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「東京市街の変遷」の版間の差分

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Ikeguchi (会話 | 投稿記録)
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2004年8月25日 (水) 04:37時点における版

東京の市街地は現在まで大幅に拡大すると共に、その質も変化してきた。ここでは、明治時代以降の東京の市街地の変化を時系列に記す。

東京市街の拡大と山の手・下町

明治時代の山の手は、旧江戸市街地の範囲内で、地形の山の手(武蔵野台地の東端)の武家地あとに成立した比較的高級な住宅街である。典型的な例は本郷青山赤坂。山の手では多くの幕臣が去り、武家地を接収した維新側大名家とその家臣団、財閥関係者、文化人など当時の中流から上流の人々が集まって住んだ。住民の多くが入れ替わったため、言語や文化の面で江戸時代と明治時代の間に大きな断絶があると言われる。一方で商工業が集積した町人町であった下町は、江戸期に集積された伝統文化を維持しつつ、新たなサービスの対象を受け入れたため、江戸期の文化と明治期の文化に連続性が見られる。ほぼ住宅に特化した山の手は独立した都市としては成立できなかったが、谷が入り組んだ地形のため、山の手から坂道を降りれば商業サービスを提供する下町が存在し、利便性は高かった。また、主要な街道などは山の手の尾根の中心を通っていたため交通の便はよい。

関東大震災は、東京の既成市街地から郊外へ移転する人を大量に生み出した。震災の後、第二次世界大戦までに旧江戸市街地の範囲外であった山の手地形の地域に新興高級住宅地が成立した。最も高名な例として現在の渋谷区の松濤・富ヶ谷等が挙げられる。富ヶ谷の分譲にあたっては、入居資格として資産と名声(又は皇籍・爵位)を設定し、このことが新聞に批判されるなどして、山の手=上流階級のイメージが強化されている。上流階級世帯の入居にあたってはサービス提供者が近隣に必要であったため、東京の低地に面した山の手が好適であったと思われる。

一方で、この時期、武蔵野台地上では、田園調布成城学園前等の田園都市ニュータウンが計画的に設計・分譲された。これは商業サービス地域とセットで住宅地を開発し。当時の中流俸給者層から上流階級の世帯に照準を合わせた独立性の高い新都市である。また、中流層の一部は、阿佐谷荻窪などをはじめ、郊外鉄道の駅周辺などにも移転したが、人口の集積によって駅周辺に商業も発達していき、田園都市とはまた別の住宅衛星都市として成立していったと考えられる。新開発の山の手地域が、既成山の手住宅及び中心市街地の上流層のみを吸収したのに対し、衛星都市群は既成の山の手地域の住民と、人口密度の高かった下町の俸給者層住民をも吸収した。

第二次世界大戦後は、戦災被災者の移転、復員及び引き揚げなどのため、既成市街地西側への人口移転の圧力が高く、東京都市圏は拡大した。さらに、高度成長期には全国からの人口流入を受け止めるため、拡大の速度が増した。
中心市街地の西側では、既に成立していた上流階級向けの山の手から、武蔵野台地上に連続た前線を形成し、衛星都市を飲み込みつつ武蔵野台地上を西に向かってスプロールが進行していき、さらに、東京オリンピック前後を境に、それまで開発規制されていた地域へも市街地開発が行われていった。
中心市街地に距離的に近接するため、この新たな「山の手」では一般に郊外の衛星都市周辺に比べ地価が高く、入居者の所得が相対的に高かったが、地形の山の手を離れるに従って、利便性、都市施設、水道・道路その他のインフラストラクチュアの水準が急速に下がった。21世紀初頭の在ではむしろ衛星都市の方がより高級な住宅地としてのイメージが定着している。この過程で、既存の山の手地域は存続しているものの、新興高級住宅地としては地形的特徴や、下町との関連性において定義可能な「山の手」は姿を消していき、新たに田園都市や衛星都市、ニュータウンが相対的に整備された住宅街であることを根拠に「山の手」と認識されていくこととなった。
戦争直後に住民が移転した市街の例として富ヶ谷に近い目黒区駒場周辺の山手通り沿い、大規模なスプロールが急速に展開した地域として中野区野方などが挙げられる。また、世田谷区の成城学園の周辺地域はカーナビゲーションの性能評価に使われるほど道路整備の水準が低い。

 今日では住宅販売の宣伝用には、元の地形が丘陵・台地・谷・低地に関係なく高級感を打ち出すために「山の手」が使用されている。特に、地名の併合によって、山の手の住宅街の町名が下町地域に広がった場合などは、マンション販売の広告で「山の手」が連呼される。(目黒区 白金 マンション 山の手 を検索すると、バブル経済期地上げされた谷部低地の木造賃貸住宅あとのマンションが大量に現れる。)
一方で、マスメディアでは江戸期からの文化の一貫性が見られる地域は「下町」と呼ばれるので下町の範囲も不明瞭になりつつある。