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|画像説明 = [[ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル]]によるリットン男爵の肖像([[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵) |
|画像説明 = [[ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル]]によるリットン男爵の肖像([[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵) |
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|国略称 = |
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|生年月日 = [[1803年]][[5月25日]] |
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|出生地 = {{GBR3}}・[[イングランド]]・[[ロンドン]]・[[ベイカー・ストリート]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1803|5|25|1873|1|18}} |
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|死没地 = |
|死没地 = |
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|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br />ケンブリッジ大学 |
|出身校 = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br />ケンブリッジ大学{{仮リンク|トリニティ・ホール (ケンブリッジ大学)|label=トリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}} |
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|前職 = |
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|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] → [[保守党 (イギリス)|保守党]] |
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] → [[保守党 (イギリス)|保守党]] |
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|称号・勲章 = [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
|称号・勲章 = [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
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|親族(政治家) = [[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|初代リットン伯爵]](子)<br />[[ヴィクター・ブルワー=リットン|第2代リットン伯爵]](孫) |
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|世襲の有無 = |
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|配偶者 = [[ロジーナ・ブルワー=リットン]](旧姓ウィーラー) |
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|配偶者 = [[ロジナ・ブルワー=リットン|ロジナ・ドイル・ホイーラー]] |
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|サイン = |
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|国旗 = |
|国旗 = GBR |
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|職名 = [[植民地大臣]] |
|職名 = [[植民地大臣]] |
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|内閣 = [[第2次ダービー内閣]] |
|内閣 = [[第2次ダービー内閣]] |
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|就任日 = [[1858年]][[6月5日]] |
|就任日 = [[1858年]][[6月5日]] |
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|退任日 = [[1859年]][[6月11日]] |
|退任日 = [[1859年]][[6月11日]] |
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|国旗2 = GBR |
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|職名2 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
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|元首職 = 国王 |
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|選挙区2 = {{仮リンク|リンカーン選挙区|en|Lincoln (UK Parliament constituency)}}<br/>{{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}} |
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|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] |
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|就任日2 = [[1832年]][[12月10日]] - [[1841年]][[6月29日]]<br/>[[1852年]][[7月7日]] |
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|退任日2 = [[1866年]][[7月14日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard/people/mr-edward-bulwer/index.html |title= Lord Brudenell |accessdate= 2019-05-29 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [http://hansard.millbanksystems.com/index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref> |
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|国旗3 = GBR |
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|職名3 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員 |
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|就任日3 = [[1866年]][[7月14日]] |
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|退任日3 = [[1873年]][[1月18日]] |
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{{Portal|文学}} |
{{Portal|文学}} |
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初代[[リットン男爵]]'''エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン'''({{Lang-en-short|Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}}、[[1803年]][[5月25日]] - [[1873年]][[1月18日]])は、[[イギリス]]の小説家、劇作家、政治家。 |
初代[[リットン男爵]]'''エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン'''({{Lang-en-short|Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, {{postnominals|country=GBR|size=100%|sep=,|PC}}}}、[[1803年]][[5月25日]] - [[1873年]][[1月18日]])は、[[イギリス]]の小説家、劇作家、政治家、貴族。小説『[[ポンペイ最後の日]]』(''{{Lang|en|The Last Days of Pompeii}}'' )が代表作として知られ、戯曲『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』(''Richelieu; Or the Conspiracy'')に登場する文句「[[ペンは剣よりも強し]]」(“{{Interlang|en|The pen is mightier than the sword}}”)」は名高い。政治家としては[[1858年]]から[[1859年]]にかけて[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の[[植民地大臣]]を務めたことが特筆される。 |
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== 経歴 == |
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[[File:Edward Bulwer Lytton Disderi BNF gallica.jpg|thumb|180px|リットン男爵の写真({{仮リンク|アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ|fr|André-Adolphe-Eugène Disdéri}}撮影)]] |
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[[1803年]][[5月25日]]に[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|ヘイドン・ホール|en|Heydon Hall}}を本拠とする地主で陸軍大将の[[ウィリアム・アール・ブルワー]](William Earle Bulwer)とその妻エリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間の三男として[[ロンドン]]・[[ベイカー・ストリート]]に生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p23312.htm#i233113 |title= Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth |accessdate= 2019-5-28 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="DNB">{{DNB|wstitle=Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-|first=Leslie|last=Stephen|volume=34|pages=380–387}}</ref>。生誕時の名前は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]、ついで同大学の{{仮リンク|トリニティ・ホール (ケンブリッジ大学)|label=トリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}}で学ぶ<ref name="DNB"/>。ケンブリッジ在学中に一時[[キャロライン・ラム]]と愛人関係を持っていた{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。 |
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[[1827年]]に[[ゲーテ]]の『[[若きウェルテルの悩み]]』に影響を受けた悲劇的小説『Falkland』を出版した。さらに[[1828年]]6月には『ペラム(Pelham)』を出版<ref name="DNB"/>。これは[[ベンジャミン・ディズレーリ]]の「ビビアン・グレイ」に多分に影響を受けていた作品でセンセーションを巻き起こした{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。[[1830年]]頃からディズレーリの友人になった{{sfn|ブレイク|1993|p=63}}。 |
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[[1831年]][[4月30日]]に{{仮リンク|セント・アイヴス選挙区|en|St Ives (UK Parliament constituency)}}から選出されて[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となる<ref name="DNB"/>。[[1832年]]からは{{仮リンク|リンカーン選挙区|en|Lincoln (UK Parliament constituency)}}から選出される。[[1838年]]には[[準男爵]]に叙せられた。しかし[[1841年]]の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}では落選の憂き目を見た<ref name="DNB"/>。 |
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この間も小説を精力的に執筆し、[[1832年]]には『{{仮リンク|ユージン・アラム (小説)|label=ユージン・アラム|en|Eugene Aram (novel)}}』、[[1833年]]には『{{仮リンク|ゴドルフィン (小説)|label=ゴドルフィン|en|Godolphin (novel)}}』、[[1834年]]には『[[ポンペイ最後の日]]』と『The Pilgrims of the Rhine』、[[1835年]]には『Rienzi』、[[1837年]]には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、[[1841年]]には『Night and Morning』、[[1842年]]には『{{仮リンク|ザノニ|en|Zanoni}}』を出版した<ref name="DNB"/>。同時期に劇作家としても活躍し、[[1836年]]には最初の演劇脚本『The Duchess de la Vallière』を書いた。これは興行的に失敗に終わったものの、[[1838年]]の『The Lady of Lyons』では大きな成功を収めた<ref name="DNB"/>。 さらに[[1839年]]には『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』、[[1840年]]には『{{仮リンク|マネー (演劇)|label=マネー|en|Money (play)}}』といった脚本も書いた<ref name="DNB"/>。 |
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[[1841年]]に議席を失った後、ドイツ旅行に出た<ref name="DNB"/>。[[1843年]]に歴史小説『The Last of the Barons』を出版した<ref name="DNB"/>。[[1843年]]12月の母の死によりリットン家の{{仮リンク|ネブワース|en|Knebworth}}の土地を相続し<ref name="DNB"/>、[[1844年]][[2月20日]]には勅許を得て「ブルワー=リットン」姓に改姓した<ref name="thepeerage.com"/>。[[1846年]]には小説『Confessions of a Water Patient』、詩『The New Timon』、[[1848年]]には歴史小説『Harold』と叙事詩『King Arthur』、[[1849年]]には小説『[[:en:The Caxtons|The Caxtons: A Family Picture]]』を出版<ref name="DNB"/>。[[1849年]]にはコメディの脚本『Not so bad as we seem』を書いた<ref name="DNB"/>。 |
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[[1852年]]に{{仮リンク|ハートフォードシャー選挙区|en|Hertfordshire (UK Parliament constituency)}}から選出されて再び庶民院議員となる。[[穀物法]]を廃止したことに反対していたため、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の議員となった。以降1866年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列するまでこの議席を保持した<ref name="DNB"/>。 |
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[[1858年]]から[[1859年]]にかけては保守党政権第2次[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]内閣において[[植民地大臣]]を務めた<ref name="DNB"/>。植民地大臣として{{仮リンク|ブリティッシュ・コロンビア植民地|en|Colony of British Columbia (1858–1866)}}の創設にあたった。これは金鉱の発掘と人口流入のため必要となったものである。またオーストラリアでは、[[クイーンズランド州]]を[[ニューサウスウェールズ州]]から分離させた。植民地各地の町で彼の名に因むリットンという名前への改名が行われた<ref name="DNB"/>。 |
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植民地大臣退任後は政治的活動は少なくなった。[[1862年]]には『A Strange Story』、さらに後に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版した<ref name="DNB"/>。 |
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[[1866年]]7月に第3次ダービー伯爵内閣が成立した際に[[連合王国貴族]]爵位リットン男爵に叙されて貴族院議員に列した<ref name="DNB"/>。 |
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[[1873年]][[1月18日]]に死去<ref name="DNB"/>。爵位は一人息子の[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|ロバート・ブルワー=リットン]]が継承した。 |
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== 日本におけるリットン卿 == |
== 日本におけるリットン卿 == |
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日本では[[明治維新]]によって西欧の新知識に触れることができるようになり、西洋小説も[[明治時代]]から翻訳されるようになった。西洋小説で真っ先に翻訳されたのがリットンや[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]の政治小説だった<ref>平凡社『[[世界大百科事典]]』【イギリス文学】の項目</ref>。日本で最初に翻訳された西洋小説は、リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を丹羽淳一郎が訳した『[http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=41016265 欧州奇事 花柳春話]』([[明治11年]])である{{sfn|杉原四郎編|1995|p=107-108}}<ref>[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8691166_po_kou.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 清末政治小説の術語、概念の形成と明治政治小説との関わり]寇振鋒、 (名古屋大学, 2007-11-15) 掲載雑誌名:言語文化論集. 29(1) </ref>。[[河竹黙阿弥]]も明治12年(1879年)にリットンの戯曲『マネー』を翻案して[[歌舞伎]]演目『[[人間万事金世中]]』を書いた。 |
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[[明治]]時代に[[河竹黙阿弥]]が戯曲『マネー』を翻案して『[[人間万事金世中]]』を書いた。小説『[[ポンペイ最後の日]]』(''{{Lang|en|The Last Days of Pompeii}}'' )が代表作として知られ、戯曲『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』(''Richelieu; Or the Conspiracy'')に登場する文句「[[ペンは剣よりも強し]]」(“{{Interlang|en|The pen is mightier than the sword}}”)」は名高い。また、孫の[[ヴィクター・ブルワー=リットン|ヴィクター]]は[[リットン調査団]]の団長として有名である。 |
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また、孫の第2代[[リットン伯爵]][[ヴィクター・ブルワー=リットン]]は[[リットン調査団]]の団長として有名である。 |
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== 栄典 == |
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=== 爵位/準男爵位 === |
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[[1838年]][[7月18日]]に以下の準男爵位を新規に叙された<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*'''(ハートフォード州におけるネブワースの)初代準男爵'''{{small|(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")}} |
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*:([[勅許状]]による連合王国準男爵位) |
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[[1866年]][[7月14日]]に以下の爵位を新規に叙される<ref name="thepeerage.com"/>。 |
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*'''ハートフォード州におけるネブワースの初代リットン男爵''' {{small|(1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)}} |
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*:(勅許状による[[連合王国貴族]]爵位) |
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== 家族 == |
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1827年8月29日にロジーナ・ドイル・ウィーラー{{small|(Rosina Doyle Wheeler)}}と結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた。 |
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*エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン {{small|(Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年不明-1848年)}} |
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*[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)|エドワード・ロバート・ブルワー=リットン]] {{small|(Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891)}} - 初代リットン伯、第2代リットン男爵。[[インド総督]] |
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== 著作 == |
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=== 小説 === |
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*『フォークランド(Falkland)』 (1827年)<ref name="Drabble2000pp147">{{Cite book |last=Drabble |first=Margaret |year=2000 |title=The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford, New York |isbn=0-19-866244-0 |oclc=}}</ref> |
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*『ペラム(Pelham: or The Adventures of a Gentleman)』 (1828年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7623 Available online] |
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*『The Disowned』 (1829年) |
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*『デヴァルー(Devereux)』 (1829年) |
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*『{{仮リンク|ポール・クリフォード|en|Paul Clifford}}』 (1830年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7735 Available online] |
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*『{{仮リンク|ユージン・アラム (小説)|label=ユージン・アラム|en|Eugene Aram (novel)}}』 (1832年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7614 Available online] |
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*『{{仮リンク|ゴドルフィン (小説)|label=ゴドルフィン|en|Godolphin (novel)}}』 (1833年) |
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*『{{仮リンク|野放しのアスモデウス|en|Asmodeus at Large (novel)}}』 (1833年) |
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*『[[ポンペイ最後の日]]』 (1834年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/1565 Available online] |
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*『The Pilgrims of the Rhine』 (1834年) |
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*『Rienzi, the last of the Roman tribunes』 (1835年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/1396 Available online] |
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*『The Student』 (1835年) |
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*『Calderon, the Courtier』 (1838年) |
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*『{{仮リンク|レイラ グラナダ包囲戦|en|Leila; or, The Siege of Granada}}』 (1838年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/9761 Available online] |
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*『Zicci: a Tale』 (1838年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7608 Available online] |
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*『Night and Morning』 (1841年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/9755 Available online] |
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*『{{仮リンク|ザノニ|en|Zanoni}}』 (1842年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/2664 Available online] |
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*『[[:en:The Last of the Barons|The Last of the Barons]]』 (1843年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7727 Available online] |
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*『Lucretia』 (1846年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7691 Available online] |
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*『Harold, the Last of the Saxons』 (1848年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7684 Available online] |
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*『[[:en:The Caxtons|The Caxtons: A Family Picture]]』 (1849年)<ref name="Drabble2000pp147"/> [http://www.gutenberg.org/ebooks/7605 Available online] |
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*『My Novel, or Varieties in English Life』 (1853年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『The Haunted and the Haunters'' or ''The House and the Brain』 (1859年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/17953 Available online] |
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*『What Will He Do With It?』 (1858年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『A Strange Story』 (1862年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/7701 Available online] |
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*『The Coming Race』 (1871年) [http://www.gutenberg.org/ebooks/1951 Available online] |
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*『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』 (1873年) |
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*『The Parisians』 (1873)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『Pausanias, the Spartan』 (1873年) 未完成 |
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=== シリーズ === |
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#『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年) |
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#『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 [http://www.gutenberg.org/ebooks/9774 Available online] |
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{{Div col end}} |
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=== 詩 === |
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*『Ismael』 (1820年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『The New Timon』 (1846年)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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*『King Arthur』(1848–1849)<ref name="Drabble2000pp147"/> |
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=== 脚本 === |
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{{Div col|colwidth=30em}} |
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*『The Duchess de la Vallière』 (1837年) |
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*『{{仮リンク|リヨンの女|en|The Lady of Lyons}}』 (1838年)<ref>{{Cite web|url=http://www.gutenberg.org/ebooks/2461|title=The Lady of Lyons; Or, Love and Pride|first=Edward Bulwer Lytton|last=Lytton|date=1 January 2001|via=Project Gutenberg|access-date=2 October 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141006084037/http://www.gutenberg.org/ebooks/2461|archive-date=6 October 2014|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |
|||
*『[[リシュリュー (戯曲)|リシュリュー]]』 (1839年), 1935年に『{{仮リンク|枢機卿リシュリュー (映画)|label=枢機卿リシュリュー|en|Cardinal Richelieu (film)}}』として映画化 |
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*『{{仮リンク|マネー (演劇)|label=マネー|en|Money (play)}}』 (1840年) |
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*『[[:en:Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts|Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts]]』 (1851年) |
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*『The Rightful Heir』 (1868), based on ''The Sea Captain'', an earlier play of Lytton's |
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*『Walpole, or Every Man Has His Price』 |
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*『Darnley』 (未完成) |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=注釈|1}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|1}} |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|last=ブレイク|first=ロバート|translator=[[谷福丸]]|editor=[[灘尾弘吉]]監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=harv}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[杉原四郎]]編|date=1995年(平成7年)|title=近代日本とイギリス思想|publisher=[[日本経済評論社]]|isbn=978-4818808201|ref=harv}} |
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== 関連項目 == |
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*{{仮リンク|リットン (クイーンズランド)|en|Lytton, Queensland}} - リットン男爵の名に因む[[ブリスベン]]郊外の地名 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Library resources box |by=yes |onlinebooksby=yes |viaf=99871326}} |
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{{Commons|Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}} |
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*{{Hansard-contribs |mr-edward-bulwer |Lord Lytton}} |
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* {{青空文庫著作者|1089|リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー}} |
* {{青空文庫著作者|1089|リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー}} |
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* [http://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/pompeii/pompeii-toc.html ブルワー=リットン著 ポンペイ最後の日] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
* [http://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/pompeii/pompeii-toc.html ブルワー=リットン著 ポンペイ最後の日] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
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* {{Internet Archive author|name=Edward Bulwer-Lytton}} |
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* {{Gutenberg author|761}} |
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* {{OL author}} |
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* {{Librivox author|id=868}} |
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* {{NPG name}} |
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* {{UK National Archives ID}} |
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* {{Wikisource author-inline|Edward George Earle Lytton Bulwer|エドワード・ブルワー=リットン}} |
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* {{Commons-inline|Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton}} |
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* {{Wikiquotelang-inline|en|Edward Bulwer-Lytton}} |
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| before ={{仮リンク|ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー (第4代モーニントン伯爵)|label=ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー|en|William Pole-Tylney-Long-Wellesley, 4th Earl of Mornington}} |
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2019年6月29日 (土) 04:18時点における版
初代リットン男爵エドワード・ブルワー=リットン Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton | |
---|---|
ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギルによるリットン男爵の肖像(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵) | |
生年月日 | 1803年5月25日 |
出生地 | イギリス・イングランド・ロンドン・ベイカー・ストリート |
没年月日 | 1873年1月18日(69歳没) |
出身校 |
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ ケンブリッジ大学トリニティ・ホール |
所属政党 | ホイッグ党 → 保守党 |
称号 | 枢密顧問官(PC) |
配偶者 | ロジーナ・ブルワー=リットン(旧姓ウィーラー) |
親族 |
初代リットン伯爵(子) 第2代リットン伯爵(孫) |
内閣 | 第2次ダービー内閣 |
在任期間 | 1858年6月5日 - 1859年6月11日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
リンカーン選挙区 ハートフォードシャー選挙区 |
在任期間 |
1832年12月10日 - 1841年6月29日 1852年7月7日 - 1866年7月14日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1866年7月14日 - 1873年1月18日 |
初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン(英: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC、1803年5月25日 - 1873年1月18日)は、イギリスの小説家、劇作家、政治家、貴族。小説『ポンペイ最後の日』(The Last Days of Pompeii )が代表作として知られ、戯曲『リシュリュー』(Richelieu; Or the Conspiracy)に登場する文句「ペンは剣よりも強し」(“The pen is mightier than the sword”)」は名高い。政治家としては1858年から1859年にかけて保守党政権の植民地大臣を務めたことが特筆される。
経歴
1803年5月25日にノーフォーク・ヘイドン・ホールを本拠とする地主で陸軍大将のウィリアム・アール・ブルワー(William Earle Bulwer)とその妻エリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間の三男としてロンドン・ベイカー・ストリートに生まれる[2][3]。生誕時の名前は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)[2]。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、ついで同大学のトリニティ・ホールで学ぶ[3]。ケンブリッジ在学中に一時キャロライン・ラムと愛人関係を持っていた[4]。
1827年にゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けた悲劇的小説『Falkland』を出版した。さらに1828年6月には『ペラム(Pelham)』を出版[3]。これはベンジャミン・ディズレーリの「ビビアン・グレイ」に多分に影響を受けていた作品でセンセーションを巻き起こした[4]。1830年頃からディズレーリの友人になった[4]。
1831年4月30日にセント・アイヴス選挙区から選出されてホイッグ党の庶民院議員となる[3]。1832年からはリンカーン選挙区から選出される。1838年には準男爵に叙せられた。しかし1841年の総選挙では落選の憂き目を見た[3]。
この間も小説を精力的に執筆し、1832年には『ユージン・アラム』、1833年には『ゴドルフィン』、1834年には『ポンペイ最後の日』と『The Pilgrims of the Rhine』、1835年には『Rienzi』、1837年には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、1841年には『Night and Morning』、1842年には『ザノニ』を出版した[3]。同時期に劇作家としても活躍し、1836年には最初の演劇脚本『The Duchess de la Vallière』を書いた。これは興行的に失敗に終わったものの、1838年の『The Lady of Lyons』では大きな成功を収めた[3]。 さらに1839年には『リシュリュー』、1840年には『マネー』といった脚本も書いた[3]。
1841年に議席を失った後、ドイツ旅行に出た[3]。1843年に歴史小説『The Last of the Barons』を出版した[3]。1843年12月の母の死によりリットン家のネブワースの土地を相続し[3]、1844年2月20日には勅許を得て「ブルワー=リットン」姓に改姓した[2]。1846年には小説『Confessions of a Water Patient』、詩『The New Timon』、1848年には歴史小説『Harold』と叙事詩『King Arthur』、1849年には小説『The Caxtons: A Family Picture』を出版[3]。1849年にはコメディの脚本『Not so bad as we seem』を書いた[3]。
1852年にハートフォードシャー選挙区から選出されて再び庶民院議員となる。穀物法を廃止したことに反対していたため、保守党の議員となった。以降1866年に貴族院議員に列するまでこの議席を保持した[3]。
1858年から1859年にかけては保守党政権第2次ダービー伯爵内閣において植民地大臣を務めた[3]。植民地大臣としてブリティッシュ・コロンビア植民地の創設にあたった。これは金鉱の発掘と人口流入のため必要となったものである。またオーストラリアでは、クイーンズランド州をニューサウスウェールズ州から分離させた。植民地各地の町で彼の名に因むリットンという名前への改名が行われた[3]。
植民地大臣退任後は政治的活動は少なくなった。1862年には『A Strange Story』、さらに後に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版した[3]。
1866年7月に第3次ダービー伯爵内閣が成立した際に連合王国貴族爵位リットン男爵に叙されて貴族院議員に列した[3]。
1873年1月18日に死去[3]。爵位は一人息子のロバート・ブルワー=リットンが継承した。
日本におけるリットン卿
日本では明治維新によって西欧の新知識に触れることができるようになり、西洋小説も明治時代から翻訳されるようになった。西洋小説で真っ先に翻訳されたのがリットンやディズレーリの政治小説だった[5]。日本で最初に翻訳された西洋小説は、リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を丹羽淳一郎が訳した『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)である[6][7]。河竹黙阿弥も明治12年(1879年)にリットンの戯曲『マネー』を翻案して歌舞伎演目『人間万事金世中』を書いた。
また、孫の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンはリットン調査団の団長として有名である。
栄典
爵位/準男爵位
1838年7月18日に以下の準男爵位を新規に叙された[2]。
- (ハートフォード州におけるネブワースの)初代準男爵(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")
- (勅許状による連合王国準男爵位)
- ハートフォード州におけるネブワースの初代リットン男爵 (1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
家族
1827年8月29日にロジーナ・ドイル・ウィーラー(Rosina Doyle Wheeler)と結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた。
- エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン (Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年不明-1848年)
- エドワード・ロバート・ブルワー=リットン (Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891) - 初代リットン伯、第2代リットン男爵。インド総督
著作
小説
- 『フォークランド(Falkland)』 (1827年)[8]
- 『ペラム(Pelham: or The Adventures of a Gentleman)』 (1828年)[8] Available online
- 『The Disowned』 (1829年)
- 『デヴァルー(Devereux)』 (1829年)
- 『ポール・クリフォード』 (1830年) Available online
- 『ユージン・アラム』 (1832年) Available online
- 『ゴドルフィン』 (1833年)
- 『野放しのアスモデウス』 (1833年)
- 『ポンペイ最後の日』 (1834年) Available online
- 『The Pilgrims of the Rhine』 (1834年)
- 『Rienzi, the last of the Roman tribunes』 (1835年)[8] Available online
- 『The Student』 (1835年)
- 『Calderon, the Courtier』 (1838年)
- 『レイラ グラナダ包囲戦』 (1838年) Available online
- 『Zicci: a Tale』 (1838年) Available online
- 『Night and Morning』 (1841年) Available online
- 『ザノニ』 (1842年) Available online
- 『The Last of the Barons』 (1843年) Available online
- 『Lucretia』 (1846年) Available online
- 『Harold, the Last of the Saxons』 (1848年)[8] Available online
- 『The Caxtons: A Family Picture』 (1849年)[8] Available online
- 『My Novel, or Varieties in English Life』 (1853年)[8]
- 『The Haunted and the Haunters or The House and the Brain』 (1859年) Available online
- 『What Will He Do With It?』 (1858年)[8]
- 『A Strange Story』 (1862年) Available online
- 『The Coming Race』 (1871年) Available online
- 『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』 (1873年)
- 『The Parisians』 (1873)[8]
- 『Pausanias, the Spartan』 (1873年) 未完成
シリーズ
- 『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年)
- 『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 Available online
詩
脚本
- 『The Duchess de la Vallière』 (1837年)
- 『リヨンの女』 (1838年)[9]
- 『リシュリュー』 (1839年), 1935年に『枢機卿リシュリュー』として映画化
- 『マネー』 (1840年)
- 『Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts』 (1851年)
- 『The Rightful Heir』 (1868), based on The Sea Captain, an earlier play of Lytton's
- 『Walpole, or Every Man Has His Price』
- 『Darnley』 (未完成)
脚注
注釈
出典
- ^ UK Parliament. “Lord Brudenell” (英語). HANSARD 1803–2005. 2019年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth” (英語). thepeerage.com. 2019年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. pp. 380–387.
- ^ a b c ブレイク 1993, p. 63.
- ^ 平凡社『世界大百科事典』【イギリス文学】の項目
- ^ 杉原四郎編 1995, p. 107-108.
- ^ 清末政治小説の術語、概念の形成と明治政治小説との関わり寇振鋒、 (名古屋大学, 2007-11-15) 掲載雑誌名:言語文化論集. 29(1)
- ^ a b c d e f g h i j k Drabble, Margaret (2000). The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147. Oxford, New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-866244-0
- ^ Lytton, Edward Bulwer Lytton (1 January 2001). “The Lady of Lyons; Or, Love and Pride”. 6 October 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。2 October 2014閲覧。
参考文献
- ブレイク, ロバート 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000。
- 杉原四郎編『近代日本とイギリス思想』日本経済評論社、1995年(平成7年)。ISBN 978-4818808201。
関連項目
- リットン (クイーンズランド) - リットン男爵の名に因むブリスベン郊外の地名
外部リンク
エドワード・ブルワー=リットンに関する 図書館収蔵著作物 |
エドワード・ブルワー=リットン著の著作物 |
---|
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Lytton
- リットン エドワード・ジョージ・アール・ブルワー:作家別作品リスト - 青空文庫
- ブルワー=リットン著 ポンペイ最後の日 - 物語倶楽部のインターネットアーカイブ。
- Edward Bulwer-Lyttonに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- エドワード・ブルワー=リットンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- エドワード・ブルワー=リットンの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- エドワード・ブルワー=リットンの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
- エドワード・ブルワー=リットン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "エドワード・ブルワー=リットンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- 英語版ウィキソースにはエドワード・ブルワー=リットン著の原文があります。
- ウィキメディア・コモンズには、エドワード・ブルワー=リットンに関するメディアがあります。
- 英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります:Edward Bulwer-Lytton
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー ジェイムズ・モリソン |
セント・アイヴス選挙区選出庶民院議員 1831年 – 1832年 同職:ジェイムズ・ハルゼ |
次代 ジェイムズ・ハルゼ |
先代 チャールズ・シブソープ ジョージ・ヘニッジ |
リンカーン選挙区選出庶民院議員 1832年–1841年 同職:ジョージ・ヘニッジ(1835年まで) チャールズ・シブソープ(1835年から) |
次代 チャールズ・シブソープ ウィリアム・コレット |
先代 トマス・プルーマー・ハルゼイ サー・ヘンリー・ミュークス準男爵 トマス・ブランド |
ハートフォードシャー選挙区選出庶民院議員 1852年 – 1866年 同職:トマス・プルーマー・ハルゼイ(1854年まで) サー・ヘンリー・ミュークス準男爵(1847年–59年) アベル・スミス(1854年–57年) クリストファー・ウィリアム・プラー(1857年–64年) アベル・スミス(1859年–65年) ヘンリー・サーティース(1864年から) ヘンリー・クーパー(1865年から) |
次代 ヘンリー・サーティース ヘンリー・クーパー アベル・スミス |
公職 | ||
先代 スタンリー卿 |
植民地大臣 1858年–1859年 |
次代 第5代ニューカッスル公爵 |
学職 | ||
先代 第8代アーガイル公爵 |
グラスゴー大学学長 1856年–1859年 |
次代 第8代エルギン伯爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代リットン男爵 1866年–1873年 |
次代 ロバート・ブルワー=リットン |
初代準男爵 (ネブワースの) 1838年–1873年 |