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Leonidjp (会話 | 投稿記録)
問題点の指摘
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::編集した。--[[特別:投稿記録/118.83.141.75|118.83.141.75]] 2017年6月10日 (土) 16:54 (UTC)
::編集した。--[[特別:投稿記録/118.83.141.75|118.83.141.75]] 2017年6月10日 (土) 16:54 (UTC)

:::ほとんど解決してません。出典の無効ぶりが深刻すぎます。下記の[[#2017/06/11]]にも転記済み。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)

=== 2017/06/11 ===
[[菩薩]]の本文で指摘した問題([https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E8%8F%A9%E8%96%A9&diff=64409540&oldid=64405138 参照])をここにも転記しておきます。灰色部分は問題箇所を[[菩薩]]から引用したものです。

7日以内に対応がなければ記事から削除する用意があることを告知しておきます。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)

==== 2017/06/11-1 ====
<pre>しかし、菩薩の意味範疇は次第に多義化し、菩薩乗を経た修行者と菩薩乗を得るべく修行する者との区別が曖昧となり、やがて大乗仏教では[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮と相まって、縁覚乗(Pratyekabuddha-yāna)や声聞乗(Śrāvaka-yāna)の段階も含めて、そこにとどまることを目的としない[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩とした傾向がある<ref name="juchi"/></pre>

※なお、ref name="juchi"は、荒牧典俊訳の『大乗仏典 八巻』 中央公論社、1974年、7頁。

* 出典たる荒牧典俊訳の『大乗仏典 八巻』7頁にはこのようなことは全く書いてない。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)

==== 2017/06/11-2 ====
<pre>菩薩の意味の広義化はむしろ[[大乗仏教]]で盛んであり、独自研究範囲|時代が下るにつれて[[成仏]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref></pre>
* この妙法蓮華経文句からの引用には「成仏」の語がない。[https://app.box.com/s/05k2bx676gk6yrn8bvop11spa9ikej1u 原文には辟の字も無い]と思うが、ここに辟の字を付け加えることを支持する二次資料は挙げられていない。従ってこれは妙法蓮華経文句の原文に1字加えて原文を改変しているわけである。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)

==== 2017/06/11-3 ====
<pre>逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_614/_pdf 法華経「声聞授記」の意図] 印度學佛激學研究第四十六巻第二号(平成十年三月) 614頁。</ref>、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu"/></pre>

※なお、ref name="bosatsu"は、これ↓。

<pre><ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref></pre>

* 妙法蓮華経文句の原文は「経論によって所説が種々不同になった」と述べていない。何が広義化したとか、何が「本来は菩薩乗と表現すべきだった」などとも述べていないし、何を何に置き換えたとも述べていない。--[[利用者:Leonidjp|Leonidjp]]([[利用者‐会話:Leonidjp|会話]]) 2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)

2017年6月11日 (日) 04:26時点における版

大乗の菩薩

他のどんな菩薩と差別した菩薩を「大乗の菩薩」と言うのでしょうか? 故清水公照氏のように酸いも甘いも噛み分ける方ならいざ知らず、下手に華厳経に影響された仏教学者や僧侶の方の言説に振り回されると、かえってあらぬ差別を招くと思います。--2014年1月4日 (土) 16:44‎ 14.193.80.175

問題点の指摘

検証

① 現在、菩薩#概要の節にこのような記述があります。

菩薩の意味の広義化はむしろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれ、波羅蜜行に至らない修行者や、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える教説が現れ、大乗という語の意味も混乱した。これは、仏乗と表現せず如来乗を摂る教説とあいまって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。

② その出典は、こちらの経文だそうです。仏教経典の原文ですので一次資料です。

『妙法蓮華經文句(智顗説)』(T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。

③ この経文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の222頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。

華厳第八に云く、下劣にして沒を厭う者には爲めに聲聞道を示し、根鈍にして因緣を樂ふものには爲めに緣覺の道を説き、根利にして慈悲有るものには爲めに菩薩の道を説き、無上にして大事を樂ふものには無量の佛法を説くと、三十六に又云く、三解脱法は聲聞乘を出し、無諍法は緣覺乘を出し、六度四攝は大乘を出し、知一切法は佛乘を出すと。又第九地には聲聞乘相・支佛乘相・菩薩乘相・如來乘相を説く。

なお、②には(辟)という1字が加わっていますが、②の引用元である大正新脩大蔵経テキストデータベースの表示内容(画像)にはこの字はありませんし、③の国訳一切経にもこの字はありません。①の執筆者が出典なく付け加えたものであろうかと思われます。
この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 05:34 (UTC)[返信]

報告これと同種の問題提起はノート:禅定#検証ノート:四禅#検証ノート:中道#検証でも行われており、それぞれの問題箇所の執筆者はすべて同じ人であると思われます。あわせてご覧になりご意見ください。
報告また、このように仏教経典の原文を二次資料無しで解釈した結果をWikipedia記事に執筆している執筆者本人とみられる人物に対して、このような執筆がWikipediaの方針違反である旨、ノート:中道において指摘されております。併せてご覧ください。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 05:34 (UTC)[返信]

>>この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?

なっていませんね、下記のとおり。

  • 菩薩の意味の広義化はむしろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれ、波羅蜜行に至らない修行者や、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった」:③には全く出てこない文意です。波羅蜜行、在家信者、衆生皆菩薩という名詞は②③にありませんし、②③は「華厳」第八および三十六というモノのことしか述べていませんので、これのみをもって「経論によって所説が種々不同になった」と言えるわけがありません。
  • 大乗という語の意味も混乱した。これは、仏乗と表現せず如来乗を摂る教説とあいまって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。」:混乱とか「合いまって」とか、何が何の原因になったとかいう文意は③に一切ありません。それらに相当する文言は②にも勿論ありません。

従いまして、この①は、出典としている経文からの引用部分に存在しない文意やフレーズを複数混ぜた文章です。ですから②は①の出典になりませんので、①は無出典ということになります。無出典のものは独自研究の定義に該当しますので独自研究です。--Leonidjp会話2017年5月24日 (水) 03:25 (UTC)[返信]

2017/05/26-1

5月26日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。

仏教では、仏教成立以前から存在したとされる[[声聞]]や[[縁覚]]とともに、声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられ<ref name="wbk">[http://kobun.weblio.jp/content/%E7%B8%81%E8%A6%9A 縁覚] - 学研全訳古語辞典 (weblio古語辞典)。</ref><ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%96%E3%83%84 辟支仏] - 日外アソシエーツ 難読語辞典 (weblio辞書)。</ref>、菩薩乗(bodhisattva-yāna)がたてられた<ref>{{独自研究範囲|[[補陀落山]]も菩薩乗の一種である。|date=2017-05-24|title=}}</ref>。しかし、菩薩の意味範疇は次第に多義化し、菩薩乗を経た修行者と菩薩乗を得るべく修行する者との区別が曖昧となり、やがて大乗仏教では[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮と相まって、縁覚乗(Pratyekabuddha-yāna)や声聞乗(Śrāvaka-yāna)の段階も含めて、そこにとどまることを目的としない[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩とした傾向がある<ref>古い経典ほど区別する傾向がある。例)[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%B8%81%E8%A6%9A%E8%8F%A9%E8%96%A9&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 縁覚菩薩 (Pratyekabuddha-Bodhisattva)]. 阿含部 (Āgama) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※「縁覚菩薩」を検索した結果を示しているにすぎないため別の意味が混在している可能性がある。</ref><ref>古い経典ほど区別する傾向がある。例)[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A3%B0%E8%81%9E%E8%8F%A9%E8%96%A9&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 聲聞菩薩 (Śrāvaka-Bodhisattva)]. 阿含部 (Āgama) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※「声聞菩薩」を検索した結果を示しているにすぎないため別の意味が混在している可能性がある。</ref>。
  • 出典とされる脚注2個(大正新脩大藏經データベースへの外部リンク)はいずれも、縁覚菩薩および声聞菩薩という語を大正新脩大蔵経テキストデータベースから検索した結果を表示しているだけである。具体的に経文のどこが、当記事のどの文(あるいは文の一部)の出典として設定されているかについては、執筆者からはまったく説明されていない。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:24 (UTC)[返信]

↑下線部を追記。なお、上述のとおり、大正新脩大藏經データベースへの外部リンク2個は単なるキーワードの検索結果を表示するものにすぎませんから、これでは出典を提示したことになっていません。今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

2017/05/26-2

5月26日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。

菩薩の意味の広義化はむしろ[[大乗仏教]]で盛んであり、時代が下るにつれて[[成仏]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>、逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu"/>、菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。
  • 成仏、波羅蜜行、在家、衆生皆菩薩という名詞は、出典とされる妙法蓮華経文句からの引用部分に無い。また、「意味の広義化」、「時代が下がるにつれて云々」、「逆に」、「経論によって所説が種々不同になった」、「本来は○○とすべきものを××に置き換えた」、「分かりづらさの原因になった」という文意も、同引用部分に無い。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:24 (UTC)[返信]

今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

編集した。--118.83.141.75 2017年6月10日 (土) 16:54 (UTC)[返信]
ほとんど解決してません。出典の無効ぶりが深刻すぎます。下記の#2017/06/11にも転記済み。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]

2017/06/11

菩薩の本文で指摘した問題(参照)をここにも転記しておきます。灰色部分は問題箇所を菩薩から引用したものです。

7日以内に対応がなければ記事から削除する用意があることを告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]

2017/06/11-1

しかし、菩薩の意味範疇は次第に多義化し、菩薩乗を経た修行者と菩薩乗を得るべく修行する者との区別が曖昧となり、やがて大乗仏教では[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮と相まって、縁覚乗(Pratyekabuddha-yāna)や声聞乗(Śrāvaka-yāna)の段階も含めて、そこにとどまることを目的としない[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩とした傾向がある<ref name="juchi"/>

※なお、ref name="juchi"は、荒牧典俊訳の『大乗仏典 八巻』 中央公論社、1974年、7頁。

2017/06/11-2

菩薩の意味の広義化はむしろ[[大乗仏教]]で盛んであり、独自研究範囲|時代が下るにつれて[[成仏]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>

2017/06/11-3

逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_614/_pdf 法華経「声聞授記」の意図] 印度學佛激學研究第四十六巻第二号(平成十年三月) 614頁。</ref>、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu"/>

※なお、ref name="bosatsu"は、これ↓。

<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>
  • 妙法蓮華経文句の原文は「経論によって所説が種々不同になった」と述べていない。何が広義化したとか、何が「本来は菩薩乗と表現すべきだった」などとも述べていないし、何を何に置き換えたとも述べていない。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]