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「津綟子」の版間の差分

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[[File:津綟子肩衣全体.jpg|thumb|津綟子肩衣全体(三重県総合博物館蔵・県指定文化財)]]
{{画像提供依頼|織物|date=2017年5月|cat=津市}}
'''津綟子'''(つもじ)は、現在の[[三重県]][[津市]]安濃地域周辺で[[明治]]ごろまで[[絡み織|綟り織]](もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる[[織物]]である。夏の衣料に適している。材料として麻([[アサ]]または苧麻([[カラムシ]]などが使われた。現存するものは[[三重県立博物館]]に[[有形文化財]]として収められた肩衣など、数点のみである
'''津綟子'''(つもじ)は、[[三重県]][[津市]][[安濃町|安濃]]地域周辺で、遅くとも[[江戸時代]]初期から[[明治時代]]まで[[綟り織]](もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる[[織物]]である。夏の衣料に適している。[[将軍家]]・[[大名]]への献上品・進物品とされたり、庶民の普段着として幅広く着られた。材料として[[アサ|麻]]または[[カラムシ|苧麻]]などが使われた。


2021年現在、現存が確認されているものに、肩衣([[三重県総合博物館]]蔵1点、[[四日市市楠町郷土資料館]]蔵1点)、襦袢地([[安濃町]]、浅生家)、つもじ布切れ([[安濃町]]古川家)、黒羽織([[津市安濃郷土資料館]])がある。
歴史上いつごろから生産が始まったか不明だが、16世紀末の文献に名前が見られるようになる。[[江戸時代]]初期の俳書『[[毛吹草]]』([[1645年]])に「阿野、津戻(つもぢ)肩衣に之を用」とあり、江戸時代を通して全国に広く用いられたことが分かる。しかし[[綿織物]]が盛んになるにつれて次第に衰退した。明治期には綿を使ったが、大正にはその需要も衰えた。21世紀に入り、技術の復元が試みられている。


2009年頃から、地元グループが津綟子を再現しようと活動している。
==特徴==
綟り織は絡み織(からみおり)とも呼ばれ、緯(よこ)糸に対して経(たて)糸をねじって絡ませながら織って行くので隙間ができる。通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の[[肩衣]](かたぎぬ)、[[帷子]](かたびら)、[[袴]](はかま)などに使用されたほか、[[蚊帳]](かや)としての用途もあった。


== 特徴 ==
三重県の重要文化財に、津綟子肩衣(つもじかたぎぬ)があり、経糸に精緻に製糸された苧麻(ちょま)糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ布の反対側が透けて見えるほど細かい隙間が生じている<ref>三重県立博物館・杉谷政樹「[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=570 第26話 有形文化財・津綟子肩衣]」(2009年2月27日)『歴史の情報蔵』県史編さん班、三重県。2017年10月17日閲覧。</ref>。
[[File:津錑子肩衣アップ8(三重県総合博物館所蔵).jpg||thumb|津錑子肩衣(三重県総合博物館蔵)。布の向こうが透けて見えている。]]
綟子とは織物組織の一種で搦み織ともよばれる。織り方の原理は2本の経糸が緯糸をはさんで綟る(ねじる)ようにして織られる。そのため織り目に一定の整然とした隙間が生じるようになり通気性が良い。現在の[[レース]]や[[カーテン]]地、[[漁網]]などの網にもこの方法が用いられている<ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 通史編 |publisher=安濃町 |date=1999-10 |page=300 |isbn=}}</ref>。

津綟子は、[[江戸時代]]には全国的にも名産として「津綟子」「伊勢綟子」と呼ばれていた<ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 通史編 |publisher=安濃町 |date=1999-10 |page=298 |isbn=}}</ref>。

[[三重県]]の県指定文化財(工芸品)に、「津綟子肩衣」があり、経糸に精緻に製糸された[[苧麻]]糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ、非常に細かい隙間が生じている<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p2">{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=2 |isbn=}}</ref>。

通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の肩衣(かたぎぬ)、[[帷子]](かたびら)、[[袴]](はかま)、[[素襖]](すおう)などに使用されたほか、[[蚊帳]](かや)としての用途もあった<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p2"/>


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 津綟子のはじまり ===
[[太閤検地]]に関する文禄3年([[1594年]])の資料に、「綟子屋年貢仲間上納仕」とあり、すでに16世紀末には生産が行われていたことが確実とされる。正保3年([[1646年]])の取引資料に「合綟子四拾也、右之代百六拾目也、清水もじや四郎兵へ殿まいる」とあり、旧・[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]に属する清水村(現・津市安濃町清水)からの納入を示す。この「もじや四郎兵衛」は後に「古川家」として栄えた一家で、明治末に廃業するまで続いている。明暦2年([[1656年]])の『勢陽雑記』に「綟子は安濃郡の村々、安濃、内多、太田などいふ村にて織ることを専らとす、津八町、清水村にて染めることを得たり」と、生産の広がりを表す。
いつ頃から生産が始まったのかは詳細は不明だが、文献に見える最古の記録は1713年([[正徳]]3年)の資料『綟職につき八町太兵衛願書写』に、1594年([[文禄]]3年)の[[太閤検地]]に関して「綟子屋年貢仲間上納仕」とあり、すでに16世紀末にはかなり生産が行われていたことが確実とされる<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=3頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=45頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 資料編 |publisher=安濃町 |date=1994-12-20 |page=309 |isbn=}}</ref>。


1646年([[正保]]3年)の取引資料『走井土佐守綟子代銀請取覚』に「合綟子四拾也、右之代百六拾目也、清水もしや四郎兵へ殿まいる」とあり、旧・安濃郡に属する清水村(現・[[津市]][[安濃町]]清水)からの納入が示されている<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=44 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 資料編 |publisher=安濃町 |date=1994-12-20 |page=308 |isbn=}}</ref>。この「もじや四郎兵衛」は後に「御用綟子屋」として栄えた古川家で、明治時代末に廃業するまで続いていた。
天和2年([[1682年]])、古川家の『事歴覚案』に「御献上、御肩衣、御蚊帳の儀は、天和二戌年、四代前四郎兵衛に始て仰せ付けらる」とある。四代とあることから、1代25年と計算しても、[[1580年]]ごろにはすでに生産が定着し、「もじや四郎兵衛」が存在していたことが伺われる。また「献上」とあるのは津藩への献上と考えられ、すでに古くから藩に献上していたことが分かる。貞享2年([[1685年]])、同じ『時歴覚案』に「将軍家露姫、紀伊中将への結婚祝いとして(中略)萌黄に立浪之ちらし模様に仰せ付けられ(中略)祖父四郎兵衛相勤め、首尾よく差上げ申し候。夫より御綟子屋と唱来申し候」うんぬんと、将軍家へも納入していた。各地大名からの注文に応じた記事もあり、津綟子は全国へ普及していった。


1656年([[明暦]]2年)の『勢陽雑記』には、「綟子は安濃郡の村々、村主、阿濃、内田、太田などいふ村にて織ることを専とす。津八町 清水村にて染むる事を得たり」とあり生産の広がりがわかる<ref>{{Cite book|和書|author=山中為綱 |title=勢陽雑記 |publisher=三重県郷土資料刊行会 |date=1968-10-15 |page=101 |isbn=}}</ref>。
しかし幕末の安政2年([[1855年]])になると御用の量が半減し、文久2年([[1862年]])には木綿の進出で生産が激減する事態となった。明治6年([[1873年]])の記事によれば「御献上廃止、休業同様、年貢上納勤め難く」とある。明治14年([[1881年]])には、綿糸を使った津綟子の記事が見られ、やむをえず綿糸に移行していったことが分かる。


=== 藩への献上 ===
[[明治]]期に入ると綿を使った津綟子の生産が行われたらしく、[[羽織]]、[[襦袢]]、[[手ぬぐい]]、肌着などの用途が見られるようになったものの、[[大正]]年間の文書には「今、需要減じて昔時の如く用いぬ」とされている。
古川家の『御用綟子等につき事歴覚案』に「御献上、御肩衣・御蚊帳の儀は、天和二戌年、四代前四郎兵衛に始て仰せ付けらる」とある<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p66">{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=66 |isbn=}}</ref><ref name="安濃町史資料編p330">{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 資料編 |publisher=安濃町 |date=1994-12-20 |page=330 |isbn=}}</ref>。4代とあることから、1代25年と計算しても、1580年ごろにはすでに生産が定着し、「もじや四郎兵衛」が存在していたことが伺われる。また、「御献上」とあるのは津藩から将軍家・大名家への献上と考えられ、すでに古くから藩に献上していたことが分かる。そしてこの年将軍家への最初の藩献上があったという記録が『宗国史』にある。


1685年([[貞享]]2年)、同じ『事歴覚案』に「鶴姫様江先年御蚊帳被為進候染色萌黄ニ立浪之ちらし模様ニ被為仰付、三代前祖父四郎兵衛相勤首尾能差上申候処、(中略)夫より御綟子屋与唱来り申候」と、将軍家へも納入していた<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p66"/><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=5頁 |isbn=}}</ref><ref name="安濃町史資料編p330"/>。各地大名からの注文に応じた記事もあり、このころから津綟子は全国へ普及していった。
その後ほとんど忘れ去られていたが、近年、地元グループの努力で復元の試み がされつつある<ref>[http://blog.comb-de-shio.com/?p=1125 染色グループ「しおり」作品展]</ref>。


1865年([[慶応]]元年)の『綟職衰微につき年賦売下げ願』によると御用の量が半減し<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=18頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=62頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 資料編 |publisher=安濃町 |date=1994-12-20 |page=326 |isbn=}}</ref>、1862年([[文久]]2年)の『御用綟売買・織方につき願書写』には[[木綿]]の進出で生産に携わるものが減ってきたことが記されている<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=18頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=65頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=安濃町史編纂委員会 |title=安濃町史 資料編 |publisher=安濃町 |date=1994-12-20 |page=329 |isbn=}}</ref>。
== 参考文献 ==
*三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』(20103
*三重県「歴史の情報庫」[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=570 有形文化財・津綟子肩衣]
*三重県立博物館 [http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/tsumoji.htm 津綟子肩衣]


== 脚注 ==
=== 綟子の制禁 ===
[[津藩]]は津綟子を扱う者たちに対して脇売や他所への搬出、御用以外に織ることの制禁を出した。それは、技術の流出防止や品質保持、[[幕府]]への献上・進物が重視されていたためだった。また、津綟子の織り方・技術が他の地域にもれることのにないようにしていた<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=12 |isbn=}}</ref>。
<references/>

=== 明治時代以降 ===
1873年([[明治]]6年)の『綟子織上納之義ニ付嘆願』に「御献上廃止休業同様、年貢上納勤難」とある<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=20頁,写真11 |isbn=}}</ref>。[[明治時代]]中頃から海外から安い[[綿糸]]が輸入され始め、また、木綿などの綿製品は機械化による大量生産が可能になったことで、農村部でも安価でこれら既成の衣料を入手できるようになると、津綟子も[[カラムシ|苧麻]]や[[アサ|麻]]から綿糸に移行し、生産を行っていったことが分かる<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=22 |isbn=}}</ref>。

1924年([[大正]]13年)の『津市案内記』には「今需要減じて昔時の如く用ひぬ。珍奇名産で史的趣味織物」とされている<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=26 |isbn=}}</ref>。

===津綟子の新発見===
2021年([[令和]]3年)、[[津市]][[芸濃町]]の旧家で津綟子の[[襦袢]]地(肌着用生地)が見つかった<ref>{{Cite news|title=津綟子の下着地 見つかる |newspaper=中日新聞 |page=朝刊広域三重版15頁 |date=2021-06-12 |author=坂田恵}}</ref><ref>{{Cite news|title=「津綟子」織物見つかる |newspaper=伊勢新聞 |page=15 |date=2021-06-03 |author=川村裕子}}</ref>。幅33センチメートル、長さ533センチメートルの男性用と思われる肌着1着分に相当する。「河邉清右衛門」と書かれた販売元の[[商標]]がついており、商標付きのものの発見ははじめてである。[[明治時代]]後半につくられ、21世紀初頭に現存する数例の津綟子の中では最後期にあたる。文庫紙には「津綟子御襦袢地」と記載がある。
<gallery>
ファイル:Tsumoji jyubanzi.jpg|サムネイル|津綟子襦袢地(肌着用生地)(個人蔵)
File:津錑子襦袢地拡大5.jpg|サムネイル|津綟子襦袢地 表書き(個人蔵)
</gallery>

== 原材料 ==
[[File:苧麻アップ2.jpg||thumb|苧麻の茎。]]
津綟子の原料には主に[[カラムシ|苧麻]]や[[アサ|麻]]だけでなく、[[木綿]]や[[絹]]も用いられた。

しかし、[[安濃町]]に残る記録では苧麻・麻の栽培から糸作りにいたる過程に関する資料が未見で、実際にこの原材料が津の[[安濃川]]流域で栽培されていたのかという疑問もおこるほどだという記述もある<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=28 |isbn=}}</ref>。

== 製法・生産地 ==
津綟子は[[安濃川]]流域、特に[[美濃屋川]]沿いの旧安濃村域の村を中心につくられた。津綟子の生産にかかわった代表的な村は安濃、内多、村主、清水である。

村田陽子著『三重県の麻について』(2003年)によると、苧麻(カラムシ)は[[名張市]]・[[松阪市]]・[[鈴鹿郡]]・[[阿漕町]]等で栽培例がある<ref>{{Cite book|和書|author=日本家政学会民俗服飾部会 |title=民俗服飾研究論集 第16集 |publisher=日本家政学会民俗服飾部会 |date=2003-10-01 |page= |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=31頁,表3 |isbn=}}</ref>。栽培の記録は少なく長い期間のうちに記録が消失してしまったと考えられている。

[[木綿]]への原材料の移行は、御用の減少や町方商人との競合などにより麻織物から移行することとなったのであろうと考えられている。

=== 糸づくり ===
『第二回内国勧業博覧会解説』(明治14年)によると、原麻の繊維は硬いために油で柔らかくし、水に浸したあとに絞り、竹弓で何度も打ち、小雛を作り扱著で麻を撚り糸績み(いとうみ)をするなどの詳しい記述がある<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=34-35 |isbn=}}</ref>。

=== 織る ===
内多、安濃、村主で藩に納めるような御用綟子を、長岡、安濃、荒木などの村周辺で庶民らが着る並綟子を織っていたようで、御用綟子と並綟子は[[織元]]が分離していたことがわかっている<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p6">{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=6頁 |isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=69頁 |isbn=}}</ref>。
<gallery>
File:津錑子肩衣拡大3.jpg||thumb|津綟子肩衣 拡大(三重県総合博物館蔵)。経糸と横糸の太さが違うのがわかる。
File:津錑子黒羽織拡大3.jpg||thumb|津綟子黒羽織 拡大(安濃郷土資料館蔵)
File:津錑子襦袢地拡大2.jpg|thumb|津綟子襦袢地 拡大(個人蔵)
</gallery>

=== 染める ===
[[File:津錑子肩衣拡大5.jpg|thumb|津綟子肩衣 紋部分拡大(三重県総合博物館蔵)]]
清水村では織元で織られた綟子を仕入れ、[[染付]]して製品化していたようだ<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=8 |isbn=}}</ref>。なお、御用綟子以外の[[染色]]については、元禄年間頃から他所染めが出始め、御用綟子屋や綟子屋仲間以外でも染色されていた<ref name="三重県伝統染織研究会2010,p6"/>。

安濃郡産製の[[藍]]を用いて[[藍染]]をしていたものが多かった<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=37 |isbn=}}</ref>。昭和初期とされる鈴木敏雄「津綟子雑考」によれば、天保から明治以前は優美なものが多く、それ以降は白地中心で無地や紺もあったという。縞もじは[[銘仙]]のようなもので糸染めをし、[[捺染]]、[[友禅染]]と大差なく白無地に肉筆のものも出ているという<ref>{{Cite book|和書|author=三重県伝統染織研究会 |title=津綟子 ―歴史に見る郷土の技― |publisher=三重県伝統染織研究会 |date=2010-03-01 |page=38 |isbn=}}</ref>。

== 出典 ==
<references />

== 参考文献 ==
*安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』、安濃町、1999年10月30日
*浅生悦生,三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』、三重県伝統染織研究会、20100301日
*坂田恵「津藩の名産品『幻の織物』 津綟子の下着地 見つかる」、中日新聞、朝刊2021年06月12日15面
*川村裕子「『津綟子』織物見つかる」、伊勢新聞、2021年06月03日15面
*ゲンキみえ「幻の布を今によみがえらせる!『染織グループ しおり』」、ゲンキ3ネット、2014年08月03日
*安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』、安濃町、1994年12月20日
*山中為綱『勢陽雑記』、三重県郷土資料刊行会、1968年10月15日


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2021年12月13日 (月) 10:28時点における版

津綟子肩衣全体(三重県総合博物館蔵・県指定文化財)

津綟子(つもじ)は、三重県津市安濃地域周辺で、遅くとも江戸時代初期から明治時代頃まで綟り織(もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる織物である。夏の衣料に適している。将軍家大名への献上品・進物品とされたり、庶民の普段着として幅広く着られた。材料としてまたは苧麻などが使われた。

2021年現在、現存が確認されているものに、肩衣(三重県総合博物館蔵1点、四日市市楠町郷土資料館蔵1点)、襦袢地(安濃町、浅生家)、つもじ布切れ(安濃町古川家)、黒羽織(津市安濃郷土資料館)がある。

2009年頃から、地元グループが津綟子を再現しようと活動している。

特徴

津錑子肩衣(三重県総合博物館蔵)。布の向こうが透けて見えている。

綟子とは織物組織の一種で搦み織ともよばれる。織り方の原理は2本の経糸が緯糸をはさんで綟る(ねじる)ようにして織られる。そのため織り目に一定の整然とした隙間が生じるようになり通気性が良い。現在のレースカーテン地、漁網などの網にもこの方法が用いられている[1]

津綟子は、江戸時代には全国的にも名産として「津綟子」「伊勢綟子」と呼ばれていた[2]

三重県の県指定文化財(工芸品)に、「津綟子肩衣」があり、経糸に精緻に製糸された苧麻糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ、非常に細かい隙間が生じている[3]

通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の肩衣(かたぎぬ)、帷子(かたびら)、(はかま)、素襖(すおう)などに使用されたほか、蚊帳(かや)としての用途もあった[3]

歴史

津綟子のはじまり

いつ頃から生産が始まったのかは詳細は不明だが、文献に見える最古の記録は1713年(正徳3年)の資料『綟職につき八町太兵衛願書写』に、1594年(文禄3年)の太閤検地に関して「綟子屋年貢仲間上納仕」とあり、すでに16世紀末にはかなり生産が行われていたことが確実とされる[4][5][6]

1646年(正保3年)の取引資料『走井土佐守綟子代銀請取覚』に「合綟子四拾也、右之代百六拾目也、清水もしや四郎兵へ殿まいる」とあり、旧・安濃郡に属する清水村(現・津市安濃町清水)からの納入が示されている[7][8]。この「もじや四郎兵衛」は後に「御用綟子屋」として栄えた古川家で、明治時代末に廃業するまで続いていた。

1656年(明暦2年)の『勢陽雑記』には、「綟子は安濃郡の村々、村主、阿濃、内田、太田などいふ村にて織ることを専とす。津八町 清水村にて染むる事を得たり」とあり生産の広がりがわかる[9]

藩への献上

古川家の『御用綟子等につき事歴覚案』に「御献上、御肩衣・御蚊帳の儀は、天和二戌年、四代前四郎兵衛に始て仰せ付けらる」とある[10][11]。4代とあることから、1代25年と計算しても、1580年ごろにはすでに生産が定着し、「もじや四郎兵衛」が存在していたことが伺われる。また、「御献上」とあるのは津藩から将軍家・大名家への献上と考えられ、すでに古くから藩に献上していたことが分かる。そしてこの年将軍家への最初の藩献上があったという記録が『宗国史』にある。

1685年(貞享2年)、同じ『事歴覚案』に「鶴姫様江先年御蚊帳被為進候染色萌黄ニ立浪之ちらし模様ニ被為仰付、三代前祖父四郎兵衛相勤首尾能差上申候処、(中略)夫より御綟子屋与唱来り申候」と、将軍家へも納入していた[10][12][11]。各地大名からの注文に応じた記事もあり、このころから津綟子は全国へ普及していった。

1865年(慶応元年)の『綟職衰微につき年賦売下げ願』によると御用の量が半減し[13][14][15]、1862年(文久2年)の『御用綟売買・織方につき願書写』には木綿の進出で生産に携わるものが減ってきたことが記されている[16][17][18]

綟子の制禁

津藩は津綟子を扱う者たちに対して脇売や他所への搬出、御用以外に織ることの制禁を出した。それは、技術の流出防止や品質保持、幕府への献上・進物が重視されていたためだった。また、津綟子の織り方・技術が他の地域にもれることのにないようにしていた[19]

明治時代以降

1873年(明治6年)の『綟子織上納之義ニ付嘆願』に「御献上廃止休業同様、年貢上納勤難」とある[20]明治時代中頃から海外から安い綿糸が輸入され始め、また、木綿などの綿製品は機械化による大量生産が可能になったことで、農村部でも安価でこれら既成の衣料を入手できるようになると、津綟子も苧麻から綿糸に移行し、生産を行っていったことが分かる[21]

1924年(大正13年)の『津市案内記』には「今需要減じて昔時の如く用ひぬ。珍奇名産で史的趣味織物」とされている[22]

津綟子の新発見

2021年(令和3年)、津市芸濃町の旧家で津綟子の襦袢地(肌着用生地)が見つかった[23][24]。幅33センチメートル、長さ533センチメートルの男性用と思われる肌着1着分に相当する。「河邉清右衛門」と書かれた販売元の商標がついており、商標付きのものの発見ははじめてである。明治時代後半につくられ、21世紀初頭に現存する数例の津綟子の中では最後期にあたる。文庫紙には「津綟子御襦袢地」と記載がある。

原材料

苧麻の茎。

津綟子の原料には主に苧麻だけでなく、木綿も用いられた。

しかし、安濃町に残る記録では苧麻・麻の栽培から糸作りにいたる過程に関する資料が未見で、実際にこの原材料が津の安濃川流域で栽培されていたのかという疑問もおこるほどだという記述もある[25]

製法・生産地

津綟子は安濃川流域、特に美濃屋川沿いの旧安濃村域の村を中心につくられた。津綟子の生産にかかわった代表的な村は安濃、内多、村主、清水である。

村田陽子著『三重県の麻について』(2003年)によると、苧麻(カラムシ)は名張市松阪市鈴鹿郡阿漕町等で栽培例がある[26][27]。栽培の記録は少なく長い期間のうちに記録が消失してしまったと考えられている。

木綿への原材料の移行は、御用の減少や町方商人との競合などにより麻織物から移行することとなったのであろうと考えられている。

糸づくり

『第二回内国勧業博覧会解説』(明治14年)によると、原麻の繊維は硬いために油で柔らかくし、水に浸したあとに絞り、竹弓で何度も打ち、小雛を作り扱著で麻を撚り糸績み(いとうみ)をするなどの詳しい記述がある[28]

織る

内多、安濃、村主で藩に納めるような御用綟子を、長岡、安濃、荒木などの村周辺で庶民らが着る並綟子を織っていたようで、御用綟子と並綟子は織元が分離していたことがわかっている[29][30]

染める

津綟子肩衣 紋部分拡大(三重県総合博物館蔵)

清水村では織元で織られた綟子を仕入れ、染付して製品化していたようだ[31]。なお、御用綟子以外の染色については、元禄年間頃から他所染めが出始め、御用綟子屋や綟子屋仲間以外でも染色されていた[29]

安濃郡産製のを用いて藍染をしていたものが多かった[32]。昭和初期とされる鈴木敏雄「津綟子雑考」によれば、天保から明治以前は優美なものが多く、それ以降は白地中心で無地や紺もあったという。縞もじは銘仙のようなもので糸染めをし、捺染友禅染と大差なく白無地に肉筆のものも出ているという[33]

出典

  1. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月、300頁。 
  2. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月、298頁。 
  3. ^ a b 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、2頁。 
  4. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、3頁頁。 
  5. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、45頁頁。 
  6. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』安濃町、1994年12月20日、309頁。 
  7. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、44頁。 
  8. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』安濃町、1994年12月20日、308頁。 
  9. ^ 山中為綱『勢陽雑記』三重県郷土資料刊行会、1968年10月15日、101頁。 
  10. ^ a b 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、66頁。 
  11. ^ a b 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』安濃町、1994年12月20日、330頁。 
  12. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、5頁頁。 
  13. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、18頁頁。 
  14. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、62頁頁。 
  15. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』安濃町、1994年12月20日、326頁。 
  16. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、18頁頁。 
  17. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、65頁頁。 
  18. ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』安濃町、1994年12月20日、329頁。 
  19. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、12頁。 
  20. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、20頁,写真11頁。 
  21. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、22頁。 
  22. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、26頁。 
  23. ^ 坂田恵 (2021年6月12日). “津綟子の下着地 見つかる”. 中日新聞: p. 朝刊広域三重版15頁 
  24. ^ 川村裕子 (2021年6月3日). “「津綟子」織物見つかる”. 伊勢新聞: p. 15 
  25. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、28頁。 
  26. ^ 日本家政学会民俗服飾部会『民俗服飾研究論集 第16集』日本家政学会民俗服飾部会、2003年10月1日。 
  27. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、31頁,表3頁。 
  28. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、34-35頁。 
  29. ^ a b 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、6頁頁。 
  30. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、69頁頁。 
  31. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、8頁。 
  32. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、37頁。 
  33. ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、38頁。 

参考文献

  • 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』、安濃町、1999年10月30日
  • 浅生悦生,三重県伝統染織研究会『津綟子 ―歴史に見る郷土の技―』、三重県伝統染織研究会、2010年03月01日
  • 坂田恵「津藩の名産品『幻の織物』 津綟子の下着地 見つかる」、中日新聞、朝刊2021年06月12日15面
  • 川村裕子「『津綟子』織物見つかる」、伊勢新聞、2021年06月03日15面
  • ゲンキみえ「幻の布を今によみがえらせる!『染織グループ しおり』」、ゲンキ3ネット、2014年08月03日
  • 安濃町史編纂委員会『安濃町史 資料編』、安濃町、1994年12月20日
  • 山中為綱『勢陽雑記』、三重県郷土資料刊行会、1968年10月15日