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2018年6月11日 (月) 01:14時点における版

マウリツィオ・サッリ
SSCナポリ監督時代(2016年)
名前
ラテン文字 Maurizio Sarri
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1959-01-10) 1959年1月10日(65歳)
出身地 ナポリ
監督歴
チーム
1990-1991 イタリアの旗 Stia
1991-1993 イタリアの旗 Faellese
1993-1996 イタリアの旗 Cavriglia
1996-1998 イタリアの旗 Antella
1998-1999 イタリアの旗 Valdema
1999-2000 イタリアの旗 Tegoleto
2000-2003 イタリアの旗 ACサンソヴィーノ
2003-2005 イタリアの旗 A.C. Sangiovannese 1927
2005-2006 イタリアの旗 デルフィーノ・ペスカーラ1936
2006-2007 イタリアの旗 USアレッツォ
2007 イタリアの旗 USアヴェッリーノ1912
2008 イタリアの旗 エラス・ヴェローナFC
2008-2009 イタリアの旗 ペルージャ・カルチョ
2010 イタリアの旗 FCグロッセートSSD
2010-2011 イタリアの旗 USアレッサンドリア・カルチョ1912
2011 イタリアの旗 ソレント・カルチョ
2012-2015 イタリアの旗 エンポリFC
2015-2018 イタリアの旗 SSCナポリ
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マウリツィオ・サッリMaurizio Sarri1959年1月10日 - )はイタリアナポリ出身のサッカー指導者。セリエASSCナポリの監督を務めていた。

来歴

ナポリにて生まれるが、3歳からはトスカーナ州にて育ち、以来トスカーナ人である事を自負している。

若い頃はアマチュアリーグのDFとして活動していたが、すぐに引退し、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行に就職[1]

銀行員として働きながらも、下部リーグの指導者としてキャリアを積む。2000-01シーズンにイタリア6部リーグに所属するACサンソヴィーノを率いた際は、銀行に辞表を出した上、リーグ制覇できなければ監督業から身を引くとクラブに宣言し、宣言通りリーグ制覇を達成[2]。この頃、セットプレーで33通りもの練習をしていたと報じられ、ミステル33と呼ばれた[3]

2012年にセリエBに所属していたエンポリFCの監督に就任。前シーズン残留をかけたプレーアウトでヴィチェンツァを下しかろうじてBに留まったチームの変革に取り組んだ。開幕9戦で4分け5敗と苦しみながらも10戦目にしてその後エンポリ時代一貫して採用することになる4-3-1-2のシステムを発見しアウェイながらヴィルトゥス・ランチャーノに3‐0で快勝した。また、この試合で当時弱冠18歳のエルセイド・ヒサイは抜擢され、リーグ戦初出場を果たした上、その鮮烈な内容からポジションを勝ち取り、その後17試合に渡って連続フル出場を果たした。同じく若手ではサイドアタッカーであったリカルド・サポナーラのトップ下としての才能を見出し、ロレンツォ・トネッリをCBとして開花させるなどした一方で、マッシモ・マッカローネフランチェスコ・タヴァーノのベテラン2トップの再生、中堅選手であったミルコ・ヴァルディフィオ―リのレジスタとしての能力発見など満遍なくチームの能力を引き出した。このシーズン紆余曲折を経ながら昇格プレーオフ決勝まで導いたが、リヴォルノに敗れ昇格はならなかった。

2013-14シーズンは前季のメンバーに加わったダニエレ・ルガーニマリオ・ルイシモーネ・ヴェルディらがチームの完成度をさらに高め安定した戦いをシーズン通して披露、2位となりセリエA自動昇格を達成した。

2014-15シーズン、初勝利を第6節のパレルモ戦まで待たねばならない苦しいスタートを切ったが、最終的にリーグ最多となった18の引き分けが示すようにしぶとく戦い、ホームでラツィオナポリを破るなど印象に残る勝利も記録。第34節アウェーでのトリノ戦に1-0で勝利し残留を達成した。最終的に15位で終え、チームを辞任した。

2015年、セリエAのSSCナポリの監督に就任。ヒサイとともにエンポリから連れてきていたヴァルディフィオーリをレジスタに、ロレンツォ・インシーニェをトップ下に据えた4-3-1-2でシーズンに臨むが最初のリーグ戦3戦で2分け1敗と成果が出ないことから即座に修正、ジョルジーニョをアンカーに据えインシーニェを本来の左ウィングとした4-3-3を採用し続くEL第1節クラブ・ブルージュ戦、リーグ第4節ラツィオ戦を共に5-0で大勝、その後シーズンを超えて一貫して採用されるシステムとなった。前任者のもと崩れていたチームのバランスを見事に修正、徹底したポジショニング指導でカリドゥ・クリバリーを中心とするDF陣の能力を引き出し、マレク・ハムシクの適正なポジションを左の中盤に見出した。その中でも最も恩恵を受けたのが前線のゴンサロ・イグアインであり、最終的にセリエAのシーズン歴代最多記録である36ゴールを叩き出した。リーグ前半戦はホームでユベントスインテルを破るなど勝利を積み重ね序盤の失敗を取り返し、リーグ優勝を果たした1989‐90シーズン以来26年ぶりに冬のチャンピオンとなった。2016年に入っても多くの勝利を積み重ねたが、第25節トリノでのユベントスとの直接対決に敗れ、続く2試合に引き分け、さらに4月に入った第31節フリウリでのウディネーゼ戦ではイグアインが激高し退場するなどの出来事もあり完敗。82ポイントを稼ぎ出し20チーム制となってからのリーグ戦クラブ記録である勝ち点となったにも拘らずユベントスの後塵を拝することになった。

2016-17シーズンはイグアインがライバルであるユベントスに移籍したため、代役としてアルカディウシュ・ミリクを獲得。開幕戦で得点を挙げるなど即座に適応したが、10月の代表戦で負傷し長期離脱。加えてDFの要ラウール・アルビオルの負傷離脱、CLとの両立にも苦しむ中、代役のマノロ・ガッビアディーニがチームにフィットしないと見ると、ウィンガーのドリエス・メルテンスをCFにコンバート。この策が功を奏し流動性を増したチームの攻撃力が爆発、CLではグループステージを突破した後にベスト16で(最終的に優勝した)レアル・マドリードに敗れたが、リーグ後半戦は19試合を15勝3分け1敗で駆け抜け、最終的にメルテンスは28ゴールで得点ランク2位、インシーニェホセ・カジェホンハムシクもそれぞれ18、14、12と2桁得点を記録した。86ポイントと2シーズン連続でクラブ史上最高の勝ち点を記録したにも拘らず2位ローマに1ポイント及ばず3位、翌シーズンのCLはプレーオフからの出場となった。

戦術

DFラインの計算された緻密な動きを特徴とする。テゴレト時代からの副官であるフランチェスコ・カルツォーナはこの主題のみで論文を著し、2016年にUEFAプロの資格を得ている[4]

人物・エピソード

出典

外部リンク