「タギシミミの反逆」の版間の差分
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[[神武天皇]]の崩御後、[[皇子]]手研耳命は二人の弟([[神八井耳命]]・[[皇太子]][[神渟名川耳尊]])を殺そうとはかった。二人は手研耳命を討ち、神渟名川耳尊は即位した(綏靖天皇)。 |
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== 内容 == |
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=== 三皇子の誕生 === |
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[[神日本磐余彦]]は[[神武東征]]以前に[[日向国]][[阿多村|吾田邑]]の[[吾平津媛]]をめとり、子[[手研耳]]を得ていた。しかし東征後に[[事代主]]の娘[[媛蹈鞴五十鈴媛]]を新たにめとり正妃とした。磐余彦が即位して神武天皇(初代[[天皇]])となると五十鈴媛は[[皇后]]とされ、二人の間には、[[神八井耳]](神八井)と[[神渟名川耳]](渟名川耳、神渟名川)の |
[[神日本磐余彦尊]]は[[神武東征]]以前に[[日向国]][[阿多村|吾田邑]]の[[吾平津媛]]をめとり、子[[手研耳命]]を得ていた。しかし東征後に[[事代主神]]の娘[[媛蹈鞴五十鈴媛命]]を新たにめとり正妃とした。磐余彦尊が即位して神武天皇(初代[[天皇]])となると五十鈴媛命は[[皇后]]とされ、二人の間には、[[神八井耳命]](神八井命)と[[神渟名川耳尊]](渟名川耳尊、神渟名川尊)の二[[皇子]]が生まれた。神武天皇42年に神渟名川耳尊は[[立太子]]されて[[皇太子]]となった。 |
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=== 手研耳の計画 === |
=== 手研耳命の計画 === |
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神武天皇は神武天皇76年に[[崩御]]し、翌年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]に[[畝傍山東北陵]]に葬られた。皇太子神渟名川耳は特に心を[[大喪の礼|喪葬]]の事に留めていた。その庶兄である手研耳は長くにわたる政務経験があったが[[仁義]]にそむいており、神武天皇の[[諒闇]]中に二弟を害することをはかった。これは神武天皇崩御より3年後のことである。 |
神武天皇は神武天皇76年に[[崩御]]し、翌年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]に[[畝傍山東北陵]]に葬られた。皇太子神渟名川耳尊は特に心を[[大喪の礼|喪葬]]の事に留めていた。その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが[[仁義]]にそむいており、神武天皇の[[諒闇]]中に二弟を害することをはかった。これは神武天皇崩御より3年後のことである。 |
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=== 手研耳の暗殺 === |
=== 手研耳命の暗殺 === |
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この年の[[11月 (旧暦)|11月]]、神渟名川耳とその兄の神八井耳はひそかに(『[[古事記]]』によれば母の歌により)手研耳の志を知って、これを防いだ。すなわち、[[山陵]]の事が終わるに至って、[[弓部稚彦]](弓削部稚彦)には[[弓]]を、[[倭鍜部]][[天津真浦]]には真麛[[鏃]]を、[[矢作部|矢部]]には[[箭]]をつくらせた。弓矢が完成するに及んで、神渟名川耳は手研耳を射殺そうと思った。 |
この年の[[11月 (旧暦)|11月]]、神渟名川耳尊とその兄の神八井耳命はひそかに(『[[古事記]]』によれば母の歌により)手研耳命の志を知って、これを防いだ。すなわち、[[山陵]]の事が終わるに至って、[[弓部稚彦]](弓削部稚彦)には[[弓]]を、[[倭鍜部]][[天津真浦]]には真麛[[鏃]]を、[[矢作部|矢部]]には[[箭]]をつくらせた。弓矢が完成するに及んで、神渟名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思った。 |
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二人は手研耳が[[片丘]]の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳は、兄の神八井耳に |
二人は手研耳命が[[片丘]]の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に |
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と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。 |
と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。 |
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翌年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、神渟名川耳は綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、この年を綏靖天皇元年とした。 |
翌年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、神渟名川耳尊は綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、この年を綏靖天皇元年とした。 |
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=== 神八井耳の子孫 === |
=== 神八井耳命の子孫 === |
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神八井耳は綏靖天皇4年[[4月 (旧暦)|4月]]に薨じ、[[畝傍山]]の北に葬られた。[[多氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]])はその子孫とされる。 |
神八井耳命は綏靖天皇4年[[4月 (旧暦)|4月]]に薨じ、[[畝傍山]]の北に葬られた。[[多氏]]([[カバネ|姓]]は[[臣]])はその子孫とされる。 |
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[[Category:天皇史]] |
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[[Category:皇位継承]] |
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2019年10月3日 (木) 11:50時点における最新版
タギシミミの反逆(タギシミミのはんぎゃく)は、上古日本の皇位継承をめぐる説話の一つで、記紀などに記される。手研耳(たぎしみみ)の弟たちへの反逆を主内容とする。
概要
[編集]神武天皇の崩御後、皇子手研耳命は二人の弟(神八井耳命・皇太子神渟名川耳尊)を殺そうとはかった。二人は手研耳命を討ち、神渟名川耳尊は即位した(綏靖天皇)。
内容
[編集]特記以外は『日本書紀』によって記載する。
三皇子の誕生
[編集]神日本磐余彦尊は神武東征以前に日向国吾田邑の吾平津媛をめとり、子手研耳命を得ていた。しかし東征後に事代主神の娘媛蹈鞴五十鈴媛命を新たにめとり正妃とした。磐余彦尊が即位して神武天皇(初代天皇)となると五十鈴媛命は皇后とされ、二人の間には、神八井耳命(神八井命)と神渟名川耳尊(渟名川耳尊、神渟名川尊)の二皇子が生まれた。神武天皇42年に神渟名川耳尊は立太子されて皇太子となった。
手研耳命の計画
[編集]神武天皇は神武天皇76年に崩御し、翌年9月12日に畝傍山東北陵に葬られた。皇太子神渟名川耳尊は特に心を喪葬の事に留めていた。その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、神武天皇の諒闇中に二弟を害することをはかった。これは神武天皇崩御より3年後のことである。
手研耳命の暗殺
[編集]この年の11月、神渟名川耳尊とその兄の神八井耳命はひそかに(『古事記』によれば母の歌により)手研耳命の志を知って、これを防いだ。すなわち、山陵の事が終わるに至って、弓部稚彦(弓削部稚彦)には弓を、倭鍜部天津真浦には真麛鏃を、矢部には箭をつくらせた。弓矢が完成するに及んで、神渟名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思った。
二人は手研耳命が片丘の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に
今適 其時なり。夫れ言 密を尊び、言は宜 しく慎むべし。故 我の陰謀本より預者無し。今日の事は、唯吾爾 と自 行いたまはくのみ。吾当 に先 ず窨 の戸を開 けむ。爾其れ射よ。
と言い、手研耳命を射殺す役目を兄に与えた。二人は窨(むろ)に進入し、神渟名川耳尊はその戸を突き開けた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し、矢をいることができなかった。この時神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣(ひ)き取り、手研耳命を射た。一発目は胸に中(あ)たり、二発目は背に中たってついに殺した。
神渟名川耳尊の即位
[編集]神八井耳命ははじて神渟名川耳尊にしたがって皇位を譲り、
と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。
翌年1月8日、神渟名川耳尊は綏靖天皇(第2代天皇)として即位し、この年を綏靖天皇元年とした。