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[[File:Acropolis Athens in 2004.jpg|thumb|300px|古代ギリシャの象徴、アクロポリス]] |
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'''古代ギリシア'''(こだいギリシア)とは、一般的に、[[古代ローマ]]支配下以前の[[ギリシャ|ギリシア]]をいう。短期間に文明が発達し、東西の文明に大きな影響を与えた。 |
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==ギリシア文明の発祥== |
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{{ギリシャの歴史}} |
{{ギリシャの歴史}} |
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この項目では、太古から[[古代ローマ]]に占領される以前までの'''古代ギリシア'''を扱う。 |
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[[紀元前]]2600年ころ、[[小アジア]]の[[イリオス|トロイア]]周辺に[[青銅器]]文明を持つ[[トロイア文明]]が栄え、[[紀元前2000年]]ころには[[線文字A]]を持つ[[ミノア文明]]が[[クレタ島]]の[[クノッソス]]を中心に興る。その後、紀元前2000年ころ[[アカイア人]]が[[エーゲ海]]北部や小アジア西岸に住み着き、[[紀元前1500年]]ころに[[線文字B]]を持つ[[ミケーネ文明]]が[[ペロポネソス半島]]の[[ミケーネ]]・[[ティリンス]]を中心に栄えた。[[紀元前1400年]]ころにはミケーネ文明はペロポネソス半島からエーゲ海に進出し、ミノア文明を滅ぼした。 |
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== 石器時代 == |
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[[紀元前1200年]]ころに[[ドーリア人]]が南下しアカイア人の領域に侵入した。この[[前1200年のカタストロフ]]によるミケーネ文明の崩壊以降、[[紀元前800年]]ごろにかけては文字の史料に乏しく、文化・経済活動の沈滞した混乱の時代として[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]と呼ばれることがある。この暗黒時代は、紀元前7世紀にフェニキア人との接触によって新たな文字である[[ギリシア文字]]([[アルファベット]])が成立し、再び文字資料が大量に出現するようになるまで続いた。 |
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[[File:Petralona cave tourist path.JPG|200px|thumb|left|ペトラロナ洞窟]] |
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ギリシャにおいて発見された最古の人類は[[ハルキディキ半島]]({{lang|el|[[:el:Χαλκιδική|Χαλκιδική χερσόνησος]]}})ペトラロナで発見され[[ペトラロナ人]]で、彼等は[[ホモ・エレクトゥス]]と[[ネアンデルタール人]]の形質の特徴を持ち合わせており、およそ20万年から40万年前までにさかのぼると考えられている。彼らが活動したこの時代がギリシャにおける[[旧石器時代|前期旧石器時代]]と推測され、ギリシャにおいて[[人類]]の活動が始まったのはこの時代とほぼ考えられている。また、15万年前になると、生活の痕跡が増加し、この時代が中期旧石器時代と考えられている<ref name="G16">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.16]].</ref><ref name="SGKG20">[[#周藤(ギリシア考古学)|周藤 (1997)、pp.20-21]].</ref>。 |
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[[File:003Σπήλαιο Φράχθι Ερμιονίδας.jpg|200px|thumb|left|フランクティ洞窟]] |
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==ポリスの成立== |
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その後、およそ6万年前の中期旧石器時代になると[[化石人類]]に代わって、[[旧人]]の活動が見られ、環東地中海世界によくみられる[[ムスティエ文化]]の特徴が見られ、[[イピロス|イピルス]]、[[テッサリア]]、[[イリア県|エリス]]、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴリス]]、[[クレタ島]]などで剥片が発見されており、特にアルゴリスにあるフランクティ洞窟ではルヴァロア技法の剥片が発見されている<ref name="SGKG20"/><ref name="S19-20">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.19-20]].</ref>。5 万年ほど前に至ると[[最終氷期]]に突入、海面は下降し、この時代に[[新人]]の時代に移った<ref>[[#周藤(ギリシア考古学)|周藤 (1997)、p.2Ⅰ]].</ref>。その後、三万年前になると後期旧石器時代に入るが、この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる<ref name="G16"/>。また、この時代、狩猟の方法も組織的なものへ変化し、さらには石器の加工技術も進み、洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる<ref>[[#周藤(ギリシア考古学)|周藤 (1997)、p.22]].</ref>。 |
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紀元前8世紀ころに古代ギリシア文明が急速に開花し、それまで農村に住んでいた人々が城壁内に集住を行うようになって、ポリス(都市国家)が成立するようになった。ポリスは大小さまざまあるが、1500平方キロメートルから2500平方キロメートルの領土を持ち、市民と呼ばれる自由民男子とその家族数万から10万人と、奴隷など数万から10万人の人口を抱えているものが一般的であった。諸ポリスは、古代[[マケドニア王国|マケドニア]]による覇権が確立する紀元前338年まで統一されることはなく、分立した。 |
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地域や風土によってポリスの政体は多様であり、王政、貴族を中心とする寡頭政、全市民参加の直接民主政を採用するポリスがあった。また正統な王の家系以外から出た個人が権力を握って世襲する場合があり、これは僭主政と呼ばれた。有力なポリスであった[[アテナイ]]、[[コリントス]]、[[テーバイ]]は、自分たちの政体を他に押しつけようともした。 |
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[[中石器時代]]に至ると、温暖化が進み、海岸線も上昇した。それまでの狩猟生活から蓄える生活への転換が見られ、フランクティ洞窟でも[[黒曜石]]{{#tag:ref|ギリシャでは[[エーゲ海]]の[[ミロス島]]でしか産出しない<ref name="G17">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.17]].</ref>。|group=#}}や魚の骨が発見され、また、[[スポラデス|スポラデス諸島]]のユウラ島のキクロパス洞窟でも魚の骨や釣り針などが発見されており、これらの遺物から当時ギリシャに住まう人々が海洋へ積極的に進出していることが想像され、この時代がギリシャにおける重要な岐路であったと想像されている<ref name="G17"/>。 |
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==植民の開始とギリシアの領域== |
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ギリシアの[[都市国家|都市国家群]]([[ポリス]])は、[[紀元前800年]]末には現在のギリシャ西南部、クレタ島を含むエーゲ海の島々、アナトリア半島の西海岸に広がっていた。紀元前750年ごろから、ギリシア人は人口の増加、交易、貴族集団同士の対立などが要因となって[[地中海世界]]全体に[[植民]]を進めた。[[紀元前500年]]末までには西から現在の[[スペイン]][[アンダルシア州]]のマイナケ、同[[バレンシア州]]のヘメロスコペウム(現在の[[デニア]])、[[カタルーニャ州]]の[[エンポリオン]]、フランスでは[[エロー県]]のアガテ、[[ブーシュ=デュ=ローヌ県]]のマッシリア([[マルセイユ]])、[[ヴァール県]]のアテノポリス、[[アルプ=マリティーム県]]のニカイア([[ニース]])に広がっていた。 |
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{| class="wikitable floatright" style="margin:0 0 0.5em 1em;" |
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第二の本拠地と言えるほどの規模に達していたのは[[マグナ・グラエキア]]([[南イタリア|イタリア南部]]と[[シチリア島]])である。イタリア南部のギリシア植民都市の一部は19世紀に至るまで[[コムーネ]]として残り、ギリシア語を話す住民による生活が続いていた。 |
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|+ギリシャにおける新石器時代区分<ref name="KB188">[[#木戸(バルカン現代史)|木戸(1977)、p.188]].</ref> |
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!分類!!年代 |
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||初期||前7000‐前5800 |
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||中期||前5800‐前5300 |
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||後期||前5300‐前4500 |
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||末期||前4500‐前3200 |
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前7000年になるとギリシャは[[新石器時代]]に入り、この時代は[[土器]]の様式や[[放射性炭素年代測定|放射性炭素年代測定法]]による測定により、初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。この新石器時代は過去には無土器時代があり、農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、この説は1980年代に疑義が呈され、ギリシャの新石器時代は土器などの文化を含めて[[西アジア]]より伝播したと考えられる。この時代に至ると、[[大麦]]、[[小麦|小麦(アインコルン、エンマー)]]を基本穀物として[[レンズマメ|レンズ豆]]などが栽培されるようになり、さらには[[山羊]]、[[羊]]、[[豚]]、[[牛]]、[[犬]]などの[[家畜]]{{#tag:ref|山羊、羊に関しては野生種の存在がギリシャでは確認されていないため、[[アナトリア]]方面から移入してきたことが確実視されている<ref name="G19">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.19]].</ref>。|group=#}}も扱われるようになった。この時代のギリシャは初期農耕文化の広がる北[[バルカン半島]]北方の内陸部と密接な関係を持ち、豊富な水と肥沃な土壌の存在する地域であるギリシャ北方が先進地域で、テッサリアや[[マケドニア]]の平野{{#tag:ref|この地域にはマグーラと呼ばれる小高い丘が存在するが、これは西アジアのテルに相当する新石器時代の集落址であることが多い<ref name="G20">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.20]].</ref>。|group=#}}が初期農耕が行われ、ギリシャ南部ではさほど集落の数も見られない。そして、[[キクラデス諸島]]へ新石器文化がこの後、導入されてゆくが、これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている<ref name="G17-20">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.17-20]].</ref>。 |
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[[File:Neolithic steatopygous female figurine from Saliagos, AM Paros, 887, 143827.jpg|thumb|200px| サリアゴスの豊満な女性]] |
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このほか、チュニジアのキュニプス、リビアのキュレネとアポロニア、エジプトの[[ナウクラティス]]、クレタ島北部のほか、アナトリア半島北岸を含む[[黒海]]沿岸全域に植民市を築いていた。例えば現在の[[グルジア]]に位置するトリグリト([[ガグラ]])がある。 |
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初期新石器時代に入ると、土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、中石器時代に至ると様々な形が現れ、地域による違いも見られるようになってゆく。特に[[セスクロ文化]](テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれると独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネス半島に存在しており、この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている<ref name="G20">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.20]].</ref>。また、[[土偶]]も多く発見されており、[[エーゲ海]]では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている<ref name="G21">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.21]].</ref>。 |
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後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニの[[アクロポリス]]ではその後訪れる[[ミケーネ文明|ミケーネ時代]]を先取りした独特の構造を構成しており、周壁が築かれ、これは[[メガロン]]形式の先取りと考えられている。また、オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、後期新石器時代から末期石器時代に登場した[[銅]]製の武器の存在から、集落間での戦いが行われていたことが想像される。なお、この[[冶金]]術は[[ブルガリア]]方面から伝わったと考えられており、そのほか、エーゲ海産の貝を利用したブレスレッドが[[ポーランド]]で発見されていることから、この時代の交易の広さが想像される<ref name="G21"/>。 |
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スペインのマイナケは周囲を[[フェニキア]]の入植地に囲まれ、キニュプスやシチリア島、キプロス島でもフェニキアと隣接しているものの、それ以外の土地では他のどのような勢力とも競合していなかった。 |
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しかし末期新石器時代に至ると、マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。ディロスのアレポトリュパ洞窟や[[ナクソス島]]のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製探検も見つかっており、このことか想像される。そのため、初期[[青銅器時代]]への発展が単純には考えられないが、上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、今後の調査、研究が進められることが望まれている<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.22]].</ref>。 |
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ギリシア人による主な交易品は黒海の穀物と[[エトルリア]]からもたらされた[[スズ]]である。 |
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==ポリスの興亡== |
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[[File:Map Greco-Persian Wars-en.svg|thumb|250px|'''[[ペルシア戦争]]の状況'''<br>ペルシャのマルドニウスによる侵攻(オレンジ線、紀元前492年)、ダティスの侵攻(緑線、紀元前490年)、クセルクセス1世の侵攻(黄線、紀元前480年)]] |
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丘陵地帯の多いギリシアでは[[重装歩兵]]による密集戦術が発達していた。ポリス間の抗争が続くにつれ徐々に戦術が洗練され、さらに重装歩兵の担い手である市民の政治的地位が向上し、市民共同体としての意識が高まったことで、戦術面のみならず精神的にも強力な軍隊となった。ペルシャ戦争で、その戦力の真価が遺憾なく発揮された。 |
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== 青銅器時代 == |
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こうした中で紀元前499年、[[アケメネス朝]]ペルシア帝国に支配下にあった[[ミレトス]]などの[[イオニア]]の諸都市が反乱を起こした。この[[イオニアの反乱]]にはアテナイおよび[[エレトリア]]の2つのポリスが援助を行ったが、ペルシアはこの反乱を即座に鎮圧すると、反乱に加担した両都市への懲罰を決定した。これが[[ペルシア戦争]]である。 |
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{{double image|right|Bozcaada 080a.jpg|120|Agiorgitiko nemea wine.jpeg|120|古代ギリシャに繁栄をもたらした[[オリーブ]]と[[ワイン]]}} |
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{{main|エーゲ文明|キクラデス文明|ミノア文明|ミケーネ文明}} |
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ギリシャでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、新石器時代に中心を成してきたギリシャ北部からギリシャ南部へと文化の中心が移動している。これは「地中海の三大作物」の[[オリーブ]]と[[ブドウ]]の栽培が要因と考えられ、これらの作物はギリシャ南部における丘陵地帯での栽培に適していた。これらの作物から取れる[[オリーブオイル]]と[[ブドウ酒]]は交易品として高い価値を持っており、ギリシャがその後[[地中海]]の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる<ref name="G22-3">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.22-23]].</ref>。 |
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初期青銅器時代はギリシャ本土、クレタ島、[[キクラデス諸島]]の各地域での三時期区分による編年が確立されており、この時代に「ギリシャらしさ」がそれまでの時代よりより明確に表れて来る<ref name="S22">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.22]].</ref>。特にキクラデス諸島のナクソス島や[[パロス島]]、[[シロス島]]などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、石積みの単葬墓がグループを成しており、初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれこれがさらに[[ケロス・シロス文化]]に進化すると、渦巻文のある「フライパン」や彩文土器なども存在する。特に石偶は新石器時代のものとは異なり両手を前で組んだポーズを取って居るものが多く見られる<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.24]].</ref>。 |
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[[アテナイ]]と[[スパルタ]]を中心とする古代ギリシアの連合軍は、20万人とも50万人とも言われるペルシャ軍を撃退する。このペルシャ戦争の過程で、アテナイが強大化してギリシアの覇権を握る。 |
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[[File:Kykladisch.JPG|thumb|200px|キクラデス諸島で発見された石偶]] |
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[[紀元前5世紀]]中ころから[[紀元前4世紀]]中ころまで、[[ペロポネソス戦争]]や[[レウクトラの戦い]]など[[ポリス]]間の攻防が繰り返され、[[アテナイ]]に代わって[[スパルタ]]、[[テーバイ]]へとポリス内での覇権は移行していった。 |
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ギリシャ本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、多数の墓地が発見され、[[大理石]]石偶も発見されている。また、カストリ・グループと呼ばれるアナトリアに関係する文化も現れている。なお、この時代にギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流があったとみられるが、同じように青銅器文化が始まっていたクレタ島はこれらとの文化交流はなく、単独での進化を進めていたと考えられ、初期青銅器時代の後期にギリシャ本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている<ref name="S23">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.23]].</ref>。 |
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中期青銅器時代に入ると、初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシャ本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。すなわち、ギリシャ本土では文化的後退を示し、集落にも大規模な建築物は存在せず、また、初期青銅器末期に作成されたミニュアス土器や灰色磨研土器、中期青銅器時代に作成された鈍彩土器はそれ以前の時代、およびその後の時代と比べても創意工夫に貧弱である。そしてエーゲ海の島々ではそれまで独自に文化を進めていたが、この時代にクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく<ref name="S24">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.24]].</ref>。 |
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紀元前4世紀中ころになると、北方に存在していた[[マケドニア王国]]が優勢になり、[[紀元前338年]]、[[カイロネイアの戦い]]でアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握るとポリスは独自性をなくしていった。 |
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[[File:Ruines of Knossos - panoramio.jpg|200px|thumb|クレタ島のクノッソス宮殿]] |
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==ヘレニズム時代== |
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一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。ギリシャ本土でも宮殿は初期青銅器時代に建築されていたが、クレタ島での宮殿はそれとは比べようもないほど巨大なものが作成される。また、カマレス土器のようなギリシャ本土のものとは比べようのない土器が作成され、数々の工芸品も生産され、ミノア文明はこの時代に繁栄を迎えるが、中期青銅器時代の後期に地震による被害を受けたと想像されているが、この時、損傷した宮殿は以前よりも規模を拡大して再建されている。この地震以前の宮殿を古宮殿、地震後を新宮殿を呼んでいる<ref name="S24"/>。 |
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古代マケドニア王国は[[ピリッポス2世]]の[[暗殺]]の跡を継いだ[[アレクサンドロス3世]]([[大王]])が[[ダレイオス3世]]の[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]を征服して[[インド]]西北部まで侵入し、ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアに至る[[帝国|大帝国]]をうち立てた。 |
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このように中期青銅器時代には低迷を極めたギリシャ本土であるが、後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。これがいわゆる[[ミケーネ文明]]で、その文化は[[ペロポネソス半島]]にとどまらずギリシャ中部にまで広がりを見せて行く。それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、ミケーネ文明はその後、エーゲ海、[[シチリア島]]、[[キプロス島]]へと広がりを見せて行く。そして[[線文字B]]も使われ、ミケーネ文明は発展を続けてゆくかに見えたが、ここで突如として[[前1200年のカタストロフ]]に襲われ、突如終焉を迎える。が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている<ref name="S25-6">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.25-6]].</ref>。 |
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大王の急逝の後[[ディアドコイ]]がその遺産を継承し、2世紀に渡って古代ギリシア文明と古代[[オリエント]]文明を融合した[[ヘレニズム]]文明が各地に拡散して、後にギリシアを征服した古代ローマをも含めて影響を与えた。 |
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また、7世紀以降の[[東ローマ帝国]]ではギリシア人居住地域が領土の大半を占めるようになったために、帝国の[[公用語]]も[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]にかわっていき、中世末期までヘレニズム文明を受け継ぐこととなった。 |
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== 鉄器時代 == |
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==古代ギリシア人の共有文化== |
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{{main|前1200年のカタストロフ|暗黒時代 (古代ギリシア)|幾何学様式}} |
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古代ギリシア人はそれぞれポリスを成立させて互いに対立する関係にあったが、ともに自らを[[ヘレネス]]、他民族を[[バルバロイ]](意味の分からない言葉を話す者)と呼んで区別した。ヘレネスとは神話中の[[デウカリオーン]]の子[[ヘレーン]]の子孫であり、ギリシア人は共通の祖先を持ち、共通の言葉を話すものと考えられたのである。 |
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前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、その後[[ポリス]]が成立するまでの時代は文字資料もなく、また海外との交渉も低調で、さらには考古学的証拠も乏しいため、俗に「暗黒時代」と呼ばれる。しかし、ギリシャで文化がすべて死に絶えたわけではなく、ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、前900 |
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年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。そのほか、後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている<ref name="S26-7">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.26-7]].</ref>。 |
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前8世紀になるとギリシャ各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。ミケーネ時代の叙事詩である[[ホメロス]]の作品が流行し、これはギリシャ人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった<ref name="S27">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.27]].</ref>。これらの作品は[[フェニキア人]]との接触によってアルファベットが成立したことが重要要因であるが、それ以上にそのアルファベットの起源となった[[フェニキア文字]]をもたらしたフェニキア人との接触が重要な意味を持っていた。すなわち、ギリシャ人としてのアイデンティティを構築したことである。このホメロスの[[叙事詩]]はギリシャ人らが自らの民族的同一性を再確認することを支えたと考えられ、アルファベットの成立を商業的理由よりもホメロスの叙事詩を文字であらわすことであったとする説も存在する<ref name="G48-9">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.48-9]].</ref>。このホメロスの叙事詩はギリシャ人らの聖典となり、行動規範の元となった。そして、この叙事詩の流行と英雄祭祀が同時に流行したことでギリシャ人らが祖先の偉業をたたえるようになって行った。<ref>[[#周藤(図説ギリシア)| 周藤 (1997-b)、p.56]].</ref> |
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古代ギリシア人は[[ギリシア神話]] を共有し[[ゼウス]]を頂点とする[[オリュンポス十二神]]・[[デルポイ]]の[[巫女|神託]]を信じ、 [[オリュンピア]]・[[イストモス]]・[[ネメアー]]・デルポイで開催された祭典には全ギリシア人が参加して競技を行った。祭典は運動競技のほかに演劇や音楽も競演された。 |
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*[[古代オリンピア競技]]は現代の[[近代オリンピック|オリンピック]]に影響を与えている。 |
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この様々な進化を遂げた前8世紀をルネサンスの時代と呼ぶことあるが、これは近世のルネサンスと同じように「過去」の文化を文字通り「再生」したことを意味している。それまで経済的な利用をしていた線文字Bからアルファベットへ、支配者の君臨する宮殿から神々の神殿へ、都市もメガロンのような城塞ではなく広場(アゴラ)を中心としたものへとの進化を遂げ、その後のポリスの時代へとつながってゆく<ref name="G50">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.50]].</ref>。 |
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[[ポリス]]市民である古代ギリシア人(市民)は日常の家事や作業などを女性や[[奴隷]]に任せて、他の市民との交流や体育、政治談義に日々を過ごし、その中で[[ギリシア哲学]]や[[科学]]が発達した。また年長者が精神的・肉体的に年少者を一人前に教育することが理想とされ、関係を強固なものとするために[[少年愛]]的なことも行われるのが一般的だった。またキリスト教に由来する[[ホモフォビア]]もなく[[同性愛]]も普通のことであり、軍隊の中に同性愛者を集めた[[神聖隊]](ヒエロス・ロコス)という部隊も存在した。 |
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古代ギリシャにおいては[[エヴィア島|エウボイア島]]においていち早くポリスが形成された。エウボイアでは東方と交易をおこなっていたことがエウボイア産の土器の出土で判明しているが、その経済活動が[[ハルキス|カルキス]]と[[エレトリア]]というポリスの成立を産み、両ポリスがレラントス平野で周辺諸ポリスを巻き込んだ[[レラントス戦争]]はギリシャにおける最初の国際的な陸戦であったと想像されている<ref name="G68">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.68]].</ref>。また、[[サロニア島]]のポリスでも商業活動を積極に行うことで繁栄し、ソストラトスという商人がヘラクレスの柱([[ジブラルタル海峡]])にまで到達するまでの交易をおこなっており、さらには古代ギリシャにおいてはじめて貨幣を発行したのも同島のアイギナであった<ref name="G69">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.69]].</ref>。 |
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古代ギリシアの社会では古代ローマ同様に多くの奴隷が使用されて国家を支えた。[[アリストテレス]]も「奴隷は言葉を喋る道具であり、牛馬と同様に人間に貢献する」と言ってはばからなかった。戦争でも奴隷の獲得が重要な目的のひとつであった。奴隷の中には借金を通じて債務奴隷になるものもおり、これは後のソロンの改革時に改善されることになる。 |
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さらにキクラデス諸島においては[[イオニア人]]が[[ケア島|ケオス]]、[[シフノス島|シフノス]]、[[パロス島|パロス]]、[[ナクソス島|ナクソス]]、ミュコノス、テノスへ移住、[[ドーリス人]]は[[ミロス島|メロス]]、[[シキノス島|シキノス]]、テラへ移住した。そのなかでも[[デロス島]]の[[アポロン]]神殿はナクソスの影響下のもとにあった。そのナクソスは一時期、アテネの介入によりリュグダミスによる[[僭主]]政が行われるが、僭主政が終るとナクソスはキクラデス諸島における強国となってゆく<ref name="G69-70">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.69-70]].</ref>。 |
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==古代ギリシア人の経済== |
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===農業=== |
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ギリシアは[[地中海性気候]]でなおかつ土地がやせていて大河川も少なかったためにいわゆる[[二圃式]]の[[乾燥農業]](一年ごとに休閑期を挟む)が行われていた<ref>岩片磯雄『古代ギリシアの農業と経済』(大明堂, |
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1988年) ISBN 978-4-470-36045-1</ref>。 |
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=== 前古典期 === |
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[[穀物]]類は[[大麦]]・[[コムギ|小麦]]が主であり、特に前者の生産が圧倒的であった。古代ギリシアが植民地を必要とした背景には小麦の需要を賄いたいという思惑があった。また、[[黍]]の栽培はごく一部でしか行われず、[[イネ|稲]]に至っては存在自体は知られていたものの栽培はされていなかったようである。 |
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{{main|アルカイック期}} |
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{{double image|right|Herakles lion Louvre CA1340.jpg|120|Kantharos Louvre CA1139.jpg|120|左、黒像様式陶器。右、赤像様式陶器}} |
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前8世紀以降、神殿を中心とした大規模な建築物が再び建設されるようになり、いわゆるポリス(都市国家)が形成されてゆく。そしてそのポリスを中心にして、地中海や[[黒海]]へ植民を行ったことからこの時代を[[植民]]時代と呼ぶこともある。この植民活動はポリスにおける党派争いから破れた人々が行ったことなどもあり、まだまだ揺籃期にあったポリスにおいて混乱を避けるための安全弁的な意味もあった。また、有力な市民が独裁者となる僭主政なども発生し、これの代表者としては[[コリントス]]の[[キュプセロス]]や[[アテナイ]]の[[ペイシストラトス]]などが挙げられる<ref name="S27-8">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.27-8]].</ref>。 |
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また、この時代は植民活動の始まった時代でもあった。植民活動の初期は金属資源を求めるなど交易を求めての活動であったが、徐々に各地にポリスを形成して行き[[シチリア島|シチリア]]、[[南イタリア]]、[[北アフリカ|アフリカ北岸]]、[[黒海]]沿岸などへ植民市を形成して行った。この植民活動によりギリシャ人は[[地中海]]全域に渡り交易活動を活発に行うようになり、各地にそれぞれのポリスを築いてゆき、それぞれの活動を行うが、文化面では共通のものを育んでいった。それは共通の神々を崇め、そしてホメロスの叙事詩を愛することでギリシャ人であることをアイデンティティとして形成していたからであった<ref name="G56-8">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.56-8]].</ref>。このアイデンティティは[[ヘシオドス]]作の『[[仕事と日]]』や『[[神統記]]』にてギリシャ人精神の覚醒が描かれ、さらに[[アルキロコス]]、[[サッポー|サッフォー]]、[[テオグニス]]、[[ピンダロス]]、[[ピュタゴラス]]や[[クセノファネス]]、[[タレース]]、などが活躍した。さらに[[オリエント]]の影響を受けていた美術では厳格様式と呼ばれる様式が確立し、アテナイでは黒像様式や赧像式と呼ばれる[[陶器]]の生産も始まった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.75]].</ref>。また、この植民活動の盛んな時代、都市国家の建設があると法律の成文化が進められるようになった。このように文化的にも政治的にもギリシャが大いに発展した時代でもあった<ref>[[#モアコット(古代ギリシア)| モアコット (1998)、p.37]].</ref>。 |
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一方、果実や野菜栽培は盛んに行われており、特に[[オリーブ]]や[[ブドウ]]の栽培は多くの地域で行われていた。クレタ島やミケーネ文明の[[遺跡]]からは[[オリーブ油]]の倉庫跡が発見され、[[紀元前8世紀]]には[[葡萄酒]]の輸出記事が見られることからも分かる。 |
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=== 古典期 === |
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また農業専門書ではないものの、[[ヘシオドス]]の『[[仕事と日]]』は世界最初の[[農事暦]]とされており、[[クセノポン]]も『家政論』において農園経営論を説いている。ただし、後世の[[農学者]]からは前者の内容の評価は高いものの、後者は実際の農業を理解していないと厳しい評価をされ、特に[[マックス・ウェーバー]]からは酷評されている。[[カール・ポランニー]]は、ヘシオドスは[[互酬|互酬関係]]の崩壊について記していると指摘した<ref>ポランニー 『人間の経済2』</ref>。 |
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{{main|古典時代 (古代ギリシャ)}} |
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古典期{{#tag:ref|この名称はこの時代に発達した哲学、諸芸術、自然科学を代表とするものが現在人類にとって普遍的な存在であることから原点という意味で古典期(クラシック)と呼ばれている<ref>[[#周藤(図説ギリシア)| 周藤 (1997-b)、p.58]].</ref>。|group=#}}に入ると[[アテナイ|アテネ]]がこの時代の代表的な舞台となる。紀元前508年、[[クレイステネス]]がアテネにおいて民主制の基盤を整えて以降、アテネは[[アケメネス朝]][[ペルシア]]の二度の侵攻、いわゆる[[ペルシア戦争]]に勝利することでその名声を高めて行く。そしてアテネは[[デロス同盟]]を結び、その盟主となるとエーゲ海を支配して行き、さらに民主化が進んで行き、この時代にアテネは全盛期を迎える。しかし紀元前431年、[[スパルタ]]に破れたことでアテネは凋落し、その後、スパルタ、[[テーバイ]]とその主導権は移ってゆくが、北方の[[マケドニア王国]]の勃興によりポリスは徐々にその支配を受けて行くことになる<ref name="S28-9">[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.28-9]].</ref>。 |
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この古典期は後世の[[ヨーロッパ人]]に影響を与え、[[ルネサンス]]時代にはこの古典期に魅了され、そのすぐれた美術品や人間中心の考え方を「模範」として見出し、この時代を「古典期」とした<ref>[[#ロバーツ(世界の歴史)|ロバーツ(2003)、p.124]].</ref>。そしてこの時代、ギリシャ人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、ギリシャ人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった<ref>[[#ロバーツ(世界の歴史)|ロバーツ(2003)、p.126]].</ref>。 |
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=== ヘレニズム時代 === |
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[[ファイル:MakedonischesReich.jpg|thumb|300px|[[アレクサンドロス3世]]時の[[マケドニア王国]]の最大版図]] |
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{{main|ヘレニズム}} |
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紀元前4世紀前半、スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、さらにはその力を失墜させて行った。その中、北方で力を蓄えていた[[マケドニア王国]]の[[ピリッポス2世|フィリッポス2世]]がギリシャ本土へ勢力を伸ばしてゆく。特に[[第三次神聖戦争]]では[[隣保同盟]]の主導権を手中に収め、その後もアテネ・テーバイ連合軍を[[カイロネイアの戦い|カイロネイアにおいて撃破]]、ギリシャ征服を成し遂げた。ピリッポス2世は[[コリントス同盟|コリントス同盟(ヘラス同盟)]]を結びその盟主となってペルシア遠征を決めたが、前336年暗殺された。その後を継いだのが大王[[アレクサンドロス3世]]である<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.103-4]].</ref>。 |
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ギリシャの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロスはトリバッロイ人の反乱、イリュリア人の大蜂起、テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、コリントス同盟の会議を招集、父王フィリッポスの意志を次いでペルシア遠征を行うことを決定した。前334年春、アレクサンドロスはギリシャを出発、大遠征を開始した。前331年ペルシアを崩壊させるとそのまま東進、[[バクトリア]]、[[ソグディアナ]]を越え、インドまで到達し、[[インダス川]]を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、前323年、アレクサンドロスは熱病のため死去したが、彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.105-8]].</ref> |
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アレクサンドロスの死後、王位をめぐっての争いが発生したが、遺児[[アレクサンドロス4世]]と[[ピリッポス3世|アッリダイオス]]が共同統治することが決定されたが、「[[ディアドコイ|ディアドコイ(後継者)]]」とされる有力者、[[ペルディッカス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]、[[プトレマイオス]]、[[リュシマコス]]、[[セレウコス]]、[[エウメネス]]らの間で互いに勢力を広げるために争い、[[ディアドコイ戦争]]が勃発した。その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、さらに争った。前301年、[[イプソスの戦い]]が起ると、プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、[[プトレマイオス朝|プトレマイオス朝エジプト]]、[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]、[[リュシマコス朝]]、[[カッサンドロス朝]]がそれぞれ成立した<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.110-3]].</ref>。 |
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[[Image:Diadochen1.png|thumb|right|float|300px|ヘレニズム時代における主要ディアドコイたちの領土: |
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{{legend|#787CAD|[[プトレマイオス1世]]}} |
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{{legend|#50A249|[[カッサンドロス]]}} |
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{{legend|#C38833|[[リュシマコス]]}} |
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{{legend|#C3B933|[[セレウコス1世]]}} |
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{{legend|#AF3662|[[イピロス]]}} |
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その他の色は以下の通り: |
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{{legend|#85AB54|ギリシャ植民市}} |
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{{legend|#A361BD|[[カルタゴ]]}} |
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{{legend|#70A9BE|[[共和制ローマ|ローマ]]}} |
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オレンジ色の箇所は[[紀元前281年]]の時点では係争中であり、[[ペルガモン王国]]がこの地域の一部を占領した。[[インド・グリーク朝]]は表示していない。 |
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]] |
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ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、マケドアニアを含むギリシャ本土はその後も争いが続き、最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。リュシマコスの死去により、ギリシャ北部の防壁がなくなり、[[ガリア人]]らの侵入が始まった。南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。前227年トラキアでガリア人らを撃破したゴナタスはマケドニア王となり、ここに[[アンティゴノス朝]]が成立し、それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.114-7]].</ref>。 |
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{{seealso|マケドニア戦争}} |
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前3世紀後半に入ると[[イタリア半島]]を統一し、[[第一次ポエニ戦争]]に勝利した[[共和政ローマ|ローマ]]がバルカン半島へ進出し始めた。前229年に[[第一次イリュリア戦争]]に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。[[第二次イリュリア戦争]]に勝利したローマは[[イリュリア]]に圧力をかけ始めたが、マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、間接的ながらローマとの関係を持つようになった。イリュリアへの圧力を強めていたローマが[[第二次ポエニ戦争]]の勃発によって[[カルタゴ]]の将軍[[ハンニバル]]の攻撃を受けて[[カンナエの戦い]]に敗北すると、マケドニア王[[フィリッポス5世]]はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、これに反応したローマはこれを攻撃、ここに[[第一次マケドニア戦争]]が勃発したが、この戦いは[[フォエニケの和約]]で終息した<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.125-6]].</ref>。 |
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フィリッポス5世はシリアの[[アンティオコス3世]]と同盟するとローマの友好国[[ロドス]]、[[ペルガモン]]らはこれに脅威を覚え、ローマに支援を要請した。第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、[[第二次マケドニア戦争]]が勃発した。前197年[[キュノスケファライの戦い (紀元前197年)|キュノスケファライの戦い]]でローマが大勝するとマケドニアはギリシャ本土からの撤退を余儀なくされ、ギリシャ本土はローマの影響下に置かれた。この時、ローマの[[フラミニヌス]]はギリシャ人の自由を宣言、ギリシャ人らを歓喜させた。「このギリシアの自由の宣言」によってローマはギリシャの保護者となってギリシャ支配を強めて行った{{#tag:ref|ただし、この自由というのはあくまでもローマ支配下での自由であり、ギリシャのローマ従属を明らかにしたものでしかなかった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.126-7]].</ref>。|group=#}}<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.126-7]].</ref>。 |
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第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、その次の王[[ペルセウス]]は先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。そのため前171年[[第三次マケドニア戦争]]が勃発、前168年[[ピュドナの戦い]]でマケドニアは敗北、ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。そして前149年ペルセウスの子を名乗る[[アンドリスコス]]が蜂起、[[第四次マケドニア戦争]]が勃発したが、ローマはこれを鎮圧、マケドニアはローマの属州となった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.127-8]].</ref>。 |
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一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。前3世紀には[[アエトリア同盟|アイトリア連邦]]と[[アカイア同盟|アカイア連邦]]という連邦組織が形成され、すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシャにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、時には連携して行った。アイトリア連邦はギリシャ北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、当初こそ親ローマであったが、第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、スパルタを吸収するなどペロポネス半島で勢力を誇ったが、前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、ギリシャ世界の独立も同時に失われた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.120-2]].</ref>。 |
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== 古代ギリシャ人とは == |
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古代ギリシャにおいてギリシャ人をどう定義するかという問題がある。旧石器時代以降、ギリシャに人類が定住していたことは間違いないが、古代ギリシャ語となる言語を話していた民族は古代ギリシャ語がインド・ヨーロッパ語族に属することから前2200年頃にギリシャの方へ移動したと考えられている。古代ギリシャ語はすくなくともミケーネ時代には使用されており、この古代ギリシャ語を使用したからこそ古代ギリシャ文化が花開いた。さらに研究者の間ではギリシャ人としての自己意識が関わるとする。古代ギリシャにおいてはギリシャ人である要件に言語、出自、そして祭礼などが共通であるとヘロドトスの著した『歴史』には記載されている<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.6-9]].</ref>。 |
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== 文化 == |
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{{seealso|ギリシア美術|古代ギリシアの音楽}} |
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=== ギリシア文字 === |
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{{main|古代ギリシア語|ギリシア文字|線文字A|線文字B|ミケーネ・ギリシャ語}} |
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{{double image|right|Sitia Museum Linear A 02.jpg|120|Clay Tablet inscribed with Linear B script.jpg|120|左、線文字A。右、線文字B}} |
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古代ギリシャ語における文字はギリシャと西アジア、[[古代エジプト|エジプト]]との通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。線文字Bはクレタ島、ギリシャ本土の遺跡で発見されており、解読された結果、線文字Bはギリシャ語を元にして作成されたものであった<ref>[[#モアコット(古代ギリシア)| モアコット (1998)、pp.13-16]].</ref>、がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.50]].</ref>。 |
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前8世紀にギリシャ人たちがフェニキア人らと接触すると、それまでギリシャ人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを[[口承]]で伝ええられて来たものが、フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシャ文字を作成、文字によって内容を定着させることが可能となった。そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った<ref>[[#周藤(ギリシア考古学)|周藤 (1997-a)、p.1196]].</ref>。 |
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=== 文学 === |
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古代ギリシャにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『[[イリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』である。これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である<ref>[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.27]].</ref>。さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスやクセノファネスなども生れた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.75]].</ref>。 |
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古典期に入ると、アテナイで多くの文化が生まれた。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの三大悲劇詩人や |
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喜劇詩人として[[アリストパネス|アリストファネス]]が生まれた。そのほかにも歴史家[[トゥキュディデス]]や[[ヘロドトス]]が生まれ、さらに哲学の分野では[[ソクラテス]]、弟子の[[プラトン]]、孫弟子の[[アリストテレス]]らも存在を示した。そのほかに[[ロゴグラポス|弁論家]][[リュシアス]]や[[デモステネス]]らが生まれ[[レトリック|弁論(レトリック)]]も発達した<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.95-96]].</ref>。 |
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=== 宗教 === |
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[[File:Calyx-krater olympian assembly MAN.jpg|200px|thumb|200px|ギリシャ神話の描かれた壺、左から[[アポロン]]、[[ゼウス]]、[[ヘラ]]]] |
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{{main|ギリシャ神話}} |
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古代ギリシャでは宗教は大きな位置を占めており、アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、生活の隅々にまでその影響は及んでいた。特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、[[デルポイ|デルフィで]]の[[神託]]は未来を予知するためのものだと認識されていた。さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた<ref>[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、pp.110-111]].</ref>。 |
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古代ギリシャにおいては個人のみならずポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる<ref>[[#周藤・村田(ギリシアを知る辞典)|周藤、村田(2000)、p.111]].</ref>。 |
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[[クセノフォン]]によれば宗教儀式が最も多かったはアテネとしており、アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている<ref>[[#レベック(ギリシア文明)|レベック(1993)、p.144]].</ref>。 |
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=== オリンピュア === |
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{{main|古代オリンピック}} |
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全ギリシャの四大神域としてオリュンピア、デルフォイ、ナメア、イストミアがあり、これらの神域は全ギリシャからの崇拝を集めていた。デルフォイは神託で有名であったが、ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシャ各地のポリスが参加、前7世紀には全ギリシャ的(パンヘレニック)的な神域となった。この四年に一度開かれた競技会はエリス、ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、のちにエリスがそれを手中に収め<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.58]].</ref>、393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた<ref>[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.159]].</ref>。 |
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=== 建築 === |
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[[File:Attica 06-13 Athens 39 View from Lycabettus - Temple of Zeus.jpg|thumb|250px|アテネのゼウス神殿]] |
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{{main|ギリシア建築}} |
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ギリシャ建築はローマ時代を通じて間接的ではあるがヨーロッパの建築物に多大な影響をおよぼして来た。ミケーネ時代はキュクロプス式の城壁のように壮大なものが多く、また、クレタのミノア遺跡やサントリーニー島に現在も住居の遺跡が残されている。そしてミケーネのメガロンは古典時代の神殿に影響を与えている。 |
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また、古典期、ヘレニズム時代では昔から存在した都市は古代からの流れを汲み組織的に発達してきた。それに対して小アジアではは計画的に建設されており、この計画はグリディロンと呼ばれる<ref>[[#モアコット(古代ギリシア)| モアコット (1998)、pp.132-133]].</ref>。 |
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===商業=== |
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古代ギリシアの[[市場]]は、ポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれており、対内市場には[[アゴラ]]、対外市場には[[エンポリウム]]が存在した。アゴラには[[カペーロス]]という小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の[[再配分]]を行うための制度となり、民衆に食物を供給した。エンポリウムには[[エンポロス]]という対外交易者が居住して取り引きを行った。 |
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==植民地主義の影響== |
==植民地主義の影響== |
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ミケーネ文明は[[ハインリヒ・シュリーマン]]によって様々な遺物が発見されたが、当時、[[植民地主義]]の時代であったため意図的に改竄された可能性が |
ミケーネ文明は[[ハインリヒ・シュリーマン]]によって様々な遺物が発見されたが、当時、[[植民地主義]]の時代であったため意図的に改竄された可能性がある。クノッソス宮殿は[[ウィンザー城]]をモデルとして復元され、ミケーネで発見された[[アガメムノンのマスク]]も[[カイゼル髭]]が付け加えられた<ref name="KGCS38">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、p.38]].</ref>。 |
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これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった<ref name="KGCS38-9">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、pp.38-39]].</ref>。 |
これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった<ref name="KGCS38-9">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、pp.38-39]].</ref>。 |
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しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用され |
しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されていった<ref name="KGCS39">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、p.39]].</ref>。 |
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この暗黒時代を利用すること |
この暗黒時代を利用することで、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことで、その矛盾は再び闇から蘇ることになった<ref name="KGCS39"></ref>。 |
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エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが{{#tag:ref|古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた<ref name="KGCS40-1">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、pp.40-41]].</ref>。|group=#}}、1952年、[[マイケル・ヴェントリス]]によって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが |
エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが{{#tag:ref|古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた<ref name="KGCS40-1">[[#周藤(古代ギリシア)|周藤(2006)、pp.40-41]].</ref>。|group=#}}、1952年、[[マイケル・ヴェントリス]]によって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが判明した。1956年、ヴェントリスと[[ジョン・チャドウィック]]らが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった<ref name="KGCS40-1"/>。 |
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==色彩豊かな文明== |
==色彩豊かな文明== |
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{{seealso|エルギン・マーブル}} |
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現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、かつては鮮やかな彩色が施されていた<ref>[http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/greece.html [[NHKスペシャル]]『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回]</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/special/eyes/120622/index.html NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回]</ref>。劣化して色落ちした物もあるが[[1930年]]頃の大英博物館のスポンサー[[:w:Joseph Duveen, 1st Baron Duveen|初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン]](美術収集家・画商)の指示で[[大英博物館]]職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、CGなどによって再現する試みも行われている。日本のテレビ番組「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」では[[パルテノン神殿]]に[[プロジェクションマッピング]]で色彩を施した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/23/kiji/K20160123011906240.html 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現]</ref>。 |
現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、かつては鮮やかな彩色が施されていた<ref>[http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/greece.html [[NHKスペシャル]]『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回]</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/special/eyes/120622/index.html NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回]</ref>。劣化して色落ちした物もあるが[[1930年]]頃の大英博物館のスポンサー[[:w:Joseph Duveen, 1st Baron Duveen|初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン]](美術収集家・画商)の指示で[[大英博物館]]職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、CGなどによって再現する試みも行われている。日本のテレビ番組「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」では[[パルテノン神殿]]に[[プロジェクションマッピング]]で色彩を施した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/23/kiji/K20160123011906240.html 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現]</ref>。 |
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'''[[エルギン・マーブル]]'''を参照。 |
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==脚注== |
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==参考文献== |
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*[[ヘロドトス]] 『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] (上中下)』 [[松平千秋]]訳注、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1971年~1972年 / 改版2006年。 - 元版『世界古典文学全集10 ヘロドトス』[[筑摩書房]] |
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*[[ヘーシオドス]] 『仕事と日』 松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1986年。 |
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* {{Cite book|和書|author=ピエール・レベック著 青柳正規監修|year=1993|title=ギリシア文明<small>神話から都市国家へ</small>|publisher=創元社|isbn=4-422-21068-8|ref=レベック(ギリシア文明)}} |
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*岩片磯雄 『古代ギリシアの農業と経済』 [[大明堂]]、1988年。 |
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* {{Cite book|和書|author=ロバート・モアコット著 青木桃子訳 桜井万里子監修|year=1998|title=古代ギリシア<small>地図で読む世界の歴史</small>|publisher=河出書房新社|isbn=4-309-61182-6|ref=モアコット(古代ギリシア)}} |
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*カール・ポランニー 『[[人間の経済]]2.交易・貨幣および市場の出現』 [[玉野井芳郎]]・[[中野忠]]訳、岩波書店、1980年 / 〈岩波モダンクラシックス〉、2005年 |
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*{{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=周藤芳幸著|year=1997|title=<small>世界の考古学3</small>ギリシアの考古学|publisher=同成社|isbn=4-88921-152-6|ref=周藤(ギリシア考古学)}}→周藤 (1997-a)と表記 |
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* {{Cite book|和書|author=周藤芳幸著|year=1997|title=図説 ギリシア<small>エーゲ海文明の歴史を訪ねて</small>|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-72564-2|ref=周藤(図説ギリシア)}}→周藤 (1997-b)と表記 |
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* {{Cite book |和書 |author=周藤芳幸|author2=村田奈々子 |title=ギリシアを知る事典 |publisher=[[東京堂出版]] |date=2000-9 |isbn=978-4-490-10523-0 |ref=周藤・村田(ギリシアを知る辞典)}} |
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* {{Cite book |和書 |author=周藤芳幸著 |title=古代ギリシア <small>地中海世界への展開</small> |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |date=2006-10 |isbn=978-4-87698-816-7 |ref=周藤(古代ギリシア)}} |
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* {{Cite book|和書|author=桜井万里子著|year=1997|title=古代ギリシアの女たち<small>アテナイの現実と夢</small>|publisher=中公文庫|isbn=978-4-12-205418-9|ref=桜井(古代ギリシアの女たち)}} |
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* {{Cite book|和書|author=桜井万里子著|year=2005|title=ギリシア史|publisher=山川出版社|series=世界各国氏|isbn= |
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978-4-634-41470-9|ref=桜井(ギリシア史)}} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
2017年10月28日 (土) 18:41時点における版
ギリシャの歴史 |
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エーゲ文明 |
ヘラディック文明 |
キクラデス文明 |
ミノア文明 |
ミケーネ文明 |
古代ギリシア |
暗黒時代 |
幾何学文様期 |
アルカイック期 |
古典期 |
ヘレニズム |
ローマ帝国支配下のギリシャ |
東ローマ帝国支配下のギリシャ |
分裂時代 |
トルコクラティア (オスマン帝国支配下のギリシャ) |
近代ギリシャ |
ギリシャ独立戦争 |
(ギリシャ第一共和政) |
ギリシャ王国 |
国家分裂 (ギリシャ王国) |
ギリシャ第二共和政 |
八月四日体制 |
第二次世界大戦時のギリシャ |
ギリシャ内戦 |
ギリシャ軍事政権 |
ギリシャ第三共和政 |
その他 |
ギリシア美術 |
この項目では、太古から古代ローマに占領される以前までの古代ギリシアを扱う。
石器時代
ギリシャにおいて発見された最古の人類はハルキディキ半島(Χαλκιδική χερσόνησος)ペトラロナで発見されペトラロナ人で、彼等はホモ・エレクトゥスとネアンデルタール人の形質の特徴を持ち合わせており、およそ20万年から40万年前までにさかのぼると考えられている。彼らが活動したこの時代がギリシャにおける前期旧石器時代と推測され、ギリシャにおいて人類の活動が始まったのはこの時代とほぼ考えられている。また、15万年前になると、生活の痕跡が増加し、この時代が中期旧石器時代と考えられている[1][2]。
その後、およそ6万年前の中期旧石器時代になると化石人類に代わって、旧人の活動が見られ、環東地中海世界によくみられるムスティエ文化の特徴が見られ、イピルス、テッサリア、エリス、アルゴリス、クレタ島などで剥片が発見されており、特にアルゴリスにあるフランクティ洞窟ではルヴァロア技法の剥片が発見されている[2][3]。5 万年ほど前に至ると最終氷期に突入、海面は下降し、この時代に新人の時代に移った[4]。その後、三万年前になると後期旧石器時代に入るが、この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる[1]。また、この時代、狩猟の方法も組織的なものへ変化し、さらには石器の加工技術も進み、洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる[5]。
中石器時代に至ると、温暖化が進み、海岸線も上昇した。それまでの狩猟生活から蓄える生活への転換が見られ、フランクティ洞窟でも黒曜石[# 1]や魚の骨が発見され、また、スポラデス諸島のユウラ島のキクロパス洞窟でも魚の骨や釣り針などが発見されており、これらの遺物から当時ギリシャに住まう人々が海洋へ積極的に進出していることが想像され、この時代がギリシャにおける重要な岐路であったと想像されている[6]。
分類 | 年代 |
---|---|
初期 | 前7000‐前5800 |
中期 | 前5800‐前5300 |
後期 | 前5300‐前4500 |
末期 | 前4500‐前3200 |
前7000年になるとギリシャは新石器時代に入り、この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。この新石器時代は過去には無土器時代があり、農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、この説は1980年代に疑義が呈され、ギリシャの新石器時代は土器などの文化を含めて西アジアより伝播したと考えられる。この時代に至ると、大麦、小麦(アインコルン、エンマー)を基本穀物としてレンズ豆などが栽培されるようになり、さらには山羊、羊、豚、牛、犬などの家畜[# 2]も扱われるようになった。この時代のギリシャは初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、豊富な水と肥沃な土壌の存在する地域であるギリシャ北方が先進地域で、テッサリアやマケドニアの平野[# 3]が初期農耕が行われ、ギリシャ南部ではさほど集落の数も見られない。そして、キクラデス諸島へ新石器文化がこの後、導入されてゆくが、これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている[10]。
初期新石器時代に入ると、土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、中石器時代に至ると様々な形が現れ、地域による違いも見られるようになってゆく。特にセスクロ文化(テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれると独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネス半島に存在しており、この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている[9]。また、土偶も多く発見されており、エーゲ海では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている[11]。
後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニのアクロポリスではその後訪れるミケーネ時代を先取りした独特の構造を構成しており、周壁が築かれ、これはメガロン形式の先取りと考えられている。また、オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、後期新石器時代から末期石器時代に登場した銅製の武器の存在から、集落間での戦いが行われていたことが想像される。なお、この冶金術はブルガリア方面から伝わったと考えられており、そのほか、エーゲ海産の貝を利用したブレスレッドがポーランドで発見されていることから、この時代の交易の広さが想像される[11]。
しかし末期新石器時代に至ると、マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。ディロスのアレポトリュパ洞窟やナクソス島のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製探検も見つかっており、このことか想像される。そのため、初期青銅器時代への発展が単純には考えられないが、上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、今後の調査、研究が進められることが望まれている[12]。
青銅器時代
ギリシャでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、新石器時代に中心を成してきたギリシャ北部からギリシャ南部へと文化の中心が移動している。これは「地中海の三大作物」のオリーブとブドウの栽培が要因と考えられ、これらの作物はギリシャ南部における丘陵地帯での栽培に適していた。これらの作物から取れるオリーブオイルとブドウ酒は交易品として高い価値を持っており、ギリシャがその後地中海の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる[13]。
初期青銅器時代はギリシャ本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立されており、この時代に「ギリシャらしさ」がそれまでの時代よりより明確に表れて来る[14]。特にキクラデス諸島のナクソス島やパロス島、シロス島などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、石積みの単葬墓がグループを成しており、初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれこれがさらにケロス・シロス文化に進化すると、渦巻文のある「フライパン」や彩文土器なども存在する。特に石偶は新石器時代のものとは異なり両手を前で組んだポーズを取って居るものが多く見られる[15]。
ギリシャ本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、多数の墓地が発見され、大理石石偶も発見されている。また、カストリ・グループと呼ばれるアナトリアに関係する文化も現れている。なお、この時代にギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流があったとみられるが、同じように青銅器文化が始まっていたクレタ島はこれらとの文化交流はなく、単独での進化を進めていたと考えられ、初期青銅器時代の後期にギリシャ本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている[16]。
中期青銅器時代に入ると、初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシャ本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。すなわち、ギリシャ本土では文化的後退を示し、集落にも大規模な建築物は存在せず、また、初期青銅器末期に作成されたミニュアス土器や灰色磨研土器、中期青銅器時代に作成された鈍彩土器はそれ以前の時代、およびその後の時代と比べても創意工夫に貧弱である。そしてエーゲ海の島々ではそれまで独自に文化を進めていたが、この時代にクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく[17]。
一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。ギリシャ本土でも宮殿は初期青銅器時代に建築されていたが、クレタ島での宮殿はそれとは比べようもないほど巨大なものが作成される。また、カマレス土器のようなギリシャ本土のものとは比べようのない土器が作成され、数々の工芸品も生産され、ミノア文明はこの時代に繁栄を迎えるが、中期青銅器時代の後期に地震による被害を受けたと想像されているが、この時、損傷した宮殿は以前よりも規模を拡大して再建されている。この地震以前の宮殿を古宮殿、地震後を新宮殿を呼んでいる[17]。
このように中期青銅器時代には低迷を極めたギリシャ本土であるが、後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。これがいわゆるミケーネ文明で、その文化はペロポネソス半島にとどまらずギリシャ中部にまで広がりを見せて行く。それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、ミケーネ文明はその後、エーゲ海、シチリア島、キプロス島へと広がりを見せて行く。そして線文字Bも使われ、ミケーネ文明は発展を続けてゆくかに見えたが、ここで突如として前1200年のカタストロフに襲われ、突如終焉を迎える。が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている[18]。
鉄器時代
前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、その後ポリスが成立するまでの時代は文字資料もなく、また海外との交渉も低調で、さらには考古学的証拠も乏しいため、俗に「暗黒時代」と呼ばれる。しかし、ギリシャで文化がすべて死に絶えたわけではなく、ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、前900 年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。そのほか、後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている[19]。
前8世紀になるとギリシャ各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。ミケーネ時代の叙事詩であるホメロスの作品が流行し、これはギリシャ人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった[20]。これらの作品はフェニキア人との接触によってアルファベットが成立したことが重要要因であるが、それ以上にそのアルファベットの起源となったフェニキア文字をもたらしたフェニキア人との接触が重要な意味を持っていた。すなわち、ギリシャ人としてのアイデンティティを構築したことである。このホメロスの叙事詩はギリシャ人らが自らの民族的同一性を再確認することを支えたと考えられ、アルファベットの成立を商業的理由よりもホメロスの叙事詩を文字であらわすことであったとする説も存在する[21]。このホメロスの叙事詩はギリシャ人らの聖典となり、行動規範の元となった。そして、この叙事詩の流行と英雄祭祀が同時に流行したことでギリシャ人らが祖先の偉業をたたえるようになって行った。[22]
この様々な進化を遂げた前8世紀をルネサンスの時代と呼ぶことあるが、これは近世のルネサンスと同じように「過去」の文化を文字通り「再生」したことを意味している。それまで経済的な利用をしていた線文字Bからアルファベットへ、支配者の君臨する宮殿から神々の神殿へ、都市もメガロンのような城塞ではなく広場(アゴラ)を中心としたものへとの進化を遂げ、その後のポリスの時代へとつながってゆく[23]。
古代ギリシャにおいてはエウボイア島においていち早くポリスが形成された。エウボイアでは東方と交易をおこなっていたことがエウボイア産の土器の出土で判明しているが、その経済活動がカルキスとエレトリアというポリスの成立を産み、両ポリスがレラントス平野で周辺諸ポリスを巻き込んだレラントス戦争はギリシャにおける最初の国際的な陸戦であったと想像されている[24]。また、サロニア島のポリスでも商業活動を積極に行うことで繁栄し、ソストラトスという商人がヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)にまで到達するまでの交易をおこなっており、さらには古代ギリシャにおいてはじめて貨幣を発行したのも同島のアイギナであった[25]。
さらにキクラデス諸島においてはイオニア人がケオス、シフノス、パロス、ナクソス、ミュコノス、テノスへ移住、ドーリス人はメロス、シキノス、テラへ移住した。そのなかでもデロス島のアポロン神殿はナクソスの影響下のもとにあった。そのナクソスは一時期、アテネの介入によりリュグダミスによる僭主政が行われるが、僭主政が終るとナクソスはキクラデス諸島における強国となってゆく[26]。
前古典期
前8世紀以降、神殿を中心とした大規模な建築物が再び建設されるようになり、いわゆるポリス(都市国家)が形成されてゆく。そしてそのポリスを中心にして、地中海や黒海へ植民を行ったことからこの時代を植民時代と呼ぶこともある。この植民活動はポリスにおける党派争いから破れた人々が行ったことなどもあり、まだまだ揺籃期にあったポリスにおいて混乱を避けるための安全弁的な意味もあった。また、有力な市民が独裁者となる僭主政なども発生し、これの代表者としてはコリントスのキュプセロスやアテナイのペイシストラトスなどが挙げられる[27]。
また、この時代は植民活動の始まった時代でもあった。植民活動の初期は金属資源を求めるなど交易を求めての活動であったが、徐々に各地にポリスを形成して行きシチリア、南イタリア、アフリカ北岸、黒海沿岸などへ植民市を形成して行った。この植民活動によりギリシャ人は地中海全域に渡り交易活動を活発に行うようになり、各地にそれぞれのポリスを築いてゆき、それぞれの活動を行うが、文化面では共通のものを育んでいった。それは共通の神々を崇め、そしてホメロスの叙事詩を愛することでギリシャ人であることをアイデンティティとして形成していたからであった[28]。このアイデンティティはヘシオドス作の『仕事と日』や『神統記』にてギリシャ人精神の覚醒が描かれ、さらにアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロス、ピュタゴラスやクセノファネス、タレース、などが活躍した。さらにオリエントの影響を受けていた美術では厳格様式と呼ばれる様式が確立し、アテナイでは黒像様式や赧像式と呼ばれる陶器の生産も始まった[29]。また、この植民活動の盛んな時代、都市国家の建設があると法律の成文化が進められるようになった。このように文化的にも政治的にもギリシャが大いに発展した時代でもあった[30]。
古典期
古典期[# 4]に入るとアテネがこの時代の代表的な舞台となる。紀元前508年、クレイステネスがアテネにおいて民主制の基盤を整えて以降、アテネはアケメネス朝ペルシアの二度の侵攻、いわゆるペルシア戦争に勝利することでその名声を高めて行く。そしてアテネはデロス同盟を結び、その盟主となるとエーゲ海を支配して行き、さらに民主化が進んで行き、この時代にアテネは全盛期を迎える。しかし紀元前431年、スパルタに破れたことでアテネは凋落し、その後、スパルタ、テーバイとその主導権は移ってゆくが、北方のマケドニア王国の勃興によりポリスは徐々にその支配を受けて行くことになる[32]。
この古典期は後世のヨーロッパ人に影響を与え、ルネサンス時代にはこの古典期に魅了され、そのすぐれた美術品や人間中心の考え方を「模範」として見出し、この時代を「古典期」とした[33]。そしてこの時代、ギリシャ人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、ギリシャ人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった[34]。
ヘレニズム時代
紀元前4世紀前半、スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、さらにはその力を失墜させて行った。その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国のフィリッポス2世がギリシャ本土へ勢力を伸ばしてゆく。特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、ギリシャ征服を成し遂げた。ピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結びその盟主となってペルシア遠征を決めたが、前336年暗殺された。その後を継いだのが大王アレクサンドロス3世である[35]。
ギリシャの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロスはトリバッロイ人の反乱、イリュリア人の大蜂起、テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、コリントス同盟の会議を招集、父王フィリッポスの意志を次いでペルシア遠征を行うことを決定した。前334年春、アレクサンドロスはギリシャを出発、大遠征を開始した。前331年ペルシアを崩壊させるとそのまま東進、バクトリア、ソグディアナを越え、インドまで到達し、インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、前323年、アレクサンドロスは熱病のため死去したが、彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった[36]
アレクサンドロスの死後、王位をめぐっての争いが発生したが、遺児アレクサンドロス4世とアッリダイオスが共同統治することが決定されたが、「ディアドコイ(後継者)」とされる有力者、ペルディッカス、アンティゴノス、プトレマイオス、リュシマコス、セレウコス、エウメネスらの間で互いに勢力を広げるために争い、ディアドコイ戦争が勃発した。その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、さらに争った。前301年、イプソスの戦いが起ると、プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、リュシマコス朝、カッサンドロス朝がそれぞれ成立した[37]。
ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、マケドアニアを含むギリシャ本土はその後も争いが続き、最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。リュシマコスの死去により、ギリシャ北部の防壁がなくなり、ガリア人らの侵入が始まった。南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。前227年トラキアでガリア人らを撃破したゴナタスはマケドニア王となり、ここにアンティゴノス朝が成立し、それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた[38]。
前3世紀後半に入るとイタリア半島を統一し、第一次ポエニ戦争に勝利したローマがバルカン半島へ進出し始めた。前229年に第一次イリュリア戦争に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。第二次イリュリア戦争に勝利したローマはイリュリアに圧力をかけ始めたが、マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、間接的ながらローマとの関係を持つようになった。イリュリアへの圧力を強めていたローマが第二次ポエニ戦争の勃発によってカルタゴの将軍ハンニバルの攻撃を受けてカンナエの戦いに敗北すると、マケドニア王フィリッポス5世はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、これに反応したローマはこれを攻撃、ここに第一次マケドニア戦争が勃発したが、この戦いはフォエニケの和約で終息した[39]。
フィリッポス5世はシリアのアンティオコス3世と同盟するとローマの友好国ロドス、ペルガモンらはこれに脅威を覚え、ローマに支援を要請した。第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、第二次マケドニア戦争が勃発した。前197年キュノスケファライの戦いでローマが大勝するとマケドニアはギリシャ本土からの撤退を余儀なくされ、ギリシャ本土はローマの影響下に置かれた。この時、ローマのフラミニヌスはギリシャ人の自由を宣言、ギリシャ人らを歓喜させた。「このギリシアの自由の宣言」によってローマはギリシャの保護者となってギリシャ支配を強めて行った[# 5][41]。
第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、その次の王ペルセウスは先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。そのため前171年第三次マケドニア戦争が勃発、前168年ピュドナの戦いでマケドニアは敗北、ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。そして前149年ペルセウスの子を名乗るアンドリスコスが蜂起、第四次マケドニア戦争が勃発したが、ローマはこれを鎮圧、マケドニアはローマの属州となった[42]。
一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。前3世紀にはアイトリア連邦とアカイア連邦という連邦組織が形成され、すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシャにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、時には連携して行った。アイトリア連邦はギリシャ北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、当初こそ親ローマであったが、第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、スパルタを吸収するなどペロポネス半島で勢力を誇ったが、前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、ギリシャ世界の独立も同時に失われた[43]。
古代ギリシャ人とは
古代ギリシャにおいてギリシャ人をどう定義するかという問題がある。旧石器時代以降、ギリシャに人類が定住していたことは間違いないが、古代ギリシャ語となる言語を話していた民族は古代ギリシャ語がインド・ヨーロッパ語族に属することから前2200年頃にギリシャの方へ移動したと考えられている。古代ギリシャ語はすくなくともミケーネ時代には使用されており、この古代ギリシャ語を使用したからこそ古代ギリシャ文化が花開いた。さらに研究者の間ではギリシャ人としての自己意識が関わるとする。古代ギリシャにおいてはギリシャ人である要件に言語、出自、そして祭礼などが共通であるとヘロドトスの著した『歴史』には記載されている[44]。
文化
ギリシア文字
古代ギリシャ語における文字はギリシャと西アジア、エジプトとの通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。線文字Bはクレタ島、ギリシャ本土の遺跡で発見されており、解読された結果、線文字Bはギリシャ語を元にして作成されたものであった[45]、がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった[46]。
前8世紀にギリシャ人たちがフェニキア人らと接触すると、それまでギリシャ人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを口承で伝ええられて来たものが、フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシャ文字を作成、文字によって内容を定着させることが可能となった。そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った[47]。
文学
古代ギリシャにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である[48]。さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスやクセノファネスなども生れた[49]。
古典期に入ると、アテナイで多くの文化が生まれた。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの三大悲劇詩人や 喜劇詩人としてアリストファネスが生まれた。そのほかにも歴史家トゥキュディデスやヘロドトスが生まれ、さらに哲学の分野ではソクラテス、弟子のプラトン、孫弟子のアリストテレスらも存在を示した。そのほかに弁論家リュシアスやデモステネスらが生まれ弁論(レトリック)も発達した[50]。
宗教
古代ギリシャでは宗教は大きな位置を占めており、アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、生活の隅々にまでその影響は及んでいた。特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた[51]。
古代ギリシャにおいては個人のみならずポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる[52]。
クセノフォンによれば宗教儀式が最も多かったはアテネとしており、アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている[53]。
オリンピュア
全ギリシャの四大神域としてオリュンピア、デルフォイ、ナメア、イストミアがあり、これらの神域は全ギリシャからの崇拝を集めていた。デルフォイは神託で有名であったが、ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシャ各地のポリスが参加、前7世紀には全ギリシャ的(パンヘレニック)的な神域となった。この四年に一度開かれた競技会はエリス、ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、のちにエリスがそれを手中に収め[54]、393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた[55]。
建築
ギリシャ建築はローマ時代を通じて間接的ではあるがヨーロッパの建築物に多大な影響をおよぼして来た。ミケーネ時代はキュクロプス式の城壁のように壮大なものが多く、また、クレタのミノア遺跡やサントリーニー島に現在も住居の遺跡が残されている。そしてミケーネのメガロンは古典時代の神殿に影響を与えている。 また、古典期、ヘレニズム時代では昔から存在した都市は古代からの流れを汲み組織的に発達してきた。それに対して小アジアではは計画的に建設されており、この計画はグリディロンと呼ばれる[56]。
植民地主義の影響
ミケーネ文明はハインリヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性がある。クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた[57]。
これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった[58]。
しかし、この専制君主のイメージは、古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されていった[59]。
この暗黒時代を利用することで、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことで、その矛盾は再び闇から蘇ることになった[59]。
エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが[# 6]、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが判明した。1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった[60]。
色彩豊かな文明
現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、かつては鮮やかな彩色が施されていた[61][62]。劣化して色落ちした物もあるが1930年頃の大英博物館のスポンサー初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン(美術収集家・画商)の指示で大英博物館職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、CGなどによって再現する試みも行われている。日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」ではパルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した[63]。
脚注
注釈
- ^ ギリシャではエーゲ海のミロス島でしか産出しない[6]。
- ^ 山羊、羊に関しては野生種の存在がギリシャでは確認されていないため、アナトリア方面から移入してきたことが確実視されている[8]。
- ^ この地域にはマグーラと呼ばれる小高い丘が存在するが、これは西アジアのテルに相当する新石器時代の集落址であることが多い[9]。
- ^ この名称はこの時代に発達した哲学、諸芸術、自然科学を代表とするものが現在人類にとって普遍的な存在であることから原点という意味で古典期(クラシック)と呼ばれている[31]。
- ^ ただし、この自由というのはあくまでもローマ支配下での自由であり、ギリシャのローマ従属を明らかにしたものでしかなかった[40]。
- ^ 古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた[60]。
参照
- ^ a b 桜井(2005)、p.16.
- ^ a b 周藤 (1997)、pp.20-21.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.19-20.
- ^ 周藤 (1997)、p.2Ⅰ.
- ^ 周藤 (1997)、p.22.
- ^ a b 桜井(2005)、p.17.
- ^ 木戸(1977)、p.188.
- ^ 桜井(2005)、p.19.
- ^ a b 桜井(2005)、p.20.
- ^ 桜井(2005)、pp.17-20.
- ^ a b 桜井(2005)、p.21.
- ^ 桜井(2005)、p.22.
- ^ 桜井(2005)、pp.22-23.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.22.
- ^ 桜井(2005)、p.24.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.23.
- ^ a b 周藤、村田(2000)、p.24.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.25-6.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.26-7.
- ^ 周藤、村田(2000)、p.27.
- ^ 桜井(2005)、pp.48-9.
- ^ 周藤 (1997-b)、p.56.
- ^ 桜井(2005)、p.50.
- ^ 桜井(2005)、p.68.
- ^ 桜井(2005)、p.69.
- ^ 桜井(2005)、pp.69-70.
- ^ 周藤、村田(2000)、pp.27-8.
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- ^ 桜井(2005)、p.75.
- ^ モアコット (1998)、p.37.
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- ^ ロバーツ(2003)、p.124.
- ^ ロバーツ(2003)、p.126.
- ^ 桜井(2005)、pp.103-4.
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- ^ 桜井(2005)、pp.114-7.
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- ^ 桜井(2005)、pp.127-8.
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- ^ 周藤 (1997-a)、p.1196.
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- ^ レベック(1993)、p.144.
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- ^ モアコット (1998)、pp.132-133.
- ^ 周藤(2006)、p.38.
- ^ 周藤(2006)、pp.38-39.
- ^ a b 周藤(2006)、p.39.
- ^ a b 周藤(2006)、pp.40-41.
- ^ NHKスペシャル『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回
- ^ NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回
- ^ 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現
参考文献
- ピエール・レベック著 青柳正規監修『ギリシア文明神話から都市国家へ』創元社、1993年。ISBN 4-422-21068-8。
- ロバート・モアコット著 青木桃子訳 桜井万里子監修『古代ギリシア地図で読む世界の歴史』河出書房新社、1998年。ISBN 4-309-61182-6。
- 周藤芳幸著『世界の考古学3ギリシアの考古学』同成社、1997年。ISBN 4-88921-152-6{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。→周藤 (1997-a)と表記
- 周藤芳幸著『図説 ギリシアエーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房新社、1997年。ISBN 978-4-309-72564-2。→周藤 (1997-b)と表記
- 周藤芳幸、村田奈々子『ギリシアを知る事典』東京堂出版、2000年9月。ISBN 978-4-490-10523-0。
- 周藤芳幸著『古代ギリシア 地中海世界への展開』京都大学学術出版会、2006年10月。ISBN 978-4-87698-816-7。
- 桜井万里子著『古代ギリシアの女たちアテナイの現実と夢』中公文庫、1997年。ISBN 978-4-12-205418-9。
- 桜井万里子著『ギリシア史』山川出版社〈世界各国氏〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。