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== ねつ造写真の誤用問題 == |
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[[1998年]] 、笠原は、前年11月発行の著書『南京事件』III章の扉の写真として、米国の[[スタンフォード大学]]フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。 |
[[1998年]] 、笠原は、前年11月発行の著書『南京事件』III章の扉の写真として、米国の[[スタンフォード大学]]フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。しかし、この写真は実際には『[[アサヒグラフ]]』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが[[秦郁彦]]により『[[産経新聞]]』<ref>「産経新聞」1999年3月1日付 (東京版は2月28日付夕刊)</ref>ならびに『[[諸君!]]』<ref>秦郁彦「『南京虐殺』ー証拠写真を鑑定する」『諸君!』1998年4月号</ref>において指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を[[中国国民政府]]軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず自らが誤用したとして、撮影者の故[[熊崎玉樹]]カメラマン・朝日新聞・読者に謝罪し、秦に謝意を表した<ref>[[岩波書店]]『図書』1998年4月号、[[岩波書店]]、pp. 26-27.</ref>。これを受け、[[岩波書店]]も同じページに「読者の皆さまへ」と題した謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替え、初版本の取り換えにも応じた<ref>後年、『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』は[[東中野修道]]からその信憑性について疑義が出された(東中野『南京事件「証拠写真」を検証する』)が、それについても笠原は批判・反論している(笠原『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』)。</ref><ref>この件について[[井沢元彦]]は、こんなことをすれば研究者としての信用度が著しく下がってしまうので、笠原が意図的におこなったとは思わないが、「[[南京事件 (1937年)|南京事件]]」や「[[強制連行]]」を否定する者は「日中友好の敵」という偏見があり、だからこそ検証もせずに中国から出た写真とキャプションを簡単に使用してしまうのではないか、と述べている(井沢元彦『逆説のニッポン歴史観』176頁)</ref>。 |
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== 『未来をひらく歴史』 == |
== 『未来をひらく歴史』 == |
2017年7月13日 (木) 08:51時点における版
笠原 十九司(かさはら とくし、1944年 - )は、日本の歴史学者。都留文科大学名誉教授。専門は中国近現代史。
人物・経歴
群馬県生まれ。群馬県立前橋高等学校、東京教育大学文学部卒業。同大学院修士課程中退。宇都宮大学教育学部教授、都留文科大学教授を経て、1999年より南京師範大学南京大虐殺研究センター客員教授、2000年より南開大学歴史学部の客員教授を務める。
2009年の東京大学学術博士論文は「第一次世界大戦期の中国民族運動と東アジア国際関係」[1]。
日中戦争初期に起きたとされる南京事件研究者の1人。南京大虐殺紀念館の虐殺犠牲者を三十万人以上とする見解は根拠がなく過大に見積もられているとするものの、城外、郊外、長江岸の中国人軍人の死者も含めた数を十万人以上と推計している(ただし、城内における虐殺は否定している)[2]。本来は中国近代経済史が専門だったが、1980年代半ばから南京事件の研究を開始し、歴史認識論争に巻き込まれたことで、戦史研究が主となった。現在は韓国の東北アジア歴史財団やピースボートが主催する国際教科書会議の日本側代表として参加している[3]。
ねつ造写真の誤用問題
1998年 、笠原は、前年11月発行の著書『南京事件』III章の扉の写真として、米国のスタンフォード大学フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した『日寇暴行実録』(中国国民政府軍事委員会政治部、1938年)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった)。しかし、この写真は実際には『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦により『産経新聞』[4]ならびに『諸君!』[5]において指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を中国国民政府軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず自らが誤用したとして、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン・朝日新聞・読者に謝罪し、秦に謝意を表した[6]。これを受け、岩波書店も同じページに「読者の皆さまへ」と題した謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替え、初版本の取り換えにも応じた[7][8]。
『未来をひらく歴史』
日本・中国・韓国の研究者が編集した学校副教材『未来をひらく歴史』の執筆者である。下川正晴は、同書の内容を批判している。
著書
単著
- 『ファミリー版 世界と日本の歴史(9)現代1』(大月書店, 1988年)
- 『アジアの中の日本軍――戦争責任と歴史学・歴史教育』(大月書店, 1994年)
- 『南京難民区の百日――虐殺を見た外国人』(岩波書店, 1995年/岩波現代文庫, 2005年)
- 『日中全面戦争と海軍――パナイ号事件の真相』(青木書店, 1997年)
- 『南京事件』(岩波書店[岩波新書], 1997年)
- 『南京事件と三光作戦―未来に生かす戦争の記憶』(大月書店, 1999年)
- 『南京事件と日本人――戦争の記憶をめぐるナショナリズムとグローバリズム』(柏書房, 2002年)
- 『同時代 笠原十九司歌集』(本阿弥書店, 2003年)
- 『体験者27人が語る南京事件――虐殺の「その時」とその後の人生』(高文研, 2006年)
- 『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書, 2007年)
- 『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店, 2008年)
共編著
- (鈴木亮)『写真記録日中戦争(全6巻)』 (ほるぷ出版, 1995年)
- 『歴史の事実をどう認定しどう教えるか:検証731部隊・南京虐殺事件・「従軍慰安婦」』(教育史料出版会, 1997年)
- 『「中国人20万人大虐殺」を否定したがる論者へ!』(小学館「SAPIO」、1998年12月23日号)
- 『南京大虐殺否定論13のウソ』(南京事件調査研究会,柏書房,1999年)著者は井上久士、小野賢二、笠原十九司、藤原彰、本多勝一、吉田裕、渡辺春巳
- 『未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史』』(日中韓3国共通歴史教材委員会,高文研,2005年)日本側執筆者は、板垣竜太、大日方純夫、笠原十九司、金富子、糀谷陽子、斎藤一晴、柴田健、宋連玉、田中行義、俵義文、坪川宏子、松本武祝、丸浜江里子
- (吉田裕)『現代歴史学と南京事件』(柏書房, 2006年)
脚注
- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ 詳細は南京事件論争を参照。
- ^ 民団新聞 2011-11-02 欧州の「教科書対話」に学ぶ…韓日中が未来志向で最良の共通教材作りへ [1]
- ^ 「産経新聞」1999年3月1日付 (東京版は2月28日付夕刊)
- ^ 秦郁彦「『南京虐殺』ー証拠写真を鑑定する」『諸君!』1998年4月号
- ^ 岩波書店『図書』1998年4月号、岩波書店、pp. 26-27.
- ^ 後年、『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』は東中野修道からその信憑性について疑義が出された(東中野『南京事件「証拠写真」を検証する』)が、それについても笠原は批判・反論している(笠原『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』)。
- ^ この件について井沢元彦は、こんなことをすれば研究者としての信用度が著しく下がってしまうので、笠原が意図的におこなったとは思わないが、「南京事件」や「強制連行」を否定する者は「日中友好の敵」という偏見があり、だからこそ検証もせずに中国から出た写真とキャプションを簡単に使用してしまうのではないか、と述べている(井沢元彦『逆説のニッポン歴史観』176頁)