「エミル・コスタディノフ」の版間の差分
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== 経歴 == |
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コスタディノフは[[1985年]]に[[PFC CSKAソフィア|CSKAソフィア]]選手経歴を始めると、1980年代後半には[[フリスト・ストイチコフ]]や[[リュボスラフ・ペネフ]]らと共に、ブルガリアリーグ優勝3回、ブルガリアカップ優勝3回、1988-89シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]準決勝進出に貢献した。[[1990年]]に[[ポルトガル]]の[[FCポルト]]へ移籍すると、2度のリーグ優勝(1992年、1993年)に貢献した<ref name="uefa">{{Cite web|url=http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=1632274.html|title=両チームを激励するコスタディノフ氏|publisher=UEFA.com|date=2011-05-17|accessdate=2017-04-26}}</ref>。1994年には[[スペイン]]の[[デポルティボ・ラ・コルーニャ]]、1995年にはドイツの[[バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍し、[[UEFAカップ1995-96]]優勝に貢献した<ref name="bbc">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/blogs/jonathanstevenson/2010/09/bulgaria_in_shadow_of_class_of.html|title=Bulgarians remain in shadow of class of '94|publisher=BBC News|date=2010-09-02|accessdate=2017-04-27}}</ref>。 |
コスタディノフは[[1985年]]に[[PFC CSKAソフィア|CSKAソフィア]]選手経歴を始めると、1980年代後半には[[フリスト・ストイチコフ]]や[[リュボスラフ・ペネフ]]らと共に、ブルガリアリーグ優勝3回、ブルガリアカップ優勝3回、1988-89シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]準決勝進出に貢献した。[[1990年]]に[[ポルトガル]]の[[FCポルト]]へ移籍すると、2度のリーグ優勝(1992年、1993年)に貢献した<ref name="uefa">{{Cite web|url=http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=1632274.html|title=両チームを激励するコスタディノフ氏|publisher=UEFA.com|date=2011-05-17|accessdate=2017-04-26}}</ref>。1994年には[[スペイン]]の[[デポルティボ・ラ・コルーニャ]]、1995年にはドイツの[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍し、[[UEFAカップ1995-96]]優勝に貢献した<ref name="bbc">{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/blogs/jonathanstevenson/2010/09/bulgaria_in_shadow_of_class_of.html|title=Bulgarians remain in shadow of class of '94|publisher=BBC News|date=2010-09-02|accessdate=2017-04-27}}</ref>。 |
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[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア代表]]としては[[1988年]][[12月24日]]に行われた[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE代表]]戦でデビューを飾り、この試合で初得点を決めた<ref name="rsssf">{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/bulg-kostadinov-intlg.html|title=Emil Lyubchov Kostadinov - Goals in International Matches|publisher=rsssf.com|accessdate=2017-04-28}}</ref>。[[1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選]]では、[[1993年]][[11月13日]]に[[フランス]]・[[パリ]]の[[パルク・デ・プランス]]で行われた最終戦の[[サッカーフランス代表|フランス代表]]戦において、37分に[[クラシミール・バラコフ]]のコーナーキックから同点となるヘディングシュートを決め、試合終了間際の89分には[[リュボスラフ・ペネフ]]のパスから決勝点を決め本大会出場に導いた([[パリの悲劇]])<ref name="uefa"/><ref>{{Cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2008/m=5/news=les-bleus-american-nightmare-761002.html|title=Les Bleus' American nightmare|publisher=FIFA.com|date=2015-09-10|accessdate=2017-04-26}}</ref>。 |
[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア代表]]としては[[1988年]][[12月24日]]に行われた[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE代表]]戦でデビューを飾り、この試合で初得点を決めた<ref name="rsssf">{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/bulg-kostadinov-intlg.html|title=Emil Lyubchov Kostadinov - Goals in International Matches|publisher=rsssf.com|accessdate=2017-04-28}}</ref>。[[1994 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選]]では、[[1993年]][[11月13日]]に[[フランス]]・[[パリ]]の[[パルク・デ・プランス]]で行われた最終戦の[[サッカーフランス代表|フランス代表]]戦において、37分に[[クラシミール・バラコフ]]のコーナーキックから同点となるヘディングシュートを決め、試合終了間際の89分には[[リュボスラフ・ペネフ]]のパスから決勝点を決め本大会出場に導いた([[パリの悲劇]])<ref name="uefa"/><ref>{{Cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2008/m=5/news=les-bleus-american-nightmare-761002.html|title=Les Bleus' American nightmare|publisher=FIFA.com|date=2015-09-10|accessdate=2017-04-26}}</ref>。 |
2017年8月29日 (火) 10:40時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
エミル・ルブチョフ・コスタディノフ Emil Lubtchov Kostadinov | |||||
ラテン文字 | Emil Kostadinov | |||||
ブルガリア語 | Емил Костадинов | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブルガリア | |||||
生年月日 | 1967年8月12日(57歳) | |||||
出身地 | ソフィア | |||||
身長 | 177cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF、FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1990 | CSKAソフィア | 119 | (36) | |||
1990-1994 | FCポルト | 114 | (43) | |||
1994 | デポルティボ・ラ・コルーニャ | 9 | (2) | |||
1995-1996 | バイエルン・ミュンヘン | 27 | (7) | |||
1996-1997 | フェネルバフチェSK | 25 | (11) | |||
1997 | UANLティグレス | 9 | (2) | |||
1998 | CSKAソフィア | 11 | (4) | |||
1998-1999 | 1.FSVマインツ05 | 4 | (1) | |||
代表歴 | ||||||
1988-1998 | ブルガリア | 70 | (27) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エミル・コスタディノフ(Емил Костадинов、Emil Kostadinov、1967年8月12日 -)は、ブルガリアの元サッカー選手。ポジションはMF(攻撃的MF)、FW。
経歴
コスタディノフは1985年にCSKAソフィア選手経歴を始めると、1980年代後半にはフリスト・ストイチコフやリュボスラフ・ペネフらと共に、ブルガリアリーグ優勝3回、ブルガリアカップ優勝3回、1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップ準決勝進出に貢献した。1990年にポルトガルのFCポルトへ移籍すると、2度のリーグ優勝(1992年、1993年)に貢献した[1]。1994年にはスペインのデポルティボ・ラ・コルーニャ、1995年にはドイツのバイエルン・ミュンヘンへ移籍し、UEFAカップ1995-96優勝に貢献した[2]。
ブルガリア代表としては1988年12月24日に行われたUAE代表戦でデビューを飾り、この試合で初得点を決めた[3]。FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1993年11月13日にフランス・パリのパルク・デ・プランスで行われた最終戦のフランス代表戦において、37分にクラシミール・バラコフのコーナーキックから同点となるヘディングシュートを決め、試合終了間際の89分にはリュボスラフ・ペネフのパスから決勝点を決め本大会出場に導いた(パリの悲劇)[1][4]。
翌1994年の本大会においても7試合にフル出場し[3]、同国の過去最高の成績となる4位に貢献。1996年のUEFA EURO '96や1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にも出場し[3]、1998年6月24日に行われたワールドカップグループリーグ最終戦、スペイン代表戦(試合は1-6でブルガリアの敗退)が代表として最後の試合と得点となった[2][3]。代表での通算成績は国際Aマッチ70試合出場27得点[3]。
ワールドカップ終了から1年後の1999年、1.FSVマインツ05に在籍したのを最後に現役を引退した。引退後は2000年から2001年、2006年から2009年にかけて古巣のCSKAソフィアでテクニカルディレクターを務めた[2]。
個人タイトル
- ブルガリア年間最優秀選手賞 1回(1993年)
脚注
- ^ a b “両チームを激励するコスタディノフ氏”. UEFA.com (2011年5月17日). 2017年4月26日閲覧。
- ^ a b c “Bulgarians remain in shadow of class of '94”. BBC News (2010年9月2日). 2017年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e “Emil Lyubchov Kostadinov - Goals in International Matches”. rsssf.com. 2017年4月28日閲覧。
- ^ “Les Bleus' American nightmare”. FIFA.com (2015年9月10日). 2017年4月26日閲覧。