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「D.B.クーパー事件」の版間の差分

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{{Infobox 事件・事故
{{Infobox person
| 名称 = D.B.クーパー事件
| name = D.B.クーパー
| 画像 = DBCooper.jpg
| image = DBCooper.jpg
| image_size = 220
| 脚注 = [[連邦捜査局|FBI]]が公表した被疑者の似顔絵
| caption = 1972年にFBIが公表したクーパーの似顔絵
| 場所 = {{USA}} [[ノースウエスト航空]]11便
| disappeared_date = [[1971年]][[11月24日]]
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| status = 不明
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 =
| 日付 = [[1971年]][[11月24日]]
| other_names = ダン・クーパー
| known_for = 1971年11月24日にボーイング727をハイジャックし、飛行中の飛行機からパラシュートを身につけて飛び降りた。身元は特定されていない。
| 開始時刻 = 16時35分
}}
| 終了時刻 = 20時11分ごろ
{{Infobox aircraft occurrence
| 時間帯 = UTC -8
|name = ノースウエスト・オリエント航空305便
| 概要 = [[アメリカ合衆国]]で発生した、[[身代金]]を要求した[[ハイジャック]]事件
|occurrence_type = ハイジャック
| 原因 =
|image = File:Northwest Orient Boeing 727-100 Silagi-1.jpg|image_size = <!-- (defaults to 230 if blank) --> |alt = |caption = ハイジャックにあったものと同型機のノースウエスト航空ボーイング727-100
| 武器 = [[ダイナマイト]]
|date = 1971年11月24日
| 損害 = 現金200,000[[ドル]]
|type = ハイジャック
| 犯人 = 不明(通称「D.B.クーパー」)
|site = オレゴン州ポートランドからワシントン州シアトルの間
| 容疑 =
|aircraft_type = ボーイング727
| 動機 = 身代金の奪取
|operator = ノースウエスト・オリエント航空
| 関与 =
|tail_number = N467US
|origin = ポートランド国際空港
|destination = シアトル・タコマ国際空港
|passengers = 36 (およびハイジャック犯1名)
|crew = 6
|injuries = 知られている限り0
|fatalities = 0 (ハイジャック犯のその後は不明)
|survivors = 42 (乗員乗客全員)
}}
}}
[[ファイル:Rwr727tail.jpg|thumb|250 px|ボーイング727の[[エアステア]]。ここから犯人は飛び降りた]]
'''D.B.クーパー事件'''(ディービークーパーじけん、D. B. Cooper)とは、[[アメリカ合衆国]]で発生した、[[身代金]]を要求した[[ハイジャック]]事件である。単独犯による事件であり、パラシュート降下による逃亡という大胆さなどから、アメリカ国内においてもっとも有名な[[未解決事件]]の一つとされる。


'''D.B.クーパー''' ({{lang-en-short|'''D. B. Cooper'''}}) は、[[1971年]][[11月24日]]水曜日の午後、[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]から[[ワシントン州]][[シアトル]]へ向かっていた[[ボーイング727]]を[[太平洋岸北西部]]で[[ハイジャック]]した身元不明の人物の通称である<ref name="hjbowlt">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=vuVNAAAAIBAJ&pg=6384%2C3320413|work=Free Lance-Star|location=(Fredericksburg, Virginia)|agency=Associated Press|last=Grossweiler|first=Ed|title=Hijacker bails out with loot|date=November 26, 1971|page=1}}</ref><ref name="bbwac">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=bTQVAAAAIBAJ&pg=1933%2C1906592|work=The Bulletin|location=(Bend, Oregon)|agency=UPI|title=Wilderness area combed for parachute skyjacker|date=November 26, 1971|page=1}}</ref>。クーパーは身代金20万ドル ({{Inflation|US|value = 200000|r=-4|fmt=eq|start_year = 1971}}) を強奪し、[[パラシュート]]で降下して飛行機を脱出した。その後、どのような末路を辿ったのかは知られていない。広範囲を捜索し、[[連邦捜査局]] (FBI) も長期間捜査したが、クーパーの身元は現在も不明である。クーパー事件は商業航空産業史上で唯一未解決のハイジャック事件である<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=135}}<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。
犯人は身代金を受け取った後、飛行中の[[ボーイング727]]から、現金20万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](2012年時点の貨幣価値にして約1億円)を持って[[パラシュート]]で脱出した。事件後も犯人は検挙されず、また身元も不明のままとなった。後に身代金の一部が[[コロンビア川]]で発見され、実際には犯人は死亡したともいわれているが、死体は発見されていない。


クーパーの遺体は発見されていないものの、証拠や専門家の見解により、クーパーは高所からの転落が原因で死亡したという説が当初から提唱されていた<ref name="FBI-Redux" />。それでも、FBIは事件から45年もの間捜査を続けていた。捜査の過程で事件資料は60巻以上にも膨れ上がったものの<ref name="Seven1996-11-17" />、クーパーの身元に関する決定的な結論は得られていない。ハイジャック犯は「'''ダン・クーパー'''」 ({{lang-en-short|'''Dan Cooper'''|links=no}}) という[[偽名]]で航空券を購入したが、ニュースメディアの誤報により、一般には「D.B.クーパー」という名前で有名になった。
「D.B.クーパー」は[[連邦捜査局|FBI]]の手配の際、手違いで広められた犯人の名前であるが、犯人による自称「ダン・クーパー」もまた偽名であることは確実である。


捜査官や記者、アマチュアたちにより、長年の間に数多くの仮説が提唱されてきた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" /><ref name="AP2008-01-02">{{cite news|title=F.B.I. makes new bid to find 1971 skyjacker|agency=Associated Press|date=January 2, 2008|url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/n/a/2008/01/01/national/a100412S30.DTL|accessdate=January 2, 2008|newspaper=The San Francisco Chronicle|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080102170246/http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=%2Fn%2Fa%2F2008%2F01%2F01%2Fnational%2Fa100412S30.DTL|archivedate=January 2, 2008|deadurl=yes|df=mdy-all}}</ref>。1980年2月、[[コロンビア川]]の沿岸で、ある少年が身代金の紙幣の一部を発見した。この発見により事件は新たな関心を惹き付けたが、結局謎が深まっただけだった。身代金の大部分はいまだに回収されていない。
== 概要 ==
[[File:Boeing 727-251 N256US NWAL MIA 07.02.71 edited-2.jpg|thumb|right|同型機のノースウエスト航空ボーイング727]]
[[感謝祭]]前日であった[[1971年]][[11月24日]]、経由地の[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]から[[ノースウエスト航空]]11便(ボーイング727-100型、[[ワシントンD.C.]]発[[シアトル]]行き、機体記号:N467US)には、乗員6名と乗客36名が搭乗していたが、その1人が「ダン・クーパー」の偽名で搭乗していた犯人であった。


[[2016年]]7月、FBIは公式に捜査を停止したが、捜査官はパラシュートや身代金に関係する物的証拠の発見を今も待ち望んでいるという<ref name=":2">{{cite web|last1=McNerthney|first1=Casey|title=D.B. Cooper case no longer actively investigated by FBI|url=http://www.kiro7.com/news/local/db-cooper-case-no-longer-actively-investigated-by-fbi/397251270|website=KIRO7|accessdate=July 12, 2016|date=2016-07-12}}</ref>。
16時35分(現地時間)に離陸後、犯人は機内サービスの際に[[客室乗務員]]の女性に代金と一緒にメモを渡した。乗務員は、当初は自宅の電話番号のメモだと思ったが、犯人は「爆弾を持っている」と告げたため確認すると、爆弾を所持していることと身代金20万ドルとパラシュート4つを要求する脅迫状であった。また隣に座るように要求した。


==ハイジャック==
そのため客室乗務員が操縦席に連絡したが、パイロットは疑わしいと思い、犯人の隣に座り本当に爆弾を持っているかを尋ねると、犯人は持っているブリーフケースを開け、そこには赤い管と導火線([[ダイナマイト]])が見えた。そのためパイロットは管制官にハイジャックされたと告げ、それに対し当局は犯人に従うように指示した。犯人の態度はいたって紳士的であったと言われている。
1971年11月24日は[[感謝祭]]前日だった。この日、1人の中年男性が黒い[[ブリーフケース|アタッシェケース]]を持って[[ポートランド国際空港]]にある[[ノースウエスト航空|ノースウエスト・オリエント航空]]のフライトカウンターに向かっていた。男は「ダン・クーパー」と名乗り、305便の片道の航空券を現金で購入した。305便は北にある[[シアトル・タコマ国際空港|シアトル]]行きの飛行時間30分間の便だった<ref name="Olson1999" />。


クーパーはボーイング727-100 ([[連邦航空局]]機体記号N467US) に搭乗し、客室の後方にある18C席<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" /> (ある情報源では18E席<ref name=":3">
17時45分に旅客機は[[シアトル・タコマ国際空港]]に緊急着陸、身代金とパラシュートと引換えに犯人は乗客全員と客室乗務員2名を解放した。19時45分にシアトルを離陸、犯人は機長に対し[[ネバダ州]][[リノ (ネバダ州)|リノ]]に向かえと要求し、高度1万[[フィート]](約3000m)に維持したうえで[[ランディングギア]]を出し、[[フラップ]]の角度を15度下げて飛行するように指示した。こうすることにより、空気抵抗が生じ、速度は時速320キロまで落ちていた事が判明している。
{{Cite web|url=http://www.francesfarmersrevenge.com/stuff/archive/oldnews6/crimes.htm|title=History's Greatest Unsolved Crimes|accessdate=February 7, 2011|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160624203847/http://www.francesfarmersrevenge.com/stuff/archive/oldnews6/crimes.htm|archivedate=June 24, 2016|deadlinkdate=7 April 2019}}
</ref>、別の情報源では15D席{{sfn|Gunther|1985|p=32}}) に座った。クーパーはたばこに火をつけ<ref>商業航空では1988年まで喫煙が許可されていた。</ref>、[[バーボン]]のソーダ割りを頼んだ。同じ飛行機に乗った乗客たちによれば、クーパーの年齢は40代半ば、身長は178センチメートルから183センチメートルだったという。クーパーは軽量の黒い[[レインコート]]、[[ローファー]]、黒いスーツ、きちんとアイロンがかけられた襟付きのワイシャツ、黒いクリップ式のネクタイ、[[真珠層|真珠母]]でできたタイピンを身につけていた<ref name="SFChronicle">{{cite news|title=D.B. Cooper – the search for skyjacker missing since 1971|last=Tizon|first=Tomas A.|date=September 4, 2005|url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2005/09/04/BAGU1EG7K71.DTL|work=[[San Francisco Chronicle]]|access-date=January 2, 2008}}</ref>。


[[File:DB Cooper Wanted Poster.jpg|thumb|D.B.クーパーに対するFBIの指名手配ポスター]]
[[File:727db.gif|thumb|350px|エアステアから犯人が脱出する様子を再現したアニメーション]]


305便は[[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港|ワシントンD.C.]]からシアトルへ向かう空路で、[[ミネアポリス・セントポール国際空港|ミネアポリス]]、{{仮リンク|グレートフォールズ国際空港|en|Great Falls International Airport|label=グレートフォールズ}}、{{仮リンク|ミズーラ国際空港|en|Missoula International Airport|label=ミズーラ}}、[[スポケーン国際空港|スポケーン]]、ポートランドを経由していた<ref name="sraphjp">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=NPAjAAAAIBAJ&pg=6509%2C3689150|work=Spokesman-Review|agency=Associated Press|title=Hijacked plane makes landing at Seattle airport|date=November 25, 1971|page=1}}</ref>。[[太平洋標準時]]午後2時50分、飛行機は予定通りポートランドを飛び立った。飛行機には定員の3分の1程度が搭乗していた。離陸してまもなく、クーパーは自分の最も近くにいた[[客室乗務員]]であるフローレンス・シャフナー ({{lang-en-short|Florence Schaffner|links=no}}) にメモを渡した。シャフナーは機体尾部の[[エアステア]] (昇降用階段) のドアに取り付けられた補助席に座っていた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。シャフナーは、メモは孤独なサラリーマンが自分の電話番号を綴ったものだろうと考え、メモを開かずにハンドバッグに入れた<ref name=":4">{{cite book|title=Myths and Mysteries of Washington|last=Bragg|first=Lynn E.|year=2005|publisher=Globe Pequot|location=Guilford, Connecticut|page=2|isbn=978-0-7627-3427-6|date=}}</ref>。クーパーはシャフナーの方に体を傾けて、次の言葉を囁いた。"Miss, you'd better look at that note. I have a bomb."<ref name="PI">{{cite news|title=When D.B. Cooper Dropped From Sky: Where did the daring, mysterious skyjacker go? Twenty-five years later, the search is still on for even a trace|last=Steven|first=Richard|date=November 24, 1996|url=|page=A20|work=[[The Philadelphia Inquirer]]}}</ref> (「君、そのメモを読まないといけない。俺は爆弾を持っている」)
犯人は20時11分ごろに、ボーイング727の後部にあった[[エアステア]](昇降用階段)を空中で開き、2個のパラシュートを抱えて現金と共に脱出した。その様子は追跡していた[[アメリカ空軍|空軍]]の[[F-106 (戦闘機)|F-106]]戦闘機2機は視界がきかなかったため確認できなかったが、犯人はポートランドの北30マイル(約50キロメートル)にあるアリエルの郊外に降りたと思われていた。その後当局は18日間捜索を行ったが、犯人の行き先に関する手かがりはつかめなかった。


メモは[[フェルトペン]]で丁寧に書かれており、全て大文字だった<ref name=":5">{{Cite news|title=Unmasking D.B. Cooper|date=October 29, 2007|url=http://nymag.com/nymag/features/39593/index1.html|newspaper=New York|accessdate=June 28, 2016|last=Gray|first=Geoffrey}}</ref>。メモはクーパーが返却を要求してきたため、実際にどう書いてあったかは不明である<ref name="crime museum">{{Cite web|url=https://www.crimemuseum.org/crime-library/cold-cases/d-b-cooper/|title=D.B. Cooper|accessdate=June 28, 2016|publisher=|website=Crime Museum}}</ref>{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=13}}。しかし、シャフナーの記憶によれば、ブリーフケースの中に爆弾が入っているというようなことが書いてあったという。シャフナーがメモを読むと、クーパーはシャフナーに自分の隣に座るように言った<ref name=":6">{{Cite web|url=https://archives.fbi.gov/archives/news/stories/2006/november/dbcooper_112406|title=A Byte Out of History - D.B. Cooper|accessdate=June 28, 2016|publisher=FBI|date=November 24, 2006}}</ref>。シャフナーはその言葉に従い、それから爆弾を見せるように冷静に頼んだ。クーパーはブリーフケースを開けて、中身を一目見るだけの時間を与えた。中には赤い円筒形の物体が8本入っていた<ref name="cylinders" />。4本の上に別の4本が置かれている状態だった。物体には赤い絶縁材で覆われたワイヤーと、大きな円筒形の電池が付いていた<ref name=":7">{{Cite web|url=http://n467us.com/Data%20Files/Logs%2006-20-2008R.pdf|title=Transcript of Crew Communications|accessdate=February 25, 2011|publisher=|format=PDF}}</ref>。クーパーはブリーフケースを閉じると、自分の要求を伝えた。現金20万ドル ("negotiable American currency"、「交換可能なアメリカの通貨」で払うように指示した)<ref name="twenty" />、パラシュート4つ (2つはメイン、残りの2つは予備)、飛行機が到着したときに燃料を補給するための給油車をシアトルで待機させることである{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=18}}。シャフナーはクーパーの指示をコックピットにいる操縦士に伝えた。シャフナーが戻ってくると、クーパーは黒いサングラスを身につけていた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。
捜査当局が「ダニエル・B・クーパー」という名の男性を被疑者として一時拘束したが、犯人の名乗り自体が偽名である事が判明した。しかし、「D.B.クーパー」が被疑者であるかの誤解を報道機関に与え、世間一般に後者の名が広まった。ほとんど指紋を残さないなど、その完全犯罪ぶりにD.B.クーパー人気は社会現象になり、事件のあった日は「'''ダン・クーパー・デイ'''」として記念日的扱いを受けた。FBIに悪戯で「俺がD.B.クーパーだ」と名乗りだす者が続出したり、ホームパーティーにスーツを着用、札束を身につけたクーパーの仮装で登場した者も現れたほどであった。


操縦士のウィリアム・スコット ({{lang-en-short|William Scott|links=no}}) はシアトル・タコマ国際空港の[[航空管制官]]に連絡をとり、管制官は地元警察とFBIに通報した。他の36名の乗客には、シアトルへの到着が機械の軽度のトラブルにより遅れているという偽の情報が与えられた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=20}}。ノースウエスト・オリエント航空社長のドナルド・ニューロプ ({{Lang-en-short|Donald Nyrop|links=no}}) は身代金の支払いを承認し、全従業員にハイジャック犯の要求に十分に協力するように命じた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=19}}。飛行機は[[ピュージェット湾]]上空を約2時間旋回し、その間に{{仮リンク|シアトル警察|en|Seattle Police Department}}とFBIがパラシュートと身代金を集め、救急隊員を動員した<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。
==D.B.クーパーの行方==
[[ファイル:Money stolen by D. B. Cooper.jpg|thumb|200px|発見された紙幣の一部]]
D.B.クーパーがどうなったか、もしくは素性については諸説ある。
; 逃亡説
: [[1972年]]に「パラシュートによってハイジャックした旅客機から逃走しようとした事件([[模倣犯]])」が3件発生した。最終的にはいずれも検挙されたが、D.B.クーパーだけは足取りがつかめなかったため、完全に逃げ切ったというもの。
; 死亡説
: 事件から8年が経過した[[1980年]][[2月13日]]、[[ワシントン州]][[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]郊外の[[コロンビア川]]畔で、[[ピクニック]]に来ていた家族によってD.B.クーパーによって奪われたとみられる5,800ドル(20ドル紙幣の束であったという)が発見された。そのため、「コロンビア川に落ちて溺死した」、もしくは「冬の夜の寒さで凍死した」などと噂された。また、D.B.クーパーが使用したパラシュート2つのうち、1つは空中では展開しない地上訓練用のダミーであったため、「パラシュートが開かずに墜落死した」という説もあった。
; 逃亡後死亡した説
: 2011年8月2日付の「[[ロサンゼルス・タイムズ]]」など複数のメディアによると、FBIの特別捜査官が「約10年前に老衰で死亡した男性の正体がD.B.クーパーである」という証言を入手。死亡した男性の指紋、DNAと事件当時機内に残された指紋、遺留物に付着したDNAの鑑定が行われている。この結果、同一人物であると判明した場合、犯人は犯行後に約30年間逃げ延びた後、逮捕されずに死んだことになる。<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011080400083 伝説の乗っ取り犯は叔父=女性が米テレビに証言] - 2011年8月4日 時事ドットコム</ref>
; リチャード・マッコイ説
: [[1991年]]に出版された書籍『D. B. Cooper: The Real McCoy』では、「1972年に同様のハイジャックを起こした[[リチャード・マッコイ]]が犯人ではないか」という説が主張された。マッコイは勲章も受けた[[ベトナム帰還兵]]で、当時は[[ユタ州兵]]にヘリコプター操縦士として勤務しており、また熱心なスカイダイバーとしても知られていた。このようにD.B.クーパーの犯人像に重なったばかりか、人相も似顔絵と酷似していた。マッコイは身代金を奪取してパラシュートで降下したが間もなくして逮捕され、後に脱獄するものの、潜伏先を突き止めたFBIとの銃撃戦の末に射殺された。
; その他
: [[2000年]]、ある女性が、[[1995年]]に死んだ夫につき「夫が死ぬ間際に、D.B.クーパーであったと告白した」とする記事が「U.S. News and World Report」に掲載された。同記事は「夫の筆跡と、犯人メモの筆跡がよく似ていること」などを根拠にしている。


シャフナーによると、クーパーは地元の地理に詳しそうだったという。飛行機がタコマ上空を飛んでいたとき、クーパーは下はタコマのようだというような発言をした。クーパーは{{仮リンク|マッコード・フィールド|en|McChord Field|label=マッコード空軍基地}}はシアトル・タコマ空軍基地から (当時は) 車でほんの20分の距離であるとも発言したが、これも正しかった。シャフナーによると、クーパーは穏やかで、礼儀正しく、上品な言葉遣いで、当時一般的に認知されていたハイジャック犯のステレオタイプ (激高した冷酷な犯罪者、キューバからアメリカへ向かおうとする反体制派) とは全く違っていたという。別の客室乗務員のティナ・マックロー ({{lang-en-short|Tina Mucklow|links=no}}) もクーパーは神経質ではなかったと言って同意した。感じの良い人物に見えたし、残虐な態度をとったり不快な言動をしたりすることもなく、常に思慮深くて穏やかだったと語った<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クーパーは2杯目のバーボンの水割りを頼み、飲み物の代金を支払い、シャフナーに釣銭を与えようとした<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。シアトルに留まっていたときには乗員のための食事を要求した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=22}}。
==この事件を扱った映画やドラマ==

FBIの捜査官たちはシアトルにある数箇所の銀行から身代金を集めた。用意したものは無傷の20ドル紙幣1万枚で、そのほとんどが[[シリアル番号|通し番号]]が"L"から始まるものだった。このことはこれらの紙幣が[[サンフランシスコ連邦準備銀行]]により発行されたものであることを示す。また、ほとんどがシリーズ1963Aやシリーズ1969からのものだった<ref name="check-six">{{cite web|url=http://www.check-six.com/lib/DBCooperLoot.htm|title=D B Cooper's Loot Serial Number Searcher|publisher=Check-six.com|date=October 19, 2010|access-date=November 29, 2010}}</ref>。紙幣は全て[[マイクロフィルム]]の記録が取られた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=25}}。クーパーはマッコード空軍基地の人員が提供した軍の支給品のパラシュートは受け取らなかった。代わりに手動でリップコードを操作する民間用のパラシュートを要求した。シアトル警察は要求通りのパラシュートを地元の[[スカイダイビング]]・スクールから入手した<ref name="crime museum" />。

===乗客の解放===
太平洋標準時午後5時24分、クーパーは自分の要求が叶えられたことを通知された。午後5時39分、飛行機はシアトル・タコマ空港で着陸した{{sfn|Gunther|1985|p=43}}。日没から1時間以上経過した頃、クーパーはスコット操縦士に飛行機をタキシングして[[エプロン (飛行場)|エプロン]]の中で照明が明るく孤立した区画へ移動させるように指示し、警察の[[狙撃手]]の妨害のために客室内の窓掛けを全て閉めさせた<ref name=":8">{{Cite episode|title=Mystery: D. B. Cooper|network=[[NBC]]|date=October 12, 1988|series={{仮リンク|Unsolved Mysteries|en|Unsolved Mysteries}}|series-no=1|number=2}}</ref>。ノースウエスト・オリエント航空のシアトル運用管理者のアル・リー ({{Lang-en-short|Al Lee|links=no}}) は要求の物品を持って航空機の方へ向かった。リーは航空会社の制服から警察官と勘違いされないように普段着を着ていた。リーは身代金の詰まったナップザックとパラシュートを機体尾部のエアステアからマックローに届けた。身代金とパラシュートの受け渡しが完了すると、クーパーは乗客全員とシャフナー、主任客室乗務員のアリス・ハンコック ({{lang-en-short|Alice Hancock|links=no}}) に飛行機から出るように命令した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=28}}。

飛行機に燃料を補給する間、クーパーはコックピットにいる乗員に対して自身の飛行計画のあらましを説明した。南東へ進路を取って、最高高度1万[[フィート]] (約3千メートル)、失速しないで済む最低速度、つまりは約100[[ノット]] (時速約190キロメートル) で[[メキシコシティ]]の方向へ向かうというものだった。クーパーはさらに、[[降着装置|ランディング・ギア]]は離着陸時の位置のままにすること、フラップの角度を15度に下げること、客室の[[与圧#航空機|与圧]]はかけないでいることといった詳細な指示も与えた<ref name=":9">Rothenberg and Ulvaeus, p. 5.</ref>。フラップとは主翼の後縁に備わる[[高揚力装置]]である。フラップを出すことで、低速飛行時に翼で発生する[[揚力]]を大幅に増やすことができるが、[[抗力]]の増加も招く<ref>{{Citation|和書 |last=李家 |first=賢一 |contribution=高揚力装置 |editor= 飛行機の百科事典編集委員会 |title=飛行機の百科事典 |date=2009-12 |pages=221–223 |isbn=978-4-621-08170-9}}</ref>。副操縦士のウィリアム・ラタクザック ({{lang-en-short|William Rataczak|links=no}}) はクーパーに、指定の条件での航続距離は約1千マイル (約1,600キロメートル) までしかないと伝えた。この条件では[[メキシコ]]に辿り着く前に2度目の燃料補給が必要になる。クーパーと乗員たちは話し合い、[[ネバダ州]][[リノ (ネバダ州)|リノ]]で燃料補給することで合意した{{sfn|Gunther|1985|p=45}}。機体後方の出口が開いてエアステアが展開されると、クーパーは操縦士に離陸を指示した。ノースウエスト・オリエント航空本社は機体尾部のエアステアが展開されたまま離陸するのは危険であるとして異議を唱えた。クーパーは実際には安全であると反論したが、この件で言い争おうとはしなかった。離陸した後にエアステアを展開するつもりだったのである{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=33–34}}。

連邦航空局はクーパーが航空機に乗った状態での面談を要求したが、受け容れられなかった<ref name=":10">{{cite book|last1=Rothenberg|first1=David|last2=Ulvaeus|first2=Marta|title=The New Earth Reader: The Best of Terra Nova|publisher=[[MIT Press]]|year=1999|location=Cambridge, Massachusetts|page=4|isbn=978-0-262-18195-2|date=}}</ref>。給油車の燃料を汲み取る機構で[[ベーパーロック現象]]が発生したことにより燃料補給は遅れた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=32}}。クーパーは疑念を抱いたが、代わりの給油車を使用することを許可して給油を続けた。2台目の給油車から燃料が出なくなると3台目の給油車で燃料を補給した<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。

===再度離陸へ===
[[File:Rwr727tail.jpg|thumb|ボーイング727。機体後方のエアステアが開いた状態。]]
午後7時40分ごろ、ボーイング727はクーパー、スコット操縦士、マックロー客室乗務員、ラタクザック副操縦士、航空機関士のH・E・アンダーソン ({{lang-en-short|H. E. Anderson|links=no}}) の5名だけを載せて離陸した。2機の[[F-106 (戦闘機)|F-106]]がマッコード空軍基地から[[スクランブル|緊急発進]]し、クーパーの視界に入らないように1機は飛行機の上に、残りの1機は飛行機の下について飛行機を追跡した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=36}}。元は無関係の[[空軍州兵]]の任務にあたっていた[[T-33 (航空機)|T-33]]練習機も飛行機を追跡していたが、燃料が少なくなり、オレゴン州と[[カリフォルニア州]]の州境近くで後戻りした{{sfn|Gunther|1985|p=53}}。ハイジャックされた飛行機を追跡していた航空機は全部で5機あった。どの機もクーパーが飛行機から飛び降りたところを見たと報告しておらず、クーパーが着陸した場所がどこかを示すことができなかった<ref name=":11">{{cite web|work=[[Time (magazine)|Time]]|url=https://content.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1846670_1846800_1846854,00.html|title=Top Ten Famous disappearances|accessdate=7 April 2019|publisher=}}</ref>。

離陸後、クーパーはマックローにコックピットにいる残りの人員と合流し、ドアをしめてコックピットにとどまるように言った。マックローがそれに従うと、クーパーは自分の腰に何かを巻きつけていたという。午後8時ごろ、コックピットで警告灯がついた。このことは機体尾部の[[エアステア]]の設備が起動したことを意味していた。航空機の内部通話システムを通じて乗員が援助を申し出ると、そっけなく断られた。それからすぐに乗員は気圧が体感的に変化したことに気がついた。機体尾部のドアが開けられたことを示唆している{{sfn|Gunther|1985|p=56}}。

午後8時13分ごろ、突然に飛行機の尾部が上方に動き続け、飛行機を水平に立て直さなければならなくなった{{sfn|Gunther|1985|pp=58, 66}}<ref name="Braggp4">Bragg, p. 4.</ref>。午後10時15分ごろ、スコットとラタクザックは飛行機をリノ空港で着陸させたが、機体尾部のエアステアは展開された状態のままだった。FBIの捜査官や州警察、保安官代理、リノ警察は飛行機を取り囲んだ。クーパーが飛行機から脱出したのかまだ確実に断定できなかったためである。武装した人員が捜索した結果、すぐにクーパーが飛行機の中にいないことが確認された{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=48}}。

==捜査==
FBIは飛行機の中から未特定のかすれた指紋を66点回収した<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。クーパーが身につけていた黒いネクタイやネクタイ留め、4つのパラシュートのうちの2つも発見した<ref name="parachutes" />。残された2つのパラシュートのうちの1つは展開されており、キャノピーからシュラウドラインが2本切断されていた<ref name=":12">{{cite news|title=F.B.I. reheats cold case|work=[[National Post]]|last=Cowan|first=James|date=January 3, 2008|url=https://nationalpost.com/news/story.html?id=211616|archive-url=https://archive.today/20080121231748/http://www.nationalpost.com/news/story.html?id=211616|dead-url=yes|archive-date=January 21, 2008|access-date=January 9, 2008}}</ref>。当局はポートランドやシアトル、リノにいた目撃者や、クーパーと直接接触した全ての人々に対して尋問を行った。一連のクーパーの似顔絵が制作された<ref name="latinapp">[https://vault.fbi.gov/D-B-Cooper%20/D-B-Cooper-Part-7-of-7/view FBIの情報公開資料] (https://vault.fbi.gov/D-B-Cooper%20/<nowiki/>より)</ref>。

地元警察とFBIはすぐに被疑者の尋問を開始した。800名以上が被疑者と考えられたが、20名ほどを除き捜査対象から除外された<ref name=":13">{{cite web|title=D.B. Cooper Hijacking|url=https://www.fbi.gov/history/famous-cases/db-cooper-hijacking|accessdate=7 December 2018|language=en-us|publisher=FBI|first=Maria|last=Motaher}}</ref>。軽犯罪の前科を持つD.B.クーパーという名前のオレゴン州在住の男がこの事件の最初の被疑者の1人だった。ハイジャック犯は実名や以前に行った犯罪で使用したのと同じ偽名を使っていた可能性があることから、ポートランド警察はこの人物に接触した。結局、この人物はすぐに被疑者から外されたが、地元の記者のジェームズ・ロング ({{Lang-en-short|James Long|links=no}}) が、差し迫った締切に間に合わせようとしているうちに、この人物の名前とハイジャック犯が使用した偽名とを混同した<ref name=":14">{{Cite news|title=One mystery solved in 'D.B. Cooper' skyjacking fiasco|date=July 22, 2016|accessdate=July 29, 2016|url=https://www.cjr.org/the_feature/db_cooper_mystery_solved.php|last=Browning|first=William|newspaper=Columbia Journalism Review|location=New York}}</ref><ref name=":15">{{Cite news|title=D B Cooper was not really D B Cooper? A journalist added swagger to mysterious hijacker's legacy|date=July 28, 2016|newspaper=India Today|url=https://www.indiatoday.in/fyi/story/d-b-cooper-was-not-really-d-b-cooper-a-journalist-added-swagger-to-mysterious-hijackers-legacy-331971-2016-07-28|accessdate=July 29, 2016}}</ref>。[[通信社]]の記者 (ほとんどの情報源では[[UPI通信社|UPI通信]]のクライド・ジャビン <{{Lang-en-short|Clyde Jabin|links=no}}><ref>{{Cite news|title=Update: Everyone wants a piece of the D. B. Cooper legend|date=November 27, 2007|accessdate=February 25, 2011|last=Guzman|first=Monica|newspaper={{仮リンク|Seattle Post-Intelligencer|en|Seattle Post-Intelligencer}}|url=https://blog.seattlepi.com/thebigblog/2007/11/27/update-everyone-wants-a-piece-of-the-d-b-cooper-legend/}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.cjr.org/the_feature/db_cooper_unsolved_hijacking_mystery.php|title=A reporter's role in the notorious unsolved mystery of 'D.B. Cooper'|last=Browning|first=William|date=July 18, 2016|newspaper=Columbia Journalism Review|location=New York|access-date=July 19, 2016}}</ref>、それ以外の情報源では[[AP通信]]のジョー・フレージャー <{{Lang-en-short|Joe Frazier|links=no}}>{{sfn|Gunther|1985|p=55}}) がこの誤植を転載してしまい、数多くのメディアがこれに倣った。こうして「D.B.クーパー」という通称が人々の記憶に残ることとなった<ref name="Braggp4" />。

[[File:727db.gif|thumb|225px|ボーイング727後方のエアステアが飛行中に展開されたときのアニメーション。アニメーションにはクーパーがエアステアから飛び降りているところも示している。エアステアの設備に重力が働き、飛行機が着陸するまで開きっぱなしだった。]]
捜索範囲を精密に決定するのは困難だった。飛行機の推定速度の若干の差異や、飛行経路の環境条件 (場所や高度によって著しく変化していた) によって、クーパーの着地地点の推測結果がかなり変化するためである<ref name="new">{{cite web|title=D.B. Cooper: Help Us Solve the Enduring Mystery|publisher=FBI|date=December 31, 2007|url=https://www.fbi.gov/page2/dec07/dbcooper123107.html|access-date=February 5, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090211153105/http://www.fbi.gov/page2/dec07/dbcooper123107.html|archivedate=February 11, 2009|deadlinkdate=8 April 2019}}</ref>。重要なことは、クーパーがパラシュートの展開に成功していたとして、クーパーがリップコードを引くまでどの程度の間、自由落下を続けていたかである{{sfn|Gunther|1985|p=68}}。[[アメリカ空軍|空軍]]の戦闘機の操縦士たちは飛行機から出てきたものは目視でもレーダーでも何も確認していなかった。パラシュートが開いたところも見ていなかった。しかし、夜間、極めて限られていた視程と空を覆う雲が下の地面からの光を覆い隠すことにより、全身に黒い服を纏った人物が空中にいても見つけにくくなる状態だった可能性があった<ref name=":16">{{cite news|title=D.B. Cooper legend still up in air 25&nbsp;years after leap, hijackers prompts strong feelings|work=[[San Francisco Chronicle]]|last=Taylor|first=Michael|date=November 24, 1996|url=}}</ref>。T-33の操縦士たちはボーイング727を一切視認しなかった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=47}}。

再現実験で、スコット操縦士がハイジャックのときに使用された航空機を同じ配置で操縦した。FBIの捜査官が約90キログラムのソリを展開されたエアステアから押し出したところ、乗員が午後8時13分に経験した機体尾部の上昇を再現できた。このことから、午後8時13分がクーパーが飛行機から飛び降りた時刻である可能性が高いという結論になった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=80–81}}。その時刻では、飛行機はワシントン南東の{{仮リンク|ルイス川 (ワシントン州)|en|Lewis River (Washington)|label=ルイス川}}上空の激しい雨風の中を通過していた<ref name="new" />。

最初の推定では、クーパーの着地地点は[[セント・ヘレンズ山]]の外延の南端にある地域であると考えていた。その場所はワシントン州アリエルから南東へ数キロメートルのところであり、ルイス川を堰き止めて作られた人口湖のマーウィン湖の近くだった<ref name=":17">{{cite news|title=30 years ago, D.B. Cooper's night leap began a legend|work=Seattle Post-Intelligencer|last=Skolnik|first=Sam|date=November 22, 2001|url=http://www.highbeam.com/doc/1G1-80264926.html|archive-url=https://archive.today/20120906132812/http://www.highbeam.com/doc/1G1-80264926.html|dead-url=yes|archive-date=September 6, 2012|access-date=January 9, 2008}} {{Subscription required}}</ref>。捜索はワシントン州南西のルイス川の南北の地域を取り巻く[[クラーク郡 (ワシントン州)|クラーク郡]]や[[カウリッツ郡]]で集中的に行われた<ref name=":18">[http://n467us.com/Data%20Files/Seamless%20Hot%20Zone%20North.jpg 主要な捜索地域の北半分の地形図]。2011年2月25日閲覧。</ref><ref name=":19">[http://n467us.com/Data%20Files/Seamless%20Hot%20Zone%20South.jpg 主要な捜索地域の南半分の地形図]。2011年2月25日閲覧。</ref>。これらの郡のFBIや保安官代理は山地の原野の大部分を徒歩やヘリコプターで捜索した。地元の農家への戸別訪問調査も実施された。別の捜索隊は哨戒艇に乗ってマーウィン湖やそのすぐ東にあるエール湖の沿岸を捜索した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=67–68}}。クーパーの痕跡や、クーパーが飛行機を出るときに所持していたと思われる装備は発見されなかった。

FBIは航空機による捜索も統括した。オレゴン陸軍州兵の[[固定翼機]]やヘリコプターが使用され、シアトルからリノまでの飛行経路全体 (この航空路は標準的な航空用語では「ヴィクター23」<{{Lang-en-short|Victor 23|links=no}}> と呼ばれている<ref name=":20">{{cite web|title=Aeronautical Information Manual|publisher=Federal Aviation Administration|url=http://www.faa.gov/air_traffic/publications/atpubs/aim/chap5/aim0503.html|access-date=August 10, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110721041334/http://www.faa.gov/air_traffic/publications/atpubs/aim/Chap5/aim0503.html|archivedate=July 21, 2011|deadurl=yes}}</ref>。しかし、クーパーについての文献のほとんどで「ヴェクター23」<{{Lang-en-short|Vector 23|links=no}}> と表記されている<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" /><ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />{{sfn|Nuttall|2010|pp=90–91}}) に沿って捜索が行われた。数多くの破壊されたこずえやプラスチック片数点、その他のパラシュートのキャノピーに似た物体が発見され、調査されたが、クーパーに関係するものは発見されなかった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=71}}。

1972年の春の雪解けからまもなく、FBIのチームがクラーク郡とカウリッツ郡の地上の徹底的な捜索をもう一度実施した。空軍、州兵、民間ボランティアに加えて{{仮リンク|ルイス駐屯地|en|Fort Lewis}}の[[陸軍]]兵士約200名が捜索に協力した。捜索は3月に18日間、4月にさらに18日間行われた{{sfn|Olson|2010|p=34}}。海洋の引き揚げ作業を業務とするエレクトロニック・エクスプロレーションズ・カンパニー ({{Lang-en-short|Electronic Explorations Company|links=no}}) は[[潜水艦]]を使用してマーウィン湖深度約60メートルを捜索した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=101–104}}。また、クラーク郡の廃墟で2名の地元住民の女性が白骨死体を発見した。この遺体は後に数週間前に誘拐されて殺害された10代の女性のものであると特定された{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=86}}。ほぼ間違いなくアメリカ史上最も広範囲で徹底的に行われた捜索作戦だったが、結局のところクーパーに関する重大な物的証拠は発見されなかった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=87–89}}。

===身代金の捜索===
クーパー事件から1ヵ月後、FBIは身代金の紙幣の通し番号の一覧表を金融機関や[[カジノ]]、競馬場、その他大規模な金の取引が日常的に行われる事業所、さらには世界中の法的機関に配布した。ノースウエスト・オリエント航空は身代金を回収した場合、その15%、最大2万5千ドルの褒賞を提供すると申し出た。1972年前半、[[アメリカ合衆国司法長官]]の[[ジョン・N・ミッチェル]]は一般の人に身代金の紙幣の通し番号を公表した<ref name="timeline">{{Cite news|title=D.B. Cooper: A Timeline|date=Octber 21, 2007|accessdate=February 10, 2011|url=http://nymag.com/news/features/39617/|last=Coreno|first=Catherine|newspaper=New York}}</ref>。1972年、2人の男性がクーパー事件の身代金の通し番号が印刷された偽の20ドル紙幣を利用して、[[ニューズウィーク]]の記者のカール・フレミング ({{Lang-en-short|Karl Fleming|links=no}}) から偽のクーパーとのインタビューと引き換えに3万ドルを騙し取ろうとする事件が発生した<ref>[https://vault.fbi.gov/D-B-Cooper%20/D-B-Cooper-Part-1-of-7/view 情報公開法により公開されたFBIのフレミング事件についての資料]、2011年2月15日閲覧。</ref>。

1973年前半、身代金は依然として行方不明であり、{{仮リンク|オレゴン・ジャーナル|en|The Oregon Journal}}は身代金の紙幣の通し番号を再発布し、自社やFBIの事務所に身代金の紙幣を最初に届けた人に1千ドルを提供すると申し出た。シアトルでは、{{仮リンク|シアトル・ポスト・インテリジェンサー|en|Seattle Post-Intelligencer}}が同様に5千ドルの懸賞金の提供を申し出た。これらの懸賞金の申し出は1974年の感謝祭の日まで有効だった。似た通し番号の紙幣は送られてきたが、完全に一致するものは発見されなかった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=95}}。ノースウエスト・オリエント航空の保険会社のグローバル・インデムニティ ({{Lang-en-short|Global Indemnity Co.|links=no}}) は{{仮リンク|ミネソタ州最高裁判所|en|Minnesota Supreme Court}}の命令に従い、ノースウエスト・オリエント航空の身代金に対する支払請求に対して18万ドルを支払った{{sfn|Gunther|1985|p=184}}。

===後の展開===
後の分析で、最初の着地地点の推定は正確ではなかったことが判明した。クーパーの飛行速度と高度の要求に応じるため、スコット操縦士は飛行機を手動で飛ばしていた。後にスコット操縦士は、飛行経路は最初の推定よりも著しく東の方にあったことを確認した<ref name="Seven1996-11-17" />。305便の4分後に飛んでいた[[コンチネンタル航空]]機の操縦士のトム・ボアン ({{Lang-en-short|Tom Bohan|links=no}}) を筆頭に、様々な情報源から新たなデータが得られた。これにより、着地地点に影響する風向の推定に誤りがあり、80度もずれていた可能性があると判明した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=111–113}}。さらに他の補助的なデータも加えて、実際の着地地点はおそらく最初の推定よりも南南東の地域であると推定された。その場所は{{仮リンク|ワシューガル川|en|Washougal River}}流域にある{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=114–116}}。

===捜査の停止===
2016年7月8日、FBIはクーパー事件の捜査を停止することを告知した。捜査の資源と人員をより重要で緊迫した優先すべき案件に集中させる必要があるとの理由だった。地元のFBIの事務所は今後も物的証拠 (特にパラシュートや身代金に関係あるもの) が発見されれば全て受理するという。捜査資料は45年間の捜査の過程で60巻にもなり、ワシントンD.C.のFBI本部で歴史的な理由により保管される。FBIのウェブサイトでは、現在、数年間にわたって集められた28点の証拠についての書類が掲載されており、一般の人でも閲覧が可能である<ref>{{cite web|url=https://vault.fbi.gov/D-B-Cooper%20|title=DB Cooper Vault|publisher=FBI|access-date=July 26, 2018}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.fbi.gov/seattle/press-releases/2016/update-on-investigation-of-1971-hijacking-by-d.b.-cooper|title=Update on Investigation of 1971 Hijacking by D.B. Cooper|publisher=FBI|access-date=July 12, 2016}}</ref>。

==物的証拠==
公式のクーパーの身体的特徴の説明は一貫しており、信頼性が高い考えられる。客室乗務員のシャフナーとマックローは最も長くクーパーと行動をともにしており、同夜に別々の都市で尋問を受けた<ref name="FBI-Redux" />。2人はほとんど同一の説明をしており、身長は178センチメートルから180センチメートル、体重は77キログラムから82キログラム、年齢は40代で、間の狭い茶色の目、黒ずんだ肌という特徴があったという<ref name="enigma">{{Cite web|url=http://www.jcs-group.com/enigma/crimes/cooper.html|title=D. B. Cooper|accessdate=January 31, 2011|publisher=|website=It's an Enigma}}</ref>。

1978年から2017年の間に、クーパーに関する証拠が4点だけ発見されている。うち2点は確実に関係があり、残り2点は関係する可能性があるという程度である。

*[[1978年]]、ボーイング727のエアステアを降下させるための説明書が印刷された札が、マーウィン湖の北の{{仮リンク|キャッスルロック (ワシントン州)|en|Castle Rock, Washington|label=キャッスルロック}}から約20キロメートルの木材の切り出しに使われる道の近くで鹿猟師により発見された。しかし、この地域は305便の基本的な飛行経路に含まれる{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=108}}。

[[File:Money stolen by D. B. Cooper.jpg|thumb|1980年に発見された紙幣の一部]]
*[[1980年]]2月、[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]から川を下って約14キロメートル、アリエルの南西32キロメートルのところにある、ティナ・バーと呼ばれる海岸地帯のところのコロンビア川に面した地点で、8歳のブライアン・イングラム ({{Lang-en-short|Brian Ingram|links=no}}) が家族とともに休暇を過ごしていた。イングラムがキャンプファイヤーを設けるために砂地の川岸を熊手でかいていると、クーパー事件の身代金の紙幣3束が出てきた。紙幣は著しく風化していたが、紙幣を束ねるゴムバンドは依然として残っていた<ref name=":21">{{Cite web|url=https://www.coinworld.com/news/us-coins/2014/07/1971-skyjacking-cash-ransom-found-by-eight-year-old-in-1980.all.html|title=D.B. Cooper skyjacking: 8-year-old boy unearths ransom notes from 1971 incident|accessdate=August 29, 2015|publisher=|website=Coin World|first=Michele|last=Orzano|date=July 21, 2014}}</ref>。FBIの技官はその紙幣が正真正銘の身代金の一部であることを確認した。2束は20ドル紙幣が100枚、1束は90枚で、全てクーパーに渡したときと同じ順番で重なっていた<ref name=":22">{{cite web|url=http://foia2.fbi.gov/cooper_d_b/cooper_d_b_part07.pdf|title=FBI Freedom of Information Act documents, part 7, pp. 10–12|format=PDF|access-date=April 23, 2011|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110721035908/http://foia2.fbi.gov/cooper_d_b/cooper_d_b_part07.pdf|archivedate=July 21, 2011}}</ref><ref name=":23">{{Cite news|title=Boy to Split $5,520 of D. B. Cooper's Loot|date=May 22, 1986|author=[[Associated Press]]|url=http://articles.latimes.com/1986-05-22/news/mn-6995_1|accessdate=March 6, 2011|newspaper=[[Los Angeles Times]]}}</ref>。1986年、長く続いた交渉の末、回収された紙幣は少年とノースウエスト・オリエント航空の保険会社の間で等分された。FBIはそのうちの14枚を証拠として保有した<ref name="timeline" /><ref name=":24">{{Cite news|title=Six Years Later Brian Ingram Gets a Piece of D.b. Cooper's Hijack Haul|date=June 23, 1986|accessdate=February 28, 2011|url=https://people.com/archive/six-years-later-brian-ingram-gets-a-piece-of-d-b-coopers-hijack-haul-vol-25-no-25/|newspaper=[[ピープル (雑誌)|People]]}}</ref>。2008年、イングラムは件の紙幣のうちの15枚をオークションにかけて約3万7千ドルで売った<ref name=":25">{{cite news|title=D.B. Cooper Skyjacking Cash Sold in Dallas Auction|agency=Associated Press|date=June 13, 2009|url=https://www.foxnews.com/story/d-b-cooper-skyjacking-cash-sold-in-dallas-auction|access-date=June 14, 2008|work=Fox News}}</ref>。今日まで、残りの9,710枚の紙幣の所在が判明していない。これらの紙幣の通し番号は一般の人が捜索できるようにインターネットで閲覧できる<ref name="check-six" />。コロンビア川で発見された身代金の紙幣と、エアステアの使い方を説明する札は、飛行機の外で発見されたクーパー事件に由来すると確認された唯一の物的証拠である<ref name="isodbc">{{cite news|title=In Search of D.B. Cooper: New Developments in the Unsolved Case|work=F.B.I. Headline Archives|date=March 17, 2009|url=https://www.fbi.gov/news/stories/2009/march/dbcooper_031709/|access-date=January 22, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110117113214/http://www.fbi.gov/news/stories/2009/march/dbcooper_031709|archivedate=January 17, 2011}}</ref>。
*[[2017年]]、ボランティアで調査を行っていた一団が、[[太平洋岸北西部]]で数十年経過したパラシュートの紐らしきものを発見した<ref name=":26">{{cite web|title=DB Cooper mystery: 'Potential' physical evidence uncovered in search|url=https://www.foxnews.com/us/2017/08/10/db-cooper-mystery-potential-physical-evidence-uncovered-in-search.html|website=Fox News|access-date=August 11, 2017|date=2017-08-09|last=Chamberlain|first=Samuel}}</ref>。その後、2017年8月にクーパーのバックパックの一部らしき気泡ゴムの破片が発見された<ref>{{cite web|title=FBI accepts new evidence in D.B. Cooper hijacking cold case|url=http://www.nydailynews.com/news/crime/new-potential-evidence-emerges-b-cooper-hijacking-case-article-1.3426633|website=New York Daily News|accessdate=April 19, 2019|last=Cerullo|first=Megan}}</ref>。

===FBIの情報公開===
[[2007年]]後半、FBIは2001年にクーパーのネクタイから発見された生体試料3点から断片的な[[デオキシリボ核酸|DNA]]プロファイルを取得したと発表した<ref name="new" />。しかし、後にFBIは、クーパーが試料の由来である証拠は存在しなかったことを認めた。特別捜査官のフレッド・ガット ({{Lang-en-short|Fred Gutt|links=no}}) によると、ネクタイには少量のDNA試料が2点、多量のDNA試料が1点存在したが、これらの試料から確実な証拠を引き出すのは難しいという<ref name="no match">{{Cite news|title=D.B. Cooper DNA Results: 'Not A Match'|date=August 9, 2011|accessdate=August 9, 2011|newspaper=ABC News|first=Jack|last=Cloherty|url=https://abcnews.go.com/US/db-cooper-dna-results-match/story?id=14258726}}</ref>。また、FBIは以前は非公開だった証拠の資料を人々に公開した。公開された証拠には、クーパーが使用した1971年の航空券 (価格は20ドル、現金で支払った) も含まれる<ref name="King5">{{cite news|title=Investigators: F.B.I. unveils new evidence in D.B. Cooper case|work=[[KING-TV|King 5]]|last=Ingalls|first=Chris|date=November 1, 2007|url=http://www.king5.com/localnews/stories/NW_110107INK_cooper_chute_KS.1cbb87e02.html|access-date=March 11, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080105030027/http://www.king5.com/localnews/stories/NW_110107INK_cooper_chute_KS.1cbb87e02.html|archivedate=January 5, 2008}}</ref>。また、以前は非公開だった似顔絵のスケッチやデータ表も、クーパーの身元特定に繋がる情報の提供を人々に求めつつ公開した<ref name="latinapp" /><ref name="new" /><ref name=":27">{{cite web|title=Interview with lead FBI Investigator Larry Carr|publisher=Steven Rinehart|date=February 2, 2008|url=http://www.stevenrinehart.com/uploads/LarryCarrInterview.mp3|access-date=February 2, 2008}}</ref>。

FBIは、クーパーは渡された2つのメインのパラシュートのうち、技術的により優れていたプロスポーツ用のパラシュートではなく、古い方のパラシュートを選んだこと、2つの予備のパラシュートのうち、スカイダイビングの授業の実演に使用するリップコードが動作せず使用できないダミーの方を選んでいたことも公開した<ref name="new" />。ダミーのパラシュートには、経験豊富なスカイダイバーならば使用できないと気付ける明白な印がついていた{{sfn|Gunther|1985|p=40}}。クーパーは予備のパラシュートの使用できる方を破壊していた。パラシュートのシュラウドを金の入った鞄を縛って閉じるために使用した可能性があり<ref name="new" />、マックローの証言によると、クーパーは体に鞄を固定するために使用していたという<ref name="new" />。FBIは、予備のパラシュートにダミーが混入していたのは、シアトルのスカイダイビング・スクールからパラシュートを急いで入手した際に誤って紛れ込んでしまったためであると強調した<ref name="King5" />。

[[2009年]]3月、FBIは、シアトルにある{{仮リンク|バーク自然史文化博物館|en|Burke Museum of Natural History and Culture}}の[[古生物学|古生物学者]]のトム・ケイ ({{Lang-en-short|Tom Kaye|links=no}}) が調査団を結成していたことを公開した。団員にはサイエンティフィック・イラストレータのキャロル・アブラクジンスカス ({{Lang-en-short|Carol Abraczinskas|links=no}})、[[金属工学|金属工学者]]のアラン・ストーン ({{Lang-en-short|Alan Stone|links=no}}) が含まれる。後に「クーパー・リサーチ・チーム」({{Lang-en-short|Cooper Research Team|links=no}})<ref name="citizensleuths">{{cite web|url=http://www.citizensleuths.com/|title=Home|publisher=|accessdate=8 April 2019|website=Citizen Sleuths}}</ref>として知られるようになる調査団は、GPSや衛星画像、その他1971年には使用できなかった技術を用いてクーパー事件の重要な要素を再調査した<ref name="isodbc" />。埋まっていた身代金の紙幣やクーパーの着地地点については新しい情報はほとんど得られなかったが、[[電子顕微鏡]]を用いてクーパーのネクタイに付着していた数百の微小な粒子を発見し、分析にかけることができた。粒子の中から{{仮リンク|ヒカゲノカズラ属|en|Lycopodium}}の[[シダ植物]]の[[胞子]] (調合薬に由来する可能性が高い) が特定され、[[ビスマス]]や[[アルミニウム]]の破片も特定された<ref>{{Cite web|url=https://citizensleuths.com/pollen.html|title=Pollen|accessdate=8 April 2019|publisher=|website=Citizen Sleuths}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://citizensleuths.com/titaniumparticles.html|title=Titanium Particles from Cooper's Tie|accessdate=8 April 2019|publisher=|website=Citizen Sleuths}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://citizensleuths.com/misc-particles.html|title=Miscellaneous Enigmatic Particles|accessdate=8 April 2019|publisher=|website=Citizen Sleuths}}</ref>。

[[2011年]]11月、ケイは合金でない純粋な[[チタン]]の粒子もネクタイから発見されたと発表した。ケイによると、チタンは2010年代と比べると1970年代では非常に珍しいものであり、当時は金属成形の現場や工場、化学薬品会社にしかなかったという。化学薬品会社ではアルミニウムと組み合わせて極めて腐食性の高い物質の保管に使用していた<ref name=":28">
{{Cite news|title=40 years later, new evidence unveiled in DB Cooper case|date=November 23, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130909113338/http://www.king5.com/news/investigators/40-years-after-the-crime-new-evidence-unveiled-in-DB-Cooper-case-134417003.html|archivedate=9 September 2013|url=http://www.king5.com/news/investigators/40-years-after-the-crime-new-evidence-unveiled-in-DB-Cooper-case-134417003.html|last=Ingalls|first=Chris|accessdate=May 29, 2013|newspaper=King5.com}}
</ref>。この発見から、クーパーは化学者か金属工学者であった可能性が示唆されている。もしかしたら金属や化学薬品を製造する工場の技術者や経営者 (当時、そのような施設でネクタイを身につけるのは技術者か経営者だけだった) だったかもしれない<ref name=":29">
{{Cite news|title=40 years later, DB Cooper's identity a mystery|date=November 23, 2011|accessdate=November 23, 2011|url=http://www.kgw.com/news/local/40-years-later-DB-Coopers-identity-a-mystery--134407308.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921054223/http://www.kgw.com/news/local/40-years-later-DB-Coopers-identity-a-mystery--134407308.html|archivedate=September 21, 2013|newspaper=KGW.com|last=Johnson|first=Gene}}
</ref>。そのような工場からスクラップされた金属を回収していた会社に勤めていた可能性もある<ref name="conclusions">
{{Cite web|url=http://www.citizensleuths.com/conclusions.html|title=Research Summary|accessdate=August 28, 2014|publisher=|website=Citizen Sleuths|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111125233029/http://www.citizensleuths.com/conclusions.html|archivedate=25 November 2011}}
</ref>。

[[2017年]]1月、ケイはネクタイから発見された粒子の中から[[希土類元素|希土類]]鉱物である[[セリウム]]や[[硫化ストロンチウム]]も特定したと報告した。1970年代でそのような元素が利用された例は珍しく、その例の中には[[ボーイング]]の[[ボーイング2707|超音速旅客機開発計画]]があった。このことから、クーパーはボーイングの従業員であった可能性がある<ref name=":30">{{Cite news|title=Scientists say they may have new evidence in D.B. Cooper case|date=January 13, 2017|newspaper=USA Today|accessdate=January 16, 2017|url=https://www.usatoday.com/story/news/nation-now/2017/01/13/scientists-say-they-may-have-new-evidence-db-cooper-case/96575858/|last=Ingalls|first=Chris}}</ref><ref name=":31">{{Cite news|title=New evidence: Was DB Cooper a Boeing employee?|date=January 13, 2017|accessdate=January 16, 2017|url=https://www.king5.com/article/news/crime/new-evidence-was-db-cooper-a-boeing-employee/281-385924766|newspaper=King5.com|last=Ingalls|first=Chris}}</ref>。それ以外のこの元素の由来の可能性として、ポートランドの企業の{{仮リンク|テレダイン・テクノロジーズ|en|Teledyne Technologies|label=テレダイン}}や[[テクトロニクス]]のような、[[ブラウン管]]を製造していた工場が挙げられる<ref name=":32">{{cite web|url=http://www.oregonlive.com/portland/index.ssf/2017/01/latest_db_cooper_theory_skyjac.html|title=D.B. Cooper could have worked at Portland-area tech firm, scientists say|publisher=|accessdate=8 April 2019|website=OregonLive|last=Williams|first=Kale|date=January 16, 2017}}</ref>。

==仮説と憶説==
[[File:Dbc.jpg|thumb|FBIによる加齢を考慮したクーパーのスケッチ]]

FBIは45年間にも及んだ捜査の際に時折、目撃者の証言や数少ない物的証拠から導出した作業仮説や暫定的な結論の一部を公開した<ref name="NPR">{{cite news|title=F.B.I. Seeks Help in Solving Skyjacking Mystery|work=[[National Public Radio]]|last=Tedford|first=Deborah|date=January 2, 2008|url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=17787290|access-date=March 11, 2008}}</ref>。

===クーパーのプロファイル===
クーパーはシアトルに詳しかったようで、空軍の退役軍人だった可能性があった。これは、飛行機がピュージェット湾を旋回中に、クーパーは飛行機の中からタコマ市の存在を認識していたという証言や、マッコード空軍基地がシアトル・タコマ国際空港から車で約20分の距離にあるとマックローに話したことに基づいている。マッコード空軍基地と空港との距離はほとんどの一般人は知らなかっただろう{{sfn|Gunther|1985|p=53}}。また、クーパーの経済状況は絶望的な状態だった可能性が非常に高い。FBIの元主任捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハ ({{Lang-en-short|Ralph Himmelsbach|links=no}}) によると、[[強要罪]]などの多額の金を強奪する犯罪はほぼ必ず大金が至急必要であることが動機であるという。そうでなければ、犯罪にそれほどの危険を冒す価値はない{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=96}}。もしくは、クーパーはそれが可能であることを証明したかったためだけに高所から飛び降りたスリル狂いだった可能性もある{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=115}}。

捜査官たちは、クーパーは自身の偽名を人気のある1970年代の[[ベルギー]]の漫画シリーズからとったという仮説を立てた。その漫画には{{仮リンク|ダン・クーパー (漫画)|en|Dan Cooper (comics)|label=ダン・クーパー}}という名前の架空のヒーローが登場する。漫画のクーパーは[[カナダ空軍]]のテストパイロットで、数多くの冒険を繰り広げており、その中にはパラシュートで降下するシーンもあった (FBIのウェブサイトに転載されていた漫画の表紙の1つには、漫画のクーパーが落下傘兵の装備を全身に纏ってスカイダイビングしている様が描かれている)<ref name="isodbc" />。この漫画は英語に翻訳されたことがなく、アメリカに輸出されたこともなかった。ハイジャック犯のクーパーはヨーロッパでの仕事の際にこの漫画を知ったのだろうと推測された<ref name="isodbc" />。クーパー・リサーチ・チームは別の可能性を提案している。クーパーは[[カナダ]]人であり、カナダでこの漫画を見つけたというものである。カナダでもこの漫画は販売されていた<ref name=":33">{{Cite news|title=FBI-backed team finds Canadian link to famous '70s plane hijacking|date=November 24, 2011|accessdate=December 5, 2011|url=https://nationalpost.com/news/canada/fbi-backed-team-finds-canadian-link-to-famous-60s-era-plane-hijacking|last=Boswell|first=Randy|newspaper=[[National Post]]}}</ref>。クーパー・リサーチ・チームは、クーパーは身代金を求めて"negotiable American currency"を要求したことに言及した{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=18}}。このような表現はアメリカ人ならば滅多に使用しない。目撃者によると、クーパーには独特の訛りは見られなかったという。そのため、もしクーパーがアメリカ人ではなかったら、カナダ出身である可能性が高いという<ref name=":34">
{{Cite web|url=http://www.citizensleuths.com/conclusions.html|title=Research Summary|accessdate=December 7, 2011|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111125233029/http://www.citizensleuths.com/conclusions.html|archivedate=25 November 2011|website=Citizen Sleuths}}
</ref>。

証拠から、クーパーには技術や飛行機、周辺の地理の知識があったことが示唆されている。パラシュートを4つ要求したことから、1人以上の人数の人質をとって、一緒に飛び降りさせようとしていた可能性を推測させる。このことから、FBIはクーパーに意図的に役に立たないパラシュートを与えたわけではなかったことは間違いないだろうと推測されている{{sfn|Gunther|1985|p=44}}。クーパーはボーイング727-100を選んだが、その理由はパラシュートでの脱出に理想的だったためである。機体尾部のエアステアの存在だけでなく、機体尾部に配置された3機のエンジンの位置が高かったことも都合が良かった。このおかげで、エンジンの排気との距離が近いにもかかわらず、飛行機から無理なく安全に飛び降りることができた。また、ボーイング727-100はシングルポイント給油が可能だった。当時の最新の技術革新により、単一の燃料ポートを通じて全ての燃料タンクに急速に燃料を補給できた。ボーイング727-100は、商業用ジェット旅客機には珍しく、失速せずに低速で低い高度を飛ぶ能力もあった。クーパーは、3名の操縦士により逆襲される可能性のあるコックピットに入ることなく飛行機の速度や高度を制御するための方法について理解していた{{sfn|Gunther|1985|p=46}}。さらに、クーパーは、フラップの適切な設定が15度であること (この型の飛行機に独特のことである) や典型的な燃料補給時間のような、重要性の高い詳細な情報についてもよく知っていた。機体尾部のエアステアを飛行中に降下させることができることも知っていた。乗客を搭乗させての飛行する際にそのようなことをする必要のある状況は存在しないため、民間機の乗員はそのような操作が可能なことは全く知らされていなかった。クーパーは、客席後方にある単一のスイッチを操作すると、エアステアを下ろす操作をコックピットから上書きできないことも知っていた{{sfn|Gunther|1985|p=136}}。この飛行機に関する知識の一部は事実上、[[中央情報局|CIA]]の準軍事部隊にのみ知られていたもののようである{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=43}}。

クーパー・リサーチ・チームによると、クーパーがハイジャックしたタイミング、さらには選んだ服装さえもクーパーの周到な計画の一環だった可能性があるという。FBIは事件の起きた週末に行方をくらました人物を発見できなかったが、ケイは、クーパーは事件の後に通常の仕事に戻った可能性があるという説を唱えている。ケイは、着地地点の森を抜け、交通手段を調達し、家に戻るのに最良のタイミングは4日間の週末の前の日であり、森から出るのにヒッチハイクが必要となれば、私服よりもスーツ姿の方が都合が良かったと述べている<ref name="conclusions" />。

FBIはクーパーはスカイダイビングについての技術や経験に乏しかったという結論を出した。2006年から解散される2016年までFBIの調査チームを率いていたラリー・カー ({{Lang-en-short|Larry Carr|links=no}}) 特別捜査官によると、FBIは当初はクーパーはスカイダイビングの経験が豊富であり、もしかしたら[[空挺兵]]かもしれないとさえ考えていたが、数年後にその考えは誤りであるという結論に至ったという。フラップが15度で、荷が軽かったボーイング727はおそらく時速172キロメートルで飛行していたと見られるが、スカイダイビングの経験が豊富な人ならば、雨が降る漆黒の闇夜の中を、顔に時速172キロメートルの風が吹きつける状態で、ローファーやトレンチコートを着て飛び降りるという危険な行動はとらないという。また、クーパーは予備のパラシュートが訓練用で縫われて開かなくなっていることを見逃したが、スカイダイビングの経験の豊富な人ならば確認するという<ref name="isodbc" />。クーパーはヘルメットを持ち込んだり要求したりすることがなく{{sfn|Gunther|1985|p=15}}、与えられたメインのパラシュートから技術的に劣っているうえにより古い方のパラシュートを選んでいた<ref name="new" />。11月の高度約3千メートル、推定温度-9℃のワシントン州上空を、暴風による体温の低下に対する適切な防護策を用意せずに飛び降りてしまってもいる<ref name=":35">{{cite news|newspaper=USA Today|title=D.B. Cooper enigma still fascinates|url=https://www.usatoday.com/USCP/PNI/NEWS/2011-11-25-BCUSFEADB-Cooper40th-Anniversary_ST_U.htm|last=Johnson|first=Gene|agency=Associated Press|date=November 25, 2011|access-date=August 27, 2012}}</ref><ref name="autogenerated1">{{Cite web|url=https://archives.fbi.gov/archives/news/stories/2009/march/in-search-of-d.b.-cooper/dbcooper_031709|title=In Search of D.B. Cooper: New Developments in the Unsolved Case|accessdate=November 9, 2016|publisher=FBI|date=March 17, 2009}}</ref>。

FBIは当初からクーパーは飛び降りた後に死亡したと推測していた<ref name="isodbc" />。カーは、計画もなく、適切な装備もなく、悪天候の中で荒野に飛び降りたため、おそらくパラシュートを開くことすらなかっただろうと述べた<ref name="FBI-Redux" />。FBIは、クーパーがたとえ安全に着陸したとして、着地地点を前もって決めてそこに共犯者を配置しなければ、クーパーが初冬の山の中を生き延びることはほぼ不可能だろうと主張した。着地地点に共犯者がいたとしても、目標の着地地点に到るには正確なタイミングで飛び降りる必要があり、それにはさらに飛行機の乗員の協力も必要である。しかし、クーパーが特定の地点に正確に着地できるように乗員に援助を求めたり、乗員がクーパーを助けたりした証拠はなく、クーパーが雲でいっぱいの暴風の吹き荒れる暗闇の中に飛び降りたときに自身の居場所が明確に理解できた証拠もない<ref name="enigma" />。

===回収された紙幣===
1980年に身代金の紙幣が発見されたことにより、新たな臆説が生まれた。結局のところ、解明された謎よりも新たに生じた疑問の方が多かった。捜査官や専門家の初期の声明は、紙幣の束は数多くの支流の一つからコロンビア川へ自然に流れ着いたという推測に基づいていた。[[アメリカ陸軍工兵司令部]]所属の[[水文学|水文学者]]は、紙幣は円形に並ぶようにばらばらに散らばっており、もつれあっていたことについて言及している。このことは、紙幣は意図的に埋められたのではなく、川の作用により堆積したことを示唆している{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=110}}。この結論が正しければ、クーパーはマーウィン湖やルイス川の支流の近くに着陸しなかったという説を支持することになる。ルイス川はティナ・バーよりも下流でコロンビア川に注ぎ込む。着陸地点はワシューガル川の近くであるという推測 ([[#後の展開]]を参照) に信頼性を与えている。ワシューガル川は紙幣の発見場所よりも上流でコロンビア川に合流する{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=110–111}}。

しかし、紙幣は自然に流れて堆積したものであるという仮説には難点もある。紙幣の束の1つから紙幣10枚がなくなっていたことの説明になっていない点や、3つの紙幣の束が残りの紙幣の束から分離して一箇所に集まっていたことの論理的な説明が存在しない点である。物的証拠は地理上の証拠とも一致しない。ヒンメルスバッハは、札束が自然に浮かんで岸に流れ着いたのならば、クーパー事件から数年以内にそれが起こっていたはずであり、そうでなくても、ゴムバンドはとっくに風化しきっていただろうと述べている。このことはクーパー・リサーチ・チームが実験で確認している<ref name="conclusions" />。地理上の証拠によれば、紙幣は陸軍工兵司令部が川の[[浚渫]]を行った1974年以降にティナ・バーへ流れ着いたという。[[ポートランド州立大学]]の地理学者のレナード・パーマー ({{lang-en-short|Leonard Palmer|links=no}}) は、浚渫により川岸に堆積していた粘土の中から砂や堆積物の層を別個に2つ発見した。また、紙幣が埋まっていた砂の層も見つけた。これにより、紙幣は浚渫が完了してから長い時間がたった後に流れ着いたことが示唆されているという{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=110}}<ref>{{cite web|title=Cash linked to 'D.B. Cooper' up for auction|url=http://www.msnbc.msn.com/id/23889269|publisher=[[MSNBC]]|date=March 31, 2008|access-date=March 31, 2008|deadlinkdate=April 19, 2019}}</ref>。クーパー・リサーチ・チームは粘土の層は自然に堆積したことを示す証拠を引き合いに出してパーマーの結論に異議を唱えた。もしこの発見が本当ならば、ゴムのバンドの実験に基づけば、紙幣が流れ着いたのはハイジャックから1年以内であるということになる。しかし、札束がティナ・バーにどのように流れ着いたか、札束がどこから来たのかといったことの説明にはなっていない<ref>{{Cite web|url=https://citizensleuths.com/palmer-report.html|title=Palmer Report|accessdate=May 9, 2015|publisher=|website=Citizen Sleuths}}</ref>。

ヒンメルスバッハは、もし自分がクーパーを探しに行こうとしたならば、ワシューガルに向かっていただろうと記している{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=115}}。ワシューガル谷とその周辺は、その後に個人や団体が度々私的に捜索してきた。今日まで、ハイジャックに直接起因する証拠の発見は報告されていない。調査者の中には、[[1980年のセント・ヘレンズ山噴火|1980年のセント・ヘレンズ山の噴火]]により、残っていた物的証拠が抹消されてしまった可能性があると推測している人もいる<ref>{{Cite news|title=D.B. Cooper: A stupid rascal|date=November 24, 1981|accessdate=June 29, 2016|url=https://news.google.com/newspapers?nid=1298&dat=19811124&id=IfpNAAAAIBAJ&pg=6868,4075230|newspaper=The Free Lance-Star|last=Connolly|first=Patrick}}</ref>。

別の仮説も提唱された。一部の人は、紙幣は離れた場所で何者か (もしくは野生動物) により発見され、川岸に運ばれて、そこに埋め直されたと推測した。コーリッツ郡の保安官は、クーパーはエアステアで誤って札束をいくつか取り落とし、落ちた札束は飛行機から吹き飛ばされてコロンビア川に落ちたという説を唱えた。地元の新聞の編集者は、クーパーは金を使うことができないと悟り、自ら川に投棄したか、ティナ・バーに (さらには他の場所にも) 一部を埋めたという仮説を立てた{{sfn|Gunther|1985|p=203}}。今日まで提案された仮説に、存在する全ての証拠を満足に説明しているものは存在しない<ref name="conclusions" />。

==出訴期限法==
1976年、クーパー事件に対する[[時効|出訴期限法]]による時効が差し迫っているという問題についての議論が巻き起こった。出版物に掲載された法的な分析のほとんどで、この件はほとんど重要性がないだろうという見解で意見が一致した<ref name=":36">{{Cite news|title=Sky Thief: Bandit Who Stole $200,000 in 1971 Still Being Sought|date=November 13, 1976|newspaper=Pittsburgh Post-Gazette|last=Frazier|first=Joe|page=B-1}} 2013年3月3日閲覧。</ref>。出訴期限法の解釈は事件や裁判によって大きく変化するうえに、告訴者はクーパーはいくつかの妥当な技術的背景により免責特権は喪失していると主張することができた{{sfn|Gunther|1985|p=179}}<ref name=":37">{{Cite web|url=https://fas.org/sgp/crs/misc/RL31253.pdf|title=Statute of Limitation in FederalCriminalCases: An Overview|accessdate=March 6, 2011|publisher=|website=Congressional Research Service Reports|last=Doyle|first=Charles|date=November 14, 2017|format=PDF}}</ref>。11月、ポートランド[[大陪審]]が"[[John Doe]], ''aka'' Dan Cooper" (直訳すると「ジョン・ドゥ、またの名をダン・クーパー」) に対してハイジャックと{{仮リンク|ホッブズ法|en|Hobbs Act}}の違反により[[欠席裁判|犯人欠席]]のまま起訴決定の評決を下し、結局この問題は重要性がなくなった<ref name=":38">{{Cite news|title=D.B. Cooper legend lives|date=November 24, 1996|accessdate=March 6, 2011|url=http://www.oregonlive.com/special/current/dbcooper.ssf?/special/current/dbcooper_story1.frame|newspaper=The Oregonian|last=Denson|first=Bryan}}</ref>。起訴決定の評決が下ったことにより、万が一クーパーが将来的に逮捕されれば延長が可能である起訴が正式に開始される{{sfn|Gunther|1985|p=179}}。

==被疑者==
1971年から2016年の間、FBIは千人を超える被疑者を扱ってきた。その中には売名屋と見なされている人物や、死に際に犯人であると告白した人物も含まれる<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。しかし、被疑者たちが犯人であることを示す証拠はせいぜい状況証拠しか見つからず、クーパー事件と被疑者を結び付けるものはどれも推測や根拠の薄い告発でしかない。

===ケネス・クリスティアンセン===
2003年、[[ミネソタ州]]の住民であるライル・クリスティアンセン ({{lang-en-short|Lyle Christiansen|links=no}}) はテレビでクーパー事件についてのドキュメンタリー番組を見て、自分の死んだ兄弟のケネス・クリスティアンセン ({{lang-en-short|Kenneth Christiansen|links=no}}) がクーパーであることに気がついた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。最初はFBIにケネスが真犯人であると信じてもらおうと徒労を繰り返し、次に著述家であり映画監督でもある[[ノーラ・エフロン]]にもかけ合った。エフロンはクーパー事件の映画を制作したいと考えていたが、それでもこれも徒労に終わった。その後、ライルは[[ニューヨーク]]に住む[[探偵]]に接触した。2010年、刑事のスキップ・ポーティアス ({{lang-en-short|Skipp Porteous|links=no}}) がクリスティアンセンを犯人と見なす書籍を著した{{sfn|Porteous|Blevins|2010}}。翌年、[[ヒストリー (TVチャンネル)|ヒストリー]]の{{仮リンク|Brad Meltzer's Decoded|en|Brad Meltzer's Decoded|label=''Brad Meltzer's Decoded''}}というシリーズ番組のエピソードでも、クリスティアンセンとクーパー事件を結び付ける状況証拠がかいつまんで解説された<ref name="BradMeltzer">{{cite episode|series={{仮リンク|Brad Meltzer's Decoded|en|Brad Meltzer's Decoded}}|title=D.B. Cooper|network=[[ヒストリー (TVチャンネル)|History]]|airdate=January 6, 2011|season=1|number=6}}</ref>。

クリスティアンセンは1944年に陸軍に入隊し、空挺兵の訓練を受けた。1945年に配置されたときには[[第二次世界大戦]]は終結していたが、1940年代後半に[[連合国軍占領下の日本|占領軍]]の元で[[日本]]に配置されていた間、時折パラシュートの訓練を受けていた。陸軍を退役すると、1954年に[[ポリネシア]]で整備士としてノースウエスト・オリエント航空に入社した。その後、シアトルを拠点に客室乗務員、次いでパーサーを経験した<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クーパー事件のとき、クリスティアンセンは45歳だったが、目撃者の証言と比べると、背は低く (173センチメートル)、体重も軽く (68キログラム)、肌の色も白めだった<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クリスティアンセンはクーパーと同じく愛煙家で、特にバーボンが好きだった。クーパーもバーボンを好んでいた。クリスティアンセンは[[左利き]]だった。クーパーのネクタイの証拠写真では、ネクタイ留めは左側から取り付けられていた。このことから、ネクタイ留めを取り付けた人物、つまりクーパーは左利きだったことを示唆している<ref name="FBI-Redux" />。シャフナーは記者に対し、クリスティアンセンの写真は、これまで見せられた他の被疑者の写真よりも、記憶の中のクーパーの外見と似ていると述べている。しかし、クリスティアンセンがクーパーであると断定することはできなかった<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。なお、クーパーと最も接触した人物であるマックローは、報道機関のインタビューを一切受諾していない<ref>{{cite news|title=Tina Mucklow, D.B. Cooper-hijacking flight attendant found; Woman was go-between for Cooper, crew|author=McShane, Larry|date=September 2, 2011|url=http://www.nydailynews.com/news/national/tina-mucklow-b-cooper-hijacking-flight-attendant-found-woman-go-between-cooper-crew-article-1.953428|location=New York|work=Daily News}}</ref>。

クリスティアンセンはクーパー事件から数ヵ月後に家を現金で購入したと言われている。クリスティアンセンは1994年に[[悪性腫瘍|癌]]で死の縁に陥るが、その際にライルに向けて、ライルが知っておくべきことがあるが、伝えることができないと語ったという。ライルはクリスティアンセンにその話をするように迫ったことは全くなかったと述べた<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。クリスティアンセンの死後、遺族たちは金貨や貴重な切手のコレクションを発見した。銀行口座には20万ドル以上の金が残されていた。ノースウエスト・オリエント航空に関するニュース記事の切り抜きのフォルダも発見した。切り抜きはクリスティアンセンがノースウエスト・オリエント航空に雇われた1950年代頃から始まり、クーパー事件の直前で終わっていた。クーパー事件がノースウエスト・オリエント航空の歴史上、比べるまでもなく最重要な出来事だったのにもかかわらずである。クリスティアンセンは1971年以降も長期間、ノースウエスト・オリエント航空で非常勤の仕事を続けていた。しかし、それからノースウエスト・オリエント航空関係の記事の切り抜きをすることは一切なかったようだ<ref name="Gray-NYmag2007-10-21" />。

インターネット上の団体の調査によると、後にクリスティアンセンはクーパー事件後に家を現金で買ったわけではないことが証明されたという。実際は住宅ローンを利用して17年かけて支払ったらしい。また、同調査によると、クリスティアンセンは1990年代中頃に1エーカー1万7千ドルの土地を20エーカーほど売却しており、死後に口座に残していた大量の金はそれに由来するという<ref>{{cite web|url=http://website.thedbcooperforum.com/Suspects/|title=Suspects|accessdate=April 20, 2019|publisher=|website=The D.B. Cooper Forum}}</ref>。

クリスティアンセン犯人説はポーティアスの著書や2011年のテレビのドキュメンタリーにより知名度を得たが、FBIはクリスティアンセンは被疑者とは考えられないという立場をとっている<ref name="new" /><ref name="CNN2011-08-01" />。FBIは、目撃者による外見の説明とあまり一致しないことや、クーパーのプロファイリングから推測されたスカイダイビングの腕前と比べるとクリスティアンセンはそれを上回る程度の専門的な技術を有していること、犯人であることを示す直接的な証拠が存在しないことを引き合いに出している<ref>{{cite news|title=F.B.I. rejects latest D.B. Cooper suspect|agency=Associated Press|last=|first=|date=October 26, 2007|url=http://www.seattlepi.com/local/337121_dbcooper27.html|access-date=March 11, 2008|work=Seattle Post-Intelligencer}}</ref>。

===ジャック・コフェルト===
ジャック・コフェルト ({{lang-en-short|Jack Coffelt|links=no}}) は前科持ちの[[悪徳商法|詐欺師]]であり、政府の[[情報提供者]]であると噂されていた。自身は[[エイブラハム・リンカーン]]の最後の確実な子孫である曾孫の{{仮リンク|ロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズ|en|Robert Todd Lincoln Beckwith}} ({{Lang-en-short|Robert Todd Lincoln Beckwith|links=no}}) の運転手であり親友でもあると主張していた。1972年、コフェルトは自分こそがクーパーであると主張し始め、かつて同じ刑務所にいたジェームズ・ブラウン ({{lang-en-short|James Brown|links=no}}) という人物を仲介して、[[ハリウッド]]の映画制作会社に自身の話を売り込もうとした。コフェルトによれば、コフェルトはアリエルから南東に約80キロメートル離れた[[フッド山]]の近くに着陸し、その過程で負傷して身代金を失ったという。1971年にはコフェルトは50代半ばだったものの、コフェルトの写真にはクーパーの似顔絵との類似性があった。コフェルトはクーパー事件の日にポートランドにいたと言われており、その頃に脚にけがを負っていた。飛行機から飛び降りたときの事故での負傷と考えることもできる<ref>{{cite web|title=Has The Mystery of D.B. Cooper Been Solved?|date=October 6, 2008|url=http://www.insideedition.com/storyprint.aspx?SpecialReportID=2184|access-date=March 8, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308111652/http://www.insideedition.com/storyprint.aspx?SpecialReportID=2184|archivedate=March 8, 2012|deadurl=yes|website=Inside Edition}}</ref>。

コフェルトの話はFBIにより調査されたが、一般の人々の間には知られていなかった情報の詳細な部分で重大な違いがあったことから、コフェルトの話は捏造という結論になった{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=83–84}}。コフェルトは1975年に死亡し、その後もブラウンは懲りずに長い間コフェルトの話を吹聴していた。[[CBS]]のニュース番組の''[[60 Minutes]]''を含む複数のメディアでコフェルトの話が考察され、退けられた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=121–122}}。2008年のリンカーンの子孫についての書籍<ref>{{Cite book|title=The Last Lincolns: The Rise & Fall of a Great American Family|year=2008|publisher=Union Square Press|last=Lachman|first=Charles|isbn=1-4027-5890-1}}</ref>で、著者のチャールズ・ラクマン ({{lang-en-short|Charles Lachman|links=no}}) は、36年前に信用に値しないと評されていたものの、コフェルトの話を再び取り上げた。

===リン・ドイル・クーパー===
リン・ドイル・クーパー ({{lang-en-short|Lynn Doyle Cooper|links=no}}、L.D.クーパー) は[[朝鮮戦争]]の兵役を経験した革職人で、2011年7月に姪のマーラ・クーパー ({{lang-en-short|Marla Cooper|links=no}}) に被疑者として取り上げられた<ref>{{Cite news|title=Woman claims D.B. Cooper was her uncle|date=August 3, 2011|accessdate=August 3, 2011|newspaper=AJC|last=Provano|first=Joel|url=http://www.ajc.com/news/nation-world/woman-claims-d-b-1070683.html?cxtype=rss_news_81960}}</ref><ref>{{cite news|title=The 40-year mystery of America's greatest skyjacking – Telegraph|publisher=Daily Telegraph|author=Alex Hannaford|date=July 30, 2011|url=https://www.telegraph.co.uk/culture/8667855/The-40-year-mystery-of-Americas-greatest-skyjacking.html|access-date=July 30, 2011|location=London}}</ref>。マーラが8歳のとき、ポートランドから240キロメートル南にあるオレゴン州{{仮リンク|シスターズ (オレゴン州)|en|Sisters, Oregon|label=シスターズ}}にある祖母の家で、クーパーともう1人のおじが、高価な[[ウォーキートーキー]]の使用を含む非常に悪意のある企てをしていたという<ref>{{cite web|url=https://www.npr.org/blogs/thetwo-way/2011/08/01/138889690/fbi-says-it-has-a-new-suspect-in-d-b-cooper-skyjacking|title=FBI Says It Has 'A New Suspect' In D.B. Cooper Skyjacking Case: The Two-Way : NPR|first=Howard|last=Berkes|work=npr.org|year=2011|access-date=August 1, 2011}}</ref>。305便がハイジャックされたのはその翌日のことである。おじたちは表向きには七面鳥狩りに行っていたことになっていたが、L.D.クーパーが帰宅したときにシャツが血塗れになっていた。L.D.クーパーは自動車の事故が原因と述べていた<ref name="CNN2011-08-01" />。後に、マーラの両親はL.D.クーパーがハイジャック犯の正体であると考えるようになったという。L.D.クーパーはスカイダイバーや空挺兵ではなかったものの、カナダの漫画に登場するヒーローのダン・クーパー ([[#仮説]]を参照) に夢中になっており、漫画本の一つが画鋲で壁にとめられていたという。L.D.クーパーは1999年に死亡した<ref>{{Cite news|title=D.B. Cooper Exclusive: Did Niece Provide Key Evidence?|date=August 3, 2011|url=https://abcnews.go.com/US/db-cooper-exclusive-niece-provide-key-evidence/story?id=14219052|accessdate=August 3, 2011|newspaper=[[ABC News]]|first=Pierre|last=Thomas|first2=Jack|last2=Cloherty}}</ref>。

2011年8月、{{仮リンク|ニューヨーク (雑誌)|en|New York (magazine)|label=ニューヨーク}}誌は、305便に搭乗していた目撃者のロバート・グレゴリー ({{Lang-en-short|Robert Gregory|links=no}}) の説明に基づいているとされる別の似顔絵を掲載した。その人物によれば、ハイジャック犯は角縁のサングラスを掛けており、大きなラペルのあるあずき色のスーツジャケットを着ており、髪型はマルセルウェーブだったという。記事では、L.D.クーパーの髪は波打っており、マルセルウェーブにも見えると言及されている (後述の[[#ドゥエーン・ウェーバー]]も同様)<ref name="NewSketchDBCooper">{{cite web|title=DNA Test Negative for D.B. Cooper Suspect; a New Sketch Emerges|last=Gray|first=Geoffrey|date=|url=http://nymag.com/daily/intelligencer/2011/08/dna_test_negative_db_cooper_su.html|work=Crime Library|access-date=December 31, 2012|publisher=}}</ref>。FBIはL.D.クーパーが作ったギターストラップからは指紋は発見されなかったと声明した<ref>{{cite news|last=McNerthney|first=Casey|title=No fingerprints found on item in D.B. Cooper case|url=http://www.seattlepi.com/local/article/No-fingerprints-found-on-item-in-D-B-Cooper-case-1684566.php|newspaper=Seattle Post-Intelligencer|date=August 1, 2011|accessdate=August 2, 2011}}</ref>。1週間後、FBIは、L.D.クーパーのDNAはハイジャック犯のネクタイから発見された断片的なDNAプロファイルと一致しなかったと報告したが、ネクタイから発見された生体物質がハイジャック犯に由来する確証がないことは再度認めた<ref name="no match" />。FBIはそれ以上の声明を公的には出していない。

===バーバラ・デートン===
バーバラ・デートン ({{lang-en-short|Barbara Dayton|links=no}}) は1926年生まれの[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]の司書であり、飛行機操縦が趣味だった。出生名はロバート・デートン ({{lang-en-short|Robert Dayton|links=no}}) だった。デートンは{{仮リンク|ユナイテッド・ステーツ・マーチャント・マリーン|en|United States Merchant Marine}}で働き、それから第二次世界大戦中は陸軍に加わっていた<ref name="McNerthney">{{cite news|author=McNerthney, Casey|date=November 22, 2007|title=D.B. Cooper, where are you?|url=http://www.highbeam.com/doc/1G1-171721183.html|work=Seattle Post-Intelligencer|access-date=February 16, 2011|deadurl=yes|archiveurl=https://archive.today/20130125094547/http://www.highbeam.com/doc/1G1-171721183.html|archivedate=January 25, 2013}} {{Subscription required}}</ref>。退役後、デートンは建設業界で爆薬を扱う仕事をした。定期航空便で仕事をしたいと思っていたが、商業パイロットの資格を得ることはできなかった。

デートンは1969年に[[性別適合手術]]を受けてバーバラという名前に改名した<ref name="Forman">{{cite book|title=The Legend of D B Cooper|url=https://books.google.com/books?id=OEtCAgAAQBAJ&pg=PA|year=2008|publisher=Lulu.com|isbn=9781605520148|first=Pat|last=Forman|first2=Ron|last2=Forman}}</ref>。2年後、デートンは自分がクーパー事件の犯人であると主張した。事件のときは男に変装しており、定期航空便のパイロットになることを認めなかった航空業界と連邦航空局に仕返しをすることが目的だったという{{sfn|Olson|2010|pp=72–73}}。ポートランドの南にある郊外地域のオレゴン州{{仮リンク|ウッドバーン (オレゴン州)|en|Woodburn, Oregon|label=ウッドバーン}}が着地地点であり、その近くの貯水槽の中に身代金を隠したという。その後、依然としてハイジャックで罪に問われる可能性があったと知ったことを表向きの理由として、自分の話を全て撤回した。FBIは公式にはデートンについての声明を全く行っていない。デートンは2002年に死亡した<ref name="McNerthney" />。

===ウィリアム・ゴセット===
ウィリアム・ゴセット ({{lang-en-short|William Gossett|links=no}}) は[[海兵隊]]、陸軍、[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍航空軍]]の兵役を経験しており、朝鮮戦争や[[ベトナム戦争]]での実戦経験もある。高等なパラシュート降下の訓練や原野でのサバイバルも経験している。1973年に軍を退役すると、[[予備役将校訓練課程]]の講師をしたり、[[ユタ州]][[オグデン (ユタ州)|オグデン]]の{{仮リンク|ウェーバー州立大学|en|Weber State University}}で軍法を教えたり、[[ソルトレイクシティ]]で[[超常現象]]について語るラジオのトーク番組の司会を行ったりした<ref name="craig">Craig, John S. "D.B. Cooper Suspect Named: William Pratt Gossett," associatedcontent.com.</ref>。2003年に死亡した<ref name="yet">
{{Cite web|url=http://crimeslam.com/2008/05/yet-another-d-b-cooper-suspect-william.html|title=Yet Another D. B. Cooper Suspect: William Pratt "Wolfgang" Gossett|accessdate=February 1, 2011|publisher=|deadlinkdate=April 20, 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110708203700/http://crimeslam.com/2008/05/yet-another-d-b-cooper-suspect-william.html|archivedate=July 8, 2011|website=Crime Slam}}
</ref>。

ゴセットはクーパー事件に魅了されていたことで広く知られていた。クーパー関連のニュース記事の膨大なコレクションを収集しており、妻の1人にクーパーの墓銘碑を書けるほどの知識があると語っていた。晩年には、3人の息子や、ユタ州の判事だった人物、ソルトレイクシティの[[国選弁護制度|公選弁護人]]の事務所に務める友人に、自分がクーパー事件の犯人であると語った<ref name="yet" />。1971年ごろのゴセットの写真は、最も広く流布されたクーパーの似顔絵と非常に類似している<ref>{{Cite web|url=https://www.coasttocoastam.com/photo/view/d_b_cooper_suspect/37861|title=D.B. Cooper Suspect - Photos|accessdate=February 2, 2011|publisher=|website=Coast to Coast AM}}1967年から1973年のゴセットの写真。</ref>。

数年間、ゴセットに関する情報を収集してきた法律家のガーレン・クック ({{lang-en-short|Galen Cook|links=no}}) によると、ゴセットは一度、自分の息子たちに[[ブリティッシュコロンビア州]][[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]にある[[貸金庫]]の鍵を見せたという。ゴセットは貸金庫には長年行方不明だった身代金が収められていると主張したそうだ<ref name="The Canadian PressF.B.I.">{{cite news|title=U.S. lawyer believes notorious fugitive D.B. Cooper hid ransom money in Vcr bank|work={{仮リンク|Canadian Press|en|Canadian Press}}|date=August 3, 2008}}</ref>。ゴセットの息子の中で最年長のグレッグ ({{lang-en-short|Greg|links=no}}) は、父はギャンブル狂いでいつも金欠だったが、クーパー事件の数週間後の1971年のクリスマス直前に大量の札束を見せてきたと語った。グレッグは、ゴセットは[[ラスベガス]]での賭博で金を使い果たしたと推測した<ref name="Depoe Bay Beacon">{{cite news|title=Investigator Claims Depoe Bay Man Was Infamous 'D.B. Cooper'|work=Depoe Bay Beacon|date=May 28, 2008}}</ref>。

1988年、ゴセットは名前を「ウルフギャング」({{lang-en-short|Wolfgang|links=no}}) に変え、[[カトリック教会|ローマカトリック教会]]の司祭になった。クックたちは自分の身元を隠そうとしたのだろうと解釈した<ref name="craig" />。他の状況証拠に、ハイジャックされた飛行機の乗客のウィリアム・ミッチェル ({{Lang-en-short|William Mitchell|links=no}}) から得たとクックが主張している証言があり、クーパーとゴセットに共通する身体的特徴に関するものであるらしいが、クックはその証言を秘密にしている<ref>Craig, John S. "1971 D.B. Cooper Letters Linked to Suspect William Gossett," associatedcontent.com.</ref>。また、クックは、クーパー事件から数日以内に3つの新聞社に届けられた"D.B.クーパー"と署名されている4通の手紙とゴセットに繋がりがある可能性を見出したと主張している。しかし、ハイジャック犯が実際にそのような手紙を執筆したり郵送したりしたことを示す証拠は存在しない<ref>{{Cite news|title=Letter to Gazette Checked in FBI Hunt for Skyjacker|newspaper={{仮リンク|Reno Evening Gazette|en|Reno Evening Gazette}}|date=November 29, 1971|url=https://newspaperarchive.com/profile/christopher-brooks/clipnumber/23548/|accessdate=December 26, 2015}}{{Open access}}</ref><ref>{{Cite news|title=Words in 'Skyjacker Note' to Gazette Clipped from Modesto Bee, FBI Told|newspaper=Reno Evening Gazette|date=November 30, 1971}}</ref><ref>{{cite news|title=Gazette Receives Hijacker 'Letter' – Second in a Week|newspaper=Reno Evening Gazette|date=December 3, 1971}}</ref>。

FBIの持つ証拠には、ゴセットが犯人であることを示す直接の証拠は存在しない。クーパー事件の際にゴセットが[[太平洋岸北西部]]にいたことを示す信頼できる証拠も有していない<ref>{{Cite news|title=Skyjacker D.B. Cooper 'enjoyed the Grey Cup game,' according to 1971 letter attributed to him|date=November 24, 2011|accessdate=December 1, 2011|url=https://nationalpost.com/news/canada/skyjacker-d-b-cooper-enjoyed-the-grey-cup-game-according-to-1971-letter-attributed-to-him|first=Kent|last=Spencer|newspaper=National Post}}</ref>。カー特別捜査官は、ゴセットが他人に自分が犯人であると話したこと以外は、ゴセットにクーパー事件とのつながりは存在しないと述べた<ref name="deseret">{{Cite news|title=Was D.B. Cooper an Ogden resident?|date=July 28, 2008|accessdate=February 1, 2011|newspaper=Deseret News|location=Salt Lake City|url=https://www.deseretnews.com/article/700246479/Was-DB-Cooper-an-Ogden-resident.html?pg=all}}</ref>。

=== ロバート・リチャード・レプシー ===
ロバート・リチャード・レプシー ({{lang-en-short|Robert Richard Lepsy|links=no}}) は[[ミシガン州]]{{仮リンク|グレーリング (ミシガン州)|en|Grayling, Michigan|label=グレーリング}}出身の33歳の[[グロサリー|食料雑貨店]]の店主であり、4人の子供の父親でもある。レプシーは1969年10月に失踪した。3日後にレプシーの自動車が地元の空港で発見され、外見の説明がレプシーと一致する男がメキシコへの飛行機に搭乗したのを目撃されたと言われている。当局はレプシーは自らの意思で姿をくらましたと結論付け、捜査を打ち切った<ref name=":0">{{Cite web|url=http://thinairpodcast.com/?episode=episode-7-richard-lepsy|title=Episode 7: Richard Lepsy – Thin Air Podcast|website=thinairpodcast.com|language=en-US|access-date=March 8, 2017|publisher=|deadlinkdate=April 20, 2019}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.charleyproject.org/cases/l/lepsy_robert.html|title=Robert Richard Lepsy|last=|first=|date=|website=Charley Project|access-date=March 8, 2017|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170308220907/http://www.charleyproject.org/cases/l/lepsy_robert.html|archivedate=March 8, 2017}}</ref>。

クーパー事件から2年後、レプシーの家族が、レプシーの身体的特徴がクーパーの似顔絵と似ていると言及し、クーパーの衣服がレプシーの店の制服と非常に似ていると断言した。レプシーは法的には1976年に死亡した扱いになった。2011年にレプシーの娘の1人がDNA試料をFBIに提出したが、結果は不明である<ref name=":1">{{Cite news|url=http://www.wzzm13.com/news/local/could-missing-man-from-grayling-mich-be-d-b-cooper/13043221|title=Could missing man from Grayling, Mich. be D.B. Cooper?|last=TEGNA|work=WZZM|access-date=March 8, 2017|language=en-US}}</ref>。2014年の書籍でレプシーはクーパー事件の被疑者であると取り上げられたが<ref>{{Cite book|title=Still missing: rethinking the D.B. Cooper case and other mysterious unsolved disappearances|date=|year=2014|publisher=Terra Mysteria Media|last=Richardson|first=Ross|location=Lake Ann, Michigan|pages=142-7|isbn=099600470X}}</ref>、FBIがレプシーについて公式で声明したという記録は存在しない<ref>{{Cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/12017816/Has-the-mystery-of-DB-Cooper-been-solved.html|title=Has the mystery of DB Cooper been solved?|work=The Telegraph|language=en|date=November 26, 2015|accessdate=March 8, 2017|last=Crilly|first=Rob}}</ref>。

===ジョン・リスト===
{{Main|ジョン・リスト}}

ジョン・リスト ({{lang-en-short|John List|links=no}}) は税理士であり、第二次世界大戦と朝鮮戦争の兵役を経験した。クーパー事件の15日前、[[ニュージャージー州]]{{仮リンク|ウェストフィールド (ニュージャージー州)|en|Westfield, New Jersey|label=ウェストフィールド}}で妻と3人の子供、85歳の母親を殺害し、母親の銀行口座から20万ドルを引き出して姿をくらました<ref>{{cite news|title=Suspect in Family-Slaying May Be Famed D.B. Cooper|work=[[Los Angeles Times]]|page=A1|last=|first=|date=June 30, 1989|url=}}</ref>。リストの失踪のタイミングや、クーパーの特徴との複数の一致、[[大量殺人]]の逃亡犯に失うものはないという推測から、クーパー事件を追っていた捜査官たちはリストに注目した<ref name="nymagtimeline">{{cite news|title=D.B. Cooper: A Timeline|work=New York|last=Coreno|first=Catherine|date=October 22, 2007|url=http://nymag.com/news/features/39617/|access-date=January 10, 2008}}</ref><ref>{{cite book|last1=Benford|first1=Timothy B.|last2=Johnson|first2=James P.|title=Righteous Carnage: The List Murders in Westfield|publisher=iUniverse|year=2000|location=[[Lincoln, Nebraska]]|pages=76–77|isbn=978-0-595-00720-2}}</ref>。1989年にリストが逮捕されると、リストは家族を殺害したことは認めたが、クーパー事件への関与は認めなかった。クーパー事件に関する記事やドキュメンタリーにはいまだにリストの名前が挙がるが、リストが犯人であることを示す確固たる証拠は存在せず、FBIももはやリストがクーパー事件の被疑者であるとは考えていない<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2008/12/28/magazine/28List-t.html|title=Wanted: A Killer Disappears Into Another Life|work=[[The New York Times]]|date=December 28, 2008|first=Elizabeth|last=McCracken|access-date=September 9, 2014}}</ref>。リストは獄中で2008年に死亡した<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2008/03/25/nyregion/25list1.html|title=John E. List, 82, Killer of 5 Family Members, Dies|last=Stout|first=David|date=March 25, 2008|work=The New York Times|access-date=May 30, 2008}}</ref>。

===テッド・メイフィールド===
テオドール・E・メイフィールド ({{lang-en-short|Theodore E. Mayfield|links=no}}、テッド・メイフィールド <{{lang-en-short|Ted Mayfield|links=no}}>) は特殊部隊での軍務を経験した人物であり、パイロット、競技スカイダイビングの選手、スカイダイビングのインストラクターでもあった。スカイダイビング講習中に2人の生徒がパラシュートが開かずに死亡した事件により、[[過失致死傷罪|過失致死]]で1994年に服役した<ref>{{Cite news|title=Skydiving Operator Faces Charges Over Deaths Of 2 Jumpers|date=February 13, 1995|accessdate=October 10, 2012|newspaper=[[The Seattle Times]]|url=http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19950213&slug=2104806|agency=Associated Press}}</ref>。後に、さらに13件のスカイダイビング中の死亡事故への間接的な責任が認められた。これらの事故の原因は装備や訓練の欠陥だった。メイフィールドの犯罪歴の記録には[[強盗|武装強盗]]や盗難飛行機の運搬という前科も記されている<ref name="Smith">{{Cite news|title=DB Cooper suspect, Ted Mayfield, killed in aviation accident|date=August 30, 2015|accessdate=October 4, 2015|last=Smith|first=Bruce A.|newspaper=The Mountain News|url=https://themountainnewswa.net/2015/08/30/db-cooper-suspect-ted-mayfield-killed-in-aviation-accident/}}</ref>。2010年、パイロットの免許を失ってから26年後に飛行機を操縦したことにより、3年間の[[保護観察]]処分の判決を受けた<ref>{{Cite news|title=Illegal flight lands pilot in trouble once again|date=January 20, 2010|accessdate=February 24, 2011|url=http://special.registerguard.com/csp/cms/sites/web/news/cityregion/24367930-41/mayfield-faa-1994-eugene-license.csp|newspaper=The Register-Guard|last=McCowan|first=Karen}}</ref>。FBIの捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハによると、捜査の初期段階で、メイフィールドは度々被疑者として名前が挙がったという。ヒンメルバッハは以前に地元の空港で起きた喧嘩からメイフィールドのことを知っていた。メイフィールドは被疑者から除外されたが、その理由の1つは、305便がリノに着陸してから2時間もたたないうちに、メイフィールドがヒンメルスバッハに電話して、標準的なスカイダイビングの慣例や着地地点についてのアドバイスを志願したことである{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=51}}。

2006年、2人のアマチュア研究者のダニエル・ドヴォラク ({{lang-en-short|Daniel Dvorak|links=no}}) とマシュー・マイヤース ({{lang-en-short|Matthew Myers|links=no}}) は、メイフィールドが被疑者であるという説を再び持ち出し、メイフィールドが犯人であることを示す状況証拠を収集したと断言した<ref name="Smith" /><ref name="RE">{{youtube|id=Dat-UPEB15M|title=D.B. Cooper Inside Edition segment (2007)}}、2011年2月24日閲覧。</ref>。2人は、メイフィールドがヒンメルバッハに電話した理由はアドバイスの提供を申し出るためではなく、[[アリバイ]]を作るためだったという仮説を立て、夜に原野へ飛び降りてから4時間もたたずにFBIに電話をかけるのは不可能であるというヒンメルスバッハの結論に異議を唱えた<ref name="RE" />。メイフィールドは事件への関与を否定し、クーパー事件の最中にFBIが自分に5回電話をかけて、パラシュートや地元のスカイダイバー、スカイダイビングの技術について質問してきたと以前に断言したことを繰り返し述べた<ref name="Smith" />。ただし、ヒンメルバッハによると、FBIからメイフィールドに電話をかけたことは一切なかったという{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=52}}。さらに、メイフィールドは、ドヴォラクとマイヤースが自分たちの説に同調することを持ちかけ、一緒に大金を稼ごうと誘ってきたと告発した。ドヴォラクとマイヤースはメイフィールドと内通したという話は見え透いた嘘であると述べた<ref name="RE" />。メイフィールドは2015年に死亡した<ref name="Smith" />。メイフィールドは早い段階で被疑者から除外されたというヒンメルスバッハの元の発言を除けば、FBIはメイフィールドについていかなる声明も出していない{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=51}}。

===リチャード・フロイド・マッコイ・ジュニア===
{{Main|リチャード・マッコイ}}
[[File:Richard McCoy, Jr..jpg|thumb|right|リチャード・マッコイ・ジュニア]]

リチャード・フロイド・マッコイ・ジュニア ({{lang-en-short|Richard Floyd McCoy, Jr.|links=no}}) は陸軍での兵役を経験した人物であり、最初は爆薬の専門家として、その後はグリーンベレーでヘリコプターの操縦士としてベトナムで2度の軍務を経験した<ref name="timemag">{{cite news|title=The Real McCoy|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,943370-1,00.html|work=[[Time (magazine)|Time]]|publisher=|date=April 24, 1972|access-date=July 26, 2007}}</ref>。退役した後はユタ州兵の[[准士官]]になり、スカイダイビングを熱心に愛好した。自分にはユタ州警察官になる大望があったと述べている<ref name="SkydiverHeld">{{cite news|agency=Associated Press|title=Skydiver Held as Hijacker; $500,000 Is Still Missing|work=[[The New York Times]]|url=https://www.nytimes.com/1972/04/10/archives/skydiver-held-as-hijacker-500000-is-still-missing-skydiver-held-as.html|page=1|date=April 10, 1972|access-date=August 4, 2018}}</ref>。

1972年4月7日、マッコイはクーパーを模倣した事件を起こした。マッコイの犯行はクーパーを模倣した事件の中で最も知名度が高い<ref name="CrimeLibrary9">{{cite web|title=The D.B. Cooper Story: The Copycats|last=Krajicek|first=David|date=|url=http://www.crimelibrary.com/criminal_mind/scams/DB_Cooper/9.html|work=Crime Library|access-date=January 3, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080102145952/http://www.crimelibrary.com/criminal_mind/scams/DB_Cooper/9.html|archivedate=January 2, 2008|publisher=|deadlinkdate=April 20, 2019}}</ref> ([[#模倣犯]]を参照)。マッコイは[[コロラド州]][[デンバー]]で[[ユナイテッド航空]]855便 (ボーイング727、機体尾部にエアステアがある) に搭乗し、手榴弾と拳銃を見せ付けて脅迫し、4つのパラシュートと50万ドルを要求した。ただし、手榴弾はそれに似た形をしているだけのただの文鎮であり、拳銃は弾丸が装填されていなかったことが後で判明した<ref name="nymagtimeline" />。金とパラシュートが[[サンフランシスコ国際空港]]に届けられると、マッコイは再度離陸するように命令し、ユタ州[[プロボ (ユタ州)|プロボ]]上空でパラシュートによる降下を行った。機内には、ハイジャックの際に命令を記した手書きのメモと、読んでいた雑誌に付着した指紋という手掛かりが残っていた<ref>{{Cite web|url=https://www.fbi.gov/about-us/history/famous-cases/richard-floyd-mccoy|title=Richard Floyd McCoy, Jr. - Aircraft Hijacking|accessdate=May 29, 2013|publisher=FBI|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160516043944/https://www.fbi.gov/about-us/history/famous-cases/richard-floyd-mccoy|archivedate=May 16, 2016}}</ref>。後に筆跡の専門家が飛行機で見つかったメモの筆跡と軍務の記録にあったマッコイの筆跡を比較し、マッコイがメモを書いたと断定した<ref>{{cite web|title=Richard Floyd McCoy, Jr.|url=https://www.fbi.gov/history/famous-cases/richard-floyd-mccoy-jr|accessdate=7 December 2018|language=en-us|publisher=FBI|last=Motaher|first=Maria}}</ref>。4月9日にマッコイは逮捕された。逮捕されたとき、マッコイは身代金を所持していた。裁判では45年間の懲役という判決が下った<ref name="SkydiverHeld" />。2年後、マッコイはルイスバーグ州立刑務所に収監されていたが、数名の共犯者に刑務所の正門にごみ収集車を突っ込ませて脱獄した<ref>{{cite news|title=Widow of Man Linked in Book to Skyjacker D.B. Cooper Sues Authors, Provo Attorney|agency=Associated Press|page=B5|date=January 18, 1992}}</ref>。3ヵ月後に[[バージニアビーチ]]で追い詰められ、FBIの捜査官との銃撃戦の最中に死亡した<ref name="CrimeLibrary9" /><ref>{{Cite news|title=McCoy's Widow Admits Helping In '72 Hijacking|date=February 21, 1992|accessdate=February 21, 2011|url=https://www.deseretnews.com/article/211317/MCCOYS-WIDOW-ADMITS-HELPING-IN-72-HIJACKING.html|newspaper=Deseret News|first=Marianne|last=Funk}}</ref>。

1991年の''D.B. Cooper: The Real McCoy''という書籍<ref>{{Cite book|title=D.B. Cooper, the real McCoy|date=|year=1991|publisher=University of Utah Press|isbn=9780874803778|location=Salt Lake City|first=Bernie|last=Rhodes|first2=Russell P.|last2=Calame}}</ref>で、著者であるパロール・オフィサーのバーニー・ローズ ({{lang-en-short|Bernie Rhodes|links=no}}) とかつてFBIの捜査官だったラッセル・カラム ({{lang-en-short|Russell Calame|links=no}}) は、マッコイがクーパーの正体であることを突き止めたと断言した。2人は2つのハイジャック事件の明白な類似性を引き合いに出し、さらに、マッコイの家族が飛行機に残されたネクタイと真珠母のネクタイ留めはマッコイのものであると主張したことや、マッコイ自身が自分がクーパーであることを認めることも否定することもしなかったことを根拠とした<ref name="CrimeLibrary9" /><ref name="SLT">{{cite news|last=Schindler|first=Harold|title=25 Years Later, 'D.B' Remains Tied to Utah; Skyjacker Took Story To His Grave|work={{仮リンク|The Salt Lake Tribune|en|The Salt Lake Tribune}}|date=November 24, 1996|url=}}</ref>。カラムはマッコイを射殺した捜査官だった<ref name="CrimeLibrary9" />。

FBIはマッコイをクーパー事件の被疑者とは見なしていない。年齢や外見が大きく異なること<ref>ローズとカラムが引き合いに出した顕著な例を挙げる。まず、クーパーの年齢は目撃者全員から40代半ばと推定されていたが、マッコイは29歳だった。3名の客室乗務員を含むほとんどの目撃者がクーパー目の色は暗褐色だったと証言したが、マッコイの目は明青色だった。クーパーの耳に目立つ特徴はなかったが、マッコイの耳は顕著に外側に突き出ており、「ダンボ」というあだ名があった。マッコイがハイジャックを起こしたときは、その間にスカーフで耳を隠していた。クーパーはバーボンを飲み、立て続けにタバコを吸っていたが、マッコイはモーモン教徒で喫煙や飲酒をしなかった。クーパーは訛りのない耳障りな声をしていたと証言されているが、マッコイには明らかな南部訛りがあり、子供の頃に口蓋裂を手術で矯正したことが原因で舌足らずに話すという特徴があった。Rhodes & Calame (1991), pp. 86, 94, 96, 134, 145.</ref>や、マッコイがクーパーが持っていたと思しきスカイダイビングの技術を上回る水準の腕前を有していること<ref name="FBI-Redux" />、クーパー事件の日にマッコイはラスベガスにいて<ref name="timeline" />、翌日にユタ州の自宅で家族と一緒に感謝祭の晩餐を開いたことを証明する信頼できる証拠があることがその理由である<ref name="CNN2011-08-01" /><ref name="ST2">{{cite news|last=Hamilton|first=Don|title=F.B.I. makes new plea in D.B. Cooper case|work=[[The Seattle Times]]|date=October 23, 2004|url=}}</ref>。

===ロバート・ラックストロー===
[[File:Rackstraw Cooper comparisson.png|thumb|1971年のFBIによるクーパーのスケッチ (左) と1970年のロバート・ラックストローの陸軍の身分証明の写真との比較。当局の専門家は、2者の間で一致する箇所を9点発見した。]]

ロバート・ウェズリー・ラックストロー ({{lang-en-short|Robert Wesley Rackstraw|links=no}}) は元パイロットであり、犯罪の前科がある。ベトナム戦争では陸軍のヘリコプターの乗組員や他の部隊で服務した。1978年2月に、ラックストローが爆薬の所持と[[小切手詐欺]]の嫌疑を受けて[[イラン]]で逮捕され、アメリカに移送された事件が起こり、クーパー事件を追っていた捜査官の注目を集めた。数ヵ月後、[[保釈]]中だったとき、ラックストローは偽の[[メーデー (遭難信号)|メーデー]]の通報をして、管制官に[[モントレー湾]]上空でレンタルした飛行機からパラシュートを使って脱出すると告げて、自分の死を偽装しようとした<ref>{{Cite news|title=D.B. Cooper investigation focuses on California ‘off-the-books genius’ Robert Rackstraw|date=July 12, 2016|accessdate=September 8, 2016|url=http://www.mercurynews.com/2016/07/12/d-b-cooper-investigation-focuses-on-california-off-the-books-genius-robert-rackstraw/|newspaper=The Mercury News|last=Baxter|first=Stephen}}</ref>。後に、警察はパイロットの免許証を捏造した容疑で[[カリフォルニア州]][[フラートン (カリフォルニア州)|フラートン]]でラックストローを逮捕した。ラックストローが不時着水させたと主張していた飛行機は、塗装を変えた状態で近くの格納庫で発見された<ref>{{Cite news|title=California man accused of being D.B. Cooper: A life ruined or a case solved?|date=October 7, 2017|accessdate=November 29, 2018|url=https://www.mercurynews.com/2017/10/07/california-man-accused-of-being-d-b-cooper-a-life-ruined-or-a-case-solved/|newspaper=The Mercury News|last=Sharon|first=Keith}}</ref><ref>Fitzgerald, M. (July 12, 2016). [https://www.recordnet.com/news/20160712/fitzgerald-was-db-cooper-in-stockton Fitzgerald: Was D.B. Cooper in Stockton?]. Recordnet, retrieved November 29, 2018.</ref>。クーパー事件の捜査官は、ラックストローは1971年時点で28歳と若かったものの<ref name="Dodd">{{Cite news|title=Man Identified in History Channel Show as Notorious Skyjacker D.B. Cooper Denies Accusation|date=July 12, 2016|accessdate=December 13, 2016|url=https://people.com/crime/db-cooper-robert-rackstraw-accused-in-history-channel-show-denies-accusation/|last=Dodd|first=Johnny|newspaper=People.com}}</ref>、クーパーの似顔絵と身体的特徴が似ており、軍でパラシュートの訓練を受けていたことと、犯罪の前科があることについて言及した。しかし、クーパー事件との関与を示す直接的な証拠が発見できず、1979年に被疑者から除外された<ref>{{cite news|title=Rackstraw Says He's Not Cooper Of Skyjack Fame|url=https://news.google.com/newspapers?id=rPJVAAAAIBAJ&pg=5250%2C1757839|newspaper=Eugene Register-Guard|date=February 7, 1979|access-date=July 16, 2016}}</ref><ref>{{cite web|title=In Search Of... D. B. Cooper|url=https://www.youtube.com/watch?v=u_yvGpipjzE|website=YouTube|publisher=In Search Of|date=December 6, 1979|access-date=July 19, 2016}}</ref>。

2016年、ヒストリーチャンネルの番組<ref>{{cite news|last=Baxter|first=Stephen|title=TV investigation links Santa Cruz County native to 1971 D.B. Cooper 'skyjacking' case|url=http://www.eastbaytimes.com/news/ci_30118971/tv-investigation-links-santa-cruz-county-native-1971?source=JPopUp|newspaper=Santa Cruz Sentinel|access-date=July 12, 2016|date=July 12, 2016}}</ref>や書籍<ref>{{Cite book|title=The Last Master Outlaw|date=|year=2016|publisher=Jacaranda Roots Publishing|isbn=0997740434|last=Colbert|first=Thomas J.|first2=Tom|last2=Szollosi}}</ref>でラックストローが再び容疑者として名前が挙がった。2016年9月8日、{{仮リンク|The Last Master Outlaw|en|The Last Master Outlaw|label=''The Last Master Outlaw''}}の著者のトーマス・J・コルバート ({{lang-en-short|Thomas J. Colbert|links=no}}) が、[[国別にみた情報公開法#アメリカ合衆国|情報公開法]]を根拠としてFBIにクーパー事件の捜査資料を公開するように請求する訴訟を起こした。訴訟では、FBIがクーパー事件の捜査を停止したのは、ラックストローを告訴するのに十分な証拠を集めることに失敗したことで決まりの悪い思いをしないように済むために、ラックストローがクーパーであるという仮説を覆すことを目的としていたと主張されていた<ref name="oregonian">{{Cite news|title=Lawsuit filed against FBI to make D.B. Cooper investigation file public|date=September 9, 2016|accessdate=September 22, 2016|url=https://www.oregonlive.com/pacific-northwest-news/2016/09/lawsuit_filed_against_fbi_to_m.html|last=Bailey Jr.|first=Everton|newspaper=The Oregonian}}</ref>。2018年1月、小規模の未解決事件ドキュメンタリー集団が、1971年12月に書かれ、[[ニューヨーク・タイムズ]]、[[ロサンゼルス・タイムズ]]、[[シアトル・タイムズ]]、[[ワシントン・ポスト]]に送られた手紙を入手したと報告した。その手紙にはたくさんの数字や文字が書かれていた。調査団はトーマス・コルバートとドンナ・コルバート ({{lang-en-short|Dawna Colbert|links=no}}) が統率していた。調査団は、手紙に書かれた暗号を解読し、ラックストローが陸軍に在籍していたときに所属していた3つの部隊と一致したと報告した。FBIはアマチュアの調査団が自分たちが解決できなかった事件を解き明かしたことを認めることになるから自分たちの発見を承認しようとしなかったとも述べた<ref>{{cite web|title=Investigators think letter confirms ID of D.B. Cooper|url=https://www.seattletimes.com/nation-world/investigators-think-letter-confirms-id-of-d-b-cooper/|website=[[Seattle Times]]|date=January 5, 2018|accessdate=January 7, 2018}}</ref>。

305便の客室乗務員の1人が、1970年代のラックストローの写真と記憶の中のクーパーの外見との間に類似性があるようには思えないと述べたと言われている<ref name="Dodd" /><ref>{{Cite web|url=https://heavy.com/news/2016/07/robert-rackstraw-db-cooper-case-closed-documentary-culprit-who-is/|title=Robert Rackstraw: 5 Fast Facts You Need to Know|accessdate=December 13, 2016|publisher=|last=Walsh|first=S.M.|website=Heavy.com|date=July 11, 2016}}</ref>。ラックストローの代理人は、再度現れたラックストロー犯人説を、今まで聞いた中で最も愚かなことと評した<ref>{{Cite news|title=FBI Closes Case On D.B. Cooper Skyjacking Mystery|date=July 13, 2016|accessdate=September 8, 2016|url=https://miami.cbslocal.com/2016/07/13/fbi-closes-case-on-d-b-cooper-skyjacking-mystery/|newspaper=CBS Miami}}</ref>。ラックストロー自身もPeople.comでこの説に対して否定的な見解を述べている<ref name="Dodd" />。FBIは新たに声明するのを拒絶した<ref name="oregonian" />。ラックストローは2017年に電話でのインタビューで、2016年のコルバートの主張により失職したと述べている<ref>{{cite web|url=http://www.mercurynews.com/2017/10/07/california-man-accused-of-being-d-b-cooper-a-life-ruined-or-a-case-solved|title=California man accused of being D.B. Cooper: A life ruined or a case solved?|date=October 7, 2017|work=The Mercury News|accessdate=April 20, 2019|publisher=|last=Sharon|first=Keith}}</ref>。

2018年6月の記事で、民間の調査者がFBIの資料にあった以前は一般に知られていなかった手紙を解読したと主張したという話が掲載された。調査者は、手紙には隠された犯人の告白が書かれていたと主張している<ref>{{cite web|title=The search for D.B. Cooper: Investigators say they've confirmed skyjacker's identity by decoding long-lost 'confession'|url=http://www.msn.com/en-us/news/crime/the-search-for-db-cooper-investigators-say-theyve-confirmed-skyjackers-identity-by-decoding-long-lost-confession/ar-AAzi4Zb?ocid=ientp|accessdate=April 20, 2019|publisher=|date=June 28, 2018}}</ref>。

=== ウォルター・R・レカ ===
[[File:71 Walter at Home.jpg|thumb|ウォルター・R・レカ]]

ウォルター・R・レカ ({{lang-en-short|Walter R. Reca|links=no}}、出生名はウォルター・R・ピカ <{{lang-en-short|Walter R. Peca|links=no}}>) はミシガン州の住人であり<ref>{{cite web|url=http://www.tributes.com/obituary/show/Walter-R.-Reca-100692485|title=Walter Reca Obituary - Oscoda, Michigan|website=www.tributes.com|language=en|access-date=July 19, 2018|df=dmy-all}}</ref>、軍隊に所属していた経験があり、ミシガン・パラシュート・チームの最初期のメンバーだった。2018年5月17日の記者会見で、レカの友人のカール・ラウリン ({{lang-en-short|Carl Laurin|links=no}}) がレカを被疑者とする説を提唱した<ref>{{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/news/retropolis/wp/2018/05/17/a-new-d-b-cooper-suspect-yet-another-possible-identity-for-elusive-hijacker/|title=A new 'D.B.&nbsp;Cooper' suspect? Yet another possible identity for the elusive hijacker|newspaper=The Washington Post|language=en|access-date=July 19, 2018|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite news|first=Jim|last=Browski|publisher=96 Hour News|title=DB Cooper's identity revealed at press conference 5/17/[20]18 [by] Walter Reca|date=May 17, 2018|url=https://www.youtube.com/watch?v=j34UJzgZIzI|access-date=July 19, 2018|df=dmy-all}}</ref>。ラウリンはかつては商業航空会社のパイロットであり、自身もパラシュートの熟練者である。2008年、レカは電話を通じてラウリンに自身がクーパーであることを告白した<ref>{{cite news|url=https://www.woodtv.com/news/grand-rapids/book-claims-to-solve-db-cooper-mystery/1185777478|title=Book claims to solve D.B.&nbsp;Cooper mystery|last=La&nbsp;Furgey|first=Joe|date=May 17, 2018|publisher=WOOD TV|access-date=July 19, 2018|language=en-US|df=dmy-all}}</ref>。2018年7月、プリンシピア・メディアはこの件の調査についてのドキュメンタリーを4部にわたって放映した。

レカは公証人によって署名された手紙を通じて、自身の死後にこの話を他者に話す許可をラウリンに与えていた。レカは2014年に80歳で死亡した。レカとラウリンは2008年後半に6週間にわたってクーパー事件について電話で会話しており、レカはそれを録音することも許可した。3時間以上におよぶ会話の中では、レカは以前まで一般には知られていなかったクーパー事件の詳細について新しい情報を出した。レカは姪のリサ・ストーリー ({{lang-en-short|Lisa Story|links=no}}) にも自身がクーパーであることを告白した<ref>{{cite news|url=https://www.oregonlive.com/today/index.ssf/2018/05/db_cooper_case_drops_another_s.html|title=D.B. Cooper case drops another surprising suspect into the spotlight|publisher=OregonLive.com|access-date=July 19, 2018|language=en-US|df=dmy-all}}</ref>。ラウリンは数年間トレーニングの時間を使ってクーパーがパラシュートで降下した場所を突き止めようとし、クーパーはワシントン州[[クレエラム (ワシントン州)|クレエラム]]付近に着陸したと結論付けた。

証言によると、クレエラムの住人のジェフ・オシアダッツ ({{Lang-en-short|Jeff Osiadacz|links=no}}) は1971年11月24日の夜にクレエラム付近でダンプカーを走らせていたという。その際、悪天候の中で道路のわきを歩く男を見かけた。オシアダッツは、その人物は車が故障し、助力を求めて歩いているのだろうと推測した。しかし、ダンプカーには男を乗せるだけの空きがなかった。オシアダッツはそのまま目的地であるクレエラムのすぐ外れにあるティーナウェイ・ジャンクション・カフェ ({{Lang-en-short|Teanaway Junction Café|links=no}}) へ向かった。オシアダッツがコーヒーを頼んだ後、件の男もカフェに入ってきた。さながら溺れたネズミのような見た目だったという。男はオシアダッツの隣に座り、自分の友人をここへ案内したいため、その友人に電話をかけてほしいと頼んだ。オシアダッツは了承し、その男の友人に電話で話しかけ、カフェの場所を教えた。それからまもなく、オシアダッツはバンドの演奏をするためグランジェ・ホールへ向かうためにカフェを出ようとした。男はコーヒーの代金を払うことを申し出て、2人は友好的に別れた。

ラウリンが目撃者の捜索を始めたのは、レカが着陸地点への道すがらに見た地形を説明してからのことだった。レカの説明によると、道中で2つの橋といくらかのはっきりとした光を見たという。カフェの外観と内装についても説明し、オシアダッツと会ったことも話した。レカはオシアダッツの詳細を説明し、西部風の服装をしていて、ギターケースを持っていたことを話した。レカはオシアダッツを「カウボーイ」と呼んだ。

ラウリンは地図からレカの説明した地形上の独特の目印を発見し、電話をかけて「ダンプカーを運転していたカウボーイ」について尋ねた。ラウリンがオシアダッツと連絡をとると、オシアダッツはその夜に男と出会ったことを思い出し、男の服装や外見について説明した。オシアダッツはラウリンが送ったレカの写真を見た後、その男性がレカであることを確認した<ref>{{cite news|url=https://www.mlive.com/news/grand-rapids/index.ssf/2018/05/db_cooper_lived_and_died_in_mi.html|title=D.B. Cooper author unveils evidence he says identifies infamous skyjacker|access-date=July 19, 2018|language=en-US|date=May 17, 2018|last=Airgood|newspaper=MLive.com|first=Bryce}}</ref>。ラウリンはレカがクーパー事件の犯人の告白を録音したテープに加え、レカが記した告白文と、レカがハイジャックの間に黒いズボンの下に着ていたと主張する長い下着も所有している。

2016年、ラウリンはプリンシピア・メディアの経営者にこの情報を伝え、経営者は科学調査の専門家のジョー・ケーニグ ({{lang-en-short|Joe Koenig|links=no}}) に相談した<ref>{{cite news|url=https://www.grandhaventribune.com/Local/2018/07/26/GH-residents-play-big-part-in-solving-hi-jacking-mystery|title=GH residents help solve hijacking mystery|newspaper=Grand Haven Tribune|access-date=November 29, 2018|date=July 26, 2018|first=Becky|last=Vargo}}</ref>。ケーニグはラウリンが持ってきた全ての文書を鑑定した。文書にはパスポートやIDカード、写真、新聞の切り抜きが含まれる。ケーニグは改竄の証拠はなく、全ての文書は本物でその時代のものであると評価した。ラウリンの調査と入手可能なFBIの記録と比較すると、レカが被疑者でないと見なせる矛盾は見つからなかった。ケーニグはオシアダッツの1971年11月24日の夜の出来事についての証言がレカがその5年前に話したことと一致することが特に重要であるとも考えた。ケーニグは2018年5月17日に開かれたプリンシピア・メディアの記者会見で、ウォルター・R・レカがクーパーの正体と考えていると公言した<ref>{{cite news|url=https://www.king5.com/video/news/forensic-investigator-explains-why-he-believes-walter-reca-is-db-cooper/281-8131681|title=Forensic investigator explains why he believes Walter Reca is D.B. Cooper|publisher=KING|access-date=July 19, 2018|language=en-US|df=dmy-all}}</ref>。2019年1月8日、ケーニグは''Getting the Truth''と題したクーパーについての書籍を出版した<ref>{{Cite web|url=https://therealdbcooper.com/pages/about|title=About – D.B. Cooper|accessdate=January 11, 2019|publisher=}}</ref>。

===ウィリアム・J・スミス===
[[File:William Smith a Yardmaster at Newark rail yard.jpg|thumb|ウィリアム・J・スミス。1985年撮影。]]

2018年11月、[[オレゴニアン]]誌がニュージャージー州ブルームフィールドに住んでいたウィリアム・J・スミス ({{lang-en-short|William J. Smith|links=no}}、1928年 - 2018年)<ref> {{Cite web|url=http://obits.nj.com/obituaries/starledger/obituary.aspx?n=william-smith&pid=187988854&fhid=17104|title=WILLIAM SMITH Obituary - Bloomfield, NJ|accessdate=December 17, 2018|publisher=|website=The Star-Ledger}}</ref>が被疑者の可能性があると報じる記事を掲載した。この記事はアメリカ軍のデータを解析していた研究者の調査に基づいていた。この研究者は自身の発見を2018年夏にFBIに送付している<ref name=":39"> {{Cite news|title=New suspect in D.B. Cooper skyjacking case unearthed by Army data analyst; FBI stays mum|date=November 13, 2018|accessdate=November 29, 2018|url=https://expo.oregonlive.com/news/erry-2018/11/e18eba2aa14557/new-suspect-in-db-cooper-skyja.html|last=Perry|first=Douglas|newspaper=The Oregonian}}</ref>。スミスは第二次世界大戦時の海軍での兵役を経験した人物で、クーパー事件のときは43歳だった。スミスは高校卒業後に海軍に入り、空を飛びたいと言って戦闘機乗りに志願した。海軍を退役すると、[[リーハイ・バレー鉄道]]で働き、1970年の[[ペン・セントラル鉄道]]倒産のあおりを受けた。これは当時ではアメリカ史上最大規模の倒産だった。記事では、この倒産によりスミスは年金を失い、企業体制と交通産業に対する恨みを抱いたという仮説を立てている。また、年金を失ったことで突然に金が必要な状況に追い込まれたとも推測される。スミスの母校の高校の年鑑では、第二次世界大戦で死亡した同窓の一覧にアイラ・ダニエル・クーパー ({{lang-en-short|Ira Daniel Cooper|links=no}}) という人物の名前を掲載していた。これが「ダン・クーパー」という偽名の由来になった可能性がある<ref name=":39" />。研究者は、スミスの海軍時代での航空機の経験により飛行機やパラシュートの知識を得て、鉄道会社で働いていたときの経験が飛行機から飛び降りた後にそこから逃亡するために鉄道軌道を見つけて電車に乗る助けとなったのだろうと述べた<ref> {{Cite news|title=DB Cooper revealed? New suspect emerges years after infamous hijacking|date=November 15, 2018|accessdate=November 29, 2018|newspaper=FOX News|last=Gaydos|first=Ryan|url=https://www.foxnews.com/us/fresh-db-cooper-theory-emerges-years-after-infamous-hijacking}}</ref>。研究者は、自身の調査はマックス・ガンサー ({{lang-en-short|Max Gunther|links=no}}) が1985年に著した書籍''D.B. Cooper: What Really Happened''とウィリアム・J・スミスとを結び付けたことで始まったとも述べている<ref> {{Cite news|title=New suspect in D.B. Cooper skyjacking case unearthed by Army data analyst; FBI stays mum|date=November 13, 2018|accessdate=January 24, 2019|url=https://expo.oregonlive.com/news/erry-2018/11/e18eba2aa14557/new-suspect-in-db-cooper-skyja.html|last=Perry|first=Douglas|newspaper=The Oregonian}}</ref>。

オレゴニアンの記事では、ネクタイから発見されたアルミニウムの螺旋状の小片などの粒子は機関車整備施設に由来する可能性があるとも書かれている。さらに、スミスがクーパーだとして、スミスがシアトル地域の情報を知っていたのは、鉄道で働いていたとき以来のスミスの親友であり、第二次世界大戦中にルイス駐屯地に配置されていた人物であるダン・クレア ({{lang-en-short|Dan Clair|links=no}}) から聞いたためかもしれないとも記されている。スミスとクレアはニュージャージー州ニュアークにあるオーク・アイランド・ヤードで一緒に働いており、スミスは[[コンレール]]の[[助役 (鉄道)|助役]]の職を退職した。記事には、リーハイ・バレー鉄道の写真を掲載しているウェブサイトにスミスの写真があり、クーパーの似顔絵と著しく似ているとも書かれている<ref> {{Cite web|url=http://www.lvrr.com/jersey-city-employee/|title=Jersey City Employees|accessdate=November 29, 2018|publisher=|website=lvrr.com}}</ref>。FBIはメディアのスミスに関する要求に対して、特定の被疑者についてコメントするのは不適切であると述べた<ref name=":39" />。

===ドゥエーン・ウェーバー===
ドゥエーン・L・ウェーバー ({{lang-en-short|Duane L. Weber|links=no}}) は第二次世界大戦に陸軍での兵役を経験した人物であり、1945年から1968年の間に強盗や文書偽造で少なくとも6箇所の刑務所で服役していた。ウェーバーは自身の妻から被疑者であるという説が出されたが、これは第一にはウェーバー自身の死に際での犯行の告白を元としていた。ウェーバーは1995年に死亡したが、その3日前、ウェーバーは妻に自分はダン・クーパーであると伝えた。妻はその名前の意味が分からなかったというが、数ヵ月後に、友人がその名前の意味を教えた。妻は地元の図書館へ行ってクーパーについて調べた。マックス・ガンサーの書籍を見つけ、その余白に夫の筆跡でメモが書かれていることを発見した<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。

そのときに妻は過去の記憶を思い出した。ウェーバーは一度、ある悪夢を見たことがあった。ウェーバーによると、飛行機から飛び降りたときに、機体尾部のエアステアに指紋を残してしまっているという内容だったという<ref name="CrimeLibrary10">{{cite web|title=The D.B. Cooper Story: "I'm Dan Cooper. So Am I."|last=Krajicek|first=David|url=http://www.crimelibrary.com/criminal_mind/scams/DB_Cooper/10.html|work=Crime Library|access-date=March 12, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080406133146/http://www.crimelibrary.com/criminal_mind/scams/DB_Cooper/10.html|archivedate=April 6, 2008|publisher=|deadlinkdate=April 20, 2019}}</ref>。また、膝に古い傷があり、妻に飛行機から飛び降りたときについた傷だと語ったとも言われている。クーパーのように、ウェーバーはバーボンを飲み、立て続けにタバコを吸っていた。それ以外の状況証拠として、ウェーバーが1979年にシアトルとコロンビア川に旅行に行っていたことが挙げられる。このとき、ウェーバーはティナ・バーの川岸に沿って散歩していた。その4ヵ月後に、ブライアン・イングラムがその地域で身代金の紙幣を発見することになる<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。

FBIは1998年7月にウェーバーを被疑者から除外した。ウェーバーの指紋がハイジャックされた飛行機から検出されたどの指紋とも一致せず<ref name="CrimeLibrary10" />、ウェーバーが犯人であることを示す直接的な証拠が発見できなかったためである<ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24" />。後の調査で、ウェーバーのDNAはクーパーのネクタイから回収された試料と一致しないことも明らかになっている<ref name="new" /><ref name="CNN2011-08-01" /><ref name="CNN2011-08-01" />。ただし、FBIは以降に、ネクタイから発見された生体試料がクーパーに由来するものであるかは不確定であることを認めた<ref name="no match" />。

==模倣犯==
クーパーは私益のためにハイジャックを行った最初の人物というわけではない。例えば、1971年11月初旬、カナダ人のポール・ジョセフ・チーニ ({{lang-en-short|Paul Joseph Cini|links=no}}) は[[モンタナ州]]上空で[[エア・カナダ]]の[[ダグラス DC-8|DC-8]]機をハイジャックした。しかし、持参してきたパラシュートを装着しようとして散弾銃を下ろしたときに乗員により制圧された{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=94}}<ref>{{Cite web|url=https://slate.com/human-interest/2013/06/paul-joseph-cini-hijacked-a-plane-because-he-had-an-idea-parachuting.html|title=Paul Joseph Cini hijacked a plane because he had an idea: Parachuting.|accessdate=September 4, 2015|publisher=|date=June 14, 2013|last=Koerner|first=Brendan I.|website=Slate Magazine}}</ref>。クーパーは少なくともパラシュートで降下するところまでハイジャックを成功させていたため、にわかに模倣犯が現れた。そのような事件のほとんどは1972年に起きた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=73}}。その中で著名な例を次に挙げる。

*{{仮リンク|ガレット・ブロック・トラップネル|en|Garrett Brock Trapnell}} ({{lang-en-short|Garrett Brock Trapnell|links=no}}) は1月にロサンゼルスからニューヨークへ向かう途中の[[トランス・ワールド航空]]機をハイジャックした。トラップネルは現金306,800ドルと[[アンジェラ・デイヴィス]]の釈放、[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]との謁見を要求した。飛行機が[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]に着陸した後、トラップネルはFBIの捜査官からの銃撃を受けて負傷し、逮捕された<ref>{{Cite news|title=The First Hijackers|date=January 16, 2005|accessdate=June 29, 2011|url=https://www.nytimes.com/2005/01/16/magazine/the-first-hijackers.html|newspaper=The New York Times|last=Killen|first=Andreas}}</ref>。

* リチャード・チャールズ・ラポイント ({{lang-en-short|Richard Charles LaPoint|links=no}}) は陸軍での兵役を経験した人物であり、"New England beach bum"<ref name="skycod">{{cite news|url=http://extras.denverpost.com/news/news0121g.htm|newspaper=Denver Post|title=Skyjacker a Colorado oddity?|first=Kit|last=Miniclier|date=January 21, 2001|access-date=February 16, 2013}}</ref> (直訳すると「ニューイングランドの海辺で遊び呆けている人物」) でもあった。ラポイントは1月20日にラスベガスの[[マッカラン国際空港|マッカラン]]で[[ヒューズ・エア・ウエスト]]800便の[[マクドネル・ダグラス DC-9|DC-9]]機に搭乗した。飛行機が誘導路にいるときに、ラポイントは爆弾と称するものを見せ付けて脅迫し、5万ドルとパラシュート2つ、ヘルメットを要求した<ref name="hjcapoc">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=M5UgAAAAIBAJ&pg=1442%2C2185479|newspaper=Lewiston Daily Sun|agency=Associated Press|title=Hijacker caught after parachuting over Colorado with $50,000 in cash|date=January 21, 1972|page=1}}</ref>。乗客と2人の客室乗務員を解放すると、デンバーへ向けて東に飛行機を飛ばすように命令した<ref name="parhjcap">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=wthVAAAAIBAJ&pg=6730%2C4283362|newspaper=Eugene Register Guard|last=Taylor|first=Daniel L.|agency=UPI|title=Parachutist hijacker captured|date=January 21, 1972|page=3A}}</ref>。その後、[[コロラド州]]北東部の木のない平原の上空でパラシュートで降下した。実はパラシュートには探知機が付いていた。当局はパラシュートと雪や泥についた足跡を追跡し、数時間後にラポイントを逮捕した<ref name="chhijcbp">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=je9LAAAAIBAJ&pg=6586%2C1917285|newspaper=Spokesman-Review|agency=Associated Press|title=Chuting hijacker caught by police|date=January 21, 1972|page=1}}</ref><ref name="hi50j">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=P_IdAAAAIBAJ&pg=2850%2C8504|newspaper=Milwaukee Journal|title=Hijacker with $50,000 loot captured after bailing out|date=January 21, 1972|page=1}}</ref><ref name="hftbj">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=CLVYAAAAIBAJ&pg=5884%2C1649602|newspaper=Spokane Daily Chronicle|agency=Associated Press|title=Hijacker foiled; tracked by jets|date=January 21, 1972|page=19}}</ref>。

*[[リチャード・マッコイ|リチャード・マッコイ・ジュニア]]はかつては陸軍のグリーンベレーだった<ref>
{{Cite web|url=http://parachutistonline.com/feature/skyjacker%E2%80%94-richard-mccoy-jr-story|title=Skyjacker—The Richard McCoy Jr. Story|accessdate=February 25, 2013|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170703154213/http://parachutistonline.com/feature/skyjacker%E2%80%94-richard-mccoy-jr-story|archivedate=July 3, 2017|deadlinkdate=April 20, 2019|website=Parachutist Online|last=Farnsworth|first=Musika|date=March 2, 2011}}
</ref>。マッコイは4月にサンフランシスコへ向けてデンバーを飛び立ったユナイテッド航空のボーイング727-100をハイジャックし、50万ドルの身代金を持ってユタ州上空でパラシュートを使って降下した。安全に着地したが、2日後に逮捕された<ref>{{Cite web|url=https://www.fbi.gov/about-us/history/famous-cases/richard-floyd-mccoy|title=Richard Floyd McCoy, Jr. - Aircraft Hijacking|accessdate=March 8, 2011|publisher=FBI|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160516043944/https://www.fbi.gov/about-us/history/famous-cases/richard-floyd-mccoy|archivedate=May 16, 2016|deadlinkdate=April 20, 2019}}</ref>。

*{{仮リンク|フレデリック・ハーネマン|en|Frederick Hahneman}} ({{lang-en-short|Frederick Hahneman|links=no}}) は5月に[[ペンシルベニア州|ペンシルバニア州]][[アレンタウン (ペンシルベニア州)|アレンタウン]]で[[イースタン航空|イースターン航空]]のボーイング727を拳銃を手にハイジャックした。30万3千ドルを要求し、最終的には出生地の[[ホンジュラス]]へパラシュートで降下した。1ヵ月後、FBIの追跡と、2万5千ドルの懸賞金がかけられたことで、ハーネマンは[[テグシガルパ]]にあるアメリカ大使館で自首した<ref>{{Cite news|title=A-B-E Hijacker Who Parachuted into Jungle Is Free From Prison Air Piracy|date=June 30, 1985|accessdate=August 3, 2011|url=https://www.mcall.com/news/mc-xpm-1985-06-30-2464617-story.html|newspaper=The Morning Call|last=Whelan|first=Frank}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://lehighvalleyhistory.blogspot.com/2010_09_01_archive.html|title=Lehigh Valley International Airport began as airmail stop|accessdate=March 8, 2011|publisher=|website=Lehigh Valley History|date=September 27, 2010|last=Samuels|first=Karen M.}}</ref>。

* ロブ・ドリン・ヘディ ({{lang-en-short|Robb Dolin Heady|links=no}}) は空挺兵でベトナム戦争での兵役を経験した人物であり、6月初旬にリノでユナイテッド航空のボーイング727を襲撃し、20万ドルとパラシュート2つを要求した。リノから南へ約40キロメートルのところにある{{仮リンク|ワショー湖|en|Washoe Lake}}の近くで暗闇の中へ身を投じた。警察はヘディの車 (アメリカパラシュート協会のバンパーステッカーが貼られていた) が湖の近くで停められているのを発見し、翌朝に車へ戻ってきたヘディを逮捕した<ref>{{Cite web|url=http://www.dropzone.com/cgi-bin/forum/gforum.cgi?post=3286950|title=Heady, 22, Night jump, Reno, $200k, Vietnam vet, gun, sticker, caught immediately|accessdate=March 8, 2011|publisher=|website=Dropzone.com|date=August 1, 2008}}</ref><ref>Photo of Heady's arrest (June 3, 1972). [http://www.dropzone.com/cgi-bin/forum/gforum.cgi?do=post_attachment;postatt_id=101982;guest=77543628 Dropzone.com] Retrieved March 8, 2011.</ref>。

* マーティン・マクナリー ({{lang-en-short|Martin McNally|links=no}}) はかつてはガソリンスタンドの案内係だったが当時は無職だった。6月下旬に[[セントルイス]]から[[タルサ (オクラホマ州)|タルサ]]へ向かう途中の[[アメリカン航空]]のボーイング727を[[短機関銃]]を持ってハイジャックし、東に方向転換して[[インディアナ州]]へ向かわせ、50万ドルの身代金を持ってパラシュートで降下した<ref>{{cite web|url=http://www.stltoday.com/news/local/metro/article_1aac5de6-6eb4-5245-a126-7adf324d5eb2.html|title=A Look Back • Airline hijacking at Lambert in 1972 turns bizarre|first=Tim|last=O'Neil|publisher=|accessdate=April 20, 2019|date=June 25, 2011|website=St. Louis Post-Dispatch}}</ref>。マクナリーは飛行機から出るときに身代金をなくしてしまったが、インディアナ州{{仮リンク|ペルー (インディアナ州)|en|Peru, Indiana|label=ペルー}}の近くで安全に着陸した。数日後に[[デトロイト]]近郊で逮捕された<ref>{{Cite news|title=Only in Oklahoma: Skyjacker nabs Tulsa plane in error-filled romp|date=July 8, 2007|accessdate=March 8, 2011|url=http://www.tulsaworld.com/webextra/itemsofinterest/centennial/centennial_storypage.asp?ID=070729_1_A4_spanc01672|last=Curtis|first=Gene|newspaper=Tulsa World}}</ref>。

1972年に発生したクーパー事件に似たハイジャック事件は全部で15件あり、すべて失敗に終わった<ref name="gladwell">
{{Cite news|title=Safety in the Skies|date=October 1, 2001|newspaper=The New Yorker|last=Gladwell|first=Malcolm|url=http://gladwell.com/safety-in-the-skies/|accessdate=February 14, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141218130651/http://gladwell.com/safety-in-the-skies/|archivedate=December 18, 2014}}
</ref>。1973年に全国的に手荷物の検査を行うようになり ([[#空港の安全性]]を参照)、全体的なハイジャック事件の発生率は劇的に減少した<ref name="Wu">{{Cite web|url=http://savvytraveler.publicradio.org/show/features/2000/20000915/security.shtml|title=The History of Airport Security|accessdate=February 14, 2011|publisher=|website=The Savvy Traveler|last=Wu|first=Annie}}</ref>。クーパー事件を模倣したハイジャック事件は、1980年7月11日を最後に顕著な例は存在しなかった。この日、グレン・K・トリップ ({{lang-en-short|Glenn K. Tripp|links=no}}) がノースウエスト航空608便をシアトル・タコマ空港でハイジャックし、60万ドル (ある文献では10万ドル)<ref>{{Cite web|url=http://www.check-six.com/Crash_Sites/NWA305-DBCooper.htm|title=Codename: Norjak The Skyjacking of Northwest Flight 305|accessdate=March 4, 2013|publisher=|website=Check-six.com}}</ref>とパラシュート2つ、自身の上司の暗殺を要求した。しかし、客室乗務員がとっさの判断でアルコール飲料に密かに[[バリウム]]を混ぜてトリップに与えた。10時間もの膠着状態の間に、トリップは要求をチーズバーガー3個と先んじて逃走することに変更し、その後に逮捕された<ref>{{cite web|title=Codename: Norjak The Skyjacking of Northwest Flight 305 - The 1980 Copycat|url=http://www.check-six.com/Crash_Sites/NWA305-DBCooper.htm|website=Check-Six.com|accessdate=2 September 2018}}</ref>。しかし、1983年1月21日、トリップはまだ保護観察中だったが、再び同じノースウエスト航空機を今度は飛行中にハイジャックし、[[アフガニスタン]]へ飛行機を飛ばすことを要求した。飛行機がポートランドに着陸したときに、トリップはFBIの捜査官に銃殺された<ref>{{Cite book|title=The Terrorist List|date=January 12, 2011|year=|publisher=Praeger Publishers|isbn=0-313-37471-6|first=E.F.|last=Mickolus|first2=S.L.|last2=Simmons|location=Westport, CT}}</ref>。

==事件の余波==
===空港の安全性===
クーパー事件が商業航空に安全性をもたらす幕開けとなった。前年に[[連邦航空保安局|スカイ・マーシャル・プログラム]]が開始されたにも関わらず<ref name="Wu" />、1972年にアメリカ上空を飛ぶ飛行機で31件もハイジャック事件が発生していた。そのうちの19件が金の強奪が目的で、それ以外の事件のほとんどがキューバへ向かうことが目的だった<ref>
{{Cite web|url=http://pegasus.cc.ucf.edu/~surette/hijacking.html|title=The Contagiousness of Aircraft Hijacking|accessdate=February 14, 2011|publisher=|website=[[セントラルフロリダ大学|University of Central Florida]]|deadlinkdate=April 21, 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150717042940/http://pegasus.cc.ucf.edu/~surette/hijacking.html|archivedate=July 17, 2015|last=Holden|first=Robert T.}}
</ref>。金の強奪を目的とした事件のうちの15件はパラシュートも要求された<ref name="gladwell" />。1973年前半、連邦航空局は、航空会社に乗客全員とその鞄を検査することを要求した。このような手荷物の検査が検査と押収を規制する{{仮リンク|アメリカ合衆国憲法修正第4条|en|Fourth Amendment to the United States Constitution|label=憲法修正第4条}}に反していると複数の訴訟が起こされたが、連邦裁判所は、このような検査が全国的に行われ、かつそれが武器や爆薬の探知を目的とした検査に限られるときに許可されると決定した<ref name="Wu" />。1972年に31件もハイジャックがあったのに対し、1973年は2件しか起こらなかった。どちらも精神障害者による犯行で、そのうちの1人である{{仮リンク|サミュエル・ビック|en|Samuel Byck}} ({{lang-en-short|Samuel Byck|links=no}}) は飛行機を[[ホワイトハウス]]に突っ込ませてニクソン大統領を殺害しようと企てた{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=120}}。

===飛行機の改修===
[[File:Db Cooper Vane.JPG|thumb|クーパー・ヴェーン。解除されている。]]

1972年に模倣犯による犯行が相次いで起きたため、連邦航空局はボーイング727全機に飛行中の尾部のエアステアの降下をできなくする装置を装着することを義務付けた。この装置は後に「{{仮リンク|クーパー・ヴェーン|en|Cooper vane}}」({{Lang-en-short|Cooper vane|links=no}}) と呼ばれた<ref name="Wu" /><ref name="ST">{{cite news|title=D.B. Cooper puzzle: The legend turns 30|last=Gilmore|first=Susan|date=November 22, 2001|url=http://archives.seattletimes.nwsource.com/cgi-bin/texis.cgi/web/vortex/display?slug=cooper22m&date=20011122|work=The Seattle Times|access-date=January 2, 2008}}</ref>。クーパー事件を直接的な理由として、全ての飛行機のコックピットのドアに覗き穴が導入された。これにより、コックピットにいる乗員がコックピットのドアを開けることなく客室にいる人の様子を見ることができるようになった{{sfn|Gunther|1985|p=50}}。

===ハイジャックされた飛行機のその後===
ハイジャックされたボーイング727-100は1978年にノースウエスト航空から[[ピードモント航空]]に売却された。新たにN838Nと登録され、国内便で使用され続けた<ref>[http://www.jetpiedmont.com/ ピエドモント航空の歴史資料]、2013年5月29日閲覧。</ref>。1984年に、今は存在しないチャーター会社の{{仮リンク|キー航空|en|Key Airlines}}へ売却され、新たにN29KAと登録された。空軍による民間のチャーター機団に加えられ、機密の[[F-117 (航空機)|F-117]]開発計画の際に[[ネリス空軍基地]]と{{仮リンク|トノパ・テスト・レンジ|en|Tonopah Test Range}}との間を労働者を輸送する折り返し便として使用された<ref>{{Cite book|title=Airlines Remembered|date=June 10, 2000|year=|publisher=Midland Publishing|isbn=1-85780-091-5|last=Hengi|first=B.I.|pages=56-7}}</ref>。1996年、メンフィスの[[飛行機の墓場|廃棄場]]でスクラップにされた<ref name="timeline" />。

===アール・コッシー===
クーパーに渡された4つのパラシュートは、元々はスカイダイビング・スクールの経営者のアール・コッシー ({{lang-en-short|Earl Cossey|links=no}}) の所有物だった。2013年4月下旬、コッシーがシアトルの郊外にある[[ウッディンビル (ワシントン州)|ウッディンビル]]にある自宅で遺体となって発見された。頭部への鈍的外傷により他殺されたという結論になった。犯人は不明である<ref>Baumann, L (May 7, 2013): "Man Who Packed DB Cooper's Parachutes ID'd as Woodinville Homicide Victim". [http://woodinville.patch.com/groups/police-and-fire/p/homicide-victim-identified-as-earl-cossey-of-woodinville Woodinville ''Patch'']. Retrieved May 29, 2013</ref>。一部の評者はクーパー事件との関係性あるかもしれないと主張した<ref>Smith, BA (May 4, 2013): "Update on the murder of Earl Cossey, an analysis of his role in the DB Cooper case". [http://themountainnewswa.net/2013/05/04/update-on-the-murder-of-earl-cossey-an-analysis-of-his-role-in-the-db-cooper-case/ The Mounatain News]. Retrieved May 29, 2013</ref>。しかし、当局はそのような関係性があると考える理由はないと応じた<ref>Johnson G (April 30, 2013): "Earl Cossey, DB Cooper Parachute Packer, ID'd As Homicide Victim". [http://www.huffingtonpost.com/2013/04/30/earl-cossey-db-cooper-par_n_3188745.html HuffingtonPost.com] Retrieved May 29, 2013</ref>。後に、ウッディンビル警察は犯行の動機は強盗である可能性が非常に高いと発表した<ref>Bauman, L (May 12, 2013). Cossey Murder: Woodinville Police Chief Classifies it as Burglary. [http://woodinville.patch.com/groups/police-and-fire/p/earl-cossey-murder-woodinville-police-chief-classifie5175f3af01 WoodinvillePatch.com archive] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131029203313/http://woodinville.patch.com/groups/police-and-fire/p/earl-cossey-murder-woodinville-police-chief-classifie5175f3af01|date=October 29, 2013}}. Retrieved October 28, 2013.</ref>。

==文化への影響==
ヒンメルスバッハがクーパーのことを"rotten sleazy crook"{{sfn|Himmelsbach|Worcester|1986|p=116}} (直訳すると「腐った薄汚いペテン師」) と呼んだことは有名だが、クーパーの大胆で冒険的な犯行はカルト的な支持者を生み出し、歌や映画、文学の題材となった。太平洋岸北西地区にある料理店やボーリング場は定期的にクーパーをテーマに宣伝活動を行い、観光客向けのみやげを売っている。エアリアル・ジェネラル・ストア・アンド・タヴァーン ({{lang-en-short|Ariel General Store and Tavern|links=no}}、直訳すると「アリエル雑貨店・居酒屋」) では1974年から毎年11月に「クーパーの日」のお祝いが開かれた。ただし、2015年は経営者のドナ・エリオット ({{lang-en-short|Dona Elliott|links=no}}) が亡くなったため行われなかった<ref>{{cite web|url=https://themountainnewswa.net/2015/11/16/death-in-the-db-cooper-family-dona-elliott/|title=Death in the DB Cooper "family" – Dona Elliott|last=Smith|date=November 17, 2015|website=themountainnewswa.net|accessdate=April 20, 2019|publisher=|author=Bruce A.}}</ref>。

クーパーはテレビシリーズの『[[プリズン・ブレイク]]』や『[[THE BLACKLIST/ブラックリスト]]』、{{仮リンク|NewsRadio|en|NewsRadio|label=''NewsRadio''}}、『[[レバレッジ 〜詐欺師たちの流儀]]』、『[[ジャーニーマン 時空を越えた赤い糸]]』、『[[NUMBERS 天才数学者の事件ファイル]]』、{{仮リンク|Drunk History|en|Drunk History|label=''Drunk History''}}、1981年の映画の『{{仮リンク|ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事|en|The Pursuit of D. B. Cooper|label=ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事}}』、2004年の映画の{{仮リンク|Without a Paddle|en|Without a Paddle|label=''Without a Paddle''}}、テレビシリーズ『[[4400 未知からの生還者]]』を元とした書籍''The Vesuvius Prophecy''の筋書きにも登場している<ref name="slatta">{{cite book|first=Richard W.|last=Slatta|year=2001|title=The Mythical West: An Encyclopedia of Legend, Lore and Popular Culture}}</ref>。


; プリズン・ブレイク
; プリズン・ブレイク
: ドラマ『[[プリズン・ブレイク]]シーズン1 の登場人物であるチャールズ・ウェストモアランドが実はD.B.クーパーである他の[[囚人]]から噂される描写がある。チャールズは犯行後、着地の際に足を負傷して、金を土に埋めた後、[[自動車]]の運転で人をねて[[逮捕]]されている。
: ドラマ『プリズン・ブレイク』1の登場人物であるチャールズ・ウェストモアランドが実はクーパーであると他の囚人から噂される描写がある。チャールズは犯行後、着地の際に足を負傷して、金を土に埋めた後、自動車の運転で人をねて逮捕されている。
; NUMBERS
; NUMBERS
: ドラマ『[[NUMB3RS]]』のシーズン6、10話には処分の為に輸送される[[古札]]を狙った[[連邦準備銀行]]強盗団を制圧した際、D.B.クーパーが盗んだとされる紙幣が紛れていた話がる。D.B.クーパーが複数犯で、主犯格は仲間に殺されていて残った1人も[[多発性骨髄腫]]で[[余命]]4カ月、ほとんどの金は主犯格が虐殺した[[ベトナム]]・[[ヌバク村]]の復興にられたことになっている。
: ドラマ『NUMBERS 天才数学者の事件ファイル』の610話には処分の為に輸送される古札を狙った[[連邦準備銀行]]強盗団を制圧した際、クーパーが盗んだとされる紙幣が紛れていた話がる。クーパーが複数犯で、主犯格は仲間に殺されていて残った1人も[[多発性骨髄腫]]で[[余命]]4カ月の身であり、ほとんどの金は主犯格が虐殺した[[ベトナム]]ヌバク村の復興にあてられたことになっている。
; 映画「ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事
; ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事
: 1981年の映画『{{仮リンク|ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事|en|The Pursuit of D. B. Cooper}}原題:The Pursuit of D. B. Cooper)では、冒頭でD.B.クーパー事件を元にしたハイジャック事件が描かれる。物語のほとんどは[[保険調査員]](クーパーの軍隊時代の元上官がクーパーを追跡するフィクション。
: 1981年の映画『ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事』(原題:The Pursuit of D. B. Cooper) では、冒頭でクーパー事件を元にしたハイジャック事件が描かれる。物語のほとんどは保険調査員 (クーパーの軍隊時代の元上官) がクーパーを追跡するフィクションである


== 脚注 ==
==出典==
{{reflist|3
{{Reflist}}
| colwidth =
| refs =<ref name="CNN2011-08-01">{{cite news| url= http://www.cnn.com/2011/CRIME/08/01/fbi.db.cooper/| title= FBI working new lead in D.B. Cooper hijacking case | date=August 1, 2011| publisher= CNN| access-date= August 1, 2011}}</ref><ref name="Gray-NYmag2007-10-21">{{cite journal
| last = Gray | first = Geoffrey
| title = Unmasking D.B. Cooper
| date = October 21, 2007
| journal = {{仮リンク|ニューヨーク (雑誌)|en|New York (magazine)|label=New York}}
| issn = 0028-7369
| url = http://nymag.com/news/features/39593/
| access-date = April 24, 2011
}}</ref><ref name="Pasternak-USNWR2000-07-24">{{cite journal
| last = Pasternak | first = Douglas
| title = Skyjacker at large
| date = July 24, 2000
| journal = [[U.S. News & World Report]]
| volume=129 |issue=4 |pages=72–73
| issn =0041-5537
}}</ref><ref name="FBI-Redux">{{cite web
| title = D.B. Cooper Redux: Help Us Solve the Enduring Mystery
| date = December 31, 2007
| url = https://www.fbi.gov/news/stories/2007/december/dbcooper_123107
| access-date = April 24, 2011
| publisher = FBI
}}</ref><ref name="Seven1996-11-17">{{cite news
| last = Seven | first = Richard
| title = D.B. Cooper&nbsp;– Perfect Crime or Perfect Folly?
| date = November 17, 1996
| newspaper = [[The Seattle Times]]
| url = http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19961117&slug=2360262
| access-date = April 24, 2011
}}</ref><ref name="Olson1999">{{cite book
| last = Olson | first = James S.
| year = 1999
| title = Historical Dictionary of the 1970s
| publisher = Greenwood Press
| location = Westport, Connecticut
| page = 107
| isbn = 978-0-313-30543-6
}}</ref><ref name="cylinders">
シャフナーの説明がポートランドにあるFBIの指令所へ伝達されると、捜査官たちはダイナマイトは普通は茶色かベージュ色であることを指摘し、8本の赤い円筒形の物体はおそらく道路や鉄道で使用される発炎筒だろうと推測した。しかし、その推測は確実なものにはなりえなかったため、武力介入は推奨されえなかった ({{harvnb|Himmelsbach|Worcester|1986|pp=40–41}})。
</ref><ref name="twenty">
ほとんどの情報源では、クーパーは20ドル紙幣で身代金を支払うように指示したとある。しかし、クーパーからの要求に最初に応じたときにその場にいたヒンメルスバッハは、クーパーは紙幣の種類は不問としていたと記している ({{harvnb|Himmelsbach|Worcester|1986|p=18}})。どの情報源でも身代金は20ドル紙幣で支払われたことは共通している。
</ref><ref name="parachutes">
パラシュートを提供したスカイダイビングのインストラクターのアール・コッシーはいくつかのメディアに対して、4つのパラシュートのうちの3つ (メイン1つ、予備2つ) は返却されたと述べた。FBIは飛行機内で発見されたメイン1つと破壊された予備1つの計2つのパラシュートだけを保管している ({{harvnb|Gunther|1985|p=50}})。
</ref>


}}
== 外部リンク ==

* [http://www.crimelibrary.com/criminal_mind/scams/DB_Cooper/ Crime Library] - D.B.クーパーの物語(英語)
==参考文献==
* [http://aviation-safety.net/database/record.php?id=19711124-0 Aviation Safety Networkの事件概要](英語)
*{{Cite book|title=D.B. Cooper: Dead or Alive?|date=|year=1984|publisher=Tosaw Publishing|last=Tosaw|first=Richard T.|isbn=0-9609016-1-2}} (早期に出版されたクーパー事件の情報をまとめた書籍。後に出てくるより信頼できる情報との差異が一部見られる。自費出版であり、身代金の紙幣の通し番号の完全な一覧が収録されている)

* {{cite book
| last = Gunther
| first = Max
| year = 1985
| title = D. B. Cooper: What Really Happened
| publisher = Contemporary Books
| location = Chicago
| isbn = 0-8092-5180-9<!--was: 0-8092-4854-9, neither of which is showing in worldcat, and 4854 doesn't match 1985/contemporary books in google/amazon-->
| ref = harv}} (「クララ」 <{{lang-en-short|Clara|links=no}}> と呼称される女性とのインタビューに基づく。クララはクーパー事件の2日後に負傷したクーパーを発見し、10年後にクーパーが死亡するまで一緒に暮らしていたと主張している。FBIからは虚偽であると見なされている)
* {{cite book
| last = Himmelsbach
| first = Ralph P.
| last2 = Worcester
| first2 = Thomas K.
| year = 1986
| title = Norjak: The Investigation of D. B. Cooper
| publisher = Norjak Project
| location = West Linn, Oregon
| isbn = 978-0-9617415-0-1
| ref = harv
|date=}} (ヒンメルスバッハはFBIのこの事件の主任捜査官であり、1980年に退職するまで事件を追っていた。FBIではクーパー事件を"Norjak"と略記していた)
* {{cite book
| last =Rhodes
| first = B.
| last2 = Calame
| first2 = R.
| year = 1991
| title = D.B. Cooper: The Real McCoy
| publisher = Univ. of Utah Press
| isbn = 0-87480-377-2}} (模倣犯リチャード・マッコイがクーパーの正体であることを示す状況証拠の概要)
* {{cite book
| last = Reid
| first = Elwood
| year = 2005
| title = D.B.: A Novel
| publisher = Anchor Books
| isbn = 0-385-49739-3}} (フィクション。クーパー事件の真相を描くことを意図しているが、事実上裏付けがない)
* {{cite book
| last =Forman
| first = P.
| last2 = Forman
| first2 = R.
| year = 2008
| title = The Legend of D.B. Cooper – Death by Natural Causes
| publisher = Borders Personal Publishing
| isbn = 1-60552-014-4}} (バーバラ・デートンの話を自費出版したもの。デートンは男性に変装してハイジャックを実行したと主張したが、後に撤回した)
* {{cite book
| last = Grant
| first = Walter
| year = 2008
| title = D.B. Cooper, Where Are You?
| publisher = Publication Consultants
| isbn = 1-59433-076-X}} (クーパー事件で何が起こったのかを空想的に描いたもの)
* {{cite book|last=Koenig|first=Joe|year=2018|title=Getting the Truth: I am D.B. Cooper|publisher=Principia Media}}
* {{cite book|last=Nuttall|first=George C.|year=2010|title=D.B. Cooper Case Exposed: J. Edgar Hoover Cover Up?|publisher=Vantage Press|isbn=978-0-533-16390-8|ref=harv}} (陰謀と隠蔽工作があったという説だが、事実上裏付けがない)
* {{cite book
| last = Olson
| first = Kay Melchisedech
| year = 2010
| title = D.B. Cooper Hijacking: Vanishing Act
| publisher = Compass Point Books
| isbn = 978-0-7565-4359-4
| ref = harv
}} (公式の情報や証拠を虚偽なく記している)
* {{cite book|last=Elmore|first=Gene|year=2010|title=D.B. Cooper: Aftermath|publisher=iUniverse|ISBN=1-4502-1545-9}} (自費出版のフィクション。広く知られている事実の一部を混合したもの)
* {{cite book
| last = Porteous
| first = Skipp
| last2 = Blevins
| first2 = Robert M.
| title = Into the Blast – The True Story of D.B. Cooper
| year = 2010
| publisher = Adventure Books of Seattle
| location = Seattle, Washington
| isbn = 978-0-9823271-8-0
| ref = harv
}} (ケネス・クリスティアンセンが犯人であることを示す状況証拠を収集したもの)
* {{cite book|last=Gray|first=Geoffrey|year=2011|title=Skyjack: The Hunt for D.B. Cooper|publisher=Crown|ISBN=0-307-45129-1}} (著者はケネス・クリスティアンセンが被疑者であるという説を2007年のニューヨーク誌の記事に記した)
* {{cite book |last1=Colbert |first1=Thomas J. |title=The Last Master Outlaw: How He Outfoxed the FBI Six Times—but Not a Cold Case Team |date=2016 |publisher=Jacaranda Roots Publishing |isbn=978-0-9977404-3-1 |pages=330 |edition=1st |url=|title-link=The Last Master Outlaw }}
* {{cite book|last=Smith|first=Bruce A.|year=2016|title=DB Cooper and the FBI: A Case Study of America’s Only Unsolved Hijacking|publisher=Bruce A. Smith Publishing|ISBN=978-0-99731-200-3}} (クーパー事件を包括的に研究したものであり、主要な被疑者についての記述もある)

==外部リンク==
{{Commons}}

* [http://citizensleuths.com/ Citizen Sleuths]
* [http://www.DBCooper.com D.B. Cooper - The Last Master Outlaw]
* [https://web.archive.org/web/20160819045714/http://www.msn.com/en-us/news/crime/the-db-cooper-case-has-baffled-the-fbi-for-45-years-now-it-may-never-be-solved/ar-BBugIcH?li=BBnb7Kz&ocid=iehp The D.B. Cooper case has baffled the FBI for 45 years. Now it may never be solved.]
* [http://vault.fbi.gov/D-B-Cooper%20/ FBIのD.B.クーパー事件についての捜査資料]
* [http://www.stevenrinehart.com/uploads/LarryCarrInterview.mp3 FBIのラリー・カー主任捜査官とのラジオのインタビュー]
* [http://n467us.com/ Northwest 305 Hijacking Research Site]
* [https://www.newspapers.com/topics/crimes-mysteries/d-b-cooper-hijacking/ D.B. Cooper Hijacking] - D.B.クーパー事件についての新聞記事集
* [https://web.archive.org/web/20120122125846/http://www.fortnightjournal.com/dolan-morgan/286-hijacking-myth-3.html Hijacking Myth #3] - Fortnight Journal
* [http://www.adventurebooksofseattle.com/FinalReportChristiansen2015.pdf Report on Kenneth Peter Christiansen] - スキップ・ポーティアスとロバート・ブェヴィンス ({{Lang-en-short|Robert Blevins|links=no}}) が2015年8月15日にシアトルのFBIに送ったケネス・クリスティアンセンについての報告書全文
* [https://www.washingtonpost.com/news/post-nation/wp/2017/01/16/the-d-b-cooper-case-baffled-investigators-for-decades-now-scientists-have-a-new-theory/?wpisrc=nl_most-draw10&wpmm=1 The D.B. Cooper case baffled investigators for decades. Now, scientists have a new theory.] - [[The Washington Post]]、2017年1月16日。FBIの映像あり。
* [https://www.oregonlive.com/expo/news/erry-2018/11/e18eba2aa14557/new-suspect-in-db-cooper-skyja.html New suspect in D.B. Cooper skyjacking case unearthed by Army data analyst; FBI stays mum] - [[The Oregonian]]、2018年11月13日。
*[https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19711124-0 Aviation Safety Networkの事件概要]


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2019年5月27日 (月) 23:01時点における版

D.B.クーパー
1972年にFBIが公表したクーパーの似顔絵
失踪 1971年11月24日
現況 不明
別名 ダン・クーパー
著名な実績 1971年11月24日にボーイング727をハイジャックし、飛行中の飛行機からパラシュートを身につけて飛び降りた。身元は特定されていない。
テンプレートを表示
ノースウエスト・オリエント航空305便
ハイジャックにあったものと同型機のノースウエスト航空ボーイング727-100
ハイジャックの概要
日付 1971年11月24日
概要 ハイジャック
現場 オレゴン州ポートランドからワシントン州シアトルの間
乗客数 36 (およびハイジャック犯1名)
乗員数 6
負傷者数 知られている限り0
死者数 0 (ハイジャック犯のその後は不明)
生存者数 42 (乗員乗客全員)
機種 ボーイング727
運用者 ノースウエスト・オリエント航空
機体記号 N467US
出発地 ポートランド国際空港
目的地 シアトル・タコマ国際空港
テンプレートを表示

D.B.クーパー (: D. B. Cooper) は、1971年11月24日水曜日の午後、オレゴン州ポートランドからワシントン州シアトルへ向かっていたボーイング727太平洋岸北西部ハイジャックした身元不明の人物の通称である[1][2]。クーパーは身代金20万ドル (2023年時点の$1,500,000と同等) を強奪し、パラシュートで降下して飛行機を脱出した。その後、どのような末路を辿ったのかは知られていない。広範囲を捜索し、連邦捜査局 (FBI) も長期間捜査したが、クーパーの身元は現在も不明である。クーパー事件は商業航空産業史上で唯一未解決のハイジャック事件である[3][4][5]

クーパーの遺体は発見されていないものの、証拠や専門家の見解により、クーパーは高所からの転落が原因で死亡したという説が当初から提唱されていた[6]。それでも、FBIは事件から45年もの間捜査を続けていた。捜査の過程で事件資料は60巻以上にも膨れ上がったものの[7]、クーパーの身元に関する決定的な結論は得られていない。ハイジャック犯は「ダン・クーパー」 (英: Dan Cooper) という偽名で航空券を購入したが、ニュースメディアの誤報により、一般には「D.B.クーパー」という名前で有名になった。

捜査官や記者、アマチュアたちにより、長年の間に数多くの仮説が提唱されてきた[3][8]。1980年2月、コロンビア川の沿岸で、ある少年が身代金の紙幣の一部を発見した。この発見により事件は新たな関心を惹き付けたが、結局謎が深まっただけだった。身代金の大部分はいまだに回収されていない。

2016年7月、FBIは公式に捜査を停止したが、捜査官はパラシュートや身代金に関係する物的証拠の発見を今も待ち望んでいるという[9]

ハイジャック

1971年11月24日は感謝祭前日だった。この日、1人の中年男性が黒いアタッシェケースを持ってポートランド国際空港にあるノースウエスト・オリエント航空のフライトカウンターに向かっていた。男は「ダン・クーパー」と名乗り、305便の片道の航空券を現金で購入した。305便は北にあるシアトル行きの飛行時間30分間の便だった[10]

クーパーはボーイング727-100 (連邦航空局機体記号N467US) に搭乗し、客室の後方にある18C席[3] (ある情報源では18E席[11]、別の情報源では15D席[12]) に座った。クーパーはたばこに火をつけ[13]バーボンのソーダ割りを頼んだ。同じ飛行機に乗った乗客たちによれば、クーパーの年齢は40代半ば、身長は178センチメートルから183センチメートルだったという。クーパーは軽量の黒いレインコートローファー、黒いスーツ、きちんとアイロンがかけられた襟付きのワイシャツ、黒いクリップ式のネクタイ、真珠母でできたタイピンを身につけていた[14]

D.B.クーパーに対するFBIの指名手配ポスター

305便はワシントンD.C.からシアトルへ向かう空路で、ミネアポリスグレートフォールズ英語版ミズーラ英語版スポケーン、ポートランドを経由していた[15]太平洋標準時午後2時50分、飛行機は予定通りポートランドを飛び立った。飛行機には定員の3分の1程度が搭乗していた。離陸してまもなく、クーパーは自分の最も近くにいた客室乗務員であるフローレンス・シャフナー (英: Florence Schaffner) にメモを渡した。シャフナーは機体尾部のエアステア (昇降用階段) のドアに取り付けられた補助席に座っていた[3]。シャフナーは、メモは孤独なサラリーマンが自分の電話番号を綴ったものだろうと考え、メモを開かずにハンドバッグに入れた[16]。クーパーはシャフナーの方に体を傾けて、次の言葉を囁いた。"Miss, you'd better look at that note. I have a bomb."[17] (「君、そのメモを読まないといけない。俺は爆弾を持っている」)

メモはフェルトペンで丁寧に書かれており、全て大文字だった[18]。メモはクーパーが返却を要求してきたため、実際にどう書いてあったかは不明である[19][20]。しかし、シャフナーの記憶によれば、ブリーフケースの中に爆弾が入っているというようなことが書いてあったという。シャフナーがメモを読むと、クーパーはシャフナーに自分の隣に座るように言った[21]。シャフナーはその言葉に従い、それから爆弾を見せるように冷静に頼んだ。クーパーはブリーフケースを開けて、中身を一目見るだけの時間を与えた。中には赤い円筒形の物体が8本入っていた[22]。4本の上に別の4本が置かれている状態だった。物体には赤い絶縁材で覆われたワイヤーと、大きな円筒形の電池が付いていた[23]。クーパーはブリーフケースを閉じると、自分の要求を伝えた。現金20万ドル ("negotiable American currency"、「交換可能なアメリカの通貨」で払うように指示した)[24]、パラシュート4つ (2つはメイン、残りの2つは予備)、飛行機が到着したときに燃料を補給するための給油車をシアトルで待機させることである[25]。シャフナーはクーパーの指示をコックピットにいる操縦士に伝えた。シャフナーが戻ってくると、クーパーは黒いサングラスを身につけていた[3]

操縦士のウィリアム・スコット (英: William Scott) はシアトル・タコマ国際空港の航空管制官に連絡をとり、管制官は地元警察とFBIに通報した。他の36名の乗客には、シアトルへの到着が機械の軽度のトラブルにより遅れているという偽の情報が与えられた[26]。ノースウエスト・オリエント航空社長のドナルド・ニューロプ (英: Donald Nyrop) は身代金の支払いを承認し、全従業員にハイジャック犯の要求に十分に協力するように命じた[27]。飛行機はピュージェット湾上空を約2時間旋回し、その間にシアトル警察英語版とFBIがパラシュートと身代金を集め、救急隊員を動員した[3]

シャフナーによると、クーパーは地元の地理に詳しそうだったという。飛行機がタコマ上空を飛んでいたとき、クーパーは下はタコマのようだというような発言をした。クーパーはマッコード空軍基地英語版はシアトル・タコマ空軍基地から (当時は) 車でほんの20分の距離であるとも発言したが、これも正しかった。シャフナーによると、クーパーは穏やかで、礼儀正しく、上品な言葉遣いで、当時一般的に認知されていたハイジャック犯のステレオタイプ (激高した冷酷な犯罪者、キューバからアメリカへ向かおうとする反体制派) とは全く違っていたという。別の客室乗務員のティナ・マックロー (英: Tina Mucklow) もクーパーは神経質ではなかったと言って同意した。感じの良い人物に見えたし、残虐な態度をとったり不快な言動をしたりすることもなく、常に思慮深くて穏やかだったと語った[3]。クーパーは2杯目のバーボンの水割りを頼み、飲み物の代金を支払い、シャフナーに釣銭を与えようとした[3]。シアトルに留まっていたときには乗員のための食事を要求した[28]

FBIの捜査官たちはシアトルにある数箇所の銀行から身代金を集めた。用意したものは無傷の20ドル紙幣1万枚で、そのほとんどが通し番号が"L"から始まるものだった。このことはこれらの紙幣がサンフランシスコ連邦準備銀行により発行されたものであることを示す。また、ほとんどがシリーズ1963Aやシリーズ1969からのものだった[29]。紙幣は全てマイクロフィルムの記録が取られた[30]。クーパーはマッコード空軍基地の人員が提供した軍の支給品のパラシュートは受け取らなかった。代わりに手動でリップコードを操作する民間用のパラシュートを要求した。シアトル警察は要求通りのパラシュートを地元のスカイダイビング・スクールから入手した[19]

乗客の解放

太平洋標準時午後5時24分、クーパーは自分の要求が叶えられたことを通知された。午後5時39分、飛行機はシアトル・タコマ空港で着陸した[31]。日没から1時間以上経過した頃、クーパーはスコット操縦士に飛行機をタキシングしてエプロンの中で照明が明るく孤立した区画へ移動させるように指示し、警察の狙撃手の妨害のために客室内の窓掛けを全て閉めさせた[32]。ノースウエスト・オリエント航空のシアトル運用管理者のアル・リー (英: Al Lee) は要求の物品を持って航空機の方へ向かった。リーは航空会社の制服から警察官と勘違いされないように普段着を着ていた。リーは身代金の詰まったナップザックとパラシュートを機体尾部のエアステアからマックローに届けた。身代金とパラシュートの受け渡しが完了すると、クーパーは乗客全員とシャフナー、主任客室乗務員のアリス・ハンコック (英: Alice Hancock) に飛行機から出るように命令した[33]

飛行機に燃料を補給する間、クーパーはコックピットにいる乗員に対して自身の飛行計画のあらましを説明した。南東へ進路を取って、最高高度1万フィート (約3千メートル)、失速しないで済む最低速度、つまりは約100ノット (時速約190キロメートル) でメキシコシティの方向へ向かうというものだった。クーパーはさらに、ランディング・ギアは離着陸時の位置のままにすること、フラップの角度を15度に下げること、客室の与圧はかけないでいることといった詳細な指示も与えた[34]。フラップとは主翼の後縁に備わる高揚力装置である。フラップを出すことで、低速飛行時に翼で発生する揚力を大幅に増やすことができるが、抗力の増加も招く[35]。副操縦士のウィリアム・ラタクザック (英: William Rataczak) はクーパーに、指定の条件での航続距離は約1千マイル (約1,600キロメートル) までしかないと伝えた。この条件ではメキシコに辿り着く前に2度目の燃料補給が必要になる。クーパーと乗員たちは話し合い、ネバダ州リノで燃料補給することで合意した[36]。機体後方の出口が開いてエアステアが展開されると、クーパーは操縦士に離陸を指示した。ノースウエスト・オリエント航空本社は機体尾部のエアステアが展開されたまま離陸するのは危険であるとして異議を唱えた。クーパーは実際には安全であると反論したが、この件で言い争おうとはしなかった。離陸した後にエアステアを展開するつもりだったのである[37]

連邦航空局はクーパーが航空機に乗った状態での面談を要求したが、受け容れられなかった[38]。給油車の燃料を汲み取る機構でベーパーロック現象が発生したことにより燃料補給は遅れた[39]。クーパーは疑念を抱いたが、代わりの給油車を使用することを許可して給油を続けた。2台目の給油車から燃料が出なくなると3台目の給油車で燃料を補給した[3]

再度離陸へ

ボーイング727。機体後方のエアステアが開いた状態。

午後7時40分ごろ、ボーイング727はクーパー、スコット操縦士、マックロー客室乗務員、ラタクザック副操縦士、航空機関士のH・E・アンダーソン (英: H. E. Anderson) の5名だけを載せて離陸した。2機のF-106がマッコード空軍基地から緊急発進し、クーパーの視界に入らないように1機は飛行機の上に、残りの1機は飛行機の下について飛行機を追跡した[40]。元は無関係の空軍州兵の任務にあたっていたT-33練習機も飛行機を追跡していたが、燃料が少なくなり、オレゴン州とカリフォルニア州の州境近くで後戻りした[41]。ハイジャックされた飛行機を追跡していた航空機は全部で5機あった。どの機もクーパーが飛行機から飛び降りたところを見たと報告しておらず、クーパーが着陸した場所がどこかを示すことができなかった[42]

離陸後、クーパーはマックローにコックピットにいる残りの人員と合流し、ドアをしめてコックピットにとどまるように言った。マックローがそれに従うと、クーパーは自分の腰に何かを巻きつけていたという。午後8時ごろ、コックピットで警告灯がついた。このことは機体尾部のエアステアの設備が起動したことを意味していた。航空機の内部通話システムを通じて乗員が援助を申し出ると、そっけなく断られた。それからすぐに乗員は気圧が体感的に変化したことに気がついた。機体尾部のドアが開けられたことを示唆している[43]

午後8時13分ごろ、突然に飛行機の尾部が上方に動き続け、飛行機を水平に立て直さなければならなくなった[44][45]。午後10時15分ごろ、スコットとラタクザックは飛行機をリノ空港で着陸させたが、機体尾部のエアステアは展開された状態のままだった。FBIの捜査官や州警察、保安官代理、リノ警察は飛行機を取り囲んだ。クーパーが飛行機から脱出したのかまだ確実に断定できなかったためである。武装した人員が捜索した結果、すぐにクーパーが飛行機の中にいないことが確認された[46]

捜査

FBIは飛行機の中から未特定のかすれた指紋を66点回収した[5]。クーパーが身につけていた黒いネクタイやネクタイ留め、4つのパラシュートのうちの2つも発見した[47]。残された2つのパラシュートのうちの1つは展開されており、キャノピーからシュラウドラインが2本切断されていた[48]。当局はポートランドやシアトル、リノにいた目撃者や、クーパーと直接接触した全ての人々に対して尋問を行った。一連のクーパーの似顔絵が制作された[49]

地元警察とFBIはすぐに被疑者の尋問を開始した。800名以上が被疑者と考えられたが、20名ほどを除き捜査対象から除外された[50]。軽犯罪の前科を持つD.B.クーパーという名前のオレゴン州在住の男がこの事件の最初の被疑者の1人だった。ハイジャック犯は実名や以前に行った犯罪で使用したのと同じ偽名を使っていた可能性があることから、ポートランド警察はこの人物に接触した。結局、この人物はすぐに被疑者から外されたが、地元の記者のジェームズ・ロング (英: James Long) が、差し迫った締切に間に合わせようとしているうちに、この人物の名前とハイジャック犯が使用した偽名とを混同した[51][52]通信社の記者 (ほとんどの情報源ではUPI通信のクライド・ジャビン <英: Clyde Jabin>[53][54]、それ以外の情報源ではAP通信のジョー・フレージャー <英: Joe Frazier>[55]) がこの誤植を転載してしまい、数多くのメディアがこれに倣った。こうして「D.B.クーパー」という通称が人々の記憶に残ることとなった[45]

ボーイング727後方のエアステアが飛行中に展開されたときのアニメーション。アニメーションにはクーパーがエアステアから飛び降りているところも示している。エアステアの設備に重力が働き、飛行機が着陸するまで開きっぱなしだった。

捜索範囲を精密に決定するのは困難だった。飛行機の推定速度の若干の差異や、飛行経路の環境条件 (場所や高度によって著しく変化していた) によって、クーパーの着地地点の推測結果がかなり変化するためである[56]。重要なことは、クーパーがパラシュートの展開に成功していたとして、クーパーがリップコードを引くまでどの程度の間、自由落下を続けていたかである[57]空軍の戦闘機の操縦士たちは飛行機から出てきたものは目視でもレーダーでも何も確認していなかった。パラシュートが開いたところも見ていなかった。しかし、夜間、極めて限られていた視程と空を覆う雲が下の地面からの光を覆い隠すことにより、全身に黒い服を纏った人物が空中にいても見つけにくくなる状態だった可能性があった[58]。T-33の操縦士たちはボーイング727を一切視認しなかった[59]

再現実験で、スコット操縦士がハイジャックのときに使用された航空機を同じ配置で操縦した。FBIの捜査官が約90キログラムのソリを展開されたエアステアから押し出したところ、乗員が午後8時13分に経験した機体尾部の上昇を再現できた。このことから、午後8時13分がクーパーが飛行機から飛び降りた時刻である可能性が高いという結論になった[60]。その時刻では、飛行機はワシントン南東のルイス川英語版上空の激しい雨風の中を通過していた[56]

最初の推定では、クーパーの着地地点はセント・ヘレンズ山の外延の南端にある地域であると考えていた。その場所はワシントン州アリエルから南東へ数キロメートルのところであり、ルイス川を堰き止めて作られた人口湖のマーウィン湖の近くだった[61]。捜索はワシントン州南西のルイス川の南北の地域を取り巻くクラーク郡カウリッツ郡で集中的に行われた[62][63]。これらの郡のFBIや保安官代理は山地の原野の大部分を徒歩やヘリコプターで捜索した。地元の農家への戸別訪問調査も実施された。別の捜索隊は哨戒艇に乗ってマーウィン湖やそのすぐ東にあるエール湖の沿岸を捜索した[64]。クーパーの痕跡や、クーパーが飛行機を出るときに所持していたと思われる装備は発見されなかった。

FBIは航空機による捜索も統括した。オレゴン陸軍州兵の固定翼機やヘリコプターが使用され、シアトルからリノまでの飛行経路全体 (この航空路は標準的な航空用語では「ヴィクター23」<英: Victor 23> と呼ばれている[65]。しかし、クーパーについての文献のほとんどで「ヴェクター23」<英: Vector 23> と表記されている[3][5][66]) に沿って捜索が行われた。数多くの破壊されたこずえやプラスチック片数点、その他のパラシュートのキャノピーに似た物体が発見され、調査されたが、クーパーに関係するものは発見されなかった[67]

1972年の春の雪解けからまもなく、FBIのチームがクラーク郡とカウリッツ郡の地上の徹底的な捜索をもう一度実施した。空軍、州兵、民間ボランティアに加えてルイス駐屯地英語版陸軍兵士約200名が捜索に協力した。捜索は3月に18日間、4月にさらに18日間行われた[68]。海洋の引き揚げ作業を業務とするエレクトロニック・エクスプロレーションズ・カンパニー (英: Electronic Explorations Company) は潜水艦を使用してマーウィン湖深度約60メートルを捜索した[69]。また、クラーク郡の廃墟で2名の地元住民の女性が白骨死体を発見した。この遺体は後に数週間前に誘拐されて殺害された10代の女性のものであると特定された[70]。ほぼ間違いなくアメリカ史上最も広範囲で徹底的に行われた捜索作戦だったが、結局のところクーパーに関する重大な物的証拠は発見されなかった[71]

身代金の捜索

クーパー事件から1ヵ月後、FBIは身代金の紙幣の通し番号の一覧表を金融機関やカジノ、競馬場、その他大規模な金の取引が日常的に行われる事業所、さらには世界中の法的機関に配布した。ノースウエスト・オリエント航空は身代金を回収した場合、その15%、最大2万5千ドルの褒賞を提供すると申し出た。1972年前半、アメリカ合衆国司法長官ジョン・N・ミッチェルは一般の人に身代金の紙幣の通し番号を公表した[72]。1972年、2人の男性がクーパー事件の身代金の通し番号が印刷された偽の20ドル紙幣を利用して、ニューズウィークの記者のカール・フレミング (英: Karl Fleming) から偽のクーパーとのインタビューと引き換えに3万ドルを騙し取ろうとする事件が発生した[73]

1973年前半、身代金は依然として行方不明であり、オレゴン・ジャーナル英語版は身代金の紙幣の通し番号を再発布し、自社やFBIの事務所に身代金の紙幣を最初に届けた人に1千ドルを提供すると申し出た。シアトルでは、シアトル・ポスト・インテリジェンサー英語版が同様に5千ドルの懸賞金の提供を申し出た。これらの懸賞金の申し出は1974年の感謝祭の日まで有効だった。似た通し番号の紙幣は送られてきたが、完全に一致するものは発見されなかった[74]。ノースウエスト・オリエント航空の保険会社のグローバル・インデムニティ (英: Global Indemnity Co.) はミネソタ州最高裁判所英語版の命令に従い、ノースウエスト・オリエント航空の身代金に対する支払請求に対して18万ドルを支払った[75]

後の展開

後の分析で、最初の着地地点の推定は正確ではなかったことが判明した。クーパーの飛行速度と高度の要求に応じるため、スコット操縦士は飛行機を手動で飛ばしていた。後にスコット操縦士は、飛行経路は最初の推定よりも著しく東の方にあったことを確認した[7]。305便の4分後に飛んでいたコンチネンタル航空機の操縦士のトム・ボアン (英: Tom Bohan) を筆頭に、様々な情報源から新たなデータが得られた。これにより、着地地点に影響する風向の推定に誤りがあり、80度もずれていた可能性があると判明した[76]。さらに他の補助的なデータも加えて、実際の着地地点はおそらく最初の推定よりも南南東の地域であると推定された。その場所はワシューガル川英語版流域にある[77]

捜査の停止

2016年7月8日、FBIはクーパー事件の捜査を停止することを告知した。捜査の資源と人員をより重要で緊迫した優先すべき案件に集中させる必要があるとの理由だった。地元のFBIの事務所は今後も物的証拠 (特にパラシュートや身代金に関係あるもの) が発見されれば全て受理するという。捜査資料は45年間の捜査の過程で60巻にもなり、ワシントンD.C.のFBI本部で歴史的な理由により保管される。FBIのウェブサイトでは、現在、数年間にわたって集められた28点の証拠についての書類が掲載されており、一般の人でも閲覧が可能である[78][79]

物的証拠

公式のクーパーの身体的特徴の説明は一貫しており、信頼性が高い考えられる。客室乗務員のシャフナーとマックローは最も長くクーパーと行動をともにしており、同夜に別々の都市で尋問を受けた[6]。2人はほとんど同一の説明をしており、身長は178センチメートルから180センチメートル、体重は77キログラムから82キログラム、年齢は40代で、間の狭い茶色の目、黒ずんだ肌という特徴があったという[80]

1978年から2017年の間に、クーパーに関する証拠が4点だけ発見されている。うち2点は確実に関係があり、残り2点は関係する可能性があるという程度である。

  • 1978年、ボーイング727のエアステアを降下させるための説明書が印刷された札が、マーウィン湖の北のキャッスルロック英語版から約20キロメートルの木材の切り出しに使われる道の近くで鹿猟師により発見された。しかし、この地域は305便の基本的な飛行経路に含まれる[81]
1980年に発見された紙幣の一部
  • 1980年2月、バンクーバーから川を下って約14キロメートル、アリエルの南西32キロメートルのところにある、ティナ・バーと呼ばれる海岸地帯のところのコロンビア川に面した地点で、8歳のブライアン・イングラム (英: Brian Ingram) が家族とともに休暇を過ごしていた。イングラムがキャンプファイヤーを設けるために砂地の川岸を熊手でかいていると、クーパー事件の身代金の紙幣3束が出てきた。紙幣は著しく風化していたが、紙幣を束ねるゴムバンドは依然として残っていた[82]。FBIの技官はその紙幣が正真正銘の身代金の一部であることを確認した。2束は20ドル紙幣が100枚、1束は90枚で、全てクーパーに渡したときと同じ順番で重なっていた[83][84]。1986年、長く続いた交渉の末、回収された紙幣は少年とノースウエスト・オリエント航空の保険会社の間で等分された。FBIはそのうちの14枚を証拠として保有した[72][85]。2008年、イングラムは件の紙幣のうちの15枚をオークションにかけて約3万7千ドルで売った[86]。今日まで、残りの9,710枚の紙幣の所在が判明していない。これらの紙幣の通し番号は一般の人が捜索できるようにインターネットで閲覧できる[29]。コロンビア川で発見された身代金の紙幣と、エアステアの使い方を説明する札は、飛行機の外で発見されたクーパー事件に由来すると確認された唯一の物的証拠である[87]
  • 2017年、ボランティアで調査を行っていた一団が、太平洋岸北西部で数十年経過したパラシュートの紐らしきものを発見した[88]。その後、2017年8月にクーパーのバックパックの一部らしき気泡ゴムの破片が発見された[89]

FBIの情報公開

2007年後半、FBIは2001年にクーパーのネクタイから発見された生体試料3点から断片的なDNAプロファイルを取得したと発表した[56]。しかし、後にFBIは、クーパーが試料の由来である証拠は存在しなかったことを認めた。特別捜査官のフレッド・ガット (英: Fred Gutt) によると、ネクタイには少量のDNA試料が2点、多量のDNA試料が1点存在したが、これらの試料から確実な証拠を引き出すのは難しいという[90]。また、FBIは以前は非公開だった証拠の資料を人々に公開した。公開された証拠には、クーパーが使用した1971年の航空券 (価格は20ドル、現金で支払った) も含まれる[91]。また、以前は非公開だった似顔絵のスケッチやデータ表も、クーパーの身元特定に繋がる情報の提供を人々に求めつつ公開した[49][56][92]

FBIは、クーパーは渡された2つのメインのパラシュートのうち、技術的により優れていたプロスポーツ用のパラシュートではなく、古い方のパラシュートを選んだこと、2つの予備のパラシュートのうち、スカイダイビングの授業の実演に使用するリップコードが動作せず使用できないダミーの方を選んでいたことも公開した[56]。ダミーのパラシュートには、経験豊富なスカイダイバーならば使用できないと気付ける明白な印がついていた[93]。クーパーは予備のパラシュートの使用できる方を破壊していた。パラシュートのシュラウドを金の入った鞄を縛って閉じるために使用した可能性があり[56]、マックローの証言によると、クーパーは体に鞄を固定するために使用していたという[56]。FBIは、予備のパラシュートにダミーが混入していたのは、シアトルのスカイダイビング・スクールからパラシュートを急いで入手した際に誤って紛れ込んでしまったためであると強調した[91]

2009年3月、FBIは、シアトルにあるバーク自然史文化博物館英語版古生物学者のトム・ケイ (英: Tom Kaye) が調査団を結成していたことを公開した。団員にはサイエンティフィック・イラストレータのキャロル・アブラクジンスカス (英: Carol Abraczinskas)、金属工学者のアラン・ストーン (英: Alan Stone) が含まれる。後に「クーパー・リサーチ・チーム」(英: Cooper Research Team)[94]として知られるようになる調査団は、GPSや衛星画像、その他1971年には使用できなかった技術を用いてクーパー事件の重要な要素を再調査した[87]。埋まっていた身代金の紙幣やクーパーの着地地点については新しい情報はほとんど得られなかったが、電子顕微鏡を用いてクーパーのネクタイに付着していた数百の微小な粒子を発見し、分析にかけることができた。粒子の中からヒカゲノカズラ属英語版シダ植物胞子 (調合薬に由来する可能性が高い) が特定され、ビスマスアルミニウムの破片も特定された[95][96][97]

2011年11月、ケイは合金でない純粋なチタンの粒子もネクタイから発見されたと発表した。ケイによると、チタンは2010年代と比べると1970年代では非常に珍しいものであり、当時は金属成形の現場や工場、化学薬品会社にしかなかったという。化学薬品会社ではアルミニウムと組み合わせて極めて腐食性の高い物質の保管に使用していた[98]。この発見から、クーパーは化学者か金属工学者であった可能性が示唆されている。もしかしたら金属や化学薬品を製造する工場の技術者や経営者 (当時、そのような施設でネクタイを身につけるのは技術者か経営者だけだった) だったかもしれない[99]。そのような工場からスクラップされた金属を回収していた会社に勤めていた可能性もある[100]

2017年1月、ケイはネクタイから発見された粒子の中から希土類鉱物であるセリウム硫化ストロンチウムも特定したと報告した。1970年代でそのような元素が利用された例は珍しく、その例の中にはボーイング超音速旅客機開発計画があった。このことから、クーパーはボーイングの従業員であった可能性がある[101][102]。それ以外のこの元素の由来の可能性として、ポートランドの企業のテレダインテクトロニクスのような、ブラウン管を製造していた工場が挙げられる[103]

仮説と憶説

FBIによる加齢を考慮したクーパーのスケッチ

FBIは45年間にも及んだ捜査の際に時折、目撃者の証言や数少ない物的証拠から導出した作業仮説や暫定的な結論の一部を公開した[104]

クーパーのプロファイル

クーパーはシアトルに詳しかったようで、空軍の退役軍人だった可能性があった。これは、飛行機がピュージェット湾を旋回中に、クーパーは飛行機の中からタコマ市の存在を認識していたという証言や、マッコード空軍基地がシアトル・タコマ国際空港から車で約20分の距離にあるとマックローに話したことに基づいている。マッコード空軍基地と空港との距離はほとんどの一般人は知らなかっただろう[41]。また、クーパーの経済状況は絶望的な状態だった可能性が非常に高い。FBIの元主任捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハ (英: Ralph Himmelsbach) によると、強要罪などの多額の金を強奪する犯罪はほぼ必ず大金が至急必要であることが動機であるという。そうでなければ、犯罪にそれほどの危険を冒す価値はない[105]。もしくは、クーパーはそれが可能であることを証明したかったためだけに高所から飛び降りたスリル狂いだった可能性もある[106]

捜査官たちは、クーパーは自身の偽名を人気のある1970年代のベルギーの漫画シリーズからとったという仮説を立てた。その漫画にはダン・クーパー英語版という名前の架空のヒーローが登場する。漫画のクーパーはカナダ空軍のテストパイロットで、数多くの冒険を繰り広げており、その中にはパラシュートで降下するシーンもあった (FBIのウェブサイトに転載されていた漫画の表紙の1つには、漫画のクーパーが落下傘兵の装備を全身に纏ってスカイダイビングしている様が描かれている)[87]。この漫画は英語に翻訳されたことがなく、アメリカに輸出されたこともなかった。ハイジャック犯のクーパーはヨーロッパでの仕事の際にこの漫画を知ったのだろうと推測された[87]。クーパー・リサーチ・チームは別の可能性を提案している。クーパーはカナダ人であり、カナダでこの漫画を見つけたというものである。カナダでもこの漫画は販売されていた[107]。クーパー・リサーチ・チームは、クーパーは身代金を求めて"negotiable American currency"を要求したことに言及した[25]。このような表現はアメリカ人ならば滅多に使用しない。目撃者によると、クーパーには独特の訛りは見られなかったという。そのため、もしクーパーがアメリカ人ではなかったら、カナダ出身である可能性が高いという[108]

証拠から、クーパーには技術や飛行機、周辺の地理の知識があったことが示唆されている。パラシュートを4つ要求したことから、1人以上の人数の人質をとって、一緒に飛び降りさせようとしていた可能性を推測させる。このことから、FBIはクーパーに意図的に役に立たないパラシュートを与えたわけではなかったことは間違いないだろうと推測されている[109]。クーパーはボーイング727-100を選んだが、その理由はパラシュートでの脱出に理想的だったためである。機体尾部のエアステアの存在だけでなく、機体尾部に配置された3機のエンジンの位置が高かったことも都合が良かった。このおかげで、エンジンの排気との距離が近いにもかかわらず、飛行機から無理なく安全に飛び降りることができた。また、ボーイング727-100はシングルポイント給油が可能だった。当時の最新の技術革新により、単一の燃料ポートを通じて全ての燃料タンクに急速に燃料を補給できた。ボーイング727-100は、商業用ジェット旅客機には珍しく、失速せずに低速で低い高度を飛ぶ能力もあった。クーパーは、3名の操縦士により逆襲される可能性のあるコックピットに入ることなく飛行機の速度や高度を制御するための方法について理解していた[110]。さらに、クーパーは、フラップの適切な設定が15度であること (この型の飛行機に独特のことである) や典型的な燃料補給時間のような、重要性の高い詳細な情報についてもよく知っていた。機体尾部のエアステアを飛行中に降下させることができることも知っていた。乗客を搭乗させての飛行する際にそのようなことをする必要のある状況は存在しないため、民間機の乗員はそのような操作が可能なことは全く知らされていなかった。クーパーは、客席後方にある単一のスイッチを操作すると、エアステアを下ろす操作をコックピットから上書きできないことも知っていた[111]。この飛行機に関する知識の一部は事実上、CIAの準軍事部隊にのみ知られていたもののようである[112]

クーパー・リサーチ・チームによると、クーパーがハイジャックしたタイミング、さらには選んだ服装さえもクーパーの周到な計画の一環だった可能性があるという。FBIは事件の起きた週末に行方をくらました人物を発見できなかったが、ケイは、クーパーは事件の後に通常の仕事に戻った可能性があるという説を唱えている。ケイは、着地地点の森を抜け、交通手段を調達し、家に戻るのに最良のタイミングは4日間の週末の前の日であり、森から出るのにヒッチハイクが必要となれば、私服よりもスーツ姿の方が都合が良かったと述べている[100]

FBIはクーパーはスカイダイビングについての技術や経験に乏しかったという結論を出した。2006年から解散される2016年までFBIの調査チームを率いていたラリー・カー (英: Larry Carr) 特別捜査官によると、FBIは当初はクーパーはスカイダイビングの経験が豊富であり、もしかしたら空挺兵かもしれないとさえ考えていたが、数年後にその考えは誤りであるという結論に至ったという。フラップが15度で、荷が軽かったボーイング727はおそらく時速172キロメートルで飛行していたと見られるが、スカイダイビングの経験が豊富な人ならば、雨が降る漆黒の闇夜の中を、顔に時速172キロメートルの風が吹きつける状態で、ローファーやトレンチコートを着て飛び降りるという危険な行動はとらないという。また、クーパーは予備のパラシュートが訓練用で縫われて開かなくなっていることを見逃したが、スカイダイビングの経験の豊富な人ならば確認するという[87]。クーパーはヘルメットを持ち込んだり要求したりすることがなく[113]、与えられたメインのパラシュートから技術的に劣っているうえにより古い方のパラシュートを選んでいた[56]。11月の高度約3千メートル、推定温度-9℃のワシントン州上空を、暴風による体温の低下に対する適切な防護策を用意せずに飛び降りてしまってもいる[114][115]

FBIは当初からクーパーは飛び降りた後に死亡したと推測していた[87]。カーは、計画もなく、適切な装備もなく、悪天候の中で荒野に飛び降りたため、おそらくパラシュートを開くことすらなかっただろうと述べた[6]。FBIは、クーパーがたとえ安全に着陸したとして、着地地点を前もって決めてそこに共犯者を配置しなければ、クーパーが初冬の山の中を生き延びることはほぼ不可能だろうと主張した。着地地点に共犯者がいたとしても、目標の着地地点に到るには正確なタイミングで飛び降りる必要があり、それにはさらに飛行機の乗員の協力も必要である。しかし、クーパーが特定の地点に正確に着地できるように乗員に援助を求めたり、乗員がクーパーを助けたりした証拠はなく、クーパーが雲でいっぱいの暴風の吹き荒れる暗闇の中に飛び降りたときに自身の居場所が明確に理解できた証拠もない[80]

回収された紙幣

1980年に身代金の紙幣が発見されたことにより、新たな臆説が生まれた。結局のところ、解明された謎よりも新たに生じた疑問の方が多かった。捜査官や専門家の初期の声明は、紙幣の束は数多くの支流の一つからコロンビア川へ自然に流れ着いたという推測に基づいていた。アメリカ陸軍工兵司令部所属の水文学者は、紙幣は円形に並ぶようにばらばらに散らばっており、もつれあっていたことについて言及している。このことは、紙幣は意図的に埋められたのではなく、川の作用により堆積したことを示唆している[116]。この結論が正しければ、クーパーはマーウィン湖やルイス川の支流の近くに着陸しなかったという説を支持することになる。ルイス川はティナ・バーよりも下流でコロンビア川に注ぎ込む。着陸地点はワシューガル川の近くであるという推測 (#後の展開を参照) に信頼性を与えている。ワシューガル川は紙幣の発見場所よりも上流でコロンビア川に合流する[117]

しかし、紙幣は自然に流れて堆積したものであるという仮説には難点もある。紙幣の束の1つから紙幣10枚がなくなっていたことの説明になっていない点や、3つの紙幣の束が残りの紙幣の束から分離して一箇所に集まっていたことの論理的な説明が存在しない点である。物的証拠は地理上の証拠とも一致しない。ヒンメルスバッハは、札束が自然に浮かんで岸に流れ着いたのならば、クーパー事件から数年以内にそれが起こっていたはずであり、そうでなくても、ゴムバンドはとっくに風化しきっていただろうと述べている。このことはクーパー・リサーチ・チームが実験で確認している[100]。地理上の証拠によれば、紙幣は陸軍工兵司令部が川の浚渫を行った1974年以降にティナ・バーへ流れ着いたという。ポートランド州立大学の地理学者のレナード・パーマー (英: Leonard Palmer) は、浚渫により川岸に堆積していた粘土の中から砂や堆積物の層を別個に2つ発見した。また、紙幣が埋まっていた砂の層も見つけた。これにより、紙幣は浚渫が完了してから長い時間がたった後に流れ着いたことが示唆されているという[116][118]。クーパー・リサーチ・チームは粘土の層は自然に堆積したことを示す証拠を引き合いに出してパーマーの結論に異議を唱えた。もしこの発見が本当ならば、ゴムのバンドの実験に基づけば、紙幣が流れ着いたのはハイジャックから1年以内であるということになる。しかし、札束がティナ・バーにどのように流れ着いたか、札束がどこから来たのかといったことの説明にはなっていない[119]

ヒンメルスバッハは、もし自分がクーパーを探しに行こうとしたならば、ワシューガルに向かっていただろうと記している[106]。ワシューガル谷とその周辺は、その後に個人や団体が度々私的に捜索してきた。今日まで、ハイジャックに直接起因する証拠の発見は報告されていない。調査者の中には、1980年のセント・ヘレンズ山の噴火により、残っていた物的証拠が抹消されてしまった可能性があると推測している人もいる[120]

別の仮説も提唱された。一部の人は、紙幣は離れた場所で何者か (もしくは野生動物) により発見され、川岸に運ばれて、そこに埋め直されたと推測した。コーリッツ郡の保安官は、クーパーはエアステアで誤って札束をいくつか取り落とし、落ちた札束は飛行機から吹き飛ばされてコロンビア川に落ちたという説を唱えた。地元の新聞の編集者は、クーパーは金を使うことができないと悟り、自ら川に投棄したか、ティナ・バーに (さらには他の場所にも) 一部を埋めたという仮説を立てた[121]。今日まで提案された仮説に、存在する全ての証拠を満足に説明しているものは存在しない[100]

出訴期限法

1976年、クーパー事件に対する出訴期限法による時効が差し迫っているという問題についての議論が巻き起こった。出版物に掲載された法的な分析のほとんどで、この件はほとんど重要性がないだろうという見解で意見が一致した[122]。出訴期限法の解釈は事件や裁判によって大きく変化するうえに、告訴者はクーパーはいくつかの妥当な技術的背景により免責特権は喪失していると主張することができた[123][124]。11月、ポートランド大陪審が"John Doe, aka Dan Cooper" (直訳すると「ジョン・ドゥ、またの名をダン・クーパー」) に対してハイジャックとホッブズ法英語版の違反により犯人欠席のまま起訴決定の評決を下し、結局この問題は重要性がなくなった[125]。起訴決定の評決が下ったことにより、万が一クーパーが将来的に逮捕されれば延長が可能である起訴が正式に開始される[123]

被疑者

1971年から2016年の間、FBIは千人を超える被疑者を扱ってきた。その中には売名屋と見なされている人物や、死に際に犯人であると告白した人物も含まれる[5]。しかし、被疑者たちが犯人であることを示す証拠はせいぜい状況証拠しか見つからず、クーパー事件と被疑者を結び付けるものはどれも推測や根拠の薄い告発でしかない。

ケネス・クリスティアンセン

2003年、ミネソタ州の住民であるライル・クリスティアンセン (英: Lyle Christiansen) はテレビでクーパー事件についてのドキュメンタリー番組を見て、自分の死んだ兄弟のケネス・クリスティアンセン (英: Kenneth Christiansen) がクーパーであることに気がついた[3]。最初はFBIにケネスが真犯人であると信じてもらおうと徒労を繰り返し、次に著述家であり映画監督でもあるノーラ・エフロンにもかけ合った。エフロンはクーパー事件の映画を制作したいと考えていたが、それでもこれも徒労に終わった。その後、ライルはニューヨークに住む探偵に接触した。2010年、刑事のスキップ・ポーティアス (英: Skipp Porteous) がクリスティアンセンを犯人と見なす書籍を著した[126]。翌年、ヒストリーBrad Meltzer's Decoded英語版というシリーズ番組のエピソードでも、クリスティアンセンとクーパー事件を結び付ける状況証拠がかいつまんで解説された[127]

クリスティアンセンは1944年に陸軍に入隊し、空挺兵の訓練を受けた。1945年に配置されたときには第二次世界大戦は終結していたが、1940年代後半に占領軍の元で日本に配置されていた間、時折パラシュートの訓練を受けていた。陸軍を退役すると、1954年にポリネシアで整備士としてノースウエスト・オリエント航空に入社した。その後、シアトルを拠点に客室乗務員、次いでパーサーを経験した[3]。クーパー事件のとき、クリスティアンセンは45歳だったが、目撃者の証言と比べると、背は低く (173センチメートル)、体重も軽く (68キログラム)、肌の色も白めだった[3]。クリスティアンセンはクーパーと同じく愛煙家で、特にバーボンが好きだった。クーパーもバーボンを好んでいた。クリスティアンセンは左利きだった。クーパーのネクタイの証拠写真では、ネクタイ留めは左側から取り付けられていた。このことから、ネクタイ留めを取り付けた人物、つまりクーパーは左利きだったことを示唆している[6]。シャフナーは記者に対し、クリスティアンセンの写真は、これまで見せられた他の被疑者の写真よりも、記憶の中のクーパーの外見と似ていると述べている。しかし、クリスティアンセンがクーパーであると断定することはできなかった[3]。なお、クーパーと最も接触した人物であるマックローは、報道機関のインタビューを一切受諾していない[128]

クリスティアンセンはクーパー事件から数ヵ月後に家を現金で購入したと言われている。クリスティアンセンは1994年にで死の縁に陥るが、その際にライルに向けて、ライルが知っておくべきことがあるが、伝えることができないと語ったという。ライルはクリスティアンセンにその話をするように迫ったことは全くなかったと述べた[3]。クリスティアンセンの死後、遺族たちは金貨や貴重な切手のコレクションを発見した。銀行口座には20万ドル以上の金が残されていた。ノースウエスト・オリエント航空に関するニュース記事の切り抜きのフォルダも発見した。切り抜きはクリスティアンセンがノースウエスト・オリエント航空に雇われた1950年代頃から始まり、クーパー事件の直前で終わっていた。クーパー事件がノースウエスト・オリエント航空の歴史上、比べるまでもなく最重要な出来事だったのにもかかわらずである。クリスティアンセンは1971年以降も長期間、ノースウエスト・オリエント航空で非常勤の仕事を続けていた。しかし、それからノースウエスト・オリエント航空関係の記事の切り抜きをすることは一切なかったようだ[3]

インターネット上の団体の調査によると、後にクリスティアンセンはクーパー事件後に家を現金で買ったわけではないことが証明されたという。実際は住宅ローンを利用して17年かけて支払ったらしい。また、同調査によると、クリスティアンセンは1990年代中頃に1エーカー1万7千ドルの土地を20エーカーほど売却しており、死後に口座に残していた大量の金はそれに由来するという[129]

クリスティアンセン犯人説はポーティアスの著書や2011年のテレビのドキュメンタリーにより知名度を得たが、FBIはクリスティアンセンは被疑者とは考えられないという立場をとっている[56][130]。FBIは、目撃者による外見の説明とあまり一致しないことや、クーパーのプロファイリングから推測されたスカイダイビングの腕前と比べるとクリスティアンセンはそれを上回る程度の専門的な技術を有していること、犯人であることを示す直接的な証拠が存在しないことを引き合いに出している[131]

ジャック・コフェルト

ジャック・コフェルト (英: Jack Coffelt) は前科持ちの詐欺師であり、政府の情報提供者であると噂されていた。自身はエイブラハム・リンカーンの最後の確実な子孫である曾孫のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズ英語版 (英: Robert Todd Lincoln Beckwith) の運転手であり親友でもあると主張していた。1972年、コフェルトは自分こそがクーパーであると主張し始め、かつて同じ刑務所にいたジェームズ・ブラウン (英: James Brown) という人物を仲介して、ハリウッドの映画制作会社に自身の話を売り込もうとした。コフェルトによれば、コフェルトはアリエルから南東に約80キロメートル離れたフッド山の近くに着陸し、その過程で負傷して身代金を失ったという。1971年にはコフェルトは50代半ばだったものの、コフェルトの写真にはクーパーの似顔絵との類似性があった。コフェルトはクーパー事件の日にポートランドにいたと言われており、その頃に脚にけがを負っていた。飛行機から飛び降りたときの事故での負傷と考えることもできる[132]

コフェルトの話はFBIにより調査されたが、一般の人々の間には知られていなかった情報の詳細な部分で重大な違いがあったことから、コフェルトの話は捏造という結論になった[133]。コフェルトは1975年に死亡し、その後もブラウンは懲りずに長い間コフェルトの話を吹聴していた。CBSのニュース番組の60 Minutesを含む複数のメディアでコフェルトの話が考察され、退けられた[134]。2008年のリンカーンの子孫についての書籍[135]で、著者のチャールズ・ラクマン (英: Charles Lachman) は、36年前に信用に値しないと評されていたものの、コフェルトの話を再び取り上げた。

リン・ドイル・クーパー

リン・ドイル・クーパー (英: Lynn Doyle Cooper、L.D.クーパー) は朝鮮戦争の兵役を経験した革職人で、2011年7月に姪のマーラ・クーパー (英: Marla Cooper) に被疑者として取り上げられた[136][137]。マーラが8歳のとき、ポートランドから240キロメートル南にあるオレゴン州シスターズ英語版にある祖母の家で、クーパーともう1人のおじが、高価なウォーキートーキーの使用を含む非常に悪意のある企てをしていたという[138]。305便がハイジャックされたのはその翌日のことである。おじたちは表向きには七面鳥狩りに行っていたことになっていたが、L.D.クーパーが帰宅したときにシャツが血塗れになっていた。L.D.クーパーは自動車の事故が原因と述べていた[130]。後に、マーラの両親はL.D.クーパーがハイジャック犯の正体であると考えるようになったという。L.D.クーパーはスカイダイバーや空挺兵ではなかったものの、カナダの漫画に登場するヒーローのダン・クーパー (#仮説を参照) に夢中になっており、漫画本の一つが画鋲で壁にとめられていたという。L.D.クーパーは1999年に死亡した[139]

2011年8月、ニューヨーク誌は、305便に搭乗していた目撃者のロバート・グレゴリー (英: Robert Gregory) の説明に基づいているとされる別の似顔絵を掲載した。その人物によれば、ハイジャック犯は角縁のサングラスを掛けており、大きなラペルのあるあずき色のスーツジャケットを着ており、髪型はマルセルウェーブだったという。記事では、L.D.クーパーの髪は波打っており、マルセルウェーブにも見えると言及されている (後述の#ドゥエーン・ウェーバーも同様)[140]。FBIはL.D.クーパーが作ったギターストラップからは指紋は発見されなかったと声明した[141]。1週間後、FBIは、L.D.クーパーのDNAはハイジャック犯のネクタイから発見された断片的なDNAプロファイルと一致しなかったと報告したが、ネクタイから発見された生体物質がハイジャック犯に由来する確証がないことは再度認めた[90]。FBIはそれ以上の声明を公的には出していない。

バーバラ・デートン

バーバラ・デートン (英: Barbara Dayton) は1926年生まれのワシントン大学の司書であり、飛行機操縦が趣味だった。出生名はロバート・デートン (英: Robert Dayton) だった。デートンはユナイテッド・ステーツ・マーチャント・マリーン英語版で働き、それから第二次世界大戦中は陸軍に加わっていた[142]。退役後、デートンは建設業界で爆薬を扱う仕事をした。定期航空便で仕事をしたいと思っていたが、商業パイロットの資格を得ることはできなかった。

デートンは1969年に性別適合手術を受けてバーバラという名前に改名した[143]。2年後、デートンは自分がクーパー事件の犯人であると主張した。事件のときは男に変装しており、定期航空便のパイロットになることを認めなかった航空業界と連邦航空局に仕返しをすることが目的だったという[144]。ポートランドの南にある郊外地域のオレゴン州ウッドバーン英語版が着地地点であり、その近くの貯水槽の中に身代金を隠したという。その後、依然としてハイジャックで罪に問われる可能性があったと知ったことを表向きの理由として、自分の話を全て撤回した。FBIは公式にはデートンについての声明を全く行っていない。デートンは2002年に死亡した[142]

ウィリアム・ゴセット

ウィリアム・ゴセット (英: William Gossett) は海兵隊、陸軍、陸軍航空軍の兵役を経験しており、朝鮮戦争やベトナム戦争での実戦経験もある。高等なパラシュート降下の訓練や原野でのサバイバルも経験している。1973年に軍を退役すると、予備役将校訓練課程の講師をしたり、ユタ州オグデンウェーバー州立大学英語版で軍法を教えたり、ソルトレイクシティ超常現象について語るラジオのトーク番組の司会を行ったりした[145]。2003年に死亡した[146]

ゴセットはクーパー事件に魅了されていたことで広く知られていた。クーパー関連のニュース記事の膨大なコレクションを収集しており、妻の1人にクーパーの墓銘碑を書けるほどの知識があると語っていた。晩年には、3人の息子や、ユタ州の判事だった人物、ソルトレイクシティの公選弁護人の事務所に務める友人に、自分がクーパー事件の犯人であると語った[146]。1971年ごろのゴセットの写真は、最も広く流布されたクーパーの似顔絵と非常に類似している[147]

数年間、ゴセットに関する情報を収集してきた法律家のガーレン・クック (英: Galen Cook) によると、ゴセットは一度、自分の息子たちにブリティッシュコロンビア州バンクーバーにある貸金庫の鍵を見せたという。ゴセットは貸金庫には長年行方不明だった身代金が収められていると主張したそうだ[148]。ゴセットの息子の中で最年長のグレッグ (英: Greg) は、父はギャンブル狂いでいつも金欠だったが、クーパー事件の数週間後の1971年のクリスマス直前に大量の札束を見せてきたと語った。グレッグは、ゴセットはラスベガスでの賭博で金を使い果たしたと推測した[149]

1988年、ゴセットは名前を「ウルフギャング」(英: Wolfgang) に変え、ローマカトリック教会の司祭になった。クックたちは自分の身元を隠そうとしたのだろうと解釈した[145]。他の状況証拠に、ハイジャックされた飛行機の乗客のウィリアム・ミッチェル (英: William Mitchell) から得たとクックが主張している証言があり、クーパーとゴセットに共通する身体的特徴に関するものであるらしいが、クックはその証言を秘密にしている[150]。また、クックは、クーパー事件から数日以内に3つの新聞社に届けられた"D.B.クーパー"と署名されている4通の手紙とゴセットに繋がりがある可能性を見出したと主張している。しかし、ハイジャック犯が実際にそのような手紙を執筆したり郵送したりしたことを示す証拠は存在しない[151][152][153]

FBIの持つ証拠には、ゴセットが犯人であることを示す直接の証拠は存在しない。クーパー事件の際にゴセットが太平洋岸北西部にいたことを示す信頼できる証拠も有していない[154]。カー特別捜査官は、ゴセットが他人に自分が犯人であると話したこと以外は、ゴセットにクーパー事件とのつながりは存在しないと述べた[155]

ロバート・リチャード・レプシー

ロバート・リチャード・レプシー (英: Robert Richard Lepsy) はミシガン州グレーリング英語版出身の33歳の食料雑貨店の店主であり、4人の子供の父親でもある。レプシーは1969年10月に失踪した。3日後にレプシーの自動車が地元の空港で発見され、外見の説明がレプシーと一致する男がメキシコへの飛行機に搭乗したのを目撃されたと言われている。当局はレプシーは自らの意思で姿をくらましたと結論付け、捜査を打ち切った[156][157]

クーパー事件から2年後、レプシーの家族が、レプシーの身体的特徴がクーパーの似顔絵と似ていると言及し、クーパーの衣服がレプシーの店の制服と非常に似ていると断言した。レプシーは法的には1976年に死亡した扱いになった。2011年にレプシーの娘の1人がDNA試料をFBIに提出したが、結果は不明である[158]。2014年の書籍でレプシーはクーパー事件の被疑者であると取り上げられたが[159]、FBIがレプシーについて公式で声明したという記録は存在しない[160]

ジョン・リスト

ジョン・リスト (英: John List) は税理士であり、第二次世界大戦と朝鮮戦争の兵役を経験した。クーパー事件の15日前、ニュージャージー州ウェストフィールド英語版で妻と3人の子供、85歳の母親を殺害し、母親の銀行口座から20万ドルを引き出して姿をくらました[161]。リストの失踪のタイミングや、クーパーの特徴との複数の一致、大量殺人の逃亡犯に失うものはないという推測から、クーパー事件を追っていた捜査官たちはリストに注目した[162][163]。1989年にリストが逮捕されると、リストは家族を殺害したことは認めたが、クーパー事件への関与は認めなかった。クーパー事件に関する記事やドキュメンタリーにはいまだにリストの名前が挙がるが、リストが犯人であることを示す確固たる証拠は存在せず、FBIももはやリストがクーパー事件の被疑者であるとは考えていない[164]。リストは獄中で2008年に死亡した[165]

テッド・メイフィールド

テオドール・E・メイフィールド (英: Theodore E. Mayfield、テッド・メイフィールド <英: Ted Mayfield>) は特殊部隊での軍務を経験した人物であり、パイロット、競技スカイダイビングの選手、スカイダイビングのインストラクターでもあった。スカイダイビング講習中に2人の生徒がパラシュートが開かずに死亡した事件により、過失致死で1994年に服役した[166]。後に、さらに13件のスカイダイビング中の死亡事故への間接的な責任が認められた。これらの事故の原因は装備や訓練の欠陥だった。メイフィールドの犯罪歴の記録には武装強盗や盗難飛行機の運搬という前科も記されている[167]。2010年、パイロットの免許を失ってから26年後に飛行機を操縦したことにより、3年間の保護観察処分の判決を受けた[168]。FBIの捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハによると、捜査の初期段階で、メイフィールドは度々被疑者として名前が挙がったという。ヒンメルバッハは以前に地元の空港で起きた喧嘩からメイフィールドのことを知っていた。メイフィールドは被疑者から除外されたが、その理由の1つは、305便がリノに着陸してから2時間もたたないうちに、メイフィールドがヒンメルスバッハに電話して、標準的なスカイダイビングの慣例や着地地点についてのアドバイスを志願したことである[169]

2006年、2人のアマチュア研究者のダニエル・ドヴォラク (英: Daniel Dvorak) とマシュー・マイヤース (英: Matthew Myers) は、メイフィールドが被疑者であるという説を再び持ち出し、メイフィールドが犯人であることを示す状況証拠を収集したと断言した[167][170]。2人は、メイフィールドがヒンメルバッハに電話した理由はアドバイスの提供を申し出るためではなく、アリバイを作るためだったという仮説を立て、夜に原野へ飛び降りてから4時間もたたずにFBIに電話をかけるのは不可能であるというヒンメルスバッハの結論に異議を唱えた[170]。メイフィールドは事件への関与を否定し、クーパー事件の最中にFBIが自分に5回電話をかけて、パラシュートや地元のスカイダイバー、スカイダイビングの技術について質問してきたと以前に断言したことを繰り返し述べた[167]。ただし、ヒンメルバッハによると、FBIからメイフィールドに電話をかけたことは一切なかったという[171]。さらに、メイフィールドは、ドヴォラクとマイヤースが自分たちの説に同調することを持ちかけ、一緒に大金を稼ごうと誘ってきたと告発した。ドヴォラクとマイヤースはメイフィールドと内通したという話は見え透いた嘘であると述べた[170]。メイフィールドは2015年に死亡した[167]。メイフィールドは早い段階で被疑者から除外されたというヒンメルスバッハの元の発言を除けば、FBIはメイフィールドについていかなる声明も出していない[169]

リチャード・フロイド・マッコイ・ジュニア

リチャード・マッコイ・ジュニア

リチャード・フロイド・マッコイ・ジュニア (英: Richard Floyd McCoy, Jr.) は陸軍での兵役を経験した人物であり、最初は爆薬の専門家として、その後はグリーンベレーでヘリコプターの操縦士としてベトナムで2度の軍務を経験した[172]。退役した後はユタ州兵の准士官になり、スカイダイビングを熱心に愛好した。自分にはユタ州警察官になる大望があったと述べている[173]

1972年4月7日、マッコイはクーパーを模倣した事件を起こした。マッコイの犯行はクーパーを模倣した事件の中で最も知名度が高い[174] (#模倣犯を参照)。マッコイはコロラド州デンバーユナイテッド航空855便 (ボーイング727、機体尾部にエアステアがある) に搭乗し、手榴弾と拳銃を見せ付けて脅迫し、4つのパラシュートと50万ドルを要求した。ただし、手榴弾はそれに似た形をしているだけのただの文鎮であり、拳銃は弾丸が装填されていなかったことが後で判明した[162]。金とパラシュートがサンフランシスコ国際空港に届けられると、マッコイは再度離陸するように命令し、ユタ州プロボ上空でパラシュートによる降下を行った。機内には、ハイジャックの際に命令を記した手書きのメモと、読んでいた雑誌に付着した指紋という手掛かりが残っていた[175]。後に筆跡の専門家が飛行機で見つかったメモの筆跡と軍務の記録にあったマッコイの筆跡を比較し、マッコイがメモを書いたと断定した[176]。4月9日にマッコイは逮捕された。逮捕されたとき、マッコイは身代金を所持していた。裁判では45年間の懲役という判決が下った[173]。2年後、マッコイはルイスバーグ州立刑務所に収監されていたが、数名の共犯者に刑務所の正門にごみ収集車を突っ込ませて脱獄した[177]。3ヵ月後にバージニアビーチで追い詰められ、FBIの捜査官との銃撃戦の最中に死亡した[174][178]

1991年のD.B. Cooper: The Real McCoyという書籍[179]で、著者であるパロール・オフィサーのバーニー・ローズ (英: Bernie Rhodes) とかつてFBIの捜査官だったラッセル・カラム (英: Russell Calame) は、マッコイがクーパーの正体であることを突き止めたと断言した。2人は2つのハイジャック事件の明白な類似性を引き合いに出し、さらに、マッコイの家族が飛行機に残されたネクタイと真珠母のネクタイ留めはマッコイのものであると主張したことや、マッコイ自身が自分がクーパーであることを認めることも否定することもしなかったことを根拠とした[174][180]。カラムはマッコイを射殺した捜査官だった[174]

FBIはマッコイをクーパー事件の被疑者とは見なしていない。年齢や外見が大きく異なること[181]や、マッコイがクーパーが持っていたと思しきスカイダイビングの技術を上回る水準の腕前を有していること[6]、クーパー事件の日にマッコイはラスベガスにいて[72]、翌日にユタ州の自宅で家族と一緒に感謝祭の晩餐を開いたことを証明する信頼できる証拠があることがその理由である[130][182]

ロバート・ラックストロー

1971年のFBIによるクーパーのスケッチ (左) と1970年のロバート・ラックストローの陸軍の身分証明の写真との比較。当局の専門家は、2者の間で一致する箇所を9点発見した。

ロバート・ウェズリー・ラックストロー (英: Robert Wesley Rackstraw) は元パイロットであり、犯罪の前科がある。ベトナム戦争では陸軍のヘリコプターの乗組員や他の部隊で服務した。1978年2月に、ラックストローが爆薬の所持と小切手詐欺の嫌疑を受けてイランで逮捕され、アメリカに移送された事件が起こり、クーパー事件を追っていた捜査官の注目を集めた。数ヵ月後、保釈中だったとき、ラックストローは偽のメーデーの通報をして、管制官にモントレー湾上空でレンタルした飛行機からパラシュートを使って脱出すると告げて、自分の死を偽装しようとした[183]。後に、警察はパイロットの免許証を捏造した容疑でカリフォルニア州フラートンでラックストローを逮捕した。ラックストローが不時着水させたと主張していた飛行機は、塗装を変えた状態で近くの格納庫で発見された[184][185]。クーパー事件の捜査官は、ラックストローは1971年時点で28歳と若かったものの[186]、クーパーの似顔絵と身体的特徴が似ており、軍でパラシュートの訓練を受けていたことと、犯罪の前科があることについて言及した。しかし、クーパー事件との関与を示す直接的な証拠が発見できず、1979年に被疑者から除外された[187][188]

2016年、ヒストリーチャンネルの番組[189]や書籍[190]でラックストローが再び容疑者として名前が挙がった。2016年9月8日、The Last Master Outlaw英語版の著者のトーマス・J・コルバート (英: Thomas J. Colbert) が、情報公開法を根拠としてFBIにクーパー事件の捜査資料を公開するように請求する訴訟を起こした。訴訟では、FBIがクーパー事件の捜査を停止したのは、ラックストローを告訴するのに十分な証拠を集めることに失敗したことで決まりの悪い思いをしないように済むために、ラックストローがクーパーであるという仮説を覆すことを目的としていたと主張されていた[191]。2018年1月、小規模の未解決事件ドキュメンタリー集団が、1971年12月に書かれ、ニューヨーク・タイムズロサンゼルス・タイムズシアトル・タイムズワシントン・ポストに送られた手紙を入手したと報告した。その手紙にはたくさんの数字や文字が書かれていた。調査団はトーマス・コルバートとドンナ・コルバート (英: Dawna Colbert) が統率していた。調査団は、手紙に書かれた暗号を解読し、ラックストローが陸軍に在籍していたときに所属していた3つの部隊と一致したと報告した。FBIはアマチュアの調査団が自分たちが解決できなかった事件を解き明かしたことを認めることになるから自分たちの発見を承認しようとしなかったとも述べた[192]

305便の客室乗務員の1人が、1970年代のラックストローの写真と記憶の中のクーパーの外見との間に類似性があるようには思えないと述べたと言われている[186][193]。ラックストローの代理人は、再度現れたラックストロー犯人説を、今まで聞いた中で最も愚かなことと評した[194]。ラックストロー自身もPeople.comでこの説に対して否定的な見解を述べている[186]。FBIは新たに声明するのを拒絶した[191]。ラックストローは2017年に電話でのインタビューで、2016年のコルバートの主張により失職したと述べている[195]

2018年6月の記事で、民間の調査者がFBIの資料にあった以前は一般に知られていなかった手紙を解読したと主張したという話が掲載された。調査者は、手紙には隠された犯人の告白が書かれていたと主張している[196]

ウォルター・R・レカ

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ウォルター・R・レカ

ウォルター・R・レカ (英: Walter R. Reca、出生名はウォルター・R・ピカ <英: Walter R. Peca>) はミシガン州の住人であり[197]、軍隊に所属していた経験があり、ミシガン・パラシュート・チームの最初期のメンバーだった。2018年5月17日の記者会見で、レカの友人のカール・ラウリン (英: Carl Laurin) がレカを被疑者とする説を提唱した[198][199]。ラウリンはかつては商業航空会社のパイロットであり、自身もパラシュートの熟練者である。2008年、レカは電話を通じてラウリンに自身がクーパーであることを告白した[200]。2018年7月、プリンシピア・メディアはこの件の調査についてのドキュメンタリーを4部にわたって放映した。

レカは公証人によって署名された手紙を通じて、自身の死後にこの話を他者に話す許可をラウリンに与えていた。レカは2014年に80歳で死亡した。レカとラウリンは2008年後半に6週間にわたってクーパー事件について電話で会話しており、レカはそれを録音することも許可した。3時間以上におよぶ会話の中では、レカは以前まで一般には知られていなかったクーパー事件の詳細について新しい情報を出した。レカは姪のリサ・ストーリー (英: Lisa Story) にも自身がクーパーであることを告白した[201]。ラウリンは数年間トレーニングの時間を使ってクーパーがパラシュートで降下した場所を突き止めようとし、クーパーはワシントン州クレエラム付近に着陸したと結論付けた。

証言によると、クレエラムの住人のジェフ・オシアダッツ (英: Jeff Osiadacz) は1971年11月24日の夜にクレエラム付近でダンプカーを走らせていたという。その際、悪天候の中で道路のわきを歩く男を見かけた。オシアダッツは、その人物は車が故障し、助力を求めて歩いているのだろうと推測した。しかし、ダンプカーには男を乗せるだけの空きがなかった。オシアダッツはそのまま目的地であるクレエラムのすぐ外れにあるティーナウェイ・ジャンクション・カフェ (英: Teanaway Junction Café) へ向かった。オシアダッツがコーヒーを頼んだ後、件の男もカフェに入ってきた。さながら溺れたネズミのような見た目だったという。男はオシアダッツの隣に座り、自分の友人をここへ案内したいため、その友人に電話をかけてほしいと頼んだ。オシアダッツは了承し、その男の友人に電話で話しかけ、カフェの場所を教えた。それからまもなく、オシアダッツはバンドの演奏をするためグランジェ・ホールへ向かうためにカフェを出ようとした。男はコーヒーの代金を払うことを申し出て、2人は友好的に別れた。

ラウリンが目撃者の捜索を始めたのは、レカが着陸地点への道すがらに見た地形を説明してからのことだった。レカの説明によると、道中で2つの橋といくらかのはっきりとした光を見たという。カフェの外観と内装についても説明し、オシアダッツと会ったことも話した。レカはオシアダッツの詳細を説明し、西部風の服装をしていて、ギターケースを持っていたことを話した。レカはオシアダッツを「カウボーイ」と呼んだ。

ラウリンは地図からレカの説明した地形上の独特の目印を発見し、電話をかけて「ダンプカーを運転していたカウボーイ」について尋ねた。ラウリンがオシアダッツと連絡をとると、オシアダッツはその夜に男と出会ったことを思い出し、男の服装や外見について説明した。オシアダッツはラウリンが送ったレカの写真を見た後、その男性がレカであることを確認した[202]。ラウリンはレカがクーパー事件の犯人の告白を録音したテープに加え、レカが記した告白文と、レカがハイジャックの間に黒いズボンの下に着ていたと主張する長い下着も所有している。

2016年、ラウリンはプリンシピア・メディアの経営者にこの情報を伝え、経営者は科学調査の専門家のジョー・ケーニグ (英: Joe Koenig) に相談した[203]。ケーニグはラウリンが持ってきた全ての文書を鑑定した。文書にはパスポートやIDカード、写真、新聞の切り抜きが含まれる。ケーニグは改竄の証拠はなく、全ての文書は本物でその時代のものであると評価した。ラウリンの調査と入手可能なFBIの記録と比較すると、レカが被疑者でないと見なせる矛盾は見つからなかった。ケーニグはオシアダッツの1971年11月24日の夜の出来事についての証言がレカがその5年前に話したことと一致することが特に重要であるとも考えた。ケーニグは2018年5月17日に開かれたプリンシピア・メディアの記者会見で、ウォルター・R・レカがクーパーの正体と考えていると公言した[204]。2019年1月8日、ケーニグはGetting the Truthと題したクーパーについての書籍を出版した[205]

ウィリアム・J・スミス

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ウィリアム・J・スミス。1985年撮影。

2018年11月、オレゴニアン誌がニュージャージー州ブルームフィールドに住んでいたウィリアム・J・スミス (英: William J. Smith、1928年 - 2018年)[206]が被疑者の可能性があると報じる記事を掲載した。この記事はアメリカ軍のデータを解析していた研究者の調査に基づいていた。この研究者は自身の発見を2018年夏にFBIに送付している[207]。スミスは第二次世界大戦時の海軍での兵役を経験した人物で、クーパー事件のときは43歳だった。スミスは高校卒業後に海軍に入り、空を飛びたいと言って戦闘機乗りに志願した。海軍を退役すると、リーハイ・バレー鉄道で働き、1970年のペン・セントラル鉄道倒産のあおりを受けた。これは当時ではアメリカ史上最大規模の倒産だった。記事では、この倒産によりスミスは年金を失い、企業体制と交通産業に対する恨みを抱いたという仮説を立てている。また、年金を失ったことで突然に金が必要な状況に追い込まれたとも推測される。スミスの母校の高校の年鑑では、第二次世界大戦で死亡した同窓の一覧にアイラ・ダニエル・クーパー (英: Ira Daniel Cooper) という人物の名前を掲載していた。これが「ダン・クーパー」という偽名の由来になった可能性がある[207]。研究者は、スミスの海軍時代での航空機の経験により飛行機やパラシュートの知識を得て、鉄道会社で働いていたときの経験が飛行機から飛び降りた後にそこから逃亡するために鉄道軌道を見つけて電車に乗る助けとなったのだろうと述べた[208]。研究者は、自身の調査はマックス・ガンサー (英: Max Gunther) が1985年に著した書籍D.B. Cooper: What Really Happenedとウィリアム・J・スミスとを結び付けたことで始まったとも述べている[209]

オレゴニアンの記事では、ネクタイから発見されたアルミニウムの螺旋状の小片などの粒子は機関車整備施設に由来する可能性があるとも書かれている。さらに、スミスがクーパーだとして、スミスがシアトル地域の情報を知っていたのは、鉄道で働いていたとき以来のスミスの親友であり、第二次世界大戦中にルイス駐屯地に配置されていた人物であるダン・クレア (英: Dan Clair) から聞いたためかもしれないとも記されている。スミスとクレアはニュージャージー州ニュアークにあるオーク・アイランド・ヤードで一緒に働いており、スミスはコンレール助役の職を退職した。記事には、リーハイ・バレー鉄道の写真を掲載しているウェブサイトにスミスの写真があり、クーパーの似顔絵と著しく似ているとも書かれている[210]。FBIはメディアのスミスに関する要求に対して、特定の被疑者についてコメントするのは不適切であると述べた[207]

ドゥエーン・ウェーバー

ドゥエーン・L・ウェーバー (英: Duane L. Weber) は第二次世界大戦に陸軍での兵役を経験した人物であり、1945年から1968年の間に強盗や文書偽造で少なくとも6箇所の刑務所で服役していた。ウェーバーは自身の妻から被疑者であるという説が出されたが、これは第一にはウェーバー自身の死に際での犯行の告白を元としていた。ウェーバーは1995年に死亡したが、その3日前、ウェーバーは妻に自分はダン・クーパーであると伝えた。妻はその名前の意味が分からなかったというが、数ヵ月後に、友人がその名前の意味を教えた。妻は地元の図書館へ行ってクーパーについて調べた。マックス・ガンサーの書籍を見つけ、その余白に夫の筆跡でメモが書かれていることを発見した[5]

そのときに妻は過去の記憶を思い出した。ウェーバーは一度、ある悪夢を見たことがあった。ウェーバーによると、飛行機から飛び降りたときに、機体尾部のエアステアに指紋を残してしまっているという内容だったという[211]。また、膝に古い傷があり、妻に飛行機から飛び降りたときについた傷だと語ったとも言われている。クーパーのように、ウェーバーはバーボンを飲み、立て続けにタバコを吸っていた。それ以外の状況証拠として、ウェーバーが1979年にシアトルとコロンビア川に旅行に行っていたことが挙げられる。このとき、ウェーバーはティナ・バーの川岸に沿って散歩していた。その4ヵ月後に、ブライアン・イングラムがその地域で身代金の紙幣を発見することになる[5]

FBIは1998年7月にウェーバーを被疑者から除外した。ウェーバーの指紋がハイジャックされた飛行機から検出されたどの指紋とも一致せず[211]、ウェーバーが犯人であることを示す直接的な証拠が発見できなかったためである[5]。後の調査で、ウェーバーのDNAはクーパーのネクタイから回収された試料と一致しないことも明らかになっている[56][130][130]。ただし、FBIは以降に、ネクタイから発見された生体試料がクーパーに由来するものであるかは不確定であることを認めた[90]

模倣犯

クーパーは私益のためにハイジャックを行った最初の人物というわけではない。例えば、1971年11月初旬、カナダ人のポール・ジョセフ・チーニ (英: Paul Joseph Cini) はモンタナ州上空でエア・カナダDC-8機をハイジャックした。しかし、持参してきたパラシュートを装着しようとして散弾銃を下ろしたときに乗員により制圧された[212][213]。クーパーは少なくともパラシュートで降下するところまでハイジャックを成功させていたため、にわかに模倣犯が現れた。そのような事件のほとんどは1972年に起きた[214]。その中で著名な例を次に挙げる。

  • リチャード・チャールズ・ラポイント (英: Richard Charles LaPoint) は陸軍での兵役を経験した人物であり、"New England beach bum"[216] (直訳すると「ニューイングランドの海辺で遊び呆けている人物」) でもあった。ラポイントは1月20日にラスベガスのマッカランヒューズ・エア・ウエスト800便のDC-9機に搭乗した。飛行機が誘導路にいるときに、ラポイントは爆弾と称するものを見せ付けて脅迫し、5万ドルとパラシュート2つ、ヘルメットを要求した[217]。乗客と2人の客室乗務員を解放すると、デンバーへ向けて東に飛行機を飛ばすように命令した[218]。その後、コロラド州北東部の木のない平原の上空でパラシュートで降下した。実はパラシュートには探知機が付いていた。当局はパラシュートと雪や泥についた足跡を追跡し、数時間後にラポイントを逮捕した[219][220][221]
  • リチャード・マッコイ・ジュニアはかつては陸軍のグリーンベレーだった[222]。マッコイは4月にサンフランシスコへ向けてデンバーを飛び立ったユナイテッド航空のボーイング727-100をハイジャックし、50万ドルの身代金を持ってユタ州上空でパラシュートを使って降下した。安全に着地したが、2日後に逮捕された[223]
  • ロブ・ドリン・ヘディ (英: Robb Dolin Heady) は空挺兵でベトナム戦争での兵役を経験した人物であり、6月初旬にリノでユナイテッド航空のボーイング727を襲撃し、20万ドルとパラシュート2つを要求した。リノから南へ約40キロメートルのところにあるワショー湖英語版の近くで暗闇の中へ身を投じた。警察はヘディの車 (アメリカパラシュート協会のバンパーステッカーが貼られていた) が湖の近くで停められているのを発見し、翌朝に車へ戻ってきたヘディを逮捕した[226][227]
  • マーティン・マクナリー (英: Martin McNally) はかつてはガソリンスタンドの案内係だったが当時は無職だった。6月下旬にセントルイスからタルサへ向かう途中のアメリカン航空のボーイング727を短機関銃を持ってハイジャックし、東に方向転換してインディアナ州へ向かわせ、50万ドルの身代金を持ってパラシュートで降下した[228]。マクナリーは飛行機から出るときに身代金をなくしてしまったが、インディアナ州ペルー英語版の近くで安全に着陸した。数日後にデトロイト近郊で逮捕された[229]

1972年に発生したクーパー事件に似たハイジャック事件は全部で15件あり、すべて失敗に終わった[230]。1973年に全国的に手荷物の検査を行うようになり (#空港の安全性を参照)、全体的なハイジャック事件の発生率は劇的に減少した[231]。クーパー事件を模倣したハイジャック事件は、1980年7月11日を最後に顕著な例は存在しなかった。この日、グレン・K・トリップ (英: Glenn K. Tripp) がノースウエスト航空608便をシアトル・タコマ空港でハイジャックし、60万ドル (ある文献では10万ドル)[232]とパラシュート2つ、自身の上司の暗殺を要求した。しかし、客室乗務員がとっさの判断でアルコール飲料に密かにバリウムを混ぜてトリップに与えた。10時間もの膠着状態の間に、トリップは要求をチーズバーガー3個と先んじて逃走することに変更し、その後に逮捕された[233]。しかし、1983年1月21日、トリップはまだ保護観察中だったが、再び同じノースウエスト航空機を今度は飛行中にハイジャックし、アフガニスタンへ飛行機を飛ばすことを要求した。飛行機がポートランドに着陸したときに、トリップはFBIの捜査官に銃殺された[234]

事件の余波

空港の安全性

クーパー事件が商業航空に安全性をもたらす幕開けとなった。前年にスカイ・マーシャル・プログラムが開始されたにも関わらず[231]、1972年にアメリカ上空を飛ぶ飛行機で31件もハイジャック事件が発生していた。そのうちの19件が金の強奪が目的で、それ以外の事件のほとんどがキューバへ向かうことが目的だった[235]。金の強奪を目的とした事件のうちの15件はパラシュートも要求された[230]。1973年前半、連邦航空局は、航空会社に乗客全員とその鞄を検査することを要求した。このような手荷物の検査が検査と押収を規制する憲法修正第4条に反していると複数の訴訟が起こされたが、連邦裁判所は、このような検査が全国的に行われ、かつそれが武器や爆薬の探知を目的とした検査に限られるときに許可されると決定した[231]。1972年に31件もハイジャックがあったのに対し、1973年は2件しか起こらなかった。どちらも精神障害者による犯行で、そのうちの1人であるサミュエル・ビック英語版 (英: Samuel Byck) は飛行機をホワイトハウスに突っ込ませてニクソン大統領を殺害しようと企てた[236]

飛行機の改修

クーパー・ヴェーン。解除されている。

1972年に模倣犯による犯行が相次いで起きたため、連邦航空局はボーイング727全機に飛行中の尾部のエアステアの降下をできなくする装置を装着することを義務付けた。この装置は後に「クーパー・ヴェーン英語版」(英: Cooper vane) と呼ばれた[231][237]。クーパー事件を直接的な理由として、全ての飛行機のコックピットのドアに覗き穴が導入された。これにより、コックピットにいる乗員がコックピットのドアを開けることなく客室にいる人の様子を見ることができるようになった[238]

ハイジャックされた飛行機のその後

ハイジャックされたボーイング727-100は1978年にノースウエスト航空からピードモント航空に売却された。新たにN838Nと登録され、国内便で使用され続けた[239]。1984年に、今は存在しないチャーター会社のキー航空英語版へ売却され、新たにN29KAと登録された。空軍による民間のチャーター機団に加えられ、機密のF-117開発計画の際にネリス空軍基地トノパ・テスト・レンジ英語版との間を労働者を輸送する折り返し便として使用された[240]。1996年、メンフィスの廃棄場でスクラップにされた[72]

アール・コッシー

クーパーに渡された4つのパラシュートは、元々はスカイダイビング・スクールの経営者のアール・コッシー (英: Earl Cossey) の所有物だった。2013年4月下旬、コッシーがシアトルの郊外にあるウッディンビルにある自宅で遺体となって発見された。頭部への鈍的外傷により他殺されたという結論になった。犯人は不明である[241]。一部の評者はクーパー事件との関係性あるかもしれないと主張した[242]。しかし、当局はそのような関係性があると考える理由はないと応じた[243]。後に、ウッディンビル警察は犯行の動機は強盗である可能性が非常に高いと発表した[244]

文化への影響

ヒンメルスバッハがクーパーのことを"rotten sleazy crook"[245] (直訳すると「腐った薄汚いペテン師」) と呼んだことは有名だが、クーパーの大胆で冒険的な犯行はカルト的な支持者を生み出し、歌や映画、文学の題材となった。太平洋岸北西地区にある料理店やボーリング場は定期的にクーパーをテーマに宣伝活動を行い、観光客向けのみやげを売っている。エアリアル・ジェネラル・ストア・アンド・タヴァーン (英: Ariel General Store and Tavern、直訳すると「アリエル雑貨店・居酒屋」) では1974年から毎年11月に「クーパーの日」のお祝いが開かれた。ただし、2015年は経営者のドナ・エリオット (英: Dona Elliott) が亡くなったため行われなかった[246]

クーパーはテレビシリーズの『プリズン・ブレイク』や『THE BLACKLIST/ブラックリスト』、NewsRadio英語版、『レバレッジ 〜詐欺師たちの流儀』、『ジャーニーマン 時空を越えた赤い糸』、『NUMBERS 天才数学者の事件ファイル』、Drunk History英語版、1981年の映画の『ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事英語版』、2004年の映画のWithout a Paddle英語版、テレビシリーズ『4400 未知からの生還者』を元とした書籍The Vesuvius Prophecyの筋書きにも登場している[247]

プリズン・ブレイク
ドラマ『プリズン・ブレイク』第1期の登場人物であるチャールズ・ウェストモアランドが実はクーパーであると他の囚人から噂される描写がある。チャールズは犯行後、着地の際に足を負傷して、金を土に埋めた後、自動車の運転で人を撥ねて逮捕されている。
NUMBERS
ドラマ『NUMBERS 天才数学者の事件ファイル』の第6期、第10話には処分の為に輸送される古札を狙った連邦準備銀行強盗団を制圧した際、クーパーが盗んだとされる紙幣が紛れていた話がある。クーパーが複数犯で、主犯格は仲間に殺されていて残った1人も多発性骨髄腫余命4カ月の身であり、ほとんどの金は主犯格が虐殺したベトナムのヌバク村の復興にあてられたことになっている。
ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事
1981年の映画『ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事』(原題:The Pursuit of D. B. Cooper) では、冒頭でクーパー事件を元にしたハイジャック事件が描かれる。物語のほとんどは保険調査員 (クーパーの軍隊時代の元上官) がクーパーを追跡するフィクションである。

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外部リンク