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|市章=Escudo de Alicante corona abierta.svg
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|画像=Skyline de Alicante.JPG
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|県=アリカンテ
|県=アリカンテ
|面積=201.27 |標高=0
|面積=201.27 |標高=0
|人口=334678 |年=2012年<ref name=INE.pob.super.dens>{{cite web|url=http://www.ine.es/jaxi/menu.do?type=pcaxis&file=pcaxis&path=%2Ft43%2Fa011%2Fa1998%2Fdensidad%2F%2Fa2012|title=Población, superficie y densidad por municipios|publisher=INE(スペイン国立統計局)|language=スペイン語|accessdate=2013-08-07}}</ref>
|人口=329988 |年=2017年<ref name=INE.pob.super.dens>{{cite web|url=http://www.ine.es/jaxi/menu.do?type=pcaxis&file=pcaxis&path=%2Ft43%2Fa011%2Fa1998%2Fdensidad%2F%2Fa2012|title=Población, superficie y densidad por municipios|publisher=INE(スペイン国立統計局)|language=スペイン語|accessdate=2013-08-07}}</ref>
|住民の呼称=alacantí/-tina
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|自治体首長= |守護聖人=San Nicolás de Bari、Virgen del Remedio
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}}
}}
'''アラカント'''([[バレンシア語]]:{{lang|ca|Alacant}})または'''アリカンテ'''([[スペイン語]]:{{lang|es|Alicante}})は、[[スペイン]]・[[バレンシア州]][[アリカンテ県]](アリカンテ県)の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)。アリカンテ県の県都である。2012年人口334,678人
'''アラカント'''([[バレンシア語]]:{{lang|ca|Alacant}}, {{IPA-ca|alaˈkant|langva}})または'''アリカンテ'''([[スペイン語]]:{{lang|es|Alicante}}, {{IPA-es|aliˈkante|lang}})は、[[スペイン]]・[[バレンシア州]][[アリカンテ県]]の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)。アリカンテ県の県都であり、{{仮リンク|コスタ・ブランカ|en|Costa Blanca}}と呼ばれる[[地中海]]沿岸地域にある。バレンシア語名とスペイン語名が優劣差なく公式名であり、公的文書で両言語名を並べてスラッシュで区切った「Alacant/Alicante」という表記が用いられることがある


== 地勢・産業 ==
== 地 ==
[[地中海]]に面する[[港湾都市]]。物流拠点として重要な役割を果たすほか、[[アルミニウム]]などの工業も盛ん。温暖な気候が続くため、保養地、[[海水浴場]]として多くの観光客も集める。近隣の都市としては、20キロ南西に[[エルチェ]]、70キロ南西に[[ムルシア]]が位置している。
[[地中海]]に面する[[港湾都市]]である。近隣の都市としては、20キロ南西に[[エルチェ]]、70キロ南西に[[ムルシア]]が位置している。


=== 気候 ===
毎年6月下旬に行われる{{仮リンク|サン・ファンの火祭り|en|Bonfires of Saint John}}は、時事問題や時の人をモチーフに作成したオゲラス(紙で作った風刺像)を燃やす祭りとして有名<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3133353?cx_tag=pc_photo&cx_position=1#cxrecs_s 燃え上がる風刺像、恒例のサン・フアン祭り] AFP(2017年6月26日)2017年7月9日</ref>。
アリカンテの夏季は暑く、冬季は穏やかである、降水量が少ない。[[ケッペンの気候区分]]では[[ステップ気候]](BSh)に区分される。1月の気温は摂氏6.7度から17.0度、8月の気温は摂氏21.5度から30.8度である。冬季の日中の気温はヨーロッパ有数の高さであり、スペインの[[ムルシア州]][[カルタヘナ (スペイン)|カルタヘナ]]や[[アンダルシア州]][[アルメリア]]に次ぐ水準である。年平均気温は摂氏18.3度である。年降水量は277mmであり、9月と10月に多い。年日照時間は2953時間である。降雪は1926年から確認されていない。アリカンテの気候は[[アメリカ合衆国西海岸]]の[[ロサンゼルス]]の気候に似通っている。


=== 人口 ===
[[ファイル:Alicante Spain - the city and the sea.jpg|thumb|left|400px|アラカントと地中海]]
2017年の人口は329,988人であり、バレンシア州では州都[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に次いで第2位である<ref name="INE">{{cite web|title=List of place name: Population of the Continuous Municipal Register by Population Unit|url=http://www.ine.es/nomen2/index.do?accion=busquedaAvanzada&entidad_amb=no&codProv=3&codMun|website=Ine.es|publisher=Instituto Nacional de Estadística (INE)|accessdate=15 April 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160415003327/http://www.ine.es/nomen2/index.do?accion=busquedaAvanzada&entidad_amb=no&codProv=3&codMun |archivedate=15 April 2016|language=English|date=2016}}</ref>。アリカンテ、[[サン・ビセンテ・デル・ラスペイグ]]、{{仮リンク|サン・ジョアン・ダラカント|en|Sant Joan d'Alacant}}、{{仮リンク|ムチャメル|en|Mutxamel}}、{{仮リンク|エル・カンペーリョ|en|El Campello}}からなる[[コナーベーション]](集合都市)の人口は2016年時点で約45万人である。また、[[エルチェ]]やその周辺都市を含む都市圏の人口は2014年時点で約75万人であり、スペイン第8位の都市圏を形成している。
{{clear}}


2016年にはアリカンテの人口の12.56%が外国人であり、その国籍は128か国にも及んでいた。多い順に[[アルジェリア]](7427人)、[[モロッコ]](3587人)、[[ルーマニア]](2930人)、[[コロンビア]](2272人)、[[イタリア]](2208人)、[[ロシア]](1982人)、[[中国]](1593人)、[[ウクライナ]](1497人)、[[アルゼンチン]](1447人)、[[エクアドル]](1346人)、[[フランス]](1338人)である。
== 歴史 ==
[[ファイル:Santa Barbara Castle.jpg|thumb|サンタ・バルバラ城]]
紀元前3世紀、[[フェニキア人]]の植民市・[[カルタゴ]]の名門である[[バルカ家]]によって建てられた。当時は'''アクラ・レウケ'''と称された。しかし、[[ローマ]]との[[第二次ポエニ戦争]]にカルタゴは敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下では'''ルセンツム'''と称された。8世紀にイスラーム勢力([[ウマイヤ朝]]に征服され、13世紀までその支配は続いた。その後は[[アラゴン王国]]の支配下に入り([[レコンキスタ]]、15世紀後半の[[カスティリャ王国]]とアラゴン王国の合併によってスペインの支配下に入った。18世紀初頭の[[スペイン継承戦争]]では、一時フランス・[[ブルボン家]]の軍に街が包囲された。1936年に勃発した[[スペイン内戦]]では、[[人民戦線]]側を支持する勢力が強かったが、[[フランシスコ・フランコ]]将軍を中心とした反乱軍が最終的には勝利した。


== 人口 ==
{{グラフ|名称=アラカント / アリカンテ|タイプ=人口推移|幅=600|1900|50142|1910|55300|1920|63908|1930|73071|1940|96729|1950|104222|1960|121527|1970|184716|1981|251387|1991|275111|2000|276886|2010|334418|脚注={{人口推移アラカント}}}}
{{グラフ|名称=アラカント / アリカンテ|タイプ=人口推移|幅=600|1900|50142|1910|55300|1920|63908|1930|73071|1940|96729|1950|104222|1960|121527|1970|184716|1981|251387|1991|275111|2000|276886|2010|334418|脚注={{人口推移アラカント}}}}

== スポーツ ==
== 歴史 ==
=== 古代 ===
* [[エルクレスCF]] - [[リーガ・エスパニョーラ]]の[[サッカー]]クラブ。
[[File:SantaBarbara2.jpg|thumb|ベナカンティル山にあるサンタ・バルバラ城]]
* [[アリカンテCF]] - リーガ・エスパニョーラのサッカークラブ。

* {{仮リンク|CBルセントゥム・アリカンテ|en|CB Lucentum Alicante}} - [[バスケットボール]]クラブ。
アリカンテ周辺には7000年以上前から人が居住していた。紀元前3世紀、[[フェニキア人]]の植民市[[カルタゴ]]の名門である[[バルカ家]]によってこの町が建設され、当時は'''アクラ・レウケ'''(Akra Leuka)と称された。しかし、カルタゴは[[古代ローマ]]との[[第二次ポエニ戦争]]に敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下では'''ルセントゥム'''(Lucentum)と称された。

=== イスラーム時代 ===
8世紀にイスラーム勢力の[[ウマイヤ朝]]に征服され、9世紀には{{仮リンク|ベナカンティル山|en|Mount Benacantil}}に要塞(現在の{{仮リンク|サンタ・バルバラ城|en|Santa Bárbara Castle}})が建設された。中世イスラームの地理学者である[[イドリースィー]]は、この要塞をバヌ=イカティル(Banu-lQatil)と呼んでいる。[[後ウマイヤ朝]]や[[タイファ|タイファ諸国]]によって、13世紀までイスラーム勢力による支配は続いた。

===レコンキスタ後 ===
[[File:Basílica de Santa María, Alicante, España, 2014-07-04, DD 39.JPG|thumb|left|14世紀から16世紀に建設されたサンタ・マリア教会]]

1237年にはアラゴン王[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]](ジャウマ1世)がバレンシア地方を征服([[レコンキスタ]])して[[バレンシア王国]]を建設し、1248年12月4日にはカスティーリャ王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]がアリカンテを征服し、ベナカンティル山の要塞を[[聖バルバラ]]に因んでサンタ・バルバラ城に改称した。ハイメ1世とアルフォンソ10世は{{仮リンク|アルミスラ条約|en|Treaty of Almizra}}を結んで領土を確定させ、アリカンテは[[アラゴン連合王国]]の支配下に入った。1469年には[[カスティーリャ王国]]と[[アラゴン王国]]の同君連合が形成されて[[スペイン王国]]が成立し、アリカンテはコメ、ワイン、オリーブオイル、オレンジ、羊毛を地中海に向けて輸出する貿易基地となった。

1609年にはスペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]によって[[モリスコ追放]]が行われ、レコンキスタ後のバレンシア地方に残っていた何千人もの[[モリスコ]]([[カトリック]]に改宗した[[イスラム教徒]])が追放された。これによって熟練した職人や農業従事者が減少し、領主による[[封建社会]]は衰退していった。1701年から1714年に起こった[[スペイン継承戦争]]では、アリカンテの町がフランス・[[ブルボン家]]の軍隊に包囲されていた。スペイン継承戦争後には経済がさらに悪化し、アリカンテは18世紀から19世紀にかけて長く続く低迷期に入った。この時代には靴製造業、オレンジやアーモンドなどの農業、漁業などの産業があった。

=== 近代 ===
[[File:ETH-BIB-Alicante-Nordafrikaflug 1932-LBS MH02-13-0589.tif|thumb|1932年のアリカンテ市街]]

19世紀末にはアリカンテ港からの国際的な貿易が増加し、アリカンテの地域経済は急速に回復した。1910年代の[[第一次世界大戦]]でスペインは中立を保ち、アリカンテはその恩恵を受けて産業や農業が発展した。1920年代の[[第3次リーフ戦争]]では、多数のアリカンテ出身者が{{仮リンク|スペイン保護領モロッコ|en|Spanish Protectorate of Morocco|label=スペイン領モロッコ}}において[[リーフ共和国]]軍との戦闘を余儀なくされた。1920年代後半の政治不安により、1931年には[[スペイン第二共和政|アルフォンソ13世]]国王が亡命して[[スペイン第二共和政]]が成立した。

1936年から1939年におこった[[スペイン内戦]]において、アリカンテは共和国政府に忠誠を誓ったが、1939年4月1日には[[フランシスコ・フランコ]]を首謀者とする反乱軍に占領された。占領前の1938年5月25日には反乱軍に協力したイタリア空軍によって{{仮リンク|アリカンテ爆撃|en|Bombing of Alicante}}が行われ、300人以上の市民が亡くなっている。1950年代後半から1960年代初頭には観光業が発達し、ホテル、レストラン、バーなどが多数建設された。1936年からあった古いラ・ラバーサ飛行場は閉鎖され、1967年には[[アリカンテ=エルチェ空港]]が開港した。施設が近代化されて利便性が高まったことで、北ヨーロッパ諸国からの観光客を運ぶ定期便が多数運行されるようになった。フランコが1975年に死去して、[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が国王に即位すると、[[スペイン1978年憲法]]が制定されて[[立憲君主制]]に移行した。

=== 現代 ===
1982年7月10日にはバレンシア自治顕彰が制定されて、アリカンテ県・[[バレンシア県]]・[[カステリョン県]]からなる[[バレンシア州]]が発足し、アリカンテはバレンシア州アリカンテ県の自治体となった。1980年代のアリカンテでは[[空洞化|産業空洞化]]が起こり、バレンシア州における海上貿易の大半がバレンシアの{{仮リンク|バレンシア港|en|Port of Valencia}}に移ると、アリカンテ港は貿易港から[[クルーズ船]]の寄港地への転換を図った。2007年には72回隻のクルーズ船が寄港し、約80,000人の乗客と約30,000人の乗組員が上陸した<ref>{{cite web|url=http://www.panorama-actual.es/noticias/not226759.htm |title=El puerto de Alicante registrará 72 escalas de cruceros durante 2007 |work=Diariocrítico de la Comunidad Valenciana |language=Spanish |date=16 May 2007 |accessdate=2018-11-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110720143417/http://www.panorama-actual.es/noticias/not226759.htm |archivedate=20 July 2011}}</ref>。

== 政治 ==
{{Alcaldes_España
<!--Alcaldía entre 1979 y 1983-->
| Alcalde_1 = José Luis Lassaletta Cano
| Partido_1 = [[スペイン社会労働党]](PSPV-PSOE)
<!--Alcaldía entre 1983 y 1987-->
| Alcalde_2 = José Luis Lassaletta Cano
| Partido_2 = [[スペイン社会労働党]](PSPV-PSOE)
<!--Alcaldía entre 1987 y 1991-->
| Alcalde_3 = José Luis Lassaletta Cano
| Partido_3 = [[スペイン社会労働党]](PSPV-PSOE)
<!--Alcaldía entre 1991 y 1995-->
| Alcalde_4 = Ángel Luna González
| Partido_4 = [[スペイン社会労働党]](PSPV-PSOE)
<!--Alcaldía entre 1995 y 1999-->
| Alcalde_5 = Luis Díaz Alperi
| Partido_5 = [[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
<!--Alcaldía entre 1999 y 2003-->
| Alcalde_6 = Luis Díaz Alperi
| Partido_6 = [[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
<!--Alcaldia entre 2003 y 2007-->
| Alcalde_7 = Luis Díaz Alperi
| Partido_7 = [[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
<!--Alcaldia entre 2007 y 2011-->
| Alcalde_8 = Luis Díaz Alperi(07-08)<br />Sonia Castedo Ramos(08-11)
| Partido_8 = [[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)<br />[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
<!--Alcaldia entre 2011 y 2015-->
| Alcalde_9 = Sonia Castedo Ramos(11-14)<br />Andrés LLorens(14-15)<br />Miguel Valor Peidró(15)
| Partido_9 = [[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)<br />[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)<br />[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
<!--Alcaldia entre 2015 y 2019-->
| Alcalde_10 = Gabriel Echávarri Fernández(15-18)<br />Luis José Barcala Sierra(18-)
| Partido_10 = [[スペイン社会労働党]](PSPV-PSOE)<br />[[国民党 (スペイン)|国民党]](PP)
}}

== 経済 ==
=== アリカンテ港 ===
[[File:Vista de Alicante, España, 2014-07-04, DD 77.JPG|thumb|アリカンテ港]]

[[レコンキスタ]]後の1271年にはカスティーリャ王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]によって、アリカンテが[[地中海]]の公共港として宣言された。アラゴン王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]の治世の1476年以後には防波堤が建設された。中近世には干しブドウ、アーモンド、{{仮リンク|エスパルト|en|esparto}}(縄の原料)、塩、ワインなどがアリカンテ港から輸出された。17世紀に[[スペイン帝国]]が[[アメリカ大陸]]との間の貿易を開始すると、{{仮リンク|アリカンテ港|en|Port of Alicante}}は新大陸貿易の拠点である{{仮リンク|カディス港|es|Puerto de la Bahía de Cádiz}}や{{仮リンク|セビリア港|es|Puerto de Sevilla}}に次いで重要な貿易港となった。

1960年代には{{仮リンク|コスタ・ブランカ|en|Costa Blanca}}の観光ブームが起こり、1980年代の産業衰退以後にはクルーズ港への転換を図っている。1990年代後半には第2の観光ブームが起こり、地中海の砂浜海岸、[[重要文化財 (スペイン)|重要文化財]]の{{仮リンク|サンタ・バルバラ城|en|Santa Bárbara Castle}}、重要文化財の{{仮リンク|サンタ・マリア教会 (アリカンテ)|label=サンタ・マリア教会|en|Basilica of Santa Maria, Alicante}}、{{仮リンク|サン・ニコラス・デ・バリ大聖堂|en|Concatedral de San Nicolás, Alicante}}、重要文化財の{{仮リンク|レハスの塔|es|Torre de Rejas}}などの観光地に観光客が押し寄せた。2008年に始まった[[世界金融危機 (2007年-)|世界的な景気後退]]まで、アリカンテはスペインの中でも特に急成長している都市のひとつだった。

=== 組織・企業 ===
[[File:UA-Aulario2.jpg|thumb|left|[[アリカンテ大学]]]]

アリカンテの経済はサービス部門や公共事業としての建設業に依存している。物流拠点として重要な役割を果たすほか、[[アルミニウム]]などの工業も盛んである。かつては{{仮リンク|タバカレラ (スペイン)|label=タバカレラ|en|Tabacalera}}の後継企業である[[アルタディス]]の大規模たばこ工場があったが、この工場は2009年に閉鎖された。

北部郊外の[[サン・ビセンテ・デル・ラスペイグ]]には公立(州立)の[[アリカンテ大学]]があり、27,000人以上の学生が学んでいる<ref>{{Cite web |url=http://memoria.ua.es/es/comunidad-universitaria/alumnado.html |title=Annual Report for academic year 2010–11 |work=アリカンテ大学 |language=Spanish |accessdate=2018-11-11}}</ref>。アリカンテ大学は1979年にアリカンテ県初の公立大学として開学し、ラ・ラバッサ飛行場の跡地にキャンパスが建設されている。[[エルチェ]]に本部を置く{{仮リンク|エルチェ・ミゲル・エルナンデス大学|en|Miguel Hernández University of Elche}}の一部は、アリカンテ郊外の{{仮リンク|サン・ジョアン・ダラカント|en|Sant Joan d'Alacant}}にある。

アリカンテには[[欧州連合の専門機関]]である[[欧州連合知的財産庁]](EUIPO)の本部があり、アリカンテには知的財産庁の職員が多数居住している。

2005年にはヨーロッパ有数の映画スタジオである{{仮リンク|シウダ・デ・ラ・ルス|en|Ciudad de la Luz}}がアリカンテに開設され、2005年から2012年の間にスペイン国内外の約60作品が製作された。2008年の[[フランシス・フォード・コッポラ]]監督の『[[テトロ 過去を殺した男]]』、2008年の『{{仮リンク|マノレテ 情熱のマタドール|en|Manolete (film)}}』([[ペネロペ・クルス]]、[[エイドリアン・ブロディ]]主演)、2012年の[[リドリー・スコット]]監督の『[[プロメテウス (映画)|プロメテウス]]』、2012年の[[フアン・アントニオ・バヨナ]]監督の『[[インポッシブル (映画)|インポッシブル]]』などがこの映画スタジオで撮影されている。しかし2012年、映画スタジオが公共自治体から受け取っている補助金が[[欧州連合競争法]]に違反していると[[欧州委員会]]に指摘され、2012年10月に閉鎖された。

== 交通 ==
=== 航空 ===
[[File:NAT-Aeropuerto-Alicante-(feb-2010).PNG|thumb|left|[[アリカンテ=エルチェ空港]]]]

アリカンテと[[エルチェ]]の中間付近には[[アリカンテ=エルチェ空港]]があり、[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]近郊の[[バレンシア空港]]をしのいでバレンシア州でもっとも旅客数の多い空港となっている。[[アドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港]]、[[バルセロナ=エル・プラット空港]]、[[パルマ・デ・マヨルカ空港]]、[[マラガ空港]]に次いで、スペインで5番目に旅客数の多い空港である。[[イベリア航空]]や[[ブエリング航空]]によってマドリード便やバルセロナ便が頻繁に運航されているほか、[[ライアンエアー]]、[[イージージェット]]、[[Jet2.com]]などによって西ヨーロッパの主要都市に対しても運航されている。[[アルジェリア]]や[[ロシア]]に向かう定期便も運航されている。

=== 鉄道 ===
[[File:Tram-Train Alicante.jpg|thumb|アリカンテ・トラム]]

{{仮リンク|アリカンテ駅|en|Alicante railway station}}には近郊鉄道の{{仮リンク|セルカニアス・ムルシア/アリカンテ|en|Cercanías Murcia/Alicante}}などの列車が発着し<ref>{{cite web |url=http://www.renfe.com/EN/viajeros/cercanias/murciaalicante/ |title=Murcia/Alicante |work=RENFE Cercanías|accessdate=2018-11-11}}</ref>、またマドリード、バルセロナ、バレンシアに向かう中距離列車も頻繁に運行されている<ref>{{cite web |url=http://horarios.renfe.es/hir/index.jsp?page=hjhir120.jsp&O=60911&D=?&AF=AA&MF=MM&DF=DD&SF=NaN&ID=i&PGM=hir1 |title=RENFE destinations from ALACANT-TERMINAL |publisher=Horarios.renfe.es |accessdate=11 March 2011 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110720143355/http://horarios.renfe.es/hir/index.jsp?page=hjhir120.jsp&O=60911&D=%3F&AF=AA&MF=MM&DF=DD&SF=NaN&ID=i&PGM=hir1 |archivedate=20 July 2011 |df=dmy-all }}</ref>。1999年にはトラム(路面電車)である{{仮リンク|アリカンテ・トラム|en|Alicante Tram}}が運行を開始した<ref>{{Cite web |url=http://www.fgvalicante.com/page.php?idioma=_en |title=TRAM Alicante |work=Ferrocarrils de la Generalitat Valenciana|accessdate=2018-11-11}}</ref>。{{仮リンク|コスタ・ブランカ|en|Costa Blanca}}の諸都市との間に4路線を有しており、北東に向かうL-1号線とL-3号線は{{仮リンク|エル・カンペーリョ|en|El Campello}}や[[ビジャホヨーサ/ラ・ビラ・ホヨーサ]]や[[ベニドルム]]や[[デニア]]に、北西に向かうL-2号線は[[サン・ビセンテ・デル・ラスペイグ]]に、L-4号線は市内の{{仮リンク|プラヤ・デ・サン・フアン|en|Playa de San Juan}}地区に至る。L-1号線はアリカンテからベニドルムまでが電化区間、ベニドルムからデニアまでが非電化区間である。

=== 海上交通 ===
{{仮リンク|アリカンテ港|en|Port of Alicante}}からは[[バレアレス諸島]]の[[マヨルカ島]]の[[パルマ・デ・マヨルカ]]に向けて、またアフリカ大陸の[[アルジェリア]]の[[アルジェ]]や[[オラン]]に向けて定期便が運航されている<ref>{{cite web |url=http://www.aferry.co.uk/alicante-ferry-uk.htm |title=Alicante Ferry Port |work=Aferry.co.uk |accessdate=11 March 2011}}</ref>。

== 文化 ==
=== 祭礼 ===
[[File:Castillo Sta Barbara.jpg|thumb|180px|[[聖ヨハネの前夜祭|サン・フアンの火祭り]]]]

アリカンテでもっとも重要な祭礼は、毎年6月下旬の[[聖ヨハネの前夜祭|サン・フアンの火祭り]](フォゲレス・デ・サン・フアン)であり、世界各国の類似の祭礼と同じく[[夏至]]に近い期間に開催される。時事問題や時の人をモチーフに作成した風刺人形を燃やす祭りである<ref>{{cite web |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3133353?cx_tag=pc_photo&cx_position=1#cxrecs_s |title=燃え上がる風刺像、恒例のサン・フアン祭り |work=AFP |date=2017-06-26 |accessdate=2017-07-09}}</ref>。ポスティゲ海岸では一週間にわたって花火大会が開催される。

アルトサーノ地区やサン・ブラス地区で開催される{{仮リンク|ムーア人とキリスト教徒|en|Moros y cristianos}}の祭礼もよく知られている。また、毎年夏季には2か月にわたってプエルト遊歩道で音楽・演劇・舞踊の各種イベントが開催される<ref>{{cite web|url=http://www.alicante.com/v/festivals/ |title=Alicante Festivals |work=Alicante.com |accessdate=11 March 2011}}</ref>。
=== スポーツ ===
[[File:Estadio Jose Rico Perez.JPG|thumb|left|エスタディオ・ホセ・リコ・ペレス]]

アリカンテにはかつて一定規模のサッカークラブが2クラブ存在した。1918年設立の[[アリカンテCF]]と1922年設立の[[エルクレスCF]]である。エルクレスCFは1935-36シーズンに初めて[[プリメーラ・ディビシオン]]に在籍し、現在に至るまで20シーズン以上をプリメーラ・ディビシオンに在籍している。[[セグンダ・ディビシオン]]では3度優勝しており、プリメーラ・ディビシオンでは1974-75シーズンの5位が最高成績である。アリカンテCFはプリメーラ・ディビシオンに在籍したことはなく、5シーズンをセグンダ・ディビシオンに在籍している。アリカンテCFは2014年に財政面の問題により解散した。エルクレスCFは29,500人収容の[[エスタディオ・ホセ・リコ・ペレス]]をホームスタジアムとしている。

1994年にはバスケットボールクラブの{{仮リンク|CBルセントゥム・アリカンテ|en|CB Lucentum Alicante}}が設立され、2000-01シーズンに初めて[[リーガACB]]に在籍すると、2004-05シーズンと2011-12シーズンにはプレーオフに出場した。1999-2000シーズンと2001-02シーズンには[[LEBオロ]]で優勝している。CBルセントゥム・アリカンテは2015年に財政面の問題により解散した。

地球を一周するヨットレースの[[ボルボ・オーシャンレース]]はアリカンテに本部を置いており、2008-09シーズン以降はアリカンテがスタート地点となっている。


== 姉妹都市 ==
== 姉妹都市 ==
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== 出身者 ==
[[File:Alicante Miro.jpg|thumb|180px|アリカンテにあるガブリエル・ミローの彫像]]

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* {{仮リンク|フランシスコ・ハビエル・デ・バルミス|en|Francisco Javier de Balmis}}(1753–1819) : 医師。
* [[ラファエル・アルタミラ・イ・クレベア]](1866-1951) : 歴史学者・法学者。
* {{仮リンク|カルロス・アルニチェス|en|Carlos Arniches}}(1866–1943) : 小説家。
* {{仮リンク|マヌエル・セナンテ・マルティネス|en|Manuel Senante Martinez}}(1873–1959) : 編集者。
* {{仮リンク|ガブリエル・ミロー|en|Gabriel Miró}}(1879–1930) : 小説家。
* {{仮リンク|ペドロ・フェランディス|en|Pedro Ferrándiz}}(1928-) : バスケットボール指導者。
* {{仮リンク|アスンシオン・バルデス|en|Asunción Valdés}}(1950-) : ジャーナリスト。
* {{仮リンク|フアン・エスカレ|en|Juan Escarré}}(1969) : フィールドホッケー選手。[[1996年アトランタオリンピックのホッケー競技|アトランタ五輪]]銀メダル。
* {{仮リンク|Nahemah|en|Nahemah (band)}} : ヘビーメタルバンド。
* [[フェレ・マルティネス]](1975-) : 俳優。
* [[アントニオ・ロドリゲス・マルティネス|トニョ]](1979-) : サッカー選手。
* [[ダビド・コルコレス]](1985-) : サッカー選手。
* [[フアン・フランシスコ・トーレス|フアンフラン]](1985-) : サッカー選手。
* [[ミゲル・デ・ラス・クエバス]](1986-) : サッカー選手。
* [[アレハンドラ・ケレーダ]](1992-) : 新体操選手。[[リオデジャネイロオリンピック|リオ五輪]]女子団体総合銀メダル。

== 脚注 ==
== 脚注 ==
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2018年11月30日 (金) 20:19時点における版

Alacant / Alicante

{{{市旗説明}}}   {{{市章説明}}}


 バレンシア州
 アラカント県/アリカンテ県
面積 201.27 km²
標高 0m
人口 329,988 人 (2017年[1]
人口密度 1,639.53 人/km²
住民呼称 alacantí/-tina
守護聖人 San Nicolás de Bari、Virgen del Remedio
Alacant / Alicanteの位置(スペイン内)
Alacant / Alicante
Alacant / Alicante
スペイン内アラカント / アリカンテの位置
Alacant / Alicanteの位置(アラカント県内)
Alacant / Alicante
Alacant / Alicante
アリカンテ県内アラカント / アリカンテの位置

北緯38度20分43秒 西経0度28分59秒 / 北緯38.34528度 西経0.48306度 / 38.34528; -0.48306座標: 北緯38度20分43秒 西経0度28分59秒 / 北緯38.34528度 西経0.48306度 / 38.34528; -0.48306

アラカントバレンシア語Alacant, バレンシア語: [alaˈkant])またはアリカンテスペイン語Alicante, スペイン語: [aliˈkante])は、スペインバレンシア州アリカンテ県ムニシピ(基礎自治体)。アリカンテ県の県都であり、コスタ・ブランカ英語版と呼ばれる地中海沿岸地域にある。バレンシア語名とスペイン語名が優劣の差なく公式名であり、公的文書では両言語名を並べてスラッシュで区切った「Alacant/Alicante」という表記が用いられることがある。

地理

地中海に面する港湾都市である。近隣の都市としては、20キロ南西にエルチェ、70キロ南西にムルシアが位置している。

気候

アリカンテの夏季は暑く、冬季は穏やかである、降水量が少ない。ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSh)に区分される。1月の気温は摂氏6.7度から17.0度、8月の気温は摂氏21.5度から30.8度である。冬季の日中の気温はヨーロッパ有数の高さであり、スペインのムルシア州カルタヘナアンダルシア州アルメリアに次ぐ水準である。年平均気温は摂氏18.3度である。年降水量は277mmであり、9月と10月に多い。年日照時間は2953時間である。降雪は1926年から確認されていない。アリカンテの気候はアメリカ合衆国西海岸ロサンゼルスの気候に似通っている。

人口

2017年の人口は329,988人であり、バレンシア州では州都バレンシアに次いで第2位である[2]。アリカンテ、サン・ビセンテ・デル・ラスペイグサン・ジョアン・ダラカント英語版ムチャメル英語版エル・カンペーリョ英語版からなるコナーベーション(集合都市)の人口は2016年時点で約45万人である。また、エルチェやその周辺都市を含む都市圏の人口は2014年時点で約75万人であり、スペイン第8位の都市圏を形成している。

2016年にはアリカンテの人口の12.56%が外国人であり、その国籍は128か国にも及んでいた。多い順にアルジェリア(7427人)、モロッコ(3587人)、ルーマニア(2930人)、コロンビア(2272人)、イタリア(2208人)、ロシア(1982人)、中国(1593人)、ウクライナ(1497人)、アルゼンチン(1447人)、エクアドル(1346人)、フランス(1338人)である。


アラカント / アリカンテの人口推移 1900-2010
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[3]、1996年 - [4]

歴史

古代

ベナカンティル山にあるサンタ・バルバラ城

アリカンテ周辺には7000年以上前から人が居住していた。紀元前3世紀、フェニキア人の植民市カルタゴの名門であるバルカ家によってこの町が建設され、当時はアクラ・レウケ(Akra Leuka)と称された。しかし、カルタゴは古代ローマとの第二次ポエニ戦争に敗れ、アクラ・レウケもローマの支配下におかれた。ローマの統治下ではルセントゥム(Lucentum)と称された。

イスラーム時代

8世紀にイスラーム勢力のウマイヤ朝に征服され、9世紀にはベナカンティル山英語版に要塞(現在のサンタ・バルバラ城英語版)が建設された。中世イスラームの地理学者であるイドリースィーは、この要塞をバヌ=イカティル(Banu-lQatil)と呼んでいる。後ウマイヤ朝タイファ諸国によって、13世紀までイスラーム勢力による支配は続いた。

レコンキスタ後

14世紀から16世紀に建設されたサンタ・マリア教会

1237年にはアラゴン王ハイメ1世(ジャウマ1世)がバレンシア地方を征服(レコンキスタ)してバレンシア王国を建設し、1248年12月4日にはカスティーリャ王アルフォンソ10世がアリカンテを征服し、ベナカンティル山の要塞を聖バルバラに因んでサンタ・バルバラ城に改称した。ハイメ1世とアルフォンソ10世はアルミスラ条約英語版を結んで領土を確定させ、アリカンテはアラゴン連合王国の支配下に入った。1469年にはカスティーリャ王国アラゴン王国の同君連合が形成されてスペイン王国が成立し、アリカンテはコメ、ワイン、オリーブオイル、オレンジ、羊毛を地中海に向けて輸出する貿易基地となった。

1609年にはスペイン王フェリペ3世によってモリスコ追放が行われ、レコンキスタ後のバレンシア地方に残っていた何千人ものモリスコカトリックに改宗したイスラム教徒)が追放された。これによって熟練した職人や農業従事者が減少し、領主による封建社会は衰退していった。1701年から1714年に起こったスペイン継承戦争では、アリカンテの町がフランス・ブルボン家の軍隊に包囲されていた。スペイン継承戦争後には経済がさらに悪化し、アリカンテは18世紀から19世紀にかけて長く続く低迷期に入った。この時代には靴製造業、オレンジやアーモンドなどの農業、漁業などの産業があった。

近代

1932年のアリカンテ市街

19世紀末にはアリカンテ港からの国際的な貿易が増加し、アリカンテの地域経済は急速に回復した。1910年代の第一次世界大戦でスペインは中立を保ち、アリカンテはその恩恵を受けて産業や農業が発展した。1920年代の第3次リーフ戦争では、多数のアリカンテ出身者がスペイン領モロッコにおいてリーフ共和国軍との戦闘を余儀なくされた。1920年代後半の政治不安により、1931年にはアルフォンソ13世国王が亡命してスペイン第二共和政が成立した。

1936年から1939年におこったスペイン内戦において、アリカンテは共和国政府に忠誠を誓ったが、1939年4月1日にはフランシスコ・フランコを首謀者とする反乱軍に占領された。占領前の1938年5月25日には反乱軍に協力したイタリア空軍によってアリカンテ爆撃英語版が行われ、300人以上の市民が亡くなっている。1950年代後半から1960年代初頭には観光業が発達し、ホテル、レストラン、バーなどが多数建設された。1936年からあった古いラ・ラバーサ飛行場は閉鎖され、1967年にはアリカンテ=エルチェ空港が開港した。施設が近代化されて利便性が高まったことで、北ヨーロッパ諸国からの観光客を運ぶ定期便が多数運行されるようになった。フランコが1975年に死去して、フアン・カルロス1世が国王に即位すると、スペイン1978年憲法が制定されて立憲君主制に移行した。

現代

1982年7月10日にはバレンシア自治顕彰が制定されて、アリカンテ県・バレンシア県カステリョン県からなるバレンシア州が発足し、アリカンテはバレンシア州アリカンテ県の自治体となった。1980年代のアリカンテでは産業空洞化が起こり、バレンシア州における海上貿易の大半がバレンシアのバレンシア港に移ると、アリカンテ港は貿易港からクルーズ船の寄港地への転換を図った。2007年には72回隻のクルーズ船が寄港し、約80,000人の乗客と約30,000人の乗組員が上陸した[5]

政治

首長一覧(1979-)
任期 首長名 政党
1979–1983 José Luis Lassaletta Cano スペイン社会労働党(PSPV-PSOE)
1983–1987 José Luis Lassaletta Cano スペイン社会労働党(PSPV-PSOE)
1987–1991 José Luis Lassaletta Cano スペイン社会労働党(PSPV-PSOE)
1991–1995 Ángel Luna González スペイン社会労働党(PSPV-PSOE)
1995–1999 Luis Díaz Alperi 国民党(PP)
1999–2003 Luis Díaz Alperi 国民党(PP)
2003–2007 Luis Díaz Alperi 国民党(PP)
2007–2011 Luis Díaz Alperi(07-08)
Sonia Castedo Ramos(08-11)
国民党(PP)
国民党(PP)
2011–2015 Sonia Castedo Ramos(11-14)
Andrés LLorens(14-15)
Miguel Valor Peidró(15)
国民党(PP)
国民党(PP)
国民党(PP)
2015–2019 Gabriel Echávarri Fernández(15-18)
Luis José Barcala Sierra(18-)
スペイン社会労働党(PSPV-PSOE)
国民党(PP)
2019–2023 n/d n/d
2023– n/d n/d

経済

アリカンテ港

アリカンテ港

レコンキスタ後の1271年にはカスティーリャ王アルフォンソ10世によって、アリカンテが地中海の公共港として宣言された。アラゴン王フアン2世の治世の1476年以後には防波堤が建設された。中近世には干しブドウ、アーモンド、エスパルト英語版(縄の原料)、塩、ワインなどがアリカンテ港から輸出された。17世紀にスペイン帝国アメリカ大陸との間の貿易を開始すると、アリカンテ港英語版は新大陸貿易の拠点であるカディス港スペイン語版セビリア港スペイン語版に次いで重要な貿易港となった。

1960年代にはコスタ・ブランカ英語版の観光ブームが起こり、1980年代の産業衰退以後にはクルーズ港への転換を図っている。1990年代後半には第2の観光ブームが起こり、地中海の砂浜海岸、重要文化財サンタ・バルバラ城英語版、重要文化財のサンタ・マリア教会英語版サン・ニコラス・デ・バリ大聖堂英語版、重要文化財のレハスの塔スペイン語版などの観光地に観光客が押し寄せた。2008年に始まった世界的な景気後退まで、アリカンテはスペインの中でも特に急成長している都市のひとつだった。

組織・企業

アリカンテ大学

アリカンテの経済はサービス部門や公共事業としての建設業に依存している。物流拠点として重要な役割を果たすほか、アルミニウムなどの工業も盛んである。かつてはタバカレラ英語版の後継企業であるアルタディスの大規模たばこ工場があったが、この工場は2009年に閉鎖された。

北部郊外のサン・ビセンテ・デル・ラスペイグには公立(州立)のアリカンテ大学があり、27,000人以上の学生が学んでいる[6]。アリカンテ大学は1979年にアリカンテ県初の公立大学として開学し、ラ・ラバッサ飛行場の跡地にキャンパスが建設されている。エルチェに本部を置くエルチェ・ミゲル・エルナンデス大学の一部は、アリカンテ郊外のサン・ジョアン・ダラカント英語版にある。

アリカンテには欧州連合の専門機関である欧州連合知的財産庁(EUIPO)の本部があり、アリカンテには知的財産庁の職員が多数居住している。

2005年にはヨーロッパ有数の映画スタジオであるシウダ・デ・ラ・ルス英語版がアリカンテに開設され、2005年から2012年の間にスペイン国内外の約60作品が製作された。2008年のフランシス・フォード・コッポラ監督の『テトロ 過去を殺した男』、2008年の『マノレテ 情熱のマタドール英語版』(ペネロペ・クルスエイドリアン・ブロディ主演)、2012年のリドリー・スコット監督の『プロメテウス』、2012年のフアン・アントニオ・バヨナ監督の『インポッシブル』などがこの映画スタジオで撮影されている。しかし2012年、映画スタジオが公共自治体から受け取っている補助金が欧州連合競争法に違反していると欧州委員会に指摘され、2012年10月に閉鎖された。

交通

航空

アリカンテ=エルチェ空港

アリカンテとエルチェの中間付近にはアリカンテ=エルチェ空港があり、バレンシア近郊のバレンシア空港をしのいでバレンシア州でもっとも旅客数の多い空港となっている。アドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港バルセロナ=エル・プラット空港パルマ・デ・マヨルカ空港マラガ空港に次いで、スペインで5番目に旅客数の多い空港である。イベリア航空ブエリング航空によってマドリード便やバルセロナ便が頻繁に運航されているほか、ライアンエアーイージージェットJet2.comなどによって西ヨーロッパの主要都市に対しても運航されている。アルジェリアロシアに向かう定期便も運航されている。

鉄道

アリカンテ・トラム

アリカンテ駅英語版には近郊鉄道のセルカニアス・ムルシア/アリカンテ英語版などの列車が発着し[7]、またマドリード、バルセロナ、バレンシアに向かう中距離列車も頻繁に運行されている[8]。1999年にはトラム(路面電車)であるアリカンテ・トラム英語版が運行を開始した[9]コスタ・ブランカ英語版の諸都市との間に4路線を有しており、北東に向かうL-1号線とL-3号線はエル・カンペーリョ英語版ビジャホヨーサ/ラ・ビラ・ホヨーサベニドルムデニアに、北西に向かうL-2号線はサン・ビセンテ・デル・ラスペイグに、L-4号線は市内のプラヤ・デ・サン・フアン英語版地区に至る。L-1号線はアリカンテからベニドルムまでが電化区間、ベニドルムからデニアまでが非電化区間である。

海上交通

アリカンテ港英語版からはバレアレス諸島マヨルカ島パルマ・デ・マヨルカに向けて、またアフリカ大陸のアルジェリアアルジェオランに向けて定期便が運航されている[10]

文化

祭礼

サン・フアンの火祭り

アリカンテでもっとも重要な祭礼は、毎年6月下旬のサン・フアンの火祭り(フォゲレス・デ・サン・フアン)であり、世界各国の類似の祭礼と同じく夏至に近い期間に開催される。時事問題や時の人をモチーフに作成した風刺人形を燃やす祭りである[11]。ポスティゲ海岸では一週間にわたって花火大会が開催される。

アルトサーノ地区やサン・ブラス地区で開催されるムーア人とキリスト教徒英語版の祭礼もよく知られている。また、毎年夏季には2か月にわたってプエルト遊歩道で音楽・演劇・舞踊の各種イベントが開催される[12]

スポーツ

エスタディオ・ホセ・リコ・ペレス

アリカンテにはかつて一定規模のサッカークラブが2クラブ存在した。1918年設立のアリカンテCFと1922年設立のエルクレスCFである。エルクレスCFは1935-36シーズンに初めてプリメーラ・ディビシオンに在籍し、現在に至るまで20シーズン以上をプリメーラ・ディビシオンに在籍している。セグンダ・ディビシオンでは3度優勝しており、プリメーラ・ディビシオンでは1974-75シーズンの5位が最高成績である。アリカンテCFはプリメーラ・ディビシオンに在籍したことはなく、5シーズンをセグンダ・ディビシオンに在籍している。アリカンテCFは2014年に財政面の問題により解散した。エルクレスCFは29,500人収容のエスタディオ・ホセ・リコ・ペレスをホームスタジアムとしている。

1994年にはバスケットボールクラブのCBルセントゥム・アリカンテ英語版が設立され、2000-01シーズンに初めてリーガACBに在籍すると、2004-05シーズンと2011-12シーズンにはプレーオフに出場した。1999-2000シーズンと2001-02シーズンにはLEBオロで優勝している。CBルセントゥム・アリカンテは2015年に財政面の問題により解散した。

地球を一周するヨットレースのボルボ・オーシャンレースはアリカンテに本部を置いており、2008-09シーズン以降はアリカンテがスタート地点となっている。

姉妹都市

出身者

アリカンテにあるガブリエル・ミローの彫像

脚注

  1. ^ Población, superficie y densidad por municipios” (スペイン語). INE(スペイン国立統計局). 2013年8月7日閲覧。
  2. ^ List of place name: Population of the Continuous Municipal Register by Population Unit” (English). Ine.es. Instituto Nacional de Estadística (INE) (2016年). 15 April 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。15 April 2016閲覧。
  3. ^ Poblaciones de hecho desde 1900 hasta 1991. Cifras oficiales de los Censos respectivos.
  4. ^ Cifras oficiales de población resultantes de la revisión del Padrón municipal a 1 de enero.
  5. ^ El puerto de Alicante registrará 72 escalas de cruceros durante 2007” (Spanish). Diariocrítico de la Comunidad Valenciana (16 May 2007). 20 July 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月11日閲覧。
  6. ^ Annual Report for academic year 2010–11” (Spanish). アリカンテ大学. 2018年11月11日閲覧。
  7. ^ Murcia/Alicante”. RENFE Cercanías. 2018年11月11日閲覧。
  8. ^ RENFE destinations from ALACANT-TERMINAL”. Horarios.renfe.es. 20 July 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。11 March 2011閲覧。
  9. ^ TRAM Alicante”. Ferrocarrils de la Generalitat Valenciana. 2018年11月11日閲覧。
  10. ^ Alicante Ferry Port”. Aferry.co.uk. 11 March 2011閲覧。
  11. ^ 燃え上がる風刺像、恒例のサン・フアン祭り”. AFP (2017年6月26日). 2017年7月9日閲覧。
  12. ^ Alicante Festivals”. Alicante.com. 11 March 2011閲覧。

外部リンク