「軍服 (中華民国)」の版間の差分
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* [http://www.speercollection.com/ 制服帝國]{{ref-zh}}第二次世界大戦期の軍装を収集したサイト。国民革命軍の軍服もある。 |
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2018年2月11日 (日) 01:15時点における版
中華民国の軍服(ぐんぷく)とは、中華民国建国以降、中華民国軍で使用されている軍服である。
概観
中国の軍服は、列強諸国の進出により国土が租借地となったという複雑な背景を反映してか、様々な国の影響を受け独特の雰囲気を醸し出している。 その中でも、特にイギリスやドイツ、そして良くも悪くも最も身近な列強国であった日本の影響が強く見られる。 また、全体的に、国花である梅を意匠に盛り込んでいることも大きな特徴である。
礼装は如何にも中国らしく装飾をふんだんにあしらった絢爛豪華なものである一方、常服は比較的シンプルであり、場合によっては階級章や兵科章一切を取り外すこともあった。
第二次大戦後は、周辺諸国同様、三軍共にアメリカの影響を受けたものとなった。
なお、これまで軍装の改正を行う際は陸海空各軍個別に制定を出していたが、2007年11月9日の「陸海空軍服制條例」より三軍纏めて通達を出す事となった。
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北洋陸軍軍旗である九角十九星旗。1912年~15年ごろまでの帽章にもなった。
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1916年~1928年ごろの帽章
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現在までの帽章
前史
清朝の洋務運動の折、袁世凱は西洋式軍隊である新建陸軍を設立した。新軍の軍服は当初、昔ながらの民族衣装である馬褂ないし唐装を西洋風にアレンジした中洋折衷の軍服であった。東洋の服飾の特徴である袖の裾は機能性重視のため絞り、洋服のシャツやズボンと同様の長さになった。袖には階級を示す袖章が配され、ベルトやブーツ、サーベルなども取り入れた。
本格的な西洋式軍服が導入されたのは1905年であり、崩壊直前の1911年に再度改正がなされた。この時導入された制服の色はブルーグレーであり、以降長らくの間中国の軍服の色にブルーグレーが使われるきっかけとなった。
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湘軍兵士
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砲兵隊(1871年)
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新軍諸兵の軍装。左奥の2名は歩兵、前面が軍楽隊、腰掛けているのが砲兵。右奥は義和団(1899-1901年ごろ)
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新軍の士官(1900年前後)
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日清戦争前後ごろの高級軍官
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武衛軍(1900年ごろ)
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マンリッヒャーM1888を携行する新軍兵士
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義和団事件における兵士(1900年)
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行進中の新軍兵士(昆明、1903年)
光緖32年(1906年)制式
完全西洋式の階級と編成に合わせて1905年3月から試製洋装を導入し、調整を経て1906年4月には正式導入された。
常装は、試製品では日本海軍の第一種のように前ホック式の上衣で3つポケットがあるものであったが、正式導入では代わって帝政ドイツの「リテフカ」(Litewka)の影響を受けたと思われる上衣の前あわせが隠しボタンの簡素なものへと変更された。布地はカーキ色で、階級は袖に配された黒のパイピングとボタンで表された。その意匠は、日露戦争時の日本陸軍の戦時服を髣髴とさせる。
礼装は紺色で、上着はシングルとダブルの2種類が存在した。
制帽はケピ帽と従来の清風のものが存在した。調整期はケピ帽であったが、ドイツ式の官帽に変更された。この制帽は常装・礼装共通である。 将校の帽章は、二匹の龍が中央の宝玉を囲む意匠となっている[1]。憲兵のみ帽章が異なる[2]。
下士官兵の階級は礼装では袖口のパイピング、常服では上腕部にV字型の徽章。肩章には所属部隊を表記する。帽章は一匹の竜が前面を向いたデザイン。
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帽章が異なる。施従雲
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副参領(中佐に相当)。孫伝芳
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竜済光。
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演習中の砲兵(1910年)
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行進する歩兵ら
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礼装。黎元洪の着用していたもの。
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試製礼装(1905年)
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礼装の副参領(中佐に相当)。孫道仁。
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騎兵正軍校(大尉に相当、楊振鴻、1907年ごろ)
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礼装。何宗蓮
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礼装。軍衣は西洋風だが、帽子は清風。鳳山
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同じく礼装。全員短袴をはいている。
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同じく礼装。着色されているが、実際の色はもっと濃い。袁世凱。
宣統3年制式
宣統3年(1911年)3月9日[2]、常装に関する改正が実施された。これまで地味だった常装は、この改正でより洗練されたものとなった。上衣は上下ともに隠しポケット、生地の色はブルーグレー、ボタンは7つ。将校の場合、階級は襟と肩で表され、襟章は六芒星であらわされた階級章と、その上部の兵科章で構成された。兵科章には、アラビア数字で連隊もしくは大隊番号を表した隊号章が付く。帽章はより簡略化され、中央に宝玉を残すのみのものとなった。
このわずか半年後に辛亥革命が起こり清朝は崩壊したため、この軍服は全部隊に行き渡ることなく廃止された。しかし、民国建国後に新型軍服が導入・本格的な増産に至るまでの間、帽章を取り換えたのみで引き続き着用され続けた。そのため、この軍服は清朝崩壊後に着用する機会が増したという何とも皮肉な結果となった。
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副都統(中将に相当)。呉禄貞。
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協都統(少将)か。仇亮
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軍医たる協参領(少佐に相当)。伍連徳
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高級将校ら。これは民国成立後の写真だが、まだ新軍の軍服を着用しており、帽章も清朝時代のままである。
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こちらも民国成立後の写真だが、奥中央の人物(元・正都統、段祺瑞)は新軍の軍服を着用(1912年3月)
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帽章を十八星に換えているため、民国成立後の写真。襟章から、元・参領(佐官、革命後校官と呼称)クラスと推測される。孫毓筠
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参謀総長たる将官。 帽章を十八星に換えているため、民国成立後の写真。帽子は宣統3年制式、軍衣は光緖31年制式。黎元洪
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正都統。こちらも帽章を十八星に換えているため、民国成立後の写真。段芝貴
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正都統、馮国璋
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騎兵下士官
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陸軍貴胄学堂の教官ら。旧制式の制服を着用している人物も見受けられる。黒い襟は禁衛軍。後方は生徒。
禁衛軍
清帝室の近衛兵たる禁衛軍には、独自の軍服を採用された。1908年制式では、軍衣の地質は茶褐色、軍帽の鉢巻および襟は黒もしくは赤で、帽章・記章も独特の物であった。当時としては珍しい折り襟で、襟は黒。肩章は、通常部隊がドイツ式に対しロシア式であった。
1911年の改正後はドイツ式となり、カーキの軍衣で袖に赤いパイピングが入り、襟は布地と同色の詰襟となった。帽子は赤い鉢巻で、中央に金のパイピングが入る。
辛亥革命後も禁衛軍は存続され、軍服も1920年代まで使用されていたようである。
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禁衛軍の正都統。載涛
革命軍諸軍の軍装
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武昌起義における革命軍兵士ら(1911年)
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同じく武昌起義における革命軍の砲兵。
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上海光復軍将兵
北京政府の軍服(1912~1928年)
辛亥革命後の1912年(民国元年)5月12日、中華民国政府は北京に陸軍部を設置、それに伴い新たな軍服を制定した。軍服の形状および階級章は日本陸軍の明治39年以降の軍衣に酷似しているが、生地の色・ボタンの数はともに清朝時代のものを踏襲している。
上衣は日本の四五式同様、胸部物入は雨蓋付き、腰部物入は雨蓋無しだが、胸部物入はボタンが付かない。 また、上衣の袖および袴の外側には赤のパイピングが一本入る[3]。
襟章は五角形で、将官は金色。当初は建国直後の混乱のためか、将官でも赤であったり、日本軍と同じ「鍬型」となっているものも見受けられる。襟の兵科章には、隊号章として下士官兵は左側がアラビア数字、右側がローマ数字、将校は両襟ともローマ数字で表記された金属章を付ける。また、各兵種に属する者は隊号章とともにその兵種の頭文字を漢字で表記した銅製の襟部徽章を[4]、参謀は2つの棒を交互に組み合わせた意匠の襟部徽章を左側に付けた。
階級章は、下士官兵は赤の下地、将校は白地に金線。
軍帽は天井喰出に赤のパイピングが一本入る。鉢巻は軍衣の地質と同様だが、将官は鉢巻全体に金色のパイピングが入り、顎紐も金色となる。帽章は、武昌起義において湖北軍政府が掲げた「十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗)」をベースとして制定された陸軍軍旗である「九角十九星旗」を反映している。
当初、北洋政府は被服廠というものを持っておらず、民間への大量発注という形を取っており[5]、また依然として清朝代の軍服を着用している者も見受けられる。これらのことから、建軍当初の軍服はかなりばらつきがあった。
清代、被服廠は各地に分散されていた[6]。北洋政府は、これらの軍需工場を北京に集中させ、またドイツや日本から大量の製造機器を購入し、軍需工場の刷新を図った。まず、1912年9月、駐上海陸軍被服倉庫が設立。10月、清代の被服廠を解体・移転させて北京市内の米倉庫を接収し、11月、新たに被服廠を設立。また朝陽区老君堂と東城区灯市口にあった被服倉庫を合併し被服廠に併設させた。やや遅れて1914年(民国3年)4月に武昌南湖の旧軍の制革廠を受領、1915年(民国4年)11月、海淀区清河鎮にある旧軍の官営企業だった溥利呢革公司を受領し呢革廠を設置。同年、陸軍被服装具検査規則が制定され[7]、こうして軍服の製造システムが整えられた。
中華帝国成立後、帽章は日本陸軍と同様の五芒星へと変更された。袁世凱政権崩壊後、五色旗をモチーフとした黄・黒・白・青・赤で塗り分けられるようになった。
その後、北京政府は分裂し、軍閥割拠の時代へと突入した。ボタンやポケットの形状など、地域によって細部の差はあるが、後述の奉天閥を除き、全体的に似たり寄ったりで大きな変化はなかった。
やがて北伐完了により国民政府の折襟の軍服に取って代わられていくが、満州国陸軍がこれに酷似した軍装を継承していくことになる。
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大元帥独自の軍装。襟全体に金色の襟章がなされ、また肩章がロシア式となっている。袁世凱
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創成期の大将。軍帽鉢巻部のパイピングが規定と異なる。張培爵
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創成期の大将。襟章は日本軍と同じ「鍬型」。陳其美
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創成期の中将。襟章が「鍬型」。蔡済民
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創成期の大将。帽章が規定と異なるほか、襟章が鍬型。程徳全
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護国戦争における護国軍側指揮官ら
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中華帝国時代の帽章。(段祺瑞、1913年6月)
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段祺瑞別影。上衣のポケットは上下ともに雨蓋なし。(1917年)
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襟章変更後の大将。李烈鈞
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襟章変更後の大将。李烈鈞
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シベリア出兵における各国軍指揮官ら。大将(2列目左より4番目)および少将(前列右より2番目)は襟に参謀であることを示す徽章を付けている(1918年)
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憲兵将校(1922年)。上衣ポケットが胸部・腰部ともに雨蓋付きとなっている
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直隷派の大将。袴のパイピングが確認できる。呉佩孚、1921年
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安徽派の中将。張懐芝
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雲南派の少将。朱徳
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浙江督署参謀たる上校。胸に中国陸大卒業徽章が確認できる。(潘国綱、1914年前後)
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軍官候補生たる工兵中士。鄧演達
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直隷派・孫伝芳軍の兵士。
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外ポケットの後期のタイプ。1925年
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ダブルの上衣。馮国璋
礼装
北洋陸軍の礼装は、ドイツ式の強かった清代とは対照的にフランス式である。上衣は明るい水色でシングルの7つボタンにエポレットが付き、袖には柏葉型の装飾がつく。校官・尉官はエポレットの色が兵科色を表す。
袴は将官は上衣と同色、校官および尉官は黒で、いずれも側面に赤いパイピングが入る。
正帽は、将官はケピ帽、校官・尉官は黒のシャコー帽で、前立が付く。鉢巻部分の装飾は当初金色の草文様であったが、中華帝国崩壊後パイピングへと変更される。帽章は五色の星を菊花[8]が囲む。
奉天閥の軍服
ばらつきがあった軍閥の軍服のうち、最も独自の発展を遂げたのは奉天閥である。
制帽の鉢巻をはじめ、袖や袴のパイピングを一切配したシンプルなデザインとなっている。また、軍衣の胸と腰の物入れは貼り付け型が基本となり、ベルトはサム・ブラウン・ベルトを採用した。 正衣の意匠も独自のものであった。
これらの形式はのちの満州国軍に引き継がれる事となる。
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奉天閥の中将。郭松齢(1924年)
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奉天閥の少将。楊宇霆(1924年)
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奉天閥の中将。湯玉麟
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奉天閥の陸軍軍人ら。上着が外ポケットになっている。
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奉天閥の中将。万福麟
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東北陸軍耕武堂学生たる中士。李蘭池
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奉天閥の陸軍軍人ら。防寒帽を被っている者もいる。
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奉天派・張宗昌の直魯軍兵士ら。
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満州国閣僚の軍人。当時の日本陸軍軍服に外見はほぼ同一だが、左端軍人の上衣腰ポケット蓋にボタンがある。
国民党下の軍服(1924~1945)
1924年、黄埔軍官学校の開校に伴い、制服として中山服が採用された。この学校自体、護法軍に変わり新たな軍隊を再編するためのものだったため、必然的にこの制服が国民革命軍の軍服へと発展していった。
もっとも、全国の中華民国軍で一律の服制が用いられていたわけではなく、各地の部隊(軍閥)によって軍服の形状の差異は残っていた(例えば、東北軍第29軍などで使用された防寒帽など)。
国民革命軍はソ連赤軍を手本としていたため、軍服も当初はどちらかといえばソ連の影響を受けていた。
色は北洋陸軍を継承して青灰色の軍服が導入されたが、新編第36師のように特殊任務に就く部隊ではカーキー色を使用する事もあった[9]。
階級章は当初左袖に配されていたが、北伐後の1929年の改正により襟に移動した。階級を三角星で表す(ソ連軍の下士官と同じ)、下地を兵科色によって分けることで兵科章と階級章を一体化させるなど、全体的に援助を受けたソ連軍の影響が強い意匠となっている。 これらのものは下士官兵はパレードなどの際を除いて普段着用することはなく、代わりに肩(のち左胸)の部隊章と右腕の上腕部の師団章で所属を示した。
軍衣
1924年~1929年(黄埔軍官学校時代~北伐)
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呉鉄城(中央)
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大佐(大佐に相当)。王俊
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軍医大佐。褚民誼
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中将。黄紹竑
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少将。陳誠
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北伐期の兵士。背中に笠を背負っている。1927年
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女性兵士ら
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独自の階級章。劉文輝
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独自の階級章。劉湘
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中将。階級章が独自の意匠となっているほか、軍帽も独特。楊虎
「陸軍軍常服暨礼服暫行条例」(1929年1月制定、5月10日公布[10])
北伐後初の改正である。この改正により階級章が襟に移行。それからわずか8ヵ月後の9月7日に「陸軍常服軍礼服条例」により改正。士官用階級章に金の横筋が入るようになり、日本陸軍のものに近いデザインとなった。しかし、当時の写真を見たところ、中央軍を除いて旧制式の階級章が引き続き使用されており、あまり浸透しなかったようである。この階級章の使用は、後述の陸軍服制条例制定後の37年辺りまで確認できる。
部隊章は、当初ショルダーループ型の肩章にアラビア数字で表記(下士卒は布製、尉官・佐官は金属製)であったが、1931年に《陸空軍士官佐及び兵士階級表》、1934年7月24日に陸空海軍の《軍幹部階級表》及び1935年1月10日に《兵士階級表》それぞれが制定され、よって俗に「符号」と呼ばれる名札が左胸に付けられるようになった。符号では所属部隊および役職のほか、左に階級章と同じ三角星を描く事で階級が識別できるようになっており、さらに士官用の部隊章は外枠の色が塗り分けられていた。青は尉官、黄色は校官(佐官に相当)、赤は将官である。
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蒋介石(1930年)
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張学銘(1930年ごろ)
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少将。祝紹周(1930年代)
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歩兵大佐。肩章が付いている。翁照垣。
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歩兵。肩章が付いている。黄梅興。
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歩兵中佐。肩章が付いている。官恵民。
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左の人物(兪済時)は肩章が付いている。1932年
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中将。于学忠、1929年頃。
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憲兵(1932年)
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演習中の兵士ら(1931年2月)
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第29軍所属の中将。帽子が独特。趙登禹(1937年ごろ)
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新編第36師団長たる中将。軍服の色が正規のものと異なるほか、軍服の裁断も異なる。右腕の青天白日章は第36師団の部隊章。馬仲英。(1933年)
陸軍服制条例(1935年12月13日制定、1936年1月20日公布)
北伐後2回目の改正。この改正で、いくつかの大きな変更点が成された。 まず、制帽が廃止され、ドイツ軍型の略帽一本となった。 さらに、軍服の色が清朝からの伝統であった青灰色から、より目立ちにくい黄土色へと変更された。これは中独合作によって来中したドイツの軍事顧問の提案を受けてのことである[11]。 士官用階級章には金の囲いが入るようになった。
士官の使用するサム・ブラウン・ベルトは、それまで各自の自費調達だったため形状にかなりばらつきがあったが、本条例ではベルトに関する規定も盛り込まれた。
士官
- 大礼服
国民革命軍の礼装である大礼服は、軍閥時代を引き継いだマンテル型となっているが、襟は詰襟から折襟となっており、あたかも規格帽に中山服の平常制服がそのまま豪華になったような印象を受ける。
色合いは明るい水色に代わって、日本陸海軍の礼装同様より重厚感のある黒を基調としている。
装飾は、清代が龍、北洋政府が菊であったのに対し、国花の梅を随所に盛り込んだものとなっている。これは戦後以降現在に至るまでのコンセプトを方向付けたといえる。
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礼装姿の蒋介石。普通の将官よりもエポレットがかなり大振りである。
- 常礼服
通常礼装である。
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夏衣の二級大将。サーベルを佩用している。羅卓英
- 軍常服
常礼服や後方勤務者は短靴。乗馬ズボンは規定上乗馬本分者に限られているが、高級軍官の中には好んで着用している者もいる。
野戦では長靴ないし裏腿(ゲートル)を使用。裏腿は甲種(レギンス、革脚絆)と乙種(巻脚絆、巻きゲートル)の2種類があり、甲種は校官以上と定められている[12]。
下士官兵
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前線での兵士ら。開戦当初はこのようにヘルメットが満足に行き渡っていなかった。
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第26師団の兵士ら
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当時のプロパガンダに描かれた中国兵(二等兵)。軍服の色は1935年改正以前のブルーグレーで表されている。
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当時の欧米のプロパガンダに描かれた中国兵。軍服の色は1935年改正以後のカーキで表されている
帽子類
- 正帽
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官帽を被った兵士。帽子の鳩目の位置が鉢巻にある。憲兵(1932年)
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マントを羽織った将官。戦後の撮影であるが、24年正式以前の古い型の官帽を被っている。劉詠堯(1947年)
- 略帽
ヘルメット
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英式ヘルメットを被った19路軍兵士(1933年)
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ドイツ軍型鉄帽を被った軍官学校生
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米式ヘルメット
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英式ヘルメットを被り、米軍式の野戦服を着用した少年兵。奥の人物は日本軍式ヘルメットを被っている(1944年)
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下着一枚のみで銃撃する中国兵。英式ヘルメットを被っている。(1942、ビルマ)
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英米軍型ヘルメット。右の上等兵は、袖の部隊章より185師の所属である事が分かる。
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ドイツ軍型鉄帽の着用例。
防寒装備その他
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草鞋履を履いた兵士。靴が全部隊に行き渡らず、多くの兵士はこのようにサンダルや草鞋履きだった
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防寒靴を履いた将校ら(いずれも中尉)。冬服だが、物入に切込みが入っていない。また、両側の2名はモーゼルC96のチェストリグを着用している。
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第88師(en)の将校ら。部隊章が付いていない。
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ビルマにおける夏季用被服を着用した兵士。(1945年)
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歩哨に立つ兵士
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中将の階級章を付けた周恩来(1937年)
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冬季装備の八路軍兵士
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防寒服の将官。符号から少将と思われる。ユルバース・カーン
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フランス式ヘルメット
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パレードで英式ヘルメットを被り行進する一小隊。当時としては貴重なカラー写真で撮影されており、生地の詳細な色合いが分かる。1944年、ビルマ。
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夏季略装の兵士。
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M24型柄付手榴弾を使用する兵士。
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第二次上海事変における兵士。ガスマスク用の袋を肩にかけている。
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モーゼルC96を構えた兵士ら。ヘルメットは英独混合。
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軍服の上からマントを羽織った蒋介石、1945年。
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八路軍兵士。手榴弾のつり方が独特(1946年)
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パレード用装備の中央軍官学校生徒(1944年)
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ガスマスクを着用した兵士(1944年)
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新一軍兵士(1944年6月)
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規格帽に米軍式の野戦服を着用している(1945年10月10日)
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蒙古馬に乗った騎兵
国民政府下の軍服(1946~現在)
1946年度3月改正
第2次世界大戦後はアメリカやイギリスの軍事援助を受けたことから、米国の軍服やイギリスの軍服の影響を強く受けた軍装となった。
改正は空軍の軍服(後述)に引っ張られるような形である。階級章が肩へと移動し、代わって襟には兵科を表す徽章が配された。また階級章の意匠も大幅に変更され、従来の正三角形から梅へと変更された。
ただし、当初のころは肩章を付けたのみで襟章は従来のものを留めたものも多い。この時期は戦後の経済政策の失敗や国共内戦も相まって改正がままならず、中には独自の改造を施している者もいた。軍閥割拠以来、軍装が最も混乱していた時期といえよう。
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二級大将。王陵基
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砲兵大佐。周長耀
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戦後再改正後の二級大将。関麟徴(1948年)
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戦後再改正後の二級大将。馬歩芳(1950年代)
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李宗仁(1948年)
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蒋介石と軍首脳(1955年)。陸軍将兵は引き続き折襟の上衣を着用
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米軍式の戦闘服を着用した陸軍中将。張霊甫
陸軍服制條例 (改正)(1959年3月13日制定、3月24日公布)
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双十節における軍官学校生徒(1965年10月10日)
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蒋介石(1966年10月10日)
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汪敬煦大将
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劉舜元中将(1976年6月16日)
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陸軍儀仗兵(2005年8月4日)
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横から見た陸軍儀仗兵右上腕部に徽章が付いている。また襟章・肩章から、歩兵上士(曹長に相当)である事が分かる(2005年6月11日)
陸海空軍服制條例 (改正)(2006年1月3日制定、2007年11月7日公布)
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4つ星の階級章を着用する陸軍一級大将(霍守業、2017年9月3日)
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陸軍司令官・王信竜大将(2016年11月30日)
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陸軍中将(陳宝餘、2015年6月6日)
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迷彩服姿の陸軍中将(季連成、2016年1月29日)
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戦闘服姿の陸軍中将(朱玉書、2012年4月20日)
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女性将官服姿の陸軍少将(陳育琳、2014年12月26日)
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戦闘服姿の女性中士(軍曹に相当)。2017年5月25日
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軍服を着用した陸軍一等士官長(最先任上級曹長に相当)。2013年6月。
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甲式軍服を着用した陸軍上士(曹長に相当)。2011年10月。
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軍官学校生徒。女子学生の制帽はケピ帽に近いデザイン(2013年5月4日)
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迷彩服に略帽姿の陸軍兵士(2012年10月13日)
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迷彩服姿の陸軍兵士ら。袖章は302旅団の所属であることを示す(2013年10月12日)
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デジタル迷彩服姿の陸軍航空特殊戦隊員(2015年6月6日)
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迷彩服姿の陸軍兵士(2011年11月)
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軍事訓練服(1960~1970年代)
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戦闘服姿の兵士ら(2017年1月26日)
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戦闘服姿の兵士ら(2012年2月11日)
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狙撃兵のギリースーツ。
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陸軍の軍楽隊。後方は儀隊
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陸軍専科学校軍楽隊。
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空挺特殊戦部隊の制服(2013年6月8日)
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特殊部隊隊員(2012年2月11日)
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儀仗隊の徽章。
海龍蛙兵
海軍陸戦隊同様水着にゴーグルのみという姿で知られているが、赤い水着を着用している。
憲兵
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1960年6月18日
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憲兵司令官たる将官(李翔宙中将)(2011年1月25日)
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憲兵指揮官たる将官(呉応平中将)(2014年9月6日)
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憲兵学校学生
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女性憲兵。
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防弾チョッキを着用した憲兵(2005年6月11日)
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外套を着用した憲兵(2010年1月1日)
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雨合羽を着用した憲兵(2012年8月11日)
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白バイ隊(2010年8月8日)
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完全武装の憲兵。装備が陸軍とは大きく異なる(2011年8月13日)
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フェイスペイントを施した憲兵士官。
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特殊部隊
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化学戦用装備(2011年1月15日)
海軍
海軍はイギリスの影響を強く受けている。 清代、従来のいわゆる満州族の民族衣装に紺色の生地、袖章、短剣、ベルトというように英海軍の要素を取り入れた中洋折衷の軍服が使用された。
日清戦争後、海軍も全面的な改正に乗り出し、将校・下士官に冬はダブルの開襟、夏は陸軍の野戦服と同じ意匠の白い詰襟の軍服が、兵用にはセーラー服が、それぞれ採用された。帽章も英海軍のデザインを受け、碇の上に赤い宝玉と竜を描いた。民国成立後も基本的なコンセプトは引き継がれたが、夏衣はロシア海軍のものに近い意匠へと変更された。
国民政府成立後、冬服に日本海軍とよく似た詰襟の軍服が採用された。戦後は再び開襟に戻り、現在に至る。
水兵は襟後部端に青天白日章がつく。
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冬服の清国海軍将官。イギリスの影響が強い。鄭汝成
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礼装の清国海軍将官。程璧光(1911年)
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礼装の北洋海軍将官。杜錫珪(1920年代)
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北洋海軍の夏服。日本海軍の影響が強い。(1922年6月ごろ)
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礼装の海軍将官。楊樹荘(1920年代末ごろ)
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礼装の海軍将官。劉冠雄
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礼装の海軍士官ら(左端中校、左より三人目大将、一人置いて中校)。右端は米海軍士官(トーマス・デビット・カー少佐) (1930年1月16日)
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海軍将官。帽章は英海軍の影響を受けているが、上衣は日本海軍の影響が強い。陳紹寛、1931年。
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海軍大将。日覆を外しているが、特に年中付けなければならないという指定は無い様である。陳策
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海軍の少尉候補生ら。
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夏服の海軍総司令官(馮啓聡大将、1967年7月7日)
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冬服の海軍将兵ら(2017年3月22日)
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夏服の海軍将官(高廣圻大将、2008年5月25日)
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カーキ・サービスドレス姿の海軍司令官(黄曙光大将、2016年7月12日)
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冬服の海軍司令官(陳永康大将、2013年7月7日)
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蒲沢春大将(2015年4月9日)
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官帽を着用した海軍将官(蒋正国少将、2017年3月3日)
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海軍服姿の大佐ら(2011年3月2日)
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海軍儀仗兵(2005年12月20日)
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海軍儀仗兵(2005年12月20日)
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夏衣の海軍儀仗兵たる航海科上士ら(2012年6月2日)
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海軍少将(蕭維民、2013年11月7日)
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士官(少佐、左)と水兵(2013年5月4日)
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海軍下士官(左)と水兵(右)後方には女性兵士も(2013年6月8日)
海軍陸戦隊(海兵隊)
海軍陸戦隊兵士の軍装は、迷彩柄のショートパンツスタイルの水着にゴーグルのみといったスタイルが広く知られているが、近年では用途に応じて多様な軍装が使用されている。
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海軍陸戦隊員
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海軍陸戦隊中将(海軍副司令官陳子鳳)
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海軍陸戦隊中将(海軍副司令官潘進隆)
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海軍陸戦隊少将(第66旅団長蔡連輝)
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陸戦隊隊員。水着にゴーグルのみの基本スタイル。
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ウェットスーツを着用した陸戦隊隊員。
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ブッシュハットを被った陸戦隊隊員。65式歩槍を携行している。
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特殊部隊と狙撃銃を握る立法院の議員。
空軍
軍閥時代、航空隊は陸軍の下部組織であったが、航空兵科は存在せず、歩兵や砲兵など各自の出身兵科色のままであった。北伐の間から国民革命軍に開襟の被服が登場し、帰順した各軍閥航空隊にも広まった。1931年、国民政府は新たに空軍を独立した軍事組織として設立させ、それに伴い新たな制服を採用した。軍服の裁断は基本的には陸軍と同じ中山服だが、独自の徽章と階級章を採用した。徽章ではアメリカ陸軍、階級章ではフランス、イタリアの影響を受けた意匠となっている。
帽子は1934年以降、食出部分の広いイギリス風の官帽となる。軍服の色は茶色もしくは緑で、帽子の鉢巻はベージュ[13]。
士官の帽章、徽章は金色。帽子は制帽を使用していたが、わずかに陸軍と同じ略帽も使用された。また、当初布製だった帽章その他徽章はより生産性を重視するため金属やプラスチックになった。襟章は、軍官は米軍同様の二枚羽であり、軍佐は梅となる。
階級章は袖の横線で表すが、上部に梅花章が付く。
また、ボタンには中華民国の象徴である青天白日章があしらわれているのも大きな特徴である[13]。 パイロットは右胸に搭乗員徽章が付く。
1936年に変更があり、階級章上部の記章がプロペラを掴んだ鷲となった。1940年、軍服の階級章の位置は袖から肩へと変更され[13]、また軍帽の形状も支援を受けた米軍の影響が強くなった。
戦後の1946年、襟章が三枚羽に変更され、将官は星となる。
40年代後半以降、上衣は開襟となり、また生地の色も青へと変更された。これら空軍の徽章の意匠やコンセプトを受け継ぎつつも現在に至る。
礼装としては、初期に海軍の夏服に似たホワイトチュニックが採用されていたが、これはまもなく廃止され、戦後に陸海軍同様、開襟蝶ネクタイが採用された。
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広西空軍飛行員ら
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北伐中の航空隊軍官
1931年制式
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梁鴻雲
1934年制式
1940年制式
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中国空軍の制帽を被った米軍パイロット。
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空軍中尉。高又新
現代制式
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将官服。空軍一級大将陳燊齢(1989年—1991年)
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飛行服を着用した空軍少将。柳恵千(2017年10月20日)
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制服姿の中士(軍曹に相当)(2012年8月11日)
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儀仗兵(2009年4月20日)
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空軍将校ら。前列左より二番目は少将(空軍455航空団長楊鳳生)、右端は二級大将(厳明)。列後方には女性下士官の姿も見える(2012年8月11日)
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将官服。劉震武(2013年6月1日)
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女性中士(軍曹に相当)(2013年6月8日)
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空軍軍楽隊(2012年8月11日)
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空軍搭乗員の作業服。(2011年9月30日)
その他の軍服
中華民国臨時政府
南京国民政府
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汪兆銘の肩章(特級大将)
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南京国民政府の少将。杜錫鈞
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汪兆銘政権の中央海軍学校生徒。下士官と同様の帽子を被っている(1943年頃)
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空軍将官(左奥)
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南京国民政府の空軍将校。黄逸光
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航空士官学校生
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華北治安軍(華北綏靖軍)兵士
脚注
- ^ 文(1962)、p.60
- ^ a b 台湾憲兵OB会公式サイト 憲兵服制演變暨配件淺說(大陸時期)
- ^ 文(1962)、p.69
- ^ 文(1962)、p.70
- ^ 張(1987)、p.365
- ^ 張(1987)、p.359
- ^ 張(1987)、p.366
- ^ 文(1962)、p.72
- ^ Andrew D. W. Forbes (1986). Warlords and Muslims in Chinese Central Asia: a political history of Republican Sinkiang 1911–1949. Cambridge, England: CUP Archive. p. 87. ISBN 0-521-25514-7 28 June 2010閲覧。
- ^ 国史館 民國重要史事検索
- ^ 台湾憲兵OB会公式サイト 憲兵軍装の変遷
- ^ 陸軍服制条例、11頁
- ^ a b c ピーター、p262
参考文献
- 文公直『中国現代史料叢書第4編 名人大事 最近六十年中国軍事史』文星書店、1962年。
- 張侠 孫宝銘 陳長河『北洋陸軍史料 1912~1916』天津人民出版、1987年。
- 中国第二歴史档案館『民国軍服図誌』上海書店出版社、2003年。
- 徐平 徐海燕『中国百年軍服』金城出版社、2005年。
- ピーター・ダーマン 著、三島瑞穂・北島護 訳 『ミリタリー・ユニフォーム7 第2次大戦各国軍装全ガイド』 並木書房、1999年。ISBN 978-4-89063-107-0
- 辻元よしふみ、辻元玲子著『【図説】軍服の歴史5000年』
根拠法令
関連項目
外部リンク
- 國軍歷史博物館
- 中國軍艦博物館
- THE IMPERIAL CHINESE ARMY 1910
- Information and pictures of Nationalist Revolutionary Army weapons and equipment
- 制服帝國第二次世界大戦期の軍装を収集したサイト。国民革命軍の軍服もある。
- ビルマの中国軍について
- “国民革命軍陸軍常服礼服暫行条例”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04021833900、「公文備考 D外事14 巻17」(防衛省防衛研究所). 2017年10月25日閲覧。