「大艦巨砲主義」の版間の差分
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BfDXjJtUZv6q (会話 | 投稿記録) 用語としての「大艦巨砲主義」の変遷に軸を置いて記事を全面再構成。既存部分は論争対象となっているためコメントアウトにて保存。 |
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[[ファイル:HMSRodneyGunsElevated1940.jpg|thumb|300px|イギリス戦艦「[[ロドニー (戦艦)|ロドネイ]]」の主砲(1940年)]] |
[[ファイル:HMSRodneyGunsElevated1940.jpg|thumb|300px|イギリス戦艦「[[ロドニー (戦艦)|ロドネイ]]」の主砲(1940年)]] |
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'''大艦巨砲主義'''(たいかんきょほうしゅぎ)とは、 |
'''大艦巨砲主義'''(たいかんきょほうしゅぎ)とは、近代戦艦発祥以降に醸成された概念で、簡単に言えば「より大きな船体に、より大きな主砲を積んだ戦艦こそ優越する」というものである。 |
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戦艦が海軍の主力であった時代の根幹を形成する概念であり、当時の列強各国は競うようにより大型・より大口径主砲を搭載した[[主力艦]]の建造・保有に邁進していった。 |
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艦隊決戦思想を背景として、水上艦の砲撃戦で有利とするため際限なく[[主砲]]と艦艇が巨大化していく状況を反映する。 |
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== 語源 == |
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実のところ、日本を除く諸外国においては「大艦巨砲主義」を明示した概念・用語は存在しないか、あるいは適用頻度が極めて限定されたものである。列強各国が大艦巨砲を求めて戦艦を建造していたことは事実であるが、これを用語として明確に定義した形跡は乏しい。<!--編者の調査範囲においては確認できず。他国事例が認められる際は追記願いたい。--> |
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すなわち、「大艦巨砲主義」なる用語は基本的には日本国内においてのみ専ら流布したものである。 |
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== 歴史 == |
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この用語が登場するのは、[[日本海海戦]]によって戦艦こそ決戦兵器であるとの認識が確立し、折しも戦艦の進化を根本から変容する革命的戦艦「ドレッドノート」が就役してからのことである。特に[[超弩級戦艦]]に発展し、船体の大きさにも主砲口径にも歯止めがかからなくなった頃に確立したと考えられ、大正年代以降の本邦新聞上に頻出するようになった。 |
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例:報知新聞(1913.7.13号「大益々大を加う : 各国努型艦の比較」)、時事新報(1916.4.27号「米国の海軍力」)等 |
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明治以前の状況を見ると、幕末には「大艦」と「巨砲」を対句として連想する下地ができていたと考えられ、[[佐久間象山]]が嘉永六年六月二十九日付で記した書簡にて「彼れに大艦あらば我も亦た大艦を作るべし、彼に巨砲あらば我も亦巨砲を造るべし」と述べている<ref>『象山全集』巻四 書簡 p.157</ref>等、複数の洋学者が二語を対句として用いた記録が残されている。 |
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=== 大正時代 === |
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上述の通り、「大艦巨砲主義」が頻出し始めたのは大正年代以降である。この時代は過熱する[[建艦競争]]の中、列強各国がいずれも超弩級艦数十隻を建造せんとする巨大計画を相次いで発表・実行しており、単なる軍事の範疇に留まらず、国家財政や社会動勢にまで影響を及ぼす事態となっていた(現実に、英独の建艦競争は第一次世界大戦の遠因の一つに数えられている)ため、情勢分析に外せない用語として論文や新聞紙上を賑わせていた。 |
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{{main|建艦競争}} |
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=== 世界大戦終結~海軍休日 === |
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世界大戦終戦後も、大きく国力を伸ばした日米を中心に建艦競争が続く事態は、戦後復興のための財源を求める他国はもとより、当の両国ですら増大する一方の財政負担を懸念しており、国際的な規制により歯止めをかける機運が急速に醸成された。 |
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数度にわたって開催された軍縮会議と締結された各条約は列強各国の海軍軍備を質量ともに制限するものとなり、「[[海軍休日]]」時代が訪れる。 |
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戦艦の性能や量が定められたこの時期においては「大艦巨砲主義」は発展しようもなく、用語としての適用は時代遅れ、代替手法の模索などといった否定的な使われ方が多くなっている。 |
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例:時事新報(1920.12.11号「潜水艦か戦艦か」)、東京朝日新聞(1926.5.2号「大艦巨砲に代る小艦多数主義」)等 |
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{{main|海軍休日}} |
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=== 無条約時代 === |
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欧州では先の大戦で敗北したドイツがポケット戦艦「ドイチュラント」号を起工したことを皮切りに、1932年でワシントン条約の建造制限から脱した仏伊が新戦艦建造に動き出した。1937年からはワシントン条約が期限切れになったことで、残る日米英も戦艦建造が可能となり、再び建艦競争がスタートする。 |
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このとき、第二次ロンドン条約が米英仏三国間で締結され、各国の戦艦は当初3万5千トン、主砲口径14インチの制限が課せられており、大艦巨砲は当初より発展の余地を奪われていた。また英独海軍協定も別に結ばれたため、各国が計画・起工した新戦艦第一陣は概ねこの軛に依っている(仏伊が起工した戦艦は同条約締結前のものであるため15インチ主砲を採用している)。 |
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ただし同条約にはエスカレーター条項が設けられており、締結国以外の国が規定された性能以上の戦艦を建造すると察知された場合は、基準排水量4万5千トン、主砲口径16インチまでの拡大を認められた。アメリカは直ちに同項を適用して「ノースカロライナ」級戦艦の主砲を14インチから16インチに改め、また「アイオワ」級戦艦では排水量も4万5千トンに拡大している。イギリスは仏独伊三国の建艦競争に追随するために第一陣「キング・ジョージ5世」級戦艦は当初制限のままで建造し、同項適用は第二陣「ライオン」級戦艦まで待つこととした。 |
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これらの動きは日本でも当然予想されていた。当時の記事として時事新報(1936.1.18-19号「建艦競争は宿命」)から引用すると、 |
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「日米英の何れかが右の七大戦艦(引用者註:日本の長門型、アメリカのメリーランド級、イギリスのネルソン級)より小さい従って弱い戦艦を建造するならばそれは馬鹿気きったことである |
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艦隊の主力をみすみす敵の主力より弱いものにする海軍政策はあり得ない |
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そこで尨大な費用を要する主力艦であるから成るべく大きいものを作りたくないと云う財政上の註文があっても世界一流の海軍国たる為めには少くとも前掲の七大戦艦と同等のものを作らねばならない」とし、 |
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「日米英の懐ろにも限りがある、恐らく二十吋六万噸になる迄に、各国一様に悲鳴をあげ、真剣に軍縮会議が要求されて来るに違いない |
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だがそうした悲鳴をあげる迄は競争の結果主力艦が次第に大きくなるのは制御出来ないことである」 |
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と、ある程度までは大艦巨砲主義の発展は止まらないだろうと考えられていた。実際に日本はほぼこの文中の数字に合致する6万4千トン、18インチ主砲の大和型戦艦を建造するのである。また米・独・ソにおいても6万トン級の巨大戦艦が実際に構想・計画され、具体化のスケジュールも動き出していた。 |
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=== 第二次世界大戦~大艦巨砲主義の終焉 === |
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{{節スタブ}} |
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== 日本海軍における大艦巨砲主義 == |
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]では、[[日露戦争]]時の[[日本海海戦]]で大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立された([[海戦要務令]])。なお、これは当時としては日本海軍に限ったものではない。その後も太平洋戦争後半期まで[[軍令]]・戦術上の主流となった。長駆[[侵攻]]してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・[[巡洋艦]]・[[駆逐艦]]等は脇役に過ぎなかった。 |
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しかし日本海軍は太平洋戦争における[[真珠湾攻撃]]など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「[[露払い]]」としての航空機が予想以上の戦果を出し、[[第一航空艦隊]]([[南雲忠一|南雲]]機動艦隊)は[[地球]]を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた[[航空主兵論]]が勢いを増した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。航空主兵論は戦艦無用論も含み当時極端とも見られたが[[太平洋戦争]]の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。航空関係者が嘆いていたのは大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたためである<ref>奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁</ref>。 |
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1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀[[源田実]]中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「[[始皇帝|秦の始皇帝]]は[[阿房宮]]を造り、日本海軍は戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた<ref>淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁</ref>。第二艦隊砲術参謀[[藤田正路]]は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。[[偶像崇拝]]的[[信仰]]を得つつある」と残した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。 |
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海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、[[ミッドウェー海戦]]での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備[[計画]]のみで施策、実施などまで徹底していなかった。[[国力]]・[[工業]]力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で[[制空権]]を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった<ref>戦史叢書95海軍航空概史269-270頁</ref>。 |
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1943年(昭和18年)第三段[[作戦]]計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた<ref>戦史叢書95海軍航空概史348頁</ref>。[[1944年]][[2月]]に第一艦隊が廃され、翌月に[[第一機動艦隊]]が創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、[[機動部隊]]が最重要視されることとなった。 |
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その機動部隊と(陸上)[[軍事基地|基地]]航空兵力は、[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[台湾沖航空戦]]など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した[[小沢治三郎|小沢]]機動部隊にもはや攻撃力はなく、[[おとり|囮]]部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」が[[空襲|航空攻撃]]によって[[撃沈]]された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され([[坊ノ岬沖海戦]])、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 |
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戦後、航空主兵論者だった[[源田実]](戦中は海軍大佐、戦後は[[航空自衛官]]となり[[幕僚監部]]で部長)は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは[[組織]][[改革]]での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは[[失業]]するしかない。多分そういうことでしょう。[[兵学|兵術]]思想を変えるということは、単に[[兵器]]の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う[[日本人]]の[[性格]]では、なかなか難しいことです」と語っている<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁</ref>。 |
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また、[[砲術]]の大家であった[[黛治夫]]大佐のように、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた大艦巨砲主義者もいた。 |
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== 批判 == |
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森雅雄は、「大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は帝国海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判は[[イデオロギー]]である」と批判している<ref>森雅雄「[http://jiu.ac.jp/books/bulletin/2012/human/01_mori.pdf イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」]城西国際大学紀要 21(3), 1-13, 2013-03</ref>。 |
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== 派生 == |
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この語は、比喩として用いられることもある。 |
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大辞泉(小学館)では定義を「(比喩的に)大きな組織や大掛かりな設備が、強い競争力をもつとする考え方。大きすぎて柔軟性を欠き、小回りの利かないところを冷やかして言うこともある。」としており、どちらかと言えば否定的なニュアンスで用いられる用語となる。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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大砲が未発達な時代では、有効射程距離や照準精度の関係で、口径よりも数が問題だった。[[戦列艦]]の時代では数が強さの目安だった。砲数を増やすため艦体が大型化。なお、この時代は大砲での撃沈は不可能で、艦の損傷や乗員の殺傷が主目的だった。 |
大砲が未発達な時代では、有効射程距離や照準精度の関係で、口径よりも数が問題だった。[[戦列艦]]の時代では数が強さの目安だった。砲数を増やすため艦体が大型化。なお、この時代は大砲での撃沈は不可能で、艦の損傷や乗員の殺傷が主目的だった。 |
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技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。戦列艦から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・造船技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型の偵察などを目的とする巡洋艦へと分岐した。 |
技術開発が進み、砲の大きさ(口径・口径長)が威力と比例するようになった。戦列艦から装甲艦への移行期には小型化が見られたものの、大砲・動力・造船技術の進歩に従って軍艦は巨大化していった。そして木製艦体に装甲を施した装甲艦から、艦体自体を鉄鋼製とした艦へと移行、大型の艦体と搭載砲を持つ戦艦と、小型の偵察などを目的とする巡洋艦へと分岐した。 |
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日露戦争後の1906年から[[1920年代]]までは戦艦 |
日露戦争後の1906年から[[1920年代]]までは戦艦(battleship)が海軍力の主力として最重要視され、[[列強]]各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によって[[海戦]]ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、[[巡洋艦]]や[[駆逐艦]]などの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力の[[海防戦艦]]と呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。この時期には戦艦は戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。 |
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戦艦の建造競争は[[1921年]]の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]における[[ワシントン海軍軍縮条約]]締結により一旦中断([[海軍休日]])したが、[[1937年]]の条約明けで一斉に再開された。しかし[[1939年]]に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が始まると、欧州各国では建艦に手間のかかる戦艦の建造が遅れ気味になった。さらに、1941年12月の[[真珠湾攻撃]]と[[マレー沖海戦]]における[[航空機]]の活躍を受けて大戦中期以後は海軍の主力の座を[[航空母艦]]に譲り、また[[戦後]]は[[ミサイル]]が艦艇の主要装備となり、新しい戦艦は建造されなくなった。 |
戦艦の建造競争は[[1921年]]の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]における[[ワシントン海軍軍縮条約]]締結により一旦中断([[海軍休日]])したが、[[1937年]]の条約明けで一斉に再開された。しかし[[1939年]]に[[ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が始まると、欧州各国では建艦に手間のかかる戦艦の建造が遅れ気味になった。さらに、1941年12月の[[真珠湾攻撃]]と[[マレー沖海戦]]における[[航空機]]の活躍を受けて大戦中期以後は海軍の主力の座を[[航空母艦]]に譲り、また[[戦後]]は[[ミサイル]]が艦艇の主要装備となり、新しい戦艦は建造されなくなった。 |
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なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の[[湾岸戦争]]。[[アイオワ級戦艦]]「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」と「[[ウィスコンシン (戦艦)|ウィスコンシン]]」が出撃し、一定の戦果を挙げている。 |
なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の[[湾岸戦争]]。[[アイオワ級戦艦]]「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」と「[[ウィスコンシン (戦艦)|ウィスコンシン]]」が出撃し、一定の戦果を挙げている。 |
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この語は、比喩として用いられることもある。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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戦艦の主な役割は、対地砲撃や[[防空艦]]としての機動部隊護衛などへと変わっていき、現代でも、陸上の目的物に対する[[艦砲射撃]]は航空機よりも時間当たりの効率が良く、船体に余裕がある為ミサイルプラットホームとしても非常に有効である。事実、[[湾岸戦争]]で[[アメリカ海軍]]は戦艦を運用し、[[20世紀]]末まで現役の兵器だったが、昨今の[[対艦兵器]]の発達による生存率の低下やその[[コストパフォーマンス]]を考えると戦艦を新造するにはあまりにも高価な物となった。 |
戦艦の主な役割は、対地砲撃や[[防空艦]]としての機動部隊護衛などへと変わっていき、現代でも、陸上の目的物に対する[[艦砲射撃]]は航空機よりも時間当たりの効率が良く、船体に余裕がある為ミサイルプラットホームとしても非常に有効である。事実、[[湾岸戦争]]で[[アメリカ海軍]]は戦艦を運用し、[[20世紀]]末まで現役の兵器だったが、昨今の[[対艦兵器]]の発達による生存率の低下やその[[コストパフォーマンス]]を考えると戦艦を新造するにはあまりにも高価な物となった。 |
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== 日本海軍における大艦巨砲主義 == |
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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]では、[[日露戦争]]時の[[日本海海戦]]で大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立された([[海戦要務令]])。なお、これは当時としては日本海軍に限ったものではない。その後も太平洋戦争後半期まで[[軍令]]・戦術上の主流となった。長駆[[侵攻]]してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・[[巡洋艦]]・[[駆逐艦]]等は脇役に過ぎなかった。 |
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しかし日本海軍は太平洋戦争における[[真珠湾攻撃]]など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「[[露払い]]」としての航空機が予想以上の戦果を出し、[[第一航空艦隊]]([[南雲忠一|南雲]]機動艦隊)は[[地球]]を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた[[航空主兵論]]が勢いを増した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。航空主兵論は戦艦無用論も含み当時極端とも見られたが[[太平洋戦争]]の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。航空関係者が嘆いていたのは大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたためである<ref>奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁</ref>。 |
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1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀[[源田実]]中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「[[始皇帝|秦の始皇帝]]は[[阿房宮]]を造り、日本海軍は戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた<ref>淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁</ref>。第二艦隊砲術参謀[[藤田正路]]は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。[[偶像崇拝]]的[[信仰]]を得つつある」と残した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。 |
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海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、[[ミッドウェー海戦]]での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備[[計画]]のみで施策、実施などまで徹底していなかった。[[国力]]・[[工業]]力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で[[制空権]]を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった<ref>戦史叢書95海軍航空概史269-270頁</ref>。 |
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1943年(昭和18年)第三段[[作戦]]計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた<ref>戦史叢書95海軍航空概史348頁</ref>。[[1944年]][[2月]]に第一艦隊が廃され、翌月に[[第一機動艦隊]]が創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、[[機動部隊]]が最重要視されることとなった。 |
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その機動部隊と(陸上)[[軍事基地|基地]]航空兵力は、[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[台湾沖航空戦]]など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した[[小沢治三郎|小沢]]機動部隊にもはや攻撃力はなく、[[おとり|囮]]部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」が[[空襲|航空攻撃]]によって[[撃沈]]された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され([[坊ノ岬沖海戦]])、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 |
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戦後、航空主兵論者だった[[源田実]](戦中は海軍大佐、戦後は[[航空自衛官]]となり[[幕僚監部]]で部長)は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは[[組織]][[改革]]での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは[[失業]]するしかない。多分そういうことでしょう。[[兵学|兵術]]思想を変えるということは、単に[[兵器]]の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う[[日本人]]の[[性格]]では、なかなか難しいことです」と語っている<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁</ref>。 |
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また、[[砲術]]の大家であった[[黛治夫]]大佐のように、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた大艦巨砲主義者もいた。 |
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{{出典の明記|date=2018年5月|section=1}} |
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| style="text-align:left" | 上表就役・建造・改造・計画決定の内、最終就役数 || 22 || 11 || 16 || 0 || 0 || 1 |
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|} |
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編集者用のコメントにつきコメントアウト--上記の表はwikipedia内より参照した物です。 |
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航空母艦について大戦中に建造計画を始めた数や終戦時の建造中、又は計画中止を表に含めなかったのは、特に日本、海軍のみならず[[大日本帝国陸軍|陸軍]]でも[[護衛空母]]に含まれる[[あきつ丸|可能性]][[熊野丸|のある]][[特TL型|艦艇]]が[[山汐丸|多数]][[しまね丸|存在]]しており、その判断がつき兼ねた為です。また、計画決定には予算承認が下りていない物は含みません。 |
航空母艦について大戦中に建造計画を始めた数や終戦時の建造中、又は計画中止を表に含めなかったのは、特に日本、海軍のみならず[[大日本帝国陸軍|陸軍]]でも[[護衛空母]]に含まれる[[あきつ丸|可能性]][[熊野丸|のある]][[特TL型|艦艇]]が[[山汐丸|多数]][[しまね丸|存在]]しており、その判断がつき兼ねた為です。また、計画決定には予算承認が下りていない物は含みません。 |
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日本における大艦巨砲主義については様々な文献や証言はあるが、上記の表にある通り海軍軍縮条約後に列強と言われた国の中で戦艦の建造数が一番少なく、計画数において同様である事<ref group="注釈">海軍軍縮条約ではアメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率は5:5:3のはずであるが、開戦時に計画のあった通りであれば日本の戦艦数はアメリカの1/3、イギリスの1/2、もし先の比率にあてはめるならば、10:6:3に近い物になる。</ref>。逆に航空母艦では就役・建造中の物が一番多かった事<ref group="注釈">航空母艦の数では日本はアメリカの2倍、イギリスの1.5倍に迫る艦艇数を就役又は建造中であった。</ref>。開戦後に日本の商船を改造した軽空母の全てが空母へ改造する事を前提として設計され<ref group="注釈">航空母艦と一般の船舶が構造的に大きく違う理由は飛行甲板ではなく格納庫の存在にある。中には柱や構造壁を造る事を許されず、上部構造物の全てを外壁側で支えられる、つまりその基礎とも言える船体自体もその荷重配分に耐えられる様に設計する必要があり、エレベーターと言う巨大な開口部が船体下層まで貫通していても大丈夫なように強度を増し、更に煙突を船体の側部に変更出来なければならない、これは骨格構造を持つ動物と外郭構造のカニぐらい全く違う設計が必要になる。そのような事から航空母艦への改造を想定していない船舶の場合は新造するのに匹敵するぐらいの時間が掛るのである、例を上げると正規空母の「[[大鳳 (空母)|大鳳]]」が新造で1年8カ月、「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」・「[[天城 (雲龍型空母)|天城]]」・「[[葛城 (空母)|葛城]]」が1年10カ月に対して[[軽空母]]の「[[神鷹 (空母)|神鷹]]」(貨客船「シャルンホルスト」)は1年4カ月、「信濃」(大和型戦艦)は紆余曲折があったにせよ2年5カ月も掛っている。逆に「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」や「[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]」は9カ月、「[[大鷹 (空母)|大鷹]]」に到ってはわずか5カ月で改装が完了している</ref>、国から補助金を出し建造されていた事。昭和16年11月、つまり開戦以前から戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先を決定し、大型艦の建造計画が中止になった事。この動かしようのない事実から分かるのは、開戦の数年前から海軍上層部では航空主兵論が優勢を占め始めており、帝国海軍においては大艦巨砲主義を声高に唱えているのは一部の者だけ、もしくはその意見は取り入れる価値が無いと判断されたと言う事である。 |
日本における大艦巨砲主義については様々な文献や証言はあるが、上記の表にある通り海軍軍縮条約後に列強と言われた国の中で戦艦の建造数が一番少なく、計画数において同様である事<ref group="注釈">海軍軍縮条約ではアメリカ・イギリス・日本の主力艦の比率は5:5:3のはずであるが、開戦時に計画のあった通りであれば日本の戦艦数はアメリカの1/3、イギリスの1/2、もし先の比率にあてはめるならば、10:6:3に近い物になる。</ref>。逆に航空母艦では就役・建造中の物が一番多かった事<ref group="注釈">航空母艦の数では日本はアメリカの2倍、イギリスの1.5倍に迫る艦艇数を就役又は建造中であった。</ref>。開戦後に日本の商船を改造した軽空母の全てが空母へ改造する事を前提として設計され<ref group="注釈">航空母艦と一般の船舶が構造的に大きく違う理由は飛行甲板ではなく格納庫の存在にある。中には柱や構造壁を造る事を許されず、上部構造物の全てを外壁側で支えられる、つまりその基礎とも言える船体自体もその荷重配分に耐えられる様に設計する必要があり、エレベーターと言う巨大な開口部が船体下層まで貫通していても大丈夫なように強度を増し、更に煙突を船体の側部に変更出来なければならない、これは骨格構造を持つ動物と外郭構造のカニぐらい全く違う設計が必要になる。そのような事から航空母艦への改造を想定していない船舶の場合は新造するのに匹敵するぐらいの時間が掛るのである、例を上げると正規空母の「[[大鳳 (空母)|大鳳]]」が新造で1年8カ月、「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」・「[[天城 (雲龍型空母)|天城]]」・「[[葛城 (空母)|葛城]]」が1年10カ月に対して[[軽空母]]の「[[神鷹 (空母)|神鷹]]」(貨客船「シャルンホルスト」)は1年4カ月、「信濃」(大和型戦艦)は紆余曲折があったにせよ2年5カ月も掛っている。逆に「[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]」や「[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]」は9カ月、「[[大鷹 (空母)|大鷹]]」に到ってはわずか5カ月で改装が完了している</ref>、国から補助金を出し建造されていた事。昭和16年11月、つまり開戦以前から戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先を決定し、大型艦の建造計画が中止になった事。この動かしようのない事実から分かるのは、開戦の数年前から海軍上層部では航空主兵論が優勢を占め始めており、帝国海軍においては大艦巨砲主義を声高に唱えているのは一部の者だけ、もしくはその意見は取り入れる価値が無いと判断されたと言う事である。 |
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そして、[[大和型戦艦]]や[[瑞鳳型航空母艦|潜水母艦]]、改造空母となる商船の起工日に予算経常及び設計に掛る時間を加味して考えると、[[第一航空戦隊]]初代司令官だった[[高橋三吉]]が[[連合艦隊司令長官]]に就任した頃に大艦巨砲主義から少しずつ舵を切り始め、[[山本五十六]]が海軍次官、[[米内光政]]が連合艦隊司令長官、もしくは[[海軍大臣]]であった頃に航空主兵へと大きく変貌を遂げたと推察される。<ref group="注釈">高橋三吉は「艦隊派」で生粋の鉄砲屋であったものの、一航戦司令官時代には「[[赤城 (空母)|赤城]]」艦長の山本とタッグを組んでおり、連合艦隊司令長官時代には大和型戦艦の計画を再考するよう進言しており、「軍令部の意向に反して自分の経験だけで計画に横槍を入れるとは、連合艦隊司令長官はそんなに偉い立場なのか」と反論されている。また、高橋三吉が連合艦隊司令長官であった大和型戦艦を含む「[[マル3計画]]」から開戦前に空母建造を含む最後の計画「[[マル急計画]]」までの建造費用では戦艦2隻で約2億7,000万円、空母は7隻でその倍以上となる約5億8,000万円が費やされた。尚、艦艇及び商船から改造された10隻の空母の徴用・改造費用まで含めればその差は3倍以上となる。「マル急計画」以降、つまり開戦後に計画された天城以下7隻(竣工及び起工済み)の正規空母に、護衛空母(空母類似艦)まで含めるとその差は6倍に届く勢いである。</ref> |
そして、[[大和型戦艦]]や[[瑞鳳型航空母艦|潜水母艦]]、改造空母となる商船の起工日に予算経常及び設計に掛る時間を加味して考えると、[[第一航空戦隊]]初代司令官だった[[高橋三吉]]が[[連合艦隊司令長官]]に就任した頃に大艦巨砲主義から少しずつ舵を切り始め、[[山本五十六]]が海軍次官、[[米内光政]]が連合艦隊司令長官、もしくは[[海軍大臣]]であった頃に航空主兵へと大きく変貌を遂げたと推察される。<ref group="注釈">高橋三吉は「艦隊派」で生粋の鉄砲屋であったものの、一航戦司令官時代には「[[赤城 (空母)|赤城]]」艦長の山本とタッグを組んでおり、連合艦隊司令長官時代には大和型戦艦の計画を再考するよう進言しており、「軍令部の意向に反して自分の経験だけで計画に横槍を入れるとは、連合艦隊司令長官はそんなに偉い立場なのか」と反論されている。また、高橋三吉が連合艦隊司令長官であった大和型戦艦を含む「[[マル3計画]]」から開戦前に空母建造を含む最後の計画「[[マル急計画]]」までの建造費用では戦艦2隻で約2億7,000万円、空母は7隻でその倍以上となる約5億8,000万円が費やされた。尚、艦艇及び商船から改造された10隻の空母の徴用・改造費用まで含めればその差は3倍以上となる。「マル急計画」以降、つまり開戦後に計画された天城以下7隻(竣工及び起工済み)の正規空母に、護衛空母(空母類似艦)まで含めるとその差は6倍に届く勢いである。</ref>--> |
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== 批判 == |
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森雅雄は、「大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しな かったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は帝国海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判は[[イデオロギー]]である」と批判している<ref>森雅雄「[http://jiu.ac.jp/books/bulletin/2012/human/01_mori.pdf イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」]城西国際大学紀要 21(3), 1-13, 2013-03</ref>。 |
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== 注釈 == |
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== 出典 == |
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== 参考文献 == |
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* 戦史叢書(朝雲新聞社)各巻、特に「海軍軍戦備(1)、(2)」 |
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* 世界の艦船(海人社)各号、特に増刊「第二次大戦の軍艦」シリーズ、「各国戦艦史」シリーズ |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2018年5月20日 (日) 03:22時点における版
この記事には出典不明・独自研究の記述が多数存在します。5月12日までに出典が明記されなかった記述は削除・修正されます。詳細はノート:大艦巨砲主義において。 |
大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、近代戦艦発祥以降に醸成された概念で、簡単に言えば「より大きな船体に、より大きな主砲を積んだ戦艦こそ優越する」というものである。
戦艦が海軍の主力であった時代の根幹を形成する概念であり、当時の列強各国は競うようにより大型・より大口径主砲を搭載した主力艦の建造・保有に邁進していった。
語源
実のところ、日本を除く諸外国においては「大艦巨砲主義」を明示した概念・用語は存在しないか、あるいは適用頻度が極めて限定されたものである。列強各国が大艦巨砲を求めて戦艦を建造していたことは事実であるが、これを用語として明確に定義した形跡は乏しい。 すなわち、「大艦巨砲主義」なる用語は基本的には日本国内においてのみ専ら流布したものである。
歴史
この用語が登場するのは、日本海海戦によって戦艦こそ決戦兵器であるとの認識が確立し、折しも戦艦の進化を根本から変容する革命的戦艦「ドレッドノート」が就役してからのことである。特に超弩級戦艦に発展し、船体の大きさにも主砲口径にも歯止めがかからなくなった頃に確立したと考えられ、大正年代以降の本邦新聞上に頻出するようになった。
例:報知新聞(1913.7.13号「大益々大を加う : 各国努型艦の比較」)、時事新報(1916.4.27号「米国の海軍力」)等
明治以前の状況を見ると、幕末には「大艦」と「巨砲」を対句として連想する下地ができていたと考えられ、佐久間象山が嘉永六年六月二十九日付で記した書簡にて「彼れに大艦あらば我も亦た大艦を作るべし、彼に巨砲あらば我も亦巨砲を造るべし」と述べている[1]等、複数の洋学者が二語を対句として用いた記録が残されている。
大正時代
上述の通り、「大艦巨砲主義」が頻出し始めたのは大正年代以降である。この時代は過熱する建艦競争の中、列強各国がいずれも超弩級艦数十隻を建造せんとする巨大計画を相次いで発表・実行しており、単なる軍事の範疇に留まらず、国家財政や社会動勢にまで影響を及ぼす事態となっていた(現実に、英独の建艦競争は第一次世界大戦の遠因の一つに数えられている)ため、情勢分析に外せない用語として論文や新聞紙上を賑わせていた。
世界大戦終結~海軍休日
世界大戦終戦後も、大きく国力を伸ばした日米を中心に建艦競争が続く事態は、戦後復興のための財源を求める他国はもとより、当の両国ですら増大する一方の財政負担を懸念しており、国際的な規制により歯止めをかける機運が急速に醸成された。
数度にわたって開催された軍縮会議と締結された各条約は列強各国の海軍軍備を質量ともに制限するものとなり、「海軍休日」時代が訪れる。
戦艦の性能や量が定められたこの時期においては「大艦巨砲主義」は発展しようもなく、用語としての適用は時代遅れ、代替手法の模索などといった否定的な使われ方が多くなっている。
例:時事新報(1920.12.11号「潜水艦か戦艦か」)、東京朝日新聞(1926.5.2号「大艦巨砲に代る小艦多数主義」)等
無条約時代
欧州では先の大戦で敗北したドイツがポケット戦艦「ドイチュラント」号を起工したことを皮切りに、1932年でワシントン条約の建造制限から脱した仏伊が新戦艦建造に動き出した。1937年からはワシントン条約が期限切れになったことで、残る日米英も戦艦建造が可能となり、再び建艦競争がスタートする。
このとき、第二次ロンドン条約が米英仏三国間で締結され、各国の戦艦は当初3万5千トン、主砲口径14インチの制限が課せられており、大艦巨砲は当初より発展の余地を奪われていた。また英独海軍協定も別に結ばれたため、各国が計画・起工した新戦艦第一陣は概ねこの軛に依っている(仏伊が起工した戦艦は同条約締結前のものであるため15インチ主砲を採用している)。
ただし同条約にはエスカレーター条項が設けられており、締結国以外の国が規定された性能以上の戦艦を建造すると察知された場合は、基準排水量4万5千トン、主砲口径16インチまでの拡大を認められた。アメリカは直ちに同項を適用して「ノースカロライナ」級戦艦の主砲を14インチから16インチに改め、また「アイオワ」級戦艦では排水量も4万5千トンに拡大している。イギリスは仏独伊三国の建艦競争に追随するために第一陣「キング・ジョージ5世」級戦艦は当初制限のままで建造し、同項適用は第二陣「ライオン」級戦艦まで待つこととした。
これらの動きは日本でも当然予想されていた。当時の記事として時事新報(1936.1.18-19号「建艦競争は宿命」)から引用すると、
「日米英の何れかが右の七大戦艦(引用者註:日本の長門型、アメリカのメリーランド級、イギリスのネルソン級)より小さい従って弱い戦艦を建造するならばそれは馬鹿気きったことである
艦隊の主力をみすみす敵の主力より弱いものにする海軍政策はあり得ない
そこで尨大な費用を要する主力艦であるから成るべく大きいものを作りたくないと云う財政上の註文があっても世界一流の海軍国たる為めには少くとも前掲の七大戦艦と同等のものを作らねばならない」とし、
「日米英の懐ろにも限りがある、恐らく二十吋六万噸になる迄に、各国一様に悲鳴をあげ、真剣に軍縮会議が要求されて来るに違いない
だがそうした悲鳴をあげる迄は競争の結果主力艦が次第に大きくなるのは制御出来ないことである」
と、ある程度までは大艦巨砲主義の発展は止まらないだろうと考えられていた。実際に日本はほぼこの文中の数字に合致する6万4千トン、18インチ主砲の大和型戦艦を建造するのである。また米・独・ソにおいても6万トン級の巨大戦艦が実際に構想・計画され、具体化のスケジュールも動き出していた。
第二次世界大戦~大艦巨砲主義の終焉
この節の加筆が望まれています。 |
日本海軍における大艦巨砲主義
日本海軍では、日露戦争時の日本海海戦で大艦巨砲と艦隊決戦を至上とする考え方が確立された(海戦要務令)。なお、これは当時としては日本海軍に限ったものではない。その後も太平洋戦争後半期まで軍令・戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる敵艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、空母・巡洋艦・駆逐艦等は脇役に過ぎなかった。
しかし日本海軍は太平洋戦争における真珠湾攻撃など緒戦の航空戦で、主役である戦艦を出す前の「露払い」としての航空機が予想以上の戦果を出し、第一航空艦隊(南雲機動艦隊)は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた航空主兵論が勢いを増した[2]。航空主兵論は戦艦無用論も含み当時極端とも見られたが太平洋戦争の経過がその見通しがほぼ正しかったことを証明した。航空関係者が嘆いていたのは大艦巨砲主義の下で作られる戦艦の建造費、維持費など莫大な経費が浪費される割にほぼ戦局に寄与しないことであり、それを航空に回せばより強力なものができると考えていたためである[3]。
1942年(昭和17年)4月28日及び29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀源田実中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦「大和」をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた[4]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[5]。
海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、ミッドウェー海戦での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認め、航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備計画のみで施策、実施などまで徹底していなかった。国力・工業力共に不十分な日本では航空と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったがそこまで行うことができなかった。第三艦隊は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で制空権を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった[6]。
1943年(昭和18年)第三段作戦計画発令で連合艦隊作戦要綱を制定発令し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた[7]。1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく大艦巨砲主義が終焉を迎え、機動部隊が最重要視されることとなった。
その機動部隊と(陸上)基地航空兵力は、ギルバート・マーシャル諸島の戦い、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した小沢機動部隊にもはや攻撃力はなく、囮部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」が航空攻撃によって撃沈された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され(坊ノ岬沖海戦)、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。
戦後、航空主兵論者だった源田実(戦中は海軍大佐、戦後は航空自衛官となり幕僚監部で部長)は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている[8]。
また、砲術の大家であった黛治夫大佐のように、大艦巨砲が航空主兵に敗れてなお「戦前の想定どおり、砲撃主体の艦隊決戦を挑むべきであった」と生涯主張し続けた大艦巨砲主義者もいた。
批判
森雅雄は、「大艦巨砲主義や航空優位思想の意味は多義的なもので検証に耐えるものではなく、決戦に備えて戦艦を使用しなかったという語りも、事実は、或いは使用され或いは使用されようとし或いは戦艦としては見捨てられて使用されなかったのであり、機動部隊の建制化も重要な意味を持たない上に、アメリカ海軍が高速空母部隊を創設した時期は帝国海軍も聯合機動部隊の発令をした時期であり、この批判はイデオロギーである」と批判している[9]。
派生
この語は、比喩として用いられることもある。
大辞泉(小学館)では定義を「(比喩的に)大きな組織や大掛かりな設備が、強い競争力をもつとする考え方。大きすぎて柔軟性を欠き、小回りの利かないところを冷やかして言うこともある。」としており、どちらかと言えば否定的なニュアンスで用いられる用語となる。
注釈
出典
- ^ 『象山全集』巻四 書簡 p.157
- ^ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
- ^ 奥宮正武『大艦巨砲主義の盛衰』朝日ソノラマ344-347頁
- ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫111-113頁
- ^ 戦史叢書95海軍航空概史268頁
- ^ 戦史叢書95海軍航空概史269-270頁
- ^ 戦史叢書95海軍航空概史348頁
- ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社300頁、源田實『海軍航空隊、発進』文春文庫185頁
- ^ 森雅雄「イデオロギーとしての「大艦巨砲主義批判」城西国際大学紀要 21(3), 1-13, 2013-03
参考文献
- 戦史叢書(朝雲新聞社)各巻、特に「海軍軍戦備(1)、(2)」
- 世界の艦船(海人社)各号、特に増刊「第二次大戦の軍艦」シリーズ、「各国戦艦史」シリーズ