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'''たにし踊り'''(たにしおどり)は、古くから伝わる[[タニシ]]の登場する歌に[[踊り]]をつけたものである。歌は[[幸若舞]]を起源とするという説もあり、日本各地で類似した歌詞を持つ歌が伝承されてきた。踊りについても発祥は不明であるが、大正時代には存在したものと推察されている。歌詞に薬を扱った部分があり、薬学系の学校では学生の座興として歌と踊りを受け継いできたところも多い。 |
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{{Sakujo/本体|2017年12月24日|たにし踊り20171224}} |
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{{複数の問題 |出典の明記=2009年10月 |特筆性=2009年10月 |単一の出典=2017年6月 |独自研究=2017年6月 |孤立=2017年6月}} |
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'''たにし踊り'''(たにしおどり)は、[[東京薬科大学]]に伝統的に伝わる[[踊り]]である。発祥は不明であるが、[[大正|大正時代]]に撮影された連続写真が残されており、少なくとも大正時代には存在したものと推察されている。 |
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==歌== |
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踊り手は、[[盆踊り]]のような輪になり、前の踊り手のあとに連なって前に進みながら踊っていく。 |
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たにし踊りは歌に合わせて踊られる。その歌詞は、何者かがタニシを遠出に勧誘したところ、タニシは前年に鳥に攻撃された際の傷が痛むとして誘いを断る。それに対して相手が薬を勧める、という大筋は共通するものの、細部が異なるさまざまな変型が存在する。以下に東京薬科大学に伝わる歌詞を示す<ref>『柏秀讃歌―薬学徒青春の軌跡―』東京薬科大学専門二十五回柏秀会、1998年、305ページ。※「何か妙薬…」の箇所は同書では「何が妙薬…」と書かれているが、誤記と思われるため修正して掲載した。</ref>。 |
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{{quotation|<poem> |
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1992年10月2日放映の[[探偵!ナイトスクープ]]では、『薬学部伝統!?タニシ踊り』としてこの踊りが取り上げられている<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B000WME052 商品の説明「内容紹介」] - Amazon.co.jp</ref>が、放映当時は[[名城大学]][[薬学部]][[ラグビー部]]内のみでしか行われていなかった。 |
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たにし殿 たにし殿 |
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あたご参りにおじゃらぬか |
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いやでそろう いやでそろう |
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丁度去年の夏の頃 |
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おどじょう殿に誘われて |
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ちょろちょろ小川を渡る時 |
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キジやトンビやフクロめが |
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あっちゃこっちゃつつき |
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こっちゃつつき |
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その傷が その傷が |
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季節めぐりて冬くれば |
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ズッキラ ズッキラ |
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ズッキラ ズッキラ |
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痛みだす |
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何か妙薬おじゃらぬか |
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薬はいろいろありますが |
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まず第一の妙薬は |
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夏降る雪の黒焼きと |
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山の上なるハマグリと |
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海の底なるマツタケと |
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ノミの金玉 |
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シラミのはらわた |
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合わせ一度に用うれば |
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効能たちまちあらわれる |
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効能たちまちあらわれる |
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</poem>}} |
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「あたご(愛宕)詣り」の箇所では、踊りが伝わる学校所在地の[[産土神]]の名が歌われる{{sfn|小瀬|1956|p=48}}。東京薬科大学のほか、明治薬科大学{{sfn|鈴木重光|1943|pp=13-14}}、京都薬科大学<ref>「「たにし踊り」だ 1・2・3それっ(No.113)へのメッセージ」『京薬会誌』第113号、京薬会、2001年7月、53ページ。</ref>は「愛宕」である。[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]]は「刀根山」<ref>『蛍ケ池 大薬30期生45年の記録』大薬30期会、1992年、97ページ。</ref>{{efn|刀根山は大阪薬学専門学校の所在地の地名で、他校の歌詞と異なり神社を指すのかどうかも定かではない。刀根山には1926年(大正15年)創建の市軸稲荷神社があるほか、1931年(昭和6年)に薬専が移転してきた際に見つかった稲荷を祀り直した神社も校地内に存在した<ref>「螢陵春秋」『阪大薬学同窓会報』第4巻第2号、1974年11月、4-19ページ。</ref>。}}、[[岐阜薬科大学]]は「[[伊奈波神社|伊奈波]]」{{sfn|小瀬|1957|p=68}}<ref>岐阜薬科大学五十年史編集委員会編集『岐阜薬科大学五十年史』岐阜薬科大学創立五十周年記念事業会、1982年、96ページ。</ref>、[[久留米工業専門学校 (旧制)|久留米工業専門学校]]は「篠山」<ref>『久留米高等工業学校 久留米工業専門学校(改称) 九州大学久留米工業専門学校(改称) 回想記 創立60周年記念誌』同窓会久留米工業会、1999年、162ページ。</ref><ref name="Aramaki2017"/>になっている。 |
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東京薬科大学卓球部では1970年代には新入部員歓迎会や卒業生追い出しコンパなどではタニシ踊りを踊るのが恒例であった。また結婚式でも余興として踊られた。 |
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歌詞の後半でタニシに勧められる薬の成分はありえないものが連なっている構成となっている<ref>池田弥三郎「8月2日 ないものづくし」『私の食物誌』河出書房新社、1965年、138ページ。</ref>。この部分では海と山、ノミとシラミのように対句になっているところ、「夏降る雪」は対になる句がなく、本来「冬の…」という歌詞があったものが脱落して伝わっているのではないか、という指摘もある<ref>「ダイアル451」『エーザイロータリー』第142号、エーザイ、1971年7月、60ページ。</ref>{{efn|この指摘は[[エーザイ]]の社内報『エーザイロータリー』誌の編集者が編集後記で提起したもので、東京薬科大学出身の社員が歌い踊るのを見聞きして感じた疑問だという。この呼びかけに対して社内外から情報が寄せられたとし、いずれ改めて報告する、とこの編集者は翌号で述べている<ref>『エーザイロータリー』第143号、エーザイ、1971年8月、48ページ。</ref>。さらに次の号から2号にわたって掲載されたのが小瀬洋喜の「田螺踊り考」で、この編集者の疑問を受けた書き出しとはなっているが、文中で小瀬はこの疑問に答えていない<ref>小瀬洋喜「<ruby><rb>田螺</rb><rp>(</rp><rt>たにし</rt><rp>)</rp></ruby>踊り考」『エーザイロータリー』第144号、エーザイ、1971年9月、23-25ページ。</ref><ref>小瀬洋喜「田螺踊り考(続き)」『エーザイロータリー』第145号、エーザイ、1971年10月、26-28ページ。</ref>。また編集者自身も特に報告はしておらず、翌年の号では社内報の担当者が別人に交代していることから、歌詞の脱落についてどのような情報が寄せられたのかは不明である。なお小瀬の「田螺踊り考」は2回分を再編集し加筆した形で小瀬の個人集『青春・惜春』に掲載されている。}}。 |
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== 歌詞と振付 == |
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{{quotation| |
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掛け声:(ハイ)元気に拍手 (シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン:手拍子3拍、3拍、3拍、1拍) |
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:唄:たにし殿 たにし殿 |
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::愛宕詣りにおじゃらぬか |
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::いやで候(そろ) いやで候(そろ) |
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::ちょうど去年の夏のころ |
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::お泥鰌殿に誘われて |
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::ちょろちょろ小川を渡るとき |
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::雉(きじ)や鳶(とんび)や梟(ふくろ)めが |
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::あっちゃこちゃ突き(つつき) こちゃ突き(つつき) |
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::その傷がその傷が |
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::季節廻り(めぐり)て冬来れば |
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::ずっきらずっきらずっきらずっきら痛み出す |
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::何か妙薬ござらぬか |
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::薬はいろいろありますが |
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::まず(手拍子1拍) 第一の妙薬は |
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::夏降る雪の黒焼きと |
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::山の上なる蛤(はまぐり)と |
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::海の底なる松茸と |
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::蚤(のみ)の金玉 |
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::虱(しらみ)の腸(はらわた) |
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::合せ一度に用うれば(もちうれば) |
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::効能忽ち(たちまち)顕れる(あらわれる) |
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::効能忽ち(たちまち)顕れる(あらわれる) |
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タニシをはじめ、歌に登場する動植物はノミを除いて、和漢薬として用いられた実績があるものだという指摘がある<ref>「宴席の華“たにし殿”」『徳島県薬業史』徳島県薬事協議会、1998年、48-49ページ。</ref>。 |
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掛け声:元気に拍手 (シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン:手拍子3拍、3拍、3拍、1拍) |
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}} |
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==踊り== |
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踊りの振り付けについては、東京薬科大学のものが絵で記録されているほか<ref>『120th anniversary 道のりは、明日につながる――京薬会誌でみる120年の軌跡』京都薬科大学京薬会、2006年、301-302ページ。</ref>{{efn|外部リンクの東薬会のサイトに、この絵をパラパラ漫画風に仕立てたものが掲載されている。}}、岐阜の一個人の振り付けを文章で記録した資料もある<ref> 宮崎惇『タニシのうたと話』採集と飼育の会〈理科教養文庫 10〉、1967年、69-74ページ。</ref>。 |
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{{脚注ヘルプ}} |
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==歴史== |
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===前史=== |
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たにし踊りの歌詞は異同があるものの、冒頭部分で遠出に誘われたタニシが外敵に攻撃される懸念があることを理由に断る、という構成は共通する。この展開はそれほど新しいものではなく、日本各地に伝わるわらべ歌に類例が見られる。日本歌謡史が専門の[[真鍋昌弘]]は、この展開を含んだわらべ歌が山形・宮城を東端、長崎を西端として広く分布するとしているが{{sfn|真鍋|1983|pp=248-250}}、熊本でも報告がある<ref>今村泰子編『秋田のわらべ歌』未来社、1969年、230-232ページ。</ref>。 |
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このように同一の展開を持つ歌が全国に分布する理由については諸説ある。詩人の[[薮田義雄]]は、[[猿楽]]や幸若舞などの古い芸能において培われたものが、担い手が[[門付]]芸人に転落し地方に広まった、とする{{sfn|薮田|1961|p=319}}。また真鍋昌弘も薮田の見解を追認し、江戸時代に祝福芸人として地方に残存した幸若舞が広めた、としている{{sfn|真鍋|1982|pp=62-63}}。これに対し鈴木政雄は、[[大和田建樹]]が明治時代に編集した歌謡集に採録した[[長唄]]『田にし』<ref>「田にし」『日本歌謡類聚』上卷、大和田建樹(編)、博文館、1898年、343-344ページ。</ref>を挙げ、[[元禄]]期に成立したこの長唄がわらべ歌として広まった、と主張している{{sfn|鈴木政雄|1969|pp=83-85}}。また岐阜薬科大学教授の<ref name="Tankakenkyu200712"/>小瀬洋喜は、薬の行商を通じて広まった、との推測を述べている{{sfn|小瀬|1968|p=69}}。 |
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古傷が痛むと訴えるタニシに対し、あり得ないものを次々と挙げ、それらを調合して飲めば治る、という後半部分について、函館の医師阿部たつをは、三重県[[阿山郡]]に伝わる[[木遣|木遣歌]]との関連を指摘している{{efn|阿部は小瀬洋喜の伯父にあたり、小瀬の歌人としての活動は阿部の影響があった<ref name="Tankakenkyu200712">「物故歌人を偲ぶ」『短歌研究』第64巻第12号、短歌研究社、2007年12月、103ページ。</ref>。しかしたにし踊りに関心を持ったきっかけは異なっており、阿部が勤務先の病院にいた薬剤師から聞いたことにあるのに対し、小瀬は自身の体験に基づいている。}}。この歌は、道中で怪我をした[[西行|西行法師]]が茶屋で薬はないかと尋ねると、「山の上の蛤」や「夏降る雪」など、あり得ないものを列挙され、それらを調合してつければ治る、というものである{{sfn|阿部|1965|pp=109-113}}。また音楽学者の[[浅野建二]]は、青森の津軽[[よされ節]]、長崎県[[西松浦郡]]の甚九郎など、民謡に類例があることを指摘し、こうした詩句には越後甚句の影響があるとする{{sfn|浅野|1970|pp=84-87}}。もっとも、三重の木遣歌、青森・長崎の民謡とも、[[早物語]]が歌謡に入り込んで成立したものであり{{sfn|石井|1986|pp=159-160}}、同じものから派生したとも考えられる。 |
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===学生歌へ=== |
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日本の各地で歌われていたわらべ歌と類似した歌詞を持つ歌は、大正期になってさまざまな学校で学生歌として歌われるようになり、踊りを伴う場合もあった。その経緯や、主に薬学専門学校に広まった理由、踊りはいつ、誰によって振り付けられたのか、といった点については、いずれも不明である。 |
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集団で歌われた古い例として、鹿児島で出版された歌集に「歌あげ」の曲として採録された「たにしどの」の例が挙げられる<ref name="Heko"/>。歌あげとは島津藩兵の進軍歌で、年長者が数節を歌うと、それに答えて年少者が続く節を唱和する形で歌われる<ref>田尻「歌あげについて」『士魂 薩摩兵児歌』52-53ページ。</ref>。この歌はありえないものの列挙部分が行軍の疲れをまぎらわせる目的に合い、歌われた<ref name="Heko">「たにしどの」『士魂 薩摩兵児歌』鹿児島市学舎連合会編、春苑堂書店、1970年、138-139ページ。</ref>。この歌と結びの部分が共通する歌が北九州から鹿児島に伝わった民謡として別の歌集に収録されており、こちらは学舎(明治期に鹿児島に置かれた私学校)や中学生に歌われたという<ref>久保けんお「鹿児島 たにしどの」『南日本民謡曲集』音楽之友社、1960年、43ページ。</ref>。 |
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大正に入ると、学校で歌われていたとする例が見られるようになる。小瀬洋喜は、1916年(大正5年)頃に[[福島県立会津高等学校|旧制会津中学]]の発火演習で歌われた例を挙げ、「学校で歌われた記録で最も古い」としている{{sfn|小瀬|1989|pp=160-161}}{{efn|この記録の根拠として小瀬は「にろく15号(昭三十八・一)」を挙げているが{{sfn|小瀬|1989|p=165}}、『にろく』第15号(昭和三十八年一月一日発行)にはこれにあたる記述は見当たらない。第16号には発火演習の行軍中に流行した歌として「田螺どの」の歌い出しの歌を挙げている文章が掲載されており、小瀬が挙げている歌詞とも一致するが、この文章には歌われた年は特定されていない<ref>梅津力衛「酒と共に」『にろく』第16号、にろく会事務所、1964年、79-83ページ。</ref>。『にろく』の別の号には水泳部が「たにしどの」を含む学生歌の発信源となっていた旨の記載もある<ref>相田俊「今井威男君を悼む」『にろく』第13号、にろく会事務所、1961年、137-139ページ。</ref>。}}。1922年(大正11年)にはこの年[[竹久夢二]]の編纂で出版された童謡集に遊戯唄として収録されており<ref>竹久夢二編『日本童謠集 あやとりかけとり』春陽堂、1922年、175-176ページ。</ref>、この本を読んだ学生によって学校に入った可能性も考えられる<ref name="Suda1977"/>。 |
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===薬専へ=== |
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[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]]に入ったのは小瀬によれば、1925年(大正14年)の正月に新潟で行われた[[明治大学]]スキー部の合宿に参加した東京薬学専門学校の学生が合宿中に聞いた歌を覚えて持ち帰ったのが最初であるという。この年の夏には東京薬学専門学校の修学旅行で京都薬学専門学校を訪問した際の歓迎会で歌を披露し、京都にも広まった。1926年(大正15年)春の修学旅行の際に応援団長が振り付けを考え、これが後に伝わる定番の振り付けとなった。1929年(昭和4年)頃には医歯薬相撲大会で東京薬専応援団が[[襦袢|長襦袢]]姿で踊って評判となり、その後数年は踊りが大会の名物となった{{sfn|小瀬|1989|pp=162-163}}。 |
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小瀬が示す薬専への浸透過程は全て私信を根拠としており、証言者の詳細は明らかにされていないが、これに符合する他の証言も存在する。東京薬学専門学校出身で後に北海道の遠軽病院に勤務した薬剤師によれば、同校では相撲大会の応援でリーダーが踊り、行楽に出かけた[[伊香保温泉]]で全校生徒が踊りながら温泉街を練り歩いたこともあった。踊りの振り付けについては、類似の踊りが山形か秋田にあるものの、同校独自のものと考えられており、考案者と称する卒業生が来校したこともあったという{{sfn|阿部|1959|pp=127-128}}。 |
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[[明治薬学専門学校 (旧制)|明治薬学専門学校]]でも応援歌として歌われており、踊りも存在した。またこの時点で各薬学専門学校に同様の歌が歌われていることは認識されていた{{sfn|鈴木重光|1943|p=14}}。 |
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踊りは薬学専門学校以外の学校でも踊られていた。[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]出身の大石嘉一郎は高校時代に踊っていた<ref>大石嘉一郎「大内ゼミの想い出」『大内力ゼミナール たにし会の半世紀』たにし会文集編集委員会、2005年、19-23ページ。</ref>。[[久留米工業専門学校 (旧制)|久留米高等工業学校]]でも学園祭の際に踊られていた<ref name="Aramaki2017">荒巻健二「随筆: 田螺殿・たにしどの〜」『KORASANA』第85号、2017年1月、久留米昆蟲研究會、11ページ。</ref>。また創作作品ではあるが、自身も戦前の医学校出身の作家[[後藤杜三]]は戦前を舞台とした小説『青春』で、たにし踊りを得意とする医学生を登場させている{{sfn|後藤|1981|pp=160-161}}。 |
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===戦中=== |
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戦時中は東京薬学専門学校では長襦袢姿の踊りが問題視され、禁止されていた{{sfn|小瀬|1989|p=163}}{{efn|前出の遠軽の薬剤師によれば、学校側が禁止していたというが、「と聞いて居る」と伝聞の形である{{sfn|阿部|1959|p=128}}。また1935年(昭和10年)の学校紹介記事によれば、この時点で学校側は踊りを暗に禁止していたという<ref>「都下藥專風景① 東京藥專」『日本藥報』第10年第11号、日本藥報社、1935年6月5日、17ページ。</ref>。踊り自体が禁止されたのか、長襦袢が問題になったのかも不明である。}}。1944年からは学生全員が陸軍衛生材料廠で勤労奉仕に従事することになり、校内に学生はいなくなった<ref>東薬史編集委員会編『東薬史抄』東京薬科大学、1958年、85ページ。</ref>。同様の問題は岐阜薬学専門学校でもあり、2年生以上が動員されたため、残された1年生はたにし踊りを練習し、伝統の維持に努めた<ref>岐阜薬科大学五十年史編集委員会編集『岐阜薬科大学五十年史』岐阜薬科大学創立五十周年記念事業会、1982年、96ページ。</ref>。 |
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その一方で踊りは軍で伝えられた。大戦末期に上海郊外で薬学専門学校出身の軍曹に踊りを教わり、兵営で輪になって踊った、という経験談があるほか<ref name="Agawa2007">阿川弘之「葭の髄から・百十八 再説・田螺殿」『文藝春秋』第85巻第3号、2007年2月、77-79ページ。</ref>、後述の『探偵!ナイトスクープ』にもこの踊りが得意で、軍隊で「タニシ少尉」と呼ばれていたという京都薬学専門学校出身者が登場する。東京薬学専門学校の学生が動員された陸軍衛生材料廠でも営庭で踊られたという<ref name="Suda1977">須田八郎「たにし殿の原典」『ファルマシア』第13巻第3号、日本薬学会、1977年、220-221ページ。</ref>。 |
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また[[阿川弘之]]は、[[大日本帝国海軍|海軍]]時代の1943年に[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[待合]]で[[半玉]]から歌を教わった、としている<ref>阿川弘之「葭の髄から・百十六 田螺殿 田螺殿」『文藝春秋』第84巻第17号、2006年12月、77-78ページ。</ref>。 |
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===戦後=== |
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踊りの伝統は戦後も続き、1950年代、岐阜薬科大学の秋の体育祭では、仮装した学生によるたにし踊りが恒例であった<ref>宮崎惇「たにしおどり」『たにしのうたと話』たにし庵、1965年、66-73ページ。</ref>。また東京薬科大学では八王子移転後も学園祭「東薬祭」の後夜祭でたにし踊りが踊られていた<ref>「東京薬科大学百年」編纂特別委員会編集『東京薬科大学百年――九十年以降――』東京薬科大学、1980年、411ページ。</ref>。 |
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1992年10月2日放映の[[探偵!ナイトスクープ]]では、『薬学部伝統!?タニシ踊り』としてこの踊りが取り上げられた。番組は、この踊りが全国の薬科大学や薬学部に伝わる由緒正しい踊りであるとする[[名城大学]][[薬学部]]出身者の主張を検証する形で進められ<ref>{{cite video|title = [[#{{harvid|KS|1992}}|薬学部伝統!? タニシ踊り]] |medium = DVD |time = 00:00:00 - 00:02:00}}</ref>、踊りは関東では東京薬科大学や[[明治薬科大学]]<ref>{{cite video|title = [[#{{harvid|KS|1992}}|薬学部伝統!? タニシ踊り]] |medium = DVD |time = 00:09:34 - 00:09:43}}</ref>、関西では[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]](後の大阪大学薬学部)や[[京都薬学専門学校 (旧制)|京都薬学専門学校]](後の[[京都薬科大学]])で踊られた伝統ある踊りであるものの<ref>{{cite video|title = [[#{{harvid|KS|1992}}|薬学部伝統!? タニシ踊り]] |medium = DVD |time = 00:09:43 - 00:09:52}}</ref>、番組放映時点では名城大学[[薬学部]][[ラグビー部]]内のみでしか行われていない、と結論付けている<ref>{{cite video|title = [[#{{harvid|KS|1992}}|薬学部伝統!? タニシ踊り]] |medium = DVD |time = 00:10:18 - 00:10:29}}</ref>。 |
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==注釈== |
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{{notelist}} |
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==出典== |
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{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
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==参考文献== |
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== 外部リンク == |
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*{{wikicite|reference = 浅野建二「田螺どん」『わらべ唄風土記』下、塙書房〈塙新書 33〉、1970年、80-87ページ。|ref = {{SfnRef|浅野|1970}}}} |
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*{{wikicite|reference = 阿部たつを「飴売の口上と田螺踊」『函館今昔帳』無風帯社、1959年、121-129ページ。|ref = {{SfnRef|阿部|1959}}}} |
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*{{wikicite|reference = 阿部たつを「田螺踊補遺」『函館炉辺閑話』無風帯社、1965年、109-113ページ。|ref = {{SfnRef|阿部|1965}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 石井正己「てんぽ物語論」『物語研究 ――特集・語りそして引用』物語研究会編、新時代社、1986年、145-169ページ。ISBN 4-7874-6001-3。|ref = {{SfnRef|石井|1986}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 小瀬洋喜「みんぞくずいひつ 田螺どの」『民間伝承』第20巻第7号、1956年7月、48ページ。|ref = {{SfnRef|小瀬|1956}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 小瀬洋喜「田螺どの」『藥局』第8巻第5号、南山堂、1957年5月、67-68ページ。|ref = {{SfnRef|小瀬|1957}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 小瀬洋喜「田螺踊り考」『日本薬剤師会雑誌』第20巻第8号、日本薬剤師会、1968年8月、69-70ページ。|ref = {{SfnRef|小瀬|1968}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 小瀬洋喜「田螺踊り考」『青春・惜春』岐阜薬科大学公衆衛生学教室内小瀬洋喜教授記念誌刊行委員会、1989年、139-165ページ。|ref = {{SfnRef|小瀬|1989}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 後藤杜三「青春」『別册文藝春秋』第155特別号、1981年4月、158-171ページ。|ref = {{SfnRef|後藤|1981}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 鈴木重光「田螺の昔話と俗信」『郷土神奈川』第2巻第8号、神奈川縣鄕土硏究會、1943年8月、9-16ページ。|ref = {{SfnRef|鈴木重光|1943}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 鈴木政雄「民俗雑考(二) つぼどりつぼどり―お彼岸まいりに行かまいか―」『民間傳承』第33巻第2号、六人社、1969年7月、82-85ページ。|ref = {{SfnRef|鈴木政雄|1969}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 真鍋昌弘「昔話の中の歌謡」『口承文藝硏究』第5号、日本口承文藝學會、1982年、58-63ページ。|ref = {{SfnRef|真鍋|1982}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 真鍋昌弘「『幸若集初編』について」『和田繁二郎博士古稀記念 日本文学 伝統と近代』和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会(編集)、和泉書院、1983年、242-253ページ。|ref = {{SfnRef|真鍋|1983}}}} |
|||
*{{wikicite|reference = 薮田義雄『わらべ唄考』カワイ楽譜、1961年。|ref = {{SfnRef|薮田|1961}}}} |
|||
===DVD=== |
|||
*{{cite video|people = [[トミーズ|トミーズ雅]](出演)|chapter = 薬学部伝統!? タニシ踊り |title = 探偵!ナイトスクープ DVD Vol.6 〜巨大シジミ発見!? 編 |medium = DVD |publisher = ワーナー・ホーム・ビデオ |id = DLR-F2980 |year = 2007 |ref = {{harvid|KS|1992}}}} |
|||
==外部リンク== |
|||
* [http://www.touyakukai.com/body61.html 東薬会 たにし踊り・校歌] |
* [http://www.touyakukai.com/body61.html 東薬会 たにし踊り・校歌] |
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* [http://www.sagayaku.or.jp/kusuri100w/kusuri100_03.htm |
* [http://www.sagayaku.or.jp/kusuri100w/kusuri100_03.htm 佐賀薬剤師会くすり百話「第5話 妙薬の歌「田螺殿」」] |
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2018年6月14日 (木) 22:00時点における版
たにし踊り(たにしおどり)は、古くから伝わるタニシの登場する歌に踊りをつけたものである。歌は幸若舞を起源とするという説もあり、日本各地で類似した歌詞を持つ歌が伝承されてきた。踊りについても発祥は不明であるが、大正時代には存在したものと推察されている。歌詞に薬を扱った部分があり、薬学系の学校では学生の座興として歌と踊りを受け継いできたところも多い。
歌
たにし踊りは歌に合わせて踊られる。その歌詞は、何者かがタニシを遠出に勧誘したところ、タニシは前年に鳥に攻撃された際の傷が痛むとして誘いを断る。それに対して相手が薬を勧める、という大筋は共通するものの、細部が異なるさまざまな変型が存在する。以下に東京薬科大学に伝わる歌詞を示す[1]。
たにし殿 たにし殿
あたご参りにおじゃらぬか
いやでそろう いやでそろう
丁度去年の夏の頃
おどじょう殿に誘われて
ちょろちょろ小川を渡る時
キジやトンビやフクロめが
あっちゃこっちゃつつき
こっちゃつつき
その傷が その傷が
季節めぐりて冬くれば
ズッキラ ズッキラ
ズッキラ ズッキラ
痛みだす
何か妙薬おじゃらぬか
薬はいろいろありますが
まず第一の妙薬は
夏降る雪の黒焼きと
山の上なるハマグリと
海の底なるマツタケと
ノミの金玉
シラミのはらわた
合わせ一度に用うれば
効能たちまちあらわれる
効能たちまちあらわれる
「あたご(愛宕)詣り」の箇所では、踊りが伝わる学校所在地の産土神の名が歌われる[2]。東京薬科大学のほか、明治薬科大学[3]、京都薬科大学[4]は「愛宕」である。大阪薬学専門学校は「刀根山」[5][注釈 1]、岐阜薬科大学は「伊奈波」[7][8]、久留米工業専門学校は「篠山」[9][10]になっている。
歌詞の後半でタニシに勧められる薬の成分はありえないものが連なっている構成となっている[11]。この部分では海と山、ノミとシラミのように対句になっているところ、「夏降る雪」は対になる句がなく、本来「冬の…」という歌詞があったものが脱落して伝わっているのではないか、という指摘もある[12][注釈 2]。
タニシをはじめ、歌に登場する動植物はノミを除いて、和漢薬として用いられた実績があるものだという指摘がある[16]。
踊り
踊りの振り付けについては、東京薬科大学のものが絵で記録されているほか[17][注釈 3]、岐阜の一個人の振り付けを文章で記録した資料もある[18]。
歴史
前史
たにし踊りの歌詞は異同があるものの、冒頭部分で遠出に誘われたタニシが外敵に攻撃される懸念があることを理由に断る、という構成は共通する。この展開はそれほど新しいものではなく、日本各地に伝わるわらべ歌に類例が見られる。日本歌謡史が専門の真鍋昌弘は、この展開を含んだわらべ歌が山形・宮城を東端、長崎を西端として広く分布するとしているが[19]、熊本でも報告がある[20]。
このように同一の展開を持つ歌が全国に分布する理由については諸説ある。詩人の薮田義雄は、猿楽や幸若舞などの古い芸能において培われたものが、担い手が門付芸人に転落し地方に広まった、とする[21]。また真鍋昌弘も薮田の見解を追認し、江戸時代に祝福芸人として地方に残存した幸若舞が広めた、としている[22]。これに対し鈴木政雄は、大和田建樹が明治時代に編集した歌謡集に採録した長唄『田にし』[23]を挙げ、元禄期に成立したこの長唄がわらべ歌として広まった、と主張している[24]。また岐阜薬科大学教授の[25]小瀬洋喜は、薬の行商を通じて広まった、との推測を述べている[26]。
古傷が痛むと訴えるタニシに対し、あり得ないものを次々と挙げ、それらを調合して飲めば治る、という後半部分について、函館の医師阿部たつをは、三重県阿山郡に伝わる木遣歌との関連を指摘している[注釈 4]。この歌は、道中で怪我をした西行法師が茶屋で薬はないかと尋ねると、「山の上の蛤」や「夏降る雪」など、あり得ないものを列挙され、それらを調合してつければ治る、というものである[27]。また音楽学者の浅野建二は、青森の津軽よされ節、長崎県西松浦郡の甚九郎など、民謡に類例があることを指摘し、こうした詩句には越後甚句の影響があるとする[28]。もっとも、三重の木遣歌、青森・長崎の民謡とも、早物語が歌謡に入り込んで成立したものであり[29]、同じものから派生したとも考えられる。
学生歌へ
日本の各地で歌われていたわらべ歌と類似した歌詞を持つ歌は、大正期になってさまざまな学校で学生歌として歌われるようになり、踊りを伴う場合もあった。その経緯や、主に薬学専門学校に広まった理由、踊りはいつ、誰によって振り付けられたのか、といった点については、いずれも不明である。
集団で歌われた古い例として、鹿児島で出版された歌集に「歌あげ」の曲として採録された「たにしどの」の例が挙げられる[30]。歌あげとは島津藩兵の進軍歌で、年長者が数節を歌うと、それに答えて年少者が続く節を唱和する形で歌われる[31]。この歌はありえないものの列挙部分が行軍の疲れをまぎらわせる目的に合い、歌われた[30]。この歌と結びの部分が共通する歌が北九州から鹿児島に伝わった民謡として別の歌集に収録されており、こちらは学舎(明治期に鹿児島に置かれた私学校)や中学生に歌われたという[32]。
大正に入ると、学校で歌われていたとする例が見られるようになる。小瀬洋喜は、1916年(大正5年)頃に旧制会津中学の発火演習で歌われた例を挙げ、「学校で歌われた記録で最も古い」としている[33][注釈 5]。1922年(大正11年)にはこの年竹久夢二の編纂で出版された童謡集に遊戯唄として収録されており[37]、この本を読んだ学生によって学校に入った可能性も考えられる[38]。
薬専へ
薬学専門学校に入ったのは小瀬によれば、1925年(大正14年)の正月に新潟で行われた明治大学スキー部の合宿に参加した東京薬学専門学校の学生が合宿中に聞いた歌を覚えて持ち帰ったのが最初であるという。この年の夏には東京薬学専門学校の修学旅行で京都薬学専門学校を訪問した際の歓迎会で歌を披露し、京都にも広まった。1926年(大正15年)春の修学旅行の際に応援団長が振り付けを考え、これが後に伝わる定番の振り付けとなった。1929年(昭和4年)頃には医歯薬相撲大会で東京薬専応援団が長襦袢姿で踊って評判となり、その後数年は踊りが大会の名物となった[39]。
小瀬が示す薬専への浸透過程は全て私信を根拠としており、証言者の詳細は明らかにされていないが、これに符合する他の証言も存在する。東京薬学専門学校出身で後に北海道の遠軽病院に勤務した薬剤師によれば、同校では相撲大会の応援でリーダーが踊り、行楽に出かけた伊香保温泉で全校生徒が踊りながら温泉街を練り歩いたこともあった。踊りの振り付けについては、類似の踊りが山形か秋田にあるものの、同校独自のものと考えられており、考案者と称する卒業生が来校したこともあったという[40]。
明治薬学専門学校でも応援歌として歌われており、踊りも存在した。またこの時点で各薬学専門学校に同様の歌が歌われていることは認識されていた[41]。
踊りは薬学専門学校以外の学校でも踊られていた。第二高等学校出身の大石嘉一郎は高校時代に踊っていた[42]。久留米高等工業学校でも学園祭の際に踊られていた[10]。また創作作品ではあるが、自身も戦前の医学校出身の作家後藤杜三は戦前を舞台とした小説『青春』で、たにし踊りを得意とする医学生を登場させている[43]。
戦中
戦時中は東京薬学専門学校では長襦袢姿の踊りが問題視され、禁止されていた[44][注釈 6]。1944年からは学生全員が陸軍衛生材料廠で勤労奉仕に従事することになり、校内に学生はいなくなった[47]。同様の問題は岐阜薬学専門学校でもあり、2年生以上が動員されたため、残された1年生はたにし踊りを練習し、伝統の維持に努めた[48]。
その一方で踊りは軍で伝えられた。大戦末期に上海郊外で薬学専門学校出身の軍曹に踊りを教わり、兵営で輪になって踊った、という経験談があるほか[49]、後述の『探偵!ナイトスクープ』にもこの踊りが得意で、軍隊で「タニシ少尉」と呼ばれていたという京都薬学専門学校出身者が登場する。東京薬学専門学校の学生が動員された陸軍衛生材料廠でも営庭で踊られたという[38]。
また阿川弘之は、海軍時代の1943年に赤坂の待合で半玉から歌を教わった、としている[50]。
戦後
踊りの伝統は戦後も続き、1950年代、岐阜薬科大学の秋の体育祭では、仮装した学生によるたにし踊りが恒例であった[51]。また東京薬科大学では八王子移転後も学園祭「東薬祭」の後夜祭でたにし踊りが踊られていた[52]。
1992年10月2日放映の探偵!ナイトスクープでは、『薬学部伝統!?タニシ踊り』としてこの踊りが取り上げられた。番組は、この踊りが全国の薬科大学や薬学部に伝わる由緒正しい踊りであるとする名城大学薬学部出身者の主張を検証する形で進められ[53]、踊りは関東では東京薬科大学や明治薬科大学[54]、関西では大阪薬学専門学校(後の大阪大学薬学部)や京都薬学専門学校(後の京都薬科大学)で踊られた伝統ある踊りであるものの[55]、番組放映時点では名城大学薬学部ラグビー部内のみでしか行われていない、と結論付けている[56]。
注釈
- ^ 刀根山は大阪薬学専門学校の所在地の地名で、他校の歌詞と異なり神社を指すのかどうかも定かではない。刀根山には1926年(大正15年)創建の市軸稲荷神社があるほか、1931年(昭和6年)に薬専が移転してきた際に見つかった稲荷を祀り直した神社も校地内に存在した[6]。
- ^ この指摘はエーザイの社内報『エーザイロータリー』誌の編集者が編集後記で提起したもので、東京薬科大学出身の社員が歌い踊るのを見聞きして感じた疑問だという。この呼びかけに対して社内外から情報が寄せられたとし、いずれ改めて報告する、とこの編集者は翌号で述べている[13]。さらに次の号から2号にわたって掲載されたのが小瀬洋喜の「田螺踊り考」で、この編集者の疑問を受けた書き出しとはなっているが、文中で小瀬はこの疑問に答えていない[14][15]。また編集者自身も特に報告はしておらず、翌年の号では社内報の担当者が別人に交代していることから、歌詞の脱落についてどのような情報が寄せられたのかは不明である。なお小瀬の「田螺踊り考」は2回分を再編集し加筆した形で小瀬の個人集『青春・惜春』に掲載されている。
- ^ 外部リンクの東薬会のサイトに、この絵をパラパラ漫画風に仕立てたものが掲載されている。
- ^ 阿部は小瀬洋喜の伯父にあたり、小瀬の歌人としての活動は阿部の影響があった[25]。しかしたにし踊りに関心を持ったきっかけは異なっており、阿部が勤務先の病院にいた薬剤師から聞いたことにあるのに対し、小瀬は自身の体験に基づいている。
- ^ この記録の根拠として小瀬は「にろく15号(昭三十八・一)」を挙げているが[34]、『にろく』第15号(昭和三十八年一月一日発行)にはこれにあたる記述は見当たらない。第16号には発火演習の行軍中に流行した歌として「田螺どの」の歌い出しの歌を挙げている文章が掲載されており、小瀬が挙げている歌詞とも一致するが、この文章には歌われた年は特定されていない[35]。『にろく』の別の号には水泳部が「たにしどの」を含む学生歌の発信源となっていた旨の記載もある[36]。
- ^ 前出の遠軽の薬剤師によれば、学校側が禁止していたというが、「と聞いて居る」と伝聞の形である[45]。また1935年(昭和10年)の学校紹介記事によれば、この時点で学校側は踊りを暗に禁止していたという[46]。踊り自体が禁止されたのか、長襦袢が問題になったのかも不明である。
出典
- ^ 『柏秀讃歌―薬学徒青春の軌跡―』東京薬科大学専門二十五回柏秀会、1998年、305ページ。※「何か妙薬…」の箇所は同書では「何が妙薬…」と書かれているが、誤記と思われるため修正して掲載した。
- ^ 小瀬 1956, p. 48.
- ^ 鈴木重光 1943, pp. 13–14.
- ^ 「「たにし踊り」だ 1・2・3それっ(No.113)へのメッセージ」『京薬会誌』第113号、京薬会、2001年7月、53ページ。
- ^ 『蛍ケ池 大薬30期生45年の記録』大薬30期会、1992年、97ページ。
- ^ 「螢陵春秋」『阪大薬学同窓会報』第4巻第2号、1974年11月、4-19ページ。
- ^ 小瀬 1957, p. 68.
- ^ 岐阜薬科大学五十年史編集委員会編集『岐阜薬科大学五十年史』岐阜薬科大学創立五十周年記念事業会、1982年、96ページ。
- ^ 『久留米高等工業学校 久留米工業専門学校(改称) 九州大学久留米工業専門学校(改称) 回想記 創立60周年記念誌』同窓会久留米工業会、1999年、162ページ。
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- ^ 池田弥三郎「8月2日 ないものづくし」『私の食物誌』河出書房新社、1965年、138ページ。
- ^ 「ダイアル451」『エーザイロータリー』第142号、エーザイ、1971年7月、60ページ。
- ^ 『エーザイロータリー』第143号、エーザイ、1971年8月、48ページ。
- ^ 小瀬洋喜「
田螺 踊り考」『エーザイロータリー』第144号、エーザイ、1971年9月、23-25ページ。 - ^ 小瀬洋喜「田螺踊り考(続き)」『エーザイロータリー』第145号、エーザイ、1971年10月、26-28ページ。
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- ^ 大石嘉一郎「大内ゼミの想い出」『大内力ゼミナール たにし会の半世紀』たにし会文集編集委員会、2005年、19-23ページ。
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- ^ 阿部 1959, p. 128.
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- ^ 阿川弘之「葭の髄から・百十八 再説・田螺殿」『文藝春秋』第85巻第3号、2007年2月、77-79ページ。
- ^ 阿川弘之「葭の髄から・百十六 田螺殿 田螺殿」『文藝春秋』第84巻第17号、2006年12月、77-78ページ。
- ^ 宮崎惇「たにしおどり」『たにしのうたと話』たにし庵、1965年、66-73ページ。
- ^ 「東京薬科大学百年」編纂特別委員会編集『東京薬科大学百年――九十年以降――』東京薬科大学、1980年、411ページ。
- ^ 薬学部伝統!? タニシ踊り (DVD). 該当時間: 00:00:00 - 00:02:00.
- ^ 薬学部伝統!? タニシ踊り (DVD). 該当時間: 00:09:34 - 00:09:43.
- ^ 薬学部伝統!? タニシ踊り (DVD). 該当時間: 00:09:43 - 00:09:52.
- ^ 薬学部伝統!? タニシ踊り (DVD). 該当時間: 00:10:18 - 00:10:29.
参考文献
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- 阿部たつを「飴売の口上と田螺踊」『函館今昔帳』無風帯社、1959年、121-129ページ。
- 阿部たつを「田螺踊補遺」『函館炉辺閑話』無風帯社、1965年、109-113ページ。
- 石井正己「てんぽ物語論」『物語研究 ――特集・語りそして引用』物語研究会編、新時代社、1986年、145-169ページ。ISBN 4-7874-6001-3。
- 小瀬洋喜「みんぞくずいひつ 田螺どの」『民間伝承』第20巻第7号、1956年7月、48ページ。
- 小瀬洋喜「田螺どの」『藥局』第8巻第5号、南山堂、1957年5月、67-68ページ。
- 小瀬洋喜「田螺踊り考」『日本薬剤師会雑誌』第20巻第8号、日本薬剤師会、1968年8月、69-70ページ。
- 小瀬洋喜「田螺踊り考」『青春・惜春』岐阜薬科大学公衆衛生学教室内小瀬洋喜教授記念誌刊行委員会、1989年、139-165ページ。
- 後藤杜三「青春」『別册文藝春秋』第155特別号、1981年4月、158-171ページ。
- 鈴木重光「田螺の昔話と俗信」『郷土神奈川』第2巻第8号、神奈川縣鄕土硏究會、1943年8月、9-16ページ。
- 鈴木政雄「民俗雑考(二) つぼどりつぼどり―お彼岸まいりに行かまいか―」『民間傳承』第33巻第2号、六人社、1969年7月、82-85ページ。
- 真鍋昌弘「昔話の中の歌謡」『口承文藝硏究』第5号、日本口承文藝學會、1982年、58-63ページ。
- 真鍋昌弘「『幸若集初編』について」『和田繁二郎博士古稀記念 日本文学 伝統と近代』和田繁二郎博士古稀記念論集刊行会(編集)、和泉書院、1983年、242-253ページ。
- 薮田義雄『わらべ唄考』カワイ楽譜、1961年。
DVD
- トミーズ雅(出演) (2007). "薬学部伝統!? タニシ踊り". 探偵!ナイトスクープ DVD Vol.6 〜巨大シジミ発見!? 編 (DVD). ワーナー・ホーム・ビデオ. DLR-F2980。