コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「高久靄厓」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Kaznov17 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
 
Kaznov17 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{機種依存文字|title=高久靄厓}}
'''高久靄厓'''('''たかく あいがい''' [[寛政]]8年([[1796年]]) - [[天保]]14年([[1843年]])[[4月8日]](旧暦)[[江戸]]時代後期の[[南画]]([[文人画]])家。
'''高久靄厓'''('''たかく あいがい''' [[寛政]]8年([[1796年]]) - [[天保]]14年([[1843年]])[[4月8日]](旧暦)[[江戸]]時代後期の[[南画]]([[文人画]])家。



2006年8月1日 (火) 13:34時点における版

高久靄厓たかく あいがい 寛政8年(1796年) - 天保14年(1843年)4月8日(旧暦)江戸時代後期の南画文人画)家。

下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。名は徴、字は子遠、通称秋輔。号は靄厓、石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史。

靄厓は、馬方煙草職人をする傍ら、郷里の画家 平出雪耕小泉斐(あや)について書画を学ぶ。青年期より下野鹿沼(栃木県鹿沼市)に移り、池大雅伊孚九に私淑し、文人画を独学した。鹿沼の文化人(鈴木松亭鈴木水雲大谷渓雲山口安良柿沼廣運)に支援を受け、文政6年(1823年)27歳のとき江戸に出る。

江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。見かねた知人の田能村竹田のはからいで谷文晁画塾写山楼の門下となり、文晁が弟子の靄厓の絵を売り出したという。人格者であった文晁らしい行動だが、それほど靄厓には画の力量があったという証左でもある。同門の渡辺崋山蛮社の獄で投獄されたとき、靄厓は救出に尽力したという。

30代になると北陸東北関西など各地を盛んに旅し、古書画の調査や模写を行っている。特に仙台は三度訪ねている。この調査を元に『過眼録』を著した。

天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。

天保14年(1843年)4月8日、江戸両国薬研堀のアトリエ晩成山房で永眠。享年48歳。谷中(台東区谷中4)の天龍院に靄厓の墓がある。


画風

第1期 27歳以前 号:如樵 池大雅の影響大きい時期

第2期 27歳以降 号:靄厓樵者 中国文人画の模写

第3期 42歳以降 号:疎林外史 独自の画風を確立

交友

門弟