「オスナブリュック」の版間の差分
あまりにも個人的 |
ユダヤ教 1896年ー1806年→1896年ー1906年 |
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{| cellpadding="2" style="float:right; width:307px; background:#e3e3e3; margin-left:1em; border-spacing:1px;" |
{| cellpadding="2" style="float: right; width: 307px; background: #e3e3e3; margin-left: 1em; border-spacing: 1px;" |
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! 紋章 |
! 紋章 |
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! 地図 |
! 地図(郡の位置) |
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| style="width: 145px;" | [[File:Osnabrück Wappen.svg|140px]] |
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| style="width: 145px;" | [[ |
| style="width: 145px;" | [[File:Karte Osnabrück in Deutschland.png|140px]] |
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! colspan="2" | 基本情報 |
! colspan="2" | 基本情報 |
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| [[連邦州]]: || [[ニーダーザクセン州]] |
| [[連邦州]]: || [[ニーダーザクセン州]] |
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| [[緯度]][[経度]]: || {{ウィキ座標度分|52|16|44|N|08|02|35|E|改行=yes}} |
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| 郡: || 郡独立市 |
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| 標高: || 海抜 63 m |
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| [[Geografische Lage]]: ||{{Koordinate Text Artikel|52_16_20_N_8_02_59_E_type:city(164453)_region:DE-NI|52° 16' n. Br., 8° 3' ö. L.}} |
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| 面積: || 119.8 km<sup><small>2</small></sup><ref name="OffizielleFläche">[http://www.factfish.com/de/flaeche/osnabrueck-kreis-1 Offizielle Fläche von Osnabrück, Stadt - factfish](2018年1月20日 閲覧)</ref> |
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| 標高: || 海抜 54-190 m |
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| 人口: || {{PopSet|GER-NI|03404000}}<ref name="Pop">{{Population GER-NI|03404000|SOURCE}}</ref> |
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| 面積: || 119.8 km² |
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| 人口: || {{ |
| 人口密度: || {{formatnum:{{#expr:{{Population GER-NI|03404000}}/119.8 round 0}}}} 人/km<sup><small>2</small></sup> |
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| 郵便番号: || 49074-49090 |
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| 人口密度: || {{formatnum:{{#expr:{{Population GER-NI| 03404000}}/119.8 round 0}}}} 人/km² |
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| 郵便番号: || 49074-49090 (alt: 4500) |
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| 市外局番: || 0541 |
| 市外局番: || 0541 |
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32行目: | 28行目: | ||
| 自治体コード: || 03 4 04 000 |
| 自治体コード: || 03 4 04 000 |
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| 行政庁舎の住所: || Natruper-Tor-Wall 2<br />49076 Osnabrück |
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| 街区数: || 23 地区 |
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| 市庁舎の住所: || Natruper-Tor-Wall 2<br />49076 Osnabrück<br /> |
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| ウェブサイト: || [http://www.osnabrueck.de/ www.osnabrueck.de] |
| ウェブサイト: || [http://www.osnabrueck.de/ www.osnabrueck.de] |
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| 首長: || ヴォルフガング・グリーゼルト (Wolfgang Griesert)<ref>[https://www.osnabrueck.de/oberbuergermeister.html Stadt Osnabrück: Der Oberbürgermeister](2018年1月20日 閲覧)</ref> |
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| E-Mail: || [mailto:redaktion@osnabrueck.de redaktion@osnabrueck.de] |
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! colspan="2" | |
! colspan="2" | 郡内の位置 |
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| align="center" colspan="2" | [[File:Lower Saxony OS (St).svg|300px]] |
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| 上級市長: || ボリス・ピストリウス (Boris Pistorius) ([[ドイツ社会民主党|SPD]]) |
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| 多数派政党: || [[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]]および[[自由民主党 (ドイツ)|FDP]] |
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| 負債: || 357,170,000 € <small>(2005年12月現在)</small> |
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[[File:Osnabrueck Rathaus 01.jpg|right|300px|thumb|[[ヴェストファーレン条約]]が締結されたオスナブリュック市庁舎]] |
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[[画像:Osnabrück marktplatz.jpg|thumb|right|220px|中心街と市庁舎]] |
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[[File:Osnabrück Friedenssaal.jpg|right|300px|thumb|オスナブリュック市庁舎の平和の間]] |
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[[画像:Stadttheater-OS.JPG|thumb|right|220px|劇場]] |
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[[File:Dom zu Osnabrück.jpg|right|300px|thumb|オスナブリュック聖ペーター聖堂]] |
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[[File:Osnabrück aerial.jpg|right|300px|thumb|オスナブリュック内市街]] |
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'''オスナブリュック''' ({{lang-de|Osnabrück}}, {{IPA-de|ɔsnaˈbrʏk||De-Osnabrück.ogg}}<ref>Duden Aussprachewörter buch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7</ref>, ヴェストファーレン方言: Ossenbrügge, 古低ドイツ語: Osenbrugge<ref>[[#Renner|Renner and Klink]], p.27(2018年1月20日 閲覧)</ref>, {{lang-la|Ansibarium}}) は、[[ドイツ連邦共和国]]ニーダーザクセン州の郡独立市で、同時に[[オスナブリュック郡]]の郡庁所在地である。この大都市はニーダーザクセン州の上級中心都市の1つであり、オスナブリュッカーラントの中心である<ref>[https://www.osnabruecker-land.de/erleben/osnabrueck/ Stadterlebnis & Unternehmungen in Osnabrück](2018年1月20日 閲覧)</ref>。人口16万人を超えるこの街<ref>[https://www.osnabrueck.de/fileadmin/eigene_Dateien/01_osnabrueck.de/011_Rathaus/Statistik/OSaktuell_4_2016_Internet.pdf Osnabrück AKTUELL](2018年1月20日 閲覧)</ref>は、[[ハノーファー]]、[[ブラウンシュヴァイク]]、同規模の[[オルデンブルク]]に次ぐニーダーザクセン州第4の都市である。全人口の約 14 % にあたる約25,000人は大学生が占める。歴史に富んだこの街の創設には古い交易路が交わる地点に面していたことが寄与している。[[中世]]には、オスナブリュックは[[ハンザ同盟|ハンザ]]のヴェストファーレン地域の中心都市となった。 |
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オスナブリュックは、約 50 km 離れた[[ミュンスター]]とともに1648年の[[ヴェストファーレン条約]]締結の地として知られている<ref>[http://www.osnabrueck.de/friedenskultur/kultur-des-friedens/friedensschluss-von-1648.html Stadt Osnabrück: Friedensschluss von 1648](2018年1月20日 閲覧)</ref>。オスナブリュックでは、ヴェストファーレン条約の原則である「使命としての平和 - 平和に対して責任を持つこと」がこの街の文化・行政活動に今も息づいていると言われる。それはこの街のスローガン「オスナブリュック - 平和都市」にも表れており<ref>[http://www.osnabrueck.de/tourismus/wissens-und-sehenswertes/friedensstadt.html Stadt Osnabrück: Friedensstadt](2018年1月20日 閲覧)</ref>、たとえば、オスナブリュック市の[[コーポレート・デザイン]]にも用いられている。 |
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'''オスナブリュック'''('''Osnabrück''' {{IPA-de|ɔsnaˈbʁʏk||De-Osnabrück.ogg}}、<small>ヴェストファーレン語</small>: {{lang|de|Ossenbrügge}})は[[ドイツ]]の[[ニーダーザクセン州]]に位置する同州の代表的な[[都市]]である。16万人強の[[人口]]を有し、これは同州においては[[州都]]である[[ハノーファー]]、[[ブラウンシュヴァイク]]に続く第三の規模にあたる。近隣の都市として、43km南東に[[ビーレフェルト]]、44km南西に[[ミュンスター]]、45km東に[[ライネ]]が位置している。[[1974年]]創立の[[オスナブリュック大学]]がある。 |
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[[ウィーン会議]]の後、オスナブリュックとその周辺で「脱ヴェストファーレン化」が図られた。しかしオスナブリュックに刻まれた[[ヴェストファーレン]]の刻印は現在も[[標準ドイツ語]]を話す地元住民、オスナブリュックおよびその周辺の建築物、郷土料理に色濃く残っている。本市は、780年に創設された{{仮リンク|オスナブリュック司教区|de|Bistum Osnabrück|en|Roman Catholic Diocese of Osnabrück}}の司教座都市でもある。 |
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== 交通 == |
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市から35kmほど離れた地点に[[ミュンスター・オスナブリュック国際空港]]がある。ミュンスターからこの空港へは約25kmである。[[オスナブリュック中央駅]]は[[優等列車]]である[[インターシティ (ドイツ)|インターシティ]]や[[ICE]](少数のみ)が停車する。[[ハンブルク]]や[[ブレーメン]]などと[[ルール地方]]や南ドイツなどを結ぶ南北の線と[[ベルリン]]やハノーファーなどと[[オランダ]]の[[アムステルダム・スキポール空港|スキポール]]などとを結ぶ東西の線とが交差する交通の要衝である。中央駅から市中心部のノイマルクトまでは徒歩10-15分程度である。市内交通では主に[[バス (交通機関)|バス]]が便利である。[[路面電車]]は[[1906年]]に運行が開始されたが、[[1960年]]に廃止された。 |
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オスナブリュックは、[[ヨーロッパ]]の重要な経済軸の交わる点でもある。このため、この街は流通拠点に発展した。さらに重要な自動車産業、金属産業、製紙業の企業が立地している<ref>[[#Städtereport|Städtereport]]</ref>。 |
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== 気候 == |
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西や北西からの[[風]]の影響により[[夏]]は涼しく、[[冬]]は[[雨]]がちではあるがそれほど寒くならない。年間の平均[[気温]]は9.4℃であり、[[1月]]が平均1.8℃で最も寒く、[[7月]]が平均17.6℃で最も暑い。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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=== 位置 === |
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市の南東から北西にかけて{{仮リンク|ハーゼ川|de|Hase (Fluss)|en|Hase}}([[エムス川]]支流)が流れている。市の北側には[[ヴィーエン山地]]の[[ヘーエンツーク山]]が立ちはだかり、南側には[[9年]]に[[トイトブルク森の戦い]]があった[[トイトブルクの森|トイトブルクの森林]]地帯が広がっている。隣接する[[独立市]]はなく、北部、東部、南部で[[オスナブリュック郡]]と、西部で[[ノルトライン・ヴェストファーレン州]]の[[シュタインフルト郡]]と接している。 |
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本市は[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]との州境に面しており、[[ヨーロッパ]]の重要な経済軸の交点にあたる。このためこの街は、重要な流通拠点に発展してきた。 |
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近隣の大都市は、北から時計回りに[[オルデンブルク]]、[[ブレーメン]]、[[ハノーファー]]、[[ビーレフェルト]]、[[ドルトムント]]、[[ミュンスター]]、[[エンスヘーデ|エンスヘデー]]([[オランダ]])がある。 |
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オスナブリュックは、ドイツで唯一の自然公園内にある大都市である。この街は自然・ジオパーク TERRA.vita に囲まれており、一部は市内にまで広がっている。オスナブリュックは、北を{{仮リンク|ヴィーエン山地|de|Wiehengebirge|en|Wiehen Hills}}、南を[[トイトブルクの森]]に挟まれたオスナブリュック丘陵地に位置している。その支脈は市内に直接伸びており、このためオスナブリュックには多くの起伏が見られる。最も高い丘陵が 188 m のピースベルクで、かつての[[炭坑]]と鉱業博物館で知られている。オスナブリュックはおおむね、{{仮リンク|北ドイツ低地|de|Norddeutsches Tiefland|en|North German Plain}}に接するニーダーザクセン山地に位置する。ノイマルク(内市街)の高度は[[海抜]] 64 m、最低地点はピエの{{仮リンク|ハーゼ川|de|Hase (Fluss)|en|Hase}}沿いの海抜 54 m 地点である。市境の総距離は 79.5 km である<ref name="GeographischeLage">[[#Geographische|Geographische Lage]]</ref>。 |
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ヴィーエン山地の北から、北ドイツ低地が始まる。オスナブリュックの北部は、末端堆石と大規模な[[泥炭]]地方および砂地の土地で占められている。 |
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[[File:Osnabrück - Haseuferweg 03.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック市内のハーゼ川の堰]] |
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=== 水域 === |
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オスナブリュックの主要な水域は、ハーゼ川とその支流のデューテ川である。ハーゼ川は東から市内リュストリンゲン市区に流れ込み、中心部を通って、北西の市境にあたるピエ市区から市の外へ流れ出している。ハーゼ川は水利経済的重要度区分では2級河川にあたる。2010年の春に豪雨と雪解け水によりオスナブリュックの大きな川で水位上昇が起こった。いくつかの市区と隣接する市町村で氾濫が起こるほど増水した。ハーゼ川と平行に設けられたオスナブリュック・シュティヒ運河は、全長約 14.5 km の人工の連邦水路で、オスナブリュックのハーフェン市区の港で{{仮リンク|ミッテルラント運河|de|Mittellandkanal|en|Mittelland Canal}}と接続している。。2つの重要な湖が、エーファーブルク市区のルベンブルーフ湖とアッター市区のアッター湖である。ルベンブルーフ湖は散策やジョギングに利用され、夏には釣りや青少年活動に人々が訪れる。アッター湖はキャンプ場やレジャースポットとなっている。また、市内唯一の水浴可能な湖である。小さな湖としては、ヴュステ市区のパッペル湖やヴュステン湖、グレテシュ市区のボルンハイデ湖がある<ref>[[#Erholungswegekonzept|Erholungswegekonzept]]</ref>。 |
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=== 市の構成 === |
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オスナブリュック市の面積は 119.8 km<sup><small>2</small></sup> である<ref name="OffizielleFläche" />。公式な人口は {{formatnum:{{Population GER-NI|03404000}}}}人で、人口密度は {{formatnum:{{#expr:{{Population GER-NI|03404000}}/119.8 round 0}}}} 人/km<sup><small>2</small></sup>({{Population GER-NI|03404000|DATE}}現在)である<ref name="Pop" />。 |
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オスナブリュックの市域は23市区 ({{lang-de|Stadtteil|link=no}}) に分けられ、通し番号がつけられている。市区の名称は、歴史的な地名や地理的条件に基づいて命名されている。一部では、古くは多くの集落に分かれていた範囲が1つの市区にまとめられている箇所もある。各市区は、統計上の管区 ({{lang-de|Statistischer Bezirk|link=no}}) をなしており、3桁の番号を与えられている。 |
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23市区とその公式の番号を以下に示す。 |
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| width="300" valign="top" | |
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* 01 インネンシュタット(内市街) |
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* 02 ヴェストシュタット |
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* 03 ヴェスターベルク |
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* 04 エーファースブルク |
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* 05 ハーフェン |
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* 06 ゾンネンヒューゲル |
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* 07 ハステ |
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* 08 ドーデスハイデ |
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* 09 ガルトラーゲ |
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* 10 シンケル |
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* 11 ヴィドゥキントラント |
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* 12 シンケル=オスト |
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| width="300" valign="top" | |
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* 13 フレッダー |
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* 14 シェーラーベルク |
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* 15 カルクヒューゲル |
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* 16 ヴュステ |
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* 17 ズットハウゼン |
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* 18 ヘレルン |
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* 19 アッター |
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* 20 ピエ |
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* 21 ダルム/グレテシュ/リュストリンゲン |
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* 22 ヴォックストルプ |
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* 23 ナーネ |
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| valign="top" | |
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[[File:Osnabrueck stadtteile.png|right|360px|オスナブリュック市区図]] |
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|} |
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それぞれの市区は、歴史の中で固有のキャラクターを発展させてきた。たとえば、内市街、ハーフェン、フレッダーでは小売業、商業、工業が定着しているが、ヘレンやヴィドゥキントラントは大部分が核家族の古典的な住宅街となっている。内市街の西部は建て込んだ住宅地で古い建物やアパートが多い。ヴェスターベルク方面には中産階級のクライアントが住み、ヴュステやヴェストシュタットには学生、若い家族、独居者が住んでいる。市境付近は一部田舎の風情であるが、シンケル、シンケル=オスト、エーファースブルクは労働者地区として歴史に関与している。 |
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=== 隣接する市町村 === |
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オスナブリュックは、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]との州境に位置している。隣接する市町村の大部分は[[ニーダーザクセン州]]の[[オスナブリュック郡]]に属すが、ノルトライン=ヴェストファーレン州{{仮リンク|テックレンブルガー・ラント|de|Tecklenburger Land}}({{仮リンク|シュタインフルト郡|de|Kreis Steinfurt|en|Steinfurt (district)}})の{{仮リンク|ロッテ (ヴェストファーレン)|label=ロッテ|de|Lotte (Westfalen)|en|Lotte, Germany}}とも境を接している。これら市町村はオスナブリュック大都市圏に含まれる。オスナブリュックは、経済・サービスの中心都市として比較的高い通勤者収支を示している<ref>[http://www.insm-staedteranking.de/2012_niv_d_pendlersaldo.html Das Städteranking 2012 - Niveauranking, sortiert nach Pendlersaldo](2018年1月21日 閲覧)</ref>。 |
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オスナブリュックの市場範囲の人口は100万人近い。オスナブリュック大都市圏は約 277,900人を擁している<ref>[http://www.citypopulation.de/php/germany-agglo_d.php?cityid=A03404000 City Population - Osnabrück (Niedersachsen / Nordrhein-Westfalen, Urbane Agglomerationen, Deutschland) - Einwohnerzahlen, Grafiken, Karte, Lage, Wetter und Web-Informationen](2018年1月21日 閲覧)</ref>。 |
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=== 気候 === |
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オスナブリュックは、暖かく穏やかな気候域に位置している。このため、市内にある 1900[[ヘクタール]]の森林は、主に[[広葉樹]][[混交林]]である。 |
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夏涼しく、冬温暖で、雨の多い気候を運ぶ西風および北西風が主である。気候条件は変わりやすい。長期平均の年間平均気温は 9.8 ℃、最も寒い月は1月で 2.0 ℃、最も暖かいのは7月の 18.1 ℃である<ref name="Wetter">[[#Wetterdienst|Deutscher Wetterdienst]]</ref>。冬は、東ドイツや南ドイツに比べてやや温暖で、夏は涼しいが、土砂降りの雨だけでなく、長雨にもなる。 |
|||
オスナブリュックの平均年間降水量は 861 mm<ref name="Wetter" /> と比較的多く、連邦平均 (830 mm/年)<ref>[https://web.archive.org/web/20131203033942/http://www.faktor-t.de/neu/magento/Niederschlagsmengen Niederschlagsmengen in der Bundesrepublik Deutschland](2018年1月21日 閲覧)</ref>よりも多い。冬と夏の降水量はほぼ同レベルである。降水日は年間平均 122日である<ref>[http://www.sonnenlaender.de/deutschland/klima-deutschland/klimatabellen-Osnabr%C3%BCck/ Klimatabelle Osnabrück - Deutschland und Klimadiagramm Osnabrück](2018年1月21日 閲覧)</ref>。 |
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{{Weather box |
|||
|collapsed= |
|||
|open= |
|||
|metric first= yes |
|||
|single line= yes |
|||
|location = オスナブリュック |
|||
|Jan mean C= 2.0 |
|||
|Feb mean C= 2.3 |
|||
|Mar mean C= 5.5 |
|||
|Apr mean C= 9.1 |
|||
|May mean C= 13.4 |
|||
|Jun mean C= 15.8 |
|||
|Jul mean C= 18.1 |
|||
|Aug mean C= 17.8 |
|||
|Sep mean C= 14.2 |
|||
|Oct mean C= 9.9 |
|||
|Nov mean C= 5.9 |
|||
|Dec mean C= 3.0 |
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|year mean C= |
|||
|Jan precipitation mm= 88.0 |
|||
|Feb precipitation mm= 62.0 |
|||
|Mar precipitation mm= 71.0 |
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|Apr precipitation mm= 47.0 |
|||
|May precipitation mm= 60.0 |
|||
|Jun precipitation mm= 68.0 |
|||
|Jul precipitation mm= 78.0 |
|||
|Aug precipitation mm= 81.0 |
|||
|Sep precipitation mm= 71.0 |
|||
|Oct precipitation mm= 74.0 |
|||
|Nov precipitation mm= 76.0 |
|||
|Dec precipitation mm= 85.0 |
|||
|year precipitation mm= |
|||
|Jan sun= 46.0 |
|||
|Feb sun= 73.0 |
|||
|Mar sun= 109.0 |
|||
|Apr sun= 164.0 |
|||
|May sun= 203.0 |
|||
|Jun sun= 190.0 |
|||
|Jul sun= 207.0 |
|||
|Aug sun= 189.0 |
|||
|Sep sun= 138.0 |
|||
|Oct sun= 104.0 |
|||
|Nov sun= 52.0 |
|||
|Dec sun= 37.0 |
|||
|source 1 = ドイツ気象庁<ref name="Wetter" /> |
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=== 市の概要 === |
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本市には、[[オスナブリュック大学]]、オスナブリュック単科大学(応用科学大学)、[[カトリック教会|ローマ=カトリック]]の{{仮リンク|オスナブリュック司教区|de|Bistum Osnabrück|en|Roman Catholic Diocese of Osnabrück}}(司教座都市)、{{仮リンク|ハノーファー福音主義ルター派地方教会|de|Evangelisch-lutherische Landeskirche Hannovers|en|Evangelical-Lutheran Church of Hanover}}のオスナブリュック管区、ドイツ連邦環境財団、ドイツ平和学会の所在地である。 |
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[[File:Ledenhof Osnabrueck.jpg|right|220px|thumb|レーデンホーフ]] |
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オスナブリュックは、780年に[[カール大帝]]によって司教座として創建された。1648年に[[ミュンスター]]とオスナブリュックの市庁舎で[[ヴェストファーレン条約]]が締結された。この事から本市は「平和都市」を称している。2002年4月からレーデンホーフがドイツ平和学会の本部となった。オスナブリュックは1669年まで[[ハンザ同盟|ハンザ都市]]であり、1980年から{{仮リンク|新ハンザ同盟|de|Neue Hanse}}に加盟して、2006年には第26回{{仮リンク|新時代のハンザの日|de|Hansetag der Neuzeit|en|Hanseatic Days of New Time}}のホスト都市となった<ref>[http://www.kramp-lemgo.de/aktuell/presse-veroeffentlichungen/detail/article/28-internationale-hansetage-in-osnabrueck.html 28. Internationale Hansetage in Osnabrück](原著は Lippische Wochenschau 2006年7月10日付け。)(2018年1月22日 閲覧)</ref>。 |
|||
オスナブリュック市の人口は1940年に10万人を超え、大都市の仲間入りをした。 |
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内市街の景観は教会(聖カタリーネン教会、塔の高さは 103.5 m)によって特徴付けられている。内市街の北部、聖ペーター大聖堂とヘーガー門との間に、ヴェストファーレン条約が締結された市庁舎を含む旧市街が広がっている。ここには、1813年/1814年に建設されたテンゲ邸をはじめとする[[古典主義建築|古典主義様式]]の建物が多くある。テンゲ邸では、鉄鋼業者のユルゲン・グロースマンがレストランを営んでいる。旧市街には[[ロココ建築|ロココ様式の建物]]や、木組み建築が遺っている。こうした木組みの建物には1690年に建設されたホテル・ヴァルハラが含まれる。 |
|||
ヴェストファーレン条約の市庁舎や聖マリエン教会がある三角形のマルクト広場は、[[中世]]の雰囲気を醸し出している。オスナブリュックには約150棟の[[ロマネスク建築|ロマネスク様式]]や[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の石造建築があったことがわかっており、現在も多くが良好な状態で遺されている。その数はドイツの他の都市よりも多い。このためオスナブリュックは「石造建築の首都」とも呼ばれている。特に印象的なのが、[[バロック建築|バロック様式]]の旧大司教城館の向かいにある石造建築の宮殿、レーデンホーフである。ドームホーフ(聖堂広場)には、1909年に建設された[[ユーゲントシュティール|ユーゲントシュティール様式]]のテアター・オスナブリュックがある。ノイシュタット(新市街)のルター教会もユーゲントシュティール様式の装飾が施されている。この教会は、後期ゴシック様式の[[ハレンキルヒェ]]である前述の聖カタリーネン教会の娘教会として建設された。歴史上重要なのが旧ドミニコ会修道院で、その教会は現在文化ホールとして利用されている。 |
|||
[[File:Marktplatz Osnabrueck.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュックのマルクト広場]] |
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内市街中央部の歩行者専用地区は旧市街につながっており、メインのショッピングストリート(グローセ通りとヨハニス通りの前半部)を形成している。ここでは、戦争を切り抜けた数棟の建物の他は近代的な目的建築が多い。旧市街と新市街との間(内市街南部)にノイマルクト(直訳すると「新市場」)がある。かつて街の中心的なマルクト広場(市場が開かれる広場)だったこの場所は、4車線の道路によって分断され、交通の要として中央バスステーションが設けられている。2011年まで歩行者はノイマルクトを横断するのに、路面を通るだけでなく地下通路も設けられていた。2005年に新たな外観に改造され、この通路は閉鎖され、現在は大きな建物が造られている。市は、この建築法上橋とされている建造物に莫大な維持管理費を費やすことを是としなかったのである。ノイマルクトの北側、ヴィテキント通りやベルリナー通り方面にはサービス業や金融業分野の企業があり、近代的な建築構造とガラスのファサードを見せて建ち並ぶ。新市街では、旧聖ヨハン修道院教会周辺に古い建物が遺っている。聖ヨハン教会の旧教会広場には保護文化財に指定された、地下トイレの吸排気を行う排気筒がある。この広場の南にはかつてのノイシュタット市庁舎がある。 |
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内市街は、腎臓型の環状道路に囲まれており、自動車道となっている。この「ヴァル」(「[[土塁]]」を意味する)から、通りが放射状に伸びている。7つの塔、土塁、2つの市壁を境界とする環状道路は、古い都市防衛施設の名残である。 |
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現在の「ヴァル」は、時計回りにハーゼトーアヴァル、ナトルパー=トーア・ヴァル、ヘーガー=トーア・ヴァル、シュロスヴァル、ヨハニストーアヴァル、ペータースブルガーヴァル、コンラート=アデナウアー=リング、ゲーテリング、エーリヒ=マリア=レマルク=リングからなっている。 |
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中心近くには、ダニエル・リーベスキントが設計したドイツ連邦環境財団やフェリックス=ヌスバウム=ハウスといった建築工学上興味深い近代建築が建っている。新旧建築を結び合わせたのがヴィーツィシャンツェで、これは古い都市防衛施設の上に近代建築が建てられている。2007年までカジノの一部が入居していた。その後は、オスナブリュック単科大学のインダストリアルデザインコースがこの建物を利用している。 |
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[[File:Osnabrück Iduna-Hochhaus Westseite.jpg|right|160px|thumb|イドゥナ=ホーホハウス]] |
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中心部の住宅地は大部分が主に4階建てから5階建ての集合住宅だが、ところによっては、戸建ての家(たとえばグローセ通り43番地)や邸宅(ヴェスターベルク)もある。中心部からやや離れると建物は、3階建てのラインハウスなどに移り変わる。大きな集合団地は珍しい。高層ビルはベルリナー通り周辺にあり、ほとんどがオフィスとして使われている。最も高いビルは1970年代前半に建てられた20階建てのイドゥナ=ホーホハウスである。現在のインドゥナ=ホーホハウスの場所にはかつて、化学者でザルツベルゲン精製所を起業したヴィルヘルム・レペナウの邸宅があった<ref>''Wo einst die Lepenau-Villa stand.'' In: Neue Osnabrücker Zeitung. 2010年12月29日付け 第18面</ref>。 |
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市の中核部の近くまであらゆる方向から緑地や森が迫っており、レジャー地として利用されている。1920年代に当時の都市建設監督レーマンによって「緑の指」というコンセプトが打ち出され、これに従って森や近郊保養地が「緑の肺」として中核市区近くまで保持された。現在の土地利用計画でも、気候保護の観点に基づき「緑の指」は尊重されている。オスナブリュックは自然公園内にあるドイツ最大の都市である。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 名称 === |
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オスナブリュックは[[780年]]に[[カール大帝]]によって[[司教座]]が置かれて以降、発展した都市である。地名の由来はハーゼ川の古名、オスナに「橋」を意味する「ブリュック」がついた。[[1648年]]にはオスナブリュックとミュンスターにおいて、[[三十年戦争]]の講和会議が行なわれ、[[ヴェストファーレン条約]](日本では一般的にウェストファリア条約と呼ばれる)が締結された。これに由来し、オスナブリュックは「平和都市・オスナブリュック」を名乗っている。[[1669年]]には[[ハンザ同盟]]都市となった。[[1661年]]、[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]はこの地の統治者となり、後に[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]になった。息子の[[イギリス]]王兼ハノーファー選帝侯[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]は、[[1727年]]にオスナブリュックで亡くなった。 |
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最も古い表記 ''Osenbrugge'' は、[[北欧]]の神の一族である ''Asen'' あるいは ''Osen'' に由来するもので、「神の橋」と翻訳できるものと推測される。また、名称研究家ユルゲン・ウードルフの説のように、''Osna'' (あるいはこれに類する名称)はかつて{{仮リンク|ハーゼ川|de|Hase (Fluss)|en|Hase}}の一部に対する名称であり、後に川の名称はハーゼ川に統一されたものの、オスナブリュックの地名にはそれが遺されたと推測することもできる。 |
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ヘルマン・イェリングハウズの研究によれば、ハーゼ川沿いの新石器時代の入植地に旧市街が造られた。元々 ''Aha'' あるいは ''Aue''(川辺の草地)から ''Ahusen'' あるいは ''Ohusen''、これを短縮して ''Ohsen'' と呼ばれていたとしている。オスナブリュックの著述家ルートヴィヒ・ベーテはその著作「オスナブリュック市年代記」の中で、''Ochsen''(雄牛)にあたるヴェストファーレン語の ''Ossen'' をこの街の名称の前半部の語源と考える(ハーゼ川を渡る徒渉地があり、農民がここで牛の放牧を行っていた。その後ここに橋が架けられた)のは適切でないと述べている。なぜなら、都市の名前が創設してから数世紀も後に命名されるのは不自然だと考えるからである。 |
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[[第二次世界大戦]]では[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]により計79回もの[[空襲]]を受けた。最初の大規模な空襲は[[1942年]]6月20日で、[[英国]]により、9000発の[[焼夷弾]]を投下された。同年10月6日には同じく英国が計1万1000発の破裂弾と焼夷弾を投下した。[[1944年]]9月13日には2171発の破裂弾と18万1000発の焼夷弾が投下され、市内の歴史的な建造物のほとんどは壊滅的な損傷を受けた。さらに、同年10月13日には2616発の破裂弾と1万6000発の焼夷弾が投下された。空襲による[[市民]]の死傷も多く、多い時では[[米国]]の1日の空襲により、241人の死亡者が出た。また、これらの空襲によって、市域の65%、歴史地区の94%が破壊された。 |
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[[File:Osnabrück Herrenteichswall.JPG|right|220px|thumb|オスナブリュックの市壁跡、ヘレンタイヒスヴァル]] |
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=== 中世 === |
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オスナブリュックは、[[780年]]頃に[[カール大帝]]によって創設された[[司教|司教座]]の市場町として発展した。カール大帝は[[804年]]にカロリヌムも設立しており、この年号で最も古い[[ギムナジウム]]の1つとされている。しかし、これを裏付ける文書はおそらく、[[中世]]初期の[[偽書]]である。[[神聖ローマ帝国]]内では、オスナブリュックは[[1803年]]まで同名の司教領に属した。最も古い[[都市法]] ''die Sate'' は[[1348年]]に成立した。その伝統に基づき、現在も「ハントギフテンターク」という祝日が設けられている。最初の都市法が成立した頃にライシャフト(中世後期の自治組織)も成立したが、このうちヘーガー・ライシャフトとヘレンタイヒスライシャフトが現存している。 |
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[[13世紀]]初めにブックス塔が監視塔として市壁沿いに設けられた。塔内には市の牢獄が設けられた。この頃に、最初のヘーガー門も建設された。この塔、門、稜堡、空堀、通路からなる防衛施設は取り壊されたが、1815年に「ワーテルロー門」として再建された。ただしこの呼称は浸透していない。この門はヘーガー地区へ通り抜けるエリアにあることから、引き続き「ヘーガー・トーア」(ヘーガー門)と呼ばれている。 |
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== スポーツ == |
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[[VfLオスナブリュック]]が、オスナブリュックを代表する[[サッカー]]クラブである。近年は、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|サッカー・ブンデスリーガ]]2部への昇格と地域リーグへの降格を繰り返している。 |
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聖マリエン教会の、先行する最初の建物であるロマネスク様式の教会は、島状の砂山の上に10世紀に建設された。続く11世紀には2代目となる教会堂が建設された。現在のゴシック様式の教区・市場教会聖マリエン教会は13世紀に建設が始まり、[[1430年]]から[[1440年]]に完成した。[[三十年戦争]]終結後、立派な建物が[[福音主義]]教会に与えられた。 |
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== メディア == |
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日刊の[[一般紙]]として、[[1967年]]より、[[新オスナブリュック新聞]](Neue Osnabrücker Zeitung)が発行されている。 |
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'''ハンザ''': オスナブリュクの商人は、[[ブレーメン]]や[[ハンブルク]]、さらに13世紀末からは[[フリースラント]]、[[オランダ]]、[[リューベック]]とも交易を行った。本市は[[1412年]]に[[ハンザ同盟]]に加盟し、商業政治上の一大勢力であるハンザの大量の交易により利益を得た。オスナブリュックの商人は[[ノヴゴロド]]の{{仮リンク|ペーターホーフ商館|de|Peterhof (Nowgorod)}}の設立に関与した。オスナブリュックはハンザのヴェストファーレン地区の主要都市の1つとなった<ref>[[#ドランジェ|ドランジェ]], p. 130</ref>。独立運動を背景にオランダや[[イングランド]]との交易が衰退したため、南ドイツや北イタリアへの販路が開拓された。[[1606年]]、オスナブリュックのヨハン・ドーマンはハンザの最後の債権者代表に任命された。また、オスナブリュックは[[1669年]]の最後のハンザ総会に代表を派遣した9都市の1つであった<ref>[[#ドランジェ|ドランジェ]], p. 381</ref>。 |
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== 研究・教育 == |
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*[[オスナブリュック大学]] |
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[[1477年]]から[[1504年]]まで、エルトヴィン・エルトマンがこの街の初代市長を務めた。[[1487年]]から[[1512年]]までの間に後期ゴシック様式のオスナブリュック市庁舎が建設された。 |
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== 主要観光資源 == |
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*オスナブリュック[[市庁舎]] |
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*[[オスナブリュック大学]]・・本部棟はかつての[[城]]である。よく整備された[[庭園]]もある。 |
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*オスナブリュック[[大聖堂]] |
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*聖ヨハン[[教会]] |
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*聖カタリーネン教会 |
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*聖マリエン教会 |
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*オスナブリュック[[劇場]] |
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*オスナブリュック[[植物園]] |
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*オスナブリュック[[動物園]] |
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*[[フェリックス・ヌスバウム]]ハウス |
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'''魔女裁判''': オスナブリュックにおける[[魔女狩り]]のピークは[[1561年]]から[[1639年]]の間であった。市長ハンマッハーが治めていた時代にあたる1582年に163人の女性が魔女の疑いを受けて逮捕され、そのほとんどが[[火刑]]に処された。市長ペルスター統治下の1636年から1639年には、40人以上の女性が魔女として亡くなっている。魔女裁判では、合わせて276人の女性と2人の男性が魔術使いとして逮捕された。オスナブリュク市議会は2012年9月25日に魔女裁判の犠牲者の名誉回復を宣言した。 |
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== オスナブリュック出身の人物 == |
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[[File:Stadtplan von Osnabrück - Wenzel Hollar - 1633.jpg|right|220px|thumb|1633年のオスナブリュック古地図]] |
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{{main|Category:オスナブリュック出身の人物}} |
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=== 1600年から1800年 === |
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*[[エーリヒ・マリア・レマルク]] : 作家。代表作『[[西部戦線異状なし]]』([[1929年]])。 |
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1632年に設立された、ギムナジウム・カロリヌムを起源とするユダヤ人大学は、[[スウェーデン]]のオスナブリュック司教領総督{{仮リンク|グスタフ・グスタフソン|de|Gustav Gustavson|en|Gustav of Vasaborg}}によって[[1633年]]に廃止された。[[1643年]]から[[1648年]]まで、この街と[[ミュンスター]]とにおいてヴェストファーレン条約の交渉が行われた。オスナブリュックは[[三十年戦争]]の動乱でほとんど被害を受けておらず、このため[[ヴェストファーレン条約|平和条約]]交渉の街に選ばれた。 |
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*[[ペーター・ファン・ペルス]] : [[アムステルダム]]で[[アンネ・フランク]]の一家と共にしていた[[ユダヤ人]]の少年。 |
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*[[オーラフ・ショルツ]] : 政治家([[SPD]])。2007-2009年に[[アンゲラ・メルケル]]内閣の労働・社会保障相。 |
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*[[クリスティアン・ヴルフ]] : 政治家([[CDU]])。2003年よりニーダーザクセン州知事、2010年より第10代ドイツ連邦大統領。 |
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*[[フェリックス・ヌスバウム]] : 画家。市内に[[ダニエル・リベスキンド]]によるフェリックス・ヌスバウム美術館がある。 |
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*[[ジェントルマン (歌手)|ジェントルマン]] : [[レゲエ]]・ミュージシャン |
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この頃オスナブリュックは、[[帝国自由都市]]の地位を得ようと努力を重ねたが、いずれも失敗に終わった。''Cuius regio, eius religio'' の原則(「信仰属地主義」、領主の信仰する宗教が、その支配地の宗教となること)に関して、オスナブリュックは特殊なケースであった。世俗化に至るまで、領主が死亡するごとに新たな司教領主の信仰が替わってしまう状況であった。[[1650年]]の ''Capitulatio Perpetua'' の規定によりカトリックと司教領主福音主義の領主([[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]])が入れ替わり統治したのである。家臣の信仰はこれにより制約されなかった。{{仮リンク|オスナブリュック司教領|de|Hochstift Osnabrück|en|Prince-Bishopric of Osnabrück}}は、現在のドイツの領域内で最初の宗教並立の[[領邦]]であった。 |
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== 姉妹都市 == |
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*{{flagicon|Netherlands}} [[ハールレム]]、[[オランダ]] (1961年から) |
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*{{flagicon|France}} [[アンジェ]]、[[フランス]] (1964年から) |
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*{{flagicon|Austria}} [[グミュント]]、[[オーストリア]] (1971年から) |
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*{{flagicon|United_Kingdom}} [[ダービー (イギリス)|ダービー]]、[[イギリス]] (1976年から) |
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*{{flagicon|Germany}} [[グライフスヴァルト]]、[[ドイツ]] (1988年から) |
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*{{flagicon|Russia}} [[トヴェリ]]、[[ロシア連邦]] (1991年から) |
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*{{flagicon|USA}} [[エバンズビル (インディアナ州)|エバンズビル]]、[[インディアナ州]]、アメリカ合衆国 (1991年から) |
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*{{flagicon|South Korea}} [[光明市]]、[[韓国]] (1997年から) |
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*{{flagicon|Turkey}} [[チャナッカレ]]、[[トルコ]] (2004年から) |
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*{{flagicon|Portugal}} [[ヴィラ・レアル]]、[[ポルトガル]] (2005年から) |
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*{{flagicon|China}} [[合肥市]]、[[中国]] (2006年から) |
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*{{flagicon|Israel}} [[アフォーラ]]、[[イスラエル]] |
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バロック様式のオスナブリュック城は[[17世紀]]後半に建設された。この城は、プロテスタントの領主[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト1世フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]の居城であった。 |
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== 引用 == |
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[[File:Pfenning Osnabrück Av.JPG|right|160px|thumb|1805年にオスナブリュックで鋳造された1プフェニヒ硬貨]] |
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{{reflist}} |
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=== 1800年から1945年 === |
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[[1803年]]の[[帝国代表者会議主要決議]]に基づく教会領の世俗化とオスナブリュック司教領の俗界諸侯領への移行により、本市は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]となったが、1803年に[[フランス軍]]によって占領された。本市の最後の少額貨幣(1ヘラー、1, 1.5, 2, 3 プフェニヒ・コイン)は、1805年に鋳造された<ref>Gerhard Schön, Deutscher Münzkatalog 18. Jahrhundert, Osnabrück, Nr. 11-15</ref>。オスナブリュックは[[1806年]]に短期間だけ[[プロイセン王国]]に属した。[[1807年]]には[[フランス皇帝]][[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が創設した[[ヴェストファーレン王国|ヴェストファーレン王国領]]となり、[[1810年]]12月10日に[[フランス第一帝政|フランス帝国領]]となった。オスナブリュックは[[1811年]]から[[1813年]]までハンザ4県の1つである、オーバー・エムス県の主邑となった。その範囲は、南に約 30 km、北、東、西はそれぞれ約 50 km におよんだ。[[1814年]]春の[[ナポレオン・ボナパルト]]失脚後、オーバー=エムス県の大部分は、1814年10月の[[ウィーン会議]]に基づいて創設された[[ハノーファー王国]]に属すこととなった。ナポレオンの[[百日天下]]を終わらせた[[1815年]]6月18日の[[ワーテルローの戦い]]には約 400人のオスナブリュック兵が参加した。この兵士らを讃えてゲルハルト・フリードリヒ・フォン・ギューリヒはヘーガー・トーアにワーテルロー門を建造し、以下の銘を刻んだ:「1815年6月18日にドイツの勇気を示したオスナブリュックの戦士たちにこの記念碑を捧げる。G. F. v. Gülich D.R.D.R.」 |
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[[1866年]]の[[普墺戦争]]の結果、オスナブリュックを含むハノーファー王国はプロイセンのハノーファー州とされた。本市は[[1885年]]にオスナブリュック県の主邑となった。この状態は、1977年の地域再編でオルデンブルクを主邑とする{{仮リンク|ヴェーザー=エムス行政管区|de|Regierungsbezirk Weser-Ems|en|Weser-Ems}}が設けられ、オスナブリュックはその支部所在地とされるまで続いた。2005年1月1日にニーダーザクセン州のすべての行政管区は廃止された。これにより、オスナブリュックは郡独立市とされ、同名の郡の郡庁所在地となった。 |
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[[File:Osnabrück1.jpg|right|220px|thumb|1900年のオスナブリュックの絵はがき]] |
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2つの余暇団体「アンティポディア・オスナブリュック」と「ミネルヴァ・オスナブリュック」から、[[1899年]]4月17日に「FC 1899 オスナブリュック」が設立された。後にこのクラブを起源として、この地域最大で最も重要なスポーツクラブ「[[VfLオスナブリュック]]」が創設された。 |
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オスナブリュック内市街では、[[1910年]]にグローセ通り 34番地に「モードハウス・アルスベルク」が開店した。この店は、[[1920年代]]の黄金期のモードで大人気となった。しかし、オーナーが[[ユダヤ人]]であったため、[[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]]による[[ナチ党の権力掌握|権力掌握]]の2年後の[[1935年]]に強制的に閉店させられた。それ以前に、この店に買い物に来たすべての顧客は写真を撮られ、公共の掲示板でさらし者にされた。 |
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[[File:1st Special Service Brigade 4 April 1945.jpg|right|220px|thumb|1945年4月4日、オスナブリュックのイギリス兵]] |
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[[第二次世界大戦]]では連合国により計79回もの[[空襲]]を受けた。最初の大規模な空襲は1942年6月20日で、[[イギリス軍]]により9000発の焼夷弾を投下された。同年10月6日には同じくイギリス軍が計1万1000発の[[破裂弾]]と[[焼夷弾]]を投下した。1944年9月13日には2171発の破裂弾と18万1000発の焼夷弾が投下され、市内の歴史的な建造物のほとんどは壊滅的な損傷を受けた。さらに、同年10月13日には2616発の破裂弾と1万6000発の焼夷弾が投下された。空襲による市民の死傷も多く、多い時では米国の1日の空襲により、241人の死亡者が出た。また、これらの空襲によって、市域の65%、歴史地区の94%が破壊された。当時につけられた空爆の跡は、現在も遺されている<ref>[https://www.untergrundosnabrueck.de/chronik.html Osnabrück im 2. Weltkrieg - Untergrund Osnabrück](2018年1月25日 閲覧)</ref>。 |
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=== 1945年以後 === |
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==== 占領時代とイギリス兵舎 ==== |
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戦後、オランダによる本市併合の{{仮リンク|バッカー=シャット計画|de|Niederländische Annexionspläne nach dem Zweiten Weltkrieg|en|Dutch annexation of German territory after World War II#Bakker Schut Plan}}が立案されたが、[[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]の抵抗により実現しなかった。終戦直後[[イギリス陸軍ライン軍団]]の占領軍がオスナブリュックに駐留した。その後オスナブリュック駐屯地の敷地はどんどん拡大していった。やがてオスナブリュックは、イギリス国外最大のイギリス軍駐屯地となった。イギリス兵とその家族はオスナブリュック市民にとって数十年の間見慣れた故郷の風景の一部となった。[[1989年]]と[[1996年]]に、オスナブリュックのエーファースブルク地区にあるイギリス軍ケベック兵舎で[[アイルランド]]の地下活動組織 [[アイルランド共和軍|IRA]] による[[テロリズム|テロ]]が起こった。この事件により多大な物的被害が生じた<ref>Arne Köhler: [https://www.osnabrueck.de/fileadmin/eigene_Dateien/2008_25-09-_NOZ_RentnerrettetSoldaten.pdf Tapferer Rentner rettet Soldaten - Britische Garnison in Osnabrück wird 1989 und 1996 Ziel von IRA-Anschlägen](2018年1月26日 閲覧)</ref>。[[国防省 (イギリス)|イギリス国防省]]は、[[2005年]]、組織改編に伴ってオスナブリュック駐屯地を完全に廃止することを決定した。撤退はその後数年かけて徐々になされた。最後のイギリス駐留軍司令官マーク・カトバート=ブラウン大佐は[[2009年]]3月31日にオスナブリュックを離れた<ref>[https://www.osnabrueck.de/fileadmin/eigene_Dateien/2009_01-04-_NOZ_EndeeineslangenAbschieds.pdf Ende eines langen Abschieds Britische Garnison gestern offiziell aufgelöst](2018年1月26日 閲覧)</ref>。 |
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==== 戦後復興とさらなる発展 ==== |
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破壊されていたオスナブリュック市庁舎が、ヴェストファーレン条約公布300周年にあたる[[1948年]]に再開された。ドームホーフの市立劇場の再建は[[1950年]]に完成した。 |
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オスナブリュックは[[1960年]]に[[路面電車]]を廃止した。公共旅客交通は完全に市バスに委ねられた<ref>[http://www.osnabahn.de/strasenbahn-osnabruck/ Straßenbahn Osnabrück – osnabahn.de](2018年1月26日 閲覧)</ref>。ノイマルクトの歩行者トンネルは[[1964年]]に開通し、[[2013年]]に閉鎖された<ref>Sebastian Stricker: [https://www.noz.de/lokales/osnabrueck/artikel/4427/osnabrucker-neumarkttunnel-wird-ab-montag-abgebrochen#gallery&0&0&4427 Osnabrücker Neumarkttunnel wird ab Montag abgebrochen], Neue Osnabrücker Zeitung 2013年5月30日付け(2018年1月26日 閲覧)</ref>。[[1968年]]に[[欧州旗]]がオスナブリュックに授与された<ref>[https://www.osnabrueck.de/rat/staedtepartnerschaften/ereignisse.html Verleihung der Europafahne und der Ehrenplakette des Europarates - Stadt Osnabrück](2018年1月26日 閲覧)</ref>。 |
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オスナブリュック専門単科大学は[[1971年]]に設立され、[[2010年]]にオスナブリュック単科大学に改名された。新しい[[オスナブリュック大学|オスナブリュック総合大学]]は[[1974年]]に授業を開始した。 |
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[[1979年]]にオスナブリュック市立ホール(現在のオスナブリュックハレ)が開館した。[[1980年]]、市と司教は建都1200年を祝った。[[1990年]]に設立されたドイツ連邦環境財団はオスナブリュックに本部を置いた。[[1995年]]ナトルパー通りに新しい本部が建設された。 |
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[[File:FelixNussbaumHaus.jpg|right|220px|thumb|フェリックス=ヌスバウム=ハウス]] |
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{{仮リンク|フェリックス=ヌスバウム=ハウス|de|Felix-Nussbaum-Haus|en|Felix Nussbaum Haus}}は[[1998年]]に開館した。この美術館は180点以上の{{仮リンク|フェリックス・ヌスバウム|de|Felix Nussbaum}}の作品を収蔵しており、このオスナブリュックの芸術家最大のコレクションとなっている。この美術館はアメリカの建築家[[ダニエル・リベスキンド]]の設計に基づき、オスナブリュック文化史博物館の増築部分として建設された。 |
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1998年のヴェストファーレン条約公布350年祭は、何ヶ月にもわたって開催され、ニーダーザクセン州首相もこの街に訪れた。[[1999年]]には、芸術家{{仮リンク|フリードリヒ・フォルデンベルゲ=ギルデヴァルト|de|Friedrich Vordemberge-Gildewart|en|Friedrich Vordemberge-Gildewart}}の生誕100年を2回の展示会で祝福した。[[2000年]]には国際博覧会 [[ハノーヴァー万国博覧会|Expo 2000]] の外部開催地となった。 |
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=== 町村合併 === |
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以下の町村がオスナブリュックに合併した。 |
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* 1914年: シンケル |
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* 1940年: ハステ |
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* 1970年: ズットハウゼン |
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* 1972年7月1日<ref>[[#Statistik|Historisches Gemeindeverzeichnis]], p. 252</ref>: アッター、ダルム、グレテシュ、ヘレルン、リュストリンゲン、ナーネ、ピエ、ヴォックストルプ |
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谷に位置することや、地理的にノルトライン=ヴェストファーレン州に近いことなどから、オスナブリュックに合併した町村は比較的少ない。たとえば、ベルム(シンケルベルクの裏手にあたる)、ヴァレンホルスト、ビューレン(ロッテに合併した)、ハスベルゲン、ゲオルクスマリエンヒュッテは合併しなかった。また、北に位置するホラーゲ、レヒティンゲン、ルレは、ヴァレンホルストに合併した。 |
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[[File:Population development of Osnabrueck 780-2013.svg|right|400px|thumb|780年から2013年までのオスナブリュックの人口推移]] |
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=== 人口推移 === |
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1575年にオスナブリュック住民の約 75 % が[[ペスト]]で死亡した。その後、[[疫病]]、[[火災]]、[[飢餓]]、[[戦争]]によって、200年の間この街の人口は1575年に減少した水準のまま推移した。工業化により、人口は1817年に1万人を超えると、1900年には5万人と約5倍に増加した。これには[[レーネ]] - {{仮リンク|ライネ (ミュンスターラント)|de|Rheine|en|Rheine|label=ライネ}}間(1855年)および[[ミュンスター]] - [[ブレーメン]]間(1873年)の鉄道建設が影響している。さらに1939年までに人口は倍増し、10万人を超え、オスナブリュックは大都市となった。1995年には168,618人の史上最高値を記録した。2015年12月31日現在の人口は、162,403人である。 |
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== 住民 == |
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=== 宗教 === |
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==== 統計 ==== |
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2015年7月現在、オスナブリュック住民の 30.8 % が[[福音主義]]、33.4 % が[[カトリック教会|カトリック]]の信者である。35.8 % がその他の宗教または無宗教である<ref>[http://www.osnabrueck.de/fileadmin/eigene_Dateien/01_osnabrueck.de/011_Rathaus/Statistik/Vierteljaehrlicher_Bevoelkerungsbestand_2015_nach_differenzierten_Merkmalen.pdf VIERTELJÄHRLICHER BEVÖLKERUNGSBESTAND NACH DIFFERENZIERTEN MERKMALEN](2018年1月26日 閲覧)</ref>。 |
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==== キリスト教 ==== |
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[[File:A-St-Johann von Süden.jpg|right|220px|thumb|聖ヨハン教会]] |
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[[File:St. Marien Osnabrueck.jpg|right|160px|thumb|聖マリエン教会]] |
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[[File:Katharinenkirche Osnabrueck.jpg|right|160px|thumb|聖カタリーネン教会]] |
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[[File:Osnabrück Herz-Jesu-Kirche NW.jpg|right|160px|thumb|ヘルツ=イェズ教会]] |
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オスナブリュックは804年に[[司教|司教座]]都市となった。担当助祭長は司教座教会参事会首座であった。オスナブリュックには1521年から[[ルター派]]の[[説教者|説教師]]がいた。1543年にこの街はルター派信仰に宗教改革がなされた<ref>Hermann Poppe-Marquard: ''Osnabrück. 2.'', erweiterte Auflage. Verlag Antonius Fromm, Osnabrück 1958, p. 15.</ref>。しかし聖ペーター聖堂や聖ヨハン教会はカトリックに留まった。[[聖堂]]は{{仮リンク|オスナブリュック司教区|de|Bistum Osnabrück|en|Roman Catholic Diocese of Osnabrück}}の中心であり続け、1803年まで[[神聖ローマ帝国]]の聖界諸侯として存続した。カトリック住民は司教区の下、プロテスタント住民は市参事会の下で役員会を設立する形で教会運営を行った。1815年には、プロテスタントの教会運営には合わせて5つの役員会管区があった。これにはオスナブリュックのルター派役員会やアウリヒの(ルター派と[[カルヴァン主義|改革派]]の)並立役員会があった。役員会管区は、教区監督官あるいは教会クライスによって統合されていた。オスナブリュックは教会クライスの本部所在地であった。1903年にオスナブリュックの役員会管区は撤廃され、プロイセンに属すハノーファー州のすべてのルター派教会がハノーファーの役員会({{仮リンク|ハノーファー福音主義ルター派地方教会|de|Evangelisch-lutherische Landeskirche Hannovers|en|Evangelical-Lutheran Church of Hanover}})の下に組み込まれた。オスナブリュックはその後再び、教会クライス内に組織された管区の本部所在地となった。 |
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現在、本市の福音主義ルター派教会は、[[自由教会]]でない限り、ハノーファー地方教会オスナブリュック管区内のオスナブリュック教会クライスまたはオスナブリュック=ズットハウゼンのメレ=ゲオルクスマリエンヒュッテ教会クライスに属している。 |
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改革派の運動は、オスナブリュックでは1788年以降記録がある。この宗派はとなりの{{仮リンク|テックレンブルク伯領|de|Grafschaft Tecklenburg|en|County of Tecklenburg}}と関連している。19世紀に増加した改革派教会信者の移住によって、1889年にオスナブリュックに改革派教会が組織され、アウリヒに役員会が成立した。この教会は1893年にベルク教会を建立した。これは宗教改革以後オスナブリュックで最初の教会建設であった。1926年に平和教会、1960年代にはさらに3つの改革派教会が建設された: 恩寵教会(1960年)、アッター教会(1962年)、救世主教会(1966年)である。教会組織再編に伴い、最後に挙げた3つの教会は、2007年12月に福音主義教会に売却された。これ以後、平和教会は青年教会として機能し、ベルク教会がその他の教会の一般的な活動に利用されている<ref>[http://reformiertos.blogspot.jp/ Ev.-ref. Gemeinde Osnabrück](2018年1月26日 閲覧)</ref>。オスナブリュック改革派教会は現在、福音主義=改革派教会の第VII教会会議連合エムスラント/オスナブリュック教会会議連合に属している。 |
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聖堂と旧修道院教会聖ヨハン教会は宗教改革後もカトリックに留まり、オスナブリュックは1803年まで{{仮リンク|オスナブリュック司教領|de|Hochstift Osnabrück|en|Prince-Bishopric of Osnabrück}}の首都として存続していた。この街にはカトリック住民も絶えず住んでいた。カトリックと福音主義の両宗派の比率はほぼ同程度であった。780年頃に創設されたオスナブリュック司教区は宗教改革の波によって著しく縮小した。 |
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オスナブリュック司教領廃止後の1824年、オスナブリュックは新たに組織されたオスナブリュック司教区の主邑となった。この司教区は、{{仮リンク|エムスラント|de|Emsland|en|Emsland (region)}}、{{仮リンク|ベントハイム伯領|de|Grafschaft Bentheim|en|County of Bentheim}}、{{仮リンク|東フリースラント|de|Ostfriesland|en|East Frisia}}を含む[[ハノーファー王国]]西部を包含した。この司教区は1841年に[[スカンジナビア]]の北部宣教団の裁判権を獲得し、1868年には[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]、[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州|シュレスヴィヒ=ホルシュタイン]]、[[メクレンブルク]]を含むドイツ北部の宣教団の裁判権を獲得した。これらの地域は1929年に公式にオスナブリュック司教区に編入された。これによりこの司教区は、ドイツで最も広い司教区となった。この司教区は1995年まではケルン教会管区に、その後は新たに創設された{{仮リンク|ハンブルク大司教区|de|Erzbistum Hamburg|en|Roman Catholic Archdiocese of Hamburg}}に属した。オスナブリュック市の教区や教会連合は、オスナブリュック市首席司祭区に属す。これはオスナブリュック市に属していない町([[ハスベルゲン (オスナブリュック郡)|ハスベルゲン]])をも包含している。 |
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1852年から行われているテルクトの[[巡礼]]はオスナブリュックのカトリック教徒の風習で、参加者数ではドイツで2番目に大きな巡礼である。1899年に完成したヘルツ=イェズ教会は、宗教改革以後に新築された最初のローマ=カトリック教会である。 |
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1980年11月16日、[[ローマ教皇|教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]がオスナブリュックを訪れた。 |
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2008年5月21日から25日までオスナブリュックで6万人が参加して第97回ドイツ・カトリックの日が開催された。これ以前には1901年に第48回ドイツ・カトリックの日も開催されていた。 |
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オスナブリュックの自由教会: |
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* 福音主義=自由教会([[バプテスト]]) - 福音主義=自由教会の萌芽は1928年に遡る。固有の教会創設は1948年になってからであった。これには[[旧ドイツ東部領土]]からの[[難民]]流入の波が大きな役割を演じた。現在この組織には280人の信者がいる(子供や愛好サークルを除く)。この中にはヴェトナム人、[[ロマ]]、ロシア系ドイツ人が含まれている。礼拝はヴェトナム人も[[ロシア人]]も一緒に行う。2017年現在の聖職者はハイコ・ライネッケである。この教会はディープホルツに支部教会を有している。 |
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* オスナブリュック・アンドレアス教会(ミュールハイマー連合) - アンドレアス教会は、1997年以前にクリストリッヒェ・ゲマインシャフト・オスナブリュックの名称で成立していた。その萌芽は[[第一次世界大戦]]以前に遡る。この教会は数十年間家庭に集まって礼拝を行っていたが、1950年代に固有の集会所を設立した。教会活動は1984年に専任の聖職者を置いて以降活発化し、拡大した。ハウスヴェルマンスヴェーク 90番地への移転に際してアンドレアス教会と改名した。2006年にイベンビューレンに娘教会組織が形成された(トーマス教会)。アンドレアス教会は約140人の成人信者を有している。 |
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* 自由キリスト教会のオスナブリュック・キリスト=センター(聖霊降臨祭組織) |
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* レーベンスクヴェレ(命の泉) - 2001年にシンケルで設立された聖霊降臨組織 (BfP) は、2003年から改築された工場ホールで礼拝を行っており、この地域内に4つの地元組織を形成している。地元では、新たな教団センターとして旧貨物駅前の土地購入を巡って、多くの芸術家のアトリエや貨物駅前の劇場、ホモセクシャル連合の指導者を脅すなどのトラブルを起こしたことで知られている<ref> Jörg Sanders: [https://www.noz.de/lokales/osnabrueck/artikel/43837/protest-gegen-aktion-der-freikirche-lebensquelle-am-osnabrucker-bahnhof Protest gegen Aktion der Freikirche Lebensquelle am Osnabrücker Bahnhof], Neue Osnabrücker Zeitung 2013年5月29日付け(2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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* {{仮リンク|独立福音主義ルター派教会|de|Selbständige Evangelisch-Lutherische Kirche|en|Independent Evangelical-Lutheran Church}} (SELK) |
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* [[セブンスデー・アドベンチスト教会]] |
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* {{仮リンク|福音主義メソジスト教会|de|Evangelisch-methodistische Kirche|en|United Methodist Church}} (EmK) |
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* 自由教会 FIT-ゲマインデ・フュアス・レーベン |
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* 自由教会 ホームゾーン |
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* [[セルビア正教会]]聖ゲオルギウス |
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* [[ロシア正教会]] |
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* [[アンティオキア総主教庁|アンティオキアのギリシア正教会]] (Rum-Orthodox) 聖母神マリア |
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* [[復古カトリック教会]] |
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キリスト教会のほとんどはオスナブリュック・キリスト教会作業共同体 (ACKOS) に加盟しており、宗教上の問題についてテーマ対話集会や、毎年10月25日のオスナブリュク平和の日に[[エキュメニズム]](超宗派)の礼拝を行っている<ref>[http://www.ackos.de/ Arbeitsgemeinschaft christlicher Kirchen in Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。ヴェストファーレン条約350周年に教会は、宗派を超えたエキュメニズム教会会議を開催した。 |
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この他にオスナブリュックには、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教)、{{仮リンク|新使徒派教会|de|Neuapostolische Kirche|en|New Apostolic Church}}、使徒教会、[[カトリック使徒教会]]、[[エホバの証人]]が活動を行っている。 |
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==== 仏教 ==== |
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仏教徒は、[[カギュ派#分派|カルマ・カギュ派]]([[チベット仏教]])の仏教センターに入門施設を有している。禅の実践は、禅道場([[曹洞宗]])<ref>[http://www.zen-dojo-osnabrueck.de/ ZEN - Dôjô Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>やオスナブリュック禅サークル([[臨済宗]])<ref>[http://zen-osna.blogspot.jp/ Zen-Kreis Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>で行うことができる。「ヴェーク・デア・アハトザムカイト」(直訳すると「細心の道」)のグループは[[ティク・ナット・ハン]]の教えに基づく仏教を実践している<ref>[https://www.buddhismus-deutschland.de/pt_gruppe/weg-der-achtsamkeit-osnabrueck/ Weg der Achtsamkeit - Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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==== イスラム教 ==== |
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[[ムスリム]]の多くは、[[トルコ人|トルコ系住民]]であるが、[[アラブ人]]や[[クルド人]]も少なからぬ比率を占めている。2011年に建設された{{仮リンク|アフマディーヤ・ムスリム・ジャマート|de|Ahmadiyya Muslim Jamaat|en|Ahmadiyya}}のバシャラート=[[モスク]]は、オスナブリュックで最初のムスリムの宗教建築である。その後市内に12のモスクや礼拝所が設けられている<ref>[https://www.moscheesuche.de/moschee/stadt/Osnabrueck/2266 Moscheen in Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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==== ユダヤ教 ==== |
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[[File:Gedenktafel Alte Synagoge, Osnabrück, 2008.jpg|right|160px|thumb|旧シナゴーグ記念プレート]] |
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旧[[シナゴーグ]]は1906年に完成した。このシナゴーグは1938年11月9日のいわゆる「[[水晶の夜]]」に放火された。上級市長エーリヒ・ゲルトナーはその日の内に取り壊しを命じた。 |
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19世紀に設けられた[[ユダヤ人]]墓地は、早くも1927年10月に学生たちによって冒涜された。1938年11月には多くのユダヤ人商店が略奪され、ユダヤ人家族の住居が荒らされ、ユダヤ人墓地が冒涜された。1938年初めにはすでに、いわゆる「ユダヤ人の家」が設けられた。1941年12月12日に、まだ街に住んでいたユダヤ人190人の最初の移送が行われた。1893年から1906年にかけて建設されたアルテ=シナゴーゲン通りのプロイセン王国時代の政庁に、旧シナゴーグを記念するプレートが設置された。略奪直前、オスナブリュックの[[ユダヤ教|ユダヤ教会]]には約500人の信者がおり、フェリックス・ヌスバウムの家族もこれに含まれていた。 |
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[[第二次世界大戦]]後、オスナブリュックには5人のユダヤ人が住んでいた。1969年にヴェストシュタットに新たなシナゴーグがオープンした。1991年までオスナブリュックには約90人のユダヤ人が住居を有した。旧ソ連邦からの難民受け容れによって、2005年にはユダヤ教会は1544人の信者を擁するまでになった。旧オスナブリュック県の建物に1978年から旧シナゴーグとその破壊に関する記念プレートが設置されている。ここでは毎年11月9日に水晶の夜に対する悔悟の花輪が捧げられ、カッディーシュが唱えられる。 |
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1986年にユダヤ人墓地が再び冒涜された。2004年に旧シナゴーグ跡地に加え、ユダヤ人学校の基礎壁にも新たな記念碑が設けられた<ref>[http://www.jg-osnabrueck.de/jgo/ Jüdische Gemeinde Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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== 行政 == |
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=== 首長 === |
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オスナブリュック市のトップは、14世紀から「ラート」({{lang-de|Rat|link=no}}、参事会、現代ドイツ語では「議会」を意味する)であった。ラートは「アルター・ラート」と「ジッツェンダー・ラート」に分けられていた。「ビュルガーマイスター」({{lang-de|Bürgermeister|link=no}}、現代ドイツ語では「市長」を意味する)は議会の代表であった。司教に対抗して市は早くから様々な自由権を獲得していたが、完全な[[帝国自由都市]]の権利を有してはいなかった。[[フランス]]に併合された後はメリー制({{lang-fr|Mairie}}、フランスの市町村長制度)となり、ハノーファー時代には「フェアヴァルトゥングスビュルガーマイスター」({{lang-de|Verwaltungsbürgermeister|link=no}}、「行政市長」)とユスティツビュルガーマイスター ({{lang-de|Justizbürgermeister|link=no}}、「司法市長」) が市のトップになった。1851年、ハノーファー都市法が発効した。その後、多くが「オーバービュルガーマイスター」({{lang-de|Oberbürgermeister|link=no}}、「上級市長」) の肩書きを持つ市長が立てられた。[[国家社会主義]]の時代には市長は [[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]] によって指名され、エーリヒ・ゲルトナーがその職に就いた。 |
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1946年以降、上級市長はその時点のニーダーザクセン自治体法に基づき選出された。最初は2頭制の北ドイツ議会制度に倣って名誉職であったが、1997年から単独で専任の行政トップとなった。最初の専任上級市長には、[[ドイツ社会民主党|SPD]] のハンス=ユルゲン・フィップが就任し、1997年から2006年まで務めた。彼はその6年前から名誉職の上級市長を務めていた。2006年の選挙では、やはり SPD のボリス・ピストリウスが上級市長に選ばれた<ref>Niedersächsisches Landesamt für Statistik: [https://www.nls.niedersachsen.de/KW2006/404St.html Kommunalwahl 2006 - Vorläufiges Ergebnis der Stichwahl zur Direktwahl der Oberbürgermeisterin / des Oberbürgermeisters in der Stadt Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。ピストリウスは2013年2月19日に新たなニーダーザクセン州内務大臣に就任した。2013年9月22日の選挙では、いずれの候補も過半数を獲得できなかった。10月6日の決選投票ではオスナブリュック出身のビルギット・ボルネマン (SPD) 候補と、ミンデン (ヴェストファーレン) 出身のヴォルフガング・グリーゼルト候補 ([[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]]) が戦った。グリーゼルトが有効投票の 54.8 % を獲得して勝利した。この選挙の投票率は 41.8 % であった<ref>Nds. Landeswahlleiterin: [https://www.landeswahlleiter.niedersachsen.de/download/81038/Vorlaeufige_Ergebnisse_und_Wahlbeteiligungen_der_Stichwahlen_am_6._Oktober_2013.pdf Stichwahlen in Niedersachsen am 06. Oktober 2013](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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第二次世界大戦後の首長を以下に列記する。 |
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'''上級市長''': |
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* 1945年: ヨハネス・ペーターマン |
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* 1945年: ヴィルヘルム・ローゼンブロック |
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* 1945年 - 1946年: ヴィリー・フォルブレヒト |
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* 1946年: アドルフ・クレフト |
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* 1946年 - 1948年: ハインリヒ・ヘルリツィウス |
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* 1948年 - 1949年: アドルフ・クレフト |
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* 1949年 - 1951年: ハインリヒ・ヘルリツィウス |
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* 1951年 - 1952年: フリードリヒ・ヤンセン |
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* 1952年 - 1956年: ハインリヒ・ブッデンベルク |
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* 1956年 - 1959年: ヘルムート・ドレッシャー |
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* 1959年 - 1972年: ヴィリー・ケルヒ (SPD) |
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* 1972年 - 1981年: エルンスト・ヴェーバー (SPD) |
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* 1981年 - 1985年: カール・メラー (CDU) |
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* 1985年 - 1991年: ウルズラ・フリック (CDU) |
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* 1991年 - 2006年: ハンス=ユルゲン・フィップ (SPD) |
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* 2006年 - 2013年: ボリス・ピストリウス (SPD) |
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* 2013年 - : ヴォルフガング・グリーゼルト (CDU) |
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'''事務総長'''({{lang-de|Oberstadtdirektor|link=no}}、2頭制時代の行政責任者): |
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* 1946年 - 1953年: ヴィリー・フォルブレヒト |
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* 1953年 - 1960年: ヴァルター・ヴェーゲナー |
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* 1960年 - 1972年: ヨアヒム・フィッシャー |
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* 1972年 - 1983年: ライムント・ヴィンマー |
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* 1983年 - 1995年: ディールク・マイヤー=プリース |
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* 1995年 - 1997年: イェルク・ハーヴァーケンパー(彼の退任後、市のトップは上級市長に一元化された) |
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=== 議会 === |
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オスナブリュック市議会は、2001年から 50議席で構成されている。この他に、別に選出された専任上級市長も市議会での投票権を有している。2016年9月11日の市議会選挙結果に基づく政党別議席数を以下に示す<ref>[https://www.osnabrueck.de/kommunalwahl2016/404000_000049/ Ergebnis zur Stadtratswahl 2016 am 11.09.2016 - Kreisfreie Stadt Osnabrück](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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! style="background:#FFDEAD;" colspan="9"| オスナブリュック市議会 |
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|- style="background:#EEEEEE" align="center" |
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| width=60 align=left | '''政党''' |
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| width=80 | [[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]] |
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| width=80 | [[ドイツ社会民主党|SPD]] |
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| width=80 | [[同盟90/緑の党|GRÜNE]] |
|||
| width=80 | [[自由民主党 (ドイツ)|FDP]] |
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| width=80 | [[左翼党 (ドイツ)|Die Linke]] |
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| width=80 | BOB |
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| width=80 | [[ドイツ海賊党|PIRATEN]] |
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| width=80 | UWG |
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| width=80 | '''合計''' |
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|- align="center" |
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| align=left | '''議席数''' || 19 || 13 || 9 || 3 || 2 || 2 || 1 || 1 || '''50''' |
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|} |
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=== 紋章 === |
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オスナブリュック市の紋章は、[[アージェント (紋章学)|銀地]]に6本[[スポーク]]の静止した[[セーブル (紋章学)|黒い]]車輪が描かれている。市の旗は、黒い縁取りのある白地に、車輪が描かれている。 |
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オスナブリュック司教領の意匠としての車輪は、早くも13世紀から印章のデザインとして知られており、歴史とともに様々な様式に改編されてきた。最初は8本スポークで[[ギュールズ|赤色]]であった。1946年から黒になった。その他には、6本スポークの、2本のスポークが水平に描かれている「動いている」車輪(紋章表現上、静止している車輪は2本のスポークが垂直になるように描かれる)のデザインがある。これは、中世の[[ハンザ同盟|ハンザ]]で[[リネン|亜麻布]]製造の商標など国際的な取引の場で使われた。後には赤いデザインも現れた。現在、司教区の車輪は赤、市の車輪は黒で、ともに銀地の上に描かれる。 |
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車輪は、神の馬車 (''currus Dei'') の一部を意味しており、時代につれ教会や[[使徒]]の徴として用いられた。13世紀の紋章には、車輪の他に聖堂の[[守護聖人]]として[[ペトロ|聖ペテロ]]が描かれている。後に車輪だけが描かれるようになった。 |
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=== 姉妹都市 === |
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オスナブリュックは、多くの都市と[[姉妹都市]]協定や友好都市協定を結んでいる。外国の姉妹都市との間で、双方向に公式な市の使節を交換するのはドイツでもユニークなものとされている。若い男女が1年間姉妹都市の行政に従事するのである。これにより、その都度姉妹都市に起こっている問題を処理することができる。 |
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オスナブリュックは以下の都市と姉妹都市/友好都市協定を結んでいる<ref>[https://www.osnabrueck.de/verwaltung/staedtepartnerschaften/freunde-und-partner.html Stadt Osnabrück: Freunde und Partner](2018年1月27日 閲覧)</ref>。 |
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'''姉妹都市''' |
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* {{flagicon|NLD}} [[ハールレム]]([[オランダ]]、[[北ホラント州]])1961年 |
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* {{flagicon|FRA}} [[アンジェ]]([[フランス]]、[[メーヌ=エ=ロワール県]])1964年 |
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* {{flagicon|UK}} [[ダービー (イギリス)|ダービー]]([[イギリス]]、[[ダービーシャー]])1976年 |
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* {{flagicon|GER}} [[グライフスヴァルト]]([[ドイツ]]、[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]])1988年 |
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* {{flagicon|RUS}} [[トヴェリ]]([[ロシア]]、[[トヴェリ州]])1991年 |
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* {{flagicon|TUR}} [[チャナッカレ]]([[トルコ]]、[[チャナッカレ県]])2004年 |
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* {{flagicon|POR}} [[ヴィラ・レアル]]([[ポルトガル]]、[[ヴィラ・レアル県]])2005年 |
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'''友好都市''' |
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* {{flagicon|AUT}} {{仮リンク|グミュント・イン・ケルンテン|de|Gmünd in Kärnten|en|Gmünd, Carinthia}}([[オーストリア]]、[[ケルンテン州]])1971年 |
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* {{flagicon|USA}} [[エバンズビル (インディアナ州)|エバンズビル]]([[アメリカ合衆国]]、[[インディアナ州]])1991年 |
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* {{flagicon|KOR}} [[光明市]]([[大韓民国]]、[[京畿道]])1997年 |
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* {{flagicon|CHN}} [[合肥市]]([[中華人民共和国]]、[[安徽省]])2006年 |
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== 文化と見所 == |
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=== 建築 === |
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[[File:Kastelo Osnabrück 4.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック城]] |
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[[File:Heger Tor Mai 2016.JPG|right|220px|thumb|ワーテルロー門]] |
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[[File:Buergergehorsam Osnabrueck.jpg|right|160px|thumb|ビュルガーゲホールザム]] |
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[[File:OSBischöflicheKanzlei.jpg|right|220px|thumb|司教領主官房]] |
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オスナブリュック市庁舎はこの街の象徴的建造物である。この建物は、25年の工期の後、1512年に後期[[ゴシック建築|ゴシック様式]]で完成した。この市庁舎では、[[ミュンスター]]市庁舎とともに、1648年に[[ヴェストファーレン条約]]が締結された。平和の間には現在、当時の領主やヨーロッパの使節の肖像画 42枚が掲げられている。宝物室では、1648年の条約文書の模本を見ることができる。 |
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[[バロック建築|バロック様式]]のオスナブリュック城は17世紀後半に造られた。この城館は、[[プロテスタント]]の司教領主[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト1世フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]とその妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]の居城であった。この城館は、[[第二次世界大戦]]で外壁に至るまで破壊され、戦後に再建された。1953年からは教育大学として、1974年からは[[オスナブリュック大学|オスナブリュック総合大学]]の本部として利用されている。 |
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ブックス塔は13世紀初めに市壁の見張り塔として建造された。中世には、塔内に牢獄が設けられていた。さらに、16世紀から17世紀の[[魔女狩り]]の時代には、[[拷問|拷問室]]としても使われた。 |
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現在のヘーガー門は、防衛施設の外観をしのばせる。塔、門、堡塁、通路からなる防衛施設は、1815年頃に大部分が解体された。大部分の防衛施設が解体されたわずか2年後の1817年に、跡地にワーテルロー門が造られた。この門は、[[ワーテルローの戦い]]で奮闘したドイツ王軍のオスナブリュック兵士を記念して建設された<ref>[https://www.osnabrueck.de/tourismus/wissens-und-sehenswertes/sehenswuerdigkeiten/heger-tor.html Stadt Osnabrück: Heger Tor](2018年1月27日 閲覧)</ref>。この門はゲルハルト・フリードリヒ・フォン・ギューリヒの寄進により、ヨハン・クリスティアン・ジークマンが設計した。この門には以下の銘文が刻まれている:「1815年6月18日にドイツの勇気を示したオスナブリュックの戦士たちにこの記念碑を捧げる。G. F. v. Gülich D.R.D.R.」この門には展望台が設けられており、そこからは旧市街の家並みを俯瞰することができる。展望台へはスロープと階段を使ってたどり着くことができる。ワーテルロー門周辺の広場は現在も主に「ヘーガー=トーア」(ヘーガー門)と呼ばれている。それはここが旧市街からヘーガー地区への入り口にあたっていたためである。 |
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聖マリエン教会は、聖堂とは異なり、市民の教会であった。800年頃に埋葬が行われていた現在の場所にあった木造の先行する教会に由来する。この教会は現存していない。10世紀から11世紀に単廊式のホール建築が建設され、早くも13世紀に両[[側廊]]が増築された。15世紀に[[内陣]]と内陣[[ヴォールト]]が付与された。13世紀からは、ゴシック様式の[[ハレンキルヒェ]]に改築された。この教会は市庁舎や市の秤量所とともに建築上の一体感を形成しており、現在もマルクト広場の外観を決定づけている。教会内には、13世紀の勝利の十字架や、1510年から1515年に[[アントワープ]]で製作された主祭壇がある。内陣周辺には埋葬された人物の墓石があり、その中にはオスナブリュックの重要な官僚で弁護士でもあった[[ユストゥス・メーザー]]の墓石もある。高さ 79 m の塔の、190段の階段を上るとオスナブリュックの街を一望できる。第二次世界大戦で完全に破壊された銅製の塔の先端は、1960年代初めに再建された。 |
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聖ペーター聖堂は785年に現在の場所に建設された。ただし、現在の建物は1218年から1277年に造られたものである。この聖堂建築は後期[[ロマネスク建築|ロマネスク様式]]で建設されている。この聖堂は元々双子の塔(同じ大きさの2本の塔)を有していたのだが、北西塔が15世紀に分厚いゴシック様式の塔に建て替えられた。内部には1225年製の[[青銅]]製の{{仮リンク|洗礼盤|de|Taufbecken|en|Baptismal font}}や12世紀末頃に創られた大きな勝利の十字架がある。高さ約 6 m、キリスト像の高さ 3.8 m のこの十字架は、この種のものとしてはヨーロッパ最大級のものの1つである。1210年から1233年まで聖堂の近くに、[[フローニンゲン]]出身の隠者で、後に列聖されたオスナブリュックのライナーが住んでいた。聖堂前には「レーヴェンプーデル」の像がある。 |
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中世に創設された修道院が、ゲルトルーデンベルク修道院と[[ドミニコ会]]聖十字架修道院である。これらの修道院は、1803年の[[帝国代表者会議主要決議]]によって廃止され、現存する建物は別の用途に使用されている。 |
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ペルニッケル塔の建設時期は判っていない。この塔は13世紀前半に記録があり、狭間があることから判るようにペルニッケル水車を防衛するための監視塔として使われていた。この塔は19世紀以降住居として利用されていたため、内部は原形を留めていない。ペルニッケル水車は1891年に破壊され、ハーゼ川のすぐ近くの別の堤に再建された。 |
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この他の都市防衛施設の塔としては、16世紀初めに造られたビュルガーゲホールザムが遺されている。 |
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[[古典主義建築]]の時代は、1785年の司教領主官房の完成によって始まった。テンゲ家の住居および商店やグローセ通り 43番地の建物も古典主義建築である。 |
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* 旧ゲルトルーデンベルク修道院のゲルトルーデン教会 |
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* 教会 |
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** 聖ペーター聖堂オスナブリュック(上述) |
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** カトリックの聖ヨハン教区教会 |
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** カタリーネン教会 |
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** ヘルツ=イェズ教会 |
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* ビュルガーブルンネン(市民の泉) |
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* ディーリンガー通り、ビール通り、レーデンホーフのロマネスク様式の石造建築 |
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オスナブリュックにはかつてペータースブルク要塞や旧市庁舎があった。 |
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|File:Osnabrück, Bocksturm.jpg|ブックス塔 |
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|File:Altar St. Marien (Osnabrück) 2015-04-11-01.jpg|聖マリエン教会の主祭壇 |
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|File:Löwenpudel2017 2.jpg|聖ペーター聖堂前のレーヴェンプーデル像 |
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|File:Osnabruck-KlosterGertrudenberg-20071227.jpg|ゲルトルーデンベルク修道院 |
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|File:Osnabrück Pernickelturm.JPG|ペルニッケル塔 |
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|File:OS GrosseStrasse43 1.JPG|グローセ通り43番地 |
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|File:Osnabrück Bürgerbrunnen.jpg|ビュルガーブルンネン |
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=== 公共スペースの芸術作品 === |
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[[File:Osnabrück sculpture.JPG|right|220px|thumb|ハールマンの泉]] |
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オスナブリュックの最も重要な文化財の1つが、ヘレンタイヒスヴァルの「ハールマンの泉」である。鋼鉄工場主で市参事会員のアウグスト・ハールマンが1909年に寄贈したこの泉は、坑夫の仕事に対する記念碑である。等身大よりもやや大きい坑夫のブロンズ像を持つこの泉は、しばしば1893年にピースベルクで起こった鉱山事故と誤って関係づけられている。この事故は、ピースベルクで石炭採掘中に坑内出水が起き、多くの坑夫が命を落としたものである。 |
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ヘレンタイヒスヴァルのエーバート=エルツベルガー=ラーテナウ記念碑は、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]の重要な3人の政治家([[フリードリヒ・エーベルト]]、[[マティアス・エルツベルガー]]、[[ヴァルター・ラーテナウ]])を記念したものである。抽象的な造形の記念碑の像は[[民主主義]]を象徴しており、3人の人物を顕彰したおそらくドイツで唯一の記念碑である。1928年にこの記念碑を建立することで政治権力への抵抗が示されたが、早くも1933年には[[突撃隊|突撃隊員]]によって像が撤去された。現在の像は1980年代初めに市によって再建されたものである。この記念碑の見取り図を密かに護ってきた勇気ある庶民のことを記した銘文が、再建された像内に記された。 |
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都市建設監督官のエミール・ハックランダー(1800年 - 1902年)の設計によるシュトラスブルガー広場の記念碑は、1870年から1871年の[[普仏戦争]]にオスナブリュック侯領から参戦した戦没者のための記念碑である。この記念碑は1880年にノイマルクトに建立されたが、1928年にヴェスターベルク市区のシュトラスブルガー広場に移された。風刺めいたゲルマニア像は第二次世界大戦中に鋳つぶされた。現在のラーツギムナジウムの女生徒がデザインした「ディー・シュッツェンデ・トルジオーン」像を戴く記念碑は、独仏友好の記念碑である。 |
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|File:Rathenau Mahnmal Osnabrück.jpg|エーバート=エルツベルガー=ラーテナウ記念碑 |
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|File:Osnabrück Straßburger Platz Ehrenmal Skulptur.jpg|ディー・シュッツェンデ・トルジオーン |
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=== 動物園と公園 === |
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[[File:Osnabrück - Botanischer Garten - Schwäbische Alb 01.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック植物園]] |
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* シェーラーベルク市区にオスナブリュック動物園がある。この動物園は1936年に地元の動物公園としてオープンした<ref>[https://www.zoo-osnabrueck.de/ Zoo Osnabrück](2018年1月28日 閲覧)</ref>。 |
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* 1984年からオスナブリュック総合大学はヴェスターベルクで広さ 5.6 [[ヘクタール|ha]] のオスナブリュック植物園を運営している<ref>[http://www.bogos.uni-osnabrueck.de/ Botanischer Garten der Universität Osnabrück](2018年1月28日 閲覧)</ref>。 |
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* オスナブリュック市で最も古い公共の公園は、旧市街北東部のゲルトルーデンベルクにある古木が植えられた市民公園である。樹木にはプレートがつけられており、樹木園の性格も有している<ref>[https://www.osnabrueck.de/gruen/gruenanlagen-und-parks/buergerpark.html Stadt Osnabrück: Bürgerpark](2018年1月28日 閲覧)</ref>。 |
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|File:OS-zoo-eingang.jpg|オスナブリュック動物園の入り口 |
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|File:Osnabrück - Bürgerpark 02.jpg|市民公園のモザイクのベンチと並木道 |
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=== 演劇 === |
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[[File:Building Osnabrück 11.JPG|right|220px|thumb|オスナブリュック劇場]] |
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オスナブリュックには多くの劇場がある。 |
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* オスナブリュック劇場は、シュテティシェ・ビューネン・オスナブリュック gGmbHによって運営されている。 |
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* プローベビューネ e.V.<ref>[http://www.probebuehne.de/ Probebühne](2018年1月28日 閲覧)</ref> は、エルスト・ウンオーデントリッヒェ室内劇場<ref>[https://www.osnabrueck.de/kultur/theater/erstes-unordentliches-zimmertheater.html Stadt Osnabrück: Erstes unordentliches ZimmerTheater](2018年1月28日 閲覧)</ref>で活動するアマチュアの演劇団である。 |
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* 人形劇場 |
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* ヴォックストルプ[[低地ドイツ語]]演劇団は定期的に公演を行っている。英語の劇団も存在している。 |
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=== 音楽 === |
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==== オーケストラ ==== |
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* オスナブリュック交響管弦楽団<ref>[http://www.theater-osnabrueck.de/orchester/osnabruecker-symphonieorchester.html Theater Osnabrück - Osnabrücker Symphonieorchester](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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==== 合唱団 ==== |
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* オスナブリュック・バッハ合唱団 e.V. |
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* ヨハニス合唱団 e.V. |
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* オスナブリュック青年合唱団 e.V.<ref>[https://www.os-jugendchor.de/ Der Osnabrücker Jugendchor](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* マリエンカントライ・オスナブリュック<ref>[http://www.musikanmarien.de/index/choere/marienkantorei.html Die Marienkantorei - Musik an Marien - Osnabrück](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* 女声合唱団ヴィヴァ・ラ・ムジカ e.V.<ref>[https://www.viva-la-musica-os.info/ Osnabrücker Frauenchor Viva la musica](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* オリジナル・オスナブリュッカー・ウィンドジャマー=シャンティーコーラス |
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[[File:Außenansicht OsnabrückHalle.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュックハレ]] |
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=== 文化センター === |
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* ラーガーハレ・オスナブリュック<ref>[http://www.lagerhalle-osnabrueck.de/cms/ Die Lagerhalle - Kultur & Kommunikation am Heger Tor](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* 自治センター「SubstAnZ」<ref>[http://www.substanz-os.de/ SubstAnZ | selbstverwaltetes Zentrum Osnabrück](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* オスナブリュックハレ(旧オスナブリュック市立ホール)<ref>[https://www.osnabrueckhalle.de/ OsnabrückHalle](2018年1月29日 閲覧)</ref> |
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* フライラウム・ペータースブルク(2007年から)は、「文化保護地区」としても知られている<ref>[http://freiraum-petersburg.de/ Freiraum Petersburg | Kulturschutzgebiet am Güterbahnhof](2018年1月29日 閲覧)</ref>。 |
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=== 博物館・美術館 === |
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[[File:Osnabrück - Museum Industriekultur - Magazingebäude 02 ies.jpg|right|300px|thumb|工業文化博物館の外観]] |
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* 司教区博物館の聖堂宝物室<ref>[https://bistum-osnabrueck.de/dioezesanmuseum/ Domschatzkammer und Diözensanmuseum - Bistum Osnabrück](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
|||
* エーリヒ・マリア・レマルク平和センター<ref>[http://www.remarque.uni-osnabrueck.de/ Erich Maria Remarque-Friedenszentrum Osnabrück](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
|||
* フェリックス=ヌスバウム=ハウス<ref>[http://www.osnabrueck.de/fnh/start-fnh.html Stadt Osnabrück: Felix Nussbaum Haus](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
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* オスナブリュック文化史博物館<ref>[http://www.osnabrueck.de/kgm/start.html Stadt Osnabrück: Kulturgeschichtliches Museum](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
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* オスナブリュック芸術ホール<ref>[http://kunsthalle.osnabrueck.de/strtseite.html Kunsthalle Osnabrück](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
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* アム・シェーラーベルク博物館: 自然、環境、プラネタリウム<ref>[http://www.osnabrueck.de/mas/startseite.html Museum am Schölerberg Osnabrück](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
|||
* ピースベルク工業文化博物館<ref name="Piesberg">[http://www.feldspur.de/ Museum für Feldspurige Industriebahnen Osnabrück - Piesberg e.V.](2018年1月30日 閲覧)</ref> |
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* オスナブリュック=ピースベルク坑内鉄道博物館<ref name="Piesberg" /> |
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{{Gallery |
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|File:Forum am Dom Osnabrück 8-2017.jpg|聖堂宝物室 |
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|File:Kulturgeschichtliches Museum Osnabrück Strassenfront.jpg|オスナブリュック文化史博物館 |
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|File:OS-Kunsthalle-Dominikanerkirche-20071227.jpg|オスナブリュック文化ホール |
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|File:Museumseingang Museum am Schölerberg Osnabrück.jpg|アム・シェーラーベルク博物館 |
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|File:Osnabrück - Museum Industriekultur 14 ies.jpg|工業文化博物館の展示室 |
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}} |
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=== 映画 === |
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* シネマ・アートハウス - 5スクリーンの[[シネマコンプレックス]] |
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* シネスター・フィルムパラスト(旧UFA-パラスト)- 7スクリーンのシネマコンプレックス |
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* フィルムパサージェ・オスナブリュック - 9スクリーンのシネマコンプレックス |
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* フィルムテアター・ハーゼトーア - 1スクリーンの芸術映画・プログラム映画上演館 |
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[[File:Osnabrück Rubbenbruchsee 2.jpg|right|220px|thumb|ルッベンブルーフ湖]] |
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=== レジャー === |
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エーファースブルク市区の南西部およびアッターとヴェスターベルクとの境界に、森、草地、ルッベッンブルーフ湖を有する大きなレジャー地がある。オスナブリュック=アッターハイデ飛行場も多くの部分が自然とふれあう地域になっている。 |
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=== 躓きの石 === |
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2006年12月にオスナブリュック市議会は、[[ケルン]]の芸術家{{仮リンク|グンター・デムニヒ|de|Gunter Demnig|en|Gunter Demnig}}のアイデアである「{{仮リンク|躓きの石|de|Stolpersteine|en|Stolpersteine}}」を設けることを決定した。これは国家社会主義独裁制の犠牲者をしのび、その当時の住居や職場に名前を刻んだ小さなプレートを埋め込むものである。このプロジェクトは2007年11月から2013年3月まで行われ、192基の躓きの石が設けられた。 |
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[[File:Stolpersteine Osnabrück, Kollegienwall, 2008.jpg|none|140px|thumb|オスナブリュック=コレギーンヴァルの躓きの石]] |
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=== 歴史的墓地 === |
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[[File:Johannisfriedhof in Osnabrück, 2004.jpg|right|220px|thumb|ヨハニス墓地]] |
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==== ハーゼ墓地とヨハニス墓地 ==== |
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両墓地は1808年に、衛生上の理由から当時の市の外側に設けられた: ハーゼ門前のハーゼ墓地とイーブルガー通りのヨハニス墓地である。[[ジェローム・ボナパルト]]王の命令によって1808年から内市街での埋葬が禁止された。 |
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最も古い部分の埋葬者は、主に裕福で古くからの土着の家族の一員たちである。これらの人物たちは壁沿いに埋葬されている。中央部では社会的階級が低い人たちが最後の眠りに就いている。 |
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ハーゼ墓地の最も古い門は、19世紀初めの典型的なシンボルを示している。すなわち、死と眠りを意味する[[聖霊]]が2人の子供の姿で門柱に刻まれている。この他に強調されているのは花を象った石、たとえば永遠の眠りを意味する[[ケシ]]の実や、キリストの血を意味する[[ワイン]]などの深遠な象徴である。最後の埋葬は1995年に行われた。 |
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=== 年中行事 === |
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[[File:Eingangsbereich Halle Gartlage.jpg|right|220px|thumb|春と秋の歳の市が開催されるハレ・ガルトラーゲ]] |
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[[File:Osnabrück Maiwoche 2.JPG|right|220px|thumb|オスナブリュックの5月週間]] |
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[[File:OsnabrückSteckenpferdreiter.jpg|right|160px|thumb|市立ホール前のシュテッケンプフェルトライター像]] |
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[[File:Weihnachtsmarkt Osnabrück 2017 4.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュックのクリスマスマーケット]] |
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主な年中行事を以下に列記する<ref>[https://www.osnabrueck.de/festivals.html Stadt Osnabrück: Musik- und Kulturfestivals](2018年1月31日 閲覧)</ref>。 |
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* 1月: 「ハントギフテンターク」<ref>[https://www.osnabrueck.de/handgiftentag.html Stadt Osnabrück: Handgiftentag](2018年1月31日 閲覧)</ref> |
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* バラの月曜日の前の土曜日: 「オッセンザムスターク」(約10万人が見学する大規模な[[謝肉祭]]の[[カーニバル]])。日曜日に移動させて「オッセンゾンターク」として祝うかどうか議論されている<ref>[http://www.ossensamstag.de/ Ossensamstag | Karneval in Osnabrück](2018年1月31日 閲覧)</ref>。 |
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* 復活祭前: ハレ・ガルトラーゲでの「春の歳の市」 |
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* 復活祭前: オスナブリュックの[[室内楽]]の日<ref>[http://www.osnabruecker-kammermusiktage.de/ Osnabrücker Kammermusiktage - Classic con brio](2018年1月31日 閲覧)</ref> |
|||
* 4月: ヨーロピアン・メディア・アート・フェスティバル<ref>[https://www.emaf.de/de/index.html EMAF - European Media Art Festival](2018年1月31日 閲覧)</ref> |
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* 4月 - 5月: オスナブリュック=ベルゼおよび[[切手]]と[[貨幣]]の大交換会(オスナブリュックハレ) |
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* 5月: 内市街での5月週間<ref>[http://www.osnabrueck.de/maiwoche/start.html Stadt Osnabrück - Maiwoche](2018年1月31日 閲覧)</ref>とハーゼ通り祭 |
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* 5月: ゲイ・イン・メイ - 同性愛者の文化の日<ref>[http://gayinmay.de/ Gay in May e.V.](2018年1月31日 閲覧)</ref> |
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* 5月と9月: それぞれの第1週末に内市街で大規模な夜のがらくた市(土曜日の夜から日曜日の日中まで)が開催される。 |
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* 夏: 文化の夜、オスナブリュックの民俗、射撃、郷土祭 |
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* 6月: アフリカ=フェスティバル(2年ごと)<ref>[https://www.unesco.de/kultur/kulturelle-vielfalt/kaleidoskop/kulturelle-ausdrucksformen-foerdern-und-schuetzen/afrika-festival-osnabrueck.html Afrika Festival, Osnabrück - Deutsche UNESCO-Kommission](2018年1月31日 閲覧)</ref> |
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* 6月末、7月初め: オスナブリュック=ナーネのナーナー・ヴァルトバーンでの国際モーターバイク芝コースレース |
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* 7月: ヨハニス通り祭 |
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* 6月 - 8月: 「オスナブリュックの街の夏」市の夏の文化プログラム<ref>[https://www.osnabrueck.de/kultur/festivals/sommer-in-der-stadt.html Stadt Osnabrück: Sommer in der Stadt](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 8月第1土曜日: 「ディー・ゴルデーネン・ゼーゲ」- オスナブリュックのストリート音楽祭<ref>[https://www.osnabrueck.de/kultur/festivals/die-goldene-saege.html Stadt Osnabrück: Die Goldene Säge](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 8月: シュロスガルテン・オープン・エアー(ロック・ポップミュージックの2日間の音楽祭)は2015年から毎年8月の週末に城館庭園で開催されている<ref>[http://schlossgarten-openair.de/ Schlossgarten Open Air Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref>。 |
|||
* 8月末: ワインフェスト |
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* 8月末/9月初め: 2007年から2年ごとにハーゼ川沿いでリヒターフェスト(光の祭)が開催される。 |
|||
* 9月初め: エルスト・ウンオーデントリッヒェ室内劇団の演劇祭<ref>[http://www.laft.de/mitglieder/theater/80-erstes-unordentliches-zimmertheater.html Erstes unordentliches Zimmertheater - Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 9月: {{仮リンク|モルゲンラント・フェスティバル・オスナブリュック|de|Morgenland Festival Osnabrück|en|Morgenland Festival Osnabrück}}<ref>[http://www.morgenland-festival.com/ Morgenland-Festival](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 9月: ジョブメッセ・オスナブリュック(2004年から毎年) |
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* 9月: オスナブリュック不動産メッセ(毎年) |
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* 9月: ピースベルクの山祭<ref>[https://www.osnabrueck.de/kultur/festivals/bergfest-am-piesberg.html Stadt Osnabrück: Bergfest am Piesberg](2018年2月1日 閲覧)</ref>(ピースベルクガー・ゲゼルシャフツハウス、オスナブリュック=ピースベルク坑内鉄道博物館 e.V.、工業文化博物館)とピースベルク炭坑駅でのオスナブリュック・ウンター・ダムプフ(オスナブリュック蒸気機関車愛好会 e.V. の蒸気機関車祭)<ref name="Dampflokfreunde">[http://www.osnabruecker-dampflokfreunde.de/ Osnabrücker Dampflokfreunde e.V.](2018年2月1日 閲覧)</ref>とが、1年ごとに交互に開催される。 |
|||
* 9月 - 10月: inter.kult - 2年ごとに開催される文化週間 |
|||
* 10月: オスナブリュック自主映画祭<ref>[https://www.filmfest-osnabrueck.de/ Unabhängiges Filmfest Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
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* 10月: シュテッケンプフェルトライテン<ref group="訳注">シュテッケンプフェルト ({{lang-de|Steckenpferd|link=no}}) は、棹の先にウマの頭部の模型をうけた玩具。ライテン ({{lang-de|reiten|link=no}}) は「騎乗する」という意味である。オスナブリュックでは1648年の三十年戦争終結を祝って、本物ではなく玩具のウマに乗るという習慣が始まった。</ref>とクリンゲンデス・ラートハウス(平和祭と習俗祭) |
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* 10月末/11月初め: ハレ・ガルトラーゲでの秋の歳の市 |
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* 11月: オスナブリュックのキャバレー祭 |
|||
* 11月: 新日本映画祭、2年ごと<ref>[http://www.japanfilm-os.de/ Festival des neuen japanischen Films](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 12月: [[クリスマスマーケット]]<ref>[http://www.osnabrueck.de/weihnachtsmarkt/start.html Stadt Osnabrück: Der Historische Weihnachtsmarkt Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref>と旧市街の多くの家屋のイルミネーション |
|||
* 12月: オスナブリュック=ベルゼおよび切手とコインの大交換市(オスナブリュックハレ)<ref>[http://vphn-os.de/ Verein für Philatelie und Numismatik „Niedersachsen“ Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
|||
* 年に数回開かれるオスナブリュックの平和スピーチ<ref>[http://www.ofg.uni-osnabrueck.de/ Osnabrücker Friedensgespräche](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
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=== 自然文化財 === |
|||
* エーファーの[[オーク]]: 胸の高さにおける幹周りは 7.24 m である(2014年現在)<ref>[https://www.monumentale-eichen.de/niedersachsen/osnabr%C3%BCck/ Everseiche in Osnabrück - Die Monumentalsten Eichen Deutschlands](2018年2月1日 閲覧)</ref>。 |
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=== スポーツ === |
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==== スポーツクラブ ==== |
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以下のリストは主なクラブをアルファベット順に列記したもので、すべてのクラブを挙げているわけではない。 |
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{| |
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|valign="top" width="33%"| |
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* AMGオスナブリュック |
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* ASCオスナブリュック・タイガー |
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* オスナブリュック・バドミントン・クラブ 82 |
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* エーファースブルク球技クラブ |
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* BBCブラック・ブルズ・オスナブリュック |
|||
* BCジャイアンツ・オスナブリュック |
|||
* ブラウ=ヴァイス DJK シンケル |
|||
* BSGオスナブリュック<ref>[http://www.bsg-osnabrueck.de/ BSG-Osnabrueck](2018年2月2日 閲覧)</ref> |
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* ドイツ・アルペン協会オスナブリュク支部 |
|||
* アイゼンバーナー体操・スポーツクラブ・オスナブリュック 1926 e.V. |
|||
* FCコンコルディア |
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* ジャイロライブ・パートナーズ・オスナブリュック (OSC) |
|||
|valign="top" width="33%"| |
|||
* GSVオスナブリュック |
|||
* オスナブリュッカー漕艇クラブ |
|||
* オスナブリュッカー・スポーツクラブ |
|||
* オスナブリュッカーTB |
|||
* ピースベルガーSV |
|||
* ポストSVオスナブリュック |
|||
* ロート=ヴァイス・ズットハウゼン |
|||
* RSCオスナブリュック |
|||
* オスナブリュック水泳クラブ04 |
|||
* SCボスナ |
|||
* シュピールフェライン16 |
|||
* SSCドーデスハイデ |
|||
* SVアッター |
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|valign="top" width="33%"| |
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* SVアイントラハト・オスナブリュック |
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* SVエーファースブルク |
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* SVヘレルン |
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* SVラーゼンシュポルトDJKオスナブリュック |
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* TC VfLオスナブリュック |
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* TSGブルク・グレーテシュ |
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* TuSハステ 01 |
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* TSVヴィドゥキントラント |
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* TVヤーン・オスナブリュック 1897 |
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* [[VfLオスナブリュック]]<ref>[http://www.vfl.de/ VfL Osnabrück](2018年2月1日 閲覧)</ref> |
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* VfRヴォックストルプ |
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* オスナブリュック・ウォータースポーツクラブ |
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* ツェン・ヴ・オスナブリュック |
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|} |
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ほとんどのクラブがオスナブリュック市スポーツ連盟に加盟している。 |
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==== スポーツ施設 ==== |
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[[File:Vfl osnabrueck osnatel arena 14.jpg|right|220px|thumb|シュターディオン・アン・デア・ブレーマー・ブリュッケ]] |
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* オスナブリュックのほとんどすべての市区に、体育館や、芝上でのスポーツ・[[球技]]・[[陸上競技]]のためのスポーツ施設があり、地元のスポーツクラブが利用している。 |
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* オスナブリュックで最も広く、重要な[[サッカー]]スタジアムが、「シュターディオン・アン・デア・ブレーマー・ブリュッケ」(旧オスナテル=アレーナ)である。VfL オスナブリュックはこのスタジアムでホームゲームを行っている。 |
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* VfL オスナブリュックのトレーニング施設で、オスナブリュックの学校スポーツや陸上競技の中心となるのがヴェストシュタット市区のイロスヘーエ・スポーツパークである。 |
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* 最も大きな[[体育館]]は、ヴュステ市区のシュロスヴァルハレである。 |
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* [[水泳|水泳競技]]には、オスナブリュック施設局が運営するネッテバート、モスカウバート、シンケルバートの3つの公共スイミングプールがある。自然の水浴場にはアッター湖が利用される。 |
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* [[ボート競技|漕艇競技]]にはオスナブリュック・シュティヒ運河で行われる。エーファースブルク地区にはこのための艇庫がある。 |
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* ゾンネンヒューゲル市区には、アイススポーツホールとインドア電動カートコースがある。 |
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* ナーナー・ヴァルトバーンでは、定期的にグラスバーン・レースが開催される。 |
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* オスナブリュックにはゴルフ場がない。最寄りのゴルフ場は{{仮リンク|ロッテ (ヴェストファーレン)|label=ロッテ|de|Lotte (Westfalen)|en|Lotte, Germany}}と[[ビッセンドルフ]]にある。 |
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=== グルメ === |
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==== 週の市 ==== |
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シンケル、ゾンネンヒューゲル、シェーラーベルクの各市区やレーデンホーフおよびヨハニス教会では定期的に週の市が開催される。ドームホーフでの週の市は特に伝統的なものである<ref>[http://www.wochenmarkt-osnabrueck.de/ Wochenmarkt Osnabrück und Osnabrücker Land](2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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==== レストラン ==== |
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グルメレストラン「ラ・ヴィ」は2011年11月に、[[ミシュランガイド|ミシュラン=レストランガイド]]で三つ星を獲得した<ref>[http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/neue-michelin-sterne-vergeben-es-regnet-stars-11521032.html Es regnet Stars], Frankfurt Allgemeine 2011年11月7日付け(2018年2月2日 閲覧)</ref>。2006年11月に[[ゴー・ミヨ|ゴー・ミヨ・ガイドブック]]はシェフのトーマス・ビューナーをドイツ5位に挙げ、「ラ・ヴィ」に最高位である4つの帽子を贈った。このレストランのオーナーはユルゲン・グロスマンである。彼はかつて [[RWE|RWE AG]] の代表責任者、ゲオルクスマリエンヒュッテ・ホールディング GmbH の共同経営者、[[フォルクスワーゲングループ|フォルクスワーゲン AG]] の監査役員を務めた人物である。 |
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==== 名物料理・食材 ==== |
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[[File:Steckrübeneintopf.JPG|right|220px|thumb|ラマンケンアイントプフ]] |
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[[File:Gruenkohlgericht.jpg|right|220px|thumb|グリュンコール]] |
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[[File:Springbrötchen.JPG|right|220px|thumb|シュプリングブレッチェン]] |
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オスナブリュック地域の料理は、特にニーダーザクセンやヴェストファーレンの料理の影響を受けている。この地域の典型的な料理には、たとえば、以下の者が挙げられる: |
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'''ラマンケン''': ありふれた[[ルタバガ]](スウェーデンカブ)で作る「ラマンケンアイントプフ」という煮込み料理がある。ルタバガはオスナブリュック地域では「ラマンケン」と呼ばれ(コールリューベとも呼ばれる)、秋になると伝統的な「ラマンケンアイントプフ」に用いられる<ref group="訳注">アイントプフ({{lang-de|Eintopf|link=no}}は「煮込み料理」を意味する</ref>。この料理にはルタバガの他に、[[ジャガイモ]]、[[ソラマメ]]、[[インゲンマメ]]、[[エンドウマメ]]、[[ニンジン]]、[[ネギ]]、[[セロリ]]などが使われる。最後の仕上げに甘く煮た[[セイヨウナシ]]を添える。 |
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'''グリュンコール'''([[ケール]])は伝統的な冬の食材である。毎年11月から2月がオスナブリュックのグリュンコールの季節である。かつては貧しい人々を支える料理であったが、現在では、特に肉の付け合わせとして美味な食材である。コールには特別なスパイスが用いられ、人気の{{仮リンク|コールヴルスト|de|Kohlwurst|en|Kohlwurst}}に添えられる。コールを用いて[[ベジタリアン]]向けの食事を調理することもできる。グリュンコールは、オスナブリュック地域では通常、[[カッセラー]]、コールヴルスト、{{仮リンク|ピンケル|de|Pinkel|en|Pinkel}}、新鮮な太い焼きソーセージ、油で炒めたジャガイモとともに供される。 |
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'''ヴルステブロート''' <ref group="訳注">{{lang-de|Wurst|link=no}} = ソーセージ、{{lang-de|Brot|link=no}} = パン</ref>はオスナブリュック地域の典型的な料理である。ヴルスト(ソーセージ)は血、粗挽きの[[ライムギ]]、[[脂身]]の多い[[ベーコン]]、[[豚肉]]、[[小麦粉]]、調味料で作る。これを薄く切って、[[ラード]]や[[バター]]で焼いてパンとともに食す。ヴルステブロートも伝統的に冬の料理である。かつては秋に家畜をつぶして作ったものである。 |
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'''シュトプゼル'''はこの地域の典型的な冬の料理である。この料理は豚肉(特に茹でたブタの頭や足)、[[ブイヨン]]、挽き割り穀粒で作る。滋味に富んだシュトプゼルは、フライパンで炒めてパンとともに供されるか、あるいは茹でて[[ウスターソース]]をかけてジャガイモや[[ビート]]とともに食される。シュトプゼルは極めて栄養豊富で、ヴルステブロートと同様に秋に家畜をつぶした際に作られた。 |
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'''プンパーニッケル'''は、オスナブリュックやその周辺地域ではしばしば「シュヴァルツブロート」(黒パン)とも呼ばれる。この種のパンは早くも1450年頃の飢餓の際に、都市領主の命令で都市農民が費用を出して貧しい人々のためのパンとして焼いたもので「bonum paniculum」、すなわち「おいしい小さなパン」と名付けられた。[[ラテン語]]が分からない民衆がこの bonum paniculum から、初めては「ボンパーニッケル」、その後「プンパーニッケル」と呼ぶようになった。オスナブリュックには古いパーニッケル塔が現存している。ここに貧しい人々のために bonum paniculum を焼くパン釜が設けられていた。 |
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'''シュプリングブレッチェン''' ({{lang-de|Springbrötchen|link=no}}) は、焼き菓子のひび割れた ({{lang-de|aufspringen|link=no}}) 表面からその名が付けられた。これはオスナブリュック地域特産の小さなパンで、この地域でのみ提供されている。ひび割れた表面は、仕上げの生地に対する叩き方の違いによって生まれる。仕上げの生地には柔軟化剤の ABC-膨張剤([[重炭酸アンモニウム]]を主成分とする)が含まれているため、全体的にややふっくらとした味わいが得られる<ref>[http://www.backen123.de/Brotchen/Springbrotchen/springbrotchen.html Springbrötchen](2018年2月2日 閲覧)</ref>。 |
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'''ヘーデヴェッゲン'''(低地ドイツ地方では「ハイスヴェッケ」(直訳「温かいヴェッケン」)と呼ばれるが、それにもかかわらず通常は冷たい料理である)は、ビスケットに似た[[レーズン]]入りのパンである。やや脂肪分が高く、レーズンの他に砂糖漬けのシトロンの果皮も入れる。オスナブリュックではコーヒーや紅茶とともに好んで食され、特に[[謝肉祭]]の季節に人気である。 |
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この他に、オスナブリュックにちなんだ「オスナブリュッカー・レネッテ」というリンゴの種類がある。 |
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=== 栄誉、褒賞 === |
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オスナブリュック市は、市民やその他の人々に対して多くの褒賞を行っている。 |
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* ユストゥス=メーザー=メダル<ref>[https://www.osnabrueck.de/rat/politik/auszeichnungen-der-stadt/justus-moeser-medaille.html Stadt Osnabrück: Justus-Möser-Medaille](2018年2月5日 閲覧)</ref> |
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* エーリヒ=マリア=レマルクー平和賞<ref>[http://www.osnabrueck.de/friedenspreis/start.html Stadt Osnabrück: Erich-Maria-Remarque-Friedenspreis](2018年2月5日 閲覧)</ref> |
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* [[カリカチュア]]作家や[[カートゥーン]]作家のフリッツ=ヴォルフ若手奨励賞 |
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* 社会融和のためのYilmaz-Akyürek賞<ref>[https://www.osnabrueck.de/rat/politik/auszeichnungen-der-stadt/yilmaz-akyuerek-preis.html Stadt Osnabrück: Yilmaz-Akyürek-Preis](2018年2月5日 閲覧)</ref> |
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* エリーザベト=ジーゲル賞<ref>[https://www.osnabrueck.de/elisabeth-siegel-preis.html Stadt Osnabrück: Elisabeth-Siegel-Preis](2018年2月5日 閲覧)</ref> |
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* オスナブリュック市平和映画賞 |
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* キッドクラージェ賞 - 「誰かのために強くなる」をモットーに行われるオスナブリュック市民グループのプロジェクト |
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=== その他 === |
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[[File:Osnabrücker Hütte2.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュッカー・ヒュッテ]] |
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* 本市は近年、ある独特の特徴でメディアの注目を集めている。それは[[オオヤマネ]]の害である。害であろうがなかろうが、オスナブリュックはオオヤマネ捕獲者を有するドイツで唯一の都市である。捕獲者は、この[[害獣]]を捕獲し、街から遠く離れた場所で解放する<ref>Markus Wollnik: [http://www.deutschlandfunk.de/siebenschlaeferplage-haelt-osnabruecker-region-in-atem.697.de.html?dram:article_id=73215 Siebenschläferplage hält Osnabrücker Region in Atem], Deutschlandfunk 2004年6月25日付け(2018年2月5日 閲覧)</ref><ref>[http://www.shortnews.de/id/515376/siebenschlaefer-entwickeln-sich-in-osnabrueck-zur-plage# Siebenschläfer entwickeln sich in Osnabrück zur Plage]、ShortNews 2004年4月29日付け(2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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* 雑誌「[[シュテルン (雑誌)|シュテルン]]」の2003年の記事によれば、ドイツで最も幸福な人はオスナブリュックに住む人である<ref>[https://web.archive.org/web/20130529065941/http://www.stern.de/presse/vorab/online-umfrage-perspektive-deutschland-stern-umfrage-in-osnabrueck-leben-die-zufriedensten-deutschen-535061.html stern-Umfrage: In Osnabrück leben die zufriedensten Deutschen], stern.de 2003年3月27日付け (archive.de)(2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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* オスナブリュックの他に、類似した名前の街がいくつかある: [[アメリカ合衆国]][[ノースダコタ州]]の北東部に{{仮リンク|オスナブロック (ノースダコタ州)|label=オスナブロック市|en|Osnabrock, North Dakota}}が、[[オハイオ州]]にはオスナバーグがある。[[スコットランド]]にはオスナバラがある。[[太平洋]]の{{仮リンク|メヘティア島|en|Mehetia}}は1767年にヨーロッパ人が発見した際にはオスナバラと命名された。さらに[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]には1998年にサウス・ストーモントが新たに形成されるまでオスナブロックという町があった。同じくオンタリオ州の[[オジブワ|オジワブ族]]の Mishkeegogamang Ojibway Nation があるが、ここはかつてオスナバラとして知られていた。 |
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* 18世紀から19世紀にアングロ・サクソン地方では、粗く編んだ作業着が「オスナバーグ」の名前で普及していた。これはおそらくオスナブリュクの織布に起源とする。 |
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* [[オーストリア]]のグローセレントタールには、高度 2032 m にオスナブリュッカー・ヒュッテがある。これはドイツ・アルペン協会のオスナブリュック部局の山小屋である<ref>[http://www.alpenverein-osnabrueck.de/?option=com_content&view=article&id=1&Itemid=3 Deutscher Alpenverein – Sektion Osnabrück](2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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* ハンブルクの[[パンク・ロック]]・バンド「モントレアル」は2017年にミュージックビデオ「オスナブリュック」をリリースした。しかし、その映像はすべてミュンスターで収録されたものである<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=idkzUSATH7Y MONTREAL - Osnabrück (Offizielles Video) - YouTube](2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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* 2006年に[[コクチョウ]]「ペトラ」が新聞の大見出しを飾った。このコクチョウはミュンスターで、大きな白鳥の形をした足踏みボートに恋をした。この鳥は、夏の間中、アー湖の「同類」から離れずに過ごし、11月に両者はミュンスター・アルヴェッター動物園に移された。「[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]」や「シュテルン」といったドイツのメディアの他に、アメリカ合衆国、日本、インド、アラビアのテレビチームが取材に訪れた。2009年末、ペトラは一時的に姿を消し、2013年春にオスナブリュックで「新しい恋人」を見つけて、ここで暮らしている<ref>[https://web.archive.org/web/20131109214744/http://www.muensterschezeitung.de/lokales/muenster/Liebe-in-Osnabrueck-Trauerschwan-Petra-lebt-und-liebt-einen-Schwanen-Mann%3Bart993%2C1960615 Trauerschwan Petra lebt und liebt einen Schwanen-Mann], Münstersche Zeitung 2013年11月9日付け (Web.Archive)(2018年2月5日 閲覧)</ref>。 |
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== 経済と社会資本 == |
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=== 経済 === |
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オスナブリュックは、[[ニーダーザクセン州]]南西部および、境を接する[[ヴェストファーレン]]の一部の上級中心都市である。この周辺市町村の人々は、この街で働き、ショッピングや活動の中心として街を利用している。オスナブリュックの経済は、ドイツにおける[[産業革命]]の開始以後、特に工業に依存している。ヨーロッパの重要な道路、鉄道、水路が交差する交通の便の良い場所に位置することから、オスナブリュックでは[[運輸業]]が著しく発展し、数多くのサービス系企業が地域を超えた名声を獲得している。 |
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[[File:KME Osnabrück Verwaltung.jpg|right|220px|thumb|KME オスナブリュック]] |
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==== 鉄鋼、金属産業 ==== |
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1868年の「オスナブリュック鉄鋼工場」(後のクレックナー鉄鋼工場)<ref>Joachim Dierks: [https://www.noz.de/lokales/osnabrueck/artikel/464472/das-schinkeler-stahlwerk-gab-5000-menschen-arbeit#gallery&0&0&464472 Das Schinkeler Stahlwerk gab 5000 Menschen Arbeit], Neue Osnabrücker Zeitung 2014年4月2日付け(2018年2月3日 閲覧)</ref>や、同時期に市の南部にゲオルクスマリエンヒュッテが進出したことで、数十年間にわたって、オスナブリュックの風景は鉄鋼工場によって形成されるようになった。鉄鋼危機とその結果として1989年にクレックナー工場が終業した後も、ゲオルクスマリエンヒュッテは、建設用鋼材製造業者として存続している。 |
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内市街の北、ガルトラーゲに1873年、ヴィッテ・ウント・ケンパー針金・釘工場が進出した。この会社は1890年にオスナブリュック銅・針金工場 AG (OKD) となった。現在この会社は KME AG という名称で、ヨーロッパにおける銅加工のトップ企業となっている。 |
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[[File:Felix Schoeller Osnabrück aerial.jpg|right|160px|thumb|フェリックス・シェラー製紙]] |
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==== 紙産業 ==== |
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オスナブリュック市とその周辺地域は、ドイツの[[製紙業]]・紙製品加工業の中心地である。数世紀前からハーゼ川沿いには製紙用水車があり、ハーフェン市区のケンメラー製紙およびグレーテシュ市区のフェリックス・シャラー・グループが発展した。ケンメラー製紙は[[フィンランド]]の企業{{仮リンク|アールストロム|fi|Ahlstrom|en|Ahlstrom}}に吸収された。しかし、2016年には再びケンメラーの名称を使用している<ref>Wilfried Hinrichs: [https://www.noz.de/lokales/osnabrueck/artikel/804043/osnabruecker-tradition-lebt-weiter-kaemmerer-ist-wieder-kaemmerer Osnabrücker Tradition lebt weiter: Kämmerer ist wieder Kämmerer], Neue Osnabrücker Zeitung 2016年11月10日付け(2018年2月3日 閲覧)</ref>。 |
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また、オスナブリュックとその周辺には大きな紙製品加工業者がある。たとえば[[ブラームシェ]]のラッシュ壁紙製造やドゥーニ、{{仮リンク|ヘルステル|de|Hörstel|en|Hörstel}}のフィスラーゲなどである。 |
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==== 自動車産業 ==== |
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オスナブリュックは、旧[[カルマン (自動車)|カルマン]]による数多くの[[オープンカー|カプリオ]]の製造地として知られている。2009年に破産した後、大部分がフォルクスワーゲン・オスナブリュックとして[[フォルクスワーゲン|フォルクスワーゲン・コンツェルン]]に組み込まれた。しかし、[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]の流行によりカプリオレの需要は減少した。このため現在この工場では、フォルクスワーゲン・コンツェルンの別の車種も製造している。 |
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==== 転換 ==== |
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近年、オスナブリュックの多くの元工業用地や旧軍用地で転換プロセスが進行している。これにより、一方では確かに、土地の以前の利用者が重要な経済ファクターの一部をなしていたため、市の経済発展が危機にさらされた。しかし他方では、これらの土地が都市近郊型住宅地や商業地として利用されることで、地域の転換が大きな利益を生み出すようになることが期待される。 |
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[[ドイツ連邦軍]]はオスナブリュックに多くの[[駐屯地]]を有しており、そのすべてが2004年までに開放された。連邦軍兵舎の跡地利用がなされたのは、たとえばヴェスターベルク市区(オスナブリュック総合大学や単科大学の拡張)やカルクヒューゲル市区(住宅地および行政センター)がある。[[イギリス軍]]の撤収により、2009年までにさらに兵舎の敷地が空いた。これらの一部、たとえばドーデンスハイデ(リムベルク兵舎)やアッター(ラントヴェール通りの兵舎)ではそれ以前から転用が始まっていた。 |
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オスナブリュックの工業転換用地の例が、フレッダー市区の1989年に閉鎖されたクレックナー鉄鋼工場の敷地である。現在では都市近郊型商業地「ハーゼパーク」となっている。そのすぐ南に位置する扇形機関庫を有する旧貨物駅は新たな用途が期待されているが、現在の土地所有者とオスナブリュック市との間の対立によって困難になっている。 |
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==== 通勤者 ==== |
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オスナブリュック市は周辺市町村と通勤での結びつきが極めて強い都市である。2012年現在、合計 51,270人の社会保険支払い義務のある就労者がこの街に通勤してくる。その大部分が[[オスナブリュック郡]]([[ニーダーザクセン州]])および{{仮リンク|シュタインフルト郡|de|Kreis Steinfurt|en|Steinfurt (district)}}([[ノルトライン=ヴェストファーレン州]])からの通勤者である。逆にオスナブリュック市からは 20,194人がオスナブリュック郡、シュタインフルト郡および[[ミュンスター|ミュンスター市]]へ働きに出かけている。最も通勤者が多いのは[[ゲオルクスマリーエンヒュッテ]]とオスナブリュック(ゲオルクスマリエンヒュッテからオスナブリュックへ 4,470人、オスナブリュックからゲオルクスマリエンヒュッテへ 2,181人)および[[ヴァレンホルスト]]とオスナブリュク(ヴァレンホルストからオスナブリュクへ 4,432人、オスナブリュックからヴァレンホルストへ 1,107人)である。[[ベルム]]、[[ビッセンドルフ]]、[[ブラームシェ]]、{{仮リンク|ロッテ (ヴェストファーレン)|label=ロッテ|de|Lotte (Westfalen)|en|Lotte, Germany}}からオスナブリュックへは 2,000人以上、[[ハーゲン・アム・トイトブルガー・ヴァルト]]、[[ハスベルゲン (オスナブリュック郡)|ハスベルゲン]]、{{仮リンク|イッベンビューレン|de|Ibbenbüren|en|Ibbenbüren}}、[[メレ (ドイツ)|メレ]]、[[オスターカッペルン]]、{{仮リンク|ヴェスターカッペルン|de|Westerkappeln|en|Westerkappeln}}からオスナブリュックへは 1,000人以上が通勤している。 |
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==== 企業 ==== |
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以下に、オスナブリュックに本社あるいは主要拠点を置く重要な企業をアルファベット順に列記する: |
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[[File:C EUROPE Osnabrueck 068.jpg|right|220px|thumb|ヘルマン・ワールドワイド・ロジスティクス・オスナブリュック]] |
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[[File:Karmann Osnabrück.jpg|right|220px|thumb|カルマン]] |
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[[File:Kiho1.JPG|right|220px|thumb|オスナブリュック子供病院]] |
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[[File:L+T Fassade 2011 02.jpg|right|220px|thumb|レンガーマン・ウント・トリーシュマン]] |
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[[File:Sievert quick-Mix Verwaltung.jpg|right|220px|thumb|ジーヴェルト・クイック=ミックス]] |
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* アウト・ヴェラー: verアーグループの一部、従業員数 471人(2007年現在) |
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* buw企業グループ: 連邦内に約 5,000人の従業員を擁する(2013年現在) |
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* オスナブリュック・キリスト教小児病院: 小児・青年医療の病院 |
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* コンディトライ・コペンラート & ヴィーゼ: パン、焼き菓子製造、従業員数約 2200人(2010年) |
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* ヴェルナー・エーガーラント自動車輸送、1,174人 |
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* フェリックス・シェラー・グループ、世界中に約2,400人の従業員 |
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* ヘルマン・ワールドワイド・ロジスティクス、約9,200人 |
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* ハインリヒ・フィップ GmbH & Co. KG、ミネラルオイル販売会社 |
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* HR グループ GmbH & Co. KG、靴販売会社、靴販売チェーン「レーノ」の親会社、ヨーロッパ中に約 6,000人の従業員がいる。 |
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* カルマン、現在はフォルクスワーゲン・オスナブリュック |
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* オスナブリュック子供病院、従業員数約 150人 |
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* オスナブリュック病院、従業員数約 1,800人 |
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* KM オイローパ金属、従業員数約 2,700人 |
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* コッホ・インターナショナル、国際的運送業者、従業員数約 700人 |
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* ケスター、従業員数約 1,000人 |
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* レンガーマン・ウント・トリーシュマン、服飾販売 |
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* ライジーファー、チョコレート製造、従業員数約 450人 |
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* オスナブリュック・マリエン病院、従業員数約 1,500人 |
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* マイヤー & マイヤー国際輸送代理店、世界中に約 2,300人の従業員を擁する(2008年) |
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* [[ノルトヴェストバーン]]、従業員数約 850人 |
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* パラセルスス病院、従業員数約 5,200人 |
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* ピーペンブロック企業グループ、連邦中に約 26,000人の従業員を擁する(2013年) |
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* Q1 エネルギー AG、連邦中にガソリンスタンドを180店有している(2015年現在) |
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* R & R アイスクリーム・ドイチュラント、ヨーロッパに1,400人の従業員、フランスとポーランドに工場を有する。 |
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* ジーヴェルト AG、従業員数約 1,400人 |
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* ゾストマイアー輸送、ヨーロッパ中に約1,000人の従業員を擁する(2008年) |
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* ティトゲマイヤー (GTO) プロドゥクティオーン、有用車輌の大手販売、従業員数約 500人 |
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* フォルクスワーゲン・オスナブリュック、2011年から、従業員数約 1,200人 |
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* ヴェラーグループ、従業員数約 1,750人 |
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* ヴェセルス + ミュラー AG、乗用車および有用車輌の大手販売業者、従業員数約 3,300人、ドイツ、オランダ、オーストリア、USAに販売店を持つ |
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この他の、オスナブリュック周辺にある重要な企業は以下の通り: |
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* {{仮リンク|アマツォーネン=ヴェルク|de|Amazonen-Werke|en|Amazonen-Werke}}、ハスベルゲンの農機メーカー、従業員数約 1,500人 |
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* AVO-ヴェルク・アウグスト・バイセ、ベルムの香辛料加工所、従業員数約 500人、フランスとポーランドに工場がある |
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* ドゥニ GmbH、ブラムシェの使い捨て食器製造、従業員数約 600人(2011年) |
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* エルスター・クロムシュレーダー、ロッテ=ビューレンのガス器具、ガス測定器具製造会社、従業員数約 850人(2012年) |
|||
* フックス・スパイス、ディッセン・アム・トイトブルガー・ヴァルトのスパイス工場、従業員数約 3,500人 |
|||
* ゲオルクスマリエンヒュッテ企業グループ、ゲオルクスマリエンヒュッテ、従業員数約 10,000人 |
|||
* ヘリスト、バート・ローテンフェルデの食品工場、従業員数約 3,800人 |
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* ホーマン・ファインコスト、ディッセン・アム・トイトブルガー・ヴァルトの食品会社、従業員数約 1,500人 |
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* ケンパー・ヴルストヴァーレン、ノルトルプの食品(ソーセージ)メーカー従業員数約 1,300人(2009年) |
|||
* マインダース & エルスターマン、ベルムの印刷・出版社、従業員数約 170人 |
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* サニケア配送薬局ヨハネス・メンター、[[バート・ラーエル]]、従業員数約 800人 |
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この他にいくつかの企業がニーダーザクセンパークに進出している。 |
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=== メディア === |
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[[File:NOZ Medien 8-2017.jpg|right|160px|thumb|ノイエ・オスナブリュッカー・ツァイトゥング本社]] |
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==== 日刊紙 ==== |
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オスナブリュックでは、「{{仮リンク|ノイエ・オスナブリュッカー・ツァイトゥング|de|Neue Osnabrücker Zeitung|en|Neue Osnabrücker Zeitung}}」が刊行されている。この新聞は、1884年に創刊された「オスナブリュッカー・ターゲブラット」と「ノイエ・ターゲスポスト」が合併して成立した。 |
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==== オンラインメディア ==== |
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オンラインポータル「Hasepost.de」は2013年から運用されており<ref>[https://www.hasepost.de/ Hasepost.de](2018年2月3日 閲覧)</ref>、主にローカルニュースを発信している。先行するプロジェクト「Loewenpudel.de」はオスナブリュックで最初の地方オンラインポータルであり、1996年にスタートした<ref>Heiko Pohlmann: [https://www.hasepost.de/zwei-jahrzehnte-osnabruecker-internetgeschichte-2194/ Ein Blick zurück auf zwei Jahrzehnte Osnabrücker Internetgeschichte], Hasepost.de 2015年1月1日付け(2018年2月3日 閲覧)</ref>。 |
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==== 週刊紙、月刊誌 ==== |
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コマーシャルペーパー「オスナブリュッカー・ナハリヒテン」は毎週水曜日と日曜日に刊行されている。2014年1月まではさらに「オスナブリュッカー・ゾンターグスツァイトゥング」も日曜日に刊行されていた。 |
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月刊紙には「インサイダー・オスナブリュック」、「オイレンシュピーゲル」「モスキート・マガジン」「シュトラーセンツァイトゥング・アプザイツ!?」がある。また1年に2回飲食店の主導によるタウン誌「シュタットブラット」が刊行されている。 |
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2012年からオスナブリュック単科大学のメディアプロジェクトとして雑誌「オスナブリュッカー・ヴィッセン」が刊行されている。 |
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==== 放送 ==== |
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オスナブリュックのローカルラジオ局は、「ラジオ・オスナブリュック 98.2」と「トイトラジオ・オスナブリュック」である。さらに、ラジオ番組やテレビ番組を制作する[[北ドイツ放送]] (NDR) の地方スタジオの所在地でもある。これらの放送は、ブラムシェのシュレプトルパー・エッゲ送信所から発信されている。さらにラジオ局「ffn」、「ヒットラジオ・アンテネ」「ラジオ21」の地方スタジオもある。 |
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osradio 104.8 は市民ラジオ放送局で、この放送局は一般公開されている。 |
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[[File:Schinkelberg 11.jpg|right|160px|thumb|シンケル塔]] |
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=== 通信 === |
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オスナブリュック唯一の電信塔が、1977年に完成した DFMG の送信塔「シンケル塔」で、ここには様々な送信局がある。オスナブリュックの北約 5 km のブラームシェ市内に NDR のシュレプトルパー・エッゲ放送送信所が、オスナブリュックの南約 10 km のハーゲン・アム・トイトブルガー・ヴァルト町内に DFMG のグラーフェンズンデルン送信塔がある。オスナブリュックにはかつて、オスナブリュック=ツィーゲンブリンク送信所があった。 |
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=== 交通 === |
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==== 交通手段 ==== |
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以下の表は、2010年現在のオスナブリュック市の旅客交通における交通手段のシェアを示している<ref>[http://epomm.eu/tems/result_city.phtml?city=331&list=1 TEMS - The EPOMM Modal Split Tool - Osnabrück](2018年2月4日 閲覧)</ref>。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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|- |
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!width="100px"|交通手段!!width=80px|徒歩!!width=80px|自転車!!width=80px|公共交通機関!!width=80px|自動車 |
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|- |
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|'''比率'''||19 %||12 %||16 %||53 % |
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|} |
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==== 道路 ==== |
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オスナブリュックを複数の[[アウトバーン|連邦アウトバーン]]が通っている: 北西部を [[アウトバーン 1|A1号線]]「ハンザ線」{{仮リンク|プットガルデン|de|Puttgarden|en|Puttgarden}} - [[ザールブリュッケン]]、南部を {{仮リンク|アウトバーン30号線|label=A30号線|de|Bundesautobahn 30|en|Bundesautobahn 30}}[[バート・エーンハウゼン]] - [[アムステルダム]]、東部を {{仮リンク|アウトバーン33号線|label=A33号線|de|Bundesautobahn 33|en|Bundesautobahn 33}}オスナブリュック - [[パーダーボルン]]である。さらに{{仮リンク|連邦道 (ドイツ)|label=連邦道|de|Bundesstraße|en|Bundesstraße}} {{仮リンク|連邦道68号線 (ドイツ)|label=B68号線|de|Bundesstraße 68}}がこの街を貫いている。{{仮リンク|連邦道51号線 (ドイツ)|label=B51号線|de|Bundesstraße 51|en|Bundesstraße 51}}と {{仮リンク|連邦道65号線 (ドイツ)|label=B65号線|de|Bundesstraße 65}}は市の東端を通っている。市内環状線内は、いくつかの箇所が歩行者専用区域に指定されている。 |
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ノイマルクトは、中心的な交通の乗り換え地点である。ここはオスナブリュックの繁華なショッピング街であるグローセ通り/ヨハニス通りが大通りと交差する地点であり、市バスの中央乗り換え所がある。オスナブリュックの道路網は約 820 km で、このうち 760 km を市が管理している。31 km が連邦アウトバーン、12 km が連邦道、15 km が州道、65 km が郡道である<ref name="GeographischeLage" />。 |
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[[File:Panorama-os-hbf.jpg|right|300px|thumb|オスナブリュック中央駅]] |
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[[File:Zechenbahnhof Piesberg.JPG|right|220px|thumb|ピースベルク鉱山駅の蒸気機関車(保存鉄道)]] |
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==== 鉄道交通 ==== |
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[[オスナブリュック中央駅]]は旅客駅を含め鉄道交通の乗り換え地点である。駅は立体交差構造の珍しい形式で、[[操車場]]を有している。[[ハンブルク]] - [[ブレーメン]] - [[ルール地方]]の路線とアムステルダム - [[ハノーファー]] - [[ベルリン]]の路線が、中央駅で交差する。この他に2つの支線がここから分岐している。1つは南東の[[ビーレフェルト]]方面へ(ハラー・ヴィレム)、もう1つは北方面へ向かう。後者はヘゼーペ<ref group="訳注">[[ブラームシェ]]の市区</ref>で2つの路線に分岐する。1つは{{仮リンク|クロッペンブルク|de|Cloppenburg|en|Cloppenburg}} - [[オルデンブルク|オルデンブルク (オルデンブルク)]] を経由して[[ヴィルヘルムスハーフェン]]へ、もう1つは{{仮リンク|フェヒタ|de|Vechta|en|Vechta}}を経由して[[デルメンホルスト]]へ向かう。さらに、テックレンブルガー北鉄道が、オスナブリュック - {{仮リンク|メッティンゲン (ノルトライン=ヴェストファーレン州)|de|Mettingen|en|Mettingen|label=メッティンゲン}} - {{仮リンク|レッケ|de|Recke (Westfalen)|en|Recke}} - {{仮リンク|ライネ (ミュンスターラント)|de|Rheine|en|Rheine|label=ライネ}}線で貨物鉄道および[[保存鉄道]]を運行している。この路線を近代的な地方路線として再開させるかどうか議論がなされている。 SPNV ヴェストファーレン=リッペ近郊交通プランでは、良好な経済性が見込めるとして、オスナブリュックからレッケまでを30分間隔で運行する近代的な地方鉄道として再開することが期待されている。 |
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オスナブリュック中央駅は2000年から[[ノルトヴェストバーン]]の本社がある駅となっている。オスナブリュック市内にはこの他に、オスナブリュック・アルトシュタット(2009年末まではオスナブリュック・ハーゼトーア駅)とオスナブリュック=ズットハウゼン駅がある。前者は、ブラームシェ、オルデンブルク、ヴィルヘルムスハーフェン、フェヒタ、ブレーメン、ライネ、{{仮リンク|バート・ベントハイム|de|Bad Bentheim|en|Bad Bentheim}}、[[ビュンデ]]、ビーレフェルト、[[ブラウンシュヴァイク]]への列車が、後者はハレ (ヴェストファーレン) - ビーレフェルト方面の列車が利用できる。オスナブリュック=エーファースブルク駅、オスナブリュック=リュストリンゲン駅、オスナブリュック西駅は閉鎖されている。 |
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オスナブリュック中央駅 - オスナブリュック・アルトシュタット駅 - オスナブリュック=ピースベルク駅間の保存鉄道は、蒸気機関車愛好会によって運営されている<ref name="Dampflokfreunde" />。この他に、オスナブリュックからヴェスターカペルン、メッティンゲンを経由してレッケに至るテックレンブルガー北鉄道があるが、現在は保存鉄道と貨物列車が運行するだけである。 |
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1996年にオスナブリュック市は、「オスナブリュック地域の都市鉄道」というタイトルの下、カールスルーエ交通コンサルタントに実施可能性調査を依頼した。この調査では、内市街の鉄道路線を脱却してカールスルーエ・モデルに基づく都市型鉄道([[Sバーン]])に転換することが可能であるかが示された。 |
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[[ICE]] にはオスナブリュックにちなんだ名称を持つ車輌が存在する。 |
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オスナブリュックでは1906年に、2系統の路線を持つ[[路面電車]]が開通した。1920年代に3つめの路線がこれに加わった。オスナブリュックの路面電車は1960年まで運行していた。 |
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[[File:Osnabrück Hbf ZOB 2011.jpg|right|220px|thumb|中央駅前のバスステーション]] |
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[[File:Osnabrück - Busbahnhof Eisenbahnstrasse 01.jpg|right|220px|thumb|アイゼンバーン通りの長距離バス停]] |
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==== バス交通 ==== |
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近郊道路旅客交通は、オスナブリュック施設局 AG の9本の市バス基幹路線と、これと密接に結びついたヴェーザー=エムス・バスおよびその他の会社の地域バスが担っている。1960年代までは他の交通機関もこれに寄与していた: 上述の通り1906年から1960年までは路面電車も運行していた。1949年に最初の[[トロリーバス]]路線が営業を開始した。トロリーバス路線は、1968年まで、廃止された路面電車に替わって運行していた。その後、[[ディーゼルエンジン]]で走行するバスが市内で唯一の交通機関となった。中央駅に次ぐ重要な中央乗り換え所が、多くのバス停がまとまっているノイマルクトである。 |
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近郊道路旅客交通を統合する交通連盟はこれまで存在していない。オスナブリュック交通共同体 (VOS) のバスチケットは、列車では使用できない。ただしビーレフェルト行きのハラー・ヴィレム線は例外的に VOS-プラス料金が適用される。ミュンスターラントやテックレンブルガー・ラント方面の列車はヴェストファーレン料金が適用されるが、これらのチケットはオスナブリュック市バス網でも有効である。 |
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この他に2013年からオスナブリュック鉄道路線にはニーダーザクセン料金も適用されるが、バスには適用されていない。 |
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ニーダーザクセンでは、ディーゼルバスやトロリーバスに対する補助金は拠出されないが、Sバーンに対する補助金が間違いなく認可されるであろうことは、今後の計画にとって重要である。 |
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広域の旅行バスは駅の他に、アイゼンバーン通りに停車する。ここでは、[[ポーランド]]や旧[[ユーゴスラビア]]、旧[[ソビエト連邦|ソ連]]の国々へのバスが発着する。この他に、[[ベルリン]]行きのバスが1日に何本も運行している。 |
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==== 遊歩道 ==== |
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オスナブリュックは、ヴェーザー=エムス・ヴィーエン山地連合によって管理されている多くの広域遊歩道の発着点となっている<ref>[https://www.wiehengebirgsverband-weser-ems.de/wege-in-unserem-verbandsgebiet/ Wiehengebirgsverband Weser-Ems e.V. - Wege in unserem Verbandsgebiet](2018年2月4日 閲覧)</ref>。 |
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* 全長 229 km のハンデルスヴェーク: ドイツのテッデンヴェークとオランダのマールスクラマーパッドからなる(Deventer まで) |
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* 全長 208 km のヒューネンヴェーク(パーペンブルクまで) |
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* 全長 107 km のピッカーヴェーク(ヴィルデスハウゼンまで) |
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* 全長 90 km のヴィッテキンツヴェーク(ポルタ・ヴェストファーリカまで) |
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[[File:Stichkanal Osnabrück Brücke To Pye Südufer 2017-08-06.jpg|right220px|thumb|オスナブリュック・シュティヒ運河にかかるピエ地区への橋]] |
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==== 水路と港 ==== |
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オスナブリュック内陸港は、ハーフェン市区を終点とする全長 13 km のオスナブリュック・シュティヒ運河を経由して{{仮リンク|ミッテルラント運河|de|Mittellandkanal|en|Mittelland Canal}}と結ばれている。ミッテルラント運河に直接面した新しい港としてヘリングハウゼン地区ボームターにレッカーミューレ運河港が計画されている。この港はB51号線がミッテルラント運河を渡る地点の付近に建設される計画である。 |
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==== 航空路 ==== |
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* [[ミュンスター・オスナブリュック国際空港|ミュンスター/オスナブリュック空港]] (FMO) : 約 30 km の距離にある最寄りの空港がミュンスター/オスナブリュック空港である。毎日多くの便が、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[ミュンヘン]]、[[シュトゥットガルト]]の国際空港と結んでいる。ヨーロッパ内では、[[地中海]]周辺、[[カナリア諸島]]、[[トルコ]]や[[エジプト]]へ向けて多くの航空会社が運行している。この空港からオスナブリュクへは、アウトバーン A1号線および A30号線を経由する。高速バス路線「X150 エクスプレス=バス」が街と空港とを結んでいる。 |
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* オスナブリュック=アッターハイデ飛行場: 西のアッター市区にオスナブリュック=アッターハイデ飛行場がある。この飛行場は専ら航空監視の委託に用いられている。この飛行場は、総重量 5.7 t までの飛行機が着陸でき、多くの社用機が利用している。遊覧飛行が1年中可能である。 |
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[[File:IHK Osnabrück-Emsland.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック=エムスラント商工会]] |
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[[File:Landgericht Osnabrück.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック地方裁判所]] |
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=== 公共機関 === |
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オスナブリュックには以下の機関が存在する: |
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* ドイツ連邦環境財団 |
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* ドイツ平和研究財団 |
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* テルデ・ゾム・ドイチュラント(児童援助機関) |
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* オスナブリュック=エムスラント手工業会 - 管轄地域: オスナブリュック市、オスナブリュック郡、グラーフシャフト・ベントハイム郡、エムスラント郡 |
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* オスナブリュック中央税関 |
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* オスナブリュック=エムスラント=グラーフシャフト・ベントハイム商工会 - 管轄地域: オスナブリュック市、オスナブリュック郡、グラーフシャフト・ベントハイム郡、パーペンブルクを除くエムスラント郡 |
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* オスナブリュック地方裁判所 |
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* ニーダーザクセン州立文書館オスナブリュック館 |
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* オスナブリュック警察本部 |
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* ドイツ連邦銀行支店 |
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=== 教育 === |
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[[File:Gebäude Fakultät IuI, Albrechtstraße.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック単科大学]] |
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==== 大学 ==== |
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* [[オスナブリュック大学|オスナブリュック総合大学]] ({{lang-de|Universität Osnabrück|link=no}}) はオスナブリュッカー城を本部としており、1974年に設立された。この大学は、1953年にオスナブリュックに設立された教育単科大学を母体としている。 |
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* オスナブリュック単科大学 ({{lang-de|Hochschule Osnabrück|link=no}}) は1971年に、様々な施設が統合されて、設立された。高等農業学校、高等造園学校、州立工業学校がこれに参加した。同じ1971年に社会教育学高等専門学校から設立された北ドイツ・オスナブリュックおよびフェヒタ・カトリック専門大学はオスナブリュック専門大学に改編され、オスナブリュック司教とミュンスター司教が運営者から外れた。 |
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[[File:Carolinum Osnabrück.jpg|right|220px|thumb|ギムナジウム・カロリヌム]] |
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==== 一般教育と職業学校 ==== |
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主な学校を列記する。 |
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* [[ギムナジウム]]・カロリヌムは、804年に[[カール大帝]]によって設立されたと自称している。この学校はドイツで最も歴史の長い学校の1つである。 |
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* そのすぐ隣にウルズラシューレがある。これは、アンゲラシューレとともにウルズラ女子修道会によって設立された女子ギムナジウムに由来する。現在両校は、司教本部が運営する州内で有名な共学のギムナジウムである。 |
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* 1595年に完成した州立ラーツギムナジウム・オスナブリュックは、市内で最も古い非宗教系の学校である。 |
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* ギムナジウム「イン・デア・ヴュステ」は、2000 エキスポ=シューレであった。 |
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* 1965年に、第4ユンゲンギムナジウムとして設立されたグラーフ=シュタウフェンベルク=ギムナジウムは、カルクヒューゲルにある。この学校はバイリンガル教育を行っている。 |
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* UNESCOプロジェクト学校のシンケル総合学校は、オスナブリュック最大級の学校の1つである。この学校は、ニーダーザクセン州で最初期の全日制総合学校の1つである。 |
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* 1980年からゾンネンヒューゲル学校センターに立地するエルンスト=モーリッツ=アルント=ギムナジウムは全日制オイローパシューレである。 |
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* エーファースブルクの学校センターは2010年にオスナブリュック統合型総合学校に移管された。 |
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* 1961年から1990年までアメルドゥング通りに女子ギムナジウムとして設立されたケーテ=コルヴィッツ=ギムナジウムがあった。 |
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* [[モンテッソーリ教育|モンテッソーリ学園]]とエーヴィングハウゼン[[シュタイナー教育|自由ヴァルドルフ学園]]はオスナブリュックを学区に含む私立の学校である。 |
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* 19世紀初めに市参事会によって性別ごとに2クラスの国民学校と2クラスの本課程学校が市の中心部に設立された。これらは統合され4学年の市民学校が形成された。この市民学校は1833年にハーケン通り10番地の新しい校舎に移転した。ここはかつて[[ユストゥス・メーザー]]の住居であった。この学校は1927年にメーゼー=ミッテルシューレと改名された。現在はメーザー実科学校・アム・ヴェスターブルクとなっている。 |
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* 社会教育学専門学校「フランツ・フォン・アッシジ」は1921年に設立された。 |
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* 「演劇教育工房」は青少年向けの予防教育プログラムを提供している。 |
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{{gallery |
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|width=140 |
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|height=140 |
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|File:Schulhof-Ursulaschule.jpg|ウルズラシューレ |
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|File:Angelaschule Osnabrück, an der Bramstraße liegender Teil des Klostertraktes.jpeg|アンゲラシューレ |
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|File:Ratsgymnasium Osnabrück, 2006.jpg|ラーツギムナジウム |
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|File:Gymnasium-wueste.jpg|ギムナジウム・イン・ヴュステ |
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|File:OSGSG.JPG|グラーフ=シュタウフェンベルク=ギムナジウム |
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|File:Osnabrück Franz-von-Assisi-Schule.jpg|フランツ=フォン=アッシジ=シューレ |
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|File:Möser-Realschule am Westerberg.jpg|メーザー実科学校・アム・ヴェスターベルク |
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}} |
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[[File:Marienhospital Osnabrück.jpg|right|220px|thumb|オスナブリュック・マリエン病院]] |
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[[File:Kliniko Marienhospital Osnabrück.jpg|220px|thumb|オスナブリュック・キリスト教小児病院]] |
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=== 健康・保健・医療 === |
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* 最大の医療サービスを提供しているのは、ヴェスターベルク地区フィンケンヒューゲルに本院を構えるオスナブリュック市立病院である。 |
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* ニールス=シュテンセン=クリニークが運営する病院として、内市街にオスナブリュック・マリエン病院 (MHO) が、オスナブリュックとの市境に面するゲルクスマリエンヒュッテにハールダーベルク・フランツィスクス病院がある。 |
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* ヴェスターベルク地区には、オスナブリュック・パラセルスス病院の近くに、ドイツ・パラセルスス=クリニーケンの本部がある。 |
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* [[小児科学|一般小児科]]病院としては、オスナブリュック・キリスト教小児病院 (CKO) が2011年に開院し、マリエン病院に組み込まれた。 |
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* 1872年に開設されていたシェーラーベルクのオスナブリュック小児病院は、CKO の設立後は小児精神病の専門病院となった。 |
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* AMEOSグループは、2007年にゲルトルーデンベルクとクノル通りで精神科病棟を有するオスナブリュック郡立病院を買収した。 |
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* ゲルトルーデンベルクには、[[高気圧酸素治療]] (HBO) のための加圧センターがある。 |
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かつて存在した病院: |
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* ナトルパー=トーア=ヴァルの現在の行政庁舎群は1991年まで現在の市立病院 (Klinikum) の前身にあたる市立病院 (Krankenhaus) の建物であった。 |
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* エーファースブルク市区のナトルパー=ホルツにはかつて、オスナブリュック[[連邦軍病院]]があった。この病院は国防軍の野戦病院を起源とし、1994年に正式に病院となった。現在この建物は難民収容所として利用されている。 |
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== 人物 == |
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=== 出身者 === |
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* アルベルト・ズホ(1390年以前 - 1449年以後)聖職者、[[神学者]]、歴史著述家 |
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* {{仮リンク|ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターセン|de|Johann Wilhelm Petersen (Theologe)|en|Johann Wilhelm Petersen}}(1649年 - 1727年)[[福音主義]]神学者 |
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* [[アーネスト (ヨーク・オールバニ公)|エルンスト・アウグスト2世フォン・ハノーファー]](1674年 - 1728年)[[ヨーク公|ヨーク・オールバニ公]] |
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* [[ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・イェルーザレム]](1709年 - 1789年)神学者 |
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* [[ユストゥス・メーザー]](1720年 - 1794年)著述家、法学者、歴史家 |
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* {{仮リンク|エルンスト・フリードリヒ・ヘルベルト・ツー・ミュンスター|de|Ernst Friedrich Herbert zu Münster|en|Ernst zu Münster}}(1766年 - 1839年)[[政治家]]、[[ハノーヴァー朝|ハノーファー家]]に仕えた |
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* {{仮リンク|ベルンハルト・ルドルフ・アーベケン|de|Bernhard Rudolf Abeken|en|Bernhard Rudolf Abeken}}(1780年 - 1866年)[[哲学者]] |
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* {{仮リンク|フリードリヒ・クレメンス・ゲルケ|de|Friedrich Clemens Gerke|en|Friedrich Clemens Gerke}}(1801年 - 1888年)[[電報]]の開発者 |
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* {{仮リンク|ハインリヒ・アーベケン|de|Heinrich Abeken|en|Heinrich Abeken}}(1809年 - 1872年)福音主義神学者 |
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* {{仮リンク|アウグスト・フォン・クレリング|de|August von Kreling|en|August von Kreling}}(1819年 - 1876年)[[画家]]、[[彫刻家]] |
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* {{仮リンク|アウグスト・ハイゼンベルク|de|August Heisenberg}}(1869年 - 1930年)[[ビザンティン]]研究者、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]の父親 |
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* [[ヴァルター・ヴァルリモント]](1894年 - 1976年)[[軍人]]、国防軍砲兵大将 |
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* [[エーリヒ・マリア・レマルク]](1898年 - 1970年)[[作家]] |
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* {{仮リンク|フリードリヒ・フォルデムベルゲ=ギルデヴァルト|de|Friedrich Vordemberge-Gildewart|en|Friedrich Vordemberge-Gildewart}}(1899年 - 1962年)[[ロシア構成主義|構成主義]]の画家、彫刻家 |
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* [[マチアス・ヴィーマン]](1902年 - 1969年)俳優 |
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* {{仮リンク|ハンス・ゲオルク・カルマイヤー|de|Hans Georg Calmeyer|en|Hans Georg Calmeyer}}(1903年 - 1972年)[[法学者]] |
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* {{仮リンク|フェリックス・ヌスバウム|de|Felix Nussbaum|en|Felix Nussbaum}}(1904年 - 1944年)画家 |
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* [[ルドルフ・ベックマン]](1910年 - 1943年)[[武装親衛隊|武装親衛隊員]] |
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* {{仮リンク|フランツ・ルーカス|de|Franz Lucas (Mediziner)|en|Franz Lucas}}(1911年 - 1994年)強制収容所の医師 |
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* ベノ・シュテルツェンバッハ(1916年 - 1985年)俳優、[[演出家]] |
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* {{仮リンク|フーベルトゥス・ブランデンブルク|de|Hubertus Brandenburg|en|Hubertus Brandenburg}}(1923年 - 2009年)[[ストックホルム]][[司教]] |
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* [[ペーター・ファン・ペルス]](1926年 - 1945年)[[アンネ・フランク]]一家とともに隠れ住んだ[[ユダヤ人]] |
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* {{仮リンク|ラインホルト・レマート|de|Reinhold Remmert|en|Reinhold Remmert}}(1930年 - 2016年)[[数学者]] |
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* ホルスト・ボルヒャーディング(1930年 - 2015年)[[サッカー選手]] |
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* {{仮リンク|ルドルフ・ザイタース|de|Rudolf Seiters|en|Rudolf Seiters}}(1937年 - )[[政治家]]、連邦内務大臣、連邦議会副議長を歴任した。 |
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* {{仮リンク|パウル・キルヒホーフ|de|Paul Kirchhof|en|Paul Kirchhof}}(1943年 - ) |
|||
* ハイケ・フステーデ(1946年 - )女子水泳選手、[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコオリンピック]] 4×100mリレー銅メダリスト |
|||
* ハンス=ペーター・ヤクスト(1954年 - )[[自転車競技|自転車選手]] |
|||
* [[オーラフ・ショルツ]](1958年 - )政治家、連邦労働・社会保障大臣を務めた。 |
|||
* [[クリスティアン・ヴルフ]](1959年 - )政治家、[[ニーダーザクセン州]]首相、[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]を歴任した。 |
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* {{仮リンク|フォルカー・フリート|de|Volker Fried|en|Volker Fried}}(1961年 - )[[フィールドホッケー|ホッケー]]選手 |
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* {{仮リンク|ヨーヒェン・ホルスト|de|Jochen Horst|en|Jochen Horst}}(1961年 - )俳優 |
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* {{仮リンク|トーマス・メレンカンプ|de|Thomas Möllenkamp|en|Thomas Möllenkamp}}(1961年 - )[[ボート競技]]選手 |
|||
* エヴリーン・ヘルリツィウス(1963年 - )[[ソプラノ]]歌手 |
|||
* [[ジェントルマン (歌手)|ジェントルマン]](本名: ティルマン・オットー、1975年 - )[[レゲエ]]歌手 |
|||
* {{仮リンク|ホルガー・グランドルフ|de|Holger Glandorf|en|Holger Glandorf}}(1983年 - )[[ハンドボール]]選手 |
|||
* {{仮リンク|ロビン・シュルツ (DJ)|de|Robin Schulz|en|Robin Schulz|label=ロビン・シュルツ}}(1987年 - )[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[音楽プロデューサー]] |
|||
* [[フェリックス・クラウス]](1992年 - )サッカー選手 |
|||
* [[ドニス・アヴディヤイ]](1996年 - )[[サッカーコソボ代表|コソボ代表サッカー選手]] |
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=== ゆかりの人物 === |
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* {{仮リンク|ヘレーネ・ランゲ|de|Helene Lange|en|Helene Lange}}(1848年 - 1930年)[[フェミニズム|フェミニズム運動家]]、教育政治家。1867年から1871年までオスナブリュックで教師を務めた。 |
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* [[ヘルマン・ファン・ペルス]](1898年 - 1944年)アンネ・フランクの家族とともに隠れ住んだ。 |
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* {{仮リンク|ペーター・ベルリング|de|Peter Berling|en|Peter Berling}}(1934年 - 2017年)俳優。オスナブリュックで育った。 |
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== 参考文献 == |
|||
*{{Cite book |
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|last1 = Philippi |
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|first1 = Friedrich |
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|year = 1894 |
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|title = Zur Verfassungsgeschichte der westfälischen Bischofsstädte – mit urkundlichen Beilagen |
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*{{Cite book |
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|last1 = Keyer |
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|first1 = Erich |
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|year = 1952 |
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|title = Deutsches Städtebuch. Handbuch städtischer Geschichte Band III Nordwestdeutschland, 1. Teilband Niedersachsen/Bremen |
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*{{cite journal |
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|last=Wilbertz |
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|first=Gisela |
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|date=1978 |
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|title=Hexenprozesse und Zauberglaube im Hochstift Osnabrück |
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|journal=Osnabrücker Mitteilungen |
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|volume=84 |
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|pages=33-50}} |
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*{{Cite book |
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|last1 = Kaster |
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|first1 = Karl Georg |
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|year = 1980 |
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|title = Osnabrück. 1200 Jahre Fortschritt und Bewahrung |
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|location = Nürnberg |
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*{{Cite book |
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|editor = Statist. Bundesamt Wiesbaden |
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|year = 1983 |
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|title = Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland : Namens-, Grenz- u. Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen u. Reg.-Bez. vom 27.5.1970 bis 31.12.1982 |
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|publisher = Kohlhammer |
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|ISBN = 3-17-003263-1 |
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|ref = Statistik |
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*{{Cite book |
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|last1 = Junk |
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|first1 = Peter |
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|last2 = Sellmer |
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|first2 = Martina |
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|year = 1989 |
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|title = Stationen auf dem Weg nach Auschwitz. Entrechtung, Vertreibung, Vernichtung. Juden in Osnabrück 1900–1945. Ein Gedenkbuch |
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|publisher = Rasch Verlag |
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|ISBN = 3-922469-36-1 |
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*{{Cite book |
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|editor = Landschaftsverband Osnabrück |
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|year = 1990 |
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|title = Biographisches Handbuch zur Geschichte der Region Osnabrück |
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|ISBN = 3-922469-49-3 |
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*{{Cite book |
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|last1 = Hoffmeyer |
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|title = Chronik der Stadt Osnabrück. |
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|title = Osnabrück im 19. Jahrhundert |
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|first1 = Johann |
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|first2 = Lieselotte |
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|year = 1995 |
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|title = Chronica der Stadt Bremen, Teil 1. [Anno 449 - anno 1511] |
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|ref = Renner |
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*{{Cite book |
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|last1 = Rothert |
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|first1 = Hermann |
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|title = Geschichte der Stadt Osnabrück im Mittelalter: 2. Faksimiledruck der Ausgabe 1937–1938 |
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|ISBN = 978-3-87898-394-1 |
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*{{Cite book |
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|editor = Christiane Segers-Glocke |
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|year = 2000 |
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|title = Der Hasefriedhof in Osnabrück |
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*{{Cite book |
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|last1 = Stebel |
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|first1 = Heinz Jürgen |
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|year = 2003 |
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|title = Die Osnabrücker Hexenprozesse |
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*{{Cite book |
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|last1 = Spratte |
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|first1 = Wido |
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|year = 2004 |
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|title = Im Anflug auf Osnabrück. Die Bombenangriffe 1940–1945 |
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|edition = 2 |
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|publisher = Wenner Verlag |
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*{{Cite book |
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|last1 = Wagner |
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|first1 = Herbert |
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|year = 2004 |
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|title = Die Gestapo war nicht allein… – Politische Sozialkontrolle und Staatsterror im deutsch-niederländischen Grenzgebiet 1929–1945 |
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|ISBN = 978-3-8258-7448-3 |
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|publisher = Lit |
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|location = Münster |
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*{{Cite book |
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|last1 = Kröger |
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|first1 = Stefan |
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|year = 2004 |
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|title = Das Osnabrück Lexikon. Ein unterhaltsames Nachschlagewerk für Stadt und Land |
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|edition = 2, erweiterte |
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|ISBN = 978-3-87898-395-8 |
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|publisher = Wenner Verlag |
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*{{Cite book |
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|last1 = Kröger |
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|first1 = Stefan |
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|year = 2005 |
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|title = Osnabrück – Eine illustrierte Geschichte der Stadt |
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*{{Cite book |
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|editor = Gerd Steinwascher |
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|year = 2006 |
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|title = Geschichte der Stadt Osnabrück |
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|ISBN = 978-3-88926-007-9 |
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|year = 2008 |
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|title = Osnabrück – Ein Porträt (deutsch/englisch/französisch/niederländisch) |
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|ISBN = 978-3-86108-966-7 |
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|year = 2009 |
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|title = Die verbunkerte Stadt. Luftschutzanlagen in Osnabrück und Umkreis |
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|edition = 2 |
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|ISBN = 978-3-8370-7545-8 |
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|publisher = Books on Demand GmbH |
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*{{Cite book |
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|last1 = Meckel |
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|first1 = Bettina |
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|title = Osnabrück und Umfeld |
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|edition = 2., erw. |
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|ISBN = 978-3-87898-417-7 |
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|last1 = Haubrock |
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|first1 = Hauke |
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|last2 = O'Brien |
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|first2 = Andreas |
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|title = Der Luftschutzstollen am Kalkhügel – Ein ehemaliger Luftschutzbunker in Osnabrück |
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|ISBN = 978-3-8448-1154-4 |
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|publisher = Books on Demand GmbH |
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|location = Norderstedt |
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|year = 2014 |
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|title = Architekturführer Osnabrück |
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|ISBN = 978-3-86922-278-3 |
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|publisher = DOM Publ. |
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*{{Cite book |
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|editor = Tobias Romberg |
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|year = 2016 |
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|title = Osnabrück wegweisend – Mehr als 80 Straßen, Wege und Plätze: Porträts und Geschichte(n) |
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|ISBN = 978-3-939256-38-0 |
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|publisher = Anno-Verlag |
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|location = Ahlen |
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}} |
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<small>これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。</small> |
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=== 日本語文献 === |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=高橋理 |
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|year=2013 |
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|title=ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業 |
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|isbn=978-4-422-20337-9 |
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}} |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=フィリップ・ドランジェ |
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|others=高橋理(監訳)、奥村優子、小澤実、小野寺利行、柏倉知秀、高橋陽子、谷澤毅(訳) |
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|year=2016 |
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|title=ハンザ 12-17世紀 |
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|publisher=[[みすず書房]] |
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|isbn=978-4-622-08511-9 |
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|ref=ドランジェ |
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}} |
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=== ウェブ === |
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*{{cite web |
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|url = https://www.dwd.de/DE/leistungen/klimadatendeutschland/langj_mittelwerte.html |
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|title = Wetter und Klima - Deutscher Wetterdienst - Leistungen - Langjährige Mittelwerte (1981 - 2010) |
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|accessdate = 2018年1月21日 |
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|language = de |
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|ref = Wetterdienst |
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}} |
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*{{Cite web |
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|url = https://www.osnabrueck.de/fileadmin/user_upload/Geographische_Lage_Osnabruecks.pdf |
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|title = GEOGRAPHISCHE LAGE OSNABRÜCKS |
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|accessdate = 2018年1月20日 |
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|publisher = Stadt Osnabrück, Team Strategische Stadtentwicklung und Statistik, |
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|date = 2013年1月 |
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|format = PDF |
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|language = de |
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|ref = Geographische |
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*{{Cite web |
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|url = http://www.comfort.de/fileadmin/user_upload/downloads/staedtereport/COMFORT_Staedtereport_Osnabrueck_neu.pdf |
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|title = COMFORT Städtereport Osnabrück 2015 |
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|accessdate = 2018年1月20日 |
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|ref = Städtereport |
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}} |
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*{{Cite web |
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|url = https://www.osnabrueck.de/fileadmin/eigene_Dateien/017_GRUEN-UMWELT/Gr%C3%BCne_Hauptwege_zur_Naherholung__Erholungswegekonzept_Stadt_Osnabr%C3%BCck_2016_reduziert.pdf |
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|title = Grüne Hauptwege zur Naherholung - Erholungswegekonzept für Fußgänger und Radfahrer in der Stadt Osnabrück |
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|accessdate = 2018年1月21日 |
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|date = 2016年10月 |
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|ref = Erholungswegekonzept |
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== 出典 == |
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<references responsive /> |
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== 訳注 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{ |
{{Commonscat|Osnabrück}} |
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* [http://www.osnabrueck.de/ オスナブリュックの公式 |
* [http://www.osnabrueck.de/ オスナブリュック市の公式ウェブサイト] |
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* {{dmoz|World/Deutsch/Regional/Europa/Deutschland/Niedersachsen/St%c3%a4dte_und_Gemeinden/O/Osnabr%C3%BCck/|Osnabrück}} |
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* [http://www.vfl.de/ VfL Osnabrück]([[ドイツ語]]) |
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* Georg Braun: [http://historic-cities.huji.ac.il/germany/osnabruck/maps/braun_hogenberg_I_22_2.html Abbildung der Stadt 1572 in ''Civitates orbis terrarum''] |
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* [http://www.untergrundosnabrueck.de/ Untergrund Osnabrück – Forschungsgemeinschaft zur Dokumentation von Luftschutzbunkern aus dem 2. Weltkrieg in Osnabrück und dem Osnabrücker Land] |
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* [https://portal.dnb.de/opac.htm?method=simpleSearch&query=4043974-4 Deutschen Nationalbibliothek - Osnabrück] |
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{{ニーダーザクセン州の郡独立市および郡}} |
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||
[[Category:オスナブリュック|*]] |
[[Category:オスナブリュック|*]] |
2018年2月11日 (日) 13:23時点における版
紋章 | 地図(郡の位置) |
---|---|
基本情報 | |
連邦州: | ニーダーザクセン州 |
緯度経度: | 北緯52度16分44秒 東経08度02分35秒 / 北緯52.27889度 東経8.04306度 |
標高: | 海抜 63 m |
面積: | 119.8 km2[1] |
人口: |
166,960人(2023年12月31日現在) [2] |
人口密度: | 1,394 人/km2 |
郵便番号: | 49074-49090 |
市外局番: | 0541 |
ナンバープレート: | OS |
自治体コード: | 03 4 04 000 |
行政庁舎の住所: | Natruper-Tor-Wall 2 49076 Osnabrück |
ウェブサイト: | www.osnabrueck.de |
首長: | ヴォルフガング・グリーゼルト (Wolfgang Griesert)[3] |
郡内の位置 | |
オスナブリュック (ドイツ語: Osnabrück, [ɔsnaˈbrʏk] ( 音声ファイル)[4], ヴェストファーレン方言: Ossenbrügge, 古低ドイツ語: Osenbrugge[5], ラテン語: Ansibarium) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州の郡独立市で、同時にオスナブリュック郡の郡庁所在地である。この大都市はニーダーザクセン州の上級中心都市の1つであり、オスナブリュッカーラントの中心である[6]。人口16万人を超えるこの街[7]は、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、同規模のオルデンブルクに次ぐニーダーザクセン州第4の都市である。全人口の約 14 % にあたる約25,000人は大学生が占める。歴史に富んだこの街の創設には古い交易路が交わる地点に面していたことが寄与している。中世には、オスナブリュックはハンザのヴェストファーレン地域の中心都市となった。
オスナブリュックは、約 50 km 離れたミュンスターとともに1648年のヴェストファーレン条約締結の地として知られている[8]。オスナブリュックでは、ヴェストファーレン条約の原則である「使命としての平和 - 平和に対して責任を持つこと」がこの街の文化・行政活動に今も息づいていると言われる。それはこの街のスローガン「オスナブリュック - 平和都市」にも表れており[9]、たとえば、オスナブリュック市のコーポレート・デザインにも用いられている。
ウィーン会議の後、オスナブリュックとその周辺で「脱ヴェストファーレン化」が図られた。しかしオスナブリュックに刻まれたヴェストファーレンの刻印は現在も標準ドイツ語を話す地元住民、オスナブリュックおよびその周辺の建築物、郷土料理に色濃く残っている。本市は、780年に創設されたオスナブリュック司教区の司教座都市でもある。
オスナブリュックは、ヨーロッパの重要な経済軸の交わる点でもある。このため、この街は流通拠点に発展した。さらに重要な自動車産業、金属産業、製紙業の企業が立地している[10]。
地理
位置
本市はノルトライン=ヴェストファーレン州との州境に面しており、ヨーロッパの重要な経済軸の交点にあたる。このためこの街は、重要な流通拠点に発展してきた。
近隣の大都市は、北から時計回りにオルデンブルク、ブレーメン、ハノーファー、ビーレフェルト、ドルトムント、ミュンスター、エンスヘデー(オランダ)がある。
オスナブリュックは、ドイツで唯一の自然公園内にある大都市である。この街は自然・ジオパーク TERRA.vita に囲まれており、一部は市内にまで広がっている。オスナブリュックは、北をヴィーエン山地、南をトイトブルクの森に挟まれたオスナブリュック丘陵地に位置している。その支脈は市内に直接伸びており、このためオスナブリュックには多くの起伏が見られる。最も高い丘陵が 188 m のピースベルクで、かつての炭坑と鉱業博物館で知られている。オスナブリュックはおおむね、北ドイツ低地に接するニーダーザクセン山地に位置する。ノイマルク(内市街)の高度は海抜 64 m、最低地点はピエのハーゼ川沿いの海抜 54 m 地点である。市境の総距離は 79.5 km である[11]。
ヴィーエン山地の北から、北ドイツ低地が始まる。オスナブリュックの北部は、末端堆石と大規模な泥炭地方および砂地の土地で占められている。
水域
オスナブリュックの主要な水域は、ハーゼ川とその支流のデューテ川である。ハーゼ川は東から市内リュストリンゲン市区に流れ込み、中心部を通って、北西の市境にあたるピエ市区から市の外へ流れ出している。ハーゼ川は水利経済的重要度区分では2級河川にあたる。2010年の春に豪雨と雪解け水によりオスナブリュックの大きな川で水位上昇が起こった。いくつかの市区と隣接する市町村で氾濫が起こるほど増水した。ハーゼ川と平行に設けられたオスナブリュック・シュティヒ運河は、全長約 14.5 km の人工の連邦水路で、オスナブリュックのハーフェン市区の港でミッテルラント運河と接続している。。2つの重要な湖が、エーファーブルク市区のルベンブルーフ湖とアッター市区のアッター湖である。ルベンブルーフ湖は散策やジョギングに利用され、夏には釣りや青少年活動に人々が訪れる。アッター湖はキャンプ場やレジャースポットとなっている。また、市内唯一の水浴可能な湖である。小さな湖としては、ヴュステ市区のパッペル湖やヴュステン湖、グレテシュ市区のボルンハイデ湖がある[12]。
市の構成
オスナブリュック市の面積は 119.8 km2 である[1]。公式な人口は 166,960人で、人口密度は 1,394 人/km2(2023年12月31日現在)である[2]。
オスナブリュックの市域は23市区 (ドイツ語: Stadtteil) に分けられ、通し番号がつけられている。市区の名称は、歴史的な地名や地理的条件に基づいて命名されている。一部では、古くは多くの集落に分かれていた範囲が1つの市区にまとめられている箇所もある。各市区は、統計上の管区 (ドイツ語: Statistischer Bezirk) をなしており、3桁の番号を与えられている。
23市区とその公式の番号を以下に示す。
|
|
それぞれの市区は、歴史の中で固有のキャラクターを発展させてきた。たとえば、内市街、ハーフェン、フレッダーでは小売業、商業、工業が定着しているが、ヘレンやヴィドゥキントラントは大部分が核家族の古典的な住宅街となっている。内市街の西部は建て込んだ住宅地で古い建物やアパートが多い。ヴェスターベルク方面には中産階級のクライアントが住み、ヴュステやヴェストシュタットには学生、若い家族、独居者が住んでいる。市境付近は一部田舎の風情であるが、シンケル、シンケル=オスト、エーファースブルクは労働者地区として歴史に関与している。
隣接する市町村
オスナブリュックは、ノルトライン=ヴェストファーレン州との州境に位置している。隣接する市町村の大部分はニーダーザクセン州のオスナブリュック郡に属すが、ノルトライン=ヴェストファーレン州テックレンブルガー・ラント(シュタインフルト郡)のロッテとも境を接している。これら市町村はオスナブリュック大都市圏に含まれる。オスナブリュックは、経済・サービスの中心都市として比較的高い通勤者収支を示している[13]。
オスナブリュックの市場範囲の人口は100万人近い。オスナブリュック大都市圏は約 277,900人を擁している[14]。
気候
オスナブリュックは、暖かく穏やかな気候域に位置している。このため、市内にある 1900ヘクタールの森林は、主に広葉樹混交林である。
夏涼しく、冬温暖で、雨の多い気候を運ぶ西風および北西風が主である。気候条件は変わりやすい。長期平均の年間平均気温は 9.8 ℃、最も寒い月は1月で 2.0 ℃、最も暖かいのは7月の 18.1 ℃である[15]。冬は、東ドイツや南ドイツに比べてやや温暖で、夏は涼しいが、土砂降りの雨だけでなく、長雨にもなる。
オスナブリュックの平均年間降水量は 861 mm[15] と比較的多く、連邦平均 (830 mm/年)[16]よりも多い。冬と夏の降水量はほぼ同レベルである。降水日は年間平均 122日である[17]。
オスナブリュックの気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
日平均気温 °C (°F) | 2.0 (35.6) |
2.3 (36.1) |
5.5 (41.9) |
9.1 (48.4) |
13.4 (56.1) |
15.8 (60.4) |
18.1 (64.6) |
17.8 (64) |
14.2 (57.6) |
9.9 (49.8) |
5.9 (42.6) |
3.0 (37.4) |
9.75 (49.54) |
降水量 mm (inch) | 88.0 (3.465) |
62.0 (2.441) |
71.0 (2.795) |
47.0 (1.85) |
60.0 (2.362) |
68.0 (2.677) |
78.0 (3.071) |
81.0 (3.189) |
71.0 (2.795) |
74.0 (2.913) |
76.0 (2.992) |
85.0 (3.346) |
861 (33.896) |
平均月間日照時間 | 46.0 | 73.0 | 109.0 | 164.0 | 203.0 | 190.0 | 207.0 | 189.0 | 138.0 | 104.0 | 52.0 | 37.0 | 1,512 |
出典:ドイツ気象庁[15] |
市の概要
本市には、オスナブリュック大学、オスナブリュック単科大学(応用科学大学)、ローマ=カトリックのオスナブリュック司教区(司教座都市)、ハノーファー福音主義ルター派地方教会のオスナブリュック管区、ドイツ連邦環境財団、ドイツ平和学会の所在地である。
オスナブリュックは、780年にカール大帝によって司教座として創建された。1648年にミュンスターとオスナブリュックの市庁舎でヴェストファーレン条約が締結された。この事から本市は「平和都市」を称している。2002年4月からレーデンホーフがドイツ平和学会の本部となった。オスナブリュックは1669年までハンザ都市であり、1980年から新ハンザ同盟に加盟して、2006年には第26回新時代のハンザの日のホスト都市となった[18]。
オスナブリュック市の人口は1940年に10万人を超え、大都市の仲間入りをした。
内市街の景観は教会(聖カタリーネン教会、塔の高さは 103.5 m)によって特徴付けられている。内市街の北部、聖ペーター大聖堂とヘーガー門との間に、ヴェストファーレン条約が締結された市庁舎を含む旧市街が広がっている。ここには、1813年/1814年に建設されたテンゲ邸をはじめとする古典主義様式の建物が多くある。テンゲ邸では、鉄鋼業者のユルゲン・グロースマンがレストランを営んでいる。旧市街にはロココ様式の建物や、木組み建築が遺っている。こうした木組みの建物には1690年に建設されたホテル・ヴァルハラが含まれる。
ヴェストファーレン条約の市庁舎や聖マリエン教会がある三角形のマルクト広場は、中世の雰囲気を醸し出している。オスナブリュックには約150棟のロマネスク様式やゴシック様式の石造建築があったことがわかっており、現在も多くが良好な状態で遺されている。その数はドイツの他の都市よりも多い。このためオスナブリュックは「石造建築の首都」とも呼ばれている。特に印象的なのが、バロック様式の旧大司教城館の向かいにある石造建築の宮殿、レーデンホーフである。ドームホーフ(聖堂広場)には、1909年に建設されたユーゲントシュティール様式のテアター・オスナブリュックがある。ノイシュタット(新市街)のルター教会もユーゲントシュティール様式の装飾が施されている。この教会は、後期ゴシック様式のハレンキルヒェである前述の聖カタリーネン教会の娘教会として建設された。歴史上重要なのが旧ドミニコ会修道院で、その教会は現在文化ホールとして利用されている。
内市街中央部の歩行者専用地区は旧市街につながっており、メインのショッピングストリート(グローセ通りとヨハニス通りの前半部)を形成している。ここでは、戦争を切り抜けた数棟の建物の他は近代的な目的建築が多い。旧市街と新市街との間(内市街南部)にノイマルクト(直訳すると「新市場」)がある。かつて街の中心的なマルクト広場(市場が開かれる広場)だったこの場所は、4車線の道路によって分断され、交通の要として中央バスステーションが設けられている。2011年まで歩行者はノイマルクトを横断するのに、路面を通るだけでなく地下通路も設けられていた。2005年に新たな外観に改造され、この通路は閉鎖され、現在は大きな建物が造られている。市は、この建築法上橋とされている建造物に莫大な維持管理費を費やすことを是としなかったのである。ノイマルクトの北側、ヴィテキント通りやベルリナー通り方面にはサービス業や金融業分野の企業があり、近代的な建築構造とガラスのファサードを見せて建ち並ぶ。新市街では、旧聖ヨハン修道院教会周辺に古い建物が遺っている。聖ヨハン教会の旧教会広場には保護文化財に指定された、地下トイレの吸排気を行う排気筒がある。この広場の南にはかつてのノイシュタット市庁舎がある。
内市街は、腎臓型の環状道路に囲まれており、自動車道となっている。この「ヴァル」(「土塁」を意味する)から、通りが放射状に伸びている。7つの塔、土塁、2つの市壁を境界とする環状道路は、古い都市防衛施設の名残である。
現在の「ヴァル」は、時計回りにハーゼトーアヴァル、ナトルパー=トーア・ヴァル、ヘーガー=トーア・ヴァル、シュロスヴァル、ヨハニストーアヴァル、ペータースブルガーヴァル、コンラート=アデナウアー=リング、ゲーテリング、エーリヒ=マリア=レマルク=リングからなっている。
中心近くには、ダニエル・リーベスキントが設計したドイツ連邦環境財団やフェリックス=ヌスバウム=ハウスといった建築工学上興味深い近代建築が建っている。新旧建築を結び合わせたのがヴィーツィシャンツェで、これは古い都市防衛施設の上に近代建築が建てられている。2007年までカジノの一部が入居していた。その後は、オスナブリュック単科大学のインダストリアルデザインコースがこの建物を利用している。
中心部の住宅地は大部分が主に4階建てから5階建ての集合住宅だが、ところによっては、戸建ての家(たとえばグローセ通り43番地)や邸宅(ヴェスターベルク)もある。中心部からやや離れると建物は、3階建てのラインハウスなどに移り変わる。大きな集合団地は珍しい。高層ビルはベルリナー通り周辺にあり、ほとんどがオフィスとして使われている。最も高いビルは1970年代前半に建てられた20階建てのイドゥナ=ホーホハウスである。現在のインドゥナ=ホーホハウスの場所にはかつて、化学者でザルツベルゲン精製所を起業したヴィルヘルム・レペナウの邸宅があった[19]。
市の中核部の近くまであらゆる方向から緑地や森が迫っており、レジャー地として利用されている。1920年代に当時の都市建設監督レーマンによって「緑の指」というコンセプトが打ち出され、これに従って森や近郊保養地が「緑の肺」として中核市区近くまで保持された。現在の土地利用計画でも、気候保護の観点に基づき「緑の指」は尊重されている。オスナブリュックは自然公園内にあるドイツ最大の都市である。
歴史
名称
最も古い表記 Osenbrugge は、北欧の神の一族である Asen あるいは Osen に由来するもので、「神の橋」と翻訳できるものと推測される。また、名称研究家ユルゲン・ウードルフの説のように、Osna (あるいはこれに類する名称)はかつてハーゼ川の一部に対する名称であり、後に川の名称はハーゼ川に統一されたものの、オスナブリュックの地名にはそれが遺されたと推測することもできる。
ヘルマン・イェリングハウズの研究によれば、ハーゼ川沿いの新石器時代の入植地に旧市街が造られた。元々 Aha あるいは Aue(川辺の草地)から Ahusen あるいは Ohusen、これを短縮して Ohsen と呼ばれていたとしている。オスナブリュックの著述家ルートヴィヒ・ベーテはその著作「オスナブリュック市年代記」の中で、Ochsen(雄牛)にあたるヴェストファーレン語の Ossen をこの街の名称の前半部の語源と考える(ハーゼ川を渡る徒渉地があり、農民がここで牛の放牧を行っていた。その後ここに橋が架けられた)のは適切でないと述べている。なぜなら、都市の名前が創設してから数世紀も後に命名されるのは不自然だと考えるからである。
中世
オスナブリュックは、780年頃にカール大帝によって創設された司教座の市場町として発展した。カール大帝は804年にカロリヌムも設立しており、この年号で最も古いギムナジウムの1つとされている。しかし、これを裏付ける文書はおそらく、中世初期の偽書である。神聖ローマ帝国内では、オスナブリュックは1803年まで同名の司教領に属した。最も古い都市法 die Sate は1348年に成立した。その伝統に基づき、現在も「ハントギフテンターク」という祝日が設けられている。最初の都市法が成立した頃にライシャフト(中世後期の自治組織)も成立したが、このうちヘーガー・ライシャフトとヘレンタイヒスライシャフトが現存している。
13世紀初めにブックス塔が監視塔として市壁沿いに設けられた。塔内には市の牢獄が設けられた。この頃に、最初のヘーガー門も建設された。この塔、門、稜堡、空堀、通路からなる防衛施設は取り壊されたが、1815年に「ワーテルロー門」として再建された。ただしこの呼称は浸透していない。この門はヘーガー地区へ通り抜けるエリアにあることから、引き続き「ヘーガー・トーア」(ヘーガー門)と呼ばれている。
聖マリエン教会の、先行する最初の建物であるロマネスク様式の教会は、島状の砂山の上に10世紀に建設された。続く11世紀には2代目となる教会堂が建設された。現在のゴシック様式の教区・市場教会聖マリエン教会は13世紀に建設が始まり、1430年から1440年に完成した。三十年戦争終結後、立派な建物が福音主義教会に与えられた。
ハンザ: オスナブリュクの商人は、ブレーメンやハンブルク、さらに13世紀末からはフリースラント、オランダ、リューベックとも交易を行った。本市は1412年にハンザ同盟に加盟し、商業政治上の一大勢力であるハンザの大量の交易により利益を得た。オスナブリュックの商人はノヴゴロドのペーターホーフ商館の設立に関与した。オスナブリュックはハンザのヴェストファーレン地区の主要都市の1つとなった[20]。独立運動を背景にオランダやイングランドとの交易が衰退したため、南ドイツや北イタリアへの販路が開拓された。1606年、オスナブリュックのヨハン・ドーマンはハンザの最後の債権者代表に任命された。また、オスナブリュックは1669年の最後のハンザ総会に代表を派遣した9都市の1つであった[21]。
1477年から1504年まで、エルトヴィン・エルトマンがこの街の初代市長を務めた。1487年から1512年までの間に後期ゴシック様式のオスナブリュック市庁舎が建設された。
魔女裁判: オスナブリュックにおける魔女狩りのピークは1561年から1639年の間であった。市長ハンマッハーが治めていた時代にあたる1582年に163人の女性が魔女の疑いを受けて逮捕され、そのほとんどが火刑に処された。市長ペルスター統治下の1636年から1639年には、40人以上の女性が魔女として亡くなっている。魔女裁判では、合わせて276人の女性と2人の男性が魔術使いとして逮捕された。オスナブリュク市議会は2012年9月25日に魔女裁判の犠牲者の名誉回復を宣言した。
1600年から1800年
1632年に設立された、ギムナジウム・カロリヌムを起源とするユダヤ人大学は、スウェーデンのオスナブリュック司教領総督グスタフ・グスタフソンによって1633年に廃止された。1643年から1648年まで、この街とミュンスターとにおいてヴェストファーレン条約の交渉が行われた。オスナブリュックは三十年戦争の動乱でほとんど被害を受けておらず、このため平和条約交渉の街に選ばれた。
この頃オスナブリュックは、帝国自由都市の地位を得ようと努力を重ねたが、いずれも失敗に終わった。Cuius regio, eius religio の原則(「信仰属地主義」、領主の信仰する宗教が、その支配地の宗教となること)に関して、オスナブリュックは特殊なケースであった。世俗化に至るまで、領主が死亡するごとに新たな司教領主の信仰が替わってしまう状況であった。1650年の Capitulatio Perpetua の規定によりカトリックと司教領主福音主義の領主(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)が入れ替わり統治したのである。家臣の信仰はこれにより制約されなかった。オスナブリュック司教領は、現在のドイツの領域内で最初の宗教並立の領邦であった。
バロック様式のオスナブリュック城は17世紀後半に建設された。この城は、プロテスタントの領主エルンスト・アウグスト1世フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの居城であった。
1800年から1945年
1803年の帝国代表者会議主要決議に基づく教会領の世俗化とオスナブリュック司教領の俗界諸侯領への移行により、本市はハノーファー選帝侯領となったが、1803年にフランス軍によって占領された。本市の最後の少額貨幣(1ヘラー、1, 1.5, 2, 3 プフェニヒ・コイン)は、1805年に鋳造された[22]。オスナブリュックは1806年に短期間だけプロイセン王国に属した。1807年にはフランス皇帝ナポレオン1世が創設したヴェストファーレン王国領となり、1810年12月10日にフランス帝国領となった。オスナブリュックは1811年から1813年までハンザ4県の1つである、オーバー・エムス県の主邑となった。その範囲は、南に約 30 km、北、東、西はそれぞれ約 50 km におよんだ。1814年春のナポレオン・ボナパルト失脚後、オーバー=エムス県の大部分は、1814年10月のウィーン会議に基づいて創設されたハノーファー王国に属すこととなった。ナポレオンの百日天下を終わらせた1815年6月18日のワーテルローの戦いには約 400人のオスナブリュック兵が参加した。この兵士らを讃えてゲルハルト・フリードリヒ・フォン・ギューリヒはヘーガー・トーアにワーテルロー門を建造し、以下の銘を刻んだ:「1815年6月18日にドイツの勇気を示したオスナブリュックの戦士たちにこの記念碑を捧げる。G. F. v. Gülich D.R.D.R.」
1866年の普墺戦争の結果、オスナブリュックを含むハノーファー王国はプロイセンのハノーファー州とされた。本市は1885年にオスナブリュック県の主邑となった。この状態は、1977年の地域再編でオルデンブルクを主邑とするヴェーザー=エムス行政管区が設けられ、オスナブリュックはその支部所在地とされるまで続いた。2005年1月1日にニーダーザクセン州のすべての行政管区は廃止された。これにより、オスナブリュックは郡独立市とされ、同名の郡の郡庁所在地となった。
2つの余暇団体「アンティポディア・オスナブリュック」と「ミネルヴァ・オスナブリュック」から、1899年4月17日に「FC 1899 オスナブリュック」が設立された。後にこのクラブを起源として、この地域最大で最も重要なスポーツクラブ「VfLオスナブリュック」が創設された。
オスナブリュック内市街では、1910年にグローセ通り 34番地に「モードハウス・アルスベルク」が開店した。この店は、1920年代の黄金期のモードで大人気となった。しかし、オーナーがユダヤ人であったため、NSDAPによる権力掌握の2年後の1935年に強制的に閉店させられた。それ以前に、この店に買い物に来たすべての顧客は写真を撮られ、公共の掲示板でさらし者にされた。
第二次世界大戦では連合国により計79回もの空襲を受けた。最初の大規模な空襲は1942年6月20日で、イギリス軍により9000発の焼夷弾を投下された。同年10月6日には同じくイギリス軍が計1万1000発の破裂弾と焼夷弾を投下した。1944年9月13日には2171発の破裂弾と18万1000発の焼夷弾が投下され、市内の歴史的な建造物のほとんどは壊滅的な損傷を受けた。さらに、同年10月13日には2616発の破裂弾と1万6000発の焼夷弾が投下された。空襲による市民の死傷も多く、多い時では米国の1日の空襲により、241人の死亡者が出た。また、これらの空襲によって、市域の65%、歴史地区の94%が破壊された。当時につけられた空爆の跡は、現在も遺されている[23]。
1945年以後
占領時代とイギリス兵舎
戦後、オランダによる本市併合のバッカー=シャット計画が立案されたが、アメリカ合衆国とイギリスの抵抗により実現しなかった。終戦直後イギリス陸軍ライン軍団の占領軍がオスナブリュックに駐留した。その後オスナブリュック駐屯地の敷地はどんどん拡大していった。やがてオスナブリュックは、イギリス国外最大のイギリス軍駐屯地となった。イギリス兵とその家族はオスナブリュック市民にとって数十年の間見慣れた故郷の風景の一部となった。1989年と1996年に、オスナブリュックのエーファースブルク地区にあるイギリス軍ケベック兵舎でアイルランドの地下活動組織 IRA によるテロが起こった。この事件により多大な物的被害が生じた[24]。イギリス国防省は、2005年、組織改編に伴ってオスナブリュック駐屯地を完全に廃止することを決定した。撤退はその後数年かけて徐々になされた。最後のイギリス駐留軍司令官マーク・カトバート=ブラウン大佐は2009年3月31日にオスナブリュックを離れた[25]。
戦後復興とさらなる発展
破壊されていたオスナブリュック市庁舎が、ヴェストファーレン条約公布300周年にあたる1948年に再開された。ドームホーフの市立劇場の再建は1950年に完成した。
オスナブリュックは1960年に路面電車を廃止した。公共旅客交通は完全に市バスに委ねられた[26]。ノイマルクトの歩行者トンネルは1964年に開通し、2013年に閉鎖された[27]。1968年に欧州旗がオスナブリュックに授与された[28]。
オスナブリュック専門単科大学は1971年に設立され、2010年にオスナブリュック単科大学に改名された。新しいオスナブリュック総合大学は1974年に授業を開始した。
1979年にオスナブリュック市立ホール(現在のオスナブリュックハレ)が開館した。1980年、市と司教は建都1200年を祝った。1990年に設立されたドイツ連邦環境財団はオスナブリュックに本部を置いた。1995年ナトルパー通りに新しい本部が建設された。
フェリックス=ヌスバウム=ハウスは1998年に開館した。この美術館は180点以上のフェリックス・ヌスバウムの作品を収蔵しており、このオスナブリュックの芸術家最大のコレクションとなっている。この美術館はアメリカの建築家ダニエル・リベスキンドの設計に基づき、オスナブリュック文化史博物館の増築部分として建設された。
1998年のヴェストファーレン条約公布350年祭は、何ヶ月にもわたって開催され、ニーダーザクセン州首相もこの街に訪れた。1999年には、芸術家フリードリヒ・フォルデンベルゲ=ギルデヴァルトの生誕100年を2回の展示会で祝福した。2000年には国際博覧会 Expo 2000 の外部開催地となった。
町村合併
以下の町村がオスナブリュックに合併した。
- 1914年: シンケル
- 1940年: ハステ
- 1970年: ズットハウゼン
- 1972年7月1日[29]: アッター、ダルム、グレテシュ、ヘレルン、リュストリンゲン、ナーネ、ピエ、ヴォックストルプ
谷に位置することや、地理的にノルトライン=ヴェストファーレン州に近いことなどから、オスナブリュックに合併した町村は比較的少ない。たとえば、ベルム(シンケルベルクの裏手にあたる)、ヴァレンホルスト、ビューレン(ロッテに合併した)、ハスベルゲン、ゲオルクスマリエンヒュッテは合併しなかった。また、北に位置するホラーゲ、レヒティンゲン、ルレは、ヴァレンホルストに合併した。
人口推移
1575年にオスナブリュック住民の約 75 % がペストで死亡した。その後、疫病、火災、飢餓、戦争によって、200年の間この街の人口は1575年に減少した水準のまま推移した。工業化により、人口は1817年に1万人を超えると、1900年には5万人と約5倍に増加した。これにはレーネ - ライネ間(1855年)およびミュンスター - ブレーメン間(1873年)の鉄道建設が影響している。さらに1939年までに人口は倍増し、10万人を超え、オスナブリュックは大都市となった。1995年には168,618人の史上最高値を記録した。2015年12月31日現在の人口は、162,403人である。
住民
宗教
統計
2015年7月現在、オスナブリュック住民の 30.8 % が福音主義、33.4 % がカトリックの信者である。35.8 % がその他の宗教または無宗教である[30]。
キリスト教
オスナブリュックは804年に司教座都市となった。担当助祭長は司教座教会参事会首座であった。オスナブリュックには1521年からルター派の説教師がいた。1543年にこの街はルター派信仰に宗教改革がなされた[31]。しかし聖ペーター聖堂や聖ヨハン教会はカトリックに留まった。聖堂はオスナブリュック司教区の中心であり続け、1803年まで神聖ローマ帝国の聖界諸侯として存続した。カトリック住民は司教区の下、プロテスタント住民は市参事会の下で役員会を設立する形で教会運営を行った。1815年には、プロテスタントの教会運営には合わせて5つの役員会管区があった。これにはオスナブリュックのルター派役員会やアウリヒの(ルター派と改革派の)並立役員会があった。役員会管区は、教区監督官あるいは教会クライスによって統合されていた。オスナブリュックは教会クライスの本部所在地であった。1903年にオスナブリュックの役員会管区は撤廃され、プロイセンに属すハノーファー州のすべてのルター派教会がハノーファーの役員会(ハノーファー福音主義ルター派地方教会)の下に組み込まれた。オスナブリュックはその後再び、教会クライス内に組織された管区の本部所在地となった。
現在、本市の福音主義ルター派教会は、自由教会でない限り、ハノーファー地方教会オスナブリュック管区内のオスナブリュック教会クライスまたはオスナブリュック=ズットハウゼンのメレ=ゲオルクスマリエンヒュッテ教会クライスに属している。
改革派の運動は、オスナブリュックでは1788年以降記録がある。この宗派はとなりのテックレンブルク伯領と関連している。19世紀に増加した改革派教会信者の移住によって、1889年にオスナブリュックに改革派教会が組織され、アウリヒに役員会が成立した。この教会は1893年にベルク教会を建立した。これは宗教改革以後オスナブリュックで最初の教会建設であった。1926年に平和教会、1960年代にはさらに3つの改革派教会が建設された: 恩寵教会(1960年)、アッター教会(1962年)、救世主教会(1966年)である。教会組織再編に伴い、最後に挙げた3つの教会は、2007年12月に福音主義教会に売却された。これ以後、平和教会は青年教会として機能し、ベルク教会がその他の教会の一般的な活動に利用されている[32]。オスナブリュック改革派教会は現在、福音主義=改革派教会の第VII教会会議連合エムスラント/オスナブリュック教会会議連合に属している。
聖堂と旧修道院教会聖ヨハン教会は宗教改革後もカトリックに留まり、オスナブリュックは1803年までオスナブリュック司教領の首都として存続していた。この街にはカトリック住民も絶えず住んでいた。カトリックと福音主義の両宗派の比率はほぼ同程度であった。780年頃に創設されたオスナブリュック司教区は宗教改革の波によって著しく縮小した。
オスナブリュック司教領廃止後の1824年、オスナブリュックは新たに組織されたオスナブリュック司教区の主邑となった。この司教区は、エムスラント、ベントハイム伯領、東フリースラントを含むハノーファー王国西部を包含した。この司教区は1841年にスカンジナビアの北部宣教団の裁判権を獲得し、1868年にはブレーメン、ハンブルク、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン、メクレンブルクを含むドイツ北部の宣教団の裁判権を獲得した。これらの地域は1929年に公式にオスナブリュック司教区に編入された。これによりこの司教区は、ドイツで最も広い司教区となった。この司教区は1995年まではケルン教会管区に、その後は新たに創設されたハンブルク大司教区に属した。オスナブリュック市の教区や教会連合は、オスナブリュック市首席司祭区に属す。これはオスナブリュック市に属していない町(ハスベルゲン)をも包含している。
1852年から行われているテルクトの巡礼はオスナブリュックのカトリック教徒の風習で、参加者数ではドイツで2番目に大きな巡礼である。1899年に完成したヘルツ=イェズ教会は、宗教改革以後に新築された最初のローマ=カトリック教会である。
1980年11月16日、教皇ヨハネ・パウロ2世がオスナブリュックを訪れた。
2008年5月21日から25日までオスナブリュックで6万人が参加して第97回ドイツ・カトリックの日が開催された。これ以前には1901年に第48回ドイツ・カトリックの日も開催されていた。
オスナブリュックの自由教会:
- 福音主義=自由教会(バプテスト) - 福音主義=自由教会の萌芽は1928年に遡る。固有の教会創設は1948年になってからであった。これには旧ドイツ東部領土からの難民流入の波が大きな役割を演じた。現在この組織には280人の信者がいる(子供や愛好サークルを除く)。この中にはヴェトナム人、ロマ、ロシア系ドイツ人が含まれている。礼拝はヴェトナム人もロシア人も一緒に行う。2017年現在の聖職者はハイコ・ライネッケである。この教会はディープホルツに支部教会を有している。
- オスナブリュック・アンドレアス教会(ミュールハイマー連合) - アンドレアス教会は、1997年以前にクリストリッヒェ・ゲマインシャフト・オスナブリュックの名称で成立していた。その萌芽は第一次世界大戦以前に遡る。この教会は数十年間家庭に集まって礼拝を行っていたが、1950年代に固有の集会所を設立した。教会活動は1984年に専任の聖職者を置いて以降活発化し、拡大した。ハウスヴェルマンスヴェーク 90番地への移転に際してアンドレアス教会と改名した。2006年にイベンビューレンに娘教会組織が形成された(トーマス教会)。アンドレアス教会は約140人の成人信者を有している。
- 自由キリスト教会のオスナブリュック・キリスト=センター(聖霊降臨祭組織)
- レーベンスクヴェレ(命の泉) - 2001年にシンケルで設立された聖霊降臨組織 (BfP) は、2003年から改築された工場ホールで礼拝を行っており、この地域内に4つの地元組織を形成している。地元では、新たな教団センターとして旧貨物駅前の土地購入を巡って、多くの芸術家のアトリエや貨物駅前の劇場、ホモセクシャル連合の指導者を脅すなどのトラブルを起こしたことで知られている[33]。
- 独立福音主義ルター派教会 (SELK)
- セブンスデー・アドベンチスト教会
- 福音主義メソジスト教会 (EmK)
- 自由教会 FIT-ゲマインデ・フュアス・レーベン
- 自由教会 ホームゾーン
- セルビア正教会聖ゲオルギウス
- ロシア正教会
- アンティオキアのギリシア正教会 (Rum-Orthodox) 聖母神マリア
- 復古カトリック教会
キリスト教会のほとんどはオスナブリュック・キリスト教会作業共同体 (ACKOS) に加盟しており、宗教上の問題についてテーマ対話集会や、毎年10月25日のオスナブリュク平和の日にエキュメニズム(超宗派)の礼拝を行っている[34]。ヴェストファーレン条約350周年に教会は、宗派を超えたエキュメニズム教会会議を開催した。
この他にオスナブリュックには、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、新使徒派教会、使徒教会、カトリック使徒教会、エホバの証人が活動を行っている。
仏教
仏教徒は、カルマ・カギュ派(チベット仏教)の仏教センターに入門施設を有している。禅の実践は、禅道場(曹洞宗)[35]やオスナブリュック禅サークル(臨済宗)[36]で行うことができる。「ヴェーク・デア・アハトザムカイト」(直訳すると「細心の道」)のグループはティク・ナット・ハンの教えに基づく仏教を実践している[37]。
イスラム教
ムスリムの多くは、トルコ系住民であるが、アラブ人やクルド人も少なからぬ比率を占めている。2011年に建設されたアフマディーヤ・ムスリム・ジャマートのバシャラート=モスクは、オスナブリュックで最初のムスリムの宗教建築である。その後市内に12のモスクや礼拝所が設けられている[38]。
ユダヤ教
旧シナゴーグは1906年に完成した。このシナゴーグは1938年11月9日のいわゆる「水晶の夜」に放火された。上級市長エーリヒ・ゲルトナーはその日の内に取り壊しを命じた。
19世紀に設けられたユダヤ人墓地は、早くも1927年10月に学生たちによって冒涜された。1938年11月には多くのユダヤ人商店が略奪され、ユダヤ人家族の住居が荒らされ、ユダヤ人墓地が冒涜された。1938年初めにはすでに、いわゆる「ユダヤ人の家」が設けられた。1941年12月12日に、まだ街に住んでいたユダヤ人190人の最初の移送が行われた。1893年から1906年にかけて建設されたアルテ=シナゴーゲン通りのプロイセン王国時代の政庁に、旧シナゴーグを記念するプレートが設置された。略奪直前、オスナブリュックのユダヤ教会には約500人の信者がおり、フェリックス・ヌスバウムの家族もこれに含まれていた。
第二次世界大戦後、オスナブリュックには5人のユダヤ人が住んでいた。1969年にヴェストシュタットに新たなシナゴーグがオープンした。1991年までオスナブリュックには約90人のユダヤ人が住居を有した。旧ソ連邦からの難民受け容れによって、2005年にはユダヤ教会は1544人の信者を擁するまでになった。旧オスナブリュック県の建物に1978年から旧シナゴーグとその破壊に関する記念プレートが設置されている。ここでは毎年11月9日に水晶の夜に対する悔悟の花輪が捧げられ、カッディーシュが唱えられる。
1986年にユダヤ人墓地が再び冒涜された。2004年に旧シナゴーグ跡地に加え、ユダヤ人学校の基礎壁にも新たな記念碑が設けられた[39]。
行政
首長
オスナブリュック市のトップは、14世紀から「ラート」(ドイツ語: Rat、参事会、現代ドイツ語では「議会」を意味する)であった。ラートは「アルター・ラート」と「ジッツェンダー・ラート」に分けられていた。「ビュルガーマイスター」(ドイツ語: Bürgermeister、現代ドイツ語では「市長」を意味する)は議会の代表であった。司教に対抗して市は早くから様々な自由権を獲得していたが、完全な帝国自由都市の権利を有してはいなかった。フランスに併合された後はメリー制(フランス語: Mairie、フランスの市町村長制度)となり、ハノーファー時代には「フェアヴァルトゥングスビュルガーマイスター」(ドイツ語: Verwaltungsbürgermeister、「行政市長」)とユスティツビュルガーマイスター (ドイツ語: Justizbürgermeister、「司法市長」) が市のトップになった。1851年、ハノーファー都市法が発効した。その後、多くが「オーバービュルガーマイスター」(ドイツ語: Oberbürgermeister、「上級市長」) の肩書きを持つ市長が立てられた。国家社会主義の時代には市長は NSDAP によって指名され、エーリヒ・ゲルトナーがその職に就いた。
1946年以降、上級市長はその時点のニーダーザクセン自治体法に基づき選出された。最初は2頭制の北ドイツ議会制度に倣って名誉職であったが、1997年から単独で専任の行政トップとなった。最初の専任上級市長には、SPD のハンス=ユルゲン・フィップが就任し、1997年から2006年まで務めた。彼はその6年前から名誉職の上級市長を務めていた。2006年の選挙では、やはり SPD のボリス・ピストリウスが上級市長に選ばれた[40]。ピストリウスは2013年2月19日に新たなニーダーザクセン州内務大臣に就任した。2013年9月22日の選挙では、いずれの候補も過半数を獲得できなかった。10月6日の決選投票ではオスナブリュック出身のビルギット・ボルネマン (SPD) 候補と、ミンデン (ヴェストファーレン) 出身のヴォルフガング・グリーゼルト候補 (CDU) が戦った。グリーゼルトが有効投票の 54.8 % を獲得して勝利した。この選挙の投票率は 41.8 % であった[41]。
第二次世界大戦後の首長を以下に列記する。
上級市長:
- 1945年: ヨハネス・ペーターマン
- 1945年: ヴィルヘルム・ローゼンブロック
- 1945年 - 1946年: ヴィリー・フォルブレヒト
- 1946年: アドルフ・クレフト
- 1946年 - 1948年: ハインリヒ・ヘルリツィウス
- 1948年 - 1949年: アドルフ・クレフト
- 1949年 - 1951年: ハインリヒ・ヘルリツィウス
- 1951年 - 1952年: フリードリヒ・ヤンセン
- 1952年 - 1956年: ハインリヒ・ブッデンベルク
- 1956年 - 1959年: ヘルムート・ドレッシャー
- 1959年 - 1972年: ヴィリー・ケルヒ (SPD)
- 1972年 - 1981年: エルンスト・ヴェーバー (SPD)
- 1981年 - 1985年: カール・メラー (CDU)
- 1985年 - 1991年: ウルズラ・フリック (CDU)
- 1991年 - 2006年: ハンス=ユルゲン・フィップ (SPD)
- 2006年 - 2013年: ボリス・ピストリウス (SPD)
- 2013年 - : ヴォルフガング・グリーゼルト (CDU)
事務総長(ドイツ語: Oberstadtdirektor、2頭制時代の行政責任者):
- 1946年 - 1953年: ヴィリー・フォルブレヒト
- 1953年 - 1960年: ヴァルター・ヴェーゲナー
- 1960年 - 1972年: ヨアヒム・フィッシャー
- 1972年 - 1983年: ライムント・ヴィンマー
- 1983年 - 1995年: ディールク・マイヤー=プリース
- 1995年 - 1997年: イェルク・ハーヴァーケンパー(彼の退任後、市のトップは上級市長に一元化された)
議会
オスナブリュック市議会は、2001年から 50議席で構成されている。この他に、別に選出された専任上級市長も市議会での投票権を有している。2016年9月11日の市議会選挙結果に基づく政党別議席数を以下に示す[42]。
オスナブリュック市議会 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
政党 | CDU | SPD | GRÜNE | FDP | Die Linke | BOB | PIRATEN | UWG | 合計 |
議席数 | 19 | 13 | 9 | 3 | 2 | 2 | 1 | 1 | 50 |
紋章
オスナブリュック市の紋章は、銀地に6本スポークの静止した黒い車輪が描かれている。市の旗は、黒い縁取りのある白地に、車輪が描かれている。
オスナブリュック司教領の意匠としての車輪は、早くも13世紀から印章のデザインとして知られており、歴史とともに様々な様式に改編されてきた。最初は8本スポークで赤色であった。1946年から黒になった。その他には、6本スポークの、2本のスポークが水平に描かれている「動いている」車輪(紋章表現上、静止している車輪は2本のスポークが垂直になるように描かれる)のデザインがある。これは、中世のハンザで亜麻布製造の商標など国際的な取引の場で使われた。後には赤いデザインも現れた。現在、司教区の車輪は赤、市の車輪は黒で、ともに銀地の上に描かれる。
車輪は、神の馬車 (currus Dei) の一部を意味しており、時代につれ教会や使徒の徴として用いられた。13世紀の紋章には、車輪の他に聖堂の守護聖人として聖ペテロが描かれている。後に車輪だけが描かれるようになった。
姉妹都市
オスナブリュックは、多くの都市と姉妹都市協定や友好都市協定を結んでいる。外国の姉妹都市との間で、双方向に公式な市の使節を交換するのはドイツでもユニークなものとされている。若い男女が1年間姉妹都市の行政に従事するのである。これにより、その都度姉妹都市に起こっている問題を処理することができる。
オスナブリュックは以下の都市と姉妹都市/友好都市協定を結んでいる[43]。
姉妹都市
- ハールレム(オランダ、北ホラント州)1961年
- アンジェ(フランス、メーヌ=エ=ロワール県)1964年
- ダービー(イギリス、ダービーシャー)1976年
- グライフスヴァルト(ドイツ、メクレンブルク=フォアポンメルン州)1988年
- トヴェリ(ロシア、トヴェリ州)1991年
- チャナッカレ(トルコ、チャナッカレ県)2004年
- ヴィラ・レアル(ポルトガル、ヴィラ・レアル県)2005年
友好都市
- グミュント・イン・ケルンテン(オーストリア、ケルンテン州)1971年
- エバンズビル(アメリカ合衆国、インディアナ州)1991年
- 光明市(大韓民国、京畿道)1997年
- 合肥市(中華人民共和国、安徽省)2006年
文化と見所
建築
オスナブリュック市庁舎はこの街の象徴的建造物である。この建物は、25年の工期の後、1512年に後期ゴシック様式で完成した。この市庁舎では、ミュンスター市庁舎とともに、1648年にヴェストファーレン条約が締結された。平和の間には現在、当時の領主やヨーロッパの使節の肖像画 42枚が掲げられている。宝物室では、1648年の条約文書の模本を見ることができる。
バロック様式のオスナブリュック城は17世紀後半に造られた。この城館は、プロテスタントの司教領主エルンスト・アウグスト1世フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクとその妃ゾフィー・フォン・デア・プファルツの居城であった。この城館は、第二次世界大戦で外壁に至るまで破壊され、戦後に再建された。1953年からは教育大学として、1974年からはオスナブリュック総合大学の本部として利用されている。
ブックス塔は13世紀初めに市壁の見張り塔として建造された。中世には、塔内に牢獄が設けられていた。さらに、16世紀から17世紀の魔女狩りの時代には、拷問室としても使われた。
現在のヘーガー門は、防衛施設の外観をしのばせる。塔、門、堡塁、通路からなる防衛施設は、1815年頃に大部分が解体された。大部分の防衛施設が解体されたわずか2年後の1817年に、跡地にワーテルロー門が造られた。この門は、ワーテルローの戦いで奮闘したドイツ王軍のオスナブリュック兵士を記念して建設された[44]。この門はゲルハルト・フリードリヒ・フォン・ギューリヒの寄進により、ヨハン・クリスティアン・ジークマンが設計した。この門には以下の銘文が刻まれている:「1815年6月18日にドイツの勇気を示したオスナブリュックの戦士たちにこの記念碑を捧げる。G. F. v. Gülich D.R.D.R.」この門には展望台が設けられており、そこからは旧市街の家並みを俯瞰することができる。展望台へはスロープと階段を使ってたどり着くことができる。ワーテルロー門周辺の広場は現在も主に「ヘーガー=トーア」(ヘーガー門)と呼ばれている。それはここが旧市街からヘーガー地区への入り口にあたっていたためである。
聖マリエン教会は、聖堂とは異なり、市民の教会であった。800年頃に埋葬が行われていた現在の場所にあった木造の先行する教会に由来する。この教会は現存していない。10世紀から11世紀に単廊式のホール建築が建設され、早くも13世紀に両側廊が増築された。15世紀に内陣と内陣ヴォールトが付与された。13世紀からは、ゴシック様式のハレンキルヒェに改築された。この教会は市庁舎や市の秤量所とともに建築上の一体感を形成しており、現在もマルクト広場の外観を決定づけている。教会内には、13世紀の勝利の十字架や、1510年から1515年にアントワープで製作された主祭壇がある。内陣周辺には埋葬された人物の墓石があり、その中にはオスナブリュックの重要な官僚で弁護士でもあったユストゥス・メーザーの墓石もある。高さ 79 m の塔の、190段の階段を上るとオスナブリュックの街を一望できる。第二次世界大戦で完全に破壊された銅製の塔の先端は、1960年代初めに再建された。
聖ペーター聖堂は785年に現在の場所に建設された。ただし、現在の建物は1218年から1277年に造られたものである。この聖堂建築は後期ロマネスク様式で建設されている。この聖堂は元々双子の塔(同じ大きさの2本の塔)を有していたのだが、北西塔が15世紀に分厚いゴシック様式の塔に建て替えられた。内部には1225年製の青銅製の洗礼盤や12世紀末頃に創られた大きな勝利の十字架がある。高さ約 6 m、キリスト像の高さ 3.8 m のこの十字架は、この種のものとしてはヨーロッパ最大級のものの1つである。1210年から1233年まで聖堂の近くに、フローニンゲン出身の隠者で、後に列聖されたオスナブリュックのライナーが住んでいた。聖堂前には「レーヴェンプーデル」の像がある。
中世に創設された修道院が、ゲルトルーデンベルク修道院とドミニコ会聖十字架修道院である。これらの修道院は、1803年の帝国代表者会議主要決議によって廃止され、現存する建物は別の用途に使用されている。
ペルニッケル塔の建設時期は判っていない。この塔は13世紀前半に記録があり、狭間があることから判るようにペルニッケル水車を防衛するための監視塔として使われていた。この塔は19世紀以降住居として利用されていたため、内部は原形を留めていない。ペルニッケル水車は1891年に破壊され、ハーゼ川のすぐ近くの別の堤に再建された。
この他の都市防衛施設の塔としては、16世紀初めに造られたビュルガーゲホールザムが遺されている。
古典主義建築の時代は、1785年の司教領主官房の完成によって始まった。テンゲ家の住居および商店やグローセ通り 43番地の建物も古典主義建築である。
- 旧ゲルトルーデンベルク修道院のゲルトルーデン教会
- 教会
- 聖ペーター聖堂オスナブリュック(上述)
- カトリックの聖ヨハン教区教会
- カタリーネン教会
- ヘルツ=イェズ教会
- ビュルガーブルンネン(市民の泉)
- ディーリンガー通り、ビール通り、レーデンホーフのロマネスク様式の石造建築
オスナブリュックにはかつてペータースブルク要塞や旧市庁舎があった。
公共スペースの芸術作品
オスナブリュックの最も重要な文化財の1つが、ヘレンタイヒスヴァルの「ハールマンの泉」である。鋼鉄工場主で市参事会員のアウグスト・ハールマンが1909年に寄贈したこの泉は、坑夫の仕事に対する記念碑である。等身大よりもやや大きい坑夫のブロンズ像を持つこの泉は、しばしば1893年にピースベルクで起こった鉱山事故と誤って関係づけられている。この事故は、ピースベルクで石炭採掘中に坑内出水が起き、多くの坑夫が命を落としたものである。
ヘレンタイヒスヴァルのエーバート=エルツベルガー=ラーテナウ記念碑は、ヴァイマル共和国の重要な3人の政治家(フリードリヒ・エーベルト、マティアス・エルツベルガー、ヴァルター・ラーテナウ)を記念したものである。抽象的な造形の記念碑の像は民主主義を象徴しており、3人の人物を顕彰したおそらくドイツで唯一の記念碑である。1928年にこの記念碑を建立することで政治権力への抵抗が示されたが、早くも1933年には突撃隊員によって像が撤去された。現在の像は1980年代初めに市によって再建されたものである。この記念碑の見取り図を密かに護ってきた勇気ある庶民のことを記した銘文が、再建された像内に記された。
都市建設監督官のエミール・ハックランダー(1800年 - 1902年)の設計によるシュトラスブルガー広場の記念碑は、1870年から1871年の普仏戦争にオスナブリュック侯領から参戦した戦没者のための記念碑である。この記念碑は1880年にノイマルクトに建立されたが、1928年にヴェスターベルク市区のシュトラスブルガー広場に移された。風刺めいたゲルマニア像は第二次世界大戦中に鋳つぶされた。現在のラーツギムナジウムの女生徒がデザインした「ディー・シュッツェンデ・トルジオーン」像を戴く記念碑は、独仏友好の記念碑である。
動物園と公園
- シェーラーベルク市区にオスナブリュック動物園がある。この動物園は1936年に地元の動物公園としてオープンした[45]。
- 1984年からオスナブリュック総合大学はヴェスターベルクで広さ 5.6 ha のオスナブリュック植物園を運営している[46]。
- オスナブリュック市で最も古い公共の公園は、旧市街北東部のゲルトルーデンベルクにある古木が植えられた市民公園である。樹木にはプレートがつけられており、樹木園の性格も有している[47]。
演劇
オスナブリュックには多くの劇場がある。
- オスナブリュック劇場は、シュテティシェ・ビューネン・オスナブリュック gGmbHによって運営されている。
- プローベビューネ e.V.[48] は、エルスト・ウンオーデントリッヒェ室内劇場[49]で活動するアマチュアの演劇団である。
- 人形劇場
- ヴォックストルプ低地ドイツ語演劇団は定期的に公演を行っている。英語の劇団も存在している。
音楽
オーケストラ
- オスナブリュック交響管弦楽団[50]
合唱団
- オスナブリュック・バッハ合唱団 e.V.
- ヨハニス合唱団 e.V.
- オスナブリュック青年合唱団 e.V.[51]
- マリエンカントライ・オスナブリュック[52]
- 女声合唱団ヴィヴァ・ラ・ムジカ e.V.[53]
- オリジナル・オスナブリュッカー・ウィンドジャマー=シャンティーコーラス
文化センター
- ラーガーハレ・オスナブリュック[54]
- 自治センター「SubstAnZ」[55]
- オスナブリュックハレ(旧オスナブリュック市立ホール)[56]
- フライラウム・ペータースブルク(2007年から)は、「文化保護地区」としても知られている[57]。
博物館・美術館
- 司教区博物館の聖堂宝物室[58]
- エーリヒ・マリア・レマルク平和センター[59]
- フェリックス=ヌスバウム=ハウス[60]
- オスナブリュック文化史博物館[61]
- オスナブリュック芸術ホール[62]
- アム・シェーラーベルク博物館: 自然、環境、プラネタリウム[63]
- ピースベルク工業文化博物館[64]
- オスナブリュック=ピースベルク坑内鉄道博物館[64]
映画
- シネマ・アートハウス - 5スクリーンのシネマコンプレックス
- シネスター・フィルムパラスト(旧UFA-パラスト)- 7スクリーンのシネマコンプレックス
- フィルムパサージェ・オスナブリュック - 9スクリーンのシネマコンプレックス
- フィルムテアター・ハーゼトーア - 1スクリーンの芸術映画・プログラム映画上演館
レジャー
エーファースブルク市区の南西部およびアッターとヴェスターベルクとの境界に、森、草地、ルッベッンブルーフ湖を有する大きなレジャー地がある。オスナブリュック=アッターハイデ飛行場も多くの部分が自然とふれあう地域になっている。
躓きの石
2006年12月にオスナブリュック市議会は、ケルンの芸術家グンター・デムニヒのアイデアである「躓きの石」を設けることを決定した。これは国家社会主義独裁制の犠牲者をしのび、その当時の住居や職場に名前を刻んだ小さなプレートを埋め込むものである。このプロジェクトは2007年11月から2013年3月まで行われ、192基の躓きの石が設けられた。
歴史的墓地
ハーゼ墓地とヨハニス墓地
両墓地は1808年に、衛生上の理由から当時の市の外側に設けられた: ハーゼ門前のハーゼ墓地とイーブルガー通りのヨハニス墓地である。ジェローム・ボナパルト王の命令によって1808年から内市街での埋葬が禁止された。
最も古い部分の埋葬者は、主に裕福で古くからの土着の家族の一員たちである。これらの人物たちは壁沿いに埋葬されている。中央部では社会的階級が低い人たちが最後の眠りに就いている。
ハーゼ墓地の最も古い門は、19世紀初めの典型的なシンボルを示している。すなわち、死と眠りを意味する聖霊が2人の子供の姿で門柱に刻まれている。この他に強調されているのは花を象った石、たとえば永遠の眠りを意味するケシの実や、キリストの血を意味するワインなどの深遠な象徴である。最後の埋葬は1995年に行われた。
年中行事
主な年中行事を以下に列記する[65]。
- 1月: 「ハントギフテンターク」[66]
- バラの月曜日の前の土曜日: 「オッセンザムスターク」(約10万人が見学する大規模な謝肉祭のカーニバル)。日曜日に移動させて「オッセンゾンターク」として祝うかどうか議論されている[67]。
- 復活祭前: ハレ・ガルトラーゲでの「春の歳の市」
- 復活祭前: オスナブリュックの室内楽の日[68]
- 4月: ヨーロピアン・メディア・アート・フェスティバル[69]
- 4月 - 5月: オスナブリュック=ベルゼおよび切手と貨幣の大交換会(オスナブリュックハレ)
- 5月: 内市街での5月週間[70]とハーゼ通り祭
- 5月: ゲイ・イン・メイ - 同性愛者の文化の日[71]
- 5月と9月: それぞれの第1週末に内市街で大規模な夜のがらくた市(土曜日の夜から日曜日の日中まで)が開催される。
- 夏: 文化の夜、オスナブリュックの民俗、射撃、郷土祭
- 6月: アフリカ=フェスティバル(2年ごと)[72]
- 6月末、7月初め: オスナブリュック=ナーネのナーナー・ヴァルトバーンでの国際モーターバイク芝コースレース
- 7月: ヨハニス通り祭
- 6月 - 8月: 「オスナブリュックの街の夏」市の夏の文化プログラム[73]
- 8月第1土曜日: 「ディー・ゴルデーネン・ゼーゲ」- オスナブリュックのストリート音楽祭[74]
- 8月: シュロスガルテン・オープン・エアー(ロック・ポップミュージックの2日間の音楽祭)は2015年から毎年8月の週末に城館庭園で開催されている[75]。
- 8月末: ワインフェスト
- 8月末/9月初め: 2007年から2年ごとにハーゼ川沿いでリヒターフェスト(光の祭)が開催される。
- 9月初め: エルスト・ウンオーデントリッヒェ室内劇団の演劇祭[76]
- 9月: モルゲンラント・フェスティバル・オスナブリュック[77]
- 9月: ジョブメッセ・オスナブリュック(2004年から毎年)
- 9月: オスナブリュック不動産メッセ(毎年)
- 9月: ピースベルクの山祭[78](ピースベルクガー・ゲゼルシャフツハウス、オスナブリュック=ピースベルク坑内鉄道博物館 e.V.、工業文化博物館)とピースベルク炭坑駅でのオスナブリュック・ウンター・ダムプフ(オスナブリュック蒸気機関車愛好会 e.V. の蒸気機関車祭)[79]とが、1年ごとに交互に開催される。
- 9月 - 10月: inter.kult - 2年ごとに開催される文化週間
- 10月: オスナブリュック自主映画祭[80]
- 10月: シュテッケンプフェルトライテン[訳注 1]とクリンゲンデス・ラートハウス(平和祭と習俗祭)
- 10月末/11月初め: ハレ・ガルトラーゲでの秋の歳の市
- 11月: オスナブリュックのキャバレー祭
- 11月: 新日本映画祭、2年ごと[81]
- 12月: クリスマスマーケット[82]と旧市街の多くの家屋のイルミネーション
- 12月: オスナブリュック=ベルゼおよび切手とコインの大交換市(オスナブリュックハレ)[83]
- 年に数回開かれるオスナブリュックの平和スピーチ[84]
自然文化財
スポーツ
スポーツクラブ
以下のリストは主なクラブをアルファベット順に列記したもので、すべてのクラブを挙げているわけではない。
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ほとんどのクラブがオスナブリュック市スポーツ連盟に加盟している。
スポーツ施設
- オスナブリュックのほとんどすべての市区に、体育館や、芝上でのスポーツ・球技・陸上競技のためのスポーツ施設があり、地元のスポーツクラブが利用している。
- オスナブリュックで最も広く、重要なサッカースタジアムが、「シュターディオン・アン・デア・ブレーマー・ブリュッケ」(旧オスナテル=アレーナ)である。VfL オスナブリュックはこのスタジアムでホームゲームを行っている。
- VfL オスナブリュックのトレーニング施設で、オスナブリュックの学校スポーツや陸上競技の中心となるのがヴェストシュタット市区のイロスヘーエ・スポーツパークである。
- 最も大きな体育館は、ヴュステ市区のシュロスヴァルハレである。
- 水泳競技には、オスナブリュック施設局が運営するネッテバート、モスカウバート、シンケルバートの3つの公共スイミングプールがある。自然の水浴場にはアッター湖が利用される。
- 漕艇競技にはオスナブリュック・シュティヒ運河で行われる。エーファースブルク地区にはこのための艇庫がある。
- ゾンネンヒューゲル市区には、アイススポーツホールとインドア電動カートコースがある。
- ナーナー・ヴァルトバーンでは、定期的にグラスバーン・レースが開催される。
- オスナブリュックにはゴルフ場がない。最寄りのゴルフ場はロッテとビッセンドルフにある。
グルメ
週の市
シンケル、ゾンネンヒューゲル、シェーラーベルクの各市区やレーデンホーフおよびヨハニス教会では定期的に週の市が開催される。ドームホーフでの週の市は特に伝統的なものである[88]。
レストラン
グルメレストラン「ラ・ヴィ」は2011年11月に、ミシュラン=レストランガイドで三つ星を獲得した[89]。2006年11月にゴー・ミヨ・ガイドブックはシェフのトーマス・ビューナーをドイツ5位に挙げ、「ラ・ヴィ」に最高位である4つの帽子を贈った。このレストランのオーナーはユルゲン・グロスマンである。彼はかつて RWE AG の代表責任者、ゲオルクスマリエンヒュッテ・ホールディング GmbH の共同経営者、フォルクスワーゲン AG の監査役員を務めた人物である。
名物料理・食材
オスナブリュック地域の料理は、特にニーダーザクセンやヴェストファーレンの料理の影響を受けている。この地域の典型的な料理には、たとえば、以下の者が挙げられる:
ラマンケン: ありふれたルタバガ(スウェーデンカブ)で作る「ラマンケンアイントプフ」という煮込み料理がある。ルタバガはオスナブリュック地域では「ラマンケン」と呼ばれ(コールリューベとも呼ばれる)、秋になると伝統的な「ラマンケンアイントプフ」に用いられる[訳注 2]。この料理にはルタバガの他に、ジャガイモ、ソラマメ、インゲンマメ、エンドウマメ、ニンジン、ネギ、セロリなどが使われる。最後の仕上げに甘く煮たセイヨウナシを添える。
グリュンコール(ケール)は伝統的な冬の食材である。毎年11月から2月がオスナブリュックのグリュンコールの季節である。かつては貧しい人々を支える料理であったが、現在では、特に肉の付け合わせとして美味な食材である。コールには特別なスパイスが用いられ、人気のコールヴルストに添えられる。コールを用いてベジタリアン向けの食事を調理することもできる。グリュンコールは、オスナブリュック地域では通常、カッセラー、コールヴルスト、ピンケル、新鮮な太い焼きソーセージ、油で炒めたジャガイモとともに供される。
ヴルステブロート [訳注 3]はオスナブリュック地域の典型的な料理である。ヴルスト(ソーセージ)は血、粗挽きのライムギ、脂身の多いベーコン、豚肉、小麦粉、調味料で作る。これを薄く切って、ラードやバターで焼いてパンとともに食す。ヴルステブロートも伝統的に冬の料理である。かつては秋に家畜をつぶして作ったものである。
シュトプゼルはこの地域の典型的な冬の料理である。この料理は豚肉(特に茹でたブタの頭や足)、ブイヨン、挽き割り穀粒で作る。滋味に富んだシュトプゼルは、フライパンで炒めてパンとともに供されるか、あるいは茹でてウスターソースをかけてジャガイモやビートとともに食される。シュトプゼルは極めて栄養豊富で、ヴルステブロートと同様に秋に家畜をつぶした際に作られた。
プンパーニッケルは、オスナブリュックやその周辺地域ではしばしば「シュヴァルツブロート」(黒パン)とも呼ばれる。この種のパンは早くも1450年頃の飢餓の際に、都市領主の命令で都市農民が費用を出して貧しい人々のためのパンとして焼いたもので「bonum paniculum」、すなわち「おいしい小さなパン」と名付けられた。ラテン語が分からない民衆がこの bonum paniculum から、初めては「ボンパーニッケル」、その後「プンパーニッケル」と呼ぶようになった。オスナブリュックには古いパーニッケル塔が現存している。ここに貧しい人々のために bonum paniculum を焼くパン釜が設けられていた。
シュプリングブレッチェン (ドイツ語: Springbrötchen) は、焼き菓子のひび割れた (ドイツ語: aufspringen) 表面からその名が付けられた。これはオスナブリュック地域特産の小さなパンで、この地域でのみ提供されている。ひび割れた表面は、仕上げの生地に対する叩き方の違いによって生まれる。仕上げの生地には柔軟化剤の ABC-膨張剤(重炭酸アンモニウムを主成分とする)が含まれているため、全体的にややふっくらとした味わいが得られる[90]。
ヘーデヴェッゲン(低地ドイツ地方では「ハイスヴェッケ」(直訳「温かいヴェッケン」)と呼ばれるが、それにもかかわらず通常は冷たい料理である)は、ビスケットに似たレーズン入りのパンである。やや脂肪分が高く、レーズンの他に砂糖漬けのシトロンの果皮も入れる。オスナブリュックではコーヒーや紅茶とともに好んで食され、特に謝肉祭の季節に人気である。
この他に、オスナブリュックにちなんだ「オスナブリュッカー・レネッテ」というリンゴの種類がある。
栄誉、褒賞
オスナブリュック市は、市民やその他の人々に対して多くの褒賞を行っている。
- ユストゥス=メーザー=メダル[91]
- エーリヒ=マリア=レマルクー平和賞[92]
- カリカチュア作家やカートゥーン作家のフリッツ=ヴォルフ若手奨励賞
- 社会融和のためのYilmaz-Akyürek賞[93]
- エリーザベト=ジーゲル賞[94]
- オスナブリュック市平和映画賞
- キッドクラージェ賞 - 「誰かのために強くなる」をモットーに行われるオスナブリュック市民グループのプロジェクト
その他
- 本市は近年、ある独特の特徴でメディアの注目を集めている。それはオオヤマネの害である。害であろうがなかろうが、オスナブリュックはオオヤマネ捕獲者を有するドイツで唯一の都市である。捕獲者は、この害獣を捕獲し、街から遠く離れた場所で解放する[95][96]。
- 雑誌「シュテルン」の2003年の記事によれば、ドイツで最も幸福な人はオスナブリュックに住む人である[97]。
- オスナブリュックの他に、類似した名前の街がいくつかある: アメリカ合衆国ノースダコタ州の北東部にオスナブロック市が、オハイオ州にはオスナバーグがある。スコットランドにはオスナバラがある。太平洋のメヘティア島は1767年にヨーロッパ人が発見した際にはオスナバラと命名された。さらにカナダのオンタリオ州には1998年にサウス・ストーモントが新たに形成されるまでオスナブロックという町があった。同じくオンタリオ州のオジワブ族の Mishkeegogamang Ojibway Nation があるが、ここはかつてオスナバラとして知られていた。
- 18世紀から19世紀にアングロ・サクソン地方では、粗く編んだ作業着が「オスナバーグ」の名前で普及していた。これはおそらくオスナブリュクの織布に起源とする。
- オーストリアのグローセレントタールには、高度 2032 m にオスナブリュッカー・ヒュッテがある。これはドイツ・アルペン協会のオスナブリュック部局の山小屋である[98]。
- ハンブルクのパンク・ロック・バンド「モントレアル」は2017年にミュージックビデオ「オスナブリュック」をリリースした。しかし、その映像はすべてミュンスターで収録されたものである[99]。
- 2006年にコクチョウ「ペトラ」が新聞の大見出しを飾った。このコクチョウはミュンスターで、大きな白鳥の形をした足踏みボートに恋をした。この鳥は、夏の間中、アー湖の「同類」から離れずに過ごし、11月に両者はミュンスター・アルヴェッター動物園に移された。「シュピーゲル」や「シュテルン」といったドイツのメディアの他に、アメリカ合衆国、日本、インド、アラビアのテレビチームが取材に訪れた。2009年末、ペトラは一時的に姿を消し、2013年春にオスナブリュックで「新しい恋人」を見つけて、ここで暮らしている[100]。
経済と社会資本
経済
オスナブリュックは、ニーダーザクセン州南西部および、境を接するヴェストファーレンの一部の上級中心都市である。この周辺市町村の人々は、この街で働き、ショッピングや活動の中心として街を利用している。オスナブリュックの経済は、ドイツにおける産業革命の開始以後、特に工業に依存している。ヨーロッパの重要な道路、鉄道、水路が交差する交通の便の良い場所に位置することから、オスナブリュックでは運輸業が著しく発展し、数多くのサービス系企業が地域を超えた名声を獲得している。
鉄鋼、金属産業
1868年の「オスナブリュック鉄鋼工場」(後のクレックナー鉄鋼工場)[101]や、同時期に市の南部にゲオルクスマリエンヒュッテが進出したことで、数十年間にわたって、オスナブリュックの風景は鉄鋼工場によって形成されるようになった。鉄鋼危機とその結果として1989年にクレックナー工場が終業した後も、ゲオルクスマリエンヒュッテは、建設用鋼材製造業者として存続している。
内市街の北、ガルトラーゲに1873年、ヴィッテ・ウント・ケンパー針金・釘工場が進出した。この会社は1890年にオスナブリュック銅・針金工場 AG (OKD) となった。現在この会社は KME AG という名称で、ヨーロッパにおける銅加工のトップ企業となっている。
紙産業
オスナブリュック市とその周辺地域は、ドイツの製紙業・紙製品加工業の中心地である。数世紀前からハーゼ川沿いには製紙用水車があり、ハーフェン市区のケンメラー製紙およびグレーテシュ市区のフェリックス・シャラー・グループが発展した。ケンメラー製紙はフィンランドの企業アールストロムに吸収された。しかし、2016年には再びケンメラーの名称を使用している[102]。
また、オスナブリュックとその周辺には大きな紙製品加工業者がある。たとえばブラームシェのラッシュ壁紙製造やドゥーニ、ヘルステルのフィスラーゲなどである。
自動車産業
オスナブリュックは、旧カルマンによる数多くのカプリオの製造地として知られている。2009年に破産した後、大部分がフォルクスワーゲン・オスナブリュックとしてフォルクスワーゲン・コンツェルンに組み込まれた。しかし、SUVの流行によりカプリオレの需要は減少した。このため現在この工場では、フォルクスワーゲン・コンツェルンの別の車種も製造している。
転換
近年、オスナブリュックの多くの元工業用地や旧軍用地で転換プロセスが進行している。これにより、一方では確かに、土地の以前の利用者が重要な経済ファクターの一部をなしていたため、市の経済発展が危機にさらされた。しかし他方では、これらの土地が都市近郊型住宅地や商業地として利用されることで、地域の転換が大きな利益を生み出すようになることが期待される。
ドイツ連邦軍はオスナブリュックに多くの駐屯地を有しており、そのすべてが2004年までに開放された。連邦軍兵舎の跡地利用がなされたのは、たとえばヴェスターベルク市区(オスナブリュック総合大学や単科大学の拡張)やカルクヒューゲル市区(住宅地および行政センター)がある。イギリス軍の撤収により、2009年までにさらに兵舎の敷地が空いた。これらの一部、たとえばドーデンスハイデ(リムベルク兵舎)やアッター(ラントヴェール通りの兵舎)ではそれ以前から転用が始まっていた。
オスナブリュックの工業転換用地の例が、フレッダー市区の1989年に閉鎖されたクレックナー鉄鋼工場の敷地である。現在では都市近郊型商業地「ハーゼパーク」となっている。そのすぐ南に位置する扇形機関庫を有する旧貨物駅は新たな用途が期待されているが、現在の土地所有者とオスナブリュック市との間の対立によって困難になっている。
通勤者
オスナブリュック市は周辺市町村と通勤での結びつきが極めて強い都市である。2012年現在、合計 51,270人の社会保険支払い義務のある就労者がこの街に通勤してくる。その大部分がオスナブリュック郡(ニーダーザクセン州)およびシュタインフルト郡(ノルトライン=ヴェストファーレン州)からの通勤者である。逆にオスナブリュック市からは 20,194人がオスナブリュック郡、シュタインフルト郡およびミュンスター市へ働きに出かけている。最も通勤者が多いのはゲオルクスマリーエンヒュッテとオスナブリュック(ゲオルクスマリエンヒュッテからオスナブリュックへ 4,470人、オスナブリュックからゲオルクスマリエンヒュッテへ 2,181人)およびヴァレンホルストとオスナブリュク(ヴァレンホルストからオスナブリュクへ 4,432人、オスナブリュックからヴァレンホルストへ 1,107人)である。ベルム、ビッセンドルフ、ブラームシェ、ロッテからオスナブリュックへは 2,000人以上、ハーゲン・アム・トイトブルガー・ヴァルト、ハスベルゲン、イッベンビューレン、メレ、オスターカッペルン、ヴェスターカッペルンからオスナブリュックへは 1,000人以上が通勤している。
企業
以下に、オスナブリュックに本社あるいは主要拠点を置く重要な企業をアルファベット順に列記する:
- アウト・ヴェラー: verアーグループの一部、従業員数 471人(2007年現在)
- buw企業グループ: 連邦内に約 5,000人の従業員を擁する(2013年現在)
- オスナブリュック・キリスト教小児病院: 小児・青年医療の病院
- コンディトライ・コペンラート & ヴィーゼ: パン、焼き菓子製造、従業員数約 2200人(2010年)
- ヴェルナー・エーガーラント自動車輸送、1,174人
- フェリックス・シェラー・グループ、世界中に約2,400人の従業員
- ヘルマン・ワールドワイド・ロジスティクス、約9,200人
- ハインリヒ・フィップ GmbH & Co. KG、ミネラルオイル販売会社
- HR グループ GmbH & Co. KG、靴販売会社、靴販売チェーン「レーノ」の親会社、ヨーロッパ中に約 6,000人の従業員がいる。
- カルマン、現在はフォルクスワーゲン・オスナブリュック
- オスナブリュック子供病院、従業員数約 150人
- オスナブリュック病院、従業員数約 1,800人
- KM オイローパ金属、従業員数約 2,700人
- コッホ・インターナショナル、国際的運送業者、従業員数約 700人
- ケスター、従業員数約 1,000人
- レンガーマン・ウント・トリーシュマン、服飾販売
- ライジーファー、チョコレート製造、従業員数約 450人
- オスナブリュック・マリエン病院、従業員数約 1,500人
- マイヤー & マイヤー国際輸送代理店、世界中に約 2,300人の従業員を擁する(2008年)
- ノルトヴェストバーン、従業員数約 850人
- パラセルスス病院、従業員数約 5,200人
- ピーペンブロック企業グループ、連邦中に約 26,000人の従業員を擁する(2013年)
- Q1 エネルギー AG、連邦中にガソリンスタンドを180店有している(2015年現在)
- R & R アイスクリーム・ドイチュラント、ヨーロッパに1,400人の従業員、フランスとポーランドに工場を有する。
- ジーヴェルト AG、従業員数約 1,400人
- ゾストマイアー輸送、ヨーロッパ中に約1,000人の従業員を擁する(2008年)
- ティトゲマイヤー (GTO) プロドゥクティオーン、有用車輌の大手販売、従業員数約 500人
- フォルクスワーゲン・オスナブリュック、2011年から、従業員数約 1,200人
- ヴェラーグループ、従業員数約 1,750人
- ヴェセルス + ミュラー AG、乗用車および有用車輌の大手販売業者、従業員数約 3,300人、ドイツ、オランダ、オーストリア、USAに販売店を持つ
この他の、オスナブリュック周辺にある重要な企業は以下の通り:
- アマツォーネン=ヴェルク、ハスベルゲンの農機メーカー、従業員数約 1,500人
- AVO-ヴェルク・アウグスト・バイセ、ベルムの香辛料加工所、従業員数約 500人、フランスとポーランドに工場がある
- ドゥニ GmbH、ブラムシェの使い捨て食器製造、従業員数約 600人(2011年)
- エルスター・クロムシュレーダー、ロッテ=ビューレンのガス器具、ガス測定器具製造会社、従業員数約 850人(2012年)
- フックス・スパイス、ディッセン・アム・トイトブルガー・ヴァルトのスパイス工場、従業員数約 3,500人
- ゲオルクスマリエンヒュッテ企業グループ、ゲオルクスマリエンヒュッテ、従業員数約 10,000人
- ヘリスト、バート・ローテンフェルデの食品工場、従業員数約 3,800人
- ホーマン・ファインコスト、ディッセン・アム・トイトブルガー・ヴァルトの食品会社、従業員数約 1,500人
- ケンパー・ヴルストヴァーレン、ノルトルプの食品(ソーセージ)メーカー従業員数約 1,300人(2009年)
- マインダース & エルスターマン、ベルムの印刷・出版社、従業員数約 170人
- サニケア配送薬局ヨハネス・メンター、バート・ラーエル、従業員数約 800人
この他にいくつかの企業がニーダーザクセンパークに進出している。
メディア
日刊紙
オスナブリュックでは、「ノイエ・オスナブリュッカー・ツァイトゥング」が刊行されている。この新聞は、1884年に創刊された「オスナブリュッカー・ターゲブラット」と「ノイエ・ターゲスポスト」が合併して成立した。
オンラインメディア
オンラインポータル「Hasepost.de」は2013年から運用されており[103]、主にローカルニュースを発信している。先行するプロジェクト「Loewenpudel.de」はオスナブリュックで最初の地方オンラインポータルであり、1996年にスタートした[104]。
週刊紙、月刊誌
コマーシャルペーパー「オスナブリュッカー・ナハリヒテン」は毎週水曜日と日曜日に刊行されている。2014年1月まではさらに「オスナブリュッカー・ゾンターグスツァイトゥング」も日曜日に刊行されていた。
月刊紙には「インサイダー・オスナブリュック」、「オイレンシュピーゲル」「モスキート・マガジン」「シュトラーセンツァイトゥング・アプザイツ!?」がある。また1年に2回飲食店の主導によるタウン誌「シュタットブラット」が刊行されている。
2012年からオスナブリュック単科大学のメディアプロジェクトとして雑誌「オスナブリュッカー・ヴィッセン」が刊行されている。
放送
オスナブリュックのローカルラジオ局は、「ラジオ・オスナブリュック 98.2」と「トイトラジオ・オスナブリュック」である。さらに、ラジオ番組やテレビ番組を制作する北ドイツ放送 (NDR) の地方スタジオの所在地でもある。これらの放送は、ブラムシェのシュレプトルパー・エッゲ送信所から発信されている。さらにラジオ局「ffn」、「ヒットラジオ・アンテネ」「ラジオ21」の地方スタジオもある。
osradio 104.8 は市民ラジオ放送局で、この放送局は一般公開されている。
通信
オスナブリュック唯一の電信塔が、1977年に完成した DFMG の送信塔「シンケル塔」で、ここには様々な送信局がある。オスナブリュックの北約 5 km のブラームシェ市内に NDR のシュレプトルパー・エッゲ放送送信所が、オスナブリュックの南約 10 km のハーゲン・アム・トイトブルガー・ヴァルト町内に DFMG のグラーフェンズンデルン送信塔がある。オスナブリュックにはかつて、オスナブリュック=ツィーゲンブリンク送信所があった。
交通
交通手段
以下の表は、2010年現在のオスナブリュック市の旅客交通における交通手段のシェアを示している[105]。
交通手段 | 徒歩 | 自転車 | 公共交通機関 | 自動車 |
---|---|---|---|---|
比率 | 19 % | 12 % | 16 % | 53 % |
道路
オスナブリュックを複数の連邦アウトバーンが通っている: 北西部を A1号線「ハンザ線」プットガルデン - ザールブリュッケン、南部を A30号線バート・エーンハウゼン - アムステルダム、東部を A33号線オスナブリュック - パーダーボルンである。さらに連邦道 B68号線がこの街を貫いている。B51号線と B65号線は市の東端を通っている。市内環状線内は、いくつかの箇所が歩行者専用区域に指定されている。
ノイマルクトは、中心的な交通の乗り換え地点である。ここはオスナブリュックの繁華なショッピング街であるグローセ通り/ヨハニス通りが大通りと交差する地点であり、市バスの中央乗り換え所がある。オスナブリュックの道路網は約 820 km で、このうち 760 km を市が管理している。31 km が連邦アウトバーン、12 km が連邦道、15 km が州道、65 km が郡道である[11]。
鉄道交通
オスナブリュック中央駅は旅客駅を含め鉄道交通の乗り換え地点である。駅は立体交差構造の珍しい形式で、操車場を有している。ハンブルク - ブレーメン - ルール地方の路線とアムステルダム - ハノーファー - ベルリンの路線が、中央駅で交差する。この他に2つの支線がここから分岐している。1つは南東のビーレフェルト方面へ(ハラー・ヴィレム)、もう1つは北方面へ向かう。後者はヘゼーペ[訳注 4]で2つの路線に分岐する。1つはクロッペンブルク - オルデンブルク (オルデンブルク) を経由してヴィルヘルムスハーフェンへ、もう1つはフェヒタを経由してデルメンホルストへ向かう。さらに、テックレンブルガー北鉄道が、オスナブリュック - メッティンゲン - レッケ - ライネ線で貨物鉄道および保存鉄道を運行している。この路線を近代的な地方路線として再開させるかどうか議論がなされている。 SPNV ヴェストファーレン=リッペ近郊交通プランでは、良好な経済性が見込めるとして、オスナブリュックからレッケまでを30分間隔で運行する近代的な地方鉄道として再開することが期待されている。
オスナブリュック中央駅は2000年からノルトヴェストバーンの本社がある駅となっている。オスナブリュック市内にはこの他に、オスナブリュック・アルトシュタット(2009年末まではオスナブリュック・ハーゼトーア駅)とオスナブリュック=ズットハウゼン駅がある。前者は、ブラームシェ、オルデンブルク、ヴィルヘルムスハーフェン、フェヒタ、ブレーメン、ライネ、バート・ベントハイム、ビュンデ、ビーレフェルト、ブラウンシュヴァイクへの列車が、後者はハレ (ヴェストファーレン) - ビーレフェルト方面の列車が利用できる。オスナブリュック=エーファースブルク駅、オスナブリュック=リュストリンゲン駅、オスナブリュック西駅は閉鎖されている。
オスナブリュック中央駅 - オスナブリュック・アルトシュタット駅 - オスナブリュック=ピースベルク駅間の保存鉄道は、蒸気機関車愛好会によって運営されている[79]。この他に、オスナブリュックからヴェスターカペルン、メッティンゲンを経由してレッケに至るテックレンブルガー北鉄道があるが、現在は保存鉄道と貨物列車が運行するだけである。
1996年にオスナブリュック市は、「オスナブリュック地域の都市鉄道」というタイトルの下、カールスルーエ交通コンサルタントに実施可能性調査を依頼した。この調査では、内市街の鉄道路線を脱却してカールスルーエ・モデルに基づく都市型鉄道(Sバーン)に転換することが可能であるかが示された。
ICE にはオスナブリュックにちなんだ名称を持つ車輌が存在する。
オスナブリュックでは1906年に、2系統の路線を持つ路面電車が開通した。1920年代に3つめの路線がこれに加わった。オスナブリュックの路面電車は1960年まで運行していた。
バス交通
近郊道路旅客交通は、オスナブリュック施設局 AG の9本の市バス基幹路線と、これと密接に結びついたヴェーザー=エムス・バスおよびその他の会社の地域バスが担っている。1960年代までは他の交通機関もこれに寄与していた: 上述の通り1906年から1960年までは路面電車も運行していた。1949年に最初のトロリーバス路線が営業を開始した。トロリーバス路線は、1968年まで、廃止された路面電車に替わって運行していた。その後、ディーゼルエンジンで走行するバスが市内で唯一の交通機関となった。中央駅に次ぐ重要な中央乗り換え所が、多くのバス停がまとまっているノイマルクトである。
近郊道路旅客交通を統合する交通連盟はこれまで存在していない。オスナブリュック交通共同体 (VOS) のバスチケットは、列車では使用できない。ただしビーレフェルト行きのハラー・ヴィレム線は例外的に VOS-プラス料金が適用される。ミュンスターラントやテックレンブルガー・ラント方面の列車はヴェストファーレン料金が適用されるが、これらのチケットはオスナブリュック市バス網でも有効である。
この他に2013年からオスナブリュック鉄道路線にはニーダーザクセン料金も適用されるが、バスには適用されていない。
ニーダーザクセンでは、ディーゼルバスやトロリーバスに対する補助金は拠出されないが、Sバーンに対する補助金が間違いなく認可されるであろうことは、今後の計画にとって重要である。
広域の旅行バスは駅の他に、アイゼンバーン通りに停車する。ここでは、ポーランドや旧ユーゴスラビア、旧ソ連の国々へのバスが発着する。この他に、ベルリン行きのバスが1日に何本も運行している。
遊歩道
オスナブリュックは、ヴェーザー=エムス・ヴィーエン山地連合によって管理されている多くの広域遊歩道の発着点となっている[106]。
- 全長 229 km のハンデルスヴェーク: ドイツのテッデンヴェークとオランダのマールスクラマーパッドからなる(Deventer まで)
- 全長 208 km のヒューネンヴェーク(パーペンブルクまで)
- 全長 107 km のピッカーヴェーク(ヴィルデスハウゼンまで)
- 全長 90 km のヴィッテキンツヴェーク(ポルタ・ヴェストファーリカまで)
水路と港
オスナブリュック内陸港は、ハーフェン市区を終点とする全長 13 km のオスナブリュック・シュティヒ運河を経由してミッテルラント運河と結ばれている。ミッテルラント運河に直接面した新しい港としてヘリングハウゼン地区ボームターにレッカーミューレ運河港が計画されている。この港はB51号線がミッテルラント運河を渡る地点の付近に建設される計画である。
航空路
- ミュンスター/オスナブリュック空港 (FMO) : 約 30 km の距離にある最寄りの空港がミュンスター/オスナブリュック空港である。毎日多くの便が、フランクフルト・アム・マイン、ミュンヘン、シュトゥットガルトの国際空港と結んでいる。ヨーロッパ内では、地中海周辺、カナリア諸島、トルコやエジプトへ向けて多くの航空会社が運行している。この空港からオスナブリュクへは、アウトバーン A1号線および A30号線を経由する。高速バス路線「X150 エクスプレス=バス」が街と空港とを結んでいる。
- オスナブリュック=アッターハイデ飛行場: 西のアッター市区にオスナブリュック=アッターハイデ飛行場がある。この飛行場は専ら航空監視の委託に用いられている。この飛行場は、総重量 5.7 t までの飛行機が着陸でき、多くの社用機が利用している。遊覧飛行が1年中可能である。
公共機関
オスナブリュックには以下の機関が存在する:
- ドイツ連邦環境財団
- ドイツ平和研究財団
- テルデ・ゾム・ドイチュラント(児童援助機関)
- オスナブリュック=エムスラント手工業会 - 管轄地域: オスナブリュック市、オスナブリュック郡、グラーフシャフト・ベントハイム郡、エムスラント郡
- オスナブリュック中央税関
- オスナブリュック=エムスラント=グラーフシャフト・ベントハイム商工会 - 管轄地域: オスナブリュック市、オスナブリュック郡、グラーフシャフト・ベントハイム郡、パーペンブルクを除くエムスラント郡
- オスナブリュック地方裁判所
- ニーダーザクセン州立文書館オスナブリュック館
- オスナブリュック警察本部
- ドイツ連邦銀行支店
教育
大学
- オスナブリュック総合大学 (ドイツ語: Universität Osnabrück) はオスナブリュッカー城を本部としており、1974年に設立された。この大学は、1953年にオスナブリュックに設立された教育単科大学を母体としている。
- オスナブリュック単科大学 (ドイツ語: Hochschule Osnabrück) は1971年に、様々な施設が統合されて、設立された。高等農業学校、高等造園学校、州立工業学校がこれに参加した。同じ1971年に社会教育学高等専門学校から設立された北ドイツ・オスナブリュックおよびフェヒタ・カトリック専門大学はオスナブリュック専門大学に改編され、オスナブリュック司教とミュンスター司教が運営者から外れた。
一般教育と職業学校
主な学校を列記する。
- ギムナジウム・カロリヌムは、804年にカール大帝によって設立されたと自称している。この学校はドイツで最も歴史の長い学校の1つである。
- そのすぐ隣にウルズラシューレがある。これは、アンゲラシューレとともにウルズラ女子修道会によって設立された女子ギムナジウムに由来する。現在両校は、司教本部が運営する州内で有名な共学のギムナジウムである。
- 1595年に完成した州立ラーツギムナジウム・オスナブリュックは、市内で最も古い非宗教系の学校である。
- ギムナジウム「イン・デア・ヴュステ」は、2000 エキスポ=シューレであった。
- 1965年に、第4ユンゲンギムナジウムとして設立されたグラーフ=シュタウフェンベルク=ギムナジウムは、カルクヒューゲルにある。この学校はバイリンガル教育を行っている。
- UNESCOプロジェクト学校のシンケル総合学校は、オスナブリュック最大級の学校の1つである。この学校は、ニーダーザクセン州で最初期の全日制総合学校の1つである。
- 1980年からゾンネンヒューゲル学校センターに立地するエルンスト=モーリッツ=アルント=ギムナジウムは全日制オイローパシューレである。
- エーファースブルクの学校センターは2010年にオスナブリュック統合型総合学校に移管された。
- 1961年から1990年までアメルドゥング通りに女子ギムナジウムとして設立されたケーテ=コルヴィッツ=ギムナジウムがあった。
- モンテッソーリ学園とエーヴィングハウゼン自由ヴァルドルフ学園はオスナブリュックを学区に含む私立の学校である。
- 19世紀初めに市参事会によって性別ごとに2クラスの国民学校と2クラスの本課程学校が市の中心部に設立された。これらは統合され4学年の市民学校が形成された。この市民学校は1833年にハーケン通り10番地の新しい校舎に移転した。ここはかつてユストゥス・メーザーの住居であった。この学校は1927年にメーゼー=ミッテルシューレと改名された。現在はメーザー実科学校・アム・ヴェスターブルクとなっている。
- 社会教育学専門学校「フランツ・フォン・アッシジ」は1921年に設立された。
- 「演劇教育工房」は青少年向けの予防教育プログラムを提供している。
健康・保健・医療
- 最大の医療サービスを提供しているのは、ヴェスターベルク地区フィンケンヒューゲルに本院を構えるオスナブリュック市立病院である。
- ニールス=シュテンセン=クリニークが運営する病院として、内市街にオスナブリュック・マリエン病院 (MHO) が、オスナブリュックとの市境に面するゲルクスマリエンヒュッテにハールダーベルク・フランツィスクス病院がある。
- ヴェスターベルク地区には、オスナブリュック・パラセルスス病院の近くに、ドイツ・パラセルスス=クリニーケンの本部がある。
- 一般小児科病院としては、オスナブリュック・キリスト教小児病院 (CKO) が2011年に開院し、マリエン病院に組み込まれた。
- 1872年に開設されていたシェーラーベルクのオスナブリュック小児病院は、CKO の設立後は小児精神病の専門病院となった。
- AMEOSグループは、2007年にゲルトルーデンベルクとクノル通りで精神科病棟を有するオスナブリュック郡立病院を買収した。
- ゲルトルーデンベルクには、高気圧酸素治療 (HBO) のための加圧センターがある。
かつて存在した病院:
- ナトルパー=トーア=ヴァルの現在の行政庁舎群は1991年まで現在の市立病院 (Klinikum) の前身にあたる市立病院 (Krankenhaus) の建物であった。
- エーファースブルク市区のナトルパー=ホルツにはかつて、オスナブリュック連邦軍病院があった。この病院は国防軍の野戦病院を起源とし、1994年に正式に病院となった。現在この建物は難民収容所として利用されている。
人物
出身者
- アルベルト・ズホ(1390年以前 - 1449年以後)聖職者、神学者、歴史著述家
- ヨハン・ヴィルヘルム・ペーターセン(1649年 - 1727年)福音主義神学者
- エルンスト・アウグスト2世フォン・ハノーファー(1674年 - 1728年)ヨーク・オールバニ公
- ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・イェルーザレム(1709年 - 1789年)神学者
- ユストゥス・メーザー(1720年 - 1794年)著述家、法学者、歴史家
- エルンスト・フリードリヒ・ヘルベルト・ツー・ミュンスター(1766年 - 1839年)政治家、ハノーファー家に仕えた
- ベルンハルト・ルドルフ・アーベケン(1780年 - 1866年)哲学者
- フリードリヒ・クレメンス・ゲルケ(1801年 - 1888年)電報の開発者
- ハインリヒ・アーベケン(1809年 - 1872年)福音主義神学者
- アウグスト・フォン・クレリング(1819年 - 1876年)画家、彫刻家
- アウグスト・ハイゼンベルク(1869年 - 1930年)ビザンティン研究者、ヴェルナー・ハイゼンベルクの父親
- ヴァルター・ヴァルリモント(1894年 - 1976年)軍人、国防軍砲兵大将
- エーリヒ・マリア・レマルク(1898年 - 1970年)作家
- フリードリヒ・フォルデムベルゲ=ギルデヴァルト(1899年 - 1962年)構成主義の画家、彫刻家
- マチアス・ヴィーマン(1902年 - 1969年)俳優
- ハンス・ゲオルク・カルマイヤー(1903年 - 1972年)法学者
- フェリックス・ヌスバウム(1904年 - 1944年)画家
- ルドルフ・ベックマン(1910年 - 1943年)武装親衛隊員
- フランツ・ルーカス(1911年 - 1994年)強制収容所の医師
- ベノ・シュテルツェンバッハ(1916年 - 1985年)俳優、演出家
- フーベルトゥス・ブランデンブルク(1923年 - 2009年)ストックホルム司教
- ペーター・ファン・ペルス(1926年 - 1945年)アンネ・フランク一家とともに隠れ住んだユダヤ人
- ラインホルト・レマート(1930年 - 2016年)数学者
- ホルスト・ボルヒャーディング(1930年 - 2015年)サッカー選手
- ルドルフ・ザイタース(1937年 - )政治家、連邦内務大臣、連邦議会副議長を歴任した。
- パウル・キルヒホーフ(1943年 - )
- ハイケ・フステーデ(1946年 - )女子水泳選手、メキシコオリンピック 4×100mリレー銅メダリスト
- ハンス=ペーター・ヤクスト(1954年 - )自転車選手
- オーラフ・ショルツ(1958年 - )政治家、連邦労働・社会保障大臣を務めた。
- クリスティアン・ヴルフ(1959年 - )政治家、ニーダーザクセン州首相、連邦大統領を歴任した。
- フォルカー・フリート(1961年 - )ホッケー選手
- ヨーヒェン・ホルスト(1961年 - )俳優
- トーマス・メレンカンプ(1961年 - )ボート競技選手
- エヴリーン・ヘルリツィウス(1963年 - )ソプラノ歌手
- ジェントルマン(本名: ティルマン・オットー、1975年 - )レゲエ歌手
- ホルガー・グランドルフ(1983年 - )ハンドボール選手
- ロビン・シュルツ(1987年 - )DJ、音楽プロデューサー
- フェリックス・クラウス(1992年 - )サッカー選手
- ドニス・アヴディヤイ(1996年 - )コソボ代表サッカー選手
ゆかりの人物
- ヘレーネ・ランゲ(1848年 - 1930年)フェミニズム運動家、教育政治家。1867年から1871年までオスナブリュックで教師を務めた。
- ヘルマン・ファン・ペルス(1898年 - 1944年)アンネ・フランクの家族とともに隠れ住んだ。
- ペーター・ベルリング(1934年 - 2017年)俳優。オスナブリュックで育った。
参考文献
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これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。
日本語文献
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ウェブ
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