/http://www.navy.gov.au/biography/captain-emile-frank-verlaine-dechaineux |archivedate=2019-10-22}}</ref><ref name=" Rayment">{{Cite web |url=https://www.awm.gov.au/people/rolls/R1511846/ |title=John Francis Rayment |publisher=[[オーストラリア戦争記念館]] |language=英語 |accessdate=2019-10-23}}</ref>、「オーストラリア」に突入したのは、[[陸軍航空隊]][[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]隷下の第6飛行団の、特攻隊ではない通常攻撃隊の「[[九九式襲撃機]]」が被弾後に体当たりをして挙げた戦果とされている<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2013|p=265}}</ref>。なお陸軍初の特攻隊となる「[[万朶隊]]」と「[[富嶽隊]]」はこの時点では未だ内地にいて、フィリピンへ進出準備中であった<ref>{{Harvnb|押尾一彦|2005|p=10}}</ref>。 |
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しかし、[[大西瀧治郎]]中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年222-223頁</ref>。また、[[海軍省]]による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、[[軍令部]]から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長[[中沢佑]]少将、起案は軍令部航空部員[[源田実]]中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている<ref>戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁</ref>。特攻隊の編成命令を起案した[[門司親徳]](大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁、神立尚紀『特攻の真意──大西瀧治郎 和平へのメッセージ』文藝春秋126-127頁</ref>。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している<ref>御田重宝『特攻』講談社32頁</ref>。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。 |
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=== 第二航空艦隊特攻拒否 === |
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この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣[[米内光政]]大将と軍令部総長[[及川古志郎]]によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年306頁</ref>。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた<ref>デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社144ページ</ref>。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった<ref>大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年56-58頁</ref>。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。 |
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10月22日には[[第二航空艦隊]](二航艦)司令長官・[[福留繁]]中将が200機の戦力を擁して台湾からフィリピンに進出してきた。大西は当初、中島が「特別攻撃隊は、わずかこの四隊でいいのですか?」と尋ねると、「飛行機が少ないからなぁ、やむをえん」と答えるなど、特攻はこの4隊のみと考えていたが、連合艦隊の総力を結集した艦隊がレイテに接近しているなかで、連日の出撃でなかなか敵と接触できず、編成当初の目的であった「空母を一週間くらい使用不能」が果たせない中、大西も焦っており<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=112}}</ref>、二航艦の戦力に自分の望みを託そうと考えて、二航艦でも特攻を採用するように福留を説得したが、福留はこれを断った<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|p=504}}</ref>。福留の回想によれば、二航艦はマニラの一航艦司令部に同居することになったので、寝室も大西と福留は同室となり、大西は寝室においても、海軍兵学校の同期生でもあった福留に「戦局を挽回する望みのあるものは、航空部隊の特攻において他にはない」と熱っぽく説いたが、福留は「第二航空艦隊は編隊攻撃以外訓練していない」と理由でこれを拒絶したとしている。福留が明確ではない理由で特攻開始を断ったのは、「山本長官が生きていたら飛行機の特攻を許したであろうか」という思いからであり、特攻のような「万死」の手段に頼らずとも正攻法でアメリカ軍機動部隊に立ち向えると考えていた。しかし、その福留の自信はのちに打ち砕かれることとなる<ref>{{Harvnb|森史朗|2003b|loc=電子版, 位置No.2950}}</ref>。 |
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10月23日、朝日隊、山桜隊はマバラカットから[[ダバオ]]に移動した。同日には、セブ島の大和隊が爆装の零戦2機を出撃させて、そのうち[[佐藤馨]]上飛曹が未帰還となり、敵艦に突入したものと考えられたが戦果は不明であった<ref name="戦史叢書56 1972 116"/>。唯一マバラカットに残った敷島隊は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、軍医の副島の回想では、満足に睡眠をとれない状況だったという。関の悲痛な気持ちは大西や山本らの上官もよく理解しており、引き続き「江田島出身者の体当りとして全軍に範を垂れさせたい」という大西の気持ちに変わりはなかった。久納の突入認定の報が入ったときには関は焦りを感じていたが、死にはやって海中に突入して自爆するようなことはしなかった<ref name="豊田穣 1980 loc=電子版, 位置No.291"/>。[[毎日新聞]]の報道班員[[新名丈夫]]によれば、出撃しても敵を発見できず帰投を繰り返していた関は、ある日、飛行場指揮所のかげに腰を下ろして青い顔で頭を抱えながら「ああ、戦争というのは難しいなあ」とつぶやいていたという。新名は関が故郷に残してきた新妻や母を案じているに違いないと考えて涙したが、のちになって、このときの関は出撃を決意したときから残された家族のことは国に任せて、自分はいかにして小兵力で大敵を{{読み|屠|ほふ}}るか苦心{{読み|惨憺|さんたん}}していたに違いないと思い直している<ref>{{Harvnb|新名丈夫|1979|p=284}}</ref>。 |
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海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。 |
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布告 |
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戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫 |
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同 海軍飛行兵長 永峰 肇 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男 |
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神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、 |
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必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。 |
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昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武 |
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== 戦果 == |
=== 神風特別攻撃隊初戦果 === |
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[[File:Captain Seki and Sikishima Corps zeroes.jpg|right|350px|thumb|1944年10月25日、5回目の出撃を行う敷島隊]] |
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『国史大辞典』によれば、全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だった{{sfn|国史大辞典編集委員会|2013|p=570}}。 |
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[[ファイル:Japanese Mitsubishi A6M kamikaze plane hits USS Suwannee (CVE-27) on 25 October 1944 (NH 71524).jpg|thumb|250px|菊水隊、朝日隊、山桜隊のいずれかの機が命中した[[護衛空母]]「[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]」]] |
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10月24日に4回目の出撃も失敗に終わった関は司令部に「索敵機の無電を聞いてから出かけても、現地に到着するまでには敵も移動しますし、最悪の場合は雲の中に入ってしまいます。そこで、フィリピン東方海面に進撃したら、索敵しながら南下し、発見次第突入することにしたいと思います」と申し出し了承された。10月25日、午前7時25分、関率いる5機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.312}}</ref>。離陸する関は体調不良で衰弱してはいたが、この日はひとしお異様な厳しさが見えると見送った玉井や指宿は感じていたという。関が出撃した時点で、今まで敵艦載機の空襲で苦闘してきた第一遊撃部隊第一部隊(指揮官[[栗田健男]]第二艦隊司令長官、戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が敵空母群を発見し、「敵空母に対し砲戦開始」という無電を打電しており<ref name="門司親徳 1978 293">{{Harvnb|門司親徳|1978|p=293}}</ref>、それを知っていた一航艦司令部の幕僚たちは、この日こそ関は敵を発見して突入すると感じていた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.323}}</ref>。また、この25日には、関ら敷島隊の出撃より前の午前6時30分にダバオ基地から菊水隊・朝日隊・山桜隊の4機の零戦も出撃している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=295}}</ref>。 |
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10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた「栗田艦隊」が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていた[[クリフトン・スプレイグ]]少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見して攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが<ref name="オネール 1988 154">{{Harvnb|オネール|1988|p=154}}</ref>、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母「[[サンティー (護衛空母)|サンティ]]」に向かって急降下していた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=20}}</ref>。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の[[飛行甲板]]に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42平方メートルの大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が[[航空燃料]]や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=193}}</ref>。 |
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[[社会学]]者[[青木秀男]]の[[研究論文]]いわく、特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
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* 服部省吾の算定{{#tag:ref|服部省吾「第四章第六節 特攻作戦」奥村房夫監修『近代日本戦争史第四編大東亜戦争』1995年、590頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃総数は約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
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続く2機は、護衛空母「[[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]]」と「[[ペトロフ・ベイ (護衛空母)|ペトロフ・ベイ]]」に向かってそれぞれ急降下したが、いずれも[[対空砲火]]を浴びて両艦の至近海面に墜落した<ref name="冨永 1972 21">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=21}}</ref>。残る1機は護衛空母「[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]」に急降下。「スワニー」は対空砲火で応戦、零戦は火を噴いたものの、そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を発生させた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=194}}</ref>。特攻機が命中した「サンティ」と「スワニー」の損害は大きかったが、いずれも[[サンガモン級航空母艦]]であり、排水量基準:11,400[[トン|t]]、満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、この後も任務を続行した<ref name="オネール 1988 154"/>。しかし、10月26日に「スワニー」はもう1機特攻機が命中して、損傷を被って戦線離脱している<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=208">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=208}}</ref>。「スワニー」が攻撃を受けたのは正午すぎとされているが、この時刻から見て、攻撃したのは同日午前10時15分に出撃した植村率いる大和隊と見なされている。大和隊の3機のうち1機が急降下し、飛行甲板上にあった[[艦上攻撃機]]に激突、この艦攻もろとも大爆発、甲板上に並んでいた9機の艦載機も次々と誘爆し、アメリカ軍が報告書に「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」と記したほどの損傷と死傷者113名を被らせている。この殊勲機が隊長の植村であったかは不明である<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.478}}</ref>。 |
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* 生田惇の算定{{#tag:ref|生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』1977年、223頁{{sfn|青木秀男|2008|p=89}}。|group="注"}}:「出撃機数2,483機、[[成功|奏功]]率16.5%、被害敵艦数358隻」{{sfn|青木秀男|2008|p=75}}。 |
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この戦果はのちの関率いる敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊の護衛戦闘機が帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告の確認のやりとりに時間を要して連合艦隊への報告が遅延し、結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果が「神風特別攻撃隊」の初戦果扱いとなってしまった<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|p=390}}</ref>。 |
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[[ファイル:SL Exp 5.jpg|thumb|250px|敷島隊の特攻により爆沈した[[護衛空母]]「[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]」]] |
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栗田艦隊との海戦([[レイテ沖海戦|サマール沖海戦]])で護衛空母「[[ガンビア・ベイ (護衛空母)|ガンビア・ベイ]]」と2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母「[[ファンショー・ベイ (護衛空母)|ファンショー・ベイ]]」や「[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]」など損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、戦闘配置命令を解除していた。命中弾を1発も受けなかった「[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]」の乗組員たちは、沈没した「ガンビア・ベイ」の艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=198}}</ref> 10時49分、関が率いる敷島隊5機が急降下してきた。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、日本機の接近に気づくものはいなかった<ref name="冨永 1972 21"/>。敷島隊の先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていた「[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]」めがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初に「カリニン・ベイ」に突入した機が関の搭乗機であったという説もある<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=203">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=203}}</ref>。「カリニン・ベイ」にはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与え、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じさせたが、「カリニン・ベイ」は栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにもかかわらず、沈没は免れた<ref name="冨永 1972 24">{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=24}}</ref>。 |
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護衛空母「[[ホワイト・プレインズ (護衛空母)|ホワイト・プレインズ]]」に向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標を「セント・ロー」に変更し<ref name="オネール 1988 154"/>、「セント・ロー」の艦尾1,000mから高度30mの低空飛行という着艦するような姿勢で接近してきた。「セント・ロー」は搭載していた[[エリコンFF 20 mm 機関砲|Mk.IV]] 20[[ミリメートル|mm]]機関砲と[[ボフォース 60口径40mm機関砲|ボフォース 40mm機関砲]]で応戦したが、零戦はそのまま、発見1分後に<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=199}}</ref>、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に[[航空燃料]]が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250kg爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高[[オクタン価]]の航空燃料が誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=22}}</ref>。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた[[重巡洋艦]]「[[ミネアポリス (重巡洋艦)|ミネアポリス]]」の乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。手が付けられないと判断したフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2 - 3分後の10時56分に総員退艦を命じ、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=202}}</ref>。この「セント・ロー」を仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=23}}</ref>。他にも護衛空母「[[キトカン・ベイ (護衛空母)|キトカン・ベイ]]」に1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため大きな被害は与えることができなかった。また、「ホワイト・プレインズ」直上で特攻機が爆発して同艦に火災を生じさせた<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=203"/>。 |
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敷島隊の戦果が司令部に届いたのは、[[スリガオ海峡]]で[[西村祥治]]中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)がほとんど壊滅したという悲報が届いて沈痛な空気が流れ、栗田艦隊が敵空母艦隊と砲戦を開始したという一報が届いた後、その後の報告が届かずにやきもきしている状況のときであった。司令部に届いた電文は、敷島隊の護衛機がセブ島に帰還し、その搭乗員の報告によって中島が打電したもので、次の通りであった。「神風特別攻撃隊敷島隊1045[[スルアン島]]の北東30[[海里|浬]]にて空母4隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中撃沈」<ref name="門司親徳 1978 293"/> 大西はこの報告を聞くと、低く小さい声で何事かしゃべったが、副官の門司が聞き取れたのは「甲斐があった」の語尾だけであった。大西が特攻を決意し、その編成から出撃に至るまで一連の流れを見てきた門司は、大西の心中を察し、また、先日会ったばかりの関以下特攻隊員らの身を捨てた行為に感動して、「あの連中が、あの連中が」というような言葉にならない言葉が頭を駆け巡ったという<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=294}}</ref>。大西は、わずか5機の体当りで、これだけの戦果を挙げたという特攻の大きな効果を認識し、「これで何とかなる」という意味のことを言ったが、これは、1機で1艦を葬ることができれば、行き詰まった日本の窮地に一脈の活路が開かれるかも知れないという思いから発された言葉であり、その場にいた司令部の幕僚らも同じ思いであった<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=295}}</ref>。 |
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この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて失われた<ref name="冨永 1972 24"/>。しかし、このときに既に栗田艦隊は反転しており、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。この日には奇しくも、最初期から航空特攻を提唱していた城が、空母千代田でいわゆる「おとり艦隊」としての任務を完遂後、アメリカ軍艦載機の攻撃で航行不能となり、艦隊から落伍したところを、重巡洋艦「[[ウィチタ (重巡洋艦)|ウィチタ]]」、「[[ニューオーリンズ (重巡洋艦)|ニューオーリンズ]]」、[[軽巡洋艦]]「[[サンタフェ (軽巡洋艦)|サンタフェ]]」、「[[モービル (軽巡洋艦)|モービル]]」の4隻を主力とするアメリカ軍艦隊の集中攻撃を受けて、千代田と運命を共にしていた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=35}}</ref>。 |
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=== 神風特別攻撃隊の拡大 === |
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[[ファイル:Kiyokuma okajima.jpg|thumb|200px|right|特攻に反対した第203海軍航空隊の飛行長岡嶋清熊少佐]] |
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10月26日、[[及川古志郎]][[軍令部総長]]は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。[[昭和天皇]]([[大元帥#日本|大元帥]])はこの生還を期さない特攻作戦については知らされておらず、同月28日には説明資料も作成された<ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=526-527}}</ref>。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と嘉賞の言葉を受けた。その言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、セブ島にいた中島は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に[[米内光政|米内海軍大臣]]に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と述べた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|p=111}}</ref><ref>太田尚樹『天皇と特攻隊』{{Full citation needed|date=2024年8月}}<!--2009年刊と2015年刊の文庫版が存在。どちら?--> P20</ref><ref>{{Harvnb|読売新聞社|1967|}}{{要ページ番号|date=2024年8月}}</ref>。 |
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一方で、1度は大西の特攻開始の申し出を拒否した二航艦長官の福留であったが、10月23日と24日の正攻法は失敗に終わり多大な損害を被っていたので、25日に神風特別攻撃隊の大戦果が報じられると、今度は福留も大西の説得に応じ、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一聯合基地航空部隊」を編成することとなって、指揮官に福留、幕僚長に大西が就いた<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=296}}</ref>。これ以降、幕僚長という肩書きの大西によって特攻は拡大していく<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=155-159}}</ref>。 |
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大西は、第一聯合基地航空部隊の飛行隊長以上40名ほどを召集し、「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。このことに批評は許さない。反対するものは、たたき斬る」と強い言葉で語った。大西の強い言葉を聞いて、一同はシンとして一言を発する者すらいなかった。大西の副官であった[[門司親徳]]少佐は、今まで特攻を拒否してきた二航艦の士官に特攻の決意を固めさせるため、敢えて大西が強い言葉を使っていると理解したが、なかには、歴戦の戦闘機指揮官の第203海軍航空隊の飛行長[[岡嶋清熊]]少佐のように、見るからに反抗的な顔つきの者もいて、門司は不安を抱いている<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=298}}</ref>。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導し、さらに大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は[[慈悲]]であることなども話した<ref>{{Harvnb|森史朗|2006|pp=150-152}}</ref>。大西の強引な作戦指導に岡嶋ら航空幹部の一部は批判的であったが、大西は搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負しており、現在の戦況を冷徹に分析し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬと覚悟を決めていたので、かような強い言葉での作戦指導となったという意見もある<ref name="戦史叢書17 1968 706"/>。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」として軍令部・海軍省・[[海軍航空本部|航空本部]]など中央に通達された<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=161-163}}</ref>。 |
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連合基地航空隊には[[北東方面艦隊]]第12[[航空艦隊]]の戦闘機部隊や<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=115}}</ref>、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、[[大村海軍航空隊]]、[[元山海軍航空隊]]、[[筑波海軍航空隊]]、[[谷田部海軍航空隊|神ノ池海軍航空隊]]の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により[[台湾]]の[[台中市|台中]]・[[台北]]で10日間集中的に訓練された後にフィリピンへ送られた<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|p=136}}</ref>。 |
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=== アメリカ軍損害拡大 === |
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[[ファイル:Lsm-20 sunk.jpg|thumb|270px|right|特攻により沈没する[[LSM-1級中型揚陸艦|中型揚陸艦「LSM-20」]]]] |
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特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍[[水陸両用作戦|水陸両用部隊]]参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、[[攻撃輸送艦]](APA)や[[攻撃貨物輸送艦]](AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や[[LST-1級戦車揚陸艦|戦車揚陸艦]](LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、[[病院船]]を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、[[レイテ島の戦い]]での負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=212">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=212}}</ref>。 |
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その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊[[第38任務部隊]]の空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日に[[エセックス級航空母艦|エセックス級]][[正規空母]]「[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]」、10月30日にエセックス級空母「[[フランクリン (空母)|フランクリン]]」 、[[インディペンデンス級航空母艦|インディペンデンス級]]軽空母「[[ベローウッド (空母)|ベローウッド]]」、11月5日にエセックス級空母「[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]」、11月25日に「[[エセックス (空母)|エセックス]]」とインディペンデンス級軽空母「[[カボット (空母)|カボット]]」 が大破・中破して戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=61-85}}</ref>。 |
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特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]が11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=506}}</ref>。 |
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ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「[[切腹]]の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|ポッター|1991|p=499}}</ref>。 |
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[[File:Kamikaze1.gif|thumb|270px|right|出撃前に[[日の丸]]の[[鉢巻]]をしめてもらっている特攻隊員]] |
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[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンの戦い]]を指揮したアメリカ南西太平洋方面軍(最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将)の[[メルボルン]]海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「[[ジャップ]]の自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]司令官は同艦隊にその旨伝達した」と、アメリカのほか[[イギリス]]、[[オーストラリア]]に徹底した報道管制を引いた。これは[[チェスター・ニミッツ]]の太平洋方面軍も同様の対応をしており<ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|p=133}}</ref>、特攻に関する[[検閲]]は[[大東亜戦争]]中で最も厳重な検閲となっている<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=215}}</ref>。 |
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[[1945年]]1月1日、マッカーサー元帥が自ら指揮する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]大艦隊が、[[ルソン島]]攻略のため出撃したが、その艦隊に対して日本軍は激しい特攻を行った。1月4日、[[風間万年]]中尉率いる旭日隊の[[彗星 (航空機)|彗星]]艦爆が護衛空母「[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]」を撃沈した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=301}}</ref>。1月6日に連合国軍艦隊は[[リンガエン湾]]に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中して7機が有効至近弾となり、連合国軍艦隊は多大な損害を被った<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308}}</ref>。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで出撃した。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、[[ミンドロ島]]に配備した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から[[台湾]]に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させるといった巧みな運用で対抗した。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった<ref>{{Harvnb|大岡昇平|1974c|p=182}}</ref> |
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米戦艦「[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]」には、イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]の名代として、[[イギリス陸軍]][[観戦武官]]の{{仮リンク|ハーバード・ラムズデン|en|Herbert Lumsden}}中将が乗艦していたが、その[[艦橋]]に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=315}}</ref>。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦「[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ]]」も特攻機に攻撃されたが損害はなかった<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=314}}</ref>。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻が[[ルソン島の戦い]]の{{読み仮名|帰趨|きすう}}を左右するような威力を有していると懸念している<ref>{{Harvnb|ペレット|2016|p=852}}</ref>。また、上陸部隊を援護していた第77.2任務群の司令官[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「リンガエン地区付近の大小全ての飛行場に対して、連続的に爆撃を加え、無力化して状態をつづけさせるようにしなければならない」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=313}}</ref>、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。しかし、最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかには、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何か月か遅らせることができたという評価もある<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=308"/>。 |
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=== フィリピンの戦い終結 === |
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[[ファイル:Damage of the island onboard the aircraft carrier Ticonderoga.jpg|thumb|220px|right|特攻機が命中して破壊された米空母「[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]」の[[艦橋]]]] |
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一航艦はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合国軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に[[転進]]せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが<ref>{{Harvnb|生出寿|2017|p=187}}</ref>、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1967|pp=166-168}}</ref>。 |
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海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=58}}</ref>、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失った<ref>{{Harvnb|戦史叢書36|1970|p=307}}</ref>。アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=157 }}</ref>、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の[[戦術]]としての有効性が際立つこととなった<ref name="米国戦略爆撃調査団 1996 171">{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=171}}</ref>。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、[[ミンダナオ島]]、ルソン島と進撃を続けたので、特攻は精々のところ遅滞戦術の一つに過ぎないことも明らかになった<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=170}}</ref>。 |
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台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母「[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]」に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた[[魚雷]]・爆弾が誘爆して沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、{{仮リンク|ディクシー・キーファー|en|Dixie Kiefer}}艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大ケガを負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確な[[ダメージコントロール]]を指示し続け、沈没は免れた<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338">{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338}}</ref>。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、[[イタリアの降伏|イタリア]]の[[戦犯]]のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、[[絞首刑]]だな。[[真珠湾攻撃]]に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている<ref name="草柳大蔵 2006 221">{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=221}}</ref>。 |
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1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地[[ウルシー環礁|ウルシー]]で攻撃する[[丹作戦]]を命令した。攻撃部隊として、[[銀河 (航空機)|銀河]][[陸上攻撃機]]を基幹とする特攻隊を編成し「菊水部隊梓特別攻撃隊」と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800kg爆弾が搭載された<ref>{{Harvnb|木俣滋郎|2000|pp=122-123}}</ref>。1945年2月19日には、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]にアメリカ軍が上陸し、[[硫黄島の戦い]]が始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=430}}</ref>。[[第六〇一海軍航空隊]]で編成された「第二御盾隊」は、2月21日に、彗星12機、[[天山 (航空機)|天山]]8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母「[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]」を撃沈、正規空母「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」に5発の命中弾を与えて大破させた他、「{{仮リンク|キーオカック (防潜網輸送船)|en|USS Keokuk (CMc-6)}}」も大破させ、護衛空母「[[ルンガ・ポイント (護衛空母)|ルンガ・ポイント]]」と「{{仮リンク|LST-477 |en|USS LST-477}}」を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の[[栗林忠道]]中将率いる[[第109師団 (日本軍)|小笠原兵団]]から視認でき、[[第27航空戦隊]]司令官[[市丸利之助]]少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1996}}</ref>。[[梅津美治郎]][[陸軍参謀総長]]と[[及川古志郎]][[軍令部#歴代軍令部総長|軍令部総長]]はこの大戦果を[[昭和天皇]]に[[上奏]]した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2006}}</ref>。第二御盾隊の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=348}}</ref>。 |
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=== 全軍特攻方針決定 === |
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[[ファイル:80-G-K-5887.jpg|thumb|220px|right|沖縄でアメリカ軍に鹵獲された特攻兵器桜花]] |
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1945年2月中旬、硫黄島が攻略され、敵の[[沖縄戦|沖縄攻略]]も遠くない状況になった。軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって[[第十航空艦隊]]を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された<ref name="『戦史叢書95巻 海軍航空概史』422頁">{{Harvnb|戦史叢書95|1975|p=422}}</ref>。また、海上護衛総司令部の航空隊の一部も特攻隊に編成されるようになった<ref>{{Harvnb|畑中|2021|pp=10-12}}</ref>。3月11日には、かねてから準備中の丹作戦が実行された。新設されたばかりの[[第五航空艦隊]](五航艦)司令長官[[宇垣纏]]中将の大きな期待を受けて、24機の[[銀河 (航空機)|新型双発陸上爆撃機銀河]]で編成された「梓特別攻撃隊」が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が正規空母「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」に命中したに留まった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった <ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1976|pp=231-232}}</ref>。 |
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{{main|九州沖航空戦}} |
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1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は[[沖縄戦]]に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=57}}</ref>。第五航空艦隊が迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、[[九州沖航空戦]]となった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=360}}</ref>。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母「[[フランクリン (空母)|フランクリン]]」と「[[ワスプ (CV-18)|ワスプ]]」が大破、「[[エセックス (空母)|エセックス]]」が中破するなど多大な損害を被った<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=245}}</ref>。正式に兵器として採用された特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]は九州沖航空戦が初陣となった<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=186}}</ref>。3月21日に宇垣が[[第七二一海軍航空隊]]に偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の[[岡村基春]]大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=239}}</ref>、[[野中五郎]]少佐に率いられた[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村の懸念通り、アメリカ空母のはるか手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=286}}</ref>。 |
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1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった<ref name="戦史叢書17 1968 675">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=675}}</ref>。1945年3月25日、アメリカ軍が[[慶良間諸島]]に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された[[天号作戦]]に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、[[南西諸島]]への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合国軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の稼動戦力は、[[九州沖航空戦]]での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により[[鈴鹿]]以西の作戦可能航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣中将指揮下に入った<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=200}}</ref>。 |
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航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=324}}</ref>、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した<ref name="戦史叢書17 1968 675"/>。 |
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=== 沖縄戦 === |
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[[ファイル:USS BUNKER HILL burning after a Japanese suicide attack. Near Okinawa, May 11, 1945. - NARA - 520657.tif|thumb|220px|right|沖縄戦で2機の零戦の特攻により大火災を起こした正規空母「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]]」]] |
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3月26日、[[慶良間諸島]]にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が[[沖縄本島]]に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた<ref>{{Harvnb|豊田穣|1980|loc=電子版, 位置No.654}}</ref>。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)「[[ディカーソン (駆逐艦)|ディカーソン]]」撃沈<ref>{{Cite web |url=https://www.navsource.org/archives/05/157.htm |title=USS DICKERSON (DD-157 / APD-21) |publisher=NavSource Naval History |language=en |accessdate=2024-08-06}}</ref>、 [[レイモンド・スプルーアンス]]中将が座乗していた[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]][[旗艦]]の[[重巡洋艦|重巡]]「[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]」<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=12}}</ref>、[[イギリス海軍]]正規空母「[[インディファティガブル (空母)|インディファティガブル]]」<ref>{{Cite web |url=http://www.armouredcarriers.com/indefatigable-kamikaze/ |title=HMS INDEFATIGABLE: KAMIKAZE, APRIL 1, 1945 |language=en |accessdate=2024-08-06}}</ref>、米護衛空母「[[ウェーク・アイランド (護衛空母)|ウェーク・アイランド]]」<ref>{{Cite web |url=https://www.navysite.de/cve/cve65.htm |title=USS Wake Island (CVE 65) |website=Unofficial US Navy Site |publisher=Thoralf Doehring |language=en |accessdate=2024-08-06}}</ref> が甚大な被害を受けて戦線離脱、米戦艦「[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]」と「[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]」を含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合国軍の損害は大きかった<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359}}</ref><ref name="Rielly_p318-324"/>。 |
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アメリカ海軍はフィリピンで特攻により甚大な損害を受けたこともあって、沖縄侵攻に際して万全の特攻対策を講じていた。その一つとして、[[レーダーピケット艦]]によるピケットライン(前衛哨戒線)をより強化して、特攻機を艦隊到達前に叩くこととし、その特別[[タスクフォース]]として第51.5任務部隊(司令官[[フレデリック・ムースブラッガー]][[代将 (アメリカ海軍)|代将]])を新たに編成していた{{sfn|リエリー|2021|p=23}}。同任務部隊は駆逐艦103隻を主力とする206隻の艦艇と36,422人の水兵で編成されている大規模なものであり{{sfn|リエリー|2021|p=27}}、このなかで19隻の駆逐艦が[[レーダーピケット艦]]任務のために対空レーダーと通信機器が強化されて、専門の戦闘指揮・管制チームが配置された{{sfn|リエリー|2021|p=25}}。各特別艦の戦闘指揮・管制チームは、上陸支援艦隊第51任務部隊司令官[[リッチモンド・K・ターナー]]中将が座乗する[[揚陸指揮艦]]「{{仮リンク|エルドラド (揚陸指揮艦)|label=エルドラド|en|USS Eldorado (AGC-11)}}」に設けられた[[戦闘指揮所]](CIC)と連携し、第51任務部隊の護衛空母群や[[第58任務部隊]]の正規空母・軽空母群の艦載機及び陸軍や海兵隊の地上機による戦闘空中哨戒(CAP)の管制・指揮を行っていた。レーダーピケット部隊は[[駆逐艦]]や[[高速輸送艦]](輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した[[上陸支援艇]]、[[掃海艇]]、[[駆潜艇]]などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んで特攻機の接近を防ごうとしていた{{sfn|リエリー|2021|p=24}}。しかし、特攻はこのアメリカ海軍の万全の対策をあざ笑うかのように、突破して戦果を挙げており、大きな損害を被ったアメリカ海軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと作戦の先行きに不安を抱いている<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=79}}</ref><ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/USA-P-Okinawa-2.html United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 67.]</ref>。 |
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{{main|菊水作戦}} |
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大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦[[菊水作戦|菊水一号作戦]]を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に[[坊ノ岬沖海戦|戦艦大和による海上特攻]]を敢行した<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=207}}</ref>。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=124}}</ref>。太平洋艦隊司令[[チェスター・ニミッツ]]は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心の[[フォレスト・シャーマン]]太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203}}</ref>、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日に[[アレクサンダー・ヴァンデグリフト]][[アメリカ合衆国海兵隊|海兵隊]]総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる<ref>{{Harvnb|ポッター|1979|p=517}}</ref>。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると [[第10軍 (アメリカ軍)|第10軍]]司令官[[サイモン・B・バックナー・ジュニア]]中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高して「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている<ref>{{Harvnb|ハラス|2010|p=37}}</ref>。 |
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前線での苦戦の報告を受けた[[アメリカ合衆国海軍省|米海軍省]]長官[[ジェームズ・フォレスタル]]は5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた<ref>{{Harvnb|ハラス|2010|p=314}}</ref>。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、[[B-29 (航空機)|B-29]]を日本の都市や工業地帯への[[絨毯爆撃]]から、九州の特攻基地攻撃の[[戦術爆撃]]に転用し<ref>{{Harvnb|マーシャル|2001|p=250}}</ref>、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている<ref>{{Harvnb|カール・バーカー|1971|p=188}}</ref>。しかし、[[戦略爆撃機]]であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで<ref>{{Harvnb|ポッター|19791|p=515}}</ref>、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「[[アメリカ陸軍航空軍]]は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=544}}</ref>。 |
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[[ファイル:USS Enterprise (CV-6) is hit by kamikaze - seen from USS Essex (CV-9) on 14 May 1945.jpg|thumb|260px|right|特攻機の突入で大爆発している正規空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」]] |
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第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、全く防御一点張りのような戦術で作戦海域に常時留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はレイモンド・スプルーアンスから[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]に、第58任務部隊司令は[[マーク・ミッチャー]]から[[ジョン・S・マケイン・シニア]]に交代となった<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=443}}</ref>。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―が「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]]」で特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長の[[アーレイ・バーク]]代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落ち込み、交代時には舷側のはしごを単独では登れないほどに疲労していた<ref>{{Harvnb|ケネディ|2010|p=539}}</ref>。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や<ref name="名前なし-20231105131726">{{Harvnb|ブュエル|2000|p=546}}</ref>「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している<ref>{{Harvnb|ブュエル|2000|p=542}}</ref>。 |
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しかし、日本軍は菊水作戦での甚大な航空機の損失と、本土決戦準備のための航空戦力温存策もあって、次第に沖縄に投入する特攻機の機数を減らさざるを得なくなっていた。出撃機数削減を補うために、1945年2月中旬に決められてた練習機の特攻投入が行われた。[[菊水作戦#菊水七号作戦|菊水七号作戦]]中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]による初の特攻隊「第一次白菊隊」が出撃しているが、白菊まで特攻に投入したことは、日本海軍内でも戦争の成り行きに絶望感を抱かせることとなり、出撃に立ち会った[[野原一夫]]少尉は、[[学徒出陣]]の予備少尉から「沖縄の戦争は、ジ・エンドですよ」「白菊まで出ていくようになっちゃあ、沖縄航空決戦もいよいよおしまいだな。五航艦にはもう、特攻に使える実用機はほとんど残っていないんです」と嘆かれたのち、白菊には軽量化のため[[無線機]]すら積まれておらず、実用機による特攻機が行う最後の突入電を打電することすらできないことも聞かされて「あまりにもみじめじゃないか」と白菊の搭乗員への同情と絶望感を覚えている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=224}}</ref>。しかし、白菊とその後に投入された[[九三式中間練習機]]は、その[[ローテク]]ぶりが、レーダーによる探索や[[近接信管]]の作動を困難にするなど予想外の効果を生じさせて<ref name="Anti-Suicide Action">{{Cite web |author=アメリカ合衆国海軍司令部 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |title=Anti-Suicide Action Summary |publisher=[[アメリカ海軍]]公式ウェブサイト |language=英語 |accessdate=2018-12-31}}</ref>、駆逐艦3隻、中型揚陸艦1隻を撃沈、他多数を撃破するなど戦果を挙げてアメリカ海軍を警戒させている<ref name="名前なし_3-20240629114902">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=186}}</ref>。 |
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日本軍は沖縄戦の3か月間で特攻機1,895機<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=179}}</ref>、通常作戦機1,112機<ref name="米国戦略爆撃調査団 1996 171"/> を失ったが、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが{{sfn|アレン|ボーマー|1995|p=147}}、その大部分は特攻による損害で{{sfn|マッカーサー|2014|p=356}}、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている{{sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=100}}。 |
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沖縄での組織的な地上戦が終わってからも、少数機により夜間攻撃で沖縄への特攻出撃は続けられた。菊水作戦で甚大な損害を被ったアメリカ軍艦隊は警戒を緩めておらず<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=361}}</ref>、アメリカ海軍水兵は夜間に絶え間なく続く戦闘配置命令でほとんど夜寝ることができず疲れ切っていた<ref>{{Harvnb|フェーイー|1994|p=279}}</ref>。特攻と並行して行われてきた通常攻撃機による夜間航空雷撃も戦果を挙げており、8月12日には、海軍航空隊[[第九三一海軍航空隊]]の[[天山 (航空機)|天山]]4機が20時45分に、[[中城湾|バックナー湾]]に停泊している戦艦「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」に夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。「ペンシルベニア」は艦尾に30[[フィート]]の大穴があき、上甲板に海面が迫るほど大量に浸水し、3つの[[スクリュー]]のうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った<ref>{{Cite web |url=https://www.navsource.org/archives/01/38a.htm |title=Battleship Photo Archive BB-38 USS PENNSYLVANIA |publisher=NavSource Naval History |language=en |accessdate=2024-08-06}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.navy.mil/navydata/ships/battleships/pennsylvania/bb38-penn.html |title=USS Pennsylvania (BB-38) |publisher=[[アメリカ合衆国海軍省]] |language=en |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180731193531/http://www.navy.mil/navydata/ships/battleships/pennsylvania/bb38-penn.html |archivedate=2018-07-31 |accessdate=2024-08-06}}</ref>。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官の[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]中将も含まれていた<ref>{{Cite web |url=http://www.pwencycl.kgbudge.com/O/l/Oldendorf_Jesse_B.htm |title=Oldendorf, Jesse Bartlett (1887-1974) |publisher=The Pacific War Online Encyclopedia |language=en |accessdate=2024-08-06}}</ref>。的確な[[ダメージコントロール]]で沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。翌13日には夜間攻撃の特攻機が、同じくバックナー湾に停泊中の[[攻撃輸送艦]]「{{仮リンク|ラグランジ|en|USS La Grange (APA-124)}}」に命中、「ラグランジ」は大破し、101名の死傷者を出す甚大な損害を被っている<ref>{{Cite web |url=http://b-29.org/lagrange/lagrange.html |title=USS La Grange |language=en |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411174323/http://b-29.org/lagrange/lagrange.html |archivedate=2018-04-11 |accessdate=2024-08-06}}</ref>。特攻機に対する夜間攻撃対策としてアメリカ軍は各艦艇に、[[灯火管制]]と[[煙幕]]の展張を命じており、また、夜間の特攻機はアメリカ軍の対空機銃から発射される[[曳光弾]]をたどってアメリカ軍艦艇を攻撃してくるため、各艦個別の対空射撃を禁止するほどの徹底ぶりだった<ref>{{Harvnb|フェーイー|1994|p=275}}</ref>。 |
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=== 本土決戦準備 === |
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[[ファイル:Wrecked Japanese planes at Sasebo, Japan, in September 1945.jpg|thumb|220px|right|戦後に進駐してきた連合軍に処分される日本軍機]] |
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沖縄戦の大勢が決すると、[[本土決戦]]に向けた準備が本格化した。海軍大臣の[[米内光政]]は[[決号作戦]]の準備として、全海軍部隊を指揮できる[[海軍総隊]]を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官[[豊田副武]]を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可能航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られて、沖縄への特攻機の出撃は減少していくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長[[横井俊之]]少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは{{読み仮名|所謂|いわゆる}}「ごまめの歯ぎしり」で何の役にも立たない」と感想を持った<ref>{{Harvnb|草柳大蔵|2006|p=185}}</ref>。5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の[[小沢治三郎]]中将が親補された<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=23}}</ref>。そして小沢の後任には大西を任命した。米内は戦争を終えるべきと考えていたが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の[[井上成美]]海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも講和派からは煙たがられたが、主戦派は本土決戦に向けてこの人事を歓迎している<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2664}}</ref>。 |
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日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している<ref>{{Harvnb|大島隆之|2016|p=|loc=電子版, 位置No.2702-2755}}</ref>。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「[[決号作戦]]に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが<ref>[[NHKスペシャル]]『特攻・なぜ拡大したのか』2015年8月8日放送</ref>、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった<ref>{{Harvnb|土門周平|2015|p=24}}</ref>。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった<ref>{{Harvnb|草鹿龍之介|1979|p=375}}</ref>。 |
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しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、[[練習機]]や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機の中でそのような機体が多数を占めた。[[日本の降伏|終戦]]時に残存していた機体で最も数が多かったのが、[[九三式中間練習機]](水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は[[紫電改]](紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の[[白菊 (航空機)|白菊]]365機であった<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=205}}</ref>。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と{{読み仮名|檄|げき}}を飛ばし士気を鼓舞していたが、これが机上の空論でナンセンスな話であることを認識していた特攻隊員も多かった<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=204}}</ref>。 |
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一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の[[橋頭堡]]や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、[[ダウンフォール作戦]]が開始され日本[[本土決戦]]となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=189}}</ref>。 |
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神風特別攻撃隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として[[沖縄戦]]における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の[[英霊]]とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して[[切腹|割腹自決]]した<ref>{{Harvnb|戦史叢書93|1975|p=475}}</ref>。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか? 俺の骨は太いよ。[[介錯]]するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、[[頸動脈]]を斬り、心臓を貫いた。それでも明け方までは息があって、駆け付けた[[多田武雄]][[海軍省#海軍次官|海軍次官]]や[[児玉誉士夫]]に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った<ref name="草柳大蔵 2006 221"/>。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。 |
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神風特別攻撃隊は戦争が終わってもなおアメリカ軍を警戒させており、1945年9月2日に戦艦「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」艦上で行われた[[日本の降伏文書]]調印式において、特攻機が突入してもアメリカ海軍司令官全員が死傷することを避けるため、ニミッツはスプルーアンスとミッチャーを、自分やマッカーサーら連合軍の代表者や司令官たちが整列した場所と離れた場所への列席を命じている<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.562}}</ref>。 |
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== 戦果 == |
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=== 艦艇 === |
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[[ファイル:USS Bismarck Sea (CVE-95) explodes after being hit by a Kamikaze off Iwo Jima, February 1945.jpg|thumb|220px|right|第2御盾隊の特攻で爆沈する護衛空母「[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]」]] |
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[[ファイル:Frances & Ommaney Bay.jpg|thumb|220px|right|1944年12月15日09時45分頃、護衛空母「[[オマニー・ベイ (護衛空母)|オマニー・ベイ]]」上空で撃墜された特攻機[[銀河 (航空機)|銀河]]。同艦は1945年1月4日に特攻により沈没。]] |
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[[ファイル:USS Newcomb Damage 1945.jpg|thumb|right|220px|1945年4月6日、5機の特攻機が命中した駆逐艦「[[ニューコム (駆逐艦)|ニューコム]]」。アメリカ本土に曳航後、修理不能と診断されて除籍。]] |
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{{See also|特攻で損害を受けた艦船の一覧}} |
{{See also|特攻で損害を受けた艦船の一覧}} |
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陸軍「[[と号部隊]]」によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる<ref>{{Harvnb|米国海軍省戦史部|1956|pp=187-320}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表第2 沖縄方面神風特別攻撃隊一覧表}}</ref><ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|pp=294-359"/><ref name="Rielly_p318-324"/><ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|pp=122-123}}</ref><ref>{{Harvnb|原勝洋|2004|pp=295-349}}</ref><ref>{{Harvnb|安延多計夫|1960|p=349 別表第2 被害艦要目一覧表 }}</ref><ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}</ref><ref>{{Harvnb|オネール|1988|pp=16-269 }}</ref><ref>{{Harvnb|Smith|2015|}}</ref><ref>{{Harvnb|Stern|2010|p=338}}</ref><ref>{{Harvnb|Kalosky|2006|}}</ref><ref>{{Harvnb|Silverstone|2007|pp=1-350}}</ref><ref name="Chronology1944">{{Cite web |url=https://www.navsource.org/Naval/1944.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1944 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref><ref name="Chronology1945">{{Cite web |url=https://www.navsource.org/Naval/1945.htm |title=U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945 |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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== 方法 == |
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|+ | 撃沈 |
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[[ファイル:Fire_fighting_on_USS_Enterprise_(CV-6)_after_Kamikaze 1945.jpg|thumb|270px|right|神風特攻隊の特攻機命中後、消火作業が行われている[[エンタープライズ (CV-6)]]]] |
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最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった<ref>戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 136頁</ref>。練習機材の特攻装備は、[[九三式中間練習機]]、[[二式陸上中間練習機|二式中間練習機]]、[[九五式水上偵察機]]、[[零式観測機]]、[[零式練習戦闘機]]は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、[[九四式水上偵察機]]、[[零式水上偵察機]]は、250キロ爆弾2発<ref>戦史叢書95巻 海軍航空概史 422頁</ref>。 |
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! style="width:10%;"|艦種 |
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! style="width:10%;"|船体分類記号 |
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! style="width:10%;"|撃沈艦 |
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! style="width:10%;"|除籍艦<ref group="注">アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。</ref><ref name="ロット 1983 277">{{Harvnb|ロット|1983|p=277}}</ref> |
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! style="width:10%;"|損傷艦<ref group="注">損傷艦は延べ数。</ref> |
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|- |
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| [[戦艦]] || BB || ||||16隻 |
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|- |
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| [[正規空母]] || CV |||| ||21隻 |
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| [[軽空母]] || CVL || || || 5隻 |
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|- |
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| [[護衛空母]] || CVE || 3隻|| 1隻|| 16隻 |
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|- |
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| [[水上機母艦]] || AV || || || 4隻 |
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|- |
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| [[重巡洋艦]] ||CA |||| ||8隻 |
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|- |
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| [[軽巡洋艦]] || CL |||||| 8隻 |
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|- |
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| [[駆逐艦]] || DD || 15隻|| 8隻|| 91隻 |
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|- |
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| [[護衛駆逐艦]] || DE || 1隻 || 1隻|| 24隻 |
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|- |
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| [[掃海駆逐艦]]|| DM || 2隻 || 7隻|| 26隻 |
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|- |
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| [[高速輸送艦|輸送駆逐艦]] ||APD || 4隻 || 3隻|| 17隻 |
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|- |
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| [[潜水艦]] || SS |||||| 1隻 |
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|- |
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| [[駆潜艇]] || SC・PC || 1隻 ||1隻|| 1隻 |
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|- |
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| [[掃海艇]] || AM・YMS || 3隻<ref group="注">アメリカ海軍、イギリス軍、[[赤軍|ソ連軍]]各1隻。</ref>|| || 16隻 |
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|- |
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| [[魚雷艇]] || PT || 2隻|||| 4隻 |
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|- |
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| [[戦車揚陸艦]] || LST ||5隻 ||||15隻 |
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|- |
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| 中型[[揚陸艦]] || LSM || 7隻 ||1隻|| 4隻 |
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|- |
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| 上陸支援艇 || LCS || 2隻|||| 13隻 |
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|- |
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| 歩兵揚陸艇 || LCI || 1隻|| || 7隻 |
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|- |
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| [[タグボート]] || AT || 1隻|||| 1隻 |
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|- |
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| 魚雷艇母艦 || AGP || ||||1隻 |
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|- |
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| [[ドック]]艦 || ARL |||||| 2隻 |
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|- |
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| [[病院船]] || AH |||| || 1隻 |
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|- |
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| [[タンカー]] || AO・IX || 1隻|| || 2隻 |
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|- |
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| [[攻撃輸送艦]] || AKA・APA || || ||18隻 |
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|- |
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| 傷病者輸送艦 || APH |||| ||1隻 |
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|- |
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| 防潜網設置艦 || AKN || ||||1隻 |
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|- |
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| [[輸送艦]] || || 7隻|| || 35隻 |
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|- |
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|'''合計''' || || '''55隻'''|| '''22隻'''||'''359隻''' |
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|} |
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特攻の戦果は諸説ある。「航空特攻で撃沈57隻、戦力として完全に失われたもの108隻、船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻、軽微な損傷206隻」とする説<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=288}}</ref>。「航空特攻で撃沈49隻、損傷362隻、[[回天|回天特攻]]で撃沈3隻、損傷6隻、特攻艇で撃沈7隻、損傷19隻、合計撃沈59隻、損傷387隻」とする説<ref name="Rielly_p318-324">{{Harvnb|Rielly|2010|pp=318-324}}</ref>、「航空特攻によるアメリカ軍のみの損害で、66隻が撃沈ないし修理不能、400隻が損傷」など諸説ある<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|Mark Stille|2016|p=|loc=電子版, 位置No.1361}}</ref>。 |
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神風特攻隊に使われた零戦はもともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しかった<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ193</ref>。沖縄戦の戦訓として、当時の日本海軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた<ref>戦史叢書88巻 海軍軍戦備(2)開戦以後 141-142頁</ref>。 |
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アメリカ軍は、上述の通り、フィリピンで特攻により大きな損害を受けた教訓として、沖縄戦においては沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100kmの巨大な円周上に、レーダーを装備した[[レーダーピケット艦]]を配置し早期警戒体制を整えることとし、その専門部隊として第51.5任務部隊(司令官[[フレデリック・ムースブラッガー]][[代将 (アメリカ海軍)|代将]])を編成して、特攻機に対抗したが{{sfn|リエリー|2021|p=23}}、日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標の一つとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く<ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=195}}</ref>、その消耗は激しかった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=186}}</ref>。[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]は[[アーネスト・キング]][[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長]]に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203" />、[[ドイツ海軍]]の[[Uボート]]を制圧していた[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋]]の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された<ref name="ボールドウィン 1967 431">{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=431}}</ref>。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は「[[棺桶]]の担い手」と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している<ref>{{Harvnb|アレン|ボーマー|1995|p=137}}</ref>。 |
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神風特攻隊の目標は、最初の隊は敵空母の使用不能を目標として1944年10月27日に目標を達成したが、[[レイテ島]]付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁</ref>。 |
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レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した<ref name="オネール 1988 184">{{Harvnb|オネール|1988|p=184}}</ref>。特にレーダーピケットラインの中枢で、「[[ブリキ]]缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=426}}</ref>、「まるで[[射的]]場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=351}}</ref>、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった<ref name="オネール 1988 184"/>。 |
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沖縄戦中にアメリカ海軍は[[駆逐艦]]17隻(航空特攻15隻、[[特殊潜航艇]]1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、その中でもレーダーピケットライン専門部隊であった第51.5任務部隊の損害が最も大きく、11隻の駆逐艦と付属艦5隻の計16隻が沈没、50隻が損傷し、水兵1,348人が戦死、1,586人が負傷した。これは第51.5任務部隊でピケット任務に就いていた駆逐艦のうち42%が沈没もしくは損傷するといった甚大な損害であった{{sfn|リエリー|2021|p=358}}。レーダーピケット艦は、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995|p=356}}</ref>。 |
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レーダーピケット艦の多大なる犠牲を目の当たりにして、アメリカ海軍はより有効な特攻対策を迫られることとなった。その対策とは「CADILLAC」と呼ばれた[[早期警戒機]]とデータリンクシステムを結合させた新システムであり、これまでレーダーピケット艦が担っていた役割を早期警戒機が担い、機上レーダーで特攻機を探知すると、そのデータをビデオ信号に変えて、旗艦空母のCICの受信機上にリアルタイムで投影するようにした。このデータリンクにより、旗艦空母は自らのレーダーが探知できていない目標に対しても効果的な対策を講じることができた<ref name="名前なし-20230316130910">{{Harvnb|歴史群像53|2006|p=177}}</ref>。早期警戒機としてAN/APS-20早期警戒レーダーを搭載した[[TBF (航空機)|TBM-3W]]が開発され、データリンクシステムも1945年5月にはテストを終えて、1945年7月からエセックス級空母各艦に設置されていったが、本格的に運用する前に終戦となった。この必要に迫られて開発された極めて先進的なシステムは、その後もさらに洗練されて現在のアメリカ軍空母部隊にも受け継がれている<ref name="名前なし-20230316130910"/>。 |
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=== 人員 === |
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[[ファイル:BunkerHillCorpses1945.jpg|thumb|240px|空母「[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]]」艦内で火災に巻き込まれて死亡した多数のアメリカ軍戦闘機パイロット。本艦は2機の特攻で666名の死傷者を出した。]] |
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特攻機が狙った目標を目ざして、冷静かつ事前に立てた計画に従って急降下する光景は、アメリカ軍[[水兵]]に大きな衝撃を与え、太平洋戦域の連合軍兵士に[[パニック]]を引き起こした<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=212"/>。このように特攻の効果は、艦船の撃沈、撃破といった物理的な効果に加えて、アメリカ海軍を主体とする連合軍兵士に、多数の死傷者や精神疾患といった多大な人的損失をもたらした<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=158}}</ref>。連合軍の艦船は、たった1人の死を顧みない攻撃によって数百名以上の人員が危険にさらされており、「日本軍の機体とパイロットが100%失われたとしても、我々が耐えられない損害を当たえるのに十分だったであろう。」と評価していた<ref>{{Cite web |author=Chuck Anesi |url=http://www.anesi.com/ussbs01.htm |title=United States Strategic Bombing Survey: Summary Report (Pacific War) |language=英語 |accessdate=2016-12-22}}</ref>。 |
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特攻による連合軍の人的損失については複数の研究があり、その数値が異なる。「戦死者8,064名、負傷者10,708名、合計18,772名」とする説<ref name="神立2018-04-15p4">{{Cite web ja |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |author=神立尚紀 |date=2018-04-15 |website=現代ビジネス |publisher=講談社 |page=4 |url=https://gendai.media/articles/-/55270?page=4 |access-date=2019-08-16}}</ref>、「戦死者12,260名、負傷者33,769名」とする説などがある<ref>{{Harvnb|北影雄幸|2005|p=12}}</ref>。アメリカ軍の公式記録等の調査から、「特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名、負傷者9,923名、合計16,728名」とする説<ref name="Rielly_p318-324" />、「戦死者7,000名超」とする説などがある<ref>{{Harvnb|Zaloga|2011|p=12}}</ref>。一方で、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、航空特攻による日本軍の戦死者は、海軍2,548名、陸軍1,355名、計3,903名であり、戦死者であれば2倍前後、死傷者では4倍以上という損害を連合軍に与えており、また、平均すると、特攻機1機の命中ごとにアメリカ軍将兵40名が死傷したという統計もある<ref name="名前なし-1"/>。特攻のように、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては{{読み仮名|稀|まれ}}であるという指摘もある<ref name="神立2018-04-15p4" />。 |
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[[ファイル:Pressure bandaged after they suffered burns when their ship was hit by a kamikaze attack, men are fed aboard the USS... - NARA - 520693.jpg|thumb|230px|right|特攻により大[[火傷]]を負い、病院船「ソラース」で治療をうけるアメリカ軍兵士。]] |
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アメリカ海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者のアメリカ軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争でのアメリカ海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)<ref>{{Cite web |date=2015-04-28 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/u/us-navy-personnel-in-world-war-ii-service-and-casualty-statistics.html |title=US Navy Personnel in World War II Service and Casualty Statistics |publisher={{仮リンク|海軍歴史遺産司令部|en|Naval History and Heritage Command}} |language=英語 |accessdate=2016-12-23}}</ref>、1944年以降のアメリカ軍艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失である<ref name="Chronology1944" /><ref name="Chronology1945" /><ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=677}}</ref>。 |
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その内、特攻が開始された1944年10月以降の、アメリカ海軍兵士の直接の戦闘による戦死者だけでも下記の通りとなる<ref>{{Cite web |date=2016-05-18 |url=http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/w/world-war-ii-casualties.html |title=World War II Casualties Sources of Information on US Navy Casualties in World War II |publisher=海軍歴史遺産司令部 |language=英語 |accessdate=2016-09-07}}</ref>。 |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|- style="bacground-color:#cccccc" |
|||
! style="width:25%;"|戦域 |
|||
! style="width:18%;"|戦死者 |
|||
! style="width:18%;"|負傷により後日死亡 |
|||
! style="width:18%;"|小計 |
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|- style="border:1px solid #000000;" |
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| [[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピン戦]]域 || 4,026名 || 270名|| 4,296名 |
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|- |
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| [[硫黄島の戦い|硫黄島戦域]]|| 934名 || 48名|| 982名 |
|||
|- |
|||
| [[九州沖航空戦|九州沖戦域]]|| 963名 || 6名 || 969名 |
|||
|- |
|||
| [[沖縄戦|沖縄戦域]]|| 3,809名 || 219名 || 4,028名 |
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|- |
|||
| 1945年7月以降日本近海戦域 || 1,103名 || 14名 || 1,117名 |
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|- |
|||
|'''合計''' ||'''10,835'''名 || '''557名'''|| '''11,392名''' |
|||
|} |
|||
また上記の海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷し、また[[イギリス軍]]、[[オーストラリア軍]]、[[オランダ軍]]、[[赤軍|ソ連軍]]など他の連合軍兵士も多数死傷している。 |
|||
特攻による被害艦は、重篤な火傷を負った負傷者が多いことも特徴であった。[[航空燃料]]で生じた激しい火災による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる[[光|閃光]]による閃光火傷を負う負傷者も多かった。フィリピンで特攻で大破した軽巡洋艦「[[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]]」では100名以上の閃光火傷の負傷者が生じている<ref>{{Harvnb|フェーイー|1994|p=276}}</ref>。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれ[[ミイラ]]のようになっており、チューブで辛うじて呼吸し、[[静脈]]への[[点滴]]でどうにか生き延びているという惨状であった<ref name="モリソン 2003 429">{{Harvnb|モリソン|2003|p=429}}</ref>、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった<ref group="注">護衛空母「セント・ロー」は沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。</ref>。特攻による多大な人的損失に頭を悩ますアメリカ海軍は、水兵に対して「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた<ref name="ReferenceB">United States Navy ACTION REPORT FILM CONFIDENTIAL 1945 MN5863 『Combating suicide plane attacks』1945年アメリカ海軍航空局作成</ref>。 |
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=== 有効率 === |
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{| class="wikitable" |
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|+ |特攻作戦有効率([[米国戦略爆撃調査団]]統計 USSBS Report 62, Japanese Air Power)<ref>{{Cite book |title=USSBS Report 62, Japanese Air Power |year=1946 |publisher=米国戦略爆撃調査団 |page=76 |language=英語 |url=http://ja.scribd.com/doc/60048408/USSBS-Report-62-Japanese-Air-Power-OCR |accessdate=2016-12-22}}</ref> |
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|- |
|||
! style="width:18%;"| |
|||
! style="width:18%;"|フィリピン戦 |
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! style="width:18%;"|沖縄戦 |
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! style="width:18%;"|合計 |
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|- |
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| 特攻機損失数 || 650機 || 1,900機 || 2,550機 |
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|- |
|||
| 命中もしくは有効至近命中<ref group="注">有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。</ref> || 174機 || 279機 || 475機<ref group="注">合計が合わないが原資料のまま。</ref> |
|||
|- |
|||
| 有効率 || 26.8% || 14.7% || 18.6% |
|||
|- |
|||
|} |
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{| class="wikitable" |
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|+ |1944年10月 - 1945年3月(沖縄戦前)特攻機の有効率推移(U.S.NAVY TOP-SECRET 「suicide plane damage Table I」)<ref name="hara">{{Harvnb|原勝洋|2006|p=288}}表Q</ref> |
|||
|- style="bacground-color:#cccccc" |
|||
! style="width:20%;"| |
|||
! style="width:10%;"|1944年10月 |
|||
! style="width:10%;"|1944年11月 |
|||
! style="width:10%;"|1944年12月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年1月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年2月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年3月 |
|||
! style="width:10%;"|合計 |
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|- style="border:1px solid #000000;" |
|||
| 特攻を試みた機数 || 43機 || 73機 || 97機 || 99機 || 17機 || 27機 || 356機 |
|||
|- |
|||
| 特攻機命中 || 18機 || 28機 || 33機 || 42機 || 8機 || 11機 || 140機 |
|||
|- |
|||
| 特攻機命中率 || 42% || 38% || 34% || 42% || 47% || 41% || 39% |
|||
|- |
|||
| 有効至近命中 || 7機 || 11機 || 13機 || 22機 || 2機 || 4機 || 59機 |
|||
|- |
|||
| 有効至近命中率 || 16% || 15% || 13% || 22% || 12% || 15% || 17% |
|||
|- |
|||
| '''有効率''' || '''58%''' || '''53%''' || '''47%''' || '''64%''' || '''59%''' || '''56%''' || '''56%''' |
|||
|- |
|||
| 艦船損傷数 || 17隻 || 26隻 || 30隻 || 42隻 || 4隻 || 11隻 || 130隻 |
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|- |
|||
| 艦船沈没数 || 3隻 || 2隻 || 11隻 || 3隻 || 1隻 || 0隻 || 20隻 |
|||
|} |
|||
特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた<ref name="HyperWar">{{Cite web |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/rep/Kamikaze/AAA-Summary/AAA-Summary-1.html |title=ANTIAIRCRAFT ACTION SUMMARY SUICIDE ATTACKS 1945 april |language=英語 |accessdate=2018-01-17}}</ref>。 |
|||
# '''特攻は、アメリカ軍艦隊が直面した最も困難な対空問題である。''' |
|||
# '''今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては効果がない。''' |
|||
# '''特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。''' |
|||
# '''操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。''' |
|||
=== 特攻と通常攻撃との有効率の比較 === |
|||
特攻の有効率は高いながらも、特攻に一番近い攻撃法である[[急降下爆撃]]の日本軍主張の命中率と比較すると見劣りし<ref name="小沢郁郎 2018 103">{{Harvnb|小沢郁郎|2018|p=103}}</ref>、特攻の戦術としての有効性は決して高くはなかったと主張する者もいる<ref>{{Harvnb|髙橋昌紀|2017|p=22}}</ref><ref>{{Harvnb|小沢郁郎|2018|p=104}}</ref>。ただし下表のとおり、特攻の有効率と比較するために急降下爆撃の命中率として引用されることの多い<ref>{{Harvnb|小沢郁郎|2018|pp=103-105}}</ref>、太平洋戦争初期の日本軍主張の急降下爆撃の命中率は、攻撃を受けたアメリカ軍やイギリス軍の被害報告に基づく実際の命中率とはかけ離れていた<ref name="神風は吹いたのか">{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html |title=数字は証言する データで見る太平洋戦争 第2回 神風は吹いたのか? |work=戦後70年 |publisher=[[毎日新聞社]] |accessdate=2020-03-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180319103342/http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data2.html |archivedate=2018-03-19}}</ref>。 |
|||
{| class="wikitable" |
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|+ |太平洋戦争初期の主要海戦における航行している艦船に対しての急降下爆撃命中率 |
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|- style="bacground-color:#cccccc" |
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! style="width:25%;"| |
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! style="width:10%;"|艦爆攻撃数 |
|||
! style="width:10%;"|日本軍主張命中弾 |
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! style="width:10%;"|日本軍主張命中率 |
|||
! style="width:10%;"|実際の被弾数 |
|||
! style="width:15%;"|実際の命中率 |
|||
|- style="border:1px solid #000000;" |
|||
| [[真珠湾攻撃]]で湾から脱出をはかる「[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]」に対する攻撃|| 23機<ref>{{Harvnb|秋元健治|2010|p=181}}</ref>||21発(内不確実13)<ref>{{Harvnb|戦史叢書10|1967|p=付表第4}}</ref>|| 58.5%から65%<ref name="小沢郁郎 1978 103">{{Harvnb|小沢郁郎|1978|p=103}}</ref> ||5発<ref>{{Cite web |url=http://www.researcheratlarge.com/Ships/BB36/PearlHarborDamageReport/ |title=BB-36 USS Nevada Pearl Harbor Attack Damage Report |publisher=Researcher@Large |language=英語 |accessdate=2020-03-28}}</ref>|| 21.7% |
|||
|- |
|||
| [[セイロン沖海戦]]で2隻の重巡洋艦に対する攻撃 || 53機<ref name="戦史叢書29 1969 648">{{Harvnb|戦史叢書29|1969|p=648}}</ref> || 46発<ref name="戦史叢書29 1969 648"/> || 88%<ref name="小沢郁郎 2018 103"/><ref name="戦史叢書29 1969 648"/> || 19発<ref>{{Cite web |url=http://www.starbase400.org/dorsetshire/Dorsetshire-History.html |title=History of the name 'Dorsetshire' |language=英語 |accessdate=2019-3-19}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://ww2db.com/ship_spec.php?ship_id=457|title=World War II HMS Cornwall|language=英語 |accessdate=2019-3-20}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://uboat.net/allies/warships/ship/1185.html|title=HMS Dorsetshire(40) |language=英語 |accessdate=2019-3-20}}</ref> || 35.8% |
|||
|- |
|||
| [[珊瑚海海戦]]で2隻の空母に対する攻撃|| 33機<ref>{{Harvnb|戦史叢書49|1971|p=307}}</ref> ||18発<ref name="小沢郁郎 1978 103"/>|| 53%から64%<ref name="小沢郁郎 1978 103"/> ||3発<ref>{{Harvnb|戦史叢書49|1971|p=309}}</ref>|| 9% |
|||
|- |
|||
| [[ミッドウェー海戦]]で「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」に対する攻撃 || 18機<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=347}}</ref> || 6発<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=353}}</ref>|| 33.3% || 3発<ref>{{Harvnb|プランゲ下|2005|p=90}}</ref> ||16.6% |
|||
|} |
|||
日本軍主張の命中率は過大ではあったが、それでも太平洋戦争の序盤は多大な成果を上げていたことにかわりはなく、アメリカ軍も「彼ら(日本軍)の開戦初期の成功は、非常によく訓練され、組織され、装備された航空部隊が連合軍の不意をついて獲得したものであった」と評価していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=108}}</ref>。しかし、[[ミッドウェー海戦|ミッドウェーの敗戦]]から[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン諸島]]などでの航空消耗戦で弱体化していく日本軍航空戦力を「日本軍の航空戦力がソロモン諸島、ビスマルク諸島、ニューギニアで消耗されると、それらに匹敵する後継部隊を手に入れることができなくなり、日本の空軍力は崩壊しはじめ、ついに自殺攻撃が唯一の効果的な戦法となった。」と評価していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=109}}</ref>。 |
|||
日本軍の航空戦力の弱体化に対して、アメリカ軍側の防空システムは1943年までの日本軍との諸海戦の戦訓により各段に進歩しており、特に1943年以降大量に就役した[[エセックス級航空母艦]]の艦隊配備が進歩を加速させた<ref>{{Harvnb|歴史群像53|2006|p=172}}</ref>。エセックス級空母各艦は航空母艦群の旗艦となり、搭載された対空捜索用[[CXAM#CXFA (SK)|SKレーダー]]、対水上捜索・航空機誘導用[[SG (レーダー)|SGレーダー]]、航空管制用の測高用SMレーダー、予備の対空捜索用[[CXAM#CXBD (SC)|SC-2レーダー]]<ref>{{Harvnb|世界の艦船|2016|p=101}}</ref>、射撃用のレーダーとして[[Mk.37 砲射撃指揮装置]]と一体化した距離測定用Mk.12レーダーと、高度測角用Mk.22レーダー<ref>{{Harvnb|世界の艦船|2016|p=105}}</ref> を活用した[[戦闘指揮所]] (CIC) が、迎撃戦闘機の誘導や新兵器[[近接信管|VT信管]]を駆使した対空射撃など、対空戦闘を総合的に統制し<ref>{{Harvnb|歴史群像53|2006|p=174}}</ref>、[[マリアナ沖海戦]]では一方的に日本軍通常攻撃機を撃墜し、ほとんどの日本軍通常攻撃機がアメリカ軍艦隊に到達することができず、命中弾は戦艦「[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]」への1発のみと、のちに「マリアナの七面鳥撃ち(The Marianas Turkey Shoot)」とからかわれたぐらいに、対空システムは完成の域に達していた<ref>{{Harvnb|ニミッツ|ポッター|1962|p=275}}</ref>。 |
|||
日本軍が特攻を主要戦術として採用した背景をアメリカ軍は、マリアナ沖海戦以降の航空作戦の苦境で「大本営に、陸海両空軍が正規の航空軍としては敗北したことが明白になったとき絶望的戦術として使用した」「自殺攻撃が開始された理由は、冷静で合理的な軍事的決定であった。」と分析していた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=199}}</ref>。 |
|||
{| class="wikitable" |
|||
|+ |1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効攻撃数(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table I)<ref>{{Cite web |title=Anti-Suicide Action Summary |year=1945 |publisher=海軍歴史遺産司令部 |page=2|language=英語 |url=https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |accessdate=2018-1-9}}</ref> |
|||
|- |
|||
! style="width:15%;"| |
|||
! style="width:10%;"|1944年10月 - 1945年1月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年2月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年3月 |
|||
! style="width:10%;"|1945年4月 |
|||
! style="width:10%;"|合計 |
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|- style="border:1px solid #000000;" |
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| アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 || 1,616機 || 123機 || 219機|| 978機|| 2,936機 |
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|- |
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| その内、特攻機|| 376機 || 18機 || 42機 || 348機|| 784機 |
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|- |
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| その内、通常攻撃機 || 1,240機 || 105機 || 177機|| 630機|| 2,152機 |
|||
|- |
|||
| 特攻機命中 || 120機(命中率31.9%)|| 8機 || 10機 || 78機|| 216機(命中率27.6%) |
|||
|- |
|||
| 通常攻撃命中 || 41機(命中率3.3%)|| 1機 || 10機 || 6機|| 58機(命中率2.7%) |
|||
|} |
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{| class="wikitable" |
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|+ |1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効性の比較(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table VI)<ref name="Anti-Suicide Action Summary">{{Cite web |title=Anti-Suicide Action Summary |year=1945 |publisher=海軍歴史遺産司令部 |page=4|language=英語 |url=https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html |accessdate=2018-1-9}}</ref> |
|||
|- |
|||
! style="width:25%;"| |
|||
! style="width:18%;"|特攻機 |
|||
! style="width:18%;"|通常攻撃機 |
|||
|- style="border:1px solid #000000;" |
|||
| 艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 || 3.6機 || 37機 |
|||
|- |
|||
| 命中率 || 27% || 2.7% |
|||
|- |
|||
| 艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 || 3.6機 || 6.1機 |
|||
|} |
|||
これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機を全て特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している<ref name="Anti-Suicide Action Summary"/>。 |
|||
[[米国戦略爆撃調査団]]の公式報告書では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている<ref>{{Cite web |author=Chuck Anesi |url=http://www.anesi.com/ussbs01.htm |title=United States Strategic Bombing Survey: Summary Report (Pacific War) |language=英語 |accessdate=2018-1-9}}</ref>。通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する[[航空爆弾|爆弾]]や[[魚雷]]を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった<ref name="ReferenceB"/>。 |
|||
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母「[[タイコンデロガ (空母)|タイコンデロガ]]」のディクシー・キーファー艦長は、療養中に『{{仮リンク|アマリロ・グローブ・ニュース|label=アマリロ・デイリー・ニュース|en|Amarillo Globe-News}}』の取材に対して「日本のカミカゼは、通常の[[急降下爆撃]]や[[水平爆撃]]より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている<ref>Amarillo Daily News Friday, July 20, 1945 Page 15</ref>。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=338"/>。また、イギリスの[[軍事評論家]]バリー・ピッドは「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている<ref>{{Harvnb|フランク|1971|p=8}}</ref><ref>{{Harvnb|吉本貞昭|2012|p=221}}</ref>。 |
|||
アメリカ軍は、特攻が通常の航空機による攻撃より優れている点として[[イラスト]]付きで下記を挙げている。(画像参照)<ref name="ReferenceB"/>。 |
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[[File:Combating suicide plane attacks.png|thumb|none|400px| |
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{{Image key |
|||
|list type=ordered |
|||
|thumb size=narrow |
|||
|style=font-weight:bold |
|||
|特攻機は片道攻撃で帰還を考慮しなくていいため、攻撃距離が長い。 |
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|パイロットが突っ込む直前まで操縦できるため、命中率が高い。 |
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|特攻機パイロットは精神的に強靱である。 |
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|特攻機は機体自体が搭載している航空燃料で強力な[[焼夷弾]]になる。 |
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}}]] |
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この有効率の高さを、対[[零式艦上戦闘機]]空戦戦術「[[サッチウィーブ]]」の考案者でもあった、第38任務部隊航空参謀の[[ジョン・サッチ]]少佐は「我々が[[誘導ミサイル]]を手にする以前の誘導ミサイルであった」「人間の脳と目と手で誘導され、誘導ミサイルよりさらに優れていた」「時代の先を行く兵器であった」と分析していた<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.599}}</ref>。 |
|||
太平洋戦争終戦後相当年数を経た1999年作成の[[アメリカ空軍]]報告書においても、特攻機は現在の[[対艦ミサイル]]に匹敵する誘導兵器と評価されて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと結論づけている<ref>{{Cite web |url=http://www.airforcehistory.hq.af.mil/EARS/Hallionpapers/precisionweaponspower.htm ||title=PRECISION WEAPONS, POWER PROJECTION, AND THE REVOLUTION IN MILITARY AFFAIRS |publisher=The Air Force History Support Office|language=英語 |archiveurl=https://archive.li/v4SuI#selection-259.0-261.34 |archivedate=2014-12-22 |accessdate=2019-01-09}}</ref>。 |
|||
また、当時の対空砲火は敵機に命中させて撃墜を狙うというより艦を攻撃しやすいコースから退かせることを主目的としており、現代の対空システムからイメージされるほど撃墜率は高くなかった。そのため、もとより生還を期さない上に通常の爆撃・雷撃とは異なるコースからでも攻撃が可能となる特攻機に対してはほとんど効果がなかった。 |
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== 戦術 == |
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=== 接敵法 === |
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海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|loc=pp.106, 110}}</ref>。 |
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==== 高高度接敵法 ==== |
|||
高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。 |
|||
敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=106}}</ref>。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ3分の1くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心<ref group="注">船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約3分の1にあたる</ref> を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=pp.360, 363 表3・表4}}</ref>。 |
|||
<gallery widths="200px" heights="200px"> |
|||
Figure of attack of kamikaze No1.png|もっとも基本的な突入法、まず浅い角度で接近し敵艦を攻撃線上に収めて急降下、敵艦が攻撃線上から外れた場合、一旦機首を引き上げ、再度敵艦を攻撃線上に収めて突入 |
|||
Figure of attack of kamikaze No2.png|1度の急降下で敵艦を攻撃線上に収められた場合 |
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Figure of attack of kamikaze No4.png|雲に隠れながら目標に接近し、雲の合間から深い角度で突入できる場合 |
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</gallery> |
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==== 低高度接敵法 ==== |
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超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された<ref name="中島猪口p108">{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=108}}</ref>。 |
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Figure of attack of kamikaze No8.png|レーダー探知可能範囲外の超低空飛行で接敵する場合 |
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Figure of attack of kamikaze No7.png|島影などに隠れながらレーダーに探知されないように接敵する場合 |
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Figure of attack of kamikaze No5.png|夜間や悪天候など視界不良時に低空飛行で接敵する場合 |
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Figure of attack of kamikaze No3.png|低空飛行で接敵し目標の直前で上昇し急降下で敵艦の致命部に突入する場合 |
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複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺くためにに、薄くのばした[[スズ]]を貼った模造紙(電探紙、今で言う[[チャフ]])をばら撒いたり、レーダー{{読み仮名|欺瞞|ぎまん}}隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|p=372}}</ref> という戦法などで対抗している<ref name="冨永 1972 48"/>。 |
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海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた<ref name="中島猪口p108" />。 |
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Figure of attack of kamikaze No9.png|帰還する敵艦載機に紛れて接近しレーダー探知を回避する場合(丸で囲まれているのが特攻機) |
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Figure of attack of kamikaze No6.png|支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入し、支援隊が敵艦の対空砲火を引きつけている間に特攻機が突入する「時間差攻撃」の場合 |
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=== 特攻機の破壊力 === |
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特攻に主に使われた零戦は元より空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で[[舵]]も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2004|p=193}}</ref>、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に[[第七二一海軍航空隊]]の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20 - 30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している<ref>{{Harvnb|神立尚紀|2015|p=321}}</ref>。 |
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突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた[[軍令部]]次長大西が、[[海軍航空技術廠|第一航空技術廠]]長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と[[横須賀海軍航空隊]]は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、さまざまな角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している<ref>{{Harvnb|日本海軍航空史1|1969|p=489}}</ref>。 |
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突入角度に加えて速度についても、戦後にアメリカ軍から「適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速い」という分析はされているものの<ref name="米国戦略爆撃調査団 1996 185">{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=185}}</ref>、上記の通り命中寸前まで機体を操縦可能という、特攻特有の利点を活かして、多種多様な角度で特攻機が命中しており、航空機による通常攻撃と比較し抜群に高い有効性を確保していたが<ref group="注">第二次世界大戦中におけるアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が、大戦末期にわずか10か月間の特攻による損害であった。</ref>、一方で、浅い角度で突入した場合は、重力による加速が深い角度で突入した場合と比べると劣るため、平均的な命中速度は通常の爆撃の投下爆弾よりは遅かった<ref name="Destroyer Report 1945 9">{{Harvnb|Destroyer Report|1945|p=9}}</ref>。従って、特攻による艦内部の破壊は平均すると通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)よりも少なく、駆逐艦においては、通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)での被害艦の沈没比率は28.9%であったが、特攻による沈没率は13.7%と約半分であった<ref name="Destroyer Report 1945 9"/>。 |
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しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母「エンタープライズ」を大破させたときの最終突入角度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある<ref>{{Harvnb|菅原|2015|p=255}}</ref>。一方で、フィリピンにおいて護衛空母「セント・ロー」に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480kmで浅い角度で体当たりしたが<ref>Dogfights - Episode 12: Kamikaze (History Documentary)セント・ローの乗組員(電気技師)オービル・ビサード証言</ref>、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経た後に、特攻機命中からわずか32分後に爆沈した<ref>{{Cite web |url=http://www.dondennisfamily.com/USS_St_Lo/samar/actionreport9.html |title=Battle off Samar - Action Report |language=英語 |accessdate=2018-09-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180906052502/http://www.dondennisfamily.com/USS_St_Lo/samar/actionreport9.html |archivedate=2018-09-06}}</ref>ように、突入角度が浅かったり、速度が遅くても敵艦に深刻な損害を与えた事例も多く、一概に突入角度や速度だけが敵艦に与える損害を決定する要素とはならない。 |
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そもそも、艦艇の[[喫水線]]より下を攻撃して艦艇に浸水させることができる[[魚雷]]攻撃と異なり、原則的に喫水線より上を攻撃する爆撃や特攻によって大規模な浸水被害が生じることはまれであり<ref>{{Harvnb|歴史群像132|2015|p=111}}</ref>、攻撃の性質的に沈没率は高くはないことは日本軍も認識しており、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行っている<ref name="戦史叢書88p145-146"/>。しかし、特攻機はその搭載された航空燃料が武器となり、命中時には航空燃料による火災を発生させることが多かったので、いわば爆弾と[[ナパーム弾]]が同時に命中したような効果が生じた<ref>{{Harvnb|歴史群像132|2015|p=112}}</ref>。特攻機の命中によって生じた火災は、被害艦を沈没まで至らせなくても重篤になることが多く、艦の損傷を拡大させ、多くの人員に重篤な火傷を負わせて戦闘不能にさせ、適切な消火に失敗すると艦を再起不能の損傷に至らせている<ref>{{Harvnb|Destroyer Report|1945|p=286}}</ref>。そのため、特攻機は爆弾を搭載していなくとも、極めて強力な[[焼夷弾]]となったと評している<ref name="ReferenceB"/>。沖縄戦においては、特攻により生じた大量の損傷艦のために[[慶良間諸島]]の泊地は常に満杯であり、損傷艦は[[工作艦]]により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した<ref name="ボールドウィン 1967 431"/>。特攻による損傷艦の中には、護衛空母「[[スワニー (護衛空母)|スワニー]]」のように、艦設計の際に考慮されていなかったほどの甚大な損傷を負った艦や<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982a|p=208"/>、正規空母「[[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]]」のように、[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=166}}</ref>。甚大な損傷を負った艦の中には、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない<ref name="ロット 1983 277"/>。 |
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一方で、第二次世界大戦末期のアメリカ軍は、それまでの戦闘経験により[[ダメージコントロール]]が格段に進歩しており、特攻による撃沈率を低減させるに成功している。例えば、硫黄島の戦いで海軍の第二御楯隊が大破させた正規空母「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」の損傷具合は、太平洋戦争初期に[[珊瑚海海戦]]で沈没した「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」よりはるかに深刻であったと、両艦のいずれの被爆時にも乗艦していたパイロットのV・F・マッコルマック少佐が証言しているなど、大戦初期や中期においては放棄されたような状況の艦ですら救われることが多くなっていた<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=104}}</ref>。アメリカ軍は、特攻により大量の損傷艦が生じたのを振り返って、艦艇が沈没までは至らなくとも、多くの場合は修理のためにアメリカ本国の[[造船所]]に帰還せねばならず、作戦上の損失は大きかったと結論づけている<ref name="ReferenceB"/>。 |
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Figure of attack from 3 routes of Kamikaze.png|特攻機の突入角度の例、突入寸前まで操縦が可能なため、通常の爆撃では命中不可能な浅い角度でも突入できた。 |
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USS Enterprise (CV-6) hit by kamikaze 1945.jpg|「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」に富安俊助中尉が搭乗する零戦が約50度の急角度で突入した瞬間。爆発の先端に吹き飛んでいるのがエレベーター。 |
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Crewmen fighting fires aboard USS Belleau Wood (CVL-24), 30 October 1944 (80-G-342020).jpg|軽空母「[[ベロー・ウッド (空母)|ベローウッド]]」の飛行甲板後部に神風特別攻撃隊葉桜隊の1機が命中し艦載機が炎上 |
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Crewmen fighting fires aboard USS Belleau Wood (CVL-24), on 30 October 1944.jpg|火災は飛行甲板上に並べられていた艦載機に引火して次々と延焼 |
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USS Helm (DD-388) assists USS Belleau Wood (CVL-24) after she was hit by a Kamikaze off Luzon, 30 October 1944.jpg|火災はその後も燃え広がり、飛行甲板上の艦載機は手前の1機以外は全て炎上した |
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</gallery> |
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=== 搭載爆弾 === |
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[[ファイル:USS Randolph (CV-15) under repair.jpg|thumb|270px|right|800キロ爆弾を搭載した[[銀河 (航空機)|銀河]]陸攻が突入して損傷した正規空母「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」]] |
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日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=709}}</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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|+ | 特攻機の威力 |
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|- |
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!width="250"| 特攻機と搭載爆弾 |
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!width="250"| 桜花 (炸薬量1300kg) |
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!width="250"| 800kg爆弾を搭載した特攻機 |
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!width="250"| 500kg爆弾を搭載した特攻機 |
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!width="250"| 250kg爆弾を搭載した特攻機 |
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|- |
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| 威力点 || 5点 || 3点 || 2点 || 1点 |
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|} |
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{| class="wikitable" |
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|+ | 撃沈に要する威力 |
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|- |
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!width="100"| |
|||
!width="250"| 正規空母 |
|||
!width="250"| 巡改(軽)空母 |
|||
!width="250"| 護衛空母 |
|||
!width="250"| 戦 艦 |
|||
!width="250"| 巡洋艦 |
|||
|- |
|||
| 所要弾薬 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 桜花1機と800kg特攻機1機 || 800kg特攻機1機 || 桜花2機 || 桜花1機 |
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|- |
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| 所要威力点 || 8点 || 8点 || 3点 || 10点 || 5点 |
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|} |
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これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身だまされ、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」<ref name="Anesi">{{Cite web |author=Chuck Anesi |url=http://www.anesi.com/ussbs01.htm |title=United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War) |accessdate=2016-12-22}}</ref>、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し<ref name="米国戦略爆撃調査団 1996 185"/> と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。 |
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搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解しさまざまな対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル『Anti-Suicide Action Summary』にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器[[桜花 (航空機)|桜花]]を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため<ref name="Anti-Suicide Action" />、敵艦への接近が非常に困難になっていた。 |
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これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている<ref name="戦史叢書88p145-146">{{Harvnb|戦史叢書88|1975|pp=145-146}}</ref>。 |
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# 特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。 |
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# 特攻機突入時の撃速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に撃速を増大させる([[キ115]]の開発と増産)。 |
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# [[成形炸薬弾]]頭であるV爆弾の実戦配備([[成形炸薬弾]]頭とは[[モンロー/ノイマン効果]]を利用した弾頭)。 |
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# 液体酸素、[[過酸化水素]]、[[黄燐]]等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる |
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# 旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。 |
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終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている<ref>{{Harvnb|戦史叢書88|1975|p=145}}</ref>。 |
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艦艇を撃沈するためには、魚雷により[[喫水線]]下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷を抱いて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.237}}</ref>。爆弾を搭載しての特攻は雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.250}}</ref>。 |
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=== 使用機種 === |
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[[File:95&94suitei.jpg|thumb|270px|right|手前[[九五式水上偵察機]]、奥[[九四式水上偵察機]]。こうした水上偵察機も特攻に投入された。]] |
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戦闘機以外では、日本海軍における作戦機のほぼ全機種が特攻に投入された。以下、沖縄戦における投入機数と損失機数の一覧である。 |
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; 戦闘機 |
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:* [[零式艦上戦闘機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:602機、内未帰還:320機<ref name="ichiran">{{Harvnb|戦史叢書17|1968|loc=付表「沖縄方面特別攻撃隊一覧表」}}</ref><ref name="ichiranDW">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|loc=付表「特別攻撃戦果一覧表」}}</ref> |
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; 爆撃機・攻撃機 |
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:* [[九六式艦上爆撃機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:12機、内未帰還:10機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[九九式艦上爆撃機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:135機、内未帰還:105機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[彗星 (航空機)|艦上爆撃機「彗星」]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:251機、内未帰還:140機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[九七式艦上攻撃機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:95機、内未帰還:73機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[流星 (航空機)|艦上攻撃機「流星」]] - 沖縄戦・本土近海特攻出撃延機数:21機。内未帰還:13機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[天山 (航空機)|艦上攻撃機「天山」]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:39機、内未帰還:28機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[銀河 (航空機)|陸上爆撃機「銀河」]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:155機、内未帰還:78機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[一式陸上攻撃機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:78機、内未帰還:52機。全て[[桜花 (航空機)|桜花]]母機としての出撃<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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; 練習機 |
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:* [[白菊 (航空機)|白菊]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:115機、内未帰還:56機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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:* [[九三式中間練習機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:11機、内未帰還:7機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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; 偵察機 |
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:* [[零式水上偵察機]] - 沖縄戦特攻出撃延機数:水偵合計75機、内未帰還:39機<ref name="ichiran" /><ref name="ichiranDW" /> |
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[[ファイル:Tokucima siragiku unit.jpg|thumb|270px|right|練習機「白菊」で編成された、神風特別攻撃隊徳島白菊隊の特攻隊員]] |
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上記の通り、大戦末期にはそれまでの戦闘による消耗や、本土決戦準備のための戦力温存策によって、特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や[[水上機|水上]][[偵察機]]も特攻に投入された。[[九三式中間練習機]]、[[二式陸上中間練習機|二式中間練習機]]、[[九五式水上偵察機]]、[[零式観測機]]、[[零式練習戦闘機]]は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「[[白菊 (航空機)|白菊]]」、[[九四式水上偵察機]]、[[零式水上偵察機]]は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した<ref name="『戦史叢書95巻 海軍航空概史』422頁"/>。 |
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[[菊水作戦#菊水七号作戦|菊水七号作戦]]中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が[[串良町|串良]]の航空基地から出撃した。故障や[[胴体着陸|不時着]]の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。[[沖縄戦]]で特攻を指揮した[[航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部はアメリカ軍の無電を[[傍受]]しており、「時速160km - 170kmの日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=23}}</ref>、第5航空艦隊司令官[[宇垣纏]]中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や明け方に限定して投入することとしている<ref>{{Harvnb|宇垣|1953b|p=244}}</ref> |
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しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、[[九四式水上偵察機]]が[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]]の迎撃を巧みにかわすと、駆逐艦「[[モリソン (駆逐艦)|モリソン]]」の[[航跡]]の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で[[砲塔]]に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し<ref>{{Harvnb|米国陸軍省|1997|p=313}}</ref> 死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=134}}</ref>。 |
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1945年5月27日の[[海軍記念日]]に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた[[野原一夫]]少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=226}}</ref>。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦「[[ドレクスラー (駆逐艦)|ドレクスラー]]」に突入した。「ドレクスラー」乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178">{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。白菊のうち1機は、「ドレクスラー」の艦後部に突入して[[ボイラー]]室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた<ref name="Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178"/>。 |
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このとき「ドレクスラー」が発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=227}}</ref>。この後、「ドレクスラー」にはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=179}}</ref>。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)「[[バリー (DD-248)|バリー]]」と[[LSM-1級中型揚陸艦]]「LSM-59」の合計3隻を撃沈し<ref name="名前なし_3-20240629114902"/>、1945年(昭和20年)5月29日に駆逐艦「{{仮リンク|シュブリック (駆逐艦)|en|USSShubrick (DD-639)}}」<ref group="注">「シュブリック」に突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0時13分に沖縄に突入した航空機は、28日19時13分から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される。</ref><ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=83}}</ref><ref>{{Harvnb|原|2006|p=238}}</ref>、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=59}}</ref>、その後、両艦は修理が断念されて、[[スクラップ]]となった<ref>{{cite web|url=http://ussshubrick.com/okinawa.htm|title=USS SHUBRICK DD-639 Personal War Diary|accessdate=2017-10-14}}</ref>。 |
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終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が[[宮古島]]から出撃、「第3龍虎隊」は2日にわたって[[レーダーピケット艦]]を攻撃し、突入した7機で駆逐艦の「[[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]]」を撃沈し、「[[カッシン・ヤング (駆逐艦)|カッシン・ヤング]]」を大破させて、「{{仮リンク|プリチェット (駆逐艦)|en|USS Prichett (DD-561)}}」と「{{仮リンク|ホラス・A・バス (輸送駆逐艦)|en|USS Horace A. Bass (APD-124)}}」を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=195}}</ref>。 |
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わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている<ref name="Anti-Suicide Action" />。 |
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* 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。 |
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* [[近接信管]]が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。 |
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* 対空火器の[[エリコンFF 20 mm 機関砲|Mk.IV]]20mm機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、[[ボフォース 60口径40mm機関砲|ボフォース 40mm機関砲]]は木造部分や[[羽布]]張り部分でも有効であった。 |
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* 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。 |
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アメリカ側は練習機や水上偵察機や[[九九式艦上爆撃機]]の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、[[複葉機]]、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している<ref name="モリソン 2003 429"/>。 |
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== 特攻隊員 == |
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[[ファイル:19441025 onishi seki farewell.png|thumb|240px|right|大西瀧治郎中将に敬礼する関行男大尉ら神風特攻隊員]] |
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=== 特攻隊員の選抜 === |
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特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが<ref>{{Harvnb|冨永|安延|1972|p=46}}</ref>、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.445}}</ref>。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった<ref>{{Harvnb|城山三郎|2004|loc=p.454}}</ref>。 |
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[[桜花 (航空機)|桜花]]搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=69}}</ref>。[[台南海軍航空隊]]では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、[[海軍予備員#飛行科予備学生|海軍飛行予備学生]]第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=22}}</ref>。 |
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関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に[[元山海軍航空隊]]で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2007|p=17}}</ref>。 |
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一航艦参謀だった猪口力平によれば、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願する者や、また周囲の雰囲気に流されて、[[同調圧力]]で志願する者も多くなったという<ref>{{Harvnb|猪口|中島|1951|loc=p.2863}}</ref>。[[高知海軍航空隊]]は練習機[[白菊 (航空機)|白菊]]による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も差し迫った1944年末に[[横須賀鎮守府]]より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、中には、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという<ref>{{Harvnb|特攻の記録|2011|loc=p.819}}</ref>。[[筑波海軍航空隊]]では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、[[防空壕]]掘りか、代用燃料の[[松根油]]の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願した者もいた<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=196}}</ref>。 |
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また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の[[美濃部正]]少佐が戦後になって、自分は特攻を拒否したと主張している夜間戦闘機隊の[[芙蓉部隊]]において、1945年2月17日、[[ジャンボリー作戦]]で日本本土を攻撃してきた[[第38任務部隊|第58任務部隊]]に対して、美濃部がかねてより温めてきた「{{読み仮名|黎明|れいめい}}に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」<ref>アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」「芙蓉部隊作戦思想(B)kabニ對シテ」</ref> という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|pp=82-83}}</ref>。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者の一人一人と握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|pp=296-297}}</ref>。同様な別杯をかわしての特攻出撃命令は、沖縄戦中の5月25日にも出されている<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=220}}</ref>。美濃部は「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と考えており、自分が戦機と判断した場合は、むしろ特攻には積極姿勢であった<ref>アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」「五.戦訓 イ.精神力ト訓練」</ref><ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=297}}</ref>。 |
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航空隊全体が特攻を命じられることもあり、[[第二〇五海軍航空隊]]については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている<ref name="gendai.ismedia.jp">{{Cite web ja |title=日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…当事者の証言とデータから実像に迫る |author=神立尚紀 |date=2018-04-15 |website=現代ビジネス |publisher=講談社 |page=3 |url=https://gendai.media/articles/-/55270?page=3 |accessdate=2018-4-15}}</ref>。沖縄戦で特攻機の護衛や[[要撃機|要撃]]任務に就いていた[[厚木海軍航空隊|第二〇三海軍航空隊]]戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の[[岡嶋清熊]]少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった<ref>{{Harvnb|最後の証言|2013|p=375}}</ref>。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためその中から3名を選抜している<ref>{{Harvnb|本田稔|2004|p=183}}</ref>。 |
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民間航空機搭乗員を希望して乙種[[海軍飛行予科練習生]]第18期生として[[土浦海軍航空隊]]に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた<ref>{{Harvnb|桑原敬一|2006|p=156}}</ref>。 |
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終戦後に、[[米国戦略爆撃調査団]]は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取を行っている。アメリカ軍調査官ヘラー[[准将]]の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある」「[[内地]]で募集した際も{{読み仮名|殆|ほとん}}ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している<ref>{{Harvnb|中島正|猪口力平|1984|p=188}}</ref>。 |
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多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話<ref group="注">当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失ったりしていると信じられていた。</ref> は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=163}}</ref>。 |
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=== 特攻隊員の待遇 === |
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[[ファイル:Kamikaze pilot before sortie.jpg|thumb|240px|right|出撃前に談笑する特攻隊員]] |
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フィリピンの戦いで神風特別攻撃隊が編成された当初は、創設者の第一航空艦隊司令長官大西によって、隊員に対しては厳格な対応を行っていた。各部隊から原則は志願により選抜された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が[[編成 (軍事)|編成]]された。特攻隊員と一般の兵士は明確に区別され、特攻隊員をその他の兵士らが宴会に招いたりするなどの、特別待遇は厳禁とされ、また、正式な特攻隊として編成されたもの以外の勝手な体当たり攻撃も厳禁された。大西が特攻隊員を厳格に扱ったのは、主に特攻隊員の心構えの厳粛化を目的としたものであった<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|p=406}}</ref>。そして、特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)<ref group="注">兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級</ref> の栄誉を受けることが原則であった<ref>1944年(昭和19年)11月29日勅令第649号「大東亜戦争ニ際シ必死ノ特別攻撃ニ従事シタル陸軍ノ下士官兵ヨリスル将校及准士官ノ補充ニ関スル件」<br />1944年(昭和19年)11月29日勅令第650号「大東亜戦争ニ際シ必死ノ特別攻撃ニ従事シタル海軍ノ下士官、兵等ヨリスル特務士官、准士官等ノ特殊任用ニ関スル件」</ref>。 |
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しかし、司令官の厳格な方針に対して、現場指揮官であった[[第二〇一海軍航空隊]]副長[[玉井浅一]]中佐は特攻隊員を気の毒に思って、懇意にしていた[[従軍記者|海軍報道班員]]の小野田政に対して「報道班員、うちの特攻隊員を慰めてやってくれんか」と内々に要請している。小野田も特攻隊員を玉井と同様に思って、毎晩のように[[同盟通信社]]の社用車に[[ラム酒]]を満載して特攻隊員が宿泊している兵舎を訪れると、出撃が命じられた特攻隊員に振る舞い、またこの世の思い出に女性との[[性行為|性交]]を望んでいる特攻隊員がいれば、マニラ市内にあった[[慰安所]]に連れていってる。小野田は懇意にしていた玉井からの依頼であったのに加えて、出撃直前に取材した[[関行男]]中佐(戦死後二階級特進)の「ぼく(関)は短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ([[芸者遊び]])もしなければ、女も知らないで死んでいく……」という言葉が強く印象に残っており、死にゆく特攻隊員に対して、できることをなんでもしてあげようという想いにかられての行動であった<ref name="名前なし_2-20240629114902"/>。 |
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一方で、大西と同様にフィリピンの戦いで[[万朶隊]]などの陸軍特別攻撃隊(と号部隊)を指揮した[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]司令官[[富永恭次]]中将は、自分は[[下戸]]で、好んで飲酒をすることはなかったのにもかかわらず<ref>{{Harvnb|丸編集部|1956|p=22}}</ref>、頻繁に陸軍の特攻隊員を軍司令官官舎に招待し、特別の献立を用意して酒席を設けていた。その献立のなかには南方ならではの[[バナナ]]、[[パパイヤ]]、[[ヤシ]]といった果実もふんだんにあり、食べ過ぎた特攻隊員に「甘い物はもう見るのも嫌」と言わせてみたり<ref>{{Harvnb|一ノ瀬俊也|2020|loc=電子版, 位置No.518}}</ref>、さらには南方最前線では珍しい刺身をわざわざ供するなど、豪華なメニューで特攻隊員を特別に歓待していたのとは対照的であった<ref>{{Harvnb|高木俊朗|2019b|p=30}}</ref>。当時のフィリピンでは、連合軍が迫って海上輸送路が危機に瀕しており、食糧事情が悪くなって大西や富永といった司令長官クラスでも、毎日の食事は白米に薄い[[サツマイモ]]を並べたものや、単に白米と芋を混ぜ合わせた[[かて飯]]という粗末なものになっており、海軍が特攻隊員を特別待遇できない現実的な理由もあったが<ref>{{Harvnb|門司親徳|1978|p=322}}</ref>、陸軍の富永はそれにもかかわらず、特攻隊員を特別待遇していたことになる<ref>{{Harvnb|高木俊朗|2019a|p=295}}</ref>。 |
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戦場が日本本土近郊に迫り、特攻隊員が日本本土の基地から出撃するようになると、待遇もかなり改善されている。出撃前には白布に包まれたお膳が出されることもあったが、そのお膳は白く四角の形をしており、中には尾かしら付の[[鯛]]と赤飯と[[栗金団]]が入っていて二合瓶の日本酒もそえられてあったという。この特攻隊員への出撃前のお膳は、1945年の元旦に宮中恒例の[[晴れの御膳]]で[[昭和天皇]]にも饗された。[[侍従武官]]から「連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途にはなむけて出す料理でございます」という説明を聞いた昭和天皇は長い間何も言わずそのお膳を見つめていたが、手をつけることはなくそのまま侍従武官に下げた。下げられた武官たちはこのお膳を見せられた昭和天皇の胸の内を察して胸がつまる思いになったという<ref>{{Harvnb|読売新聞社|1967|p=130}}</ref>。また、沖縄に連合軍が侵攻してきて[[菊水作戦]]が開始されると出撃前の食事はさらに豪勢になり、何段も重なった豪華な幕の内弁当やデザートの[[ゼリー]]の他に、酒も[[ワイン]]、ウィスキーの角瓶などが準備され、[[沢の鶴]]の樽酒も軍司令官から届けられた。また[[皇室]]からは[[菊花紋章|菊の御紋]]入りのタバコも支給された。しかし、そのような豪勢な食事でも喉を通らず、ただ酒をあおる特攻隊員も多かったという<ref name="名前なし_4-20240629114902">{{Harvnb|佐藤早苗|2007|p=142}}</ref>。 |
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普段の食事についても、物資は優先的に供給され、食事や酒には全く事欠かず、白米、肉、魚など特別メニューが与えられ<ref name="名前なし_4-20240629114902"/>、土曜日には[[海軍カレー]]も出されていた<ref>{{Cite interview |language=ja |subject=江名武彦 |interviewer=直井裕太 |date=2014-01-01 |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2014/01/01/24093/ |title=元特攻隊員だけど何か質問ある?【第1回】江名武彦さんの場合 |work=週プレNEWS |publisher=集英社 |accessdate=2024-05-18}}</ref>。[[鹿児島県]][[囎唹郡]][[月野村]]と[[岩川町 (鹿児島県)|岩川町]](現・[[曽於市]])にあった特攻[[秘匿飛行場]]岩川基地に配置されていた、[[詫間海軍航空隊|西条海軍航空隊]]分遣隊の白菊特攻隊と<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=268}}</ref>、夜間戦闘機隊ながら、硫黄島の戦いや沖縄戦で特攻出撃を繰り返していた芙蓉部隊の食事は極めて豪勢なもので、牛肉の[[大和煮]]、[[ベニザケ|紅鮭]]、[[サンマ]]、[[イカ]]、[[ニンジン]]、[[ゴボウ]]などの罐詰やコーヒーや紅茶といった嗜好品の他に、当時の日本では贅沢品であった[[コンビーフ]]も大量にあった<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|pp=329-330}}</ref>。また、豊富な軍の支給食料以外でも、農地のなかにあった岩川基地には、周囲の農家から大量の農産品の差し入れがあり、差し入れ品のなかには、当時貴重であった[[鶏卵]]の他に、牛一頭という豪快な差し入れもあり、[[ステーキ]]にして食べていた<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=208}}</ref>。しかし、岩川は土地柄で酒類が[[芋焼酎]]しかなく、匂いになれない隊員からは不満も出ていた<ref>{{Harvnb|吉野泰貴|2012|p=180}}</ref>。飲酒については比較的自由で、出撃前に大宴会を開いて深酒して二日酔いの状態で出撃することもあったという<ref>{{Harvnb|肥田真幸|2016|p=368}}</ref>。また、芙蓉部隊は、菊水七号作戦で日本陸海軍が空挺特攻隊[[義烈空挺隊]]まで投入して、アメリカ軍飛行場や艦船を総攻撃していたときに、指揮官の美濃部の提案で[[ホタル|蛍狩り]]をしながら酒宴を楽しんでいたこともあった<ref>{{Harvnb|石川真理子|2016|p=237}}</ref>。 |
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普段の生活でも、特攻隊員は他の部隊の兵士と比較すると自由が与えられていた。出撃までは、航空機の操縦訓練やアメリカ艦艇のシルエットを見て艦名を覚えるなどの座学で過ごしていたが、自由時間も多く、はバレーボールや野球といったスポーツも盛んに行っていた。休暇も与えられ、みんなで映画を観に行ったり、遠くの親戚を訪ねる隊員もいた。また、軍の後援者が自宅を隊員に開放しており(海軍は下宿やクラブと呼んでいた)後援者の家で御馳走になったりして自由に休日を楽しんでいた<ref>{{Harvnb|最後の証言2013|p=37}}</ref>。休暇は連続して取得することもでき、実家に帰ることも許されていた<!--。また、検閲なしで自由に郵便を送ることもできた(出典とする記事に郵便に関する記述はないようです)--><ref>{{Cite interview |language=ja |subject=手塚久四 |interviewer=直井裕太 |date=2014-08-11 |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2014/08/11/33818/ |title=元特攻隊員だけど何か質問ある?【第4回】手塚久四さんの場合 |work=週プレNEWS |publisher=集英社 |accessdate=2024-05-18}}</ref>。 |
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兵舎内の生活も自由で、特攻隊員は思い思いに麻雀や花札、ときには[[コックリさん]]で自分の出撃日を占うなど自由気ままに過ごしていた<ref>{{Harvnb|桑原敬一|2006|p=170}}</ref>。外出も自由であり、しばしば外出をして他の特攻隊員と共に深夜まで、小料理屋で宴会を開いていた<ref>{{Harvnb|桑原敬一|2006|p=87}}</ref>。兵舎内での飲酒も自由であったが、しかし自由が度を越して、一部の特攻隊員は白昼から泥酔し抜刀して暴れたり、婦女に[[不同意性交等罪|強制性交]]を迫る者もいた。しかし、[[憲兵]]は航空隊参謀より、特攻隊員は明日なき命なのだから好きなことをさせよとの指示を受けており、そういった一部特攻隊員の素行不良を見て見ぬふりをしていたという<ref>{{Harvnb|西川吉光|2009|pp=123-126}}</ref>。 |
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特攻隊員に対して、出撃の恐怖を和らげるためとか、志願を強制するために、軍が[[メタンフェタミン|ヒロポン]](メタンフェタミン)<ref group="注">ヒロポン({{Lang|en|Philopon}}) は、[[大日本製薬]](現・[[住友ファーマ]])販売のメタンフェタミン製剤の商品名であり、のちに「ヒロポン」が最大のシェアを確保したため「ヒロポン」という商品名がアンフェタミン系をも含む覚醒剤の代名詞となっている。</ref>{{sfn|ぺルビチンと独日関係|2022|p=611}}を利用していたという誤った主張がされることがあるが<ref>{{cite news ja |title=これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡|newspaper=47NEWS|author=真下周|date=2021-8-15|publisher=共同通信|url=https://nordot.app/798767547706327040|access-date=2022-8-26}}</ref>、この主張に対しては、日本軍の[[戦争犯罪]]研究の権威である歴史学者[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]が、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」と史実とは異なると指摘されている<ref>{{Cite web ja |url=https://jinkotsu731.web.fc2.com/datas/lecture_record/20070722-lec01.htm |title=「医学史から見た戦争と軍隊」吉田 裕(一橋大学教授) |publisher=軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会 |date=2007-7-22 |access-date=2024-5-18}}</ref>。 |
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軍隊によるメタンフェタミンの使用は、第二次世界大戦に日本軍が参戦前の、1940年5月の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]で[[ナチス・ドイツ]]が大々的に使用しており<ref>{{cite news |title=High Hitler: how Nazi drug abuse steered the course of history |newspaper=[[ガーディアン|Guardian News & Media Limited]] |last=Cooke |first=Rachel |date=2016-09-15 |url=https://www.theguardian.com/books/2016/sep/25/blitzed-norman-ohler-adolf-hitler-nazi-drug-abuse-interview |language=en |access-date=2024-05-18}}</ref>。さらに航空作戦においても、[[バトルオブブリテン]]で[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]が、疲労回復と長時間の覚醒のためにパイロットに対してメタンフェタミン製剤「ぺルビチン」を大量に支給している<ref>{{Cite web |last=Ryan |first=Matthew |date=2016-10-20 |url=https://worldwarwings.com/the-hidden-risk-faced-by-german-pilots-during-wwii/ |title=The Hidden Risk Faced By German Pilots During WWII |access-date=2022-8-26 |website=World War Wings |language=en}}</ref>。一方で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側では、同じ覚醒剤の[[アンフェタミン]]が広く利用され、特に長距離飛行が任務の爆撃機パイロットに愛用された。アメリカ軍では第二次世界大戦後も使用が継続され、[[湾岸戦争]]や[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン戦争]]でも広く使用されている<ref>{{cite news |title='Go' pills for F-16 pilots get close look / Amphetamines prescribed in mission that killed Canadians |newspaper=SFGATE |last=Miller |first=Greg |date=2003-01-04 |agency=[[ロサンゼルス・タイムズ|Los Angeles Times]] |url=https://www.sfgate.com/news/article/go-pills-for-f-16-pilots-get-close-look-2687644.php |language=en |access-date=2024-05-19}}</ref>。 |
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このように、メタンフェタミンやアンフェタミンなどの覚醒剤は世界中の参戦国で、主に眠気覚ましや疲労回復のために使用されていたが、1941年12月8日に参戦した日本軍も他国に追随してメタンフェタミンの戦争利用を行った。特に同盟国ドイツ空軍での使用例を参考に、眠気覚ましとして、1943年には[[陸軍航空技術研究所]]がメタンフェタミン入りチョコレートを製作している{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=16}}。一方で海軍では、メタンフェタミン入りチョコレート製作の事実はなく、大東製薬工業(戦後に[[大東カカオ]]に商号変更)がカフェイン入りチョコレート「居眠り防止食」を製造している{{sfn|チョコレートの世界史|2010|p=227}}。従って、一部のマスコミが「特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか」などと主張している<ref>{{cite news ja |title=特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか…記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言 |newspaper=TBS NEWS DIG |agency=毎日放送 |date=2022-08-17 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/127277 |access-date=2024-05-18}}</ref>のは完全な事実誤認で、メタンフェタミン入りチョコレートは特攻が開始される1年前には製造が開始されていたため、特攻隊員専用の支給品ではありえない{{sfn|日本空軍が創った機能性食品|p=16}}。 |
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そもそも、日本においてメタンフェタミンによる[[精神刺激薬精神病]]が広く認識されたのは、戦後しばらく経過した後の覚醒剤乱用期以降であり、戦時中は政府により販売認可されていた薬品のひとつに過ぎなかったうえ、メタンフェタミン摂取による精神への影響はほとんど明らかになっていなかった{{sfn|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996|p=63}}。従って、戦時中のメタンフェタミンの使用について日本政府の公式見解は、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」との[[厚生省]]薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する国会での質疑応答の通り、「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった<ref name="名前なし_3-20231105133521">第7回衆議院厚生委員会第11号 1950年3月9日 星野政府委員答弁</ref>。特攻とヒロポンについて調査のうえに出版された『ヒロポンと特攻--太平洋戦争の日本軍』という専門書においても、「ヒロポン入りチョコレート」を食べたという特攻隊員の証言や記録は見つからなかったとの記述がある{{sfn|相可文代|2023|p=86}}。 |
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{{See also|メタンフェタミン#ヒロポンと特別攻撃隊}} |
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=== 戦死者 === |
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{| class="wikitable" |
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|+ |海軍特攻戦没者数と構成率<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1990|p=131}}</ref> |
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!階級||戦没者数||構成比率 |
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|[[役種|現役]][[士官]]/[[将校]]||121名||4.8% |
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|[[海軍予備員|予備学生]]||648名||25.6% |
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|- |
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|[[特務士官]]・[[准士官]]・[[下士官]]兵||1,762名||69.6% |
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|- |
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|合計||2,531名||100% |
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|} |
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{| class="wikitable" |
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|+ |大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率<ref name="Harvnb|戦史叢書95|loc=付表">{{Harvnb|戦史叢書95|loc=付表}}</ref> |
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!階級||1945年4月1日時点||構成比率 ||1945年7月1日時点||構成比率 |
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|現役士官/将校||1,269名||5.3%||1,036名||4.7% |
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|- |
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|予備学生||5,944名||25.0%||5,530名||24.8% |
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|- |
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|特務士官・准士官・下士官兵||16,616名||69.7%||15,711名||70.5% |
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|- |
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|合計||23,829名||100%||22,277名||100% |
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|} |
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「身内の、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という意見があるが<ref name="gendai.ismedia.jp"/>、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、[[学徒出陣]]などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある<ref name="gendai.ismedia.jp"/>。 |
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{| class="wikitable" |
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|+ |飛行学生(海軍兵学校卒)と飛行予備学生の戦没率の対比<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=210}}</ref> |
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!||飛行学生||飛行予備学生 |
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|人員総数||1,945名||10,778名 |
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|戦没者||1,103名||2,464名 |
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|内特攻死||108名||652名 |
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|内殉職||142名||386名 |
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|'''戦没率'''||'''56.7%'''||'''22.9%''' |
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|} |
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海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も第55期 - 第65期までの100名 - 150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。第66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、第70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した第74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵第68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵第69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、第70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、第71期は581名中329名の56.6%、第72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており <ref>{{Harvnb|海軍兵学校連合クラス会|2018|p=86}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=http://www.naniwa-navy.com/senboturitu1.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20130420024514/http://www.naniwa-navy.com/senboturitu1.html |archive-date=2013-04-20 |title=海軍三校入試状況及び戦没情況調べ(自 昭和 9年 至 昭和20年) |publisher=なにわ会 |access-date=2016-12-26}}</ref>、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、[[艦上爆撃機|艦爆]]搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=76}}</ref>。 |
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海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・[[旧制高等学校]]・[[旧制専門学校]]卒業見込生という基準を緩和して、旧制[[師範学校]]の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=9}}</ref>。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=10}}</ref>。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた<ref name="Harvnb|戦史叢書95|loc=付表"/>。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが<ref name="陰山慶一 1987 209">{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=209}}</ref>、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった<ref name="gendai.ismedia.jp"/> |
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しかし、[[筑波海軍航空隊]]のように、海軍兵学校卒の航空士官の教官多数が所属していたのに、特攻隊を編成するにあたって、一人も海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願しなかったこともあった。これは、訓練航空隊である筑波海軍航空隊は、戦闘機乗りは戦闘機で敵機と渡り合うのが任務という信念が強く、敵艦に体当たりするだけの特攻には反対という機運が航空隊全体に強かったためとする意見もあるが、筑波海軍航空隊で特攻志願して、第一筑波隊から第五筑波隊として選抜された64名の飛行予備学生の中には不思議に思うものもいたという<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=195}}</ref>。その後、沖縄戦の戦局が緊迫すると、2名の海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願して戦没している<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=197}}</ref>。筑波海軍航空隊の例のように「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」など飛行予備学生が不満や不信を抱くことはあった。[[長岡高等工業学校]](現・[[新潟大学]])から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、当時を振り返って「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきた[[コレス]]の(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と海軍兵学校卒の航空士官に対してわだかまりはないと述べる者もいる<ref name="陰山慶一 1987 209"/>。 |
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=== 名称と発表 === |
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[[ファイル:Shashin Shuho No 347.jpg|thumb|220px|right|関行男大尉の特攻を報じる『[[写真週報]]』]] |
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「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の[[猪口力平]]中佐によれば、郷里の道場「'''神風(しんぷう)'''流」から取ったものである<ref>{{Harvnb|金子敏夫|2005|pp=52-53}}</ref>。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長[[玉井浅一]]中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|pp=112-113}}</ref> |
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しかし、[[大西瀧治郎]]中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた<ref>{{Harvnb|大野芳|1980|pp=222-223}}</ref>。また、[[海軍省]]による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、[[軍令部]]から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長[[中沢佑]]少将、起案は軍令部航空部員[[源田実]]中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている<ref>{{Harvnb|戦史叢書56|1972|pp=108-109}}</ref><ref>{{Harvnb|戦史叢書45|1971|pp=503-504, 538}}</ref>。特攻隊の編成命令を起案した[[門司親徳]](大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという<ref name="御田p32">御田重宝『特攻』(講談社)32頁</ref><ref>{{Harvnb|神立尚紀|2011|pp=126-127}}</ref>。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している<ref name="御田p32" />。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。 |
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この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣[[米内光政]]大将と軍令部総長[[及川古志郎]]によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある<ref>{{Harvnb|大野芳|1980|p=306}}</ref>。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982a|p=144}}</ref>。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった<ref>{{Harvnb|大野芳|1980|pp=56-58}}</ref>。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。 |
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{{quotation|<poem> |
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海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。 |
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布告 |
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戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫 |
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同 海軍飛行兵長 永峰 肇 |
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戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男 |
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神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、 |
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必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。 |
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昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武 |
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</poem>}} |
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== 連合軍による評価 == |
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[[ファイル:Vice Admiral Marc A. Mitscher is highlined to USS Randolph (CV-15) on 15 May 1945 (80-G-320987).jpg|thumb|220px|right|旗艦の正規空母「バンカーヒル」と正規空母「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」が続けて特攻で大破したため、3隻目の旗艦となる正規空母「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」に移動する第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将。]] |
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神風特別攻撃隊が編成されるまでの日本軍航空部隊は質・量ともに連合軍に圧倒されており、その評価も非常に低いものとなっていた。アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」と酷評されていたが<ref name="eojcap">{{Cite web |url=https://www.anesi.com/ussbs01.htm#eojcap |title=UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY SUMMARY REPORT(Pacific War) |website=Chuck Anesi's Home Page |publisher=WASHINGTON, D.C. |accessdate=2023-10-07}}</ref>、特攻により連合軍艦隊が大損害を被ると、その評価は一転し、戦争の先行きに大きな不安を抱くようになった。その与えた衝撃の大きさからか、特攻に対しては、軍の公式報告や記録や、軍高官から最前線の将兵からアメリカ合衆国大統領に至るまで多くの評価がなされており、それを列挙する。 |
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{{quotation|([[ウィンストン・チャーチル]][[イギリス首相]]に対して)カミカゼが連合軍艦隊に与えている死傷者を懸念し、戦争の早期終結への期待が低下している。|[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]<ref>{{Cite web |url=https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/wars-conflicts-and-operations/world-war-ii/1945/battle-of-okinawa/antiaircraft-problem.html |title=“The Most Difficult Antiaircraft Problem Yet Faced By the Fleet”: U.S. Navy vs. Kamikazes at Okinawa|publisher=海軍歴史遺産司令部 |accessdate=2023-10-07}}</ref>}} |
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{{quotation|日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器は特攻機で、戦争末期の数か月間に、日本陸海軍の航空隊が連合軍艦艇に対して広範囲で使用した。|[[米国戦略爆撃調査団]]{{sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=157}}}} |
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{{quotation|アメリカにとって、カミカゼによって被った実際の損失は深刻であり、深刻な懸念を引き起こした。カミカゼに対抗するため、[[B-29 (航空機)|B-29]]の2,000回の出撃が、日本の都市や産業への戦略爆撃から九州の神風飛行場への攻撃に転用された。日本軍がより強力で集中的なカミカゼ攻撃を維持できていれば、アメリカ軍は撤退するか、戦略計画の修正を余儀なくされたかも知れない。|米国戦略爆撃調査団<ref name="eojcap" />}} |
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{{quotation|(特攻開始によって)日本軍はアメリカ海軍がこれまでに遭遇したもっとも新しく、かつもっとも恐るべき問題を提起した。この捕捉し難い接近と自殺攻撃は、[[ジャップ]]の狂信的精神のみならず、それよりはるかに危険なことには、(アメリカ海軍の)防空戦術やレーダーによる複雑な航空管制について完全に理解しているパイロットが(特攻に)志願していることだ。カミカゼに対するもっとも有効な対策は、日本軍がパイロット切れになることである。|アメリカ海軍諜報部{{sfn|ウォーナー|1982a|p=295}}}} |
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{{quotation|特攻機が[[レーダーピケット艦]]を1隻ずつ狙い撃ちにしており、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、アメリカが投入可能な駆逐艦および護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある。|[[フォレスト・シャーマン]][[アメリカ海軍作戦部長]]<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=203}}</ref>}} |
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{{quotation|沖縄作戦は攻撃側にとってまことに高価なものであった。我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9,000名が死傷または行方不明になった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機の攻撃によって生じたものである。|チェスター・ニミッツ[[元帥]]<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=445}}</ref><ref>{{Harvnb|北影雄幸|2005|p=13}}</ref>}} |
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{{quotation|(レイテ沖海戦で)神風特別攻撃隊が初めて本格的に姿を現した。この驚くべき出現は連合軍の海軍司令官たちをかなりの不安に陥れ、連合軍艦隊の艦艇が至るところで撃破された。空母群はこの非常に危険なカミカゼ攻撃に対抗するため、戦闘機を空母自体の防衛にまわさなければならず、そのためレイテの地上部隊の掩護には手が回らなくなっていた。|[[ダグラス・マッカーサー]][[元帥]]<ref>{{Harvnb|マッカーサー|2014|p=290}}</ref>}} |
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{{quotation|特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返しているアメリカ陸軍の重爆撃機隊のやり方とはまったく対照的である。 |
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私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。特攻機がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。|[[レイモンド・スプルーアンス]]提督<ref name="名前なし-20231105131726"/>}} |
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{{quotation|(艦上戦闘機の増強を)緊急に要請します。特攻は、もし対抗しなければ、こちらの空母と貴官(ニミッツ)の将来の作戦にとって由々しき脅威であります。対抗するにはさらに多くの戦闘機が必要であり、定数を増やす以外に、さらなる戦闘機は見つかりません。|[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア|ウィリアム・ハルゼー]]提督<ref>{{Harvnb|トール|2022a|loc=電子版, 位置No.602}}</ref>}} |
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{{quotation|ジミー(作戦参謀ジェイムズ・フラットリー)、空母群の指揮官たちに、もしジャップがこの調子で(カミカゼ攻撃を)続けるのなら、連中はそのうち私の頭に髪の毛を生やすだろうと言ってくれ。|[[マーク・ミッチャー]]中将<ref>{{Harvnb|トール|2022b|loc=電子版, 位置No.336}}</ref>}} |
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{{quotation|我が艦<ref group="注">護衛空母「[[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]]」のこと。1945年5月4日に特攻により大破して戦線離脱しそのまま除籍された。</ref>の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう。|マルカム・ハーバード・マックガン大尉(護衛空母「[[サンガモン (護衛空母)|サンガモン]]」所属の戦闘機パイロット){{sfn|ウォーナー|1982b|p=141}}}} |
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{{quotation|カミカゼパイロットは、僕らと僕らの艦、それに自分自身を滅ぼしたがっている。いったいどういう相手と戦っているのか、これでよくわかるってもんだ。ヨーロッパ戦線での空襲なんて、ここで僕らが日本軍相手にやっていることに比べれば、なまっちょろいもんだ。ドイツもそりゃ頑張った。だが、日本ほどじゃない。|ジェームズ・J・フェーイ上等水兵(軽巡洋艦「[[モントピリア (軽巡洋艦)|モントピリア]]」に乗艦){{sfn|フェーイー|1994|p=199}}}} |
|||
== 神風特攻隊の一覧 == |
== 神風特攻隊の一覧 == |
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{{See|出撃した特攻隊の一覧}} |
{{See|出撃した特攻隊の一覧}} |
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== |
==脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist|group="注"}} |
{{Reflist|group="注"}} |
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== |
=== 出典 === |
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{{Reflist| |
{{Reflist|3 |
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|refs= |
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<ref name="城日記04">『[[#城日記|城英一郎日記]]』4-5頁</ref> |
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<ref name="城日記05">『[[#城日記|城英一郎日記]]』5-6頁</ref> |
|||
<ref name="城日記08">『[[#城日記|城英一郎日記]]』8-9頁</ref> |
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<ref name="城日記10">『[[#城日記|城英一郎日記]]』10-11頁</ref> |
|||
<ref name="城日記281">『[[#城日記|城英一郎日記]]』281-283頁、「(昭和18年)六月五日(土)曇」</ref> |
|||
<ref name="城日記294">『[[#城日記|城英一郎日記]]』294頁、「(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨」</ref> |
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}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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; 日本国内(翻訳書を除く) |
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{{commonscat|Kamikaze}} |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]([[防衛省]][[防衛研究所]]) |
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{{ウィキプロジェクトリンク|軍事史|[[File:Gladii.svg|35px]]}} |
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{{ウィキプロジェクトリンク|太平洋戦争|[[File:Yamato battleship under construction.jpg|43px]]}} |
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* {{cite journal|和書|author =青木秀男|title =殉国と投企―特攻隊員の必死の構造 (特集 戦争と人間)|year=2008|journal =理論と動態 |volume =1|pages =72-90 |issn=21854432|ref =harv }} |
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* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120722800|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(1)特攻作戦の特質|ref=特攻特質}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120722800|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(1)特攻作戦の特質|ref=特攻特質}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120722900|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(2)航空特攻作戦|ref=航空特攻}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120722900|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(2)航空特攻作戦|ref=航空特攻}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723000|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(3)海上特攻作戦|ref=海上特攻}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723000|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(3)海上特攻作戦|ref=海上特攻}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723100|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(5)特攻の成果|ref=特攻成果}} |
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120723100|title=特攻作戦(海軍の部)資料 昭和22.10/(5)特攻の成果|ref=特攻成果}} |
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<!--個人の著作(著者名五十音順)--> |
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* 猪口力平・中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社 |
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*<!--イシカワ-->{{Cite book|和書|author=石川真理子|year=2016|title=五月の蛍 |publisher=内外出版社 |isbn=978-4862572899|ref={{SfnRef|石川真理子|2016}} }} |
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* {{Cite book |和書 |last=上野|first=文枝 |year=2017 |chapter=神風 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url= https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8-466369#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |ref=harv }} |
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*<!--イチノセ-->{{Cite book |和書 |author=一ノ瀬俊也 |authorlink=一ノ瀬俊也 |year=2020 |title=特攻隊員の現実 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] 2557 |isbn=978-4065184400|ref={{SfnRef|一ノ瀬俊也|2020}}}} |
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*<!--イノクチ-->{{Cite book |和書 |author1=猪口力平|authorlink1=猪口力平|author2=中島正|authorlink2=中島正|year=1951 |title=神風特別攻撃隊 |publisher=日本出版協同 |doi=10.11501/1659598 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|猪口|中島|1951}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author1=猪口力平|author2=中島正|year=1963 |title=神風特別攻撃隊の記録 |publisher=雪華社 |doi=10.11501/1671702 |ref={{SfnRef|猪口|中島|1963}}}} |
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*<!--イワダレ-->{{Cite book|和書|author=岩垂荘二 |title=50年前日本空軍が創った機能性食品 その規格と資料「抜粋」 |publisher=光琳 |date=1992 |NCID=BN09759779 |ISBN=4771292035 |id={{全国書誌番号|92054931}} |ref={{harvid|日本空軍が創った機能性食品}}}} |
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*<!--ウガキ-->{{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|year=1953|title=戦藻録 |volume=後編 |publisher=日本出版協同 |doi=10.11501/1660395 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|宇垣纏|1953}} }} |
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*<!--オイデ-->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=2017|title=特攻長官 大西瀧治郎―負けて目ざめる道|publisher=[[潮書房光人新社|潮書房光人社]] |series=光人社NF文庫 |origyear=1993 |isbn=978-4769830320|ref={{SfnRef|生出寿|2017}} }} |
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*<!--オオオカ-->{{Cite book |和書 |author=大岡昇平|authorlink=大岡昇平 |year=1974 |title=レイテ戦記 |volume=上巻 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4122001329|ref={{SfnRef|大岡昇平|1974a}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=大岡昇平 |year=1974 |title=レイテ戦記 |volume=中巻 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122001411|ref={{SfnRef|大岡昇平|1974b}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=大岡昇平 |year=1974 |title=レイテ戦記 |volume=下巻 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122001527|ref={{SfnRef|大岡昇平|1974c}}}} |
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*<!--オオカ-->{{Cite book |和書 |author=相可文代 |year=2023 |title=ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 |publisher=[[論創社]] |isbn=978-4846022310 |ref={{SfnRef|相可文代|2023}}}} |
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*<!--オオシマ-->{{Cite book |和書 |author=大島隆之|authorlink=大島隆之 |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }} |
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*<!--オオノ-->{{Cite book |和書 |author=大野芳 |authorlink=大野芳 |year=1980 |title=神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う |publisher=[[扶桑社|サンケイ出版]] |doi=10.11501/12398657 |ref=harv}} |
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*<!--オクミヤ-->{{Cite book |和書 |author=奥宮正武|authorlink=奥宮正武 |year=1996 |title=日本海軍が敗れた日 |volume=下 レイテ沖海戦とその後 |publisher=[[PHP研究所]] |origyear=1993 |isbn=978-4569569581 |ref={{SfnRef|奥宮正武|1996}}}} |
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*<!--オシオ-->{{Cite book |和書 |author=押尾一彦|authorlink=押尾一彦 |year=2005 |title=特別攻撃隊の記録 陸軍編 |publisher=[[潮書房光人新社|光人社]]|isbn=978-4769812272 |ref={{SfnRef|押尾一彦|2005}} }} |
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*<!--カトウ-->{{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |isbn=4054042023 |ref=harv}} |
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*<!--カゲヤマ-->{{Cite book |和書 |author=陰山慶一|year=1987|title=海軍飛行科予備学生よもやま物語 |publisher=光人社 |isbn=978-4769803485 |ref={{SfnRef|陰山慶一|1987}} }} |
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*<!--カネコ-->{{Cite book |和書 |author=金子敏夫 |year=2005 |title=神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2465-3 |ref=harv}} |
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*<!--キタカゲ-->{{Cite book |和書 |author=北影雄幸|authorlink=北影雄幸 |year=2005 |title=特攻の本 これだけは読んでおきたい |publisher=光人社 |isbn=476981271X |ref={{SfnRef|北影雄幸|2005}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=北影雄幸 |year=2011 |title=特攻隊員語録―祖国に殉じた若者たちの真情 |publisher=光人社 |isbn=978-4769815020 |ref={{SfnRef|北影雄幸|2011}}}} |
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*<!--キマタ-->{{Cite book |和書 |author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎 |year=1993 |title=日本潜水艦戦史 |publisher=図書出版社 |isbn=4809901785 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2001 |title=桜花特攻隊 知られざる人間爆弾の悲劇 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769823169 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2000 |title=高速爆撃機「銀河」 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769822684 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2000}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2013 |title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2013}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2014 |title=日本特攻艇戦史 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴 |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref=harv}} |
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*<!--クサカ-->{{Cite book |和書 |author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介 |year=1979 |title=連合艦隊参謀長の回想 |publisher=光和堂 |isbn=4875380399 |ref={{SfnRef|草鹿龍之介|1979}}}} |
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*<!--クサヤナギ-->{{Cite book |和書 |author=草柳大蔵|authorlink=草柳大蔵 |year=2006 |title=特攻の思想―大西瀧治郎伝 |publisher=[[グラフ社]]|isbn=978-4766209532 |ref={{SfnRef|草柳大蔵|2006}}}} |
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*<!--クワハラ-->{{Cite book |和書 |author=桑原敬一 |year=2006 |title=語られざる特攻基地・串良 生還した「特攻」隊員の告白 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春文庫]] |isbn=4167717026 |ref=harv}} |
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*<!--コウダチ-->{{Cite book |和書 |author=神立尚紀 |authorlink=神立尚紀 |year=2004 |title=戦士の肖像 |publisher=文春ネスコ |isbn=4-89036-206-1 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=神立尚紀 |year=2011 |title=特攻の真意─大西瀧治郎 和平へのメッセージ |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-374380-6 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=神立尚紀 |year=2015 |title=ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後 |publisher=講談社 |isbn=978-4-06-219634-5 |ref=harv}} |
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*<!--サカイ-->{{Cite book|和書|author=境克彦|year=2017|title=特攻セズ―美濃部正の生涯 |publisher=方丈社 |isbn=978-4908925160|ref={{SfnRef|境克彦|2017}} }} |
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*<!--サトウ-->{{Cite book |和書 |author=佐藤早苗 |authorlink=佐藤早苗 |year=2007 |title=特攻の町・知覧 <small>最前線基地を彩った日本人の生と死</small> |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769808291 |ref={{SfnRef|佐藤早苗|2007}} }} |
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*<!--シマハラ-->{{Cite book |和書 |author=島原落穂|authorlink=島原落穂 |year=1990 |title=海に消えた56人―海軍特攻隊・徳島白菊隊 |publisher=[[童心社]] |isbn=4494018147 |ref={{SfnRef|島原落穂|1990}} }} |
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*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|editor=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=[[山川出版社]]|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} |
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*<!--シロヤマ-->{{Cite book |和書 |author=城山三郎|authorlink=城山三郎 |year=2004 |title=指揮官たちの特攻: 幸福は花びらのごとく |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮文庫]] |isbn=978-4101133287 |ref={{SfnRef|城山三郎|2004}}}} |
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*<!--タカギ-->{{Cite book |和書 |author=高木俊朗|authorlink=高木俊朗 |year=2018 |title=陸軍特別攻撃隊 |volume=1 |publisher=文藝春秋 |series=文春学藝ライブラリー 歴史31 |origyear=1986 |isbn=978-4168130779|ref={{SfnRef|高木俊朗|2018}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=高木俊朗|year=2019 |title=陸軍特別攻撃隊 |volume=2 |publisher=文藝春秋 |series=文春学藝ライブラリー 歴史32 |isbn=978-4168130786|ref={{SfnRef|高木俊朗|2019a}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=高木俊朗|year=2019 |title=陸軍特別攻撃隊 |volume=3 |publisher=文藝春秋 |origyear=1986 |series=文春学藝ライブラリー 歴史33 |isbn=978-4168130793|ref={{SfnRef|高木俊朗|2019b}}}} |
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*<!--タケダ-->{{Cite book |和書 |author=武田尚子 |authorlink=武田尚子 (社会学者) |year=2010 |title=チョコレートの世界史 近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石 |publisher=中央公論新社 |series=[[中公新書]] 2088 |isbn=978-4121020888 |ref={{SfnRef|チョコレートの世界史|2010}}}} |
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*<!--チハヤ-->{{Cite book |和書 |author=千早正隆ほか |authorlink=千早正隆 |year=1994 |title=日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓 |publisher=[[プレジデント社]] |isbn=4-8334-1530-5 |ref={{SfnRef|千早ほか|1994}} }} |
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*<!--ドモン-->{{Cite book |和書 |author=土門周平ほか|authorlink=土門周平 |year=2015 |title=本土決戦―幻の防衛作戦と米軍進攻計画 |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |edition=新装版 |isbn=978-4769829096|ref={{SfnRef|土門周平|2015}} }} |
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*<!--トヨダ-->{{Cite book |和書 |author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=1978 |title=撃墜 太平洋航空戦記 |publisher=[[集英社]] |series=[[集英社文庫]] |doi=10.11501/12564219 |asin=B00LG93L6O |ref={{SfnRef|豊田穣|1978}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=豊田穣 |year=1979 |title=出撃 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |doi=10.11501/12564241 |asin=B00LG93LA0 |ref={{SfnRef|豊田穣|1979}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=豊田穣|year=1980 |title=海軍特別攻撃隊 特攻戦記 |publisher=集英社 |series=集英社文庫 |doi=10.11501/12564262 |asin=B00LG93LIM |ref={{SfnRef|豊田穣|1980}} }} |
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*<!--トヨダ-->{{Cite book |和書 |author=豊田副武|authorlink=豊田副武 |year=2017 |title=最後の帝国海軍 - 軍令部総長の証言 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122064362 |ref={{SfnRef|豊田副武|2017}}}} |
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*<!--ニシカワ-->{{Cite book |和書 |author=西川吉光 |year=2009 |title=特攻と日本人の戦争 許されざる作戦の実相と遺訓 |publisher=芙蓉書房出版 |isbn=978-4829504635 |ref=harv}} |
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*<!--ノハラ-->{{Cite book |和書 |author=野原一夫|authorlink=野原一夫 |year=1987 |title=宇垣特攻軍団の最期 |publisher=講談社|isbn=978-4062026086 |ref={{SfnRef|野原一夫|1987}}}} |
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*<!--ハタ-->{{Cite book |和書 |author=秦郁彦 |authorlink=秦郁彦 |year=1999 |title=昭和史の謎を追う |volume=下 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4-16-745305-3 |ref=harv}} |
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*<!--ハタナカ-->{{Cite book |和書 |author=畑中丁奎 |title=戦争の罪と罰 特攻の真相 |year=2015 |publisher=芙蓉書房出版 |location=東京都 |isbn=9784829506561 |ref=harv }} |
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*<!--ハラ-->{{Cite book |和書 |author=原勝洋|authorlink=原勝洋 |year=2004 |title=真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日 |publisher=[[ベストセラーズ]] |isbn=4584187991 |ref=harv}} |
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*<!--ヒダ-->{{Cite book|和書|author=肥田真幸|authorlink=肥田真幸|year=2016|title=艦攻艦爆隊|publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫|isbn= 978-4769831266|ref={{SfnRef|肥田真幸|2016}} }} |
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*<!--ホンダ-->{{Cite book |和書 |author=本田稔 |authorlink=本田稔 |year=2004|title=私はラバウルの撃墜王だった―証言・昭和の戦争 |edition=新装版 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769820901 |ref={{SfnRef|本田稔|2004}} }} |
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*<!--モジ-->{{Cite book |和書 |author=門司親徳|authorlink=門司親徳 |year=1978 |title=空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想 |publisher=毎日新聞社 |doi=10.11501/12399511<!--|asin=B000J8KLWA(このASINコードは光人社文庫版のもの)-->|ref={{SfnRef|門司親徳|1978}}}} |
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*<!--モリ-->{{Citation |和書|author=森史朗 |authorlink=森史朗 |year=2003a |title=敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 |volume=上 |edition= |series=文春文庫 |publisher=文藝春秋 |isbn=4-16-765673-6 |ref={{SfnRef|森史朗|2003a}}}} |
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* {{Citation |和書|author=森史朗 |year=2003b |title=敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 |volume=下 |edition= |series=文春文庫 |publisher=文藝春秋 |isbn=4-16-765674-4 |ref={{SfnRef|森史朗|2003b}}}} |
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*{{Cite book |和書 |author=森史朗 |year=2006 |title=特攻とは何か |publisher=文藝春秋 |series=文春新書 |isbn=4-16-660515-1 |ref=harv}} |
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*<!--モリヤマ-->{{Cite book |和書 |author=森山康平 |editor=太平洋戦争研究会 |year=2003 |title=図説 特攻 太平洋戦争の戦場 |publisher=河出書房新社 |series=ふくろうの本 |isbn=4309760341 |ref={{SfnRef|図説特攻|2003}} }} |
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*<!--ヤスノブ-->{{Cite book |和書 |author=安延多計夫 |year=1960 |title=南溟の果てに 神風特別攻撃隊かく戦えり |publisher=自由アジア社 |doi=10.11501/1669963 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |和書 |author=安延多計夫 |others=[[富永謙吾|冨永謙吾]](監修) |year=1972 |title=神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦 |publisher=秋田書店 |series=写真で見る太平洋戦争 6 |doi=10.11501/12908865 |asin=B000JBQ7K2 |ref={{SfnRef|冨永|安延|1972}} }} |
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*<!--ヤハラ-->{{Cite book|和書|author=八原博通|authorlink=八原博通|title=沖縄決戦 高級参謀の手記|publisher=[[読売新聞社]]・[[中公文庫]]|date=1972・2015|ref={{SfnRef|八原博通|1972・2015}} }} |
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*<!--ヨシノ-->{{Cite book |和書 |author=吉野泰貴 |year=2012 |title=海軍戦闘第八一二飛行隊―日本海軍夜間戦闘機隊“芙蓉部隊”異聞 写真とイラストで追う航空戦史 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4499230964 |ref={{SfnRef|吉野泰貴|2012}} }} |
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*<!--ヨシモト-->{{Cite book |和書 |author=吉本貞昭 |year=2012 |title=世界が語る神風特別攻撃隊 カミカゼはなぜ世界で尊敬されるのか |publisher=ハート出版 |isbn=4892959111 |ref=harv}} |
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*<!--ワタナベ-->{{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2003 |title=彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769824041 |ref={{SfnRef|渡辺洋二|2003}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2007 |title=特攻の海と空―個人としての航空戦史 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=978-4167249151|ref={{SfnRef|渡辺洋二|2007}} }} |
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<!--団体による著作--> |
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* 防衛庁防衛研修所戦史室(編)[[戦史叢書|戦史叢書シリーズ]]([[朝雲新聞|朝雲新聞社]]) |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室|editor-link=防衛研究所 |year=1967 |title=ハワイ作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書10 |doi=10.11501/9581861 |ref={{SfnRef|戦史叢書10|1967}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1968 |title=沖縄方面海軍作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書17 |doi=10.11501/9581812 |ref={{SfnRef|戦史叢書17|1968}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1970 |title=沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書36 |doi=10.11501/13276573 |ref={{SfnRef|戦史叢書36|1970}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1971 |title=大本営海軍部・聯合艦隊 |volume=6 (第三段作戦後期) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書45 |doi=10.11501/13276530 |ref={{SfnRef|戦史叢書45|1971}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1971 |title=比島捷号陸軍航空作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書48 |doi=10.11501/13276578 |ref={{SfnRef|戦史叢書48|1971}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1972 |title=海軍捷号作戦 |volume=2(フィリピン沖海戦) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書56 |doi=10.11501/13276473 |ref={{SfnRef|戦史叢書56|1972}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1973 |title=大本營陸軍部 |volume=6 (昭和十八年六月まで)|publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書66 |doi=10.11501/9583059 |ref={{SfnRef|戦史叢書66|1973}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1975 |title=海軍軍戦備 |volume=2(開戦以後) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書88 |doi=10.11501/12018022 |ref={{SfnRef|戦史叢書88|1975}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1975 |title=大本営海軍部・聯合艦隊 |volume=7(戦争最終期) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書93 |doi=10.11501/12398323 |ref={{SfnRef|戦史叢書93|1975}} }} |
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** {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 |year=1975 |title=海軍航空概史 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書95 |doi=10.11501/12398641 |ref={{SfnRef|戦史叢書95|1975}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=特攻 最後の証言制作委員会 |year=2013 |title=特攻 最後の証言 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=4167838893 |ref={{SfnRef|最後の証言|2013}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=海軍兵学校連合クラス会 |year=2018|title=実録海軍兵学校 回想のネービーブルー |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769830689 |ref={{SfnRef|海軍兵学校連合クラス会|2018}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=日本海軍航空史編纂委員会 |year=1969 |title=日本海軍航空史 |volume=1 用兵篇 |publisher=[[時事通信社]] |doi=10.11501/12014864 |ref={{SfnRef|日本海軍航空史1|1969}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=日本海軍航空史編纂委員会 |year=1969 |title=日本海軍航空史 |volume=3 制度・技術篇 |publisher=時事通信社 |doi=10.11501/12014486 |ref={{SfnRef|日本海軍航空史3|1969}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |editor=「丸」編集部 |editor-link=丸 (雑誌) |year=2011 |title=特攻の記録 「十死零生」非情の作戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2675-0 |ref={{SfnRef|特攻の記録|2011}} }} |
|||
* {{Citation|和書 |year=1971|title=太平洋戦争ドキュメンタリー |volume=第23巻 神風特攻隊出撃の日 他4篇 |chapter=小野田政「神風特攻隊出撃の日」|publisher=[[今日の話題社]] |doi=10.11501/9583051 |asin=B000J9HY06|ref={{SfnRef|小野田政|1971}}}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=読売新聞社 |year=1967 |title=昭和史の天皇 |volume=1 |publisher=[[読売新聞社]] |doi=10.11501/3008704 |ref={{SfnRef|読売新聞社|1967}} }} |
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* {{Cite book|和書|title=アメリカの空母 |publisher=学習研究社|year=2006|month=2|series=[[歴史群像]] 太平洋戦史シリーズVol.53|isbn=4-05-604263-2 |ref={{SfnRef|歴史群像53|2006}}}} |
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<!--コトバンクを出典とするもの--> |
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* {{Cite book |和書 |author=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト |year=2017 |chapter=神風特別攻撃隊 |title=百科事典マイペディア|publisher=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A-46629#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |ref=harv }} |
* {{Cite book |和書 |author=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト |year=2017 |chapter=神風特別攻撃隊 |title=百科事典マイペディア|publisher=株式会社日立ソリューションズ・クリエイト・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A-46629#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 |ref=harv }} |
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* {{ |
* {{Cite book|和書|author =国史大辞典編集委員会|chapter=神風特別攻撃隊|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|year=2013|volume =三巻|edition=第一版第八刷|isbn=978-4-642-00503-6|ref =harv }} |
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* {{Cite book |和書 |last=松村|first=明 |year=2017 |chapter=特攻隊 |title=デジタル大辞泉 |publisher=小学館・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A-105377#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |ref=harv }} |
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*<!-- ジョウ -->{{Cite book|和書|author=城英一郎著|editor=野村実・編|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} |
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* {{Cite kotobank |word=神風 |author=上野文枝 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |access-date=2024-07-28}} |
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* 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 |
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* {{Cite kotobank |word=特攻隊 |author=吉田裕 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |access-date=2024-07-28}} |
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* 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 |
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* {{Cite kotobank |word=神風特別攻撃隊 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |access-date=2024-07-28 |ref={{SfnRef|kotobank-神風特別攻撃隊-a}} }} |
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* {{Cite book |和書 |last=松村|first=明 |year=2017 |chapter=特攻隊 |title=デジタル大辞泉 |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A-105377#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |ref=harv }} |
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* {{Cite kotobank |word=神風特別攻撃隊 |encyclopedia=百科事典マイペディア |access-date=2024-07-28 |ref={{SfnRef|kotobank-神風特別攻撃隊-b}} }} |
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* {{Cite book |和書 |last=吉田|first=裕 |year=2017 |chapter=特攻隊 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) |publisher=[[小学館]]・Kotobank |url= https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A-105377#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |ref=harv }} |
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* {{Cite kotobank |word=神風特別攻撃隊 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |access-date=2024-07-28 |ref={{SfnRef|kotobank-神風特別攻撃隊-c}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=Britannica Japan Co., Ltd. |year=2017 |chapter=神風特別攻撃隊 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|publisher=Britannica Japan Co., Ltd.・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A-46629#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |ref=harv }} |
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* {{Cite kotobank |word=特別攻撃隊 |encyclopedia=世界大百科事典(旧版) |access-date=2024-08-07 |ref={{SfnRef|kotobank-特別攻撃隊}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=Britannica Japan Co., Ltd. |year=2017 |chapter=特攻隊 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|publisher=Britannica Japan Co., Ltd.・Kotobank |url=https://kotobank.jp/word/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A-105377#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |ref=harv }} |
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; 雑誌 |
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*{{Cite magazine ja |author=新名丈夫 |author-link=新名丈夫 |title=特攻隊員の母 |date=September 1979 |magazine=特別攻撃隊 別冊1億人の昭和史 日本の戦史別巻4 |publisher=[[毎日新聞社]] |doi=10.11501/12398160 |asin=B007ZY6G8O|ref={{SfnRef|新名丈夫|1979}}}} |
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* {{Cite magazine ja |title=特集 第二次世界大戦のアメリカの空母 |magazine=[[世界の艦船]] |date=June 2016 |publisher=[[海人社]] |ref={{SfnRef|世界の艦船|2016}}}} |
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* {{Cite magazine ja |title=航空決戦と特攻隊 富永軍司令官比島脱出の真相 |magazine=[[丸 (雑誌)|丸]] |publisher=潮書房光人社 |date=May 1956 |ref={{SfnRef|丸編集部|1956}}}} |
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* {{Cite magazine ja |author=木俣滋郎 |author-link=木俣滋郎 |title=練習機、水上機まで投入した特攻作戦 |year=1986 |magazine=丸スペシャル No.108 神風特別攻撃隊 |publisher=光人社 |asin=B01LPE81SM |ref={{SfnRef|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986}} }} |
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* {{Cite magazine ja |title=検証 戦争の潮目はこの時変わった |magazine=[[歴史群像]]|publisher=学研|date=August 2015<!--通号132-->|ref={{SfnRef|歴史群像132|2015}}}} |
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; 論文 |
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* {{cite journal|和書|author =青木秀男|title =殉国と投企―特攻隊員の必死の構造 (特集 戦争と人間)|year=2008|journal =理論と動態 |volume =1|pages =72-90 |issn=21854432|ref =harv }} |
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* {{Cite journal|和書|author=熊野直樹|year=2022 |title=ぺルビチンと独日関係 |journal=法政研究 |publisher=九州大学 |ref={{sfnRef|ぺルビチンと独日関係|2022}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=佐藤哲彦 |title=日本における覚せい剤犯罪の創出 |year=1996 |journal=ソシオロジ |publisher=社会学研究会 |location=京都市 |pages=57-75 |issn=0584-1380 |doi=10.14959/soshioroji.40.3_57 |ref={{sfnRef|日本における覚せい剤犯罪の創出|1996}} }} |
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* {{Cite journal |和書 |author=畑中丁奎 |title=天号作戦における航空部隊の様相 ー第九五一海軍航空隊の事例を中心としてー|journal=日本大学大学院 法学研究年報(第50号) |year=2020 |publisher=日本大学大学院法学研究科 |pages=1-36 |issn=0287-4245 |ref=harv }} |
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; 日本国外 |
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* {{Cite book |和書 |editor=米国海軍省戦史部|editor-link=アメリカ合衆国海軍省 |others=史料調査会(訳編) |year=1956 |title=第二次大戦米国海軍作戦年誌 1939-1945年 |publisher=出版協同社 |doi=10.11501/9580421 |ref={{SfnRef|米国海軍省戦史部|1956}} }} |
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* {{Cite book|和書|editor=米国陸軍省|editor-link=アメリカ合衆国陸軍省|others=外間正四郎(訳)|title=沖縄:日米最後の戦闘|publisher=光人社|date=1997|isbn=4769821522|ref={{SfnRef|米国陸軍省|1997}}}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=米国戦略爆撃調査団|editor-link=米国戦略爆撃調査団 |others=[[大谷内和夫]](訳) |year=1996 |title=JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 |publisher=光人社 |isbn=4769807686 |ref={{SfnRef|米国戦略爆撃調査団|1996}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=トーマス・アレン |author2=ノーマン・ボーマー |others=栗山洋児(訳) |year=1995 |title=日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 |publisher=光人社 |isbn=4769807236 |ref={{SfnRef|アレン|ボーマー|1995}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |author2=ペギー・ウォーナー |year=1982a |title=ドキュメント神風 |volume=上 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |doi=10.11501/12398180 |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982a}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |author2=ペギー・ウォーナー |year=1982b |title=ドキュメント神風 |volume=下 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |doi=10.11501/12398181 |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982b}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=リチャード・オネール |others=[[益田善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=マクスウェル・テイラー・ケネディ |others=中村有以(訳) |year=2010 |title=特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ |publisher=ハート出版 |isbn=978-4-89295-651-5 |ref={{SfnRef|ケネディ|2010}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=村上和久(訳) |year=2022 |title=太平洋の試練 レイテから終戦まで |volume=上 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-391521-0 |asin=B09W9FL4K8 |ref={{SfnRef|トール|2022a}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=村上和久(訳) |year=2022 |title=太平洋の試練 レイテから終戦まで |volume=下 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-391522-7 |asin=B09W9GN8FD |ref={{SfnRef|トール|2022b}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author1=C.W.ニミッツ|authorlink1=チェスター・ニミッツ|author2=E.B.ポッター |others=[[実松譲]]、[[富永謙吾]](共訳) |year=1962 |title=ニミッツの太平洋海戦史 |publisher=恒文社 |asin=B000JAJ39A |doi=10.11501/9580958 |ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=カール・バーガー |others=中野五郎(訳) |year=1971 |title=B29―日本本土の大爆撃 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 4 |asin=B000J9GF8I |doi=10.11501/12398021 |ref={{SfnRef|カール・バーカー|1971}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=ジェームス・H. ハラス |year=2010 |title=沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769826532 |ref={{SfnRef|ハラス|2010}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=ジョージ・ファイファー|others=[[小城正]](訳)|title=天王山―沖縄戦と原子爆弾|volume=上下|publisher=[[早川書房]]|date=1995|isbn=978-4152079206|ref={{SfnRef|ファイファー|1995}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=ジェームズ・J・フェーイー |others=三方洋子(訳) |year=1994 |title=太平洋戦争アメリカ水兵日記 |publisher=[[NTT出版]] |isbn=978-4871883375|ref={{SfnRef|フェーイー|1994}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=トーマス・B・ブュエル|others=小城正(訳)|title=提督スプルーアンス|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|date=2000|ISBN=4-05-401144-6|ref={{SfnRef|ブュエル|2000}}}} |
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*{{Citation|和書|author1=ジェフリー・ペレット|others=林義勝、寺澤由紀子、金澤宏明、武井望、藤田怜史(訳)|title=ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず|year=2016|publisher=[[鳥影社]]|ref={{SfnRef|ペレット|2014}}|isbn=9784862655288}} |
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* {{Cite book |和書 |author=ハンソン・ボールドウィン |others=[[木村忠雄 (翻訳家)|木村忠雄]](訳) |year=1967 |title=勝利と敗北 第二次世界大戦の記録 |publisher=朝日新聞社 |asin=B000JA83Y6 |doi=10.11501/2993324 |ref={{SfnRef|ボールドウィン|1967}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=E.B.ポッター |others=南郷洋一郎(訳) |year=1979 |title=提督ニミッツ |publisher=フジ出版社 |asin=B000J8HSSK |doi=10.11501/12225512 |ref={{SfnRef|ポッター|1979}} }} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=チェスター・マーシャル |others=高木晃治(訳) |year=2001 |title=B-29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |isbn=978-4873662350 |ref={{SfnRef|マーシャル|2001}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=ダグラス・マッカーサー|authorlink=ダグラス・マッカーサー |others=津島一夫(訳) |year=2014 |title=マッカーサー大戦回顧録 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122059771 |ref={{SfnRef|マッカーサー|2014}} }} |
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* {{Cite book |last=Christopher |first=John |year=2013 |title=The Race for Hitler's X-Planes: Britain's 1945 Mission to Capture Secret Luftwaffe Technology |publisher=Spellmount Ltd Pub |isbn=0752464574 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Diamond |first=Jon |year=2015 |title=The Fall of Malaya and Singapore: Rare Photographs from Wartime Archives |publisher=Pen and Sword Militar |isbn=978-1473845589 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Kalosky |first=Harold |year=2006 |title=Harm's Way-Every Day: The Book of a Destroyer (Tin Can) at Okinawa |publisher=Publishamerica |isbn=1424100313 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Rielly |first=Robin L. |year=2010 |title=KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II |publisher=Mcfarland |isbn=0786446544 |ref=harv}} |
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** {{Cite book |和書 |author=ロビン・L・リエリー |others=[[小田部哲哉]](訳) |year=2021 |title=米軍から見た沖縄特攻作戦 |publisher=[[並木書房]] |isbn=978-4890634125 |ref={{SfnRef|リエリー|2021}} }} |
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* {{Cite book |last=Silverstone |first=Paul |year=2007 |title=The Navy of World War II, 1922-1947 |publisher=Routledge |isbn=041597898X |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Smith |first=Peter C. |year=2015 |title=Kamikaze: To Die for the Emperor |publisher=Pen & Sword |isbn=1781593132 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Stafford |first=Edward P. |year=2002 |title=The Big E The Story of the USS Enterprise |publisher=Naval Institute Press |series=BLUEJACKET BOOKS |isbn=1557509980 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Stern |first=Robert C. |year=2010 |title=Fire From the Sky: Surviving the Kamikaze Threat |publisher=Naval Institute Press |isbn=1591142679 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Stille |first=Mark |year=2016 |title=US Navy Ships vs Kamikazes 1944–45 (Duel Book 76) |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1472812735 |ref={{SfnRef|Mark Stille|2016}}}} |
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* {{Cite book |editor=Turner Publishing |year=1999 |title=USS Wasp |volume=Vol. II |publisher=Turner |isbn=1563114046 |ref={{SfnRef|Wasp|1999}} }} |
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* {{Cite book |last=Young |first=Edward M. |last2=Styling |first2=Mark |year=2012 |title=American Aces Against the Kamikaze |publisher=Osprey Publishing |isbn=1849087458 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Zaloga |first=Steven J. |year=2011 |title=Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45 |publisher=Osprey Publishing |isbn=1849083533 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Bull |first=Stephen |year=2008 |title=Infantry Tactics of the Second World War (General Military) |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1846032820 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Atkins |first=Dick |year=2006 |title=American Sailor Serves His Country |publisher=Xulon Press |isbn=1600343260 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |last=Alexander |first=Joseph H. |year=1996 |title=The Final Campaign: Marines in the Victory on Okinawa |publisher=Diane Pub Co |isbn=0788135287 |ref=harv}} |
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* {{Cite book |editor=Department of Strategy and Policy |year=2018 |title=Strategy and War Syllabus |publisher=Naval War College |ref={{SfnRef|Naval War College|2018}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{commonscat|Kamikaze}} |
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* [[神風]] - [[神国]] |
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{{ウィキプロジェクトリンク|軍事史|[[File:Gladii.svg|35px]]}} |
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* [[神風タクシー]] |
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{{ウィキプロジェクトリンク|太平洋戦争|[[File:Yamato battleship under construction.jpg|43px]]}} |
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* [[特別攻撃隊]] |
* [[特別攻撃隊]] |
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* [[神風]] - [[神国]] |
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* [[神風連の乱]] |
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* [[特攻兵器]] |
* [[特攻兵器]] |
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* [[ |
* [[神風タクシー]] |
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* [[徘徊型兵器]] - 別名「カミカゼUAV」({{lang-en-short|Kamikaze UAV}}) |
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* [[大西瀧治郎]] |
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* [[ゾンダーコマンド・エルベ]] - ドイツ軍の特別攻撃隊 |
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* [[城英一郎]] |
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* [[ハンナ・ライチュ#パイロットとしての活躍|ハンナ・ライチュ]] - ドイツ軍で特別攻撃を提唱 |
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* [[関行男]] - 特攻第1号とされる敷島隊隊長。 |
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* [[芙蓉部隊]] - 沖縄戦時、夜襲戦法を用いて戦果を挙げていた、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の飛行隊。 |
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* [[オリヴィエ・ジェルマントマ]] |
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*自爆テロ - 世界中で「KAMIKAZE」と訳され、世界共通語となっている |
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{{太平洋戦争・詳細}} |
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2024年12月24日 (火) 11:47時点における最新版
神風特別攻撃隊 | |
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創設 | 1944年(昭和19年)10月20日 |
廃止 | 1945年(昭和20年)8月15日(終戦) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
戦歴 | 太平洋戦争 |
神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]、しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]、旧字体:神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊」[10]。隊名の発案者[注 1]・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画[11]で訓読みの「かみかぜ」と読んだものが上映されたことでこれが定着した[7]。昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した。
日本国内では戦後になって、軍が組織的に兵士(国民)に自爆攻撃を強いたことに対する批判がされてきたが[12]、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与えたこともあって、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」と評され[13]、アメリカ海軍大学校の教科書では「Kamikazeは人間が操縦する巡航ミサイルであり、精密攻撃の時代の海戦を予兆していた。」とも指摘されている[14]。
本土決戦に備えて白兵戦を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が昭和20年(1945年)に組織されたほか[15] 、大日本帝国陸軍のと号部隊を含む特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。
制度
捷号作戦時に大西瀧治郎中将によって定められた神風特別攻撃隊の編成、隊員の扱いは次の通り。神風特別攻撃隊は爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成し、一攻撃単位の編成基準は概ね、爆装体当たり攻撃隊を爆戦(爆装戦闘機)、艦爆(艦上爆撃機)、水爆(水上攻撃機)による3 - 4機、掩護ならびに戦果確認部隊は戦闘機、艦偵(艦上偵察機)2 - 3機。隊名は編成時期、ならびに爆装の機種により、第一・第二神風特別攻撃隊と呼称し、さらに各攻撃単位に対し、特別隊名を付与する。隊名は第一聯合基地航空部隊指揮官が命名する。隊員の官職氏名は事前に発表せず、任務を完遂したもののみ事後に発表する。一攻撃単位の全機が未帰還で不明の場合で完遂したと推定されるもの、直掩隊で任務中自爆したと推定される者は完遂した者と同じ取り扱いとする。正式発表(報告)は各司令官、司令の報告に基づき、認定の上、第一聯合基地航空部隊司令部において行う[8]。
神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、最初の出撃となったフィリピンの戦いでは、そのように動いたが、フィリピンの戦いはそのまま長期化したため(「フィリピンの戦い (1944-1945年)」参照)、目標を敵主要艦船に広げ、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[9]。
最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。もともと零戦は反跳爆撃の訓練に使用されていたため、250キロ爆弾を搭載することができたので、特攻用への改修は、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、それは体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾が使用されることになり、艦爆その他も特攻に使われるが、航空機に特別な工作を必要とするものではなかった[16]。
読み方
当時、日本公式には「神風」を「かみかぜ」と読むのが一般的だったが、猪口力平自身は「人間が『かみかぜ』じゃおかしいから『しんぷう』と読むんだ」と、ずっと『しんぷう』と読んでいた。彼の影響で、フィリピン現地の日本部隊はずっと「しんぷう」と読んでいたが、日本同盟通信の小野田政記者は「かみかぜ」という読みで日本内地の新聞に寄稿していた。[17]
歴史
特別攻撃の発想
大西瀧治郎が創設した神風特別攻撃隊は城英一郎の研究を着想にしている[18]。霞ヶ浦海軍航空隊で山本五十六・大西・城は親密な関係にあった[19]。また、城英一郎は1926年(大正15年)8月20日に結婚しており、これにより山本栄少佐(山本も同時期に霞ヶ浦海軍航空隊所属)の義弟となった[19]。山本栄は最初の神風特別攻撃隊が編成された第二〇一海軍航空隊(201空)司令である[19]。
1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く[20]。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した[20][21]。1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った[22][23]。
1941年(昭和16年)12月、大東亜戦争が勃発。1943年(昭和18年)2月中旬頃、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み、春頃に「B-29対策委員会」を設置した[24]。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している[24][注 2]。
1943年4月18日、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)が戦死した[25][26]。同年6月5日、城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本の葬儀に参列[27][21]。かつて山本と「航空機体当たり」を検討したことを回想する[27][21]。同年6月22日、城は自らを指揮官とする「特殊攻撃隊」の構想をまとめる[27][28]。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった[29]。6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長の大西瀧治郎中将に説明した[27][30]。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった[31][32][33]。ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する[34]。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり[27][33]、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部の高橋千隼課長らにも相談していた[27][35][36]。
1944年(昭和19年)6月下旬、日本海軍はマリアナ沖海戦に大敗(城も「千代田」艦長として参加)[37]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[38]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[37]。
マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[39]。さらに、第二五二海軍航空隊(252空)司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[40]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[41][42]。既にこの頃、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係ない別物だった[43]。
中央で着々と航空特攻開始に向けての機運が高まる中、前線では未だ通常の航空作戦によるアメリカ軍艦隊の迎撃策の準備が進められていた。次にアメリカ軍の侵攻が予想されるフィリピンに配置されていた201空では、零式艦上戦闘機を爆戦として運用し、急降下爆撃でアメリカ軍艦隊を攻撃しようと計画しており、副長玉井浅一中佐のもとで連日猛訓練を行っていた[44]。しかし、戦闘機搭乗員には急降下爆撃は難易度が高く、より容易な反跳爆撃に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしている[45]。
ダバオ誤報事件
1944年9月に入ると、フィリピンミンダナオ島の第一航空艦隊(一航艦)司令部があるダバオは連日のようにアメリカ軍の空襲を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に第32特別根拠地隊サランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告を行った。一航艦司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000mまで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部はミンタル(陸軍の師団司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の寺岡謹平中将は、航空機をセブ島に退避させ、司令部はバレンシアに後退することと決めた[46]。しかし敵上陸に確信が持てなかった主席参謀の猪口力平は、小田原俊彦参謀長と松浦参謀にダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように依頼した。10日夕方になって、両参謀と自己判断で偵察飛行した第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐によって敵上陸はまったくの誤報であることが判明し、猪口は「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電している[注 3][47][48][49]。この事件はのちに海軍最大の不祥事の一つとして、「ダバオ誤報事件」(または平家の大軍が、水鳥が立てた羽音を源氏の襲来と誤認して逃げ散った「富士川の戦い」の故事にちなんで「ダバオ水鳥事件」とも)と呼ばれることになった[50] 。この誤報によりセブ島に集中していた航空機のうち、ダバオへの帰還が遅れた約100機が9月12日にアメリカ軍の空襲を受けて、地上で80機を撃破されるという大失態を演じているが、このうち50機が主力戦闘機の零戦であり、一航艦はアメリカ軍上陸前に戦力をすり潰してしまった[51] 。
「ダバオ誤報事件」で戦力を消耗した201空ではあったが、9月22日、その報復としてこれまで爆戦隊の訓練を取り仕切ってきた戦闘301飛行隊長鈴木宇三郎海軍大尉が指揮官となり、爆戦の零戦十数機を率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を行っている。その後の9月25日、爆戦隊の指揮と訓練指導を期待されて艦上爆撃機の搭乗員で訓練教官でもあった関行男大尉が、戦闘301飛行隊の分隊長として着任し、のちに台湾沖航空戦で鈴木が戦死したため、その後任として戦闘301飛行隊長に昇進している[52]。
大西中将が第一航空艦隊司令長官着任
1944年(昭和19年)10月5日、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[42]。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[53]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」[54]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[55]。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[56][57]。
同年10月9日、大西はフィリピンに向けて出発したが、台湾沖航空戦が開始されており、途中で台湾に立ち寄って新竹で航空戦の様子を見学した。日本軍の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語っている[58]。台湾沖航空戦ではアメリカ軍空母にほとんど損害を与えていなかったのにもかかわらず、大本営は戦果誤認で大戦果を報じ、軍令部はフィリピンの一航艦にも追撃を命じた。第26航空戦隊司令の有馬正文中将は、常々「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っていたが[59]、出撃命令が下ると、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べて、1944年10月15日、参謀や副官が止めるのも聞かず有馬は自ら一式陸攻に搭乗した。有馬は出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字も削り取っており、最初から帰還するつもりはなかった[60]。有馬が搭乗した一式陸攻はアメリカ軍機動部隊の150km前方で艦載戦闘機の迎撃によって撃墜され、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した[59]。しかし有馬の特攻出撃を知った大西はより航空特攻開始への意を強くし、フィリピンで作戦中の陸軍第二飛行師団参謀の野々垣四郎中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」と、陸軍の航空特攻開始にも影響を与えている[61]。
大西はフィリピンに到着すると、前任者の寺岡に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の飛行甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された[62]。
寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油・ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した[63][64][注 4][注 5]。
航空機による体当たり攻撃開始決定
同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の第七六一海軍航空隊(761空)司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は、午後の攻撃隊の出撃を見送ったのちに、車でマニラを目指したため到着が遅れ、大西は何かあったと心配して自らマバラカットに出向くことにし、すれ違いとなった[67]。すれ違いとなった山本は、マニラ東部のニコルス基地に出向き、中島の操縦する零戦の胴体に乗り込んでマバラカット基地を目指したものの、中島が操縦する零戦は発動機が故障し、水田の中に不時着してしまった。2人は通りかかった陸軍のトラックに救助されたが、中島は顔面に軽傷を負っただけで済んだものの、山本は左足を骨折していた[68]。山本は再びマニラの司令部に戻ると、軍医の応急手当を受けながらすぐに小田原俊彦参謀長に電話をし、小田原から今日の大西の要件が特攻開始の打診で会ったことを聞くと、「当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている(玉井浅一)副長とよくお打ち合わせくださるよう」と大西に伝えてもらうよう依頼している[69]。
1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口、26航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当りをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[70]。一同は、爆弾の効果としては、飛行機と一緒に突っ込ませるよりも、高い高度から投下した方が破壊力は大きいという理解であったが、もはや通常の爆撃法には期待はもてないのであれば、威力は多少減殺しても確実に命中できる方法(体当り)をとるべきという認識は共有できたものの、すぐに結論をだすことはできなかった[67]。これに対して玉井はまず吉岡に、「零戦に250キロ爆弾を積んで体当りをやってどのくらい効果があるものだろうか?」と尋ねたところ、吉岡は、「空母の飛行甲板を破壊し発着艦を阻止すること位は出来ると思います」と答えている[71]。その答えを聞いた玉井は、司令の山本が不在だったために「ご主旨はよくわかりましたが、201空から特攻隊の搭乗員を出すということになると、司令や飛行長の意向も計らねばなりません」と返答したが、大西は押し通すように「司令たちはマニラに呼んだが、一向に着かない。今は副長の意向を司令の意向と考えたいがどうか」と特攻を決行するかは玉井に一任した[72]。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した[73]。
「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は戦闘第301飛行隊長の関行男を指名した。玉井が関を思いついた理由としては、戦闘の合間を見ては、再三再四にわたって熱心に戦局に対する所見を申し出て出撃への参加を志願し、玉井の脳裏に「この先生なかなか話せる男だ」という強い印象が残っていたからとされているが[74]、猪口も兵学校教官時代から関のことを、テニス好きのスマートな男だが、気は強い男と熟知しており、異存はなかった[75]。猪口の賛同を得た玉井は、就寝中の関を起こしに従兵を関の私室に行かせた。関はこのとき熱帯性下痢を患い軍医の指示で絶食し静養中であったが、やがてカーキ色の第三種軍装を身に着けて玉井に部屋を訪れた。玉井は関に椅子をすすめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官が201空に来られ、捷一号作戦を成功させる為、空母の飛行甲板に体当たりをかけたいという意向を示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と告げた[76]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという[77]。熟考の時間はわずか数秒という証言もあるが[78]、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」とためらったが、玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押したため、結論を先延ばしすることはできないと決断し、「承知しました」とたった一言で返答したとする証言もある。その際、玉井はほっとし、「頼む、最初は海兵出身が指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の士気の問題だ」と関に感謝の言葉を述べたという[79]。戦後に玉井が関の慰霊祭に参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答を避けたのち、翌朝になって「引き受けます」と承諾したなどと友人に話しているが、これは、関が了承したあとの経緯から見ても時系列的に矛盾することが多く、玉井の記憶違いである[80]。関が了承した後、玉井と関は士官室兼食堂に移動したが、そこに大西と猪口と大西の副官の門司親徳中尉も合流した。猪口は関に「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ」と語りかけたが、関は「いや」と言葉少なに答え、猪口は「そうか、チョンガーじゃなかったか」と言った。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子と父母に対する遺書を書き始めた[81]。
その後、特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛(甲種海軍飛行予科練習生)10期生を中心に33名を集めて「大西長官より次なる作戦実施方法が指令された。それは特攻作戦である。今この基地にある零戦に250キロ爆弾を抱かせ敵空母に体当りする事である」「これは絶対に生還することの出来ない無常なものであるが、これは絶対にやらなければならない事である。ただしながらこの作戦行動と戦果のすべてが日本の歴史に
この後は関係者によって記憶が異なっており、玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している[84]。志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚[85]」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[86]。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、副長の言葉ののちに、気持ちの整理がついた者からぽつりぽつりと重そうに手が上がったという者や[83]、副長ではなく玉井が再度、「行くのか? 行かんのか?」と一喝したことで、一同の手がすぐに上がったと証言する者や[87]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた[88]」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している[89]。そうやって募った志願者のなかから、最終的に24名の特攻隊を編成した[87][注 6]。
神風特別攻撃隊編成
猪口は航空機による体当たり攻撃隊の編成が決定されるとその部隊名について、郷里の古剣術の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、「神風隊というのはどうだろう」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意した。また大西は、各隊に本居宣長の和歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[92]。しかし大西がフィリピンに出発する前に、軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際には「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島・朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されていたため、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない[93]。
1944年(昭和19年)10月20日朝、マバラカットにいた大西が副官の門司と朝食をとっていると玉井がやってきて「そろいました」と報告してきた。大西らが宿舎の中庭に出ると20数名の搭乗員が整列しており、右の先頭に関が立っていた。整列した特攻隊員の前には木箱が置いてあり、大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて訓示を行った[94]。
この体当り攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。今の戦況を救えるのは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君たちのような純真で気力に満ちた人たちである。みんなは、もう命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果の戦果を知ることが出来ないのが心残りであるに違いない。自分は必ずその戦果を上聞に達する。国民に代わって頼む。しっかりやってくれ。
訓示の途中、大西の身体は小刻みに震え、顔は蒼白で引きつっていた。同席していた報道班員の日本映画社稲垣浩邦カメラマンも撮影もせずに聞き入っていた。門司も深い感慨を覚えたが涙が出ることはなく、行くとこまで行ったという突き詰めた感じがしたという[94]。そのあと、大西は特攻隊員一人一人と握手すると再び宿舎の士官室に戻って、神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司に命じたが、門司はそんな命令書を作った経験もなく戸惑っていたので、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は連合艦隊・軍令部・海軍省など中央各所に発信された[95][96]。
機密第202359番電 1944年10月20日発信
「体当り攻撃隊を編成す」
1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、
敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。
今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。
2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。
司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。
3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。
4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。
前日に搭乗した零戦の不時着で大西と会えなかった中島は、20日の夜明けを待って車でマバラカットに到着したが、司令部で特攻発動の命令と関が全特攻隊員の指揮官に任じられたことを知り、さらにセブ島にて特攻隊を編制するよう指示を受けた[69]。そこで中島は、すでに特攻に志願し、さきほど大西の訓示を受けたばかりの大和隊4名を引き連れて、合計8機の零戦に分乗してマバラカットを発ってセブ島に向かった。飛行場に着陸した中島は搭乗員と整備士全員の集合を命じて、必中必殺の体当り部隊「神風特別攻撃隊」が編成され、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名され、自分が引き連れてきた4名はその志願者であることを説明し、「私はセブ基地における特攻隊の編成を命じられて来た。志願する搭乗員は等級氏名を書き封筒に入れて密封し先任搭乗員を通じて私の所に届けよ」「家庭の事情によって志願出来ない者もいることと思う。飛行機の数は少ないので、志願できないものは正直に白紙を入れよ。私は誰にもこの内容を公表しない」などと特攻への志願者を募った[97]。
その後、中島はセブ基地の司令部に入ったが、2階の作戦室兼寝室に入るや階段を上ってくる足音が聞こえて、作戦室の扉をノック後に海軍予備学生の久納好孚中尉が入ってきた。久納は中島の顔を見るなり「私が特攻隊から除外されることはないでしょうね?」と中島に尋ねた。中島は久納の物静かであるが心中に烈々たるものを秘めているという性格を知り尽くしており、必ず志願すると思っていたため「君の乗る特攻機は、ちゃんとマバラカットから持ってきてるよ」と答えると、久納はにっこりと笑って敬礼し、作戦室を退出していった[98]。久納は法政大学在学時からピアノの演奏に秀でており、志願ののち、中島と久納は夕食をともにしたが、その際に久納はピアノを演奏している。久納の演奏を聴いていた他の士官たちはあふれる涙をおさえることができなかったという[99]。久納は大学生出身の予備士官で兵学校出身者よりは気さくに下士官や兵士と付き合い、また操縦技術にも優れていたため人望も厚く、久納の志願は下士官以下の特攻隊員の志願を後押しした[100]。
その後も、中島のもとには志願者が次々と訪れた。まずは偵察機隊から特務士官の国原千里少尉が来ると不満そうに「飛行長は、下士官兵に対しては神風特攻の志願を聞かれた。それなのに准士官以上にはなんの話もされない。我々はどうしてくれるのですか」と詰め寄ってきたので、中島は微笑みながら「准士官以上はどうするのかな?」と尋ねると、国原は「ひとり残らず熱望です」と答えたので、中島は「それだから何も聞かないのではないか」と国原の志願を了承すると、国原は「ありがとうございます」と喜んで出て行ったという[101]。しかし、兵学校出身者や予備士官と異なり、兵卒からたたき上げの准士官は同じ士官と言えども年齢が高く、30歳を超えるであろう後ろ姿を見た中島は「妻子がいるのであろうが、残る家族のことをどう考えているのか」と痛ましく感じた[102]。
もっとも決断をためらったのが久納と同じ海軍予備学生の植村真久少尉で、植村は立教大学でサッカー部の主将であったが、学徒動員で海軍予備学生となり、戦闘機搭乗員となっていた。植村は20日の深夜に中島のもとを訪れたが、何も言い出せないまま一旦は帰ってしまった。翌晩も中島の作戦室に上がってきて、中島になんともないことを話しかけるとそのまま作戦室を後にした。さらに、3日連続となる翌晩の深夜にも中島のもとを訪れたので、中島は植村の心中を察して「君は再三やってくるが、特攻を志願にきたのではないか」と切り出すと、植村はすまなそうに「じつはそうなのです」「飛行長の顔を見ると、どうしてもそれが言い出せないのです。ご存じのように、私は他の者よりも操縦技術がまずいものですから」「私は先日も、訓練で大切な飛行機をこわしました」「私は自分が
中島の手元には20数通の志願書が先任搭乗員から届けられたが、白紙の志願書は2通のみで、他は全員熱望であった。白紙の2名もいずれも病気で航空機の操縦ができない搭乗員のものであったという[105]。
神風特別攻撃隊初出撃
10月20日の15時頃に、敵艦隊をサマール島東方海面に発見したという報告が司令部に寄せられた。午前中に特攻隊員に訓示していた大西はまだマバラカットにおり、猪口は敵の位置を書き込んである海図を持って、バンバン川の河原で関ら特攻隊員と雑談を交わしていた大西に「特別攻撃隊には距離いっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」と判断をあおいだところ、大西は、「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の勝算のない場合、おれは決して出さない」と答えている。猪口はこの大西の攻撃自重の判断を聞いて、大西が初回の特攻にどれだけ慎重であるか思い知らされたが、これ以降新しい情報もなかったため、大西は一旦マニラに帰還することとした[106]。帰り間際、大西は副官の門司の水筒に目を付けると「副官、水が入っているか」と尋ねたので、門司が水筒を大西に渡すと、大西はまず水筒の蓋で自ら水を飲み、次いで猪口と玉井にも水を飲ませて、その後水筒ごと玉井に手渡し、あとは玉井が並んでいる関大尉以下7名の特攻隊員に水をついでいった[107]。このときの様子をカメラマンの稲垣が撮影しており、のちに内地で、10月21日の関率いる敷島隊の出撃前の様子として日本ニュースで報道されたが、実際にはその前日の出来事で、敷島隊と大和隊両隊の隊員が入っており、敷島隊のなかでも永峯肇と大黒繁男の2名が入っておらず、待機姿勢であるので服装もバラバラで、飛行服を着ているのは関と山下憲行の2名のみ、残りの5名は防暑服を着用している[108]。稲垣は玉井から事前に「重大なことがあるから一緒に来るように」と呼び出されており、撮影に準備をしていたのでこのシーンを撮影できたものであるが、大西は特攻隊員への訓示でも述べた通り、神風特別攻撃隊の国民への周知について強い拘りを持っており、この「決別の水盃」のシーンも敢て大西が意図して撮影させたという意見もある[108]。
この夜に、報道班員の同盟通信記者小野田政は、入院していた201空司令の山本の許可をとって、関を取材すべくマバラカットの基地に向かった。関と小野田はバンバン川の河原の砂利石の上に腰を下ろしたが、関は二人きりになったところを見計らって「報道班員、日本はもうおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」、艦上爆撃機出身者らしい関の自信にあふれた言葉ではあったが、関には一度も急降下爆撃の実戦は経験していなかった[109]。関はさらに「ぼくは天皇陛下とか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と冗談めいた口調で言い切った。201空に着任以来、艦爆出身のよそ者で本心を打ち明ける同僚もなく、隊では孤立ぎみであった関は、同じくよそ者の記者の小野田に一気に心の鬱積を解き放ったかのようであった。さらに関は小野田を前にして、胸ポケットに大事にしまっていた新妻満里子の写真を見せびらかすと、その美しさを褒め、茶目っ気たっぷりに写真にキスしてみせるなど戯けて見せた。最後に関は一緒に出撃する他の特攻隊員らのことを慮って「ぼくは短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んでいく……」と話している[110]。
神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日となった。陸軍の一〇〇式司令部偵察機が敵機動部隊発見を知らせてきたため、この日、マバラカットからは敷島隊4機と朝日隊3機と護衛戦闘機隊が出撃することとなった。玉井は昨日大西が残していった副官門司の水筒を取り出すと、昨日と同様に一人一人に別れの水を注ぎ、自ら音頭をとって「海ゆかば」を合唱した。玉井は関らに「攻撃目標の第一は空母、まず大型、中型、小型の順に狙え。ついで戦艦、巡洋艦、駆逐艦の順だ」「突入高度は3,000m、低空で進入し、事前に高度をとり、切り返してつっこめ」と徹底した[111]。関は熱帯性の下痢を患って治療中で絶食しており無精ひげも伸び放題であったが、この日は朝から「今日、ぶつかりにゆくんですよ、顔くらいきれいにして行きたいと思ってね」と軍医の副島泰然大尉にひげそりを依頼し、さっぱりしていた。初めて特攻のことを聞いた副島は、絶食中の関に少しでも力がつくようにと、虎屋の丸筒羊羹を差し入れている[112]。やがて玉井から出撃が下命されると、関は玉井の前に立ち「只今より出発します」と決然と挨拶し、紙に包んだ関以下特攻隊員全員の遺髪を「副長、お願いします」と言って手渡した[113]。午前8時に関率いる敷島隊と朝日隊は、司令部や整備員たちの「帽振れ」に送られて離陸したが[114]、このときの光景を昨日大西と関らの「決別の水杯」のシーンを撮影した稲垣が撮影しており、後日、10月20日の撮影分と合成して一連の出撃シーンとして日本ニュースで放映された[108]。関らは悪天候で敵艦隊を発見することができず全機帰還したが、関は報告の際に玉井の前でうなだれるばかりであった。卑怯者と思われたくないとする関の気持ちの表れであったが、玉井はこれをねぎらって宿舎に帰している[114]。
セブ島にも「敵機動部隊発見」の報告があり、中島は即、大和隊に出撃を命令、整備員からは今までの経験則から40分で出撃準備が完了するとの報告があった。中島はその報告を聞くと出撃する特攻隊員らと航空図を見ながら打ち合わせを行っていたが、この日は整備士が迅速な作業をしたので、わずか10分で出撃準備が完了してしまった。中島は滑走路に爆装した零戦が整列している状況は危険と慌てたが、打ち合わせや注意事項の言い渡しが終わっていなかったので、端折ってこれを完了させ、いざ出撃と特攻隊員が機体に乗り込もうとした矢先、アメリカ軍の艦載機が来襲してきた[115]。201空は先日も「ダバオ誤報事件」のさいに同じセブ島で地上で多数の零戦を撃破されるという失態を演じていたが[51]、約1か月後も同様の失敗をして、地上に並べていた6機の零戦が撃破された。幸いにも搭載していた爆弾が誘爆することはなく、特攻隊員に死傷者が出なかったので、中島はただちに予備機による出撃を命じ、2機の爆装零戦と1機の護衛が準備された。爆装零戦に搭乗するのは久納と大坪一男一飛曹と決まった。久納は中島に「私は戦果を新聞やラジオで発表してもらうのが目当てで突入するのではありません。日本軍人として、天皇の為、国家の為、この身体がお役に立てば本望であります」「いまは飛行機が足らないときです。わざわざ直援機をつけるのはもったいない話です。どうか特攻機だけでやらせて下さい」と直談判した[116]。中島が護衛戦闘機は新聞やラジオが目的ではなく、作戦資料として実態を把握したいだけと説くと、次に久納は機体が軽くなって航続距離が伸びるからと機銃を外してほしいと申し出し、それに中島が突入するまでは敵戦闘機に発見されたら空戦で切り抜けねばならないから機銃は外せないと説くなど、出撃直前まで押し問答をしている。出撃の時間となると久納は諦めて「敵の空母が見つからぬときは、私はレイテ湾に突入します。レイテに行けば獲物に困ることはないでしょう」と言い残し、16時25分に2機編隊で1機の護衛機を連れて出撃した[117]。
途中で攻撃隊は天候に阻まれて、特攻の大坪機と護衛機はセブ島に帰還したが、隊長の久納は帰還せず行方不明となった。突入との打電もなかったが、出撃前に中島にレイテに向かうと誓っていたので、そのままレイテ湾に向かったと見なし、中島は「本人の特攻に対する熱意と性情より判断し、不良なる天候を冒し克く敵を求め体当り攻撃を決行せるものと推定」と報告した[118]。この久納の未帰還をもって「特攻第1号」は関ではなく、久納好孚を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[119]。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[120]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視、海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[121]。この日の連合軍の損害はオーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」が特攻により損傷し、「オーストラリア」はこの特攻でエミール・デシャニュー艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死、ジョン・オーガスティン・コリンズ司令官を含む34名が負傷するなど大きな損害を受けたが、これを久納の戦果という意見もある。しかし、「オーストラリア」が特攻を受けたのは早朝6:05とされており、久納の出撃時間より10時間も前で時間が前後する上[122][123]、「オーストラリア」に突入したのは、陸軍航空隊第4航空軍隷下の第6飛行団の、特攻隊ではない通常攻撃隊の「九九式襲撃機」が被弾後に体当たりをして挙げた戦果とされている[124]。なお陸軍初の特攻隊となる「万朶隊」と「富嶽隊」はこの時点では未だ内地にいて、フィリピンへ進出準備中であった[125]。
第二航空艦隊特攻拒否
10月22日には第二航空艦隊(二航艦)司令長官・福留繁中将が200機の戦力を擁して台湾からフィリピンに進出してきた。大西は当初、中島が「特別攻撃隊は、わずかこの四隊でいいのですか?」と尋ねると、「飛行機が少ないからなぁ、やむをえん」と答えるなど、特攻はこの4隊のみと考えていたが、連合艦隊の総力を結集した艦隊がレイテに接近しているなかで、連日の出撃でなかなか敵と接触できず、編成当初の目的であった「空母を一週間くらい使用不能」が果たせない中、大西も焦っており[126]、二航艦の戦力に自分の望みを託そうと考えて、二航艦でも特攻を採用するように福留を説得したが、福留はこれを断った[127]。福留の回想によれば、二航艦はマニラの一航艦司令部に同居することになったので、寝室も大西と福留は同室となり、大西は寝室においても、海軍兵学校の同期生でもあった福留に「戦局を挽回する望みのあるものは、航空部隊の特攻において他にはない」と熱っぽく説いたが、福留は「第二航空艦隊は編隊攻撃以外訓練していない」と理由でこれを拒絶したとしている。福留が明確ではない理由で特攻開始を断ったのは、「山本長官が生きていたら飛行機の特攻を許したであろうか」という思いからであり、特攻のような「万死」の手段に頼らずとも正攻法でアメリカ軍機動部隊に立ち向えると考えていた。しかし、その福留の自信はのちに打ち砕かれることとなる[128]。
10月23日、朝日隊、山桜隊はマバラカットからダバオに移動した。同日には、セブ島の大和隊が爆装の零戦2機を出撃させて、そのうち佐藤馨上飛曹が未帰還となり、敵艦に突入したものと考えられたが戦果は不明であった[118]。唯一マバラカットに残った敷島隊は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、軍医の副島の回想では、満足に睡眠をとれない状況だったという。関の悲痛な気持ちは大西や山本らの上官もよく理解しており、引き続き「江田島出身者の体当りとして全軍に範を垂れさせたい」という大西の気持ちに変わりはなかった。久納の突入認定の報が入ったときには関は焦りを感じていたが、死にはやって海中に突入して自爆するようなことはしなかった[112]。毎日新聞の報道班員新名丈夫によれば、出撃しても敵を発見できず帰投を繰り返していた関は、ある日、飛行場指揮所のかげに腰を下ろして青い顔で頭を抱えながら「ああ、戦争というのは難しいなあ」とつぶやいていたという。新名は関が故郷に残してきた新妻や母を案じているに違いないと考えて涙したが、のちになって、このときの関は出撃を決意したときから残された家族のことは国に任せて、自分はいかにして小兵力で大敵を
神風特別攻撃隊初戦果
10月24日に4回目の出撃も失敗に終わった関は司令部に「索敵機の無電を聞いてから出かけても、現地に到着するまでには敵も移動しますし、最悪の場合は雲の中に入ってしまいます。そこで、フィリピン東方海面に進撃したら、索敵しながら南下し、発見次第突入することにしたいと思います」と申し出し了承された。10月25日、午前7時25分、関率いる5機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した[130]。離陸する関は体調不良で衰弱してはいたが、この日はひとしお異様な厳しさが見えると見送った玉井や指宿は感じていたという。関が出撃した時点で、今まで敵艦載機の空襲で苦闘してきた第一遊撃部隊第一部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦「大和」座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が敵空母群を発見し、「敵空母に対し砲戦開始」という無電を打電しており[131]、それを知っていた一航艦司令部の幕僚たちは、この日こそ関は敵を発見して突入すると感じていた[132]。また、この25日には、関ら敷島隊の出撃より前の午前6時30分にダバオ基地から菊水隊・朝日隊・山桜隊の4機の零戦も出撃している[133]。
10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた「栗田艦隊」が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見して攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが[134]、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母「サンティ」に向かって急降下していた[135]。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42平方メートルの大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった[136]。
続く2機は、護衛空母「サンガモン」と「ペトロフ・ベイ」に向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した[137]。残る1機は護衛空母「スワニー」に急降下。「スワニー」は対空砲火で応戦、零戦は火を噴いたものの、そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を発生させた[138]。特攻機が命中した「サンティ」と「スワニー」の損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t、満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、この後も任務を続行した[134]。しかし、10月26日に「スワニー」はもう1機特攻機が命中して、損傷を被って戦線離脱している[139]。「スワニー」が攻撃を受けたのは正午すぎとされているが、この時刻から見て、攻撃したのは同日午前10時15分に出撃した植村率いる大和隊と見なされている。大和隊の3機のうち1機が急降下し、飛行甲板上にあった艦上攻撃機に激突、この艦攻もろとも大爆発、甲板上に並んでいた9機の艦載機も次々と誘爆し、アメリカ軍が報告書に「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」と記したほどの損傷と死傷者113名を被らせている。この殊勲機が隊長の植村であったかは不明である[140]。
この戦果はのちの関率いる敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊の護衛戦闘機が帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告の確認のやりとりに時間を要して連合艦隊への報告が遅延し、結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果が「神風特別攻撃隊」の初戦果扱いとなってしまった[141]。
栗田艦隊との海戦(サマール沖海戦)で護衛空母「ガンビア・ベイ」と2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母「ファンショー・ベイ」や「カリニン・ベイ」など損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、戦闘配置命令を解除していた。命中弾を1発も受けなかった「セント・ロー」の乗組員たちは、沈没した「ガンビア・ベイ」の艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた[142] 10時49分、関が率いる敷島隊5機が急降下してきた。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、日本機の接近に気づくものはいなかった[137]。敷島隊の先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていた「カリニン・ベイ」めがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初に「カリニン・ベイ」に突入した機が関の搭乗機であったという説もある[143]。「カリニン・ベイ」にはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与え、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じさせたが、「カリニン・ベイ」は栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにもかかわらず、沈没は免れた[144]。
護衛空母「ホワイト・プレインズ」に向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標を「セント・ロー」に変更し[134]、「セント・ロー」の艦尾1,000mから高度30mの低空飛行という着艦するような姿勢で接近してきた。「セント・ロー」は搭載していたMk.IV 20mm機関砲とボフォース 40mm機関砲で応戦したが、零戦はそのまま、発見1分後に[145]、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250kg爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタン価の航空燃料が誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した[146]。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦「ミネアポリス」の乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。手が付けられないと判断したフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2 - 3分後の10時56分に総員退艦を命じ、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した[147]。この「セント・ロー」を仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている[148]。他にも護衛空母「キトカン・ベイ」に1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため大きな被害は与えることができなかった。また、「ホワイト・プレインズ」直上で特攻機が爆発して同艦に火災を生じさせた[143]。
敷島隊の戦果が司令部に届いたのは、スリガオ海峡で西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)がほとんど壊滅したという悲報が届いて沈痛な空気が流れ、栗田艦隊が敵空母艦隊と砲戦を開始したという一報が届いた後、その後の報告が届かずにやきもきしている状況のときであった。司令部に届いた電文は、敷島隊の護衛機がセブ島に帰還し、その搭乗員の報告によって中島が打電したもので、次の通りであった。「神風特別攻撃隊敷島隊1045スルアン島の北東30浬にて空母4隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中撃沈」[131] 大西はこの報告を聞くと、低く小さい声で何事かしゃべったが、副官の門司が聞き取れたのは「甲斐があった」の語尾だけであった。大西が特攻を決意し、その編成から出撃に至るまで一連の流れを見てきた門司は、大西の心中を察し、また、先日会ったばかりの関以下特攻隊員らの身を捨てた行為に感動して、「あの連中が、あの連中が」というような言葉にならない言葉が頭を駆け巡ったという[149]。大西は、わずか5機の体当りで、これだけの戦果を挙げたという特攻の大きな効果を認識し、「これで何とかなる」という意味のことを言ったが、これは、1機で1艦を葬ることができれば、行き詰まった日本の窮地に一脈の活路が開かれるかも知れないという思いから発された言葉であり、その場にいた司令部の幕僚らも同じ思いであった[150]。
この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて失われた[144]。しかし、このときに既に栗田艦隊は反転しており、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。この日には奇しくも、最初期から航空特攻を提唱していた城が、空母千代田でいわゆる「おとり艦隊」としての任務を完遂後、アメリカ軍艦載機の攻撃で航行不能となり、艦隊から落伍したところを、重巡洋艦「ウィチタ」、「ニューオーリンズ」、軽巡洋艦「サンタフェ」、「モービル」の4隻を主力とするアメリカ軍艦隊の集中攻撃を受けて、千代田と運命を共にしていた[151]。
神風特別攻撃隊の拡大
10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦については知らされておらず、同月28日には説明資料も作成された[152]。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と嘉賞の言葉を受けた。その言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、セブ島にいた中島は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と述べた[153][154][155]。
一方で、1度は大西の特攻開始の申し出を拒否した二航艦長官の福留であったが、10月23日と24日の正攻法は失敗に終わり多大な損害を被っていたので、25日に神風特別攻撃隊の大戦果が報じられると、今度は福留も大西の説得に応じ、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一聯合基地航空部隊」を編成することとなって、指揮官に福留、幕僚長に大西が就いた[156]。これ以降、幕僚長という肩書きの大西によって特攻は拡大していく[157]。
大西は、第一聯合基地航空部隊の飛行隊長以上40名ほどを召集し、「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。このことに批評は許さない。反対するものは、たたき斬る」と強い言葉で語った。大西の強い言葉を聞いて、一同はシンとして一言を発する者すらいなかった。大西の副官であった門司親徳少佐は、今まで特攻を拒否してきた二航艦の士官に特攻の決意を固めさせるため、敢えて大西が強い言葉を使っていると理解したが、なかには、歴戦の戦闘機指揮官の第203海軍航空隊の飛行長岡嶋清熊少佐のように、見るからに反抗的な顔つきの者もいて、門司は不安を抱いている[158]。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導し、さらに大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなども話した[159]。大西の強引な作戦指導に岡嶋ら航空幹部の一部は批判的であったが、大西は搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負しており、現在の戦況を冷徹に分析し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬと覚悟を決めていたので、かような強い言葉での作戦指導となったという意見もある[61]。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」として軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された[160]。
連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や[161]、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊、元山海軍航空隊、筑波海軍航空隊、神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾の台中・台北で10日間集中的に訓練された後にフィリピンへ送られた[162]。
アメリカ軍損害拡大
特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった[163]。
その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日にエセックス級正規空母「イントレピッド」、10月30日にエセックス級空母「フランクリン」 、インディペンデンス級軽空母「ベローウッド」、11月5日にエセックス級空母「レキシントン」、11月25日に「エセックス」とインディペンデンス級軽空母「カボット」 が大破・中破して戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された[164]。
特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している[165]。
ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている[166]。
フィリピンの戦いを指揮したアメリカ南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」と、アメリカのほかイギリス、オーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはチェスター・ニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており[167]、特攻に関する検閲は大東亜戦争中で最も厳重な検閲となっている[168]。
1945年1月1日、マッカーサー元帥が自ら指揮する連合国軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対して日本軍は激しい特攻を行った。1月4日、風間万年中尉率いる旭日隊の彗星艦爆が護衛空母「オマニー・ベイ」を撃沈した[169]。1月6日に連合国軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中して7機が有効至近弾となり、連合国軍艦隊は多大な損害を被った[170]。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで出撃した。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に配備した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させるといった巧みな運用で対抗した。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった[171]
米戦艦「ニューメキシコ」には、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの名代として、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている[172]。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦「ボイシ」も特攻機に攻撃されたが損害はなかった[173]。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦いの
フィリピンの戦い終結
一航艦はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合国軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが[176]、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった[177]。
海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い[178]、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失った[179]。アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して[180]、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった[181]。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻は精々のところ遅滞戦術の一つに過ぎないことも明らかになった[182]。
台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母「タイコンデロガ」に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆して沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大ケガを負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた[183]。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている[184]。
1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地ウルシーで攻撃する丹作戦を命令した。攻撃部隊として、銀河陸上攻撃機を基幹とする特攻隊を編成し「菊水部隊梓特別攻撃隊」と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800kg爆弾が搭載された[185]。1945年2月19日には、硫黄島にアメリカ軍が上陸し、硫黄島の戦いが始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた[186]。第六〇一海軍航空隊で編成された「第二御盾隊」は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母「ビスマーク・シー」を撃沈、正規空母「サラトガ」に5発の命中弾を与えて大破させた他、「キーオカック (防潜網輸送船)」も大破させ、護衛空母「ルンガ・ポイント」と「LST-477 」を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団から視認でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した[187]。梅津美治郎陸軍参謀総長と及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇に上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった[188]。第二御盾隊の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった[189]。
全軍特攻方針決定
1945年2月中旬、硫黄島が攻略され、敵の沖縄攻略も遠くない状況になった。軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって第十航空艦隊を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された[190]。また、海上護衛総司令部の航空隊の一部も特攻隊に編成されるようになった[191]。3月11日には、かねてから準備中の丹作戦が実行された。新設されたばかりの第五航空艦隊(五航艦)司令長官宇垣纏中将の大きな期待を受けて、24機の新型双発陸上爆撃機銀河で編成された「梓特別攻撃隊」が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が正規空母「ランドルフ」に命中したに留まった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった [192]。
1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた[193]。第五航空艦隊が迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、九州沖航空戦となった[194]。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母「フランクリン」と「ワスプ」が大破、「エセックス」が中破するなど多大な損害を被った[195]。正式に兵器として採用された特攻兵器桜花は九州沖航空戦が初陣となった[196]。3月21日に宇垣が第七二一海軍航空隊に偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され[197]、野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村の懸念通り、アメリカ空母のはるか手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した[198]。
1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった[199]。1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合国軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の稼動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可能航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣中将指揮下に入った[200]。
航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機[201]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した[199]。
沖縄戦
3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[202]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)「ディカーソン」撃沈[203]、 レイモンド・スプルーアンス中将が座乗していた第5艦隊旗艦の重巡「インディアナポリス」[204]、イギリス海軍正規空母「インディファティガブル」[205]、米護衛空母「ウェーク・アイランド」[206] が甚大な被害を受けて戦線離脱、米戦艦「ネバダ」と「ウェストバージニア」を含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合国軍の損害は大きかった[207][208]。
アメリカ海軍はフィリピンで特攻により甚大な損害を受けたこともあって、沖縄侵攻に際して万全の特攻対策を講じていた。その一つとして、レーダーピケット艦によるピケットライン(前衛哨戒線)をより強化して、特攻機を艦隊到達前に叩くこととし、その特別タスクフォースとして第51.5任務部隊(司令官フレデリック・ムースブラッガー代将)を新たに編成していた[209]。同任務部隊は駆逐艦103隻を主力とする206隻の艦艇と36,422人の水兵で編成されている大規模なものであり[210]、このなかで19隻の駆逐艦がレーダーピケット艦任務のために対空レーダーと通信機器が強化されて、専門の戦闘指揮・管制チームが配置された[211]。各特別艦の戦闘指揮・管制チームは、上陸支援艦隊第51任務部隊司令官リッチモンド・K・ターナー中将が座乗する揚陸指揮艦「エルドラド」に設けられた戦闘指揮所(CIC)と連携し、第51任務部隊の護衛空母群や第58任務部隊の正規空母・軽空母群の艦載機及び陸軍や海兵隊の地上機による戦闘空中哨戒(CAP)の管制・指揮を行っていた。レーダーピケット部隊は駆逐艦や高速輸送艦(輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した上陸支援艇、掃海艇、駆潜艇などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んで特攻機の接近を防ごうとしていた[212]。しかし、特攻はこのアメリカ海軍の万全の対策をあざ笑うかのように、突破して戦果を挙げており、大きな損害を被ったアメリカ海軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと作戦の先行きに不安を抱いている[213][214]。
大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した[215]。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[216]。太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが[217]、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる[218]。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると 第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高して「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている[219]。
前線での苦戦の報告を受けた米海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた[220]。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用し[221]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[222]。しかし、戦略爆撃機であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで[223]、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「アメリカ陸軍航空軍は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[224]。
第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、全く防御一点張りのような戦術で作戦海域に常時留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はレイモンド・スプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[225]。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―が「バンカーヒル」で特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落ち込み、交代時には舷側のはしごを単独では登れないほどに疲労していた[226]。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や[227]「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している[228]。
しかし、日本軍は菊水作戦での甚大な航空機の損失と、本土決戦準備のための航空戦力温存策もあって、次第に沖縄に投入する特攻機の機数を減らさざるを得なくなっていた。出撃機数削減を補うために、1945年2月中旬に決められてた練習機の特攻投入が行われた。菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に練習機白菊による初の特攻隊「第一次白菊隊」が出撃しているが、白菊まで特攻に投入したことは、日本海軍内でも戦争の成り行きに絶望感を抱かせることとなり、出撃に立ち会った野原一夫少尉は、学徒出陣の予備少尉から「沖縄の戦争は、ジ・エンドですよ」「白菊まで出ていくようになっちゃあ、沖縄航空決戦もいよいよおしまいだな。五航艦にはもう、特攻に使える実用機はほとんど残っていないんです」と嘆かれたのち、白菊には軽量化のため無線機すら積まれておらず、実用機による特攻機が行う最後の突入電を打電することすらできないことも聞かされて「あまりにもみじめじゃないか」と白菊の搭乗員への同情と絶望感を覚えている[229]。しかし、白菊とその後に投入された九三式中間練習機は、そのローテクぶりが、レーダーによる探索や近接信管の作動を困難にするなど予想外の効果を生じさせて[230]、駆逐艦3隻、中型揚陸艦1隻を撃沈、他多数を撃破するなど戦果を挙げてアメリカ海軍を警戒させている[231]。
日本軍は沖縄戦の3か月間で特攻機1,895機[232]、通常作戦機1,112機[181] を失ったが、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[233]、その大部分は特攻による損害で[234]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[235]。
沖縄での組織的な地上戦が終わってからも、少数機により夜間攻撃で沖縄への特攻出撃は続けられた。菊水作戦で甚大な損害を被ったアメリカ軍艦隊は警戒を緩めておらず[236]、アメリカ海軍水兵は夜間に絶え間なく続く戦闘配置命令でほとんど夜寝ることができず疲れ切っていた[237]。特攻と並行して行われてきた通常攻撃機による夜間航空雷撃も戦果を挙げており、8月12日には、海軍航空隊第九三一海軍航空隊の天山4機が20時45分に、バックナー湾に停泊している戦艦「ペンシルベニア」に夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。「ペンシルベニア」は艦尾に30フィートの大穴があき、上甲板に海面が迫るほど大量に浸水し、3つのスクリューのうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った[238][239]。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将も含まれていた[240]。的確なダメージコントロールで沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。翌13日には夜間攻撃の特攻機が、同じくバックナー湾に停泊中の攻撃輸送艦「ラグランジ」に命中、「ラグランジ」は大破し、101名の死傷者を出す甚大な損害を被っている[241]。特攻機に対する夜間攻撃対策としてアメリカ軍は各艦艇に、灯火管制と煙幕の展張を命じており、また、夜間の特攻機はアメリカ軍の対空機銃から発射される曳光弾をたどってアメリカ軍艦艇を攻撃してくるため、各艦個別の対空射撃を禁止するほどの徹底ぶりだった[242]。
本土決戦準備
沖縄戦の大勢が決すると、本土決戦に向けた準備が本格化した。海軍大臣の米内光政は決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官豊田副武を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可能航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られて、沖縄への特攻機の出撃は減少していくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長横井俊之少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは
日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している[246]。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが[247]、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった[248]。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった[249]。
しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、練習機や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機の中でそのような機体が多数を占めた。終戦時に残存していた機体で最も数が多かったのが、九三式中間練習機(水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は紫電改(紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の白菊365機であった[250]。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と
一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、ダウンフォール作戦が開始され日本本土決戦となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた[252]。
神風特別攻撃隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として沖縄戦における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した[253]。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか? 俺の骨は太いよ。介錯するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り、心臓を貫いた。それでも明け方までは息があって、駆け付けた多田武雄海軍次官や児玉誉士夫に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った[184]。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。
神風特別攻撃隊は戦争が終わってもなおアメリカ軍を警戒させており、1945年9月2日に戦艦「ミズーリ」艦上で行われた日本の降伏文書調印式において、特攻機が突入してもアメリカ海軍司令官全員が死傷することを避けるため、ニミッツはスプルーアンスとミッチャーを、自分やマッカーサーら連合軍の代表者や司令官たちが整列した場所と離れた場所への列席を命じている[254]。
戦果
艦艇
陸軍「と号部隊」によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる[255][256][207][208][257][258][259][260][261][262][263][264][265][266][267]。
艦種 | 船体分類記号 | 撃沈艦 | 除籍艦[注 7][268] | 損傷艦[注 8] |
---|---|---|---|---|
戦艦 | BB | 16隻 | ||
正規空母 | CV | 21隻 | ||
軽空母 | CVL | 5隻 | ||
護衛空母 | CVE | 3隻 | 1隻 | 16隻 |
水上機母艦 | AV | 4隻 | ||
重巡洋艦 | CA | 8隻 | ||
軽巡洋艦 | CL | 8隻 | ||
駆逐艦 | DD | 15隻 | 8隻 | 91隻 |
護衛駆逐艦 | DE | 1隻 | 1隻 | 24隻 |
掃海駆逐艦 | DM | 2隻 | 7隻 | 26隻 |
輸送駆逐艦 | APD | 4隻 | 3隻 | 17隻 |
潜水艦 | SS | 1隻 | ||
駆潜艇 | SC・PC | 1隻 | 1隻 | 1隻 |
掃海艇 | AM・YMS | 3隻[注 9] | 16隻 | |
魚雷艇 | PT | 2隻 | 4隻 | |
戦車揚陸艦 | LST | 5隻 | 15隻 | |
中型揚陸艦 | LSM | 7隻 | 1隻 | 4隻 |
上陸支援艇 | LCS | 2隻 | 13隻 | |
歩兵揚陸艇 | LCI | 1隻 | 7隻 | |
タグボート | AT | 1隻 | 1隻 | |
魚雷艇母艦 | AGP | 1隻 | ||
ドック艦 | ARL | 2隻 | ||
病院船 | AH | 1隻 | ||
タンカー | AO・IX | 1隻 | 2隻 | |
攻撃輸送艦 | AKA・APA | 18隻 | ||
傷病者輸送艦 | APH | 1隻 | ||
防潜網設置艦 | AKN | 1隻 | ||
輸送艦 | 7隻 | 35隻 | ||
合計 | 55隻 | 22隻 | 359隻 |
特攻の戦果は諸説ある。「航空特攻で撃沈57隻、戦力として完全に失われたもの108隻、船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻、軽微な損傷206隻」とする説[269]。「航空特攻で撃沈49隻、損傷362隻、回天特攻で撃沈3隻、損傷6隻、特攻艇で撃沈7隻、損傷19隻、合計撃沈59隻、損傷387隻」とする説[208]、「航空特攻によるアメリカ軍のみの損害で、66隻が撃沈ないし修理不能、400隻が損傷」など諸説ある[270]。
アメリカ軍は、上述の通り、フィリピンで特攻により大きな損害を受けた教訓として、沖縄戦においては沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100kmの巨大な円周上に、レーダーを装備したレーダーピケット艦を配置し早期警戒体制を整えることとし、その専門部隊として第51.5任務部隊(司令官フレデリック・ムースブラッガー代将)を編成して、特攻機に対抗したが[209]、日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標の一つとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く[271]、その消耗は激しかった[272]。ニミッツはアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し[217]、ドイツ海軍のUボートを制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された[273]。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は「棺桶の担い手」と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している[274]。
レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した[275]。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく[276]、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで[277]、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった[275]。
沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦17隻(航空特攻15隻、特殊潜航艇1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、その中でもレーダーピケットライン専門部隊であった第51.5任務部隊の損害が最も大きく、11隻の駆逐艦と付属艦5隻の計16隻が沈没、50隻が損傷し、水兵1,348人が戦死、1,586人が負傷した。これは第51.5任務部隊でピケット任務に就いていた駆逐艦のうち42%が沈没もしくは損傷するといった甚大な損害であった[278]。レーダーピケット艦は、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている[279]。
レーダーピケット艦の多大なる犠牲を目の当たりにして、アメリカ海軍はより有効な特攻対策を迫られることとなった。その対策とは「CADILLAC」と呼ばれた早期警戒機とデータリンクシステムを結合させた新システムであり、これまでレーダーピケット艦が担っていた役割を早期警戒機が担い、機上レーダーで特攻機を探知すると、そのデータをビデオ信号に変えて、旗艦空母のCICの受信機上にリアルタイムで投影するようにした。このデータリンクにより、旗艦空母は自らのレーダーが探知できていない目標に対しても効果的な対策を講じることができた[280]。早期警戒機としてAN/APS-20早期警戒レーダーを搭載したTBM-3Wが開発され、データリンクシステムも1945年5月にはテストを終えて、1945年7月からエセックス級空母各艦に設置されていったが、本格的に運用する前に終戦となった。この必要に迫られて開発された極めて先進的なシステムは、その後もさらに洗練されて現在のアメリカ軍空母部隊にも受け継がれている[280]。
人員
特攻機が狙った目標を目ざして、冷静かつ事前に立てた計画に従って急降下する光景は、アメリカ軍水兵に大きな衝撃を与え、太平洋戦域の連合軍兵士にパニックを引き起こした[163]。このように特攻の効果は、艦船の撃沈、撃破といった物理的な効果に加えて、アメリカ海軍を主体とする連合軍兵士に、多数の死傷者や精神疾患といった多大な人的損失をもたらした[281]。連合軍の艦船は、たった1人の死を顧みない攻撃によって数百名以上の人員が危険にさらされており、「日本軍の機体とパイロットが100%失われたとしても、我々が耐えられない損害を当たえるのに十分だったであろう。」と評価していた[282]。
特攻による連合軍の人的損失については複数の研究があり、その数値が異なる。「戦死者8,064名、負傷者10,708名、合計18,772名」とする説[283]、「戦死者12,260名、負傷者33,769名」とする説などがある[284]。アメリカ軍の公式記録等の調査から、「特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名、負傷者9,923名、合計16,728名」とする説[208]、「戦死者7,000名超」とする説などがある[285]。一方で、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、航空特攻による日本軍の戦死者は、海軍2,548名、陸軍1,355名、計3,903名であり、戦死者であれば2倍前後、死傷者では4倍以上という損害を連合軍に与えており、また、平均すると、特攻機1機の命中ごとにアメリカ軍将兵40名が死傷したという統計もある[270]。特攻のように、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては
アメリカ海軍の太平洋戦域での戦闘における(除事故・病気等の自然要因)死傷者のアメリカ軍公式統計は、特攻が開始された1944年以降に激増し、1944年から1945年8月の終戦までで45,808名に上り、太平洋戦争でのアメリカ海軍の死傷者合計71,685名の63.9%にも達したが(1945年の8か月だけでも26,803名で37.4%)[286]、1944年以降のアメリカ軍艦船の戦闘による撃沈・損傷等は約80%以上が特攻による損失である[266][267][287]。
その内、特攻が開始された1944年10月以降の、アメリカ海軍兵士の直接の戦闘による戦死者だけでも下記の通りとなる[288]。
戦域 | 戦死者 | 負傷により後日死亡 | 小計 |
---|---|---|---|
フィリピン戦域 | 4,026名 | 270名 | 4,296名 |
硫黄島戦域 | 934名 | 48名 | 982名 |
九州沖戦域 | 963名 | 6名 | 969名 |
沖縄戦域 | 3,809名 | 219名 | 4,028名 |
1945年7月以降日本近海戦域 | 1,103名 | 14名 | 1,117名 |
合計 | 10,835名 | 557名 | 11,392名 |
また上記の海軍以外でも、輸送艦などに乗艦していた、陸軍・海兵隊の兵士や輸送艦の船員なども多数死傷し、またイギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍、ソ連軍など他の連合軍兵士も多数死傷している。
特攻による被害艦は、重篤な火傷を負った負傷者が多いことも特徴であった。航空燃料で生じた激しい火災による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる閃光による閃光火傷を負う負傷者も多かった。フィリピンで特攻で大破した軽巡洋艦「コロンビア」では100名以上の閃光火傷の負傷者が生じている[289]。後送される特攻による負傷者は、包帯を全身に巻かれミイラのようになっており、チューブで辛うじて呼吸し、静脈への点滴でどうにか生き延びているという惨状であった[290]、また、火傷が原因で後日死亡する負傷者も多かった[注 10]。特攻による多大な人的損失に頭を悩ますアメリカ海軍は、水兵に対して「対空戦闘に必要最低限の人数以外は退避させる」「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた[291]。
有効率
フィリピン戦 | 沖縄戦 | 合計 | |
---|---|---|---|
特攻機損失数 | 650機 | 1,900機 | 2,550機 |
命中もしくは有効至近命中[注 11] | 174機 | 279機 | 475機[注 12] |
有効率 | 26.8% | 14.7% | 18.6% |
1944年10月 | 1944年11月 | 1944年12月 | 1945年1月 | 1945年2月 | 1945年3月 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
特攻を試みた機数 | 43機 | 73機 | 97機 | 99機 | 17機 | 27機 | 356機 |
特攻機命中 | 18機 | 28機 | 33機 | 42機 | 8機 | 11機 | 140機 |
特攻機命中率 | 42% | 38% | 34% | 42% | 47% | 41% | 39% |
有効至近命中 | 7機 | 11機 | 13機 | 22機 | 2機 | 4機 | 59機 |
有効至近命中率 | 16% | 15% | 13% | 22% | 12% | 15% | 17% |
有効率 | 58% | 53% | 47% | 64% | 59% | 56% | 56% |
艦船損傷数 | 17隻 | 26隻 | 30隻 | 42隻 | 4隻 | 11隻 | 130隻 |
艦船沈没数 | 3隻 | 2隻 | 11隻 | 3隻 | 1隻 | 0隻 | 20隻 |
特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた[294]。
- 特攻は、アメリカ軍艦隊が直面した最も困難な対空問題である。
- 今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては効果がない。
- 特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。
- 操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。
特攻と通常攻撃との有効率の比較
特攻の有効率は高いながらも、特攻に一番近い攻撃法である急降下爆撃の日本軍主張の命中率と比較すると見劣りし[295]、特攻の戦術としての有効性は決して高くはなかったと主張する者もいる[296][297]。ただし下表のとおり、特攻の有効率と比較するために急降下爆撃の命中率として引用されることの多い[298]、太平洋戦争初期の日本軍主張の急降下爆撃の命中率は、攻撃を受けたアメリカ軍やイギリス軍の被害報告に基づく実際の命中率とはかけ離れていた[299]。
艦爆攻撃数 | 日本軍主張命中弾 | 日本軍主張命中率 | 実際の被弾数 | 実際の命中率 | |
---|---|---|---|---|---|
真珠湾攻撃で湾から脱出をはかる「ネバダ」に対する攻撃 | 23機[300] | 21発(内不確実13)[301] | 58.5%から65%[302] | 5発[303] | 21.7% |
セイロン沖海戦で2隻の重巡洋艦に対する攻撃 | 53機[304] | 46発[304] | 88%[295][304] | 19発[305][306][307] | 35.8% |
珊瑚海海戦で2隻の空母に対する攻撃 | 33機[308] | 18発[302] | 53%から64%[302] | 3発[309] | 9% |
ミッドウェー海戦で「ヨークタウン」に対する攻撃 | 18機[310] | 6発[311] | 33.3% | 3発[312] | 16.6% |
日本軍主張の命中率は過大ではあったが、それでも太平洋戦争の序盤は多大な成果を上げていたことにかわりはなく、アメリカ軍も「彼ら(日本軍)の開戦初期の成功は、非常によく訓練され、組織され、装備された航空部隊が連合軍の不意をついて獲得したものであった」と評価していた[313]。しかし、ミッドウェーの敗戦からソロモン諸島などでの航空消耗戦で弱体化していく日本軍航空戦力を「日本軍の航空戦力がソロモン諸島、ビスマルク諸島、ニューギニアで消耗されると、それらに匹敵する後継部隊を手に入れることができなくなり、日本の空軍力は崩壊しはじめ、ついに自殺攻撃が唯一の効果的な戦法となった。」と評価していた[314]。
日本軍の航空戦力の弱体化に対して、アメリカ軍側の防空システムは1943年までの日本軍との諸海戦の戦訓により各段に進歩しており、特に1943年以降大量に就役したエセックス級航空母艦の艦隊配備が進歩を加速させた[315]。エセックス級空母各艦は航空母艦群の旗艦となり、搭載された対空捜索用SKレーダー、対水上捜索・航空機誘導用SGレーダー、航空管制用の測高用SMレーダー、予備の対空捜索用SC-2レーダー[316]、射撃用のレーダーとしてMk.37 砲射撃指揮装置と一体化した距離測定用Mk.12レーダーと、高度測角用Mk.22レーダー[317] を活用した戦闘指揮所 (CIC) が、迎撃戦闘機の誘導や新兵器VT信管を駆使した対空射撃など、対空戦闘を総合的に統制し[318]、マリアナ沖海戦では一方的に日本軍通常攻撃機を撃墜し、ほとんどの日本軍通常攻撃機がアメリカ軍艦隊に到達することができず、命中弾は戦艦「サウスダコタ」への1発のみと、のちに「マリアナの七面鳥撃ち(The Marianas Turkey Shoot)」とからかわれたぐらいに、対空システムは完成の域に達していた[319]。
日本軍が特攻を主要戦術として採用した背景をアメリカ軍は、マリアナ沖海戦以降の航空作戦の苦境で「大本営に、陸海両空軍が正規の航空軍としては敗北したことが明白になったとき絶望的戦術として使用した」「自殺攻撃が開始された理由は、冷静で合理的な軍事的決定であった。」と分析していた[320]。
1944年10月 - 1945年1月 | 1945年2月 | 1945年3月 | 1945年4月 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|
アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 | 1,616機 | 123機 | 219機 | 978機 | 2,936機 |
その内、特攻機 | 376機 | 18機 | 42機 | 348機 | 784機 |
その内、通常攻撃機 | 1,240機 | 105機 | 177機 | 630機 | 2,152機 |
特攻機命中 | 120機(命中率31.9%) | 8機 | 10機 | 78機 | 216機(命中率27.6%) |
通常攻撃命中 | 41機(命中率3.3%) | 1機 | 10機 | 6機 | 58機(命中率2.7%) |
特攻機 | 通常攻撃機 | |
---|---|---|
艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 | 3.6機 | 37機 |
命中率 | 27% | 2.7% |
艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 | 3.6機 | 6.1機 |
これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機を全て特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している[322]。
米国戦略爆撃調査団の公式報告書では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている[323]。通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった[291]。
台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母「タイコンデロガ」のディクシー・キーファー艦長は、療養中に『アマリロ・デイリー・ニュース』の取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている[324]。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている[183]。また、イギリスの軍事評論家バリー・ピッドは「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている[325][326]。
アメリカ軍は、特攻が通常の航空機による攻撃より優れている点としてイラスト付きで下記を挙げている。(画像参照)[291]。
この有効率の高さを、対零式艦上戦闘機空戦戦術「サッチウィーブ」の考案者でもあった、第38任務部隊航空参謀のジョン・サッチ少佐は「我々が誘導ミサイルを手にする以前の誘導ミサイルであった」「人間の脳と目と手で誘導され、誘導ミサイルよりさらに優れていた」「時代の先を行く兵器であった」と分析していた[327]。
太平洋戦争終戦後相当年数を経た1999年作成のアメリカ空軍報告書においても、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と評価されて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと結論づけている[328]。
また、当時の対空砲火は敵機に命中させて撃墜を狙うというより艦を攻撃しやすいコースから退かせることを主目的としており、現代の対空システムからイメージされるほど撃墜率は高くなかった。そのため、もとより生還を期さない上に通常の爆撃・雷撃とは異なるコースからでも攻撃が可能となる特攻機に対してはほとんど効果がなかった。
戦術
接敵法
海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた[329]。
高高度接敵法
高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。
敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった[330]。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ3分の1くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心[注 13] を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた[331]。
-
もっとも基本的な突入法、まず浅い角度で接近し敵艦を攻撃線上に収めて急降下、敵艦が攻撃線上から外れた場合、一旦機首を引き上げ、再度敵艦を攻撃線上に収めて突入
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1度の急降下で敵艦を攻撃線上に収められた場合
-
雲に隠れながら目標に接近し、雲の合間から深い角度で突入できる場合
低高度接敵法
超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された[332]。
-
レーダー探知可能範囲外の超低空飛行で接敵する場合
-
島影などに隠れながらレーダーに探知されないように接敵する場合
-
夜間や悪天候など視界不良時に低空飛行で接敵する場合
-
低空飛行で接敵し目標の直前で上昇し急降下で敵艦の致命部に突入する場合
複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺くためにに、薄くのばしたスズを貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー
海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた[332]。
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帰還する敵艦載機に紛れて接近しレーダー探知を回避する場合(丸で囲まれているのが特攻機)
-
支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入し、支援隊が敵艦の対空砲火を引きつけている間に特攻機が突入する「時間差攻撃」の場合
特攻機の破壊力
特攻に主に使われた零戦は元より空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり[334]、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に第七二一海軍航空隊の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20 - 30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している[335]。
突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、さまざまな角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している[336]。
突入角度に加えて速度についても、戦後にアメリカ軍から「適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速い」という分析はされているものの[337]、上記の通り命中寸前まで機体を操縦可能という、特攻特有の利点を活かして、多種多様な角度で特攻機が命中しており、航空機による通常攻撃と比較し抜群に高い有効性を確保していたが[注 14]、一方で、浅い角度で突入した場合は、重力による加速が深い角度で突入した場合と比べると劣るため、平均的な命中速度は通常の爆撃の投下爆弾よりは遅かった[338]。従って、特攻による艦内部の破壊は平均すると通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)よりも少なく、駆逐艦においては、通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)での被害艦の沈没比率は28.9%であったが、特攻による沈没率は13.7%と約半分であった[338]。
しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母「エンタープライズ」を大破させたときの最終突入角度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある[339]。一方で、フィリピンにおいて護衛空母「セント・ロー」に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480kmで浅い角度で体当たりしたが[340]、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経た後に、特攻機命中からわずか32分後に爆沈した[341]ように、突入角度が浅かったり、速度が遅くても敵艦に深刻な損害を与えた事例も多く、一概に突入角度や速度だけが敵艦に与える損害を決定する要素とはならない。
そもそも、艦艇の喫水線より下を攻撃して艦艇に浸水させることができる魚雷攻撃と異なり、原則的に喫水線より上を攻撃する爆撃や特攻によって大規模な浸水被害が生じることはまれであり[342]、攻撃の性質的に沈没率は高くはないことは日本軍も認識しており、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行っている[343]。しかし、特攻機はその搭載された航空燃料が武器となり、命中時には航空燃料による火災を発生させることが多かったので、いわば爆弾とナパーム弾が同時に命中したような効果が生じた[344]。特攻機の命中によって生じた火災は、被害艦を沈没まで至らせなくても重篤になることが多く、艦の損傷を拡大させ、多くの人員に重篤な火傷を負わせて戦闘不能にさせ、適切な消火に失敗すると艦を再起不能の損傷に至らせている[345]。そのため、特攻機は爆弾を搭載していなくとも、極めて強力な焼夷弾となったと評している[291]。沖縄戦においては、特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間諸島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は工作艦により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した[273]。特攻による損傷艦の中には、護衛空母「スワニー」のように、艦設計の際に考慮されていなかったほどの甚大な損傷を負った艦や[139]、正規空母「バンカーヒル」のように、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった[346]。甚大な損傷を負った艦の中には、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない[268]。
一方で、第二次世界大戦末期のアメリカ軍は、それまでの戦闘経験によりダメージコントロールが格段に進歩しており、特攻による撃沈率を低減させるに成功している。例えば、硫黄島の戦いで海軍の第二御楯隊が大破させた正規空母「サラトガ」の損傷具合は、太平洋戦争初期に珊瑚海海戦で沈没した「レキシントン」よりはるかに深刻であったと、両艦のいずれの被爆時にも乗艦していたパイロットのV・F・マッコルマック少佐が証言しているなど、大戦初期や中期においては放棄されたような状況の艦ですら救われることが多くなっていた[347]。アメリカ軍は、特攻により大量の損傷艦が生じたのを振り返って、艦艇が沈没までは至らなくとも、多くの場合は修理のためにアメリカ本国の造船所に帰還せねばならず、作戦上の損失は大きかったと結論づけている[291]。
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特攻機の突入角度の例、突入寸前まで操縦が可能なため、通常の爆撃では命中不可能な浅い角度でも突入できた。
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「エンタープライズ」に富安俊助中尉が搭乗する零戦が約50度の急角度で突入した瞬間。爆発の先端に吹き飛んでいるのがエレベーター。
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軽空母「ベローウッド」の飛行甲板後部に神風特別攻撃隊葉桜隊の1機が命中し艦載機が炎上
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火災は飛行甲板上に並べられていた艦載機に引火して次々と延焼
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火災はその後も燃え広がり、飛行甲板上の艦載機は手前の1機以外は全て炎上した
搭載爆弾
日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった[348]。
特攻機と搭載爆弾 | 桜花 (炸薬量1300kg) | 800kg爆弾を搭載した特攻機 | 500kg爆弾を搭載した特攻機 | 250kg爆弾を搭載した特攻機 |
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威力点 | 5点 | 3点 | 2点 | 1点 |
正規空母 | 巡改(軽)空母 | 護衛空母 | 戦 艦 | 巡洋艦 | |
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所要弾薬 | 桜花1機と800kg特攻機1機 | 桜花1機と800kg特攻機1機 | 800kg特攻機1機 | 桜花2機 | 桜花1機 |
所要威力点 | 8点 | 8点 | 3点 | 10点 | 5点 |
これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身だまされ、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」[349]、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し[337] と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。
搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解しさまざまな対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル『Anti-Suicide Action Summary』にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器桜花を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため[230]、敵艦への接近が非常に困難になっていた。
これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている[343]。
- 特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。
- 特攻機突入時の撃速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に撃速を増大させる(キ115の開発と増産)。
- 成形炸薬弾頭であるV爆弾の実戦配備(成形炸薬弾頭とはモンロー/ノイマン効果を利用した弾頭)。
- 液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる
- 旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。
終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている[350]。
艦艇を撃沈するためには、魚雷により喫水線下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷を抱いて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された[351]。爆弾を搭載しての特攻は雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている[352]。
使用機種
戦闘機以外では、日本海軍における作戦機のほぼ全機種が特攻に投入された。以下、沖縄戦における投入機数と損失機数の一覧である。
- 爆撃機・攻撃機
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- 九六式艦上爆撃機 - 沖縄戦特攻出撃延機数:12機、内未帰還:10機[353][354]
- 九九式艦上爆撃機 - 沖縄戦特攻出撃延機数:135機、内未帰還:105機[353][354]
- 艦上爆撃機「彗星」 - 沖縄戦特攻出撃延機数:251機、内未帰還:140機[353][354]
- 九七式艦上攻撃機 - 沖縄戦特攻出撃延機数:95機、内未帰還:73機[353][354]
- 艦上攻撃機「流星」 - 沖縄戦・本土近海特攻出撃延機数:21機。内未帰還:13機[353][354]
- 艦上攻撃機「天山」 - 沖縄戦特攻出撃延機数:39機、内未帰還:28機[353][354]
- 陸上爆撃機「銀河」 - 沖縄戦特攻出撃延機数:155機、内未帰還:78機[353][354]
- 一式陸上攻撃機 - 沖縄戦特攻出撃延機数:78機、内未帰還:52機。全て桜花母機としての出撃[353][354]
上記の通り、大戦末期にはそれまでの戦闘による消耗や、本土決戦準備のための戦力温存策によって、特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や水上偵察機も特攻に投入された。九三式中間練習機、二式中間練習機、九五式水上偵察機、零式観測機、零式練習戦闘機は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「白菊」、九四式水上偵察機、零式水上偵察機は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した[190]。
菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160km - 170kmの日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で[355]、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や明け方に限定して投入することとしている[356]
しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、九四式水上偵察機がF4Uコルセアの迎撃を巧みにかわすと、駆逐艦「モリソン」の航跡の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で砲塔に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し[357] 死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった[358]。
1945年5月27日の海軍記念日に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた野原一夫少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている[359]。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦「ドレクスラー」に突入した。「ドレクスラー」乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという[360]。白菊のうち1機は、「ドレクスラー」の艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた[360]。
このとき「ドレクスラー」が発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している[361]。この後、「ドレクスラー」にはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した[362]。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)「バリー」とLSM-1級中型揚陸艦「LSM-59」の合計3隻を撃沈し[231]、1945年(昭和20年)5月29日に駆逐艦「シュブリック (駆逐艦)」[注 15][363][364]、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ[365]、その後、両艦は修理が断念されて、スクラップとなった[366]。
終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が宮古島から出撃、「第3龍虎隊」は2日にわたってレーダーピケット艦を攻撃し、突入した7機で駆逐艦の「キャラハン」を撃沈し、「カッシン・ヤング」を大破させて、「プリチェット (駆逐艦)」と「ホラス・A・バス (輸送駆逐艦)」を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた[367]。
わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている[230]。
- 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。
- 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。
- 対空火器のMk.IV20mm機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、ボフォース 40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。
- 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。
アメリカ側は練習機や水上偵察機や九九式艦上爆撃機の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、複葉機、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している[290]。
特攻隊員
特攻隊員の選抜
特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが[368]、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある[369]。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった[370]。
桜花搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[371]。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している[372]。
関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に元山海軍航空隊で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった[373]。
一航艦参謀だった猪口力平によれば、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願する者や、また周囲の雰囲気に流されて、同調圧力で志願する者も多くなったという[374]。高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も差し迫った1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、中には、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという[375]。筑波海軍航空隊では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の松根油の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願した者もいた[376]。
また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の美濃部正少佐が戦後になって、自分は特攻を拒否したと主張している夜間戦闘機隊の芙蓉部隊において、1945年2月17日、ジャンボリー作戦で日本本土を攻撃してきた第58任務部隊に対して、美濃部がかねてより温めてきた「
航空隊全体が特攻を命じられることもあり、第二〇五海軍航空隊については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている[383]。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた第二〇三海軍航空隊戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の岡嶋清熊少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった[384]。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためその中から3名を選抜している[385]。
民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた[386]。
終戦後に、米国戦略爆撃調査団は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取を行っている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある」「内地で募集した際も
多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 16] は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している[388]。
特攻隊員の待遇
フィリピンの戦いで神風特別攻撃隊が編成された当初は、創設者の第一航空艦隊司令長官大西によって、隊員に対しては厳格な対応を行っていた。各部隊から原則は志願により選抜された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が編成された。特攻隊員と一般の兵士は明確に区別され、特攻隊員をその他の兵士らが宴会に招いたりするなどの、特別待遇は厳禁とされ、また、正式な特攻隊として編成されたもの以外の勝手な体当たり攻撃も厳禁された。大西が特攻隊員を厳格に扱ったのは、主に特攻隊員の心構えの厳粛化を目的としたものであった[389]。そして、特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)[注 17] の栄誉を受けることが原則であった[390]。
しかし、司令官の厳格な方針に対して、現場指揮官であった第二〇一海軍航空隊副長玉井浅一中佐は特攻隊員を気の毒に思って、懇意にしていた海軍報道班員の小野田政に対して「報道班員、うちの特攻隊員を慰めてやってくれんか」と内々に要請している。小野田も特攻隊員を玉井と同様に思って、毎晩のように同盟通信社の社用車にラム酒を満載して特攻隊員が宿泊している兵舎を訪れると、出撃が命じられた特攻隊員に振る舞い、またこの世の思い出に女性との性交を望んでいる特攻隊員がいれば、マニラ市内にあった慰安所に連れていってる。小野田は懇意にしていた玉井からの依頼であったのに加えて、出撃直前に取材した関行男中佐(戦死後二階級特進)の「ぼく(関)は短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んでいく……」という言葉が強く印象に残っており、死にゆく特攻隊員に対して、できることをなんでもしてあげようという想いにかられての行動であった[110]。
一方で、大西と同様にフィリピンの戦いで万朶隊などの陸軍特別攻撃隊(と号部隊)を指揮した第4航空軍司令官富永恭次中将は、自分は下戸で、好んで飲酒をすることはなかったのにもかかわらず[391]、頻繁に陸軍の特攻隊員を軍司令官官舎に招待し、特別の献立を用意して酒席を設けていた。その献立のなかには南方ならではのバナナ、パパイヤ、ヤシといった果実もふんだんにあり、食べ過ぎた特攻隊員に「甘い物はもう見るのも嫌」と言わせてみたり[392]、さらには南方最前線では珍しい刺身をわざわざ供するなど、豪華なメニューで特攻隊員を特別に歓待していたのとは対照的であった[393]。当時のフィリピンでは、連合軍が迫って海上輸送路が危機に瀕しており、食糧事情が悪くなって大西や富永といった司令長官クラスでも、毎日の食事は白米に薄いサツマイモを並べたものや、単に白米と芋を混ぜ合わせたかて飯という粗末なものになっており、海軍が特攻隊員を特別待遇できない現実的な理由もあったが[394]、陸軍の富永はそれにもかかわらず、特攻隊員を特別待遇していたことになる[395]。
戦場が日本本土近郊に迫り、特攻隊員が日本本土の基地から出撃するようになると、待遇もかなり改善されている。出撃前には白布に包まれたお膳が出されることもあったが、そのお膳は白く四角の形をしており、中には尾かしら付の鯛と赤飯と栗金団が入っていて二合瓶の日本酒もそえられてあったという。この特攻隊員への出撃前のお膳は、1945年の元旦に宮中恒例の晴れの御膳で昭和天皇にも饗された。侍従武官から「連日のごとく出撃している特攻隊員に対し、その壮途にはなむけて出す料理でございます」という説明を聞いた昭和天皇は長い間何も言わずそのお膳を見つめていたが、手をつけることはなくそのまま侍従武官に下げた。下げられた武官たちはこのお膳を見せられた昭和天皇の胸の内を察して胸がつまる思いになったという[396]。また、沖縄に連合軍が侵攻してきて菊水作戦が開始されると出撃前の食事はさらに豪勢になり、何段も重なった豪華な幕の内弁当やデザートのゼリーの他に、酒もワイン、ウィスキーの角瓶などが準備され、沢の鶴の樽酒も軍司令官から届けられた。また皇室からは菊の御紋入りのタバコも支給された。しかし、そのような豪勢な食事でも喉を通らず、ただ酒をあおる特攻隊員も多かったという[397]。
普段の食事についても、物資は優先的に供給され、食事や酒には全く事欠かず、白米、肉、魚など特別メニューが与えられ[397]、土曜日には海軍カレーも出されていた[398]。鹿児島県囎唹郡月野村と岩川町(現・曽於市)にあった特攻秘匿飛行場岩川基地に配置されていた、西条海軍航空隊分遣隊の白菊特攻隊と[399]、夜間戦闘機隊ながら、硫黄島の戦いや沖縄戦で特攻出撃を繰り返していた芙蓉部隊の食事は極めて豪勢なもので、牛肉の大和煮、紅鮭、サンマ、イカ、ニンジン、ゴボウなどの罐詰やコーヒーや紅茶といった嗜好品の他に、当時の日本では贅沢品であったコンビーフも大量にあった[400]。また、豊富な軍の支給食料以外でも、農地のなかにあった岩川基地には、周囲の農家から大量の農産品の差し入れがあり、差し入れ品のなかには、当時貴重であった鶏卵の他に、牛一頭という豪快な差し入れもあり、ステーキにして食べていた[401]。しかし、岩川は土地柄で酒類が芋焼酎しかなく、匂いになれない隊員からは不満も出ていた[402]。飲酒については比較的自由で、出撃前に大宴会を開いて深酒して二日酔いの状態で出撃することもあったという[403]。また、芙蓉部隊は、菊水七号作戦で日本陸海軍が空挺特攻隊義烈空挺隊まで投入して、アメリカ軍飛行場や艦船を総攻撃していたときに、指揮官の美濃部の提案で蛍狩りをしながら酒宴を楽しんでいたこともあった[404]。
普段の生活でも、特攻隊員は他の部隊の兵士と比較すると自由が与えられていた。出撃までは、航空機の操縦訓練やアメリカ艦艇のシルエットを見て艦名を覚えるなどの座学で過ごしていたが、自由時間も多く、はバレーボールや野球といったスポーツも盛んに行っていた。休暇も与えられ、みんなで映画を観に行ったり、遠くの親戚を訪ねる隊員もいた。また、軍の後援者が自宅を隊員に開放しており(海軍は下宿やクラブと呼んでいた)後援者の家で御馳走になったりして自由に休日を楽しんでいた[405]。休暇は連続して取得することもでき、実家に帰ることも許されていた[406]。
兵舎内の生活も自由で、特攻隊員は思い思いに麻雀や花札、ときにはコックリさんで自分の出撃日を占うなど自由気ままに過ごしていた[407]。外出も自由であり、しばしば外出をして他の特攻隊員と共に深夜まで、小料理屋で宴会を開いていた[408]。兵舎内での飲酒も自由であったが、しかし自由が度を越して、一部の特攻隊員は白昼から泥酔し抜刀して暴れたり、婦女に強制性交を迫る者もいた。しかし、憲兵は航空隊参謀より、特攻隊員は明日なき命なのだから好きなことをさせよとの指示を受けており、そういった一部特攻隊員の素行不良を見て見ぬふりをしていたという[409]。
特攻隊員に対して、出撃の恐怖を和らげるためとか、志願を強制するために、軍がヒロポン(メタンフェタミン)[注 18][410]を利用していたという誤った主張がされることがあるが[411]、この主張に対しては、日本軍の戦争犯罪研究の権威である歴史学者吉田裕が、「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」と史実とは異なると指摘されている[412]。
軍隊によるメタンフェタミンの使用は、第二次世界大戦に日本軍が参戦前の、1940年5月のナチス・ドイツのフランス侵攻でナチス・ドイツが大々的に使用しており[413]。さらに航空作戦においても、バトルオブブリテンでドイツ空軍が、疲労回復と長時間の覚醒のためにパイロットに対してメタンフェタミン製剤「ぺルビチン」を大量に支給している[414]。一方で連合国側では、同じ覚醒剤のアンフェタミンが広く利用され、特に長距離飛行が任務の爆撃機パイロットに愛用された。アメリカ軍では第二次世界大戦後も使用が継続され、湾岸戦争やアフガニスタン戦争でも広く使用されている[415]。
このように、メタンフェタミンやアンフェタミンなどの覚醒剤は世界中の参戦国で、主に眠気覚ましや疲労回復のために使用されていたが、1941年12月8日に参戦した日本軍も他国に追随してメタンフェタミンの戦争利用を行った。特に同盟国ドイツ空軍での使用例を参考に、眠気覚ましとして、1943年には陸軍航空技術研究所がメタンフェタミン入りチョコレートを製作している[416]。一方で海軍では、メタンフェタミン入りチョコレート製作の事実はなく、大東製薬工業(戦後に大東カカオに商号変更)がカフェイン入りチョコレート「居眠り防止食」を製造している[417]。従って、一部のマスコミが「特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか」などと主張している[418]のは完全な事実誤認で、メタンフェタミン入りチョコレートは特攻が開始される1年前には製造が開始されていたため、特攻隊員専用の支給品ではありえない[416]。
そもそも、日本においてメタンフェタミンによる精神刺激薬精神病が広く認識されたのは、戦後しばらく経過した後の覚醒剤乱用期以降であり、戦時中は政府により販売認可されていた薬品のひとつに過ぎなかったうえ、メタンフェタミン摂取による精神への影響はほとんど明らかになっていなかった[419]。従って、戦時中のメタンフェタミンの使用について日本政府の公式見解は、「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます」との厚生省薬務課長の覚醒剤の製造認可に関する国会での質疑応答の通り、「疲労回復」や「眠気解消」が目的であった[420]。特攻とヒロポンについて調査のうえに出版された『ヒロポンと特攻--太平洋戦争の日本軍』という専門書においても、「ヒロポン入りチョコレート」を食べたという特攻隊員の証言や記録は見つからなかったとの記述がある[421]。
戦死者
階級 | 戦没者数 | 構成比率 |
---|---|---|
現役士官/将校 | 121名 | 4.8% |
予備学生 | 648名 | 25.6% |
特務士官・准士官・下士官兵 | 1,762名 | 69.6% |
合計 | 2,531名 | 100% |
階級 | 1945年4月1日時点 | 構成比率 | 1945年7月1日時点 | 構成比率 |
---|---|---|---|---|
現役士官/将校 | 1,269名 | 5.3% | 1,036名 | 4.7% |
予備学生 | 5,944名 | 25.0% | 5,530名 | 24.8% |
特務士官・准士官・下士官兵 | 16,616名 | 69.7% | 15,711名 | 70.5% |
合計 | 23,829名 | 100% | 22,277名 | 100% |
「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という意見があるが[383]、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、学徒出陣などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある[383]。
飛行学生 | 飛行予備学生 | |
---|---|---|
人員総数 | 1,945名 | 10,778名 |
戦没者 | 1,103名 | 2,464名 |
内特攻死 | 108名 | 652名 |
内殉職 | 142名 | 386名 |
戦没率 | 56.7% | 22.9% |
海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も第55期 - 第65期までの100名 - 150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。第66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、第70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した第74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵第68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵第69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、第70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、第71期は581名中329名の56.6%、第72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており [425][426]、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している[427]。
海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・旧制高等学校・旧制専門学校卒業見込生という基準を緩和して、旧制師範学校の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された[428]。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している[429]。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた[423]。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが[430]、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった[383]
しかし、筑波海軍航空隊のように、海軍兵学校卒の航空士官の教官多数が所属していたのに、特攻隊を編成するにあたって、一人も海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願しなかったこともあった。これは、訓練航空隊である筑波海軍航空隊は、戦闘機乗りは戦闘機で敵機と渡り合うのが任務という信念が強く、敵艦に体当たりするだけの特攻には反対という機運が航空隊全体に強かったためとする意見もあるが、筑波海軍航空隊で特攻志願して、第一筑波隊から第五筑波隊として選抜された64名の飛行予備学生の中には不思議に思うものもいたという[431]。その後、沖縄戦の戦局が緊迫すると、2名の海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願して戦没している[432]。筑波海軍航空隊の例のように「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」など飛行予備学生が不満や不信を抱くことはあった。長岡高等工業学校(現・新潟大学)から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、当時を振り返って「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきたコレスの(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と海軍兵学校卒の航空士官に対してわだかまりはないと述べる者もいる[430]。
名称と発表
「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである[433]。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[434]
しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[435]。また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、軍令部から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている[436][437]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[438][439]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[438]。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。
この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[440]。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[441]。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[442]。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。
海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。
布告
戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄
戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫
同 海軍飛行兵長 永峰 肇
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男
神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、
必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。
昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武
連合軍による評価
神風特別攻撃隊が編成されるまでの日本軍航空部隊は質・量ともに連合軍に圧倒されており、その評価も非常に低いものとなっていた。アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」と酷評されていたが[443]、特攻により連合軍艦隊が大損害を被ると、その評価は一転し、戦争の先行きに大きな不安を抱くようになった。その与えた衝撃の大きさからか、特攻に対しては、軍の公式報告や記録や、軍高官から最前線の将兵からアメリカ合衆国大統領に至るまで多くの評価がなされており、それを列挙する。
特攻機がレーダーピケット艦を1隻ずつ狙い撃ちにしており、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、アメリカが投入可能な駆逐艦および護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある。 — フォレスト・シャーマンアメリカ海軍作戦部長[446]
(レイテ沖海戦で)神風特別攻撃隊が初めて本格的に姿を現した。この驚くべき出現は連合軍の海軍司令官たちをかなりの不安に陥れ、連合軍艦隊の艦艇が至るところで撃破された。空母群はこの非常に危険なカミカゼ攻撃に対抗するため、戦闘機を空母自体の防衛にまわさなければならず、そのためレイテの地上部隊の掩護には手が回らなくなっていた。 — ダグラス・マッカーサー元帥[449]
特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返しているアメリカ陸軍の重爆撃機隊のやり方とはまったく対照的である。 私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。特攻機がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。 — レイモンド・スプルーアンス提督[227]
(艦上戦闘機の増強を)緊急に要請します。特攻は、もし対抗しなければ、こちらの空母と貴官(ニミッツ)の将来の作戦にとって由々しき脅威であります。対抗するにはさらに多くの戦闘機が必要であり、定数を増やす以外に、さらなる戦闘機は見つかりません。 — ウィリアム・ハルゼー提督[450]
神風特攻隊の一覧
脚注
注釈
- ^ これは猪口の証言によるものであり、戦史叢書56 1972, p. 108によれば、大西瀧治郎がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。
- ^ 高空を高速で侵入し、防御火力が厚い戦略爆撃機に対する枢軸国防空戦闘機による体当たり攻撃の例としては、震天制空隊(日本)やエルベ特別攻撃隊(ナチス・ドイツ)を参照。
- ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書『大正っ子の太平洋戦記』(方丈社)などで主張しているが、事件後に現地調査した軍令部参謀の奥宮正武中佐は玉井の偵察飛行で判明したと証言している。
- ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[65]。
- ^ この証言は、大西瀧治郎が公言したものではない。角田和男が小田原俊彦大佐から聞いた話である。大西自身は終戦講和に強く反対したことから、この証言に懐疑的な見解を持つ研究者もいる[66]。
- ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[90]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[91]。
- ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
- ^ 損傷艦は延べ数。
- ^ アメリカ海軍、イギリス軍、ソ連軍各1隻。
- ^ 護衛空母「セント・ロー」は沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。
- ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
- ^ 合計が合わないが原資料のまま。
- ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約3分の1にあたる
- ^ 第二次世界大戦中におけるアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が、大戦末期にわずか10か月間の特攻による損害であった。
- ^ 「シュブリック」に突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0時13分に沖縄に突入した航空機は、28日19時13分から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される。
- ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失ったりしていると信じられていた。
- ^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
- ^ ヒロポン(Philopon) は、大日本製薬(現・住友ファーマ)販売のメタンフェタミン製剤の商品名であり、のちに「ヒロポン」が最大のシェアを確保したため「ヒロポン」という商品名がアンフェタミン系をも含む覚醒剤の代名詞となっている。
- ^ 護衛空母「サンガモン」のこと。1945年5月4日に特攻により大破して戦線離脱しそのまま除籍された。
出典
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