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[[2010年]]、『ミュージック・マガジン』12月号で、株式会社ミュージック・マガジンの会長職を辞したことが発表された。 |
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2011年7月21日、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。79歳没。警視庁立川署は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったとみている<ref>{{Cite news |title=音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]([[インターネット |
2011年7月21日、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。79歳没。警視庁立川署は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったとみている<ref>{{Cite news |title=音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か |newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ) |date=2011-07-22 |author= |url=http://web.archive.org/web/20140117123649/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/07/22/kiji/K20110722001258760.html?feature=related |accessdate=2014-01-17}}</ref>。没後に発刊された『ミュージック・マガジン』9月号では、遺書と共に執筆された「とうようズ・トーク」の最終回全文がそのまま掲載され、読者へ向けての最期の挨拶となった。<br> |
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[[湯川れい子]]ら知人たちへ宛てた遺書には「まだまだやらなければならないことがたくさんあるのに、時間がかかりすぎるのにうんざりした」ことが自死の動機だと述べられる一方、「とうようズ・トーク」では年を取っても他人の世話にはなりたくないとして「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません」と書かれていた。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
2017年9月4日 (月) 21:33時点における版
中村 とうよう(なかむら とうよう、本名:中村 東洋、1932年7月17日 - 2011年7月21日)は、日本の音楽評論家、編集者。株式会社ミュージック・マガジンの元・取締役会長、代表取締役。「中村とうよう事務所」代表。武蔵野美術大学客員研究員。
ジャズ、ロック、フォークなどのポピュラー・ミュージックから、ワールド・ミュージック、国内・海外のルーツ・ミュージックまで、幅広く守備範囲とする評論家であり、また、多数のレコード、CDの企画・紹介を行っていた。
来歴
京都府峰山町(現京丹後市)生まれ。旧制宮津中学・新制宮津高等学校を経て、峰山高等学校卒業。京都大学経済学部卒業。大学時代に音楽に目覚め、ラジオ番組から、ポピュラー、ジャズ、シャンソン、タンゴなど、様々なポップ・ミュージックを吸収する。
1956年、日本信託銀行に入社して上京。在職中の1957年にカリプソの紹介記事を『ミュージック・ライフ』誌に投稿して、評論家デビュー。
1960年に銀行を退社し、フリーの音楽評論家となる。『スイングジャーナル』のレコード評をレギュラーで担当。当初はラテン音楽を専門としたが、アメリカで勃興したフォーク・ソングに注目して紹介活動を行う。
1965年からは、フォーク・ソングに力を入れていた「大阪労音」の活動にアドバイザー的にかかわる。そこで知り合った、飯塚晃東、田川律らと1969年4月に雑誌『ニュー・ミュージックマガジン』を編集長として創刊(1989年まで編集長)。創刊時の編集者としては他に、小倉エージ、北中正和らもいた。
『ニュー・ミュージックマガジン』は1970年から1972年には日本語ロック論争の舞台となる。また、1974年から「ブルース・フェスティバル」を主催。
1980年、『ニュー・ミュージック・マガジン』は『ミュージック・マガジン』に誌名を変更し、特にワールド・ミュージックに力をいれて紹介する雑誌として継続。中村もそれに並行して音楽評論活動を行った。
1982年、『レコード・コレクターズ』を創刊。
他にNHK、TBS、ニッポン放送などでラジオのディスクジョッキーを担当。また、東京芸術大学ほかで非常勤講師をつとめた。また、自身のレーベル「オーディブック」を主催し、CDブックの形態で世界のポピュラー・ミュージックを紹介。また、その他にも芸能山城組、松岡直也等、多数のレコード、CD等のプロデュースを行っていた。
2005年、趣味である、音楽関係を中心としたさまざまなジャンルの骨董収集コレクションの内容を本にまとめ、『中村とうようの収集百珍』として刊行した。2009年、『ミュージック・マガジン1月号』では、「アルバム・レヴュー」の「ワールド・ミュージック」のレヴュワー陣からの降板を発表した。これにより同誌ではコラム「とうようズ・トーク」のみを担当することになった。これは自身の死後を考え、サブカルチャーに理解の深い武蔵野美術大学にレコード、楽器、書籍などの音楽関係の資料をすべて寄贈することになり、その膨大な作業を進めるためであると、同号の「とうようズ・トーク」で説明されている。また、2008年10月に同校の客員研究員となったことも発表された。
2010年、『ミュージック・マガジン』12月号で、株式会社ミュージック・マガジンの会長職を辞したことが発表された。
2011年7月21日、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。79歳没。警視庁立川署は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったとみている[1]。没後に発刊された『ミュージック・マガジン』9月号では、遺書と共に執筆された「とうようズ・トーク」の最終回全文がそのまま掲載され、読者へ向けての最期の挨拶となった。
湯川れい子ら知人たちへ宛てた遺書には「まだまだやらなければならないことがたくさんあるのに、時間がかかりすぎるのにうんざりした」ことが自死の動機だと述べられる一方、「とうようズ・トーク」では年を取っても他人の世話にはなりたくないとして「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません」と書かれていた。
生前の意思により葬儀は行われず、複数の「お別れ会」が行われた。特に9月28日の「お別れ会」では石坂敬一が発起人となり、約230人が参加した[2]。
著書
単著
- 『ラテン音楽入門』 音楽之友社 1962年[3]
- 『ポピュラー専科 軽音楽をたのしむ本』 実業之日本社 1966年[4]
- 『フォーク・ソングのすべて : バラッドからプロテスト・ソングまで』 東亜音楽社〈TAO Popular Library〉 1966年[5]
- 『フォークからロックへ』 主婦と生活社〈ロック・ミュージック・ライブラリー〉 1971年[6]
- 『ブルースの世界』 主婦と生活社 1972年
- 『ロック音楽事典』 主婦と生活社 1971年
- 『地球のでこぼこ とうようズ・バラード』 話の特集 1978年7月
- 『ブラック・ミュージックとしてのジャズ』 ニューミュージック・マガジン 1978年12月
- 『大衆音楽の真実』 ミュージック・マガジン 1986年1月
- 『アイウエ音楽館』 筑摩書房〈ちくまプリマーブックス〉 1988年6月
- 『地球のでこぼこII とうようズ・ブルース』 話の特集 1989年6月
- 『地球が回る音』 筑摩書房 1991年9月
- 『俗楽礼賛』 北沢図書出版 1995年8月
- 『アメリカン・ミュージック再発見』 北沢図書出版 1996年11月
- 『ロックが熱かったころ』 ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉 1999年9月
- 『大衆音楽としてのジャズ』 ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉 1999年10月
- 『ニッポンに歌が流れる』 ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉 1999年11月
- 『雑音だらけのラヴソング 1970年代篇』 ミュージック・マガジン 1999年4月
- 『雑音だらけのラヴソング 1980年代前篇』 ミュージック・マガジン 1999年4月
- 『雑音だらけのラヴソング 1980年代後篇』 ミュージック・マガジン 1999年5月
- 『ポピュラー音楽の世紀』 岩波書店〈岩波新書〉 1999年9月
- 『雑音だらけのラヴソング 1990年代篇』 ミュージック・マガジン 2001年12月
- 『中村とうようの収集百珍』 ミュージック・マガジン 2005年7月
共編著
- 男のサウンド149の戦略 精神的おしゃれ学入門 野口久光共著 KKロングセラーズ 1974年
- 音楽をどう生きるか 内田裕也対談集 中村編 創樹社 1974年
- 色川武大・阿佐田哲也の特集 話の特集・別冊(矢崎泰久、大滝譲司、和田誠共編) 話の特集 1989年7月
- 私の愛した音楽・映画・舞台 野口久光著 中村編 ミュージック・マガジン 1995
訳書
- ロックへの視点 カール・ベルツ 三井徹共訳 音楽之友社, 1972年
- ナイルの流れのように ハムザ・エルディーン 筑摩書房, 1990年4月
- 非西欧世界のポピュラー音楽 ピーター・マニュエル ミュージックマガジン 1992年6月
- ポピュラー音楽の基礎理論 ピーター・ファン=デル=マーヴェ ミュージック・マガジン 1999年6月
CDプロデュース
- ブラスは世界を結ぶ 19-21ユニバーサル・バンド 1991年
- マレイシアの花 サローマ 1992年
- マレイシアの伝説 P.ラムリー 1992年
- 遊びをせんとや生まれけん〜梁塵秘抄の世界 桃山晴衣 1992年
- 幻の庶民芸 豊年斎梅坊主 1992年
- 萬歳の至芸 砂川捨丸 1992年
- 天才的話芸 ミスワカナ, 玉松一郎 1994年
- 説教節 若松若太夫(初代) 1994年
- 至福のインド声楽 M.S.スブラクシュミ 1995年
- サンバ黄金期の栄光 カルメン・ミランダ 1995年
- ブラック・ポップの先駆 ネリー・ラッチャー 1995年
- 上海歌謡の名花 周璇(チョウ・シュアン) 1995年
- 激情のカンテ・フラメンコ ニーニャ・デ・ロス・ペイネス 1995年
- シフサーファ 中東のニュー・ミュージック 1995年
- 自由の歌を 南アフリカ 黒人音楽の鼓動 1995年
- ビバ・サルサ! 1995年
- 再発見・ニッポンの音(1)〜(10) 1995年
- 永遠の歌声 テレサ・テン(1)〜(3) テレサ・テン 1995年
- ベスト&ベスト テレサ・テン 1996年
- オリジナル・ロード・トゥ・ダンドゥット 1996年
- ゴスペルの王者 ディクシー・ハミングバーズ 1939-1976 ディクシー・ハミングバーズ 1998年
- キューバ音楽の真実 2002年
- カリビアン・ミュージック・ルーツ 2002年
- 歌の国プエルトリコ〜エルナンデスとフローレスの世界 ラファエル・エルナンデス, ペドロ・フローレス 2002年
- アフロ・キューバンの魔術師 ミゲリート・バルデース 2003年
- ゴスペル・トレイン・イズ・カミング 2004年
- ゴスペルの神髄 ブラインド・ボーイズ・オヴ・ミシシッピ 2004年
- バーバーショップからヒップホップまで アメリカン・コーラスの歴史 2004年
- ブラック・ミュージックの伝統 ジャズ、ジャイヴ&ジャンプ篇 2004年
- ブラック・ミュージックの伝統 ブルース、ブギ&ビート篇 2004年
- 海上の道〜トリビュート・トゥ・アフロカリビアン・リズムス ウィリー・ナガサキ&アフロ・ジャパニーズ・オールスターズ 2004年
- アメリカン・ミュージックの原点 2005年
- 弾き詠み草 桃山晴衣 2005年
他多数
参考資料
脚注
- ^ “音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か”. Sponichi Annex(インターネットアーカイブのキャッシュ). (2011年7月22日) 2014年1月17日閲覧。
- ^ “中村とうようさん お別れ会”. 東京新聞(インターネットアーカイブのキャッシュ). (2011年10月6日) 2016年12月24日閲覧。
- ^ 中村東洋名義。
- ^ 中村東洋名義。
- ^ 中村東洋名義。
- ^ 中村東洋名義。