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「頸城トンネル」の版間の差分

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{{Infobox tunnel
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|caption = 頸城トンネル 名立・直江津方坑口(終点)
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注:この地図上では鉄道の線形は表示されていない。表示されているのは並行する[[北陸自動車道]]。}}
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[[日本国有鉄道]](→[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])北陸本線[[能生駅]](新) - [[名立駅]](新)間に設置され、[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に、本区間に並行して[[北陸新幹線]][[長野駅]] - [[金沢駅]]間が開業したことに伴い、本区間を含む[[市振駅]] - [[直江津駅]]間がえちごトキめき鉄道に移管され、現在の所属となった。
[[日本国有鉄道]](→[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])北陸本線[[能生駅]](新) - [[名立駅]](新)間に設置され、[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]に、本区間に並行して[[北陸新幹線]][[長野駅]] - [[金沢駅]]間が開業したことに伴い、本区間を含む[[市振駅]] - [[直江津駅]]間がえちごトキめき鉄道に移管され、現在の所属となった。


[[1969年]](昭和44年)の同線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化に伴い[[浦本駅]] - [[有間川駅]]に建設された新線を構成し、トンネル中間には[[筒石駅]]が設置されている。延長は11,353 m であり、これは、完成当時北陸本線[[北陸トンネル]](13,870m)、[[上越線]][[清水トンネル|新清水トンネル]](13,490m)に次ぐ国内第3位であり<ref name="kensetsukikaika199" />、えちごトキめき鉄道移管後は、JR線以外(いわゆる民鉄)の鉄道トンネルとして日本最長となった<ref group="注釈">それまでの民鉄最長の鉄道トンネルは1997年(平成9年)供用開始の[[北越急行ほくほく線]][[赤倉トンネル]](10,472m)</ref>。
[[1969年]](昭和44年)の同線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化に伴い[[浦本駅]] - [[有間川駅]]に建設された新線を構成し、トンネル中間には日本で3例目の山岳トンネル内の駅となった[[筒石駅]]が設置されている。延長は11,353 m であり、これは、完成当時北陸本線[[北陸トンネル]](13,870 m)、[[上越線]][[清水トンネル|新清水トンネル]](13,490 m)に次ぐ国内第3位であり<ref name="kensetsukikaika199" />、えちごトキめき鉄道移管後は、JR線以外(いわゆる民鉄)の鉄道トンネルとして日本最長となった{{Refnest|group="注釈"|それまでの民鉄最長の鉄道トンネルは1997年(平成9年)供用開始の[[北越急行ほくほく線]][[赤倉トンネル]](10,472 m)<ref name = "RF678" />。}}


ルート主体であるが、坑口選定にあたり[[地すべり]]地点を横断する河川十分土被り確保し、かつ良質地層にトンネルがあるよう設定したため中間数か所に半径800 - 1000 m の曲が介在している。また、縦断勾配は濁澄川直下付近(現筒石駅の約 3 km 能生)を頂点とする拝み勾配としたが<ref name="kensetsukikaika184" />、上記の制約か2.0 - 2.5 [[パーミル|‰]] の緩勾とされている<ref name="kensetsukikaika199" />。
本区間となっているが、名立駅側線設置の関係上名立方 280 mは3線となっている<ref group="注釈">同様の理由から名立駅挟んで隣接する名立トンネル一部3断面となっている。</ref>。また、筒石駅部は幅2 mの片面ホームをトンネルの側面に設置する特殊断面とし、これを下線でずして[[点対称]]置している<ref name="kensetsukikaika199" />。

本区間は新線開通とほぼ同時に[[直流電化]](1500 V )されたため、断面は直流直線型複線断面とされたが、名立駅の待避側線設置の関係上、名立方 280 m は3線断面となっている<ref group="注釈">同様の理由から名立駅を挟んで隣接する木浦トンネルも、一部3線断面となっている。</ref>。また、筒石駅部は幅2 m の片面ホームをトンネルの片方の側面に設置する特殊断面とし、これを上下線でずらして[[点対称|点対象]]に配置している<ref name="kensetsukikaika199" />。


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== 建設の背景 ==
== 糸魚川駅 - 直江津駅間複線電化工事 ==
=== 旧線区間の概要・問題 ===
=== 旧線区間の概要・問題 ===
[[ファイル:Kubiki cycling road Niigata Japan.jpg|サムネイル|糸魚川市徳合の旧線跡地([[新潟県道542号上越糸魚川自転車道線]]、2012年)]]
糸魚川駅 - 直江津駅間は1911年(明治44年)に直江津駅 - 名立駅間が[[信越本線]]支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)には糸魚川まで延伸され<ref name="JREA196308"/>、[[1913年]](大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続し、編入された。当初この区間は、日本海の海食崖・山裾を縫う形で9本のトンネル・9か所の半径 300 m の曲線をもって敷設された<ref name="JREA196308"/>。しかし、以下の問題があった。
糸魚川駅 - 直江津駅間は1911年(明治44年)に直江津駅 - 名立駅間が[[信越本線]]支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)には糸魚川まで延伸され<ref name="JREA196308" />、[[1913年]](大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続し、北陸本線に編入された。当初この区間は、日本海の海食崖・山裾を縫う形で9本のトンネル・9か所の半径 300 m の曲線をもって敷設された<ref name="JREA196308" />。しかし、以下の問題があった。


==== 地すべり ====
==== 地すべり ====
[[File:Tutuisi Station in 1916.jpg|thumb|1916年(大正5年)9月26日の地すべりにより破壊された筒石駅]]
[[ファイル:Tutuisi Station in 1916.jpg|thumb|1916年(大正5年)9月26日の地すべりにより破壊された筒石駅]]
[[ファイル:北陸線の大地すべり.png|サムネイル|1934年(昭和9年)2月16日に能生駅 - 筒石駅間で発生した地すべりを伝える[[東京朝日新聞]]の記事]]
[[ファイル:北陸線の大地すべり.png|サムネイル|1934年(昭和9年)2月16日に能生駅 - 筒石駅間で発生した地すべりを伝える[[東京朝日新聞]]の記事]]
新潟県は全国有数の[[地すべり]]地帯であるが、[[糸魚川駅]] - [[直江津駅]]間が通過する旧[[西頸城郡]]はいわゆる[[糸魚川静岡構造線]]地帯であり、[[新第三紀]]層と不整合に被覆する[[第四紀]]層からなる地質条件を持つ。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は 3,000 ha におよぶ<ref name="kensetsukikaika184" />。また、旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な継続的な地すべり(1.0 - 1.5 m / 年程度で絶えず滑動)ではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊を生じる、間けつ的崩壊型と呼ばれるタイプであり、崩壊末期の速度は 10 m / sec に達することから予知・対策が難しいとされる<ref name="kensetsukikaika184" />。
新潟県は全国有数の[[地すべり]]地帯であるが、[[糸魚川駅]] - [[直江津駅]]間が通過する旧[[西頸城郡]]はいわゆる[[糸魚川静岡構造線]]地帯であり、[[新第三紀]]層と不整合に被覆する[[第四紀]]層からなる地質条件を持つ。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は 3,000 ha におよぶ<ref name="kensetsukikaika184" />。また、旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な継続的な地すべり(1.0 - 1.5 m / 年程度で絶えず滑動)ではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊を生じる、間けつ的崩壊型と呼ばれるものであり、崩壊末期の速度は 10 m / sec に達することから予知・対策が難しいとされる<ref name="kensetsukikaika184" />。


同区間は建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生し<ref name="landslide31-4"/>、糸魚川駅 - 直江津駅間では開通から1965年(昭和30年)にかけて、主要なもの<ref group="注釈">列車支障5時間以上、土砂崩壊500以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。</ref>だけでも36回もの運行停止を招く水害・土砂崩壊・地すべり等が発生し、うち[[脱線]]あるいは転覆事故は15回を数え<ref name="kensetsukikaika184" />、その後も新線切替まで災害に苦しめられた。
同区間は建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生し<ref name="landslide31-4"/>、糸魚川駅 - 直江津駅間では開通から1965年(昭和30年)にかけて、主要なもの<ref group="注釈">列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。</ref>だけでも36回もの運行停止を招く水害・土砂崩壊・地すべり等が発生し、うち[[脱線]]あるいは転覆事故は15回を数え<ref name="kensetsukikaika184" />、その後も新線切替まで災害に苦しめられた。


特に地すべり災害については開通から新線に切り替わる1969年(昭和44年)までに21件発生し、運休日数は延べ165日におよぶ、全国でもまれに見る地すべり多発線区であった<ref name="landslide31-4" />。特に全体が凝灰質の地層条件である能生駅 - 筒石駅間は特に地すべりが多く、地すべり土塊の中に設置された旧筒石駅は[[1916年]](大正5年)に地すべりで駅舎が破壊され<ref>「北陸線筒石駅構内の地辷り大崩壊」、『大正五年十一月 立太子式奉祝号 歴史写真』、1916年(大正5年)11月、歴史写真会</ref>、その後[[1946年]](昭和21年)12月にも地すべりが発生している<ref>斉藤迪孝・室町忠彦・小橋澄治、「土質基礎の回顧と点描 3.鉄道関係(その2)」、『土と基礎』第22巻2号(73頁)、1974年(昭和49年)2月、土質工学会</ref>。
特に地すべり災害については開通から新線に切り替わる1969年(昭和44年)までに21件発生し、運休日数は延べ165日におよぶ、全国でもまれに見る地すべり多発線区であった<ref name="landslide31-4" />。特に全体が凝灰質の地層条件である能生駅 - 筒石駅間は特に地すべりが多く、地すべり土塊の中に設置された旧筒石駅は[[1916年]](大正5年)に地すべりで駅舎が破壊され<ref>「北陸線筒石駅構内の地辷り大崩壊」、『大正五年十一月 立太子式奉祝号 歴史写真』、1916年(大正5年)11月、歴史写真会</ref>、その後[[1946年]](昭和21年)12月にも地すべりが発生している<ref>斉藤迪孝・室町忠彦・小橋澄治、「土質基礎の回顧と点描 3.鉄道関係(その2)」、『土と基礎』第22巻2号(73頁)、1974年(昭和49年)2月、土質工学会</ref>。


特に甚大であった被害としては[[1963年]](昭和38年)3月16日16時20分頃、[[能生町]](当時)小泊地区(能生 - 筒石間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、大規模な連続地すべり(小泊地すべり)があげられる<ref name=":0">{{Cite journal|author=西田彰一|year=|date=1982-03|title=小泊(特集「地すべり」 4. 開発と地すべり)|url=https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/20/pdf/20_4_3.pdf|journal=アーバンクボタ|volume=20|page=p.30|publisher=[[クボタ]]}}</ref>。この地すべりは延長 370 m 、幅100 - 170 m 、面積 45 ha におよび、北陸本線と国道8号沿いの民家を直撃・破壊し、集落では人家31戸と国道200 m が埋没して死傷者は25名に及んだ<ref name=":0" />。
沿線で特に甚大であった被害としては[[1963年]](昭和38年)3月16日16時20分頃、[[能生町]](当時)小泊(能生 - 筒石間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、大規模な連続地すべり(小泊地すべり)があげられる<ref name=":0" />。この地すべりは延長 370 m 、幅100 - 170 m 、面積 45 ha におよび、北陸本線と国道8号沿いの民家を直撃・破壊し、集落では人家31戸と国道200 m が埋没して死傷者は25名に及んだ<ref name=":0" />。


この際、北陸本線は現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車[[国鉄C57形蒸気機関車|C57]] 90、客車7両編成)が地すべりに乗り上げた後、機関車と客車1両が泥流に乗って埋もれた集落の上を流され、沖合にまで到達した<ref name=":0" />。この事故では、列車が最初の地すべりに乗り上げてから次の地滑りによって流されるまでに約20分ほど時間的猶予があったために迅速な避難が行えたこと、[[動力車操縦者|機関士]]がトンネル出口で地すべりを発見して非常停止措置を取ったため列車の速度が35[[キロメートル毎時|km/h]]程度と遅かったこと、乗客が100 - 150名程度と比較的少なかったことなどから、列車乗客・乗務員の死者はなかったが、北陸本線は復旧・開通に20日間を要した<ref name="JREA196308" />。
この際、北陸本線は現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車[[国鉄C57形蒸気機関車|C57]] 90、客車7両編成)が地すべりに乗り上げた後、機関車と客車1両が泥流に乗って埋もれた集落の上を流され、沖合にまで到達した<ref name=":0" />。この事故では、列車が最初の地すべりに乗り上げてから次の地滑りによって流されるまでに約20分ほど時間的猶予があったために迅速な避難が行えたこと、[[動力車操縦者|機関士]]がトンネル出口で地すべりを発見して非常停止措置を取ったため列車の速度が35 [[キロメートル毎時|km/h]]程度と遅かったこと、乗客が100 - 150名程度と比較的少なかったことなどから、列車乗客・乗務員の死者はなかったが、北陸本線は復旧・開通に20日間を要した<ref name="JREA196308" />。


==== 速度向上の難しさ・ひっ迫する輸送量 ====
==== 速度向上の難しさ・迫する輸送量 ====
この区間は小さく急曲線が連続するため、速度向上が困難であり、当時運行されていた[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]](最高速度100 km/h)による特急列車「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」もこの区間の[[表定速度]]は約60 km/h に過ぎなかった<ref name="JREA196308"/><ref group="注釈">もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。</ref>。
この区間は小さく急曲線が連続するため、速度向上が困難であり、当時運行されていた[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]](最高速度100 km/h)による特急列車「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」もこの区間の[[表定速度]]は約60 km/h に過ぎなかった<ref name="JREA196308"/><ref group="注釈">もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。</ref>。


また、単線区間であることによりこの区間は[[線路容量]]が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた<ref name="JREA196308" />。しかし、輸送量の増大により1963年(昭和37年)の時点で同区間を含む糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至っていた<ref name="JREA196308" />。このため、応急的に3か所の信号場(木浦・百川・西名立)が設置され、線路容量が引き上げられることとなったが、それでも1965年(昭和40年)ごろには列車運行回数が104回にる見込みとなり、輸送力限界を迎えると考えられていた<ref name="JREA196308" />。
また、単線区間であることによりこの区間は[[線路容量]]が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた<ref name="JREA196308" />。しかし、輸送量の増大により1963年(昭和37年)の時点で同区間を含む糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至っていた<ref name="JREA196308" />。このため、応急的に3か所の信号場(木浦・百川・西名立)が設置され、線路容量が引き上げられることとなったが、それでも1965年(昭和40年)ごろには列車運行回数が104回に達する見込みであり、輸送力限界を迎えると考えられていた<ref name="JREA196308" />。


=== 糸魚川駅 - 直江津駅間複線化の検討 ===
=== 糸魚川駅 - 直江津駅間複線化の検討 ===
[[1957年]](昭和32年)以来、北陸本線は順次[[複線]]化・[[鉄道の電化|電化]]が進められ、1965年(昭和40年)の時点で[[米原駅]] - 直江津駅間357kmのうち米原駅 - 富山操車場(現:[[富山貨物駅]])間、175 km の複線化・電化を完了し、富山操車場 - 糸魚川駅間についても順次工事中という状況であった<ref name="kensetsukikaika184"/>。最後に残る糸魚川駅 - 直江津駅間も、ひっ迫する輸送への対応として早急な複線化・電化が迫られた。
[[1957年]](昭和32年)以来、北陸本線は順次[[複線]]化・[[鉄道の電化|電化]]が進められ、1965年(昭和40年)の時点で[[米原駅]] - 直江津駅間357 kmのうち米原駅 - 富山操車場(現:[[富山貨物駅]])間、175 km の複線化・電化を完了し、富山操車場 - 糸魚川駅間についても順次工事中という状況であった<ref name="kensetsukikaika184"/>。最後に残る糸魚川駅 - 直江津駅間も、迫する輸送への対応として早急な複線化・電化が迫られた。


このうち、糸魚川駅 - 能生駅間、有間川駅 - 直江津駅間は、地すべりの影響は小さく腹付線増・曲線改良が比較的容易と考えられ、トンネルの存在する有間川駅 - 谷浜駅間および[[郷津駅]] - 直江津駅間については、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられた<ref name="JREA196308" />。しかし、能生駅 - 有間川駅間については鉄道沿線・内陸部共に地すべり地帯にあり、わずかな切取りによって地すべり・土砂崩壊が発生する恐れから、現在線への腹付による線増や曲線改良は不可能であった<ref name="JREA196308" />。加えて、仮に新線を敷設するとしても、災害多発地帯を通過することから、防災的な見地からルート選定を行う必要があった。
このうち、糸魚川駅 - 能生駅間、有間川駅 - 直江津駅間は、地すべりの影響は小さく腹付線増・曲線改良が比較的容易と考えられ、トンネルの存在する有間川駅 - 谷浜駅間および[[郷津駅]] - 直江津駅間については、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられた<ref name="JREA196308" />。しかし、能生駅 - 有間川駅間については鉄道沿線・内陸部共に地すべり地帯にあり、わずかな切取りによって地すべり・土砂崩壊が発生する恐れから、現在線への腹付による線増や曲線改良は不可能であった<ref name="JREA196308" />。加えて、仮に新線を敷設するとしても、災害多発地帯を通過することから、防災的な見地からルート選定を行う必要があった。


このため改良に当たっては、
このため改良に当たっては、
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! colspan="4" |浦本駅 - 直江津駅
! colspan="4" |浦本駅 - 直江津駅
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! rowspan="2" |浦本駅 - <br>新能生駅<br>予定地<ref group="注釈">(現)能生駅の位置に相当</ref>
! rowspan="2" |浦本駅 - <br />新能生駅<br />予定地<ref group="注釈">(現)能生駅の位置に相当</ref>
! colspan="3" |新能生駅予定地 - 直江津駅
! colspan="3" |新能生駅予定地 - 直江津駅
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! width="15%" |新能生駅予定地 - 有間川駅
! width="15%" |新能生駅予定地 - 有間川駅
! width="5%" |有間川駅<br>- 谷浜駅
! width="5%" |有間川駅<br />- 谷浜駅
! width="5%" |谷浜駅 -<br>直江津駅
! width="5%" |谷浜駅 -<br />直江津駅
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|A
|A
| rowspan="3" |現在線を線増
| rowspan="3" |現在線を線増
| rowspan="3" |山側に新線建設。木浦川を境に2.570km、1.550kmのトンネルで結ぶ。能生駅は新線上に移設。
| rowspan="3" |山側に新線建設。木浦川を境に2.570 km、1.550 kmのトンネルで結ぶ。能生駅は新線上に移設。
| colspan="3" |山側に新線建設。21.300kmのトンネルで結ぶ。
| colspan="3" |山側に新線建設。21.300 kmのトンネルで結ぶ。
|37.1
|37.1
|10
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|B
|B
|山側に新線建設。14.750kmのトンネルで同区間を直線的に結ぶ。
|山側に新線建設。14.750 kmのトンネルで同区間を直線的に結ぶ。
| rowspan="2" |現在線を線増。但しトンネルを放棄し、1.140kmの複線トンネルを新設。
| rowspan="2" |現在線を線増。但し長浜トンネル付近は旧線を放棄し、1.140 kmの複線トンネルを新設。
| rowspan="2" |山側に新線建設。郷津駅を放棄し3.550kmのトンネルで結ぶ。
| rowspan="2" |山側に新線建設。郷津駅を放棄し3.550 kmのトンネルで結ぶ。
|38.4
|38.4
|10
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|C
|C
|山側に新線建設。途中名立川付近の地上を経由し、前後を11.250kmのトンネルと3.590kmのトンネルで結ぶ。
|山側に新線建設。途中名立川付近の地上を経由し、前後を11.250 kmのトンネルと3.590 kmのトンネルで結ぶ。
|38.9
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|}
|}
比較の結果、投資額・年間経費の面で最も有利であったのはB案であった<ref name="kensetsukikaika184" />。しかしこの案では待避を行うための信号場をトンネル内に設置する必要がある<ref group="注釈">採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に退避設備を設置している。</ref>一方で、地質上の問題から4線断面のトンネルの掘削は技術的に困難と判断された。加えて営業面の問題(駅廃止数の抑制)から、ルートについてはC案が選択され<ref name="kensetsukikaika184" />、これを基に計画が行われた。
比較の結果、投資額・年間経費の面で最も有利であったのはB案であった<ref name="kensetsukikaika184" />。しかしこの案では待避を行うための信号場をトンネル内に設置する必要がある<ref group="注釈">採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に退避設備を設置している。</ref>一方で、地質上の問題から4線断面のトンネルの掘削は技術的に困難と判断された<ref name="kensetsukikaika184" />。加えて駅廃止数を抑制するという、営業面の問題から、ルートはC案が選択され<ref name="kensetsukikaika184" />、これを基に計画が行われた。


== 頸城トンネルの建設 ==
なお、新線では、湯殿トンネルによって迂回される[[郷津駅]](谷浜駅 - 直江津駅間)が代替駅を設けず廃止となり、能生駅は旧駅から約700m山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、名立駅が旧駅から約1.6km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転するかたちとされた。筒石駅については廃止計画もあったとされるが<ref name="Oshima-Nakamaki2016"/>{{Refnest|group="注釈"|ルートが決定した1965年(昭和40年)の時点では「新能生駅」「新名立駅」は記載が見られるが、筒石駅については新線上に記載がなく<ref name="kensetsukikaika184" />、翌1966年(昭和41年)に出版された計画概要では「新筒石駅」が記載されている<ref name="kensetsukikaika199" />。}}、最終的には頸城トンネル内にホームを設け、ホームへは旧駅より約2.2km離れた山腹(筒石斜坑)より出入りするかたちとなった。
北陸本線糸魚川 - 直江津間線増工事は[[1966年]](昭和41年)3月に着工し、施工は日本国有鉄道岐阜工事局が担当した<ref name="岐工50_224" />。


建設に当たっては、6本(糸魚川方から浦本、木浦、頸城、名立、長浜、湯殿)の複線(一部3線)、計約23.5 kmのトンネルが掘削された。
=== 新線の建設 ===
新線は[[1966年]](昭和41年)3月に着工し、建設に当たっては、上述のように6本(糸魚川方から浦本、木浦、頸城、名立、長浜、湯殿)の複線(一部3線)、計約23.5kmのトンネルが掘削され、特に頸城トンネルについては[[1969年]](昭和44年)秋までに複線電化を完成させる目途から<ref name="kensetsukikaika199" />、両坑口のほか、山王、筒石(現筒石駅付近<ref name="kensetsukikaika199" />{{Refnest|group="注釈"|当初は濁澄川の川筋に斜坑が計画されていた<ref name="kensetsukikaika184" />。}})、徳合の3か所に斜坑を設け、5工区に分けての施工を実施した。


新線では、湯殿トンネルによって迂回される[[郷津駅]](谷浜駅 - 直江津駅間)が代替駅を設けず廃止となり、能生駅は旧駅から約700 m山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、名立駅が旧駅から約1.6 km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転するかたちとされた。筒石駅については廃止計画があったとされるが<ref name="Oshima-Nakamaki2016" />{{Refnest|group="注釈"|ルートが決定した1965年(昭和40年)の時点では「新能生駅」「新名立駅」は記載が見られるが、筒石駅については新線上に記載がなく<ref name="kensetsukikaika184" />、翌1966年(昭和41年)に出版された計画概要では「新筒石駅」が記載されている<ref name="kensetsukikaika199" />。}}、地元の強い要望があったため<ref name="岐工50_213" />、最終的には頸城トンネル内にホームを設けることとなった。
掘削については頸城トンネルは地質上の問題や、設計断面・工法が一様でないことから、実績のある底設導坑先進上部半断面逆巻工法、側壁導坑先進上部半断面逆巻工法を採用したが<ref name="kensetsukikaika199"/>、浦本 - 能生間の木浦トンネルにおいては、直江津方からの導坑の工事に、[[愛媛県]][[新居浜市]]の[[住友共同電力]]東平発電所工事から転用された国産第1号の[[トンネルボーリングマシン]]が試験的に用いられた<ref name="kensetsukikaika212"/>。


=== 建設担当と工区割 ===
頸城トンネルをはじめとした糸魚川駅 - 直江津駅間の線増工事は、長浜トンネルを含む有間川駅 - 谷浜駅間が[[1968年]](昭和43年)[[9月25日]]に複線化されたことを皮切りに、翌[[1969年]](昭和44年)には、[[6月4日]]に糸魚川駅 - 梶屋敷駅間、[[6月19日]]に梶屋敷駅 - 浦本駅間が線増により複線化され、残る新線区間は、頸城トンネル等を含む浦本駅 - 有間川駅間が[[9月29日]]、湯殿トンネルを含む谷浜駅 - 直江津駅間が[[10月1日]]に供用を開始し、併せて直流1500Vでの電化<ref group="注釈">但し、糸魚川以西は[[交流電化|交流20kV60Hzで電化]]されていたため、糸魚川駅 - 梶屋敷駅間に交直[[デッドセクション]]を設けた。</ref>を行ったことで、北陸本線は全線の複線電化が完成した。
[[ファイル:筒石駅 - panoramio (5).jpg|サムネイル|筒石斜坑(現:筒石駅旅客通路 2011年)]]
頸城トンネルは[[1969年]](昭和44年)秋までに複線電化を完成させる目途から<ref name="kensetsukikaika199" />、両坑口のほか、山王、筒石(現筒石駅付近<ref name="kensetsukikaika199" />)、徳合の3か所に斜坑を設け、5工区に分けての施工を実施した。当初、斜坑は山王、濁澄、徳合の3か所を計画した<ref name="kensetsukikaika184" />が、先述の筒石駅設置の要望を受け、斜坑の旅客通路転用を考慮し、濁澄の斜坑を筒石に変更した<ref name="岐工50_213" />。しかし、後述する進捗状況への不安から濁澄川の谷にも追加の斜坑(大藤崎斜坑)を設置している<ref name="土木施工9(9)" />。第1工区と第2工区の間、第2工区と第3工区の間、第4工区と第5工区の間には、それぞれ600 mの未契約区間が当初残されており、その後の進捗に応じて契約して工程の調整を行った<ref name="土木学会誌54(5)" />。


{| class="wikitable"
=== 年表 ===
|+ 頸城トンネル工区割
! 工区名 !! 第1 !! 第2 !! 第3 !! 第4 !! 第5
|-
! 着工
| 1966年4月23日 || 1966年3月14日 || 1966年2月21日 || 1966年3月5日 || 1966年2月26日
|-
! 竣工
| 1969年3月31日 || 1969年4月10日 || 1969年4月5日 || 1969年4月5日 || 1969年1月15日
|-
! キロ程
| 337 km 418 m 66-<br />339 km 550 m || 339 km 550 m -<br />342 km 300 m || 342 km 300 m -<br />344 km 840 m || 344 km 840 m -<br />346 km 900 m || 346 km 900 m -<br />348 km 771 m 66
|-
! 延長
| style="text-align:right" | 2,131 m 34 || style="text-align:right" | 2,750 m || style="text-align:right" | 2,540 m || style="text-align:right" | 2,060 m || style="text-align:right" | 1,871 m 66
|-
! 作業坑
| なし || 山王斜坑 174.3 m<br />340 km 170 m地点 || 大藤崎斜坑 171 m<br />342 km 950 m地点<br />筒石斜坑 232.1 m<br />344 km 545 m地点 || 徳合斜坑 174.4 m<br />346 km 057 m 30地点 || なし
|-
! 施工業者
| [[大成建設]] || [[間組]] || [[熊谷組]] || [[鹿島建設]] || [[鉄建建設]]
|-
! 請負金額
| style="text-align:right" | 15億7500万円 || style="text-align:right" | 16億3900万円 || style="text-align:right" | 17億5400万円 || style="text-align:right" | 10億2700万円 || style="text-align:right" | 9億8300万円
|}

=== 線形と規格 ===
坑口付近に能生川と名立川があり、またこれらに沿う県道との立体交差の都合上、両側坑口の高さは決定され、また山王川、濁澄川、筒石川、徳合川の各河川の下を横切るときにできるだけ大きな土被りを確保したいということや、地すべり土塊下の良質地層下にトンネルがあるようルートを定めたため、中央部分に半径800 - 1000 m の曲線を介在させている<ref name="kensetsukikaika199" /><ref name = "岐工50_214" /><ref name = "土木施工9(9)" />。また、上述の制約を受け、線路規格上の上限勾配は10 ‰ であるものの、縦断線形は途中濁澄川付近まで2.5 ‰ の上り勾配、そこから出口まで2.0 ‰ の下り勾配と設定された<ref name = "岐工50_214" /><ref name = "土木施工9(9)" />。これは[[泥岩]]におけるトンネルとしては排水上最小限とされる値である。この縦断線形により土被りの厚さは、山王川で18.4 m 、濁澄川で13.5 m 、筒石川で15.2 m 、徳合川で9.0 m となり、これらの地区では慎重な施工が必要となった<ref name = "土木施工9(9)" />。

断面は直流電化複線形とされ、内空断面積は複線区間で51平方メートル、3線断面区間については91平方メートルとなっている<ref name = "土木施工9(9)" />。

=== 地質 ===
地質は、能生谷層と呼ばれる[[泥岩]]が入口側から濁澄川付近まで続き、その上にさらに[[砂岩]]と泥岩が互層となって重なっている。徳合川の谷を境に名立川層と称する[[泥岩]]が主体となる。いずれも[[第三紀]]層に属する比較的新しい地層で、固結度が低いものであった。特に第1工区から第3工区にかけては、地殻変動の甚だしい地帯で、[[ベントナイト]]質[[凝灰岩]]が介在し、地すべり崩土層が広く分布するとともに、メタンガスの検知、石油の湧出、異常膨張性泥岩の存在、摂氏30度に達する高温など、数々の困難に見舞われることになった<ref name = "岐工50_213" />。

=== 第1工区 ===
第1工区は[[大成建設]]により、米原方坑口から着手した。掘削方式は当初標準の底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法{{Refnest|group=注釈|トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法<ref name = "岐工50_216" />。}}(以下、標準工法)を採用し、当初の1,000 m ほどの区間は順調なペースで掘削が進んだ<ref name = "土木学会誌54(5)" />。

石油の浸出、ベントナイト質凝灰岩や断層の出現などにも対応して掘削を進めてきたが、坑口から1,500 m を超える頃に異常な膨圧を受ける区間に達した。この区間では、上半断面の掘削を行うことで、同じ付近の底設導坑が変状して断面が縮小するようになり、縫い返し(掘削のやり直し)が必要となった。1967年(昭和42年)10月19日に導坑掘進は不可能となり、その後の上部半断面の掘削により導坑は完全に圧壊した。さらに同年11月30日には上部半断面の掘削も中止となり、工法の再検討を余儀なくされた<ref name = "岐工50_215-217" />。

このため、標準工法を放棄し、上部半断面先進ベンチカット併進逆巻工法{{Refnest|group=注釈|トンネル上半部を先に掘削して天井部の覆工を行い、下半部に広げて全体を覆工するという手順の工法}}を採用することにした。。またそれまで底部はほぼ平坦な断面形状を採用していたが、円形に近い断面に変更し、覆工は2回施工することで1回目の覆工がその後縮小しても対応しやすくする、上半断面と下半断面の施工間隔を短くして早期に全断面の覆工を完成させる、といった方針となった。これにより1968年(昭和43年)4月3日より掘削を再開し、以降は順調に工事を進められた。途中膨張はなくなり標準工法に復帰することも検討したが、既に残り工区長が150 m ほどになり、今から工法を切り替えるのは工期・工費的に得策ではないとされたことから、トンネル断面のみ標準に戻して工区境まで工事を継続した。1969年(昭和44年)1月7日に貫通した<ref name = "岐工50_217" />。

=== 第2工区 ===
第2工区は[[間組]]により、山王斜坑によって本坑へ取り付いて着手した<ref name = "岐工50_214" />。順調に工事を進めてきたものの、途中でやはり上半断面の工事により導坑断面が縮小する現象が見られるようになり、サイロット工法や特殊サイロット工法{{Refnest|group=注釈|サイロット工法は、最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法。特殊サイロット工法はそれに中央底部の導坑を加えたもの<ref name = "岐工50_216" />。}}に切り替えて工事が行われた<ref name = "岐工50_217" />。第1工区が苦闘して工程が遅れていた関係で、第1工区と第2工区の間に600 m 残されていた未契約区間は、すべて第2工区の受け持ちとされた。一方、第2工区と第3工区の間に600 m 残されていた未契約区間については、第2工区側の掘削停止期間の関係もあり、第3工区側がすべて受け持つことになった<ref name = "岐工50_213" />。

=== 第3工区 ===
第3工区は[[熊谷組]]により、筒石斜坑によって本坑に取り付いて着手した<ref name = "岐工50_214" /><ref name = "岐工50_218" />。筒石斜坑より直江津方は標準工法を採用し、また筒石駅設置に伴って側幅が1.3メートル広い筒石駅断面と称する特殊断面を280 m にわたって掘削した。こちらの区間は順調に進行し、1967年(昭和42年)7月7日に頸城トンネル中最初の貫通となった<ref name = "岐工50_218" />。

一方筒石斜坑より米原方は、請負者の希望により当初からサイロット工法を採用して掘削した。しかし強大な地圧により導坑の[[支保工]]が変形し崩壊の恐れがあるなど苦心し、導坑の縫い返し、仮巻コンクリートなど様々な対策で突破した<ref name = "岐工50_218" />。着工から約18か月を経過した段階で、第1工区から第3工区にかけてとその未契約区間の工程に不安を持たれるようになり、濁澄川の谷に大藤崎斜坑を新設して、590 m (米原起点342 km 310 mから342 km 900 m)については、大藤崎斜坑からの施工を行った<ref name = "土木施工9(9)" /><ref name = "岐工50_218" />。結果的に第3工区と第2工区の境の600 m の未契約区間は、すべて第3工区の担当となった<ref name = "岐工50_213" />。

=== 第4工区 ===
第4工区は[[鹿島建設]]により、徳合斜坑によって本坑に取り付いて着手した<ref name = "岐工50_214" /><ref name = "岐工50_218" />。標準工法を用い、湧水も少なく順調に施工した<ref name = "土木施工9(9)" /><ref name = "岐工50_218" />。第4工区と第5工区については順調に掘削が進んだことから、工区境にある600 m の未契約区間は、300 m ずつ分割してそれぞれ施工した<ref name = "岐工50_213" />。

=== 第5工区 ===
第5工区は[[鉄建建設]]により、直江津方の坑口から着手した<ref name = "岐工50_214" /><ref name = "岐工50_218" />。坑口付近280 m が3線断面<ref name="kensetsukikaika199" />になっていたことから、この付近についてはサイロット工法で掘削を行った。第5工区については比較的順調に掘削が行われた<ref name = "岐工50_218" />。

=== 完成 ===
第1 - 第3工区の難航により当初の工期が危ぶまれたものの、1969年(昭和44年)1月7日に第1工区と第2工区の境において、トンネル全区間が貫通した<ref name = "岐工50_217" />。軌道工事については、[[腐食|電蝕]]防止のため木製の[[枕木]]を採用し、また将来的な保守の都合から第1 - 第3工区については[[バラスト軌道]]、第4工区と第5工区についてはコンクリート道床を採用した<ref name = "岐工50_221" />。トンネル自体の工事は同年5月に全面完成し<ref name = "岐工50_220" />、予定通りの完成となった<ref name="岐工50_215" />。

1969年(昭和44年)6月10日に頸城隧道銘標除幕式およびレール締結式が実施された。銘標は米原方が[[石田礼助]][[日本国有鉄道]]総裁、直江津方が[[藤井松太郎]]技師長(いずれも当時)の筆によるものである。レール締結式は米原方坑口から約25メートル入った場所、下り337 km 439 m 30地点、上り337 km 433 m 50地点で実施された<ref name = "岐工50_221" />。また[[能生駅]]構内において、1969年(昭和44年)9月10日に工事碑および慰霊碑の除幕式が行われた<ref name = "岐工50_222" />。

==その他線増工事における特筆すべき工事==
=== 木浦トンネル(浦本駅 - 能生駅) ===
[[ファイル:能生駅 能生川橋梁 - panoramio.jpg|サムネイル|能生川橋梁(写真中央)の左奥が木浦トンネル(2010年)]]木浦トンネルは頸城トンネルと同様、底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法を用いたが、国鉄における[[トンネルボーリングマシン]](以下TBM)施工の可能性、使用時の問題点、経済性の検討を行うため、一部区間で、底設導坑をTBMによる導坑に置き換えた、TBM先進工法で施工した<ref name="kensetsukikaika212" /><ref name="日本鑛業會誌83(955)" />。

TBMは[[愛媛県]][[新居浜市]]の[[住友共同電力]]東平発電所工事から転用された国産第1号のもの(小松ロビンスT.M.230G型)を[[小松製作所]]から有償で借上げ、施工業者の[[前田建設工業]]に貸与の上、用いられた<ref name="kensetsukikaika212" /><ref name="日本鑛業會誌83(955)" />。

使用されたのは延長1,570 m のうち887 m で、[[1967年]](昭和42年)[[1月12日]]に直江津方坑口から125.3 m の地点から掘削を開始した<ref name="日本鑛業會誌83(955)" />。木浦トンネルも能生谷層に属する泥岩主体の地質であり、試験掘削期間中には大量の湧水に遭遇したが、[[2月18日]]からの本工事では掘削はほぼ順調に進行し、3月には、月進(29日間)362 m、平均日進12.5 m を達成し、[[3月25日]]には日進246 m を達成した<ref name="日本鑛業會誌83(955)" />。TBMによる掘削は[[5月5日]]、岩質が軟弱となりTBMによる掘削が困難となったことから終了し<ref name="kensetsukikaika212" />、[[5月16日]]に米原起点335.6518 km 地点にて、米原方から発破工法で掘削した底設導坑と貫通した<ref name="日本鑛業會誌83(955)" />。

== 糸魚川 - 直江津駅間線増工事の完成 ==
[[ファイル:Nihonkai Hisui line(Hokuriku line) Nagahama tunnel(New).jpg|サムネイル|谷浜 - 有間川間 新線の長浜トンネルと旧線桑取川橋梁の橋台(2016年)]]
頸城トンネルをはじめとした糸魚川駅 - 直江津駅間の線増工事は、長浜トンネルを含む有間川駅 - 谷浜駅間が[[1968年]](昭和43年)[[9月25日]]に複線化されたことを皮切りに、翌[[1969年]](昭和44年)には、[[6月4日]]に糸魚川駅 - 梶屋敷駅間、[[6月19日]]に梶屋敷駅 - 浦本駅間が線増により複線化され、残る新線区間は、頸城トンネル等を含む浦本駅 - 有間川駅間が[[9月29日]]、湯殿トンネルを含む谷浜駅 - 直江津駅間が[[10月1日]]に供用を開始し、併せて直流1500 Vでの電化<ref group="注釈">但し、糸魚川以西は[[交流電化|交流20 kV・60 Hzで電化]]されていたため、糸魚川駅 - 梶屋敷駅間に交直[[デッドセクション]]を設けた。</ref>を行ったことで、北陸本線は全線の複線電化が完成した。

== 新線建設の効果と評価 ==
この新線について、大島登志彦・中牧崇は地域公共交通の観点から、駅の移転などで地域にとっては大幅に利便性が悪化したこと等を挙げた上で、「特急列車のスピードアップを前提としたもの<ref name="Oshima-Nakamaki2016"/>」「地域輸送を二の次にして幹線輸送に特化したもの<ref name="Oshima-Nakamaki2016" />」と評価し、その後、地域輸送を主眼とした第3セクターであるえちごトキめき鉄道への転換に当たっては「直ちにその特性を発揮できない体制<ref name="Oshima-Nakamaki2016" />」にあるとした。ただし、このルート選定は先述したように、現在線での線増工事が困難であったということも一因である。

一方で、大島洋志は地質技術者として頸城トンネルを含む新線を「究極の防災<ref name="応用地質45(4)" />」と評価している。また、その後同地に建設された[[北陸自動車道]]や[[北陸新幹線]]のトンネル工事に対して貴重な情報を提供したことも指摘している<ref name="応用地質45(4)" />。

== 旧線のその後 ==
旧線については、有間川駅付近から浦本駅付近までの大部分が[[新潟県道542号上越糸魚川自転車道線]](久比岐自転車道)として転用され、徒歩もしくは自転車で通行可能である<ref name="Oshima-Nakamaki2016" />。また、郷津トンネルについては拡張の上、[[国道8号]][[直江津バイパス]]へ転用された。

== 年表 ==
[[ファイル:Kubiki Tunnel in 1967.jpg|サムネイル|1967年(昭和42年)4月7日、第3工区と第4工区の貫通点にて握手する高橋岐阜工事局長(右)と朝倉糸魚川出張所長(左)]]
[[ファイル:Kubiki Tunnel in 1967.jpg|サムネイル|1967年(昭和42年)4月7日、第3工区と第4工区の貫通点にて握手する高橋岐阜工事局長(右)と朝倉糸魚川出張所長(左)]]
* 1964年(昭和39年)8月 - 地質調査委員会の調査を踏まえ、本区間の複線別線計画を決定する<ref>藤井浩、「注目の頸城長大隧道工事計画 北陸本線糸魚川-直江津間線増工事」、『交通技術』第21巻第4号(15頁)、1966年(昭和41年)4月、交通協力会</ref>。
* 1964年(昭和39年)8月 - 地質調査委員会の調査を踏まえ、本区間の複線別線計画を決定する<ref>藤井浩、「注目の頸城長大隧道工事計画 北陸本線糸魚川-直江津間線増工事」、『交通技術』第21巻第4号(15頁)、1966年(昭和41年)4月、交通協力会</ref>。
* 1966年(昭和41年)2月 - 国鉄岐阜工事局が城隧道の建設を発する<ref name=":1">「北陸本線頚城トンネル第3~4工区貫通」、『交通技術』第22巻第6号(223頁)、1967年(昭和42年)6月、交通協力会</ref>。
* 1966年(昭和41年)2月 - 国鉄岐阜工事局が城隧道の建設を発する<ref name=":1" />。
* 1967年(昭和42年)4月7日 - 第3工区と第4工区が貫通する<ref name=":1" />。
* 1967年(昭和42年
** 4月7日 - 第3工区と第4工区が貫通する<ref name=":1" />。
** 8月10日 - 第4工区と第5工区が貫通する<ref name = "岐工50_214" />。
* 1968年(昭和43年)8月28日 - 第2工区と第3工区が貫通する<ref name = "岐工50_214" />。
* 1969年(昭和44年)
* 1969年(昭和44年)
** 1月7日 - 第1工区と第2工区が貫通し、全区間が貫通する<ref>「使用開始間近かの頸城隧道―延長日本第3位」、『交通技術』第24巻第10号(372頁)、1969年(昭和44年)6月、交通協力会</ref>。
** 1月7日 - 第1工区と第2工区が貫通し、全区間が貫通する<ref>「使用開始間近かの頸城隧道―延長日本第3位」、『交通技術』第24巻第10号(372頁)、1969年(昭和44年)6月、交通協力会</ref>。
** 5月 - トンネル工事完成<ref name = "岐工50_220" />。
** 6月10日 - 隧道銘標除幕式及びレール締結式を挙行する<ref>『昭和45年版 交通年鑑』(14頁)、1970年(昭和45年)2月、交通協力会</ref>。
** 6月10日 - 隧道銘標除幕式及びレール締結式を挙行する<ref>『昭和45年版 交通年鑑』(14頁)、1970年(昭和45年)2月、交通協力会</ref>。
** 9月10日 - 能生駅構内において工事碑および慰霊碑の除幕式が行われる<ref name = "岐工50_222" />。
** 9月29日 - 浦本駅 - 有間川駅間において複線の供用を開始する<ref>日本国有鉄道編、『日本国有鉄道百年史年表』、1972年(昭和47年)10月、日本国有鉄道</ref>。
** 9月29日 - 浦本駅 - 有間川駅間において複線の供用を開始する<ref>日本国有鉄道編、『日本国有鉄道百年史年表』、1972年(昭和47年)10月、日本国有鉄道</ref>。

== 旧線のその後 ==
旧線については、有間川駅付近から浦本駅付近までの大部分が[[新潟県道542号上越糸魚川自転車道線]](久比岐自転車道)として転用され、徒歩もしくは自転車で通行可能である。また、郷津トンネルについては拡張の上、[[国道8号]][[直江津バイパス]]へ転用された。


==脚注 ==
==脚注 ==
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{{Reflist|group="注釈"}}
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="JREA196308">{{Cite journal|author=松本有|month=08|year=1963|title=北陸本線富山操車場~直江津間の線増計画|url=http://jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-8.pdf|journal=JREA|volume=6|issue=8|page=|pages=pp.35-39|publisher=日本鉄道技術協会}}</ref>
<ref name="JREA196308">{{Cite journal|author=松本有|month=08|year=1963|title=北陸本線富山操車場~直江津間の線増計画|url=http://jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-8.pdf|format=PDF|journal=JREA|volume=6|issue=8|page=|pages=pp.35-39|publisher=日本鉄道技術協会}}</ref>
<ref name="kensetsukikaika184">{{Cite journal|author=堀内義郎|month=6|year=1965|title=北陸本線糸魚川~直江津間の線増工事|url=http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1965/jcma-1965_06.pdf|journal=建設の機械化|volume=|issue=184|page=|pages=pp.25-28|publisher=日本建設機械化協会}}</ref>
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<ref name="kensetsukikaika199">{{Cite journal|author=加茂金吾|month=9|year=1966|title=頸城トンネル工事の計画概要|url=http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1966/jcma-1966_09.pdf|journal=建設の機械化|volume=|issue=199|page=|pages=pp.39-40|publisher=日本建設機械化協会}}</ref>
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<ref name="kensetsukikaika212">{{Cite journal|author=小林正一|month=10|year=1967|title=木浦トンネル導坑におけるトンネル掘進機の実績|url=http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1967/jcma-1967_10.pdf|journal=建設の機械化|volume=|issue=212|page=|pages=pp.23-28|publisher=日本建設機械化協会}}</ref>
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<ref name="landslide31-4">{{Cite journal|author=福本安正|month=|year=1995|title=地すべり災害と対策技術発展の歴史―草創から終戦までの系譜 ―|url=https://doi.org/10.3313/jls1964.31.4_30 |journal=日本地すべり学会誌|volume=31|issue=4|page=|pages=pp.30-37|publisher=日本地すべり学会|doi=10.3313/jls1964.31.4_30}}</ref>
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<ref name="日本鑛業會誌83(955)">{{Cite journal|author=三沢 清扶・高橋 昭教|month=|year=1967|title=小松ロビンスT. M. 230 G型使用実績:北陸本線・木の浦トンネルにおける|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/83/955/83_955_1343/_pdf/-char/ja|format=PDF|journal=日本鑛業會誌|volume=83|issue=955|page=|pages=1343-1345|publisher=資源・素材学会}}</ref>
<ref name="Oshima-Nakamaki2016">{{Cite journal|author=大島登志彦・中牧崇|year=2016|title=新潟県上越地域における鉄道遺産の活性化のあり方と地域公共交通の課題|url=https://tcue.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=776&item_no=1|journal=高崎経済大学論集|volume=58|issue=4|page=|pages=pp.1-15|publisher=[[高崎経済大学]]}}</ref>
<ref name="Oshima-Nakamaki2016">{{Cite journal|author=大島登志彦・中牧崇|year=2016|title=新潟県上越地域における鉄道遺産の活性化のあり方と地域公共交通の課題|url=https://tcue.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=776&item_no=1|journal=高崎経済大学論集|volume=58|issue=4|page=|pages=pp.1-15|publisher=[[高崎経済大学]]}}</ref>
<ref name = "RF678">{{Cite journal | 和書 | author = 伊藤博康 | title = 特集鉄道なんでも日本一2017 補遺 | journal = 鉄道ファン | issue = 678 | year = 2017 | month = 10 | pages = 139 | publisher = 交友社}}</ref>
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<ref name = "土木学会誌54(5)">{{Cite journal | 和書 | author = 金原弘、美藤恭久、原恒雄 | title = 強大な膨張性土圧を受けた頚城トンネルの施工 | journal = 土木学会誌 | volume = 54 | issue = 5 | pages = 25 - 32 | year = 1969 | month = 5 | publisher = 土木学会}}</ref>
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<ref name = "岐工50_213">[[#岐工50|『岐阜工事局五十年史』p.213]]</ref>
<ref name = "岐工50_214">[[#岐工50|『岐阜工事局五十年史』p.214]]</ref>
<ref name = "岐工50_215">[[#岐工50|『岐阜工事局五十年史』p.215]]</ref>
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}}
<!-- 土木学会誌については、原文で「頸城」ではなく「頚城」となっているため、それを尊重して記載してあります -->

== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | title = 岐阜工事局五十年史 | publisher = 日本国有鉄道岐阜工事局 | date = 1970-03-31 | ref = 岐工50}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[延長別日本の交通用トンネルの一覧]]
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2018年10月30日 (火) 14:53時点における版

頸城トンネル
頸城トンネル 名立・直江津方坑口(終点)
地図
1.能生市振米原)方坑口(起点)、2.筒石駅3.名立直江津)方坑口(終点)
注:この地図上では鉄道の線形は表示されていない。表示されているのは並行する北陸自動車道
概要
路線 えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン
位置 新潟県
座標 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度 / 37.14056; 138.07417座標: 北緯37度8分26秒 東経138度4分27秒 / 北緯37.14056度 東経138.07417度 / 37.14056; 138.07417
現況 供用中
起点 新潟県糸魚川市
終点 新潟県上越市名立区
駅数 1
運用
建設開始 1966年(昭和41年)
開通 1969年(昭和44年)9月29日
管理 えちごトキめき鉄道
技術情報
全長 11,353 m
軌道数 2(複線、一部3線)
軌間 1,067 mm
電化の有無 有(直流1500 V
テンプレートを表示

頸城トンネル(くびきトンネル)は新潟県内のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン(旧北陸本線)にあるトンネルである。本項では、本トンネルを含む北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線化工事に伴う改良についても述べる。

概要

日本国有鉄道(→JR西日本)北陸本線能生駅(新) - 名立駅(新)間に設置され、2015年(平成27年)3月14日に、本区間に並行して北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間が開業したことに伴い、本区間を含む市振駅 - 直江津駅間がえちごトキめき鉄道に移管され、現在の所属となった。

1969年(昭和44年)の同線糸魚川駅 - 直江津駅間の複線電化に伴い浦本駅 - 有間川駅に建設された新線を構成し、トンネル中間には日本で3例目の山岳トンネル内の駅となった筒石駅が設置されている。延長は11,353 m であり、これは、完成当時北陸本線北陸トンネル(13,870 m)、上越線新清水トンネル(13,490 m)に次ぐ国内第3位であり[1]、えちごトキめき鉄道移管後は、JR線以外(いわゆる民鉄)の鉄道トンネルとして日本最長となった[注釈 1]

本区間は複線となっているが、名立駅の待避側線設置の関係上、名立方 280 mは3線となっている[注釈 2]。また、筒石駅部は幅2 mの片面ホームをトンネルの片方の側面に設置する特殊断面とし、これを上下線でずらして点対称に配置している[1]

建設の背景

旧線区間の概要・問題

糸魚川市徳合の旧線跡地(新潟県道542号上越糸魚川自転車道線、2012年)

糸魚川駅 - 直江津駅間は1911年(明治44年)に直江津駅 - 名立駅間が信越本線支線として開通したのを皮切りに、翌1912年(大正元年)には糸魚川まで延伸され[3]1913年(大正2年)には富山駅から延伸を重ねた北陸本線と接続し、北陸本線に編入された。当初この区間は、日本海の海食崖・山裾を縫う形で9本のトンネル・9か所の半径 300 m の曲線をもって敷設された[3]。しかし、以下の問題があった。

地すべり

1916年(大正5年)9月26日の地すべりにより破壊された筒石駅
1934年(昭和9年)2月16日に能生駅 - 筒石駅間で発生した地すべりを伝える東京朝日新聞の記事

新潟県は全国有数の地すべり地帯であるが、糸魚川駅 - 直江津駅間が通過する旧西頸城郡はいわゆる糸魚川静岡構造線地帯であり、新第三紀層と不整合に被覆する第四紀層からなる地質条件を持つ。このため旧西頸城郡だけでも、主要な地すべり地総面積は 3,000 ha におよぶ[4]。また、旧西頸城郡の地すべりは新潟県で一般的な継続的な地すべり(1.0 - 1.5 m / 年程度で絶えず滑動)ではなく、周期的な滑動が始まると急激な崩壊を生じる、間けつ的崩壊型と呼ばれるものであり、崩壊末期の速度は 10 m / sec に達することから予知・対策が難しいとされる[4]

同区間は建設時から筒石川河口付近で線路の隆起・移動、複数回の地すべりが発生し[5]、糸魚川駅 - 直江津駅間では開通から1965年(昭和30年)にかけて、主要なもの[注釈 3]だけでも36回もの運行停止を招く水害・土砂崩壊・地すべり等が発生し、うち脱線あるいは転覆事故は15回を数え[4]、その後も新線切替まで災害に苦しめられた。

特に地すべり災害については開通から新線に切り替わる1969年(昭和44年)までに21件発生し、運休日数は延べ165日におよぶ、全国でもまれに見る地すべり多発線区であった[5]。特に全体が凝灰質の地層条件である能生駅 - 筒石駅間は特に地すべりが多く、地すべり土塊の中に設置された旧筒石駅は1916年(大正5年)には地すべりで駅舎が破壊され[6]、その後1946年(昭和21年)12月にも地すべりが発生している[7]

沿線で特に甚大であった被害としては1963年(昭和38年)3月16日16時20分頃、能生町(当時)小泊(能生 - 筒石間、白山トンネル北側坑口付近)において発生した、大規模な連続地すべり(小泊地すべり)があげられる[8]。この地すべりは延長 370 m 、幅100 - 170 m 、面積 45 ha におよび、北陸本線と国道8号沿いの民家を直撃・破壊し、集落では人家31戸と国道200 m が埋没して死傷者は25名に及んだ[8]

この際、北陸本線は現場を通りかかった敦賀発直江津行き普通225列車(機関車C57 90、客車7両編成)が地すべりに乗り上げた後、機関車と客車1両が泥流に乗って埋もれた集落の上を流され、沖合にまで到達した[8]。この事故では、列車が最初の地すべりに乗り上げてから次の地滑りによって流されるまでに約20分ほど時間的猶予があったために迅速な避難が行えたこと、機関士がトンネル出口で地すべりを発見して非常停止措置を取ったため列車の速度が35 km/h程度と遅かったこと、乗客が100 - 150名程度と比較的少なかったことなどから、列車乗客・乗務員の死者はなかったが、北陸本線は復旧・開通に20日間を要した[3]

速度向上の難しさ・逼迫する輸送量

この区間は小さく急曲線が連続するため、速度向上が困難であり、当時運行されていたキハ80系気動車(最高速度100 km/h)による特急列車「白鳥」もこの区間の表定速度は約60 km/h に過ぎなかった[3][注釈 4]

また、単線区間であることによりこの区間は線路容量が小さく、最も低い筒石駅 - 名立駅間では列車運行回数は83回が限界となっていた[3]。しかし、輸送量の増大により1963年(昭和37年)の時点で同区間を含む糸魚川駅 - 直江津駅間は限界一杯の84回列車を運行するに至っていた[3]。このため、応急的に3か所の信号場(木浦・百川・西名立)が設置され、線路容量が引き上げられることとなったが、それでも1965年(昭和40年)ごろには列車運行回数が104回に達する見込みであり、輸送力の限界を迎えると考えられていた[3]

糸魚川駅 - 直江津駅間複線化の検討

1957年(昭和32年)以来、北陸本線は順次複線化・電化が進められ、1965年(昭和40年)の時点で米原駅 - 直江津駅間357 kmのうち米原駅 - 富山操車場(現:富山貨物駅)間、175 km の複線化・電化を完了し、富山操車場 - 糸魚川駅間についても順次工事中という状況であった[4]。最後に残る糸魚川駅 - 直江津駅間も、逼迫する輸送への対応として早急な複線化・電化が迫られた。

このうち、糸魚川駅 - 能生駅間、有間川駅 - 直江津駅間は、地すべりの影響は小さく腹付線増・曲線改良が比較的容易と考えられ、トンネルの存在する有間川駅 - 谷浜駅間および郷津駅 - 直江津駅間については、前者が複線新トンネル建設、後者が単線トンネル建設・旧トンネル改修による線増(もしくは郷津駅を放棄し谷浜駅 - 直江津駅間を短絡する複線の新線を建設)とすることで対応可能と考えられた[3]。しかし、能生駅 - 有間川駅間については鉄道沿線・内陸部共に地すべり地帯にあり、わずかな切取りによって地すべり・土砂崩壊が発生する恐れから、現在線への腹付による線増や曲線改良は不可能であった[3]。加えて、仮に新線を敷設するとしても、災害多発地帯を通過することから、防災的な見地からルート選定を行う必要があった。

このため改良に当たっては、

  1. 現在線を下り線とし、単線の新線を上り線として建設する案
  2. 現在駅をすべて利用するが、浦本駅 - 谷浜間の地すべり地帯は駅間を複線トンネルによる新線で結ぶ案
  3. 現在駅を一部通過しない複線の新線を建設し、一部駅を移転・廃止する案

などが想定されたが[3]、これらの案は、それぞれ以下の欠点があった[3]

  • 1. は下り線が今後も災害を伴い、曲線改良ができない。
  • 2. は地すべり地帯に多くのトンネル坑口ができる。
  • 3. は廃止・移転される駅が生じ、その処置が問題となる。

1963年(昭和38年)からは「北陸本線糸魚川 - 直江津間地質調査委員会」が設けられ、本格的な調査・検討が行われた[4]。その結論としては、現在線について、急速崩壊型の地すべりであり予知・防止が極めて困難であることを踏まえ、「地すべりの発生時期と規模を的確に予知することはできず抜本的な予防対策はたてがたい」とし、「根本的には、複線化の際に地すべり地帯を極力避けた別線の複線ルートを選ぶべき」「どうしても避けられぬ場合には想定される最深の地すべり面(地表から30~40 m の深さ)より深くトンネルでもぐるべきである」とした[4]

以上を踏まえ糸魚川駅 - 直江津駅間の線増は、いずれも地すべり危険地域を避ける新線を建設し、駅移設・廃止を伴う3案が選定され、検討が行われた。なお、新線建設に当たっては、単線で新線を建設し、当面は現在線と併用して輸送量を確保し、のちに新線を複線化することで、投資を繰り延べるという手法もあったが、当初から複線で建設することが前提とされた。これは、単線で建設した場合、新線に信号場の設置が必要であり、数年後に新線を線増することを踏まえると、輸送能力や投資の面で有利とならないと判断されたためである[4]

北陸本線糸魚川駅 - 直江津駅間線増にあたり検討された路線の比較[4]
計画概要 線路
延長
(km)
最急
勾配
(‰)
トンネル
総延長
(km)
最長
トン
ネル
(km)
曲線
半径
工事費
(億円)
年間
経費
(百万円)
備考
糸魚川駅
- 浦本駅
浦本駅 - 直江津駅
浦本駅 -
新能生駅
予定地[注釈 5]
新能生駅予定地 - 直江津駅
新能生駅予定地 - 有間川駅 有間川駅
- 谷浜駅
谷浜駅 -
直江津駅
A 現在線を線増 山側に新線建設。木浦川を境に2.570 km、1.550 kmのトンネルで結ぶ。能生駅は新線上に移設。 山側に新線建設。21.300 kmのトンネルで結ぶ。 37.1 10 25.52 21.30 R=600以上×10 205 2,578 トンネル内に信号場設置が必要
B 山側に新線建設。14.750 kmのトンネルで同区間を直線的に結ぶ。 現在線を線増。但し長浜トンネル付近は旧線を放棄し、1.140 kmの複線トンネルを新設。 山側に新線建設。郷津駅を放棄し3.550 kmのトンネルで結ぶ。 38.4 10 23.36 14.75 R=600以上×19 182 2,529
C 山側に新線建設。途中名立川付近の地上を経由し、前後を11.250 kmのトンネルと3.590 kmのトンネルで結ぶ。 38.9 10 23.45 11.25 R=600以上×21 186 2,568 採用案
(参考)旧線 41.3 10 3.09 0.65 R=400未満×30

R=500未満×17

R=600未満×6

R=600以上×34

(各案備考) 浦本 - 直江津間 浦本 - 直江津間 車両電化を除く 1975年度を想定

比較の結果、投資額・年間経費の面で最も有利であったのはB案であった[4]。しかしこの案では待避を行うための信号場をトンネル内に設置する必要がある[注釈 6]一方で、地質上の問題から4線断面のトンネルの掘削は技術的に困難と判断された[4]。加えて駅廃止数を抑制するという、営業面の問題から、ルートはC案が選択され[4]、これを基に計画が行われた。

頸城トンネルの建設

北陸本線糸魚川 - 直江津間線増工事は1966年(昭和41年)3月に着工し、施工は日本国有鉄道岐阜工事局が担当した[9]

建設に当たっては、6本(糸魚川方から浦本、木浦、頸城、名立、長浜、湯殿)の複線(一部3線)、計約23.5 kmのトンネルが掘削された。

新線では、湯殿トンネルによって迂回される郷津駅(谷浜駅 - 直江津駅間)が代替駅を設けず廃止となり、能生駅は旧駅から約700 m山側の木浦・頸城トンネル間の明かり区間、名立駅が旧駅から約1.6 km山側に離れた頸城・名立トンネル間の明かり区間に新駅を設け移転するかたちとされた。筒石駅については廃止計画があったとされるが[10][注釈 7]、地元の強い要望があったため[11]、最終的には頸城トンネル内にホームを設けることとなった。

建設担当と工区割

筒石斜坑(現:筒石駅旅客通路 2011年)

頸城トンネルは1969年(昭和44年)秋までに複線電化を完成させる目途から[1]、両坑口のほか、山王、筒石(現筒石駅付近[1])、徳合の3か所に斜坑を設け、5工区に分けての施工を実施した。当初、斜坑は山王、濁澄、徳合の3か所を計画した[4]が、先述の筒石駅設置の要望を受け、斜坑の旅客通路転用を考慮し、濁澄の斜坑を筒石に変更した[11]。しかし、後述する進捗状況への不安から濁澄川の谷にも追加の斜坑(大藤崎斜坑)を設置している[12]。第1工区と第2工区の間、第2工区と第3工区の間、第4工区と第5工区の間には、それぞれ600 mの未契約区間が当初残されており、その後の進捗に応じて契約して工程の調整を行った[13]

頸城トンネル工区割
工区名 第1 第2 第3 第4 第5
着工 1966年4月23日 1966年3月14日 1966年2月21日 1966年3月5日 1966年2月26日
竣工 1969年3月31日 1969年4月10日 1969年4月5日 1969年4月5日 1969年1月15日
キロ程 337 km 418 m 66-
339 km 550 m
339 km 550 m -
342 km 300 m
342 km 300 m -
344 km 840 m
344 km 840 m -
346 km 900 m
346 km 900 m -
348 km 771 m 66
延長 2,131 m 34 2,750 m 2,540 m 2,060 m 1,871 m 66
作業坑 なし 山王斜坑 174.3 m
340 km 170 m地点
大藤崎斜坑 171 m
342 km 950 m地点
筒石斜坑 232.1 m
344 km 545 m地点
徳合斜坑 174.4 m
346 km 057 m 30地点
なし
施工業者 大成建設 間組 熊谷組 鹿島建設 鉄建建設
請負金額 15億7500万円 16億3900万円 17億5400万円 10億2700万円 9億8300万円

線形と規格

坑口付近に能生川と名立川があり、またこれらに沿う県道との立体交差の都合上、両側坑口の高さは決定され、また山王川、濁澄川、筒石川、徳合川の各河川の下を横切るときにできるだけ大きな土被りを確保したいということや、地すべり土塊下の良質地層下にトンネルがあるようルートを定めたため、中央部分に半径800 - 1000 m の曲線を介在させている[1][14][12]。また、上述の制約を受け、線路規格上の上限勾配は10 ‰ であるものの、縦断線形は途中濁澄川付近まで2.5 ‰ の上り勾配、そこから出口まで2.0 ‰ の下り勾配と設定された[14][12]。これは泥岩におけるトンネルとしては排水上最小限とされる値である。この縦断線形により土被りの厚さは、山王川で18.4 m 、濁澄川で13.5 m 、筒石川で15.2 m 、徳合川で9.0 m となり、これらの地区では慎重な施工が必要となった[12]

断面は直流電化複線形とされ、内空断面積は複線区間で51平方メートル、3線断面区間については91平方メートルとなっている[12]

地質

地質は、能生谷層と呼ばれる泥岩が入口側から濁澄川付近まで続き、その上にさらに砂岩と泥岩が互層となって重なっている。徳合川の谷を境に名立川層と称する泥岩が主体となる。いずれも第三紀層に属する比較的新しい地層で、固結度が低いものであった。特に第1工区から第3工区にかけては、地殻変動の甚だしい地帯で、ベントナイト凝灰岩が介在し、地すべり崩土層が広く分布するとともに、メタンガスの検知、石油の湧出、異常膨張性泥岩の存在、摂氏30度に達する高温など、数々の困難に見舞われることになった[11]

第1工区

第1工区は大成建設により、米原方坑口から着手した。掘削方式は当初標準の底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法[注釈 8](以下、標準工法)を採用し、当初の1,000 m ほどの区間は順調なペースで掘削が進んだ[13]

石油の浸出、ベントナイト質凝灰岩や断層の出現などにも対応して掘削を進めてきたが、坑口から1,500 m を超える頃に異常な膨圧を受ける区間に達した。この区間では、上半断面の掘削を行うことで、同じ付近の底設導坑が変状して断面が縮小するようになり、縫い返し(掘削のやり直し)が必要となった。1967年(昭和42年)10月19日に導坑掘進は不可能となり、その後の上部半断面の掘削により導坑は完全に圧壊した。さらに同年11月30日には上部半断面の掘削も中止となり、工法の再検討を余儀なくされた[16]

このため、標準工法を放棄し、上部半断面先進ベンチカット併進逆巻工法[注釈 9]を採用することにした。。またそれまで底部はほぼ平坦な断面形状を採用していたが、円形に近い断面に変更し、覆工は2回施工することで1回目の覆工がその後縮小しても対応しやすくする、上半断面と下半断面の施工間隔を短くして早期に全断面の覆工を完成させる、といった方針となった。これにより1968年(昭和43年)4月3日より掘削を再開し、以降は順調に工事を進められた。途中膨張はなくなり標準工法に復帰することも検討したが、既に残り工区長が150 m ほどになり、今から工法を切り替えるのは工期・工費的に得策ではないとされたことから、トンネル断面のみ標準に戻して工区境まで工事を継続した。1969年(昭和44年)1月7日に貫通した[17]

第2工区

第2工区は間組により、山王斜坑によって本坑へ取り付いて着手した[14]。順調に工事を進めてきたものの、途中でやはり上半断面の工事により導坑断面が縮小する現象が見られるようになり、サイロット工法や特殊サイロット工法[注釈 10]に切り替えて工事が行われた[17]。第1工区が苦闘して工程が遅れていた関係で、第1工区と第2工区の間に600 m 残されていた未契約区間は、すべて第2工区の受け持ちとされた。一方、第2工区と第3工区の間に600 m 残されていた未契約区間については、第2工区側の掘削停止期間の関係もあり、第3工区側がすべて受け持つことになった[11]

第3工区

第3工区は熊谷組により、筒石斜坑によって本坑に取り付いて着手した[14][18]。筒石斜坑より直江津方は標準工法を採用し、また筒石駅設置に伴って側幅が1.3メートル広い筒石駅断面と称する特殊断面を280 m にわたって掘削した。こちらの区間は順調に進行し、1967年(昭和42年)7月7日に頸城トンネル中最初の貫通となった[18]

一方筒石斜坑より米原方は、請負者の希望により当初からサイロット工法を採用して掘削した。しかし強大な地圧により導坑の支保工が変形し崩壊の恐れがあるなど苦心し、導坑の縫い返し、仮巻コンクリートなど様々な対策で突破した[18]。着工から約18か月を経過した段階で、第1工区から第3工区にかけてとその未契約区間の工程に不安を持たれるようになり、濁澄川の谷に大藤崎斜坑を新設して、590 m (米原起点342 km 310 mから342 km 900 m)については、大藤崎斜坑からの施工を行った[12][18]。結果的に第3工区と第2工区の境の600 m の未契約区間は、すべて第3工区の担当となった[11]

第4工区

第4工区は鹿島建設により、徳合斜坑によって本坑に取り付いて着手した[14][18]。標準工法を用い、湧水も少なく順調に施工した[12][18]。第4工区と第5工区については順調に掘削が進んだことから、工区境にある600 m の未契約区間は、300 m ずつ分割してそれぞれ施工した[11]

第5工区

第5工区は鉄建建設により、直江津方の坑口から着手した[14][18]。坑口付近280 m が3線断面[1]になっていたことから、この付近についてはサイロット工法で掘削を行った。第5工区については比較的順調に掘削が行われた[18]

完成

第1 - 第3工区の難航により当初の工期が危ぶまれたものの、1969年(昭和44年)1月7日に第1工区と第2工区の境において、トンネル全区間が貫通した[17]。軌道工事については、電蝕防止のため木製の枕木を採用し、また将来的な保守の都合から第1 - 第3工区についてはバラスト軌道、第4工区と第5工区についてはコンクリート道床を採用した[19]。トンネル自体の工事は同年5月に全面完成し[20]、予定通りの完成となった[21]

1969年(昭和44年)6月10日に頸城隧道銘標除幕式およびレール締結式が実施された。銘標は米原方が石田礼助日本国有鉄道総裁、直江津方が藤井松太郎技師長(いずれも当時)の筆によるものである。レール締結式は米原方坑口から約25メートル入った場所、下り337 km 439 m 30地点、上り337 km 433 m 50地点で実施された[19]。また能生駅構内において、1969年(昭和44年)9月10日に工事碑および慰霊碑の除幕式が行われた[22]

その他線増工事における特筆すべき工事

木浦トンネル(浦本駅 - 能生駅)

能生川橋梁(写真中央)の左奥が木浦トンネル(2010年)

木浦トンネルは頸城トンネルと同様、底設導坑先進上部半断面掘削逆巻工法を用いたが、国鉄におけるトンネルボーリングマシン(以下TBM)施工の可能性、使用時の問題点、経済性の検討を行うため、一部区間で、底設導坑をTBMによる導坑に置き換えた、TBM先進工法で施工した[23][24]

TBMは愛媛県新居浜市住友共同電力東平発電所工事から転用された国産第1号のもの(小松ロビンスT.M.230G型)を小松製作所から有償で借上げ、施工業者の前田建設工業に貸与の上、用いられた[23][24]

使用されたのは延長1,570 m のうち887 m で、1967年(昭和42年)1月12日に直江津方坑口から125.3 m の地点から掘削を開始した[24]。木浦トンネルも能生谷層に属する泥岩主体の地質であり、試験掘削期間中には大量の湧水に遭遇したが、2月18日からの本工事では掘削はほぼ順調に進行し、3月には、月進(29日間)362 m、平均日進12.5 m を達成し、3月25日には日進246 m を達成した[24]。TBMによる掘削は5月5日、岩質が軟弱となりTBMによる掘削が困難となったことから終了し[23]5月16日に米原起点335.6518 km 地点にて、米原方から発破工法で掘削した底設導坑と貫通した[24]

糸魚川 - 直江津駅間線増工事の完成

谷浜 - 有間川間 新線の長浜トンネルと旧線桑取川橋梁の橋台(2016年)

頸城トンネルをはじめとした糸魚川駅 - 直江津駅間の線増工事は、長浜トンネルを含む有間川駅 - 谷浜駅間が1968年(昭和43年)9月25日に複線化されたことを皮切りに、翌1969年(昭和44年)には、6月4日に糸魚川駅 - 梶屋敷駅間、6月19日に梶屋敷駅 - 浦本駅間が線増により複線化され、残る新線区間は、頸城トンネル等を含む浦本駅 - 有間川駅間が9月29日、湯殿トンネルを含む谷浜駅 - 直江津駅間が10月1日に供用を開始し、併せて直流1500 Vでの電化[注釈 11]を行ったことで、北陸本線は全線の複線電化が完成した。

新線建設の効果と評価

この新線について、大島登志彦・中牧崇は地域公共交通の観点から、駅の移転などで地域にとっては大幅に利便性が悪化したこと等を挙げた上で、「特急列車のスピードアップを前提としたもの[10]」「地域輸送を二の次にして幹線輸送に特化したもの[10]」と評価し、その後、地域輸送を主眼とした第3セクターであるえちごトキめき鉄道への転換に当たっては「直ちにその特性を発揮できない体制[10]」にあるとした。ただし、このルート選定は先述したように、現在線での線増工事が困難であったということも一因である。

一方で、大島洋志は地質技術者として頸城トンネルを含む新線を「究極の防災[25]」と評価している。また、その後同地に建設された北陸自動車道北陸新幹線のトンネル工事に対して貴重な情報を提供したことも指摘している[25]

旧線のその後

旧線については、有間川駅付近から浦本駅付近までの大部分が新潟県道542号上越糸魚川自転車道線(久比岐自転車道)として転用され、徒歩もしくは自転車で通行可能である[10]。また、郷津トンネルについては拡張の上、国道8号直江津バイパスへ転用された。

年表

1967年(昭和42年)4月7日、第3工区と第4工区の貫通点にて握手する高橋岐阜工事局長(右)と朝倉糸魚川出張所長(左)
  • 1964年(昭和39年)8月 - 地質調査委員会の調査を踏まえ、本区間の複線別線計画を決定する[26]
  • 1966年(昭和41年)2月 - 国鉄岐阜工事局が頸城隧道の建設を発注する[27]
  • 1967年(昭和42年)
    • 4月7日 - 第3工区と第4工区が貫通する[27]
    • 8月10日 - 第4工区と第5工区が貫通する[14]
  • 1968年(昭和43年)8月28日 - 第2工区と第3工区が貫通する[14]
  • 1969年(昭和44年)
    • 1月7日 - 第1工区と第2工区が貫通し、全区間が貫通する[28]
    • 5月 - トンネル工事完成[20]
    • 6月10日 - 隧道銘標除幕式及びレール締結式を挙行する[29]
    • 9月10日 - 能生駅構内において工事碑および慰霊碑の除幕式が行われる[22]
    • 9月29日 - 浦本駅 - 有間川駅間において複線の供用を開始する[30]

脚注

注釈

  1. ^ それまでの民鉄最長の鉄道トンネルは1997年(平成9年)供用開始の北越急行ほくほく線赤倉トンネル(10,472 m)[2]
  2. ^ 同様の理由から名立駅を挟んで隣接する名立トンネルも、一部3線断面となっている。
  3. ^ 列車支障5時間以上、土砂崩壊500立方メートル以上、列車脱線または転覆のいずれかに該当するもの。
  4. ^ もっとも、1961年(昭和36年)運転開始時の「白鳥(いわゆる「青森白鳥」)」は大阪駅 - 青森駅間1052.9 km を15時間45分かけて走行しており、表定速度は66.85 km/h であった。
  5. ^ (現)能生駅の位置に相当
  6. ^ 採用案でも、地上に設置された能生駅、名立駅に退避設備を設置している。
  7. ^ ルートが決定した1965年(昭和40年)の時点では「新能生駅」「新名立駅」は記載が見られるが、筒石駅については新線上に記載がなく[4]、翌1966年(昭和41年)に出版された計画概要では「新筒石駅」が記載されている[1]
  8. ^ トンネル底部中央に設けた導坑をまず掘削し、その後上半断面を掘削してトンネル天井部の覆工を行い、下半断面を全体に切り広げて側壁コンクリートを打設し、最後に底部のインバートを打設する工法[15]
  9. ^ トンネル上半部を先に掘削して天井部の覆工を行い、下半部に広げて全体を覆工するという手順の工法
  10. ^ サイロット工法は、最初にトンネル下部両側壁付近に導坑を掘ってまず側壁を覆工し、続いてそれを全断面に広げて天井部の覆工をするという手順の工法。特殊サイロット工法はそれに中央底部の導坑を加えたもの[15]
  11. ^ 但し、糸魚川以西は交流20 kV・60 Hzで電化されていたため、糸魚川駅 - 梶屋敷駅間に交直デッドセクションを設けた。

出典

  1. ^ a b c d e f g 加茂金吾 (9 1966). “頸城トンネル工事の計画概要” (PDF). 建設の機械化 (日本建設機械化協会) (199): pp.39-40. http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1966/jcma-1966_09.pdf. 
  2. ^ 伊藤博康「特集鉄道なんでも日本一2017 補遺」『鉄道ファン』第678号、交友社、2017年10月、139頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 松本有 (08 1963). “北陸本線富山操車場~直江津間の線増計画” (PDF). JREA (日本鉄道技術協会) 6 (8): pp.35-39. http://jrea.or.jp/jrea/data/1963/JREA_1963-8.pdf. 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 堀内義郎 (6 1965). “北陸本線糸魚川~直江津間の線増工事” (PDF). 建設の機械化 (日本建設機械化協会) (184): pp.25-28. http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1965/jcma-1965_06.pdf. 
  5. ^ a b 福本安正 (1995). “地すべり災害と対策技術発展の歴史―草創から終戦までの系譜 ―”. 日本地すべり学会誌 (日本地すべり学会) 31 (4): pp.30-37. doi:10.3313/jls1964.31.4_30. https://doi.org/10.3313/jls1964.31.4_30. 
  6. ^ 「北陸線筒石駅構内の地辷り大崩壊」、『大正五年十一月 立太子式奉祝号 歴史写真』、1916年(大正5年)11月、歴史写真会
  7. ^ 斉藤迪孝・室町忠彦・小橋澄治、「土質基礎の回顧と点描 3.鉄道関係(その2)」、『土と基礎』第22巻2号(73頁)、1974年(昭和49年)2月、土質工学会
  8. ^ a b c 西田彰一 (1982-03). “小泊(特集「地すべり」 4. 開発と地すべり)” (PDF). アーバンクボタ (クボタ) 20: p.30. https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/20/pdf/20_4_3.pdf. 
  9. ^ 『岐阜工事局五十年史』p.224
  10. ^ a b c d e 大島登志彦・中牧崇 (2016). “新潟県上越地域における鉄道遺産の活性化のあり方と地域公共交通の課題”. 高崎経済大学論集 (高崎経済大学) 58 (4): pp.1-15. https://tcue.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=776&item_no=1. 
  11. ^ a b c d e f 『岐阜工事局五十年史』p.213
  12. ^ a b c d e f g 朝倉隆「膨張・盤ぶくれ地帯のトンネル施工例 - 頸城トンネル第一工区1500m付近の施工」『土木施工』第9巻第9号、山海堂、1968年9月、40 - 55頁。 
  13. ^ a b 金原弘、美藤恭久、原恒雄「強大な膨張性土圧を受けた頚城トンネルの施工」『土木学会誌』第54巻第5号、土木学会、1969年5月、25 - 32頁。 
  14. ^ a b c d e f g h 『岐阜工事局五十年史』p.214
  15. ^ a b 『岐阜工事局五十年史』p.216
  16. ^ 『岐阜工事局五十年史』pp.215 - 217
  17. ^ a b c 『岐阜工事局五十年史』p.217
  18. ^ a b c d e f g h 『岐阜工事局五十年史』p.218
  19. ^ a b 『岐阜工事局五十年史』p.221
  20. ^ a b 『岐阜工事局五十年史』p.220
  21. ^ 『岐阜工事局五十年史』p.215
  22. ^ a b 『岐阜工事局五十年史』p.222
  23. ^ a b c 小林正一 (10 1967). “木浦トンネル導坑におけるトンネル掘進機の実績” (PDF). 建設の機械化 (日本建設機械化協会) (212): pp.23-28. http://jcma.heteml.jp/bunken-search/wp-content/uploads/1967/jcma-1967_10.pdf. 
  24. ^ a b c d e 三沢 清扶・高橋 昭教 (1967). “小松ロビンスT. M. 230 G型使用実績:北陸本線・木の浦トンネルにおける” (PDF). 日本鑛業會誌 (資源・素材学会) 83 (955): 1343-1345. https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/83/955/83_955_1343/_pdf/-char/ja. 
  25. ^ a b 大島洋志「私のトンネル路線選定秘伝」『応用地質』第45巻第4号、日本応用地質学会、2004年、197 - 209頁。 
  26. ^ 藤井浩、「注目の頸城長大隧道工事計画 北陸本線糸魚川-直江津間線増工事」、『交通技術』第21巻第4号(15頁)、1966年(昭和41年)4月、交通協力会
  27. ^ a b 「北陸本線頸城トンネル第3~4工区貫通」、『交通技術』第22巻第6号(223頁)、1967年(昭和42年)6月、交通協力会
  28. ^ 「使用開始間近かの頸城隧道―延長日本第3位」、『交通技術』第24巻第10号(372頁)、1969年(昭和44年)6月、交通協力会
  29. ^ 『昭和45年版 交通年鑑』(14頁)、1970年(昭和45年)2月、交通協力会
  30. ^ 日本国有鉄道編、『日本国有鉄道百年史年表』、1972年(昭和47年)10月、日本国有鉄道

参考文献

  • 『岐阜工事局五十年史』日本国有鉄道岐阜工事局、1970年3月31日。 

関連項目