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「団十郎朝顔」の版間の差分

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'''団十郎朝顔'''(だんじゅうろうあさがお)は、主に大輪系で茶色の花を咲かせる[[アサガオ]]に付けられる名称の一種。
'''団十郎朝顔'''(だんじゅうろうあさがお)は、[[柿色]]{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}(もしくは・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統の{{sfn|渡辺|1996|p=44}})の花を咲かせる[[アサガオ]]に付けられる名である{{sfn|渡辺|1996|pp=43-45}}
本記事では、主に朝顔愛好会を中心に育てられている黄蝉葉の団十郎について記す。


明治初期、入谷の植木屋[[#成田屋留次郎|成田屋留次郎]]が、柿色丸咲きの朝顔を自らの屋号より「成田屋」と名付け販売しており、当時劇壇の明星であった[[九代目市川團十郎]]の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「成田屋」と呼ばれた朝顔が「団十郎」と呼ばれるようになった{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。また[[市川團十郎]]が歌舞伎十八番「[[暫]]」に用いる[[素襖|素袍]]の色が[[柿色]]であり、その色と同じ事から名付けられたともされる{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}。他に柿色へ三升の線を取った朝顔が出来て、それを三升の朝顔、または団十郎朝顔と宣伝して人気を博したとする記述もある{{sfn|伊坂|1941|p=14}}。
戦前、吉田柳吉氏が「花王」から分離選出したものを伊藤穣士郎氏が保存維持したと伝えられる。<ref>{{Cite web|url=http://mg.biology.kyushu-u.ac.jp/hort-large-flowered.php|title=大輪朝顔|accessdate=2018-06-24|website=mg.biology.kyushu-u.ac.jp|language=ja}}</ref>


朝顔の名所であった入谷で明治時代に売り出されたのが最初である{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。以降様々な朝顔に「団十郎」という名前がつけられてきた{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。2020年時点で正式な団十郎朝顔と言われている「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」の品種は、明治時代に売り出された団十郎とは由来を異にする全く別の品種であり、また一般的に、団十郎朝顔が江戸時代に団十郎の茶色として一世を風靡した<ref>{{Cite web |url=http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=3440 |title=スポーツ祭東京2013花いっぱい運動 ~朝顔(団十郎)編~ |publisher=あきる野市 |date=2012-06-08 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8264492/www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=3440 |archivedate=2013-08-11 |deadlinkdate= 2020-08-03|ref={{sfnref|あきる野市|2012}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=朝顔「団十郎」育っています|date = 2013-07-01|publisher=国分寺市|journal=市報国分寺|page=10|issue=1186|url = https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8723562/www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/150000/s151500/KOKU120701.pdf|ref={{sfnref|国分寺市|2013}}}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,44615,358,html |title=スポーツ祭東京2013の花「団十郎」成長記録 |publisher=東大和市 |date=2012-08-01 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4020008/www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,44615,358,html |archivedate=2012-11-22 |deadlinkdate= 2020-08-03|ref={{sfnref|東大和市|2012}}}}</ref>もしくは江戸の昔から栽培が盛んに行われていた{{sfn|あきる野市|2012}}<ref>{{Cite web |url=https://matome.naver.jp/odai/2143385694903726101 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20200820122705/https://matome.naver.jp/odai/2143385694903726101|archivedate=2020-08-20|title=江戸の粋な朝顔「団十郎」とはあさがお市での見分け方など |publisher=NAVERまとめ |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|Naverまとめ|2016}}}}</ref>、種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えた{{sfn|国分寺市|2013|p=10}}。巷では茶色の朝顔を「団十郎」と呼んでいるが、本来は「団十郎」は特定の品種を指している<ref>{{Cite web |url=http://www.tokyo-park.or.jp/teien/special/asagao.html |title=庭園へ行こう。あさがお特集 |publisher=公益財団法人 東京都公園協会 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11161438/www.tokyo-park.or.jp/teien/special/asagao.html |archivedate=2018-09-22 |deadlinkdate= 2020-08-03 |ref={{sfnref|東京都公園協会|n.d.}}}}</ref>{{sfn|Naverまとめ|2016}}。などと言われるが、そのような事実は無い(根拠は[[#一般に流布する通説について]]で述べる)。
花色は海老茶、葉は黄蝉葉である。


== 歴史 ==
2018年現在、この品種に関してインターネット上では「江戸時代には、団十郎の茶色として、一世を風靡した」「種子の確保が容易ではない」「生産量が激減し戦後途絶えた」「『幻の朝顔』と言われていた」等の表現を使われることが多いが、
=== 団十郎朝顔誕生以前の朝顔の歴史(江戸時代まで) ===
以前の本記事が典拠であり、それには検証可能な参考文献や出典が全く示されておらず、根拠に乏しい。
====朝顔の起源====
アサガオ(朝顔 [[学名]]:{{Snamei|Ipomoea nil}}) は世界の熱帯、亜熱帯に広く分布している。日本のアサガオの起源はネパールを含む熱帯アジアか、東南アジア地域では無いかと考えられてきたが{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}、ブラジルやアフリカの系統もあり、これらがどういう関係にあるかは不明である{{sfn|米田|2012|p=21}}。アサガオ研究者の米田芳秋は「新大陸のどこかで生まれた可能性が高い」としている{{sfn|米田|2012|p=21}}。本稿は種としてのアサガオではなく一園芸品種の「団十郎」についての記事なので、以後基本的には「朝顔」と漢字で表記する。
====奈良時代から安土桃山時代====
朝顔は奈良時代に中国から日本へ薬草として渡来したと考えられている{{sfn|中村|1961|p=227}}{{sfn|渡辺|1977|p=240}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。『[[古今和歌集]]』に収載されている[[矢田部名実]]の歌「{{ruby|打|う}}ちつけに{{ruby|濃|こ}}しとや花の色を見むをくしらつゆの染むる{{ruby|許|ばかり}}を」{{efn|朝顔の異称「けにごし(牽牛花)」を「打ちつけに濃し」に読み込んでいる。}}{{sfn|小島|新井|1989|p=145}}が今のところ朝顔渡来の最初の証拠である{{sfn|米田|2012|p=12}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。その頃の朝顔は葉は緑で模様が無い並葉、丸咲の中輪、淡青色の花で種子は黒く、蔓性の単純な物であった{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。
その後平安時代から鎌倉時代にかけていくつかの絵画資料や文献に朝顔が登場する{{sfn|米田|2012|p=12}}。その頃までは花色や葉型に変化は無かった{{sfn|米田|竹中|1981|p=X}}。室町時代末か桃山期の作とされる愛知県一宮市の妙興寺の六曲一双の屏風『秋草図』には青色花と白色花が描かれ、白花が観賞されていた事を示している{{sfn|米田|2012|p=12}}。安土桃山時代までは青と白色花の単純な変化しか無かった。
====江戸時代====
江戸時代になり、世の中が平和になると各種の花卉園芸が発展していった。1692年(元禄5年)に狩野重賢の描いた『草木写生春秋乃巻』では濃青、赤、青、白色の花が描かれている{{sfn|米田|2012|p=14}}。次いで形の変化が起こった。『花壇地錦集』(元禄8、1695年)、『草花絵前集』(元禄12、1699年)、『[[大和本草]]』(宝永6、1709年)、『[[和漢三才図会]]』(正徳2、1712年)は二葉朝顔(ちゃぼ朝顔、小牽牛花)の名前がある。これは木立の変異である。この頃から朝顔の形態的な突然変異が起こり始めてきた{{sfn|米田|2012|p=14}}。従来、変化朝顔の第一次流行期は文化文政期と言われてきたが{{sfn|米田|竹中|1981|p=XI}}、享保8年(1723年)の三村森軒の自筆本『朝顔明鑑鈔』では、文化文政期以降の変化朝顔より変化の程度は低いが、種々の変化朝顔が記録されている。花色は青、白、紫系、紅系が記録されている{{sfn|米田|2012|pp=14-15}}。団十郎朝顔の色、柿色の記録はまだ無い{{sfn|三村|2012}}。
=====文化文政期の流行=====
変化朝顔の本格的な流行は文化・文政期(1804 - 1830年)に始まったと言われる{{sfn|米田|2012|p=15}}{{sfn|渡辺|1977|p=242}}。米田は同時代の様々な文献を挙げ「江戸の変化朝顔の栽培は文化3年(1816年)頃から始まり、大坂に広まったとみてよいだろう」と述べている{{sfn|米田|2012|p=15}}。江戸や大坂では、花合わせ(品評会)が始まり、大坂では『花壇朝顔通』(文化12、1815年)、『牽牛品類図考』(文化12、1815年)、『牽牛品』(文化14、1817年)、江戸では『あさかほ叢』(文化14、1817年)、『丁丑朝顔譜』(文化15、1818年)、『朝顔水鏡』(文政元、1818年)など朝顔専門の図譜が多数刊行されるようになった{{sfn|米田|2012|p=15}}{{sfn|渡辺|1977|p=242}}{{sfn|中村|1961|p=232}}。この頃の変異としては、花色は赤系統と青系統は濃色から淡色まであり、茶系統や灰色系の花も現れ、また絞りや絣りの花も出現していた{{sfn|渡辺|1977|pp=242-243}}{{sfn|中村|1961|p=233}}。『あさかほ叢』ではさらに、柿色{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=27}}、薄黄{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=21}}、極黄{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=16}}{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=18}}、黄絞り{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=10}}の花が見られる{{sfn|渡辺|1977|p=243}}。葉色では、斑入り葉、黄葉、葉型では丸葉、芋葉、鍬形葉が現れた{{sfn|中村|1961|p=233}}。葉と花に関連した変異では、渦、立田、笹、柳、南天、乱獅子、獅子、桐性など、花形では縮咲、石畳咲、竜胆咲、台咲、孔雀咲、八重咲きなど、他に茎の石化、種子も斑入り葉の褐色黒筋入りと茶色種子が出現した{{sfn|中村|1961|pp=233-234}}。この頃に団十郎朝顔の特長である柿色の変異が生まれた。
=====嘉永安政期の流行=====
文化・文政期における変化朝顔の流行は文政初期より次第に衰微していった{{sfn|岡|1934|pp=23-24}}。天保9年(1838年)刊行の『東都歳事記』には「多くは異様のものにして愛玩するに足らず、されば四五年の間にして、文政の始めより絶えしも{{ruby|宜|むべ}}なり」とある{{sfn|岡|1934|p=23}}{{sfn|斎藤|1838|p=33}}{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000a|p=645}}。朝顔への熱は冷め、多くの園芸愛好家の関心は子万年青や松葉蘭に移っていった{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=28}}{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000a|pp=646-651}}。もしくは文政の末から天保にかけて江戸の火災、飢饉や大塩平八郎の乱、天保の改革による倹約令なども重なり朝顔の流行は下火になったとする文献もある{{sfn|岡|1934|pp=23-24}}{{sfn|中村|1961|p=235}}{{sfn|渡辺|1977|pp=244-245}}。岡はその間も愛好家は表面を憚りながら栽培を継続していたのではないかとしている{{sfn|岡|1934|p=24}}。嘉永・安政期(1848 - 1860年)になると再び変化朝顔のブームが再来した。この時代に出現した変異としては、洲浜、乱菊、燕、手長牡丹、茎別牡丹などがある{{sfn|中村|1955|pp=21-22}}{{sfn|中村|1961|p=237}}。また八重咲や牡丹咲と各種の変異が組み合わされ、獅子牡丹、台咲牡丹、車咲牡丹、蓮花咲牡丹、采咲牡丹など複雑な変異が生まれた{{sfn|中村|1955|pp=21-22}}{{sfn|中村|1961|p=237}}。この時代の流行の中心人物として、武家代表としては旗本であった[[鍋島直孝]]、町人代表としては植木屋の[[#成田屋留次郎|成田屋留次郎]]がいた{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|pp=28-39}}{{sfn|中村|1961|p=236}}{{sfn|米田|2012|p=16}}{{sfn|渡辺|1977|p=245}}。鍋島直孝は石高5000石の大身の旗本で、北町奉行、大番頭などを務めた。杏葉館と号し、江戸飯田町もちの木坂に邸宅を構えていた{{sfn|米田|2012|p=16}}。趣味家としてパトロン的存在であり{{sfn|米田|2012|p=16}}、朝顔図譜『朝かほ三十六花選』の刊行を助け、自らも変化朝顔や撫子の奇品の育成を楽しんだ{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=28}}。成田屋留次郎は本名を山崎留次郎と言い{{sfn|岡|1931|p=10}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}、江戸入谷の植木屋であった{{sfn|中村|1961|p=236}}{{sfn|米田|2012|p=16}}。彼は『三都一朝』(嘉永7、1854年)『両地秋』(安政2、1855年)、『都鄙秋興』(安政4、1857年)を刊行し{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}{{sfn|米田|2012|p=16}}、また花合わせ会を通じて江戸の変化朝顔の発展に活躍した{{sfn|米田|2012|p=16}}。この成田屋留次郎が明治時代に「団十郎」と名付けられた朝顔を入谷で売り出した。
=== 明治時代 ===
====団十郎朝顔の誕生====
明治維新後の社会的混乱のため、朝顔栽培をはじめとする園芸全般は衰退した{{sfn|岡|1912|p=1}}{{sfn|米田|2012|p=19}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。社会の混乱が落ち着いた明治12、3年頃から入谷が再び朝顔の名所となり、そこで団十郎朝顔が生まれ一世を風靡した{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。日本画家でありまた本草学の研究家であった[[岡不崩]]{{efn|岡不崩は画家、また各地で美術の教鞭をとる一方で、明治27年(1894年)に朝顔愛好会のあさがほ穠久會に入会して、変化朝顔の栽培と研究、技術の普及に注力した。明治大正期の第三次変化朝顔ブームにおける中心人物の一人であった。{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=45}}。}}は以下のように記している。


{{Quotation| 抑も、明治の初年は、百事未だ混沌の中にありて、泰西文化は時々刻々に歷史的風習を破壊し去らんとし上下共に其歸著する處に惑ひ、各般の制度未だ容易に確立せず、然れども幾多の事變と、困難と、經驗とによりて、次第に秩序的に萬事に基礎を按排することを得たり。<br />
蝉葉の大輪朝顔が現れたのは明治以降であるため<ref>{{Cite web|url=http://mg.biology.kyushu-u.ac.jp/hort-large-flowered.php|title=大輪朝顔|accessdate=2018-06-24|website=mg.biology.kyushu-u.ac.jp|language=ja}}</ref>、江戸時代からの品種ということはありえないし、大輪朝顔の愛好会の品種のため、以前は市販されることもなく、「生産が激減し戦後途絶えた」等の表現はふさわしくない。誰が「幻の朝顔」と言っていたのかの典拠も不明である。
如此くして明治十二三年の交に至りて、制度文物の施設略その體を備ふるに至り、人心融和して市民其居に安んじ園藝を弄ぶの餘暇を得るに至り、入谷は再び都下の一名所となり成田屋、丸新、栞齊、其他の花戸嬋娟を競へり。都民は年中行事の一として必ず此入谷に{{Ruby|あ|﹅}}{{Ruby|さ|﹅}}{{Ruby|か|﹅}}{{Ruby|ほ|﹅}}を見ることヽとせるが如し。然りと雖も其花たるや普通平凡なるもののみにして、成田屋と稱する柿の丸咲最も名高りき。そは入谷の留次郞が専賣なるを、其屋號の成田屋なると、其當時劇壇の明星なりし團十郞の三升の紋の柿色に染出されしとに依つて、留次郎の屋號の成田屋を名とせる花は、又、團十郞と呼ばるヽに至れり。而して當時はあながちに大輪を稱するにてもなく、只一鉢に數多く咲かせたるを嗜むの風ありき。架を大にして繁茂せしめたるを入谷作りと云ふ。如此一般は其嗜好幼稚なりしと雖も、文化文政より繼續せる成田屋留次郎は猶雨龍葉の類を奥座敷に飾り、三都一朝、都鄙秋興を繙ときて、好事者に説明するあれば、高須栞齊は又、昔しの印籠作に妙を得て、留次郎と雌雄を爭へり。成田屋没して茶來出でて、入谷の重鎭となる。|岡不崩|明治昭代の牽牛子{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}}}


当時、成田屋留次郎が専売していた「成田屋」という柿色丸咲きの朝顔が最も名高かった。自らの屋号を冠した「成田屋」が当時劇壇の明星であった[[九代目市川團十郎]]の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「団十郎」と呼ばれるようになった。この成田屋留次郎がどういう人物か、当時東京名物であった入谷の朝顔がどのような物であったかは[[#成田屋留次郎と入谷の朝顔]]で述べる。
近年(2010年代以降)は大手種苗会社<ref>{{Cite web|url=http://sakata-tanet.com/shop/g/g2001664014615/|title=朝顔苗 団十郎(黄蝉葉・斑無葉 花は濃茶色無地 日輪抜け) 1株: 草花苗|種(タネ),球根,苗の通販ならサカタのタネっと|accessdate=2018-06-24|website=sakata-tanet.com|language=ja}}</ref>、朝顔市、ネットオークション等で販売されており、入手は容易となっている。

==== 文献に現れる団十郎朝顔 ====
以上の岡による記述は大正元年(1912年)のものである。確認できる団十郎朝顔に関する最も古い記述は明治24年(1891年)東京朝日新聞の記事である{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|森|1969a|p=207}}{{efn|明治23年(1890年)の『朝顔銘鑑』で、「斑入黄葉柿色覆輪咲き」と紹介されているとする文献もあるが<ref>{{Cite journal|和書|author=田旗裕也|title=大人気!‘団十郎’はこんなアサガオ|year=2019|month = 8|publisher=NHK出版|journal=趣味の園芸|page=72|url = http://textview.jp/post/hobby/38225|ref={{sfnref|田旗|2019}}}}</ref>、出典が確認が出来ない。前年、明治22年(1889年)の『朝顔名鑒』には「団十郎」の名は無いが、洲濱部の項に「斑入葉柿覆輪」の品種がある{{sfn|伊藤|n.d.}}。}}。入谷での団十郎朝顔の様子が「朝顔大名」という題で、狂言風に大名と太郎冠者の問答として書いた記事が掲載されている。

{{quotation|<sup>大名</sup>「なか〱{{Ruby|此虑|こヽ}}ぢや{{Ruby|扨|さて}}も{{Ruby|出|で}}たぞ{{Ruby|夥|おびた}}だしい{{Ruby|人|ひと}}ぢやヤアー{{Ruby|咲|さい}}たぞ{{Ruby|扨|さて}}もさても{{Ruby|美事|みごと}}に{{Ruby|咲|さい}}た{{Ruby|事|こと}}ぞアノ{{Ruby|赤|あか}}と{{Ruby|白|しろ}}との{{Ruby|間|あひだ}}にある{{Ruby|一鉢|ひとはち}}ハ{{Ruby|珍|めづ}}らしい{{Ruby|花|はな}}ぢや{{Ruby|何|なん}}と申すぞ <sup>太</sup>「これで{{Ruby|厶|ござ}}りまするか{{Ruby|是|これ}}ハ{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と申して{{Ruby|近年|きんねん}}{{Ruby|此花|このはな}}を{{Ruby|造|つく}}つたと申すことでことで{{Ruby|厶|ござ}}ります <sup>大名</sup>「シテ{{Ruby|何故|なにゆゑ}}に{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と申すのでおりやるぞ <sup>太</sup>「これハ{{Ruby|此色|このいろ}}を{{Ruby|俗|ぞく}}に{{Ruby|柿色|かきいろ}}と申し{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}が十八{{Ruby|番|ばん}}の{{Ruby|家|いへ}}の{{Ruby|藝|げい}}{{Ruby|暫|しばら}}くの{{Ruby|素袍|すはう}}の{{Ruby|色|いろ}}と{{Ruby|同|おな}}じ{{Ruby|色|いろ}}ぢやによつて{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と{{Ruby|名|なづ}}けたと{{Ruby|見|み}}えまする|朝顔大名{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}}}
この記事では[[市川團十郎]]が歌舞伎十八番「[[暫]]」に用いる[[素襖|素袍]]の色が[[柿色]]であり、その色と同じ事から名付けられたとしている。明治27年(1894年)8月に発行された『朝顔銘鑑』(東京・百草園丸新 鈴木新次郎発行)には「常葉極大輪咲之部」内に「斑入葉極濃キ柿覆輪、一名團十郞」と記されている{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|渡辺|1996|pp=43-44}}。また、明治33年(1900年)12月10日に発行された『朝顏畫報』第7号(宇治朝顏園発行)の「花名録」には丸咲きの部として「成田屋 黄州浜葉渋茶白覆輪大輪」と記されている{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。

他にも明治時代の団十郎朝顔について、いつくかの文献に記述がある。[[#団十郎朝顔の誕生]]の項に引用した岡の記述にもある入谷の重鎮であった横山茶來{{efn|横山正名といい、茶來と号した。天保4年(1833年)に御手先与力の横山為政の長男として生まれた。陸軍奉行、一橋家二番銃隊三番銃士、警視庁と種々の官命を拝し、その後植木商となり明治41年(1908年)に没した。幕末期から朝顔界で名をなし、高い位の人たちと交流があった。明治維新後も植木商として、また変化朝顔の愛好会であった穠久会の役員としても活動した{{sfn|渡辺|1996|pp=46-47}}。}}の息子、横山五郎が語った明治時代の入谷の朝顔についての思い出話を岩本熊吉が『実用花卉新品種の作り方』の中で記している。
{{quotation|また{{ruby|其|そ}}の頃の{{ruby|大輪物|たいりんもの}}は、{{ruby|悉|ことごと}}く{{ruby|鍬形葉|くわがたは}}であつて、{{ruby|蟬葉|せみは}}や、{{ruby|千鳥葉|ちどりは}}はなく、せいぜい四{{ruby|寸位|すんくらゐ}}であつて、{{ruby|最|もつと}}も{{ruby|能|よ}}く{{ruby|賣|う}}れたのは{{ruby|亂菊咲|らんぎくざき}}と云つて三{{ruby|寸|ずん}}五{{ruby|分位|ぶぐらゐ}}であつた。また一{{ruby|時|じ}}、{{ruby|柿色|かきいろ}}を{{ruby|大層|たいそう}}{{ruby|好|この}}み、{{ruby|之|これ}}を{{ruby|團|だん}}十{{ruby|郞|らう}}といつてゐた。|岩本熊吉|実用花卉新品種の作り方{{sfn|岩本|1941|p=143}}}}

演劇評論家の[[伊坂梅雪]]が、以下のように記している。
{{quotation|どこの植木屋であつたか、柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來たので(是れは自然に出來たの歟)夫れを三升の朝顏だとか、團十郞朝顏だと宣傳したので珍らし好きの江戸ツ兒は我勝ちに見物に出掛けたので、遂ひに九代目團十郞も見物に出掛けたと云ふ事が當時の新聞に出た事がある。|伊坂梅雪|見たり聞いたり{{sfn|伊坂|1941|p=14}}}}

また、アメリカのジャーナリスト、[[エリザ・シドモア]]が「The Wonderful Morning-Glories of Japan(素晴らしい日本の朝顔)」という記事を『[[:en:The_Century_Magazine|The Century Magazine]]』に寄稿しており、その中で団十郎色の朝顔について触れている{{sfn|渡辺|1996|p=43}}。
{{quotation|The whole family of dull grayish pink, or old , known as shibu (persimmon-juice) or kake{{sic}} (persimmon) color, are lately classed as Danjiro{{sic}} colors, from the shibu-colored robe worn by that great actor in a favorite role.<br />
(訳)[[渋色]]([[柿色|柿渋色]])または[[柿色]]として知られている、くすんだ灰色がかったピンク、または[[:en:Rose_(color)#Old_rose|オールドローズ]]{{efn|英語圏の色名の一種、灰色がかった落ち着いた赤色で英国ヴィクトリア朝時代に流行した。}}の品種はすべて、かの大役者が得意演目で渋色の衣装を着ていた事から、最近団十郎色と分類されるようになった。|Eliza Ruhamah Scidmore|The Wonderful Morning-Glories of Japan{{sfn|Scidmore|1897|p=285}}}}

俳人の[[正岡子規]]は明治25年(1892年)に入谷の近所である下谷区上根岸八十八番地に転居{{sfn|正岡|1978|p=175}}、明治27年(1894年)に同八十二番地に移り{{sfn|正岡|1978|p=239}}{{efn|『東京下谷 根岸及近近傍図』によれば下谷区上根岸八十二番地から入谷の朝顔を作っていた植木屋あたりまでは約700間(1.3キロメートル)ほどである<ref>{{Cite web |url=https://stroly.com/maps/3739/?lang=ja |title=東京下谷 根岸及近近傍図 |website=Stroly |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|大槻|1901}}}}</ref>。}}、以後没するまでここに住んだ(「子規庵」と呼ばれた)。子規のもとには[[赤木格堂]]、[[五百木良三]]、[[石井露月]]、[[河東碧梧桐]]、[[高浜虚子]]、[[阪本四方太|坂本四方太]]、[[寒川鼠骨]]、[[内藤鳴雪]]、[[松瀬青々]]らが集い、「[[日本派]]」と呼ばれた{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000b|p=348}}。

子規は当時の入谷の朝顔についていくつか句を残している。
*蕣の入谷豆腐の根岸哉 (明治26年){{sfn|正岡|1975a|p=369}}
*朝顏や入谷あたりの只の家 (明治27年){{sfn|正岡|1975b|p=114}}
*入谷から出る朝顏の車哉 (明治31年){{sfn|正岡|1977|p=210}}

団十郎朝顔について正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子が句に残している。

子規
*朝霧や團十郞の二三輪 (明治30年){{sfn|正岡|1898|p=56}}{{sfn|正岡|1977|p=91}}
*朝顏や團十郞の名を憎む (明治31年){{sfn|正岡|1977|p=209}}
*咲て見れば團十郞でなかりけり (明治32年){{sfn|正岡|1977|p=291}}

碧梧桐
* 團十郞朝顏の名にいかめしき (明治31年){{sfn|河東|1992|p=126}}{{sfn|正岡|1898|p=55}}

虚子
*團十郞朝顏の名に殘りけり(明治41年){{sfn|高濱|1935|p=180}}

明治30年(1897年)、子規の郷里松山で[[柳原極堂]]により俳句雑誌『ほとゝぎす』が創刊された。明治31年(1898年)には子規が東京に移して主宰し高浜虚子が発行人となった<ref>{{Cite web |author=[[稲畑廣太郎]] |date=2019-09-19 |url=https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=5182 |title=ホトトギス |website=日本の古本屋 |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|稲畑|2019}}}}</ref>{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000b|p=348}}。明治34年(1901年)誌名を『ホトトギス』に変更した<ref>{{Cite web |url=http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1001-top.htm |title=百年史 |website=ホトトギス |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|ホトトギス|n.d.}}}}</ref>。『ホトトギス』で活動していた俳人の[[村上鬼城]]、[[渡辺水巴|渡邊水巴]]も団十郎朝顔についての記述を残している。

{{quotation|私は朝顏を{{ruby|栽培|つくり}}初めて廿年にもなる、其間、シヤツ一枚で、炎熱と戰て、船頭見たいになつちまツた。
最初は、團十郞だの、浴後の美人だのツて{{ruby|朝顏|やつ}}を{{ruby|栽培|つくつ}}た、ラツパ咲の、釣瓶を取る{{ruby|性質|たち}}のだ、其の時分は朝顏の趣味は、野趣に在るものとばかり思つてゐたから、從て一重咲の{{ruby|極|ご}}く{{ruby|瀟洒|あつさり}}したものを愛した。|村上鬼城|第二年目{{sfn|中里|1985|pp=102-104}}{{sfn|村上|1911|p=31}}}}

{{quotation|‥‥來てみると、すでに、折目の正しい紅梅織を着て腰に扇子を差してゐる商家の御隱居らしいのと、{{ruby|吉原|なか}}の藝者に{{ruby|半玉|おしやく}}を連れた中年の株屋さんらしいのとが、たくさんな鉢の一樣にずらりと咲き澄んでゐる朝顏を見てゐた。まだ夜が明けたばかりなのである。<br />
その花の、柿色のを團十郞と云ふ。それなら藍は菊五郞と稱びたい。すると紺が左團治、白が權十郎、赤が福助、絞りが源之助か‥‥。<br />
ぐるりを葭簀で圍つてある{{ruby|内|なか}}にも短夜の名殘の薄霞が微かながら動いてゐて、冷や〱した大氣のながれが顏に觸れる。|渡邊水巴|夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}}}


==== 団十郎朝顔の終焉 ====
九代目市川團十郎の名声と共に一世を風靡した団十郎朝顔であるが、九代目市川團十郎の死(明治36、1903年)と宅地化(都市化)による入谷の朝顔の衰退と消滅(大正2、1913年に「植松」が廃業し途絶えた{{sfn|環境文化研究所|1986|p=103}}{{sfn|明治教育社|1914|pp=80-81}})に伴い、団十郎朝顔は廃れ、次第に人々から忘れ去られていった{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|森|1969b|p=419}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。
{{quotation|{{ruby|花|はな}}も{{ruby|先年中|せんねんちう}}は{{ruby|柿色|かきいろ}}{{ruby|煤色|すヽいろ}}の{{ruby|如|ごと}}き{{ruby|變|かは}}り{{ruby|色|いろ}}を{{ruby|喜|よろこ}}ばれしも二三{{ruby|年|ねん}}{{ruby|以來|いらい}}は{{ruby|普通|ふつう}}{{ruby|瑠理|るり}}{{ruby|又|また}}は{{ruby|本紅|ほんべに}}の{{ruby|大輪|たいりん}}を{{ruby|好|この}}む{{ruby|人|ひと}}{{ruby|多|おほ}}く|入谷の牽牛花<ref>{{Cite news |和書|title=入谷の牽牛花 |newspaper=東京朝日新聞 朝刊|date=1903-06-06|page=5}}</ref>}}
{{quotation|二十年前――まだ九代目の存生中、團十郞と云ふ花が出て一時人々に翫賞されたが、九代目の歿後と共に廢されて、さらに「聯隊旗」{{efn|明治42年(1909年)7月22日の読売新聞の記事に「聯隊旗」の特徴が「地が薄紅、縁が白、之に立絞り」と記されている<ref>{{Cite news |和書|title=入谷の朝顏を見る |newspaper=読売新聞 朝刊|date=1909-07-22|page=3|ref={{sfnref|読売新聞|1909}}}}</ref>。}}と云ふやうな名が出た。|有祿生|朝顔の時代趣味{{sfn|有祿生|1912|p=24}}}}
{{quotation|団十郎の名声が一世を風靡するにつれて、その影響はいろいろな方面に現れた。煙草のオールドが勧進帳の弁慶を広告に用ゐたなどもその一例であるが、もつと小さなもので意外に普及したのは朝顔の団十郎である。(中略)団十郎その人は絶えず回顧されてゐながらも、朝顔の方は次第に閑却されてしまつた。団十郎の人気を切り離して見れば、柿色の朝顔などは別に美しい物ではない。|[[柴田宵曲]]|明治風物誌{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}}}
==== 明治時代の団十郎朝顔の特徴 ====
以上に挙げた文献に現れる明治時代の団十郎朝顔の特徴に共通するのは、丸咲きで柿色の花である事{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}、覆輪である事{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{efn|伊坂{{sfn|伊坂|1941|p=14}}の記述は「柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來た」である。}}である。無地の花であったとする文献は無い。朝顔研究家の渡辺好孝は「現在、朝顔愛好家が栽培している『団十郎』とは異なっているが、もしかすると茶系統で覆輪の花が『団十郎』なのかもしれない。」と述べている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。葉は「斑入黄葉」{{sfn|田旗|2019|p=72}}「常葉斑入葉」{{sfn|賀集|1895|p=137}}「黄州浜葉」{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}と様々である。渡辺は「葉形も、常葉、千鳥葉、州浜葉、恵比寿葉であろうと、また、今日の蝉葉でも、花色が似ているなら、葉型に関係なく『団十郎』と命名してもとくに問題ではなかった。」と述べている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。シドモアは渋色や柿色の朝顔はすべて団十郎色と分類されるようになったとしている{{sfn|Scidmore|1897|p=285}}。このように特定の一品種だけを「団十郎」と呼んでいたわけでは無かった。団十郎朝顔の出現時期に付いては明治12、13(1879、1880)年頃とするのが最も早く{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}、明治20年代頃とする物もある{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。確認できる同時代の資料として最も古いのは明治24年(1891年){{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}の物であるから、この頃までに団十郎朝顔が出現していたことになる。また通説で言われるように、「団十郎」という名称が[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川團十郎]]にちなんで名付けられた<ref>{{Cite book |和書|author=藤田雅矢|year=2007 |title=まいにち植物 ひみつの植物愛好家の一年|publisher=WAVE出版|page=81}}</ref>{{sfn|米田|2006|p=70}}とする文献は無く、[[九代目市川團十郎]]にちなんで名付けられた、また一世を風靡したとする文献が多い{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。なぜ通説で二代目市川團十郎にちなんだとされるのかは[[#一般に流布する通説について]]で解説する。
==== 成田屋留次郎と入谷の朝顔 ====
=====成田屋留次郎=====
明治22年(1889年)に書かれた杉田逢川野夫による『成田屋のこと』と題する見聞記がほぼ唯一の同時代の文献である{{sfn|杉田|1889|pp=9-11}}。この項ではこの文献を中心に解説していく。

成田屋留次郎の本名は山崎留次郎と言い、成田屋は屋号である。入谷で弘化期から明治時代まで植木屋を営んでいた{{sfn|岡|1931|p=10}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}。留次郎は文化8年(1811年)浅草の造園家の次男として生まれた{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}。弘化4年(1847年)、37歳で入谷に別に一家を構え、朝顔栽培を始めた。留次郎は丸新の主人とともに入谷での朝顔栽培の始祖であった{{sfn|伊藤|n.d.}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|馬淵|1892|p=24}}。

留次郎の名が初めて現れるのは嘉永2年(1849年)[[榧寺]]で花友追悼のために行われた「{{ruby|朝花園|ちょうかえん}}{{ruby|追善|ついぜん}}{{ruby|朝顔|あさがお}}{{ruby|華合|はなあわせ}}」の番付である。植木屋留次郎と三五郎が世話人となっている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|渡辺|1996|pp=41}}。嘉永4年(1851年)7月10日、[[亀戸天神]]で開かれた花合わせ、翌日に開かれた小村井の江藤梅宅で開かれた小規模な花合わせでも世話人を務めている。江藤梅宅で開かれた花合わせでは、後に活躍する横山萬花園(横山茶來)らの仲間も加わった。安政3年(1856年)7月18日には、留次郎が催主で坂本入谷の蓬深亭で花合わせがあり、鍋島杏葉館(鍋島直孝)、大坂から山内穐叢園が出品した。江戸期最後の「朝顔花合」の番付は文久3年(1863年)6月27日のもので、成田屋が催主、英信寺で開催され、植木屋30名、そのうち20名が入谷の植木屋であった{{sfn|渡辺|2001|p=80}}。

留次郎は自らを「朝顔師」と名乗り朝顔図譜『三都一朝(さんといっちょう)』、『両地秋(りょうちしゅう)』、『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』を刊行している{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}{{sfn|米田|2012|p=16}}。『三都一朝』は嘉永7年(1854年)7月に刊行された。上巻の品類32図、中巻34図、下巻34図、計100図が収められている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}。「三都」とは江戸・大坂・京都を指している。絵図を描いた[[田崎草雲]]は[[谷文晁]]らに師事した[[南画]]家である{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。なぜ田崎草雲が描いたかを、若い頃留次郎に会った事があるという{{sfn|岡|1937|pp=13-14}}岡不崩が以下のように記している。「成田屋は將基が好きで、草雲は好敵手であつた。留次郎が奥の小座敷に、變り物の珍品を陳列して、將基盤を前にして、見物人をながめて『お前さん達に此の朝顏はかるものか、といつた風に控えてゐたものである。草雲とは至つて心安なので、將基の敵手であると共に、朝顏は留次郎の門下であつたらしい、なか〱朝顏は悉しかつたそうである。將基で一ツ花を持たして『草雲先生どをです、此葉にこの花を咲しては、此花は面白いから此枝に咲して下さい、といつた銚子もあつたらしい。出來上つた三都一朝は、卽ちそをいつた樣な點も伺はれるやうである{{sfn|岡|1931|pp=9-10}}。」『両地秋』は安政2年(1855年)の刊行、「両地」とは江戸・大坂を指す{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。『都鄙秋興』は安政4年(1857年)刊行、「都鄙」とは「都(みやこ)」と「鄙(いなか)」、江戸と近郊都市を指す。題名の変遷で分かるように変化朝顔の流行は大都市から周辺都市に広がっていた{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。幸良弼選、野村文紹画。三書とも選者は幸良弼である{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}、幸良弼とは南町奉行の[[跡部良弼|跡部能登守]]である<ref>{{Cite web |url=http://opac.ll.chiba-u.jp/da/engeisho/2628/ |title= 都鄙秋興 |website=千葉大学附属図書館松戸分館 江戸・明治期園芸書コレクション |accessdate=2020-11-11}}</ref>。『緑の都市文化としての入谷朝顔市』によれば、『都鄙秋興』は『三都一朝』の図を再利用したり、同じ図でも培養家の名を改めていることが多いとしている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}。岡はこの三書を刊行した留次郎の功績について以下のように述べている。「彼の著書に就いては、今日ではいろ〱と論議すべき點も多くあるとはいへど、維新後一時中絶した斯界を再興する時代にありては、是等の著書を標準とし硏究栽培したものであつた、つまりお手本として、又珍奇の{{ruby|出物|でもの}}の目標として、遂に今日のやうな珍品や、理想花を得るに至つたので、その點は大いに預つて功ありといつべきである{{sfn|岡|1931|p=10}}。」

『成田屋のこと』には入谷で朝顔栽培を始めた頃の以下のようなエピソードが記されている。当時、朝顔栽培者が多くなっていたが大坂あたりのような奇品はなく{{efn|江戸では文化文政期の流行が冷め変化朝顔栽培が衰えていたが、大坂では珍種も保存され各地の朝顔より優れていた{{sfn|中村|1961|p=235}}。}}、普通の品種ばかりであった{{efn|『緑の都市文化としての入谷朝顔市』では「当時の入谷には変化朝顔が全く無かったかのようにも書かれているが、実は少しは栽培されていたのである。ただし、大阪のような奇品はなかったと考えたい。」としている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}}}。同好の者たちがこれを嘆き、各々から集金して大坂に行き良種を得ようと計画した。留次郎はこれを了承し、翌年有志より金を集め大坂に向かった。しかしどこに良種があるか分からず、留次郎は奔走してある培養家を見つけ、1種につき種子を2粒ずつ、70 - 80種を50両で購入し、集金した者に頒布した。しかし皆普通の品種であったので、一同は失望し留次郎は面目がないので再び大坂に行き、あまねく培養者を探した。そしてある家ですこぶる佳品が多いのを認め、その家の種をことごとく買い取ろうとしたが、60両という大金を示された。交渉の末30両で買い取る事でまとまり、良品か否かの差別なくその家の種をことごとく持ち帰り、それを集金した者に頒布した。それがこの地の名人が名を博し朝顔愛好者の増える始まりとなった。持ち帰った種子からは7、8割は各種の奇品が出た。それから毎年季節を見計らい大坂に行き、そこで自分の品種と交換をし、奇品を出すことに熱が入る事8年に至った。そして今(明治22年当時)に至り各地方より尋ね来たり、もしくは手紙で買入れをする人が絶えなくなったという{{sfn|杉田|1889|p=10}}。

変化朝顔の流行は明治維新の混乱によって途絶えた{{efn|東京では幕臣の移動も甚だしく、良種も散逸したが、大阪では維新の影響が少なく奇品が保存されていた{{sfn|中村|1961|p=238}}。}}。明治以降の入谷では変化朝顔はほとんど作られず、普通の丸咲きの朝顔が主流となった{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。明治12 - 13年(1879 - 1889年)頃から入谷は再び朝顔の名所となり、その当時留次郎が専売していた自らの屋号「成田屋」を名に冠した朝顔が最も名高かった。「成田屋」は当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により「団十郎」と呼ばれるようになった。この「団十郎」は変化朝顔ではなく、普通の丸咲きであった{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。入谷では変化朝顔の栽培はほとんどおこなわれなくなっていたが、留次郎だけは変化朝顔の栽培を継続していた{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。『成田屋のこと』には以下のような記述がある(口語訳して引用する){{efn|原文「其後維新に際し世と共に變遷し絶へて愛翫するものなきの運を來せしに漸次又復古し年々賞翫者を增すと云へども往年とは大いに共趣を殊にし薩摩性と號し大なるもの流行せり皆是普通の丸咲きとす併て本年に至りては稍變性の愛翫者出て之を賞觀又は買取るもの輻輳し來るは近來稀に見る所なり此に於て成田屋主人予に告げて「當年は是迄絶へたしとせしもの發生せり然れども之を見るもの少なかるべしと思ひしに計らずも近頃になき見物人出たり左れば草木無性に似たるも左にあらず既に人の氣勢に先立つものならんか」と物語れり扨て儒者風に申せば昔し宗の邵雍鵑を聞て禽鳥飛類得氣之先者なりと嘆息せり彼は唐人此は日本人彼は鳥此は花彼は澆季の世に於てし此は文明の世に於てするの別はあれど等しく此れ天人感應の理ともいふべきか阿々」}}。「その後維新に際して世と共に変遷し絶えて愛玩する者も無くなる運命となったが、漸次また復古して年々愛玩する者も増したとはいえ、往年とは大いに趣味を異にし、薩摩性と称する大輪が流行している。これは皆普通の丸咲きである。同時に本年(明治22年)はいくらか変化朝顔の愛好者が現れ、鑑賞または買い取る者が集まってきた。これは近来まれに見る事であり、留次郎は私(著者)にこう告げた『今年はこれまで絶えたとされていたものも発生した。しかしこれを見る者は少ないと思っていたが、図らずも近頃にない見物人が出た。だから草木は無性のようだがそうではない。既に人の気勢を感じているのではないだろうか。』と語った。儒者風に言えば『昔、宗の[[邵雍]]がホトトギスの声を聞いて、『禽鳥飛類は氣の先を得る者なり(飛鳥の類は、地気の動きを真っ先に予知する物だ)』と嘆息した{{efn|『[[十八史略]]』 第六巻 宋 神宗の項の、治平年間(1064-1067)に儒学者の邵雍が洛陽の天津橋上を散歩していてホトトギスの声を聞き、[[王安石]]が宰相になること、改革が天下を騒がしくすることを予言した故事の引用である。原文は「先是治平中、邵雍與客散歩天津橋上、聞杜鵑聲、愀然不樂。客問其故。雍曰、洛陽舊無杜鵑。今始至。天下將治、地氣自北而南。將亂、自南而北。今南方地氣至矣。禽鳥飛類、得氣之先者也。不二年、上用南士作相、多引南人、專務更變、天下自此多亊矣。至是雍言果驗云。({{ruby|是|これ}}より{{ruby|先|さき}}、{{ruby|治平中|ちへいちゆう}}、{{ruby|客|かく}}と{{ruby|天津橋上|てんしんけうじやう}}に{{ruby|散歩|さんぽ}}し、{{ruby|杜鵑|とけん}}の{{ruby|聲|こえ}}を{{ruby|聞|き}}いて、{{ruby|愀然|しうぜん}}として{{ruby|樂|たの}}しまず。{{ruby|客|かく}}、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|故|ゆゑ}}を{{ruby|問|と}}ふ。{{ruby|雍|よう}}{{ruby|曰|いは}}く、{{ruby|洛陽|らくやう}}、{{ruby|舊|もと}}{{ruby|杜鵑|とけん}}{{ruby|無|な}}し。{{ruby|今|いま}}{{ruby|始|はじ}}めて{{ruby|至|いた}}る。{{ruby|天下|てんか}}{{ruby|將|まさ}}に{{ruby|治|をさ}}まらんとするや、{{ruby|地氣|ちき}}{{ruby|北|きた}}よりして{{ruby|南|みなみ}}し、{{ruby|將|まさ}}に{{ruby|亂|みだ}}れんとするや、{{ruby|南|みなみ}}よりして{{ruby|北|きた}}す。{{ruby|今|いま}}、{{ruby|南方|なんぱう}}の{{ruby|地氣|ちき}}{{ruby|至|いた}}る。{{ruby|禽鳥|きんてう}}{{ruby|飛類|ひるゐ}}は{{ruby|氣|き}}の{{ruby|先|せん}}を{{ruby|得|う}}る{{ruby|者|もの}}なり。{{ruby|二年|にねん}}たらずして、{{ruby|上|しやう}}、{{ruby|南士|なんし}}を{{ruby|用|もち}}ひて{{ruby|相|しやう}}と{{ruby|作|な}}し、{{ruby|多|おほ}}く{{ruby|南人|なんじん}}を{{ruby|引|ひ}}いて、{{ruby|專|もつぱ}}ら{{ruby|更變|かうへん}}を{{ruby|務|つと}}め、{{ruby|天下|てんか}}{{ruby|此|これ}}より{{ruby|多事|たじ}}ならん、と。{{ruby|是|ここ}}に{{ruby|至|いた}}つて、{{ruby|雍|よう}}の{{ruby|言|げん}}{{ruby|果|はた}}して{{ruby|驗|けん}}ありと{{ruby|云|い}}ふ。){{sfn|林|1969|pp=906-907}}」『十八史略』は有名な歴史書の要所を切り貼りした書物であるため、中国では固有の価値を持つ古典として認められなかったが、日本では中国の歴史が手軽に概観でき、漢文の読解にも役立ったため中国古典として確たる地位を占めた{{sfn|竹内|2008|p=7}}。日本には南北朝から室町初期ごろ伝来し、室町中期以降禅寺の「五山」で7巻本が復刻されて流布して以来、何度も再刊された。『十八史略』が特に有名になるのは明治時代からで、明治の最初の20年間に大流行した{{sfn|竹内|2008|p=48-49}}。この記事はそのような時期(明治22年、1889年)に書かれている。}}』(とでもなろうか)。唐人と日本人、鳥と花、末世と文明の世においての違いはあるが、等しくこれ天人感応の理とでもいうべきだろうか{{sfn|杉田|1889|p=11}}。」

留次郎は明治24年(1891年)に81歳で死去した{{sfn|環境文化研究所|1986|p=15}}{{sfn|渡辺|1996|pp=41}}。没後2、3年は「成田屋」の屋号で朝顔の陳列がされていたが、いつしか廃業して行方も分からなくなった{{sfn|岡|1931|p=10}}。
=====入谷の朝顔=====
入谷の朝顔の源流は[[文化の大火]]後、空き地が広がっていた下谷御徒町辺りに植木屋が進出し、「朝顔屋敷」と称して種々の変化朝顔を見物させた事とされる{{sfn|伊坂|1941|pp=11-12}}{{sfn|岡|1931|p=6}}{{sfn|長沢|2010|p=4}}。『江戸遊覧花暦』には
{{quotation|{{ruby|牽牛花|あさかほ}} 下谷御徒町邊 朝顏は往古より珍賞するといへとも、異花奇葉の出來たりしは、文化丙寅の災後に、下谷邊空地の多くありけるに、植木屋朝顏を作りて、種々異様の花を咲せたり、おひ〱ひろまり、文政のはじめの頃は、下谷、淺草、深川邊、所々にても専らつくり、朝顏屋敷など{{ruby|號|なづけ}}て、見物群衆せし也。|岡山鳥|江戸遊覧花暦{{sfn|岡山|n.d.|p=2}}}}
という記述がある。これは前述した文化文政期の流行期と重なる。岡の『入谷の朝顔』に引用されている[[為永春水|爲永春水]]の年中行事 朝顏屋敷には、
{{quotation|諸所にありしが今はなし、自然の花は向じまの田家垣根に多し、また緣日の植木うりが持いだすことおびたヾしき事なり、文政二三年の頃は、朝顏大そう流行せしが、此頃はすたりし樣なり。|爲永春水|年中行事{{sfn|岡|1931|p=7}}}}
これは天保6年(1835年)の記録であるが{{sfn|岡|1934|p=609}}、その頃には朝顔屋敷などと称して見物人が群集していたという流行は廃れたいた。
再び朝顔が流行するのは嘉永・安政期(1848 - 1860年)である。朝顔作りの中心は下谷から入谷に移っていった{{sfn|伊坂|1941|pp=12-13}}{{sfn|長沢|2010|p=4}}。その頃の入谷は入谷田圃と称した田園地帯であった<ref>{{Cite web |date=2014 |url=https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/iriya/ |title= 錦絵でたのしむ江戸の名所 |website=国立国会図書館 |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|国立国会図書館|2014}}}}</ref>。博物学者の[[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]が編纂した資料集『植物図説雑纂 第180巻』に、入谷の植木屋であった「丸新」主人への取材記事の新聞切り抜きが収載されている(『毎日新聞』明治29年(1896年)6月24日、25日の記事){{sfn|伊藤|n.d.}}。
{{quotation|マア{{ruby|此|この}}{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|草別|くさわけ}}と{{ruby|云|い}}ふなァ五十{{ruby|年|ねん}}{{ruby|程|ほど}}{{ruby|前|まへ}}の{{ruby|事|こと}}で{{ruby|私|わたくし}}どもと{{ruby|成田屋|なりたや}}{{ruby|留次郎|とめじろう}}と{{ruby|云|い}}ふ{{ruby|家|うち}}二{{ruby|軒|けん}}でしたが{{ruby|夫|それ}}が{{ruby|今|いま}}でハ三十四五{{ruby|軒|けん}}は{{ruby|厶|ござ}}ります{{ruby|夫|そ}}れに{{ruby|私|わたくし}}の{{ruby|親父|おやぢ}}は{{ruby|當年|ことし}}七十三になりますが三十{{ruby|年|ねん}}{{ruby|程|ほど}}{{ruby|前|まへ}}{{ruby|其頃|そのころ}}のお{{ruby|大名|だいめう}}{{ruby|樣|さま}}の{{ruby|薩摩|さつま}}{{ruby|樣|さま}}{{ruby|鍋島|なべしま}}{{ruby|樣|さま}}{{ruby|其外|そのほか}}お{{ruby|旗本|はたもと}}なんぞで{{ruby|種々|しゅ〲}}お{{ruby|求|もと}}めになつてドン〱お{{ruby|培養|したて}}になつたので一{{ruby|時|じ}}ハ{{ruby|随分|ずいぶん}}{{ruby|盛|さか}}りましたが{{ruby|其後|そのご}}{{ruby|少|すこ}}しの{{ruby|間|あひだ}}{{ruby|中絶|ちうぜつ}}{{ruby|致|いた}}して――イヽエ{{ruby|培養|したて}}ハ{{ruby|仕立|した}}てましたが{{ruby|流行|はやら}}なかつたので――{{ruby|明治|めいぢ}}十七八{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}から{{ruby|又|また}}{{ruby|大層|たいそう}}に{{ruby|流行|はや}}り{{ruby|出|だ}}しました|名人巡り{{sfn|伊藤|n.d.}}}}
この記事の50年前は弘化3年(1846年)となるが、成田屋留次郎の見聞記にも成田屋が「弘化四年に入谷に別戸を開き以て牽牛花を培ふ」と言う記述があり時期が一致する{{sfn|杉田|1889|p=10}}。この頃から成田屋や丸新は入谷で朝顔栽培を行っていた。『風俗画報』第45号には以下のような記述がある。
{{quotation|丸新ハ百草園と稱し此地{{ruby|槖駝師|うゑきや}}中の{{ruby|巨臂|おやかた}}なり{{ruby|抑|そも}}この入谷ハ{{ruby|土性|つちしやう}}總ての草花に{{ruby|適|てき}}し昔より草花の名地なりしが文政の頃となん此家の老翁十六七歳の時よりして千紫万紅の草花中に{{ruby|酷|はなは}}た{{ruby|蕣花|あさかほ}}を愛しけれバ同好の友成田屋の某と興に共に{{sic}}{{ruby|錬磨|れんま}}してこれか{{ruby|培養|バいよう}}に力を{{ruby|竭|つく}}し數年の{{ruby|經驗|けいけん}}を{{ruby|積|つ}}み大に發明する所あり漸やく世上の{{ruby|愛顧|ひいき}}を{{ruby|博|はく}}せしよりやこれか{{ruby|顰|ひとみ}}に{{ruby|傚|なら}}ふ東隣西家相{{ruby|競|きそ}}ふて培養したりけれバ遂に朝顔の一大名所とハなりしなり舊幕時代にハ大名旗本の家々にて{{ruby|盛|さか}}んに之を培養し其中にも嶋津家などにてハ三万{{ruby|鉢|はち}}も仕立てしとなん之に次く鍋島家なとハ多くの異花珍{{ruby|葩|は}}を出し朝顏會を{{ruby|催|もやう}}して互に{{ruby|誇負|じまん}}されしといひ當時丸新の老人か手に{{ruby|造立|つくりた}}てたる名種奇品ハ一{{ruby|盆|はち}}十五六両のものありけるとこれ今の百圓以上に{{ruby|當|あた}}るなるべし以て花客其人、逸品其花共に高貴なりし{{ruby|一斑|いつぱん}}を知るにたらんそれより明治革新前後の六七年間ハ兵馬の餘{{ruby|氣|ふん}}に{{ruby|壓|あつ}}せられ痛く{{ruby|凋衰|てうすゐ}}せる姿に{{ruby|陥|おち}}いりしが復又十七八年前{{ruby|以還|このかた}}受賞の機運興り隨て{{ruby|槖駝師|うゑきや}}の經驗發明共に大に進歩をなし斯道の遠く昔日の{{ruby|駕|が}}するの勢とハなれりけり然と雖今の華族ハ昔の大名の如くならす愛顧花客ハ往時の貴人豪族にあらされハ如何せん受賞年一年に{{ruby|倍殖|バいしょく}}にも抅らず今ハ絶品妙種なる物も僅に一盆一圓の上に出でず{{ruby|價値|あたひ}}ハそれしかるも丸新一園にてさへ一季に一万餘鉢を{{ruby|販鬻|うりひさぐ}}と云又盛んなりと謂ふべし|馬淵漁史|入谷の朝顏 附 和歌の浦{{sfn|馬淵|1892|p=24}}}}
入谷の土はすべての草花の栽培に適しており、丸新主人は成田屋留次郎と共に朝顔栽培に力を尽くし、それに倣って他の植木屋も栽培を行うようになって入谷は朝顔の一大名所となったとしている。当時の顧客は大名旗本が多く名種奇品は一鉢15、6両で売れるものもあった。その頃の入谷の朝顔を描いた錦絵に[[歌川広重 (2代目)|喜斎立祥]]が描いた『三十六花撰 東都入谷朝顔』がある(国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能)<ref>{{Cite book|和書|author=立祥|year=n.d.|title=東都入谷朝顔|id={{NDLJP|1308735}}|ref={{sfnref|立祥|n.d.}}}}</ref>。

その後明治維新の混乱により朝顔栽培を含め園芸全般が衰退した{{sfn|岡|1912|p=1}}{{sfn|米田|2012|p=19}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。その頃の入谷の朝顔について藻紋字が以下のように記している。
{{quotation|三百{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|泰平|たいへい}}は{{ruby|興亡|こうばう}}{{ruby|隆替|りうたい}}の{{ruby|歴史|れきし}}に{{ruby|砲煙|はうえん}}{{ruby|彈雨|だんう}}と{{ruby|修羅|しゆら}}の{{ruby|巷|ちまた}}を{{ruby|現|げん}}じ、{{ruby|幾程|いくほど}}もなく{{ruby|王制|わうせい}}{{ruby|維新|ゐしん}}となりし{{ruby|明治|めいぢ}}二{{ruby|年|ねん}}{{ruby|夏|なつ}}の{{ruby|初|はじ}}めより、{{ruby|明|あ}}けて三{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|春|はる}}の{{ruby|末|すゑ}}には、{{ruby|此地|このち}}に{{ruby|數|かず}}ある{{ruby|寺院|じゐん}}の{{ruby|内|うち}}、{{ruby|何|なに}}がしの{{ruby|住職|ぢうしよく}}、くれがしの{{ruby|住持|ぢうじ}}が、{{ruby|數寄|すき}}に{{ruby|任|まか}}して一たび{{ruby|廢|すた}}れかヽりし{{ruby|此|こ}}の{{ruby|花|はな}}の{{ruby|培養|ばいやう}}を{{ruby|試|こヽろ}}み、{{ruby|初|はじ}}めは{{ruby|暁|あかつき}}かけてあからひく{{ruby|雲|くも}}のまだ{{ruby|切|き}}れぬ{{ruby|頃|ころ}}より、{{ruby|咲|さ}}き{{ruby|誇|ほこ}}る{{ruby|色|いろ}}のさま〲を{{ruby|愛|め}}でたりしを{{ruby|甲|かふ}}{{ruby|傳|つた}}へ{{ruby|乙|おつ}}{{ruby|知|し}}りて、{{ruby|後|のち}}には{{ruby|懇望|こんもう}}の{{ruby|客|きやく}}{{ruby|門戸|もんこ}}に{{ruby|滿|み}}ち、{{ruby|風流|ふうりう}}{{ruby|韻事|いんじ}}には{{ruby|途|みち}}の{{ruby|遠近|ゑんきん}}を{{ruby|問|と}}わで、三々{{ruby|伍々|ごヾ}}{{ruby|群|むらが}}り{{ruby|來|きた}}り、{{ruby|日頃|ひごろ}}の{{ruby|嗜|たしな}}みを{{ruby|稱賛|しようさん}}するもあれば{{ruby|或|あるゐ}}は{{ruby|用意|ようい}}の{{ruby|行届|ゆきとヾ}}けるに{{ruby|感嘆|かんたん}}しつ、{{ruby|時|とき}}ならぬ{{ruby|淸興|せいきょう}}を{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|朝嵐|てうらん}}に{{ruby|浴|あ}}びて、{{ruby|思|おも}}ひがけぬ{{ruby|娯樂|ごらく}}を{{ruby|瑠璃|るり}}{{ruby|紺碧|こんぺき}}の{{ruby|月旦|げつたん}}に{{ruby|上|のぼ}}せしは{{ruby|同|おな}}じく七、八、九{{ruby|年頃|ねんごろ}}が{{ruby|最|もつと}}も{{ruby|盛|さか}}んに{{ruby|見受|みう}}けられたりとなん。<br />
{{ruby|如|かく}}{{ruby|有|あ}}りければ{{ruby|土地|とち}}の{{ruby|植木師|うゑきし}}の{{ruby|内|うち}}、{{ruby|兼|かね}}てしも{{ruby|之|こ}}れが{{ruby|栽培|さいばい}}に{{ruby|力|ちから}}を{{ruby|盡|つく}}せしも{{ruby|尠|すく}}なからぬ{{ruby|事|こと}}とて、さらには一{{ruby|層|そう}}{{ruby|進|すゝ}}みて{{ruby|朝顏|あさがほ}}を{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|名物|めいぶつ}}と{{ruby|數|かぞ}}へ{{ruby|立|た}}て、{{ruby|花|はな}}のさま〲{{ruby|葉|は}}のさま〲 {{ruby|珍|ちん}}なる{{ruby|奇|き}}なる{{ruby|異|こと}}なりたる{{ruby|夫等|それら}}を{{ruby|都|みやこ}}の{{ruby|人々|ひと〲}}に{{ruby|眺|なが}}めさせんは{{ruby|如何|いか}}にとの{{ruby|議|ぎ}}{{ruby|纏|まと}}まり、{{ruby|初|はじ}}めて{{ruby|縱覽|じうらん}}さする{{ruby|事|こと}}とせしは{{ruby|同|おなじ}}く十{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|夏|なつ}}なりしが、{{ruby|人|ひと}}も知る{{ruby|此|こ}}の{{ruby|花|はな}}の{{ruby|麗|うる}}はしき{{ruby|色|いろ}}を{{ruby|愛|め}}づるには、{{ruby|單衣|ひとへ}}の{{ruby|袂|たもと}}に{{ruby|風|かぜ}}を{{ruby|孕|はら}}みて、{{ruby|涼氣|れうき}}{{ruby|颯々|さつ〱}}{{ruby|肌膚|はだへ}}を{{ruby|洗|あら}}ひ、{{ruby|明|あ}}けゆく{{ruby|空|そら}}の{{ruby|東雲|しのヽめ}}に、{{ruby|朝霧|あさぎり}}{{ruby|晴|は}}れ{{ruby|渡|わた}}る{{ruby|頃|ころ}}なれば、{{ruby|從|したが}}つて一{{ruby|部|ぶ}}の{{ruby|外|ほか}}は{{ruby|客|きやく}}の{{ruby|足取|あしどり}}{{ruby|如何|いか}}にと{{ruby|氣遣|きづか}}はれしに、{{ruby|思|おも}}ひきや{{ruby|常|つね}}には{{ruby|夢|ゆめ}}を{{ruby|貪|むさぼ}}る{{ruby|若|わか}}き{{ruby|人々|ひと〲}}、{{ruby|老|お}}ひたるは{{ruby|更|さら}}なり{{ruby|男|をとこ}}、{{ruby|女|をんな}}の{{ruby|何|いづ}}れを{{ruby|問|と}}はで{{ruby|來觀|らいくわん}}の{{ruby|人士|じんし}}{{ruby|引|ひき}}も{{ruby|切|き}}らず、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|明|あ}}けの{{ruby|年|とし}}も{{ruby|翌年|よくとし}}も、{{ruby|數|かず}}は{{ruby|彌|いや}}が{{ruby|上|うへ}}に{{ruby|重|かさ}}なりて十五、六、七{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|頃|ころ}}には、{{ruby|朝顏|あさがほ}}の{{ruby|名聲|めいせい}}{{ruby|入谷|いりや}}を{{ruby|壓|あつ}}して{{ruby|優|いう}}に{{ruby|花|はな}}ごよみの一{{ruby|角|かく}}を{{ruby|占|し}}め|藻紋字|入谷の名物史凋む{{sfn|藻紋字|1913|p=10-11}}}}
明治2年(1869年)頃から、某寺院の住職が一度廃れかかってしまった朝顔栽培を試み、見物者が群がった、それが盛んだったのは明治7 - 9年(1874 - 1876年)ごろであった。入谷の植木屋たちは朝顔を入谷の名物として都の人々に眺めさせようと議論がまとまり、初めて縦覧させたのは明治10年(1877年)の事であり、明治15 - 17年(1882 - 1884年)頃には朝顔の名物として定着したとしている{{sfn|長沢|2010|p=5}}。他にも明治期の入谷の朝顔について、[[#文献に現れる団十郎朝顔]]でも引用した入谷の重鎮であった横山茶來の息子、横山五郎が語った思い出話を岩本熊吉が書き留めたものがある。
{{quotation|{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}の{{ruby|入谷|いりや}}は、{{ruby|坂本村|さかもとむら}}{{ruby|字|あざ}}{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|約|やく}}百{{ruby|戸|こ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}であつて、{{ruby|此處|ここ}}に二十{{ruby|戸|こ}}ぐらゐ{{ruby|草花|くさばな}}を{{ruby|作|つく}}つて、{{ruby|半分|はんぶん}}は{{ruby|農家|のうか}}、{{ruby|半分|はんぶん}}は{{ruby|植木屋|うゑきや}}をやつてゐたもので、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}は、六{{ruby|寸|すん}}五{{ruby|分|ぶ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}の{{ruby|小鉢|こばち}}にして、{{ruby|只今|ただいま}}の{{ruby|如|ごと}}く{{ruby|芽|め}}を{{ruby|止|と}}めて{{ruby|木造|きづく}}りにせず、一{{ruby|尺|しやく}}{{ruby|位|ぐらゐ}}の{{ruby|鳥居|とりゐ}}にして、これにからませて、{{ruby|毎朝|まいあさ}}{{ruby|市中|しちう}}に賣りに出たもので、{{ruby|陳列|ちんれつ}}の{{ruby|分|ぶん}}は、{{ruby|主|おも}}に{{ruby|桐性|きりしやう}}{{efn|桐の葉に似て石目という凹凸がある。全般に雄大で、茎が太く、毛が多く節間が不揃いで時に蔓が棒状になる。昭和10年(1935年)頃絶滅した{{sfn|中村|1961|pp=8-9}}。}}のから{{ruby|葉|は}}のものを{{ruby|染附|そめつけ}}の{{ruby|瀨戸鉢|せとばち}}に{{ruby|植|う}}ゑたのである。{{ruby|何故|なにゆゑ}}に{{ruby|牡丹|ぼたん}}{{efn|幾重にも花弁と萼が繰り返す変異。種が出来ない。他の変異と組み合わせて豪華に見せるために必須の変異{{sfn|仁田坂|2012|p=29}}{{sfn|仁田坂|n.d.d}}。}}を作らずして、から{{ruby|葉|は}}の{{ruby|桐性|きりしやう}}を{{ruby|作|つく}}つたといふに、{{ruby|之|これ}}は{{ruby|苗|なへ}}のうちに{{ruby|能|よ}}く{{ruby|分|わか}}り、{{ruby|樂|たの}}しみがあつたからで、{{ruby|大輪|だいりん}}は、四{{ruby|種|しゆ}}しかなく、{{ruby|何|いづ}}れも{{ruby|常葉|つねは}}で、{{ruby|紅|べに}}{{ruby|覆輪|ふくりん}}、{{ruby|紺|こん}}{{ruby|覆輪|ふくりん}}、{{ruby|淺黄|あさぎ}}の{{ruby|刷毛目|はけめ}}と{{ruby|白|しろ}}に{{ruby|紫|むらさき}}の{{ruby|堅縞|たてじま}}の四{{ruby|種|しゆ}}で、三{{ruby|寸|ずん}}五{{ruby|分|ぶ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}のものである。{{ruby|之|これ}}はさつま{{ruby|性|せい}}といつてゐたが、{{ruby|薩摩|さつま}}から{{ruby|來|き}}たものではなく、{{ruby|島津家|しまづけ}}で作つたものが、{{ruby|花|はな}}が{{ruby|大|おほ}}きく{{ruby|咲|さ}}くからさつまといつたものだ。これとても{{ruby|澤山|たくさん}}は{{ruby|作|つく}}らず、一{{ruby|軒|けん}}で百{{ruby|鉢|はち}}{{ruby|位|くらゐ}}のものであつた。{{ruby|之|これ}}を{{ruby|陳列|ちんれつ}}にしてゐたが、{{ruby|段々|だん〲}}{{ruby|見物|けんぶつ}}も{{ruby|少|すく}}なく、{{ruby|丸新|まるしん}}、{{ruby|成田屋|なりたや}}{{ruby|及|およ}}び{{ruby|私|わたし}}({{ruby|横山氏|よこやまし}})の三{{ruby|戸|こ}}だけになつた。{{ruby|其|そ}}の{{ruby|後|ご}}、{{ruby|明治|めいぢ}}十七{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}になつて、{{ruby|入十|いりじふ}}といふのが{{ruby|黄色|きいろ}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}を{{ruby|作|つく}}つた。これは{{ruby|成田屋|なりたや}}が{{ruby|上州|じやうしう}}から{{ruby|持|も}}つて{{ruby|來|き}}たもので、{{ruby|成田屋|なりたや}}では、{{ruby|別|べつ}}に{{ruby|氣|き}}に{{ruby|留|と}}めなかつたのを、{{ruby|入十|いじりふ}}の{{ruby|主人|しゆじん}}が{{ruby|買|か}}つて{{ruby|來|き}}たのが、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|年|とし}}に{{ruby|新聞|しんぶん}}に{{ruby|出|で}}た。それでいくらか{{ruby|見物人|けんぶつにん}}が{{ruby|增|ふ}}ゑて{{ruby|來|き}}て、{{ruby|陳列|ちんれつ}}する{{ruby|家|いへ}}も{{ruby|增加|ぞうか}}し、十三四{{ruby|戸|こ}}{{ruby|陳列|ちんれつ}}するやうになつた。これは{{ruby|明治|めいぢ}}二十七、八{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}であつた。それより{{ruby|追々|おひ〱}}{{ruby|盛大|せいだい}}となり、一{{ruby|番|ばん}}{{ruby|盛|さか}}りといふのは、三十{{ruby|年|ねん}}から{{ruby|日露戰爭|にちろせんさう}}の{{ruby|頃|ころ}}であつて、一{{ruby|時|じ}}は、{{ruby|朝|あさ}}{{ruby|車止|くるまど}}めまでするやうになつた。{{ruby|朝顏人形|あさがほにんぎやう}}の{{ruby|如|ごと}}き{{ruby|殺風景|さつぷうけい}}のものも{{ruby|此|こ}}の{{ruby|頃|ころ}}{{ruby|出來|でき}}たのである。{{ruby|之|これ}}は{{ruby|普通|ふつう}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}で、{{ruby|變|かは}}り{{ruby|物|もの}}は、{{ruby|維新後|ゐしんご}}{{ruby|作|つく}}らなくなり、{{ruby|絶|た}}えてしまつた。{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}{{ruby|成田屋|なりたや}}だけは{{ruby|變|かは}}り{{ruby|物|もの}}を{{ruby|持|も}}つてゐた。{{ruby|私|わたし}}も{{ruby|近所|きんじよ}}に{{ruby|居|を}}つたから、どうして{{ruby|種|たね}}を{{ruby|取|と}}るかを{{ruby|見|み}}てゐたが、やはり{{ruby|番號|ばんがう}}を{{ruby|帳面|ちやうめん}}に{{ruby|記|しる}}して、{{ruby|何番|なんばん}}から、{{ruby|何番|なんばん}}が{{ruby|出|で}}るといふやり{{ruby|方|かた}}であつたが、{{ruby|段々|だん〲}}{{ruby|牡丹|ぼたん}}が{{ruby|出|で}}ないやうになつたから、{{ruby|私共|わたしども}}は、{{ruby|帳面|ちやうめん}}{{ruby|等|など}}を作らず、{{ruby|牡丹|ぼたん}}の{{ruby|澤山|たくさん}}{{ruby|出|で}}たものから、{{ruby|親木|おやき}}を{{ruby|取|と}}らなくてはならんと{{ruby|考|かんが}}へたが、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|後|ご}}{{ruby|入谷|いりや}}は{{ruby|段々|だんだん}}{{ruby|都會地|とくわいち}}となり、{{ruby|居所|きよしよ}}を{{ruby|轉|てん}}じ、{{ruby|又|また}}{{ruby|居|ゐ}}るものも{{ruby|花屋|はなや}}を{{ruby|止|や}}め四十五{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}から{{ruby|益々|ます〱}}{{ruby|減|へ}}つて、{{ruby|大正|たいしやう}}二三{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}には{{ruby|全部|ぜんぶ}}なくなつた。また{{ruby|其|そ}}の頃の{{ruby|大輪物|たいりんもの}}は、{{ruby|悉|ことごと}}く{{ruby|鍬形葉|くわがたは}}であつて、{{ruby|蟬葉|せみは}}や、{{ruby|千鳥葉|ちどりは}}はなく、せいぜい四{{ruby|寸位|すんくらゐ}}であつて、{{ruby|最|もつと}}も{{ruby|能|よ}}く{{ruby|賣|う}}れたのは{{ruby|亂菊咲|らんぎくざき}}{{efn|葉が深く裂け、しばしば復葉状になる。花は曜(維管束のある部分)が多くなり、ひだができ、しばしば不規則に乱れて咲く{{sfn|仁田坂|2012|p=31}}{{sfn|仁田坂|n.d.e}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。}}と云つて三{{ruby|寸|ずん}}五{{ruby|分位|ぶぐらゐ}}であつた。また一{{ruby|時|じ}}、{{ruby|柿色|かきいろ}}を{{ruby|大層|たいそう}}{{ruby|好|この}}み、{{ruby|之|これ}}を{{ruby|團|だん}}十{{ruby|郞|らう}}といつてゐた。|岩本熊吉|実用花卉新品種の作り方{{sfn|岩本|1941|p=143}}}}
明治期の入谷の朝顔に関する確認できる最古の記述は『讀賣新聞』明治11年(1878年)8月2日の広告である。
{{quotation|昨今朝顏花盛り相成候に付本月十一日迄飾付入御覽候間不相替御來車希候 入谷 植忠 植龜 植總 丸新 新田屋<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|date=1878-08-02|page=4}}</ref>}}
明治13年(1880年)の広告には「植忠」「成田屋」「入又」「丸新」「いり十」「新田屋」「植長」の名が見える<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|date=1880-07-18|page=4}}</ref>。岩本の記述にあるようにその後一時見物人が減り{{sfn|岩本|1941|p=143}}明治17年(1884年)の広告では「丸新」「横山」「成田屋」の三戸だけになっている<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|date=1884-07-17|page=4}}</ref>。再び見物人が増えるきっかけになった黄色い朝顔の記事が明治17年(1884年)7月22日の『讀賣新聞』に掲載されている<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|title=入谷の朝顏|date=1884-07-22|page=2}}</ref>。明治期における入谷の朝顔の全盛期は『下谷繁昌記』では明治24年(1891年) - 明治25年(1892年)としている{{sfn|明治教育社|1914|p=81}}。岩本は明治30年(1897年)から日清戦争(明治37年、1904年 - 明治38年、1905年)頃であるとする{{sfn|岩本|1941|p=143}}。明治36年(1903年)には植木屋11軒で大中の鉢が2万鉢あまり、小鉢は3万鉢を販売した<ref>{{Cite news |和書|newspaper=東京朝日新聞 朝刊|title=らんちゅう(注:活字が潰れて判読不能)と朝顏|date=1903-09-01|page=5}}</ref>。いずれにせよ全盛期は往来止めをするような混雑ぶりであった{{sfn|明治教育社|1914|p=81}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}。末期には旗や幟を立てお祭りのようであり、団子坂の菊人形をまねて朝顔人形を作るなど興業化していった{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岡|1931|p=7}}。
入谷の朝顔は、一般に朝顔の栽培が広まった事、[[ダリア]]など西洋の草花が広まった事で、短期間の朝顔ぐらいでは都市化によって騰貴した地代、多数の奉公人や配達人の費用もあり採算が取れなくなっていった{{sfn|明治教育社|1914|p=81}}{{sfn|若月|1968|pp=54-55}}。植木屋は日暮里、池之端等に移っていき、大正2年(1913年)「植松」が廃業した事で入谷の朝顔は途絶えた{{sfn|環境文化研究所|1986|p=103}}{{sfn|明治教育社|1914|p=81}}{{sfn|若月|1968|pp=54-55}}。

民俗学者の長沢利明は「明治~大正期の入谷が、朝顔見物でにぎわったのは確かなことであったが、今見るような『市』の形態をなして朝顔が売られるようになったのは、実質的には第二次大戦後のことである」と述べている{{sfn|長沢|2010|p=2}}。明治時代の入谷の朝顔は植木屋ごとに個別に展示されていた{{sfn|長沢|2010|p=2}}。開催期間は2019年時点の入谷朝顔市のように3日間という短い物では無く、7月の[[盂蘭盆]]の頃から8月の下旬までの約50日間という長期間開園していた{{sfn|藻紋字|1913|p=11}}{{sfn|長沢|2010|p=7}}。客は未明からやってきて各植木屋の庭を廻って鑑賞した。欲しい品があれば自ら持ち帰るか、もしくは植木屋に配達させる事も出来た{{sfn|少國民|1892|pp=14-15}}。最初は観覧無料だったが{{sfn|伊坂|1941|p=14}}、明治31年(1898年)より、混雑防止を目的として規模の大きい植木屋は木戸銭を徴収するようになった{{sfn|森|1969b|pp=34-35}}<ref>{{Cite news |和書|newspaper=東京朝日新聞 朝刊|date=1901-07-18|title=入谷の朝顏飾付|page=5}}</ref><ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|date=1901-07-30|title=葉がき集|page=4}}</ref><ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|date=1901-07-22|title=入谷の朝顏を見る|page=3}}</ref>。

朝顔人形は明治23年(1890年)の新聞記事から確認できる。これは無料ではなく入場料を取っていた<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|title=入谷の朝顏|date=1890-07-19|page=4}}</ref>。団子坂の名物であった菊人形をまね<ref>{{Cite news |和書|newspaper=東京朝日新聞 朝刊|title=入谷の朝顏|date=1890-07-08|page=4}}</ref>、[[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]、[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]など歌舞伎役者の人形を展示していた<ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|title=入谷の朝顏細工人形|date=1895-06-30|page=3}}</ref>。團十郎であれば『[[鏡山旧錦絵|鏡山]]』の岩藤、『[[勧進帳]]』の弁慶、『鞘当』の伴左衛門、などを展示していた<ref>{{Cite news |和書|newspaper=東京朝日新聞 朝刊|title=入谷の朝顏|date=1899-07-14|page=3}}</ref><ref>{{Cite news |和書|newspaper=東京朝日新聞 朝刊|title=入谷の牽牛花|date=1898-07-12|page=5}}</ref><ref>{{Cite news |和書|newspaper=讀賣新聞 朝刊|title=入谷の朝顏|date=1890-07-19|page=4}}</ref>。
=== 大正から戦前 ===
入谷の朝顔は消滅し団十郎朝顔も途絶えたが、渡辺は大正から昭和にかけての朝顔書や会報に「団十郎」という花名が散見されると述べている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。
2020年時点で、「団十郎」の名で販売される朝顔は蝉葉の大輪朝顔である事が多い{{sfn|Naverまとめ|2016}}。明治時代に一世を風靡した入谷の団十郎朝顔と、2020年現在販売されている蝉葉の大輪朝顔の「団十郎」は全く系統が異なる物である。蝉葉の大輪朝顔は明治末から大正期に掛けて朝顔愛好家によって作成され、昭和戦前期に人気となり発展した。蝉葉の大輪朝顔には大きく分けて青葉(通常の色の葉)と黄葉(葉緑素が少なく黄緑色の葉)の2つの系統がありそれぞれ青斑入蝉葉(略称:アフセ)と黄蝉葉(キセ)、黄斑入蝉葉(キフセ)と呼ばれる{{sfn|東京朝顔研究会|2019}}{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。青葉と黄葉の大輪朝顔はそれぞれ由来が異なる。次項からは大輪朝顔と朝顔会の歴史を含めて解説して行く。
====蝉葉出現以前の大輪朝顔の歴史====
入谷の朝顔のように一般大衆が楽しむ朝顔の文化とは別に、朝顔愛好家が愛好会を結成し変化朝顔の花芸や大輪朝顔の花径の大きさを競い合う文化も存在した。大阪では明治17年(1884年)に浪速牽牛社{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|pp=247-248}}、京都では明治19年(1886年)に半日会{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|p=249}}、東京では明治26年(1893年)に穠久会(じょうきゅうかい){{sfn|渡辺|1977|p=250}}、名古屋では明治30年(1897年)に名古屋朝顔会の前身である月曜会{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|p=249}}、熊本では明治32年(1899年){{sfn|村山|1977|p=160}}に涼花会が結成された(他にも各地域に朝顔会が結成された)。半日会と涼花会は当初から大輪朝顔が専門であったが、他は変化朝顔が主で大輪朝顔は従だった。大正時代に逆転し大輪朝顔専門の会が多くなった{{sfn|中村|1961|p=239}}。大輪朝顔の基本変異は洲浜遺伝子である。洲浜遺伝子は曜([[維管束]]のある部分)を増加させる働きがある{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。大輪朝顔の起源は江戸期に遡ると考えられ、文化14年(1817年)刊行のあさかほ叢には「日傘(ヒガラカサ)」{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=12}}や「葵葉菊咲」{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=13}}など曜が増えている品種の記述がある。しかし確実に州浜といえるものはない{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。嘉永7年(1854年)刊の朝顔三十六花撰には「掬水洲濱葉照千種花笠フクリン数切獅子牡丹度咲」と洲浜の文字が見える。アサガオ研究者の仁田坂英二は「これは獅子(feathered)であり、獅子の弱い対立遺伝子の持つ獅子葉は洲浜葉によく似ているため本当の洲浜突然変異ではない」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。洲浜の最古の確実な記録とされるのは成田屋留次郎が安政2年(1855年)に刊行した「両地秋」に記載されている[[鍋島直孝]](号は杏葉館)の「黄洲濱葉紅カケ鳩筒ワレクルイシン一筋丁子咲芯」である。狂い咲きとして取り上げられているが、大坂朝顔会の中村長次郎はアサガオ研究者の今井喜孝にこの図を見せ「『まぎれもない洲浜』と認定された」としている{{sfn|中村|1977a|p=72}}。仁田坂は「この時期に存在した洲浜系統が九州の大名に渡りその後も栽培されていたと考えている」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。江戸時代の大輪は常葉から選抜された物であったので大輪とは言っても4寸2、3分(12.7 - 13cm)であり、明治中期に至っても依然として4寸台が主流であった{{sfn|今井|1961|p=290}}。
====青斑入蝉葉種の由来====
浪速牽牛社を結成した吉田宗兵衛(本名惣兵衛)(号は秋草園)は明治19年(1886年)に旧筑前黒田侯([[黒田長溥]]、[[黒田長知]]どちらを指すのかは不明)の所望で種子16品を献上した返礼として、黒田家秘蔵の種子10種を拝領した。この中に「間黄洲浜葉柿覆輪四寸三分咲」の品種があり、そこから明治19年(1886年)に「村雲」と命名された「黄洲浜葉黒鳩覆輪四寸八分咲」、また「老獅子」と思われる「黄洲浜葉大和柿覆輪四寸五分咲」が生まれ、さらに翌年の明治20年(1887年)に「村雲」から「常暗」と命名された「黄千鳥葉黒鳩無地五寸咲」、「老松」と命名された「黄千鳥葉唐桑無地」が出現した。当時の5寸(15cm)咲は未曾有の巨大輪で、当初秘蔵種とされたが、明治26年(1893年)やむなく他へ譲渡され「常暗筋」と称され流行した{{sfn|中村|1977a|pp=70-71}}。明治28年(1895年)頃浪速牽牛社に入社、のち大正11年(1922年)に大阪大輪朝顔会を組織し会長になった花井善吉(大蕣園)が常暗筋の老獅子から「紫宸殿(青斑入千鳥葉紫天鵞絨無地)」(6寸2分、18.8cm)(明治38年、1905年)をはじめとする一連の品種を作出した{{sfn|中村|1977a|p=72}}{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。仁田坂は「浪速蕣英会雑誌等を見ると、明治末~大正にかけて既に蝉葉の品種はあったが、千鳥葉(洲浜葉)の紫宸殿の方が花径は大きかったようである。」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。蝉葉は洲浜葉(千鳥葉)と蜻蛉葉(鍬形葉)が掛け合わされた物であるが、鍬形葉の品種でも洲浜に次ぐサイズのものがあった{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。花井善吉に弟子入りし大輪朝顔の栽培法を会得した塩飽嘉右衛門(嘉蕣園)は大正8年(1919年)自然変化で生まれた「御所桜(青斑入蝉葉桜色無地)」が当時最大輪の6寸7分(20.3cm)に咲き、その子孫を多数栽培し、自然変出から多くの品種を作り出した。この系統は千鳥葉に比べ花切れが少なく巨大輪に咲いたので、関西だけでなく関東でも広く栽培されるようになり{{sfn|中村|1977a|pp=72-73}}。2020年現在栽培されている青斑入蝉葉種の元祖だとされる{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。
====黄蝉葉種の由来====
青斑入蝉葉種は花径の大きさを競い、主に行灯作りで育てる物であるが、黄蝉葉、黄斑入蝉葉種の品種は花径の大きさよりも色彩や模様の優美さを主眼とし、主に蔓を伸ばさない切り込み作りに用いられる{{sfn|東京朝顔研究会|2019}}{{sfn|広瀬|1955|p=34}}{{sfn|中村|1977a|p=79}}。
黄蝉葉種は名古屋が発祥である。明治30年(1897年)に名古屋で月曜会が組織された(毎月第二月曜日に会合を開く所からその名がつけられた)。明治35年(1902年)名古屋朝顔会と改称された{{sfn|渡辺|1977|p=249}}。この会は当時村瀬亮吉、浅井信太郎、宮島吉太郎{{sfn|寺沢|1974|p=9}}の3氏が中心となって運営していた{{sfn|広瀬|1955|p=34}}。この3氏は熊本の涼花会にも入会しており{{sfn|寺沢|1974|p=52}}{{sfn|広瀬|1955|p=34}}、村瀬亮吉が涼花会から入手した当時「九州熊本産六曜平咲洲浜葉系縞物」と呼ばれた肥後朝顔(肥後朝顔の由来については次項で述べる)と、並性の最大輪種であった「西施の誉(黄鍬形葉薄紅無地)」を交配し明治40年(1907年)に黄蝉葉群青乱立縞筒白を選出した{{sfn|寺沢|1974|p=52}}{{sfn|中村|1977a|p=79}}{{sfn|広瀬|1955|p=34}}。これが黄蝉葉種の原種である。また宮島吉太郎が明治39年(1906年)に自然変化で得た純白花の「銀世界」ももう一つの原種である{{sfn|中村|1977a|p=79}}。他にも明治39年(1906年)陳列会出品花には、黄鍬形千鳥葉紅柿無地や錆柿無地の品種が記載され{{efn|当初は蝉葉を鍬形千鳥葉と呼んでいた。明治末年に吉田宗兵衛(秋草園)が蝉葉と命名した{{sfn|中村|1961|p=13}}。}}、中村は「無地花の原種は『銀世界』一品だけではなかったようである」と述べている{{sfn|中村|1977a|p=79}}。宮島吉太郎は無地物、村瀬亮吉は絞り物作出に力を注ぎ、これらの原種の間で交配が行い、各種の鮮明色彩の無地、覆輪、縞の品種が作られ、明治45年(1912年)に黄蝉葉種の大輪朝顔は完成を見た{{sfn|中村|1977a|pp=79-80}}{{sfn|広瀬|1955|p=34}}。明治時代には開放的で200人以上いた名古屋朝顔会は大正時代には10数名(もしくは8名{{sfn|中村|1977b|p=157}})となり、種子を門外不出とした{{sfn|中村|1977a|pp=80}}{{sfn|広瀬|1955|p=35}}。大正の中頃{{sfn|中村|1977b|p=157}}、名古屋朝顔会会員で愛知県の技師であった川人兵次郎は京都半日会の創立者広瀬広三郎(一笑園){{sfn|渡辺|1977|p=249}}と菊の同好者として交流していたが、広瀬の秘蔵する菊の実生新花を切望し、門外不出であった名古屋朝顔会の秘蔵種子と交換を条件としたところ承諾した。このため名古屋から京都に流出した。川人は名古屋朝顔会を除名されることとなった{{sfn|広瀬|1955|p=35}}。一笑園ではこれに「名古屋種」と名付けて、一種5円という高値で売り出され、全国に広まっていった{{sfn|中村|1969|p=130}}。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」もその時売り出された{{sfn|中村|1969|p=130}}。
====肥後朝顔の由来====
黄蝉葉種の澄んだ色彩、縞柄、筒白抜けという長所はすべて肥後朝顔から取り入れられた{{sfn|中村|1977a|p=79}}。肥後朝顔は洲浜変異を持つ一連の品種群である{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。仁田坂は「起源は恐らく大輪朝顔と同じで、江戸後期に出現した洲浜系統が九州に渡り、熊本で栽培されていたものに由来すると考えられる。」と述べている。{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。中村は熊本藩第6代藩主[[細川重賢]]が宝暦年間(1751年 - 1764年)の創始と伝えられるが、品種が洗練されている点、他の地の発達史から考えて到底信じられないとしている{{sfn|中村|1961|p=301}}。明和2年(1765年)の「草木うつし」には朝顔6品が写生されているが洲浜はなく全部常葉である{{sfn|中村|1961|p=301}}。米田は「細川家の家老であった八代市の肥後松井家を訪れ、文化文政期以降に作成されたと思われる朝顔絵巻を調べたことがあるが、多数の変化朝顔の中に洲浜葉を持つ多曜性の花は、残念ながら見つからなかった。」と述べている{{sfn|米田|2006|p=89}}。村山によれば、代々松代城主であった松井家に伝わった、文化文政期に書かれたとされる「朝顔生写図鑑」<ref>*{{Cite web |url=http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/matsui/kisai2.html |title=松浜軒驥斎(きさい)展示概要 |date=2003|author=八代市立博物館未来の森ミュージアム |website=八代市立博物館未来の森ミュージアム|accessdate=2020-11-11}}</ref>に写生された渦川という品種は、青地白斑入洲浜葉の紅色花で肥後朝顔の一品種「司紅」によく似ているとされる{{sfn|村山|1977|p=160}}。仁田坂は「大輪品種の元になった洲浜品種も黒田(福岡)に由来するように、幕末から明治にかけて九州では洲浜は比較的広まっていたのかもしれない」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。明治32年(1899年)涼花会が結成され、明治35年(1902年)には名古屋朝顔会から多数の入会を見た{{sfn|村山|1977|p=161}}。これが後に名古屋での黄蝉葉種の誕生につながった。昭和15年には会員180名にも及んだ{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。第二次大戦後はようやく命脈を保っていたが、[[昭和28年西日本水害|昭和28年(1953年)6月の風水害]]により栽培品の大半が流出し絶滅の危機を迎えた。しかし徳永据子の栽培品15種が残り、絶滅の危機を免れた。昭和35年(1960年)には天皇皇后の天覧に供された。それを長崎で日本遺伝学会に出席中の[[国立遺伝学研究所]]の竹中要が新聞報道で知り熊本に立ち寄り、徳永の栽培場を調査、肥後朝顔の生存を中央の朝顔界に報告した{{sfn|村山|1977|pp=161-162}}。昭和36年(1961年)涼花会は復活し{{sfn|村山|1977|p=162}}、現在(2020年)まで明治以来の品種と栽培法を守り伝えている。
====戦前(昭和期)の大輪朝顔と団十郎朝顔====
戦前の昭和期は、大輪朝顔の黄金期であった。全国各地に朝顔会がさらに増え、雑誌『実際園芸』や『農業世界』が増刊号を発行し、その影響で朝顔栽培者が年々増加していった{{sfn|渡辺|1977|p=259}}。昭和2年(1927年)の『大輪朝顔栽培秘法』には「花王」の名が見える{{sfn|尾崎|1927|p=132}}。黄蝉葉の「団十郎」は花王系の変化で、戦前吉田柳吉が選出、京都半日会の伊藤穣士郎{{sfn|広瀬|1955|p=35}}が保存した{{sfn|中村|1961|p=280}}{{sfn|米田|2006|p=70}}とされるが、戦前の書籍には黄蝉葉の「団十郎」の名が見えない。昭和12年(1937年)発行の雑誌『農業世界』には黄蝉葉の品種「暫」の名前が見える。極めて濃い茶色で「花王」と「古代錦」の交配種から変化したものとしている{{sfn|安藤|朝比奈|津熊|1937|p=95}}。「花王」は前にも述べたように「名古屋種」と呼ばれた黄蝉葉桜色深覆輪の品種{{sfn|安藤|朝比奈|津熊|1937|p=92}}、「古代錦」は黄蝉葉薄柿花傘覆輪の品種である{{sfn|尾崎|1927|p=132}}。この「暫」が後の「団十郎」であったとするならば、黄蝉葉の「団十郎」の記述としては今のところ最も古い物となる。昭和18年(1943年)頃からは戦争の拡大で朝顔の栽培が許されない世相になり、各地の朝顔会は消息を絶っていった{{sfn|中村|1961|p=253}}。
=== 戦後の歴史 ===
戦後、東京の内藤愛次郎は21cmの巨大輪「天津」(桃色無地)を選出し大輪朝顔復興のきっかけになった{{sfn|渡辺|1977|p=261}}。京都半日会の伊藤穣士郎は戦前の多数の品種、特に黄蝉葉種を保存していた{{sfn|中村|1961|pp=253-255}}。中村によればこの中に黄蝉葉の団十郎も含まれてるとされる{{sfn|中村|1961|p=280}}。名古屋朝顔会が昭和24年(1949年)、東京朝顔研究会が昭和26年(1951年)がいち早く再興され、その後各地の朝顔会が次々と復活していった{{sfn|渡辺|1977|p=261}}。戦後長年にわたる泰平に恵まれて大輪朝顔は発展を遂げた。全国の朝顔会も戦前をしのぐ発展を遂げ、新たに発会する地方も多かった{{sfn|尾崎|1974|p=147}}。[[東京朝顔研究会]]は1970年代には1000人弱に及ぶ会員数を誇った{{sfn|尾崎|1974|p=147}}。2020年現在はそのようなブームは落ち着いているが、東京朝顔研究会をはじめ各地の朝顔会が活動中であり、黄蝉葉「団十郎」も栽培されている。
====戦後の文献に現れる黄蝉葉「団十郎」====
[[#戦前(昭和期)の大輪朝顔と団十郎朝顔]]で述べたように戦前に「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」の団十郎朝顔が存在した記録は今のところ確認できない。戦後の記録で現在確認できる一番古いものは昭和36年(1961年)発行の中村長次郎の著書『アサガオ 作り方と咲かせ方』内の品種紹介である{{sfn|中村|1961|p=280}}。「濃栗皮茶筒白。花王系の変化、戦前吉田柳吉氏選出、伊藤氏が保存。現存茶色中最優色の特異な存在であるがやや小輪。三四年半日会で芝原氏の優勝花。」と紹介されている。昭和52年(1977年)の『ガーデンシリーズ アサガオ 作り方と楽しみ方』では、「濃茶無地 日輪抜け 古くから有名な品種。渋みのかかった濃茶厚弁、花切れ少なく、草姿はまとまり作りやすい。つぼみ付きも良好で数咲き・切込みのどちらにも適し、種子付きもよい。花径は約一六cm。」と解説されている{{sfn|樋口|1977|p=199}}。平成18年(2006年)の『色分け花図鑑 朝顔』では「キセ 濃茶無地 日輪抜け 戦前、吉田柳吉氏が『花王』から分離選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。(以下略)」と解説されている{{sfn|米田|2006|p=70}}。平成24年(2012年)の『朝顔百科』では「黄蝉葉 濃茶無地 日輪抜け。戦前、吉田柳吉が『花王』から分離したものから選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。朝顔の「団十郎」の名は古く、江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい。一般には一番名の知れた朝顔だろう(以下略)」と解説されている{{sfn|芦澤|2012|p=61}}。

以上のように(中村 1961){{sfn|中村|1961|p=280}}の記述を元に(米田 2006){{sfn|米田|2006|p=70}}の解説が、またさらにそれを参考に(芦澤 2012){{sfn|芦澤|2012|p=61}}の解説が書かれている。米田や芦澤の解説で追加された「二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した」「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」と言う記述は、黄蝉葉「団十郎」の解説として引用され、正統であるという根拠とされるが{{sfn|Naverまとめ|2016}}、これらの記述は正しくない(根拠は[[#一般に流布する通説について]]で解説する)。

====戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔====
東京名物であった入谷の朝顔が朝顔市という形で復活したのは昭和23年(1948年)であった。地域発展への期待、また敗戦で打ちひしがれた都民の心を癒やしたいという思いも合わせて企画された{{sfn|入谷中央商店街振興組合|1979}}{{sfn|長沢|2010|p=10}}。当初は3会場で分散開催され、7月中のほぼ1箇月開催されていた。また明治期のように朝顔人形の展示も行われた。当初は人出も少ないさびしい市だったが、関係者の熱意で続けられた。3会場での分散開催では盛り上がりに欠けるとの反省から、会場が統一され[[真源寺]]境内に一本化された。その頃から台東区や下谷観光連盟の後援を受けて盛況化していった。1960年代には朝顔の売り上げが3万鉢に達するほどの盛況を見せ、真源寺の境内には収まりきれず裏手の路地にまではみ出していった。この頃には朝顔市の開催期間が7月6日から7月8日の3日間に限定されるようになっていた。その後1970年代から[[言問通り]]の方に朝顔屋を振り分けていき、昭和50年(1975年)に言問通りの拡幅が行われ余裕を持って出店が出来るようになったため、真源寺境内や裏手から言問通りに並ぶ形になっていき、ますます盛大に行われるようになった{{sfn|長沢|2010|p=10-11}}。

戦後の入谷朝顔市でいつ頃から「団十郎」が販売されていたかは不明であるが、確認できる最も古い記録は昭和48年(1973年)の読売新聞の記事で、入谷朝顔市での団十郎朝顔の言及がある<ref>{{Cite news |和書|title=朝顔で公害測る時代とは |newspaper=読売新聞 朝刊|date=1973-07-05|page=6}}</ref>。昭和53年(1978年)の朝日新聞には団十郎朝顔が人気と伝える記事がある<ref>{{Cite news |和書|title=色あざやか夏の風物詩 |newspaper=朝日新聞 夕刊|date=1978-07-06|page=10}}</ref>。入谷朝顔市で販売されている団十郎朝顔の特徴を、平成2年(1990年)の読売新聞では「セピア色に白いふちどり」と報じている<ref>{{Cite news |和書|title=入谷の朝顔市始まる |newspaper=読売新聞 都民版|date=1990-07-07|page=24}}</ref>。青斑入蝉葉で茶色の覆輪花である事はいくつかのウェブサイトで確認できる<ref>{{Cite web |url=https://blog.nissan.co.jp/DEALER/1240/050/entry18244 |title=日産プリンス埼玉販売株式会社 花園インター店 |publisher=日産プリンス埼玉販売株式会社 |accessdate=2020-11-11}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://greensnap.jp/post/5271550 |title=GreenSnap |publisher= |accessdate=2020-11-11}}</ref>。

=== 2000年代以降 ===
国立歴史民俗博物館で平成11年(1999年)より始まった「伝統の朝顔」展<ref>{{Cite web |url=https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/project/old/090804/index.html |title=くらしの植物苑特別企画「伝統の朝顔」 |website=国立歴史民俗博物館 |accessdate=2020-11-11}}</ref>{{efn|1999年に仁田坂が「伝統の朝顔」展に団十郎を持って行き人気を博した事を2000年に記している<ref>{{Cite web |url=http://mg.biology.kyushu-u.ac.jp/mg-files/mg-board/11-99~6-00.html |date=2000-01-15|title=過去ログその3 |website=アサガオホームページ |accessdate=2020-11-11}}</ref>。}}や1990年代後半に開設されたアサガオ研究者仁田坂英二の「[http://mg.biology.kyushu-u.ac.jp/ アサガオホームページ]」でアサガオの専門的な情報、また黄蝉葉「団十郎」が紹介されるようになった。

[[#戦後の文献に現れる黄蝉葉「団十郎」]]、[[#戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔]]で述べたように戦後の団十郎朝顔には大きく分けて、愛好家が栽培していた黄蝉葉無地花の「団十郎」と、入谷朝顔市で販売されていた青蝉葉覆輪花の「団十郎」の2つの系統があった。後者はいつ頃からかは不明であるが、「偽物」や「団十郎もどき」と呼ばれるようになっていった{{sfn|Naverまとめ|2016}}<ref>{{Cite book|和書|author=東直子|year=2014|title=いつか来た町|publisher=PHP研究所|isbn=9784569821191|pages=153-154 |ref={{sfnref|東|2014}}}}</ref><ref>{{Cite web |author=やまもと こも |date=2017-07-05 |url=https://tenki.jp/suppl/yamamoto_komo/2017/07/05/23991.html |title=夏の風物詩「あさがお」開花の時期到来!こんなよもやま話知ってますか? |website=tenki.jp |accessdate=2020-11-11}}</ref>{{efn|確認できる最古の記述は2004年の2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の記述である<ref>{{Cite web |url=https://hobby5.5ch.net/test/read.cgi/engei/1064940924/568 |title=アサガオ好き!Part4 |publisher=5ちゃんねる |accessdate=2020-11-11}}</ref>また同じスレッドに仁田坂による茶覆輪の朝顔を団十郎と適当に名付けている、正しくは黄蝉葉との記述の引用がある<ref>{{Cite web |url=https://hobby5.5ch.net/test/read.cgi/engei/1064940924/582 |title=アサガオ好き!Part4 |publisher=5ちゃんねる |accessdate=2020-11-11}}</ref>}}。

公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター 江戸川分場では、黄蝉葉「団十郎」を正統「団十郎」とし平成19年(2007年)に国立歴史民俗博物館より3鉢入手し、翌年特質のある形質(花色、葉色)の継続性と交雑の有無を確認、それを増殖し平成22年(2010年)に入谷朝顔市で試験販売を行った{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}{{sfn|橋本|2017}}。以降入谷朝顔市では黄蝉葉「団十郎」も販売されている。平成25年(2013年)にはスポーツ祭東京2013の都民運動のひとつとして花いっぱい運動が展開され、「東京ならではの花」として黄蝉葉「団十郎」を位置づけ、栽培を推奨した<ref>{{Cite web |author=スポーツ祭東京2013実行委員会事務局 |url=https://www.sporttokyo.metro.tokyo.lg.jp/sports-sai-tokyo2013/flower/index.html |title=花いっぱい運動 |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|スポーツ祭東京2013実行委員会事務局|2013}}}}</ref>。東京都農林総合研究センターの情報を元にWikipediaに「[[団十郎朝顔]]」の項目が作られ、またWikipediaや東京都農林総合研究センター{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}、自治体{{sfn|あきる野市|2012}}、個人ブログなどの情報を典拠にしたまとめサイトも作成された{{sfn|Naverまとめ|2016}}。

== 一般に流布する通説について ==
以上述べてきたように、柿色(もしくは茶色)の朝顔に「団十郎」と名付けられたのは明治時代以降であり、入谷で一世を風靡した。明治時代から現在(2020年)まで「団十郎」は特定の品種ではなく柿色の朝顔は広く「団十郎」と名付けられて来た。明治時代一世を風靡した「団十郎」は入谷の朝顔の衰退と消滅により廃れた。現在「正統」とされる黄蝉葉「団十郎」は名古屋発祥の黄蝉葉種に由来し、黄蝉葉「団十郎」がいつどこで作出された物かは不明であるが、その起源はどんなに古くとも大正時代以前には遡らない。戦時中は京都の朝顔愛好家によって維持され、戦後愛好家によって栽培が続けられてきた。また戦後始められた入谷朝顔市でも1970年代から「団十郎」が販売されて来た。

団十郎朝顔については様々な通説がある。「二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶色であったことにちなんでつけられた」{{sfn|Naverまとめ|2016}}、「江戸の昔から栽培が盛んに行われていたが、種子の確保が難しく幻の朝顔と言われるようになった」{{sfn|あきる野市|2012}}{{sfn|Naverまとめ|2016}}、「巷では茶色の朝顔を「団十郎」と呼んでいるが、本来は「団十郎」は特定の品種を指している」{{sfn|東京都公園協会|n.d.}}{{sfn|Naverまとめ|2016}}等である。そのどれもが正しいとは言えない。

====二代目市川團十郎が名の由来という通説について====
「二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶色であったことにちなんでつけられた」と言う通説の典拠は米田による「江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。」という記述である{{sfn|米田|2006|p=70}}。これは団十郎朝顔の研究として先行する渡辺の記述「名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『{{ruby|暫|しばらく}}』の狂言に柿色の{{ruby|素袍|すおう}}を用いたが、団十郎の人気に乗じ、この色が流行したといわれている」という記述{{sfn|渡辺|1996|p=43}}を引用して肉付けしたものである。しかし「団十郎茶」という色の由来として[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川團十郎]]を挙げる文献は無い。単に市川家の狂言に用いる色{{sfn|長崎|1996|p=117}}、市川家代々が狂言に用いた色{{sfn|福田|2001|p=118}}、もしくは[[市川團十郎 (5代目)|五代目市川團十郎]]に由来する{{sfn|近世文化研究会|1995|p=48}}{{sfn|城|2017|p=176}}{{sfn|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001|p=1221}}とする文献が多い。二代目市川團十郎は「暫」での初代市川團十郎以来の野郎頭に鎌髭の赤塗り、小具足、小手、素足に脛当、大太刀に三升の角鍔、荢縄の鉢巻という扮装を改め、角鬘に力紙、柿色の素袍、大太刀、筋隈の扮装を考案した{{sfn|田口|2005|p=10}}。しかしそれをもって世間一般で「団十郎茶」が流行した。とする記述をする文献は存在しない。また五代目市川團十郎の人気で団十郎茶が流行したという一次資料も確認できない。[[市川團十郎 (8代目)|八代目市川團十郎]]と同時代に生きた[[大槻如電]]は、「団十郎茶」について以下のように記述している。
{{quotation|サテ弘化から嘉永へかけまして、世の中で流行ました衣物は、海老茶と申す色です。これは八代目團十郞が、或る狂言の世話女房に、例のコクモチの着付で、舞臺へ出ました時に市川家の柿色へ、濃めの黑味を帶びさせた色でありました。ナニガさて、當時江戸八百八町の贔負を、一人で背負って居ました八代目の事ですから、此色が大流行で、十五六から三十前ぐらゐな婦人、海老茶の紋付を着ない者は無いのです。大概{{ruby|太織紬|ふとをりつむぎ}}などを染めまして、不斷着にしました。紋所は銘々の紋で、市中の女は、どこもかしこも、紋付の衣物ならざるは、ないといふ有樣でした。この茶の色を八代目茶とも、團十郞茶とも申しました。この時は、何んでもかんでも八代目八代目で持ち切て居ました。この如電入道も、はづかしながら、子供の時分、三升小紋の上下を着せられた事がありました。八つ九つの頃でした。|大槻如電|江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談){{sfn|大槻|1978|pp=41-42}}}}
八代目市川團十郎の人気に乗じて「海老茶」が流行し、これを「団十郎茶」とも呼んだとしている。これらはあくまで'''「団十郎茶」という「色」'''が流行したという事を示しているにすぎず、通説ではこれを'''「団十郎茶」の「朝顔」'''が流行したと誤って解釈している。二代目市川團十郎の活躍した時代は文化文政期第一次朝顔ブーム以前であり、単純な変化朝顔が出始めた時代である。柿色の朝顔も当時の文献には現れない{{sfn|三村|2012}}。海老茶または団十郎茶が流行したという八代目市川團十郎の活躍した弘化から嘉永に掛けて「団十郎」という朝顔があったと記述する文献も無い。[[#明治時代の団十郎朝顔の特徴]]で述べたように、明治時代の団十郎朝顔を扱った文献では九代目市川團十郎に由来するとする。
====江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について====
「江戸時代から団十郎が栽培されてきた」とする通説は、前項で述べた色名としての「団十郎茶」の流行を「団十郎朝顔」の流行と混同したこと、また芦澤による「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」という記述が元である{{sfn|芦澤|2012|p=61}}。芦澤の記述も先行する渡辺の「花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。」という記述が元になっている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。これが米田により引用され、「朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。」という記述になり{{sfn|米田|2006|p=70}}、「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」となっていった{{sfn|芦澤|2012|p=61}}。芦澤が「古くから」という記述を「江戸時代から」にした理由は不明であり、また「らしい」というあいまいな記述になっており根拠に乏しい。江戸時代の図譜{{sfn|仁田坂|n.d.a}}には団十郎と名付けられた朝顔は確認できない。団十郎茶の流行した弘化から嘉永にかけては第二次朝顔ブームと重なるが、この時代は変化朝顔が主流であり、その特徴を表現する為に葉や花の特徴を並べて記述する(例えば黄蝉葉の「団十郎」ならば「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」と表現する)命名法が確立し利用されていて{{sfn|仁田坂|2014|p=6}}、特定品種に「団十郎」のような命名をする事がほとんど無い。また、黄蝉葉「団十郎」の起源はどんなに古くとも大正以前には遡れない。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」が広まるのは大正以降であるからである。黄蝉葉種は名古屋で生まれ、京都に流出し全国に広まった。黄蝉葉「団十郎」は京都で戦時中保存維持されてきた。黄蝉葉「団十郎」は明治時代の入谷の団十郎朝顔とは無関係である。

====種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えたという通説について====
これは東京都農林総合研究センター『農総研だより第17号』の「かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。」という記述が元である{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}。これは黄蝉葉「団十郎」の事を指しているが、「かつて」というのがいつの時代か、どこで生産されていたものが激減したのかこの記述からは読み取れない。東京都農林総合研究センターの田旗裕也は『趣味の園芸』誌上で「昭和の入谷朝顔まつりでは、茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが」と述べている事から{{sfn|田旗|2019|p=72}}、「かつて」とは戦後の入谷朝顔市が始まった昭和23年(1948年)以前のことを指すという事が分かる。[[#歴史]]の項目で述べたように、戦前入谷の朝顔が全盛であったのは明治時代であり、また黄蝉葉「団十郎」が江戸時代もしくは明治時代に入谷で栽培されていたという事実は無い。大正以降、入谷の団十郎朝顔は廃れてしまったが、これは種子の確保が難しかったからではなく、九代目市川團十郎の死と入谷の朝顔の衰退によるものである。黄蝉葉種が生まれ愛好家の人気を得ていた大正末期から昭和戦前期に栽培が盛んであったと解釈も出来るが、それを裏付ける証拠は今のところ無い。「戦後途絶えた」{{sfn|国分寺市|2013|p=10}}とするのも誤りである。途絶えてしまったのなら黄蝉葉「団十郎」は戦後作られたものとなるはずであり、戦前から作られてきたという主張と矛盾する。
====「団十郎」が特定の品種と指しているという通説について====
渡辺は団十郎朝顔について判明していることとして、
#花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。
#葉形も、{{ruby|常葉|つねは}}・{{ruby|千鳥葉|ちどりは}}・{{ruby|須浜葉|すはまは}}・{{ruby|恵比寿葉|えびすは}}であろうと、また、今日の{{ruby|蟬葉|せみは}}でも、花色が似ているなら、葉形に関係なく「団十郎」と命名してもとくに問題はなかった。
#入谷の朝顔市でいう「団十郎」は、1. 2.と考えてよい。時代により、葉形は多少変わってきたが、花色を重視していた。
#同一種でも、朝顔会や種苗会社により異なる花名をそれぞれ付けている場合がある。
#この「団十郎」という名花は、当時、成田屋留次郎が売り出していた花であったことが、朝顔研究家の岡不崩の書いた記録に残っている。
と五つ挙げている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。5.は[[#団十郎朝顔の誕生]]で引用した「明治昭代の牽牛子」という記事である{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。

「団十郎」が特定の品種を指していて、それ(黄蝉葉の団十郎)のみが正統という通説がある{{sfn|東京都公園協会|n.d.}}{{sfn|Naverまとめ|2016}}。渡辺の記述や[[#歴史]]の項で述べてきたように「団十郎」という名前は歴史上多くの朝顔に付けられてきたもので、正統な品種が一つだけあるわけではない。黄蝉葉「団十郎」が正統とされる根拠、「二代目團十郎に由来する」「江戸時代に一世を風靡した」はこれまで述べてきたように誤りである。[[#江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について]]で述べたように、黄蝉葉「団十郎」は名古屋と京都に由来し、江戸や東京にゆかりはないから「東京ならではの花」という見解{{sfn|スポーツ祭東京2013実行委員会事務局|2013}}は正しいとは言えない。園芸業者が流通名として自由に「団十郎朝顔」の名をつけるのが不当だという主張もある。しかし明治時代の「団十郎」も「成田屋」という品種が「団十郎」と呼ばれるようになった物であり、黄蝉葉「団十郎」もかつて「暫」と名付けられていた可能性がある。

渡辺は「現在でも、入谷朝顔市に行くと、『団十郎』という花に人気があるが、売り子は、ただ茶色の花なら『団十郎』といっているにすぎない。」と述べているが{{sfn|渡辺|1996|p=44}}、これは先に挙げた渡辺自身の記述と矛盾している。田旗も「団十郎茶のアサガオを、広く‘団十郎’と呼んだと考えられます」と述べているが「茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが、近年は江戸川の生産者を中心に、一部の店先で正確な‘団十郎’を生産販売する動きがあります。」と矛盾した見解を述べている{{sfn|田旗|2019|p=72}}。以上のように専門家の間でも団十郎朝顔の議論には矛盾があり、茶系統の朝顔を広く「団十郎」と称していたとしながらも、一方では正統「団十郎」が存在し、それ以外の茶色花の朝顔に「団十郎」と命名するのは不当という見解を示している。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{notelist}}

=== 出典 ===
{{reflist|4}}

== 参考文献 ==
===団十郎朝顔に関する文献===
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*{{Cite journal|和書|editor=宇治朝顏園|title=牽牛花種類|year=1900|publisher=宇治朝顏園|journal=朝顏畫報|issue=7|id={{NDLJP|1557090}}|ref={{sfnref|宇治朝顏園|1900}}}}
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*{{Citation |和書|editor=賀集久太郎|year=1895 |title=朝顏培養全書 正編 |publisher=平瀬種禽園|id={{NDLJP|839963}}|ref={{sfnref|賀集|1895}}}}
*{{Cite web |author=公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター |date=2011-07 |url=https://www.tokyo-aff.or.jp/uploaded/attachment/7583.pdf |title=農総研だより第17号 |website=東京農林水産振興財団 |publisher=公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|東京都農林総合研究センター|2011}}}}
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*{{Cite book |和書|author=渡辺好孝|year=1996 |title=江戸の変わり咲き朝顔 |publisher=平凡社|isbn=9784582515053|ref={{sfnref|渡辺|1996}}}}
*{{Cite news |和書|title=朝顔大名 |newspaper=東京朝日新聞 朝刊|date=1891-07-26|ref={{sfnref|東京朝日新聞|1891}}}}

===団十郎朝顔が登場する文学作品===
*{{Cite book |和書|author=河東碧梧桐|year=1992 |title=碧梧桐全句集|publisher=蝸牛社|isbn=9784876612000|ref={{sfnref|河東|1992}}}}
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*{{Cite book|和書|author=中里昌之|year=1985|title=村上鬼城の基礎的研究|publisher=桜楓社|isbn=9784273009854|ref={{sfnref|中里|1985}}}}
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*{{Cite book |和書|author=正岡子規|year=1975a |title=子規全集 第一卷 俳句 一|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|75005017}}|ref={{sfnref|正岡|1975a}}}}
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*{{Cite book |和書|author=正岡子規|year=1977 |title=子規全集 第三卷 俳句 三|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|77033059}}|ref={{sfnref|正岡|1977}}}}
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*{{Cite journal|和書|author=村上鬼城|title=第二年目|year=1911|month = 9|publisher=ホトトギス社|journal=ホトトギス|volume=14|issue=14|id={{NDLJP|7972301}}|ref={{sfnref|村上|1911}}}}
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===朝顔全般に関する文献===
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*{{Cite journal|和書|author=安藤安廣|author2=朝比奈柳塘|author3=津熊健一郎|title=大輪朝顏の代表品種|year=1937|month = 5|publisher=博友社|journal=農業世界|volume=32|issue=7|id={{NDLJP|1756741}}|ref={{sfnref|安藤|朝比奈|津熊|1937}}}}
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*{{Citation |和書|author=中村長次郎|contribution=アサガオ栽培の歴史|editor=ガーデンライフ|year=1977b |title=ガーデンシリーズ アサガオ 作り方と楽しみ方 |publisher=誠文堂新光社| pages = 152-157|id={{全国書誌番号|77024045}}|ref={{sfnref|中村|1977b}}}}
*{{Citation |和書|author=仁田坂英二|contribution=アサガオの花色・形・変異原|editor=朝顔百科編集委員会|year=2012 |title=朝顔百科 |publisher=誠文堂新光社| pages = 25-33|isbn=9784416712016|ref={{sfnref|仁田坂|2012}}}}
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*{{Citation |和書|editor=渡辺好考|author=渡辺好考|contribution=朝顔と日本人|year=1977 |title=原色 朝顔 つくり方と鑑賞|publisher=自然の友社|pages=239-261 | id={{全国書誌番号|77024046}}|ref={{sfnref|渡辺|1977}}}}
*{{Cite book |和書|editor=台東区史編纂専門委員会|year=2000a |title=台東区史 通史編II | id={{全国書誌番号|20044631}}|ref={{sfnref|台東区史編纂専門委員会|2000a}}}}

===成田屋留次郎に関する文献===
*{{Cite journal|和書|author=杉田逢川野夫|title=成田屋のこと|year=1889|publisher=日本園芸会|journal=日本園藝學會雑誌|issue=6|id={{全国書誌番号|00018342}}|ref={{sfnref|杉田|1889}}}}
*{{Cite journal|和書|author=渡辺好孝||title=変化朝顔ブームを支えた二人の男|year=2001|month=3|publisher=秋田書店|journal=歴史と旅| id={{全国書誌番号|00026277}}|ref={{sfnref|渡辺|2001}}}}

===入谷の朝顔に関する文献===
*{{Cite book |和書|author=岩本熊吉|year=1941 |title=実用花卉新品種の作り方 |publisher=育生社|id={{NDLJP|1217424}}|ref={{sfnref|岩本|1941}}}}
*{{Cite journal|和書|author=岡不崩||title=入谷の朝顔|year=1931|publisher=小田原書房|journal=今昔|volume=2|issue=7|id={{NDLJP|1477402}}|ref={{sfnref|岡|1931}}}}
*{{Citation |和書|editor=環境文化研究所|year=1986|title=緑の都市文化としての入谷朝顔市|publisher=環境文化研究所| id={{全国書誌番号|88016021}}|ref={{sfnref|環境文化研究所|1986}}}}
*{{Cite journal|和書|author=藻紋字|title=入谷の名物凋む |year=1913|publisher=東陽堂|journal=風俗画報|issue=449|id={{NDLJP|1579965}}|ref={{sfnref|藻紋字|1913}}}}
*{{Cite journal|和書|author=長沢利明||title=入谷の朝顔市 ―東京都台東区下谷真源寺―|year=2010|month=12|publisher=西郊民俗談話会|journal=西郊民俗|issue=213| id={{全国書誌番号|00009100}}|ref={{sfnref|長沢|2010}}}}
*{{Cite journal|和書|author=馬淵漁史|title=入谷の朝顏 附 和歌の浦|year=1892|publisher=東陽堂|journal=風俗画報|issue=45|id={{NDLJP|1579473}}|ref={{sfnref|馬淵|1892}}}}
*{{Citation |和書|editor=明治教育社|year=1914 |title=下谷繁昌記 |publisher=明治教育社出版部|id={{NDLJP|953793}}|ref={{sfnref|明治教育社|1914}}}}
*{{Cite book|和書|author=森銑三|year=1969a|title=明治東京逸聞史 1|publisher=平凡社|isbn=9784582801354|ref={{sfnref|森|1969a}}}}
*{{Cite book|和書|author=森銑三|year=1969b|title=明治東京逸聞史 2|publisher=平凡社|isbn=9784582801422|ref={{sfnref|森|1969b}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[若月紫蘭]]|year=1968|title=東京年中行事 2|publisher=平凡社|isbn=9784582801217|ref={{sfnref|若月|1968}}}}
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===団十郎色に関する文献===
*{{Citation|和書|author=大槻如電|contribution=江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談)|year=1978|title=雑誌叢書1 江戸時代文化 第四巻|publisher=ゆまに書房| id={{全国書誌番号|00033792}}|ref={{sfnref|大槻|1978}}}}
*{{Citation|和書|editor=近世文化研究会|year=1995|title=図説 浮世絵に見る色と模様|publisher=河出書房新社|isbn=9784309724973|ref={{sfnref|近世文化研究会|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author=城一夫|year=2017|title=大江戸の色彩|publisher=青幻舎|isbn=9784861525988|ref={{sfnref|城|2017}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[田口章子]]|year=2005|title=二代目市川団十郎 ―役者の氏神―|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=9784623043088|ref={{sfnref|田口|2005}}}}
*{{Citation|和書|editor=日本国語大辞典第二版編集委員会,小学館国語辞典編集部|year=2001|title=日本国語大辞典 第8巻 第2版|publisher=小学館|isbn=4095210087|ref={{sfnref|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001}}}}
*{{Cite book|和書|author=長崎盛輝|year=1996|title=日本の傳統色―その色名と色調―|publisher=京都出版|isbn=9784763615053|ref={{sfnref|長崎|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author=福田邦夫|year=2001|title=色の名前事典|publisher=主婦の友社|isbn=9784072309582|ref={{sfnref|福田|2001}}}}

===その他===
*{{Cite book|和書|editor=[[小島憲之]]・新井栄蔵校注|year=1989|title=古今和歌集|series=新日本古典文学大系|publisher=岩波書店|isbn=9784002400051|ref={{sfnref|小島|新井|1989}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[竹内弘行]]|year=2008 |title=十八史略|series=講談社学術文庫 |publisher=講談社|isbn=9784061598997|ref={{sfnref|竹内|2008}}}}
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2020年11月23日 (月) 17:40時点における版

団十郎朝顔(だんじゅうろうあさがお)は、柿色[1][2][3][4][5][6][7][8](もしくは茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統の色[9])の花を咲かせるアサガオに付けられる品種名である[10]

明治初期、入谷の植木屋成田屋留次郎が、柿色丸咲きの朝顔を自らの屋号より「成田屋」と名付け販売しており、当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「成田屋」と呼ばれた朝顔が「団十郎」と呼ばれるようになった[4]。また市川團十郎が歌舞伎十八番「」に用いる素袍の色が柿色であり、その色と同じ事から名付けられたともされる[7]。他に柿色へ三升の線を取った朝顔が出来て、それを三升の朝顔、または団十郎朝顔と宣伝して人気を博したとする記述もある[1]

朝顔の名所であった入谷で明治時代に売り出されたのが最初である[4]。以降様々な朝顔に「団十郎」という名前がつけられてきた[9]。2020年時点で正式な団十郎朝顔と言われている「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」の品種は、明治時代に売り出された団十郎とは由来を異にする全く別の品種であり、また一般的に、団十郎朝顔が江戸時代に団十郎の茶色として一世を風靡した[11][12][13]もしくは江戸の昔から栽培が盛んに行われていた[14][15]、種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えた[16]。巷では茶色の朝顔を「団十郎」と呼んでいるが、本来は「団十郎」は特定の品種を指している[17][18]。などと言われるが、そのような事実は無い(根拠は#一般に流布する通説についてで述べる)。

歴史

団十郎朝顔誕生以前の朝顔の歴史(江戸時代まで)

朝顔の起源

アサガオ(朝顔 学名:Ipomoea nil) は世界の熱帯、亜熱帯に広く分布している。日本のアサガオの起源はネパールを含む熱帯アジアか、東南アジア地域では無いかと考えられてきたが[19]、ブラジルやアフリカの系統もあり、これらがどういう関係にあるかは不明である[20]。アサガオ研究者の米田芳秋は「新大陸のどこかで生まれた可能性が高い」としている[20]。本稿は種としてのアサガオではなく一園芸品種の「団十郎」についての記事なので、以後基本的には「朝顔」と漢字で表記する。

奈良時代から安土桃山時代

朝顔は奈良時代に中国から日本へ薬草として渡来したと考えられている[21][22][19]。『古今和歌集』に収載されている矢田部名実の歌「ちつけにしとや花の色を見むをくしらつゆの染むるばかりを」[注釈 1][23]が今のところ朝顔渡来の最初の証拠である[24][19]。その頃の朝顔は葉は緑で模様が無い並葉、丸咲の中輪、淡青色の花で種子は黒く、蔓性の単純な物であった[19]。 その後平安時代から鎌倉時代にかけていくつかの絵画資料や文献に朝顔が登場する[24]。その頃までは花色や葉型に変化は無かった[25]。室町時代末か桃山期の作とされる愛知県一宮市の妙興寺の六曲一双の屏風『秋草図』には青色花と白色花が描かれ、白花が観賞されていた事を示している[24]。安土桃山時代までは青と白色花の単純な変化しか無かった。

江戸時代

江戸時代になり、世の中が平和になると各種の花卉園芸が発展していった。1692年(元禄5年)に狩野重賢の描いた『草木写生春秋乃巻』では濃青、赤、青、白色の花が描かれている[26]。次いで形の変化が起こった。『花壇地錦集』(元禄8、1695年)、『草花絵前集』(元禄12、1699年)、『大和本草』(宝永6、1709年)、『和漢三才図会』(正徳2、1712年)は二葉朝顔(ちゃぼ朝顔、小牽牛花)の名前がある。これは木立の変異である。この頃から朝顔の形態的な突然変異が起こり始めてきた[26]。従来、変化朝顔の第一次流行期は文化文政期と言われてきたが[27]、享保8年(1723年)の三村森軒の自筆本『朝顔明鑑鈔』では、文化文政期以降の変化朝顔より変化の程度は低いが、種々の変化朝顔が記録されている。花色は青、白、紫系、紅系が記録されている[28]。団十郎朝顔の色、柿色の記録はまだ無い[29]

文化文政期の流行

変化朝顔の本格的な流行は文化・文政期(1804 - 1830年)に始まったと言われる[30][31]。米田は同時代の様々な文献を挙げ「江戸の変化朝顔の栽培は文化3年(1816年)頃から始まり、大坂に広まったとみてよいだろう」と述べている[30]。江戸や大坂では、花合わせ(品評会)が始まり、大坂では『花壇朝顔通』(文化12、1815年)、『牽牛品類図考』(文化12、1815年)、『牽牛品』(文化14、1817年)、江戸では『あさかほ叢』(文化14、1817年)、『丁丑朝顔譜』(文化15、1818年)、『朝顔水鏡』(文政元、1818年)など朝顔専門の図譜が多数刊行されるようになった[30][31][32]。この頃の変異としては、花色は赤系統と青系統は濃色から淡色まであり、茶系統や灰色系の花も現れ、また絞りや絣りの花も出現していた[33][34]。『あさかほ叢』ではさらに、柿色[35]、薄黄[36]、極黄[37][38]、黄絞り[39]の花が見られる[40]。葉色では、斑入り葉、黄葉、葉型では丸葉、芋葉、鍬形葉が現れた[34]。葉と花に関連した変異では、渦、立田、笹、柳、南天、乱獅子、獅子、桐性など、花形では縮咲、石畳咲、竜胆咲、台咲、孔雀咲、八重咲きなど、他に茎の石化、種子も斑入り葉の褐色黒筋入りと茶色種子が出現した[41]。この頃に団十郎朝顔の特長である柿色の変異が生まれた。

嘉永安政期の流行

文化・文政期における変化朝顔の流行は文政初期より次第に衰微していった[42]。天保9年(1838年)刊行の『東都歳事記』には「多くは異様のものにして愛玩するに足らず、されば四五年の間にして、文政の始めより絶えしもむべなり」とある[43][44][45]。朝顔への熱は冷め、多くの園芸愛好家の関心は子万年青や松葉蘭に移っていった[46][47]。もしくは文政の末から天保にかけて江戸の火災、飢饉や大塩平八郎の乱、天保の改革による倹約令なども重なり朝顔の流行は下火になったとする文献もある[42][48][49]。岡はその間も愛好家は表面を憚りながら栽培を継続していたのではないかとしている[50]。嘉永・安政期(1848 - 1860年)になると再び変化朝顔のブームが再来した。この時代に出現した変異としては、洲浜、乱菊、燕、手長牡丹、茎別牡丹などがある[51][52]。また八重咲や牡丹咲と各種の変異が組み合わされ、獅子牡丹、台咲牡丹、車咲牡丹、蓮花咲牡丹、采咲牡丹など複雑な変異が生まれた[51][52]。この時代の流行の中心人物として、武家代表としては旗本であった鍋島直孝、町人代表としては植木屋の成田屋留次郎がいた[53][54][55][56]。鍋島直孝は石高5000石の大身の旗本で、北町奉行、大番頭などを務めた。杏葉館と号し、江戸飯田町もちの木坂に邸宅を構えていた[55]。趣味家としてパトロン的存在であり[55]、朝顔図譜『朝かほ三十六花選』の刊行を助け、自らも変化朝顔や撫子の奇品の育成を楽しんだ[46]。成田屋留次郎は本名を山崎留次郎と言い[57][58][59][60]、江戸入谷の植木屋であった[54][55]。彼は『三都一朝』(嘉永7、1854年)『両地秋』(安政2、1855年)、『都鄙秋興』(安政4、1857年)を刊行し[61][55]、また花合わせ会を通じて江戸の変化朝顔の発展に活躍した[55]。この成田屋留次郎が明治時代に「団十郎」と名付けられた朝顔を入谷で売り出した。

明治時代

団十郎朝顔の誕生

明治維新後の社会的混乱のため、朝顔栽培をはじめとする園芸全般は衰退した[62][63][64]。社会の混乱が落ち着いた明治12、3年頃から入谷が再び朝顔の名所となり、そこで団十郎朝顔が生まれ一世を風靡した[4][65][9]。日本画家でありまた本草学の研究家であった岡不崩[注釈 2]は以下のように記している。

抑も、明治の初年は、百事未だ混沌の中にありて、泰西文化は時々刻々に歷史的風習を破壊し去らんとし上下共に其歸著する處に惑ひ、各般の制度未だ容易に確立せず、然れども幾多の事變と、困難と、經驗とによりて、次第に秩序的に萬事に基礎を按排することを得たり。
如此くして明治十二三年の交に至りて、制度文物の施設略その體を備ふるに至り、人心融和して市民其居に安んじ園藝を弄ぶの餘暇を得るに至り、入谷は再び都下の一名所となり成田屋、丸新、栞齊、其他の花戸嬋娟を競へり。都民は年中行事の一として必ず此入谷にを見ることヽとせるが如し。然りと雖も其花たるや普通平凡なるもののみにして、成田屋と稱する柿の丸咲最も名高りき。そは入谷の留次郞が専賣なるを、其屋號の成田屋なると、其當時劇壇の明星なりし團十郞の三升の紋の柿色に染出されしとに依つて、留次郎の屋號の成田屋を名とせる花は、又、團十郞と呼ばるヽに至れり。而して當時はあながちに大輪を稱するにてもなく、只一鉢に數多く咲かせたるを嗜むの風ありき。架を大にして繁茂せしめたるを入谷作りと云ふ。如此一般は其嗜好幼稚なりしと雖も、文化文政より繼續せる成田屋留次郎は猶雨龍葉の類を奥座敷に飾り、三都一朝、都鄙秋興を繙ときて、好事者に説明するあれば、高須栞齊は又、昔しの印籠作に妙を得て、留次郎と雌雄を爭へり。成田屋没して茶來出でて、入谷の重鎭となる。 — 岡不崩、明治昭代の牽牛子[4]

当時、成田屋留次郎が専売していた「成田屋」という柿色丸咲きの朝顔が最も名高かった。自らの屋号を冠した「成田屋」が当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「団十郎」と呼ばれるようになった。この成田屋留次郎がどういう人物か、当時東京名物であった入谷の朝顔がどのような物であったかは#成田屋留次郎と入谷の朝顔で述べる。

文献に現れる団十郎朝顔

以上の岡による記述は大正元年(1912年)のものである。確認できる団十郎朝顔に関する最も古い記述は明治24年(1891年)東京朝日新聞の記事である[7][67][注釈 3]。入谷での団十郎朝顔の様子が「朝顔大名」という題で、狂言風に大名と太郎冠者の問答として書いた記事が掲載されている。

大名「なか〱此虑こヽぢやさてたぞおびただしいひとぢやヤアーさいたぞさてもさても美事みごとさいことぞアノあかしろとのあひだにある一鉢ひとはちめづらしいはなぢやなんと申すぞ 「これでござりまするかこれだんらうと申して近年きんねん此花このはなつくつたと申すことでことでござります 大名「シテ何故なにゆゑだんらうと申すのでおりやるぞ 「これハ此色このいろぞく柿色かきいろと申しだんらうが十八ばんいへげいしばらくの素袍すはういろおないろぢやによつてだんらうなづけたとえまする — 朝顔大名[7]

この記事では市川團十郎が歌舞伎十八番「」に用いる素袍の色が柿色であり、その色と同じ事から名付けられたとしている。明治27年(1894年)8月に発行された『朝顔銘鑑』(東京・百草園丸新 鈴木新次郎発行)には「常葉極大輪咲之部」内に「斑入葉極濃キ柿覆輪、一名團十郞」と記されている[5][70]。また、明治33年(1900年)12月10日に発行された『朝顏畫報』第7号(宇治朝顏園発行)の「花名録」には丸咲きの部として「成田屋 黄州浜葉渋茶白覆輪大輪」と記されている[3][9]

他にも明治時代の団十郎朝顔について、いつくかの文献に記述がある。#団十郎朝顔の誕生の項に引用した岡の記述にもある入谷の重鎮であった横山茶來[注釈 4]の息子、横山五郎が語った明治時代の入谷の朝顔についての思い出話を岩本熊吉が『実用花卉新品種の作り方』の中で記している。

またの頃の大輪物たいりんものは、ことごと鍬形葉くわがたはであつて、蟬葉せみはや、千鳥葉ちどりははなく、せいぜい四寸位すんくらゐであつて、もつとれたのは亂菊咲らんぎくざきと云つて三ずん分位ぶぐらゐであつた。また一柿色かきいろ大層たいそうこのみ、これだんらうといつてゐた。 — 岩本熊吉、実用花卉新品種の作り方[2]

演劇評論家の伊坂梅雪が、以下のように記している。

どこの植木屋であつたか、柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來たので(是れは自然に出來たの歟)夫れを三升の朝顏だとか、團十郞朝顏だと宣傳したので珍らし好きの江戸ツ兒は我勝ちに見物に出掛けたので、遂ひに九代目團十郞も見物に出掛けたと云ふ事が當時の新聞に出た事がある。 — 伊坂梅雪、見たり聞いたり[1]

また、アメリカのジャーナリスト、エリザ・シドモアが「The Wonderful Morning-Glories of Japan(素晴らしい日本の朝顔)」という記事を『The Century Magazine』に寄稿しており、その中で団十郎色の朝顔について触れている[72]

The whole family of dull grayish pink, or old , known as shibu (persimmon-juice) or kake〔ママ〕 (persimmon) color, are lately classed as Danjiro〔ママ〕 colors, from the shibu-colored robe worn by that great actor in a favorite role.
(訳)渋色柿渋色)または柿色として知られている、くすんだ灰色がかったピンク、またはオールドローズ[注釈 5]の品種はすべて、かの大役者が得意演目で渋色の衣装を着ていた事から、最近団十郎色と分類されるようになった。 — Eliza Ruhamah Scidmore、The Wonderful Morning-Glories of Japan[73]

俳人の正岡子規は明治25年(1892年)に入谷の近所である下谷区上根岸八十八番地に転居[74]、明治27年(1894年)に同八十二番地に移り[75][注釈 6]、以後没するまでここに住んだ(「子規庵」と呼ばれた)。子規のもとには赤木格堂五百木良三石井露月河東碧梧桐高浜虚子坂本四方太寒川鼠骨内藤鳴雪松瀬青々らが集い、「日本派」と呼ばれた[77]

子規は当時の入谷の朝顔についていくつか句を残している。

  • 蕣の入谷豆腐の根岸哉 (明治26年)[78]
  • 朝顏や入谷あたりの只の家 (明治27年)[79]
  • 入谷から出る朝顏の車哉 (明治31年)[80]

団十郎朝顔について正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子が句に残している。

子規

  • 朝霧や團十郞の二三輪 (明治30年)[81][82]
  • 朝顏や團十郞の名を憎む (明治31年)[83]
  • 咲て見れば團十郞でなかりけり (明治32年)[84]

碧梧桐

  • 團十郞朝顏の名にいかめしき (明治31年)[85][86]

虚子

  • 團十郞朝顏の名に殘りけり(明治41年)[87]

明治30年(1897年)、子規の郷里松山で柳原極堂により俳句雑誌『ほとゝぎす』が創刊された。明治31年(1898年)には子規が東京に移して主宰し高浜虚子が発行人となった[88][77]。明治34年(1901年)誌名を『ホトトギス』に変更した[89]。『ホトトギス』で活動していた俳人の村上鬼城渡邊水巴も団十郎朝顔についての記述を残している。

私は朝顏を栽培つくり初めて廿年にもなる、其間、シヤツ一枚で、炎熱と戰て、船頭見たいになつちまツた。 最初は、團十郞だの、浴後の美人だのツて朝顏やつ栽培つくつた、ラツパ咲の、釣瓶を取る性質たちのだ、其の時分は朝顏の趣味は、野趣に在るものとばかり思つてゐたから、從て一重咲の瀟洒あつさりしたものを愛した。 — 村上鬼城、第二年目[90][91]
‥‥來てみると、すでに、折目の正しい紅梅織を着て腰に扇子を差してゐる商家の御隱居らしいのと、吉原なかの藝者に半玉おしやくを連れた中年の株屋さんらしいのとが、たくさんな鉢の一樣にずらりと咲き澄んでゐる朝顏を見てゐた。まだ夜が明けたばかりなのである。

その花の、柿色のを團十郞と云ふ。それなら藍は菊五郞と稱びたい。すると紺が左團治、白が權十郎、赤が福助、絞りが源之助か‥‥。

ぐるりを葭簀で圍つてあるなかにも短夜の名殘の薄霞が微かながら動いてゐて、冷や〱した大氣のながれが顏に觸れる。 — 渡邊水巴、夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―[8]


団十郎朝顔の終焉

九代目市川團十郎の名声と共に一世を風靡した団十郎朝顔であるが、九代目市川團十郎の死(明治36、1903年)と宅地化(都市化)による入谷の朝顔の衰退と消滅(大正2、1913年に「植松」が廃業し途絶えた[92][93])に伴い、団十郎朝顔は廃れ、次第に人々から忘れ去られていった[6][94][95]

はな先年中せんねんちう柿色かきいろ煤色すヽいろごとかはいろよろこばれしも二三ねん以來いらい普通ふつう瑠理るりまた本紅ほんべに大輪たいりんこのひとおほ — 入谷の牽牛花[96]
二十年前――まだ九代目の存生中、團十郞と云ふ花が出て一時人々に翫賞されたが、九代目の歿後と共に廢されて、さらに「聯隊旗」[注釈 7]と云ふやうな名が出た。 — 有祿生、朝顔の時代趣味[95]
団十郎の名声が一世を風靡するにつれて、その影響はいろいろな方面に現れた。煙草のオールドが勧進帳の弁慶を広告に用ゐたなどもその一例であるが、もつと小さなもので意外に普及したのは朝顔の団十郎である。(中略)団十郎その人は絶えず回顧されてゐながらも、朝顔の方は次第に閑却されてしまつた。団十郎の人気を切り離して見れば、柿色の朝顔などは別に美しい物ではない。 — 柴田宵曲、明治風物誌[6]

明治時代の団十郎朝顔の特徴

以上に挙げた文献に現れる明治時代の団十郎朝顔の特徴に共通するのは、丸咲きで柿色の花である事[1][2][3][4][5][6][7][8]、覆輪である事[1][3][5][注釈 8]である。無地の花であったとする文献は無い。朝顔研究家の渡辺好孝は「現在、朝顔愛好家が栽培している『団十郎』とは異なっているが、もしかすると茶系統で覆輪の花が『団十郎』なのかもしれない。」と述べている[9]。葉は「斑入黄葉」[98]「常葉斑入葉」[5]「黄州浜葉」[3]と様々である。渡辺は「葉形も、常葉、千鳥葉、州浜葉、恵比寿葉であろうと、また、今日の蝉葉でも、花色が似ているなら、葉型に関係なく『団十郎』と命名してもとくに問題ではなかった。」と述べている[9]。シドモアは渋色や柿色の朝顔はすべて団十郎色と分類されるようになったとしている[73]。このように特定の一品種だけを「団十郎」と呼んでいたわけでは無かった。団十郎朝顔の出現時期に付いては明治12、13(1879、1880)年頃とするのが最も早く[4]、明治20年代頃とする物もある[7][95]。確認できる同時代の資料として最も古いのは明治24年(1891年)[7]の物であるから、この頃までに団十郎朝顔が出現していたことになる。また通説で言われるように、「団十郎」という名称が二代目市川團十郎にちなんで名付けられた[99][100]とする文献は無く、九代目市川團十郎にちなんで名付けられた、また一世を風靡したとする文献が多い[1][4][6][95]。なぜ通説で二代目市川團十郎にちなんだとされるのかは#一般に流布する通説についてで解説する。

成田屋留次郎と入谷の朝顔

成田屋留次郎

明治22年(1889年)に書かれた杉田逢川野夫による『成田屋のこと』と題する見聞記がほぼ唯一の同時代の文献である[101]。この項ではこの文献を中心に解説していく。

成田屋留次郎の本名は山崎留次郎と言い、成田屋は屋号である。入谷で弘化期から明治時代まで植木屋を営んでいた[57][58][59][60]。留次郎は文化8年(1811年)浅草の造園家の次男として生まれた[58][59][60]。弘化4年(1847年)、37歳で入谷に別に一家を構え、朝顔栽培を始めた。留次郎は丸新の主人とともに入谷での朝顔栽培の始祖であった[69][58][59][102]

留次郎の名が初めて現れるのは嘉永2年(1849年)榧寺で花友追悼のために行われた「朝花園ちょうかえん追善ついぜん朝顔あさがお華合はなあわせ」の番付である。植木屋留次郎と三五郎が世話人となっている[58][103]。嘉永4年(1851年)7月10日、亀戸天神で開かれた花合わせ、翌日に開かれた小村井の江藤梅宅で開かれた小規模な花合わせでも世話人を務めている。江藤梅宅で開かれた花合わせでは、後に活躍する横山萬花園(横山茶來)らの仲間も加わった。安政3年(1856年)7月18日には、留次郎が催主で坂本入谷の蓬深亭で花合わせがあり、鍋島杏葉館(鍋島直孝)、大坂から山内穐叢園が出品した。江戸期最後の「朝顔花合」の番付は文久3年(1863年)6月27日のもので、成田屋が催主、英信寺で開催され、植木屋30名、そのうち20名が入谷の植木屋であった[104]

留次郎は自らを「朝顔師」と名乗り朝顔図譜『三都一朝(さんといっちょう)』、『両地秋(りょうちしゅう)』、『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』を刊行している[61][55]。『三都一朝』は嘉永7年(1854年)7月に刊行された。上巻の品類32図、中巻34図、下巻34図、計100図が収められている[65]。「三都」とは江戸・大坂・京都を指している。絵図を描いた田崎草雲谷文晁らに師事した南画家である[61]。なぜ田崎草雲が描いたかを、若い頃留次郎に会った事があるという[105]岡不崩が以下のように記している。「成田屋は將基が好きで、草雲は好敵手であつた。留次郎が奥の小座敷に、變り物の珍品を陳列して、將基盤を前にして、見物人をながめて『お前さん達に此の朝顏はかるものか、といつた風に控えてゐたものである。草雲とは至つて心安なので、將基の敵手であると共に、朝顏は留次郎の門下であつたらしい、なか〱朝顏は悉しかつたそうである。將基で一ツ花を持たして『草雲先生どをです、此葉にこの花を咲しては、此花は面白いから此枝に咲して下さい、といつた銚子もあつたらしい。出來上つた三都一朝は、卽ちそをいつた樣な點も伺はれるやうである[106]。」『両地秋』は安政2年(1855年)の刊行、「両地」とは江戸・大坂を指す[61]。『都鄙秋興』は安政4年(1857年)刊行、「都鄙」とは「都(みやこ)」と「鄙(いなか)」、江戸と近郊都市を指す。題名の変遷で分かるように変化朝顔の流行は大都市から周辺都市に広がっていた[61]。幸良弼選、野村文紹画。三書とも選者は幸良弼である[65]、幸良弼とは南町奉行の跡部能登守である[107]。『緑の都市文化としての入谷朝顔市』によれば、『都鄙秋興』は『三都一朝』の図を再利用したり、同じ図でも培養家の名を改めていることが多いとしている[65]。岡はこの三書を刊行した留次郎の功績について以下のように述べている。「彼の著書に就いては、今日ではいろ〱と論議すべき點も多くあるとはいへど、維新後一時中絶した斯界を再興する時代にありては、是等の著書を標準とし硏究栽培したものであつた、つまりお手本として、又珍奇の出物でものの目標として、遂に今日のやうな珍品や、理想花を得るに至つたので、その點は大いに預つて功ありといつべきである[57]。」

『成田屋のこと』には入谷で朝顔栽培を始めた頃の以下のようなエピソードが記されている。当時、朝顔栽培者が多くなっていたが大坂あたりのような奇品はなく[注釈 9]、普通の品種ばかりであった[注釈 10]。同好の者たちがこれを嘆き、各々から集金して大坂に行き良種を得ようと計画した。留次郎はこれを了承し、翌年有志より金を集め大坂に向かった。しかしどこに良種があるか分からず、留次郎は奔走してある培養家を見つけ、1種につき種子を2粒ずつ、70 - 80種を50両で購入し、集金した者に頒布した。しかし皆普通の品種であったので、一同は失望し留次郎は面目がないので再び大坂に行き、あまねく培養者を探した。そしてある家ですこぶる佳品が多いのを認め、その家の種をことごとく買い取ろうとしたが、60両という大金を示された。交渉の末30両で買い取る事でまとまり、良品か否かの差別なくその家の種をことごとく持ち帰り、それを集金した者に頒布した。それがこの地の名人が名を博し朝顔愛好者の増える始まりとなった。持ち帰った種子からは7、8割は各種の奇品が出た。それから毎年季節を見計らい大坂に行き、そこで自分の品種と交換をし、奇品を出すことに熱が入る事8年に至った。そして今(明治22年当時)に至り各地方より尋ね来たり、もしくは手紙で買入れをする人が絶えなくなったという[59]

変化朝顔の流行は明治維新の混乱によって途絶えた[注釈 11]。明治以降の入谷では変化朝顔はほとんど作られず、普通の丸咲きの朝顔が主流となった[2][4]。明治12 - 13年(1879 - 1889年)頃から入谷は再び朝顔の名所となり、その当時留次郎が専売していた自らの屋号「成田屋」を名に冠した朝顔が最も名高かった。「成田屋」は当時劇壇の明星であった九代目市川團十郎の三升の紋が柿色に染め出されている事により「団十郎」と呼ばれるようになった。この「団十郎」は変化朝顔ではなく、普通の丸咲きであった[4]。入谷では変化朝顔の栽培はほとんどおこなわれなくなっていたが、留次郎だけは変化朝顔の栽培を継続していた[2][4]。『成田屋のこと』には以下のような記述がある(口語訳して引用する)[注釈 12]。「その後維新に際して世と共に変遷し絶えて愛玩する者も無くなる運命となったが、漸次また復古して年々愛玩する者も増したとはいえ、往年とは大いに趣味を異にし、薩摩性と称する大輪が流行している。これは皆普通の丸咲きである。同時に本年(明治22年)はいくらか変化朝顔の愛好者が現れ、鑑賞または買い取る者が集まってきた。これは近来まれに見る事であり、留次郎は私(著者)にこう告げた『今年はこれまで絶えたとされていたものも発生した。しかしこれを見る者は少ないと思っていたが、図らずも近頃にない見物人が出た。だから草木は無性のようだがそうではない。既に人の気勢を感じているのではないだろうか。』と語った。儒者風に言えば『昔、宗の邵雍がホトトギスの声を聞いて、『禽鳥飛類は氣の先を得る者なり(飛鳥の類は、地気の動きを真っ先に予知する物だ)』と嘆息した[注釈 13]』(とでもなろうか)。唐人と日本人、鳥と花、末世と文明の世においての違いはあるが、等しくこれ天人感応の理とでもいうべきだろうか[112]。」

留次郎は明治24年(1891年)に81歳で死去した[113][103]。没後2、3年は「成田屋」の屋号で朝顔の陳列がされていたが、いつしか廃業して行方も分からなくなった[57]

入谷の朝顔

入谷の朝顔の源流は文化の大火後、空き地が広がっていた下谷御徒町辺りに植木屋が進出し、「朝顔屋敷」と称して種々の変化朝顔を見物させた事とされる[114][115][116]。『江戸遊覧花暦』には

牽牛花あさかほ 下谷御徒町邊 朝顏は往古より珍賞するといへとも、異花奇葉の出來たりしは、文化丙寅の災後に、下谷邊空地の多くありけるに、植木屋朝顏を作りて、種々異様の花を咲せたり、おひ〱ひろまり、文政のはじめの頃は、下谷、淺草、深川邊、所々にても専らつくり、朝顏屋敷などなづけて、見物群衆せし也。 — 岡山鳥、江戸遊覧花暦[117]

という記述がある。これは前述した文化文政期の流行期と重なる。岡の『入谷の朝顔』に引用されている爲永春水の年中行事 朝顏屋敷には、

諸所にありしが今はなし、自然の花は向じまの田家垣根に多し、また緣日の植木うりが持いだすことおびたヾしき事なり、文政二三年の頃は、朝顏大そう流行せしが、此頃はすたりし樣なり。 — 爲永春水、年中行事[118]

これは天保6年(1835年)の記録であるが[119]、その頃には朝顔屋敷などと称して見物人が群集していたという流行は廃れたいた。 再び朝顔が流行するのは嘉永・安政期(1848 - 1860年)である。朝顔作りの中心は下谷から入谷に移っていった[120][116]。その頃の入谷は入谷田圃と称した田園地帯であった[121]。博物学者の伊藤圭介が編纂した資料集『植物図説雑纂 第180巻』に、入谷の植木屋であった「丸新」主人への取材記事の新聞切り抜きが収載されている(『毎日新聞』明治29年(1896年)6月24日、25日の記事)[69]

マアこの入谷いりや草別くさわけふなァ五十ねんほどまへことわたくしどもと成田屋なりたや留次郎とめじろううちけんでしたがそれいまでハ三十四五けんござりますれにわたくし親父おやぢ當年ことし七十三になりますが三十ねんほどまへ其頃そのころのお大名だいめうさま薩摩さつまさま鍋島なべしまさま其外そのほか旗本はたもとなんぞで種々しゅ〲もとめになつてドン〱お培養したてになつたので一随分ずいぶんさかりましたが其後そのごすこしのあひだ中絶ちうぜついたして――イヽエ培養したて仕立したてましたが流行はやらなかつたので――明治めいぢ十七八ねんごろからまた大層たいそう流行はやしました — 名人巡り[69]

この記事の50年前は弘化3年(1846年)となるが、成田屋留次郎の見聞記にも成田屋が「弘化四年に入谷に別戸を開き以て牽牛花を培ふ」と言う記述があり時期が一致する[59]。この頃から成田屋や丸新は入谷で朝顔栽培を行っていた。『風俗画報』第45号には以下のような記述がある。

丸新ハ百草園と稱し此地槖駝師うゑきや中の巨臂おやかたなりそもこの入谷ハ土性つちしやう總ての草花にてきし昔より草花の名地なりしが文政の頃となん此家の老翁十六七歳の時よりして千紫万紅の草花中にはなは蕣花あさかほを愛しけれバ同好の友成田屋の某と興に共に〔ママ錬磨れんましてこれか培養バいように力をつくし數年の經驗けいけんみ大に發明する所あり漸やく世上の愛顧ひいきはくせしよりやこれかひとみならふ東隣西家相きそふて培養したりけれバ遂に朝顔の一大名所とハなりしなり舊幕時代にハ大名旗本の家々にてさかんに之を培養し其中にも嶋津家などにてハ三万はちも仕立てしとなん之に次く鍋島家なとハ多くの異花珍を出し朝顏會をもやうして互に誇負じまんされしといひ當時丸新の老人か手に造立つくりたてたる名種奇品ハ一はち十五六両のものありけるとこれ今の百圓以上にあたるなるべし以て花客其人、逸品其花共に高貴なりし一斑いつぱんを知るにたらんそれより明治革新前後の六七年間ハ兵馬の餘ふんあつせられ痛く凋衰てうすゐせる姿におちいりしが復又十七八年前以還このかた受賞の機運興り隨て槖駝師うゑきやの經驗發明共に大に進歩をなし斯道の遠く昔日のするの勢とハなれりけり然と雖今の華族ハ昔の大名の如くならす愛顧花客ハ往時の貴人豪族にあらされハ如何せん受賞年一年に倍殖バいしょくにも抅らず今ハ絶品妙種なる物も僅に一盆一圓の上に出でず價値あたひハそれしかるも丸新一園にてさへ一季に一万餘鉢を販鬻うりひさぐと云又盛んなりと謂ふべし — 馬淵漁史、入谷の朝顏 附 和歌の浦[102]

入谷の土はすべての草花の栽培に適しており、丸新主人は成田屋留次郎と共に朝顔栽培に力を尽くし、それに倣って他の植木屋も栽培を行うようになって入谷は朝顔の一大名所となったとしている。当時の顧客は大名旗本が多く名種奇品は一鉢15、6両で売れるものもあった。その頃の入谷の朝顔を描いた錦絵に喜斎立祥が描いた『三十六花撰 東都入谷朝顔』がある(国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能)[122]

その後明治維新の混乱により朝顔栽培を含め園芸全般が衰退した[62][63][64]。その頃の入谷の朝顔について藻紋字が以下のように記している。

三百ねん泰平たいへい興亡こうばう隆替りうたい歴史れきし砲煙はうえん彈雨だんう修羅しゆらちまたげんじ、幾程いくほどもなく王制わうせい維新ゐしんとなりし明治めいぢねんなつはじめより、けて三ねんはるすゑには、此地このちかずある寺院じゐんうちなにがしの住職ぢうしよく、くれがしの住持ぢうじが、數寄すきまかして一たびすたれかヽりしはな培養ばいやうこヽろみ、はじめはあかつきかけてあからひくくものまだれぬころより、ほこいろのさま〲をでたりしをかふつたおつりて、のちには懇望こんもうきやく門戸もんこ滿ち、風流ふうりう韻事いんじにはみち遠近ゑんきんわで、三々伍々ごヾむらがきたり、日頃ひごろたしなみを稱賛しようさんするもあればあるゐ用意ようい行届ゆきとヾけるに感嘆かんたんしつ、ときならぬ淸興せいきょう入谷いりや朝嵐てうらんびて、おもひがけぬ娯樂ごらく瑠璃るり紺碧こんぺき月旦げつたんのぼせしはおなじく七、八、九年頃ねんごろもつとさかんに見受みうけられたりとなん。
かくりければ土地とち植木師うゑきしうちかねてしもれが栽培さいばいちからつくせしもすくなからぬこととて、さらには一そうすゝみて朝顏あさがほ入谷いりや名物めいぶつかぞて、はなのさま〲のさま〲 ちんなるなることなりたる夫等それらみやこ人々ひと〲ながめさせんは如何いかにとのまとまり、はじめて縱覽じうらんさすることとせしはおなじく十ねんなつなりしが、ひとも知るはなうるはしきいろづるには、單衣ひとへたもとかぜはらみて、涼氣れうき颯々さつ〱肌膚はだへあらひ、けゆくそら東雲しのヽめに、朝霧あさぎりわたころなれば、したがつて一ほかきやく足取あしどり如何いかにと氣遣きづかはれしに、おもひきやつねにはゆめむさぼわか人々ひと〲ひたるはさらなりをとこをんないづれをはで來觀らいくわん人士じんしひきらず、けのとし翌年よくとしも、かずいやうへかさなりて十五、六、七ねんころには、朝顏あさがほ名聲めいせい入谷いりやあつしていうはなごよみの一かく — 藻紋字、入谷の名物史凋む[123]

明治2年(1869年)頃から、某寺院の住職が一度廃れかかってしまった朝顔栽培を試み、見物者が群がった、それが盛んだったのは明治7 - 9年(1874 - 1876年)ごろであった。入谷の植木屋たちは朝顔を入谷の名物として都の人々に眺めさせようと議論がまとまり、初めて縦覧させたのは明治10年(1877年)の事であり、明治15 - 17年(1882 - 1884年)頃には朝顔の名物として定着したとしている[124]。他にも明治期の入谷の朝顔について、#文献に現れる団十郎朝顔でも引用した入谷の重鎮であった横山茶來の息子、横山五郎が語った思い出話を岩本熊吉が書き留めたものがある。

ころ入谷いりやは、坂本村さかもとむらあざ入谷いりややくぐらゐであつて、此處ここに二十ぐらゐ草花くさばなつくつて、半分はんぶん農家のうか半分はんぶん植木屋うゑきやをやつてゐたもので、ころ朝顏あさがほは、六すんぐらゐ小鉢こばちにして、只今ただいまごとめて木造きづくりにせず、一しやくぐらゐ鳥居とりゐにして、これにからませて、毎朝まいあさ市中しちうに賣りに出たもので、陳列ちんれつぶんは、おも桐性きりしやう[注釈 14]のからのものを染附そめつけ瀨戸鉢せとばちゑたのである。何故なにゆゑ牡丹ぼたん[注釈 15]を作らずして、から桐性きりしやうつくつたといふに、これなへのうちにわかり、たのしみがあつたからで、大輪だいりんは、四しゆしかなく、いづれも常葉つねはで、べに覆輪ふくりんこん覆輪ふくりん淺黄あさぎ刷毛目はけめしろむらさき堅縞たてじまの四しゆで、三ずんぐらゐのものである。これはさつませいといつてゐたが、薩摩さつまからたものではなく、島津家しまづけで作つたものが、はなおほきくくからさつまといつたものだ。これとても澤山たくさんつくらず、一けんで百はちくらゐのものであつた。これ陳列ちんれつにしてゐたが、段々だん〲見物けんぶつすくなく、丸新まるしん成田屋なりたやおよわたし横山氏よこやまし)の三だけになつた。明治めいぢ十七ねんごろになつて、入十いりじふといふのが黄色きいろ朝顏あさがほつくつた。これは成田屋なりたや上州じやうしうからつてたもので、成田屋なりたやでは、べつめなかつたのを、入十いじりふ主人しゆじんつてたのが、とし新聞しんぶんた。それでいくらか見物人けんぶつにんゑてて、陳列ちんれつするいへ增加ぞうかし、十三四陳列ちんれつするやうになつた。これは明治めいぢ二十七、八ねんごろであつた。それより追々おひ〱盛大せいだいとなり、一ばんさかりといふのは、三十ねんから日露戰爭にちろせんさうころであつて、一は、あさ車止くるまどめまでするやうになつた。朝顏人形あさがほにんぎやうごと殺風景さつぷうけいのものもころ出來できたのである。これ普通ふつう朝顏あさがほで、かはものは、維新後ゐしんごつくらなくなり、えてしまつた。ころ成田屋なりたやだけはかはものつてゐた。わたし近所きんじよつたから、どうしてたねるかをてゐたが、やはり番號ばんがう帳面ちやうめんしるして、何番なんばんから、何番なんばんるといふやりかたであつたが、段々だん〲牡丹ぼたんないやうになつたから、私共わたしどもは、帳面ちやうめんなどを作らず、牡丹ぼたん澤山たくさんたものから、親木おやきらなくてはならんとかんがへたが、入谷いりや段々だんだん都會地とくわいちとなり、居所きよしよてんじ、またるものも花屋はなやめ四十五ねんごろから益々ます〱つて、大正たいしやう二三ねんごろには全部ぜんぶなくなつた。またの頃の大輪物たいりんものは、ことごと鍬形葉くわがたはであつて、蟬葉せみはや、千鳥葉ちどりははなく、せいぜい四寸位すんくらゐであつて、もつとれたのは亂菊咲らんぎくざき[注釈 16]と云つて三ずん分位ぶぐらゐであつた。また一柿色かきいろ大層たいそうこのみ、これだんらうといつてゐた。 — 岩本熊吉、実用花卉新品種の作り方[2]

明治期の入谷の朝顔に関する確認できる最古の記述は『讀賣新聞』明治11年(1878年)8月2日の広告である。

昨今朝顏花盛り相成候に付本月十一日迄飾付入御覽候間不相替御來車希候 入谷 植忠 植龜 植總 丸新 新田屋[130]

明治13年(1880年)の広告には「植忠」「成田屋」「入又」「丸新」「いり十」「新田屋」「植長」の名が見える[131]。岩本の記述にあるようにその後一時見物人が減り[2]明治17年(1884年)の広告では「丸新」「横山」「成田屋」の三戸だけになっている[132]。再び見物人が増えるきっかけになった黄色い朝顔の記事が明治17年(1884年)7月22日の『讀賣新聞』に掲載されている[133]。明治期における入谷の朝顔の全盛期は『下谷繁昌記』では明治24年(1891年) - 明治25年(1892年)としている[134]。岩本は明治30年(1897年)から日清戦争(明治37年、1904年 - 明治38年、1905年)頃であるとする[2]。明治36年(1903年)には植木屋11軒で大中の鉢が2万鉢あまり、小鉢は3万鉢を販売した[135]。いずれにせよ全盛期は往来止めをするような混雑ぶりであった[134][2]。末期には旗や幟を立てお祭りのようであり、団子坂の菊人形をまねて朝顔人形を作るなど興業化していった[1][118]。 入谷の朝顔は、一般に朝顔の栽培が広まった事、ダリアなど西洋の草花が広まった事で、短期間の朝顔ぐらいでは都市化によって騰貴した地代、多数の奉公人や配達人の費用もあり採算が取れなくなっていった[134][136]。植木屋は日暮里、池之端等に移っていき、大正2年(1913年)「植松」が廃業した事で入谷の朝顔は途絶えた[92][134][136]

民俗学者の長沢利明は「明治~大正期の入谷が、朝顔見物でにぎわったのは確かなことであったが、今見るような『市』の形態をなして朝顔が売られるようになったのは、実質的には第二次大戦後のことである」と述べている[137]。明治時代の入谷の朝顔は植木屋ごとに個別に展示されていた[137]。開催期間は2019年時点の入谷朝顔市のように3日間という短い物では無く、7月の盂蘭盆の頃から8月の下旬までの約50日間という長期間開園していた[138][139]。客は未明からやってきて各植木屋の庭を廻って鑑賞した。欲しい品があれば自ら持ち帰るか、もしくは植木屋に配達させる事も出来た[140]。最初は観覧無料だったが[1]、明治31年(1898年)より、混雑防止を目的として規模の大きい植木屋は木戸銭を徴収するようになった[141][142][143][144]

朝顔人形は明治23年(1890年)の新聞記事から確認できる。これは無料ではなく入場料を取っていた[145]。団子坂の名物であった菊人形をまね[146]初代市川左團次九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎など歌舞伎役者の人形を展示していた[147]。團十郎であれば『鏡山』の岩藤、『勧進帳』の弁慶、『鞘当』の伴左衛門、などを展示していた[148][149][150]

大正から戦前

入谷の朝顔は消滅し団十郎朝顔も途絶えたが、渡辺は大正から昭和にかけての朝顔書や会報に「団十郎」という花名が散見されると述べている[9]。 2020年時点で、「団十郎」の名で販売される朝顔は蝉葉の大輪朝顔である事が多い[18]。明治時代に一世を風靡した入谷の団十郎朝顔と、2020年現在販売されている蝉葉の大輪朝顔の「団十郎」は全く系統が異なる物である。蝉葉の大輪朝顔は明治末から大正期に掛けて朝顔愛好家によって作成され、昭和戦前期に人気となり発展した。蝉葉の大輪朝顔には大きく分けて青葉(通常の色の葉)と黄葉(葉緑素が少なく黄緑色の葉)の2つの系統がありそれぞれ青斑入蝉葉(略称:アフセ)と黄蝉葉(キセ)、黄斑入蝉葉(キフセ)と呼ばれる[151][152]。青葉と黄葉の大輪朝顔はそれぞれ由来が異なる。次項からは大輪朝顔と朝顔会の歴史を含めて解説して行く。

蝉葉出現以前の大輪朝顔の歴史

入谷の朝顔のように一般大衆が楽しむ朝顔の文化とは別に、朝顔愛好家が愛好会を結成し変化朝顔の花芸や大輪朝顔の花径の大きさを競い合う文化も存在した。大阪では明治17年(1884年)に浪速牽牛社[153][154]、京都では明治19年(1886年)に半日会[153][155]、東京では明治26年(1893年)に穠久会(じょうきゅうかい)[156]、名古屋では明治30年(1897年)に名古屋朝顔会の前身である月曜会[153][155]、熊本では明治32年(1899年)[157]に涼花会が結成された(他にも各地域に朝顔会が結成された)。半日会と涼花会は当初から大輪朝顔が専門であったが、他は変化朝顔が主で大輪朝顔は従だった。大正時代に逆転し大輪朝顔専門の会が多くなった[153]。大輪朝顔の基本変異は洲浜遺伝子である。洲浜遺伝子は曜(維管束のある部分)を増加させる働きがある[152]。大輪朝顔の起源は江戸期に遡ると考えられ、文化14年(1817年)刊行のあさかほ叢には「日傘(ヒガラカサ)」[158]や「葵葉菊咲」[159]など曜が増えている品種の記述がある。しかし確実に州浜といえるものはない[152]。嘉永7年(1854年)刊の朝顔三十六花撰には「掬水洲濱葉照千種花笠フクリン数切獅子牡丹度咲」と洲浜の文字が見える。アサガオ研究者の仁田坂英二は「これは獅子(feathered)であり、獅子の弱い対立遺伝子の持つ獅子葉は洲浜葉によく似ているため本当の洲浜突然変異ではない」と述べている[152]。洲浜の最古の確実な記録とされるのは成田屋留次郎が安政2年(1855年)に刊行した「両地秋」に記載されている鍋島直孝(号は杏葉館)の「黄洲濱葉紅カケ鳩筒ワレクルイシン一筋丁子咲芯」である。狂い咲きとして取り上げられているが、大坂朝顔会の中村長次郎はアサガオ研究者の今井喜孝にこの図を見せ「『まぎれもない洲浜』と認定された」としている[160]。仁田坂は「この時期に存在した洲浜系統が九州の大名に渡りその後も栽培されていたと考えている」と述べている[152]。江戸時代の大輪は常葉から選抜された物であったので大輪とは言っても4寸2、3分(12.7 - 13cm)であり、明治中期に至っても依然として4寸台が主流であった[161]

青斑入蝉葉種の由来

浪速牽牛社を結成した吉田宗兵衛(本名惣兵衛)(号は秋草園)は明治19年(1886年)に旧筑前黒田侯(黒田長溥黒田長知どちらを指すのかは不明)の所望で種子16品を献上した返礼として、黒田家秘蔵の種子10種を拝領した。この中に「間黄洲浜葉柿覆輪四寸三分咲」の品種があり、そこから明治19年(1886年)に「村雲」と命名された「黄洲浜葉黒鳩覆輪四寸八分咲」、また「老獅子」と思われる「黄洲浜葉大和柿覆輪四寸五分咲」が生まれ、さらに翌年の明治20年(1887年)に「村雲」から「常暗」と命名された「黄千鳥葉黒鳩無地五寸咲」、「老松」と命名された「黄千鳥葉唐桑無地」が出現した。当時の5寸(15cm)咲は未曾有の巨大輪で、当初秘蔵種とされたが、明治26年(1893年)やむなく他へ譲渡され「常暗筋」と称され流行した[162]。明治28年(1895年)頃浪速牽牛社に入社、のち大正11年(1922年)に大阪大輪朝顔会を組織し会長になった花井善吉(大蕣園)が常暗筋の老獅子から「紫宸殿(青斑入千鳥葉紫天鵞絨無地)」(6寸2分、18.8cm)(明治38年、1905年)をはじめとする一連の品種を作出した[160][152]。仁田坂は「浪速蕣英会雑誌等を見ると、明治末~大正にかけて既に蝉葉の品種はあったが、千鳥葉(洲浜葉)の紫宸殿の方が花径は大きかったようである。」と述べている[152]。蝉葉は洲浜葉(千鳥葉)と蜻蛉葉(鍬形葉)が掛け合わされた物であるが、鍬形葉の品種でも洲浜に次ぐサイズのものがあった[152]。花井善吉に弟子入りし大輪朝顔の栽培法を会得した塩飽嘉右衛門(嘉蕣園)は大正8年(1919年)自然変化で生まれた「御所桜(青斑入蝉葉桜色無地)」が当時最大輪の6寸7分(20.3cm)に咲き、その子孫を多数栽培し、自然変出から多くの品種を作り出した。この系統は千鳥葉に比べ花切れが少なく巨大輪に咲いたので、関西だけでなく関東でも広く栽培されるようになり[163]。2020年現在栽培されている青斑入蝉葉種の元祖だとされる[152]

黄蝉葉種の由来

青斑入蝉葉種は花径の大きさを競い、主に行灯作りで育てる物であるが、黄蝉葉、黄斑入蝉葉種の品種は花径の大きさよりも色彩や模様の優美さを主眼とし、主に蔓を伸ばさない切り込み作りに用いられる[151][164][165]。 黄蝉葉種は名古屋が発祥である。明治30年(1897年)に名古屋で月曜会が組織された(毎月第二月曜日に会合を開く所からその名がつけられた)。明治35年(1902年)名古屋朝顔会と改称された[155]。この会は当時村瀬亮吉、浅井信太郎、宮島吉太郎[166]の3氏が中心となって運営していた[164]。この3氏は熊本の涼花会にも入会しており[167][164]、村瀬亮吉が涼花会から入手した当時「九州熊本産六曜平咲洲浜葉系縞物」と呼ばれた肥後朝顔(肥後朝顔の由来については次項で述べる)と、並性の最大輪種であった「西施の誉(黄鍬形葉薄紅無地)」を交配し明治40年(1907年)に黄蝉葉群青乱立縞筒白を選出した[167][165][164]。これが黄蝉葉種の原種である。また宮島吉太郎が明治39年(1906年)に自然変化で得た純白花の「銀世界」ももう一つの原種である[165]。他にも明治39年(1906年)陳列会出品花には、黄鍬形千鳥葉紅柿無地や錆柿無地の品種が記載され[注釈 17]、中村は「無地花の原種は『銀世界』一品だけではなかったようである」と述べている[165]。宮島吉太郎は無地物、村瀬亮吉は絞り物作出に力を注ぎ、これらの原種の間で交配が行い、各種の鮮明色彩の無地、覆輪、縞の品種が作られ、明治45年(1912年)に黄蝉葉種の大輪朝顔は完成を見た[169][164]。明治時代には開放的で200人以上いた名古屋朝顔会は大正時代には10数名(もしくは8名[170])となり、種子を門外不出とした[171][172]。大正の中頃[170]、名古屋朝顔会会員で愛知県の技師であった川人兵次郎は京都半日会の創立者広瀬広三郎(一笑園)[155]と菊の同好者として交流していたが、広瀬の秘蔵する菊の実生新花を切望し、門外不出であった名古屋朝顔会の秘蔵種子と交換を条件としたところ承諾した。このため名古屋から京都に流出した。川人は名古屋朝顔会を除名されることとなった[172]。一笑園ではこれに「名古屋種」と名付けて、一種5円という高値で売り出され、全国に広まっていった[173]。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」もその時売り出された[173]

肥後朝顔の由来

黄蝉葉種の澄んだ色彩、縞柄、筒白抜けという長所はすべて肥後朝顔から取り入れられた[165]。肥後朝顔は洲浜変異を持つ一連の品種群である[174]。仁田坂は「起源は恐らく大輪朝顔と同じで、江戸後期に出現した洲浜系統が九州に渡り、熊本で栽培されていたものに由来すると考えられる。」と述べている。[174]。中村は熊本藩第6代藩主細川重賢が宝暦年間(1751年 - 1764年)の創始と伝えられるが、品種が洗練されている点、他の地の発達史から考えて到底信じられないとしている[175]。明和2年(1765年)の「草木うつし」には朝顔6品が写生されているが洲浜はなく全部常葉である[175]。米田は「細川家の家老であった八代市の肥後松井家を訪れ、文化文政期以降に作成されたと思われる朝顔絵巻を調べたことがあるが、多数の変化朝顔の中に洲浜葉を持つ多曜性の花は、残念ながら見つからなかった。」と述べている[176]。村山によれば、代々松代城主であった松井家に伝わった、文化文政期に書かれたとされる「朝顔生写図鑑」[177]に写生された渦川という品種は、青地白斑入洲浜葉の紅色花で肥後朝顔の一品種「司紅」によく似ているとされる[157]。仁田坂は「大輪品種の元になった洲浜品種も黒田(福岡)に由来するように、幕末から明治にかけて九州では洲浜は比較的広まっていたのかもしれない」と述べている[174]。明治32年(1899年)涼花会が結成され、明治35年(1902年)には名古屋朝顔会から多数の入会を見た[178]。これが後に名古屋での黄蝉葉種の誕生につながった。昭和15年には会員180名にも及んだ[174]。第二次大戦後はようやく命脈を保っていたが、昭和28年(1953年)6月の風水害により栽培品の大半が流出し絶滅の危機を迎えた。しかし徳永据子の栽培品15種が残り、絶滅の危機を免れた。昭和35年(1960年)には天皇皇后の天覧に供された。それを長崎で日本遺伝学会に出席中の国立遺伝学研究所の竹中要が新聞報道で知り熊本に立ち寄り、徳永の栽培場を調査、肥後朝顔の生存を中央の朝顔界に報告した[179]。昭和36年(1961年)涼花会は復活し[180]、現在(2020年)まで明治以来の品種と栽培法を守り伝えている。

戦前(昭和期)の大輪朝顔と団十郎朝顔

戦前の昭和期は、大輪朝顔の黄金期であった。全国各地に朝顔会がさらに増え、雑誌『実際園芸』や『農業世界』が増刊号を発行し、その影響で朝顔栽培者が年々増加していった[181]。昭和2年(1927年)の『大輪朝顔栽培秘法』には「花王」の名が見える[182]。黄蝉葉の「団十郎」は花王系の変化で、戦前吉田柳吉が選出、京都半日会の伊藤穣士郎[172]が保存した[183][100]とされるが、戦前の書籍には黄蝉葉の「団十郎」の名が見えない。昭和12年(1937年)発行の雑誌『農業世界』には黄蝉葉の品種「暫」の名前が見える。極めて濃い茶色で「花王」と「古代錦」の交配種から変化したものとしている[184]。「花王」は前にも述べたように「名古屋種」と呼ばれた黄蝉葉桜色深覆輪の品種[185]、「古代錦」は黄蝉葉薄柿花傘覆輪の品種である[182]。この「暫」が後の「団十郎」であったとするならば、黄蝉葉の「団十郎」の記述としては今のところ最も古い物となる。昭和18年(1943年)頃からは戦争の拡大で朝顔の栽培が許されない世相になり、各地の朝顔会は消息を絶っていった[186]

戦後の歴史

戦後、東京の内藤愛次郎は21cmの巨大輪「天津」(桃色無地)を選出し大輪朝顔復興のきっかけになった[187]。京都半日会の伊藤穣士郎は戦前の多数の品種、特に黄蝉葉種を保存していた[188]。中村によればこの中に黄蝉葉の団十郎も含まれてるとされる[183]。名古屋朝顔会が昭和24年(1949年)、東京朝顔研究会が昭和26年(1951年)がいち早く再興され、その後各地の朝顔会が次々と復活していった[187]。戦後長年にわたる泰平に恵まれて大輪朝顔は発展を遂げた。全国の朝顔会も戦前をしのぐ発展を遂げ、新たに発会する地方も多かった[189]東京朝顔研究会は1970年代には1000人弱に及ぶ会員数を誇った[189]。2020年現在はそのようなブームは落ち着いているが、東京朝顔研究会をはじめ各地の朝顔会が活動中であり、黄蝉葉「団十郎」も栽培されている。

戦後の文献に現れる黄蝉葉「団十郎」

#戦前(昭和期)の大輪朝顔と団十郎朝顔で述べたように戦前に「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」の団十郎朝顔が存在した記録は今のところ確認できない。戦後の記録で現在確認できる一番古いものは昭和36年(1961年)発行の中村長次郎の著書『アサガオ 作り方と咲かせ方』内の品種紹介である[183]。「濃栗皮茶筒白。花王系の変化、戦前吉田柳吉氏選出、伊藤氏が保存。現存茶色中最優色の特異な存在であるがやや小輪。三四年半日会で芝原氏の優勝花。」と紹介されている。昭和52年(1977年)の『ガーデンシリーズ アサガオ 作り方と楽しみ方』では、「濃茶無地 日輪抜け 古くから有名な品種。渋みのかかった濃茶厚弁、花切れ少なく、草姿はまとまり作りやすい。つぼみ付きも良好で数咲き・切込みのどちらにも適し、種子付きもよい。花径は約一六cm。」と解説されている[190]。平成18年(2006年)の『色分け花図鑑 朝顔』では「キセ 濃茶無地 日輪抜け 戦前、吉田柳吉氏が『花王』から分離選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。(以下略)」と解説されている[100]。平成24年(2012年)の『朝顔百科』では「黄蝉葉 濃茶無地 日輪抜け。戦前、吉田柳吉が『花王』から分離したものから選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。朝顔の「団十郎」の名は古く、江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい。一般には一番名の知れた朝顔だろう(以下略)」と解説されている[191]

以上のように(中村 1961)[183]の記述を元に(米田 2006)[100]の解説が、またさらにそれを参考に(芦澤 2012)[191]の解説が書かれている。米田や芦澤の解説で追加された「二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した」「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」と言う記述は、黄蝉葉「団十郎」の解説として引用され、正統であるという根拠とされるが[18]、これらの記述は正しくない(根拠は#一般に流布する通説についてで解説する)。

戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔

東京名物であった入谷の朝顔が朝顔市という形で復活したのは昭和23年(1948年)であった。地域発展への期待、また敗戦で打ちひしがれた都民の心を癒やしたいという思いも合わせて企画された[192][193]。当初は3会場で分散開催され、7月中のほぼ1箇月開催されていた。また明治期のように朝顔人形の展示も行われた。当初は人出も少ないさびしい市だったが、関係者の熱意で続けられた。3会場での分散開催では盛り上がりに欠けるとの反省から、会場が統一され真源寺境内に一本化された。その頃から台東区や下谷観光連盟の後援を受けて盛況化していった。1960年代には朝顔の売り上げが3万鉢に達するほどの盛況を見せ、真源寺の境内には収まりきれず裏手の路地にまではみ出していった。この頃には朝顔市の開催期間が7月6日から7月8日の3日間に限定されるようになっていた。その後1970年代から言問通りの方に朝顔屋を振り分けていき、昭和50年(1975年)に言問通りの拡幅が行われ余裕を持って出店が出来るようになったため、真源寺境内や裏手から言問通りに並ぶ形になっていき、ますます盛大に行われるようになった[194]

戦後の入谷朝顔市でいつ頃から「団十郎」が販売されていたかは不明であるが、確認できる最も古い記録は昭和48年(1973年)の読売新聞の記事で、入谷朝顔市での団十郎朝顔の言及がある[195]。昭和53年(1978年)の朝日新聞には団十郎朝顔が人気と伝える記事がある[196]。入谷朝顔市で販売されている団十郎朝顔の特徴を、平成2年(1990年)の読売新聞では「セピア色に白いふちどり」と報じている[197]。青斑入蝉葉で茶色の覆輪花である事はいくつかのウェブサイトで確認できる[198][199]

2000年代以降

国立歴史民俗博物館で平成11年(1999年)より始まった「伝統の朝顔」展[200][注釈 18]や1990年代後半に開設されたアサガオ研究者仁田坂英二の「アサガオホームページ」でアサガオの専門的な情報、また黄蝉葉「団十郎」が紹介されるようになった。

#戦後の文献に現れる黄蝉葉「団十郎」#戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔で述べたように戦後の団十郎朝顔には大きく分けて、愛好家が栽培していた黄蝉葉無地花の「団十郎」と、入谷朝顔市で販売されていた青蝉葉覆輪花の「団十郎」の2つの系統があった。後者はいつ頃からかは不明であるが、「偽物」や「団十郎もどき」と呼ばれるようになっていった[18][202][203][注釈 19]

公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター 江戸川分場では、黄蝉葉「団十郎」を正統「団十郎」とし平成19年(2007年)に国立歴史民俗博物館より3鉢入手し、翌年特質のある形質(花色、葉色)の継続性と交雑の有無を確認、それを増殖し平成22年(2010年)に入谷朝顔市で試験販売を行った[206][207]。以降入谷朝顔市では黄蝉葉「団十郎」も販売されている。平成25年(2013年)にはスポーツ祭東京2013の都民運動のひとつとして花いっぱい運動が展開され、「東京ならではの花」として黄蝉葉「団十郎」を位置づけ、栽培を推奨した[208]。東京都農林総合研究センターの情報を元にWikipediaに「団十郎朝顔」の項目が作られ、またWikipediaや東京都農林総合研究センター[206]、自治体[14]、個人ブログなどの情報を典拠にしたまとめサイトも作成された[18]

一般に流布する通説について

以上述べてきたように、柿色(もしくは茶色)の朝顔に「団十郎」と名付けられたのは明治時代以降であり、入谷で一世を風靡した。明治時代から現在(2020年)まで「団十郎」は特定の品種ではなく柿色の朝顔は広く「団十郎」と名付けられて来た。明治時代一世を風靡した「団十郎」は入谷の朝顔の衰退と消滅により廃れた。現在「正統」とされる黄蝉葉「団十郎」は名古屋発祥の黄蝉葉種に由来し、黄蝉葉「団十郎」がいつどこで作出された物かは不明であるが、その起源はどんなに古くとも大正時代以前には遡らない。戦時中は京都の朝顔愛好家によって維持され、戦後愛好家によって栽培が続けられてきた。また戦後始められた入谷朝顔市でも1970年代から「団十郎」が販売されて来た。

団十郎朝顔については様々な通説がある。「二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶色であったことにちなんでつけられた」[18]、「江戸の昔から栽培が盛んに行われていたが、種子の確保が難しく幻の朝顔と言われるようになった」[14][18]、「巷では茶色の朝顔を「団十郎」と呼んでいるが、本来は「団十郎」は特定の品種を指している」[209][18]等である。そのどれもが正しいとは言えない。

二代目市川團十郎が名の由来という通説について

「二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶色であったことにちなんでつけられた」と言う通説の典拠は米田による「江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。」という記述である[100]。これは団十郎朝顔の研究として先行する渡辺の記述「名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『しばらく』の狂言に柿色の素袍すおうを用いたが、団十郎の人気に乗じ、この色が流行したといわれている」という記述[72]を引用して肉付けしたものである。しかし「団十郎茶」という色の由来として二代目市川團十郎を挙げる文献は無い。単に市川家の狂言に用いる色[210]、市川家代々が狂言に用いた色[211]、もしくは五代目市川團十郎に由来する[212][213][214]とする文献が多い。二代目市川團十郎は「暫」での初代市川團十郎以来の野郎頭に鎌髭の赤塗り、小具足、小手、素足に脛当、大太刀に三升の角鍔、荢縄の鉢巻という扮装を改め、角鬘に力紙、柿色の素袍、大太刀、筋隈の扮装を考案した[215]。しかしそれをもって世間一般で「団十郎茶」が流行した。とする記述をする文献は存在しない。また五代目市川團十郎の人気で団十郎茶が流行したという一次資料も確認できない。八代目市川團十郎と同時代に生きた大槻如電は、「団十郎茶」について以下のように記述している。

サテ弘化から嘉永へかけまして、世の中で流行ました衣物は、海老茶と申す色です。これは八代目團十郞が、或る狂言の世話女房に、例のコクモチの着付で、舞臺へ出ました時に市川家の柿色へ、濃めの黑味を帶びさせた色でありました。ナニガさて、當時江戸八百八町の贔負を、一人で背負って居ました八代目の事ですから、此色が大流行で、十五六から三十前ぐらゐな婦人、海老茶の紋付を着ない者は無いのです。大概太織紬ふとをりつむぎなどを染めまして、不斷着にしました。紋所は銘々の紋で、市中の女は、どこもかしこも、紋付の衣物ならざるは、ないといふ有樣でした。この茶の色を八代目茶とも、團十郞茶とも申しました。この時は、何んでもかんでも八代目八代目で持ち切て居ました。この如電入道も、はづかしながら、子供の時分、三升小紋の上下を着せられた事がありました。八つ九つの頃でした。 — 大槻如電、江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談)[216]

八代目市川團十郎の人気に乗じて「海老茶」が流行し、これを「団十郎茶」とも呼んだとしている。これらはあくまで「団十郎茶」という「色」が流行したという事を示しているにすぎず、通説ではこれを「団十郎茶」の「朝顔」が流行したと誤って解釈している。二代目市川團十郎の活躍した時代は文化文政期第一次朝顔ブーム以前であり、単純な変化朝顔が出始めた時代である。柿色の朝顔も当時の文献には現れない[29]。海老茶または団十郎茶が流行したという八代目市川團十郎の活躍した弘化から嘉永に掛けて「団十郎」という朝顔があったと記述する文献も無い。#明治時代の団十郎朝顔の特徴で述べたように、明治時代の団十郎朝顔を扱った文献では九代目市川團十郎に由来するとする。

江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について

「江戸時代から団十郎が栽培されてきた」とする通説は、前項で述べた色名としての「団十郎茶」の流行を「団十郎朝顔」の流行と混同したこと、また芦澤による「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」という記述が元である[191]。芦澤の記述も先行する渡辺の「花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。」という記述が元になっている[9]。これが米田により引用され、「朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。」という記述になり[100]、「江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい」となっていった[191]。芦澤が「古くから」という記述を「江戸時代から」にした理由は不明であり、また「らしい」というあいまいな記述になっており根拠に乏しい。江戸時代の図譜[217]には団十郎と名付けられた朝顔は確認できない。団十郎茶の流行した弘化から嘉永にかけては第二次朝顔ブームと重なるが、この時代は変化朝顔が主流であり、その特徴を表現する為に葉や花の特徴を並べて記述する(例えば黄蝉葉の「団十郎」ならば「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」と表現する)命名法が確立し利用されていて[218]、特定品種に「団十郎」のような命名をする事がほとんど無い。また、黄蝉葉「団十郎」の起源はどんなに古くとも大正以前には遡れない。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」が広まるのは大正以降であるからである。黄蝉葉種は名古屋で生まれ、京都に流出し全国に広まった。黄蝉葉「団十郎」は京都で戦時中保存維持されてきた。黄蝉葉「団十郎」は明治時代の入谷の団十郎朝顔とは無関係である。

種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えたという通説について

これは東京都農林総合研究センター『農総研だより第17号』の「かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。」という記述が元である[206]。これは黄蝉葉「団十郎」の事を指しているが、「かつて」というのがいつの時代か、どこで生産されていたものが激減したのかこの記述からは読み取れない。東京都農林総合研究センターの田旗裕也は『趣味の園芸』誌上で「昭和の入谷朝顔まつりでは、茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが」と述べている事から[98]、「かつて」とは戦後の入谷朝顔市が始まった昭和23年(1948年)以前のことを指すという事が分かる。#歴史の項目で述べたように、戦前入谷の朝顔が全盛であったのは明治時代であり、また黄蝉葉「団十郎」が江戸時代もしくは明治時代に入谷で栽培されていたという事実は無い。大正以降、入谷の団十郎朝顔は廃れてしまったが、これは種子の確保が難しかったからではなく、九代目市川團十郎の死と入谷の朝顔の衰退によるものである。黄蝉葉種が生まれ愛好家の人気を得ていた大正末期から昭和戦前期に栽培が盛んであったと解釈も出来るが、それを裏付ける証拠は今のところ無い。「戦後途絶えた」[16]とするのも誤りである。途絶えてしまったのなら黄蝉葉「団十郎」は戦後作られたものとなるはずであり、戦前から作られてきたという主張と矛盾する。

「団十郎」が特定の品種と指しているという通説について

渡辺は団十郎朝顔について判明していることとして、

  1. 花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。
  2. 葉形も、常葉つねは千鳥葉ちどりは須浜葉すはまは恵比寿葉えびすはであろうと、また、今日の蟬葉せみはでも、花色が似ているなら、葉形に関係なく「団十郎」と命名してもとくに問題はなかった。
  3. 入谷の朝顔市でいう「団十郎」は、1. 2.と考えてよい。時代により、葉形は多少変わってきたが、花色を重視していた。
  4. 同一種でも、朝顔会や種苗会社により異なる花名をそれぞれ付けている場合がある。
  5. この「団十郎」という名花は、当時、成田屋留次郎が売り出していた花であったことが、朝顔研究家の岡不崩の書いた記録に残っている。

と五つ挙げている[9]。5.は#団十郎朝顔の誕生で引用した「明治昭代の牽牛子」という記事である[4]

「団十郎」が特定の品種を指していて、それ(黄蝉葉の団十郎)のみが正統という通説がある[209][18]。渡辺の記述や#歴史の項で述べてきたように「団十郎」という名前は歴史上多くの朝顔に付けられてきたもので、正統な品種が一つだけあるわけではない。黄蝉葉「団十郎」が正統とされる根拠、「二代目團十郎に由来する」「江戸時代に一世を風靡した」はこれまで述べてきたように誤りである。#江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説についてで述べたように、黄蝉葉「団十郎」は名古屋と京都に由来し、江戸や東京にゆかりはないから「東京ならではの花」という見解[219]は正しいとは言えない。園芸業者が流通名として自由に「団十郎朝顔」の名をつけるのが不当だという主張もある。しかし明治時代の「団十郎」も「成田屋」という品種が「団十郎」と呼ばれるようになった物であり、黄蝉葉「団十郎」もかつて「暫」と名付けられていた可能性がある。

渡辺は「現在でも、入谷朝顔市に行くと、『団十郎』という花に人気があるが、売り子は、ただ茶色の花なら『団十郎』といっているにすぎない。」と述べているが[9]、これは先に挙げた渡辺自身の記述と矛盾している。田旗も「団十郎茶のアサガオを、広く‘団十郎’と呼んだと考えられます」と述べているが「茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが、近年は江戸川の生産者を中心に、一部の店先で正確な‘団十郎’を生産販売する動きがあります。」と矛盾した見解を述べている[98]。以上のように専門家の間でも団十郎朝顔の議論には矛盾があり、茶系統の朝顔を広く「団十郎」と称していたとしながらも、一方では正統「団十郎」が存在し、それ以外の茶色花の朝顔に「団十郎」と命名するのは不当という見解を示している。

脚注

注釈

  1. ^ 朝顔の異称「けにごし(牽牛花)」を「打ちつけに濃し」に読み込んでいる。
  2. ^ 岡不崩は画家、また各地で美術の教鞭をとる一方で、明治27年(1894年)に朝顔愛好会のあさがほ穠久會に入会して、変化朝顔の栽培と研究、技術の普及に注力した。明治大正期の第三次変化朝顔ブームにおける中心人物の一人であった。[66]
  3. ^ 明治23年(1890年)の『朝顔銘鑑』で、「斑入黄葉柿色覆輪咲き」と紹介されているとする文献もあるが[68]、出典が確認が出来ない。前年、明治22年(1889年)の『朝顔名鑒』には「団十郎」の名は無いが、洲濱部の項に「斑入葉柿覆輪」の品種がある[69]
  4. ^ 横山正名といい、茶來と号した。天保4年(1833年)に御手先与力の横山為政の長男として生まれた。陸軍奉行、一橋家二番銃隊三番銃士、警視庁と種々の官命を拝し、その後植木商となり明治41年(1908年)に没した。幕末期から朝顔界で名をなし、高い位の人たちと交流があった。明治維新後も植木商として、また変化朝顔の愛好会であった穠久会の役員としても活動した[71]
  5. ^ 英語圏の色名の一種、灰色がかった落ち着いた赤色で英国ヴィクトリア朝時代に流行した。
  6. ^ 『東京下谷 根岸及近近傍図』によれば下谷区上根岸八十二番地から入谷の朝顔を作っていた植木屋あたりまでは約700間(1.3キロメートル)ほどである[76]
  7. ^ 明治42年(1909年)7月22日の読売新聞の記事に「聯隊旗」の特徴が「地が薄紅、縁が白、之に立絞り」と記されている[97]
  8. ^ 伊坂[1]の記述は「柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來た」である。
  9. ^ 江戸では文化文政期の流行が冷め変化朝顔栽培が衰えていたが、大坂では珍種も保存され各地の朝顔より優れていた[48]
  10. ^ 『緑の都市文化としての入谷朝顔市』では「当時の入谷には変化朝顔が全く無かったかのようにも書かれているが、実は少しは栽培されていたのである。ただし、大阪のような奇品はなかったと考えたい。」としている[58]
  11. ^ 東京では幕臣の移動も甚だしく、良種も散逸したが、大阪では維新の影響が少なく奇品が保存されていた[108]
  12. ^ 原文「其後維新に際し世と共に變遷し絶へて愛翫するものなきの運を來せしに漸次又復古し年々賞翫者を增すと云へども往年とは大いに共趣を殊にし薩摩性と號し大なるもの流行せり皆是普通の丸咲きとす併て本年に至りては稍變性の愛翫者出て之を賞觀又は買取るもの輻輳し來るは近來稀に見る所なり此に於て成田屋主人予に告げて「當年は是迄絶へたしとせしもの發生せり然れども之を見るもの少なかるべしと思ひしに計らずも近頃になき見物人出たり左れば草木無性に似たるも左にあらず既に人の氣勢に先立つものならんか」と物語れり扨て儒者風に申せば昔し宗の邵雍鵑を聞て禽鳥飛類得氣之先者なりと嘆息せり彼は唐人此は日本人彼は鳥此は花彼は澆季の世に於てし此は文明の世に於てするの別はあれど等しく此れ天人感應の理ともいふべきか阿々」
  13. ^ 十八史略』 第六巻 宋 神宗の項の、治平年間(1064-1067)に儒学者の邵雍が洛陽の天津橋上を散歩していてホトトギスの声を聞き、王安石が宰相になること、改革が天下を騒がしくすることを予言した故事の引用である。原文は「先是治平中、邵雍與客散歩天津橋上、聞杜鵑聲、愀然不樂。客問其故。雍曰、洛陽舊無杜鵑。今始至。天下將治、地氣自北而南。將亂、自南而北。今南方地氣至矣。禽鳥飛類、得氣之先者也。不二年、上用南士作相、多引南人、專務更變、天下自此多亊矣。至是雍言果驗云。(これよりさき治平中ちへいちゆうかく天津橋上てんしんけうじやう散歩さんぽし、杜鵑とけんこえいて、愀然しうぜんとしてたのしまず。かくゆゑふ。よういはく、洛陽らくやうもと杜鵑とけんし。いまはじめていたる。天下てんかまさをさまらんとするや、地氣ちききたよりしてみなみし、まさみだれんとするや、みなみよりしてきたす。いま南方なんぱう地氣ちきいたる。禽鳥きんてう飛類ひるゐせんものなり。二年にねんたらずして、しやう南士なんしもちひてしやうし、おほ南人なんじんいて、もつぱ更變かうへんつとめ、天下てんかこれより多事たじならん、と。ここいたつて、ようげんはたしてけんありとふ。)[109]」『十八史略』は有名な歴史書の要所を切り貼りした書物であるため、中国では固有の価値を持つ古典として認められなかったが、日本では中国の歴史が手軽に概観でき、漢文の読解にも役立ったため中国古典として確たる地位を占めた[110]。日本には南北朝から室町初期ごろ伝来し、室町中期以降禅寺の「五山」で7巻本が復刻されて流布して以来、何度も再刊された。『十八史略』が特に有名になるのは明治時代からで、明治の最初の20年間に大流行した[111]。この記事はそのような時期(明治22年、1889年)に書かれている。
  14. ^ 桐の葉に似て石目という凹凸がある。全般に雄大で、茎が太く、毛が多く節間が不揃いで時に蔓が棒状になる。昭和10年(1935年)頃絶滅した[125]
  15. ^ 幾重にも花弁と萼が繰り返す変異。種が出来ない。他の変異と組み合わせて豪華に見せるために必須の変異[126][127]
  16. ^ 葉が深く裂け、しばしば復葉状になる。花は曜(維管束のある部分)が多くなり、ひだができ、しばしば不規則に乱れて咲く[128][129][64]
  17. ^ 当初は蝉葉を鍬形千鳥葉と呼んでいた。明治末年に吉田宗兵衛(秋草園)が蝉葉と命名した[168]
  18. ^ 1999年に仁田坂が「伝統の朝顔」展に団十郎を持って行き人気を博した事を2000年に記している[201]
  19. ^ 確認できる最古の記述は2004年の2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の記述である[204]また同じスレッドに仁田坂による茶覆輪の朝顔を団十郎と適当に名付けている、正しくは黄蝉葉との記述の引用がある[205]

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  202. ^ 東直子『いつか来た町』PHP研究所、2014年、153-154頁。ISBN 9784569821191 
  203. ^ やまもと こも (2017年7月5日). “夏の風物詩「あさがお」開花の時期到来!こんなよもやま話知ってますか?”. tenki.jp. 2020年11月11日閲覧。
  204. ^ アサガオ好き!Part4”. 5ちゃんねる. 2020年11月11日閲覧。
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  207. ^ 橋本 2017.
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  210. ^ 長崎 1996, p. 117.
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  214. ^ 日本国語大辞典第二版編集委員会 2001, p. 1221.
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  217. ^ 仁田坂 n.d.a.
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参考文献

団十郎朝顔に関する文献

  • 伊坂梅雪「見たり聞いたり」『武蔵野』第28巻第7号、武蔵野文化協会、1941年7月、NDLJP:7932603 
  • 宇治朝顏園(編)「牽牛花種類」『朝顏畫報』第7号、宇治朝顏園、1900年、NDLJP:1557090 
  • 岡不崩「明治昭代の牽牛子」『あさがほ穠久會雜誌』第24号、穠久会、1912年。 
  • 賀集久太郎 編『朝顏培養全書 正編』平瀬種禽園、1895年。NDLJP:839963 
  • 公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター (2011年7月). “農総研だより第17号”. 東京農林水産振興財団. 公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター. 2020年11月11日閲覧。
  • Eliza Ruhamah Scidmore (December 1897). “The Wonderful Morning-Glories of Japan”. The Century Magazine. https://www.unz.com/print/Century-1897dec-00281/. 
  • 柴田宵曲『明治風物誌』有峰書店、1971年。全国書誌番号:73002343 
  • 橋本智明. “自分史”. 江戸野菜通信 大竹道茂の伝統野菜に関するブログ. 2020年11月11日閲覧。
  • 有祿生「朝顏の時代趣味」『俳味』第3巻第6号、俳味社、1912年6月。 
  • 渡辺好孝『江戸の変わり咲き朝顔』平凡社、1996年。ISBN 9784582515053 
  • 「朝顔大名」『東京朝日新聞 朝刊』1891年7月26日。

団十郎朝顔が登場する文学作品

  • 河東碧梧桐『碧梧桐全句集』蝸牛社、1992年。ISBN 9784876612000 
  • 高濱虛子『高濱虛子全集 第十二卷』改造社、1935年。NDLJP:1260030 
  • 中里昌之『村上鬼城の基礎的研究』桜楓社、1985年。ISBN 9784273009854 
  • 正岡子規「朝顏句合」『ホトトギス』第2巻第1号、ホトトギス社、1898年10月、NDLJP:7972133 
  • 正岡子規『子規全集 第一卷 俳句 一』講談社、1975a。全国書誌番号:75005017 
  • 正岡子規『子規全集 第二卷 俳句 二』講談社、1975b。全国書誌番号:75005018 
  • 正岡子規『子規全集 第三卷 俳句 三』講談社、1977年。全国書誌番号:77033059 
  • 正岡子規『子規全集 第二十二卷 年譜 資料』講談社、1978年。全国書誌番号:79001016 
  • 村上鬼城「第二年目」『ホトトギス』第14巻第14号、ホトトギス社、1911年9月、NDLJP:7972301 
  • 渡邊水巴「夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―」『俳句研究』第6巻第8号、改造社、1939年8月、NDLJP:10987958 

朝顔全般に関する文献

  • 芦澤恒夫 著「大輪朝顔 切込み作り(無地・覆輪花)」、朝顔百科編集委員会 編『朝顔百科』誠文堂新光社、2012年、50-61頁。ISBN 9784416712016 
  • 今井喜孝 著「大輪朝顔の起源」、中村長次郎 編『アサガオ 作り方と咲かせ方』誠文堂新光社、1961年、289-304頁。全国書誌番号:61004907 
  • 安藤安廣、朝比奈柳塘、津熊健一郎「大輪朝顏の代表品種」『農業世界』第32巻第7号、博友社、1937年5月、NDLJP:1756741 
  • 伊藤圭介 著、伊藤圭介 編『植物図説雑纂 第180巻』n.d.。NDLJP:2571129 
  • 岡不崩「「あさかほ」流行史 外編下」『本草』第24巻、春陽堂、1934年、NDLJP:1494370 
  • 岡不崩『朝顔に關する文献』[出版者不明]、1937年。NDLJP:2537559 
  • 岡山鳥『江戸遊覧花暦 巻三』n.d.。NDLJP:2537157 
  • 尾崎哲之助『大輪朝顔栽培秘法』大阪毎日新聞社、1927年。NDLJP:1175499 
  • 尾崎哲之助『人と園芸 大輪アサガオ』日本放送出版協会、1974年。全国書誌番号:69000579 
  • 国立歴史民俗博物館 編『伝統の朝顔III―作り手の世界』財団法人 歴史民俗博物館振興会、2000年。全国書誌番号:20089116 
  • 国立歴史民俗博物館 編『“朝顔図譜”を読む ~『あさかほ叢』』財団法人 歴史民俗博物館振興会、2008年。全国書誌番号:21468022 
  • 斎藤月岑『江戸歳事記 巻之二 夏之部』1838年。江戸歳事記 - 早稲田大学図書館古典籍総合データベース。 
  • 寺沢金重 編『盆養切込作り 名古屋式大輪朝顔』名古屋朝顔会、1974年。全国書誌番号:69010353 
  • 東京朝顔研究会. “朝顔の用語解説”. 東京朝顔研究会ホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 中村長次郎「趣味の朝顔史」『遺傳』第9巻第5号、裳華房、1955年、全国書誌番号:00001579 
  • 中村長次郎『アサガオ 作り方と咲かせ方』誠文堂新光社、1961年。全国書誌番号:61004907 
  • 中村長次郎『朝顔』(改訂増補第2版)泰文館〈“日本の花”シリーズ 1〉、1969年。全国書誌番号:65004632 
  • 中村長次郎 著「名花作出の歴史と展望」、渡辺好考 編『原色 朝顔 つくり方と鑑賞』自然の友社、1977a、70-82頁。全国書誌番号:77024046 
  • 中村長次郎 著「アサガオ栽培の歴史」、ガーデンライフ 編『ガーデンシリーズ アサガオ 作り方と楽しみ方』誠文堂新光社、1977b、152-157頁。全国書誌番号:77024045 
  • 仁田坂英二 著「アサガオの花色・形・変異原」、朝顔百科編集委員会 編『朝顔百科』誠文堂新光社、2012年、25-33頁。ISBN 9784416712016 
  • 仁田坂英二『変化朝顔図鑑』化学同人、2014年。ISBN 9784759815733 
  • 仁田坂英二 (n.d.a). “江戸期の文献(図譜)にみるアサガオの突然変異体”. アサガオホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 仁田坂英二 (n.d.b). “大輪朝顔”. アサガオホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 仁田坂英二 (n.d.c). “肥後朝顔”. アサガオホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 仁田坂英二 (n.d.d). “dp (duplicate; 牡丹)”. アサガオホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 仁田坂英二 (n.d.e). “py (polymorphic; 乱菊)”. アサガオホームページ. 2020年11月11日閲覧。
  • 樋口進亮 著「大輪アサガオのおもな品種」、ガーデンライフ 編『ガーデンシリーズ アサガオ 作り方と楽しみ方』誠文堂新光社、1977年、190-199頁。全国書誌番号:77024045 
  • 広瀬秀一「蟬葉種朝顔の來歴」『新花卉』第6号、タキイ種苗出版部、1955年4月、NDLJP:1781605 
  • 三村森軒 著、小笠原亮 編『朝顔明鑑鈔 影印と翻刻』思文閣、2012年。ISBN 9784784213153 
  • 村山豪 著「肥後朝顔の栽培と鑑賞」、渡辺好考 編『原色 朝顔 つくり方と鑑賞』自然の友社、1977年、160-168頁。全国書誌番号:77024046 
  • 米田芳秋、竹中要『原色朝顔検索図鑑 新版』北隆館、1981年。ISBN 9784832600362 
  • 米田芳秋『色分け花図鑑 朝顔』学習研究社、2006年。ISBN 9784054029255 
  • 米田芳秋 著「朝顔の園芸文化を中心に」、朝顔百科編集委員会 編『朝顔百科』誠文堂新光社、2012年、12-24頁。ISBN 9784416712016 
  • 渡辺好考 著「朝顔と日本人」、渡辺好考 編『原色 朝顔 つくり方と鑑賞』自然の友社、1977年、239-261頁。全国書誌番号:77024046 
  • 台東区史編纂専門委員会 編『台東区史 通史編II』2000a。全国書誌番号:20044631 

成田屋留次郎に関する文献

  • 杉田逢川野夫「成田屋のこと」『日本園藝學會雑誌』第6号、日本園芸会、1889年、全国書誌番号:00018342 
  • 渡辺好孝「変化朝顔ブームを支えた二人の男」『歴史と旅』、秋田書店、2001年3月、全国書誌番号:00026277 

入谷の朝顔に関する文献

  • 岩本熊吉『実用花卉新品種の作り方』育生社、1941年。NDLJP:1217424 
  • 岡不崩「入谷の朝顔」『今昔』第2巻第7号、小田原書房、1931年、NDLJP:1477402 
  • 環境文化研究所 編『緑の都市文化としての入谷朝顔市』環境文化研究所、1986年。全国書誌番号:88016021 
  • 藻紋字「入谷の名物凋む」『風俗画報』第449号、東陽堂、1913年、NDLJP:1579965 
  • 長沢利明「入谷の朝顔市 ―東京都台東区下谷真源寺―」『西郊民俗』第213号、西郊民俗談話会、2010年12月、全国書誌番号:00009100 
  • 馬淵漁史「入谷の朝顏 附 和歌の浦」『風俗画報』第45号、東陽堂、1892年、NDLJP:1579473 
  • 明治教育社 編『下谷繁昌記』明治教育社出版部、1914年。NDLJP:953793 
  • 森銑三『明治東京逸聞史 1』平凡社、1969a。ISBN 9784582801354 
  • 森銑三『明治東京逸聞史 2』平凡社、1969b。ISBN 9784582801422 
  • 若月紫蘭『東京年中行事 2』平凡社、1968年。ISBN 9784582801217 
  • 入谷中央商店街振興組合 編『入谷朝顔市と共に』1979年。全国書誌番号:79027759 
  • 「入谷の朝顏」『少國民』第4巻第6号、不二出版(復刻版:原資料の出版社は学齢館)、1892年8月、NDLJP:1784105 

団十郎色に関する文献

  • 大槻如電「江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談)」『雑誌叢書1 江戸時代文化 第四巻』ゆまに書房、1978年。全国書誌番号:00033792 
  • 近世文化研究会 編『図説 浮世絵に見る色と模様』河出書房新社、1995年。ISBN 9784309724973 
  • 城一夫『大江戸の色彩』青幻舎、2017年。ISBN 9784861525988 
  • 田口章子『二代目市川団十郎 ―役者の氏神―』ミネルヴァ書房、2005年。ISBN 9784623043088 
  • 日本国語大辞典第二版編集委員会,小学館国語辞典編集部 編『日本国語大辞典 第8巻 第2版』小学館、2001年。ISBN 4095210087 
  • 長崎盛輝『日本の傳統色―その色名と色調―』京都出版、1996年。ISBN 9784763615053 
  • 福田邦夫『色の名前事典』主婦の友社、2001年。ISBN 9784072309582 

その他