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喜納はこの曲の由来についてインタビューや自著で度々触れており、あっけらかんとした楽曲の背景にある[[沖縄戦]]の傷跡を生々しく語っている。この「おじさん」はかつて喜納家の隣人であったが、妻が精神に異常をきたして実の娘の首を切り落とし鍋で煮るという事件を起こしたために村八分同然の身となり、以前から交友のあった喜納家に酒を無心に来るようになったのだという。この孤独な「おじさん」との触れ合いの中で「おじさんに歌を作ってあげよう」と思い立った昌吉が生まれて初めて作詞作曲したのがこの「ハイサイおじさん」である<ref>[http://blog.hullz.net/?eid=984351 ハイサイおじさん | Nambo no Monya?]</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=喜納昌吉、C.ダグラス・ラミス |title=反戦平和の手帖 ―あなたしかできない新しいこと |publisher=[[集英社]] |series=集英社新書 |page={{要ページ番号|date=2017年6月}} |date=2006-03 |isbn=4-08-720334-4}}</ref>。
喜納はこの曲の由来についてインタビューや自著で度々触れており、あっけらかんとした楽曲の背景にある[[沖縄戦]]の傷跡を生々しく語っている。この「おじさん」はかつて喜納家の隣人であったが、妻が精神に異常をきたして実の娘の首を切り落とし鍋で煮るという事件を起こしたために村八分同然の身となり、以前から交友のあった喜納家に酒を無心に来るようになったのだという。この孤独な「おじさん」との触れ合いの中で「おじさんに歌を作ってあげよう」と思い立った昌吉が生まれて初めて作詞作曲したのがこの「ハイサイおじさん」である<ref>[http://blog.hullz.net/?eid=984351 ハイサイおじさん | Nambo no Monya?]</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=喜納昌吉、C.ダグラス・ラミス |title=反戦平和の手帖 ―あなたしかできない新しいこと |publisher=[[集英社]] |series=集英社新書 |page={{要ページ番号|date=2017年6月}} |date=2006-03 |isbn=4-08-720334-4}}</ref>。


NHJ Music Storeでは「ハイサイおじさんのモデルはもともと校長先生にまでなった優秀な人だったのだが、沖縄の戦乱の中でアル中になり狂ってしまった実在の人物である。そんな彼を、少年時代の昌吉は沖縄の伝統的共同体のやさしい眼差しで歌っている。」との解説がある<ref>NHJ Music Store/喜納昌吉&チャンプルーズのコメント{{出典無効|title=検証できません。|date=2017年6月}}</ref>{{出典無効|title=検証できません。|date=2017年6月}}。また、2011年7月9日付朝日新聞朝刊土曜版[[be (朝日新聞)|be]]の「うたの旅人」において、二面に渡ってハイサイおじさんの詳細が掲載されている<ref>[https://web.archive.org/web/20110708224309/http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201107070303.html 悲惨な事件が授けた曲 「ハイサイおじさん」](2011年7月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - asahi.com(朝日新聞社)</ref>が、こちらでは校長だったというのは虚言で、戦前は[[遊郭]]で働く馬子であったことや、妻の狂気の原因が、おじさんの酒量が増え、戦災でホームレスとなった女性たちを家に連れ込むようになったことにあったなど、細かい事情が説明されている。
NHJ Music Storeでは「ハイサイおじさんのモデルはもともと校長先生にまでなった優秀な人だったのだが、沖縄の戦乱の中でアル中になり狂ってしまった実在の人物である。そんな彼を、少年時代の昌吉は沖縄の伝統的共同体のやさしい眼差しで歌っている。」との解説がある<ref>NHJ Music Store/喜納昌吉&チャンプルーズのコメント{{出典無効|title=検証できません。|date=2017年6月}}</ref>{{出典無効|title=検証できません。|date=2017年6月}}。また、2011年7月9日付朝日新聞朝刊土曜版[[be (朝日新聞)|be]]の「うたの旅人」において、二面に渡ってハイサイおじさんの詳細が掲載されている<ref>[https://web.archive.org/web/20110708224309/http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201107070303.html 悲惨な事件が授けた曲 「ハイサイおじさん」](2011年7月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - asahi.com(朝日新聞社)</ref>が、こちらでは校長だったというのは虚言で、戦前は[[遊郭]]で働く馬子であったことや、妻の狂気の原因が、おじさんの酒量が増え、戦災でホームレスとなった女性たちを家に連れ込むようになったことにあったなど、細かい事情が説明されている。


== 全国的ヒットへ ==
== 全国的ヒットへ ==
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*沖縄県代表校の応援は本土の県人会を中心に行っているが、他に同県出身の教諭が指導している[[尼崎市立尼崎高等学校|市立尼崎高校]]の吹奏楽部も毎年友情参加している。沖縄県代表の応援に、学校を問わず「ハイサイおじさん」が必ず使われるのはこれが理由とされる。
*沖縄県代表校の応援は本土の県人会を中心に行っているが、他に同県出身の教諭が指導している[[尼崎市立尼崎高等学校|市立尼崎高校]]の吹奏楽部も毎年友情参加している。沖縄県代表の応援に、学校を問わず「ハイサイおじさん」が必ず使われるのはこれが理由とされる。
*沖縄県出身の元プロ野球選手である[[友利結|デニー友利]]が横浜時代、登場曲として使用したことがある。首脳陣から「あの曲は気が抜けたような感じがするから変えなさい」といった趣旨の指摘をたびたびされたが、自分の生まれ故郷に愛着を持つデニーは決して曲を変えなかった。
*沖縄県出身の元プロ野球選手である[[友利結|デニー友利]]が横浜時代、登場曲として使用したことがある。首脳陣から「あの曲は気が抜けたような感じがするから変えなさい」といった趣旨の指摘をたびたびされたが、自分の生まれ故郷に愛着を持つデニーは決して曲を変えなかった。
*2010年、「遊郭を遊び歩く酒飲みおじさんをからかう原曲の歌詞が、高校野球にそぐわない」という内容の投書が地元の[[沖縄タイムス]]紙に掲載されたことにより、第92回沖縄県代表校野球部OB会は使用自粛を決めた<ref>[https://web.archive.org/web/20100821011329/http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/news/20100819k0000m050017000c.html 夏の高校野球:応援歌ハイサイおじさん、歌詞巡り演奏激減](2010年8月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月18日 18時10分 毎日Jp(毎日新聞)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100822001240/http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100818/bbl1008181228003-n1.htm 【甲子園・夏】あの名曲…応援歌「ハイサイおじさん」が教育的指導で消された](2010年8月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010.8.18 12:27 産経ニュース</ref><ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-166495-storytopic-2.html アルプス、消えた「ハイサイおじさん」 夏の甲子園] - 2010年8月18日 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース</ref>。後日掲載された沖縄タイムスの記事によれば、その是非を議論しないまま使用を先送りしていたという<ref>[https://web.archive.org/web/20100824002213/http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-08-21_9478/ 帰ってきた「ハイサイおじさん」 自粛に演奏の要望殺到](2010年8月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月21日 沖縄タイムス</ref>。
*2010年、「遊郭を遊び歩く酒飲みおじさんをからかう原曲の歌詞が、高校野球にそぐわない」という内容の投書が地元の[[沖縄タイムス]]紙に掲載されたことにより、第92回沖縄県代表校野球部OB会は使用自粛を決めた<ref>[https://web.archive.org/web/20100821011329/http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/news/20100819k0000m050017000c.html 夏の高校野球:応援歌ハイサイおじさん、歌詞巡り演奏激減](2010年8月21日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月18日 18時10分 毎日Jp(毎日新聞)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100822001240/http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100818/bbl1008181228003-n1.htm 【甲子園・夏】あの名曲…応援歌「ハイサイおじさん」が教育的指導で消された](2010年8月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010.8.18 12:27 産経ニュース</ref><ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-166495-storytopic-2.html アルプス、消えた「ハイサイおじさん」 夏の甲子園] - 2010年8月18日 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース</ref>。後日掲載された沖縄タイムスの記事によれば、その是非を議論しないまま使用を先送りしていたという<ref>[https://web.archive.org/web/20100824002213/http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-08-21_9478/ 帰ってきた「ハイサイおじさん」 自粛に演奏の要望殺到](2010年8月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月21日 沖縄タイムス</ref>。
**沖縄県代表校OB会が決めた甲子園での使用自粛はごく短期間のみ実行された。数日後の8月20日、[[第92回全国高等学校野球選手権大会|2010年夏の甲子園]]準決勝([[興南中学校・高等学校|興南]]-[[報徳学園中学校・高等学校|報徳学園]])において市立尼崎高校吹奏楽部が五回表と七回表の興南の攻撃場面で演奏した。甲子園球場応援席は演奏に湧き、その様子はテレビ放送各局で広く報道された。報道は「ハイサイおじさん」演奏を肯定的に報じる傾向が趨勢を占めた<ref>[http://www.asahi.com/koshien/92/okinawa/news/SEB201008200041.html 適時打に響く「ハイサイおじさん」興南、春夏連覇に王手] 2010年08月21日 朝日新聞</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100823185315/http://www.sankei-kansai.com/2010/08/21/20100821-042712.php 興南逆転劇 後押し 「ハイサイおじさん」復活](2010年8月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月21日 産経関西</ref><ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-166623.html 応援やっぱりこれ ハイサイおじさん復活] 2010年8月21日 琉球新報</ref>。併せて、実際に吹奏楽部の演奏を指導した市立尼崎高校教諭は取材に対し経緯を語り、沖縄県代表である興南サイドに事前に演奏の予定を知らせ了解を得た上で演奏したものであったことが報じられた。なおこの大会では興南が自粛している間にも[[長崎日本大学高等学校|長崎日大]]が沖縄県出身選手の打席で「ハイサイおじさん」を演奏していた。
**沖縄県代表校OB会が決めた甲子園での使用自粛はごく短期間のみ実行された。数日後の8月20日、[[第92回全国高等学校野球選手権大会|2010年夏の甲子園]]準決勝([[興南中学校・高等学校|興南]]-[[報徳学園中学校・高等学校|報徳学園]])において市立尼崎高校吹奏楽部が五回表と七回表の興南の攻撃場面で演奏した。甲子園球場応援席は演奏に湧き、その様子はテレビ放送各局で広く報道された。報道は「ハイサイおじさん」演奏を肯定的に報じる傾向が趨勢を占めた<ref>[http://www.asahi.com/koshien/92/okinawa/news/SEB201008200041.html 適時打に響く「ハイサイおじさん」興南、春夏連覇に王手] 2010年08月21日 朝日新聞</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100823185315/http://www.sankei-kansai.com/2010/08/21/20100821-042712.php 興南逆転劇 後押し 「ハイサイおじさん」復活](2010年8月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 2010年8月21日 産経関西</ref><ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-166623.html 応援やっぱりこれ ハイサイおじさん復活] 2010年8月21日 琉球新報</ref>。併せて、実際に吹奏楽部の演奏を指導した市立尼崎高校教諭は取材に対し経緯を語り、沖縄県代表である興南サイドに事前に演奏の予定を知らせ了解を得た上で演奏したものであったことが報じられた。なおこの大会では興南が自粛している間にも[[長崎日本大学高等学校|長崎日大]]が沖縄県出身選手の打席で「ハイサイおじさん」を演奏していた。
**2014年秋には当時の優勝メンバーである我如古盛次・[[大城滉二]]が進学した[[立教大学硬式野球部]]でも応援曲として使用されていた。
**2014年秋には当時の優勝メンバーである我如古盛次・[[大城滉二]]が進学した[[立教大学硬式野球部]]でも応援曲として使用されていた。
**興南の次回出場は2015年の夏であったが、この際は「野球部員からのリクエストがない」という理由<ref>[https://twitter.com/AsahiBrass/status/631004144162050048 ♪吹奏楽コンクール♪(@AsahiBrass)] 朝日新聞CSR推進部公式吹奏楽アカウント</ref>により甲子園でハイサイおじさんが演奏されることはなかった。
**興南の次回出場は2015年の夏であったが、この際は「野球部員からのリクエストがない」という理由<ref>[https://twitter.com/AsahiBrass/status/631004144162050048 ♪吹奏楽コンクール♪(@AsahiBrass)] 朝日新聞CSR推進部公式吹奏楽アカウント</ref>により甲子園でハイサイおじさんが演奏されることはなかった。

2017年9月4日 (月) 23:01時点における版

ハイサイおじさん』は、沖縄県のミュージシャン「喜納昌吉&チャンプルーズ」の代表的な楽曲である。

概要

喜納昌吉のデビュー曲であり、喜納が中学生の時に創作された。歌詞は実体験を元にしている。「ハイサイ」とは沖縄の言葉で「こんにちは」の意。1976年に沖縄の地元レコード会社マルフクレコードから発売され、30万枚[1]の大ヒット。同年、ロックミュージシャンの久保田麻琴のアルバム『ハワイチャンプルー』でもカバーされた。

沖縄民謡のリズムや音階をベースにした非常に明るく踊りやすい楽曲であり、いわゆるウチナーポップの先駆者的な楽曲である。当初は「民謡ではない」との批判も多かったが、現在では創作民謡として定着し、カチャーシーの定番曲にも数えられる。 歌詞では、近所に住む「おじさん」(女性ヴォーカルが担当)と、そのおじさんに「ハイサイ、おじさん」から始まる挨拶で話しかける少年(喜納昌吉が担当)とのやりとりが明るくコミカルに描かれる。「おじさん」は、酒飲みで少年に屁理屈をこねる存在として描かれており、少年もまたおじさんの屁理屈に屁理屈で対抗するようなやりとりを見せる。このおじさんのモデルは実在の人物であり、彼に語りかける少年は昌吉自身であるとされる。

喜納はこの曲の由来についてインタビューや自著で度々触れており、あっけらかんとした楽曲の背景にある沖縄戦の傷跡を生々しく語っている。この「おじさん」はかつて喜納家の隣人であったが、妻が精神に異常をきたして実の娘の首を切り落とし鍋で煮るという事件を起こしたために村八分同然の身となり、以前から交友のあった喜納家に酒を無心に来るようになったのだという。この孤独な「おじさん」との触れ合いの中で「おじさんに歌を作ってあげよう」と思い立った昌吉が生まれて初めて作詞作曲したのがこの「ハイサイおじさん」である[2][3]

NHJ Music Storeでは「ハイサイおじさんのモデルはもともと校長先生にまでなった優秀な人だったのだが、沖縄の戦乱の中でアル中になり狂ってしまった実在の人物である。そんな彼を、少年時代の昌吉は沖縄の伝統的共同体のやさしい眼差しで歌っている。」との解説がある[4][出典無効]。また、2011年7月9日付朝日新聞朝刊土曜版beの「うたの旅人」において、二面に渡ってハイサイおじさんの詳細が掲載されている[5]が、こちらでは校長だったというのは虚言で、戦前は遊郭で働く馬子であったことや、妻の狂気の原因が、おじさんの酒量が増え、戦災でホームレスとなった女性たちを家に連れ込むようになったことにあったなど、細かい事情が説明されている。

全国的ヒットへ

沖縄県外ではまず関西圏でヒットした。1976年春、大阪のラジオパーソナリテイの中村鋭一が沖縄旅行中にこの曲を聴いて気に入り、キダ・タローのアレンジで吹き込んで発売(テイチクレコード A-95)。このレコードのB面には日本語対訳篇(中沢修一訳)が収録されており、適度に沖縄語を残しながら、本来の語呂の良さを崩さずに対訳する秀作であった。同年、喜納自身も中村鋭一の番組「おはようパーソナリティ中村鋭一です」に出演して、「ハイサイおじさん」他数曲を演奏した。この時はスローテンポのヴァージョンであった(ラジオだと、ビートたけしのオールナイトニッポンのエンディングにも流れていた。下述)。

全国的に知れ渡ったのは、1977年11月にアルバム『喜納昌吉とチャンプルーズ』収録の、沖縄民謡のテイストを残しつつもアップテンポのロック調にアレンジされたヴァージョンである。アルバム『喜納昌吉とチャンプルーズ』は全曲ライブ録音されている[注釈 1]。ライブ収録された場所は喜納が経営していた民謡クラブ「ミカド」だという。沖縄県発の全国区ヒット曲の走りともいえる。現在の沖縄県では新作の沖縄民謡として認知されている。

最初のレコードシングル盤は地元のマルフクレコードから出された(喜納昌吉と喜納チャンプルーズ名義)。その後メジャーデビューし、フィリップスレコードでも出された。マルフク盤とフィリップス盤の物はバージョンが違っており、マルフク盤はマルフクレコードが沖縄のローカルレーベルであるということもあって伝統的な沖縄民謡アレンジになっている。一方フィリップス盤は、先述したアルバム『喜納昌吉とチャンプルーズ』収録の沖縄民謡のテイストを残しつつもアップテンポのロック調にアレンジされたヴァージョンである。ジャケットにその頃ライブ音源を用いたシングル盤に記されていた「実況録音盤」とは記されてはいないが、アルバムと同じライブ音源を用いている。そのフィリップスから出されたメジャーシングル盤のジャケット画を描いたのは、赤塚不二夫である。なお、アルバム『喜納昌吉とチャンプルーズ』と同じイラスト(河村要助作)のジャケット違い盤も存在する。その後もリメイクバージョンが日本コロムビアからCDシングルで出されている。日本コロムビアは本作の最初のマルフクのシングル盤のレコードの製造元でもあり、シングル盤の袋も同社の物だった。

逸話

志村けんが「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ)の中で歌った「変なおじさん」は、この曲の替え歌として非常に有名。1992年には第二電電(現・KDDI)のCMでも替え歌のCMソングが流れていた。ニッポン放送のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』のエンディングテーマとしても使われていた。沖縄県のレゲエユニットU-DOU&PLATYが3枚目のアルバム『BUSS UP』でカバーしている。

現在では、那覇空港のターミナルビル内で、航空会社による搭乗便関係のアナウンスの際の効果音に利用されている。なお沖縄都市モノレール線の車内放送チャイムには使用されていない。

高校野球の沖縄県代表・応援歌として

日本の高校野球・沖縄県代表応援団ではチャンステーマ応援歌)として定着しており、カチャーシー(両手を頭上に掲げ、ひらひらと回しながら舞う沖縄舞踊の一種)を乱舞しながらこの曲を大合唱する姿は、高校野球ではすっかりおなじみの光景である。

エピソード

  • 沖縄県代表校の応援は本土の県人会を中心に行っているが、他に同県出身の教諭が指導している市立尼崎高校の吹奏楽部も毎年友情参加している。沖縄県代表の応援に、学校を問わず「ハイサイおじさん」が必ず使われるのはこれが理由とされる。
  • 沖縄県出身の元プロ野球選手であるデニー友利が横浜時代、登場曲として使用したことがある。首脳陣から「あの曲は気が抜けたような感じがするから変えなさい」といった趣旨の指摘をたびたびされたが、自分の生まれ故郷に愛着を持つデニーは決して曲を変えなかった。
  • 2010年、「遊郭を遊び歩く酒飲みおじさんをからかう原曲の歌詞が、高校野球にそぐわない」という内容の投書が地元の沖縄タイムス紙に掲載されたことにより、第92回沖縄県代表校野球部OB会は使用自粛を決めた[6][7][8]。後日掲載された沖縄タイムスの記事によれば、その是非を議論しないまま使用を先送りしていたという[9]
    • 沖縄県代表校OB会が決めた甲子園での使用自粛はごく短期間のみ実行された。数日後の8月20日、2010年夏の甲子園準決勝(興南-報徳学園)において市立尼崎高校吹奏楽部が五回表と七回表の興南の攻撃場面で演奏した。甲子園球場応援席は演奏に湧き、その様子はテレビ放送各局で広く報道された。報道は「ハイサイおじさん」演奏を肯定的に報じる傾向が趨勢を占めた[10][11][12]。併せて、実際に吹奏楽部の演奏を指導した市立尼崎高校教諭は取材に対し経緯を語り、沖縄県代表である興南サイドに事前に演奏の予定を知らせ了解を得た上で演奏したものであったことが報じられた。なおこの大会では興南が自粛している間にも長崎日大が沖縄県出身選手の打席で「ハイサイおじさん」を演奏していた。
    • 2014年秋には当時の優勝メンバーである我如古盛次・大城滉二が進学した立教大学硬式野球部でも応援曲として使用されていた。
    • 興南の次回出場は2015年の夏であったが、この際は「野球部員からのリクエストがない」という理由[13]により甲子園でハイサイおじさんが演奏されることはなかった。

脚注

注釈

  1. ^ 収録曲の内「小島ソング」のみ、スタジオ録音バージョンもあり、シングル「東京讃美歌」のB面に収録され、現在は「東京讃美歌」と共にCD化された『喜納昌吉とチャンプルーズ』に追加収録されて聴くことができる。

出典

  1. ^ 富澤一誠『フォーク名曲事典300曲〜「バラが咲いた」から「悪女」まで誕生秘話〜』ヤマハミュージックメディア、2007年、437頁。ISBN 978-4-636-82548-0
  2. ^ ハイサイおじさん | Nambo no Monya?
  3. ^ 喜納昌吉、C.ダグラス・ラミス『反戦平和の手帖 ―あなたしかできない新しいこと』集英社〈集英社新書〉、2006年3月、[要ページ番号]頁。ISBN 4-08-720334-4 
  4. ^ NHJ Music Store/喜納昌吉&チャンプルーズのコメント[出典無効]
  5. ^ 悲惨な事件が授けた曲 「ハイサイおじさん」(2011年7月8日時点のアーカイブ) - asahi.com(朝日新聞社)
  6. ^ 夏の高校野球:応援歌ハイサイおじさん、歌詞巡り演奏激減(2010年8月21日時点のアーカイブ) - 2010年8月18日 18時10分 毎日Jp(毎日新聞)
  7. ^ 【甲子園・夏】あの名曲…応援歌「ハイサイおじさん」が教育的指導で消された(2010年8月22日時点のアーカイブ) - 2010.8.18 12:27 産経ニュース
  8. ^ アルプス、消えた「ハイサイおじさん」 夏の甲子園 - 2010年8月18日 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
  9. ^ 帰ってきた「ハイサイおじさん」 自粛に演奏の要望殺到(2010年8月24日時点のアーカイブ) - 2010年8月21日 沖縄タイムス
  10. ^ 適時打に響く「ハイサイおじさん」興南、春夏連覇に王手 2010年08月21日 朝日新聞
  11. ^ 興南逆転劇 後押し 「ハイサイおじさん」復活(2010年8月23日時点のアーカイブ) - 2010年8月21日 産経関西
  12. ^ 応援やっぱりこれ ハイサイおじさん復活 2010年8月21日 琉球新報
  13. ^ ♪吹奏楽コンクール♪(@AsahiBrass) 朝日新聞CSR推進部公式吹奏楽アカウント