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「稗田山崩れ」の版間の差分

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'''稗田山崩れ'''(ひえだやまくずれ)は、[[1911年]]([[明治]]44年)[[8月8日]]に発生した、現在の[[長野県]][[北安曇郡]][[小谷村]]にある稗田山<ref>現在の[[標高]]1,443 m</ref>が[[山体崩壊|崩壊]]した災害。{{要出典範囲|[[1707年]]([[宝永]]4年)に[[静岡県]]で起きた[[大谷崩|大谷崩れ]]、[[1858年]]([[安政]]5年)に[[富山県]]で起きた[[鳶山崩れ]]とともに、[[日本三大一覧|日本三大崩れ]]のひとつとされる|date=2017年8月}}。


== 概要 ==
== 概要 ==
もともと崩壊の起きやすい地盤の地域で、小規模な崩壊や土石流はたびたび発生していた<ref name=jls1964.22.3_1>平林照雄、 宮沢洋介、太田勝 ほか、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jls1964/22/3/22_3_1/_article/-char/ja/ 長野県姫川中流域の地すべり地形について] 地すべり Vol.22 (1985-1986) No.3 P.1-10, {{doi|10.3313/jls1964.22.3_1}}</ref>。1か月前から音響が轟くといった予兆はあったと伝えられる。崩壊に結びつく直接的な要因は不明であるが、崩壊の4日前に台風が通過し記録的な降雨があったとされている<ref name=grj.37.477 /><ref name=sabo1973.38.2_28>宮越英紀、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/sabo1973/38/2/38_2_28/_article/-char/ja/ 稗田山の巨大崩れ] 砂防学会誌 Vol.38 (1985-1986) No.2 P.28-30_2, {{doi|10.11475/sabo1973.38.2_28}}</ref>。
もともと崩壊の起きやすい地盤の地域で、小規模な崩壊や土石流はたびたび発生していた<ref name=jls1964.22.3_1>平林照雄、 宮沢洋介、太田勝 ほか、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jls1964/22/3/22_3_1/_article/-char/ja/ 長野県姫川中流域の地すべり地形について] 地すべり Vol.22 (1985-1986) No.3 P.1-10, {{doi|10.3313/jls1964.22.3_1}}</ref>。1か月前から音響が轟くといった予兆はあったと伝えられる。崩壊に結びつく直接的な要因は不明であるが、崩壊の4日前に台風が通過し記録的な降雨があったとされている<ref name=grj.37.477 /><ref name=sabo1973.38.2_28>宮越英紀、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/sabo1973/38/2/38_2_28/_article/-char/ja/ 稗田山の巨大崩れ] 砂防学会誌 Vol.38 (1985-1986) No.2 P.28-30_2, {{doi|10.11475/sabo1973.38.2_28}}</ref>。


1911年(明治34年)8月8日未明、山頂北側斜面が突如として大崩壊し、[[土砂]]が直下の金山沢と浦川本流を埋め[[死者]]26名の被害を出した。大量の土砂は崩壊地点から約6kmに及び最深部で100m以上の谷を埋める<ref name=grj.37.477>町田洋、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1925/37/9/37_9_477/_article/-char/ja/ 姫川流域の一渓流の荒廃とその下流部に与える影響] 地理学評論 Vol.37 (1964) No.9 P.477-487, {{doi|10.4157/grj.37.477}}</ref>に留まらず、姫川の合流点で堆積。長瀬湖という[[天然ダム]]湖を形成した。このダムが湛水したことから急遽、地元住民らの手で排水路の設置による災害対策が講じられたが功を奏せず、一部が決壊。大量の土砂が流出し、[[糸魚川市]]の[[河口]]にまで被害が及び、姫川沿いの多くの家々が居住不能、田畑は耕作不能となり、周辺の海域で[[魚]]の大量死が発生した。この結果、集団移転する集落や一家離散する家々が相次いだ。崩壊地の面積は 180ha<ref name=grj.37.477 /> 、崩壊土砂量は資料により差違があり2,300万m{{sup|3}}<ref name=sabo1973.38.2_28 />と1億5千万m{{sup|3}}<ref name=jsprs1962.11.21>榎本正雄、榎本真、中島彬、[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsprs1962/11/1/11_1_21/_article/-char/ja/ 浦川土石流調査] 写真測量 Vol.11 (1972) No.1 P.21-26 ,{{doi|10.4287/jsprs1962.11.21}}</ref>とされ、日本における20世紀最大級の[[土砂災害]]となった。
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== 現在の稗田山 ==
== 現在の稗田山 ==

2018年10月3日 (水) 13:09時点における版

稗田山崩れ
発災日時 1911年(明治44年)8月8日
被災地域 日本の旗 長野県北安曇郡小谷村
人的被害
死者
26人人
テンプレートを表示
稗田山崩れの位置(長野県内)
稗田山崩れ
稗田山の位置(長野県)

稗田山崩れ(ひえだやまくずれ)は、1911年明治44年)8月8日に発生した、現在の長野県北安曇郡小谷村にある稗田山[1]崩壊した災害。1707年宝永4年)に静岡県で起きた大谷崩れ1858年安政5年)に富山県で起きた鳶山崩れとともに、日本三大崩れのひとつとされる[要出典]

概要

もともと崩壊の起きやすい地盤の地域で、小規模な崩壊や土石流はたびたび発生していた[2]。1か月前から音響が轟くといった予兆はあったと伝えられる。崩壊に結びつく直接的な要因は不明であるが、崩壊の4日前に台風が通過し記録的な降雨があったとされている[3][4]

1911年(明治44年)8月8日未明、山頂北側斜面が突如として大崩壊し、土砂が直下の金山沢と浦川本流を埋め死者26名の被害を出した。大量の土砂は崩壊地点から約6kmに及び最深部で100m以上の谷を埋める[3]に留まらず、姫川の合流点で堆積。長瀬湖という天然ダム湖を形成した。このダムが湛水したことから急遽、地元住民らの手で排水路の設置による災害対策が講じられたが功を奏せず、一部が決壊。大量の土砂が流出し、糸魚川市河口にまで被害が及び、姫川沿いの多くの家々が居住不能、田畑は耕作不能となり、周辺の海域での大量死が発生した。この結果、集団移転する集落や一家離散する家々が相次いだ。崩壊地の面積は 180ha[3] 、崩壊土砂量は資料により差違があり2,300万m3[4]と1億5千万m3[5]とされ、日本における20世紀最大級の土砂災害となった。

1912年(明治45年)の梅雨期にも天然ダムは再決壊したほか、翌年4月と5月にも再度の崩壊があり[3]、復旧途上にあった地域経済にとどめを刺している。

現在の稗田山

標高1,428m。安山岩溶岩凝灰岩の互層からなる[2]。直下には、姫川の支流である浦川が流れ、浦川本流には土砂流失を防ぐ為の砂防堰堤が数カ所建設されている[5]

崩壊跡地は、第二次世界大戦後からの国の直轄砂防事業などにより平穏を取り戻し、かつての大災害の様子がうかがえないほどの復旧が達せられている。崩壊が生じなかった稗田山の南側斜面の一部は、白馬乗鞍スキー場の滑走斜面となっている。

出典

脚注

  1. ^ 現在の標高1,443 m
  2. ^ a b 平林照雄、 宮沢洋介、太田勝 ほか、長野県姫川中流域の地すべり地形について 地すべり Vol.22 (1985-1986) No.3 P.1-10, doi:10.3313/jls1964.22.3_1
  3. ^ a b c d 町田洋、姫川流域の一渓流の荒廃とその下流部に与える影響 地理学評論 Vol.37 (1964) No.9 P.477-487, doi:10.4157/grj.37.477
  4. ^ a b 宮越英紀、稗田山の巨大崩れ 砂防学会誌 Vol.38 (1985-1986) No.2 P.28-30_2, doi:10.11475/sabo1973.38.2_28
  5. ^ a b 榎本正雄、榎本真、中島彬、浦川土石流調査 写真測量 Vol.11 (1972) No.1 P.21-26 ,doi:10.4287/jsprs1962.11.21

外部リンク