コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「高木晃次」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
37行目: 37行目:
== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
=== 阪急・オリックス時代 ===
=== 阪急・オリックス時代 ===
[[1987年]]、横芝敬愛高校から[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]にドラフト1位で指名され入団。同期3位に最後の阪急所属選手・[[中嶋聡]]がいた。4年目[[1990年]]に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。[[1993年]]オフに[[馬場敏史]]との[[トレード]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に移籍。
[[1987年]]、横芝敬愛高校から[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]にドラフト1位で指名され入団。同期3位に最後の阪急所属選手・[[中嶋聡]]がいた。自身4年目(球団が[[オリックスグループ]]買収されて2年目)[[上田利治]]監督最終年[[1990年]]に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍し[[神宮球場]]での[[ジュニアオールスターゲーム]]も出場。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。[[1993年]]オフに[[馬場敏史]]との[[トレード]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に移籍。


=== ダイエー時代 ===
=== クス時代 ===
ダイエーではほとんど登板機会がなく[[1997年]]に戦力外通告を受ける。
クスではほとんど登板機会がなく[[1997年]]に戦力外通告を受ける。


=== ヤクルト時代 ===
=== ヤクルト時代 ===
[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]にテスト入団。野村監督の指示でサイドスローとシュートを覚える。移籍した[[1998年]]はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴むと、翌[[1999年]]には開幕直後は二軍スタートだったものの、[[4月21日]]に一軍登録されると、その日の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦に登板して自身8年ぶり、そして[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]初の勝利を記録した。[[5月12日]]の[[阪神タイガース]]戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した<ref>2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。</ref>。この年はエース格の[[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]]らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的に[[ジェイソン・ハッカミー]]に続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、[[規定投球回|規定投球回数]]にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごした。
[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]にテスト入団。[[野村克也]]監督の指示でサイドスローとシュートを覚える。移籍した[[1998年]]はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴むと、翌[[1999年]]には開幕直後は二軍スタートだったものの、[[4月21日]]に一軍登録されると、その日の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦に登板して自身8年ぶり、そして[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]初の勝利を記録した。[[5月12日]]の[[阪神タイガース]]戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した<ref>2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。</ref>。この年はエース格の[[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]]らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的に[[ジェイソン・ハッカミー]]に続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、[[規定投球回|規定投球回数]]にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごし[[若松勉]]新監督の期待に応え。[[日韓プロ野球スーパーゲーム]]に全日本軍として出場。しかし、[[2000年]]から再び低迷し、[[2001年]]に優勝果たしたが自身は[[2001年の日本シリーズ]]登板機会皆無で2度目の戦力外通告を受ける
しかし、[[2000年]]から再び低迷し、[[2001年]]に2度目の戦力外通告を受ける。


=== ロッテ時代 ===
=== ロッテ時代 ===
[[千葉ロッテマリーンズ]]にテスト入団。移籍して年間は時折先発もしたが、[[2005年]]からはビハインドでのロングリリーフや早い回での1イニング登板、左のワンポイントなど中継ぎとして活躍。21年目の[[2007年]]に初めて[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を取得。同年は[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。年のパ・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]をリリーフし、勝利投手となった。
[[千葉ロッテマリーンズ]]にテスト入団。移籍して最初の2年間は[[山本功児]]監督に先発起用されたが、[[2005年]]からは[[ボビー・バレンタイン]]監督の期待に応えビハインドでのロングリリーフや早い回での1イニング登板、左のワンポイントなど中継ぎとして活躍(2005年はポストシーズン出場機会皆無)5月4日、対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]7回戦([[千葉マリンスタジアム]])、6回表に2番手で救援登板、2/3回を無失点で初ホールド[[2006年]]6月18日神宮での古巣ヤクルト戦で(自身初の[[セパ交流戦]]の勝ち試合で登板し交流戦での)ホールド記録し交流戦2連覇に貢献、21年目の[[2007年]]に初めて[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を取得。同年は[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。自身現役生活唯一のポストシーズン出場となった[[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ]]ではホークスとの第1ステージでも好投し[[日本ハムファイターズ]]との第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]をリリーフし、勝利投手となった。


晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の[[直球]]を主体に[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[フォークボール|フォーク]]・[[シュート (球種)|シュート]]を織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となっている。<br/>横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せる。
晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の[[直球]]を主体に[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[フォークボール|フォーク]]・[[シュート (球種)|シュート]]を織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となっている。<br/>横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せる。


[[2008年]][[3月23日]]の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では、[[1990年]][[7月11日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦以来、18年ぶりにセーブを記録。翌24日の対福岡ソフトバンクホークス戦では通算300試合登板を達成した。同年もワンポイントリリーフなどに重用され、前年の自己最多に並ぶ43試合に登板。藤田宗一や[[薮田安彦]]らの移籍で手薄になった中継ぎ陣を支えた。[[2009年]]は不振で16試合の登板に終わる。同年[[10月1日]]、3度目の戦力外通告を受ける。[[12球団合同トライアウト]]に参加したが獲得球団はなく、[[12月4日]]に[[引退]]を表明した<ref name="marines">[http://www.marines.co.jp/news/detail/3796.html 高木晃次投手引退のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト</ref>。
[[2008年]][[3月23日]]の対日本ハム戦では、[[1990年]][[7月11日]]のホークス戦以来、18年ぶりにセーブを記録。翌24日の対福岡ソフトバンクホークス戦では通算300試合登板を達成した。同年もワンポイントリリーフなどに重用され、前年の自己最多に並ぶ43試合に登板。藤田宗一や[[薮田安彦]]らの移籍で手薄になった中継ぎ陣を支えた。[[2009年]]は不振で16試合の登板に終わる。同年[[10月1日]]、3度目の戦力外通告を受ける。[[12球団合同トライアウト]]に参加したが獲得球団はなく、[[12月4日]]に[[引退]]を表明した<ref name="marines">[http://www.marines.co.jp/news/detail/3796.html 高木晃次投手引退のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト</ref>。


阪急・オリックス、ダイエー、ヤクルトでの15年間、一軍で白星を挙げたのは4年しかなかったが、ロッテ入団後は2007年まで毎年白星を挙げた。
阪急・オリックス、クス、ヤクルトでの15年間、一軍で白星を挙げたのは4年しかなかったが、ロッテ入団後は2007年まで毎年白星を挙げた。


[[2010年]]からはロッテのスコアラーとして活動する<ref name="marines"/>。
[[2010年]]からはロッテのスコアラーとして活動する<ref name="marines"/>。
155行目: 154行目:
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{NPB|81583864}}
{{NPB|81583864}}
{{MLBstats |cube=Koji-Takagi |brm=takagi001koj}}


{{阪急ブレーブス1986年ドラフト指名選手}}
{{阪急ブレーブス1986年ドラフト指名選手}}

2017年4月30日 (日) 15:57時点における版

高木 晃次
2009年千葉マリンスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県
生年月日 (1968-05-10) 1968年5月10日(56歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト1位
初出場 1987年10月18日
最終出場 2009年8月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高木 晃次(たかぎ こうじ、1968年5月10日 - )は、元プロ野球選手投手)。2010年からは千葉ロッテマリーンズのスコアラー。

プロ入り21年目の2007年に初めてFA権を取得したことが話題となった。

阪急に入団した選手の中で、最後まで現役を続けた投手だった(入団3年目に球団がオリックスに買収された)。

来歴・人物

阪急・オリックス時代

1987年、横芝敬愛高校から阪急ブレーブスにドラフト1位で指名され入団。同期3位に最後の阪急所属選手・中嶋聡がいた。自身4年目(球団がオリックスグループ買収されて2年目)上田利治監督最終年1990年に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍し神宮球場でのジュニアオールスターゲームも出場。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。1993年オフに馬場敏史とのトレード福岡ダイエーホークスに移籍。

ホークス時代

ホークスではほとんど登板機会がなく1997年に戦力外通告を受ける。

ヤクルト時代

ヤクルトスワローズにテスト入団。野村克也監督の指示でサイドスローとシュートを覚える。移籍した1998年はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴むと、翌1999年には開幕直後は二軍スタートだったものの、4月21日に一軍登録されると、その日の中日戦に登板して自身8年ぶり、そしてセ・リーグ初の勝利を記録した。5月12日阪神タイガース戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した[1]。この年はエース格の石井一久伊藤智仁川崎憲次郎らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的にジェイソン・ハッカミーに続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、規定投球回数にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごし若松勉新監督の期待に応えた。日韓プロ野球スーパーゲームに全日本軍として出場。しかし、2000年から再び低迷し、2001年に優勝果たしたが自身は2001年の日本シリーズ登板機会皆無で2度目の戦力外通告を受ける。

ロッテ時代

千葉ロッテマリーンズにテスト入団。移籍して最初の2年間は山本功児監督に先発起用されたが、2005年からはボビー・バレンタイン監督の期待に応えビハインドでのロングリリーフや早い回での1イニング登板、左のワンポイントなど中継ぎとして活躍(2005年はポストシーズン出場機会皆無)5月4日、対東北楽天ゴールデンイーグルス7回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に2番手で救援登板、2/3回を無失点で初ホールド。2006年6月18日神宮での古巣ヤクルト戦で(自身初のセパ交流戦の勝ち試合で登板し交流戦での)ホールド記録し交流戦2連覇に貢献、21年目の2007年に初めてFA権を取得。同年は藤田宗一の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。自身現役生活唯一のポストシーズン出場となった2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズではホークスとの第1ステージでも好投し日本ハムファイターズとの第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した小林宏之をリリーフし、勝利投手となった。

晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の直球を主体にスライダーフォークシュートを織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となっている。
横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せる。

2008年3月23日の対日本ハム戦では、1990年7月11日のホークス戦以来、18年ぶりにセーブを記録。翌24日の対福岡ソフトバンクホークス戦では通算300試合登板を達成した。同年もワンポイントリリーフなどに重用され、前年の自己最多に並ぶ43試合に登板。藤田宗一や薮田安彦らの移籍で手薄になった中継ぎ陣を支えた。2009年は不振で16試合の登板に終わる。同年10月1日、3度目の戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウトに参加したが獲得球団はなく、12月4日引退を表明した[2]

阪急・オリックス、ホークス、ヤクルトでの15年間、一軍で白星を挙げたのは4年しかなかったが、ロッテ入団後は2007年まで毎年白星を挙げた。

2010年からはロッテのスコアラーとして活動する[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1987 阪急
オリックス
1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 4.2 4 1 2 0 0 1 1 0 1 1 1.93 1.38
1989 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 50 9.1 15 5 8 1 0 4 2 0 13 13 12.54 2.46
1990 42 1 0 0 0 6 2 2 -- .750 273 64.0 54 5 31 0 2 52 4 0 25 21 2.95 1.33
1991 18 5 0 0 0 2 1 0 -- .667 255 56.0 60 8 36 0 3 29 2 0 36 32 5.14 1.71
1994 ダイエー 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0.00 2.00
1995 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 7 1.0 5 0 0 0 0 0 1 0 3 3 27.00 5.00
1996 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.1 1 0 1 0 0 0 0 0 1 1 27.00 6.00
1998 ヤクルト 24 2 0 0 0 0 3 0 -- .000 103 21.2 21 1 15 2 4 15 1 0 23 20 8.31 1.66
1999 27 21 4 3 1 9 8 0 -- .529 609 145 157 12 39 3 5 73 2 0 64 61 3.79 1.35
2000 23 15 0 0 0 2 8 0 -- .200 358 77.1 104 12 29 1 5 48 2 0 49 49 5.70 1.72
2001 2 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 32 7.0 7 3 3 0 1 3 0 0 9 7 9.00 1.43
2002 ロッテ 17 6 1 1 1 3 3 0 -- .500 183 43.0 48 6 11 0 1 21 0 1 19 17 3.56 1.37
2003 10 8 1 1 0 1 6 0 -- .143 184 41.1 50 2 14 0 2 15 0 0 26 26 5.66 1.55
2004 27 7 0 0 0 2 3 0 -- .400 259 58.2 74 6 24 4 0 29 1 0 38 38 5.83 1.67
2005 20 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 99 25.1 21 1 6 1 1 14 0 0 9 9 3.20 1.07
2006 33 0 0 0 0 2 0 0 3 1.000 154 33.2 39 2 15 4 0 25 0 0 25 21 5.61 1.60
2007 43 0 0 0 0 1 0 0 7 1.000 157 35.2 40 4 12 0 4 20 0 0 15 15 3.79 1.46
2008 43 0 0 0 0 0 0 1 7 ---- 127 28.0 28 1 16 0 2 23 0 0 11 11 3.54 1.57
2009 16 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 53 11.0 15 1 5 0 2 5 0 0 7 7 5.73 1.82
通算:19年 357 68 6 5 2 29 36 3 19 .446 2930 664.0 743 70 269 16 32 378 16 1 374 352 4.77 1.52
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

記録

背番号

  • 19(1987年 - 1993年)
  • 44(1994年 - 1997年)
  • 64(1998年 - 1999年)
  • 14(2000年 - 2001年)
  • 48(2002年 - 2009年)

脚注

  1. ^ 2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。
  2. ^ a b 高木晃次投手引退のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト

関連項目

外部リンク