「奥寺康彦」の版間の差分
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奥寺は1977年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団した。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対[[MSVデュースブルク]]戦で先発デビューを飾った<ref>{{cite web|url=http://www.kicker.de/news/fussball/bundesliga/vereine/1977-78/12198/vereinsspieler_yasuhiko-okudera.html|title=Okudera, Yasuhiko - - 1. Bundesliga: alle Spielerstatistiken, News und alle personlichen Informationen|work=[[キッカー (新聞)|キッカー]]|accessdate=2013.9.6|language=ドイツ語}}</ref>。 |
奥寺は1977年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団した。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対[[MSVデュースブルク]]戦で先発デビューを飾った<ref>{{cite web|url=http://www.kicker.de/news/fussball/bundesliga/vereine/1977-78/12198/vereinsspieler_yasuhiko-okudera.html|title=Okudera, Yasuhiko - - 1. Bundesliga: alle Spielerstatistiken, News und alle personlichen Informationen|work=[[キッカー (新聞)|キッカー]]|accessdate=2013.9.6|language=ドイツ語}}</ref>。 |
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奥寺は1977年12月20日に行われた[[DFBポカール|ドイツカップ]]準々決勝、[[シュバルツバイス・エッセン]]戦で初ゴール(2得点)を決めた。ブンデスリーガでは1977-78年シーズンの第32節(1978年4月8日)の[[1.FCカイザースラウテルン|カイザースラウテルン]]戦で初ゴールを決めた。後半37分、ケルンがコーナーキックを得た。そのCKのボールを、奥寺はゴール前中央でヘディングしてゴールを決めた(これは日本人選手がブンデス・リーガで決めた初ゴールである)。奥寺はこの後、残り2試合でも得点を決めて、3試合連続ゴールを決める大活躍をした。このシーズン終盤の奥寺の大活躍によりケルンは2位チームを振り切り、14年振りのリーグ優勝を果たした。最終節のザンクトパウリ戦の後半41分に奥寺が決めたヘディングでのゴールは、ケルン優勝を決定づけるゴールとなり、当時「月間ベスト・ゴール」に選ばれた。奥寺はこのシーズン、ドイツ杯にも優勝してケルンは2冠優勝を果たした。当時、リーグとドイツ杯の2冠優勝はドイツ史上3チーム目で、ケルンの2冠達成は快挙とされた。 |
奥寺は1977年12月20日に行われた[[DFBポカール|ドイツカップ]]準々決勝、[[シュバルツバイス・エッセン]]戦で初ゴール(2得点)を決めた。ブンデスリーガでは1977-78年シーズンの第32節(1978年4月8日)の[[1.FCカイザースラウテルン|カイザースラウテルン]]戦で初ゴールを決めた。後半37分、ケルンがコーナーキックを得た。そのCKのボールを、奥寺はゴール前中央でヘディングしてゴールを決めた(これは日本人選手がブンデス・リーガで決めた初ゴールである)。奥寺はこの後、残り2試合でも得点を決めて、3試合連続ゴールを決める大活躍をした。このシーズン終盤の奥寺の大活躍によりケルンは2位チーム(ボルシアMG)を振り切り、14年振りのリーグ優勝を果たした。最終節のザンクトパウリ戦の後半41分に奥寺が決めたヘディングでのゴールは、ケルン優勝を決定づけるゴールとなり、当時「月間ベスト・ゴール」に選ばれた。奥寺はこのシーズン、ドイツ杯にも優勝してケルンは2冠優勝を果たした。当時、リーグとドイツ杯の2冠優勝はドイツ史上3チーム目で、ケルンの2冠達成は快挙とされた。 |
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優勝当時、バイスバイラー監督は「奥寺はケルンが優勝する為の最も重要なゴールを決めてくれた。サッカー選手はサッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、彼を起用することが出来て幸せです」と述べていた(現在〔2018年〕、奥寺の活躍以降、ケルンは一度もリーグ優勝していない)。 |
優勝当時、バイスバイラー監督は「奥寺はケルンが優勝する為の最も重要なゴールを決めてくれた。サッカー選手はサッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、彼を起用することが出来て幸せです」と述べていた(現在〔2018年〕、奥寺の活躍以降、ケルンは一度もリーグ優勝していない)。 |
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帰国した奥寺は[[木村和司]]と共に日本国内初の[[スペシャル・ライセンス・プレーヤー]]契約を結び注目を集めた。そして翌1987年に奥寺は古河電工の一員として[[アジアクラブ選手権1987|アジアクラブ選手権]]に優勝した。この優勝は日本クラブが初めてアジア王者になった歴史的優勝で快挙であった。奥寺は決勝ラウンドの[[アル・ヒラル]](この大会、準優勝チーム)戦でハットトリックの大活躍をして、古河は4ー3で勝利した。アジア王者を決める決勝戦でハットトリックした事があるアジア人選手は、未だに奥寺康彦だけである(2018年現在)。 |
帰国した奥寺は[[木村和司]]と共に日本国内初の[[スペシャル・ライセンス・プレーヤー]]契約を結び注目を集めた。そして翌1987年に奥寺は古河電工の一員として[[アジアクラブ選手権1987|アジアクラブ選手権]]に優勝した。この優勝は日本クラブが初めてアジア王者になった歴史的優勝で快挙であった。奥寺は決勝ラウンドの[[アル・ヒラル]](この大会、準優勝チーム)戦でハットトリックの大活躍をして、古河は4ー3で勝利した。アジア王者を決める決勝戦でハットトリックした事があるアジア人選手は、未だに奥寺康彦だけである(2018年現在)。 |
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奥寺は日本代表にも復帰した。そして奥寺は1987年の[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]アジア1次予選に参戦して、日本は4試合を戦い、4勝0敗の成績で最終予選に進出した。そして「アジア最終予選、東アジア・グループ」は日本、中国、タイ、ネパールの4ヶ国総当たりのリーグ戦が行われる事となり、1位の国のみが本大会出場という大会規定であった。そしてこの最終予選の1位通過は、日本と[[サッカー中華人民共和国代表|中国]]の一騎打ちとなった。第5節のアウェーの中国戦で、奥寺は左サイドバックとして出場して相手エースを完璧に抑えて、日本の1-0の勝利に貢献した。そして |
奥寺は日本代表にも復帰した。そして奥寺は1987年の[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]アジア1次予選に参戦して、日本は4試合を戦い、4勝0敗の成績で最終予選に進出した。そして「アジア最終予選、東アジア・グループ」は日本、中国、タイ、ネパールの4ヶ国総当たりのリーグ戦が行われる事となり、1位の国のみが本大会出場という大会規定であった。そしてこの最終予選の1位通過は、日本と[[サッカー中華人民共和国代表|中国]]の一騎打ちとなった。第5節のアウェーの中国戦で、奥寺は左サイドバックとして出場して相手エースを完璧に抑えて、日本の1-0の勝利に貢献した。そして日本がグループ首位でち点1上回った状態で、日本は最終節、ホームで中国を迎えて戦った。こ本オンッす為は利がかし中国は奥寺が居ない右サイドを守備の穴として狙って攻撃して、その作戦が成功した。その結果、日本は0-2で中国に敗れてし、逆転で中国がグループ1位となってオリンピック出場を決めた奥輪出場は叶わなかった。 |
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翌[[1987年-1988年のJSL|1987-88年]]シーズン、奥寺康彦は18才で古河入団以来、計18年間の社会人選手とプロ選手のサッカー選手生活を終えて、現役を引退した。 |
翌[[1987年-1988年のJSL|1987-88年]]シーズン、奥寺康彦は18才で古河入団以来、計18年間の社会人選手とプロ選手のサッカー選手生活を終えて、現役を引退した。 |
2018年8月8日 (水) 14:53時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | 東洋のコンピューター | |||||
カタカナ | オクデラ ヤスヒコ | |||||
ラテン文字 | OKUDERA Yasuhiko | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1952年3月12日(72歳) | |||||
出身地 | 秋田県鹿角市 | |||||
身長 | 177cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW(LWG, CF) / MF(LSH, LWB, DH) / DF(LSB) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1970-1977 | 古河電工 | 100 | (36) | |||
1977-1980 | ケルン | 75 | (15) | |||
1980-1981 | ヘルタ・ベルリン | 25 | (8) | |||
1981-1986 | ブレーメン | 159 | (11) | |||
1986-1988 | 古河電工 | 43 | (3) | |||
代表歴2 | ||||||
1970-1987[1] | 日本 | 32 | (9) | |||
監督歴 | ||||||
1996 | ジェフユナイテッド市原 | |||||
2017 | 横浜FC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月22日現在。 2. 2014年11月22日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
奥寺 康彦(おくでら やすひこ、1952年3月12日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。日本代表。秋田県鹿角市出身[2]。株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長。
人物
奥寺康彦は1970年代後半から1980年代中頃まで、当時、欧州最高のリーグであったドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグ・ランキング1位)で優勝争いする強豪クラブに所属して長きに渡り活躍した日本人サッカー選手である。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比で安定したプレースタイルは地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれ、賞賛された。
欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。
2014年に、奥寺康彦はブンデス・リーガから公式に『歴史上の日本人助っ人の第1位』に選ばれた。[3]
2014年に、奥寺康彦は澤穂希と共に、日本人最初のサッカー選手としてアジア・サッカー連盟から「アジア・サッカー連盟の殿堂」に選ばれて、アジアのレジェンドとして表彰された。[4]
一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが[5][6][7]、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある(後述)。
来歴
古河電工時代
秋田県鹿角市十和田大湯(旧鹿角郡十和田町大湯)出身[2]。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。 横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)に進学。同校卒業後の1970年、中学時代の外部コーチだった東邦チタニウムサッカー部監督・三村恪一の口利きで、三村と中央大学で同期だった古河電気工業サッカー部OBで日本サッカー協会の強化責任者だった長沼健に連絡を取り[8][9][10]、テストを受け、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部[8][9]した。
1972年、奥寺は19才で日本代表に選出されたが、重い腰痛に苦しみ、その影響の為、日本代表から3年も遠ざかった。
しかし、奥寺は1975年に日本代表復帰を果たすとムルデカ大会で得点王に輝いた。そして同年、天皇杯とリーグ戦で2冠優勝を果たした。この年、奥寺はベスト・イレブンに選出された。1976年に古河電工がブラジル工場を持っていた縁で、奥寺はブラジル・のビッグクラブ、パルメイラスのトレーニングに2ヶ月間、参加した。この時、元ブラジル代表でワールドカップに優勝して、ACミランで欧州チャンピオンズ・カップに優勝して活躍したジノ・サニから直接指導を受けて、奥寺は「成長するきっかけを得られた」と話している。
海外移籍の経緯。
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、バイスバイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。
奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のバイスバイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意した。
また、当時は試合ごとに欧州と日本を行き来する発想はなく、欧州移籍は即ち、その期間中は日本代表参加を諦める事を意味していた事も、本人にとっても周りにとっても欧州移籍の決断を渋らせた大きな要因であった。
1.FCケルン時代
奥寺は1977年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団した。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った[11]。
奥寺は1977年12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)を決めた。ブンデスリーガでは1977-78年シーズンの第32節(1978年4月8日)のカイザースラウテルン戦で初ゴールを決めた。後半37分、ケルンがコーナーキックを得た。そのCKのボールを、奥寺はゴール前中央でヘディングしてゴールを決めた(これは日本人選手がブンデス・リーガで決めた初ゴールである)。奥寺はこの後、残り2試合でも得点を決めて、3試合連続ゴールを決める大活躍をした。このシーズン終盤の奥寺の大活躍によりケルンは2位チーム(ボルシアMG)を振り切り、14年振りのリーグ優勝を果たした。最終節のザンクトパウリ戦の後半41分に奥寺が決めたヘディングでのゴールは、ケルン優勝を決定づけるゴールとなり、当時「月間ベスト・ゴール」に選ばれた。奥寺はこのシーズン、ドイツ杯にも優勝してケルンは2冠優勝を果たした。当時、リーグとドイツ杯の2冠優勝はドイツ史上3チーム目で、ケルンの2冠達成は快挙とされた。
優勝当時、バイスバイラー監督は「奥寺はケルンが優勝する為の最も重要なゴールを決めてくれた。サッカー選手はサッカー選手です。日本でもドイツでもどこでも才能は生まれるものです。奥寺は素晴らしい才能があり、彼を起用することが出来て幸せです」と述べていた(現在〔2018年〕、奥寺の活躍以降、ケルンは一度もリーグ優勝していない)。
翌1978-79シーズン、ケルンはUEFAチャンピオンズカップで準決勝まで勝ち進み、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦した。奥寺はアウェーの第1戦でケルンが3-3の同点に追いつくゴールをカウンターから決めた。[12][13] しかし、ケルンはホームの第2戦で0-1で敗戦して、欧州制覇は成らなかった。
翌1979-80年シーズン、ケルンはドイツ杯で決勝に進出した。しかし、格下のフォルトゥナ・デュッセルドルフに1-2で敗れた。奥寺はこの試合、1-2で負けている状況で後半20分から途中出場したが、デュッセルドルフに追いつくことはできず、準優勝で終った。
この時代のケルンにはディーター・ミュラー、ハインツ・フローエ、ハラルト・シューマッハ、トニー・ウッドコック、ベルント・シュスター、ベンハルト・クルマン、ピエール・リトバルスキーなどドイツ代表やイングランド代表の錚々たるメンバーが所属していた。そんなチームで奥寺康彦は外国人助っ人として活躍した。
ケルン時代、奥寺は3シーズンで、リーグ優勝1回、ドイツ杯優勝1回、準優勝1回を経験した。そして欧州チャンピオンズ・カップでも準決勝まで勝ち進み、ケルンのクラブ史上最強チームのメンバーとしてウィングで活躍した。
1979-80年シーズン途中にバイスバイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、奥寺は後任のカールハインツ・ヘダゴット監督の構想外となり、先発から外れる試合が増えた。その為、奥寺は1980-81年シーズンの開幕2カ月後に、2部のヘルタ・ベルリンへの移籍を決断した。
ヘルタ・ベルリン時代
奥寺はヘルタ・ベルリンに移籍して、監督の指令により初めて守備のポジションでプレイする事になった。このポジション変更は奥寺にとって転機となり、この後、奥寺は様々なポジションをこなすユーティリティー・プレーヤーとして新境地を拓く事になった。1980-81シーズン、ヘルタ・ベルリンで奥寺は主に右サイドバックでプレイして、25試合に出場して8得点も挙げた。ヘルタ・ベルリンは2部3位の成績で終了して1部昇格はならなかった。しかし、このシーズンの奥寺の活躍は他のクラブの関心を集めた。その結果、同じ2部で1部昇格を果たしたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督の勧誘を受けて、奥寺は翌シーズンからブレーメンへ移籍する事になった。
ヴェルダー・ブレーメン時代
奥寺はブレーメン移籍1年目は主に右サイドバックでプレイした。チームは1部昇格1年目であったが5位という好成績で終えた。
2シーズン目以降、奥寺は主に左サイドハーフのポジションでプレイした。
奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、ブレーメン時代は様々なポジションをこなした。レーハーゲル監督は試合に応じて、奥寺を様々なポジションでプレイさせた。相手チームのエースを封じる為のマークを担当させたり、ボランチ、両サイドバックでプレイさせたり、センターバックが不在の時はセンターバックで試合出場を命じた。またセンターフォーワードで起用した試合もあった。そして奥寺は本来のサイドハーフでも出場するといった具合で、この結果、奥寺はグラウンドのどこでもこなす事のできる極めて万能性の高い選手となり、奥寺が戦術やチーム事情に応じて様々なポジションを務める事はチームを助け、ブレーメンの躍進に大いに貢献した。レーハーゲル監督は奥寺について「奥寺を獲得したら3人選手を獲得したのと同じ。奥寺は3人分の仕事ができる名手だ」と評した。[14]
また「奥寺はどんなポジションでもすぐに自分のモノにしてしまう。奥寺はどんなポジションでもプレイする事ができる。監督からしてみれば理想的な選手だよ」と称賛していた。
1982ー83年シーズン、ブレーメンはハンブルガーSVと同勝点だったが惜しくも得失点差で敗れて2位で終わった。翌1983-84年シーズンは5位で、1984-85年シーズン、1985ー86年シーズンは2年連続で再び2位となった(1983年と1986年は優勝チームと勝ち点が同じで得失点差で敗れての2位であった)。
奥寺はブレーメン在籍中、チームは2位が3回という優れた成績で、在籍した5年間で毎年5位以内に入り、毎年のように優勝争いをしていた。その結果、1980年代中頃、ブレーメンはバイエルン・ミュンヘンと2強の地位を築くまでに至った。ブレーメンは優勝できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。ブレーメンにも世界一流の名選手が所属していた。ルディ・フェラー、ブルーノ・ペッツァイ、クラウス・フィヒテル、ウーベ・ラインダース、ノルベルト・マイヤー、マンフレート・ブルグスミュラーなどドイツ代表やオーストリア代表経験のある選手が所属していた。奥寺はこのような強豪ブレーメンで助っ人選手として活躍した。
1980年代、奥寺は当時、ブレーメンに在籍した外国人選手で歴代2位(159試合)の試合出場記録を作り(2018年現在では9位)、ブレーメン史上最も活躍した外国人助っ人の一人としてクラブの歴史に名を刻んだ。
ブンデスリーガには通算9年間在籍した。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算234試合に出場した。通算234試合出場の記録は、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまでブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場だった[15]。奥寺は通算26得点だった。この通算26点の記録は2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった[16]。
古河復帰
1986年、奥寺は34才であったがブレーメンからまだ1年契約延長のオファーを受けていた。しかし、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに、日本のサッカー界に持てる全てを伝えたい」として、日本に帰国する事を決断して古巣の古河電工に復帰した。
帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。そして翌1987年に奥寺は古河電工の一員としてアジアクラブ選手権に優勝した。この優勝は日本クラブが初めてアジア王者になった歴史的優勝で快挙であった。奥寺は決勝ラウンドのアル・ヒラル(この大会、準優勝チーム)戦でハットトリックの大活躍をして、古河は4ー3で勝利した。アジア王者を決める決勝戦でハットトリックした事があるアジア人選手は、未だに奥寺康彦だけである(2018年現在)。
奥寺は日本代表にも復帰した。そして奥寺は1987年のソウル五輪アジア1次予選に参戦して、日本は4試合を戦い、4勝0敗の成績で最終予選に進出した。そして「アジア最終予選、東アジア・グループ」は日本、中国、タイ、ネパールの4ヶ国総当たりのリーグ戦が行われる事となり、1位の国のみが本大会出場という大会規定であった。そしてこの最終予選の1位通過は、日本と中国の一騎打ちとなった。第5節のアウェーの中国戦で、奥寺は左サイドバックとして出場して相手エースを完璧に抑えて、日本の1-0の勝利に貢献した。そして日本がグループ首位でち点1上回った状態で、日本は最終節、ホームで中国を迎えて戦った。こ本オンッす為は利がかし中国は奥寺が居ない右サイドを守備の穴として狙って攻撃して、その作戦が成功した。その結果、日本は0-2で中国に敗れてし、逆転で中国がグループ1位となってオリンピック出場を決めた奥輪出場は叶わなかった。
翌1987-88年シーズン、奥寺康彦は18才で古河入団以来、計18年間の社会人選手とプロ選手のサッカー選手生活を終えて、現役を引退した。
引退後
現役引退後、奥寺はJリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任した。191996年監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。
1999年、奥寺は横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任した。2000年からは代表取締役社長を兼任している。
2017年10月、横浜FCは中田仁司の解任により監督が不在となった。その為、奥寺は第38節のFC町田ゼルビア戦で暫定的に監督に就任して、指揮を執った[19]。
日本人初のプロサッカー選手
従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった[20][21][22][23]。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる[20]。
逸話
- 奥寺は何故ドイツであれだけ長くプレーできたのかと質問された際、「自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう」と述べている。
- レーハーゲル監督はサイドハーフの奥寺が攻撃参加でチャンスを作り、高い守備力で相手の突破を抑え、そして中盤でチームのバランサーとしてチームの為にスペースを埋めて動く働きぶりを評して、「奥寺は一人で3人分の仕事ができる名手だ」と称賛した。
- 奥寺康彦はドイツのビッグ・クラブ、バイエルン・ミュンヘンとの対戦成績が6勝3分3敗(リーグ戦)で勝ち越している。
- 奥寺康彦はドイツ時代の9年間で、イエローカードを僅か5枚しか貰っていない。奥寺は対人守備が極めて強く、ファウルをせずにボールを奪えるうまさを持っていた。その結果、フェア・プレーを実践した選手として選手生活を終えた。
- ブレーメンに在籍していた1980年代に、ドイツでプレーしていることにかけて伊藤ハム「バイエルンソーセージ」のテレビCMに出演していた。
- 第22回(1986-87年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かう事を象徴した[24]。
- 『キャプテン翼』37巻の77ページにて、経歴の説明と共に日本代表の監督として実名で登場している。自らの実力を試すために、翼は奥寺に対し一対一の勝負を挑んだが、奥寺を抜き去る事は出来なかった。架空の話ではあるが翼のドリブルを止めた数少ない登場人物となっている。
- ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドロワーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。
所属クラブ
- 1970年 - 1977年 - 古河電気工業サッカー部
- 1977年 - 1980年 - 1.FCケルン
- 1980年 - 1981年 - ヘルタ・ベルリン
- 1981年 - 1986年 - ヴェルダー・ブレーメン
- 1986年 - 1988年 - 古河電気工業サッカー部
獲得タイトル
- 日本サッカーリーグ 1回(1976年)
- 天皇杯 1回(1976年)
- ブンデスリーガ 1回(1977-78)
- DFBポカール 1回(1977-78)
- アジアクラブ選手権 1回(1986-1987)
- ムルデカ大会得点王 1回(1976)
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1970 | 古河 | JSL | 7 | 3 | |||||||
1971 | 9 | 5 | |||||||||
1972 | JSL1部 | 8 | 0 | ||||||||
1973 | 18 | 6 | |||||||||
1974 | 18 | 5 | |||||||||
1975 | 18 | 9 | |||||||||
1976 | 18 | 8 | |||||||||
1977 | 4 | 0 | |||||||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
1977-78 | 1.FCケルン | ブンデス1部 | 20 | 4 | 4 | 2 | 24 | 6 | |||
1978-79 | 24 | 5 | 3 | 1 | 27 | 6 | |||||
1979-80 | 30 | 6 | 8 | 1 | 38 | 7 | |||||
1980-81 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |||||
1980-81 | ヘルタ・ベルリン | ブンデス2部 | 25 | 8 | 4 | 0 | 29 | 8 | |||
1981-82 | ブレーメン | ブンデス1部 | 30 | 2 | 4 | 0 | 34 | 2 | |||
1982-83 | 34 | 4 | 2 | 0 | 36 | 4 | |||||
1983-84 | 29 | 1 | 4 | 0 | 33 | 1 | |||||
1984-85 | 33 | 3 | 4 | 0 | 37 | 3 | |||||
1985-86 | 33 | 1 | 3 | 0 | 36 | 1 | |||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | 古河 | JSL1部 | 21 | 2 | |||||||
1987-88 | 22 | 1 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 143 | 39 | |||||||
ドイツ | ブンデス1部 | 234 | 26 | 33 | 4 | 267 | 30 | ||||
ドイツ | ブンデス2部 | 25 | 8 | 4 | 0 | 29 | 8 | ||||
総通算 | 402 | 73 |
国際大会個人成績 | ||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA EL | UEFA CL | ||||
1978-79 | 1.FCケルン | - | 2 | 1 | ||
1980-81 | 1 | 1 | - | |||
1982-83 | ブレーメン | 6 | 1 | - | ||
1983-84 | 4 | 0 | - | |||
1984-85 | 2 | 0 | - | |||
1985-86 | 2 | 0 | - | |||
通算 | UEFA | 15 | 2 | 2 | 1 |
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1970 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1971 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1972 | 6 | 1 | 6 | 0 | 12 | 1 |
1973 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1974 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1975 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 |
1976 | 8 | 7 | 3 | 0 | 11 | 7 |
1977 | 4 | 0 | 25 | 8 | 29 | 8 |
1978 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1979 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1980 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1981 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1982 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1983 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1984 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1985 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1986 | 4 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
1987 | 5 | 1 | 10 | 2 | 15 | 3 |
1988 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 32 | 9 | 47 | 10 | 79 | 19 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1976年8月8日 | マレーシア、クアラルンプール | インド | 5-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
2 | ||||||
3 | ||||||
4 | 1976年8月10日 | マレーシア、クアラルンプール | インドネシア | 6-0 | 勝利 | ムルデカ大会 |
5 | ||||||
6 | ||||||
7 | 1976年8月13日 | マレーシア、クアラルンプール | ビルマ | 2-2 | 引分 | ムルデカ大会 |
8 | 1976年8月20日 | マレーシア、クアラルンプール | マレーシア | 2-2 | 引分 | ムルデカ大会 |
9 | 1987年9月15日 | 日本、東京 | ネパール | 5-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1996 | J | 市原 | 9位 | 30 | - | 13 | - | 17 | 予選リーグ | 3回戦 |
2017 | J2 | 横浜FC | 9位 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | - |
- 2017年は第38節のみ。順位は第38節終了時点。
脚注
- ^ a b “奥寺 康彦”. サッカー日本代表データベース
- ^ a b スポーツニッポン『我が道』2016年5月2日
- ^ “ブンデスリーガ、日本人助っ人ランキング”. 2018年8月6日閲覧。
- ^ “アジアの殿堂”. 2018年8月6日閲覧。
- ^ NHK衛星第1テレビジョン『証言ドキュメント 日本サッカーの50年「第二夜 迷走そして悲劇」』2010年5月3日放送。
- ^ 『Sports Graphic Number 765号』「[ブンデスの偉大な先駆者]奥寺康彦が伝授する越境成功術」P.41 2010年10月28日発売
- ^ 『Sports Graphic Number 765号』「[年表&傾向分析]日本人選手海外移籍の系譜」P.62 2010年10月28日発売
- ^ a b スポーツニッポン『我が道』2016年5月4日
- ^ a b スポーツニッポン『我が道』2016年5月9日
- ^ スポーツニッポン『我が道』2016年5月11日
- ^ “Okudera, Yasuhiko - - 1. Bundesliga: alle Spielerstatistiken, News und alle personlichen Informationen” (ドイツ語). キッカー. 2013年9月6日閲覧。
- ^ 五輪代表 7・21メキシコ戦は吉兆の地 nikkansports.com2012年6月3日
- ^ N'ham Forest vs Cologne 1979 (Part Three)
- ^ “奥寺康彦の万能性。”. 2018年8月7日閲覧。
- ^ “長谷部誠、ブンデス日本人最多出場達成も続く挑戦「突き抜けた記録を目指したい」”. サッカーキング. (2017年3月6日) 2017年3月6日閲覧。
- ^ “岡崎、日本人最多に感慨=独サッカー”. 時事通信社. (2014年9月14日) 2014年9月14日閲覧。
- ^ 奥寺康彦氏、永井良和氏ら4氏が殿堂入り nikkansports.com 2012年8月21日
- ^ AFC初代殿堂入り10名に奥寺氏、澤、キューウェル氏らが選出 サッカーキング 2014年11月22日
- ^ 明治安田生命J2リーグ 第38節のチーム体制について 横浜FC 2017年10月18日
- ^ a b 福永稔彦『好奇心』(2004年12月7日付け24面)スポーツニッポン。
- ^ Sports Graphic Number665号, 吉崎英治『突撃!エイジーニョ20、海外組対談「誰を呼ぶべきか」』文藝春秋、2006年11月2日。
- ^ 月刊浦和レッズマガジン, 吉田みずほ『レッズとアーティストの蜜月関係/さだまさし』フロムワン、2006年4月。
- ^ SPORTS★LEGEND. “番組公式サイト内に書かれている「海外サッカープロ第1号は、奥寺康彦ではなく、?の弟。」という問題に対する回答”. 日本テレビ放送網. 2009年10月10日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “記録で見る天皇杯全日本サッカー選手権大会の歴史。新たな歴史をつくるのはどのチームか――”. 日本サッカー協会 (2013年9月6日). 2014年8月28日閲覧。