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「ジョゼ・ロベルト・ダ・シウヴァ・ジュニオル」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== クラブ ===
=== クラブ ===
1998年、[[レアル・マドリード]]から[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]][[バイエル・レバークーゼン|バイエル・レヴァークーゼン]]に移籍し、2001-02シーズンの国内リーグ2位、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|チャンピオンズリーグ]]準優勝、[[DFBポカール]]準優勝の好成績に貢献した。2002年5月には同僚の[[ミヒャエル・バラック]]とともに強豪[[バイエルン・ミュンヘン]]に移籍した。
1998年、[[レアル・マドリード]]から[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]][[バイエル・レバークーゼン|バイエル・レヴァークーゼン]]に移籍し、2001-02シーズンの国内リーグ2位、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|チャンピオンズリーグ]]準優勝、[[DFBポカール]]準優勝の好成績に貢献した。2002年5月には同僚の[[ミヒャエル・バラック]]とともに強豪[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に移籍した。
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* [[DFBポカール]]:4回 (2003, 2005, 2006, 2008)

2017年8月29日 (火) 09:46時点における版

ゼ・ロベルト
名前
本名 ジョゼ・ロベルト・ダ・シウヴァ・ジュニオル
José Roberto da Silva Júnior
ラテン文字 Ze Roberto
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1974-07-06) 1974年7月6日(50歳)
出身地 サンパウロ
身長 172cm
体重 71kg
選手情報
在籍チーム ブラジルの旗 SEパルメイラス
ポジション MF
背番号 11
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994–1997 ブラジルの旗 ポルトゥゲーザ 61 (1)
1997–1998 スペインの旗 レアル・マドリード 15 (0)
1998 ブラジルの旗 フラメンゴ 24 (0)
1998-2002 ドイツの旗 レヴァークーゼン 113 (17)
2002-2006 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 110 (5)
2006-2007 ブラジルの旗 サントス 48 (12)
2007-2009 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 59 (9)
2009-2011 ドイツの旗 ハンブルガーSV 54 (7)
2011-2012 カタールの旗 アル・ガラファ 14 (1)
2012-2014 ブラジルの旗 グレミオ 83 (6)
2015- ブラジルの旗 パルメイラス 20 (2)
代表歴
1995-2006 ブラジルの旗 ブラジル [1] 86 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2015年9月29日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ゼ・ロベルト(Ze Roberto)こと、ジョゼ・ロベルト・ダ・シウヴァ・ジュニオル(José Roberto da Silva Júnior、1974年7月6日 - )は、ブラジルサンパウロ州サンパウロ出身のサッカー選手カンピオナート・ブラジレイロ・セリエASEパルメイラス所属。元ブラジル代表。ポジションはミッドフィールダー

経歴

クラブ

1998年、レアル・マドリードからブンデスリーガバイエル・レヴァークーゼンに移籍し、2001-02シーズンの国内リーグ2位、チャンピオンズリーグ準優勝、DFBポカール準優勝の好成績に貢献した。2002年5月には同僚のミヒャエル・バラックとともに強豪バイエルン・ミュンヘンに移籍した。 2006年5月バイエルン・ミュンヘンを退団、母国ブラジルのサントスへ移籍したが、2007-08シーズンよりバイエルン・ミュンヘンに復帰した。以前、バイエルンでは中盤左サイドで起用されていたが、復帰後はセントラルハーフのレギュラーとして攻守に奮闘している。バイエルンではブンデスリーガDFBポカールでそれぞれ4度の優勝を果たした。バイエルンは2010年までの契約延長を希望したが、ゼ・ロベルトはこれを拒否。2009年夏に契約満了でバイエルンを退団し、ハンブルガーSVと2年契約を結んだ。その後、ハンブルガーSVからは1年間の契約延長をオファーされていたものの断り、カタールのアル・ガラファSCへ移籍した。

2014年12月22日、SEパルメイラスに加入した[2]

代表

ブラジル代表としては1995年8月12日に行われた韓国代表との国際親善試合でデビュー[3]。1997年と1999年のコパ・アメリカ連覇に貢献したが、1998年にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップでは準々決勝のデンマーク代表戦の1試合のみの出場に終わり[3]、2002年に日本韓国で共同開催された2002 FIFAワールドカップでは代表入りを逃した[4]。2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは全5試合に出場したが準々決勝でフランス代表に敗れ、この試合が代表として最後の試合出場となったた[3]

代表では2004年末頃からボランチで起用されることが多く、エメルソンとコンビを組み攻守の舵取り役として活躍。ロナウジーニョロベルト・カルロスの守備の負担を軽減させカナリア軍団の攻撃陣を支えた。2007年6月、代表引退を発表。

人物

左サイドのドリブル突破、精度の高いクロスが魅力。シュート精度、ドリブル技術も高く、危険なスペースを埋める守備技術も高く評価されている職人肌な選手。フリーキックの精度も高い。デビュー当時は左サイドバックだったが、その後攻撃センスを活かすべく左サイドハーフトップ下などの攻撃的なポジションにコンバートされた。

プロ意識が高く自己管理が徹底している。人生で1度もマクドナルドへ行った事がなく、日常生活においてミネラルウォーターとグレープジュース以外の飲み物は口にしない[5]

タイトル

バイエルン・ミュンヘン時代

クラブ

レアル・マドリード
バイエルン・ミュンヘン

代表

ブラジル代表

個人

脚注

外部リンク