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==== ミラン ====
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移籍から数カ月後の[[UEFAチャンピオンズリーグ_2006-07#.E6.B1.BA.E5.8B.9D|チャンピオンズ・リーグ決勝]]では右サイドバックとして先発フル出場し、チームの優勝に貢献。しかし、翌シーズンは好不調の波が激しく、[[センタリング|クロス]]の精度を欠くこともあり、チームも低迷する。2008年夏にはイタリア代表で同じポジションの[[ジャンルカ・ザンブロッタ]]がチームに加入し、控えにまわることが噂されたが、入れ替わる形で[[バイエルン・ミュンヘン]]へレンタル移籍した(故障離脱中の[[ウィリー・サニョル]]の代役)。
移籍から数カ月後の[[UEFAチャンピオンズリーグ_2006-07#.E6.B1.BA.E5.8B.9D|チャンピオンズ・リーグ決勝]]では右サイドバックとして先発フル出場し、チームの優勝に貢献。しかし、翌シーズンは好不調の波が激しく、[[センタリング|クロス]]の精度を欠くこともあり、チームも低迷する。2008年夏にはイタリア代表で同じポジションの[[ジャンルカ・ザンブロッタ]]がチームに加入し、控えにまわることが噂されたが、入れ替わる形で[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へレンタル移籍した(故障離脱中の[[ウィリー・サニョル]]の代役)。


翌2009-10シーズンにミラン復帰後は、左サイドにポジションを移したザンブロッタに代わり、若手の[[イグナツィオ・アバテ]]と右サイドバックのポジションを争うことになった。2010年10月21日には残りの契約を1年間延長し、2012年6月30日までミランでプレーすることになった<ref>[http://www.fifa.com/worldfootball/clubfootball/news/newsid=1276448.html Oddo extends Milan contract]</ref>。なお、同時期にザンブロッタも契約を延長している。
翌2009-10シーズンにミラン復帰後は、左サイドにポジションを移したザンブロッタに代わり、若手の[[イグナツィオ・アバテ]]と右サイドバックのポジションを争うことになった。2010年10月21日には残りの契約を1年間延長し、2012年6月30日までミランでプレーすることになった<ref>[http://www.fifa.com/worldfootball/clubfootball/news/newsid=1276448.html Oddo extends Milan contract]</ref>。なお、同時期にザンブロッタも契約を延長している。
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2017年8月29日 (火) 10:23時点における版

マッシモ・オッド
現役時代のオッド
名前
ラテン文字 Massimo ODDO
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1976-06-14) 1976年6月14日(48歳)
出身地 チッタ・サンタンジェロ
身長 182cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF (RSB)
利き足 右足
ユース
1992-1993 イタリアの旗 レナート・クーリ英語版
1993-1995 イタリアの旗 ミラン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1993 イタリアの旗 レナート・クーリ 3 (0)
1993-1999 イタリアの旗 ミラン 0 (0)
1995-1996 イタリアの旗 フィオレンツォーラ (loan) 19 (0)
1996 イタリアの旗 モンツァ (loan) 4 (0)
1996-1997 イタリアの旗 プラート (loan) 16 (0)
1997-1998 イタリアの旗 レッコ (loan) 20 (1)
1998-1999 イタリアの旗 モンツァ (loan) 30 (5)
1999-2000 イタリアの旗 ナポリ 36 (1)
2000-2002 イタリアの旗 ヴェローナ 64 (9)
2002-2007 イタリアの旗 ラツィオ 135 (17)
2007-2012 イタリアの旗 ミラン 56 (2)
2008-2009 ドイツの旗 バイエルン (loan) 18 (0)
2011-2012 イタリアの旗 レッチェ (loan) 27 (1)
通算 428 (36)
代表歴2
2002-2008 イタリアの旗 イタリア [1] 34 (2)
監督歴
2013-2014 イタリアの旗 ジェノア U-17
2014-2015 イタリアの旗 ペスカーラ U-20
2015-2017 イタリアの旗 ペスカーラ
1. 国内リーグ戦に限る。2015年7月14日現在。
2. 2008年8月25日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マッシモ・オッドMassimo Oddo, 1976年6月14日 - )は、イタリアアブルッツォ州チッタ・サンタンジェロ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはDF (RSB)。

セリエA屈指のスピードを武器とした元イタリア代表右サイドバック。いわゆる遅咲きの部類に入る選手で、イタリア代表に至っては2003年以降に定着した。イタリア屈指のリゴリスタ(PK職人)でもある[要出典]。父親のフランチェスコ・オッドは元サッカー指導者。

経歴

選手時代

初期の経歴

ACミランの育成組織出身。トップチーム昇格後も2シーズンをベンチ要因として過ごし、出場機会を求めてレンタル移籍の形でセリエBセリエCのチームを転々とする。

2000年エラス・ヴェローナFCに完全移籍し、セリエAデビューを果たす。ここでの活躍が目に留まり、2002年にSSラツィオへの移籍が決まる。

ラツィオ

4シーズン半を過ごしたラツィオではUEFAチャンピオンズリーグUEFAカップでヨーロッパの舞台でプレーする機会を得た。ラツィオでの3年目にあたる2003-04シーズンにはコッパ・イタリアを獲得し、自身初のタイトルを経験した。

2006-07シーズンにはファビオ・リヴェラーニの後任としてキャプテンに任命された。2007年1月、移籍金750万ユーロ(約11億6千万円)とパスクアーレ・フォッジャとの交換で、実に12年ぶりに古巣ACミランへの復帰が決まった。

ミラン

移籍から数カ月後のチャンピオンズ・リーグ決勝では右サイドバックとして先発フル出場し、チームの優勝に貢献。しかし、翌シーズンは好不調の波が激しく、クロスの精度を欠くこともあり、チームも低迷する。2008年夏にはイタリア代表で同じポジションのジャンルカ・ザンブロッタがチームに加入し、控えにまわることが噂されたが、入れ替わる形でバイエルン・ミュンヘンへレンタル移籍した(故障離脱中のウィリー・サニョルの代役)。

翌2009-10シーズンにミラン復帰後は、左サイドにポジションを移したザンブロッタに代わり、若手のイグナツィオ・アバテと右サイドバックのポジションを争うことになった。2010年10月21日には残りの契約を1年間延長し、2012年6月30日までミランでプレーすることになった[2]。なお、同時期にザンブロッタも契約を延長している。

しかし、2010-11シーズンのリーグ戦出場はわずか7試合とチームの構想外となり、2011年夏にはUSレッチェへレンタル移籍。2011-12シーズン終了後に現役引退を発表した [3]

指導者時代

ペスカーラ

プリマヴェーラでの指導を経て、2015年5月16日、成績不振で解任されたマルコ・バローニ監督の後任としてデルフィーノ・ペスカーラ1936の監督に就任した[4]

代表歴

2002年にデビューを飾り、UEFA EURO 2004予選では7試合に出場した。2006年ドイツW杯では、ザンブロッタの控えとして優勝メンバーの一員となった。

所属クラブ

ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 2008-2009 (loan)
イタリアの旗 USレッチェ 2011-2012 (loan)

指導歴

タイトル

クラブ

ラツィオ
ミラン

代表

イタリア

脚注