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{{Infobox 人物 |
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'''イクバル・マシー'''<ref group="注">資料によっては「イクバル・マッシ」との表記もある({{Harvnb|カーシー|2001|p=8}})</ref>({{lang-ur|اقبال مسیح}}, {{lang-en|Iqbal Masih}}, [[1982年]]<ref name="クークリン_24">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=24-33}}</ref><ref group="注">正確な年齢は判明していない({{Harvnb|クークリン|2012||p=196}})</ref> - [[1995年]][[4月16日]])は、[[パキスタン]]の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]出身の少年[[:Category:活動家|活動家]]<ref name="山崎">{{Harvnb|山崎|2000|pp=18-19}}</ref>。4歳のときから[[奴隷]]同然の過酷な労働を強いられ、10歳のときに[[人権団体]]の助力により自由の身となり、[[児童労働]]問題について世界中に訴えた。12歳で不慮の死を遂げるが<ref group="注" name="没年齢">13歳没との説もある({{Harvnb|ブーレグレーン|2009|p=35}})。</ref>、その後も児童労働防止運動の象徴的な存在となり、彼の遺志を継いだ多くの人々が児童労働防止のために活動しており<ref name="ブーレグレーン">{{Harvnb|ブーレグレーン|2009|pp=34-35}}</ref>、国際[[非政府組織|NGO]]{{仮リンク|フリー・ザ・チルドレン|en|Free the Children}}の発足のきっかけともなった。 |
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|氏名=イクバル・マシー{{Efn2|name=氏名別表記|資料によっては「イクバル・マッシ{{R|だからあなたも負けないで_p8}}」「イクバル・マシフ{{R|イミダス1996_p945|アジアにおける公正労働基準_p88}}」との表記もある。}}<br />Iqbal Masih<br />اقبال مسیح |
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|画像=Ehsan Ullah Khan meets a shy and afraid Iqbal Masih.png |
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|画像サイズ= |
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|画像説明=中央が1992年9月当時のイクバル・マシー。向って左は債務労働解放戦線代表者のイーシャーン・ウラー・カーン。 |
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|生年月日=[[1982年]]{{R|イクバルと仲間たち_p24}}{{Efn2|name=年齢|生年月日は[[1983年]]{{R|自分を信じた100人の男の子の物語_p24}}、[[1976年]][[4月4日]]{{R|僕たちは自由だ_p228}}、没年齢は13歳{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34}}、14歳{{R|僕たちは自由だ_p230}}、15歳{{R|僕たちは自由だ_p230}}、19歳{{R|僕たちは自由だ_p228}}との別説もあり、正確な年齢は判明していない{{R|イクバルと仲間たち_p196}}。[[#年齢の異説]]も参照。}} |
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|生誕地={{PAK}} [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]{{仮リンク|ムリドゥケ村|en|Muridke|イクバルと仲間たち_p24}}{{Efn2|name=村の表記|「ムリドゥケ村」は[[長野徹]]・赤塚きょう子の翻訳によるカタカナ表記{{R|イクバルと仲間たち_p24}}。他に「ムリトケ村」との表記もある{{R|読売新聞199504m_p7}}。}} |
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|洗礼=[[1976年]][[12月5日]]{{R|僕たちは自由だ_p228}} |
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|没年月日=[[1995年]][[4月16日]]{{R|イクバルと仲間たち_p161}}(満12歳没{{Efn2|name=年齢|}}) |
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|死没地={{PAK}} パンジャーブ州ムリドゥケ村{{R|イクバルと仲間たち_p161}} |
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|死因=銃殺 |
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|墓地={{PAK}} パンジャーブ州ムリドゥケ村{{R|僕たちは自由だ_p224|僕たちは自由だ_p226}} |
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|記念碑={{SPA}} [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]] イクバル像、他{{R|イクバル20170919_p107}} |
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|住居={{PAK}} パンジャーブ州ムリドゥケ村 → [[ラホール]]{{R|イクバルと仲間たち_p127}} |
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|国籍={{PAK}} |
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|民族= |
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|出身校=フリーダム・キャンパス{{R|イクバルと仲間たち_p127}} |
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|活動期間=[[1992年]]{{R|僕たちは自由だ_p214}} - 1995年{{R|イクバルと仲間たち_p161}} |
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|団体={{仮リンク|債務労働解放戦線|en|Bandhua Mukti Morcha}}{{Efn2|name=BLLF|「債務労働解放戦線」は、長野徹・赤塚きょう子{{R|イクバルと仲間たち_p82}}、[[芹澤恵]]・高里ひろ{{R|自分を信じた100人の男の子の物語_p24}}、[[関口英子 (翻訳家)|関口英子]]{{R|イクバル20170919_p1}}らによる和訳。他に「強制労働解放戦線{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34}}」「債務労働者解放戦線{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}」「奴隷労働解放戦線{{R|読売新聞199504m_p7}}」との和訳もある。}} |
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|代理人= |
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|著名な実績=児童労働禁止活動 |
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|影響を受けたもの={{仮リンク|イーシャーン・ウラー・カーン|en|Ehsan Ullah Khan}}{{R|イクバルと仲間たち_p127}}{{Efn2|name=カーンの別表記|「イーシャーン・ウラー・カーン」のカタカナ表記は、長野徹・赤塚きょう子による{{R|イクバルと仲間たち_p82}}。他に「イーサン・ユーラ・カーン{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94|僕たちは自由だ_p214}}」「アサヌラ・カーン{{R|読売新聞199504m_p7}}」との表記もある。}} |
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|影響を与えたもの={{仮リンク|クレイグ・キールバーガー|en|Craig Kielburger}}{{R|だからあなたも負けないで_p11|僕たちは自由だ_p16}} |
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|活動拠点={{PAK}} |
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|身長=127cm(1994年当時{{R|僕たちは自由だ_p12}}) |
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|体重= |
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|敵対者= |
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|宗教=[[キリスト教]]{{R|イクバルと仲間たち_p24}} |
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|宗派=[[カトリック]]{{R|僕たちは自由だ_p214}} |
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|受賞={{仮リンク|リーボック人権賞|en|Reebok Human Rights Award}} 行動する若者賞{{R|イクバルと仲間たち_p135}} |
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|公式サイト= |
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|署名=<!-- 画像ファイル名 --> |
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|署名サイズ= |
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|補足= |
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'''イクバル・マシー'''{{Efn2|name=氏名別表記}}({{lang-ur|اقبال مسیح}}, {{lang-en|Iqbal Masih}}, [[1982年]]{{R|イクバルと仲間たち_p24}}{{Efn2|name=年齢}} - [[1995年]][[4月16日]])は、[[パキスタン]]の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]出身の少年[[:Category:活動家|活動家]]{{R|国際協力20002_p18}}。4歳のときから[[奴隷]]同然の過酷な労働を強いられ、10歳のときに[[人権団体]]の助力により自由の身となり、[[児童労働]]問題について世界中に訴えた。12歳で殺害されるが{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94|イクバルと仲間たち_p161}}{{Efn2|name=年齢}}、その後も児童労働防止運動の象徴的な存在となり、彼の遺志を継いだ多くの人々が児童労働防止のために活動しており{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34}}、国際[[非政府組織|NGO]]{{仮リンク|フリー・ザ・チルドレン|en|Free the Children}}の発足のきっかけともなった{{R|国際協力20002_p18}}。 |
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== 経歴 == |
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=== 労働の日々 === |
=== 労働の日々 === |
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[[1982年]]、パキスタン北東部のパンジャーブ州ムリドゥケ村の貧しい家庭に生まれ |
[[1982年]]{{Efn2|name=年齢|}}、パキスタン北東部のパンジャーブ州{{仮リンク|ムリドゥケ村|en|Muridke|}}{{Efn2|name=村の表記}}の貧しい家庭に生まれた。父は薬物中毒のために、まともな職に就くことができなかったともいわれ、母が掃除の仕事でかろうじて家計を支えていた。4歳のとき、父親がイクバルの兄の婚礼のため、近所の[[絨毯]]工場から600[[ルピー]]の借金をした{{R|イクバルと仲間たち_p24}}{{Efn2|物価感覚の参考として、1998年頃のパキスタン庶民の食費は1食につき平均20ルピー{{R|イクバルと仲間たち_p7}}。}}{{Efn2|パキスタンでは結婚は重要な意味を持ち、仕事が無い者や貧乏な者でも、結婚の祝いを整えることが普通だとの事情があった。また、イクバルの父のように貧乏な者を支援する制度も存在しなかった{{R|イクバルと仲間たち_p24}}。}}。当時のパキスタンでは、貧困に喘ぐ家庭の借金返済のために子供が強制的な労働を強いられる「債務労働」と呼ばれる児童労働が一般的であり、イクバルも例外なく、[[1986年]]{{R|僕たちは自由だ_p230}}、4歳にして絨毯工場での労働者となった{{R|イクバルと仲間たち_p24}}。 |
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契約上は1週間に6日、1日12時間の労働であった |
契約上は1週間に6日、1日12時間の労働であった{{R|イクバルと仲間たち_p24}}。大型の[[織機]]と狭い職場とで不自然な姿勢での労働を強いられ、絨毯に群がる虫を避けるために部屋は閉め切られて非常に暑く{{R|イクバルと仲間たち_p36}}、絨毯の糸くずが空中に散乱して頻繁に咳き込むなど{{R|イクバルと仲間たち_p41}}、環境は劣悪だった。共に働く子供たちの中には、常に絨毯の毛糸に触れるため、[[疥癬]]や皮膚の[[潰瘍]]に苦しむ子供が多く、悪い姿勢での労働の末に[[関節炎]]や[[手根管症候群]]を患う子供もいた{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。イクバルもまた、織機のそばで不自然な姿勢での労働を何年も続けたことで、少年期の成長を阻害されることとなった{{R|イクバル20170919_p50}}。長い休みを得ることもできなかったため、病気になっても休みは許されず、休みを乞うたために逆に仕置きを受け、さらに病気を悪化させる子供もいた{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。 |
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休憩は1日30分、食事 |
休憩は1日30分、食事もわずかの米と豆、まれに少量の野菜が加えられる程度で{{R|イクバルと仲間たち_p41}}、これも少年期のイクバルの成長を阻害する一因となった{{R|中国新聞20170802}}。このわずかの食費や、さらに仕事を覚えるための研修費用や仕事道具の費用までもが借金に上乗せされていた{{R|イクバルと仲間たち_p24|イクバルと仲間たち_p41}}。仕事上に道具で傷を負ったときには、痛みも構わず、マッチの粉をつめて火をつけられて傷口を塞がれたり{{R|僕たちは自由だ_p12}}、熱い油で止血されたりした{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。これは傷の手当よりむしろ、絨毯が血で汚れることを防ぐためだった{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。仕事を終えて夜に帰宅する頃には、疲労のあまり遊ぶ気力も消え失せていた{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。 |
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工場に絨毯の注文が大量に舞い込んだ際は、契約外の労働で徹夜となる日もあった。理不尽な労働にイクバルが抗えば、殴りつけられたり、天井から逆さ吊りにされるなどの[[体罰]]を与えられた |
工場に絨毯の注文が大量に舞い込んだ際は、契約外の労働で徹夜となる日もあった。理不尽な労働にイクバルが抗えば、殴りつけられたり、天井から逆さ吊りにされるなどの[[体罰]]を与えられた{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34|イクバルと仲間たち_p102}}。雇い主の目を盗んで脱走して[[警察]]に駆け込むこともあったが、逆に警察によって工場へ連れ戻される始末で、脱走の[[罰金]]を科せられた。挙句には脱走しないよう、織機に鎖で繋がれるようになった{{R|イクバルと仲間たち_p102}}。仕事上でのミスもまた、体罰や罰金の対象となった{{R|イクバルと仲間たち_p41}}。 |
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さらにイクバルの家が追加で借金をしていたため、相次ぐ罰金と借金により、当初600ルピーだった借金は、最終的に13000ルピーにまで膨れ上がっていた |
さらにイクバルの家が追加で借金をしていたため、相次ぐ罰金と借金により、当初600ルピーだった借金は、最終的に13000ルピーにまで膨れ上がっていた{{R|イクバルと仲間たち_p102}}。このままでは、イクバルは一生終わりの見えない奴隷同前の生活を送るしかないものと思われていた{{R|イクバルと仲間たち_p200}}。 |
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{{Quotation|ぼくの両親はどうすることもできなかった。ぼくの家族のように貧しい人たちは無力なんだ。だから、ぼくは、家族には何も求めなかった。|イクバル・マシー|{{Harvnb|クークリン|2012|p=102}}より引用。}} |
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=== 自由の身へ === |
=== 自由の身へ === |
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[[1990年代]]、世界各国で[[人権団体]]が運動している中、パキスタンでは{{仮リンク|債務労働解放戦線|en|Bandhua Mukti Morcha}} |
[[1990年代]]、世界各国で[[人権団体]]が運動している中、パキスタンでは{{仮リンク|債務労働解放戦線|en|Bandhua Mukti Morcha}}{{Efn2|name=BLLF}}(Bonded Labour Liberation Front。以下、BLLFと略)という[[非政府組織|民間組織]]が児童労働防止のために活発に活動しており{{R|イクバルと仲間たち_p82}}、一定の評価を得ていた{{R|イクバルと仲間たち_p102}}。BLLFの活躍により、パキスタンの最高裁判所では債務労働制度の廃止が宣言され{{R|イクバルと仲間たち_p82}}、[[1992年]]には債務労働廃止法案がパキスタンの議会を通過した{{R|イクバルと仲間たち_p102}}。これは、債務労働者の家の負った借金が帳消しになることを意味していた{{R|イクバルと仲間たち_p109}}。 |
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イクバルの雇い主はBLLFを危険視し、労働者である子供たちにBLLFに接触しないよう忠告していたが、イクバルは1992年2月{{R|僕たちは自由だ_p214}}、工場を脱走してBLLFの集会に参加した{{R|イクバルと仲間たち_p109}}。脱走防止のために鎖で繋がれていたにもかかわらず、過酷な労働で腕が痩せ細っていたため、腕を縛る手錠から腕が抜け、皮肉にも脱走の成功に繋がった{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}。この集会で初めてイクバルは、すでに法律上で債務労働制度が禁止され、自分の家の背負った借金が帳消しになっていたにもかかわらず、自分が工場で労働を強いられていたことを知った{{R|イクバルと仲間たち_p109}}。 |
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{{Quotation|会場のかたすみにちぢこまっていた彼は、年寄りのようにやせ細り、ぜいぜい苦しげな息をしていた。まるで自分の姿をかくし、消えてしまおうと努めているかのようだった。それほどおびえていたのだ。しかし、わたしはこの少年が特別なものを持っているのを感じた。強い意志を持っていることを。|イーシャーン・ウラー・カーン(BLLF代表)|{{Harvnb|クークリン|2012|p=109}}より引用。}} |
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イクバルの雇い主はBLLFを危険視し、労働者である子供たちにBLLFに接触しないよう忠告していたが、イクバルはある日、工場を脱走してBLLFの集会に参加した<ref name="クークリン_107" />。脱走防止のために鎖で繋がれていたにもかかわらず、過酷な労働で腕が痩せ細っていたため、腕を縛る手錠から腕が抜け、皮肉にも脱走の成功に繋がった<ref name="サンデム">{{Harvnb|サンデム|2009||pp=94-100}}</ref>。この集会で初めてイクバルは、すでに法律上で債務労働制度が禁止され、自分の家の背負った借金が帳消しになっていたにもかかわらず、自分が工場で労働を強いられていたことを知った<ref name="クークリン_107" />。 |
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これが契機となり、イクバルはBLLFの弁護士を通じ、自分の身が自由であることを明かす証明書を入手 |
これが契機となり、イクバルはBLLFの弁護士を通じ、自分の身が自由であることを明かす証明書を入手{{R|イクバルと仲間たち_p109}}。絨毯工場で働いていた多くの同胞の子供たちと共に、工場を去った{{R|イクバルと仲間たち_p109}}。こうしてイクバルは6年間の債務労働から解放され、10歳にして自由の身となった{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34|イクバルと仲間たち_p109}}。 |
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=== 児童労働禁止活動 === |
=== 児童労働禁止活動 === |
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[[ファイル:Ehsan i.e.s Antón Fraguas, Santiago de Compostela , Spain.jpg|thumb|イーシャーン・ウラー・カーン]] |
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イクバルはBLLF代表イーシャーン・ウラー・カーンの手配により<ref group="注">「イーシャーン・ウラー・カーン」のカタカナ表記は、{{Harvnb|クークリン|2012}}の訳者である長野徹・赤塚きょう子による。ほかに「イーサン・ユーラ・カーン」との表記もある({{Harvnb|サンデム|2009|p=97}})。</ref>、パキスタン北部の都市[[ラホール]]に移住し、BLLFによって作られた学校であるフリーダム・キャンパスに通学し始めた<ref name="クークリン_127">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=127-132}}</ref>。田舎村から古都へ移ったことで彼の環境は大きく変化。勉学に励んでめざましく知識を広げ、学校のまとめ役にして代表的な生徒となった<ref name="クークリン_127" />。[[アメリカ]]の歴史についての知識も得たようで、[[エイブラハム・リンカーン]]のようにパキスタンの子供たちを奴隷同前の労働から解放したいとも語っていた<ref name="クークリン_127" />。 |
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イクバルはBLLF代表{{仮リンク|イーシャーン・ウラー・カーン|en|Ehsan Ullah Khan|イクバルと仲間たち_p127}}{{Efn2|name=カーンの別表記}}の手配により、パキスタン北部の都市[[ラホール]]に移住し、BLLFによって作られた学校であるフリーダム・キャンパスに通学し始めた{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。 |
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田舎村から古都へ移ったことで、彼の環境は大きく変化した。勉学に励んでめざましく知識を広げ、学校のまとめ役にして代表的な生徒となった{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。[[アメリカ]]の歴史についての知識も得たようで、[[エイブラハム・リンカーン]]のようにパキスタンの子供たちを奴隷同前の労働から解放したいとも語っていた{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。イクバルの学習は早く、4年分の勉強を2年間で終わらせることができた{{R|僕たちは自由だ_p214}}。 |
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学業の傍らでイクバルは、BLLFの[[ボランティア]]活動や[[デモ活動]]にも参加。子供たちを自由へ導くため、子供の働いている絨毯工場を訪れ、共に自由になることを呼びかけた<ref name="クークリン_127" />。この活動には世界中の[[ジャーナリスト]]や[[労働運動]]の指導者、人権問題の活動家たちが注目し、BLLFを訪れてイクバルの話に耳を傾けた<ref name="クークリン_127" />。労働を強いられていた間のイクバルは学校へ通わず、ラホールに来るまで読み書きがまったくできなかったが、イクバルの演説はそれをまったく感じさせないほど優れたもので、力強さと情熱にあふれ、児童労働の内容は実体験だけあって迫力に満ちていた<ref name="クークリン_127" />。大勢の大人を前にした演説でも、怖気づくことはなかった<ref name="クークリン_127" />。 |
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学業の傍らでイクバルは、BLLFの[[ボランティア]]活動や[[デモ活動]]にも参加。子供たちを自由へ導くため、子供の働いている絨毯工場を訪れ、共に自由になることを呼びかけた{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。この活動には世界中の[[ジャーナリスト]]や[[労働運動]]の指導者、人権問題の活動家たちが注目し、BLLFを訪れてイクバルの話に耳を傾けた{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。労働を強いられていた間のイクバルは学校へ通わず、ラホールに来るまで読み書きがまったくできなかったが、イクバルの演説はそれをまったく感じさせないほど優れたもので、力強さと情熱にあふれ、児童労働の内容は実体験だけあって迫力に満ちていた{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。大勢の大人を前にした演説でも、怖気づくことはなかった{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。 |
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[[1994年]][[11月]]、[[スウェーデン]]で開かれた[[国際労働機関]]の会議をイクバルが訪れ、労働体験について語り、会議参加者たちに感銘を与えた<ref name="クークリン_135">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=135-136}}</ref>。同国滞在中には、同国のフレドリックスダールスコーラン学校の生徒との交流が行われた<ref name="ブーレグレーン" /><ref name="クークリン_135" />。 |
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{{Quotation|イクバルと長い時間話をしました。すばらしい子でした。自分の考えをはっきり言えて、印象深い、とてもいい子でした。深刻ぶったところはありませんでした。わたしが知っているどんな子どもよりも賢く、しっかりしていましたが、やはり子どもでした。生きていたら、将来、すばらしい組織を作っていたかもしれません。|ファーハド・カリム([[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]・アジア局の元調査員)|{{Harvnb|クークリン|2012|p=127}}より引用。}} |
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イクバルはこうした活躍により、パキスタンの自由の象徴として、次第に国際的なヒーローとなっていった<ref name="カーシー">{{Harvnb|カーシー|2001|pp=8-22}}</ref>。一方で、労働する子供たちを抱える絨毯業界にとっては、イクバルは危険な存在といえ<ref name="サンデム" />、中傷に加え、殺害をほのめかす脅迫もあった<ref name="クークリン_127" />。 |
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[[1994年]]春には[[ノルウェー]]の[[オスロ]]でスウェーデン産業組合の記者会見に出席し、児童労働禁止について語った。イクバルは子供の自由を力強く訴え、聴衆は水を打ったような静けさで聞き入った。イクバルの「僕たちは自由だ!」の声に聴衆は総立ちとなり、イクバルの「僕たちは」の声に聴衆は「自由だ!」と叫び返した{{R|僕たちは自由だ_p12}}。 |
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=== 受賞 === |
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人権活動を支援するリーボック人権財団は<ref group="注">リーボック人権財団は、スポーツ用品ブランドとして知られる[[リーボック]]により設けられた財団。人権保護運動で活躍した人々に賞を与えている({{Harvnb|クークリン|2012||p=11}})</ref>、[[1993年]]の[[世界人権会議]]でBLLF代表カーンのセミナーに参加してイクバルのことを知り<ref name="クークリン_123">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=123-125}}</ref>、以来、イクバルの活躍に注目を続けていた<ref name="クークリン_135" />。BLLFを訪れたジャーナリストや人権活動家たちの推薦もあり、[[1994年]]、人権運動に多大に貢献する若者を対象とした「{{仮リンク|リーボック人権賞|en|Reebok Human Rights Award}}」をイクバルに贈ることが決定された<ref name="クークリン_135" />。この賞は長年にわたって活動した人物が受賞してきたもので、過去の受賞者たちに比べてイクバルは若すぎたため、新たに「行動する若者賞(Youth In Action)」が制定された<ref name="クークリン_135" />。同年[[12月]]、イクバルは授賞式出席のため、式の行われる[[アメリカ]]を訪れた。 |
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[[1994年]][[11月]]、イクバルはカーンに連れられて、[[スウェーデン]]で開かれた[[国際労働機関]]の会議を訪れ、労働体験について語り、会議参加者たちに感銘を与えた{{R|僕たちは自由だ_p214|イクバルと仲間たち_p135}}。同国滞在中には、同国のフレドリックスダールスコーラン学校の生徒との交流が行われた{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34|イクバルと仲間たち_p135}}。ドキュメンタリー映画にも出演して、絨毯産業で子供たちが受けている虐待について語った{{R|僕たちは自由だ_p214}}。 |
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幼いイクバルがアメリカの環境に慣れるようにとの周囲の配慮から、イクバルはほかの受賞者たちよりも1週間早く到着しており、授賞式の前にアメリカの子供たちとの交流のため、[[マサチューセッツ州]][[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]にあるブロード・メドウズ中学校を訪問した<ref name="クークリン_145">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=145-152}}</ref>。生徒たちはイクバルを歓迎するとともに、児童労働についての話に深く聞き入って強い影響を受け、労働を強いられている子供たちを解放するために一緒に戦うことを誓った<ref name="クークリン_145" />([[#遺志を継いだ子供たち|後述]])。その後も、奴隷同前の生活を送っていた少年として、イクバルの存在は多くのメディアの注目するところとなり、新聞記者、ラジオ番組の司会者、テレビのニュースキャスターなどが大勢、イクバルのもとへ詰めかけた<ref name="クークリン_145" />。 |
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イクバルはこうした活躍により、パキスタンの自由の象徴として、次第に国際的なヒーローとなっていった{{R|だからあなたも負けないで_p10}}。一方で、労働する子供たちを抱える絨毯業界にとっては、イクバルは危険な存在といえ{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}、中傷に加え、殺害をほのめかす脅迫もあった{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。 |
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このアメリカ滞在中での[[健康診断]]では、イクバルは長年の[[栄養失調]]と不自然な姿勢での労働を強いられたことによる「心理社会性[[小人症]]」と診断されており{{Sfn|クークリン|2012|pp=142-143}}、アメリカでイクバルの行動に同行したリーボック財団のスタッフは後に、イクバルは6歳くらいにしか見えなかったと語っている{{Sfn|クークリン|2012|pp=138}}。 |
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=== 渡米 === |
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授賞式前夜に授賞者たちが招かれたディナーにおいては、出席者の1人である[[ブランダイス大学]]の学長から、イクバルが18歳になって審査に合格したら[[奨学金]]を出すことが発表された<ref name="クークリン_154">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=154-157}}</ref>。 |
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人権活動を支援するリーボック人権財団は{{Efn2|リーボック人権財団は、スポーツ用品ブランドとして知られる[[リーボック]]により設けられた財団。人権保護運動で活躍した人々に賞を与えている{{R|イクバルと仲間たち_p11}}。}}、[[1993年]]の[[世界人権会議]]でBLLF代表カーンのセミナーに参加してイクバルのことを知り{{R|イクバルと仲間たち_p123}}、以来、イクバルの活躍に注目を続けていた{{R|イクバルと仲間たち_p135}}。BLLFを訪れたジャーナリストや人権活動家たちの推薦もあり、[[1994年]]、人権運動に多大に貢献する若者を対象とした「{{仮リンク|リーボック人権賞|en|Reebok Human Rights Award}}」をイクバルに贈ることが決定された{{R|イクバルと仲間たち_p135}}。この賞は長年にわたって活動した人物が受賞してきたもので、過去の受賞者たちに比べてイクバルは若すぎたため、新たに「行動する若者賞(Youth In Action)」が制定された{{R|イクバルと仲間たち_p135}}。同年[[12月]]、イクバルは授賞式出席のため、式の行われる[[アメリカ]]を訪れた。幼いイクバルがアメリカの環境に慣れるようにとの周囲の配慮から、イクバルは他の受賞者たちよりも1週間早く到着した{{R|イクバルと仲間たち_p145}}。 |
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イクバルは授賞式の前に、アメリカの子供たちとの交流のため、[[マサチューセッツ州]][[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]にある{{仮リンク|ブロード・メドウズ中学校|en|Broad Meadows Middle School}}を訪問した{{R|イクバルと仲間たち_p145}}。生徒たちはイクバルを歓迎すると共に、児童労働についての話に深く聞き入って強い影響を受け、労働を強いられている子供たちを解放するために一緒に戦うことを誓った{{R|イクバルと仲間たち_p145}}([[#遺志を継いだ子供たち|後述]])。生徒たちはイクバルに出逢う前に、児童労働を訴えた小説『[[オリバー・ツイスト]]』を読んでおり、生徒たちにとってイクバルは現代のオリバーであった{{R|イクバルと仲間たち_p145}}。 |
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そして[[ノースイースタン大学]]<!-- [[ノースイースタン州立大学]]とは別らしい -->で行われた授賞式で、イクバルはアメリカの俳優[[ブレア・アンダーウッド]]から「勇気を与えてくれる存在」「偉大な人物」との賛美の言葉のもとに紹介された<ref name="クークリン_154" />。壇上でのスピーチにおいてイクバルは、国際賞の受賞者、[[市民団体]]の代表、[[ロック (音楽)|ロック]]スター、[[映画]]スター、[[政治家]]といった大勢の聴衆を前にして<ref name="クークリン_135" />、自分の経験した児童労働の過酷さを強く訴え、子供たちの債務労働で作られた絨毯がこのアメリカで売られていることの悲しさを語った<ref name="クークリン_9">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=9-13}}</ref>。そして自分が絨毯作りに使っていた工具を示し、子供たちは工具ではなく[[ペン]]を持つべきであること、すなわち労働よりも[[教育]]が大切であると主張した<ref name="クークリン_9" />。最後に、児童労働から解放された子供たちの合言葉として「ぼくたちは自由だ!」の言葉で演説を締めくくり、2千人もの聴衆がその合言葉に応えた<ref name="クークリン_9" />。 |
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{{Quotation|イクバルの話を聞いてから、いろいろなことをこれまでとはちがう見方で見るようになりました。当たり前だと思ってはいけない、まちがっていると思ったら、まちがっているとはっきり言うことが大切なのだ、とイクバルは教えてくれました。イクバルにできるのなら、わたしにもできると思います。|アマンダ・ルース(ブロード・メドウズ校の生徒)|{{Harvnb|クークリン|2012|p=137}}より引用。}} |
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授賞式の翌日、アメリカ3大テレビネットワークの一つである[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]]のテレビ番組『[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]』で、イクバルは「今週の人」に選ばれ、インタビューを受けた<ref name="クークリン_154" />。 |
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後日、同ブロード・メドウズ校の生徒たちはイクバルの訪問に刺激を受けたことで、近隣の住民たちに依頼し、児童労働に反対する手紙を656通書いてもらった。これらはパキスタンの[[ベーナズィール・ブットー]]首相やアメリカの[[ビル・クリントン]]大統領、上院議員や州議会議員、[[国際連合]]、地元の絨毯産業に宛てる予定のもので、授賞式の前にイクバルに渡された。イクバルは自分が皆の心を動かしたこと、皆が自分と共に戦ってくれることに、非常に感動していた{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。 |
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アメリカ滞在を終えてパキスタンのラホールに戻ったイクバルは、世界中からの評価を受けたことで自信を得、さらに勉学と児童労働の解放に励んだ<ref name="クークリン_159">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=159-160}}</ref>。アメリカでの受賞によってイクバルは世界的に名前が知られることとなり、さらなる活躍と将来が期待されていた<ref name="クークリン_200" />。BLLFによれば、イクバルの活躍によって労働から解放された子供たちの数は、数千人にまで上っていた<ref name="クークリン_159" />。 |
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その後も、奴隷同前の生活を送っていた少年として、イクバルの存在は多くのメディアの注目するところとなり、新聞記者、ラジオ番組の司会者、テレビのニュースキャスターなどが大勢、イクバルのもとへ詰めかけた{{R|イクバルと仲間たち_p145}}。 |
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その一方、前述のようにイクバルを危険視する者たちからの脅迫は、受賞後にさらに増えることとなったが、イクバルはそれに屈することなく活動し続けた<ref name="クークリン_159" />。世界的に有名になったイクバルが危害を加えられること、まして子供であるイクバルが大人から危害を加えられることは考えにくいことと思われていた<ref name="サンデム" /><ref name="クークリン_127" /><ref name="クークリン_159" />。 |
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このアメリカ滞在中での[[健康診断]]では、イクバルは長年の[[栄養失調]]と不自然な姿勢での労働を強いられたことによる「心理社会性[[小人症]]」と診断されており{{R|イクバルと仲間たち_p142}}、アメリカでイクバルの行動に同行したリーボック財団のスタッフは後に、イクバルは6歳くらいにしか見えなかったと語っている{{R|イクバルと仲間たち_p138}}。このためにリーボック財団では、発育を促進するために1年分のホルモン剤を提供する準備を進めた{{R|僕たちは自由だ_p12}}。 |
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=== 死 === |
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[[1995年]][[4月16日]]。イクバルは[[復活祭]]を家族とともに過ごすため<ref group="注">[[復活祭]]は[[キリスト教]]の休日。パキスタン人は[[イスラム教|イスラム教徒]]がほとんどだが、イクバルの家庭は同国でも数少ない[[キリスト教徒]]だった({{Harvnb|クークリン|2012||p=25}})。</ref>、パキスタンの故郷の町へ帰って家族に会った<ref name="クークリン_161">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=161-163}}</ref>。前述のように小人症と診断されていたイクバルは、成長促進の薬剤を定期的に服用する必要があったため、同日のうちに家を発った<ref name="クークリン_161" />。夕方、ラホールに帰る前に親戚の家を訪ね、従兄弟たちといたところを、そこの畑にいた小作人に銃で撃たれ、即死した<ref name="クークリン_161" />。12歳没<ref name="サンデム" />{{Sfn|クークリン|2012||p=186}}<ref group="注" name="没年齢" />。 |
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授賞式前夜に授賞者たちが招かれたディナーにおいては、出席者の1人である[[ブランダイス大学]]の学長から、イクバルが18歳になって審査に合格したら[[奨学金]]を出すことが発表された{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。 |
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翌日に執り行われたイクバルの葬儀には、急な知らせにもかかわらず800人が参列した<ref name="クークリン_164">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=164-166}}</ref>。その中には国際的なジャーナリストの姿もあり、イクバルは児童労働防止運動の犠牲者と見なされた<ref name="クークリン_164" />。 |
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=== 受賞 === |
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イクバルの葬儀の後、ラホールでは子供たちを中心とした3千人以上もの人々によるデモ活動が行われ、亡きイクバルのために、児童労働を終わらせることを訴えた<ref name="クークリン_164" />。 |
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そして[[ノースイースタン大学]]<!-- [[ノースイースタン州立大学]]とは別らしい -->で行われた、リーボック人権賞の授賞式で、イクバルはアメリカの俳優[[ブレア・アンダーウッド]]から、以下の賛美の言葉のもとに紹介された{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。 |
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{{Quotation|イクバル・マシーは、リーダーであり、勇気を与えてくれる存在であり、偉大な人物です。われわれはイクバルにリーボック行動する若者賞(ユース・イン・アクション)を与えます。|ブレア・アンダーウッド|{{Harvnb|クークリン|2012|pp=156-157}}より引用。}} |
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小柄ながら満ち溢れるイクバルの存在感を前に、場内には割れんばかりの拍手が巻き起こった{{R|僕たちは自由だ_p12}}。壇上でのスピーチにおいてイクバルは、国際賞の受賞者、[[市民団体]]の代表、[[ロック (音楽)|ロック]]スター、[[映画]]スター、[[政治家]]といった大勢の聴衆を前にして{{R|イクバルと仲間たち_p135}}、自分の経験した児童労働の過酷さを強く訴え、子供たちの債務労働で作られた絨毯がこのアメリカで売られていることの悲しさを語った{{R|イクバルと仲間たち_p9}}。そして自分が絨毯作りに使っていた工具を示し、子供たちは工具ではなく[[ペン]]を持つべきであること、すなわち労働よりも[[教育]]が大切であると主張した{{R|イクバルと仲間たち_p9}}。最後に、児童労働から解放された子供たちの合言葉として「ぼくたちは自由だ!」の言葉で演説を締めくくり、2千人もの聴衆がその合言葉に応えた{{R|イクバルと仲間たち_p9}}。 |
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授賞式の翌日、アメリカ3大テレビネットワークの一つである[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]]のテレビ番組『[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]』で、イクバルは「今週の人」に選ばれ、インタビューを受けた{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。国際連合では、国連人権高等弁務官がイクバルを「パキスタンにおける現在の奴隷労働に対する戦いの勝利者であり、世界中の何百万人の子どもたちに影響を与えた{{Efn2|{{Harvnb|ウィンター|2015|loc=作者のことば}}より引用(ページ番号なし)。}}」と讃えた{{R|マララとイクバル_作者のことば}}。 |
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アメリカ滞在を終えてパキスタンのラホールに戻ったイクバルは、世界中からの評価を受けたことで自信を得、さらに勉学と児童労働の解放に励んだ{{R|イクバルと仲間たち_p159}}。アメリカでの受賞によってイクバルは世界的に名前が知られることとなり、さらなる活躍と将来が期待されていた{{R|イクバルと仲間たち_p200}}。BLLFによれば、イクバルの活躍によって労働から解放された子供たちの数は、数千人にまで上っていた{{R|イクバルと仲間たち_p159}}。 |
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その一方、前述のようにイクバルを危険視する者たちからの脅迫は、受賞後にさらに増えることとなったが、イクバルはそれに屈することなく活動し続けた{{R|イクバルと仲間たち_p159}}。世界的に有名になったイクバルが危害を加えられること、まして子供であるイクバルが大人から危害を加えられることは考えにくいことと思われていた{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94|イクバルと仲間たち_p127|イクバルと仲間たち_p159}}。イクバル自身もまた、すでに絨毯業界を恐れてはおらず、逆に業界の方が、雇用主にも優る力を得た自分を恐れていると考えて、「もう工場主なんてこわくない。今では向こうがぼくのことをこわがっているんだから{{Efn2|{{Harvnb|クークリン|2012|pp=159-160}}より引用。}}」と周囲に語っていた{{R|僕たちは自由だ_p214|イクバルと仲間たち_p159}}。 |
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=== 殺害 === |
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[[1995年]][[4月16日]]。イクバルは[[復活祭]]を家族と共に過ごすため{{Efn2|[[復活祭]]は[[キリスト教]]の休日。パキスタン人は[[イスラム教|イスラム教徒]]がほとんどだが、イクバルの家庭は同国でも数少ない[[キリスト教徒]]だった{{R|イクバルと仲間たち_p24}}。}}、パキスタンの故郷の町へ帰って家族に会った{{R|イクバルと仲間たち_p161}}。前述のように小人症と診断されていたイクバルは、成長促進の薬剤を定期的に服用する必要があったため、同日の内に家を発った{{R|イクバルと仲間たち_p161}}。夕方、ラホールに帰る前に親戚の家を訪ね、従兄弟たちといたところを、そこの畑にいた小作人に銃で撃たれ、即死した{{R|イクバルと仲間たち_p161}}。12歳没{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94|イクバルと仲間たち_p186|Independent19950419}}{{Efn2|name=年齢|}}。 |
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翌日に執り行われたイクバルの葬儀には、急な知らせにもかかわらず800人が参列した{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。その中には国際的なジャーナリストの姿もあり、イクバルは児童労働防止運動の犠牲者と見なされた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。 |
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当時のパキスタン首相である[[ベーナズィール・ブットー]]は、不法な児童労働の防止のために活動することを誓い、イクバルの家族への特別手当の支払いを命じた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。ただし、ブットー政権の後の行動は限られたものであり、手当が支払われることもなかった{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。 |
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[[国際連合人権委員会]]の開会式では、イクバルと、子供たちを中心とする現代の奴隷労働の被害者たちに向け、黙祷が捧げられた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。国際産業別組織である{{仮リンク|国際商業事務専門職技術労連|en|International Federation of Commercial, Clerical, Professional and Technical Employees}}では、1995年7月にオーストリアで開催された第23回世界大会でも、児童労働に反対するキャンペーンの審議に先立って、イクバルの追悼のために、1分間の黙祷がささげられた{{R|世界の労働19950920_p52}}。 |
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当時のパキスタン首相である[[ベーナズィール・ブットー]]は、不法な児童労働の防止のために活動することを誓い、イクバルの家族への特別手当の支払いを命じた<ref name="クークリン_164" />。ただし、ブットー政権の後の行動は限られたものであり、手当が支払われることもなかった<ref name="クークリン_164" />。 |
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没後のイクバルは、故郷のムリドゥケ村の共同墓地で、墓石も墓碑名も無い土山に埋葬されている{{R|僕たちは自由だ_p224|僕たちは自由だ_p226|だからあなたも負けないで_p17}}。 |
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[[国際連合人権委員会]]の開会式では、イクバルと、子供たちを中心とする現代の奴隷労働の被害者たちに向け、黙祷が捧げられた<ref name="クークリン_164" />。 |
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== 没後 == |
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=== 死の真相 === |
=== 死の真相 === |
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BLLFのカーン代表は記者会見において、イクバルは絨毯マフィア |
BLLFのカーン代表は記者会見において、イクバルは絨毯マフィア{{Efn2|[[マフィア]]とは本来イタリアの犯罪組織を指すが、ここでは「ならず者の集団」を意味している{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。}}の標的になったとの見解を示しており{{R|イクバルと仲間たち_p164}}、新聞報道上では「真犯人は工場閉鎖を恨む工場の経営関係者」と語った{{R|読売新聞199504m_p7}}。死の数日後のアメリカの新聞報道でも、絨毯工場員の犯行の可能性が示唆された{{R|僕たちは自由だ_p16}}。 |
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こうした見解に対して、警察では絨毯業界の関連を否定し、イクバルの死は行きずりのものと政府で結論づけられた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。しかしリーボック人権財団は、イクバルの[[検死]]の報告書には、傷の位置や犯行に関する供述があったものの、殺害の理由や方法を結論付けるのに十分なデータとは言えないと見て、検視結果の検証のために[[法医学]]専門家たちを派遣した。その結果として「検死報告と警察の報告には多くの疑問が残る」と結論付けられ、50を越える政府や人権団体が警察の捜査を非難した{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。 |
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{{仮リンク|パキスタン人権委員会|en|Human Rights Commission of Pakistan}}は、警察とは別に独自の調査を行なった。イクバルを撃った小作人アシュラフは、イクバルとは初対面であり、自分は絨毯業界とは無関係だと語った<ref name="クークリン_167" />。同委員会によれば、アシュラフは[[マリファナ]]を吸って気分が高揚していたところ、そこへ通りかかったイクバルたちがアシュラフのことをあれこれ言い始めたため、銃を取って撃ったところ、イクバルに命中してしまったのだといい<ref name="クークリン_167" />、イクバルの死に絨毯業界は関与しておらず、あくまでアシュラフ単独の犯行によるものと結論づけられた<ref name="クークリン_167" />。 |
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{{仮リンク|パキスタン人権委員会|en|Human Rights Commission of Pakistan}}は、警察とは別に独自の調査を行なった。イクバルを撃った小作人アシュラフは、イクバルとは初対面であり、自分は絨毯業界とは無関係だと語った{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。同委員会によれば、アシュラフは[[マリファナ]]を吸って気分が高揚していたところ、そこへ通りかかったイクバルたちがアシュラフのことをあれこれ言い始めたため、銃を取って撃ったところ、イクバルに命中してしまったのだといい{{R|イクバルと仲間たち_p167}}、イクバルの死に絨毯業界は関与しておらず、あくまでアシュラフ単独の犯行によるものと結論づけられた{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。この調査には、以前によりパキスタン人権委員会はBLLFと非友好的だったという事情が背景にあった{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。 |
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アメリカでイクバルが訪れたブロード・メドウズ中学校では、春休みにもかかわらず多くの生徒が、わずか1日逢っただけのイクバルのために学校に集まり、イクバルの死を明らかにするための嘆願書の署名活動を街中で行ない、人権擁護を目的とした非政府組織である[[アムネスティ・インターナショナル]]へ嘆願書が送られた{{Sfn|クークリン|2012|pp=177-180}}。 |
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また、イクバルの生まれたマシー家の祖先は、パキスタンが[[インド]]から独立する際に、[[ヒンドゥー教]]の[[カースト制度]]の最下層民から抜け出すためにキリスト教徒になったという事情があり、[[イスラム教]]が中心のパキスタンではキリスト教徒は少なく、宗教的な緊張がイクバル殺害の要因だとする説も唱えられた{{R|イクバルと仲間たち_p224}}。 |
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その後、当事者たちの供述やイクバルの死を巡る情報は何度も変化し、様々な情報が入り乱れる中、BLLFでは依然として、イクバルの死は絨毯業界によって引き起こされたものと信じられた<ref name="クークリン_167" />。児童労働反対運動者たちの多くが、イクバルの死と絨毯業界を無関係だとする主張を、絨毯業界を守るための捏造だと信じている<ref name="クークリン_167" />。 |
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アメリカでイクバルが訪れたブロード・メドウズ中学校では、春休みにもかかわらず多くの生徒が、わずか1日逢っただけのイクバルのために学校に集まり、イクバルの死を明らかにするための嘆願書の署名活動を街中で行ない、人権擁護を目的とした非政府組織である[[アムネスティ・インターナショナル]]へ嘆願書が送られた{{R|イクバルと仲間たち_p177}}。 |
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多くのメディアがその後もイクバルの死について新たな申立てや説明を行っているが、真相は依然として謎に包まれたままである<ref name="サンデム" /><ref name="クークリン_167" /><ref>{{Cite web|author=中島早苗<!-- ウィキペディア内に記事のある[[中島早苗]]はおニャン子クラブで別人。内部リンク時注意。-->([[フリー・ザ・チルドレン・ジャパン]]代表理事)|date=2009|url=http://www2.charity-platform.com/navi_view.php?id=2170&page_state=tab3 |title=代表者メッセージ|publisher=[http://www.charity-platform.com/ チャリティ・プラットフォーム]|accessdate=2013-11-27|archiveurl=http://archive.is/i0dZb |archivedate=2013-4-25}}</ref>。 |
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{{Quotation|子どもたちは怒っていました。激しく憤っていました。イクバルの殺害は子どもたちに大きな影響を与えたのです。たった一回、一日しか会っていないのに、イクバルは彼らのシンボルとなっていました。イクバルの声とメッセージはみんなの心に深くふれていたのです。子どもはだれでも自由であるべきで、学校へ行くべきだというイクバルのメッセージを、銃弾で封じ込めてはならないと生徒たちは思ったのです。|ロン・アダムズ(ブロード・メドウズ校の教員)|{{Harvnb|クークリン|2012|pp=177-178}}より引用。}} |
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== 絨毯業界への影響 == |
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イクバルはアメリカやスウェーデンを訪れた際、子供の作った絨毯を業者が売ることのないよう、そして消費者が買うことのないよう語っており<ref name="ブーレグレーン" />、両国は子供の強制労働の禁止をパキスタン政府に強く訴えた<ref name="サンデム" />。やがてイクバルの訴えに応じてパキスタン製絨毯の不買運動がおこり、絨毯工場の経営者や事業主は大きな損を被った<ref name="サンデム" />。授賞式を終えたイクバルがラホールに戻った頃には、十数件の絨毯工場が閉鎖に追い込まれる結果となっていた<ref name="クークリン_159" />。このことから、イクバルの死は児童労働解放によって大損を被った違法者の報復と考える人々も多い<ref name="サンデム" />。 |
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後述する[[カナダ]]の活動家{{仮リンク|クレイグ・キールバーガー|en|Craig Kielburger}}が1995年にパキスタンへ渡って調査した際には、パキスタン人権委員会は、イクバルの死は不幸な事故だと説明し、死の当時にイクバルと共にいた従兄弟も警察に対して同様の証言をしたと語った{{R|僕たちは自由だ_p220}}。またカーンが絨毯マフィアの犯行だとの主張を続けている理由を、人権委員会は、カーンは最初にその立場を取った以上、後からその主張を覆しては都合が悪いこと、または児童労働反対者であるカーンは政府から危険視されており、絨毯マフィア説は政府の主張と逆のため、カーンにとっては都合が良いと説明した{{R|僕たちは自由だ_p220}}。またキールバーガーがイクバルの母に直接取材したところによれば、母は、イクバルの父は麻薬中毒であり、金を握らされて警察や絨毯工場と結託し、カーンとBLLFに敵対する側に回ったと語っている{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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イクバルの死後、BLLFのカーン代表はイクバルの最後の言葉の代弁として、子供たちが作った絨毯を輸入業者や消費者が買うことのないよう、、国際連合人権委員会に申し立てた<ref name="クークリン_164" />。これを受け、欧米諸国では絨毯も注文のキャンセルが相次ぎ、その額は日本円にして何億円単位にも上った<ref name="クークリン_171">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=171-172}}</ref>。絨毯メーカーではこの損害を恐れ、BLLFとカーン代表がイクバルの死を利用して国の利益に害をもたらしているとの主張もあった<ref name="クークリン_171" />。 |
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また、イクバルが銃撃される直前、彼の訪ねる予定だった親戚の人物が、イクバルは自転車に乗っており、同行していた従兄弟の1人がペダルをこぎ、もう1人は荷台に乗っており、イクバルは自転車の前のハンドルに腰かけていたと証言した{{R|イクバルと仲間たち_p161|僕たちは自由だ_p12}}{{Efn2|パキスタンではこのように自転車に乗る者が多い{{R|イクバルと仲間たち_p161}}。}}。つまりイクバルの背後に従兄弟2人がおり、しかも従兄弟たちはイクバルより大柄であることにも拘らず、イクバルが撃たれた場所は背中である。このことからキールバーガーは、従兄弟たちの陰に隠れる状態だったはずのイクバルが、背中を撃たれたことを疑問視している。イクバルたちが乗っていた自転車は証拠品の1つといえるが、警察ではこの自転車は押収されていない{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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== 遺志を継いだ子供たち == |
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イクバルが埋葬された際に、墓のそばにいた少女が「イクバルが死んだ日、千人のイクバルが誕生したわ」と語ったといい<ref>{{Cite news|date=2012-4-24|url=http://ftcj.jugem.jp/?page=5&month=201204 |title=4月19日はフリー・ザ・チルドレン17才の誕生日|newspaper=[http://ftcj.jugem.jp/ FTCJニュース]|publisher=[[フリー・ザ・チルドレン・ジャパン]]|accessdate=2013-3-9}}</ref>、その言葉どおり、イクバルの遺志は多くの同年代の子供たちに受け継がれている。 |
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その後、当事者たちの供述やイクバルの死を巡る情報は何度も変化し、様々な情報が入り乱れる中、BLLFでは依然として、イクバルの死は絨毯業界によって引き起こされたものと信じられた{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。児童労働反対運動者たちの多くが、イクバルの死と絨毯業界を無関係だとする主張を、絨毯業界を守るための捏造だと信じている{{R|イクバルと仲間たち_p169}}。 |
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イクバルが生前に訪れていたスウェーデンでは、パキスタンのブットー首相が同国の首都[[ストックホルム]]を訪問した際、パキスタン大使館の前に職員たちが驚くほどの小学生たちが集まり、児童労働に抗議し、輸出品が子供たちによって作られたものでないことを証明してほしいと訴えた<ref name="クークリン_171" />。またイクバルが同国で交流したフレドリックスダールスコーラン学校では、彼の死後も生徒たちが「プロジェクト・パキスタン」という標題を掲げ、児童労働禁止のための運動を行っている<ref name="ブーレグレーン" />。 |
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多くのメディアがその後もイクバルの死について新たな申立てや説明を行っているが、真相は依然として謎に包まれたままである{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94|イクバルと仲間たち_p169|チャリティ・プラットフォーム2009}}。 |
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アメリカのブロード・メドウズ中学校では、子供には労働よりも教育が大切とのイクバルの主張のもと、パキスタンに学校を新設するために運動が開始された<ref name="クークリン_181">{{Harvnb|クークリン|2012|pp=181-192}}</ref>。この運動にはアメリカ中の多くの学校が賛同し、当時の上院議員であった[[エドワード・ケネディ]]が運動を支持したこともあって、2年間のうちにアメリカ全州と世界27か国、全3000の学校がこの運動に加わり、多くの寄付金が集まった<ref name="クークリン_181" />。その寄付者の中には[[ジェイミー・リー・カーティス]]や{{仮リンク|トゥルーディ・スタイラー|en|Trudie Styler|}}といった著名人の名もあり、[[マイケル・スタイプ]]や[[エアロスミス]]といった有名芸能人たちも彼らを応援した<ref name="クークリン_181" />。やがてイクバルの故郷パンジャーブ州で高評価を受けている人権保護団体スダールにより、同州の{{仮リンク|カスール県|en|Kasur District|}}に「イクバルの学校」が設立された<ref name="クークリン_181" />。学校へ通う子供たちは今なお労働せざるを得ない生活を送っているが、工場から通学を許可されており、労働で汚れた服装のままで通学することのないよう仕事場にシャワーが取り付けられるなど、学校設立の運動は雇用側に対しても、少しずつではあるが影響をおよぼしている<ref name="クークリン_181" />。 |
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=== 絨毯業界への影響 === |
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その後、ブロード・メドウズ中学校は「イクバルの学校」の運営をスダールに引き継ぎ、[[1999年]]にはアメリカのほかの各校とともに新たにOperation Day's Work-USAという運動を立ち上げ、世界中の児童労働者を解放するため、世界各国のNGOに寄付活動を行なっている{{Sfn|クークリン|2012|pp=203-204}}。 |
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イクバルはアメリカやスウェーデンを訪れた際、子供の作った絨毯を業者が売ることのないよう、そして消費者が買うことのないよう語っており{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34}}、両国は子供の強制労働の禁止をパキスタン政府に強く訴えた{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}。やがてイクバルの訴えに応じてパキスタン製絨毯の不買運動がおこり、絨毯工場の経営者や事業主は大きな損を被った{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}。授賞式を終えたイクバルがラホールに戻った頃には、十数件の絨毯工場が閉鎖に追い込まれる結果となっていた{{R|イクバルと仲間たち_p159}}。このことから、イクバルの死は児童労働解放によって大損を被った違法者の報復と考える人々も多い{{R|ふつうの子にできるすごいこと_p94}}。 |
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イクバルの死後、BLLFのカーン代表はイクバルの最後の言葉の代弁として、子供たちが作った絨毯を輸入業者や消費者が買うことのないよう、国際連合人権委員会に申し立てた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。これを受け、欧米諸国では絨毯も注文のキャンセルが相次ぎ、その額は日本円にして何億円単位にも上った{{R|イクバルと仲間たち_p171}}。絨毯メーカーではこの損害を恐れ、BLLFとカーン代表がイクバルの死を利用して国の利益に害をもたらしているとの主張もあった{{R|イクバルと仲間たち_p171}}。 |
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[[カナダ]]の活動家である{{仮リンク|クレイグ・キールバーガー|en|Craig Kielburger}}は、イクバルの死の当時、奇しくも同じ12歳であり、自宅で偶然読んだ新聞で、同い年の少年の死とその境遇に衝撃を受け、やがて児童労働防止運動に身を投じることを決意。パキスタンにわたって自らの目で児童労働の実態を確かめ、イクバルの墓前で、彼の遺志を引き継ぐことを誓った。後に彼に共感した学友たちとともに、子供の人権を守るグループとして{{仮リンク|フリー・ザ・チルドレン|en|Free the Children}}が結成され<ref name="山崎" />、やがてこれが世界最大級の子供主体の国際NGOへと成長することとなった。この組織は21世紀においても、世界中の子供を労働から解放するために活動し続けている<ref name="カーシー" /><ref name="キールバーガー" /><ref>{{Cite web|url=http://www.janic.org/bokin/fundinterview/ftcj01.php |title=フリー・ザ・チルドレン・ジャパン スタッフインタビュー前編|publisher=[http://www.janic.org/bokin/ NGOサポート募金]|accessdate=2013-3-9}}</ref>。 |
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こうした不買運動への対処として1995年7月には、少年労働の不使用を証明するラベルを政府が発行し、このラベル付き絨毯のみ輸出を認める規制策が発表された。しかしインドの社会福祉活動家であるニーラ・ブッラは、こうした改善の動きについて一応の評価をしながらも、「ラベルの件は経営者がいやいや応じたもので、取り締まる官僚次第で汚職の巣窟にもなり得る」と懸念している{{R|読売新聞199507e_p5}}。 |
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=== 遺志を継いだ子供たち === |
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イクバルが埋葬された際に、同様に児童労働を強いられていた少女が、イクバルの墓のそばで「イクバルが死んだ日、千人のイクバルが誕生したわ」と語ったという{{R|僕たちは自由だ_p12|FTCJ20120424}}。その言葉の通り、イクバルの遺志は多くの同年代の子供たちに受け継がれている。 |
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イクバルの葬儀の後、ラホールでは子供たちを中心とした3千人以上もの人々によるデモ活動が行われ、亡きイクバルのために、児童労働を終わらせることを訴えた{{R|イクバルと仲間たち_p164}}。 |
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先述の国際商業事務専門職技術労連の第23回世界大会では、にスイスのジュネーブのインターナショナルスクールの子供たちにより、イクバルの生涯と死に至るまでの劇が上演された{{R|世界の労働19950920_p52}}。 |
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イクバルが生前に訪れていたスウェーデンでは、パキスタンの[[ベーナズィール・ブットー]]首相が同国の首都[[ストックホルム]]を訪問した際、パキスタン大使館の前に職員たちが驚くほどの小学生たちが集まり、児童労働に抗議し、輸出品が子供たちによって作られたものでないことを証明してほしいと訴えた{{R|イクバルと仲間たち_p171}}。またイクバルが同国で交流したフレドリックスダールスコーラン学校では、彼の死後も生徒たちが「プロジェクト・パキスタン」という標題を掲げ、児童労働禁止のための運動を行っている{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34}}。 |
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アメリカのブロード・メドウズ中学校では、子供には労働よりも教育が大切とのイクバルの主張のもと、パキスタンに学校を新設するために運動が開始された{{R|イクバルと仲間たち_p181}}。 |
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{{Quotation|涙がこぼれそうになるのに気がついて、こらえようとしたけれど、こらえきれませんでした。ぼくは学校で、手紙と絵でこの気持ちを表現してみました。イクバルの死に関する調査や、パキスタンの子どもたちの学校を建てるのに役に立てられればいいと思います。|ディディエ・アルサー(ブロード・メドウズ校の生徒)|{{Harvnb|クークリン|2012|pp=176-177}}より引用。}} |
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{{Quotation|わたしたち、イクバルと約束したわ。最後まで戦って、子どもたちを自由にするって。助けてくれるイクバルはもういないけど…… 何かほんとうに大きなことに挑戦しなければいけないんじゃないかしら。イクバルが死んでしまった今だからこそ。|カレン・マリン(ブロード・メドウズ校の生徒)|{{Harvnb|クークリン|2012|p=179}}より引用。}} |
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この運動にはアメリカ中の多くの学校が賛同し、当時の上院議員であった[[エドワード・ケネディ]]が運動を支持したこともあって、2年間の内にアメリカ全州と世界27か国、全3000の学校がこの運動に加わり、13万ドル以上の寄付金が集まった{{R|イクバルと仲間たち_p181|Patriot_Ledger20190424}}。その寄付者の中には[[ジェイミー・リー・カーティス]]や{{仮リンク|トゥルーディ・スタイラー|en|Trudie Styler|}}といった著名人の名もあり、[[マイケル・スタイプ]]や[[エアロスミス]]といった有名芸能人たちも彼らを応援した{{R|イクバルと仲間たち_p181}}。やがてイクバルの故郷パンジャーブ州で高評価を受けている人権保護団体スダールにより、同州の{{仮リンク|カスール県|en|Kasur District|}}に「イクバルの学校」が設立された{{R|イクバルと仲間たち_p181}}。学校へ通う子供たちは今なお労働せざるを得ない生活を送っているが、工場から通学を許可されており、労働で汚れた服装のままで通学することのないよう仕事場にシャワーが取り付けられるなど、学校設立の運動は雇用側に対しても、少しずつではあるが影響を及ぼしている{{R|イクバルと仲間たち_p181}}。この功績によりブロード・メドウズ中学校は1995年に、イクバルと同じ{{仮リンク|リーボック人権賞|en|Reebok Human Rights Award}}の「行動する若者賞」を受賞した{{R|イクバルと仲間たち_p181|ラウトレッジ20170430_p25}}。 |
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その後、ブロード・メドウズ中学校は「イクバルの学校」の運営をスダールに引き継ぎ、[[1999年]]にはアメリカの他の各校と共に新たに「オペレーション・デイズ・ワークUSA(Operation Day's Work-USA)」という運動を立ち上げ、世界中の児童労働者を解放するため、世界各国のNGOに寄付活動を行なっている{{R|イクバルと仲間たち_p203|イクバル20170919_p104}}。その後もアメリカでは、14の学校の約千人の生徒たちが、イクバルのような児童労働の反対のために活動しており、その活動はパキスタンのみならず[[ハイチ]]、[[エルサルバドル]]、[[ネパール]]、[[バングラデシュ]]、[[ベトナム]]、[[エチオピア]]、[[ルワンダ]]にも広がっている{{R|イクバル20170919_p104}}。 |
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[[ファイル:Craig Kielburger at We Day Waterloo 2011 with his brother, Marc Kielburger, in the background.jpg|thumb|クレイグ・キールバーガー]] |
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[[カナダ]]の活動家である{{仮リンク|クレイグ・キールバーガー|en|Craig Kielburger}}は、イクバルの死の当時、奇しくも同じ12歳であり、自宅で偶然読んだ新聞で、同い年の少年の死とその境遇に衝撃を受け、やがて児童労働防止運動に身を投じることを決意した{{R|だからあなたも負けないで_p11}}。パキスタンにわたって自らの目で児童労働の実態を確かめ、イクバルの墓前で、彼の遺志を引き継ぐことを誓った{{R|だからあなたも負けないで_p17}}。後に彼に共感した学友たちと共に、子供の人権を守るグループとして{{仮リンク|フリー・ザ・チルドレン|en|Free the Children}}が結成され{{R|国際協力20002_p18|FTCJとは}}、やがてこれが世界最大級の子供主体の国際NGOへと成長することとなった{{R|だからあなたも負けないで_p19}}。この組織は21世紀においても、世界中の子供を労働から解放するために活動し続けている{{R|僕たちは自由だ_p16|だからあなたも負けないで_p20|FTCJインタビュー}}。 |
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=== その他 === |
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[[ファイル:Plaza Iqbal Masih, santiago de Compostela, Spain.jpg|thumb|[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]の広場を訪れるイーシャーン・ウラー・カーン]] |
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[[ファイル:Iqbal Masih placa Almería.JPG|thumb|[[アルメリア]]の記念プレート]] |
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BLLFのカーン代表は、「反政府的な動きを煽り、パキスタンに対して経済戦争をしかけた」と見なされて罪に問われた。これは有罪との判決が下されれば死刑となる罪である。BLLFでは警察により書類や備品が押収され、会計士とボランティアのスタッフが逮捕された。弁護士ですらこの2人と話すことを禁じられたが、国際人権NGOである[[アムネスティ・インターナショナル]]が逮捕に抗議することで、ようやく釈放に至った{{R|イクバルと仲間たち_p171}}。 |
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イクバルの死は、パキスタンの児童労働問題の深刻さを世界中にアピールすることとなった{{R|児童労働19971130_p26}}。さらにパキスタンのみならず、児童労働の告発に対する報復と見られたことで、南アジア全体の児童労働問題が世界の注目を集めるきっかけにもなった{{R|イミダス1996_p945}}。国際的な市民社会組織{{仮リンク|ソリダリダッド|en|Solidaridad}}では、イクバルが児童労働解放の象徴とされ、彼の命日である4月16日が「国際児童虐待デー」と制定された{{R|Solidaridad20191117}}。2002年には[[国際労働機関]](ILO)で、児童労働を撲滅する必要性を世界に訴えるために、6月12日を児童労働反対世界デーと制定された{{R|イクバル20170919_p100|ワールド・ビジョン・ジャパン20110610}}。 |
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[[2014年]]には、児童労働解放などの功績により[[ノーベル平和賞]]を受賞したインドの[[カイラシュ・サティーアーティ]]が、授賞式のスピーチでイクバルについて言及し、彼を讃えた{{R|ACE201501}}。 |
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{{Quotation|今回のノーベル賞受賞にあたり私は、同志であるインドのカルル・クマール(Kaalu Kumar)、ドーム・ダス(Dhoom Das)やアダーショ・キショオ(Adarsh Kishore)、そしてパキスタンのイクバル・マシー(Iqbal Masih)の功績を称えたいと思います。彼らは子どもたちの自由と尊厳を守るために最大の犠牲を払いました。私はこのように命を捧げた人々、世界中の仲間の活動家たち、同胞を代表して、謹んでこの賞を受賞いたします。|カイラシュ・サティーアーティ|{{Harvnb|ACE|2015}}より引用。}} |
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2017年時点では、[[イタリア]]の[[ミラノ]]の国立総合学院、[[トリエステ]]の学校、[[スペイン]]の[[アルメリア]]の記念プレート、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]のイクバル像{{R|イクバル20170919_p107}}、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]の広場{{R|SAIn Galicia}}、[[グラン・カナリア島]]の公園など、イクバルの名を記念した学校、広場、通り、公園、彫像が世界各国に存在するに至っている{{R|イクバル20170919_p107}}。 |
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== 年齢の異説 == |
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イクバルの没年齢が12歳だとする説は、BLLFのカーン代表が報道に対して説明したものだが、実際にはイクバルはもっと年上だったとする別説もある{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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リーボック人権賞の受賞時には、イクバルは11歳と報道されたが、その際にイクバルの家族を知っている者たちが、イクバルの年齢はもっと上と言い出した。屋内で長時間の労働を強いられてほとんど日光を浴びることができない上、食事も不十分で栄養不足から成長が遅れ、外見が実年齢よりも幼く見えることは、南アジアではよく見られる。ただしイクバルの場合は労働環境によるものではなく、父方の親戚が小人症だったことによる遺伝的なものとする説もある{{R|僕たちは自由だ_p214}}。 |
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先述のクレイグ・キールバーガーが1995年にパキスタンで調査した際には、イクバルの母は、イクバルの労働は6歳からと語っている。労働開始が1986年であることは多くの者の間で一致しているため、そのとき6歳なら、没年齢は14歳か15歳の計算になる。ただしキールバーガーがパキスタンを含む[[南アジア]]で取材した多くのケースでは、[[文盲]]の多くの者が実子の正確な年齢すら知らなかったという事情がある。またパキスタン人権委員会の報告書によれば、イクバルの母が「イクバルが16歳で死んだ」と証言したとある。これらのことからキールバーガーは、イクバルの没年齢が12歳よりもっと上であることは確かと見ている{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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また、イクバルが洗礼を受けたラホールの聖フランシス教会にある洗礼証明書によれば、イクバルの生年月日は[[1976年]][[4月4日]]とあり、これが事実であれば、イクバルの没年齢は19歳との計算になる{{R|僕たちは自由だ_p228}}。しかしイクバルの郷里であるムリドゥケの教会では、イクバルは4歳から5歳頃から10年間、教会に来ていたとの証言があり、洗礼証明書による年齢とは矛盾する{{R|イクバルと仲間たち_p224}}。またイクバルがスウェーデンへ渡った際に、同国の著名な小児科医が小人症とみられるイクバルを診察し、骨年齢などをもとに11歳と断定しており、この診察結果はラホール高等裁判所に報告されている{{R|僕たちは自由だ_p228}}。 |
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キールバーガーの調査では、年齢についての真相は明らかになっていないが、キールバーガーは、年齢が何歳だったかは大した問題ではなく、イクバルが子供たちを労働から解放しようとしていた活動を、自分らが引き継ぐことのほうが重要だと語っている{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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== 年譜 == |
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* [[1982年]] - [[パキスタン]]の[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]]{{仮リンク|ムリドゥケ村|en|Muridke|group="*"|村の表記}}で誕生{{R|イクバルと仲間たち_p24}}{{Efn2|name=年齢}}。 |
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* [[1986年]] - 4歳にして絨毯工場での労働者となる{{R|僕たちは自由だ_p230}}。 |
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* [[1992年]]2月 - パキスタンの[[非政府組織|民間組織]]である{{仮リンク|債務労働解放戦線|en|Bandhua Mukti Morcha}}{{Efn2|name=BLLF}}の集会に参加{{R|僕たちは自由だ_p214}}。 |
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* [[1993年]] - 債務労働から解放され{{R|10歳からの民主主義レッスン_p34|イクバルと仲間たち_p109}}、児童労働禁止活動に身を投じる{{R|イクバルと仲間たち_p127}}。 |
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* [[1994年]]春 - [[ノルウェー]]の[[オスロ]]でスウェーデン産業組合の記者会見に出席{{R|僕たちは自由だ_p12}}。 |
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* 1994年11月 - [[スウェーデン]]で開かれた[[国際労働機関]]の会議を訪れ、労働体験について語る{{R|僕たちは自由だ_p214|イクバルと仲間たち_p135}}。 |
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* 1994年12月 - {{仮リンク|リーボック人権賞|en|Reebok Human Rights Award}}授賞のためにアメリカにわたり、{{仮リンク|ブロード・メドウズ中学校|en|Broad Meadows Middle School|en|}}の生徒たちと交流{{R|イクバルと仲間たち_p145}}。 |
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* 1994年12月 - リーボック人権賞を受賞{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。 |
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* 1994年12月 - [[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]]のテレビ番組『[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]』で「今週の人」に選ばれ、インタビューを受ける{{R|イクバルと仲間たち_p154}}。 |
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* [[1995年]][[4月16日]] - 銃殺により12歳で死去{{Efn2|name=年齢}}。 |
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* [[1996年]]2月 - [[ハリウッド]]を拠点とするインド人のプロデューサー、スレシュ・バルマが、イクバルの物語の映画化のための活動中に「インドのスパイ」「パキスタンに対する経済戦争への道を開こうとした」「我が国の絨毯産業を妨害する目的でインドの情報当局が送り込んだ手先」とされて、パキスタンの連邦捜査局(FIA)に刑事訴追される{{R|読売新聞199602m_p4}}。 |
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* [[1998年]] - [[イタリア]]の[[トリエステ]]に総合教育機関が設立され、イクバルの名に因んで「Istituto Comprensivo Iqbal Masi」と命名される{{R|Iqbal_Masih20191117}}。 |
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* [[2000年]]12月 - [[フランス映画]]『{{仮リンク|イクバル|fr|Iqbal - Non à l'esclavage des enfants}}』が公開{{R|仏映画イクバル}}。 |
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* [[2009年]] - [[アメリカ]]で「児童労働撤廃のためのイクバル・マシー賞(Iqbal Masih Award)」が設立される{{R|イクバル・マシー賞}}。 |
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* [[2012年]][[4月16日]] - [[スペイン]]の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]に、イクバルの名を記した広場が設置される{{R|SAIn Galicia}}。 |
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* [[2014年]] - [[ノーベル平和賞]]受賞者であるインドの[[カイラシュ・サティーアーティ]]が、授賞式のスピーチでイクバルを讃える{{R|ACE201501}}。 |
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* [[2015年]] - イタリアと[[フランス]]の合作によるアニメーション映画『[[:it:Iqbal - Bambini senza paura|Iqbal - Bambini senza paura|]]』が公開{{R|映画Iqbal}}。[[2017年]]4月、イタリアのアニメーション作品イベント「Cartoons on the bay」で同映画が最優秀長編アニメーション映画賞を受賞{{R|Animation_Magazine20170411}}。 |
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* [[2016年]]4月 - イタリアの[[シチリア]]で、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]のトーナメント「X Iqbal Masih Rugby Tournament」が開催{{R|News_Comitato20160114}}。 |
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* [[2019年]]3月 - [[日本]]の[[和歌山県]][[橋本市]]の[[和歌山県立古佐田丘中学校・橋本高等学校|和歌山県立橋本高等学校]]演劇部OBの大学生たちによる「劇団まさし部」が、イクバルの物語を舞台化した作品『ペンを下さい』を、[[和歌山市]]隅田町の和歌山市東部コミュニティセンターで上演{{R|毎日新聞201903_p26}}。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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<div class="references-small"><references group="注"/></div> |
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=== 出典 === |
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<ref name="だからあなたも負けないで_p8">{{Harvnb|カーシー|2001|pp=8-9}}</ref> |
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<ref name="だからあなたも負けないで_p11">{{Harvnb|カーシー|2001|pp=11-12}}</ref> |
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<ref name="だからあなたも負けないで_p17">{{Harvnb|カーシー|2001|pp=17-18}}</ref> |
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<ref name="ふつうの子にできるすごいこと_p94">{{Harvnb|サンデム|2009|pp=94-100}}</ref> |
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<ref name="マララとイクバル_作者のことば">{{Harvnb|ウィンター|2015|loc=作者のことば(ページ番号なし)}}</ref> |
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<ref name="国際協力20002_p18">{{Harvnb|山崎|2000|pp=18-19}}</ref> |
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<ref name="自分を信じた100人の男の子の物語_p24">{{Harvnb|ブルックス|2019|p=24}}</ref> |
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<ref name="世界の労働19950920_p52">{{Harvnb|柴田|1995|pp=52-53}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p12">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=12-15}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p16">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=16-17}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p214">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=214-220}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p220">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=220-224}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p224">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=224-226}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p226">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=226-228}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p228">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=228-230}}</ref> |
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<ref name="僕たちは自由だ_p230">{{Harvnb|キールバーガー|2000|pp=230-236}}</ref> |
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<ref name="アジアにおける公正労働基準_p88">{{Cite book|和書|editor=日本労働研究機構研究所|title=アジアにおける公正労働基準|date=2001-3-30|publisher=日本労働研究機構|series=調査研究報告書|isbn=978-4-538-89141-5|page=88|url=https://db.jil.go.jp/db/seika/zenbun/E2001050021_ZEN.htm |accessdate=2019-11-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130225032427/https://db.jil.go.jp/db/seika/zenbun/E2001050021_ZEN.htm |archivedate=2013-2-25}}</ref> |
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<ref name="ラウトレッジ20170430_p25">{{Cite book|author=Sharon Kane|title=Integrating Literature in the Content Areas|date=2017年4月30日|publisher=[[ラウトレッジ]]|isbn=978-1-13807-799-7|page=25}}</ref> |
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<ref name="映画Iqbal">{{IMDb title|tt5136164|title=Iqbal, l'enfant qui n'avait pas peur}} <!-- https://archive.is/YC2Jh --> </ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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|title=僕たちは、自由だ! クレイグ少年の南アジア50日間の冒険記 |
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* {{Cite journal|和書|author=山崎雄也|date=2000-2-1|title=子どもだからできること|journal=国際協力|issue=562|publisher=[[国際協力機構|国際協力事業団]]|id={{NCID|AN00290531}}|ref={{SfnRef|山崎|2000}}}} |
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* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|キアーラ・ロッサーニ|it|Chiara_Lossani}}|others=[[関口英子 (翻訳家)|関口英子]]訳|title=イクバル 命をかけて闘った少年の夢|origdate=2016|date=2017-9-19|publisher=西村書店|isbn=978-4-89013-986-6|ref={{SfnRef|ロッサーニ|2017}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山崎雄也|date=2000-2|title=子どもだからできること |
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* [[児童労働]] |
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* [[子どもの権利運動]] |
* [[子どもの権利運動]] |
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* [[マララ・ユスフザイ]] - パキスタンの人権運動家。イクバル同様に平和運動を訴えたことで銃撃された。前掲書『[[#CITEREFウィンター2015|マララとイクバル]]』などでイクバルと共に紹介されている。 |
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2024年12月13日 (金) 15:59時点における最新版
中央が1992年9月当時のイクバル・マシー。向って左は債務労働解放戦線代表者のイーシャーン・ウラー・カーン。 | |
生誕 |
1982年[4][注 2] パキスタン パンジャーブ州ムリドゥケ村[注 3] |
洗礼 | 1976年12月5日[6] |
死没 |
1995年4月16日[11](満12歳没[注 2]) パキスタン パンジャーブ州ムリドゥケ村[11] |
死因 | 銃殺 |
墓地 | パキスタン パンジャーブ州ムリドゥケ村[12][13] |
記念碑 | スペイン コルドバ イクバル像、他[14] |
住居 | パキスタン パンジャーブ州ムリドゥケ村 → ラホール[15] |
国籍 | パキスタン |
出身校 | フリーダム・キャンパス[15] |
活動期間 | 1992年[16] - 1995年[11] |
団体 | 債務労働解放戦線[注 4] |
著名な実績 | 児童労働禁止活動 |
影響を受けたもの | イーシャーン・ウラー・カーン[15][注 5] |
影響を与えたもの | クレイグ・キールバーガー[20][21] |
活動拠点 | パキスタン |
身長 | 127 cm (4 ft 2 in)(1994年当時[22]) |
宗教 | キリスト教[4](カトリック[16]) |
受賞 | リーボック人権賞 行動する若者賞[23] |
イクバル・マシー[注 1](ウルドゥー語: اقبال مسیح, 英語: Iqbal Masih, 1982年[4][注 2] - 1995年4月16日)は、パキスタンのパンジャーブ州出身の少年活動家[24]。4歳のときから奴隷同然の過酷な労働を強いられ、10歳のときに人権団体の助力により自由の身となり、児童労働問題について世界中に訴えた。12歳で殺害されるが[19][11][注 2]、その後も児童労働防止運動の象徴的な存在となり、彼の遺志を継いだ多くの人々が児童労働防止のために活動しており[7]、国際NGOフリー・ザ・チルドレンの発足のきっかけともなった[24]。
経歴
[編集]労働の日々
[編集]1982年[注 2]、パキスタン北東部のパンジャーブ州ムリドゥケ村[注 3]の貧しい家庭に生まれた。父は薬物中毒のために、まともな職に就くことができなかったともいわれ、母が掃除の仕事でかろうじて家計を支えていた。4歳のとき、父親がイクバルの兄の婚礼のため、近所の絨毯工場から600ルピーの借金をした[4][注 6][注 7]。当時のパキスタンでは、貧困に喘ぐ家庭の借金返済のために子供が強制的な労働を強いられる「債務労働」と呼ばれる児童労働が一般的であり、イクバルも例外なく、1986年[8]、4歳にして絨毯工場での労働者となった[4]。
契約上は1週間に6日、1日12時間の労働であった[4]。大型の織機と狭い職場とで不自然な姿勢での労働を強いられ、絨毯に群がる虫を避けるために部屋は閉め切られて非常に暑く[26]、絨毯の糸くずが空中に散乱して頻繁に咳き込むなど[27]、環境は劣悪だった。共に働く子供たちの中には、常に絨毯の毛糸に触れるため、疥癬や皮膚の潰瘍に苦しむ子供が多く、悪い姿勢での労働の末に関節炎や手根管症候群を患う子供もいた[27]。イクバルもまた、織機のそばで不自然な姿勢での労働を何年も続けたことで、少年期の成長を阻害されることとなった[28]。長い休みを得ることもできなかったため、病気になっても休みは許されず、休みを乞うたために逆に仕置きを受け、さらに病気を悪化させる子供もいた[27]。
休憩は1日30分、食事もわずかの米と豆、まれに少量の野菜が加えられる程度で[27]、これも少年期のイクバルの成長を阻害する一因となった[29]。このわずかの食費や、さらに仕事を覚えるための研修費用や仕事道具の費用までもが借金に上乗せされていた[4][27]。仕事上に道具で傷を負ったときには、痛みも構わず、マッチの粉をつめて火をつけられて傷口を塞がれたり[22]、熱い油で止血されたりした[27]。これは傷の手当よりむしろ、絨毯が血で汚れることを防ぐためだった[27]。仕事を終えて夜に帰宅する頃には、疲労のあまり遊ぶ気力も消え失せていた[27]。
工場に絨毯の注文が大量に舞い込んだ際は、契約外の労働で徹夜となる日もあった。理不尽な労働にイクバルが抗えば、殴りつけられたり、天井から逆さ吊りにされるなどの体罰を与えられた[7][30]。雇い主の目を盗んで脱走して警察に駆け込むこともあったが、逆に警察によって工場へ連れ戻される始末で、脱走の罰金を科せられた。挙句には脱走しないよう、織機に鎖で繋がれるようになった[30]。仕事上でのミスもまた、体罰や罰金の対象となった[27]。
さらにイクバルの家が追加で借金をしていたため、相次ぐ罰金と借金により、当初600ルピーだった借金は、最終的に13000ルピーにまで膨れ上がっていた[30]。このままでは、イクバルは一生終わりの見えない奴隷同前の生活を送るしかないものと思われていた[31]。
ぼくの両親はどうすることもできなかった。ぼくの家族のように貧しい人たちは無力なんだ。だから、ぼくは、家族には何も求めなかった。 — イクバル・マシー、クークリン 2012, p. 102より引用。
自由の身へ
[編集]1990年代、世界各国で人権団体が運動している中、パキスタンでは債務労働解放戦線[注 4](Bonded Labour Liberation Front。以下、BLLFと略)という民間組織が児童労働防止のために活発に活動しており[17]、一定の評価を得ていた[30]。BLLFの活躍により、パキスタンの最高裁判所では債務労働制度の廃止が宣言され[17]、1992年には債務労働廃止法案がパキスタンの議会を通過した[30]。これは、債務労働者の家の負った借金が帳消しになることを意味していた[32]。
イクバルの雇い主はBLLFを危険視し、労働者である子供たちにBLLFに接触しないよう忠告していたが、イクバルは1992年2月[16]、工場を脱走してBLLFの集会に参加した[32]。脱走防止のために鎖で繋がれていたにもかかわらず、過酷な労働で腕が痩せ細っていたため、腕を縛る手錠から腕が抜け、皮肉にも脱走の成功に繋がった[19]。この集会で初めてイクバルは、すでに法律上で債務労働制度が禁止され、自分の家の背負った借金が帳消しになっていたにもかかわらず、自分が工場で労働を強いられていたことを知った[32]。
会場のかたすみにちぢこまっていた彼は、年寄りのようにやせ細り、ぜいぜい苦しげな息をしていた。まるで自分の姿をかくし、消えてしまおうと努めているかのようだった。それほどおびえていたのだ。しかし、わたしはこの少年が特別なものを持っているのを感じた。強い意志を持っていることを。 — イーシャーン・ウラー・カーン(BLLF代表)、クークリン 2012, p. 109より引用。
これが契機となり、イクバルはBLLFの弁護士を通じ、自分の身が自由であることを明かす証明書を入手[32]。絨毯工場で働いていた多くの同胞の子供たちと共に、工場を去った[32]。こうしてイクバルは6年間の債務労働から解放され、10歳にして自由の身となった[7][32]。
児童労働禁止活動
[編集]イクバルはBLLF代表イーシャーン・ウラー・カーン[注 5]の手配により、パキスタン北部の都市ラホールに移住し、BLLFによって作られた学校であるフリーダム・キャンパスに通学し始めた[15]。
田舎村から古都へ移ったことで、彼の環境は大きく変化した。勉学に励んでめざましく知識を広げ、学校のまとめ役にして代表的な生徒となった[15]。アメリカの歴史についての知識も得たようで、エイブラハム・リンカーンのようにパキスタンの子供たちを奴隷同前の労働から解放したいとも語っていた[15]。イクバルの学習は早く、4年分の勉強を2年間で終わらせることができた[16]。
学業の傍らでイクバルは、BLLFのボランティア活動やデモ活動にも参加。子供たちを自由へ導くため、子供の働いている絨毯工場を訪れ、共に自由になることを呼びかけた[15]。この活動には世界中のジャーナリストや労働運動の指導者、人権問題の活動家たちが注目し、BLLFを訪れてイクバルの話に耳を傾けた[15]。労働を強いられていた間のイクバルは学校へ通わず、ラホールに来るまで読み書きがまったくできなかったが、イクバルの演説はそれをまったく感じさせないほど優れたもので、力強さと情熱にあふれ、児童労働の内容は実体験だけあって迫力に満ちていた[15]。大勢の大人を前にした演説でも、怖気づくことはなかった[15]。
イクバルと長い時間話をしました。すばらしい子でした。自分の考えをはっきり言えて、印象深い、とてもいい子でした。深刻ぶったところはありませんでした。わたしが知っているどんな子どもよりも賢く、しっかりしていましたが、やはり子どもでした。生きていたら、将来、すばらしい組織を作っていたかもしれません。 — ファーハド・カリム(ヒューマン・ライツ・ウォッチ・アジア局の元調査員)、クークリン 2012, p. 127より引用。
1994年春にはノルウェーのオスロでスウェーデン産業組合の記者会見に出席し、児童労働禁止について語った。イクバルは子供の自由を力強く訴え、聴衆は水を打ったような静けさで聞き入った。イクバルの「僕たちは自由だ!」の声に聴衆は総立ちとなり、イクバルの「僕たちは」の声に聴衆は「自由だ!」と叫び返した[22]。
1994年11月、イクバルはカーンに連れられて、スウェーデンで開かれた国際労働機関の会議を訪れ、労働体験について語り、会議参加者たちに感銘を与えた[16][23]。同国滞在中には、同国のフレドリックスダールスコーラン学校の生徒との交流が行われた[7][23]。ドキュメンタリー映画にも出演して、絨毯産業で子供たちが受けている虐待について語った[16]。
イクバルはこうした活躍により、パキスタンの自由の象徴として、次第に国際的なヒーローとなっていった[33]。一方で、労働する子供たちを抱える絨毯業界にとっては、イクバルは危険な存在といえ[19]、中傷に加え、殺害をほのめかす脅迫もあった[15]。
渡米
[編集]人権活動を支援するリーボック人権財団は[注 8]、1993年の世界人権会議でBLLF代表カーンのセミナーに参加してイクバルのことを知り[35]、以来、イクバルの活躍に注目を続けていた[23]。BLLFを訪れたジャーナリストや人権活動家たちの推薦もあり、1994年、人権運動に多大に貢献する若者を対象とした「リーボック人権賞」をイクバルに贈ることが決定された[23]。この賞は長年にわたって活動した人物が受賞してきたもので、過去の受賞者たちに比べてイクバルは若すぎたため、新たに「行動する若者賞(Youth In Action)」が制定された[23]。同年12月、イクバルは授賞式出席のため、式の行われるアメリカを訪れた。幼いイクバルがアメリカの環境に慣れるようにとの周囲の配慮から、イクバルは他の受賞者たちよりも1週間早く到着した[36]。
イクバルは授賞式の前に、アメリカの子供たちとの交流のため、マサチューセッツ州クインシーにあるブロード・メドウズ中学校を訪問した[36]。生徒たちはイクバルを歓迎すると共に、児童労働についての話に深く聞き入って強い影響を受け、労働を強いられている子供たちを解放するために一緒に戦うことを誓った[36](後述)。生徒たちはイクバルに出逢う前に、児童労働を訴えた小説『オリバー・ツイスト』を読んでおり、生徒たちにとってイクバルは現代のオリバーであった[36]。
イクバルの話を聞いてから、いろいろなことをこれまでとはちがう見方で見るようになりました。当たり前だと思ってはいけない、まちがっていると思ったら、まちがっているとはっきり言うことが大切なのだ、とイクバルは教えてくれました。イクバルにできるのなら、わたしにもできると思います。 — アマンダ・ルース(ブロード・メドウズ校の生徒)、クークリン 2012, p. 137より引用。
後日、同ブロード・メドウズ校の生徒たちはイクバルの訪問に刺激を受けたことで、近隣の住民たちに依頼し、児童労働に反対する手紙を656通書いてもらった。これらはパキスタンのベーナズィール・ブットー首相やアメリカのビル・クリントン大統領、上院議員や州議会議員、国際連合、地元の絨毯産業に宛てる予定のもので、授賞式の前にイクバルに渡された。イクバルは自分が皆の心を動かしたこと、皆が自分と共に戦ってくれることに、非常に感動していた[37]。
その後も、奴隷同前の生活を送っていた少年として、イクバルの存在は多くのメディアの注目するところとなり、新聞記者、ラジオ番組の司会者、テレビのニュースキャスターなどが大勢、イクバルのもとへ詰めかけた[36]。
このアメリカ滞在中での健康診断では、イクバルは長年の栄養失調と不自然な姿勢での労働を強いられたことによる「心理社会性小人症」と診断されており[38]、アメリカでイクバルの行動に同行したリーボック財団のスタッフは後に、イクバルは6歳くらいにしか見えなかったと語っている[39]。このためにリーボック財団では、発育を促進するために1年分のホルモン剤を提供する準備を進めた[22]。
授賞式前夜に授賞者たちが招かれたディナーにおいては、出席者の1人であるブランダイス大学の学長から、イクバルが18歳になって審査に合格したら奨学金を出すことが発表された[37]。
受賞
[編集]そしてノースイースタン大学で行われた、リーボック人権賞の授賞式で、イクバルはアメリカの俳優ブレア・アンダーウッドから、以下の賛美の言葉のもとに紹介された[37]。
イクバル・マシーは、リーダーであり、勇気を与えてくれる存在であり、偉大な人物です。われわれはイクバルにリーボック行動する若者賞(ユース・イン・アクション)を与えます。 — ブレア・アンダーウッド、クークリン 2012, pp. 156–157より引用。
小柄ながら満ち溢れるイクバルの存在感を前に、場内には割れんばかりの拍手が巻き起こった[22]。壇上でのスピーチにおいてイクバルは、国際賞の受賞者、市民団体の代表、ロックスター、映画スター、政治家といった大勢の聴衆を前にして[23]、自分の経験した児童労働の過酷さを強く訴え、子供たちの債務労働で作られた絨毯がこのアメリカで売られていることの悲しさを語った[40]。そして自分が絨毯作りに使っていた工具を示し、子供たちは工具ではなくペンを持つべきであること、すなわち労働よりも教育が大切であると主張した[40]。最後に、児童労働から解放された子供たちの合言葉として「ぼくたちは自由だ!」の言葉で演説を締めくくり、2千人もの聴衆がその合言葉に応えた[40]。
授賞式の翌日、アメリカ3大テレビネットワークの一つであるアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーのテレビ番組『ABCニュース』で、イクバルは「今週の人」に選ばれ、インタビューを受けた[37]。国際連合では、国連人権高等弁務官がイクバルを「パキスタンにおける現在の奴隷労働に対する戦いの勝利者であり、世界中の何百万人の子どもたちに影響を与えた[注 9]」と讃えた[41]。
アメリカ滞在を終えてパキスタンのラホールに戻ったイクバルは、世界中からの評価を受けたことで自信を得、さらに勉学と児童労働の解放に励んだ[42]。アメリカでの受賞によってイクバルは世界的に名前が知られることとなり、さらなる活躍と将来が期待されていた[31]。BLLFによれば、イクバルの活躍によって労働から解放された子供たちの数は、数千人にまで上っていた[42]。
その一方、前述のようにイクバルを危険視する者たちからの脅迫は、受賞後にさらに増えることとなったが、イクバルはそれに屈することなく活動し続けた[42]。世界的に有名になったイクバルが危害を加えられること、まして子供であるイクバルが大人から危害を加えられることは考えにくいことと思われていた[19][15][42]。イクバル自身もまた、すでに絨毯業界を恐れてはおらず、逆に業界の方が、雇用主にも優る力を得た自分を恐れていると考えて、「もう工場主なんてこわくない。今では向こうがぼくのことをこわがっているんだから[注 10]」と周囲に語っていた[16][42]。
殺害
[編集]1995年4月16日。イクバルは復活祭を家族と共に過ごすため[注 11]、パキスタンの故郷の町へ帰って家族に会った[11]。前述のように小人症と診断されていたイクバルは、成長促進の薬剤を定期的に服用する必要があったため、同日の内に家を発った[11]。夕方、ラホールに帰る前に親戚の家を訪ね、従兄弟たちといたところを、そこの畑にいた小作人に銃で撃たれ、即死した[11]。12歳没[19][43][44][注 2]。
翌日に執り行われたイクバルの葬儀には、急な知らせにもかかわらず800人が参列した[45]。その中には国際的なジャーナリストの姿もあり、イクバルは児童労働防止運動の犠牲者と見なされた[45]。
当時のパキスタン首相であるベーナズィール・ブットーは、不法な児童労働の防止のために活動することを誓い、イクバルの家族への特別手当の支払いを命じた[45]。ただし、ブットー政権の後の行動は限られたものであり、手当が支払われることもなかった[45]。
国際連合人権委員会の開会式では、イクバルと、子供たちを中心とする現代の奴隷労働の被害者たちに向け、黙祷が捧げられた[45]。国際産業別組織である国際商業事務専門職技術労連では、1995年7月にオーストリアで開催された第23回世界大会でも、児童労働に反対するキャンペーンの審議に先立って、イクバルの追悼のために、1分間の黙祷がささげられた[46]。
没後のイクバルは、故郷のムリドゥケ村の共同墓地で、墓石も墓碑名も無い土山に埋葬されている[12][13][47]。
没後
[編集]死の真相
[編集]BLLFのカーン代表は記者会見において、イクバルは絨毯マフィア[注 12]の標的になったとの見解を示しており[45]、新聞報道上では「真犯人は工場閉鎖を恨む工場の経営関係者」と語った[10]。死の数日後のアメリカの新聞報道でも、絨毯工場員の犯行の可能性が示唆された[21]。
こうした見解に対して、警察では絨毯業界の関連を否定し、イクバルの死は行きずりのものと政府で結論づけられた[45]。しかしリーボック人権財団は、イクバルの検死の報告書には、傷の位置や犯行に関する供述があったものの、殺害の理由や方法を結論付けるのに十分なデータとは言えないと見て、検視結果の検証のために法医学専門家たちを派遣した。その結果として「検死報告と警察の報告には多くの疑問が残る」と結論付けられ、50を越える政府や人権団体が警察の捜査を非難した[48]。
パキスタン人権委員会は、警察とは別に独自の調査を行なった。イクバルを撃った小作人アシュラフは、イクバルとは初対面であり、自分は絨毯業界とは無関係だと語った[48]。同委員会によれば、アシュラフはマリファナを吸って気分が高揚していたところ、そこへ通りかかったイクバルたちがアシュラフのことをあれこれ言い始めたため、銃を取って撃ったところ、イクバルに命中してしまったのだといい[49]、イクバルの死に絨毯業界は関与しておらず、あくまでアシュラフ単独の犯行によるものと結論づけられた[48]。この調査には、以前によりパキスタン人権委員会はBLLFと非友好的だったという事情が背景にあった[48]。
また、イクバルの生まれたマシー家の祖先は、パキスタンがインドから独立する際に、ヒンドゥー教のカースト制度の最下層民から抜け出すためにキリスト教徒になったという事情があり、イスラム教が中心のパキスタンではキリスト教徒は少なく、宗教的な緊張がイクバル殺害の要因だとする説も唱えられた[50]。
アメリカでイクバルが訪れたブロード・メドウズ中学校では、春休みにもかかわらず多くの生徒が、わずか1日逢っただけのイクバルのために学校に集まり、イクバルの死を明らかにするための嘆願書の署名活動を街中で行ない、人権擁護を目的とした非政府組織であるアムネスティ・インターナショナルへ嘆願書が送られた[51]。
子どもたちは怒っていました。激しく憤っていました。イクバルの殺害は子どもたちに大きな影響を与えたのです。たった一回、一日しか会っていないのに、イクバルは彼らのシンボルとなっていました。イクバルの声とメッセージはみんなの心に深くふれていたのです。子どもはだれでも自由であるべきで、学校へ行くべきだというイクバルのメッセージを、銃弾で封じ込めてはならないと生徒たちは思ったのです。 — ロン・アダムズ(ブロード・メドウズ校の教員)、クークリン 2012, pp. 177–178より引用。
後述するカナダの活動家クレイグ・キールバーガーが1995年にパキスタンへ渡って調査した際には、パキスタン人権委員会は、イクバルの死は不幸な事故だと説明し、死の当時にイクバルと共にいた従兄弟も警察に対して同様の証言をしたと語った[52]。またカーンが絨毯マフィアの犯行だとの主張を続けている理由を、人権委員会は、カーンは最初にその立場を取った以上、後からその主張を覆しては都合が悪いこと、または児童労働反対者であるカーンは政府から危険視されており、絨毯マフィア説は政府の主張と逆のため、カーンにとっては都合が良いと説明した[52]。またキールバーガーがイクバルの母に直接取材したところによれば、母は、イクバルの父は麻薬中毒であり、金を握らされて警察や絨毯工場と結託し、カーンとBLLFに敵対する側に回ったと語っている[8]。
また、イクバルが銃撃される直前、彼の訪ねる予定だった親戚の人物が、イクバルは自転車に乗っており、同行していた従兄弟の1人がペダルをこぎ、もう1人は荷台に乗っており、イクバルは自転車の前のハンドルに腰かけていたと証言した[11][22][注 13]。つまりイクバルの背後に従兄弟2人がおり、しかも従兄弟たちはイクバルより大柄であることにも拘らず、イクバルが撃たれた場所は背中である。このことからキールバーガーは、従兄弟たちの陰に隠れる状態だったはずのイクバルが、背中を撃たれたことを疑問視している。イクバルたちが乗っていた自転車は証拠品の1つといえるが、警察ではこの自転車は押収されていない[8]。
その後、当事者たちの供述やイクバルの死を巡る情報は何度も変化し、様々な情報が入り乱れる中、BLLFでは依然として、イクバルの死は絨毯業界によって引き起こされたものと信じられた[48]。児童労働反対運動者たちの多くが、イクバルの死と絨毯業界を無関係だとする主張を、絨毯業界を守るための捏造だと信じている[48]。
多くのメディアがその後もイクバルの死について新たな申立てや説明を行っているが、真相は依然として謎に包まれたままである[19][48][53]。
絨毯業界への影響
[編集]イクバルはアメリカやスウェーデンを訪れた際、子供の作った絨毯を業者が売ることのないよう、そして消費者が買うことのないよう語っており[7]、両国は子供の強制労働の禁止をパキスタン政府に強く訴えた[19]。やがてイクバルの訴えに応じてパキスタン製絨毯の不買運動がおこり、絨毯工場の経営者や事業主は大きな損を被った[19]。授賞式を終えたイクバルがラホールに戻った頃には、十数件の絨毯工場が閉鎖に追い込まれる結果となっていた[42]。このことから、イクバルの死は児童労働解放によって大損を被った違法者の報復と考える人々も多い[19]。
イクバルの死後、BLLFのカーン代表はイクバルの最後の言葉の代弁として、子供たちが作った絨毯を輸入業者や消費者が買うことのないよう、国際連合人権委員会に申し立てた[45]。これを受け、欧米諸国では絨毯も注文のキャンセルが相次ぎ、その額は日本円にして何億円単位にも上った[54]。絨毯メーカーではこの損害を恐れ、BLLFとカーン代表がイクバルの死を利用して国の利益に害をもたらしているとの主張もあった[54]。
こうした不買運動への対処として1995年7月には、少年労働の不使用を証明するラベルを政府が発行し、このラベル付き絨毯のみ輸出を認める規制策が発表された。しかしインドの社会福祉活動家であるニーラ・ブッラは、こうした改善の動きについて一応の評価をしながらも、「ラベルの件は経営者がいやいや応じたもので、取り締まる官僚次第で汚職の巣窟にもなり得る」と懸念している[55]。
遺志を継いだ子供たち
[編集]イクバルが埋葬された際に、同様に児童労働を強いられていた少女が、イクバルの墓のそばで「イクバルが死んだ日、千人のイクバルが誕生したわ」と語ったという[22][56]。その言葉の通り、イクバルの遺志は多くの同年代の子供たちに受け継がれている。
イクバルの葬儀の後、ラホールでは子供たちを中心とした3千人以上もの人々によるデモ活動が行われ、亡きイクバルのために、児童労働を終わらせることを訴えた[45]。
先述の国際商業事務専門職技術労連の第23回世界大会では、にスイスのジュネーブのインターナショナルスクールの子供たちにより、イクバルの生涯と死に至るまでの劇が上演された[46]。
イクバルが生前に訪れていたスウェーデンでは、パキスタンのベーナズィール・ブットー首相が同国の首都ストックホルムを訪問した際、パキスタン大使館の前に職員たちが驚くほどの小学生たちが集まり、児童労働に抗議し、輸出品が子供たちによって作られたものでないことを証明してほしいと訴えた[54]。またイクバルが同国で交流したフレドリックスダールスコーラン学校では、彼の死後も生徒たちが「プロジェクト・パキスタン」という標題を掲げ、児童労働禁止のための運動を行っている[7]。
アメリカのブロード・メドウズ中学校では、子供には労働よりも教育が大切とのイクバルの主張のもと、パキスタンに学校を新設するために運動が開始された[57]。
涙がこぼれそうになるのに気がついて、こらえようとしたけれど、こらえきれませんでした。ぼくは学校で、手紙と絵でこの気持ちを表現してみました。イクバルの死に関する調査や、パキスタンの子どもたちの学校を建てるのに役に立てられればいいと思います。 — ディディエ・アルサー(ブロード・メドウズ校の生徒)、クークリン 2012, pp. 176–177より引用。
わたしたち、イクバルと約束したわ。最後まで戦って、子どもたちを自由にするって。助けてくれるイクバルはもういないけど…… 何かほんとうに大きなことに挑戦しなければいけないんじゃないかしら。イクバルが死んでしまった今だからこそ。 — カレン・マリン(ブロード・メドウズ校の生徒)、クークリン 2012, p. 179より引用。
この運動にはアメリカ中の多くの学校が賛同し、当時の上院議員であったエドワード・ケネディが運動を支持したこともあって、2年間の内にアメリカ全州と世界27か国、全3000の学校がこの運動に加わり、13万ドル以上の寄付金が集まった[57][58]。その寄付者の中にはジェイミー・リー・カーティスやトゥルーディ・スタイラーといった著名人の名もあり、マイケル・スタイプやエアロスミスといった有名芸能人たちも彼らを応援した[57]。やがてイクバルの故郷パンジャーブ州で高評価を受けている人権保護団体スダールにより、同州のカスール県に「イクバルの学校」が設立された[57]。学校へ通う子供たちは今なお労働せざるを得ない生活を送っているが、工場から通学を許可されており、労働で汚れた服装のままで通学することのないよう仕事場にシャワーが取り付けられるなど、学校設立の運動は雇用側に対しても、少しずつではあるが影響を及ぼしている[57]。この功績によりブロード・メドウズ中学校は1995年に、イクバルと同じリーボック人権賞の「行動する若者賞」を受賞した[57][59]。
その後、ブロード・メドウズ中学校は「イクバルの学校」の運営をスダールに引き継ぎ、1999年にはアメリカの他の各校と共に新たに「オペレーション・デイズ・ワークUSA(Operation Day's Work-USA)」という運動を立ち上げ、世界中の児童労働者を解放するため、世界各国のNGOに寄付活動を行なっている[60][61]。その後もアメリカでは、14の学校の約千人の生徒たちが、イクバルのような児童労働の反対のために活動しており、その活動はパキスタンのみならずハイチ、エルサルバドル、ネパール、バングラデシュ、ベトナム、エチオピア、ルワンダにも広がっている[61]。
カナダの活動家であるクレイグ・キールバーガーは、イクバルの死の当時、奇しくも同じ12歳であり、自宅で偶然読んだ新聞で、同い年の少年の死とその境遇に衝撃を受け、やがて児童労働防止運動に身を投じることを決意した[20]。パキスタンにわたって自らの目で児童労働の実態を確かめ、イクバルの墓前で、彼の遺志を引き継ぐことを誓った[47]。後に彼に共感した学友たちと共に、子供の人権を守るグループとしてフリー・ザ・チルドレンが結成され[24][62]、やがてこれが世界最大級の子供主体の国際NGOへと成長することとなった[63]。この組織は21世紀においても、世界中の子供を労働から解放するために活動し続けている[21][64][65]。
その他
[編集]BLLFのカーン代表は、「反政府的な動きを煽り、パキスタンに対して経済戦争をしかけた」と見なされて罪に問われた。これは有罪との判決が下されれば死刑となる罪である。BLLFでは警察により書類や備品が押収され、会計士とボランティアのスタッフが逮捕された。弁護士ですらこの2人と話すことを禁じられたが、国際人権NGOであるアムネスティ・インターナショナルが逮捕に抗議することで、ようやく釈放に至った[54]。
イクバルの死は、パキスタンの児童労働問題の深刻さを世界中にアピールすることとなった[66]。さらにパキスタンのみならず、児童労働の告発に対する報復と見られたことで、南アジア全体の児童労働問題が世界の注目を集めるきっかけにもなった[2]。国際的な市民社会組織ソリダリダッドでは、イクバルが児童労働解放の象徴とされ、彼の命日である4月16日が「国際児童虐待デー」と制定された[67]。2002年には国際労働機関(ILO)で、児童労働を撲滅する必要性を世界に訴えるために、6月12日を児童労働反対世界デーと制定された[68][69]。
2014年には、児童労働解放などの功績によりノーベル平和賞を受賞したインドのカイラシュ・サティーアーティが、授賞式のスピーチでイクバルについて言及し、彼を讃えた[70]。
今回のノーベル賞受賞にあたり私は、同志であるインドのカルル・クマール(Kaalu Kumar)、ドーム・ダス(Dhoom Das)やアダーショ・キショオ(Adarsh Kishore)、そしてパキスタンのイクバル・マシー(Iqbal Masih)の功績を称えたいと思います。彼らは子どもたちの自由と尊厳を守るために最大の犠牲を払いました。私はこのように命を捧げた人々、世界中の仲間の活動家たち、同胞を代表して、謹んでこの賞を受賞いたします。 — カイラシュ・サティーアーティ、ACE 2015より引用。
2017年時点では、イタリアのミラノの国立総合学院、トリエステの学校、スペインのアルメリアの記念プレート、コルドバのイクバル像[14]、サンティアゴ・デ・コンポステーラの広場[71]、グラン・カナリア島の公園など、イクバルの名を記念した学校、広場、通り、公園、彫像が世界各国に存在するに至っている[14]。
年齢の異説
[編集]イクバルの没年齢が12歳だとする説は、BLLFのカーン代表が報道に対して説明したものだが、実際にはイクバルはもっと年上だったとする別説もある[8]。
リーボック人権賞の受賞時には、イクバルは11歳と報道されたが、その際にイクバルの家族を知っている者たちが、イクバルの年齢はもっと上と言い出した。屋内で長時間の労働を強いられてほとんど日光を浴びることができない上、食事も不十分で栄養不足から成長が遅れ、外見が実年齢よりも幼く見えることは、南アジアではよく見られる。ただしイクバルの場合は労働環境によるものではなく、父方の親戚が小人症だったことによる遺伝的なものとする説もある[16]。
先述のクレイグ・キールバーガーが1995年にパキスタンで調査した際には、イクバルの母は、イクバルの労働は6歳からと語っている。労働開始が1986年であることは多くの者の間で一致しているため、そのとき6歳なら、没年齢は14歳か15歳の計算になる。ただしキールバーガーがパキスタンを含む南アジアで取材した多くのケースでは、文盲の多くの者が実子の正確な年齢すら知らなかったという事情がある。またパキスタン人権委員会の報告書によれば、イクバルの母が「イクバルが16歳で死んだ」と証言したとある。これらのことからキールバーガーは、イクバルの没年齢が12歳よりもっと上であることは確かと見ている[8]。
また、イクバルが洗礼を受けたラホールの聖フランシス教会にある洗礼証明書によれば、イクバルの生年月日は1976年4月4日とあり、これが事実であれば、イクバルの没年齢は19歳との計算になる[6]。しかしイクバルの郷里であるムリドゥケの教会では、イクバルは4歳から5歳頃から10年間、教会に来ていたとの証言があり、洗礼証明書による年齢とは矛盾する[50]。またイクバルがスウェーデンへ渡った際に、同国の著名な小児科医が小人症とみられるイクバルを診察し、骨年齢などをもとに11歳と断定しており、この診察結果はラホール高等裁判所に報告されている[6]。
キールバーガーの調査では、年齢についての真相は明らかになっていないが、キールバーガーは、年齢が何歳だったかは大した問題ではなく、イクバルが子供たちを労働から解放しようとしていた活動を、自分らが引き継ぐことのほうが重要だと語っている[8]。
年譜
[編集]- 1982年 - パキスタンのパンジャーブ州ムリドゥケ村で誕生[4][注 2]。
- 1986年 - 4歳にして絨毯工場での労働者となる[8]。
- 1992年2月 - パキスタンの民間組織である債務労働解放戦線[注 4]の集会に参加[16]。
- 1993年 - 債務労働から解放され[7][32]、児童労働禁止活動に身を投じる[15]。
- 1994年春 - ノルウェーのオスロでスウェーデン産業組合の記者会見に出席[22]。
- 1994年11月 - スウェーデンで開かれた国際労働機関の会議を訪れ、労働体験について語る[16][23]。
- 1994年12月 - リーボック人権賞授賞のためにアメリカにわたり、ブロード・メドウズ中学校の生徒たちと交流[36]。
- 1994年12月 - リーボック人権賞を受賞[37]。
- 1994年12月 - アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーのテレビ番組『ABCニュース』で「今週の人」に選ばれ、インタビューを受ける[37]。
- 1995年4月16日 - 銃殺により12歳で死去[注 2]。
- 1996年2月 - ハリウッドを拠点とするインド人のプロデューサー、スレシュ・バルマが、イクバルの物語の映画化のための活動中に「インドのスパイ」「パキスタンに対する経済戦争への道を開こうとした」「我が国の絨毯産業を妨害する目的でインドの情報当局が送り込んだ手先」とされて、パキスタンの連邦捜査局(FIA)に刑事訴追される[72]。
- 1998年 - イタリアのトリエステに総合教育機関が設立され、イクバルの名に因んで「Istituto Comprensivo Iqbal Masi」と命名される[73]。
- 2000年12月 - フランス映画『イクバル』が公開[74]。
- 2009年 - アメリカで「児童労働撤廃のためのイクバル・マシー賞(Iqbal Masih Award)」が設立される[75]。
- 2012年4月16日 - スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに、イクバルの名を記した広場が設置される[71]。
- 2014年 - ノーベル平和賞受賞者であるインドのカイラシュ・サティーアーティが、授賞式のスピーチでイクバルを讃える[70]。
- 2015年 - イタリアとフランスの合作によるアニメーション映画『Iqbal - Bambini senza paura|』が公開[76]。2017年4月、イタリアのアニメーション作品イベント「Cartoons on the bay」で同映画が最優秀長編アニメーション映画賞を受賞[77]。
- 2016年4月 - イタリアのシチリアで、ラグビーのトーナメント「X Iqbal Masih Rugby Tournament」が開催[78]。
- 2019年3月 - 日本の和歌山県橋本市の和歌山県立橋本高等学校演劇部OBの大学生たちによる「劇団まさし部」が、イクバルの物語を舞台化した作品『ペンを下さい』を、和歌山市隅田町の和歌山市東部コミュニティセンターで上演[79]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 資料によっては「イクバル・マッシ[1]」「イクバル・マシフ[2][3]」との表記もある。
- ^ a b c d e f g h 生年月日は1983年[5]、1976年4月4日[6]、没年齢は13歳[7]、14歳[8]、15歳[8]、19歳[6]との別説もあり、正確な年齢は判明していない[9]。#年齢の異説も参照。
- ^ a b 「ムリドゥケ村」は長野徹・赤塚きょう子の翻訳によるカタカナ表記[4]。他に「ムリトケ村」との表記もある[10]。
- ^ a b c 「債務労働解放戦線」は、長野徹・赤塚きょう子[17]、芹澤恵・高里ひろ[5]、関口英子[18]らによる和訳。他に「強制労働解放戦線[7]」「債務労働者解放戦線[19]」「奴隷労働解放戦線[10]」との和訳もある。
- ^ a b 「イーシャーン・ウラー・カーン」のカタカナ表記は、長野徹・赤塚きょう子による[17]。他に「イーサン・ユーラ・カーン[19][16]」「アサヌラ・カーン[10]」との表記もある。
- ^ 物価感覚の参考として、1998年頃のパキスタン庶民の食費は1食につき平均20ルピー[25]。
- ^ パキスタンでは結婚は重要な意味を持ち、仕事が無い者や貧乏な者でも、結婚の祝いを整えることが普通だとの事情があった。また、イクバルの父のように貧乏な者を支援する制度も存在しなかった[4]。
- ^ リーボック人権財団は、スポーツ用品ブランドとして知られるリーボックにより設けられた財団。人権保護運動で活躍した人々に賞を与えている[34]。
- ^ ウィンター 2015, 作者のことばより引用(ページ番号なし)。
- ^ クークリン 2012, pp. 159–160より引用。
- ^ 復活祭はキリスト教の休日。パキスタン人はイスラム教徒がほとんどだが、イクバルの家庭は同国でも数少ないキリスト教徒だった[4]。
- ^ マフィアとは本来イタリアの犯罪組織を指すが、ここでは「ならず者の集団」を意味している[45]。
- ^ パキスタンではこのように自転車に乗る者が多い[11]。
出典
[編集]- ^ カーシー 2001, pp. 8–9
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