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== 遺稿集 == |
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2018年2月11日 (日) 01:13時点における版
ほりうち でんじゅう 堀内 伝重 | |
---|---|
生誕 |
1880年6月18日[1] 日本・山梨県 |
死没 |
1917年6月18日[2] ボリビア[2] |
出身校 | 日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)[1] |
職業 | 実業家、ボリビア移民 |
親戚 |
堀内良平(実業家・政治家、兄)[1] 堀内宗平(海軍大佐・実業家、兄)[3] 堀内一雄(実業家・政治家、甥) |
堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日[1] - 1917年6月18日[2])は、山梨県出身の南米移民者である。「南米太郎」というあだ名でも呼ばれた。実兄は富士身延鉄道、富士山麓電気鉄道(現:富士急行グループ)の創業者で、衆議院議員も務めた堀内良平である[1]。南アメリカでの生活について書き留めたものをまとめた遺稿集『聖母河畔の十六年』[注釈 1]は、童話作家の坪田譲治の作品『ペルーの話』『ベニー河のほとり』の着想のもとになった[4][注釈 2]。
来歴
生い立ち
1880年(明治13年)6月18日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の四男(末弟)として生まれる[1]。幼くして、母が亡くなり、母方の祖母の手で養育される[1]。1892年(明治25年)、高等小学校卒業後に兄達と共に上京して、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)へ進学した[1]。卒業後、軍人を志し、海軍兵学校と陸軍士官学校を受験するが、ともに不合格となった[5]。
その後、外国語学校で英語を学び、貿易の仕事をするためアメリカへの渡航を画策した[5]。しかし、1903年(明治36年)大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会を契機に、長兄の堀内良平が経営する甲府葡萄酒会社の大阪支所での業務に従事した[5][6]。
南米への移住
1903年(明治36年)、ペルーへの日本人移民を事業として行っていた田中貞吉は第2次ペルー移民を計画していた[7]。また当時、南アメリカのアマゾン地帯では、自動車用タイヤの普及による世界的なゴム需要の高まりをうけて天然ゴムの採取で活況を呈する状況であった。このため田中は、日本人移民をアマゾンのゴム採取に送り込むことを目論み、「秘露開發會社」を組織した[5]。この会社には長兄の堀内良平が出資した[5]。かねてより海外での仕事を望んでいた堀内伝重は、この田中の移民事業に参画することになった[8]。ペルー渡航にあたり、農商務省からペルーでの天然ゴム生産に関する調査を嘱託する目的の嘱託調査員という身分が与えられた[8]。
1903年(明治36年)の秋、横浜港からペルーへ向かった[9]。しかしペルー到着後まもなく、腹膜炎で入院と療養を強いられた[9]。
1905年(明治38年)、日本に帰国中であった田中貞吉が死去すると、堀内伝重がインカゴム会社の責任者となり、移民団の監督一切を引き受けることになった[10]。堀内伝重は、ゴムの採取、コカの栽培、石油掘削等を試みた[10]。また兄の堀内良平を通じて日本の財界人に出資を求めた[10]。堀内良平は、この件を三井の早川千吉郎に相談したところ、一度帰国して詳細を報告してから決めた方が良いとこたえた[10]。
兄の堀内良平からの手紙を受けとった堀内伝重は一時帰国を決め、ペルーのリマへ向かった[10]。しかし、そこで堀内伝重を頼ってアマゾンへと向かっていた山梨県の親族知人と出会った[10]。堀内伝重は日本への帰国をあきらめ、親戚一同と再びアマゾンへ戻った[11]。
インカゴム会社はアマゾンのゴム景気により業績は上がった。このころの堀内伝重はリベラルタやルレナパケなど、アマゾン流域を精力的に調査し記録を残している[注釈 3]。さらに日本人移民のアマゾン入植をすすめるために、日本外務省に申請を行った[11]。しかし、第一次世界大戦開戦により、アマゾン産のゴム価格が急落した。インカゴム会社もゴム採取事業を停止に追い込まれた[11][12]。ゴム採取に従事していた日系移民も職を失うことになった。困窮した日系移民に対して、堀内は彼らの救済に尽力したと伝わっている[12]。
ボリビアへの移動と死去
1917年(大正6年)、堀内は従者1名と伴にボリビアへ入った[2]。同年の春頃にラパス県のサンホセという集落に落ち着き、ここの有力者の娘と結婚した[13]。この地に新たな日本人入植地を開き、アマゾンで苦境にあった日本人移民を受け入れる目論見であった[13]。しかし、開墾作業のときに肋膜を痛めた[2]。その後、肋膜炎を発症してこれが元で死亡した[14]。
訃報は、ペルーに滞在していた堀内伝重の従兄弟から、堀内良平に伝えられた[2]。1918年(大正8年)1月18日のことであった[2]。
家族・親族
実兄は富士急行グループの創業者である堀内良平である。堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』によると、「堀内家は甲斐源氏の祖である源清光にまで遡ると。清光の子、逸見光長の系譜が堀内を名乗るようになった」としている[15]。また同著には、鎌倉期の1282年(弘安5年)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄ったとの記載もある[16]。
系譜
小林中 | 小林喬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内詔子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
林博太郎 | 林友春 | 絢子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内基光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辻政信 | 英子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内良平 | 堀内一雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内光雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しげ | 初子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内藤右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内義男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きう | 堀内喜太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内正夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内宗孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀内伝重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
内藤政養 | 房子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺稿集
脚注
注釈
- ^ 「聖母河」とはマドレ・デ・ディオス川のこと
- ^ 『ベニー河のほとり』の作中に、堀内という登場人物が存在する。『ベニー河のほとり』は「坪田譲治全集第七巻」に収録されている。
- ^ 自伝『聖母河畔の十六年』には、ゴム景気により難工事の末に敷設されたマデイラ・マモレ鉄道に関する記述もある
- ^ 編集した実兄の堀内良平によれば、堀内伝重の遺稿は日本への郵送中に一部が紛失、また遺稿集の出版準備中に出版社が関東大震災で被災し、一部が損失した[17]。
出典
- ^ a b c d e f g h 聖母河畔の十六年 1926, p. 序1.
- ^ a b c d e f g 富士を拓く 1994, p. 209.
- ^ 富士を拓く 1994, pp. 124–125.
- ^ 坪田譲治の金川中学校時代 2013, p. 26.
- ^ a b c d e 聖母河畔の十六年 1926, p. 序2.
- ^ 富士を拓く 1994, p. 117.
- ^ 笠戸丸から見た日本 2007, p. 114.
- ^ a b 富士を拓く 1994, p. 121.
- ^ a b 富士を拓く 1994, p. 207.
- ^ a b c d e f 聖母河畔の十六年 1926, p. 序3.
- ^ a b c 聖母河畔の十六年 1926, p. 序4.
- ^ a b 富士を拓く 1994, p. 208.
- ^ a b 聖母河畔の十六年 1926, p. 序8.
- ^ 聖母河畔の十六年 1926, p. 3.
- ^ 富士を拓く 1994, pp. 35–36.
- ^ 富士を拓く 1994, pp. 38–44.
- ^ 聖母河畔の十六年 1926, p. 序9.
参考文献
- 堀内伝重 著、堀内良平 編『聖母河畔の十六年』堀内良平、1926年。OCLC 53834448。
- 塩田道夫『富士を拓く』堀内良平伝刊行委員会、1994年。 NCID BN11349951。
- 大藤幹夫『「ベニ-河のほとり」(坪田譲治)の初出誌』 19巻、大阪学芸大学国語国文学研究室、1976年、21-44頁。 NAID 120002738372。 NCID AN00039331。
- 山根 知子「坪田譲治の金川中学校時代 : 金川中学校関係資料を中心に」『ノートルダム清心女子大学紀要. 外国語・外国文学編, 文化学編, 日本語・日本文学編』第37巻第1号、ノートルダム清心女子大学、2013年12月27日、NAID 120006373718。
外部リンク
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