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「祇園山古墳」の版間の差分

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<p>'''祇園山古墳'''(ぎおんやまこふん)は、[[福岡県]][[久留米市]][[御井町]]に存在し[[福岡県]][[指定史跡]]に指定されている[[方墳]]である。三世紀中期のものと推定され、築造時期や規模、様式から[[卑弥呼]]の墓に比定する説がある。</p>
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2018年5月29日 (火) 00:20時点における版

祇園山古墳
所在地 福岡県久留米市御井町299-219
位置 座標: 北緯33度18分11.9秒 東経130度33分15.63秒 / 北緯33.303306度 東経130.5543417度 / 33.303306; 130.5543417北緯33度30分35秒
東経130度55分43秒
形状 方墳(基部楕円形)
規模 東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6m
埋葬施設 箱式石棺
出土品 三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡、外周甕棺1号墓から後漢鏡片、硬玉製曲玉、碧玉製管玉、鉄製刀子、その他鉄製武器および農機具
築造時期 2世紀中期
日本の古墳テンプレートを表示

祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町に存在し福岡県指定史跡に指定されている方墳である。三世紀中期のものと推定され、築造時期や規模、様式から卑弥呼の墓に比定する説がある。


概要

祇園山古墳は、福岡県久留米市御井町高良山にあり 耳納山系西端の高良山から西の平野に向かって派生する丘陵の先端部にあり、筑後平野の多くを一望の下に見渡すことのできる台地(赤黒山)の上に位置しており、占地の意図を窺わせる。

記紀によれば仲哀9年に忠哀天皇と神功皇后が熊襲討伐のため筑紫に幸し高良山に滞在(安在地・朝妻)し、朝鮮半島に出兵時には高良の神が神功皇后を援け給うと伝えられている。その後も磐井の乱で磐井の君がここに陣を置いたと伝えられており、『日本書紀斉明天皇4年(658年)条[1]の「繕修城柵断塞山川」が神籠石系山城と伝えられている。また豊臣秀吉は1587年 (天正15年)の島津討伐の際、高良山の吉見岳城に本陣を置いた。このように、有史以来多くの戦乱で砦が置かれていることから、この地は古来から朝倉方面から八女方面、また鹿島方面など筑紫平野を一望できる戦略的な要衝であり、高良山代高良大社高良山神籠石などの歴史的文化財も多い。

高さの約1/4を地山から方形台状に削り出しており、その基部は楕円形をなしている。場所は 九州自動車道に面しており、久留米インターチェンジから高速道下り方向1.7km地点から目視することができる[2]

形状は方墳で、石棺は北東から南北方向に沿って古墳頂部中央にあり、内部には朱の痕跡がある。石棺はあるがはなく、形状、規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方墳および楽浪漢墓 (阿残墓) 石巌里第9号墳に類似する。

規模・形状

方墳の規模は東西約23.7m、南北約22.9m、高さ約6mで、標高60m(墳丘頂部) 標高55m(墳丘基準面)である。葺き石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を楕円形に整形した台地の上に存在する。方墳周辺からは特殊埴輪などは出土していない。 墳丘外周からは、殉葬された従者66名以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区甕棺の末期形式のものであることから、被葬者や従者は伊都国との関連が示唆される[3][4]

墳墓は九州高速道建設のために削開されるところを、福岡県教育委員会および市民による道路公団に対する保存運動により九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査が行われ、調査結果による重要性の認識から基部の楕円形の部分的な削開にとどまり、かろうじて墳墓の約80%が遺跡として保存された[5]

築造時期が墳墓の形状、構築、石室、周囲の甕棺の様式から三世紀中期であること、規模が一辺約23mで斜辺が32mで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪はなく66名以上の殉葬があること、そのうちの甕棺K1からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、出土品の殆どが時期的に矛盾が無いことなど多くの点で魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記載と矛盾が殆ど無い。さらに、この古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台の占地に存在することから、魏志倭人伝卑弥呼の墓の可能性がある。

埋葬施設

墳頂部は一辺が役10mの平坦面であり、そののほぼ中央に箱式石棺がある。安山岩の板石を大小5枚使い、側壁の不足部を補う板石各1枚で構築されている。石棺の大きさは底部付近で長さ約2m、幅約90cm、深さ約90cmで、棺内には蓋石も含めて朱が塗られていた。

副葬品

石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、主体墓の副葬品は失なわれているが、近傍の高良大社に出土品と伝わる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)および変型方格規矩鏡)があるものの、詳細な由来は不明である。

周囲の第一号甕棺K1は内部が朱に塗られ、成人女性人骨、後漢鏡片(半円方格帯鏡 吾作銘104φ 銘帯 「吾作明口幽湅三商周□無□配疆會・・・・・・番昌兮」半円方格帯銘 「善/同/出/丹/□」)、大きさ5cmの大型硬玉製曲玉、二個の両面穿孔碧玉製管玉刀子が出土し、九州歴史資料館に収蔵されている。成人女性は被葬者の従者ないし巫女の頭と考えられている。竪穴式石室H7には「差し違い二体葬」が見られたことから殉葬であることが示唆される。形状不明のG主体からは三世紀の畿内では出土していない刀子、鉄鏃、剣、刀身などの鉄製武器だけでなく、鎌、錐、手斧鍬などの鉄製農機具も出土している。墳裾の各所から古式土師器(西新式土器)、須恵器等が多数出土している[6]

参考文献

  • 石山勲・大川清・高橋章「祇園山古墳の調査」『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』XXVII(1979)、歴博報56(1994)  
  • 福岡県教育委員会、『福岡県久留米市所在祇園山・七曲山両古墳群の調査(九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告 / 福岡県教育委員会編, 27)』, 1979.3

関連項目

脚注

  1. ^ 『日本書紀』斉明天皇4年(658年)是歳条。
  2. ^ 県指定史跡 祇園山古墳 Google map
  3. ^ 石山勲・大川清・高橋章「祇園山古墳の調査」『九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告』XXVII(1979)、歴博報56(1994)
  4. ^ 福岡県教育委員会、『福岡県久留米市所在祇園山・七曲山両古墳群の調査(九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告 / 福岡県教育委員会編, 27)』, 1979.3
  5. ^ 郷土の文化財(第6版) 90ページ 付図6 久留米市
  6. ^ 御井校区の文化財 久留米市教育委員会