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「ラエ・サラモアへの空襲」の版間の差分

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| strength1=軽巡洋艦1<br />駆逐艦6<br />敷設艦1<br />特設艦船8<br />輸送船2<br /><ref group="注釈">支援部隊、基地航空部隊、陸上部隊および基地要員は含まず。</ref>
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| casualties1=特設艦船3、輸送船1沈没<br />軽巡洋艦1、駆逐艦2、敷設艦1、特設艦船2、輸送船1損傷<br />戦死・行方不明130名、負傷245
| casualties1=特設艦船3、輸送船1沈没<br />軽巡洋艦1、駆逐艦2、敷設艦1、特設艦船2、輸送船1損傷<br />戦死130名以上(陸軍6、海軍126)、負傷約260(陸軍17、海軍240)<ref name="叢書三五564">[[#叢書35|戦史叢書35巻]]、564-566頁「ラエ、サラモアの占領と航空戦の激化」</ref>
| casualties2=航空機1
| casualties2=航空機1<ref name="叢書十四80">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、80-81頁「サラモア空襲」</ref>
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}}
'''ラエ・サラモアへの空襲'''(ラエ・サラモアへのくうしゅう)とは、[[太平洋戦争]]初期の[[1942年]](昭和17年)3月10日[[ニューギニア島]]東部の[[ラエ]]および[[サラマウア|サラモア]]への上陸および占領を行った日本軍に対し本来は[[ラバウル]]攻撃を企図していた[[アメリカ海軍]]機動部隊が襲を仕掛け、ラエとサラモア沖に展開ていた日本軍艦船に大打撃を与えた戦闘である。6月5日の[[ミッドウェー海戦]]以前において、アメリカ動部隊の攻撃によって受けた被としては最のものであり、南東方面における作戦進行に遅れをもたらす結果となった。日本軍はその痛手にもかかわらずラエとサラモアの航空基地を確保し、[[ポートモレスビー作戦]]の支援にあたった
'''ラエ・サラモアへの空襲'''(ラエ・サラモアへのくうしゅう)とは、[[太平洋戦争]]初期の[[1942年]](昭和17年)3月10日[[ニューギニア島]]東部の[[ラエ]]および[[サラマウア|サラモア]]に展開する日本海軍と日本陸軍に対し<ref name="叢書三五564" />、[[アメリカ海軍]]の[[機動部隊]]襲を敢行した戦闘<ref name="叢書102、S17.03.10">[[#叢書102|史叢書102巻]]、111頁「昭和17年(1942年)3月10日、ラエ・サラモ方面在泊艦船、米軍艦載機の攻撃受け害大」</ref>


== 概要 ==
本項では3月10日の空襲を軸に、ラエとサラモアの攻略が開始された3月8日から、ラエからの航空作戦が開始された3月13日までの間の出来事とその背景を中心として解説する。
'''ラエ・サラモアへの空襲'''は、太平洋戦争([[大東亜戦争]])<ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、102-103頁「大東亞戦争と呼称決定」</ref>初期の[[1942年]](昭和17年)3月10日、[[ニューギニア島]]東部の[[ラエ]]および[[サラマウア|サラモア]]に展開していた日本軍に対し、空母2隻([[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]、[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]])を基幹とするアメリカ海軍機動部隊が艦載機による奇襲を敢行し、日本軍艦船に大損害を与えた一連の戦闘<ref name="叢書102、S17.03.10" /><ref name="叢書八十180">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、180-181頁「ラエ、サラモアの攻略と米空母の来襲」</ref>。

日本海軍の南洋部隊(指揮官[[井上成美]]海軍中将、[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]司令長官)と麾下の日本陸軍[[第55師団 (日本軍)|南海支隊]](指揮官[[堀井富太郎]]陸軍少将)を主力として[[1942年]](昭和17年)1月23日<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、103頁「昭和17年(1942年)1月23日」</ref>に[[ニューブリテン島]]の[[ラバウル]]を占領した日本軍は<ref>[[#叢書35|戦史叢書35巻]]、329-331頁「ラバウル攻略」</ref><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、134-136頁「ラバウル攻略作戦決定と攻略」</ref>、つづいて連合軍の重要拠点[[ポートモレスビー]]を目指して[[ニューギニア島]]東部(サラモア、ラエ)の攻略を目指した<ref name="叢書八十173">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、173-175頁「ポートモレスビー島の攻略下令」</ref>('''SR作戦''')<ref name="隈部254">[[#隈部2017|海防艦戦記]]、254-255頁「▽東部ニューギニア攻略」</ref><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、400頁「付録第一、陸海軍の秘匿作戦名称/SR(エスアール)作戦」</ref>。
南洋部隊麾下の海軍艦艇(第六水雷戦隊司令官[[梶岡定道]]少将〈旗艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]〉、第十九戦隊司令官[[志摩清英]]少将〈旗艦[[津軽 (敷設艦)|津軽]]〉、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将〈旗艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]]〉)は、[[海軍陸戦隊]]と南海支隊(歩兵第144連隊第2大隊長、堀江正少佐)<ref name="叢書十四60">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、60-62頁「陸海軍現地協定と南海支隊の攻略命令」</ref>を護衛して3月5日にラバウルを出撃<ref name="叢書三五564" />、六水戦(夕張、第29駆逐隊、第30駆逐隊)護衛下の輸送船と艦艇は3月8日にニューギニア東部のラエとサラモアに到着し{{sfn|青春の棺|1979|pp=54-55|ps=忘れ得ぬサラモア}}、同地を占領した<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、111頁「昭和17年(1942年)3月8日」</ref><ref name="叢書七06">[[#叢書07|戦史叢書7巻]]、6-7頁「ポートモレスビーの海路攻略企図」</ref>。日本軍は飛行場を占領して整備を開始したが<ref name="叢書七06" />、3月10日の空襲開始時点で海軍戦闘機隊([[零式艦上戦闘機]])は未着であった<ref name="叢書十四73">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、73-74頁「上陸後の空襲」</ref>。

日本軍のニューギニア進攻に対し、連合軍は[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]などによる空襲を開始した<ref name="隈部254" />。さらに[[ラバウル]]攻撃を企図していた[[アメリカ海軍]]機動部隊が予定を変更し、ニューギニアにむかう<ref name="叢書十四80" />。3月10日、ラエとサラモア沖に展開していた日本軍艦船にレキシントン艦載機とヨークタウン艦載機は奇襲攻撃を敢行、在泊18隻中4隻が沈没し<ref name="叢書三五564" />、攻略部隊旗艦の夕張を含め艦艇多数が損傷した<ref name="叢書八十180" />。

6月5日の[[ミッドウェー海戦]]以前において、アメリカ機動部隊の攻撃によって受けた被害としては最大のものであった<ref name="叢書十四73" />。また米軍機動部隊の活動は、南東方面における日本軍作戦において重大なる脅威と認識され、その後の作戦計画に大きな影響を与えた([[珊瑚海海戦]])<ref name="叢書十四90">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、90-91頁「南海支隊の攻略準備」</ref><ref name="叢書十四92">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、92-93頁「第四艦隊の増勢」</ref>。
日本軍はその痛手にもかかわらずラエとサラモアの航空基地を確保し、[[ポートモレスビー作戦]]の支援にあたった<ref name="叢書七06" /><ref name="叢書三五564" />。本項では3月10日の空襲を軸に、ラエとサラモアの攻略が開始された3月8日から、ラエからの航空作戦が開始された3月13日までの間の出来事とその背景を中心として解説する。


==背景==
==背景==
===日本軍===
===日本軍===
ラエおよびサラモアは、開戦前の昭和16年9月に行われた図上演習の段階で航空基地の存在が知られていた<ref name="s49103">[[#戦史49]] p.103</ref>。しかし、第一段作戦でラバウルを占領しても<ref>[[#戦史49]] pp.103-104</ref>、外縁にあたるラエとサラモアを押さえておかないと南方および南西方面からの脅威にさらされるため<ref name="kcl151">[[#木俣軽巡]] p.151</ref>、南東方面を担当する[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]は図上演習において、ラバウルに加えてラエおよびサラモアの占領を主張したが、採用されなかった<ref name="s49103"/>。その背景として、一つには[[連合艦隊]]が第四艦隊に命じた攻略命令が、具体的な攻略要地を記さない抽象的なものであり、連合艦隊先任参謀[[黒島亀人]]大佐は戦後の回想で「なにぶんそのころは同方面の兵要資料も信頼の置けるものはほとんどなく、はっきり計画を立てることができないので、おおよその腹案程度であったと思う」と証言している<ref name="s49104">[[#戦史49]] p.104</ref>。また、第一段作戦はあくまで[[南方作戦]]がメインで、南東方面は「裏街道」とみられていたこと<ref name="s49103"/>、南方作戦関連の現実的問題として兵力が十分ではなかったことがある。実際、[[第55師団 (日本軍)|南海支隊]]は、[[ラバウルの戦い|ラバウル攻略]]が終われば[[パラオ]]に移って南方作戦に加わる予定であった<ref name="s49106">[[#戦史49]] p.106</ref>。
ラエおよびサラモアは、開戦前の昭和16年9月に行われた図上演習の段階で航空基地の存在が知られていた<ref name="叢書八十173" /><ref name="s49103">[[#戦史49]] p.103</ref>。しかし、第一段作戦でラバウルを占領しても<ref>[[#戦史49]] pp.103-104</ref>、外縁にあたるラエとサラモアを押さえておかないと南方および南西方面からの脅威にさらされるため<ref name="kcl151">[[#木俣軽巡]] p.151</ref>、南東方面を担当する[[第四艦隊 (日本海軍)|第四艦隊]]は図上演習において、ラバウルに加えてラエおよびサラモアの占領を主張したが、採用されなかった<ref name="s49103"/>。その背景として、一つには[[連合艦隊]]が第四艦隊に命じた攻略命令が、具体的な攻略要地を記さない抽象的なものであり、連合艦隊先任参謀[[黒島亀人]]大佐は戦後の回想で「なにぶんそのころは同方面の兵要資料も信頼の置けるものはほとんどなく、はっきり計画を立てることができないので、おおよその腹案程度であったと思う」と証言している<ref name="s49104">[[#戦史49]] p.104</ref>。また、第一段作戦はあくまで[[南方作戦]]がメインで、南東方面は「裏街道」とみられていたこと<ref name="s49103"/>、南方作戦関連の現実的問題として兵力が十分ではなかったことがある<ref name="叢書八十173" />。実際、[[第55師団 (日本軍)|南海支隊]]は、[[ラバウルの戦い|ラバウル攻略]]が終われば[[パラオ]]に移って南方作戦に加わる予定であった<ref name="s49106">[[#戦史49]] p.106</ref>。


しかし、開戦が現実のものになることがほぼ確定した段階の11月15日に開かれた[[大本営政府連絡会議]]において戦争の早期終結に関する検討が行われ、そのうち対[[オーストラリア]]戦に関しては、いわゆる[[FS作戦|米豪遮断作戦]]で離間を狙う方針が決定した<ref name="s49105">[[#戦史49]] p.105</ref>。開戦後には、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]から[[大本営]]に対しても米豪遮断作戦の必要性が説かれるようになり、また南方作戦も予想よりはるかに上回る速さで進捗していたこともあって、[[1942年]](昭和17年)1月4日に南海支隊のパラオ移動が取り消され、代わって南東方面攻略への準備が指示された<ref name="s49106"/>。[[大日本帝国海軍|海軍]]側も開戦後に第二段作戦の検討に入り<ref name="s49106"/>、1月10日の図上演習では第四艦隊側から、「「ラバウル」ノミ奪ッテモ役ニ立タヌ」ゆえにラエおよびサラモアの占領が再度主張された<ref name="kcl151"/>。またラバウル攻略の際の1月21日に[[第一航空艦隊]]にラエおよびサラモアを空襲させていた<ref>[[#木俣空母]] p.126</ref>。そして、ラバウル攻略後の1月29日にいたり、大本営は連合艦隊に対し、陸海軍共同でニューギニア、[[ソロモン諸島]]方面の攻略を指令<ref>[[#戦史49]] pp104-105</ref>。ここで初めてラエおよびサラモアの占領が[[ポートモレスビー]]および[[ツラギ島]]とともに具体的な攻略目標として確定した<ref name="s49105"/>。
しかし、開戦が現実のものになることがほぼ確定した段階の11月15日に開かれた[[大本営政府連絡会議]]において戦争の早期終結に関する検討が行われ、そのうち対[[オーストラリア]]戦に関しては、いわゆる[[FS作戦|米豪遮断作戦]]で離間を狙う方針が決定した<ref name="s49105">[[#戦史49]] p.105</ref>。
開戦後には、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]から[[大本営]]に対しても米豪遮断作戦の必要性が説かれるようになり<ref name="叢書八十173" />、また南方作戦も予想よりはるかに上回る速さで進捗していたこともあって、[[1942年]](昭和17年)1月4日に南海支隊のパラオ移動が取り消され、代わって南東方面攻略への準備が指示された<ref name="s49106"/>。[[大日本帝国海軍|海軍]]側も開戦後に第二段作戦の検討に入り<ref name="s49106"/>、1月10日の図上演習では第四艦隊側から、「「ラバウル」ノミ奪ッテモ役ニ立タヌ」ゆえにラエおよびサラモアの占領が再度主張された<ref name="kcl151"/>。またラバウル攻略の際の1月21日には南雲機動部隊(指揮官[[南雲忠一]]中将、[[第一航空艦隊]]司令長官)麾下の[[第五航空戦隊]](司令官[[原忠一]]少将、空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])にラエおよびサラモアを空襲させていた<ref>[[#木俣空母]] p.126</ref><ref name="叢書三八351b">[[#叢書38|戦史叢書38巻]]351-354頁「機動部隊の空襲」</ref>。
ラバウル攻略後の1月29日、大本営は連合艦隊に対し、陸海軍共同でニューギニア、[[ソロモン諸島]]方面の攻略を指令する(大海指第47号)<ref name="叢書八十173" /><ref>[[#戦史49]] pp104-105</ref>。ここで初めてラエおよびサラモアの占領が[[ポートモレスビー]]および[[ツラギ島]]とともに具体的な攻略目標として確定した<ref name="s49105"/><ref name="叢書三五333">[[#叢書35|戦史叢書35巻]]、333-335頁「英領ニューギニア、ソロモン諸島作戦発令」</ref>。大本営陸軍部は1月31日に上奏し、2月2日に大陸命第596号によってニューギニア方面攻略作戦を発令した<ref name="叢書三五333" /><ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、54-56頁「大本営命令及び陸海軍中央協定」</ref>。


===アメリカ軍===
===アメリカ軍===
[[真珠湾攻撃]]後、アメリカ軍の頼みの綱は[[航空母艦|空母]]と[[潜水艦]]であり、「守勢にはほど遠い積極的な」防衛策で日本軍の進撃を妨害し、反撃のための時間稼ぎを行っていた<ref name="np41">[[#ニミッツ、ポッター]] p.41</ref>。その一環として1942年2月に一連の[[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]が行われ、その効果はある程度あったと判定された<ref>[[#ニミッツ、ポッター]] pp.41-42</ref>。一方で、オーストラリアとの交通路の確保維持と強化に全力を挙げ、同じ2月に{{仮リンク|ハーバート・リアリー|en|Herbert F. Leary}}中将を司令官とする{{仮リンク|ANZAC部隊|en|ANZAC Squadron}}を編成した<ref name="np41"/>。しかし、機動空襲のあとも日本軍の進撃は止まる気配もなく、特に2月15日の[[シンガポールの戦い|シンガポール陥落]]のあとは、日本軍がラバウルを拠点に[[サモア諸島]]、[[ニューカレドニア]]および[[ニューヘブリディーズ諸島]]を攻略するのではないかという恐慌に陥り、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将は、ウィルソン・ブラウン中将が率い、空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」(''USS Lexington, CV-2'') を基幹とする[[第11任務部隊]]をANZAC部隊に編入しブラウンの提言でラバウルに先制攻撃を加えようとしたが、その途上の2月20日に日本軍機の空襲に遭い、第11任務部隊は被害はなかったものの回避運動で燃料を浪費してしまったため攻撃を断念した([[ニューギニア沖海戦]])<ref>[[#ニミッツ、ポッター]] p.42</ref><ref>[[#阿部]]</ref>。
[[真珠湾攻撃]]後、アメリカ軍の頼みの綱は[[航空母艦|空母]]と[[潜水艦]]であり、「守勢にはほど遠い積極的な」防衛策で日本軍の進撃を妨害し、反撃のための時間稼ぎを行っていた<ref name="np41">[[#ニミッツ、ポッター]] p.41</ref>。その一環として1942年2月に一連の[[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]が行われ<ref name="叢書八十175">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、175-177頁「米軍の南太平洋強化、マーシャル奇襲」</ref>、その効果はある程度あったと判定された<ref>[[#ニミッツ、ポッター]] pp.41-42</ref>。一方で、オーストラリアとの交通路の確保維持と強化に全力を挙げ、同じ2月に{{仮リンク|ハーバート・リアリー|en|Herbert F. Leary}}中将を司令官とする{{仮リンク|ANZAC部隊|en|ANZAC Squadron}}を編成した<ref name="np41"/>。しかし、機動空襲のあとも日本軍の進撃は止まる気配もなく、特に2月15日の[[シンガポールの戦い|シンガポール陥落]]のあとは、日本軍がラバウルを拠点に[[サモア諸島]]、[[ニューカレドニア]]および[[ニューヘブリディーズ諸島]]を攻略するのではないかという恐慌に陥った。[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]大将は、ウィルソン・ブラウン中将が率い、空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」(''USS Lexington, CV-2'') を基幹とする[[第11任務部隊]]をANZAC部隊に編入した<ref name="叢書八十175" />。第11任務部隊はブラウンの提言でラバウルに先制攻撃を加えようとしたが、その途上の2月20日に日本軍機(ラバウルより発進した日本海軍・第24航空戦隊の[[一式陸上攻撃機]]17機)の空襲に遭い<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、78-80頁「レキシントン機動部隊のラバウル空襲」</ref>、第11任務部隊は被害はなかったものの回避運動で燃料を浪費してしまったため攻撃を断念した([[ニューギニア沖海戦]])<ref>[[#ニミッツ、ポッター]] p.42</ref><ref name="叢書八十177">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、177-178頁「ラバウル沖航空戦」</ref>。

ブラウンはラバウル攻撃のためには空母は2隻必要であり<ref name="叢書八十177" />、また燃料消費量の関係で随伴タンカーも2隻必要と進言した<ref name="s49128">[[#戦史49]] p.128</ref>。この進言をニミッツが認め、 すでに[[フィジー]]およびサモア方面を行動中のフランク・J・フレッチャー少将率いる、空母「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」 (''USS Yorktown, CV-5'') を基幹とする{{仮リンク|第17任務部隊|en|Task Force 17}}を第11任務部隊に合流させることとなった<ref name="s49128"/><ref>[[#石橋]] pp.243-244</ref>。第11任務部隊と第17任務部隊は3月6日にニューヘブリティーズ諸島近海で合流し、一路ラバウルを目指した<ref name="s49128"/>。機動部隊の行動は、オーストラリアからヌーメアへの陸軍部隊輸送の間接掩護の意味合いも帯びていた<ref name="叢書八十177" />。また、この2つの任務部隊とは別に[[オーストラリア海軍]]の{{仮リンク|ジョン・グレゴリー・クレース|en|John Gregory Crace}}少将率いる第44任務部隊がタンカー護衛のため派遣されることとなった<ref name="s49128"/>。


日本軍が目標としたラエとサラモアには、それぞれ幅100m・長さ約800-1000mの飛行場があり、戦闘機の使用が可能であった<ref name="叢書十四59">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、59頁「ラエ、サラモア付近の連合軍の状況」</ref>。サラモア南西約50kmのワウにも、小飛行場があった<ref name="叢書十四59" />。これら飛行場はオーストラリアを根拠地とする連合軍基地航空隊の前進基地であり、ラバウル(ニューブリテン島)の日本軍に対する反撃拠点として機能していた<ref name="叢書十四59" />。守備隊は50名から100名程度の義勇軍であった<ref name="叢書十四59" />。
ブラウンは一度はラバウル攻撃を断念したものの諦めてはいなかった。しかし、攻撃を再興するにあたっては条件を付けてきた。ブラウンはラバウル攻撃のためには空母は2隻必要であり、また燃料消費量の関係で随伴タンカーも2隻必要と進言<ref name="s49128">[[#戦史49]] p.128</ref>。この進言をニミッツが認め、 すでに[[フィジー]]およびサモア方面を行動中のフランク・J・フレッチャー少将率いる、空母「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」 (''USS Yorktown, CV-5'') を基幹とする{{仮リンク|第17任務部隊|en|Task Force 17}}を第11任務部隊に合流させることとなった<ref name="s49128"/><ref>[[#石橋]] pp.243-244</ref>。第11任務部隊と第17任務部隊は3月6日にニューヘブリティーズ諸島近海で合流し、一路ラバウルを目指した<ref name="s49128"/>。また、この2つの任務部隊とは別に[[オーストラリア海軍]]の{{仮リンク|ジョン・グレゴリー・クレース|en|John Gregory Crace}}少将率いる第44任務部隊がタンカー護衛のため派遣されることとなった<ref name="s49128"/>。


==参加兵力==
==参加兵力==
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*第二十三駆逐隊(駆逐艦「菊月」、「卯月」、「夕月」)
*第二十三駆逐隊(駆逐艦「菊月」、「卯月」、「夕月」)
*特設運送船(給油)「[[東邦丸]]」
*特設運送船(給油)「[[東邦丸]]」
;基地航空部隊(第二十四航空戦隊司令官・[[後藤英次]]中将)
;航空部隊(第二十四航空戦隊司令官・[[後藤英次]]中将)
*第四航空隊、水上機母艦[[神威 (水上機母艦)|神威]]<ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、pp.5-6「(二)編制、軍隊区分」</ref>、駆逐艦「[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]」(朧は[[K作戦]]支援のため中部太平洋方面配備)<ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、p.8「○二日 朧ハ「イミェージ」発 三日「ウオッチェ」着 K作戰警戒任務ニ就ク」</ref><ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、p.13「○朧ハ第三空襲部隊(二式飛行艇)「イミエ-ジ」ニ引揚ゲタルヲ以テ「ウオッチェ」ヨリ「イミエージ」ニ廻航セシム 十三日「イミエージ」着」</ref>
*第二十四航空戦隊、駆逐艦「[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]」


===アメリカ軍===
===アメリカ軍===
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==日本側の作戦準備==
==日本側の作戦準備==
当初の予定では、ラエおよびサラモアの攻略は3月3日に予定されていた<ref name="s49108">[[#戦史49]] p.108</ref>。具体的には、2月に入ってから進められていた[[ニューブリテン島]]南端の[[ガスマタ]]およびスルミの攻略戦<ref>[[#木俣軽巡]] pp.149-150</ref>が終わった2月13日から準備が始まり、2月16日には作戦名をSR作戦と呼称して上陸日も3月3日に設定された<ref name="s49107">[[#戦史49]] p.107</ref>。敵情としては、航空活動は活発ではないが分散移動しており根絶が難しいこと、陸上部隊の状況はよくわからない、と判断される<ref name="s49107"/>。そして、ラエとサラモアを早急に占領したのちは、ただちに航空基地を設定してポートモレスビー方面への圧力とすることが作戦目的とされた<ref name="s49107"/>。SR攻略部隊指揮官は第六水雷戦隊司令官の梶岡定道少将が定められ、梶岡は2月20日に攻略部隊命令を発するも、まさに同じ2月20日に前述の第11任務部隊の接近があり、指揮下艦艇が第11任務部隊の迎撃に充てられたため、作戦は5日繰り下げられた<ref>[[#戦史49]] p.109</ref>。
当初の予定では、ラエおよびサラモアの攻略は3月3日に予定されていた<ref name="s49108">[[#戦史49]] p.108</ref>。具体的には、2月に入ってから進められていた[[ニューブリテン島]]南端の[[ガスマタ]]およびスルミの攻略戦(2月15日、スルミ攻略部隊の編成解除)<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、56-58頁「二 ラエ、サラモア攻略作戦/作戦前の態勢」</ref>が終わった2月13日から準備が始まり(トラック泊地にて、第四艦隊〈旗艦[[鹿島 (練習巡洋艦)|鹿島]]〉と南海支隊参謀の会議を開始)<ref name="叢書十四60" />、2月16日には作戦名を'''SR作戦'''と呼称して上陸日も3月3日に設定された<ref>[[#木俣軽巡]] pp.149-150</ref><ref name="s49107">[[#戦史49]] p.107</ref>。
敵情としては、航空活動は活発ではないが分散移動しており根絶が難しいこと、陸上部隊の状況はよくわからない、と判断される<ref name="s49107"/>。そして、ラエとサラモアを早急に占領したのちは、ただちに航空基地を設定してポートモレスビー方面への圧力とすることが作戦目的とされた<ref name="s49107"/>。SR攻略部隊指揮官は第六水雷戦隊司令官の梶岡定道少将が定められ、梶岡は2月20日に攻略部隊命令を発するも、まさに同じ2月20日に前述の第11任務部隊(空母レキシントン)の接近があって日本海軍は迎撃に追われ、作戦は延期された([[ニューギニア沖海戦]])<ref name="叢書十四60" /><ref name="叢書十四62">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、62-65頁「第四艦隊の攻略準備」</ref>。25日にあらためて協議をおこない(南洋部隊電令作第109号)<ref name="叢書十四62" />、3月8日の上陸を予定した<ref name="叢書十四60" /><ref>[[#戦史49]] p.109</ref>。


第六水雷戦隊のうち、旗艦「夕張」は作戦支援<ref name="s49110">[[#戦史49]] p.110</ref>、第二十九駆逐隊(「追風」、「朝凪」、「夕凪」)は陸軍輸送船「横浜丸」([[日本郵船]]、6,143トン)および「ちゃいな丸」([[川崎汽船]]、5,869トン)を護衛してサラモアへ<ref name="s49111">[[#戦史49]] p.111</ref>、第三十駆逐隊のうち「睦月」と「弥生」は「津軽」艦長稲垣義龝大佐指揮の下で特設巡洋艦「金剛丸」([[国際汽船]]、8,624トン)、特設敷設艦「天洋丸」([[東洋汽船]]、6,843トン)および特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)を護衛してラエに向かうこととなり、「望月」は特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)の護衛に回った<ref name="s49111"/>。「金剛丸」と「天洋丸」は、ラバウル警備隊から抽出された陸戦部隊560名と高射砲隊、ラエに配備される基地員800名や需品の輸送にもあたった<ref>[[#戦史49]] p.112,114</ref>。なお、当初は攻略部隊に名を連ねていた特設巡洋艦「金龍丸」(国際汽船、9,309 トン)は、スルミ攻略戦で損傷したためラバウル待機となった<ref name="s49111"/><ref>[[#木俣軽巡]] p.150</ref>。「横浜丸」と「ちゃいな丸」に乗船する陸軍部隊は、南海支隊のうち堀江正陸軍少佐指揮の歩兵一個大隊、山砲一個中隊を主軸とした約2,000名で構成されていた<ref>[[#戦史49]] pp.116-117</ref>。
南洋部隊指揮官[[井上成美]]第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)麾下にある第六水雷戦隊(司令官[[梶岡定道]]少将)のうち、旗艦「夕張」は作戦支援<ref name="s49110">[[#戦史49]] p.110</ref>、第29駆逐隊(「追風」、「朝凪」<ref group="注釈">『戦史叢書14巻』64頁編成表の「朝風」(第22駆逐隊)は「朝凪」(第29駆逐隊)の誤記。</ref>、「夕凪」)は陸軍輸送船「横浜丸」([[日本郵船]]、6,143トン)および「ちゃいな丸」([[川崎汽船]]、5,869トン)を護衛してサラモアへ<ref name="s49111">[[#戦史49]] p.111</ref>、第三十駆逐隊のうち「睦月」と「弥生」は「津軽」艦長稲垣義龝大佐指揮の下で特設巡洋艦「金剛丸」([[国際汽船]]、8,624トン)、特設敷設艦「天洋丸」([[東洋汽船]]、6,843トン)および特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)を護衛してラエに向かうこととなり、「望月」は特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)の護衛に回った<ref name="叢書十四62" /><ref name="s49111"/>。「金剛丸」と「天洋丸」は、ラバウル警備隊から抽出された陸戦部隊560名と高射砲隊、ラエに配備される基地員800名や需品の輸送にもあたった<ref>[[#戦史49]] p.112,114</ref>。
なお、当初は攻略部隊に名を連ねていた特設巡洋艦「金龍丸」(国際汽船、9,309 トン)は、スルミ攻略戦で損傷したためラバウル待機となった<ref name="s49111"/><ref>[[#木俣軽巡]] p.150</ref>。「横浜丸」と「ちゃいな丸」に乗船する陸軍部隊は<ref name="叢書十四71">[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、71-73頁「攻略実施」</ref>、南海支隊のうち堀江正陸軍少佐(歩兵第144連隊第2大隊長)指揮の歩兵一個大隊、山砲一個中隊を主軸とした約2,000名で構成されていた<ref name="叢書十四60" /><ref>[[#戦史49]] pp.116-117</ref>。堀江少佐は2月17日附で南海支隊長[[堀井富太郎]]陸軍少将より命令を受領し、作戦準備を進めた<ref name="叢書十四60" />。堀江少佐は2月28日に大隊命令を下達し<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、65-70頁「堀江大隊の攻略命令」</ref>、3月2日に第六水雷戦隊と南海支隊の間で協定がむすばれた<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、70-71頁「護衛艦隊との細部協定」</ref>。

南洋部隊麾下の協力部隊は、支援部隊・航空部隊・ビスマルク諸島方面防備部隊から成る<ref name="叢書十四62" />。支援部隊は第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将を指揮官とし<ref name="叢書十四62" />、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)、第十八戦隊(天龍、龍田)、第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)で編成された<ref>[[#S1702十八戦隊日誌(5)]]、pp.6-7「(三)任務編制軍隊区分(略)(ロ)第六戰隊 第十八戰隊(〈旗艦〉天龍 2龍田) 第二十三駆逐隊/(ハ)軍隊区分 支援部隊 第六戰隊、第十八戰隊、第二十三駆逐隊」</ref>。
航空部隊は第二十四航空戦隊司令官[[後藤英次]]少将を指揮官として第四航空隊と水上機母艦[[神威 (水上機母艦)|神威]]で編成、ビスマルク諸島方面防備部隊は第8根拠地隊司令官[[金澤正夫]]少将を指揮官とした<ref name="叢書十四62" />。


==戦闘の経過==
==戦闘の経過==
===ラエ・サラモアの攻略===
===ラエ・サラモアの攻略===
攻略に先立ち、第二十四航空戦隊は連日のようにポートモレスビーほか、ソロモン諸島やニューギニア島東部各地の航空基地、[[珊瑚海]]に対して偵察と爆撃を繰り返したが<ref name="叢書十四71" /><ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、pp.9-10「○西方空襲部隊ハ一日以来連日昼夜ニ亘リ「ポートモレスビー」ノ攻撃及「ニューギニヤ」「ソロモン」諸島各基地ノ監視攻撃及哨戒ニ任ジ敵航空兵力ヲ概ネ掃滅シ甚大ナル戰果ヲ擧ゲ「SR」攻略作戰協力ニ遺憾ナカラシメタリ」</ref>、地上砲火以外に大した反撃はなかった<ref>[[#戦史49]] pp.114-118</ref>。
攻略に先立ち、第二十四航空戦隊は連日のようにポートモレスビーほかニューギニア島東部各地の航空基地や[[珊瑚海]]に対して偵察と爆撃を繰り返したが、地上砲火以外に大した反撃はなかった<ref>[[#戦史49]] pp.114-118</ref>。第二十四航空戦隊による航空制圧が続く3月5日13時、前述のように、第11任務部隊の接近で作戦期日が5日繰り下げられたSR攻略部隊と支援部隊はラバウルを出撃し、敵襲もなくニューブリテン島南岸を西航したのち、おりからの豪雨を突いて3月8日1時に陸軍部隊がサラモア沖に、2時30分には海軍部隊がラエ沖に到着してそれぞれ上陸を開始し、7時過ぎまでにはラエおよびサラモアの航空基地、市街、電信施設を無血占領することに成功した<ref>[[#戦史49]] p.118</ref>。双方の航空基地には爆破孔あったが、8日午後までには補修も終わり、いつでも使用可能な状態とした<ref name="s49120">[[#戦史49]] p.120</ref>。ところが、ラエ方面では荒天で[[大発動艇]]の大部分が座礁するなどアクシデントがあり、梶岡は[[ウェーク島の戦い]]の経験から駆逐艦での大発動艇の引き下ろしを命じた<ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.39-42</ref>。また、これといった港湾施設もないラエでの荷役作業の終了見込みは「金剛丸」が10日、「天洋丸」が11日、「黄海丸」が12日とされた<ref name="s49120"/>。サラモア方面でも荒天で上空掩護に欠く有様で、梶岡は8日夜には戦闘機隊を至急ラエに派遣するよう打電した<ref>[[#戦史49]] pp.118-120</ref>。この上空掩護を欠く状況が、日本軍に大出血をもたらした。
攻略部隊は3月3日と3月4日に総合訓練を実施し、ラバウルに集結した<ref name="叢書十四71" />。
3月5日13時にSR攻略部隊はラバウルを出撃し、支援部隊も16時に同地を出撃した<ref name="叢書十四71" />。船団の上空護衛は聖川丸水偵と海軍基地航空隊が担当した<ref name="叢書十四71" /><ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、p.9「○五日一三〇〇「SR」攻略部隊「ラボール」ヲ出撃セリ 四空戰斗機ヲ以テ之ガ上空警戒ニ任ゼシモ船團上空天候不良ノ為之ヲ実施シ得ズ 六日モ零戰機数ノ不足ト天候不良ノ為充分ナル警戒ヲ実施得ザリキ 七日敵飛行艇我輸送船團ヲ発見セルノ情報アリシヲ以テ更ニ上空警戒ヲ嚴ニスベキ旨発令セルモ「スルミ」附近天候回復セズ殆ンド之ヲ実施セズ」</ref>。
敵襲もなくニューブリテン島南岸を西航したのち、スコールに悩まされつつ3月7日午後10時30分にサラモア東方泊地に進入した<ref name="叢書十四71" />。[[3月8日]]1時に陸軍部隊がサラモア沖に、2時30分には海軍部隊がラエ沖に到着してそれぞれ上陸を開始し、7時過ぎまでにはラエおよびサラモアの航空基地・市街・電信施設を無血占領することに成功した<ref>[[#戦史49]] p.118</ref>。連合軍守備隊はワウ方面に向けて退却し、住民もラバウル攻略時にワウやポートモレスビーに退避していた<ref name="叢書十四71" />。


ラエ方面では荒天で[[大発動艇]]の大部分が座礁するなどアクシデントがあり、梶岡は[[ウェーク島の戦い]]の経験から駆逐艦での大発動艇の引き下ろしを命じた<ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.39-42</ref>。また、これといった港湾施設もないラエでの荷役作業の終了見込みは「金剛丸」が10日、「天洋丸」が11日、「黄海丸」が12日とされた<ref name="s49120"/>。サラモア方面でも荒天で上空掩護に欠く有様で、梶岡(および南海支隊派遣参謀)<ref name="叢書十四71" />は8日夜には戦闘機隊を至急ラエに派遣するよう打電した<ref>[[#戦史49]] pp.118-120</ref>。双方の航空基地には爆破孔あったが、8日午後<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]72頁では3月9日午後1時に戦闘基地としての整備概成とする。</ref>までには補修も終わり、いつでも使用可能な状態とした<ref name="s49120">[[#戦史49]] p.120</ref>。
なお、支援部隊も3月5日16時にラバウルを出撃し、ニューブリテン島南方を行動したのち上陸成功の報に接して反転し、[[ブカ島]]方面に移動した<ref>[[#戦史49]] p.118</ref>。

なお、第六戦隊司令官[[五藤存知]]少将を指揮官とする支援部隊も3月5日16時にラバウルを出撃し(前述)<ref name="叢書十四71" /><ref>[[#戦史49]] p.118</ref>船団の掩護に従事した{{sfn|鉄底海峡|1994|pp=50-51}}。ニューブリテン島南方を行動したのち上陸成功の報に接して反転し、予定どおり[[ブカ島]]クインカロラ付近占領<ref name="叢書十四62" />のため同方面に移動した<ref>[[#戦史49]] p.118</ref>。


===3月10日まで===
===3月10日まで===
日本軍のラエおよびサラモアへの来襲を、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が黙って見ていることはなかった。3月に入ってから間もなく[[ハドソン (航空機)|ロッキード・ハドソン(ロッキード型)]]と思われる陸上機がラバウル、スルミ方面に空襲を仕掛けており<ref name="s49110"/>、上陸作戦当日の3月8日にも朝方から空襲を行った。海軍部隊がラエを占領して間もなく「ロッキード」型が飛来し<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.39</ref>、10時過ぎと13時過ぎにもラエとサラモアに1機ずつ飛来<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.44,46</ref>。10時過ぎに飛来した航空機は「横浜丸」に対して爆弾を複数発投下したが、船尾方向100メートルに落下して被害を与えなかった<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.45</ref>。しかし、13時過ぎに来襲の航空機が同じく「横浜丸」に対して投弾し、前甲板へ命中弾1発と至近弾1発を与え、「横浜丸」では死傷者9名を出した<ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.46-47</ref>。「横浜丸」は18時前にも空襲を受けたが被害はなく、「夕張」から派遣された工作隊によって修理が行われた<ref name="s49120"/><ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.49-50</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.1-2</ref>。その他、「朝凪」も1回爆撃を受けたが被害はなかった<ref name="s49120"/>。梶岡が戦闘機隊の緊急派遣を要請した背景には、このように悪天候にもかかわらず空襲を受けたことがあった。しかし、要請に応じてスルミから飛び立った戦闘機隊はラエ上空の悪天候に悩まされ、また占領したばかりのラエの航空基地に置かれた標識を見落とし、スルミ経由でラバウルに帰投<ref>[[#戦史49]] p.122</ref>。戦闘機隊派遣に関する電文も行き違いが生じて遅れて受信するなど、ラエ、サラモア上空は制空権のないまま3月10日を迎えた。
日本軍のラエおよびサラモアへの来襲を、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]が黙って見ていることはなかった。3月に入ってから間もなく[[ハドソン (航空機)|ロッキード・ハドソン(ロッキード型)]]と思われる陸上機がラバウル、スルミ方面に空襲を仕掛けており<ref name="s49110"/>、上陸作戦当日の3月8日にも朝方から空襲を行った<ref name="隈部254" />。海軍部隊がラエを占領して間もなく「ロッキード」型が飛来し<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.39</ref>、10時過ぎと13時過ぎにもラエとサラモアに1機ずつ飛来した<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.44,46</ref>。10時過ぎに飛来した航空機は「横浜丸」に対して爆弾を複数発投下したが、船尾方向100メートルに落下して被害を与えなかった<ref>[[#南洋部隊 (2)]] p.45</ref>。しかし、13時過ぎに来襲の航空機が同じく「横浜丸」に対して投弾し、前甲板へ命中弾1発と至近弾1発を与え、「横浜丸」では死傷者9名(戦史叢書14巻では戦死7、戦傷8とする)<ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、72頁</ref>を出した<ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.46-47</ref>。「横浜丸」は18時前にも空襲を受けたが被害はなく、「夕張」から派遣された工作隊によって修理が行われた<ref name="s49120"/><ref>[[#南洋部隊 (2)]] pp.49-50</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.1-2</ref>。その他、「朝凪」<ref group="注釈">『戦史叢書14巻』72頁の「朝風」は「朝凪」の誤記。</ref>も1回爆撃を受けたが被害はなかった<ref name="s49120"/>。
梶岡が戦闘機隊の緊急派遣を要請した背景には、このように悪天候にもかかわらず空襲を受けたことがあった。
しかし、要請に応じてスルミから飛び立った戦闘機隊はラエ上空の悪天候に悩まされ<ref>[[#S17.03二十四航戦、経過]]、p.10「○同日基地調査ノ為幕僚二名(航空参謀、機関参謀)「ラエ」「サラモア」ニ派遣調査ノ結果十日午後整備ノ見込ナリシモ戰斗機ハ急速進出セシムベキ要アルヲ以テ一部使用可能程度トナラバ速ニ進出スベキ旨更ニ發令セルモ九日飛行隊ハ發進途中天候状況不良ノ為引返シ準備ノ為「ラボール」ニ引揚ゲタリ」</ref>、また占領したばかりのラエの航空基地に置かれた標識を見落とし、スルミ経由でラバウルに帰投した<ref>[[#戦史49]] p.122</ref>。戦闘機隊派遣に関する電文も行き違いが生じて遅れて受信するなど、ラエ、サラモア上空は制空権のないまま3月10日を迎えた。上空直掩を担当するのは、聖川丸の水上機小数機にすぎなかった{{sfn|青春の棺|1979|pp=56-57}}


第11任務部隊と第17任務部隊は依然ラバウル攻撃を策して進撃していたが、日本軍のラエおよびサラモア上陸の報を聞いて、攻撃目標を急遽ラエとサラモアに切り替えることとなった<ref name="s49128"/><ref name="HyperWar"/>。しかしここで、一つの難問に直面する。[[ルイジアード諸島]]以北の[[ソロモン海]]に進んで東方からラエとサラモアを攻撃しようとするとラバウルからの航空圏内に入り、かといって[[パプア湾]]に進んで南方から攻撃しようとした場合には、[[オーエンスタンレー山脈]]の状況が資料を欠いてわからないというデメリットがそれぞれ生じた<ref name="s49128"/>。そこでブラウンは航空機を派遣してオーエンスタンレー山脈の状況を調査させたところ、基本的には重装備の航空機では山脈を越すことが難しいものの一部には2,500メートル程度の標高の地点があり、しかも朝方には2時間程度晴れていることも分かったため、ブラウンはパプア湾に進んで3月10日早朝に南方から攻撃することに決めた<ref name="HyperWar"/><ref name="s49128"/>。攻撃に先立ち、ブラウンは自己の部隊から「アストリア」、「シカゴ」、「ルイビル」の重巡洋艦3隻と「アンダーソン」、「ハムマン」、「シムス」、「ヒューズ」の駆逐艦4隻を、タンカー護衛を担当するクレースの第44任務部隊に派遣して護衛を厚くした<ref name="HyperWar"/>。
第11任務部隊と第17任務部隊は依然ラバウル攻撃を策して進撃していたが、日本軍のラエおよびサラモア上陸の報を聞いて、攻撃目標を急遽ラエとサラモアに切り替えることとなった<ref name="s49128"/><ref name="HyperWar"/>。しかしここで、一つの難問に直面する。[[ルイジアード諸島]]以北の[[ソロモン海]]に進んで東方からラエとサラモアを攻撃しようとするとラバウルからの航空圏内に入り、かといって[[パプア湾]]に進んで南方から攻撃しようとした場合には、[[オーエンスタンレー山脈]]の状況が資料を欠いてわからないというデメリットがそれぞれ生じた<ref name="叢書十四80" /><ref name="s49128"/>。そこでブラウンは航空機を派遣してオーエンスタンレー山脈の状況を調査させたところ、基本的には重装備の航空機では山脈を越すことが難しいものの一部には2,500メートル程度の標高の地点があり、しかも朝方には2時間程度晴れていることも分かったため、ブラウンはパプア湾に進んで3月10日早朝に南方から攻撃することに決めた<ref name="HyperWar"/><ref name="s49128"/>。攻撃に先立ち、ブラウンは自己の部隊から「アストリア」、「シカゴ」、「ルイビル」の重巡洋艦3隻と「アンダーソン」、「ハムマン」、「シムス」、「ヒューズ」の駆逐艦4隻を、タンカー護衛を担当するクレースの第44任務部隊に派遣して護衛を厚くした<ref name="HyperWar"/>。


===空襲===
===空襲===
3月10日早朝、第11任務部隊と第17任務部隊は予定地点に到達し、「レキシントン」からは[[SBD (航空機)|SBD「ドーントレス」]]30機、[[TBD (航空機)|TBD「デヴァステイター」]]13機、「[[F4F (航空機)|F4F「ワイルドキャット」]]8機の計51機が発進し、「ヨークタウン」からは「ドーントレス」30機、「デヴァステイター」12機、「ワイルドキャット」10機の計52機が発進して、総計103機の攻撃隊がラエとサラモアを目指した<ref name="HyperWar"/>。これとは別に、1機がオーエンスタンレー山脈の気象観測のため発進<ref name="s49128"/>。攻撃隊の装備は爆弾が主であったが、「レキシントン」攻撃隊の「デヴァステイター」13機のみは魚雷を搭載した<ref name="HyperWar"/><ref name="kcl152">[[#木俣軽巡]] p.152</ref>。攻撃目標は、「レキシントン」攻撃隊がサラモアを、「ヨークタウン」攻撃隊がラエをそれぞれ攻撃すると定められる<ref name="kcl152"/>。攻撃隊は無事にオーエンスタンレー山脈を越え、一路ラエとサラモアの沖合にいる日本軍艦船に向けて突進した。
3月10日早朝、第11任務部隊と第17任務部隊は予定地点に到達し、「レキシントン」からは[[SBD (航空機)|SBD「ドーントレス」]]30機、[[TBD (航空機)|TBD「デヴァステイター」]]13機、「[[F4F (航空機)|F4F「ワイルドキャット」]]8機の計51機が発進し、「ヨークタウン」からは「ドーントレス」30機、「デヴァステイター」12機、「ワイルドキャット」10機の計52機が発進して、総計103機の攻撃隊がラエとサラモアを目指した<ref name="HyperWar"/>。これとは別に、1機がオーエンスタンレー山脈の気象観測のため発進した<ref name="s49128"/>。攻撃隊の装備は爆弾が主であったが、「レキシントン」攻撃隊の「デヴァステイター」13機のみは魚雷を搭載した<ref name="HyperWar"/><ref name="kcl152">[[#木俣軽巡]] p.152</ref>。攻撃目標は、「レキシントン」攻撃隊がサラモアを、「ヨークタウン」攻撃隊がラエをそれぞれ攻撃すると定められる<ref name="kcl152"/>。攻撃隊は無事にオーエンスタンレー山脈を越え、一路ラエとサラモアの沖合にいる日本軍艦船に向けて突進した。


そのころ、ラエとサラモア沖に展開中のSR攻略部隊各艦船は依然として設営作業に協力していた。数日来降っていた雨もあがり、早朝に「ロッキード」型が飛来して「天洋丸」に対して投弾してきたが、偵察であると判断された<ref>[[#戦史49]] p.123</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.18-19</ref>。ところが、7時50分にいたりSR攻略部隊の各艦船はオーエンスタンレー山脈を越えて飛来してきた「レキシントン」および「ヨークタウン」両攻撃隊の奇襲を受けた<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.20</ref>。各艦船は対空砲火を撃ちあげたが貧弱であり、「聖川丸」も搭載の水上偵察機3機で撃退しようとしたが、103機対3機ではどうしようもなかった<ref>[[#戦史49]] pp.123-125</ref>。「横浜丸」支援でサラモア沖にあった「夕張」が真っ先に狙われ、銃爆撃に加えて雷撃を受けたが、雷撃に関しては腕が拙劣で発射距離も遠く、まったく問題にならなかった<ref name="s49125">[[#戦史49]] p.125</ref>。それでも「夕張」は機銃掃射で応急弾薬筺や魚雷格納筺から火災が発生し、電信機も被弾で故障して送信不能となった<ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.19-21</ref>。「夕張」が支援していた「横浜丸」は、4発の命中弾を受け8時30分に沈没<ref name="s4922">[[#南洋部隊 (3)]] p.22</ref>。以降、9時15分に第一波の攻撃が終わるまで「ちゃいな丸」、「朝凪」および「聖川丸」が被弾損傷した<ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.23-24</ref>。9時35分には[[B-17 (航空機)|B-17]]の爆撃もあり、一連の攻撃は10時35分までにはほぼ終わった<ref name="s49124">[[#戦史49]] p.124</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.25,29</ref>。攻撃後の12時、ようやく[[零式艦上戦闘機|零戦]]4機がラエ上空に到着したが、もはや「後の祭り」であった<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.33</ref>。
そのころ、ラエとサラモア沖に展開中のSR攻略部隊各艦船は依然として設営作業に協力していた{{sfn|青春の棺|1979|pp=56-57}}。数日来降っていた雨もあがり、早朝に「ロッキード」型が飛来して「天洋丸」に対して投弾してきたが、偵察であると判断された<ref>[[#戦史49]] p.123</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.18-19</ref>。ところが、7時50分にいたりSR攻略部隊の各艦船はオーエンスタンレー山脈を越えて飛来してきた「レキシントン」および「ヨークタウン」両攻撃隊の奇襲を受けた<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.20</ref>。各艦船は対空砲火を撃ちあげたが貧弱であり、「聖川丸」も搭載の水上偵察機3機で撃退しようとしたが、103機対3機ではどうしようもなかった<ref>[[#戦史49]] pp.123-125</ref>。
「横浜丸」支援でサラモア沖にあった「夕張」が真っ先に狙われ、銃爆撃に加えて雷撃を受けたが、雷撃に関しては腕が拙劣で発射距離も遠く、まったく問題にならなかった<ref name="s49125">[[#戦史49]] p.125</ref>。それでも「夕張」は機銃掃射で応急弾薬筺や魚雷格納筺から火災が発生し、電信機も被弾で故障して送信不能となった<ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.19-21</ref>。「夕張」が支援していた「横浜丸」は、4発の命中弾を受け8時30分に沈没した<ref name="s4922">[[#南洋部隊 (3)]] p.22</ref>。以降、9時15分に第一波の攻撃が終わるまで「ちゃいな丸」、「朝凪」や「夕凪」{{sfn|青春の棺|1979|pp=62-63}}および「聖川丸」が被弾損傷した<ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.23-24</ref>。9時35分には[[B-17 (航空機)|B-17]]の爆撃もあり、一連の攻撃は10時35分までにはほぼ終わった<ref name="s49124">[[#戦史49]] p.124</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.25,29</ref>。攻撃後の12時、ようやく[[零式艦上戦闘機|零戦]]4機がラエ上空に到着したが、もはや「後の祭り」であった<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.33</ref>。


攻撃隊を収容した第11任務部隊と第17任務部隊は、攻撃隊員から再度の攻撃が要請されるもブラウンはこれを受け入れず、燃料補給のため第44任務部隊の方角をさして避退していった<ref>[[#戦史49]] pp.128-129</ref>。
攻撃隊を収容した第11任務部隊と第17任務部隊は、攻撃隊員から再度の攻撃が要請されるもブラウンはこれを受け入れず、燃料補給のため第44任務部隊の方角をさして避退していった<ref>[[#戦史49]] pp.128-129</ref>。
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沈没以外で人的および物的被害のあった艦船は以下のとおり。
沈没以外で人的および物的被害のあった艦船は以下のとおり。
*「夕張」:被弾、至近弾5発により一時火災発生。戦死13、重軽傷49<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.21-25</ref>
*「夕張」:被弾、至近弾5発により一時火災発生。戦死13、重軽傷49<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.21-25</ref>
*「追風」:重軽傷2<ref name="s49124"/>
*「追風」:至近弾多数、行方不明3{{sfn|青春の棺|1979|pp=64-66}}、重軽傷2<ref name="s49124"/>
*「朝凪」:9時50分に前甲板に1発命中、至近弾2発、缶損傷で最大速度26ノット。戦死18、重軽傷47<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.28</ref>
*「朝凪」:9時50分に前甲板に1発命中、至近弾2発、缶損傷で最大速度26ノット。戦死18、重軽傷47<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.28</ref>
*「夕凪」:左舷中部に命中弾1発、缶破裂により航行困難、最大速力21ノット。戦死29、重軽傷38<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.29-31, p.39</ref><ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.17</ref>
*「夕凪」:左舷中部に命中弾1発、缶破裂により航行困難、最大速力21ノット。戦死29、重軽傷38<ref name="s49124"/><ref>[[#南洋部隊 (3)]] pp.29-31, p.39</ref><ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.17</ref>
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*「ちゃいな丸」:命中弾1発、小破<ref name="s49124"/>
*「ちゃいな丸」:命中弾1発、小破<ref name="s49124"/>


ラエおよびサラモア沖に展開していたSR攻略部隊艦船18隻中、人的および物的の被害がなかったのは「望月」、「睦月」、「弥生」、「第二号能代丸」([[日本水産]]、216トン)および「羽衣丸」(日本水産、234トン)の5隻のみで残る13隻のうち沈没・擱座は4隻を数え、その他も大なり小なりの被害を受けた。残存艦船のうち「朝凪」、「望月」と「聖川丸」は3月12日午前<ref>[[#南洋部隊 (4)]] pp.7-8</ref>、「第二玉丸」([[マルハ|西大洋漁業]]、264トン)が沈没した第十四掃海隊は3月13日9時<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.18</ref>、「追風」と「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)は3月14日午後<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.26</ref>、そして「ちゃいな丸」を護衛した「夕張」は3月14日夜<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.28</ref>にそれぞれラバウルに帰投した。人的被害は戦死130、重軽傷245の計375名に達しそのうち陸軍関係は戦死1重軽8であった<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.44-45</ref>。日本側は11機の撃墜を報じたが<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.21, pp.39-40</ref>、実際には攻撃隊は1機しか失わなかった<ref name="s49128"/>。陸上戦は日本側の勝利であったが、海空戦は贔屓目に見てもアメリカ海軍の完勝であった。
ラエおよびサラモア沖に展開していたSR攻略部隊艦船18隻中、人的および物的の被害がなかったのは「望月」、「睦月」、「弥生」、「第二号能代丸」([[日本水産]]、216トン)および「羽衣丸」(日本水産、234トン)の5隻のみであった。残る13隻のうち沈没・擱座は4隻(金剛丸、天津丸、第二玉丸、横浜丸)を数え、その他も大なり小なりの被害を受けた(中破〈夕凪、黄川丸、聖川丸〉、小破〈夕張、津軽、朝凪、玉丸〉)<ref name="叢書十四73" /><ref name="叢書八十180" />。各艦は応急修理に奔走した{{sfn|青春の棺|1979|pp=67-69}}。
3月12日、堀江支隊は陸海軍協定に基づきサラモアの守備を海軍陸戦隊と交代し、「ちゃいな丸」に移乗した<ref name="叢書十四73" />
残存艦船のうち「朝凪」、「望月」と「聖川丸」は3月12日午前<ref>[[#南洋部隊 (4)]] pp.7-8</ref>、「第二玉丸」([[マルハ|西大洋漁業]]、264トン)が沈没した第十四掃海隊は3月13日9時<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.18</ref>、「追風」と「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)は3月14日午後<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.26</ref>、そして「ちゃいな丸」を護衛した「夕張」は3月14日夜<ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.28</ref>にそれぞれラバウルに帰投した。
人的被害は戦死130、重軽傷245の計375名(『戦史叢書14巻』73頁では、戦死132257とする)<ref name="叢書十四73" /><ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.44-45</ref>。日本側は11機の撃墜を報じたが<ref name="隈部254" /><ref>[[#南洋部隊 (4)]] p.21, pp.39-40</ref>、実際には攻撃隊は1機しか失わなかった<ref name="叢書十四80" /><ref name="s49128"/>。陸上戦は日本側の勝利であったが、海空戦は贔屓目に見てもアメリカ海軍の完勝であった。


ブカ島方面を行動中の支援部隊はラエおよびサラモアへの敵襲の報を受けても何らアクションを起こさず、ブカ島方面での掃討作戦をおこなったのち、3月11日にラバウルに帰投した<ref name="s49130">[[#戦史49]] p.130</ref>。
ブカ島方面を行動中の支援部隊は3月9日にブカ島西部クインアロラ湾に進入した<ref name="叢書十四71" />。ラエおよびサラモアへの敵襲の報を受けても何らアクションを起こさず、ブカ島方面での掃討作戦をおこなったのち(3月10日に海軍陸戦隊をブカ島に揚陸)<ref name="叢書十四71" />、3月11日にラバウルに帰投した<ref name="s49130">[[#戦史49]] p.130</ref>{{sfn|鉄底海峡|1994|p=53}}。米軍機動部隊に備えて3月14日午後5時にラバウルを出撃、15日午前7時にクインカロラ湾に到着した<ref name="叢書十四73" />。17日、支援部隊はカビエンに移動した<ref name="叢書十四73" />。


==戦闘の後==
==戦闘の後==
===零戦隊の進出===
===零戦隊の進出===
日本側は、3月18日まで第11任務部隊および第17任務部隊の索敵を行ったものの、攻撃後即座にパプア湾を離れた両任務部隊を3月10日午後に発見した程度でその後は手掛かりを失った<ref>[[#戦史49]] pp.126-127</ref>。ラエへの航空基地の前進は、同時にポートモレスビーをはじめとする連合軍側航空基地とオーエンスタンレー山脈を挟んで直接対峙することも意味していた<ref>[[#戦史49]] pp.135</ref>。ラエおよびサラモアには3月11日以降も爆撃が繰り返され<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.52</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.9</ref>、SR攻略部隊の援護ができなかった零戦隊は、遅ればせながら3月11日から12日にかけて17機がラエに進出<ref name="s49136">[[#戦史49]] p.136</ref>。3月13日には陸上攻撃機隊もラエに進出し、この日からポートモレスビー攻撃および本格的な哨戒を開始した<ref name="s49136"/>。
日本側は、3月18日まで第11任務部隊および第17任務部隊の索敵を行ったものの、攻撃後即座にパプア湾を離れた両任務部隊を3月10日午後に発見した程度で<ref name="叢書八十180" />、その後は手掛かりを失った<ref>[[#戦史49]] pp.126-127</ref>。ラエへの航空基地の前進は、同時にポートモレスビーをはじめとする連合軍側航空基地とオーエンスタンレー山脈を挟んで直接対峙することも意味していた<ref>[[#戦史49]] pp.135</ref>。ラエおよびサラモアには3月11日以降も爆撃が繰り返され<ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.52</ref><ref>[[#南洋部隊 (3)]] p.9</ref>、SR攻略部隊の援護ができなかった零戦隊は、遅ればせながら3月11日から12日にかけて17機がラエに進出した<ref name="s49136">[[#戦史49]] p.136</ref>。3月13日には陸上攻撃機隊もラエに進出し、この日からポートモレスビー攻撃および本格的な哨戒を開始した<ref name="s49136"/><ref>[[#叢書14|戦史叢書14巻]]、82-84頁「三月中旬から下旬にかけての基地航空戦」</ref>。


敵基地と至近になったことで損害も多く、3月22日にはロッキード・ハドソンとB-17、[[ホーカー ハリケーン]]の攻撃により零戦2機未帰還、5機焼失、7機被弾修理不能という大被害を受けた<ref name="s49137">[[#戦史49]] p.137</ref>。4月4日には、第二十五航空戦隊がラエに進出していた[[第四海軍航空隊]]に対して航空機の分散配備などを指示した直後に戦闘機隊の銃撃を受け、戦闘機2機炎上、戦闘機8機と陸攻9機が被弾するという被害も受けている<ref>[[#戦史49]] p.153</ref>。以降、ラエとサラモアは[[1943年]](昭和18年)3月からの[[ラエ・サラモアの戦い|連合軍の反攻]]により9月11日(サラモア)および9月16日(ラエ)に奪回されるまで日本軍の拠点として機能した。
敵基地と至近になったことで損害も多く、3月22日にはロッキード・ハドソンとB-17、[[ホーカー ハリケーン]]の攻撃により零戦2機未帰還、5機焼失、7機被弾修理不能という大被害を受けた<ref name="s49137">[[#戦史49]] p.137</ref>。4月4日には、第二十五航空戦隊がラエに進出していた[[第四海軍航空隊]]に対して航空機の分散配備などを指示した直後に戦闘機隊の銃撃を受け、戦闘機2機炎上、戦闘機8機と陸攻9機が被弾するという被害も受けている<ref>[[#戦史49]] p.153</ref>。以降、ラエとサラモアは[[1943年]](昭和18年)3月からの[[ラエ・サラモアの戦い|連合軍の反攻]]により9月11日(サラモア)および9月16日(ラエ)に奪回されるまで日本軍の拠点として機能した。
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===戦訓===
===戦訓===
ラエとサラモアを確保してラバウルの外郭の一角を押さえるという目的は一応達成したものの、空襲による痛手は大きく、4月中に予定されていたツラギ島およびポートモレスビーの攻略は、部隊再編のため1か月の延期を余儀なくされた<ref name="s49130"/>。一作戦で生じた被害としては開戦以来最大とも評されるが、[[蘭印作戦]]の華々しい戦果の陰に完全に隠れてしまった<ref name="s49125"/>。大被害の原因について梶岡は、「津軽」が属していた第十九戦隊司令官の志摩清英少将に対して「本作戦に際しては敵機動部隊の出現を極度に警戒していたが、ついに戦闘機進出遅延のため、この惨害を受けた」と述べた<ref name="s49125"/>。また、津軽艦長の稲垣はオーストラリア北東方面に機動部隊を張り付けて強力な攻撃を継続すべき」という趣旨の意見具申を行い、志摩も日記に、オーストラリア北東方面に機動部隊を進出させて圧力をかける必要性を記している<ref>[[#戦史49]] p.125,137</ref>。志摩はまた、3月22日のラエへの空襲に関して「この状況を継続しあらば、結局航空消耗戦を継続するに過ぎず」とも日記に記したが<ref name="s49137"/>、その後のポートモレスビーをめぐる戦況は、志摩の予言が当たることとなった。
ラエとサラモアを確保してラバウルの外郭の一角を押さえるという目的は一応達成したものの、空襲による痛手は大きく、4月中に予定されていたツラギ島およびポートモレスビーの攻略は、部隊再編のため1か月の延期を余儀なくされた<ref name="s49130"/>。
一作戦で生じた被害としては開戦以来最大とも評されるが<ref name="叢書十四73" />[[南方作戦]]や[[蘭印作戦]]の華々しい戦果の陰に完全に隠れてしまった<ref name="叢書三五564" /><ref name="s49125"/>。
大被害の原因について梶岡は、「津軽」が属していた第十九戦隊司令官の志摩清英少将に対して「本作戦に際しては敵機動部隊の出現を極度に警戒していたが、ついに戦闘機進出遅延のため、この惨害を受けた」と述べた<ref name="s49125"/>。
また、津軽艦長の稲垣はオーストラリア北東方面に機動部隊(少なくとも[[龍驤 (空母)|龍驤]]程度の母艦航空部隊)を張り付けて強力な攻撃を継続すべき」という趣旨の意見具申を行い<ref group="注釈">戦史叢書14巻の81頁掲載、津軽戦闘詳報より「即今次SR攻略作戦ニ於テ少ナクトモ支援部隊ハ龍驤程度ノ母艦航空部隊ノ随伴若クハ協力ヲ以テ「ラエ」「サラモア」基地ヲ確保シ設営完了シ更ニ味方基地空襲部隊移動完了シ之ガ基地トシテ機能ヲ十分発揮スル時機迄ハ「ニューギニア」南東海面ニ進出シ敵ノ機動ニ備フルノ要アリタリ。」</ref>、志摩も日記に、オーストラリア北東方面に機動部隊を進出させて圧力をかける必要性を記している<ref>[[#戦史49]] p.125,137</ref>。志摩はまた、3月22日のラエへの空襲に関して「この状況を継続しあらば、結局航空消耗戦を継続するに過ぎず」とも日記に記したが<ref name="s49137"/>、その後のポートモレスビーをめぐる戦況は、志摩の予言が当たることとなった。


ウェーク島の戦いに続いて苦杯を舐めることとなった第六水雷戦隊は、戦訓として志摩や稲垣と同じく支援部隊に機動部隊を起用することを挙げたほか<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.44-45</ref>、彼我の状況に応じて要領を修正することの必要性<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.48-49</ref>、日本海軍に伝わる旧習は尊重すべきだが、尊い犠牲を購って手に入れた戦訓を積極的に取り入れること<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.50-51</ref>、そして対空兵装の強化<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.56-59</ref>などを戦訓として取り上げた。もっとも、第六水雷戦隊が挙げたこれらの戦訓を日本海軍がどの程度重視し実行に移したかは、ここでは問わない
ウェーク島の戦いに続いて苦杯を舐めることとなった第六水雷戦隊は、戦訓として志摩や稲垣と同じく支援部隊に機動部隊を起用することを挙げたほか<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.44-45</ref>、彼我の状況に応じて要領を修正することの必要性<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.48-49</ref>、日本海軍に伝わる旧習は尊重すべきだが、尊い犠牲を購って手に入れた戦訓を積極的に取り入れること<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.50-51</ref>、そして対空兵装の強化<ref>[[#南洋部隊 (8)]] pp.56-59</ref>などを戦訓として取り上げた。

南東方面における米軍機動部隊の出現は、ポートモレスビーの海路攻略案において重大なる不安要素となった<ref name="叢書十四90" />。日本陸軍の南海支隊は[[航空母艦]]や防空専任輸送船の増援、空挺部隊による敵飛行場破壊作戦実施を訴えるとともに(3月20日、大本営へ電報)、ポートモレスビー陸路攻略案・舟艇機動案・船団上陸作戦(従来案)の検討に入った<ref name="叢書十四90" />。日本海軍も南洋部隊(第四艦隊)に軽空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]を配備したが戦力不足は明白であり、種々折衝と計画変更の末に、[[第五航空戦隊]]([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]])の派遣に至った(4月10日電令作第109号、珊瑚海海戦)<ref name="叢書十四92" />。


ラエおよびサラモアへの奇襲を成功させたブラウンにはニミッツから賞詞が送られ<ref>[[#戦史49]] p.129</ref>、これまでの戦功で{{仮リンク|海軍殊勲章|en|Navy Distinguished Service Medal}}を受章した<ref>{{Cite web|url= http://militarytimes.com/citations-medals-awards/recipient.php?recipientid=10304 |title = Wilson Brown, Jr.|work=Military Times Hall of Valor|author= Military Times|accessdate=2012-12-11}}</ref>。しかし、攻撃から1か月後の4月10日に第11任務部隊を去り、以降は陸上勤務となった<ref>{{Cite web|url= http://pwencycl.kgbudge.com/B/r/Brown_Wilson_Jr.htm | title=Brown, Wilson, Jr.|work=The Pacific War Online Encyclopedia|author= Kent G. Budge|accessdate=2012-12-11}}</ref>。
ラエおよびサラモアへの奇襲を成功させたブラウンにはニミッツから賞詞が送られ<ref>[[#戦史49]] p.129</ref>、これまでの戦功で{{仮リンク|海軍殊勲章|en|Navy Distinguished Service Medal}}を受章した<ref>{{Cite web|url= http://militarytimes.com/citations-medals-awards/recipient.php?recipientid=10304 |title = Wilson Brown, Jr.|work=Military Times Hall of Valor|author= Military Times|accessdate=2012-12-11}}</ref>。しかし、攻撃から1か月後の4月10日に第11任務部隊を去り、以降は陸上勤務となった<ref>{{Cite web|url= http://pwencycl.kgbudge.com/B/r/Brown_Wilson_Jr.htm | title=Brown, Wilson, Jr.|work=The Pacific War Online Encyclopedia|author= Kent G. Budge|accessdate=2012-12-11}}</ref>。
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===印刷物===
===印刷物===
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030018200|title=昭和16年12月1日~昭和19年8月31日 第4艦隊戦時日誌(1)|ref=S1612-04F(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030045400|title=昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1612六戦隊日誌(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030059500|title=昭和17年2月1日〜昭和17年3月31日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)|ref=S1702十八戦隊日誌(5)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120110600|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/1 経過|ref=S17.03二十四航戦、経過}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120110700|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/2 人員の現状|ref=S17.03二十四航戦、人員}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120110800|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/3 令達報告等(1)|ref=S17.03二十四航戦、令達(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120110900|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/2 令達報告等(2)|ref=S17.03二十四航戦、令達(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120111000|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/3 令達報告等(3)|ref=S17.03二十四航戦、令達(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13120111300|title=第24航空戦隊戦時日誌 自昭和17年3月1日至昭和17年3月31日/4 作戦経過概要|ref=S17.03二十四航戦、作戦経過概要}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030757600|title=軍艦津軽戦闘詳報 第十四号 SR作戦自昭和十七年二月二十日至昭和十七年三月十七日|ref=軍艦津軽 (1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030757600|title=軍艦津軽戦闘詳報 第十四号 SR作戦自昭和十七年二月二十日至昭和十七年三月十七日|ref=軍艦津軽 (1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030757700|title=軍艦津軽戦闘詳報 第十四号 SR作戦自昭和十七年二月二十日至昭和十七年三月十七日|ref=軍艦津軽 (2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030757700|title=軍艦津軽戦闘詳報 第十四号 SR作戦自昭和十七年二月二十日至昭和十七年三月十七日|ref=軍艦津軽 (2)}}
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030123500|title=昭和十七年三月十七日 南洋部隊「SR」方面攻略部隊戦闘詳報|ref=南洋部隊 (7)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030123500|title=昭和十七年三月十七日 南洋部隊「SR」方面攻略部隊戦闘詳報|ref=南洋部隊 (7)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030123600|title=昭和十七年三月十七日 南洋部隊「SR」方面攻略部隊戦闘詳報|ref=南洋部隊 (8)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030123600|title=昭和十七年三月十七日 南洋部隊「SR」方面攻略部隊戦闘詳報|ref=南洋部隊 (8)}}

* {{Cite book|和書|author=財団法人海上労働協会(編)|year=2007|origyear=1962|title={{small|復刻版}} 日本商船隊戦時遭難史|publisher=財団法人海上労働協会/成山堂書店|isbn=978-4-425-30336-6|ref=戦時遭難史}}
* {{Cite book|和書|author=[[防衛研究所]]戦史室編|year=1971|title=戦史叢書49 南東方面海軍作戦(3) {{small|ガ島奪回作戦開始まで}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史49}}
* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木範樹「機動部隊R作戦を支援」|editor=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|pages=178-179|isbn=4-7698-0413-X|ref=鈴木}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正「中部・南部太平洋方面攻略作戦」|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0413-X|pages=206-213|ref=佐藤}}
* {{Cite book|和書|author=阿部安雄「米機動部隊ラバウル空襲ならず」|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0413-X|pages=240-241|ref=阿部}}
* {{Cite book|和書|author=阿部安雄「米機動部隊ラバウル空襲ならず」|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0413-X|pages=240-241|ref=阿部}}
* {{Cite book|和書|author=石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1989|title=写真・太平洋戦争(1)|publisher=光人社|isbn=4-7698-0413-X|pages=242-244|ref=石橋}}
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**(244-287頁){{small|三十五突撃隊隼艇搭乗員・海軍二等兵曹}}正岡勝直『付・戦力の中核 海軍小艦艇かく戦えり {{small|海防艦、敷設艦艇、駆潜艇、哨戒艇など特設艦船を含む補助艦艇奮戦の全貌}}』
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*<!--ホウエイチョウ38 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(1) {{small|昭和17年5月まで}}|volume=第38巻|year=1970|month=10|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref=叢書38}}
* {{Cite book|和書|author=[[防衛研究所]]戦史室編|year=1971|title=戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) {{small|ガ島奪回作戦開始まで}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史49}}
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==関連項目==
==関連項目==
{{Commons|Invasion of Lae-Salamaua}}
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* [[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]
* [[マーシャル・ギルバート諸島機動空襲]]
* [[バリクパパン沖海戦]]
* [[ニューギニア沖海戦]]
* [[ニューギニア沖海戦]]
* [[ニューギニアの戦い]]
* [[ニューギニアの戦い]]
* [[ポートモレスビー作戦]]
* [[珊瑚海海戦]]
* [[台南海軍航空隊]]
* [[台南海軍航空隊]]
* [[第四海軍航空隊]]
* [[第四海軍航空隊]]

2018年9月25日 (火) 10:36時点における版

ラエ・サラモアへの空襲

ラエ沖で第十四掃海隊を爆撃する「ヨークタウン」所属のTBD「デヴァステイター」
戦争太平洋戦争
年月日1942年3月8日 - 3月13日(空襲は3月10日
場所:ラエおよびサラモア沖
結果:日本軍は作戦目的達成も、空襲により被害甚大
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
指導者・指揮官
井上成美
梶岡定道
志摩清英
堀江正(日本陸軍
ウィルソン・ブラウン
フランク・J・フレッチャー
ジョン・グレゴリー・クレース(豪海軍)
戦力
軽巡洋艦1
駆逐艦6
敷設艦1
特設艦船8
輸送船2
[注釈 1]
空母2
巡洋艦8
駆逐艦14
航空機104
[注釈 2]
損害
特設艦船3、輸送船1沈没
軽巡洋艦1、駆逐艦2、敷設艦1、特設艦船2、輸送船1損傷
戦死130名以上(陸軍6、海軍126)、負傷約260名(陸軍17、海軍240)[1]
航空機1[2]
ニューギニアの戦い

ラエ・サラモアへの空襲(ラエ・サラモアへのくうしゅう)とは、太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)3月10日、ニューギニア島東部のラエおよびサラモアに展開する日本海軍と日本陸軍に対し[1]アメリカ海軍機動部隊が空襲を敢行した戦闘[3]

概要

ラエ・サラモアへの空襲は、太平洋戦争(大東亜戦争[4]初期の1942年(昭和17年)3月10日、ニューギニア島東部のラエおよびサラモアに展開していた日本軍に対し、空母2隻(レキシントンヨークタウン)を基幹とするアメリカ海軍機動部隊が艦載機による奇襲を敢行し、日本軍艦船に大損害を与えた一連の戦闘[3][5]

日本海軍の南洋部隊(指揮官井上成美海軍中将、第四艦隊司令長官)と麾下の日本陸軍南海支隊(指揮官堀井富太郎陸軍少将)を主力として1942年(昭和17年)1月23日[6]ニューブリテン島ラバウルを占領した日本軍は[7][8]、つづいて連合軍の重要拠点ポートモレスビーを目指してニューギニア島東部(サラモア、ラエ)の攻略を目指した[9]SR作戦[10][11]。 南洋部隊麾下の海軍艦艇(第六水雷戦隊司令官梶岡定道少将〈旗艦夕張〉、第十九戦隊司令官志摩清英少将〈旗艦津軽〉、第六戦隊司令官五藤存知少将〈旗艦青葉〉)は、海軍陸戦隊と南海支隊(歩兵第144連隊第2大隊長、堀江正少佐)[12]を護衛して3月5日にラバウルを出撃[1]、六水戦(夕張、第29駆逐隊、第30駆逐隊)護衛下の輸送船と艦艇は3月8日にニューギニア東部のラエとサラモアに到着し[13]、同地を占領した[14][15]。日本軍は飛行場を占領して整備を開始したが[15]、3月10日の空襲開始時点で海軍戦闘機隊(零式艦上戦闘機)は未着であった[16]

日本軍のニューギニア進攻に対し、連合軍はB-17重爆などによる空襲を開始した[10]。さらにラバウル攻撃を企図していたアメリカ海軍機動部隊が予定を変更し、ニューギニアにむかう[2]。3月10日、ラエとサラモア沖に展開していた日本軍艦船にレキシントン艦載機とヨークタウン艦載機は奇襲攻撃を敢行、在泊18隻中4隻が沈没し[1]、攻略部隊旗艦の夕張を含め艦艇多数が損傷した[5]

6月5日のミッドウェー海戦以前において、アメリカ機動部隊の攻撃によって受けた被害としては最大のものであった[16]。また米軍機動部隊の活動は、南東方面における日本軍作戦において重大なる脅威と認識され、その後の作戦計画に大きな影響を与えた(珊瑚海海戦[17][18]。 日本軍はその痛手にもかかわらずラエとサラモアの航空基地を確保し、ポートモレスビー作戦の支援にあたった[15][1]。本項では3月10日の空襲を軸に、ラエとサラモアの攻略が開始された3月8日から、ラエからの航空作戦が開始された3月13日までの間の出来事とその背景を中心として解説する。

背景

日本軍

ラエおよびサラモアは、開戦前の昭和16年9月に行われた図上演習の段階で航空基地の存在が知られていた[9][19]。しかし、第一段作戦でラバウルを占領しても[20]、外縁にあたるラエとサラモアを押さえておかないと南方および南西方面からの脅威にさらされるため[21]、南東方面を担当する第四艦隊は図上演習において、ラバウルに加えてラエおよびサラモアの占領を主張したが、採用されなかった[19]。その背景として、一つには連合艦隊が第四艦隊に命じた攻略命令が、具体的な攻略要地を記さない抽象的なものであり、連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐は戦後の回想で「なにぶんそのころは同方面の兵要資料も信頼の置けるものはほとんどなく、はっきり計画を立てることができないので、おおよその腹案程度であったと思う」と証言している[22]。また、第一段作戦はあくまで南方作戦がメインで、南東方面は「裏街道」とみられていたこと[19]、南方作戦関連の現実的問題として兵力が十分ではなかったことがある[9]。実際、南海支隊は、ラバウル攻略が終わればパラオに移って南方作戦に加わる予定であった[23]

しかし、開戦が現実のものになることがほぼ確定した段階の11月15日に開かれた大本営政府連絡会議において戦争の早期終結に関する検討が行われ、そのうち対オーストラリア戦に関しては、いわゆる米豪遮断作戦で離間を狙う方針が決定した[24]。 開戦後には、南方軍から大本営に対しても米豪遮断作戦の必要性が説かれるようになり[9]、また南方作戦も予想よりはるかに上回る速さで進捗していたこともあって、1942年(昭和17年)1月4日に南海支隊のパラオ移動が取り消され、代わって南東方面攻略への準備が指示された[23]海軍側も開戦後に第二段作戦の検討に入り[23]、1月10日の図上演習では第四艦隊側から、「「ラバウル」ノミ奪ッテモ役ニ立タヌ」ゆえにラエおよびサラモアの占領が再度主張された[21]。またラバウル攻略の際の1月21日には南雲機動部隊(指揮官南雲忠一中将、第一航空艦隊司令長官)麾下の第五航空戦隊(司令官原忠一少将、空母瑞鶴翔鶴)にラエおよびサラモアを空襲させていた[25][26]。 ラバウル攻略後の1月29日、大本営は連合艦隊に対し、陸海軍共同でニューギニア、ソロモン諸島方面の攻略を指令する(大海指第47号)[9][27]。ここで初めてラエおよびサラモアの占領が、ポートモレスビーおよびツラギ島とともに具体的な攻略目標として確定した[24][28]。大本営陸軍部は1月31日に上奏し、2月2日に大陸命第596号によってニューギニア方面攻略作戦を発令した[28][29]

アメリカ軍

真珠湾攻撃後、アメリカ軍の頼みの綱は空母潜水艦であり、「守勢にはほど遠い積極的な」防衛策で日本軍の進撃を妨害し、反撃のための時間稼ぎを行っていた[30]。その一環として1942年2月に一連のマーシャル・ギルバート諸島機動空襲が行われ[31]、その効果はある程度あったと判定された[32]。一方で、オーストラリアとの交通路の確保維持と強化に全力を挙げ、同じ2月にハーバート・リアリー英語版中将を司令官とするANZAC部隊英語版を編成した[30]。しかし、機動空襲のあとも日本軍の進撃は止まる気配もなく、特に2月15日のシンガポール陥落のあとは、日本軍がラバウルを拠点にサモア諸島ニューカレドニアおよびニューヘブリディーズ諸島を攻略するのではないかという恐慌に陥った。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は、ウィルソン・ブラウン中将が率い、空母「レキシントン」(USS Lexington, CV-2) を基幹とする第11任務部隊をANZAC部隊に編入した[31]。第11任務部隊はブラウンの提言でラバウルに先制攻撃を加えようとしたが、その途上の2月20日に日本軍機(ラバウルより発進した日本海軍・第24航空戦隊の一式陸上攻撃機17機)の空襲に遭い[33]、第11任務部隊は被害はなかったものの回避運動で燃料を浪費してしまったため攻撃を断念した(ニューギニア沖海戦[34][35]

ブラウンはラバウル攻撃のためには空母は2隻必要であり[35]、また燃料消費量の関係で随伴タンカーも2隻必要と進言した[36]。この進言をニミッツが認め、 すでにフィジーおよびサモア方面を行動中のフランク・J・フレッチャー少将率いる、空母「ヨークタウン」 (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊英語版を第11任務部隊に合流させることとなった[36][37]。第11任務部隊と第17任務部隊は3月6日にニューヘブリティーズ諸島近海で合流し、一路ラバウルを目指した[36]。機動部隊の行動は、オーストラリアからヌーメアへの陸軍部隊輸送の間接掩護の意味合いも帯びていた[35]。また、この2つの任務部隊とは別にオーストラリア海軍ジョン・グレゴリー・クレース英語版少将率いる第44任務部隊がタンカー護衛のため派遣されることとなった[36]

日本軍が目標としたラエとサラモアには、それぞれ幅100m・長さ約800-1000mの飛行場があり、戦闘機の使用が可能であった[38]。サラモア南西約50kmのワウにも、小飛行場があった[38]。これら飛行場はオーストラリアを根拠地とする連合軍基地航空隊の前進基地であり、ラバウル(ニューブリテン島)の日本軍に対する反撃拠点として機能していた[38]。守備隊は50名から100名程度の義勇軍であった[38]

参加兵力

日本軍

SR方面攻略部隊(第六水雷戦隊司令官・梶岡定道少将)[39][40]
  • 主隊(全作戦支援):軽巡洋艦夕張
  • 第一部隊(サラモア攻略):陸軍輸送船「横浜丸」、「ちゃいな丸」、駆逐艦追風」、「朝凪」、「夕凪」、南海支隊約2,000名
  • 第二部隊(ラエ攻略):敷設艦津軽」、駆逐艦「睦月」、「弥生」、特設巡洋艦「金剛丸」、特設敷設艦「天洋丸」、特設運送船「黄海丸」、陸戦隊560名、高射砲隊、設営隊800名
  • 航空部隊:特設水上機母艦「聖川丸」、駆逐艦「望月
  • 哨戒部隊(哨戒、掃海):第十四掃海隊(特設掃海艇「玉丸」、「第二玉丸」、「羽衣丸」、「第二号能代丸」)[41]
  • 付属隊(在ラバウル):特設巡洋艦「金龍丸
支援部隊(第六戦隊司令官・五藤存知少将)
  • 第六戦隊(重巡洋艦「青葉」、「加古」、「衣笠」、「古鷹」)
  • 第十八戦隊(軽巡洋艦「天龍」、「龍田」)
  • 第二十三駆逐隊(駆逐艦「菊月」、「卯月」、「夕月」)
  • 特設運送船(給油)「東邦丸
航空部隊(第二十四航空戦隊司令官・後藤英次中将)

アメリカ軍

第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)[45]
第17任務部隊(フランク・J・フレッチャー少将)[47]
第44任務部隊(ジョン・グレゴリー・クレース少将)[48]

日本側の作戦準備

当初の予定では、ラエおよびサラモアの攻略は3月3日に予定されていた[49]。具体的には、2月に入ってから進められていたニューブリテン島南端のガスマタおよびスルミの攻略戦(2月15日、スルミ攻略部隊の編成解除)[50]が終わった2月13日から準備が始まり(トラック泊地にて、第四艦隊〈旗艦鹿島〉と南海支隊参謀の会議を開始)[12]、2月16日には作戦名をSR作戦と呼称して、上陸日も3月3日に設定された[51][52]。 敵情としては、航空活動は活発ではないが分散移動しており根絶が難しいこと、陸上部隊の状況はよくわからない、と判断される[52]。そして、ラエとサラモアを早急に占領したのちは、ただちに航空基地を設定してポートモレスビー方面への圧力とすることが作戦目的とされた[52]。SR攻略部隊指揮官は第六水雷戦隊司令官の梶岡定道少将が定められ、梶岡は2月20日に攻略部隊命令を発するも、まさに同じ2月20日に前述の第11任務部隊(空母レキシントン)の接近があって日本海軍は迎撃に追われ、作戦は延期された(ニューギニア沖海戦[12][53]。25日にあらためて協議をおこない(南洋部隊電令作第109号)[53]、3月8日の上陸を予定した[12][54]

南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)麾下にある第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将)のうち、旗艦「夕張」は作戦支援[55]、第29駆逐隊(「追風」、「朝凪」[注釈 3]、「夕凪」)は陸軍輸送船「横浜丸」(日本郵船、6,143トン)および「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,869トン)を護衛してサラモアへ[56]、第三十駆逐隊のうち「睦月」と「弥生」は「津軽」艦長稲垣義龝大佐指揮の下で特設巡洋艦「金剛丸」(国際汽船、8,624トン)、特設敷設艦「天洋丸」(東洋汽船、6,843トン)および特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)を護衛してラエに向かうこととなり、「望月」は特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)の護衛に回った[53][56]。「金剛丸」と「天洋丸」は、ラバウル警備隊から抽出された陸戦部隊560名と高射砲隊、ラエに配備される基地員800名や需品の輸送にもあたった[57]。 なお、当初は攻略部隊に名を連ねていた特設巡洋艦「金龍丸」(国際汽船、9,309 トン)は、スルミ攻略戦で損傷したためラバウル待機となった[56][58]。「横浜丸」と「ちゃいな丸」に乗船する陸軍部隊は[59]、南海支隊のうち堀江正陸軍少佐(歩兵第144連隊第2大隊長)指揮の歩兵一個大隊、山砲一個中隊を主軸とした約2,000名で構成されていた[12][60]。堀江少佐は2月17日附で南海支隊長堀井富太郎陸軍少将より命令を受領し、作戦準備を進めた[12]。堀江少佐は2月28日に大隊命令を下達し[61]、3月2日に第六水雷戦隊と南海支隊の間で協定がむすばれた[62]

南洋部隊麾下の協力部隊は、支援部隊・航空部隊・ビスマルク諸島方面防備部隊から成る[53]。支援部隊は第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とし[53]、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)、第十八戦隊(天龍、龍田)、第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)で編成された[63]。 航空部隊は第二十四航空戦隊司令官後藤英次少将を指揮官として第四航空隊と水上機母艦神威で編成、ビスマルク諸島方面防備部隊は第8根拠地隊司令官金澤正夫少将を指揮官とした[53]

戦闘の経過

ラエ・サラモアの攻略

攻略に先立ち、第二十四航空戦隊は連日のようにポートモレスビーほか、ソロモン諸島やニューギニア島東部各地の航空基地、珊瑚海に対して偵察と爆撃を繰り返したが[59][64]、地上砲火以外に大した反撃はなかった[65]。 攻略部隊は3月3日と3月4日に総合訓練を実施し、ラバウルに集結した[59]。 3月5日13時にSR攻略部隊はラバウルを出撃し、支援部隊も16時に同地を出撃した[59]。船団の上空護衛は聖川丸水偵と海軍基地航空隊が担当した[59][66]。 敵襲もなくニューブリテン島南岸を西航したのち、スコールに悩まされつつ3月7日午後10時30分にサラモア東方泊地に進入した[59]3月8日1時に陸軍部隊がサラモア沖に、2時30分には海軍部隊がラエ沖に到着してそれぞれ上陸を開始し、7時過ぎまでにはラエおよびサラモアの航空基地・市街・電信施設を無血占領することに成功した[67]。連合軍守備隊はワウ方面に向けて退却し、住民もラバウル攻略時にワウやポートモレスビーに退避していた[59]

ラエ方面では荒天で大発動艇の大部分が座礁するなどアクシデントがあり、梶岡はウェーク島の戦いの経験から駆逐艦での大発動艇の引き下ろしを命じた[68]。また、これといった港湾施設もないラエでの荷役作業の終了見込みは「金剛丸」が10日、「天洋丸」が11日、「黄海丸」が12日とされた[69]。サラモア方面でも荒天で上空掩護に欠く有様で、梶岡(および南海支隊派遣参謀)[59]は8日夜には戦闘機隊を至急ラエに派遣するよう打電した[70]。双方の航空基地には爆破孔あったが、8日午後[71]までには補修も終わり、いつでも使用可能な状態とした[69]

なお、第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする支援部隊も3月5日16時にラバウルを出撃し(前述)[59][72]、船団の掩護に従事した[73]。ニューブリテン島南方を行動したのち上陸成功の報に接して反転し、予定どおりブカ島クインカロラ付近占領[53]のため同方面に移動した[74]

3月10日まで

日本軍のラエおよびサラモアへの来襲を、連合軍が黙って見ていることはなかった。3月に入ってから間もなくロッキード・ハドソン(ロッキード型)と思われる陸上機がラバウル、スルミ方面に空襲を仕掛けており[55]、上陸作戦当日の3月8日にも朝方から空襲を行った[10]。海軍部隊がラエを占領して間もなく「ロッキード」型が飛来し[75]、10時過ぎと13時過ぎにもラエとサラモアに1機ずつ飛来した[76]。10時過ぎに飛来した航空機は「横浜丸」に対して爆弾を複数発投下したが、船尾方向100メートルに落下して被害を与えなかった[77]。しかし、13時過ぎに来襲の航空機が同じく「横浜丸」に対して投弾し、前甲板へ命中弾1発と至近弾1発を与え、「横浜丸」では死傷者9名(戦史叢書14巻では戦死7、戦傷8とする)[78]を出した[79]。「横浜丸」は18時前にも空襲を受けたが被害はなく、「夕張」から派遣された工作隊によって修理が行われた[69][80][81]。その他、「朝凪」[注釈 4]も1回爆撃を受けたが被害はなかった[69]。 梶岡が戦闘機隊の緊急派遣を要請した背景には、このように悪天候にもかかわらず空襲を受けたことがあった。 しかし、要請に応じてスルミから飛び立った戦闘機隊はラエ上空の悪天候に悩まされ[82]、また占領したばかりのラエの航空基地に置かれた標識を見落とし、スルミ経由でラバウルに帰投した[83]。戦闘機隊派遣に関する電文も行き違いが生じて遅れて受信するなど、ラエ、サラモア上空は制空権のないまま3月10日を迎えた。上空直掩を担当するのは、聖川丸の水上機小数機にすぎなかった[84]

第11任務部隊と第17任務部隊は依然ラバウル攻撃を策して進撃していたが、日本軍のラエおよびサラモア上陸の報を聞いて、攻撃目標を急遽ラエとサラモアに切り替えることとなった[36][46]。しかしここで、一つの難問に直面する。ルイジアード諸島以北のソロモン海に進んで東方からラエとサラモアを攻撃しようとするとラバウルからの航空圏内に入り、かといってパプア湾に進んで南方から攻撃しようとした場合には、オーエンスタンレー山脈の状況が資料を欠いてわからないというデメリットがそれぞれ生じた[2][36]。そこでブラウンは航空機を派遣してオーエンスタンレー山脈の状況を調査させたところ、基本的には重装備の航空機では山脈を越すことが難しいものの一部には2,500メートル程度の標高の地点があり、しかも朝方には2時間程度晴れていることも分かったため、ブラウンはパプア湾に進んで3月10日早朝に南方から攻撃することに決めた[46][36]。攻撃に先立ち、ブラウンは自己の部隊から「アストリア」、「シカゴ」、「ルイビル」の重巡洋艦3隻と「アンダーソン」、「ハムマン」、「シムス」、「ヒューズ」の駆逐艦4隻を、タンカー護衛を担当するクレースの第44任務部隊に派遣して護衛を厚くした[46]

空襲

3月10日早朝、第11任務部隊と第17任務部隊は予定地点に到達し、「レキシントン」からはSBD「ドーントレス」30機、TBD「デヴァステイター」13機、「F4F「ワイルドキャット」8機の計51機が発進し、「ヨークタウン」からは「ドーントレス」30機、「デヴァステイター」12機、「ワイルドキャット」10機の計52機が発進して、総計103機の攻撃隊がラエとサラモアを目指した[46]。これとは別に、1機がオーエンスタンレー山脈の気象観測のため発進した[36]。攻撃隊の装備は爆弾が主であったが、「レキシントン」攻撃隊の「デヴァステイター」13機のみは魚雷を搭載した[46][85]。攻撃目標は、「レキシントン」攻撃隊がサラモアを、「ヨークタウン」攻撃隊がラエをそれぞれ攻撃すると定められる[85]。攻撃隊は無事にオーエンスタンレー山脈を越え、一路ラエとサラモアの沖合にいる日本軍艦船に向けて突進した。

そのころ、ラエとサラモア沖に展開中のSR攻略部隊各艦船は依然として設営作業に協力していた[84]。数日来降っていた雨もあがり、早朝に「ロッキード」型が飛来して「天洋丸」に対して投弾してきたが、偵察であると判断された[86][87]。ところが、7時50分にいたりSR攻略部隊の各艦船はオーエンスタンレー山脈を越えて飛来してきた「レキシントン」および「ヨークタウン」両攻撃隊の奇襲を受けた[88]。各艦船は対空砲火を撃ちあげたが貧弱であり、「聖川丸」も搭載の水上偵察機3機で撃退しようとしたが、103機対3機ではどうしようもなかった[89]。 「横浜丸」支援でサラモア沖にあった「夕張」が真っ先に狙われ、銃爆撃に加えて雷撃を受けたが、雷撃に関しては腕が拙劣で発射距離も遠く、まったく問題にならなかった[90]。それでも「夕張」は機銃掃射で応急弾薬筺や魚雷格納筺から火災が発生し、電信機も被弾で故障して送信不能となった[91]。「夕張」が支援していた「横浜丸」は、4発の命中弾を受け8時30分に沈没した[92]。以降、9時15分に第一波の攻撃が終わるまで「ちゃいな丸」、「朝凪」や「夕凪」[93]および「聖川丸」が被弾損傷した[94]。9時35分にはB-17の爆撃もあり、一連の攻撃は10時35分までにはほぼ終わった[95][96]。攻撃後の12時、ようやく零戦4機がラエ上空に到着したが、もはや「後の祭り」であった[97]

攻撃隊を収容した第11任務部隊と第17任務部隊は、攻撃隊員から再度の攻撃が要請されるもブラウンはこれを受け入れず、燃料補給のため第44任務部隊の方角をさして避退していった[98]

被害

沈没艦船は以下のとおり。

  • 「横浜丸」:4発の命中弾を受け沈没。戦死1[95][92]
  • 「天洋丸」:6番船倉その他に命中弾2発、ラエ海岸に擱座し総員退去。3月11日に水柱を吹き上げ、煙突より後方沈没。戦死9、重軽傷23[95][99][100]
  • 「金剛丸」:命中弾2発で機械室浸水、後部船倉で火災発生、搭載の高射砲2基破壊、3月10日16時30分に沈没。戦死12、重軽傷16[95][101]
  • 「第二玉丸」:多大な銃爆撃を浴びバエン湾に避退、艦橋大破、舵機破損など被害甚大。応急修理を試みるも排水不能により3月12日18時5分沈没。戦死5、重傷10[95][102][103]

沈没以外で人的および物的被害のあった艦船は以下のとおり。

  • 「夕張」:被弾、至近弾5発により一時火災発生。戦死13、重軽傷49[95][104]
  • 「追風」:至近弾多数、行方不明3[105]、重軽傷2[95]
  • 「朝凪」:9時50分に前甲板に1発命中、至近弾2発、缶損傷で最大速度26ノット。戦死18、重軽傷47[95][106]
  • 「夕凪」:左舷中部に命中弾1発、缶破裂により航行困難、最大速力21ノット。戦死29、重軽傷38[95][107][108]
  • 「津軽」:命中弾1発、至近弾4発により破孔多数、煙突と舵機損傷。。戦死11、重軽傷13[95][109]
  • 「黄海丸」:船体前後部に命中弾各1発、航行可能。戦死7、重軽傷30[95][110]
  • 「聖川丸」:左舷側に至近弾1発、破孔により機械故障。最大速力10ノット。戦死1、重軽傷9[95][111]
  • 「玉丸」:重軽傷6[95]
  • 「ちゃいな丸」:命中弾1発、小破[95]

ラエおよびサラモア沖に展開していたSR攻略部隊艦船18隻中、人的および物的の被害がなかったのは「望月」、「睦月」、「弥生」、「第二号能代丸」(日本水産、216トン)および「羽衣丸」(日本水産、234トン)の5隻のみであった。残る13隻のうち沈没・擱座は4隻(金剛丸、天津丸、第二玉丸、横浜丸)を数え、その他も大なり小なりの被害を受けた(中破〈夕凪、黄川丸、聖川丸〉、小破〈夕張、津軽、朝凪、玉丸〉)[16][5]。各艦は応急修理に奔走した[112]。 3月12日、堀江支隊は陸海軍協定に基づきサラモアの守備を海軍陸戦隊と交代し、「ちゃいな丸」に移乗した[16]。 残存艦船のうち「朝凪」、「望月」と「聖川丸」は3月12日午前[113]、「第二玉丸」(西大洋漁業、264トン)が沈没した第十四掃海隊は3月13日9時[114]、「追風」と「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)は3月14日午後[115]、そして「ちゃいな丸」を護衛した「夕張」は3月14日夜[116]にそれぞれラバウルに帰投した。 人的被害は戦死130、重軽傷245の計375名(『戦史叢書14巻』73頁では、戦死132、負傷257とする)[16][117]。日本側は11機の撃墜を報じたが[10][118]、実際には攻撃隊は1機しか失わなかった[2][36]。陸上戦は日本側の勝利であったが、海空戦は贔屓目に見てもアメリカ海軍の完勝であった。

ブカ島方面を行動中の支援部隊は3月9日にブカ島西部クインアロラ湾に進入した[59]。ラエおよびサラモアへの敵襲の報を受けても何らアクションを起こさず、ブカ島方面での掃討作戦をおこなったのち(3月10日に海軍陸戦隊をブカ島に揚陸)[59]、3月11日にラバウルに帰投した[119][120]。米軍機動部隊に備えて3月14日午後5時にラバウルを出撃、15日午前7時にクインカロラ湾に到着した[16]。17日、支援部隊はカビエンに移動した[16]

戦闘の後

零戦隊の進出

日本側は、3月18日まで第11任務部隊および第17任務部隊の索敵を行ったものの、攻撃後即座にパプア湾を離れた両任務部隊を3月10日午後に発見した程度で[5]、その後は手掛かりを失った[121]。ラエへの航空基地の前進は、同時にポートモレスビーをはじめとする連合軍側航空基地とオーエンスタンレー山脈を挟んで直接対峙することも意味していた[122]。ラエおよびサラモアには3月11日以降も爆撃が繰り返され[123][124]、SR攻略部隊の援護ができなかった零戦隊は、遅ればせながら3月11日から12日にかけて17機がラエに進出した[125]。3月13日には陸上攻撃機隊もラエに進出し、この日からポートモレスビー攻撃および本格的な哨戒を開始した[125][126]

敵基地と至近になったことで損害も多く、3月22日にはロッキード・ハドソンとB-17、ホーカー ハリケーンの攻撃により零戦2機未帰還、5機焼失、7機被弾修理不能という大被害を受けた[127]。4月4日には、第二十五航空戦隊がラエに進出していた第四海軍航空隊に対して航空機の分散配備などを指示した直後に戦闘機隊の銃撃を受け、戦闘機2機炎上、戦闘機8機と陸攻9機が被弾するという被害も受けている[128]。以降、ラエとサラモアは1943年(昭和18年)3月からの連合軍の反攻により9月11日(サラモア)および9月16日(ラエ)に奪回されるまで日本軍の拠点として機能した。

もっとも、零戦隊をポートモレスビー攻撃に備えてラエに集中させたことは、ラバウルの防空が手薄になることにもつながり、ラバウルへの空襲に対しては旧式の九六式艦上戦闘機で対抗せざるを得なかった[129]

戦訓

ラエとサラモアを確保してラバウルの外郭の一角を押さえるという目的は一応達成したものの、空襲による痛手は大きく、4月中に予定されていたツラギ島およびポートモレスビーの攻略は、部隊再編のため1か月の延期を余儀なくされた[119]。 一作戦で生じた被害としては開戦以来最大とも評されるが[16]南方作戦蘭印作戦の華々しい戦果の陰に完全に隠れてしまった[1][90]。 大被害の原因について梶岡は、「津軽」が属していた第十九戦隊司令官の志摩清英少将に対して「本作戦に際しては敵機動部隊の出現を極度に警戒していたが、ついに戦闘機進出遅延のため、この惨害を受けた」と述べた[90]。 また、津軽艦長の稲垣は「オーストラリア北東方面に機動部隊(少なくとも龍驤程度の母艦航空部隊)を張り付けて強力な攻撃を継続すべき」という趣旨の意見具申を行い[注釈 5]、志摩も日記に、オーストラリア北東方面に機動部隊を進出させて圧力をかける必要性を記している[130]。志摩はまた、3月22日のラエへの空襲に関して「この状況を継続しあらば、結局航空消耗戦を継続するに過ぎず」とも日記に記したが[127]、その後のポートモレスビーをめぐる戦況は、志摩の予言が当たることとなった。

ウェーク島の戦いに続いて苦杯を舐めることとなった第六水雷戦隊は、戦訓として志摩や稲垣と同じく支援部隊に機動部隊を起用することを挙げたほか[131]、彼我の状況に応じて要領を修正することの必要性[132]、日本海軍に伝わる旧習は尊重すべきだが、尊い犠牲を購って手に入れた戦訓を積極的に取り入れること[133]、そして対空兵装の強化[134]などを戦訓として取り上げた。

南東方面における米軍機動部隊の出現は、ポートモレスビーの海路攻略案において重大なる不安要素となった[17]。日本陸軍の南海支隊は航空母艦や防空専任輸送船の増援、空挺部隊による敵飛行場破壊作戦実施を訴えるとともに(3月20日、大本営へ電報)、ポートモレスビー陸路攻略案・舟艇機動案・船団上陸作戦(従来案)の検討に入った[17]。日本海軍も南洋部隊(第四艦隊)に軽空母祥鳳を配備したが戦力不足は明白であり、種々折衝と計画変更の末に、第五航空戦隊翔鶴瑞鶴)の派遣に至った(4月10日電令作第109号、珊瑚海海戦)[18]

ラエおよびサラモアへの奇襲を成功させたブラウンにはニミッツから賞詞が送られ[135]、これまでの戦功で海軍殊勲章英語版を受章した[136]。しかし、攻撃から1か月後の4月10日に第11任務部隊を去り、以降は陸上勤務となった[137]

脚注

注釈

  1. ^ 支援部隊、基地航空部隊、陸上部隊および基地要員は含まず。
  2. ^ 第44任務部隊の一部は含まず。
  3. ^ 『戦史叢書14巻』64頁編成表の「朝風」(第22駆逐隊)は「朝凪」(第29駆逐隊)の誤記。
  4. ^ 『戦史叢書14巻』72頁の「朝風」は「朝凪」の誤記。
  5. ^ 戦史叢書14巻の81頁掲載、津軽戦闘詳報より「即今次SR攻略作戦ニ於テ少ナクトモ支援部隊ハ龍驤程度ノ母艦航空部隊ノ随伴若クハ協力ヲ以テ「ラエ」「サラモア」基地ヲ確保シ設営完了シ更ニ味方基地空襲部隊移動完了シ之ガ基地トシテ機能ヲ十分発揮スル時機迄ハ「ニューギニア」南東海面ニ進出シ敵ノ機動ニ備フルノ要アリタリ。」

出典

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  3. ^ a b 戦史叢書102巻、111頁「昭和17年(1942年)3月10日、ラエ・サラモア方面在泊艦船、米軍艦載機の攻撃を受け損害大」
  4. ^ 戦史叢書80巻、102-103頁「大東亞戦争と呼称決定」
  5. ^ a b c d 戦史叢書80巻、180-181頁「ラエ、サラモアの攻略と米空母の来襲」
  6. ^ 戦史叢書102巻、103頁「昭和17年(1942年)1月23日」
  7. ^ 戦史叢書35巻、329-331頁「ラバウル攻略」
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参考文献

サイト

印刷物

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  • 岡村治信「第二章 死と現実」『青春の棺 生と死の航跡』光人社、1979年12月。 (岡村は第29駆逐隊主計科士官。「追風」に乗艦して本作戦に参加。)
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  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5 
    • (244-287頁)三十五突撃隊隼艇搭乗員・海軍二等兵曹正岡勝直『付・戦力の中核 海軍小艦艇かく戦えり 海防艦、敷設艦艇、駆潜艇、哨戒艇など特設艦船を含む補助艦艇奮戦の全貌
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 佐藤和正「中部・南部太平洋方面攻略作戦」 著、雑誌「丸」編集部(編) 編『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1989年、206-213頁。ISBN 4-7698-0413-X 
  • 鈴木範樹「機動部隊R作戦を支援」 著、雑誌「」編集部(編) 編『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1989年、178-179頁。ISBN 4-7698-0413-X 
  • 高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社、1994年10月(原著1967年)。ISBN 4-7698-2062-3 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、冨永謙吾(共訳)、恒文社、1992年。ISBN 4-7704-0757-2 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』 第7巻、朝雲新聞社、1967年8月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』 第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。 
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  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪回作戦開始まで朝雲新聞社、1971年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 

関連項目