コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「広島タクシー運転手連続殺人事件」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 全角括弧→半角括弧
240F:65:A335:1:64B7:635A:F85D:5B1F (会話) による ID:67810065 の版を取り消し
タグ: 取り消し
(7人の利用者による、間の11版が非表示)
1行目: 1行目:
{{暴力的}}
{{出典の明記|date=2012年8月4日 (土) 05:39 (UTC)}}
{{性的}}
{{Infobox 事件・事故
{{Infobox 事件・事故
| 名称 = 広島タクシー運転手連続殺人事件
| 名称 = 広島タクシー運転手連続殺人事件
| 画像 =
| 画像 =
| 脚注 =
| 脚注 =
| 場所 = {{JPN}} [[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]
| 場所 = {{JPN}}[[広島県]]<ref name="読売新聞1996-09-21"/><br>[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]] [[流川 (広島市)|流川]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]一帯(被害者を物色)<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>
:A事件
:: 広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]大塚、林内にある幅1.5m、深さ1m、水深10cm林道脇側溝(遺体遺棄現場)<ref name="読売新聞1996-05-07"/>
:B事件
:: 広島市安佐南区八木、[[太田川]]橋付近(殺害現場)<ref name="朝日新聞1996-10-09"/><ref name="読売新聞1996-10-07"/>
:: 広島市[[安佐北区]][[白木町]]小越、[[広島県道46号東広島白木線]]の脇を流れる、関川([[太田川]]水系三篠川支流[[一級水系|一級河川]])沿いの斜面(遺体遺棄現場)<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊"/>
:C事件
:: [[山県郡]][[加計町]]穴(現・広島県山県郡[[安芸太田町]]穴)、[[国道191号]]の脇道(殺害現場)<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>
:: 山県郡加計町加計(現・広島県山県郡安芸太田町加計)、町道脇を流れる滝山川([[太田川]]支流)左岸法面斜面<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、コンクリート製の溝の中(遺体遺棄現場)<ref name="朝日新聞1996-10-02"/>
:D事件
:: 広島市[[佐伯区]][[五日市町 (広島県)|五日市町]]大字上河内、[[広島県道41号五日市筒賀線]]路上(殺害現場)<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>。
:: [[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現・広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)、[[国道433号]]旧道から、1mほど斜面を下った草むら(遺体遺棄現場)<ref name="読売新聞1996-09-14"/>
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 =
| 日付 = [[1996年]]([[平成]]8年)
| 日付 = [[1996年]]([[平成]]8年)<ref name="読売新聞1996-09-21"/>
: [[4月18日]](A事件)<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/>
| 時間 =
: [[8月13日]](B事件)<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/>
| 開始時刻 = 4月18日
: [[9月7日]](C事件)<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/>
| 終了時刻 = 9月13日
: [[9月14日]](D事件)<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/>
| 時間帯 =
| 時間 = 深夜
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 = UTC+9
| 概要 = 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。
| 概要 = 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。
| 武器 =
| 武器 = ネクタイ
| 攻撃人数 = 1人
| 攻撃人数 = 1人
| 手段 = 首を絞める
| 標的 =
| 標的 =
| 死亡 = 4人
| 死亡 = [[売春]]目的で知り合った女性4人
: 少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[黒瀬町]]在住、[[広島県立広高等学校]][[定時制]]1年生)<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>
| 負傷 =
: 女性B(事件当時23歳、広島市[[安佐南区]][[八木 (広島市)|八木]]在住)<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊"/>
| 犯人 = [[タクシー]]運転手の男H(犯行当時34歳)
: 女性C(事件当時45歳、[[長崎県]][[諫早市]]出身、広島市中区宝町在住)<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>
: 女性D(事件当時32歳、広島市中区在住)<ref name="読売新聞1996-09-16"/>
| 損害 = 現金約24万円(4人から奪った金額)<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>
| 犯人 = [[タクシー]]運転手の男H(犯行当時34歳)<ref name="読売新聞1996-09-21"/><ref name="朝日新聞1996-09-21"/>
| 動機 = [[強盗]]・[[快楽殺人]]
| 動機 = [[強盗]]・[[快楽殺人]]
| 対処 = [[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]
| 謝罪 = あり
| 謝罪 = あり
| 賠償 = [[死刑]]([[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])
| 刑事訴訟 = [[死刑]]([[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="読売新聞2006-12-25"/><ref name="朝日新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-26"/>
| 管轄 = [[広島県警察]]
: [[広島北警察署]](A事件の初動捜査)<ref name="読売新聞1996-05-07"/>
: [[廿日市警察署]](4事件の捜査本部)<ref name="読売新聞1996-09-21"/><ref name="朝日新聞1996-09-21"/>
}}
}}
'''広島タクシー運転手連続殺人事件'''(ひろしまタクシーうんてんしゅれんぞくさつじんじけん)は[[1996年]]([[平成]]8年に[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]で、犯行当時34歳だった[[タクシー]]運転手の男Hが、4月から9月の約5か月間に、[[売春]]を通じて知り合った4人の女性を殺害した[[シリアルキラー|連続殺人]]事件<ref name="maruyama2010"/>。
'''広島タクシー運転手連続殺人事件'''(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は[[1996年]]([[平成]]8年)4月から9月かけ、[[広島県]]で、犯行当時34歳[[タクシー]]運転手の男Hが、約5か月間に、[[売春]]を通じて知り合った4人の女性を、相次いで殺害した[[シリアルキラー|連続殺人]]事件<ref name="丸山2010"/><ref name="読売新聞1996-09-21"/>。


Hは深夜、[[広島市]]の[[遊郭]]跡にある[[歓楽街]]、[[流川 (広島市)|流川]]・[[新天地 (広島市)|新天地]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]一帯で、次々と女性を誘っては、タクシーの車内で首を絞めて殺害し、遺体を山中に遺棄した<ref name="AERA"/>。
その凶悪さから[[広島市]]の[[繁華街]]をパニックに陥れ<ref name="nagase2004"/>、後に[[丸山佑介]]の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』では「タクシードライバーによる殺人行脚」「誰もが利用する交通機関であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容された<ref name="maruyama2010"/>。


[[丸山佑介]]は、著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』にて<ref name="丸山2010"/>、その凶悪さから、広島の繁華街をパニックに陥れた本事件を<ref name="永瀬2004"/>、「タクシードライバーによる殺人行脚」、「誰もが利用する交通機関である、タクシーの運転手が突然襲い掛かる、恐ろしい事件」と形容した<ref name="丸山2010"/>。
== 事件の概要 ==
[[宮崎県]]出身のHは高校時代まではスポーツ万能の優等生として地元では名が知られており、県有数の進学校を卒業したが、大学受験で志望[[大学]]の推薦入試、第二志望の大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた[[福岡県]]内の大学にしか合格できなかった<ref name="maruyama2010"/>。進学した大学も4年生の時に留年して中退し、親には「[[司法試験]]に失敗したから退学した」と嘘をついて宮崎の実家に逃げ戻り、嘱託[[公務員]]として働き始めた<ref name="maruyama2010"/>。しかし大学時代に酒や女に溺れて荒れた生活は容易には治らず、[[ひったくり]]などを重ねて[[逮捕]]され、[[強盗罪]]で有罪[[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]し[[刑務所]]に服役した<ref name="maruyama2010"/>。


== 死刑囚H ==
Hは出所後、親族を頼って広島県に移住し、タクシー運転手として働き始めたが、相変わらず酒や女にのめり込む荒れた生活をつづけ、借金を重ねていった<ref name="maruyama2010"/>。しかし1992年、当時29歳の時に父親の紹介した30歳の女性と結婚したことが転機となり、生活は徐々に改善していった<ref name="maruyama2010"/>。このまま人並みの生活を手に入れられると思われたが、結婚から2年後の1994年、妻が長女を出産した直後に[[精神疾患]]を発症し、幸せな結婚生活は崩壊した<ref name="maruyama2010"/>。Hは絶望し、妻を[[精神科病院]]に入院させると長女を実家に預け、再び以前の荒れた生活に戻っていき、1996年4月当時は[[消費者金融]](サラ金)などから抱えた多額の[[借金]]の返済が迫り追い詰められていた<ref name="maruyama2010"/>。
本事件の加害者の男Hは、[[1962年]]([[昭和]]37年)4月<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、[[宮崎県]][[宮崎市]]で<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、農家の3人兄弟の末っ子(三男)として生まれた<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>。[[2006年]](平成18年)12月25日、死刑囚として収監されていた[[広島拘置所]]にて、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[長勢甚遠]])の死刑執行命令により、44歳で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑が執行された]]<ref name="読売新聞2006-12-25"/>。


事件当時は34歳、広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]吉山在住のタクシー運転手だった<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。
; 最初の事件
: 1996年[[4月18日]]、Hは勤務中に[[売春]]目的で[[援助交際]]のメッカとして知られていた広島市[[中区 (広島市)|中区]]の[[新天地 (広島市)|新天地公園]]を訪れたところ、1人でいた広島県[[呉市]]在住の当時16歳の高校生の少女(1人目の[[被害者]])を見つけ、遊ばないかと声を掛けた<ref name="maruyama2010">{{Cite book |和書 |author=[[丸山佑介]] |title=判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher=[[彩図社]] |date=2010-01-20 |pages=52-61 |isbn=978-4883927180 }}「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」</ref>。少女が料金2万円で応じ、ラブホテルに入ってHが金を払ったが、少女が「大阪出身で、父親の借金のために売春をしている。今日はその返済日だから10万円を用意して、これから呉に行く」と身の上話をした<ref name="maruyama2010"/>。それを聞いてやる気がなくなったHは「[[性行為|セックス]]するの悪いね」と苦笑いをし、少女に「送っていく」と声を掛け、少女をタクシーの助手席に乗せた<ref name="maruyama2010"/>。
: 気前よく少女に2万円を払ったHだったが、呉市方面に少女を連れて行く途中で「少女の話通りなら、彼女の財布には12万円ほどあるはずだ。それだけあれば今月の支払いは賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えつき、突然タクシーを人気のない空き地に駐車し「エンジンの調子が悪いようだ。後部座席に行って配線を調べるのを手伝ってほしい」と少女に指示した<ref name="maruyama2010"/>。少女が後部座席に回ったところHは運転席を降り、その背後に立ち、手にしたネクタイで少女の首を絞めて殺害した<ref name="maruyama2010"/>。「とっさの判断でやったにしてはうまくいった」とHは思い、少女の所持品を漁ったが、出てきた現金は12万円ではなく5万円程度だった<ref name="maruyama2010"/>。「話が違うじゃないか」と思いつつHはタクシーを走らせて広島市内に戻り、少女の遺体を水路に投げ捨てて遺棄した<ref name="maruyama2010"/>。
: 前述のように少女はHに大阪在住と言っていたため、Hは殺してもバレないと思っていたが、殺害から18日後の5月6日に少女の遺体が発見されたことをニュースで知り、「同じ県内に住んでいたとなると自分も疑われるかもしれない」と、それ以降逮捕されることばかり考えていた<ref name="maruyama2010"/>。{{要出典|範囲=しかしHは少女とそれまで面識がなかったため足がつかず、また警察は[[暴走族]]が関係する事件として[[捜査]]を行ったため、Hは「売春婦ならば自分に嫌疑がかけられない」と考えるようになる。|date=2017年5月}}
;第2の事件
: 逮捕を恐れ、警察の陰に怯えて暮らしていたHだったが、最初の事件が発覚してから3か月後の8月になっても全く捕まる気配はなく、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持ち、次の標的を求めて再び新天地に向かった<ref name="maruyama2010"/>。新天地公園には男から声を掛けられるのを待つ売春婦が何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった<ref name="maruyama2010"/>。
: [[8月13日]]夜、Hは飲食店従業員の当時23歳女性(2人目の[[被害者]])に援助交際を持ちかけて自分のタクシーに誘い、金を渡しホテルでセックスした後、「家まで送る」と言ってタクシーに乗せ、人気のない場所で首を絞めて殺害した<ref name="maruyama2010"/>。女性から現金5万2000円を奪い、遺体を道路脇の斜面に投げ捨てた<ref name="maruyama2010"/>。
; 第3の事件
: [[9月7日]]、Hは顔見知りの当時45歳[[ホステス]]女性(3人目の被害者)をタクシーに誘い出し、金を渡して車内で性行為をしたいと持ち掛けた<ref name="maruyama2010"/>。女性が承諾して性交をしていた最中、Hは女性の首を背後から絞めて殺害し、現金8万2000円を奪って遺体を遺棄した<ref name="maruyama2010"/>。{{要出典|範囲=Hは以前このホステスの売春の客となった際、ホステスに金を盗まれていたため、その腹いせだった。|date=2017年5月}}
; 第4の事件
: [[9月13日]]夜、Hは以前から面識のあった知人の当時32歳女性(4人目の被害者)に、第3の事件同様に声を掛けて誘い出した<ref name="maruyama2010"/>。4万円を渡して援助交際を持ちかけたが、女性はその態度を不審に思ってタクシーから逃げ出そうとしたため、Hは刃物を取り出して女性を脅し、無理矢理車内に連れ込んだ<ref name="maruyama2010"/>。Hは女性の顔面を激しく殴打して首を絞めて殺害し、これ前と同様に所持金を奪ってから遺体を山中に埋めて遺棄し、逃走した<ref name="maruyama2010"/>。
; 逮捕・起訴
: Hは金を奪うことよりも、次第に[[快楽殺人|人を殺す快楽に惹かれる]]ようになっていき、一連の4件の殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていった<ref name="maruyama2010"/>。
: しかし、4人目の被害者の遺体が発見されて事態は急展開した<ref name="maruyama2010"/>。遺体の身元が確認されるや否や、女性がHのタクシーに乗り込む姿を目撃したという証言が寄せられ、[[広島県警察]]は[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体遺棄]]容疑でHの逮捕状を請求した<ref name="maruyama2010"/>。
: 追い詰められたHは[[自殺]]を考えたが、結局死にきれずに広島から逃亡した<ref name="maruyama2010"/>。[[9月20日]]早朝、Hは[[山口県]][[防府市]]内の[[国道2号]]で、当時「秋の全国交通安全運動」のために夜間・早朝の取り締まり強化のため行われていた交通検問を突破しようとしたことから[[山口県警察]][[防府警察署]]に任意同行され、同日未明に広島市中区幟町の路上で盗まれた乗用車を運転していたことから窃盗容疑で[[逮捕]]された<ref name="taiho"/>。その後の取り調べで、Hは32歳女性を殺害したことを自供し<ref name="taiho">『朝日新聞』1996年9月22日広島県版朝刊「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」<br>『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15面「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」</ref>、翌[[9月21日]]、広島県警捜査本部に殺人・死体遺棄容疑で逮捕された<ref name="maruyama2010"/><ref name="taiho"/>。
: その後の取り調べで、Hは第2の事件についても「8月中旬の夜、広島市中心部の繁華街で顔見知りの中年女性を運転するタクシーに乗せ、金銭上のトラブルから広島県[[山県郡]][[加計町]](現・[[安芸太田町]])加計で女性の首を絞めて殺害し、遺体を遺棄した」と自供し、その自供に基づいて広島県警が同地の滝山川沿いのコンクリート製の溝を捜索したところ、10月1日正午過ぎに女性の白骨死体を発見した<ref>『朝日新聞』1996年10月2日夕刊第一社会面13面「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人」</ref>。
: Hは観念して他3人の殺害も自白し、2人目・3人目の被害女性の遺体も発見された<ref name="maruyama2010"/>。
: {{要出典|範囲=いずれの事件も被害者を殺害後にその所持金を盗んでいるため[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]での逮捕・起訴となったが4人の被害者から盗んだ計24万円の金銭のうち、その半分は男が売春のために被害者に渡したものであり、また[[公判]]での「殺人に快感を覚えていた」との旨の男の証言から[[快楽殺人]]とも[[報道]]され、|date=2017年5月}}[[丸山佑介]]の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』でも「シリアルキラー」と表現された<ref name="maruyama2010"/>。前述のようにHは高校時代は優等生だったが、大学受験時に推薦入試で受けた大学に合格できず、また性格的に挫折しやすく楽な方に流されやすい面があり、別の大学に進学して以降は滑り落ちるような人生で、警察での取調べ中も「どうせ、おれなんか」と投げやりで自暴自棄な態度だった<ref name="maruyama2010"/>。


[[宮崎県]]出身のHは、高校時代まで、スポーツ万能の優等生として、地元で名が知られていた<ref name="新潮45(2002) p.291-292">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.291-292]]</ref>。特に、日本史が得意で、高校の同級生からは、「クラスの上位15番以内に入る成績だった。空けても暮れてもテスト、テストの生活を、自分とともに乗り越えた仲間だ」と語られた<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。末っ子であるため、小遣いは欲しがるだけもらえたという<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。
== 刑事裁判 ==
1997年2月10日に[[広島地方裁判所]]でHの初[[公判]]が開かれ、冒頭の罪状認否でHは起訴された4件の強盗殺人・死体遺棄容疑をすべて「間違いありません」と認めた<ref name="maruyama2010"/>。Hが事実認定を争わなかったため、弁護人には[[刑法 (日本)|刑法]]第39条に基づく[[責任能力|心神喪失・心神耗弱]]による無罪・減軽を狙う他に手段はなかった<ref name="maruyama2010"/>。


中学時代、[[野球]][[部活動|部]]の[[主将]]を務めたHは<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、[[1978年]](昭和53年)4月、県内トップの進学校として知られる県立高校に入学した<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。
弁護側はHの[[精神鑑定]]を要求し、広島地裁はこれを認めて審理が一時中断した<ref name="maruyama2010"/>。その後1999年2月23日、1年3か月ぶりに再開された公判でHの精神鑑定の結果が報告されたが、鑑定結果は弁護側の狙いはと裏腹に「責任能力が認められる」というものだった<ref name="maruyama2010"/>。鑑定を担当した[[精神科医]]は「人格に著しい隔たりがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような病的なものとはみなされない」という結論だった<ref name="maruyama2010"/>。また、精神鑑定ではHが殺人に至った動機についての解明が試みられ、「Hは男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したいという性癖があった。犯行はこの空想を実際に移したものである」とされた<ref name="maruyama2010"/>。Hの挫折感は青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折に端を欲しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが女性を殺害することだった<ref name="maruyama2010"/>。


[[1981年]](昭和56年)3月、高校を卒業したHは<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、「教師か、公務員になりたい」と、大学受験に臨んだが<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、志望していた[[筑波大学]]の推薦入試に加え、第二志望の[[福岡教育大学]]にも不合格と、立て続けに失敗した<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>。
連続殺人鬼として広島地裁の法廷に立ったHは、法廷で涙を流しながら「私は許されるなら、今すぐ死んでお詫びしたいと思いますが、それだけではとても罪の償いには足りません。死刑が執行されるまで、死の恐怖と向かい合い、惨めな姿を晒してのたうち回り、被害者の味わった死の恐怖、その苦痛の何分の一かを味わうことができたら、初めてひとつの償いになると思います」「願わくば、一日も早く被害者の下へ言って謝りたいと思います。自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と懺悔した<ref name="nagase2004">『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫)2004年8月25日出版、ISBN 978-4043759019 p.217-218</ref>。1999年、Hはこの事件の刑事裁判を取材し、その懺悔を目の当たりにして聞いていた、作家の[[永瀬隼介]](当時は「祝康成」名義)は、[[広島拘置所]]に収監されていたHから「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、事、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」と綴られた手紙を受け取っていた<ref name="nagase2004"/>。永瀬は後に[[市川一家4人殺人事件]]で[[少年死刑囚|犯行当時少年の死刑囚]]を追った[[ノンフィクション]][[小説]]『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の[[死刑囚]]は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている<ref name="nagase2004"/>。


1981年4月<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、Hは結局、滑り止めのつもりで受けた、私立大学の[[福岡大学]][[法学部]]にしか合格できなかった<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>。
1999年10月、広島地方検察庁は[[論告]][[求刑]]公判で「被害者4人の[[強盗致死傷罪|強盗殺人事件]]であり、[[死刑]]以外の求刑は考えられない」としてHに死刑を求刑した<ref name="maruyama2010"/>。


地元は、国立大学志向が強く、教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代、無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があったが、大学受験に失敗して以降、「私立大学では、たとえ教師になっても尊敬されない」と、大きな挫折感を味わった<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>。福岡大学でも、「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と、同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず、飲酒・ギャンブルにのめり込んだ<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>。この頃からは、高校時代までの友人たちと音信不通になり、同窓会にも出席しなかった<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。
弁護側は最終弁論で、精神鑑定結果に異議を唱え「Hは最初の犯行の際、妻の病気や消費者金融の借金の返済などで自暴自棄の心理状態にあった」として情状酌量を求め、死刑回避を訴え結審した<ref name="maruyama2010"/>。しかしそれはHの望むところではなく、Hは「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません。一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」と、自ら死刑になることを望んでいた<ref name="maruyama2010"/>。


しかしそれが仇となり、4年生になって、かつて見下していた同級生たちは、国家公務員・都道府県職員へと就職していった一方<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>、Hは留年が確実となり<ref name="新潮45(2002) p.291-292"/>、「このままでは市役所職員にもなれない」と、強い挫折感を抱えていた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。福岡大学入学から4年2か月後となる、[[1985年]](昭和60年)6月末<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、4年生に留年したまま、授業料滞納のため<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、中途退学した<ref name="新潮45(2002) p.293-295">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.293-295]]</ref>。
[[2000年]][[2月9日]]、広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)で検察側の求刑通り死刑[[判決 (日本法)|判決]]が言い渡された<ref>『朝日新聞』2000年2月10日広島県版朝刊23面「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」</ref><ref name="maruyama2010"/>。裁判官は判決を言い渡した後、Hに「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた<ref name="maruyama2010"/>。


その後、学費を援助していた兄に、宮崎市の実家に連れ戻されてからは<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、周囲に対し、「[[司法試験]]に失敗した」と、嘘を言い張りつつ、宮崎市役所臨時職員として就職した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。しかし、飲酒・女遊びに溺れるなど、荒れた生活は改善せず、オートバイの[[酒気帯び運転]]で逮捕された<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。その後も、遊ぶ金欲しさに、ひったくりを繰り返したHは、当時24歳だった、[[1986年]](昭和61年)1月25日午後0時過ぎ、会社員宅に侵入し、その妻に包丁を突き付け、現金2万円・預金通帳を奪った<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。この[[強盗罪|強盗]]事件で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]されたHは、懲役2年の実刑[[判決 (日本法)|判決]]を受け、[[刑務所]]に服役した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。
Hは[[控訴]]期限の2月23日までに[[広島高等裁判所]]に控訴しなかったため、そのまま死刑判決が[[確定判決|確定]]した<ref>『朝日新聞』2000年2月24日夕刊12面「死刑判決が確定 広島の4女性殺害【大阪】」</ref><ref name="maruyama2010"/><ref name="nagase2004"/>。

Hは、刑務所を出所後、故郷の宮崎県を離れると<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>、[[1989年]](平成元年)4月<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/><ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>、叔父を頼り、[[広島県]][[広島市]]内に移住した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。母親によれば、それ以降、挫折体験を思い出したくなかったのか、宮崎の実家には、一度も帰らなかった<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。

1989年4月<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、Hは、広島市内のタクシー会社に<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、運転手として就職した<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。「一からやり直す」決心で働こうとしたが<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、大企業のエリート社員を、客として乗せ、働き続ける毎日のうちに、「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間じゃない。筑波大学に合格できていれば、今頃は国家公務員として、地位も名誉も約束された生活を送っていけたはずだ」と、コンプレックスを募らせ続けていた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。月収は、手取りで約30万円だったが、その大半を、飲酒・女遊びに浪費した上、[[消費者金融]](サラ金)から[[借金]]を重ね続けていた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

[[1992年]](平成4年)、当時29歳だったHは、叔父の紹介で、当時30歳の女性と結婚した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。当時、サラ金からの借金は、500万円に達していたが、Hはこの膨大な借金を、安佐南区の新興住宅地に建てた、建売住宅を購入した上で、その住宅ローンを、実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して、合計500万円を作ることで、完済した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

これが転機となり、生活が徐々に改善していったHは<ref name="丸山2010"/>、[[1993年]](平成5年)4月、長女が誕生、1児の父親になっている<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。Hは、「家も持ったし、子供もできた。これで世間も認めてくれる」と、希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後、[[産褥]]期の妻が突然、意味不明な言葉をつぶやき続けたり、時折奇声を上げたりなど、[[精神疾患]]を発症した<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。Hはその後、妻を精神科病院に入院させ、娘を妻の実家に預けたが、再び飲酒・ギャンブル・女遊びなど、荒れた生活に戻っていった<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

Hはその後、再びサラ金から借金を繰り返し、[[1994年]](平成6年)末には、200万円の借金を抱えたため、実家の兄に肩代わりさせた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。妻は一時、病状が改善したために退院したが、翌1995年(平成7年)から、再び長期入院するようになった<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

精神疾患を患った妻に、回復の兆しが見られなくなったこと、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから、Hの生活は荒れていく一方だった<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。これに加え、「筑波大学の推薦入試を受けたほどの自分が」、強盗事件の前科で故郷を追われ、借金で首の回らないタクシー運転手にまで、「身をやつした」ことについて、激しい劣等感を感じていた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

Hの生活態度が、一向に改まらないことから、家族は、消費者金融に対し、貸付の停止を申し入れた<ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊"/>。これにより、Hは、金融業界の「ブラックリスト」に乗り、借り入れができなくなった<ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊"/>。

1996年4月当時、サラ金などから抱えた、多額の[[借金]]の返済が迫り、追い詰められていたHは<ref name="丸山2010"/>、「自殺して[[生命保険]]の[[保険金]]で返済しよう」とまで考えたが、Hは自殺すらできず、「己の不運は全て周囲のせい」にしていた<ref name="新潮45(2002) p.293-295"/>。

職場の上司・同僚など、関係者によれば、Hは「あまり付き合いは良くないが、真面目なヤツだった」といい、1日の売り上げは、平均約45000円と<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、営業成績はトップクラスだった<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。勤務時間は、他の運転手たちより1日2時間ほど長かった<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。また、妻子とともに買い物に行ったり、公園で遊ぶなど、家族仲は良好なように見えたという<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。

一方で、被害者を物色していた[[流川 (広島市)|流川]]地区では、客にならなくても、毎晩のように訪れてくることで有名で<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊">『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面21面「[心想]広島・女性連続殺人事件 H被告、転落の軌跡」(記者:辻加奈子、谷川貴史)</ref>、「タクシーの男」として知られており<ref name="AERA"/>、タクシーを泥酔状態で[[飲酒運転]]していたり、シートにビールの缶が転がっていることもあったという<ref name="AERA">[[週刊誌]]『[[AERA]]』1996年10月21日号 p.62「孤独な素顔に隠された狂気 広島連続殺人事件」([[朝日新聞社]]出版本部、編集部記者:[[烏賀陽弘道]])</ref>。

事件の3,4年ほど前から、頻繁に歓楽街に姿を見せるようになったHは、一時は毎週のように遊び歩いていたが、遊ぶ金が尽きたのか、1996年になってからは、たまに姿を見せても、冷やかしだけで帰っていくようになった<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。

== 事件の経緯 ==
=== A事件(第1の事件、1996年4月18日) ===
[[被害者]]:少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[黒瀬町]]在住、[[広島県立広高等学校]][[定時制]]1年生)<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>

1996年4月18日午後8時、勤務中だったHは、「西日本一の[[歓楽街]]」として知られた、広島市[[中区 (広島市)|中区]]の[[流川 (広島市)|流川]]・[[薬研堀 (広島市)|薬研堀]]一帯を、タクシーで流していた<ref name="新潮45(2002) p.288-291">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.288-291]]</ref>。

その最中、[[売春]]・[[援助交際]]のメッカとして知られていた、[[新天地 (広島市)|新天地公園]]を通りかかったところ、少女Aを見つけた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/><ref name="丸山2010"/>。Hは、Aに「遊ばないか」と声を掛けた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/><ref name="丸山2010">{{Cite book |和書 |author=[[丸山佑介]] |title=判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher=[[彩図社]] |date=2010-01-20 |pages=52-61 |isbn=978-4883927180 }}「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」</ref>。

Hは、料金2万円で応じたAを<ref name="丸山2010"/>、タクシーに誘い、タクシーに乗せると、[[コンビニエンスストア]]で[[缶ビール]]を買い、[[ラブホテル]]に入った<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

そのまま、2人で缶ビールを飲んだが、Aは、嗚咽交じりに、「父親の借金を返済するため、大阪から働きに来た。あと10万円返せば完済できる」<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>、「今日はその返済日だから、10万円を用意して、これから呉市に行く」と、身の上話をした<ref name="丸山2010"/>。

Hは、この話を聞き、内心、「やられた」と思いつつも、「なんか、([[性行為|セックス]])するのが悪いね」と言い、お人よしのタクシー運転手を装い、呉市まで送っていくことを約束した<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

Aをタクシーの助手席に乗せ<ref name="丸山2010"/>、広島市中心街から約20km先の呉市方面へ、タクシーを走らせたHは、「Aの話通り、所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して、計12万円あるはずだ。それだけあれば、今月の借金の返済は賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えた<ref name="丸山2010"/><ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。Hは当時、飲酒・女遊びにより、約350万円の借金を抱えており、月々15万円を返済していた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

Aは、Hに対し、「(親族は)大阪に祖母がいるだけ」と話していたが、Hは「身寄りのないよそ者とは好都合だ。殺して金を奪ってもばれないだろう」と考えた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

呉市街地の街灯りが見えるようになった頃、Hは、人気のない道に乗り入れ、呉市上二河町の、[[広島県道31号呉平谷線]]沿いの空き地で<ref name="朝日新聞1996-12-04"/>、タクシーを停車した<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。その上でHは、後部座席にいたAに対し、「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから、足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

Aが身をかがめ<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>、後部座席に回ったところ<ref name="丸山2010"/>、Hはネクタイを緩め、運転席を降りた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。そして、午後10時50分<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>、背後からAに忍び寄り、ネクタイを首に巻き付け、Aの首を絞め、Aを窒息死させて絞殺した<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/><ref name="朝日新聞1996-12-04"/>。

Aを殺害した直後、Hは「とっさの判断でやったにしては、うまくいった」と思いつつ<ref name="丸山2010"/>、Aの所持品を改めたが、Aの所持していた現金は、Hの予想していた12万円とは異なり、わずか5万円しかなかった<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。Hは、「嵌められた」と思いつつ<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>、その現金約5万円を奪った上で<ref name="朝日新聞1996-12-04"/>、タクシーにAの遺体を乗せたまま、殺害現場から約25km離れた広島市内まで戻った<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。

その後、広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]大塚の、雑木林の中に辿り着いた<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。その林内を通る、林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)に<ref name="読売新聞1996-05-07"/>、田圃脇水路の土管があったため<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/>。Hは、Aの遺体を土管内に遺棄した<ref name="新潮45(2002) p.288-291"/><ref name="朝日新聞1996-12-04"/>。

<!--Hは突然、タクシーを人気のない空き地に駐車し、「エンジンの調子が悪いようだ。後部座席に行って配線を調べるのを手伝ってほしい」と、少女に指示した<ref name="丸山2010"/>。-->

前述のようにAは、Hに対し、「大阪在住」と語っていたため、Hは「殺しても(身元は)バレないだろう」と考えていた<ref name="丸山2010"/>。しかし、殺害から18日後の1996年5月6日、少女の遺体が発見され、身元が呉市内の女子高生であることが判明した<ref name="新潮45(2002) p.295-300">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.295-300]]</ref>。後述のように、[[広島県警察]][[広島北警察署]]は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始した<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。

これをニュースで知ったHは、「大阪の女じゃなかったのか」<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>、「同じ県内に住んでいたとなると、自分も疑われるかもしれない」と驚いた<ref name="丸山2010"/>。同時に、刻一刻と、自分の身辺に捜査の手が迫る気がし<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>、それ以降、逮捕されることばかり考えていた<ref name="丸山2010"/>。

しかし、6月、7月と、時間が経過し、[[梅雨]]が明けても、Hの周囲に、警察の動きはなかったため、日が経つにつれ、Hは「警察の捜査にも限界がある。行きずりの売春婦なら、自分と接点はない。現に、警察は何もわかっていない」と安堵し、逆に自信を深めた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

=== B事件(第2の事件、1996年8月13日) ===
被害者:女性B(事件当時23歳、広島市[[安佐南区]][[八木 (広島市)|八木]]在住)<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊"/>

A事件から約3カ月が経過した8月になっても、Hの周囲には、捜査の手は及ばなかったため、やがてHは、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持つようになった<ref name="丸山2010"/>。

1996年8月13日夜、Hは、再び新天地に向かい<ref name="丸山2010"/>、繁華街をタクシーで流しながら、次の標的を物色した<ref name="丸山2010"/>。新天地公園には、男から声を掛けられるのを待つ売春婦が、何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった<ref name="丸山2010"/>。

Hは、「金でセックスさせる女なら、捜索願も出ないだろう」と思いつつ、新天地公園で、スナックバー勤めの、23歳女性Bを見つけ、声を掛けた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hは、Bに車中で、現金3万円を渡し、安心させた上で、ラブホテルに入った<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

しかしBは、Hを「素行不良のタクシー運転手」とみなし、牽制しようとしたのか、「自分の父親は[[暴力団]]組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hは「それは怖いね」と、感心したそぶりでうなづきつつ、Bと[[性行為]]をした<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。その後、翌8月14日午前0時50分になって、ラブホテルを出た<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Hはその後、コンビニに立ち寄り、缶ビール・[[軍手]]を購入した上で、山道に入った<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。そして、B宅から北にわずか数kmの、安佐南区八木の[[太田川]]橋付近で<ref name="朝日新聞1996-10-09"/><ref name="読売新聞1996-10-07"/>、何の前触れもなく、タクシーを停車した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Hは、「(この車は)よく故障するんだよ」と苦笑いしつつ、Bに対し、床のシートをめくるように頼んだ<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。そして、買ったばかりの軍手をはめ、後部座席に体を滑り込ませ、Bの背後からネクタイで、Bの首を絞めた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Bは、「さっきの話は嘘だ。父親はヤクザではない。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hは気にも留めず、Bの首を絞め続け、Bを窒息死させて絞殺した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hはこの時、軍手をはめていたためか、A事件の時より、更に強い力で、Bの首を絞めていたという<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

そしてHは、Bの遺体を物色し、所持金52000円を奪った上で<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>、安佐北区[[白木町]]小越の、[[広島県道46号東広島白木線]]の脇を流れる、関川([[太田川]]水系三篠川支流[[一級水系|一級河川]])沿いの斜面に<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊"/>、Bの遺体を遺棄した<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。Bの遺体は、8月下旬になっても発見されなかったため、Hは更に、殺人への自信を深めた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Bは、1985年(昭和60年)3月、安佐南区内の別の地区から、事件当時の住居に、両親・妹弟計5人とともに転居していた<ref name="朝日新聞1996-10-09"/>。後にBの遺体が、自宅からわずか北数kmで発見されたことに対し、近隣住民らからは、「こんな近くで殺されたなんて信じられない」と、驚きの声が上がった<ref name="朝日新聞1996-10-09"/>。

=== C事件(第3の事件、1996年9月7日) ===
被害者:女性C(事件当時45歳、[[長崎県]][[諫早市]]出身、広島市中区宝町在住)<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>

2人を相次いで殺害したHは、1996年9月7日深夜<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>、広島市[[南区 (広島市)|南区]]松川町の路上で<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>、以前から顔見知りだったホステスの、45歳女性Cを、タクシーに誘い入れた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Cは、Hと顔見知りだったためか、すぐにHのタクシーに乗り込んだ。Hが、「どこか遠くで遊ぼうか」と提案し、3万円を渡した上で、「[[カーセックス|タクシーの中でしてもいいかな]]」と提案すると、Cはこれに応じた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

事前に缶ビールを飲むのが、Hの「儀式」だったため、Hはその後、コンビニに立ち寄り、Cに缶ビールを買わせた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

その後、広島県[[山県郡]][[加計町]]穴(現・広島県山県郡[[安芸太田町]]穴)の、[[国道191号]]の脇道に辿り着くと<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>、周囲は真っ暗な山道だった<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hは、そこにタクシーを停車すると、Cに、「俺は後ろからするのが好きなんだ。四つん這いになってくれ」と、[[後背位]]での行為を求めた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Cは承諾し、後部座席で背を向け、下着を脱ぎ、腰を突き出した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hは、ネクタイとズボンのベルトを緩めると、野獣のような唸り声を挙げつつ、Cにのしかかった<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Cは、危険を察知し、振り返って「何をするの」と叫んだが、Hはベルトを引き抜き、Cの首に回して絞め上げた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Cは、激しく抵抗したが、Hはこれに構わず、Cが白目を剥いて失神するまで、ベルトで絞めつけた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。そして、とどめにネクタイで、Cの首を絞めつけ、Cを窒息死させて絞殺した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Hはその後、現金約8万円を奪い<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>、殺害現場から約10km離れた、加計町加計の町道脇を流れる、滝山川([[太田川]]支流)左岸の法面斜面にある<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、コンクリート製の溝の中に<ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、Cの遺体を遺棄した<ref name="朝日新聞1996-10-16"/>。

=== D事件(第4の事件、1996年9月14日) ===
被害者:主婦D(事件当時32歳、広島市中区在住)<ref name="読売新聞1996-09-16"/>

C事件の後、Hは、「3人も殺したからには、([[最高裁判所判例]]として示された死刑適用基準「[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]」の観点から見ても)捕まったら間違いなく死刑だ」と、警察に逮捕され、死刑になることに恐怖したが、その一方で、「人知れず女たちを絞め殺しているけど、まだ警察の捜査の手は及んでいない」という事実を思い出した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。そして、「俺は超人じゃないか」、「絶対に捕まることはない」と、半ば本気で、揺るぎのない自信を持った<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

Aの遺体が発見されたものの、その後続報はなく、B・C両名については、発覚すらしていなかった<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。Hはこの頃、[[快楽殺人|殺人に快楽を見出す]]ようになっていた<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。夕方、タクシーを運転しつつ、湧き上がる殺人衝動を抑えられない自分に直面し、恐怖を感じたこともあったため、Hは「いつもと違う自分だったら、禍々しい殺人衝動もおさまるだろう」と、乗務用の白手袋を脱ぎ、ハンドルを握ったこともあった<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

しかし、夜が迫るにつれ、殺人衝動と、女性を絞殺する際の「堪らない快感」に駆られたHは、「金さえ渡せば、いつでもどこでもセックスする」売春婦をターゲットに、4人目の犠牲者を物色した<ref name="新潮45(2002) p.295-300"/>。

C事件から1週間が経過した、1996年9月13日午後10時頃、Hは、以前に何度か遊んだことのある、「アイちゃん」と呼んで親しくしていた、32歳の女性Dに声を掛けた<ref name="新潮45(2002) p.300-304">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.300-304]]</ref>。

Hは、Dをタクシーに乗車させ、停車した車内で、10分ほど話をした。その後、Hは缶ビールを買いに、いったん車外に出たが、戻ってみたところ、Dの姿はなかった<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hは、「逃げられた」と舌打ちしたが、日付の変わった9月14日午前0時すぎ、1軒のホテルの前で、再びDと邂逅した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。通常、「最高額」の2万円は、20歳代の売れっ子に限られており、通常の「相場」は、15000円から2万円未満だったため、32歳で、人並みの容姿だったDは、Hから、「相場の倍以上」となる4万円を提示され、快諾した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hは上機嫌で、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」と、タクシーを発進させた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。その途中、Hは、コンビニに立ち寄り、Dに缶ビール・おつまみを買わせた後、広島市郊外の<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>、佐伯区内のホテルに投宿し<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、性行為をした<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

その後、H・Dの2人は、ホテルを出た<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。Hは、タクシーの後部座席にDを載せ、[[廿日市市]]方面へ向かい、1996年9月14日午前2時すぎ、人気のない、静まり返った田舎道に辿り着いた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。その場所が、殺害現場となった、広島市[[佐伯区]][[五日市町 (広島県)|五日市町]]大字上河内の、[[広島県道41号五日市筒賀線]]路上だった<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>。

Hは、この現場でタクシーを停車した上で、Dに対し、「足元のシートをめくってほしい」と申し出た<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。Hは、それまでの3人の経験から、プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく、指示に従うことを知っていた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hは、Dが屈みこんでいる間に、ネクタイをほどいたが、Dが顔を上げると、「なんか怖い」と言った<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。Hは、Dに笑みを浮かべ、ネクタイを座性に掛けたが、Dは「一人で帰る」と言い出し、タクシーのドアを開け、車外に出た<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hは、「警察にかけ込まれたら終わりだ」と思い、タクシーを急発進させた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。Hはそのまま、徐行しつつ、助手席の窓を開け、Dに「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。しかしDは、速足で歩きつつ、ショルダーバッグか、Hからいったん代金として受け取った、1万円札4枚を取り出し、「もう、お金はいらないから」と叫び、Hに投げつけた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。そして、Dは駆けだし、Hから逃げようとした<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

これに対しHは、「優しく言えば付け上がりやがって」と逆上し、アクセルを踏み込み、タクシーを加速させ、Dを追い越し、前に回り込んだ<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。Dの行く手を塞ぎ、車外に出たHは、立ちすくんでいたDの襟首を掴み<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>、持っていた果物ナイフを<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>、Dの喉元に突き付けた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hは、Dを後部座席に連れ込むと、右拳を握り締め、Dの顔面を勢い良く、計10発近く殴りつけた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。1996年9月14日午前2時10分頃<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>、Dが失神すると、Hはネクタイで、Dの首を絞め、窒息死させて殺害した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。その上で、Dが所持していた現金約56000円を奪った<ref name="朝日新聞1996-10-13"/>。

Dを殺害した後、Hは、「タクシーの座席が、血液や(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を、天井側部の手すりに結び付け、Dの遺体を、首吊りの格好で固定した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

Hはそのまま、タクシーを移動させると、10分ほどして<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>、広島県[[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現・広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)の、[[国道433号]]旧道から、1mほど斜面を下った草むらに<ref name="読売新聞1996-09-14"/>、Dの遺体を投げ捨てるように遺棄した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

== 捜査 ==
=== A事件の発覚 ===
1996年5月6日午後4時半ごろ、広島市[[安佐南区]][[沼田町 (広島市)|沼田町]]大塚の、雑木林の中の林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)で、全裸で倒れている腐乱死体があるのを、山菜取りをしていた近くの住民が発見し、110番通報した<ref name="読売新聞1996-05-07">『読売新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15面「林道わきの側溝に女性他殺体? 不審な車の目撃者を捜査/広島県警」</ref><ref name="朝日新聞1996-05-07">『朝日新聞』1996年5月7日夕刊第一社会面15面「広島の川に女性の死体 【大阪】」</ref>。後にAと判明したこの遺体は、10歳代後半から20歳代<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>、身長約155cmの女性で、18金のネックレスを着け、おかっぱぐらいの長さの髪を、紅いゴムひもで結んでいた<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。遺体は、死後約2週間経過しており、[[広島県警察]]捜査一課・[[広島北警察署]]は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始し<ref name="読売新聞1996-05-07"/>、遺体を[[司法解剖]]し、死因などを調べた<ref name="朝日新聞1996-05-07"/>。現場は、広島駅から北西約10㎞の位置にあり、朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外、人・車の通行はほとんどない道だった<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。そのため捜査一課は、車を使用した犯行とみて、不審な人物・車両の目撃者などを捜査した<ref name="読売新聞1996-05-07"/>。

5月8日、広島県警は、広島北署に、女性死体遺棄事件捜査本部を設置し、164人態勢で捜査に当たった<ref name="朝日新聞1996-05-09">『朝日新聞』1996年5月9日朝刊広島県版「164人態勢で捜査 広島・安佐南区の女性死体遺棄で県警 /広島」</ref>。同日、捜査本部による捜査の結果、女性の[[血液型]]はO型で、盲腸には手術痕があることが判明した<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。

また、女性の上下6番目の大臼歯4本に<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>、治療痕があったことが判明したため、[[広島県歯科医師会]]に対し、該当する患者がいるかどうか、情報提供を要請した<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。これを受け、広島県歯科医師会は、県内約1280の[[診療所]]に対し、女性の歯の状況を記した所見を送った<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。また、女性の歯のうち、下側の5番目の小臼歯2本は、乳歯のままで、永久歯が出ない、「先天性欠如歯」だった<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。これは、鑑定した歯科医師によれば、「数十人に1人の体質」だったため、広島県警も、大きな手掛かりとして、該当する女性患者がいないか、重点的に調べた<ref name="朝日新聞1996-05-14">『朝日新聞』1996年5月14日朝刊広島県版「下側二本は乳歯のまま、身元は依然不明 広島市の女性変死体/広島」</ref>。

捜査本部では、このほか、家出人の調査や、女性が身に着けていたネックレス・ピアスの入手先などを調べた<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。その結果、家出人に関する情報は、県内外から58件寄せられた<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。また、ネックレス・ピアスは、大手宝石店で売買されていたものであることが判明し、広島市内などの店舗に、捜査本部から照会がなされたが、遺体発見から1週間となる5月13日までに、購入先は判明しなかった<ref name="朝日新聞1996-05-14"/>。

現場周辺では、5月8日、捜査員80人が、遺留品を捜索したり、付近の住民らへの聞き込みを行ったが、身元の確認につながる、有力な情報は得られなかった<ref name="朝日新聞1996-05-09"/>。

5月13日、Aの母親と名乗る女性の声で、広島北署捜査本部に対し、「娘がいなくなっている」と電話があった<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>。これを受けて調べたところ、O型の血液型、遺体が身に着けていたネックレス・ピアスなどが、Aの特徴と酷似し、身長も一致したことから、遺体の身元はAである可能性が高まった<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊">『読売新聞』1996年5月14日大阪朝刊第二社会面26面「広島の女性遺体 不明の16歳少女か 血液型や身長が一致」</ref>。

そのため、捜査本部が、[[広島県歯科医師会]]に依頼し<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>、歯科医院のカルテなどを調査し<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、歯の治療痕を確認した<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>。それに加え、A宅に残された髪などと、遺体の毛髪を照合したり<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>、虫垂炎の手術痕、胸の[[X線撮影|X線写真]]などを照合するなどして<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、身元特定作業を実施したところ<ref name="読売新聞1996-05-14 朝刊"/>、翌14日になって、遺体の身元はAと断定された<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊">『読売新聞』1996年5月14日大阪夕刊第二社会面14面「広島の女性遺体 高1少女と断定」</ref><ref name="朝日新聞1996-05-15">『朝日新聞』1996年5月15日朝刊広島県版「事件・事故両面で捜査 広島市安佐南区の女性遺体、身元判明 /広島」</ref>。

捜査本部の調べや<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、広高校定時制によれば<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>、Aは、4月9日に入学式に出席した<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>。その後、高校の新入生歓迎会があった4月16日までは<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>、学校に姿を見せていたが<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>、同日に登校後、そのまま帰宅せず、翌17日、広島県[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[音戸町]](現・呉市)内から、自宅に電話したのを最後に、消息が途絶えていた<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>。欠席が続いたため、担任教諭が、A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話していた<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>。なお、Aの家族からは、捜索願は出ていなかった<ref name="朝日新聞1996-05-15"/>。

なお、Aは昼間、呉市内のファミリーレストランで、アルバイトの研修を受けていた<ref name="読売新聞1996-05-14 夕刊"/>。

広島北署捜査本部は、5月31日、Aの写真が入ったチラシ6000枚を製作した<ref name="朝日新聞1996-06-01">『朝日新聞』1996年6月1日朝刊広島県版「女性の写真入りチラシ、交番などに掲示 広島市の死体遺棄事件 /広島」</ref>。捜査本部は、このチラシを、[[呉警察署]]・[[広警察署]]・[[海田警察署]]・[[西条警察署]]の各管内、広島市内の交番の掲示板などに張り出し、情報提供を求めた<ref name="朝日新聞1996-06-01"/>。

しかしその後、有力な情報はなく、[[未解決事件]]となっており、Hが自供した時点では、迷宮入り寸前だったという<ref name="AERA"/>。

=== D事件の発覚 ===
Dが殺害されてから5時間後<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>、9月14日午前7時ごろ、広島県[[佐伯郡]][[湯来町]]葛原(現・広島市[[佐伯区]]湯来町大字葛原)の、[[国道433号]]旧道から、1mほど斜面を下った草むらで、若い女性が仰向けに倒れて死亡しているのを<ref name="読売新聞1996-09-14">『読売新聞』1996年9月14日大阪夕刊第一社会面11面「若い女性の絞殺体 旧国道わきの草むらで見つかる /広島・湯来町」</ref><ref name="朝日新聞1996-09-15">『朝日新聞』1996年9月15日朝刊第一社会面29面「旧国道わきに女性の絞殺体 広島・湯来町の山中 【大阪】」</ref>、犬の散歩中だった散歩中の近隣住民女性が発見した<ref name="朝日新聞1996-09-15 広島"/>。発見者女性は、近所の男性に連絡し、男性が119番通報した上で<ref name="朝日新聞1996-09-15 広島"/>、[[廿日市警察署]]に通報した<ref name="読売新聞1996-09-14"/><ref name="朝日新聞1996-09-15"/>。広島県警捜査一課は、遺体の状況などから、女性が絞殺されたと判断した上で、殺人・死体遺棄事件として、廿日市署に捜査本部を設置し、捜査を開始した<ref name="読売新聞1996-09-14"/><ref name="朝日新聞1996-09-15"/>。

現場は、広島駅から北西約25㎞の山間部で、周囲には民家が点在するが<ref name="読売新聞1996-09-14"/>、現場付近の旧道は、付近の住民が散歩で通る以外<ref name="朝日新聞1996-09-15 広島"/>、車や人の通りは少ない道だった<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。現場周辺は、日ごろ静かな山間の集落だけに、「殺人事件なんてひとごとだと思っていた」と、住民らに対し、大きな衝撃を与えた<ref name="朝日新聞1996-09-15 広島">『朝日新聞』1996年9月15日朝刊広島県版「山あいに走る衝撃 きょう100人で捜索 湯来町の女性殺人 /広島」</ref>。

捜査本部は同日、[[広島大学]][[医学部]]で、遺体を[[司法解剖]]し、詳しい死因・身元などを調べた<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。廿日市署の調べによれば、女性は20歳代から30歳代、身長約160cm、やや太り気味だった<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。遺体に目立った外傷はなかったが<ref name="読売新聞1996-09-14"/><ref name="朝日新聞1996-09-15"/>、顔がうっ血しており、14日未明に絞殺された後、現場に運ばれ、遺棄されたと推定された<ref name="朝日新聞1996-09-15"/>。遺体の服装は、ベージュのタートルネック長そでセーター、えんじ色のスラックス姿で、髪は肩ほどまであり、緩いパーマをかけていた<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。靴は、焦げ茶色の革靴を片側だけ履いていた<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。左耳には、十字架の形をした銀色のピアスを付けており、右薬指には指輪をはめていた<ref name="読売新聞1996-09-14"/>。

9月14日午後8時ごろ、Dの長女から、「母親と連絡が取れない」と、110番通報があった<ref name="読売新聞1996-09-16"/>。広島県警が、D宅マンションで指紋を採取し、遺体と照合した結果、遺体の身元は、13日に外出後、行方不明となっていた、広島市中区内の32歳女性Dと判明した<ref name="読売新聞1996-09-16">『読売新聞』1996年9月16日大阪朝刊第一社会面27面「湯来町の絞殺体は不明の32歳主婦/広島県警」</ref><ref name="朝日新聞1996-09-16"/>。それまでの調べでは、Dは6年前、前夫と離婚したが、その間に生まれた娘2人と、マンションで暮らしており、事件当時は、ナイジェリア人の男性と再婚していた<ref name="読売新聞1996-09-16"/>。身元確認を受け、捜査本部は、Dの13日夜から、14日未明にかけての足取りや、交友関係について、捜査を開始した<ref name="朝日新聞1996-09-16"/>。

また、捜査本部は、9月15日午前9時半から、遺体発見現場周辺を、約100人態勢で、遺留品などがないか捜索したが<ref name="朝日新聞1996-09-16">『朝日新聞』1996年9月16日朝刊広島県版「足取り・交友関係調べ 県警、百人で現場捜索 湯来の女性殺人 /広島」</ref>、Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは、遺体周辺では発見されなかった<ref name="読売新聞1996-09-16"/>。

=== 逮捕・起訴 ===
==== D事件で逮捕 ====
Hは、犯行を重ねるにつれ、金を奪うことよりも、次第に[[快楽殺人|人を殺す快楽に惹かれる]]ようになっていった<ref name="丸山2010"/>。一連の4件の殺人は、事件を重ねるごとに、間隔が短くなっていった<ref name="丸山2010"/>。

しかし、4人目の被害者の遺体が発見されたことで、事態は急展開した<ref name="丸山2010"/>。遺体の身元が確認された直後、「Dが、Hのタクシーに乗り込む姿を目撃した」という証言が<ref name="丸山2010"/>、捜査本部に寄せられた<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/><ref name="丸山2010"/>。これに加え、Dが9月14日未明、事件2,3年前から親しくしていた、知人Hとともに、佐伯区内のホテルに投宿した後<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、Hのタクシーでホテルを出ていたことが、ホテルへの聞き込みで判明した<ref name="読売新聞1996-09-21"/>。

Dが行方不明になる直前、知人のHに会っていたことから、Hの犯行の線が強まったとして<ref name="朝日新聞1996-09-21"/>、[[広島県警察]][[廿日市警察署]]捜査本部は<ref name="朝日新聞1996-09-21"/>、D殺害をHの犯行と断定した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。そのため捜査本部は、1996年9月18日付で、[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体遺棄]]容疑で、Hの逮捕状を請求し<ref name="朝日新聞1996-09-19">『朝日新聞』1996年9月19日朝刊第一社会面29面「タクシー運転手に逮捕状 広島・女性殺人容疑【大阪*】」</ref><ref name="毎日新聞1996-09-19">『毎日新聞』1996年9月19日大阪朝刊社会面31面「主婦殺人容疑で運転手に逮捕状を請求 広島県警」</ref><ref name="朝日新聞1996-09-22"/>、行方を追った<ref name="朝日新聞1996-09-21"/>。

捜査が間近に迫ったことを察知し<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>、追い詰められたHは、[[自殺]]を考えたが、結局死にきれず、広島から逃亡した<ref name="丸山2010"/>。

1996年9月20日早朝、[[山口県]][[防府市]]内の[[国道2号]]では、当時「[[秋の全国交通安全運動]]」の一環などで、夜間・早朝の取り締まり強化のため、交通検問が行われていた<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。この検問を、不審な乗用車が無視して突破しようとしたことから、[[山口県警察]]は、行き止まりに追い詰め、車を運転していた男を、[[防府警察署]]に任意同行した<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。事情を調べた結果、車は同日未明、広島市中区[[幟町]]の路上で盗まれた盗難車であることや、運転していた男が、Hであることが判明した<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。これを受け、山口県警防府警察署は、窃盗容疑でHを[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。この逮捕後、Hは妻と離婚した<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/><ref name="AERA"/>。

1996年9月21日、取り調べに対し、Hは、「Dとは、2,3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから、遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述した<ref name="朝日新聞1996-09-22"/>。これを受け、広島県警廿日市署捜査本部は、殺人・死体遺棄容疑で、Hを逮捕した<ref name="朝日新聞1996-09-21">『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15面「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」</ref><ref name="朝日新聞1996-09-22">『朝日新聞』1996年9月22日朝刊広島県版「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」</ref><ref name="読売新聞1996-09-21">『読売新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面11面「主婦絞殺・死体遺棄事件 元タクシー運転手を逮捕/広島県警」</ref>。

==== C事件発覚 ====
Hは、捜査本部の取り調べに対し、「8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で、Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30km離れた[[山県郡]][[加計町]](現・[[安芸太田町]])加計まで連れて行き、首を絞めて女性を殺害し、山中に遺体を遺棄した」と自供した<ref name="読売新聞1996-10-02">『読売新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面15面「広島の主婦絞殺事件 H容疑者が別の女性殺害自供 白骨体を発見」</ref><ref name="朝日新聞1996-10-02">『朝日新聞』1996年10月2日夕刊第一社会面13面「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人 【大阪】」</ref>。

これを受け、捜査本部が、1996年10月1日、加計町加計の山中にて、滝山川([[太田川]]支流)左岸の法面を捜索したところ<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、正午過ぎになって<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、コンクリート製の溝の中で、女性の白骨死体が発見された<ref name="朝日新聞1996-10-02"/>。現場は、JR広島駅から北北西約30km、Dの遺体発見現場から北約20kmの位置で<ref name="朝日新聞1996-10-02"/>、山間部を縫うように流れる、滝山川の東岸法面で、夜間はほとんど人通りがない、町道の脇だった<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>。

女性の身元は、40歳代、身長約155cm、中肉中背、肩ほどまでの茶髪で、ブレスレット・指輪をつけており、Tシャツ・靴下が残っていた<ref name="読売新聞1996-10-02"/>。司法解剖の結果、女性の右上・右下の歯には、それぞれ1本ずつ、治療痕が確認されたことや、歯垢が溜まっていたことから、普段から喫煙の習慣があったことが推測された<ref name="朝日新聞1996-10-03">『朝日新聞』1996年10月3日朝刊広島県版「被害女性の似顔絵公開 殺人手口共通、容疑者再逮捕の方針 /広島」</ref>。なお、Hは動機などについて、「女性は生前、九州訛りがあった」<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、「女性を街で見かけ、顔を知っていた」<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、「金銭上のトラブルがあり、女性から金を奪う目的もあった」と自供した一方で<ref name="読売新聞1996-10-02"/>、「住所・氏名は知らない」と供述した<ref name="読売新聞1996-10-02"/><ref name="朝日新聞1996-10-03"/>。

このことから捜査本部は、「Hは、広島市繁華街で、顔見知りの女性をタクシーに乗せ、人気のない郊外で首を絞める、という手口で、2人を殺害した」との見方を強め<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、Hを殺人・死体遺棄容疑で再逮捕し<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、本格的に追及する方針を固めた<ref name="読売新聞1996-10-02"/>。

また、Hは、自分に不利な供述にも拘らず、「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と、現場の地図を丁寧に描き、被害者の似顔絵づくりも手伝っていた<ref name="AERA"/>。捜査本部は、その供述をもとに作成した、女性の似顔絵と、身に着けていた白い半袖Tシャツなどを公開し<ref name="朝日新聞1996-10-03"/>、行方不明者名簿などから、遺体の身元特定を進めた<ref name="読売新聞1996-10-02"/>。

捜査本部は10月3日、遺体の身元を、「広島市中区在住の40歳代女性」とほぼ断定した<ref name="読売新聞1996-10-04">『読売新聞』1996年10月4日大阪朝刊第一社会面35面「広島の連続女性殺害事件 白骨遺体の身元を特定」</ref><ref name="朝日新聞1996-10-04">『朝日新聞』1996年10月4日朝刊広島県版「被害者40代女性か 加計の白骨遺体 身元の裏付け急ぐ /広島」</ref>。その上で、歯の治療痕や、Hの供述などから、裏付け捜査を進めた<ref name="読売新聞1996-10-04"/><ref name="朝日新聞1996-10-04"/>。

そして、10月4日、遺体の身元は、Hと顔見知りだった、[[長崎県]][[諫早市]]出身、広島市中区宝町在住、45歳無職女性Cと断定された<ref name="朝日新聞1996-10-05">『朝日新聞』1996年10月5日朝刊広島県版「殺された女性2人、容疑者と顔見知り 連続殺人事件 /広島」</ref>。Bは、事件の10年前から、宝町のマンションに住んでいたが、付近の繁華街で店員を務めていた、同居相手の男性曰く、9月上旬ごろから帰宅していなかったという<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>。近隣住民によれば、挨拶をきちんとするさっぱりした性格で、夜間に出掛けることが多かった<ref name="朝日新聞1996-10-05"/>。

==== B事件・A事件発覚 ====
さらにHは、10月5日までに、「今年7月中旬か8月中旬の広島市中区の繁華街で、初めて会った女性に声をかけ、タクシーに乗せた」<ref name="読売新聞1996-10-07"/><ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>、「その後、女性を、安佐南区内の[[太田川]]近くに停車したタクシー車内で、首を絞めて殺した。午後8時頃、遺体を道路沿いの川に遺棄した」<ref name="読売新聞1996-10-07"/>、「金が欲しかった。名前は知らない」と<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>、3件目の殺人を供述した<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪">『読売新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31面「広島の女性連続殺人事件のH容疑者 模範タクシー運転手、凶行の中で仕事」</ref><ref name="読売新聞1996-10-07">『読売新聞』1996年10月7日東京朝刊第一社会面39面「女性4人殺害容疑 逮捕の元タクシー運転手 女子高生、主婦らも/広島」</ref><ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日朝刊第一社会面35面「3女性と女子高生も 容疑の元タクシー運転手供述 広島連続殺害事件」</ref><ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日朝刊第一社会面31面「『被害者にすまない』 容疑者供述 広島の連続女性殺人【大阪】」</ref>。

この供述を受け、捜査本部が、10月5日夜、安佐北区[[白木町]]小越の山中道路脇を捜索したところ、午後8時50分頃、[[広島県道46号東広島白木線]]の脇を流れる、関川([[太田川]]水系三篠川支流[[一級水系|一級河川]])沿いの斜面から<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊">『朝日新聞』1996年10月7日朝刊広島県版「捜査員増強 容疑者、別の殺害をさらに自供 広島連続女性殺人 /広島」</ref>、新たに女性の白骨遺体を発見した<ref name="読売新聞1996-10-07"/><ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。遺体は、20歳代から30歳代で、身長152cmから160cm、茶髪、半袖の青色ツーピース姿だった<ref name="読売新聞1996-10-07"/>。遺体付近には、18金の指輪が落ちていた<ref name="読売新聞1996-10-07"/>。

Hは、これに加え、10月6日までに、「4月18日頃、20歳前後の女性を殺害し、広島市西区[[己斐峠]]周辺に遺体を遺棄した」と供述した<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。Hは、この被害者女性について、「名前は知らなかったが、(遺体発見が報道された)前述のA事件も自分がやったと思う」と供述した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。A事件では、被害者の16歳女子高生Aが、4月18日から行方不明になっていたことに加え、Aの遺体発見現場は、己斐峠と約2kmしか離れておらず、地形的にも、Hの供述と一致した<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。また、道路わきに遺体を遺棄するなど、手口がそれまでに判明した3事件と共通することから<ref name="読売新聞1996-10-07"/>、捜査本部は、A事件もHの犯行とみて、さらに追及を進めた<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。

なお、Cの遺体発見現場の加計町山中から、北西約30kmに位置し、[[国道191号]]で結ばれた、[[島根県]][[美濃郡]][[美都町]]宇津川(現・[[益田市]]美都町宇津川)の山中では<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>、同年8月27日<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、国道191号沿いのガードレール下で<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、30歳代から40歳代の身元不明女性の、腐乱した他殺体が発見されていた<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>。[[島根県警察]][[益田警察署]]捜査本部が当時、殺人・死体遺棄事件として捜索していたこの事件についても<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、同じ国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど、Hの一連の事件と共通点が見られたため<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>、広島県警廿日市署捜査本部が、Hによる連続殺人事件と、何らかの関連性がないか、関心を寄せた<ref name="読売新聞1996-10-07 大阪"/>。しかし、Hはこの事件について、「事件は知っているが、やっていない」と供述し、関与を否定した<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。結局、島根の事件については立件されなかった。

このように、Hが新たに2件の殺人を自供したことから、一連の事件は、過去にあまり例のなかった、女性を狙った[[シリアルキラー|連続殺人]]事件の様相が濃厚となった<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>{{Refnest|group="注釈"|本事件以前には、[[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]]、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]、[[スナックママ連続殺人事件]]などがあった<ref name="朝日新聞1996-10-07 朝刊"/>。}}。このことから、捜査本部は、1人目の遺体発見当時、100人体制だったが、50人を追加動員し、150人体制となった<ref name="朝日新聞1996-10-07 広島朝刊"/>。事件を担当した捜査員からは、「事件の広がりは予測がつかない」という声も出た<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。

Hが、A・C両事件を自白したのは、D事件の取り調べ中、捜査員に対し、D事件とは関係ない地名・日時を、自ら語ったことがきっかけだったことが、10月7日に判明した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊">『朝日新聞』1996年10月7日夕刊第一社会面15面「自供の端緒に別の地名、口滑らす 広島連続女性殺人の容疑者」</ref>。突然出てきた言葉を、捜査員が追及したところ、次第に話のつじつまが合わなくなり、Hは新たに、3人の殺害を自供し、遺体発見につながった<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。捜査本部は、Hが短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱し、証言に矛盾をきたしたとして、さらに追及した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。

10月7日、捜査本部は、5日夜に遺体で発見された女性について、似顔絵を公開した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。司法解剖の結果、遺体の推定年齢は、20歳代から40歳代で、血液型はA型、喫煙の習慣があったことが、それぞれ判明した<ref name="朝日新聞1996-10-07 夕刊"/>。

取り調べで、Hは、「C・D事件は、金銭関係のトラブルが動機だった」<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、『5日に遺体が発見された女性については、金目当てだった」と<ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊">『朝日新聞』1996年10月8日朝刊第一社会面31面「『金目当てに殺害』 広島の連続殺人で容疑者供述 【大阪】」</ref>、それぞれ供述した上で<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>、「被害者の女性にはすまないことをした。(自分の)人生には、もう夢も希望もない」と語った<ref name="朝日新聞1996-10-07 大阪朝刊"/>。

しかし、被害者から金を奪ったとはいえ、合計しても24万円程度であったため<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>、[[週刊誌]]『[[AERA]]』1996年10月21日号([[朝日新聞社]]出版本部)では、「金目当てというより、諍いのうちに殺害し、金はついでに奪った、という方が正確なようだ」と報道された<ref name="AERA"/>。

10月8日、5日に発見された白骨遺体の身元は、安佐南区[[八木 (広島市)|八木]]在住、23歳女性Bと判明した<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊">『朝日新聞』1996年10月8日夕刊第一社会面23面「白骨死体は23歳の女性 広島の連続殺人事件」</ref><ref name="朝日新聞1996-10-09">『朝日新聞』1996年10月9日朝刊広島県版「自宅近くの殺害に驚き 新たに被害者の身元判明 連続殺人 /広島」</ref>。捜査本部が着衣・似顔絵を公開したところ、Bの知人から情報が提供された<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊"/>。歯の治療痕を、安佐南区内の歯科医が鑑定したところ、Bの治療痕と一致したため、Bの家族に確認し、着衣も含め、本人と断定した<ref name="朝日新聞1996-10-08 夕刊"/>。

また、Hは、血痕の付着した、タクシー後部座席のカバーを、自家用車内に隠していたことが、捜査本部の捜査で判明した<ref name="朝日新聞1996-10-08 朝刊"/>。

==== D事件で起訴 ====
1996年10月12日、[[広島地方検察庁]]は、D事件で逮捕された[[被疑者]]Hを、[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・[[死体遺棄]]罪で、[[広島地方裁判所]]に[[起訴]]した<ref name="朝日新聞1996-10-13">『朝日新聞』1996年10月13日朝刊第一社会面31面「Dさん事件で容疑者起訴 広島の女性殺害4件目自供【大阪】」</ref>。

==== C事件で再逮捕・追起訴 ====
1996年10月15日、広島県警捜査本部は、Cを殺害し、現金を奪ったとして、D事件で起訴されていた[[被告人]]Hを、強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した<ref name="朝日新聞1996-10-16">『朝日新聞』1996年10月16日朝刊第一社会面31面「容疑者を強殺で再逮捕 広島の連続女性殺人 【大阪】」</ref>。

1996年11月5日、広島地検は、C事件における強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した<ref name="朝日新聞1996-11-06">『朝日新聞』1996年11月6日朝刊第一社会面25面「容疑者を強盗殺人で追起訴 広島・連続女性殺人 【大阪*】」</ref>。

この頃までにHは、全面的に容疑を認めたが、取り調べで「どうせ、俺なんか」と、投げやりな発言をしていた<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。この言葉は、『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面記事で、「大学入試など、人生での挫折経験を、自分で乗り越えることができず、『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を、心の奥底に、引きずって生きてきたことを表しているのだろう」と綴られた<ref name="毎日新聞1996-11-05 大阪朝刊"/>。

==== B事件で再逮捕・追起訴 ====
1996年11月6日、広島県警捜査本部は、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した<ref name="朝日新聞1996-11-07">『朝日新聞』1996年11月7日朝刊第一社会面31面「容疑者を再逮捕 広島連続女性殺人事件 【大阪*】」</ref>。

1996年11月27日、広島地検は、Bを殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した<ref name="朝日新聞1996-11-28">『朝日新聞』1996年11月28日朝刊第一社会面31面「容疑者を追起訴 広島の連続女性殺人で地検 【大阪】」</ref>。

==== A事件で再逮捕・追起訴 ====
捜査本部は、Hの供述に基づき、Aの遺体が発見された水路から、南に数km離れた山林内で、Aのバッグ・化粧品など、遺留品を発見した<ref name="朝日新聞1996-11-26">『朝日新聞』1996年11月26日朝刊第一社会面27面「遺体、Aさんと断定 容疑者再逮捕へ 広島の連続女性殺人 【大阪】」</ref>。

1996年12月4日、広島県警捜査本部は、Aを殺害して現金を奪い、遺体を遺棄したとして、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した<ref name="朝日新聞1996-12-04">『朝日新聞』1996年12月4日夕刊第一社会面11面「容疑者を再逮捕 連続女性殺人事件、4人目で 広島県警」</ref>。

1996年12月14日、広島県警は、Hの供述に基づき、Aの遺体を遺棄したとされる、安佐南区沼田町大塚の現場を検証した<ref name="朝日新聞1996-12-15">『朝日新聞』1996年12月15日朝刊広島県版「容疑者連れ検証 Aの遺体遺棄現場 連続女性殺人 /広島」</ref>。

1996年12月24日、広島地検は、A事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを広島地裁に追起訴した<ref name="朝日新聞1996-12-25">『朝日新聞』1996年12月25日朝刊第一社会面27面「容疑者、最後の起訴 広島の連続女性殺人事件 【大阪*】」</ref>。これにより、Hが自供した4件の殺人事件は、すべて起訴された<ref name="朝日新聞1996-12-25"/>。

== 刑事裁判(広島地裁) ==
=== 初公判(1997年2月10日) ===
[[1997年]](平成9年)2月10日、[[広島地方裁判所]]刑事第2部([[谷岡武教]][[裁判長]])で、[[被告人]]Hの初[[公判]]が開かれた<ref name="読売新聞1997-02-10">『読売新聞』1997年2月10日東京夕刊第二社会面22面「4女性殺害初公判 H被告が起訴事実を全面的に認める/広島地裁」</ref><ref name="朝日新聞1997-02-10">『朝日新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面15面「4女性殺害の事実認める 初公判で被告 広島の連続殺人事件」</ref><ref name="朝日新聞1997-02-11 広島">『朝日新聞』1997年2月11日朝刊広島県版「証拠の採用を留保 精神鑑定申請、視野に 被告初公判 /広島」</ref><ref name="毎日新聞1997-02-10">『毎日新聞』1997年2月10日大阪夕刊社会面12面「広島・連続女性殺害事件初公判:H被告が起訴事実認める/広島地裁」(記者:辻加奈子)</ref><ref name="産経新聞1997-02-10">『産経新聞』1997年2月10日東京夕刊社会面「広島の4人殺人のH被告初公判 検察側『殺人に快感』起訴事実すべて認める」</ref>。

検察側は、冒頭陳述で、「Hは、『妻に消費者金融からの借金を知られたくない』と思う一方で、夜の繁華街で遊びたいという、相反する欲望から、約350万円もの借金を抱えた」<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>、「遊ぶ金欲しさに、繁華街で知り合った女性を狙った」と主張した<ref name="毎日新聞1997-02-10"/>。その上で、連続殺人の動機について、「街で声を掛けた女性を殺しても、「『自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない』、ということから、(B事件以降は)『他人の死をも支配できる』という、一種の満足感・快感を覚えた」などと主張した<ref name="毎日新聞1997-02-10"/><ref name="産経新聞1997-02-10"/>。

また、Dの2人の娘が、「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と語っていたことも、検察側が明らかにした<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。

Hは、冒頭の罪状認否で、4件の強盗殺人・起訴事実について、全面的に認めた<ref name="丸山2010"/><ref name="読売新聞1997-02-10"/><ref name="朝日新聞1997-02-10"/><ref name="毎日新聞1997-02-10"/><ref name="産経新聞1997-02-10"/>。

Hが、[[事実認定]]を争わなかったため、弁護人には、[[刑法 (日本)|刑法]]第39条に基づく、[[責任能力|心神喪失・心神耗弱]]による、無罪・死刑回避を狙う他に、手段はなかった<ref name="丸山2010"/>。弁護人は、「事件当時、Hは、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張し、被告人調書を証拠採用することを留保した<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。その上で、[[精神鑑定]]申請も視野に入れ、争う姿勢を示した<ref name="朝日新聞1997-02-11 広島"/>。

=== 第4回公判(1997年4月23日) ===
1997年4月23日、第4回公判が開かれた<ref name="朝日新聞1997-04-24">『朝日新聞』1997年4月24日朝刊広島県版「別の2人の殺害計画も 4女性殺害した被告の検察調書 /広島」</ref>。

検察側は、「Hは、『殺害した4人とは別に、別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする、検察調書を明らかにした<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>。

検察調書によると、Hは、逮捕直前の1996年9月頃、広島市内の繁華街にいた、顔見知りの女性2人を、強盗殺人の対象として考えていた<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>。

また、Hが、Dを殺害した容疑で逮捕された際、まだ発見されていなかったB・C両名について、遺体を遺棄した場所などを自供したことについては、「刑事から『他に隠していることはないか』と訊かれたので、警察が既に遺体の在処を把握していると思った。自分の情状のために、自分から言うのを待っているのだと思った」、「(被害者が)4人になることを話すのは、あまりにもセンセーショナルなので、自分なりに、自供する時期について迷った」と供述していたことも、検察調書で判明した<ref name="朝日新聞1997-04-24"/>。

Hのこの供述が、早期の事件解決のきっかけとなったが、事件を取材した作家・祝康成(現・[[永瀬隼介]])は、この動機を、「Hの、何ともお粗末な勘違い」、「卑しい、自己本位の性根が透けて見える言葉だ」と非難した<ref name="新潮45(2002) p.300-304"/>。

=== 精神鑑定実施(1997年11月以降) ===
弁護人側は、1997年10月30日付で<ref name="産経新聞1997-11-05"/>、「検察側は、金銭目当ての犯行を主張するが、4人とも、奪った額は数万円程度だ。普通、この程度の額のために、強盗殺人を犯すとは考えられない」<ref name="産経新聞1997-11-05"/>、「動機がはっきりとしないため、責任能力の有無を問いたい」として、広島地裁に対し、Hの[[精神鑑定]]を行うよう請求した<ref name="毎日新聞1997-11-05 大阪夕刊"/><ref name="毎日新聞1997-11-05 東京夕刊"/><ref name="産経新聞1997-11-05"/>。

これを受け、1997年11月5日の第10回公判で<ref name="朝日新聞1997-11-06"/>、広島地裁(谷岡武教裁判長)は、「各犯行状況を鑑みて、その動機をはっきりさせるためにも、精神鑑定が必要だ」として<ref name="産経新聞1997-11-05"/>、この請求を認める決定をした<ref name="朝日新聞1997-11-06">『朝日新聞』1997年11月6日朝刊広島県版「被告を精神鑑定へ、広島地裁決める 女性連続殺人事件 /広島」</ref><ref name="毎日新聞1997-11-05 大阪夕刊">『毎日新聞』1997年11月5日大阪夕刊社会面11面「4女性殺害事件で被告の精神鑑定へ 広島地裁が承認」</ref><ref name="毎日新聞1997-11-05 東京夕刊">『毎日新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面8面「4女性殺害事件の被告、精神鑑定へ 広島地裁が承認」</ref><ref name="産経新聞1997-11-05">『産経新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面「4連続女性殺害 H被告を精神鑑定へ 広島地裁が決定」</ref>。

これにより、審理は一時中断し<ref name="丸山2010"/>、広島地裁が、[[精神科医]]・[[山上皓]](当時・[[東京医科歯科大学]][[大学教授|教授]])に依頼し、精神鑑定を実施した<ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。

=== 精神鑑定採用(第11回公判、1999年2月24日) ===
[[1999年]](平成11年)2月24日、広島地裁(谷岡武教裁判長)で、第11回公判が開かれ<ref name="読売新聞1999-02-24"/><ref name="朝日新聞1999-02-25">『朝日新聞』1999年2月25日朝刊広島県版「被告の責任能力、精神鑑定書で決める 強盗殺人事件公判 /広島」</ref>、約1年3か月ぶりに、公判が再開された<ref name="読売新聞1999-02-24">『読売新聞』1999年2月24日大阪夕刊第二社会面14面「女性4人殺害事件公判 H被告の責任能力認める 精神鑑定書提出/広島地裁」</ref><ref name="毎日新聞1999-02-24">『毎日新聞』1999年2月24日大阪夕刊社会面11面「女性連続強殺の被告 『責任能力に影響ない』 精神鑑定を採用 広島地裁」(記者:中野彩子)</ref>。

同日の公判で、精神鑑定の結果が報告・提出され、証拠採用された<ref name="読売新聞1999-02-24"/><ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。その鑑定結果は、弁護側の狙いとは裏腹に、「責任能力が認められる」というものだった<ref name="丸山2010"/><ref name="読売新聞1999-02-24"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。

精神鑑定を担当した山上は<ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>、「Hの人格には、著しい偏りがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような、病的なものとはみなされない」という結論だった<ref name="丸山2010"/><ref name="朝日新聞1999-02-25"/><ref name="毎日新聞1999-02-24"/>。

また、精神鑑定では、Hが殺人に至った動機について、解明が試みられ、「Hは、男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、『暴力犯罪の空想などで、強い男性像を示したい』という性癖があった。犯行は、この空想を実際に移したものである」とされた<ref name="丸山2010"/><ref name="読売新聞1999-02-24"/>。

Hの挫折感は、青春時代に経験した、大学受験の失敗などの挫折に端を発しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが、女性を殺害することだった<ref name="丸山2010"/>。

弁護人側は、「鑑定書には疑問点や、確認したい点がある」として、山上の証人申請をした<ref name="朝日新聞1999-02-25"/>。

=== 検察側・論告求刑(1999年10月6日) ===
1999年10月6日、広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)で、[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察側はHに対し、[[死刑]]を求刑した<ref name="読売新聞1999-10-06">『読売新聞』1999年10月6日大阪夕刊第一社会面15面「女性4人殺害の元運転手に死刑求刑 検察側『凶悪犯行、影響大きい』 /広島地裁」</ref><ref name="朝日新聞1999-10-06">『朝日新聞』1999年10月6日夕刊第二社会面14面「死刑を求刑 4女性殺害事件で広島地裁 【大阪】」</ref><ref name="毎日新聞1999-10-06">『毎日新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面10面「H被告に死刑を求刑 5カ月間に4女性を殺害 広島地裁」(記者:高橋一隆)</ref><ref>『毎日新聞』1999年10月6日中部夕刊社会面7面「広島4女性殺害被告に死刑求刑」</ref><ref name="産経新聞1999-10-06">『産経新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面「女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地裁『残虐、凶悪な犯行』」</ref>。

論告で、検察側は、「A事件以降、自分に捜査の手が及ばなかったことから、自信を深め、遊興費などを得ようと、さらに女性を物色し、次々に殺害・遺棄した」<ref name="産経新聞1999-10-06"/>、「落ち度のない4人を次々に殺害した、自己中心的な犯罪だ。犯罪史上稀に見る、残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない」<ref name="毎日新聞1999-10-06"/>、「わずか5か月間に、4人もの女性を殺害した、凶悪な犯行だ。社会に与えた影響は大きく、自らの生命をもって償うしかない」と指弾した<ref name="読売新聞1999-10-06"/>。

=== 弁護側・最終弁論(1999年11月10日) ===
1999年11月10日の公判で、弁護人による最終弁論が行われ、結審した<ref name="読売新聞1999-11-10">『読売新聞』1999年11月10日大阪夕刊第二社会面14面「広島の女性4人殺害事件 弁護側、最終弁論で情状求める」</ref><ref name="朝日新聞1999-11-11">『朝日新聞』1999年11月11日朝刊広島県版27面「死刑希望の意思 4女性殺害公判、被告が陳述 広島地裁 /広島」</ref>。

弁護人側は、精神鑑定結果に異議を唱えた上で、「Hは、最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで、自暴自棄の心理状態にあった」と主張した<ref name="丸山2010"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>。これに加え、「被告人は、捜査・公判とも、誠実に協力しており、死刑は重過ぎる」と主張し<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>、情状酌量による死刑回避を訴えた<ref name="読売新聞1999-11-10"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>。

しかしこれは、自ら死刑を望んでいた、Hの希望に反するものだった<ref name="丸山2010"/>。最終弁論後<ref name="新潮45(2002) p.306-308">[[#新潮45(2002)|新潮45(2002)、p.306-308]]</ref>、最終意見陳述が行われた<ref name="読売新聞1999-11-10"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/><ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。

その陳述の場で、連続殺人鬼として法廷に立ったHは<ref name="永瀬2004"/>、「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません」<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/><ref name="丸山2010"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/><ref name="読売新聞1999-11-10"/>、「今すぐ命を絶って詫びたいが、それでも、被害者・遺族から許されるとは思っていない」と述べた<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>。

Hはその上で、「(死刑の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで、被害者の恐怖と苦痛の何分の一かを味わえる」<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/>、「(死刑判決を受け)、一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/><ref name="読売新聞2000-02-09 朝刊"/><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>、「自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>、涙を流しながら、懺悔の言葉を述べ<ref name="永瀬2004">[[#永瀬(2004)|永瀬(2004)、p.217-218]]</ref><ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>、自ら死刑を希望する意思を示した<ref name="丸山2010"/><ref name="朝日新聞1999-11-11"/><ref name="読売新聞2000-02-09 朝刊"/><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>。

作家・祝康成(現・[[永瀬隼介]])は、この事件の刑事裁判を取材し、最終弁論・最終意見陳述を傍聴していた<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。その後、祝は、[[広島拘置所]]に収監されていたHから、手紙を受け取った<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。Hは一貫して、弁護人以外との面会を拒否しており、祝に手紙を送ったのも、この1度だけだったが<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>、その手紙には、「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、今日、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/><ref name="永瀬2004"/>、「これまで、担当の弁護士以外、どなたともお会いしておりませんし、手紙などのやり取りもしておりません。今後もお願いするつもりはありません」と綴っていた<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。

永瀬は後に、[[市川一家4人殺人事件]]の[[少年死刑囚|犯行当時少年の死刑囚]]を追った[[ノンフィクション]][[小説]]『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の[[死刑囚]]は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている<ref name="永瀬2004"/>。

=== 死刑判決(2000年2月9日) ===
[[2000年]](平成12年)2月9日、判決公判が開かれ<ref name="読売新聞2000-02-09 朝刊">『読売新聞』2000年2月9日大阪朝刊広西北版25面「4女性殺害のH被告 きょう地裁で判決=広島」</ref>、広島地裁([[戸倉三郎]]裁判長)は、検察側の求刑通り、Hに死刑[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="読売新聞2000-02-09 東京夕刊">『読売新聞』2000年2月9日東京夕刊第二社会面14面「女性4人殺害、元タクシー運転手に死刑判決 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁」</ref><ref name="読売新聞2000-02-09 大阪夕刊">『読売新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面19面「4女性殺害の元タクシー運転手に死刑 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁判決」</ref><ref name="読売新聞2000-02-10">『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版19面「女性4人強殺に判決 遺族ら『死刑は当然』 H被告、神妙に=広島」</ref><ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪">『朝日新聞』2000年2月9日夕刊第一社会面15面「4女性殺害に死刑 被告も極刑望む 広島地裁判決 【大阪】」</ref><ref name="朝日新聞2000-02-09">『朝日新聞』2000年2月9日夕刊第二社会面18面「4女性殺害に死刑 被告自ら極刑希望 広島地裁判決 【大阪】」</ref><ref name="朝日新聞2000-02-10">『朝日新聞』2000年2月10日朝刊広島県版23面「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」</ref><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪">『毎日新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面11面「女性4人連続殺害事件 H被告に死刑 広島地裁判決」</ref><ref name="毎日新聞2000-02-09">『毎日新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面8面「広島市の4女性連続殺人、被告に死刑判決 広島地裁」</ref><ref>『産経新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面「女性4人連続殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁 『巧妙、冷酷な犯行』」</ref><ref>『産経新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面「4女性殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁『残虐極まりない』」</ref><ref name="丸山2010"/>。

死刑判決を言い渡す際は、判決[[主文]]を後回しにし、[[判決理由]]から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は、異例の冒頭主文宣告を行った<ref name="読売新聞2000-02-09 大阪夕刊"/><ref name="読売新聞2000-02-10"/><ref name="朝日新聞2000-02-10"/>。

広島地裁は、主文言い渡し後、判決理由にて、「教師を目指していた被告人が、大学受験の失敗や、結婚後の妻の病気へのストレスから、行き場のない挫折感を募らせていった境遇には、同情の余地がある。しかし、わずかな金を奪うため、人の生命を奪ったのは、あまりにも短絡的で、最大限の非難に値する」<ref name="朝日新聞2000-02-10"/>、「犯行は冷酷非情で、被害者の無念さは想像を絶する」<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/>、「短期間に4人の命を奪った、まれに見る凶悪事案だ。計画性は明白で、酌量の余地はない」と<ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>、厳しく指摘した<ref name="朝日新聞2000-02-10"/>。その上で、[[量刑]]について「被告人Hは、反省の情を示しているが、刑事責任は極めて重い」<ref name="朝日新聞2000-02-09 大阪"/><ref name="朝日新聞2000-02-09"/><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>、「死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを、十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と述べた<ref name="朝日新聞2000-02-10"/><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>。

判決を言い渡した後、戸倉は、Hに対し、「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは、心の底から出たものと信じている」<ref name="読売新聞2000-02-10"/>、「殺される理由のなかった被害者への、謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた<ref name="丸山2010"/><ref name="朝日新聞2000-02-10"/><ref name="毎日新聞2000-02-09 大阪"/>。

判決を傍聴した被害者遺族からは、「死刑は当然。絶対に許せない」、「Hは、法廷で謝罪したが、もっと早く謝ってほしかった。死刑判決が出たことで、娘の墓前に報告できる」など、犯行への憤りや、判決を評価する声が相次いだ<ref name="朝日新聞2000-02-10"/><ref name="読売新聞2000-02-10"/>。

また、Hの元同僚であるタクシー運転手は、「公判を度々傍聴したが、Hが自ら、死刑を望む発言を繰り返していたのが印象的だった。死刑はやむを得ないだろう」と述べた<ref name="読売新聞2000-02-10"/>。

[[甲斐克則]]・[[広島大学]][[法学部]][[大学教授|教授]](刑法)は、「最高裁が、死刑適用に慎重になっている流れに逆行するものだ。確かに犯行は悪質で、被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は、[[自首]]の成立や、犯行後の改悛の情を認めており、『[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|永山基準]]』など、それまでの判例が示した、死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」として、判決に疑問を呈した<ref name="読売新聞2000-02-10"/>。

一方、藤田浩・[[広島経済大学]][[経済学部]]教授(比較憲法)は、「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では、被告人の自供もあり、[[冤罪]]の可能性は低い。犯行の悪質さ、被害者感情などを考えると、死刑はやむを得ないのではないか」と評価した<ref name="読売新聞2000-02-10"/>。

==== 弁護人が控訴断念 ====
弁護人は、情状酌量による死刑回避を求めていたが、「予想されたとはいえ、厳しい判決だ。控訴するかどうかは、被告人と早急に接見して決めたい」とした<ref name="朝日新聞2000-02-10"/>。

Hは公判後、収監されていた広島拘置所で、弁護人・二国則昭弁護士らと面会した<ref name="産経新聞2000-02-10">『産経新聞』2000年2月10日大阪朝刊社会面「H被告、控訴せず 死刑判決確定へ」</ref>。Hは、弁護人らに対し、[[広島高等裁判所]]への[[控訴]]をしない意思を伝えたため、弁護人らは、控訴を断念する方針を決めた<ref name="産経新聞2000-02-10"/>。

=== 控訴せず死刑確定(2000年2月24日) ===
Hは、[[控訴]]期限の2000年2月24日午前0時までに、[[広島高等裁判所]]に控訴する手続きをしなかったため、そのまま死刑判決が[[確定判決|確定]]した<ref name="丸山2010"/><ref name="永瀬2004"/><ref>『読売新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面13面「4女性殺害したH被告の死刑確定 控訴せず/広島地裁」</ref><ref>『朝日新聞』2000年2月24日夕刊第二社会面12面「死刑判決が確定 広島の4女性殺害 【大阪】」</ref><ref>『毎日新聞』2000年2月25日大阪朝刊社会面29面「広島・女性4人を殺害事件 死刑判決が確定 広島地裁」(記者:高橋一隆)</ref><ref>『産経新聞』2000年2月24日大阪夕刊社会面「元運転手の死刑確定 広島の強盗殺人」</ref>。


== 死刑執行 ==
== 死刑執行 ==
[[2006年]][[12月25日]]、[[広島拘置所]]においてHの死刑が執行された<ref>『朝日新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」</ref>。享44(歳)
[[2006年]](平成18年)[[12月25日]]、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[長勢甚遠]])の死刑執行命令により、収監先の[[広島拘置所]]で、死刑囚H(44歳没)の[[日本における被死刑執行者一覧|死刑が執行された]]<ref name="読売新聞2006-12-25">『読売新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」</ref><ref name="朝日新聞2006-12-25">『朝日新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」</ref><ref name="産経新聞2006-12-25">『産経新聞』200612月25日大阪夕刊社会面「死刑囚4人、刑執行 1年3カ月ぶり」</ref><ref name="産経新聞2006-12-26">『産経新聞』2006年12月26日東京朝刊社会面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり 長勢法相では初めて」</ref>

同日には、[[東京拘置所]]でも死刑囚2人、[[大阪拘置所]]でも1人と、Hを加え、計4人の死刑が執行された<ref name="読売新聞2006-12-25"/><ref name="朝日新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-25"/><ref name="産経新聞2006-12-26"/>。

死刑囚4人に対する同時執行は、1997年8月1日、法務大臣・松浦功の死刑執行命令により、[[永山則夫]]([[永山則夫連続射殺事件]])や、[[夕張保険金殺人事件]]の死刑囚2名ら、計4人に対し、死刑が執行されて以来、9年4カ月ぶりだった<ref name="読売新聞2006-12-25"/>。

== 国家賠償請求訴訟 ==
[[広島弁護士会]]所属の弁護士・[[足立修一 (弁護士)|足立修一]]は、死刑執行11日前の2006年12月14日、[[再審]]請求についての説明・意思確認を行おうと、広島拘置所に、Hとの接見を申し入れた<ref name="朝日新聞2007-08-03"/><ref name="毎日新聞2007-08-03"/>。しかし、広島拘置所職員は、「Hは現時点で、再審請求をしていないため、接見は認められない」として、足立の申し入れを拒否した<ref name="朝日新聞2007-08-03"/><ref name="毎日新聞2007-08-03"/>。足立はこれに対し、「弁護士が接見に来ていると、本人に伝えたのか?」などと問い合わせたが、職員は「これ以上話はできない」などと拒んだ<ref name="朝日新聞2007-08-03"/><ref name="毎日新聞2007-08-03"/>。

足立は、職員のこの対応を不当と訴え、国を相手取り、慰謝料など約180万円の支払いを求め、2007年8月2日付で、広島地裁に[[国家賠償請求権|国家賠償請求訴訟]]を起こした<ref name="朝日新聞2007-08-03">『朝日新聞』2007年8月3日朝刊広島県第一地方版22面「慰謝料求め国を提訴 弁護士、死刑囚への接見拒否され /広島県」(記者:秋山千佳)</ref><ref name="毎日新聞2007-08-03">『毎日新聞』2007年8月3日朝刊地方版広島県版23面「接見拒否:違法、国に賠償求める 広島の弁護士提訴 /広島」(記者:大沢瑞季)</ref>。足立は提訴後、記者会見で、「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されており、そこに光を当てたい」とコメントした<ref name="朝日新聞2007-08-03"/>。

[[広島地方裁判所]](金村敏彦裁判長)は、2009年12月24日、足立の請求を棄却する判決を言い渡した<ref name="産経新聞2009-12-25">『産経新聞』2009年12月25日東京朝刊社会面「元死刑囚の接見拒否 弁護士へ賠償認めず」</ref>。広島地裁は判決理由で、「死刑確定者は、刑事訴訟法でいう、『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは、再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には、Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた<ref name="産経新聞2009-12-25"/>。

原告である足立は、判決を不服として即日控訴したが<ref name="産経新聞2009-12-25"/>、控訴審・[[広島高等裁判所]]も、第一審の判決を支持し、控訴を棄却した<ref name="読売新聞2011-10-18"/>。

[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]([[桜井龍子]]裁判長)は、2011年10月13日付で、足立の上告を退ける決定をしたため、足立の敗訴が確定した<ref name="読売新聞2011-10-18">『読売新聞』2011年10月18日大阪朝刊広島県版29面「足立弁護士の敗訴が確定 元死刑囚接見拒否=広島」</ref><ref name="朝日新聞2011-10-13">『朝日新聞』2011年10月13日朝刊広島県第一地方版33面「死刑囚との接見めぐり、弁護士の敗訴確定 /広島県」</ref>。

== 事件の影響 ==
=== 廿日市警察署の対応 ===
捜査本部が置かれた[[廿日市警察署]](署長:吉村一彦、署員115人)では、9月14日、Dの遺体が、管内の湯来町内で発見されたのを受け、150人態勢の捜査本部が設置された<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。この際、同署からも、刑事課を中心に、多くの捜査員が本部入りした<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。

当時、管内での殺人事件の発生は、1993年8月以来だった<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。また、署が保有していた、1897年([[明治]]30年)以来の資料では、連続殺人事件が発生した記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来、前代未聞の大事件となった<ref name="朝日新聞1996-10-11">『朝日新聞』1996年10月11日朝刊広島県版「連続殺人・国体・選挙で大忙し 署員たち『目が回る』/広島」</ref>。

それだけでなく、10月12日に開幕を控えた、[[第51回国民体育大会|秋の国民体育大会(国体)]]会場のうち、柔道・剣道・産学の各競技が、廿日市署管内にあった<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。廿日市市スポーツセンターで行われた柔道協議には、[[明仁|天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]両陛下が、見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。

また、新制度下における初の国政選挙となった、[[第41回衆議院議員総選挙]](10月20日投開票)では、激戦の[[広島県第2区]]にて、刑事課17人中3人が、選挙違反の監視を、専従で行った<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。

このように、かつてない忙しさに見舞われた廿日市署では、署員から「目が回る」と悲鳴が上がった<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。吉村署長は、「事件では、捜査一課との連携も上手くいっている。いろいろと重なり、きついのは確かだが、署員の士気も上がっており、今後も最善を尽くす」と語った<ref name="朝日新聞1996-10-11"/>。

=== 広島県タクシー協会の対応 ===
事件を受け、広島県タクシー協会(会長:濱田修)は、1996年10月11日、広島市[[西区 (広島市)|西区]]内のホテルで、緊急会議を開き、広島市内60社のタクシー会社の経営者ら、約100人が出席した<ref name="朝日新聞1996-10-12">『朝日新聞』1996年10月12日朝刊広島県版「車内におわび文書 タクシー協会、連続殺人で緊急会議開く /広島」</ref>。濱田会長は、「今回の事件で、市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するため、協会が一段となって努力していこう」と話した<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>。

経営者からは、「最近、乗務員の接客態度が悪いという苦情が、多く寄せられる。事件を機に、乗務員の再教育を徹底すべきだ」といった意見などが出された<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>。

最後に、協会に加盟する、広島市内の全タクシーに、お詫びの文章を車内掲示することが決まった<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>。協会はその後も、他の地域でも会議を開き、信頼回復を呼び掛けた<ref name="朝日新聞1996-10-12"/>。

=== タクシー会社への風評被害 ===
警察発表・新聞報道などでは、Hの勤務先だった、車両数約30台のタクシー会社について、詳細な住所は発表されなかった<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島">『朝日新聞』1996年12月25日朝刊広島県版「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(記者:樫山晃生)</ref>。しかし、[[電話帳]]の情報や、会社の建物写真などから、勤務先はすぐに特定されてしまった<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。

事件後、ある運転手は、客から「湯来町まで行ってくれ」と、遺体が遺棄された現場に行くよう指示されたが、これは嫌がらせで、本来の目的地は別だった<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。この他にも、無言電話・嫌がらせ電話などがかかるなどしたため、社員が退職したり、休みを取ったりした<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。

Hの元上司は、『[[朝日新聞]]』広島総局の取材に対し、「彼(H)の起こした事件に、責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考え、会社をつぶさないようにするだけでも必死だった」と振り返った<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。その後、12月時点では、事件に関する電話は少なくなり、売り上げは落ちたが、社内の結束は強くなったという<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。

『朝日新聞』記者・樫山晃生は、「新聞・テレビの報道では、会社は匿名で報道されたが、ダメージを受けることとなってしまった」、「真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも、思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と、身が引き締まる思いがした」と振り返った<ref name="朝日新聞1996-12-25 広島"/>。

=== 新天地公園の現在 ===
また、事件後、若い売春婦は、携帯電話でなじみ客と連絡を取り合うようになった<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。そのため、事件から4年が経過した2000年現在、Hが被害者らを物色した新天地公園に立つことは、めったになくなったという<ref name="新潮45(2002) p.306-308"/>。

== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[丸山佑介]] |title=判決から見る猟奇殺人ファイル |publisher=[[彩図社]] |date=2010-01-20 |pages=52-61 |isbn=978-4883927180 }}「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」
* {{Cite book |和書 |author=『[[新潮45]]』編集部 |title=殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件 |publisher=[[新潮社]] |date=2002-03-01 |pages=287-308 |isbn=978-4101239132 |ref=新潮45(2002)}}
** 祝康成(現・[[永瀬隼介]])が、『新潮45』2001年1月号に寄稿した、本事件についての記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
* {{Cite book |和書 |author=[[永瀬隼介]](祝康成からペンネーム変更) |title=19歳 一家四人惨殺犯の告白 |publisher=[[角川文庫]] |date=2004-08-25 |pages=217-218 |isbn=978-4043759019 |ref=永瀬(2004) }}
** [[市川一家4人殺人事件]]の[[少年死刑囚]]について取り扱ったノンフィクション。該当ページ文中にて、著者が本事件の死刑囚Hについて言及している。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
;※出典見出し中のうち、元死刑囚・被害者の実名部分はそれぞれ、元死刑囚は姓イニシャル「H」、被害者はそれぞれ、本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 関連項目 ==
* [[シリアルキラー]](連続殺人)
* [[快楽殺人]]
* [[大久保清事件]]


{{Crime-stub}}
{{Crime-stub}}
{{DEFAULTSORT:ひろしまたくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん}}
{{デフォルトソート:ひろしまたくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん}}
[[Category:連続殺人事件]]
[[Category:連続殺人事件]]
[[Category:平成時代の殺人事件]]
[[Category:平成時代の殺人事件]]
[[Category:日本の強盗事件]]
[[Category:日本の強盗事件]]
[[Category:1996年の日本の事件]]
[[Category:1996年の日本の事件]]
[[Category:国家賠償請求訴訟]]
[[Category:広島市中区の歴史|たくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん]]
[[Category:広島市中区の歴史|たくしいうんてんしゆれんそくさつしんしけん]]
[[Category:1996年4月]]
[[Category:1996年4月]]

2018年3月21日 (水) 12:52時点における版

広島タクシー運転手連続殺人事件
場所

日本の旗 日本広島県[1]
広島市中区 流川薬研堀一帯(被害者を物色)[2]

A事件
広島市安佐南区沼田町大塚、林内にある幅1.5m、深さ1m、水深10cm林道脇側溝(遺体遺棄現場)[3]
B事件
広島市安佐南区八木、太田川橋付近(殺害現場)[4][5]
広島市安佐北区白木町小越、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面(遺体遺棄現場)[6]
C事件
山県郡加計町穴(現・広島県山県郡安芸太田町穴)、国道191号の脇道(殺害現場)[7]
山県郡加計町加計(現・広島県山県郡安芸太田町加計)、町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸法面斜面[8][9]、コンクリート製の溝の中(遺体遺棄現場)[9]
D事件
広島市佐伯区五日市町大字上河内、広島県道41号五日市筒賀線路上(殺害現場)[10]
佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むら(遺体遺棄現場)[11]
日付

1996年平成8年)[1]

4月18日(A事件)[12]
8月13日(B事件)[12]
9月7日(C事件)[12]
9月14日(D事件)[12]
深夜 (UTC+9)
概要 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。
攻撃手段 首を絞める
攻撃側人数 1人
武器 ネクタイ
死亡者

売春目的で知り合った女性4人

少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県賀茂郡黒瀬町在住、広島県立広高等学校定時制1年生)[13]
女性B(事件当時23歳、広島市安佐南区八木在住)[14]
女性C(事件当時45歳、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)[15]
女性D(事件当時32歳、広島市中区在住)[16]
損害 現金約24万円(4人から奪った金額)[17]
犯人 タクシー運転手の男H(犯行当時34歳)[1][18]
動機 強盗快楽殺人
対処 逮捕起訴
謝罪 あり
刑事訴訟 死刑執行済み[12][19][20][21][22]
管轄

広島県警察

広島北警察署(A事件の初動捜査)[3]
廿日市警察署(4事件の捜査本部)[1][18]
テンプレートを表示

広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、1996年平成8年)4月から9月にかけ、広島県内で、犯行当時34歳・タクシー運転手の男Hが、約5か月間に、売春を通じて知り合った4人の女性を、相次いで殺害した、連続殺人事件[23][1]

Hは深夜、広島市遊郭跡にある歓楽街流川新天地薬研堀一帯で、次々と女性を誘っては、タクシーの車内で首を絞めて殺害し、遺体を山中に遺棄した[24]

丸山佑介は、著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』にて[23]、その凶悪さから、広島の繁華街をパニックに陥れた本事件を[25]、「タクシードライバーによる殺人行脚」、「誰もが利用する交通機関である、タクシーの運転手が突然襲い掛かる、恐ろしい事件」と形容した[23]

死刑囚H

本事件の加害者の男Hは、1962年昭和37年)4月[26]宮崎県宮崎市[26]、農家の3人兄弟の末っ子(三男)として生まれた[27]2006年(平成18年)12月25日、死刑囚として収監されていた広島拘置所にて、法務省法務大臣長勢甚遠)の死刑執行命令により、44歳で死刑が執行された[19]

事件当時は34歳、広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった[28]

宮崎県出身のHは、高校時代まで、スポーツ万能の優等生として、地元で名が知られていた[27]。特に、日本史が得意で、高校の同級生からは、「クラスの上位15番以内に入る成績だった。空けても暮れてもテスト、テストの生活を、自分とともに乗り越えた仲間だ」と語られた[26]。末っ子であるため、小遣いは欲しがるだけもらえたという[26]

中学時代、野球主将を務めたHは[26]1978年(昭和53年)4月、県内トップの進学校として知られる県立高校に入学した[26]

1981年(昭和56年)3月、高校を卒業したHは[26]、「教師か、公務員になりたい」と、大学受験に臨んだが[26]、志望していた筑波大学の推薦入試に加え、第二志望の福岡教育大学にも不合格と、立て続けに失敗した[27]

1981年4月[26]、Hは結局、滑り止めのつもりで受けた、私立大学の福岡大学法学部にしか合格できなかった[27]

地元は、国立大学志向が強く、教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代、無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があったが、大学受験に失敗して以降、「私立大学では、たとえ教師になっても尊敬されない」と、大きな挫折感を味わった[27]。福岡大学でも、「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と、同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず、飲酒・ギャンブルにのめり込んだ[27]。この頃からは、高校時代までの友人たちと音信不通になり、同窓会にも出席しなかった[26]

しかしそれが仇となり、4年生になって、かつて見下していた同級生たちは、国家公務員・都道府県職員へと就職していった一方[27]、Hは留年が確実となり[27]、「このままでは市役所職員にもなれない」と、強い挫折感を抱えていた[29]。福岡大学入学から4年2か月後となる、1985年(昭和60年)6月末[26]、4年生に留年したまま、授業料滞納のため[26]、中途退学した[29]

その後、学費を援助していた兄に、宮崎市の実家に連れ戻されてからは[26]、周囲に対し、「司法試験に失敗した」と、嘘を言い張りつつ、宮崎市役所臨時職員として就職した[29]。しかし、飲酒・女遊びに溺れるなど、荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された[29]。その後も、遊ぶ金欲しさに、ひったくりを繰り返したHは、当時24歳だった、1986年(昭和61年)1月25日午後0時過ぎ、会社員宅に侵入し、その妻に包丁を突き付け、現金2万円・預金通帳を奪った[29]。この強盗事件で逮捕起訴されたHは、懲役2年の実刑判決を受け、刑務所に服役した[29]

Hは、刑務所を出所後、故郷の宮崎県を離れると[29]1989年(平成元年)4月[26][29]、叔父を頼り、広島県広島市内に移住した[29]。母親によれば、それ以降、挫折体験を思い出したくなかったのか、宮崎の実家には、一度も帰らなかった[26]

1989年4月[26]、Hは、広島市内のタクシー会社に[26]、運転手として就職した[26]。「一からやり直す」決心で働こうとしたが[26]、大企業のエリート社員を、客として乗せ、働き続ける毎日のうちに、「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間じゃない。筑波大学に合格できていれば、今頃は国家公務員として、地位も名誉も約束された生活を送っていけたはずだ」と、コンプレックスを募らせ続けていた[29]。月収は、手取りで約30万円だったが、その大半を、飲酒・女遊びに浪費した上、消費者金融(サラ金)から借金を重ね続けていた[29]

1992年(平成4年)、当時29歳だったHは、叔父の紹介で、当時30歳の女性と結婚した[29]。当時、サラ金からの借金は、500万円に達していたが、Hはこの膨大な借金を、安佐南区の新興住宅地に建てた、建売住宅を購入した上で、その住宅ローンを、実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して、合計500万円を作ることで、完済した[29]

これが転機となり、生活が徐々に改善していったHは[23]1993年(平成5年)4月、長女が誕生、1児の父親になっている[29]。Hは、「家も持ったし、子供もできた。これで世間も認めてくれる」と、希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後、産褥期の妻が突然、意味不明な言葉をつぶやき続けたり、時折奇声を上げたりなど、精神疾患を発症した[29]。Hはその後、妻を精神科病院に入院させ、娘を妻の実家に預けたが、再び飲酒・ギャンブル・女遊びなど、荒れた生活に戻っていった[29]

Hはその後、再びサラ金から借金を繰り返し、1994年(平成6年)末には、200万円の借金を抱えたため、実家の兄に肩代わりさせた[29]。妻は一時、病状が改善したために退院したが、翌1995年(平成7年)から、再び長期入院するようになった[29]

精神疾患を患った妻に、回復の兆しが見られなくなったこと、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから、Hの生活は荒れていく一方だった[29]。これに加え、「筑波大学の推薦入試を受けたほどの自分が」、強盗事件の前科で故郷を追われ、借金で首の回らないタクシー運転手にまで、「身をやつした」ことについて、激しい劣等感を感じていた[29]

Hの生活態度が、一向に改まらないことから、家族は、消費者金融に対し、貸付の停止を申し入れた[30]。これにより、Hは、金融業界の「ブラックリスト」に乗り、借り入れができなくなった[30]

1996年4月当時、サラ金などから抱えた、多額の借金の返済が迫り、追い詰められていたHは[23]、「自殺して生命保険保険金で返済しよう」とまで考えたが、Hは自殺すらできず、「己の不運は全て周囲のせい」にしていた[29]

職場の上司・同僚など、関係者によれば、Hは「あまり付き合いは良くないが、真面目なヤツだった」といい、1日の売り上げは、平均約45000円と[26]、営業成績はトップクラスだった[31]。勤務時間は、他の運転手たちより1日2時間ほど長かった[31]。また、妻子とともに買い物に行ったり、公園で遊ぶなど、家族仲は良好なように見えたという[31]

一方で、被害者を物色していた流川地区では、客にならなくても、毎晩のように訪れてくることで有名で[26]、「タクシーの男」として知られており[24]、タクシーを泥酔状態で飲酒運転していたり、シートにビールの缶が転がっていることもあったという[24]

事件の3,4年ほど前から、頻繁に歓楽街に姿を見せるようになったHは、一時は毎週のように遊び歩いていたが、遊ぶ金が尽きたのか、1996年になってからは、たまに姿を見せても、冷やかしだけで帰っていくようになった[26]

事件の経緯

A事件(第1の事件、1996年4月18日)

被害者:少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県賀茂郡黒瀬町在住、広島県立広高等学校定時制1年生)[13]

1996年4月18日午後8時、勤務中だったHは、「西日本一の歓楽街」として知られた、広島市中区流川薬研堀一帯を、タクシーで流していた[2]

その最中、売春援助交際のメッカとして知られていた、新天地公園を通りかかったところ、少女Aを見つけた[2][23]。Hは、Aに「遊ばないか」と声を掛けた[2][23]

Hは、料金2万円で応じたAを[23]、タクシーに誘い、タクシーに乗せると、コンビニエンスストア缶ビールを買い、ラブホテルに入った[2]

そのまま、2人で缶ビールを飲んだが、Aは、嗚咽交じりに、「父親の借金を返済するため、大阪から働きに来た。あと10万円返せば完済できる」[2]、「今日はその返済日だから、10万円を用意して、これから呉市に行く」と、身の上話をした[23]

Hは、この話を聞き、内心、「やられた」と思いつつも、「なんか、(セックス)するのが悪いね」と言い、お人よしのタクシー運転手を装い、呉市まで送っていくことを約束した[2]

Aをタクシーの助手席に乗せ[23]、広島市中心街から約20km先の呉市方面へ、タクシーを走らせたHは、「Aの話通り、所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して、計12万円あるはずだ。それだけあれば、今月の借金の返済は賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えた[23][2]。Hは当時、飲酒・女遊びにより、約350万円の借金を抱えており、月々15万円を返済していた[2]

Aは、Hに対し、「(親族は)大阪に祖母がいるだけ」と話していたが、Hは「身寄りのないよそ者とは好都合だ。殺して金を奪ってもばれないだろう」と考えた[2]

呉市街地の街灯りが見えるようになった頃、Hは、人気のない道に乗り入れ、呉市上二河町の、広島県道31号呉平谷線沿いの空き地で[32]、タクシーを停車した[2]。その上でHは、後部座席にいたAに対し、「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから、足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた[2]

Aが身をかがめ[2]、後部座席に回ったところ[23]、Hはネクタイを緩め、運転席を降りた[2]。そして、午後10時50分[2]、背後からAに忍び寄り、ネクタイを首に巻き付け、Aの首を絞め、Aを窒息死させて絞殺した[2][32]

Aを殺害した直後、Hは「とっさの判断でやったにしては、うまくいった」と思いつつ[23]、Aの所持品を改めたが、Aの所持していた現金は、Hの予想していた12万円とは異なり、わずか5万円しかなかった[2]。Hは、「嵌められた」と思いつつ[2]、その現金約5万円を奪った上で[32]、タクシーにAの遺体を乗せたまま、殺害現場から約25km離れた広島市内まで戻った[2]

その後、広島市安佐南区沼田町大塚の、雑木林の中に辿り着いた[2]。その林内を通る、林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)に[3]、田圃脇水路の土管があったため[2]。Hは、Aの遺体を土管内に遺棄した[2][32]


前述のようにAは、Hに対し、「大阪在住」と語っていたため、Hは「殺しても(身元は)バレないだろう」と考えていた[23]。しかし、殺害から18日後の1996年5月6日、少女の遺体が発見され、身元が呉市内の女子高生であることが判明した[33]。後述のように、広島県警察広島北警察署は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始した[3]

これをニュースで知ったHは、「大阪の女じゃなかったのか」[33]、「同じ県内に住んでいたとなると、自分も疑われるかもしれない」と驚いた[23]。同時に、刻一刻と、自分の身辺に捜査の手が迫る気がし[33]、それ以降、逮捕されることばかり考えていた[23]

しかし、6月、7月と、時間が経過し、梅雨が明けても、Hの周囲に、警察の動きはなかったため、日が経つにつれ、Hは「警察の捜査にも限界がある。行きずりの売春婦なら、自分と接点はない。現に、警察は何もわかっていない」と安堵し、逆に自信を深めた[33]

B事件(第2の事件、1996年8月13日)

被害者:女性B(事件当時23歳、広島市安佐南区八木在住)[14]

A事件から約3カ月が経過した8月になっても、Hの周囲には、捜査の手は及ばなかったため、やがてHは、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持つようになった[23]

1996年8月13日夜、Hは、再び新天地に向かい[23]、繁華街をタクシーで流しながら、次の標的を物色した[23]。新天地公園には、男から声を掛けられるのを待つ売春婦が、何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった[23]

Hは、「金でセックスさせる女なら、捜索願も出ないだろう」と思いつつ、新天地公園で、スナックバー勤めの、23歳女性Bを見つけ、声を掛けた[33]。Hは、Bに車中で、現金3万円を渡し、安心させた上で、ラブホテルに入った[33]

しかしBは、Hを「素行不良のタクシー運転手」とみなし、牽制しようとしたのか、「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した[33]。Hは「それは怖いね」と、感心したそぶりでうなづきつつ、Bと性行為をした[33]。その後、翌8月14日午前0時50分になって、ラブホテルを出た[33]

Hはその後、コンビニに立ち寄り、缶ビール・軍手を購入した上で、山道に入った[33]。そして、B宅から北にわずか数kmの、安佐南区八木の太田川橋付近で[4][5]、何の前触れもなく、タクシーを停車した[33]

Hは、「(この車は)よく故障するんだよ」と苦笑いしつつ、Bに対し、床のシートをめくるように頼んだ[33]。そして、買ったばかりの軍手をはめ、後部座席に体を滑り込ませ、Bの背後からネクタイで、Bの首を絞めた[33]

Bは、「さっきの話は嘘だ。父親はヤクザではない。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hは気にも留めず、Bの首を絞め続け、Bを窒息死させて絞殺した[33]。Hはこの時、軍手をはめていたためか、A事件の時より、更に強い力で、Bの首を絞めていたという[33]

そしてHは、Bの遺体を物色し、所持金52000円を奪った上で[33]、安佐北区白木町小越の、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面に[6]、Bの遺体を遺棄した[31]。Bの遺体は、8月下旬になっても発見されなかったため、Hは更に、殺人への自信を深めた[33]

Bは、1985年(昭和60年)3月、安佐南区内の別の地区から、事件当時の住居に、両親・妹弟計5人とともに転居していた[4]。後にBの遺体が、自宅からわずか北数kmで発見されたことに対し、近隣住民らからは、「こんな近くで殺されたなんて信じられない」と、驚きの声が上がった[4]

C事件(第3の事件、1996年9月7日)

被害者:女性C(事件当時45歳、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)[15]

2人を相次いで殺害したHは、1996年9月7日深夜[33]、広島市南区松川町の路上で[7]、以前から顔見知りだったホステスの、45歳女性Cを、タクシーに誘い入れた[33]

Cは、Hと顔見知りだったためか、すぐにHのタクシーに乗り込んだ。Hが、「どこか遠くで遊ぼうか」と提案し、3万円を渡した上で、「タクシーの中でしてもいいかな」と提案すると、Cはこれに応じた[33]

事前に缶ビールを飲むのが、Hの「儀式」だったため、Hはその後、コンビニに立ち寄り、Cに缶ビールを買わせた[33]

その後、広島県山県郡加計町穴(現・広島県山県郡安芸太田町穴)の、国道191号の脇道に辿り着くと[7]、周囲は真っ暗な山道だった[33]。Hは、そこにタクシーを停車すると、Cに、「俺は後ろからするのが好きなんだ。四つん這いになってくれ」と、後背位での行為を求めた[33]

Cは承諾し、後部座席で背を向け、下着を脱ぎ、腰を突き出した[33]。Hは、ネクタイとズボンのベルトを緩めると、野獣のような唸り声を挙げつつ、Cにのしかかった[33]

Cは、危険を察知し、振り返って「何をするの」と叫んだが、Hはベルトを引き抜き、Cの首に回して絞め上げた[33]。Cは、激しく抵抗したが、Hはこれに構わず、Cが白目を剥いて失神するまで、ベルトで絞めつけた[33]。そして、とどめにネクタイで、Cの首を絞めつけ、Cを窒息死させて絞殺した[33]

Hはその後、現金約8万円を奪い[7]、殺害現場から約10km離れた、加計町加計の町道脇を流れる、滝山川(太田川支流)左岸の法面斜面にある[8][9]、コンクリート製の溝の中に[9]、Cの遺体を遺棄した[7]

D事件(第4の事件、1996年9月14日)

被害者:主婦D(事件当時32歳、広島市中区在住)[16]

C事件の後、Hは、「3人も殺したからには、(最高裁判所判例として示された死刑適用基準「永山基準」の観点から見ても)捕まったら間違いなく死刑だ」と、警察に逮捕され、死刑になることに恐怖したが、その一方で、「人知れず女たちを絞め殺しているけど、まだ警察の捜査の手は及んでいない」という事実を思い出した[33]。そして、「俺は超人じゃないか」、「絶対に捕まることはない」と、半ば本気で、揺るぎのない自信を持った[33]

Aの遺体が発見されたものの、その後続報はなく、B・C両名については、発覚すらしていなかった[33]。Hはこの頃、殺人に快楽を見出すようになっていた[33]。夕方、タクシーを運転しつつ、湧き上がる殺人衝動を抑えられない自分に直面し、恐怖を感じたこともあったため、Hは「いつもと違う自分だったら、禍々しい殺人衝動もおさまるだろう」と、乗務用の白手袋を脱ぎ、ハンドルを握ったこともあった[33]

しかし、夜が迫るにつれ、殺人衝動と、女性を絞殺する際の「堪らない快感」に駆られたHは、「金さえ渡せば、いつでもどこでもセックスする」売春婦をターゲットに、4人目の犠牲者を物色した[33]

C事件から1週間が経過した、1996年9月13日午後10時頃、Hは、以前に何度か遊んだことのある、「アイちゃん」と呼んで親しくしていた、32歳の女性Dに声を掛けた[34]

Hは、Dをタクシーに乗車させ、停車した車内で、10分ほど話をした。その後、Hは缶ビールを買いに、いったん車外に出たが、戻ってみたところ、Dの姿はなかった[34]

Hは、「逃げられた」と舌打ちしたが、日付の変わった9月14日午前0時すぎ、1軒のホテルの前で、再びDと邂逅した[34]。通常、「最高額」の2万円は、20歳代の売れっ子に限られており、通常の「相場」は、15000円から2万円未満だったため、32歳で、人並みの容姿だったDは、Hから、「相場の倍以上」となる4万円を提示され、快諾した[34]

Hは上機嫌で、「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」と、タクシーを発進させた[34]。その途中、Hは、コンビニに立ち寄り、Dに缶ビール・おつまみを買わせた後、広島市郊外の[34]、佐伯区内のホテルに投宿し[8]、性行為をした[34]

その後、H・Dの2人は、ホテルを出た[34]。Hは、タクシーの後部座席にDを載せ、廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日午前2時すぎ、人気のない、静まり返った田舎道に辿り着いた[34]。その場所が、殺害現場となった、広島市佐伯区五日市町大字上河内の、広島県道41号五日市筒賀線路上だった[10]

Hは、この現場でタクシーを停車した上で、Dに対し、「足元のシートをめくってほしい」と申し出た[34]。Hは、それまでの3人の経験から、プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく、指示に従うことを知っていた[34]

Hは、Dが屈みこんでいる間に、ネクタイをほどいたが、Dが顔を上げると、「なんか怖い」と言った[34]。Hは、Dに笑みを浮かべ、ネクタイを座性に掛けたが、Dは「一人で帰る」と言い出し、タクシーのドアを開け、車外に出た[34]

Hは、「警察にかけ込まれたら終わりだ」と思い、タクシーを急発進させた[34]。Hはそのまま、徐行しつつ、助手席の窓を開け、Dに「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けた[34]。しかしDは、速足で歩きつつ、ショルダーバッグか、Hからいったん代金として受け取った、1万円札4枚を取り出し、「もう、お金はいらないから」と叫び、Hに投げつけた[34]。そして、Dは駆けだし、Hから逃げようとした[34]

これに対しHは、「優しく言えば付け上がりやがって」と逆上し、アクセルを踏み込み、タクシーを加速させ、Dを追い越し、前に回り込んだ[34]。Dの行く手を塞ぎ、車外に出たHは、立ちすくんでいたDの襟首を掴み[34]、持っていた果物ナイフを[10]、Dの喉元に突き付けた[34]

Hは、Dを後部座席に連れ込むと、右拳を握り締め、Dの顔面を勢い良く、計10発近く殴りつけた[34]。1996年9月14日午前2時10分頃[10]、Dが失神すると、Hはネクタイで、Dの首を絞め、窒息死させて殺害した[34]。その上で、Dが所持していた現金約56000円を奪った[10]

Dを殺害した後、Hは、「タクシーの座席が、血液や(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を、天井側部の手すりに結び付け、Dの遺体を、首吊りの格好で固定した[34]

Hはそのまま、タクシーを移動させると、10分ほどして[34]、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むらに[11]、Dの遺体を投げ捨てるように遺棄した[34]

捜査

A事件の発覚

1996年5月6日午後4時半ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の、雑木林の中の林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)で、全裸で倒れている腐乱死体があるのを、山菜取りをしていた近くの住民が発見し、110番通報した[3][35]。後にAと判明したこの遺体は、10歳代後半から20歳代[36]、身長約155cmの女性で、18金のネックレスを着け、おかっぱぐらいの長さの髪を、紅いゴムひもで結んでいた[3]。遺体は、死後約2週間経過しており、広島県警察捜査一課・広島北警察署は、殺人・死体遺棄事件として、捜査を開始し[3]、遺体を司法解剖し、死因などを調べた[35]。現場は、広島駅から北西約10㎞の位置にあり、朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外、人・車の通行はほとんどない道だった[3]。そのため捜査一課は、車を使用した犯行とみて、不審な人物・車両の目撃者などを捜査した[3]

5月8日、広島県警は、広島北署に、女性死体遺棄事件捜査本部を設置し、164人態勢で捜査に当たった[37]。同日、捜査本部による捜査の結果、女性の血液型はO型で、盲腸には手術痕があることが判明した[37]

また、女性の上下6番目の大臼歯4本に[36]、治療痕があったことが判明したため、広島県歯科医師会に対し、該当する患者がいるかどうか、情報提供を要請した[37]。これを受け、広島県歯科医師会は、県内約1280の診療所に対し、女性の歯の状況を記した所見を送った[37]。また、女性の歯のうち、下側の5番目の小臼歯2本は、乳歯のままで、永久歯が出ない、「先天性欠如歯」だった[36]。これは、鑑定した歯科医師によれば、「数十人に1人の体質」だったため、広島県警も、大きな手掛かりとして、該当する女性患者がいないか、重点的に調べた[36]

捜査本部では、このほか、家出人の調査や、女性が身に着けていたネックレス・ピアスの入手先などを調べた[37]。その結果、家出人に関する情報は、県内外から58件寄せられた[36]。また、ネックレス・ピアスは、大手宝石店で売買されていたものであることが判明し、広島市内などの店舗に、捜査本部から照会がなされたが、遺体発見から1週間となる5月13日までに、購入先は判明しなかった[36]

現場周辺では、5月8日、捜査員80人が、遺留品を捜索したり、付近の住民らへの聞き込みを行ったが、身元の確認につながる、有力な情報は得られなかった[37]

5月13日、Aの母親と名乗る女性の声で、広島北署捜査本部に対し、「娘がいなくなっている」と電話があった[38]。これを受けて調べたところ、O型の血液型、遺体が身に着けていたネックレス・ピアスなどが、Aの特徴と酷似し、身長も一致したことから、遺体の身元はAである可能性が高まった[38]

そのため、捜査本部が、広島県歯科医師会に依頼し[38]、歯科医院のカルテなどを調査し[13]、歯の治療痕を確認した[38]。それに加え、A宅に残された髪などと、遺体の毛髪を照合したり[38]、虫垂炎の手術痕、胸のX線写真などを照合するなどして[13]、身元特定作業を実施したところ[38]、翌14日になって、遺体の身元はAと断定された[13][39]

捜査本部の調べや[13]、広高校定時制によれば[39]、Aは、4月9日に入学式に出席した[39]。その後、高校の新入生歓迎会があった4月16日までは[13]、学校に姿を見せていたが[39]、同日に登校後、そのまま帰宅せず、翌17日、広島県安芸郡音戸町(現・呉市)内から、自宅に電話したのを最後に、消息が途絶えていた[13]。欠席が続いたため、担任教諭が、A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話していた[39]。なお、Aの家族からは、捜索願は出ていなかった[39]

なお、Aは昼間、呉市内のファミリーレストランで、アルバイトの研修を受けていた[13]

広島北署捜査本部は、5月31日、Aの写真が入ったチラシ6000枚を製作した[40]。捜査本部は、このチラシを、呉警察署広警察署海田警察署西条警察署の各管内、広島市内の交番の掲示板などに張り出し、情報提供を求めた[40]

しかしその後、有力な情報はなく、未解決事件となっており、Hが自供した時点では、迷宮入り寸前だったという[24]

D事件の発覚

Dが殺害されてから5時間後[34]、9月14日午前7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の、国道433号旧道から、1mほど斜面を下った草むらで、若い女性が仰向けに倒れて死亡しているのを[11][41]、犬の散歩中だった散歩中の近隣住民女性が発見した[42]。発見者女性は、近所の男性に連絡し、男性が119番通報した上で[42]廿日市警察署に通報した[11][41]。広島県警捜査一課は、遺体の状況などから、女性が絞殺されたと判断した上で、殺人・死体遺棄事件として、廿日市署に捜査本部を設置し、捜査を開始した[11][41]

現場は、広島駅から北西約25㎞の山間部で、周囲には民家が点在するが[11]、現場付近の旧道は、付近の住民が散歩で通る以外[42]、車や人の通りは少ない道だった[11]。現場周辺は、日ごろ静かな山間の集落だけに、「殺人事件なんてひとごとだと思っていた」と、住民らに対し、大きな衝撃を与えた[42]

捜査本部は同日、広島大学医学部で、遺体を司法解剖し、詳しい死因・身元などを調べた[11]。廿日市署の調べによれば、女性は20歳代から30歳代、身長約160cm、やや太り気味だった[11]。遺体に目立った外傷はなかったが[11][41]、顔がうっ血しており、14日未明に絞殺された後、現場に運ばれ、遺棄されたと推定された[41]。遺体の服装は、ベージュのタートルネック長そでセーター、えんじ色のスラックス姿で、髪は肩ほどまであり、緩いパーマをかけていた[11]。靴は、焦げ茶色の革靴を片側だけ履いていた[11]。左耳には、十字架の形をした銀色のピアスを付けており、右薬指には指輪をはめていた[11]

9月14日午後8時ごろ、Dの長女から、「母親と連絡が取れない」と、110番通報があった[16]。広島県警が、D宅マンションで指紋を採取し、遺体と照合した結果、遺体の身元は、13日に外出後、行方不明となっていた、広島市中区内の32歳女性Dと判明した[16][43]。それまでの調べでは、Dは6年前、前夫と離婚したが、その間に生まれた娘2人と、マンションで暮らしており、事件当時は、ナイジェリア人の男性と再婚していた[16]。身元確認を受け、捜査本部は、Dの13日夜から、14日未明にかけての足取りや、交友関係について、捜査を開始した[43]

また、捜査本部は、9月15日午前9時半から、遺体発見現場周辺を、約100人態勢で、遺留品などがないか捜索したが[43]、Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは、遺体周辺では発見されなかった[16]

逮捕・起訴

D事件で逮捕

Hは、犯行を重ねるにつれ、金を奪うことよりも、次第に人を殺す快楽に惹かれるようになっていった[23]。一連の4件の殺人は、事件を重ねるごとに、間隔が短くなっていった[23]

しかし、4人目の被害者の遺体が発見されたことで、事態は急展開した[23]。遺体の身元が確認された直後、「Dが、Hのタクシーに乗り込む姿を目撃した」という証言が[23]、捜査本部に寄せられた[34][23]。これに加え、Dが9月14日未明、事件2,3年前から親しくしていた、知人Hとともに、佐伯区内のホテルに投宿した後[8]、Hのタクシーでホテルを出ていたことが、ホテルへの聞き込みで判明した[1]

Dが行方不明になる直前、知人のHに会っていたことから、Hの犯行の線が強まったとして[18]広島県警察廿日市警察署捜査本部は[18]、D殺害をHの犯行と断定した[34]。そのため捜査本部は、1996年9月18日付で、殺人死体遺棄容疑で、Hの逮捕状を請求し[44][45][46]、行方を追った[18]

捜査が間近に迫ったことを察知し[26]、追い詰められたHは、自殺を考えたが、結局死にきれず、広島から逃亡した[23]

1996年9月20日早朝、山口県防府市内の国道2号では、当時「秋の全国交通安全運動」の一環などで、夜間・早朝の取り締まり強化のため、交通検問が行われていた[46]。この検問を、不審な乗用車が無視して突破しようとしたことから、山口県警察は、行き止まりに追い詰め、車を運転していた男を、防府警察署に任意同行した[46]。事情を調べた結果、車は同日未明、広島市中区幟町の路上で盗まれた盗難車であることや、運転していた男が、Hであることが判明した[46]。これを受け、山口県警防府警察署は、窃盗容疑でHを逮捕した[46]。この逮捕後、Hは妻と離婚した[31][24]

1996年9月21日、取り調べに対し、Hは、「Dとは、2,3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから、遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述した[46]。これを受け、広島県警廿日市署捜査本部は、殺人・死体遺棄容疑で、Hを逮捕した[18][46][1]

C事件発覚

Hは、捜査本部の取り調べに対し、「8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で、Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30km離れた山県郡加計町(現・安芸太田町)加計まで連れて行き、首を絞めて女性を殺害し、山中に遺体を遺棄した」と自供した[8][9]

これを受け、捜査本部が、1996年10月1日、加計町加計の山中にて、滝山川(太田川支流)左岸の法面を捜索したところ[8]、正午過ぎになって[8][9]、コンクリート製の溝の中で、女性の白骨死体が発見された[9]。現場は、JR広島駅から北北西約30km、Dの遺体発見現場から北約20kmの位置で[9]、山間部を縫うように流れる、滝山川の東岸法面で、夜間はほとんど人通りがない、町道の脇だった[47]

女性の身元は、40歳代、身長約155cm、中肉中背、肩ほどまでの茶髪で、ブレスレット・指輪をつけており、Tシャツ・靴下が残っていた[8]。司法解剖の結果、女性の右上・右下の歯には、それぞれ1本ずつ、治療痕が確認されたことや、歯垢が溜まっていたことから、普段から喫煙の習慣があったことが推測された[47]。なお、Hは動機などについて、「女性は生前、九州訛りがあった」[8]、「女性を街で見かけ、顔を知っていた」[8][47]、「金銭上のトラブルがあり、女性から金を奪う目的もあった」と自供した一方で[8]、「住所・氏名は知らない」と供述した[8][47]

このことから捜査本部は、「Hは、広島市繁華街で、顔見知りの女性をタクシーに乗せ、人気のない郊外で首を絞める、という手口で、2人を殺害した」との見方を強め[47]、Hを殺人・死体遺棄容疑で再逮捕し[47]、本格的に追及する方針を固めた[8]

また、Hは、自分に不利な供述にも拘らず、「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と、現場の地図を丁寧に描き、被害者の似顔絵づくりも手伝っていた[24]。捜査本部は、その供述をもとに作成した、女性の似顔絵と、身に着けていた白い半袖Tシャツなどを公開し[47]、行方不明者名簿などから、遺体の身元特定を進めた[8]

捜査本部は10月3日、遺体の身元を、「広島市中区在住の40歳代女性」とほぼ断定した[48][49]。その上で、歯の治療痕や、Hの供述などから、裏付け捜査を進めた[48][49]

そして、10月4日、遺体の身元は、Hと顔見知りだった、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住、45歳無職女性Cと断定された[15]。Bは、事件の10年前から、宝町のマンションに住んでいたが、付近の繁華街で店員を務めていた、同居相手の男性曰く、9月上旬ごろから帰宅していなかったという[15]。近隣住民によれば、挨拶をきちんとするさっぱりした性格で、夜間に出掛けることが多かった[15]

B事件・A事件発覚

さらにHは、10月5日までに、「今年7月中旬か8月中旬の広島市中区の繁華街で、初めて会った女性に声をかけ、タクシーに乗せた」[5][50]、「その後、女性を、安佐南区内の太田川近くに停車したタクシー車内で、首を絞めて殺した。午後8時頃、遺体を道路沿いの川に遺棄した」[5]、「金が欲しかった。名前は知らない」と[50]、3件目の殺人を供述した[51][5][50][31]

この供述を受け、捜査本部が、10月5日夜、安佐北区白木町小越の山中道路脇を捜索したところ、午後8時50分頃、広島県道46号東広島白木線の脇を流れる、関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面から[6]、新たに女性の白骨遺体を発見した[5][50]。遺体は、20歳代から30歳代で、身長152cmから160cm、茶髪、半袖の青色ツーピース姿だった[5]。遺体付近には、18金の指輪が落ちていた[5]

Hは、これに加え、10月6日までに、「4月18日頃、20歳前後の女性を殺害し、広島市西区己斐峠周辺に遺体を遺棄した」と供述した[50]。Hは、この被害者女性について、「名前は知らなかったが、(遺体発見が報道された)前述のA事件も自分がやったと思う」と供述した[52]。A事件では、被害者の16歳女子高生Aが、4月18日から行方不明になっていたことに加え、Aの遺体発見現場は、己斐峠と約2kmしか離れておらず、地形的にも、Hの供述と一致した[50]。また、道路わきに遺体を遺棄するなど、手口がそれまでに判明した3事件と共通することから[5]、捜査本部は、A事件もHの犯行とみて、さらに追及を進めた[50]

なお、Cの遺体発見現場の加計町山中から、北西約30kmに位置し、国道191号で結ばれた、島根県美濃郡美都町宇津川(現・益田市美都町宇津川)の山中では[51]、同年8月27日[31]、国道191号沿いのガードレール下で[31]、30歳代から40歳代の身元不明女性の、腐乱した他殺体が発見されていた[51]島根県警察益田警察署捜査本部が当時、殺人・死体遺棄事件として捜索していたこの事件についても[31]、同じ国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど、Hの一連の事件と共通点が見られたため[51]、広島県警廿日市署捜査本部が、Hによる連続殺人事件と、何らかの関連性がないか、関心を寄せた[51]。しかし、Hはこの事件について、「事件は知っているが、やっていない」と供述し、関与を否定した[31]。結局、島根の事件については立件されなかった。

このように、Hが新たに2件の殺人を自供したことから、一連の事件は、過去にあまり例のなかった、女性を狙った連続殺人事件の様相が濃厚となった[31][注釈 1]。このことから、捜査本部は、1人目の遺体発見当時、100人体制だったが、50人を追加動員し、150人体制となった[6]。事件を担当した捜査員からは、「事件の広がりは予測がつかない」という声も出た[31]

Hが、A・C両事件を自白したのは、D事件の取り調べ中、捜査員に対し、D事件とは関係ない地名・日時を、自ら語ったことがきっかけだったことが、10月7日に判明した[52]。突然出てきた言葉を、捜査員が追及したところ、次第に話のつじつまが合わなくなり、Hは新たに、3人の殺害を自供し、遺体発見につながった[52]。捜査本部は、Hが短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱し、証言に矛盾をきたしたとして、さらに追及した[52]

10月7日、捜査本部は、5日夜に遺体で発見された女性について、似顔絵を公開した[52]。司法解剖の結果、遺体の推定年齢は、20歳代から40歳代で、血液型はA型、喫煙の習慣があったことが、それぞれ判明した[52]

取り調べで、Hは、「C・D事件は、金銭関係のトラブルが動機だった」[31]、『5日に遺体が発見された女性については、金目当てだった」と[30]、それぞれ供述した上で[31]、「被害者の女性にはすまないことをした。(自分の)人生には、もう夢も希望もない」と語った[31]

しかし、被害者から金を奪ったとはいえ、合計しても24万円程度であったため[17]週刊誌AERA』1996年10月21日号(朝日新聞社出版本部)では、「金目当てというより、諍いのうちに殺害し、金はついでに奪った、という方が正確なようだ」と報道された[24]

10月8日、5日に発見された白骨遺体の身元は、安佐南区八木在住、23歳女性Bと判明した[14][4]。捜査本部が着衣・似顔絵を公開したところ、Bの知人から情報が提供された[14]。歯の治療痕を、安佐南区内の歯科医が鑑定したところ、Bの治療痕と一致したため、Bの家族に確認し、着衣も含め、本人と断定した[14]

また、Hは、血痕の付着した、タクシー後部座席のカバーを、自家用車内に隠していたことが、捜査本部の捜査で判明した[30]

D事件で起訴

1996年10月12日、広島地方検察庁は、D事件で逮捕された被疑者Hを、強盗殺人死体遺棄罪で、広島地方裁判所起訴した[10]

C事件で再逮捕・追起訴

1996年10月15日、広島県警捜査本部は、Cを殺害し、現金を奪ったとして、D事件で起訴されていた被告人Hを、強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[7]

1996年11月5日、広島地検は、C事件における強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した[53]

この頃までにHは、全面的に容疑を認めたが、取り調べで「どうせ、俺なんか」と、投げやりな発言をしていた[26]。この言葉は、『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面記事で、「大学入試など、人生での挫折経験を、自分で乗り越えることができず、『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を、心の奥底に、引きずって生きてきたことを表しているのだろう」と綴られた[26]

B事件で再逮捕・追起訴

1996年11月6日、広島県警捜査本部は、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した[54]

1996年11月27日、広島地検は、Bを殺害し、現金を奪ったとして、強盗殺人・死体遺棄罪で、Hを広島地裁に追起訴した[55]

A事件で再逮捕・追起訴

捜査本部は、Hの供述に基づき、Aの遺体が発見された水路から、南に数km離れた山林内で、Aのバッグ・化粧品など、遺留品を発見した[56]

1996年12月4日、広島県警捜査本部は、Aを殺害して現金を奪い、遺体を遺棄したとして、強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを再逮捕した[32]

1996年12月14日、広島県警は、Hの供述に基づき、Aの遺体を遺棄したとされる、安佐南区沼田町大塚の現場を検証した[57]

1996年12月24日、広島地検は、A事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で、Hを広島地裁に追起訴した[58]。これにより、Hが自供した4件の殺人事件は、すべて起訴された[58]

刑事裁判(広島地裁)

初公判(1997年2月10日)

1997年(平成9年)2月10日、広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で、被告人Hの初公判が開かれた[59][60][28][61][62]

検察側は、冒頭陳述で、「Hは、『妻に消費者金融からの借金を知られたくない』と思う一方で、夜の繁華街で遊びたいという、相反する欲望から、約350万円もの借金を抱えた」[28]、「遊ぶ金欲しさに、繁華街で知り合った女性を狙った」と主張した[61]。その上で、連続殺人の動機について、「街で声を掛けた女性を殺しても、「『自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない』、ということから、(B事件以降は)『他人の死をも支配できる』という、一種の満足感・快感を覚えた」などと主張した[61][62]

また、Dの2人の娘が、「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と語っていたことも、検察側が明らかにした[28]

Hは、冒頭の罪状認否で、4件の強盗殺人・起訴事実について、全面的に認めた[23][59][60][61][62]

Hが、事実認定を争わなかったため、弁護人には、刑法第39条に基づく、心神喪失・心神耗弱による、無罪・死刑回避を狙う他に、手段はなかった[23]。弁護人は、「事件当時、Hは、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張し、被告人調書を証拠採用することを留保した[28]。その上で、精神鑑定申請も視野に入れ、争う姿勢を示した[28]

第4回公判(1997年4月23日)

1997年4月23日、第4回公判が開かれた[63]

検察側は、「Hは、『殺害した4人とは別に、別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする、検察調書を明らかにした[63]

検察調書によると、Hは、逮捕直前の1996年9月頃、広島市内の繁華街にいた、顔見知りの女性2人を、強盗殺人の対象として考えていた[63]

また、Hが、Dを殺害した容疑で逮捕された際、まだ発見されていなかったB・C両名について、遺体を遺棄した場所などを自供したことについては、「刑事から『他に隠していることはないか』と訊かれたので、警察が既に遺体の在処を把握していると思った。自分の情状のために、自分から言うのを待っているのだと思った」、「(被害者が)4人になることを話すのは、あまりにもセンセーショナルなので、自分なりに、自供する時期について迷った」と供述していたことも、検察調書で判明した[63]

Hのこの供述が、早期の事件解決のきっかけとなったが、事件を取材した作家・祝康成(現・永瀬隼介)は、この動機を、「Hの、何ともお粗末な勘違い」、「卑しい、自己本位の性根が透けて見える言葉だ」と非難した[34]

精神鑑定実施(1997年11月以降)

弁護人側は、1997年10月30日付で[64]、「検察側は、金銭目当ての犯行を主張するが、4人とも、奪った額は数万円程度だ。普通、この程度の額のために、強盗殺人を犯すとは考えられない」[64]、「動機がはっきりとしないため、責任能力の有無を問いたい」として、広島地裁に対し、Hの精神鑑定を行うよう請求した[65][66][64]

これを受け、1997年11月5日の第10回公判で[67]、広島地裁(谷岡武教裁判長)は、「各犯行状況を鑑みて、その動機をはっきりさせるためにも、精神鑑定が必要だ」として[64]、この請求を認める決定をした[67][65][66][64]

これにより、審理は一時中断し[23]、広島地裁が、精神科医山上皓(当時・東京医科歯科大学教授)に依頼し、精神鑑定を実施した[68][69]

精神鑑定採用(第11回公判、1999年2月24日)

1999年(平成11年)2月24日、広島地裁(谷岡武教裁判長)で、第11回公判が開かれ[70][68]、約1年3か月ぶりに、公判が再開された[70][69]

同日の公判で、精神鑑定の結果が報告・提出され、証拠採用された[70][68][69]。その鑑定結果は、弁護側の狙いとは裏腹に、「責任能力が認められる」というものだった[23][70][69]

精神鑑定を担当した山上は[68][69]、「Hの人格には、著しい偏りがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような、病的なものとはみなされない」という結論だった[23][68][69]

また、精神鑑定では、Hが殺人に至った動機について、解明が試みられ、「Hは、男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、『暴力犯罪の空想などで、強い男性像を示したい』という性癖があった。犯行は、この空想を実際に移したものである」とされた[23][70]

Hの挫折感は、青春時代に経験した、大学受験の失敗などの挫折に端を発しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが、女性を殺害することだった[23]

弁護人側は、「鑑定書には疑問点や、確認したい点がある」として、山上の証人申請をした[68]

検察側・論告求刑(1999年10月6日)

1999年10月6日、広島地裁(戸倉三郎裁判長)で、論告求刑公判が開かれ、検察側はHに対し、死刑を求刑した[71][72][73][74][75]

論告で、検察側は、「A事件以降、自分に捜査の手が及ばなかったことから、自信を深め、遊興費などを得ようと、さらに女性を物色し、次々に殺害・遺棄した」[75]、「落ち度のない4人を次々に殺害した、自己中心的な犯罪だ。犯罪史上稀に見る、残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない」[73]、「わずか5か月間に、4人もの女性を殺害した、凶悪な犯行だ。社会に与えた影響は大きく、自らの生命をもって償うしかない」と指弾した[71]

弁護側・最終弁論(1999年11月10日)

1999年11月10日の公判で、弁護人による最終弁論が行われ、結審した[76][77]

弁護人側は、精神鑑定結果に異議を唱えた上で、「Hは、最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで、自暴自棄の心理状態にあった」と主張した[23][77]。これに加え、「被告人は、捜査・公判とも、誠実に協力しており、死刑は重過ぎる」と主張し[12][78]、情状酌量による死刑回避を訴えた[76][77]

しかしこれは、自ら死刑を望んでいた、Hの希望に反するものだった[23]。最終弁論後[79]、最終意見陳述が行われた[76][77][79]

その陳述の場で、連続殺人鬼として法廷に立ったHは[25]、「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません」[79][23][77][76]、「今すぐ命を絶って詫びたいが、それでも、被害者・遺族から許されるとは思っていない」と述べた[79][77]

Hはその上で、「(死刑の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで、被害者の恐怖と苦痛の何分の一かを味わえる」[79][77]、「(死刑判決を受け)、一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」[79][77][80][12][78]、「自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と[79]、涙を流しながら、懺悔の言葉を述べ[25][79]、自ら死刑を希望する意思を示した[23][77][80][12][78]

作家・祝康成(現・永瀬隼介)は、この事件の刑事裁判を取材し、最終弁論・最終意見陳述を傍聴していた[79]。その後、祝は、広島拘置所に収監されていたHから、手紙を受け取った[79]。Hは一貫して、弁護人以外との面会を拒否しており、祝に手紙を送ったのも、この1度だけだったが[79]、その手紙には、「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、今日、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」[79][25]、「これまで、担当の弁護士以外、どなたともお会いしておりませんし、手紙などのやり取りもしておりません。今後もお願いするつもりはありません」と綴っていた[79]

永瀬は後に、市川一家4人殺人事件犯行当時少年の死刑囚を追ったノンフィクション小説『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[25]

死刑判決(2000年2月9日)

2000年(平成12年)2月9日、判決公判が開かれ[80]、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は、検察側の求刑通り、Hに死刑判決を言い渡した[81][82][83][12][78][84][17][85][86][87][23]

死刑判決を言い渡す際は、判決主文を後回しにし、判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は、異例の冒頭主文宣告を行った[82][83][84]

広島地裁は、主文言い渡し後、判決理由にて、「教師を目指していた被告人が、大学受験の失敗や、結婚後の妻の病気へのストレスから、行き場のない挫折感を募らせていった境遇には、同情の余地がある。しかし、わずかな金を奪うため、人の生命を奪ったのは、あまりにも短絡的で、最大限の非難に値する」[84]、「犯行は冷酷非情で、被害者の無念さは想像を絶する」[12][78]、「短期間に4人の命を奪った、まれに見る凶悪事案だ。計画性は明白で、酌量の余地はない」と[17]、厳しく指摘した[84]。その上で、量刑について「被告人Hは、反省の情を示しているが、刑事責任は極めて重い」[12][78][17]、「死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを、十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」と述べた[84][17]

判決を言い渡した後、戸倉は、Hに対し、「被害者・遺族に対する謝罪の気持ちは、心の底から出たものと信じている」[83]、「殺される理由のなかった被害者への、謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた[23][84][17]

判決を傍聴した被害者遺族からは、「死刑は当然。絶対に許せない」、「Hは、法廷で謝罪したが、もっと早く謝ってほしかった。死刑判決が出たことで、娘の墓前に報告できる」など、犯行への憤りや、判決を評価する声が相次いだ[84][83]

また、Hの元同僚であるタクシー運転手は、「公判を度々傍聴したが、Hが自ら、死刑を望む発言を繰り返していたのが印象的だった。死刑はやむを得ないだろう」と述べた[83]

甲斐克則広島大学法学部教授(刑法)は、「最高裁が、死刑適用に慎重になっている流れに逆行するものだ。確かに犯行は悪質で、被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は、自首の成立や、犯行後の改悛の情を認めており、『永山基準』など、それまでの判例が示した、死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」として、判決に疑問を呈した[83]

一方、藤田浩・広島経済大学経済学部教授(比較憲法)は、「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では、被告人の自供もあり、冤罪の可能性は低い。犯行の悪質さ、被害者感情などを考えると、死刑はやむを得ないのではないか」と評価した[83]

弁護人が控訴断念

弁護人は、情状酌量による死刑回避を求めていたが、「予想されたとはいえ、厳しい判決だ。控訴するかどうかは、被告人と早急に接見して決めたい」とした[84]

Hは公判後、収監されていた広島拘置所で、弁護人・二国則昭弁護士らと面会した[88]。Hは、弁護人らに対し、広島高等裁判所への控訴をしない意思を伝えたため、弁護人らは、控訴を断念する方針を決めた[88]

控訴せず死刑確定(2000年2月24日)

Hは、控訴期限の2000年2月24日午前0時までに、広島高等裁判所に控訴する手続きをしなかったため、そのまま死刑判決が確定した[23][25][89][90][91][92]

死刑執行

2006年(平成18年)12月25日法務省法務大臣長勢甚遠)の死刑執行命令により、収監先の広島拘置所で、死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された[19][20][21][22]

同日には、東京拘置所でも死刑囚2人、大阪拘置所でも1人と、Hを加え、計4人の死刑が執行された[19][20][21][22]

死刑囚4人に対する同時執行は、1997年8月1日、法務大臣・松浦功の死刑執行命令により、永山則夫永山則夫連続射殺事件)や、夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら、計4人に対し、死刑が執行されて以来、9年4カ月ぶりだった[19]

国家賠償請求訴訟

広島弁護士会所属の弁護士・足立修一は、死刑執行11日前の2006年12月14日、再審請求についての説明・意思確認を行おうと、広島拘置所に、Hとの接見を申し入れた[93][94]。しかし、広島拘置所職員は、「Hは現時点で、再審請求をしていないため、接見は認められない」として、足立の申し入れを拒否した[93][94]。足立はこれに対し、「弁護士が接見に来ていると、本人に伝えたのか?」などと問い合わせたが、職員は「これ以上話はできない」などと拒んだ[93][94]

足立は、職員のこの対応を不当と訴え、国を相手取り、慰謝料など約180万円の支払いを求め、2007年8月2日付で、広島地裁に国家賠償請求訴訟を起こした[93][94]。足立は提訴後、記者会見で、「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されており、そこに光を当てたい」とコメントした[93]

広島地方裁判所(金村敏彦裁判長)は、2009年12月24日、足立の請求を棄却する判決を言い渡した[95]。広島地裁は判決理由で、「死刑確定者は、刑事訴訟法でいう、『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは、再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には、Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた[95]

原告である足立は、判決を不服として即日控訴したが[95]、控訴審・広島高等裁判所も、第一審の判決を支持し、控訴を棄却した[96]

最高裁判所第一小法廷桜井龍子裁判長)は、2011年10月13日付で、足立の上告を退ける決定をしたため、足立の敗訴が確定した[96][97]

事件の影響

廿日市警察署の対応

捜査本部が置かれた廿日市警察署(署長:吉村一彦、署員115人)では、9月14日、Dの遺体が、管内の湯来町内で発見されたのを受け、150人態勢の捜査本部が設置された[98]。この際、同署からも、刑事課を中心に、多くの捜査員が本部入りした[98]

当時、管内での殺人事件の発生は、1993年8月以来だった[98]。また、署が保有していた、1897年(明治30年)以来の資料では、連続殺人事件が発生した記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来、前代未聞の大事件となった[98]

それだけでなく、10月12日に開幕を控えた、秋の国民体育大会(国体)会場のうち、柔道・剣道・産学の各競技が、廿日市署管内にあった[98]。廿日市市スポーツセンターで行われた柔道協議には、天皇皇后両陛下が、見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った[98]

また、新制度下における初の国政選挙となった、第41回衆議院議員総選挙(10月20日投開票)では、激戦の広島県第2区にて、刑事課17人中3人が、選挙違反の監視を、専従で行った[98]

このように、かつてない忙しさに見舞われた廿日市署では、署員から「目が回る」と悲鳴が上がった[98]。吉村署長は、「事件では、捜査一課との連携も上手くいっている。いろいろと重なり、きついのは確かだが、署員の士気も上がっており、今後も最善を尽くす」と語った[98]

広島県タクシー協会の対応

事件を受け、広島県タクシー協会(会長:濱田修)は、1996年10月11日、広島市西区内のホテルで、緊急会議を開き、広島市内60社のタクシー会社の経営者ら、約100人が出席した[99]。濱田会長は、「今回の事件で、市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するため、協会が一段となって努力していこう」と話した[99]

経営者からは、「最近、乗務員の接客態度が悪いという苦情が、多く寄せられる。事件を機に、乗務員の再教育を徹底すべきだ」といった意見などが出された[99]

最後に、協会に加盟する、広島市内の全タクシーに、お詫びの文章を車内掲示することが決まった[99]。協会はその後も、他の地域でも会議を開き、信頼回復を呼び掛けた[99]

タクシー会社への風評被害

警察発表・新聞報道などでは、Hの勤務先だった、車両数約30台のタクシー会社について、詳細な住所は発表されなかった[100]。しかし、電話帳の情報や、会社の建物写真などから、勤務先はすぐに特定されてしまった[100]

事件後、ある運転手は、客から「湯来町まで行ってくれ」と、遺体が遺棄された現場に行くよう指示されたが、これは嫌がらせで、本来の目的地は別だった[100]。この他にも、無言電話・嫌がらせ電話などがかかるなどしたため、社員が退職したり、休みを取ったりした[100]

Hの元上司は、『朝日新聞』広島総局の取材に対し、「彼(H)の起こした事件に、責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考え、会社をつぶさないようにするだけでも必死だった」と振り返った[100]。その後、12月時点では、事件に関する電話は少なくなり、売り上げは落ちたが、社内の結束は強くなったという[100]

『朝日新聞』記者・樫山晃生は、「新聞・テレビの報道では、会社は匿名で報道されたが、ダメージを受けることとなってしまった」、「真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも、思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と、身が引き締まる思いがした」と振り返った[100]

新天地公園の現在

また、事件後、若い売春婦は、携帯電話でなじみ客と連絡を取り合うようになった[79]。そのため、事件から4年が経過した2000年現在、Hが被害者らを物色した新天地公園に立つことは、めったになくなったという[79]

参考文献

  • 丸山佑介『判決から見る猟奇殺人ファイル』彩図社、2010年1月20日、52-61頁。ISBN 978-4883927180 「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」
  • 新潮45』編集部『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』新潮社、2002年3月1日、287-308頁。ISBN 978-4101239132 
    • 祝康成(現・永瀬隼介)が、『新潮45』2001年1月号に寄稿した、本事件についての記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
  • 永瀬隼介(祝康成からペンネーム変更)『19歳 一家四人惨殺犯の告白』角川文庫、2004年8月25日、217-218頁。ISBN 978-4043759019 

脚注

注釈

出典

※出典見出し中のうち、元死刑囚・被害者の実名部分はそれぞれ、元死刑囚は姓イニシャル「H」、被害者はそれぞれ、本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。
  1. ^ a b c d e f g 『読売新聞』1996年9月21日大阪夕刊第一社会面11面「主婦絞殺・死体遺棄事件 元タクシー運転手を逮捕/広島県警」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 新潮45(2002)、p.288-291
  3. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1996年5月7日大阪夕刊第一社会面15面「林道わきの側溝に女性他殺体? 不審な車の目撃者を捜査/広島県警」
  4. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月9日朝刊広島県版「自宅近くの殺害に驚き 新たに被害者の身元判明 連続殺人 /広島」
  5. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1996年10月7日東京朝刊第一社会面39面「女性4人殺害容疑 逮捕の元タクシー運転手 女子高生、主婦らも/広島」
  6. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月7日朝刊広島県版「捜査員増強 容疑者、別の殺害をさらに自供 広島連続女性殺人 /広島」
  7. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年10月16日朝刊第一社会面31面「容疑者を強殺で再逮捕 広島の連続女性殺人 【大阪】」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『読売新聞』1996年10月2日大阪夕刊第一社会面15面「広島の主婦絞殺事件 H容疑者が別の女性殺害自供 白骨体を発見」
  9. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1996年10月2日夕刊第一社会面13面「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人 【大阪】」
  10. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年10月13日朝刊第一社会面31面「Dさん事件で容疑者起訴 広島の女性殺害4件目自供【大阪】」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m 『読売新聞』1996年9月14日大阪夕刊第一社会面11面「若い女性の絞殺体 旧国道わきの草むらで見つかる /広島・湯来町」
  12. ^ a b c d e f g h i j k 『朝日新聞』2000年2月9日夕刊第一社会面15面「4女性殺害に死刑 被告も極刑望む 広島地裁判決 【大阪】」
  13. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1996年5月14日大阪夕刊第二社会面14面「広島の女性遺体 高1少女と断定」
  14. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月8日夕刊第一社会面23面「白骨死体は23歳の女性 広島の連続殺人事件」
  15. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月5日朝刊広島県版「殺された女性2人、容疑者と顔見知り 連続殺人事件 /広島」
  16. ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年9月16日大阪朝刊第一社会面27面「湯来町の絞殺体は不明の32歳主婦/広島県警」
  17. ^ a b c d e f g 『毎日新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面11面「女性4人連続殺害事件 H被告に死刑 広島地裁判決」
  18. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15面「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」
  19. ^ a b c d e 『読売新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人の死刑執行 昨年9月以来、3拘置所で」
  20. ^ a b c 『朝日新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」
  21. ^ a b c 『産経新聞』2006年12月25日大阪夕刊社会面「死刑囚4人、刑執行 1年3カ月ぶり」
  22. ^ a b c 『産経新聞』2006年12月26日東京朝刊社会面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり 長勢法相では初めて」
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 丸山佑介『判決から見る猟奇殺人ファイル』彩図社、2010年1月20日、52-61頁。ISBN 978-4883927180 「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」
  24. ^ a b c d e f g 週刊誌AERA』1996年10月21日号 p.62「孤独な素顔に隠された狂気 広島連続殺人事件」(朝日新聞社出版本部、編集部記者:烏賀陽弘道
  25. ^ a b c d e f 永瀬(2004)、p.217-218
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面21面「[心想]広島・女性連続殺人事件 H被告、転落の軌跡」(記者:辻加奈子、谷川貴史)
  27. ^ a b c d e f g h 新潮45(2002)、p.291-292
  28. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1997年2月11日朝刊広島県版「証拠の採用を留保 精神鑑定申請、視野に 被告初公判 /広島」
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 新潮45(2002)、p.293-295
  30. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年10月8日朝刊第一社会面31面「『金目当てに殺害』 広島の連続殺人で容疑者供述 【大阪】」
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『朝日新聞』1996年10月7日朝刊第一社会面31面「『被害者にすまない』 容疑者供述 広島の連続女性殺人【大阪】」
  32. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年12月4日夕刊第一社会面11面「容疑者を再逮捕 連続女性殺人事件、4人目で 広島県警」
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 新潮45(2002)、p.295-300
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 新潮45(2002)、p.300-304
  35. ^ a b 『朝日新聞』1996年5月7日夕刊第一社会面15面「広島の川に女性の死体 【大阪】」
  36. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年5月14日朝刊広島県版「下側二本は乳歯のまま、身元は依然不明 広島市の女性変死体/広島」
  37. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年5月9日朝刊広島県版「164人態勢で捜査 広島・安佐南区の女性死体遺棄で県警 /広島」
  38. ^ a b c d e f 『読売新聞』1996年5月14日大阪朝刊第二社会面26面「広島の女性遺体 不明の16歳少女か 血液型や身長が一致」
  39. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年5月15日朝刊広島県版「事件・事故両面で捜査 広島市安佐南区の女性遺体、身元判明 /広島」
  40. ^ a b 『朝日新聞』1996年6月1日朝刊広島県版「女性の写真入りチラシ、交番などに掲示 広島市の死体遺棄事件 /広島」
  41. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年9月15日朝刊第一社会面29面「旧国道わきに女性の絞殺体 広島・湯来町の山中 【大阪】」
  42. ^ a b c d 『朝日新聞』1996年9月15日朝刊広島県版「山あいに走る衝撃 きょう100人で捜索 湯来町の女性殺人 /広島」
  43. ^ a b c 『朝日新聞』1996年9月16日朝刊広島県版「足取り・交友関係調べ 県警、百人で現場捜索 湯来の女性殺人 /広島」
  44. ^ 『朝日新聞』1996年9月19日朝刊第一社会面29面「タクシー運転手に逮捕状 広島・女性殺人容疑【大阪*】」
  45. ^ 『毎日新聞』1996年9月19日大阪朝刊社会面31面「主婦殺人容疑で運転手に逮捕状を請求 広島県警」
  46. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1996年9月22日朝刊広島県版「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」
  47. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1996年10月3日朝刊広島県版「被害女性の似顔絵公開 殺人手口共通、容疑者再逮捕の方針 /広島」
  48. ^ a b 『読売新聞』1996年10月4日大阪朝刊第一社会面35面「広島の連続女性殺害事件 白骨遺体の身元を特定」
  49. ^ a b 『朝日新聞』1996年10月4日朝刊広島県版「被害者40代女性か 加計の白骨遺体 身元の裏付け急ぐ /広島」
  50. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1996年10月7日朝刊第一社会面35面「3女性と女子高生も 容疑の元タクシー運転手供述 広島連続殺害事件」
  51. ^ a b c d e 『読売新聞』1996年10月7日大阪朝刊第一社会面31面「広島の女性連続殺人事件のH容疑者 模範タクシー運転手、凶行の中で仕事」
  52. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1996年10月7日夕刊第一社会面15面「自供の端緒に別の地名、口滑らす 広島連続女性殺人の容疑者」
  53. ^ 『朝日新聞』1996年11月6日朝刊第一社会面25面「容疑者を強盗殺人で追起訴 広島・連続女性殺人 【大阪*】」
  54. ^ 『朝日新聞』1996年11月7日朝刊第一社会面31面「容疑者を再逮捕 広島連続女性殺人事件 【大阪*】」
  55. ^ 『朝日新聞』1996年11月28日朝刊第一社会面31面「容疑者を追起訴 広島の連続女性殺人で地検 【大阪】」
  56. ^ 『朝日新聞』1996年11月26日朝刊第一社会面27面「遺体、Aさんと断定 容疑者再逮捕へ 広島の連続女性殺人 【大阪】」
  57. ^ 『朝日新聞』1996年12月15日朝刊広島県版「容疑者連れ検証 Aの遺体遺棄現場 連続女性殺人 /広島」
  58. ^ a b 『朝日新聞』1996年12月25日朝刊第一社会面27面「容疑者、最後の起訴 広島の連続女性殺人事件 【大阪*】」
  59. ^ a b 『読売新聞』1997年2月10日東京夕刊第二社会面22面「4女性殺害初公判 H被告が起訴事実を全面的に認める/広島地裁」
  60. ^ a b 『朝日新聞』1997年2月10日夕刊第一社会面15面「4女性殺害の事実認める 初公判で被告 広島の連続殺人事件」
  61. ^ a b c d 『毎日新聞』1997年2月10日大阪夕刊社会面12面「広島・連続女性殺害事件初公判:H被告が起訴事実認める/広島地裁」(記者:辻加奈子)
  62. ^ a b c 『産経新聞』1997年2月10日東京夕刊社会面「広島の4人殺人のH被告初公判 検察側『殺人に快感』起訴事実すべて認める」
  63. ^ a b c d 『朝日新聞』1997年4月24日朝刊広島県版「別の2人の殺害計画も 4女性殺害した被告の検察調書 /広島」
  64. ^ a b c d e 『産経新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面「4連続女性殺害 H被告を精神鑑定へ 広島地裁が決定」
  65. ^ a b 『毎日新聞』1997年11月5日大阪夕刊社会面11面「4女性殺害事件で被告の精神鑑定へ 広島地裁が承認」
  66. ^ a b 『毎日新聞』1997年11月5日東京夕刊社会面8面「4女性殺害事件の被告、精神鑑定へ 広島地裁が承認」
  67. ^ a b 『朝日新聞』1997年11月6日朝刊広島県版「被告を精神鑑定へ、広島地裁決める 女性連続殺人事件 /広島」
  68. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1999年2月25日朝刊広島県版「被告の責任能力、精神鑑定書で決める 強盗殺人事件公判 /広島」
  69. ^ a b c d e f 『毎日新聞』1999年2月24日大阪夕刊社会面11面「女性連続強殺の被告 『責任能力に影響ない』 精神鑑定を採用 広島地裁」(記者:中野彩子)
  70. ^ a b c d e 『読売新聞』1999年2月24日大阪夕刊第二社会面14面「女性4人殺害事件公判 H被告の責任能力認める 精神鑑定書提出/広島地裁」
  71. ^ a b 『読売新聞』1999年10月6日大阪夕刊第一社会面15面「女性4人殺害の元運転手に死刑求刑 検察側『凶悪犯行、影響大きい』 /広島地裁」
  72. ^ 『朝日新聞』1999年10月6日夕刊第二社会面14面「死刑を求刑 4女性殺害事件で広島地裁 【大阪】」
  73. ^ a b 『毎日新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面10面「H被告に死刑を求刑 5カ月間に4女性を殺害 広島地裁」(記者:高橋一隆)
  74. ^ 『毎日新聞』1999年10月6日中部夕刊社会面7面「広島4女性殺害被告に死刑求刑」
  75. ^ a b 『産経新聞』1999年10月6日大阪夕刊社会面「女性連続殺人 H被告に死刑求刑 広島地裁『残虐、凶悪な犯行』」
  76. ^ a b c d 『読売新聞』1999年11月10日大阪夕刊第二社会面14面「広島の女性4人殺害事件 弁護側、最終弁論で情状求める」
  77. ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』1999年11月11日朝刊広島県版27面「死刑希望の意思 4女性殺害公判、被告が陳述 広島地裁 /広島」
  78. ^ a b c d e f 『朝日新聞』2000年2月9日夕刊第二社会面18面「4女性殺害に死刑 被告自ら極刑希望 広島地裁判決 【大阪】」
  79. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 新潮45(2002)、p.306-308
  80. ^ a b c 『読売新聞』2000年2月9日大阪朝刊広西北版25面「4女性殺害のH被告 きょう地裁で判決=広島」
  81. ^ 『読売新聞』2000年2月9日東京夕刊第二社会面14面「女性4人殺害、元タクシー運転手に死刑判決 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁」
  82. ^ a b 『読売新聞』2000年2月9日大阪夕刊第一社会面19面「4女性殺害の元タクシー運転手に死刑 『冷酷非情、責任重い』 /広島地裁判決」
  83. ^ a b c d e f g 『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版19面「女性4人強殺に判決 遺族ら『死刑は当然』 H被告、神妙に=広島」
  84. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』2000年2月10日朝刊広島県版23面「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」
  85. ^ 『毎日新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面8面「広島市の4女性連続殺人、被告に死刑判決 広島地裁」
  86. ^ 『産経新聞』2000年2月9日大阪夕刊社会面「女性4人連続殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁 『巧妙、冷酷な犯行』」
  87. ^ 『産経新聞』2000年2月9日東京夕刊社会面「4女性殺害 元運転手に死刑判決 広島地裁『残虐極まりない』」
  88. ^ a b 『産経新聞』2000年2月10日大阪朝刊社会面「H被告、控訴せず 死刑判決確定へ」
  89. ^ 『読売新聞』2000年2月24日夕刊第一社会面13面「4女性殺害したH被告の死刑確定 控訴せず/広島地裁」
  90. ^ 『朝日新聞』2000年2月24日夕刊第二社会面12面「死刑判決が確定 広島の4女性殺害 【大阪】」
  91. ^ 『毎日新聞』2000年2月25日大阪朝刊社会面29面「広島・女性4人を殺害事件 死刑判決が確定 広島地裁」(記者:高橋一隆)
  92. ^ 『産経新聞』2000年2月24日大阪夕刊社会面「元運転手の死刑確定 広島の強盗殺人」
  93. ^ a b c d e 『朝日新聞』2007年8月3日朝刊広島県第一地方版22面「慰謝料求め国を提訴 弁護士、死刑囚への接見拒否され /広島県」(記者:秋山千佳)
  94. ^ a b c d 『毎日新聞』2007年8月3日朝刊地方版広島県版23面「接見拒否:違法、国に賠償求める 広島の弁護士提訴 /広島」(記者:大沢瑞季)
  95. ^ a b c 『産経新聞』2009年12月25日東京朝刊社会面「元死刑囚の接見拒否 弁護士へ賠償認めず」
  96. ^ a b 『読売新聞』2011年10月18日大阪朝刊広島県版29面「足立弁護士の敗訴が確定 元死刑囚接見拒否=広島」
  97. ^ 『朝日新聞』2011年10月13日朝刊広島県第一地方版33面「死刑囚との接見めぐり、弁護士の敗訴確定 /広島県」
  98. ^ a b c d e f g h i 『朝日新聞』1996年10月11日朝刊広島県版「連続殺人・国体・選挙で大忙し 署員たち『目が回る』/広島」
  99. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年10月12日朝刊広島県版「車内におわび文書 タクシー協会、連続殺人で緊急会議開く /広島」
  100. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1996年12月25日朝刊広島県版「マツダ・フォード提携 連続女性殺人事件(96取材現場から)/広島」「連続女性殺人事件の余波 同僚運転手ら迷惑、会社には嫌がらせ電話」(記者:樫山晃生)

関連項目