「トーマス・オマリー」の版間の差分
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{{by|2004年}}、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、[[ライブドアベースボール]]の監督就任を要請され受諾したが、同球団の[[日本プロフェッショナル野球組織]]への参入が無くなったため白紙に。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、[[シェーン・スペンサー]]、[[ルー・フォード]]、[[ケビン・メンチ]]と獲得に携わった外国人選手がスペンサー以外は結果を残せなかった(そのスペンサーもあくまで及第点レベル)。そのため、{{by|2009年}}11月、阪神との契約を解除された。<ref group="注">早くから、オマリーのスカウティング能力には疑問の声があがっていた。実際に岡田が監督を務めていた2005年オフには契約解除が内定しながらもオマリーへの通告が行われず、翌春キャンプに来日。結果的に契約が延長されるという事態となった。</ref> |
{{by|2004年}}、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、[[ライブドアベースボール]]の監督就任を要請され受諾したが、同球団の[[日本プロフェッショナル野球組織]]への参入が無くなったため白紙に。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、[[シェーン・スペンサー]]、[[ルー・フォード]]、[[ケビン・メンチ]]と獲得に携わった外国人選手がスペンサー以外は結果を残せなかった(そのスペンサーもあくまで及第点レベル)。そのため、{{by|2009年}}11月、阪神との契約を解除された。<ref group="注">早くから、オマリーのスカウティング能力には疑問の声があがっていた。実際に岡田が監督を務めていた2005年オフには契約解除が内定しながらもオマリーへの通告が行われず、翌春キャンプに来日。結果的に契約が延長されるという事態となった。</ref> |
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阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人[[アーン・テレム]]の事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた<ref>[http://web.archive.org/web/20100517013719/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100514/bbl1005141153000-n2.htm オマリー氏、虎視眈々 日本人メジャーリーガー発掘を目指す - スポーツ - ZAKZAK(2010年5月14日付)](2010年5月17日時点の[[インターネット |
阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人[[アーン・テレム]]の事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた<ref>[http://web.archive.org/web/20100517013719/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100514/bbl1005141153000-n2.htm オマリー氏、虎視眈々 日本人メジャーリーガー発掘を目指す - スポーツ - ZAKZAK(2010年5月14日付)](2010年5月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 |
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{{by|2013年}}10月に、阪神の一軍打撃コーチ補佐として、9年振りに現場へ復帰した<ref>[http://web.archive.org/web/20131023060058/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131018-00000037-sanspo-base オマリー氏、虎1軍打撃C就任決定!掛布氏とビシバシ地獄キャンプ](2013年10月23日時点の[[インターネット |
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== 選手としての特徴 == |
== 選手としての特徴 == |
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:[[ポリスター|ポリスターレコード]]から発売され6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「[[阪神タイガースの歌|六甲おろし]]」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、[[ラジオ番組]]「[[コサキンDEワァオ!]]」でも取り上げられた。1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が[[英語]]である。 |
:[[ポリスター|ポリスターレコード]]から発売され6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「[[阪神タイガースの歌|六甲おろし]]」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、[[ラジオ番組]]「[[コサキンDEワァオ!]]」でも取り上げられた。1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が[[英語]]である。 |
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:また、引退後には先述の[[テレビ番組]]「LOVE LOVEあいしてる」にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。後日、[[吉田拓郎]]はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。 |
:また、引退後には先述の[[テレビ番組]]「LOVE LOVEあいしてる」にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。後日、[[吉田拓郎]]はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。 |
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:2012年1月9日に[[NHK-FM放送|NHK-FM]]で10時間にわたって放送された「[[今日は一日○○三昧|セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧]]」でも紹介され、MVS(最優秀ソング)に選ばれた<ref>[http://web.archive.org/web/20120508235635/http://www.nhk.or.jp/zanmai/program/program_past/20120109yakyu/index.html セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧](2012年5月8日時点の[[インターネット |
:2012年1月9日に[[NHK-FM放送|NHK-FM]]で10時間にわたって放送された「[[今日は一日○○三昧|セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧]]」でも紹介され、MVS(最優秀ソング)に選ばれた<ref>[http://web.archive.org/web/20120508235635/http://www.nhk.or.jp/zanmai/program/program_past/20120109yakyu/index.html セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧](2012年5月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 |
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:2014年9月10日にデジタルリマスター復刻盤がリリースされた。 |
:2014年9月10日にデジタルリマスター復刻盤がリリースされた。 |
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2017年9月4日 (月) 15:03時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニュージャージー州 |
生年月日 | 1960年12月25日(63歳) |
身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 195 lb =約88.5 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 一塁手、三塁手 |
プロ入り | 1979年 MLBドラフト16巡目 |
初出場 |
MLB / 1982年5月8日 NPB / 1991年4月6日 |
最終出場 |
MLB / 1990年10月3日 NPB / 1996年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
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トーマス・パトリック・オマリー(英: Thomas Patrick O'Malley, 1960年12月25日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、監督、コーチ。アメリカ球界での登録名はトム・オマリー (Tom O'Malley)。アイルランド系アメリカ人である。
経歴
MLB時代
1982年5月8日にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たし、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後、シカゴ・ホワイトソックス - ボルチモア・オリオールズ - テキサス・レンジャーズ - モントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ) - ニューヨーク・メッツと複数の球団を渡り歩くも、1983年のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。
阪神時代
1991年に阪神タイガースに入団し、来日。初の春季キャンプでは川上哲治から『今年の外国人選手では一番すばらしい』と評価される。
ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていた。これはアメリカ時代[注 1]のシャツをそのまま愛用していたためである。また、ベンチで帽子を前後逆に被る、メジャーリーグにある『逆転のおまじない』をベンチに持ち込んだ。翌1992年から亀山努らナインがオマリーに倣って帽子を逆にする姿が恒例となった。
1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックが阪神に入団する。このパチョレックとのコンビで、新庄剛志、亀山努ら若手選手と共に低迷していた阪神の2位躍進に貢献。同年はパチョレックの入団に伴い三塁に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得した。
1993年は、オールスターゲーム第2戦でMVPを獲得した。ヒーローインタビューの時の『ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番やー!)』を決まり文句とした。また、オマリーと共に在籍した外国人選手のパチョレック(同年退団)と郭李建夫が好調の時、当時の日本野球機構の規定では外国人選手が2人までしか出場できないことから、3人の姓の頭文字をとり『(阪神)PKO問題』と報じられていた[注 2]。
さらに同年は、首位打者のタイトルを獲得した。タイトル争いに際しては、横浜のロバート・ローズと最終戦まで競り合い、執念を見せた。10月20日終了時点で、ローズは2試合残して480打数157安打で打率.3271、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率.3264であり、10月21日に阪神が全日程を終了し、10月22日にダブルヘッダーで横浜が全日程を終了する予定だった。オマリーは最終戦、1打席目にヒットを放って打率.3279とローズを逆転したが、試合の日程上再逆転の可能性もあったため、ベンチに退かずに第2打席も登場して意表を突くセーフティバントを決めて打率を.3294に伸ばしてベンチに退いた。翌日、横浜は最終ダブルヘッダーを迎え、1試合目にローズは4打数1安打で打率を.3264に下げ、2試合目は再逆転を狙って1番打者で登場するも、2打席凡退して再逆転がほぼ不可能になって(残り3打席連続安打でも.3292で逆転不可能)ベンチに退いたため、オマリーが首位打者を獲得した。
しかし、助っ人としては本塁打が少ないことで球団の方針から外れ、1994年オフに自由契約となった。オマリー自身も、オールスターゲームで当時巨人監督の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールするなど、阪神のフロントに不信感を募らせていた。
阪神時代は神戸の自宅に当時100万円相当のFAX機器を設置し、アメリカに住む両親と毎日のように連絡を取り合っていた[2]。
ヤクルト時代
1995年、オリックス・ブルーウェーブとの争奪戦の結果、ヤクルトスワローズに入団。同年は打率.302、打点87を記録、自己最多の31本の本塁打を放ちチームのセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。ヒーローインタビューの決め台詞も「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!(ヤクルトファンの応援ください)」に変わった。
オリックスとの日本シリーズでもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献。この時の小林宏投手との14球にわたる対戦は、「小林-オマリーの14球」として同年日本シリーズの名場面として語り継がれている。同年のシーズンMVPを獲得。日本プロ野球史上外国人選手としては初(2015年シーズン終了時現在で唯一)の、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターゲームの3つでMVPを獲得した選手となった。
1996年、外国人選手初の6年連続打率3割を達成しキャリアハイの打点を記録したが、同年オフに監督の野村克也が巨人を退団した落合博満の獲得を強く望んだため(落合の入団は日本ハムファイターズとの争奪戦に敗れて実現せず)、契約上の問題が生じたとしてこの年限りでヤクルトを退団した。その後西武ライオンズが獲得調査との報道があったが実現せず、テキサス・レンジャーズに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されそのまま現役を引退。
現役引退後
1998年から2001年までアメリカ独立リーグのニューアーク・ベアーズ初代監督を務めた。
2001年、阪神春季キャンプにヤクルト時代の監督でもあった野村を表敬訪問。その際に外国人選手へのアドバイスが高く評価されて翌年の阪神コーチ就任が濃厚となるが、野村の退団に伴い白紙に。しかし、その際の口約束のためにベアーズ監督を辞任していたことから、翌2002年の春季キャンプの臨時打撃コーチとして阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が監督の星野仙一にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中もチームに帯同した。2002年から2003年までの特命コーチ時代はジョージ・アリアス、トレイ・ムーア、ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガンらを指導するなど外国人選手の支えとなり、2003年のリーグ優勝に貢献した。岡田彰布の監督就任によりコーチを退任。
2004年、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、ライブドアベースボールの監督就任を要請され受諾したが、同球団の日本プロフェッショナル野球組織への参入が無くなったため白紙に。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、シェーン・スペンサー、ルー・フォード、ケビン・メンチと獲得に携わった外国人選手がスペンサー以外は結果を残せなかった(そのスペンサーもあくまで及第点レベル)。そのため、2009年11月、阪神との契約を解除された。[注 3]
阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人アーン・テレムの事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた[3]。
2013年10月に、阪神の一軍打撃コーチ補佐として、9年振りに現場へ復帰した[4]。ただし、2015年までは、コーチ枠の関係でユニフォームは着用せず、トレーナーとしてジャージを着用してベンチ入りをしていた。2016年はチーム打率・安打最下位、得点・本塁打は五位に終わった[5]。同年10月27日に今季限りのコーチ契約であることを伝えられた[6]。
選手としての特徴
非常に選球眼が優れ、また投手の配球を読むことに長けた選手で、外国人選手初の6年連続打率3割を達成するなど、打撃面では安定した好成績を残した。しかし、守備中にバントシフトをとらないなど怠慢な姿勢も見られた。長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた(長嶋のように、スイングを行った際メットが飛ぶようにするため)。また、よくガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | SF | 92 | 327 | 291 | 26 | 80 | 12 | 4 | 2 | 106 | 27 | 0 | 3 | 1 | 1 | 33 | 9 | 1 | 39 | 11 | .275 | .350 | .364 | .714 |
1983 | 135 | 473 | 410 | 40 | 106 | 16 | 1 | 5 | 139 | 45 | 2 | 4 | 4 | 3 | 52 | 4 | 4 | 47 | 12 | .259 | .345 | .339 | .684 | |
1984 | 13 | 27 | 25 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | .120 | .185 | .120 | .305 | |
CHW | 12 | 16 | 16 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | .125 | .125 | .125 | .250 | |
'84計 | 25 | 43 | 41 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | .122 | .163 | .122 | .285 | |
1985 | BAL | 8 | 14 | 14 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .071 | .071 | .286 | .357 |
1986 | 56 | 200 | 181 | 19 | 46 | 9 | 0 | 1 | 58 | 18 | 0 | 1 | 1 | 1 | 17 | 1 | 0 | 21 | 4 | .254 | .317 | .320 | .637 | |
1987 | TEX | 45 | 134 | 117 | 10 | 32 | 8 | 0 | 1 | 43 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15 | 1 | 0 | 9 | 7 | .274 | .351 | .368 | .718 |
1988 | MON | 14 | 31 | 27 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | .259 | .323 | .259 | .582 |
1989 | NYM | 9 | 11 | 11 | 2 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .545 | .545 | .727 | 1.273 |
1990 | 82 | 133 | 121 | 14 | 27 | 7 | 0 | 3 | 43 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 20 | 1 | .223 | .286 | .355 | .641 | |
1991 | 阪神 | 130 | 537 | 476 | 61 | 146 | 29 | 0 | 21 | 238 | 81 | 0 | 1 | 0 | 2 | 57 | 1 | 2 | 83 | 10 | .307 | .382 | .500 | .882 |
1992 | 111 | 478 | 381 | 55 | 124 | 30 | 2 | 15 | 203 | 62 | 3 | 1 | 0 | 1 | 94 | 7 | 2 | 70 | 8 | .325 | .460 | .533 | .993 | |
1993 | 125 | 515 | 434 | 60 | 143 | 32 | 1 | 23 | 246 | 87 | 1 | 1 | 0 | 4 | 75 | 10 | 2 | 71 | 10 | .329 | .427 | .567 | .994 | |
1994 | 124 | 524 | 430 | 61 | 135 | 18 | 2 | 15 | 202 | 74 | 2 | 1 | 0 | 4 | 89 | 17 | 1 | 74 | 15 | .314 | .429 | .470 | .899 | |
1995 | ヤクルト | 125 | 524 | 421 | 83 | 127 | 20 | 0 | 31 | 240 | 87 | 6 | 6 | 0 | 5 | 96 | 23 | 2 | 57 | 8 | .302 | .429 | .570 | .999 |
1996 | 127 | 541 | 461 | 56 | 145 | 23 | 0 | 18 | 222 | 97 | 3 | 4 | 0 | 5 | 74 | 8 | 1 | 70 | 19 | .315 | .407 | .482 | .888 | |
MLB:9年 | 466 | 1366 | 1213 | 117 | 310 | 54 | 5 | 13 | 413 | 131 | 2 | 8 | 6 | 9 | 133 | 17 | 5 | 151 | 37 | .256 | .329 | .340 | .670 | |
NPB:6年 | 742 | 3119 | 2603 | 376 | 820 | 152 | 5 | 123 | 1351 | 488 | 15 | 14 | 0 | 21 | 485 | 66 | 10 | 425 | 70 | .315 | .422 | .519 | .941 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- アメリカ独立リーグ
年度 | チーム | 前・後期 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | ニューアーク・ベアーズ | 前期 | 50 | 18 | 32 | 0 | .360 | 5位 |
後期 | 50 | 17 | 33 | 0 | .340 | 6位 | ||
1999 | 前期 | 59 | 24 | 35 | 0 | .406 | 5位 | |
後期 | 60 | 31 | 29 | 0 | .516 | 3位 | ||
2000 | 前期 | 70 | 38 | 32 | 0 | .542 | 3位 | |
後期 | 70 | 36 | 34 | 0 | .514 | 4位 | ||
2001 | 前期 | 63 | 38 | 25 | 0 | .603 | 1位 | |
後期 | 63 | 37 | 26 | 0 | .587 | 2位 |
- 2001年はプレーオフ進出。初戦はナシュア・プライドを2勝1敗で破るも、決勝ではサマセット・パトリオッツに2勝3敗で敗退。
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- MVP:1回 (1995年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
- ベストナイン:1回 (1995年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1993年 第2戦)
- 日本シリーズMVP:1回 (1995年)
- 月間MVP:3回 (1994年5月、1995年4月、1995年8月)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1995年)
記録
- NPB初記録
- NPB節目の記録
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1993年、1994年、1996年)
背番号
- 35 (1982年 - 1984年途中)
- 26 (1984年途中 - 同年終了)
- 17 (1985年 - 1986年)
- 41 (1987年)
- 23 (1988年)
- 27 (1989年 - 1990年)
- 1 (1991年 - 1994年)
- 3 (1995年 - 1996年)
- 89 (2002年 - 2003年)
- 80 (2014年 - 2016年)
関連情報
出演番組
- 1993年・1994年に、CM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
- 選手引退後の1997年10月18日に出演(上岡龍太郎がゲストの回)。歌のコーナーで登場し、後述する阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」を歌唱した。
広告出演
- 阪神特命コーチ及び駐米スカウト時代(2003年 - 2009年)にテレビCM出演。阪神甲子園球場(同社運営)に駐車場がない事への告知および阪神電車での来場を促すCMであり、日本語(関西弁まじり)で「コウシエンキュウジョウニハ、チュウシャジョウハ、アリマヘーン(甲子園球場には、駐車場はありまへーん)。」「ハンシンデンシャガ、イチバンヤー(阪神電車が、一番やー)!」としゃべるCMだった。2007年・2008年は、当時阪神投手のライアン・ボーグルソンの夫人ニコール・ボーグルソンと共演した(ニコールが英語でしゃべり、それをオマリーが日本語訳する形式だった)。駐米スカウト契約解除により2009年度を以って降板。翌年からのCMは川藤幸三が引き継いだ。
CD
- 「オマリーのダイナミック・イングリッシュ」(1994年5月25日発売)
- ポリスターレコードから発売され6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「六甲おろし」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、ラジオ番組「コサキンDEワァオ!」でも取り上げられた。1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が英語である。
- また、引退後には先述のテレビ番組「LOVE LOVEあいしてる」にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。後日、吉田拓郎はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。
- 2012年1月9日にNHK-FMで10時間にわたって放送された「セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧」でも紹介され、MVS(最優秀ソング)に選ばれた[7]。
- 2014年9月10日にデジタルリマスター復刻盤がリリースされた。
脚注
注釈
出典
- ^ “「PKO問題」から「PK合戦」になり、最後は郭李建夫の不戦勝?【1993年8月28日】”. ニコニコニュース (2017年8月28日). 2017年8月28日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン、2011年9月号 P63
- ^ オマリー氏、虎視眈々 日本人メジャーリーガー発掘を目指す - スポーツ - ZAKZAK(2010年5月14日付)(2010年5月17日時点のアーカイブ)
- ^ オマリー氏、虎1軍打撃C就任決定!掛布氏とビシバシ地獄キャンプ(2013年10月23日時点のアーカイブ)
- ^ 2016年チーム打率 NPB
- ^ 来季のコーチ契約について
- ^ セパ対抗!今日は一日“プロ野球ソング”三昧(2012年5月8日時点のアーカイブ)