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== 親族 ==
== 親族 ==
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2017年9月4日 (月) 22:44時点における版

幣原坦

幣原 坦(しではら たいら、1870年10月12日明治3年9月18日) - 1953年昭和28年)6月29日)は、日本東洋史学者教育行政官。幼名・徳治郎(とくじろう)。名前の「坦」は「たん」と読まれることもある。

本職は朝鮮史を専攻する歴史家だが、戦前の植民地行政・植民地教育を推進した官僚、教育者としても知られている。

来歴・人物

大阪府北河内郡門真村(現・大阪府門真市)の旧家である幣原家の長男として生まれる[1]。父・新治郎は市川家に生まれ幣原家の婿養子となっている[1]。坦の次弟は後に外交官政治家として活動した幣原喜重郎である[2]

1893年(明治26年)東京帝国大学文科大学国史学科卒業[1]。鹿児島造士館教授[1]山梨県尋常中学校長[1]、東京高等師範学校教授[1]韓国学部学政参与官[1]文部省視学官[1]、東京帝国大学教授を歴任した後1913年(大正2年)広島高等師範学校長となった[1]。文部省図書局長も務めている[1]

1910年(明治43年)欧米諸国にゆき[1]、教育制度の考察をした。この時期で西洋教育の認識を深め、後の台北帝国大学の設立に大きい影響を与えた。1923年「台湾の学術の価値」という学術論文を発表。1924年再び欧米で文化史を研究した[1]

親友伊澤多喜男の誘いで、台湾にゆき、台北帝国大学の創設に努力し、1928年(昭和3年)同大学初代総長に就任[1]。彼の念願のひとつは、台北帝国大学は少なくとも3つの学部を所有し、総合型大学の条件に満たすことであった。太平洋戦争の勃発後の1942年(昭和17年)興南錬成院大東亜錬成院[注 1]の初代院長になる。敗戦後の1946年(昭和21年)枢密顧問官に就任。

1953年(昭和28年)6月29日に大阪で病没。墓所は門真市御堂町の願得寺。法名は従容院釈信誓。

栄典

親族

次女・澄江は農芸化学者古在由直の長男・由正と結婚した[1][4][5]天文学者古在由秀は由正・澄江夫妻の長男であり[4][6][7]、坦にとっては孫にあたる[4][6][7][8]

次弟の喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の四女であるから[9][10]、幣原家は古在家及び三菱の創業者一族・岩崎家と縁続きになっているといえる[2]。また、喜重郎・雅子夫妻の長男で坦にとっては甥にあたる道太郎は獨協大学教授を務めた国文学者である[2][9]

弁護士で第二東京弁護士会元副会長の幣原廣は坦の長男の顕の子で、坦にとっては孫にあたる。弁護士会の委員会活動に積極的で、極めて多数の委員会に所属しているため、多重債務者にひっかけて、「多重会務者」などと呼ばれている。

著書

  • 『南島沿革誌論』冨山房、1899年[注 2]
  • 『日露間之韓国』博文館、1905年
  • 『韓国政争史』三省堂、1907年
  • 『学校論』同文館、1909年
  • 『世界小観』宝文館、1912年
  • 『植民地教育』同文館、1912年
  • 『満洲観』宝文館、1916年
  • 『朝鮮教育論』六盟館、1919年
  • 『朝鮮史話』冨山房、1924年
  • 『世界の変遷を見る』冨山房、1926年
  • 『南方文化の建設へ』冨山房、1938年
  • 『大東亜の成育』東洋経済新報社、1941年
  • 『興亜の修養』明世堂書店、1941年
  • 『極東文化の交流』関書院、1949年
  • 『文化の建設 幣原坦六十年回想記』吉川弘文館、1953年

脚注

注釈

  1. ^ 日本軍の南方占領地の官吏養成期間として設置されたもの。
  2. ^ 帝大を卒業した坦が沖縄研究で史料探訪した際の成果をまとめたもの。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年(昭和6年)6月23日発行、シ22頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第9版』、シ21-シ22頁。
  3. ^ 『官報』第1890号「叙任及辞令」1933年4月21日。
  4. ^ a b c 『人事興信録 第9版』、コ73頁。
  5. ^ 『昭和人名事典 第4巻』、台湾 32頁。
  6. ^ a b 新・未知への群像 古在由秀氏 1 - インターネットアーカイブ内のページ
  7. ^ a b 新・未知への群像 古在由秀氏 2 - インターネット・アーカイブ内のページ
  8. ^ 『日本紳士録』、こ 436頁。
  9. ^ a b 『日本の上流社会と閨閥』、56-57頁。
  10. ^ 『門閥』 262-263頁。

参考文献