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|画像説明 = [[ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル]]によるリットン男爵の肖像([[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵) |
|画像説明 = [[ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル]]によるリットン男爵の肖像([[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵) |
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|生年月日 = [[1803年]][[5月25日]] |
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|出生地 = {{GBR3}}・[[イングランド]]・[[ロンドン]]・[[ベイカー・ストリート]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1803|5|25|1873|1|18}} |
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|死没地 = |
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|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br />ケンブリッジ大学 |
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br />ケンブリッジ大学{{仮リンク|トリニティ・ホール (ケンブリッジ大学)|label=トリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}} |
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|前職 = |
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|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] → [[保守党 (イギリス)|保守党]] |
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|称号・勲章 = [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
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|親族(政治家) = [[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|初代リットン伯爵]](子)<br />[[ヴィクター・ブルワー=リットン|第2代リットン伯爵]](孫) |
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|世襲の有無 = |
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|配偶者 = [[ロジーナ・ブルワー=リットン]](旧姓ウィーラー) |
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|サイン = |
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|国旗 = |
|国旗 = GBR |
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|職名 = [[植民地大臣]] |
|職名 = [[植民地大臣]] |
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|内閣 = [[第2次ダービー内閣]] |
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|就任日 = [[1858年]][[6月5日]] |
|就任日 = [[1858年]][[6月5日]] |
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|退任日 = [[1859年]][[6月11日]] |
|退任日 = [[1859年]][[6月11日]] |
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|国旗2 = GBR |
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|職名2 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
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|元首職 = 国王 |
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|選挙区2 = {{仮リンク|リンカーン選挙区|en|Lincoln (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}} |
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|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] |
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|就任日2 = [[1832年]][[12月10日]] - [[1841年]][[6月29日]]<br/>[[1852年]][[7月7日]] |
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|退任日2 = [[1866年]][[7月14日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard/people/mr-edward-bulwer/index.html |title= Lord Brudenell |accessdate= 2019-05-29 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [https://api.parliament.uk/historic-hansard/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref> |
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|国旗3 = GBR |
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|退任日3 = [[1873年]][[1月18日]] |
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{{Portal|文学}} |
{{Portal box|文学|舞台芸術}} |
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初代[[リットン男爵]]'''エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン'''({{Lang-en-short|Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}}、[[1803年]][[5月25日]] - [[1873年]][[1月18日]])は、[[イギリス]]の小説家、劇作家、政治家。 |
初代[[リットン男爵]]'''エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン'''({{Lang-en-short|Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, {{postnominals|country=GBR|size=100%|sep=,|PC}}}}、[[1803年]][[5月25日]] - [[1873年]][[1月18日]])は、[[イギリス]]の小説家、劇作家、政治家、貴族。一時は[[チャールズ・ディケンズ]]に匹敵する程の人気を誇った。小説『[[ポンペイ最後の日 (ブルワー=リットンの小説)|ポンペイ最後の日]]』(''{{Lang|en|The Last Days of Pompeii}}'' )が代表作として知られており、オカルト小説『ザノーニ』やSF[[ユートピア]]小説『来たるべき種族』で近代[[オカルティズム]]に多大な影響を与え、[[ヒッピー]]や[[ニューエイジ]]にも影響が見られる<ref name="Evans"/>。戯曲『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』(''Richelieu; Or the Conspiracy'')に登場する文句「[[ペンは剣よりも強し]]」(“{{Interlang|en|The pen is mightier than the sword}}”)」は名高い。政治家としては[[1858年]]から[[1859年]]にかけて[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の[[植民地大臣]]を務めたことが特筆される。 |
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== 経歴 == |
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== 日本におけるリットン卿 == |
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[[File:Edward Bulwer Lytton Disderi BNF gallica.jpg|thumb|180px|リットン男爵の写真({{仮リンク|アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ|fr|André-Adolphe-Eugène Disdéri}}撮影)]] |
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[[明治]]時代に[[河竹黙阿弥]]が戯曲『マネー』を翻案して『[[人間万事金世中]]』を書いた。小説『[[ポンペイ最後の日]]』(''{{Lang|en|The Last Days of Pompeii}}'' )が代表作として知られ、戯曲『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』(''Richelieu; Or the Conspiracy'')に登場する文句「[[ペンは剣よりも強し]]」(“{{Interlang|en|The pen is mightier than the sword}}”)」は名高い。また、孫の[[ヴィクター・ブルワー=リットン|ヴィクター]]は[[リットン調査団]]の団長として有名である。 |
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[[1803年]][[5月25日]]に[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|ヘイドン・ホール|en|Heydon Hall}}を本拠とする地主で陸軍大将の[[ウィリアム・アール・ブルワー]](William Earle Bulwer)とその妻でクネブワースのロビンソン家とリットン家の相続人であるエリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間の三男(末子)として[[ロンドン]]・[[ベイカー・ストリート]]に生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p23312.htm#i233113 |title= Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth |accessdate= 2019-5-28 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="DNB">{{DNB|wstitle=Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-|first=Leslie|last=Stephen|volume=34|pages=380–387}}</ref>。生誕時の名前は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)<ref name="thepeerage.com"/>。リットンは父親や母方の祖父母には完全に存在を無視されて育ち、唯一母のエリザベスが彼を溺愛した{{sfn|河村|2005|p=88}}。彼女は夫ウィリアムの気性の激しさから、1年も経たないうちに大法院に子供たちの後見人を求めた<ref name="Allingham">{{Cite web|url=https://victorianweb.org/authors/bulwer/bio.html|author=Philip V. Allingham|title=Sir Edward G. D. Bulwer-Lytton: A Brief Biography|work=The Victorian Web|date=|access-date=2024.06.02}}</ref>。ナポレオン軍の侵攻を予期していたイギリス政府は、ウィリアムをランカシャー州の軍司令官に任命して同州の防衛に当たらせたが、1807年7月に祖国への貢献が認められ貴族に昇格する前に死去した<ref name="Allingham"/>。 |
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子ども時代の大半を母方の館ネブワースで読書三昧で育ち、この館は彼にとって理想郷であり、彼がつねに回帰する貴族主義的ロマン派的信念を形成する源となった(後に母の遺産として相続){{sfn|河村|2005|p=88}}。家庭教師はつけられたが、定まった学校に通うことはなく、学校に通ったときは、際立って利発であったためにいじめにあうことが多く、おおむね独学だった{{sfn|河村|2005|p=88}}。イートン校入学も自ら断っている{{sfn|河村|2005|p=88}}。 |
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1820年の夏、ケンブリッジ大学進学準備中に、[[湖水地方]]で「ルーシー」という少女に恋をし、これが彼の理想の女性像を決定付けた{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。彼女は父親に不本意な結婚をさせられて突然姿を消し、リットンは[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]風の憂鬱に陥った<ref name="Allingham"/>。ルーシーは、まだ彼に恋しておりもうすぐ死ぬと手紙で訴え、死去した<ref name="Allingham"/>。自伝によると、リットンは彼女の墓の前で泣き崩れ、作家になる決心をしたという。彼女は、リットンの小説で繰り返し描かれる、保護を求める孤独な女性のモデルとなった{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。 |
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[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]、ついで同大学の{{仮リンク|トリニティ・ホール (ケンブリッジ大学)|label=トリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}}で学ぶ<ref name="DNB"/>。ケンブリッジ大学でも、優れた才能にもかかわらず、横柄さから友人はほとんどできず、孤独を深める{{sfn|河村|2005|p=88}}。ケンブリッジ在学中に一時バイロンの元愛人の[[キャロライン・ラム]]と愛人関係を持っていた{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。後に妻となるロジーナはラムの庇護下にあり、ラムとの関係がロジーナとの結婚に間接的につながっている<ref name="Allingham"/>。ドイツ文学の[[ゲーテ]]と[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]が学びの基盤となり、後の小説は「遍歴」「修行」がテーマになっているものが多い{{sfn|河村|2005|p=88}}。 |
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パーティーで機知に富んだ美しい[[アイルランド人]]の女性{{仮リンク|ロジーナ・ブルワー=リットン|label=ロジーナ・ドイル・ウィーラー|en|Rosina Bulwer-Lytton}}と出会い、1827年に結婚したが、リットンの母はこの結婚に不満で、息子への小遣いをカットした<ref name="Allingham"/>。夫婦は贅沢な生活を送ったため、リットンは収入のために多作の作家となった<ref name="Allingham"/>。 |
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[[1827年]]にゲーテの『[[若きウェルテルの悩み]]』に影響を受けた悲劇的小説『Falkland』を出版した。さらに[[1828年]]6月には『ペラム(Pelham)』を出版<ref name="DNB"/>。これは[[ベンジャミン・ディズレーリ]]の「ビビアン・グレイ」に多分に影響を受けていた作品で、[[ダンディ]]・ノベルとして知られ、センセーションを巻き起こした{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。[[1830年]]頃からディズレーリの友人になった{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。1830年に『{{仮リンク|ポール・クリフォード|en|Paul Clifford}}』を出版し、獄中の犯罪者を扱った{{仮リンク|ニューゲイト・ノベル|en|Newgate novel}}の走りとなった{{sfn|河村|2005|pp=89-90}}。このような社会道徳規範に挑戦する小説で当初名を挙げたが、イギリスの批評家たちから批判され、プライドを傷つけられ、イギリス文壇と確執が生じ、生涯文壇周縁部に追いやられることになる{{sfn|河村|2005|pp=89-90}}。いったん名声を得てからは、村の生活、単純素朴な価値、家族の絆の大切さを謳うといった社会が求める理想的な価値観を作中で表し、無私で高貴な価値と社会の調和を保った理想的な過去へと読者を誘い、慰めを与えた{{sfn|河村|2005|pp=89-90}}。 |
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社交界では{{仮リンク|マルグリット・ガーディナー (ブレッシントン伯爵夫人)|label=ブレッシントン伯爵夫人マルグリット・ガーディナー|en|Marguerite Gardiner, Countess of Blessington}}の文芸[[サロン]]のゴア・ハウスに出入りしたが、彼女のサロンはロンドン社交界でも悪名高い方の一派を自任し、イギリスきっての[[ダンディ]]が勢ぞろいし、リットンのダンディぶりは異彩を放った{{sfn|河村|2005|pp=90-91}}。ゴア・ハウスには[[ベンジャミン・ディズレーリ]]や[[チャールズ・ディケンズ]]もおり、リットンは[[西洋占星術]]と[[水晶占い]]{{Refn|group="注"|水晶占いは19世紀イギリスでメジャーな占いの一つで、当時最も有名な水晶玉は、ブレッシントン伯爵夫人がエジプトの魔術師から手に入れたというものだった<ref>{{Cite web|url=https://www.mimimatthews.com/2016/01/11/19th-century-fortune-telling-from-the-drawing-room-to-the-court-room/|author=Mimi Matthews |title=19th Century Fortune-Telling: From the Drawing Room to the Court Room|work=The Victorian Web|date=2016.1.11|access-date=2024.06.02}}</ref>。}}の専門家として、上の世代のイギリスのオカルティストとのパイプ役だった{{仮リンク|ジョン・ヴァーリー (画家)|label=ジョン・ヴァーリー|en|John Varley (painter)}}と肩を並べた{{sfn|Roukema|2020|p=34}}。主流派の社交界とゴア・ハウスは完全に分かれており、リットンは社交界でも周縁に位置することになり、彼は自分の才能を認めないイギリスの批評家と読者を猛烈に批判し、イギリス人嫌いを強め、ドイツ・イタリア・フランスの批評家を賛美した{{sfn|河村|2005|pp=90-91}}。 |
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[[1831年]][[4月30日]]に{{仮リンク|セント・アイヴス選挙区|en|St Ives (UK Parliament constituency)}}から選出されて[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となる<ref name="DNB"/>。[[1832年]]からは{{仮リンク|リンカーン選挙区|en|Lincoln (UK Parliament constituency)}}から選出される。[[1838年]]には[[準男爵]]に叙せられた。しかし[[1841年]]の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}では落選の憂き目を見た<ref name="DNB"/>。リットンは知性と発想は優れていても、公の場での演説は不得手で、ごく短期間を除き、政治家として一流になることはなかった{{sfn|河村|2005|pp=90-91}}。 |
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この間も小説を精力的に執筆し、[[1832年]]には『{{仮リンク|ユージン・アラム (小説)|label=ユージン・アラム|en|Eugene Aram (novel)}}』、[[1833年]]には『{{仮リンク|ゴドルフィン (小説)|label=ゴドルフィン|en|Godolphin (novel)}}』、[[1834年]]には『[[ポンペイ最後の日 (ブルワー=リットンの小説)|ポンペイ最後の日]]』と『The Pilgrims of the Rhine』、[[1835年]]には『Rienzi』、[[1837年]]には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、[[1841年]]には『Night and Morning』、[[1842年]]にはオカルト小説『{{仮リンク|ザノーニ|en|Zanoni}}』を出版した<ref name="DNB"/>。1833年から1834年のロジーナとのイタリア旅行が、『Rienzi』『ポンペイ最後の日』等のイタリアを舞台にした作品や研究書に結実した<ref name="Allingham"/>。 |
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同時期に劇作家としても活躍し、[[1836年]]には最初の演劇脚本『The Duchess de la Vallière』を書いた。これは興行的に失敗に終わったものの、[[1838年]]の『The Lady of Lyons』では大きな成功を収めた<ref name="DNB"/>。 さらに[[1839年]]には『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』、[[1840年]]には『{{仮リンク|マネー (演劇)|label=マネー|en|Money (play)}}』といった脚本も書いた<ref name="DNB"/>。 |
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[[1841年]]に議席を失った後、ドイツ旅行に出た<ref name="DNB"/>。[[1843年]]に歴史小説『The Last of the Barons』を出版した<ref name="DNB"/>。[[1843年]]12月の母の死によりリットン家の[[ネブワース]]の土地である[[ネブワース・ハウス]]を相続し<ref name="DNB"/>、[[1844年]][[2月20日]]には勅許を得て「ブルワー=リットン」姓に改姓した<ref name="thepeerage.com"/>。[[1846年]]には小説『Confessions of a Water Patient』、詩『The New Timon』、[[1848年]]には歴史小説『Harold』と叙事詩『King Arthur』、[[1849年]]には小説『[[:en:The Caxtons|The Caxtons: A Family Picture]]』を出版<ref name="DNB"/>。[[1849年]]にはコメディの脚本『Not so bad as we seem』を書いた<ref name="DNB"/>。 |
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[[1852年]]に{{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}}から選出されて再び庶民院議員となる。農業保護の貴族主義こそがイギリス社会の伝統的な特質であると強く主張し、フランスやアメリカ流の民主主義への移行に警鐘を鳴らし、[[穀物法]]廃止に反対{{sfn|河村|2005|p=91}}。そのため[[保守党 (イギリス)|保守党]]の議員となった。以降1866年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列するまでこの議席を保持したが<ref name="DNB"/>、その考えは政治家としては時代遅れになっていった{{sfn|河村|2005|p=91}}。 |
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[[1858年]]から[[1859年]]にかけては保守党政権第2次[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]内閣において[[植民地大臣]]を務めた<ref name="DNB"/>。植民地大臣として{{仮リンク|ブリティッシュ・コロンビア植民地|en|Colony of British Columbia (1858–1866)}}の創設にあたった。これは金鉱の発掘と人口流入のため必要となったものである。またオーストラリアでは、[[クイーンズランド州]]を[[ニューサウスウェールズ州]]から分離させた。植民地各地の町で彼の名にちなむリットンという名前への改名が行われた<ref name="DNB"/>。 |
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植民地大臣退任後は政治的活動は少なくなった。公職引退後は、イギリスの未来に不安を抱き、[[民主主義]]が崩壊していくことを小説に描いた{{sfn|河村|2005|p=91}}。[[1862年]]には『A Strange Story』、さらに後に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版した<ref name="DNB"/>。 |
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[[1866年]]7月に第3次ダービー伯爵内閣が成立した際に[[連合王国貴族]]爵位リットン男爵に叙されて貴族院議員に列した<ref name="DNB"/>。 |
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1870年には、人間より優れた種族による民主主義を超えた理想的な地下世界を描いたSFユートピア小説『来たるべき種族』を出版{{sfn|河村|2005|p=91}}。 |
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[[1873年]][[1月18日]]に死去<ref name="DNB"/>。爵位は一人息子の[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|ロバート・ブルワー=リットン]]が継承した。 |
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=== 爵位/準男爵位 === |
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[[1838年]][[7月18日]]に以下の準男爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*'''(ハートフォード州におけるネブワースの)初代準男爵'''{{small|(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")}} |
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*:([[勅許状]]による連合王国準男爵位) |
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[[1866年]][[7月14日]]に以下の爵位を新規に叙される<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*'''ハートフォード州におけるネブワースの初代リットン男爵''' {{small|(1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)}} |
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*:(勅許状による[[連合王国貴族]]爵位) |
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== 家族 == |
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1827年8月29日に{{仮リンク|ロジーナ・ブルワー=リットン|label=ロジーナ・ドイル・ウィーラー|en|Rosina Bulwer-Lytton}}{{small|(Rosina Doyle Wheeler)}}{{Refn|group="注"|ロジーナはアイルランドで地主の父と[[フェミニスト]]哲学者の母の間に生まれたが、両親の不和、父親のアルコール依存症、母親が自分の知的探求に注力し子どもに無関心だった事などから、子ども時代は不幸なものであったようである。両親の別居後、大叔父の元で教育を受け、その後ロンドンの叔父の元で暮らし、友人のキャロライン・ラムやリットンがいた[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]文学通の集まりに出入りするようになった。<ref name="Clarke">{{Cite web|url=https://www.dib.ie/biography/lytton-rosina-anne-doyle-bulwer-a4983|author=Frances Clarke|title=Lytton, Rosina Anne Doyle Bulwer|work=DICTIONARY OF IRISH BIOGRAPHY|date=|access-date=2024.06.02}}</ref>}}と結婚<ref name="Evans"/>。彼女との間に以下の2子を儲けた。 |
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*エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン {{small|(Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年不明-1848年)}} |
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*[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|エドワード・ロバート・ブルワー=リットン]] {{small|(Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891)}} - 初代リットン伯、第2代リットン男爵。[[インド総督]] |
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結婚当初の関係は良好だったが、リットンは気性が激しく、贅沢な結婚生活のために多くの収入を得ようと多作で、政治活動もあり、忙しさのためにしばしば怒りっぽくなり、家族をないがしろにし、不倫し、夫婦関係には緊張が生じ、二人は激しい喧嘩を繰り返すようになった<ref name="Allingham"/>。互いに親がいないという境遇に惹かれ合っての結婚だったが、[[家父長制]]を身上とするリットンと女性の自立を掲げる[[女性の権利|女権論者]]ロジーナの結婚生活は、凄まじい喧嘩と衝突の連続となり、互いを身体的にも攻撃していた<ref name="Evans"/>{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。さらにリットンの母親によるロジーナへの軽蔑が、生涯にわたって二人の関係を悪化させた{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。1833年から1834年の夫婦でのイタリア旅行で結婚生活は終わりとなり、1836年に法的に別居した<ref name="Allingham"/>。リットンは母の遺産を相続して大金持ちになったが、ロジーナに離婚を認めさせようと彼女の金銭の使用を制限し、ロジーナも離婚には賛成だったが、リットンが示した離婚の条件はロジーナの生活に十分なものではなく、困窮に苦しんだ<ref name="LCP"/> |
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リットンは次々愛人を作り、ローラ・ディーコン(Laura Deacon)との間に娘を3人儲け、ディーコンの名前は遺言にも登場する{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。遺言には他に十数名に及ぶ女性が遺産相続人として登場するが、これはすべてリットンの婚外子だという{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。ロジーナも愛人を作った{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。 |
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リットンは離婚を成立させるためにロジーナと彼女の愛人にスパイを付けて監視して脅し、ロジーナはこれに反抗して別居の生活費と子どもたちの養育費を得ようと彼を訴えた{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。ロジーナが初の小説『チーヴリー、あるいは名誉ある男』(''Cheveley, or, The man of honour''、1839年)で、あからさまに夫を思わせる主人公を、攻撃的で威圧的な女たらしに描いたことで、二人の険悪な別居はさらに悪化した<ref name="Clarke"/>。彼女は経済的困難もあり、結婚生活への不満を込め、[[ロマンティック・ラブ]]が女性を結婚という不平等なパートナーシップに陥れるやり口を探求した小説を生涯出版した{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}<ref name="Clarke"/><ref name="LCP"/>。リットンは地方議員に選出された日に集会でロジーナから公然と非難を受け、彼女を精神異常と決めつけ強制入院させたが、彼女の友人たちが大々的に抗議し、世論も批判し、3週間後に退院となった<ref name="Evans"/><ref name="LCP"/>。文壇およびロンドン社交界は夫婦どちらの味方をするかで二分されたと言われ、リットンは彼女の攻撃の激しさから政治家としての成功を断念している{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。 |
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1839年にロンドンで、『チーヴリー、あるいは名誉ある男』に対する風刺詩『チーヴリー夫人、あるいは名誉ある女』(''Lady Cheveley, or, The Woman of Honour'')が出版されたが、文学史家のマリー・マルヴィー・ロバーツによると、作者はおそらくリットン本人である<ref name="LCP">{{Cite web|url=https://librarycompany.org/2022/05/10/getting-even/|author=Cornelia King|title=Getting Even: The Mighty Pen of Lady Bulwer Lytton |
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|work=The Library Company of Philadelphia|date=2017.3.26|access-date=2024.06.02}}</ref>。本書では、不義を犯してはいるが実直なヴィクトリア朝的な夫と、安全な場所から夫に悪意を向ける卑怯者の妻という夫婦関係が描かれている<ref name="LCP"/>。 |
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二人は親としては子どもに対して自己中心的であり、ロジーナは子ども達を親友のミス・グリーンに預けて、ヨーロッパ各地を転々とした{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}。リットンの親友{{仮リンク|ジョン・フォスター (伝記作家)|label=ジョン・フォスター|en|John Forster (biographer)}}が息子ロバートの学校生活から私生活まで面倒を見ており、娘のエミリーはリットンから父に尽くすよう家父長制的な厳格な教育を受け従ったが、不可解な状況で10代で死亡した{{sfn|河村|2005|pp=88-89}}<ref name="The Comet"/>。調査した子孫は、エミリーは[[ポリオ]]を患い、女好きの父親とのトラブルや、自身の性関係に対する呵責等から生じた実存的危機によって、ロンドンの安宿でアヘンチンキを過剰摂取して自殺したと結論付けている<ref name="The Comet">{{Cite web|url=https://www.thecomet.net/news/22401677.breaking-open-mausoleum-solve-victorian-mystery---henry-lytton-cobbold-knebworth-house-charts-life-death-tragic-emily-bulwer-lytton-new-book/|author=|title=Breaking open the mausoleum to solve a Victorian mystery – Henry Lytton Cobbold of Knebworth House charts life and death of tragic Emily Bulwer-Lytton in new book|work=The Comet|date=2017.3.26|access-date=2024.06.02}}</ref>。ロバートもまた精神的に不安定だったが、[[インド総督]]に任命され、飢饉を悪化させて膨大な死者を出し、「インドの[[ネロ]]」と呼ばれた<ref name="Evans"/>。 |
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== 近代オカルティズムへの影響 == |
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リットンは子供の頃からスピリチュアルに魅了され、オカルトや[[霊薬|不老不死の妙薬]]に興味を持っており、不死はエリート層だけに与えられるものだと信じていた<ref name="Evans"/>。オカルトに関する膨大な蔵書を所有しおり、[[メスメリズム]]、{{仮リンク|水療法|en|Hydrotherapy}}、[[骨相学]]など、当時の最新のオカルト科学の流行をすべて読み漁っていた<ref name="Evans"/>。[[エーテル (物理学)|エーテル]]物理学・[[キリスト教神秘主義]]・[[錬金術]]の統合を提唱し秘教界に大きな影響力を持った{{仮リンク|メアリー・アン・アトウッド|en|Mary Anne Atwood}}の希少本『''A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery''』(1850年)の貴重な原本{{Refn|group="注"|錬金術では16 - 18世紀にかけて鉛を金に変えることが試みられていたが、19世紀にはこれが不可能であることが知られ、学問としての錬金術はより霊的・精神的な傾向を帯びるようになった。錬金術の研究者たちは、人類・魂・宇宙の関係を研究するようになり、外界や社会の影響から魂を遠ざけ、神が創造した原初の状態にまで魂を高めようと探求した。この錬金術の一派は[[ヘルメス主義]]として知られており、アトウッドと彼女の父親が興味を持っていた錬金術とはこれである。アウトウッドは長年の研究をまとめ、1850年に『''A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery''』として出版した。錬金術という学問分野を包括的に洞察した最初の作品で、現代に流行した錬金術の霊的・精神的な解釈を体系的に説いた最初の著作のひとつであり、19世紀の錬金術とヘルメス主義の流れにおいて重要な著作である。黄金の夜明け団の[[アーサー・エドワード・ウェイト]]等から高く評価された。父親は出版後に内容を確認し、隠されるべき秘密を寓意的な文章の中にわかるように書いてしまっていると考え、世に出た書籍の大部分を回収した。アウトウッドは錬金術協会を脱退し結婚して静かに暮らし、生前本書の再版を打診されたようだが、許可しなかった。彼女の死後、友人で[[神智学協会]]・黄金の夜明け団のメンバーだった{{仮リンク|イザベル・ド・スタイガー|en|Isabelle de Steiger}}が1918年に再販した。<ref>{{Cite web|url=https://blogs.kent.ac.uk/specialcollections/2020/02/11/women-science-mary-anne-atwood/|author= Joanna Baines|title=Women and Girls in Science: Mary Anne Atwood, alchemical thinker and spiritualist|work=Chasing Down Emma|date=2020.2.11|access-date=2024.06.02}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://roseobscurities.com/products/a-suggestive-inquiry-into-hermetic-mystery-by-mary-anne-atwood|author= |title=A Suggestive Inquiry Into Hermetic Mystery by Mary Anne Atwood|work=The Rose Books & Obscurities|date= |access-date=2024.06.02}}</ref>}}を所有していた{{sfn|Roukema|2020|p=34}}。また、[[エリファス・レヴィ]]の『魔術史』(''Histoire de la Magie''、1860年)も所蔵しており、本書でレヴィはメスメリストの{{仮リンク|デュ・ポテ男爵|en|Baron du Potet}}を称賛しており、リットンは彼の魔術的メスメリズムの影響を受けた可能性がある{{sfn|Roukema|2020|p=45-46}}。 |
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霊的存在への関心を描いた『''The Haunted and the Haunters''』(1859年)や『{{仮リンク|ザノーニ|en|Zanoni}}(''Zanoni'')』(1842年)、『不思議な物語(''The Strange Story'')』(1862年)、『{{仮リンク|来るべき種族|en|Vril}}』(1870年)等は、リットンの小説の中で一群を成しており、こうしたオカルト等への関心が社会から奇人変人と見られる理由ともなった{{sfn|河村|2005|p=91}}。 |
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『ザノーニ』は、ヨーロッパの上流社会に突如現れた金持ちの青年、実は不老不死で超人的な力を持つザノーニを主人公とするオカルト小説で、彼は秘密のオカルト組織である[[薔薇十字団]]の生き残った2人のうちの1人であり、さらに古い、おそらく聖書時代の[[カルデア]]人だったことが示唆される<ref name="Evans"/>。彼の師はオカルト的に優良人種を創る計画を立てる<ref name="Evans"/>。小説の最後では、[[フランス革命|革命期フランス]]の流血の惨事が描かれ(霊的なヒエラルキーを信じる魔術師ザノーニは革命を支持せず、平等を信じない)、ザノーニは愛する者のために自らを犠牲にする<ref name="Evans"/>。 |
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ザノーニの恋人を名乗る{{仮リンク|境界の守護者|en|Guardian of the Threshold}}の[[サキュバス]]が登場し、これは、永遠の命を得るには精霊を恋人にしなければならないという薔薇十字団の秘密の教えを表していると言われる<ref name="Evans"/>。境界の守護者というアイデアはリットンが発明したもので、オカルティストの[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]や[[ルドルフ・シュタイナー]]はこの概念に言及しており、[[デヴィッド・リンチ]]のドラマ「[[ツイン・ピークス]]」にもインスピレーションを与えた<ref name="Evans"/>。 |
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リットンは、合理主義者でありながらオカルトに魅了された[[ウィリアム・ゴドウィン]](『[[フランケンシュタイン]]』の作者[[メアリー・シェリー]]の父)の友人であり弟子で、ゴドウィンやシェリーによる初期の「薔薇十字団小説」に影響を受けた可能性が高い<ref name="Evans"/>。また、18世紀のパリに現れ300歳だと主張したオカルティストで冒険家の[[サンジェルマン伯爵]]の物語にも影響を受けている<ref name="Evans"/>。 |
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リットンは年をとるにつれ大衆の[[民主主義]]への警戒・貴族階級のエリート主義への傾斜を強め、このテーマを、最後の小説である1870年のSF小説『来たるべき種族』の中で探求した<ref name="Evans"/>。本作は、[[チャールズ・ダーウィン]]の『[[種の起源]]』の出版と、[[ネアンデルタール人]]等の他の人類の頭蓋骨の発見に触発されたものである<ref name="Evans"/>。肉体的にも霊的・精神的にも人類より優れ、遺伝的な魔法の力ヴリルを操る種族ヴリル=ヤとの邂逅が描かれ、ヴリル=ヤが人類にとって致命的な存在であることが示される<ref name="Evans"/>。ヴリル=ヤは貴族制の共和国であり、階級は認めないが、ブリルを使えない人間を劣った野蛮人と蔑視し、敵対すると躊躇なく絶滅させてしまう<ref name="Evans"/>。様々な読みが可能な小説であるが、霊的進化とオカルト[[優生学]]という側面を読み取ることができ、神智学には霊的進化という考えが取り入れられている<ref name="Evans"/>。 |
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[[ヘレナ・P・ブラヴァツキー]]の母がリットンのオカルト小説をロシア語に翻訳し、若きブラヴァツキーはそれを夢中で読み、その思想を彼女の[[神智学]]に取り入れた<ref name="Evans"/>。彼女は小説を宗教的神話に作り替え、人類の進化を導き新しい超人種を作ろうとする「マスター」と呼ばれる秘密の超人組織と接触していると主張した<ref name="Evans"/>。[[黄金の夜明け団]]も、少なくとも部分的にはリットンの『ザノーニ』に影響を受けており、[[アレイスター・クロウリー]]は本書を魔術師に推奨した<ref name="Evans"/>。研究者のジュール・エヴァンスは、「[[秘密の首領|超人的な存在の秘密結社]]」というアイデアは、黄金の夜明け団系のオカルティスト・小説家の[[アルジャーノン・ブラックウッド]]と[[ダイアン・フォーチュン]]から、『[[スター・ウォーズ]]』、『[[デューン (小説)|デューン]]』、『[[ハリー・ポッター]]』まで、後のファンタジー小説に影響を与えたと述べている<ref name="Evans">{{Cite web|url=https://medium.com/spiritual-eugenics/7-edward-bulwer-lytton-and-the-coming-race-102c2925a986|author=Jules Evans |title=7. Edward Bulwer-Lytton and the Coming Race(エドワード・ブルワー=リットンと来るべき種族)|work=medium|date=2021.12.31|access-date=2024.05.26}}</ref>。 |
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[[神智学協会]]の設立メンバーの一人で霊媒の[[エマ・ハーディング・ブリテン]]は、少女時代リットンらが所属していたオカルティスト達のグループの霊媒だったと主張している<ref name="Demarest">{{Cite web|url=https://ehbritten.blogspot.com/2009/03/trout-in-milk-plotting-orphic-circle.html|author=Marc Demarest|title=A Trout In The Milk: Plotting The Orphic Circle|work=Chasing Down Emma|date=2009.3.25|access-date=2024.06.01}}</ref>。[[黄金の夜明け団]]の{{仮リンク|モイナ・メイザース|en|Moina Mathers}}は、リットンは黄金の夜明け団設立の契機となった暗号文書を書いたともいわれる{{仮リンク|ケネス・マッケンジー|en|Kenneth R. H. Mackenzie}}の大親友であったと述べているが、ブリティッシュ・コロンビア大学のアレン・ルーケマは、これはいささか疑わしいと評している{{sfn|Roukema|2020|p=34}}。リットンはその名声と社会的地位の高さから、後世では、オカルティスト・ネットワークにおける地位が拡大解釈される傾向がある{{sfn|Roukema|2020|p=34}}。 |
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[[ゲオルギイ・グルジエフ]]のグループの一員だった{{仮リンク|ルイ・ポーウェル|en|Louis Pauwels}}と化学技術者の{{仮リンク|ジャック・ベルジェ|en|Jacques Bergier}}の1960年のベストセラー『{{仮リンク|魔術師の朝|en|The Morning of the Magicians}}』(邦題:神秘学大全 -魔術師が未来の扉を開く)により、 『来たるべき種族』は[[サイケデリック]]な[[ヒッピー]]の間で新たな人気を博した<ref name="Evans"/>。ヴリル=ヤというスピリチュアルな超人種の概念は彼らにとって非常に魅力的で、自分たちをこの超人種だと考えるヒッピーも少なくなかった<ref name="Evans"/>。小説家としての人気は衰えたものの、彼の影響力は[[ニューエイジ]]に生き続けている<ref name="Evans"/>。 |
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== 日本におけるリットン == |
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日本では[[明治維新]]によって西欧の新知識に触れることができるようになり、西洋小説も[[明治時代]]から翻訳されるようになった。西洋小説で真っ先に翻訳されたのがリットンや[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の政治小説だった<ref>平凡社『[[世界大百科事典]]』【イギリス文学】の項目</ref>。日本で最初に翻訳された西洋小説は、リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を丹羽淳一郎が訳した『[https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=41016265 欧州奇事 花柳春話]』([[明治11年]])である{{sfn|杉原四郎編|1995|pp=107-108}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8691166_po_kou.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 清末政治小説の術語、概念の形成と明治政治小説との関わり]寇振鋒、 (名古屋大学, 2007-11-15) 掲載雑誌名:言語文化論集. 29(1) </ref>。[[河竹黙阿弥]]も明治12年(1879年)にリットンの戯曲『マネー』を翻案して[[歌舞伎]]演目『[[人間万事金世中]]』を書いた。 |
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また日本では、孫の第2代[[リットン伯爵]][[ヴィクター・ブルワー=リットン]]は[[リットン調査団]]の団長として有名である。 |
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== 著作 == |
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=== 小説 === |
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{{Div col|colwidth=30em}} |
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*『フォークランド(Falkland)』 (1827年)<ref name="Drabble2000pp147">{{Cite book |last=Drabble |first=Margaret |year=2000 |title=The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford, New York |isbn=0-19-866244-0 |oclc=}}</ref> |
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*『ペラム(Pelham: or The Adventures of a Gentleman)』 (1828年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7623 Available online] |
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*『The Disowned』 (1829年) |
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*『デヴァルー(Devereux)』 (1829年) |
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*『{{仮リンク|ポール・クリフォード|en|Paul Clifford}}』 (1830年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7735 Available online] |
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*『{{仮リンク|ユージン・アラム (小説)|label=ユージン・アラム|en|Eugene Aram (novel)}}』 (1832年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7614 Available online] |
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*『{{仮リンク|ゴドルフィン (小説)|label=ゴドルフィン|en|Godolphin (novel)}}』 (1833年) |
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*『{{仮リンク|野放しのアスモデウス|en|Asmodeus at Large (novel)}}』 (1833年) |
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*『[[ポンペイ最後の日 (ブルワー=リットンの小説)|ポンペイ最後の日]]』 (1834年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/1565 Available online] |
|||
*『The Pilgrims of the Rhine』 (1834年) |
|||
*『Rienzi, the last of the Roman tribunes』 (1835年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/1396 Available online] |
|||
*『The Student』 (1835年) |
|||
*『Calderon, the Courtier』 (1838年) |
|||
*『{{仮リンク|レイラ グラナダ包囲戦|en|Leila; or, The Siege of Granada}}』 (1838年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/9761 Available online] |
|||
*『Zicci: a Tale』 (1838年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7608 Available online] |
|||
*『Night and Morning』 (1841年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/9755 Available online] |
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*『{{仮リンク|ザノーニ|en|Zanoni}}』 (1842年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/2664 Available online] |
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*『[[:en:The Last of the Barons|The Last of the Barons]]』 (1843年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7727 Available online] |
|||
*『Lucretia』 (1846年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7691 Available online] |
|||
*『Harold, the Last of the Saxons』 (1848年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7684 Available online] |
|||
*『[[:en:The Caxtons|The Caxtons: A Family Picture]]』 (1849年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7605 Available online] |
|||
*『My Novel, or Varieties in English Life』 (1853年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『The Haunted and the Haunters'' or ''The House and the Brain』 (1859年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/17953 Available online] |
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*『What Will He Do With It?』 (1858年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『不思議な物語』''The Strange Story'' (1862年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7701 Available online] |
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*『{{仮リンク|来るべき種族|en|Vril}}』(別題『ヴリル』)''The Coming Race'' (1871年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/1951 Available online] |
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*『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』 (1873年) |
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*『The Parisians』 (1873)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『Pausanias, the Spartan』 (1873年) 未完成 |
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=== シリーズ === |
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#『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年) |
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#『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 [http://www.gutenberg.org/ebooks/9774 Available online] |
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{{Div col end}} |
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=== 詩 === |
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*『Ismael』 (1820年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『The New Timon』 (1846年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『King Arthur』(1848–1849)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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=== 脚本 === |
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{{Div col|colwidth=30em}} |
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*『The Duchess de la Vallière』 (1837年) |
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*『{{仮リンク|リヨンの女|en|The Lady of Lyons}}』 (1838年)<ref>{{Cite web|url=http://www.gutenberg.org/ebooks/2461|title=The Lady of Lyons; Or, Love and Pride|first=Edward Bulwer Lytton|last=Lytton|date=1 January 2001|via=Project Gutenberg|access-date=2 October 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141006084037/http://www.gutenberg.org/ebooks/2461|archive-date=6 October 2014|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |
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*『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』 (1839年), 1935年に『{{仮リンク|枢機卿リシュリュー (映画)|label=枢機卿リシュリュー|en|Cardinal Richelieu (film)}}』として映画化 |
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*『{{仮リンク|マネー (演劇)|label=マネー|en|Money (play)}}』 (1840年) |
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*『[[:en:Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts|Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts]]』 (1851年) |
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*『The Rightful Heir』 (1868), based on ''The Sea Captain'', an earlier play of Lytton's |
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*『Walpole, or Every Man Has His Price』 |
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*『Darnley』 (未完成) |
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{{Div col end}} |
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== ボヴリルの由来 == |
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イギリスなどでメジャーな、薄めて飲む牛肉エキス(ビーフ・ティー)[[マーマイト#類似する食品|ボヴリル]](Bovril)の商品名は、開発者が強壮的特質をアピールするために、『来るべき種族』に出てくる「ヴリル」に、ラテン語で「雄牛」や「雌牛」を意味する「Bos」(属格のbovis)の最初の2文字を合体させて命名した{{sfn|竹内・和田|2007}}。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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===注釈=== |
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{{Notelist2}} |
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===出典=== |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|last=ブレイク|first=ロバート|translator=[[谷福丸]]|editor=灘尾弘吉監修|editor-link=灘尾弘吉|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|editor=杉原四郎|editor-link=杉原四郎|date=1995年(平成7年)|title=近代日本とイギリス思想|publisher=[[日本経済評論社]]|isbn=978-4818808201|ref={{SfnRef|杉原四郎編|1995}}}} |
|||
*{{Cite journal |和書 |author =河村民部|title =書評 Leslie Mitchell, Bulwer Lytton: The Rise and Fall of a Victorian Man of Letters(レズリー・ミッチェル著『ブルワー・リットン―あるヴィクトリア朝文人の盛衰史』)|volume = 3 |issue = |journal =ヴィクトリア朝文化研究|publisher =日本ヴィクトリア朝文化研究学会|date = 2005-11|pages =87-92|crid =1520572360424273920|url=http://www.vssj.jp/journal/3/reviews-3.pdf|ref = {{SfnRef|河村|2005}}}} |
|||
*{{Cite journal |和書 |author =竹内次男・和田積希|title =ボヴリル・ポスターを巡る二三の話題|volume = 16 |issue = |journal =KITnews|publisher =京都工芸繊維大学 美術工芸資料館|date = 2007.11|pages =23-24|crid =|url=https://www.museum.kit.ac.jp/img/kitnews16.pdf|ref = {{SfnRef|竹内・和田|2007}}}} |
|||
*{{Cite journal |author =Aren Roukema|title =Early science fiction and occultism|volume = |issue = |journal =|publisher =Birkbeck, University of London|date = 2020.1|url=https://eprints.bbk.ac.uk/id/eprint/45820/1/Roukema%20%E2%80%94%20Early%20SF%20and%20Occultism%E2%80%94Final.pdf|ref = {{SfnRef|Roukema|2020}}}} |
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== 関連項目 == |
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*{{仮リンク|リットン (クイーンズランド)|en|Lytton, Queensland}} - リットン男爵の名にちなむ[[ブリスベン]]郊外の地名 |
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*[[ブリル協会]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Library resources box |by=yes |onlinebooksby=yes |viaf=99871326}} |
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{{Commons|Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}} |
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*{{Hansard-contribs |mr-edward-bulwer |Lord Lytton}} |
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* {{青空文庫著作者|1089|リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー}} |
* {{青空文庫著作者|1089|リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー}} |
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* [ |
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/pompeii/pompeii-toc.html ブルワー=リットン著 ポンペイ最後の日] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
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* {{Internet Archive author|name=Edward Bulwer-Lytton}} |
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* {{Gutenberg author|761}} |
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* {{OL author}} |
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* {{Librivox author|id=868}} |
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* {{NPG name}} |
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* {{UK National Archives ID}} |
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* {{Wikisource author-inline||エドワード・ブルワー=リットン}} |
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* {{Commons&cat-inline|Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}} |
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* {{Wikiquotelang-inline|en|Edward Bulwer-Lytton}} |
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{{S-start}} |
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{{S-par|uk1801}} |
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{{s-bef |
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| before ={{仮リンク|ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー (第4代モーニントン伯爵)|label=ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー|en|William Pole-Tylney-Long-Wellesley, 4th Earl of Mornington}} |
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| before2 = {{仮リンク|ジェイムズ・モリソン (実業家)|label=ジェイムズ・モリソン|en|James Morrison (businessman)}} |
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| title = {{仮リンク|セント・アイヴス選挙区|en|St Ives (UK Parliament constituency)}}選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
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{{s-ttl |
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| title = {{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員 |
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| with = {{仮リンク|トマス・プルーマー・ハルゼイ|en|Thomas Plumer Halsey}}(1854年まで) |
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| with2 = {{仮リンク|ヘンリー・ミュークス (第2代準男爵)|label=サー・ヘンリー・ミュークス準男爵|en|Sir Henry Meux, 2nd Baronet}}(1847年–59年) |
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| with4 = {{仮リンク|クリストファー・ウィリアム・プラー|en|Christopher William Puller}}(1857年–64年) |
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| with5 = {{仮リンク|アベル・スミス (1829年-1898年)|label=アベル・スミス|en|Abel Smith (1829–1898)}}(1859年–65年) |
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}} |
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| after = {{仮リンク|ヘンリー・サーティース (庶民院議員)|label=ヘンリー・サーティース|en|Henry Surtees (MP)}} |
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初代リットン男爵エドワード・ブルワー=リットン Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton | |
---|---|
ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギルによるリットン男爵の肖像(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵) | |
生年月日 | 1803年5月25日 |
出生地 | イギリス・イングランド・ロンドン・ベイカー・ストリート |
没年月日 | 1873年1月18日(69歳没) |
出身校 |
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ ケンブリッジ大学トリニティ・ホール |
所属政党 | ホイッグ党 → 保守党 |
称号 | 枢密顧問官(PC) |
配偶者 | ロジーナ・ブルワー=リットン(旧姓ウィーラー) |
親族 |
初代リットン伯爵(子) 第2代リットン伯爵(孫) |
内閣 | 第2次ダービー内閣 |
在任期間 | 1858年6月5日 - 1859年6月11日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
リンカーン選挙区 ハートフォードシャー選挙区 |
在任期間 |
1832年12月10日 - 1841年6月29日 1852年7月7日 - 1866年7月14日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1866年7月14日 - 1873年1月18日 |
初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン(英: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC、1803年5月25日 - 1873年1月18日)は、イギリスの小説家、劇作家、政治家、貴族。一時はチャールズ・ディケンズに匹敵する程の人気を誇った。小説『ポンペイ最後の日』(The Last Days of Pompeii )が代表作として知られており、オカルト小説『ザノーニ』やSFユートピア小説『来たるべき種族』で近代オカルティズムに多大な影響を与え、ヒッピーやニューエイジにも影響が見られる[2]。戯曲『リシュリュー』(Richelieu; Or the Conspiracy)に登場する文句「ペンは剣よりも強し」(“The pen is mightier than the sword”)」は名高い。政治家としては1858年から1859年にかけて保守党政権の植民地大臣を務めたことが特筆される。
経歴
[編集]1803年5月25日にノーフォーク・ヘイドン・ホールを本拠とする地主で陸軍大将のウィリアム・アール・ブルワー(William Earle Bulwer)とその妻でクネブワースのロビンソン家とリットン家の相続人であるエリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間の三男(末子)としてロンドン・ベイカー・ストリートに生まれる[3][4]。生誕時の名前は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)[3]。リットンは父親や母方の祖父母には完全に存在を無視されて育ち、唯一母のエリザベスが彼を溺愛した[5]。彼女は夫ウィリアムの気性の激しさから、1年も経たないうちに大法院に子供たちの後見人を求めた[6]。ナポレオン軍の侵攻を予期していたイギリス政府は、ウィリアムをランカシャー州の軍司令官に任命して同州の防衛に当たらせたが、1807年7月に祖国への貢献が認められ貴族に昇格する前に死去した[6]。
子ども時代の大半を母方の館ネブワースで読書三昧で育ち、この館は彼にとって理想郷であり、彼がつねに回帰する貴族主義的ロマン派的信念を形成する源となった(後に母の遺産として相続)[5]。家庭教師はつけられたが、定まった学校に通うことはなく、学校に通ったときは、際立って利発であったためにいじめにあうことが多く、おおむね独学だった[5]。イートン校入学も自ら断っている[5]。
1820年の夏、ケンブリッジ大学進学準備中に、湖水地方で「ルーシー」という少女に恋をし、これが彼の理想の女性像を決定付けた[7]。彼女は父親に不本意な結婚をさせられて突然姿を消し、リットンはバイロン風の憂鬱に陥った[6]。ルーシーは、まだ彼に恋しておりもうすぐ死ぬと手紙で訴え、死去した[6]。自伝によると、リットンは彼女の墓の前で泣き崩れ、作家になる決心をしたという。彼女は、リットンの小説で繰り返し描かれる、保護を求める孤独な女性のモデルとなった[7]。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、ついで同大学のトリニティ・ホールで学ぶ[4]。ケンブリッジ大学でも、優れた才能にもかかわらず、横柄さから友人はほとんどできず、孤独を深める[5]。ケンブリッジ在学中に一時バイロンの元愛人のキャロライン・ラムと愛人関係を持っていた[8]。後に妻となるロジーナはラムの庇護下にあり、ラムとの関係がロジーナとの結婚に間接的につながっている[6]。ドイツ文学のゲーテとシラーが学びの基盤となり、後の小説は「遍歴」「修行」がテーマになっているものが多い[5]。
パーティーで機知に富んだ美しいアイルランド人の女性ロジーナ・ドイル・ウィーラーと出会い、1827年に結婚したが、リットンの母はこの結婚に不満で、息子への小遣いをカットした[6]。夫婦は贅沢な生活を送ったため、リットンは収入のために多作の作家となった[6]。
1827年にゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けた悲劇的小説『Falkland』を出版した。さらに1828年6月には『ペラム(Pelham)』を出版[4]。これはベンジャミン・ディズレーリの「ビビアン・グレイ」に多分に影響を受けていた作品で、ダンディ・ノベルとして知られ、センセーションを巻き起こした[8]。1830年頃からディズレーリの友人になった[8]。1830年に『ポール・クリフォード』を出版し、獄中の犯罪者を扱ったニューゲイト・ノベルの走りとなった[9]。このような社会道徳規範に挑戦する小説で当初名を挙げたが、イギリスの批評家たちから批判され、プライドを傷つけられ、イギリス文壇と確執が生じ、生涯文壇周縁部に追いやられることになる[9]。いったん名声を得てからは、村の生活、単純素朴な価値、家族の絆の大切さを謳うといった社会が求める理想的な価値観を作中で表し、無私で高貴な価値と社会の調和を保った理想的な過去へと読者を誘い、慰めを与えた[9]。
社交界ではブレッシントン伯爵夫人マルグリット・ガーディナーの文芸サロンのゴア・ハウスに出入りしたが、彼女のサロンはロンドン社交界でも悪名高い方の一派を自任し、イギリスきってのダンディが勢ぞろいし、リットンのダンディぶりは異彩を放った[10]。ゴア・ハウスにはベンジャミン・ディズレーリやチャールズ・ディケンズもおり、リットンは西洋占星術と水晶占い[注 1]の専門家として、上の世代のイギリスのオカルティストとのパイプ役だったジョン・ヴァーリーと肩を並べた[12]。主流派の社交界とゴア・ハウスは完全に分かれており、リットンは社交界でも周縁に位置することになり、彼は自分の才能を認めないイギリスの批評家と読者を猛烈に批判し、イギリス人嫌いを強め、ドイツ・イタリア・フランスの批評家を賛美した[10]。
1831年4月30日にセント・アイヴス選挙区から選出されてホイッグ党の庶民院議員となる[4]。1832年からはリンカーン選挙区から選出される。1838年には準男爵に叙せられた。しかし1841年の総選挙では落選の憂き目を見た[4]。リットンは知性と発想は優れていても、公の場での演説は不得手で、ごく短期間を除き、政治家として一流になることはなかった[10]。
この間も小説を精力的に執筆し、1832年には『ユージン・アラム』、1833年には『ゴドルフィン』、1834年には『ポンペイ最後の日』と『The Pilgrims of the Rhine』、1835年には『Rienzi』、1837年には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、1841年には『Night and Morning』、1842年にはオカルト小説『ザノーニ』を出版した[4]。1833年から1834年のロジーナとのイタリア旅行が、『Rienzi』『ポンペイ最後の日』等のイタリアを舞台にした作品や研究書に結実した[6]。
同時期に劇作家としても活躍し、1836年には最初の演劇脚本『The Duchess de la Vallière』を書いた。これは興行的に失敗に終わったものの、1838年の『The Lady of Lyons』では大きな成功を収めた[4]。 さらに1839年には『リシュリュー』、1840年には『マネー』といった脚本も書いた[4]。
1841年に議席を失った後、ドイツ旅行に出た[4]。1843年に歴史小説『The Last of the Barons』を出版した[4]。1843年12月の母の死によりリットン家のネブワースの土地であるネブワース・ハウスを相続し[4]、1844年2月20日には勅許を得て「ブルワー=リットン」姓に改姓した[3]。1846年には小説『Confessions of a Water Patient』、詩『The New Timon』、1848年には歴史小説『Harold』と叙事詩『King Arthur』、1849年には小説『The Caxtons: A Family Picture』を出版[4]。1849年にはコメディの脚本『Not so bad as we seem』を書いた[4]。
1852年にハートフォードシャー選挙区から選出されて再び庶民院議員となる。農業保護の貴族主義こそがイギリス社会の伝統的な特質であると強く主張し、フランスやアメリカ流の民主主義への移行に警鐘を鳴らし、穀物法廃止に反対[13]。そのため保守党の議員となった。以降1866年に貴族院議員に列するまでこの議席を保持したが[4]、その考えは政治家としては時代遅れになっていった[13]。
1858年から1859年にかけては保守党政権第2次ダービー伯爵内閣において植民地大臣を務めた[4]。植民地大臣としてブリティッシュ・コロンビア植民地の創設にあたった。これは金鉱の発掘と人口流入のため必要となったものである。またオーストラリアでは、クイーンズランド州をニューサウスウェールズ州から分離させた。植民地各地の町で彼の名にちなむリットンという名前への改名が行われた[4]。
植民地大臣退任後は政治的活動は少なくなった。公職引退後は、イギリスの未来に不安を抱き、民主主義が崩壊していくことを小説に描いた[13]。1862年には『A Strange Story』、さらに後に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版した[4]。
1866年7月に第3次ダービー伯爵内閣が成立した際に連合王国貴族爵位リットン男爵に叙されて貴族院議員に列した[4]。
1870年には、人間より優れた種族による民主主義を超えた理想的な地下世界を描いたSFユートピア小説『来たるべき種族』を出版[13]。
1873年1月18日に死去[4]。爵位は一人息子のロバート・ブルワー=リットンが継承した。
爵位/準男爵位
[編集]1838年7月18日に以下の準男爵位を新規に叙された[3]。
- (ハートフォード州におけるネブワースの)初代準男爵(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")
- (勅許状による連合王国準男爵位)
- ハートフォード州におけるネブワースの初代リットン男爵 (1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
家族
[編集]1827年8月29日にロジーナ・ドイル・ウィーラー(Rosina Doyle Wheeler)[注 2]と結婚[2]。彼女との間に以下の2子を儲けた。
- エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン (Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年不明-1848年)
- エドワード・ロバート・ブルワー=リットン (Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891) - 初代リットン伯、第2代リットン男爵。インド総督
結婚当初の関係は良好だったが、リットンは気性が激しく、贅沢な結婚生活のために多くの収入を得ようと多作で、政治活動もあり、忙しさのためにしばしば怒りっぽくなり、家族をないがしろにし、不倫し、夫婦関係には緊張が生じ、二人は激しい喧嘩を繰り返すようになった[6]。互いに親がいないという境遇に惹かれ合っての結婚だったが、家父長制を身上とするリットンと女性の自立を掲げる女権論者ロジーナの結婚生活は、凄まじい喧嘩と衝突の連続となり、互いを身体的にも攻撃していた[2][7]。さらにリットンの母親によるロジーナへの軽蔑が、生涯にわたって二人の関係を悪化させた[7]。1833年から1834年の夫婦でのイタリア旅行で結婚生活は終わりとなり、1836年に法的に別居した[6]。リットンは母の遺産を相続して大金持ちになったが、ロジーナに離婚を認めさせようと彼女の金銭の使用を制限し、ロジーナも離婚には賛成だったが、リットンが示した離婚の条件はロジーナの生活に十分なものではなく、困窮に苦しんだ[15]
リットンは次々愛人を作り、ローラ・ディーコン(Laura Deacon)との間に娘を3人儲け、ディーコンの名前は遺言にも登場する[7]。遺言には他に十数名に及ぶ女性が遺産相続人として登場するが、これはすべてリットンの婚外子だという[7]。ロジーナも愛人を作った[7]。
リットンは離婚を成立させるためにロジーナと彼女の愛人にスパイを付けて監視して脅し、ロジーナはこれに反抗して別居の生活費と子どもたちの養育費を得ようと彼を訴えた[7]。ロジーナが初の小説『チーヴリー、あるいは名誉ある男』(Cheveley, or, The man of honour、1839年)で、あからさまに夫を思わせる主人公を、攻撃的で威圧的な女たらしに描いたことで、二人の険悪な別居はさらに悪化した[14]。彼女は経済的困難もあり、結婚生活への不満を込め、ロマンティック・ラブが女性を結婚という不平等なパートナーシップに陥れるやり口を探求した小説を生涯出版した[7][14][15]。リットンは地方議員に選出された日に集会でロジーナから公然と非難を受け、彼女を精神異常と決めつけ強制入院させたが、彼女の友人たちが大々的に抗議し、世論も批判し、3週間後に退院となった[2][15]。文壇およびロンドン社交界は夫婦どちらの味方をするかで二分されたと言われ、リットンは彼女の攻撃の激しさから政治家としての成功を断念している[7]。
1839年にロンドンで、『チーヴリー、あるいは名誉ある男』に対する風刺詩『チーヴリー夫人、あるいは名誉ある女』(Lady Cheveley, or, The Woman of Honour)が出版されたが、文学史家のマリー・マルヴィー・ロバーツによると、作者はおそらくリットン本人である[15]。本書では、不義を犯してはいるが実直なヴィクトリア朝的な夫と、安全な場所から夫に悪意を向ける卑怯者の妻という夫婦関係が描かれている[15]。
二人は親としては子どもに対して自己中心的であり、ロジーナは子ども達を親友のミス・グリーンに預けて、ヨーロッパ各地を転々とした[7]。リットンの親友ジョン・フォスターが息子ロバートの学校生活から私生活まで面倒を見ており、娘のエミリーはリットンから父に尽くすよう家父長制的な厳格な教育を受け従ったが、不可解な状況で10代で死亡した[7][16]。調査した子孫は、エミリーはポリオを患い、女好きの父親とのトラブルや、自身の性関係に対する呵責等から生じた実存的危機によって、ロンドンの安宿でアヘンチンキを過剰摂取して自殺したと結論付けている[16]。ロバートもまた精神的に不安定だったが、インド総督に任命され、飢饉を悪化させて膨大な死者を出し、「インドのネロ」と呼ばれた[2]。
近代オカルティズムへの影響
[編集]リットンは子供の頃からスピリチュアルに魅了され、オカルトや不老不死の妙薬に興味を持っており、不死はエリート層だけに与えられるものだと信じていた[2]。オカルトに関する膨大な蔵書を所有しおり、メスメリズム、水療法、骨相学など、当時の最新のオカルト科学の流行をすべて読み漁っていた[2]。エーテル物理学・キリスト教神秘主義・錬金術の統合を提唱し秘教界に大きな影響力を持ったメアリー・アン・アトウッドの希少本『A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery』(1850年)の貴重な原本[注 3]を所有していた[12]。また、エリファス・レヴィの『魔術史』(Histoire de la Magie、1860年)も所蔵しており、本書でレヴィはメスメリストのデュ・ポテ男爵を称賛しており、リットンは彼の魔術的メスメリズムの影響を受けた可能性がある[19]。
霊的存在への関心を描いた『The Haunted and the Haunters』(1859年)や『ザノーニ(Zanoni)』(1842年)、『不思議な物語(The Strange Story)』(1862年)、『来るべき種族』(1870年)等は、リットンの小説の中で一群を成しており、こうしたオカルト等への関心が社会から奇人変人と見られる理由ともなった[13]。
『ザノーニ』は、ヨーロッパの上流社会に突如現れた金持ちの青年、実は不老不死で超人的な力を持つザノーニを主人公とするオカルト小説で、彼は秘密のオカルト組織である薔薇十字団の生き残った2人のうちの1人であり、さらに古い、おそらく聖書時代のカルデア人だったことが示唆される[2]。彼の師はオカルト的に優良人種を創る計画を立てる[2]。小説の最後では、革命期フランスの流血の惨事が描かれ(霊的なヒエラルキーを信じる魔術師ザノーニは革命を支持せず、平等を信じない)、ザノーニは愛する者のために自らを犠牲にする[2]。
ザノーニの恋人を名乗る境界の守護者のサキュバスが登場し、これは、永遠の命を得るには精霊を恋人にしなければならないという薔薇十字団の秘密の教えを表していると言われる[2]。境界の守護者というアイデアはリットンが発明したもので、オカルティストのヘレナ・P・ブラヴァツキーやルドルフ・シュタイナーはこの概念に言及しており、デヴィッド・リンチのドラマ「ツイン・ピークス」にもインスピレーションを与えた[2]。
リットンは、合理主義者でありながらオカルトに魅了されたウィリアム・ゴドウィン(『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーの父)の友人であり弟子で、ゴドウィンやシェリーによる初期の「薔薇十字団小説」に影響を受けた可能性が高い[2]。また、18世紀のパリに現れ300歳だと主張したオカルティストで冒険家のサンジェルマン伯爵の物語にも影響を受けている[2]。
リットンは年をとるにつれ大衆の民主主義への警戒・貴族階級のエリート主義への傾斜を強め、このテーマを、最後の小説である1870年のSF小説『来たるべき種族』の中で探求した[2]。本作は、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』の出版と、ネアンデルタール人等の他の人類の頭蓋骨の発見に触発されたものである[2]。肉体的にも霊的・精神的にも人類より優れ、遺伝的な魔法の力ヴリルを操る種族ヴリル=ヤとの邂逅が描かれ、ヴリル=ヤが人類にとって致命的な存在であることが示される[2]。ヴリル=ヤは貴族制の共和国であり、階級は認めないが、ブリルを使えない人間を劣った野蛮人と蔑視し、敵対すると躊躇なく絶滅させてしまう[2]。様々な読みが可能な小説であるが、霊的進化とオカルト優生学という側面を読み取ることができ、神智学には霊的進化という考えが取り入れられている[2]。
ヘレナ・P・ブラヴァツキーの母がリットンのオカルト小説をロシア語に翻訳し、若きブラヴァツキーはそれを夢中で読み、その思想を彼女の神智学に取り入れた[2]。彼女は小説を宗教的神話に作り替え、人類の進化を導き新しい超人種を作ろうとする「マスター」と呼ばれる秘密の超人組織と接触していると主張した[2]。黄金の夜明け団も、少なくとも部分的にはリットンの『ザノーニ』に影響を受けており、アレイスター・クロウリーは本書を魔術師に推奨した[2]。研究者のジュール・エヴァンスは、「超人的な存在の秘密結社」というアイデアは、黄金の夜明け団系のオカルティスト・小説家のアルジャーノン・ブラックウッドとダイアン・フォーチュンから、『スター・ウォーズ』、『デューン』、『ハリー・ポッター』まで、後のファンタジー小説に影響を与えたと述べている[2]。
神智学協会の設立メンバーの一人で霊媒のエマ・ハーディング・ブリテンは、少女時代リットンらが所属していたオカルティスト達のグループの霊媒だったと主張している[20]。黄金の夜明け団のモイナ・メイザースは、リットンは黄金の夜明け団設立の契機となった暗号文書を書いたともいわれるケネス・マッケンジーの大親友であったと述べているが、ブリティッシュ・コロンビア大学のアレン・ルーケマは、これはいささか疑わしいと評している[12]。リットンはその名声と社会的地位の高さから、後世では、オカルティスト・ネットワークにおける地位が拡大解釈される傾向がある[12]。
ゲオルギイ・グルジエフのグループの一員だったルイ・ポーウェルと化学技術者のジャック・ベルジェの1960年のベストセラー『魔術師の朝』(邦題:神秘学大全 -魔術師が未来の扉を開く)により、 『来たるべき種族』はサイケデリックなヒッピーの間で新たな人気を博した[2]。ヴリル=ヤというスピリチュアルな超人種の概念は彼らにとって非常に魅力的で、自分たちをこの超人種だと考えるヒッピーも少なくなかった[2]。小説家としての人気は衰えたものの、彼の影響力はニューエイジに生き続けている[2]。
日本におけるリットン
[編集]日本では明治維新によって西欧の新知識に触れることができるようになり、西洋小説も明治時代から翻訳されるようになった。西洋小説で真っ先に翻訳されたのがリットンやディズレーリの政治小説だった[21]。日本で最初に翻訳された西洋小説は、リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を丹羽淳一郎が訳した『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)である[22][23]。河竹黙阿弥も明治12年(1879年)にリットンの戯曲『マネー』を翻案して歌舞伎演目『人間万事金世中』を書いた。
また日本では、孫の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンはリットン調査団の団長として有名である。
著作
[編集]小説
[編集]- 『フォークランド(Falkland)』 (1827年)[24]
- 『ペラム(Pelham: or The Adventures of a Gentleman)』 (1828年)[24] Available online
- 『The Disowned』 (1829年)
- 『デヴァルー(Devereux)』 (1829年)
- 『ポール・クリフォード』 (1830年) Available online
- 『ユージン・アラム』 (1832年) Available online
- 『ゴドルフィン』 (1833年)
- 『野放しのアスモデウス』 (1833年)
- 『ポンペイ最後の日』 (1834年) Available online
- 『The Pilgrims of the Rhine』 (1834年)
- 『Rienzi, the last of the Roman tribunes』 (1835年)[24] Available online
- 『The Student』 (1835年)
- 『Calderon, the Courtier』 (1838年)
- 『レイラ グラナダ包囲戦』 (1838年) Available online
- 『Zicci: a Tale』 (1838年) Available online
- 『Night and Morning』 (1841年) Available online
- 『ザノーニ』 (1842年) Available online
- 『The Last of the Barons』 (1843年) Available online
- 『Lucretia』 (1846年) Available online
- 『Harold, the Last of the Saxons』 (1848年)[24] Available online
- 『The Caxtons: A Family Picture』 (1849年)[24] Available online
- 『My Novel, or Varieties in English Life』 (1853年)[24]
- 『The Haunted and the Haunters or The House and the Brain』 (1859年) Available online
- 『What Will He Do With It?』 (1858年)[24]
- 『不思議な物語』The Strange Story (1862年) Available online
- 『来るべき種族』(別題『ヴリル』)The Coming Race (1871年) Available online
- 『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』 (1873年)
- 『The Parisians』 (1873)[24]
- 『Pausanias, the Spartan』 (1873年) 未完成
シリーズ
[編集]- 『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年)
- 『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 Available online
詩
[編集]脚本
[編集]- 『The Duchess de la Vallière』 (1837年)
- 『リヨンの女』 (1838年)[25]
- 『リシュリュー』 (1839年), 1935年に『枢機卿リシュリュー』として映画化
- 『マネー』 (1840年)
- 『Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts』 (1851年)
- 『The Rightful Heir』 (1868), based on The Sea Captain, an earlier play of Lytton's
- 『Walpole, or Every Man Has His Price』
- 『Darnley』 (未完成)
ボヴリルの由来
[編集]イギリスなどでメジャーな、薄めて飲む牛肉エキス(ビーフ・ティー)ボヴリル(Bovril)の商品名は、開発者が強壮的特質をアピールするために、『来るべき種族』に出てくる「ヴリル」に、ラテン語で「雄牛」や「雌牛」を意味する「Bos」(属格のbovis)の最初の2文字を合体させて命名した[26]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 水晶占いは19世紀イギリスでメジャーな占いの一つで、当時最も有名な水晶玉は、ブレッシントン伯爵夫人がエジプトの魔術師から手に入れたというものだった[11]。
- ^ ロジーナはアイルランドで地主の父とフェミニスト哲学者の母の間に生まれたが、両親の不和、父親のアルコール依存症、母親が自分の知的探求に注力し子どもに無関心だった事などから、子ども時代は不幸なものであったようである。両親の別居後、大叔父の元で教育を受け、その後ロンドンの叔父の元で暮らし、友人のキャロライン・ラムやリットンがいたボヘミアン文学通の集まりに出入りするようになった。[14]
- ^ 錬金術では16 - 18世紀にかけて鉛を金に変えることが試みられていたが、19世紀にはこれが不可能であることが知られ、学問としての錬金術はより霊的・精神的な傾向を帯びるようになった。錬金術の研究者たちは、人類・魂・宇宙の関係を研究するようになり、外界や社会の影響から魂を遠ざけ、神が創造した原初の状態にまで魂を高めようと探求した。この錬金術の一派はヘルメス主義として知られており、アトウッドと彼女の父親が興味を持っていた錬金術とはこれである。アウトウッドは長年の研究をまとめ、1850年に『A Suggestive Inquiry into the Hermetic Mystery』として出版した。錬金術という学問分野を包括的に洞察した最初の作品で、現代に流行した錬金術の霊的・精神的な解釈を体系的に説いた最初の著作のひとつであり、19世紀の錬金術とヘルメス主義の流れにおいて重要な著作である。黄金の夜明け団のアーサー・エドワード・ウェイト等から高く評価された。父親は出版後に内容を確認し、隠されるべき秘密を寓意的な文章の中にわかるように書いてしまっていると考え、世に出た書籍の大部分を回収した。アウトウッドは錬金術協会を脱退し結婚して静かに暮らし、生前本書の再版を打診されたようだが、許可しなかった。彼女の死後、友人で神智学協会・黄金の夜明け団のメンバーだったイザベル・ド・スタイガーが1918年に再販した。[17][18]
出典
[編集]- ^ UK Parliament. “Lord Brudenell” (英語). HANSARD 1803–2005. 2019年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Jules Evans (2021年12月31日). “7. Edward Bulwer-Lytton and the Coming Race(エドワード・ブルワー=リットンと来るべき種族)”. medium. 2024年5月26日閲覧。
- ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth” (英語). thepeerage.com. 2019年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. pp. 380–387.
- ^ a b c d e f 河村 2005, p. 88.
- ^ a b c d e f g h i j Philip V. Allingham. “Sir Edward G. D. Bulwer-Lytton: A Brief Biography”. The Victorian Web. 2024年6月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 河村 2005, pp. 88–89.
- ^ a b c ブレイク 1993, p. 63.
- ^ a b c 河村 2005, pp. 89–90.
- ^ a b c 河村 2005, pp. 90–91.
- ^ Mimi Matthews (2016年1月11日). “19th Century Fortune-Telling: From the Drawing Room to the Court Room”. The Victorian Web. 2024年6月2日閲覧。
- ^ a b c d Roukema 2020, p. 34.
- ^ a b c d e 河村 2005, p. 91.
- ^ a b c Frances Clarke. “Lytton, Rosina Anne Doyle Bulwer”. DICTIONARY OF IRISH BIOGRAPHY. 2024年6月2日閲覧。
- ^ a b c d e Cornelia King (2017年3月26日). “Getting Even: The Mighty Pen of Lady Bulwer Lytton”. The Library Company of Philadelphia. 2024年6月2日閲覧。
- ^ a b “Breaking open the mausoleum to solve a Victorian mystery – Henry Lytton Cobbold of Knebworth House charts life and death of tragic Emily Bulwer-Lytton in new book”. The Comet (2017年3月26日). 2024年6月2日閲覧。
- ^ Joanna Baines (2020年2月11日). “Women and Girls in Science: Mary Anne Atwood, alchemical thinker and spiritualist”. Chasing Down Emma. 2024年6月2日閲覧。
- ^ “A Suggestive Inquiry Into Hermetic Mystery by Mary Anne Atwood”. The Rose Books & Obscurities. 2024年6月2日閲覧。
- ^ Roukema 2020, p. 45-46.
- ^ Marc Demarest (2009年3月25日). “A Trout In The Milk: Plotting The Orphic Circle”. Chasing Down Emma. 2024年6月1日閲覧。
- ^ 平凡社『世界大百科事典』【イギリス文学】の項目
- ^ 杉原四郎編 1995, pp. 107–108.
- ^ 清末政治小説の術語、概念の形成と明治政治小説との関わり寇振鋒、 (名古屋大学, 2007-11-15) 掲載雑誌名:言語文化論集. 29(1)
- ^ a b c d e f g h i j k Drabble, Margaret (2000). The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147. Oxford, New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-866244-0
- ^ Lytton, Edward Bulwer Lytton (1 January 2001). “The Lady of Lyons; Or, Love and Pride”. 6 October 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。2 October 2014閲覧。
- ^ 竹内・和田 2007.
参考文献
[編集]- ブレイク, ロバート 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000。
- 杉原四郎 編『近代日本とイギリス思想』日本経済評論社、1995年(平成7年)。ISBN 978-4818808201。
- 河村民部「書評 Leslie Mitchell, Bulwer Lytton: The Rise and Fall of a Victorian Man of Letters(レズリー・ミッチェル著『ブルワー・リットン―あるヴィクトリア朝文人の盛衰史』)」『ヴィクトリア朝文化研究』第3巻、日本ヴィクトリア朝文化研究学会、2005年11月、87-92頁、CRID 1520572360424273920。
- 竹内次男・和田積希「ボヴリル・ポスターを巡る二三の話題」『KITnews』第16巻、京都工芸繊維大学 美術工芸資料館、2007年11月、23-24頁。
- Aren Roukema (2020.1). Early science fiction and occultism. Birkbeck, University of London .
関連項目
[編集]- リットン (クイーンズランド) - リットン男爵の名にちなむブリスベン郊外の地名
- ブリル協会
外部リンク
[編集]エドワード・ブルワー=リットンに関する 図書館収蔵著作物 |
エドワード・ブルワー=リットン著の著作物 |
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- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Lytton
- リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー:作家別作品リスト - 青空文庫
- ブルワー=リットン著 ポンペイ最後の日 - 物語倶楽部のインターネットアーカイブ。
- Edward Bulwer-Lyttonに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- エドワード・ブルワー=リットンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- エドワード・ブルワー=リットンの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- エドワード・ブルワー=リットンの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- エドワード・ブルワー=リットン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "エドワード・ブルワー=リットンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- 英語版ウィキソースにはエドワード・ブルワー=リットン著の原文があります。
- ウィキメディア・コモンズには、Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton (カテゴリ)に関するメディアがあります。
- 英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります:Edward Bulwer-Lytton
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー ジェイムズ・モリソン |
セント・アイヴス選挙区選出庶民院議員 1831年 – 1832年 同職:ジェイムズ・ハルゼ |
次代 ジェイムズ・ハルゼ |
先代 チャールズ・シブソープ ジョージ・ヘニッジ |
リンカーン選挙区選出庶民院議員 1832年–1841年 同職:ジョージ・ヘニッジ(1835年まで) チャールズ・シブソープ(1835年から) |
次代 チャールズ・シブソープ ウィリアム・コレット |
先代 トマス・プルーマー・ハルゼイ サー・ヘンリー・ミュークス準男爵 トマス・ブランド |
ハートフォードシャー選挙区選出庶民院議員 1852年 – 1866年 同職:トマス・プルーマー・ハルゼイ(1854年まで) サー・ヘンリー・ミュークス準男爵(1847年–59年) アベル・スミス(1854年–57年) クリストファー・ウィリアム・プラー(1857年–64年) アベル・スミス(1859年–65年) ヘンリー・サーティース(1864年から) ヘンリー・クーパー(1865年から) |
次代 ヘンリー・サーティース ヘンリー・クーパー アベル・スミス |
公職 | ||
先代 スタンリー卿 |
植民地大臣 1858年–1859年 |
次代 第5代ニューカッスル公爵 |
学職 | ||
先代 第8代アーガイル公爵 |
グラスゴー大学学長 1856年–1859年 |
次代 第8代エルギン伯爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代リットン男爵 1866年–1873年 |
次代 ロバート・ブルワー=リットン |
初代準男爵 (ネブワースの) 1838年–1873年 |