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[[653年]]、同母兄の呉王[[李恪 (呉王)|李恪]]が罪に落とされると、李愔も廃位されて庶民とされ、[[巴州]]に移された。まもなく涪陵王に封ぜられた。[[667年]]、亡くなった。[[咸亨]]初年、蜀王の爵位と実封を回復され、[[益州]]大都督の位を追贈された。[[昭陵 (唐)|昭陵]]に陪葬され、[[諡]]を悼といった。 |
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2017年11月22日 (水) 17:31時点における版
李愔(り いん、621年 - 667年)は、中国の唐の太宗李世民の六男。蜀王に立てられた。
経歴
李世民と楊妃(隋煬帝の娘)の間に生まれた。631年に梁王に封ぜられた。633年、襄州刺史に任じられた。636年、蜀王に徙封され、益州都督に転じた。639年、実封八百戸を受け、岐州刺史に任じられた。李愔は狩猟を好んで非法の行為が多く、太宗はしばしば叱責し教誨したが、改悛しなかったので、太宗は怒って李愔の封戸と属官の半分を削り、虢州刺史に左遷した。649年、封戸を返還し、千戸に増やした。再び狩猟に出かけるようになり、民間の生業を圧迫した。典軍の楊道整が馬を叩いて諫めたところ、李愔は彼を殴った。650年、御史大夫の李乾祐が李愔の罪を弾劾し、高宗は怒り、李愔は黄州刺史に左遷された。楊道整は匡道府折衝都尉に抜擢された。
653年、同母兄の呉王李恪が罪に落とされると、李愔も廃位されて庶民とされ、巴州に移された。まもなく涪陵王に封ぜられた。667年、亡くなった。咸亨初年、蜀王の爵位と実封を回復され、益州大都督の位を追贈された。昭陵に陪葬され、諡を悼といった。
子の李璠が蜀王を継いだ。李璠は、武則天のときに帰誠州に流されて死んだ。