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「石城山神籠石」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
石城山神籠石は、[[周南]][[丘陵]]の南部の独立的な[[残丘]]、[[標高]]362メートルの石城山に築かれる。山頂部では、四周に広がる低地部に加え、[[四国]]・[[九州]]の山並みも視野に入る。周辺の[[周防]]東部は、[[瀬戸内海]]に半島状に張り出す。いにしえは、南の陸沿いに海路(古柳井水道)が通じ、室津半島は[[島]]で[[伊予灘]]に突出し、東は[[安芸灘]]、西は[[周防灘]]に面する<ref name=ihkannkousigenn>小野忠熙 他 著 『石城山<small> 朝鮮式山城の解明と保存</small>』、観光資源保護財団、1978年、5・8頁。</ref>。熊毛[[評]](郡)は、いち早く[[倭]]政権の勢力が波及し、県内最古の大型[[首長]][[墓]]他が築かれ、[[周防]][[国造]]の本拠地とされている><ref>八木 充 編 『<small>図説<small/> 山口県の歴史』、河出書房新社、1998年、64・76頁。</ref>。南方の古柳井水道は、[[畿内]]と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、瀬戸内海の西の入口に位置する。北方の畿内と[[筑紫]]を結ぶ古道は、後に[[官道]]の[[山陽道]]として東西に貫く。この地は、[[倭]]政権も重視した陸海交通の要衝の地である><ref name=ihogawa>小川国治 編 『山口県の歴史』、山川出版社、1998年、42・60頁。</ref>。
石城山神籠石は、[[周南]][[丘陵]]の南部の独立的な[[残丘]]、[[標高]]362メートルの石城山に築かれる。山頂部では、四周に広がる低地部に加え、[[四国]]・[[九州]]の山並みも視野に入る。周辺の[[周防]]東部は、[[瀬戸内海]]に半島状に張り出す。いにしえは、南の陸沿いに海路(古柳井水道)が通じ、室津半島は[[島]]で[[伊予灘]]に突出し、東は[[安芸灘]]、西は[[周防灘]]に面する<ref name=ihkannkousigenn>小野忠熙 他 著 『石城山<small> 朝鮮式山城の解明と保存</small>』、観光資源保護財団、1978年、5・8頁。</ref>。熊毛[[評]](郡)は、いち早く[[倭]]政権の勢力が波及し、県内最古の大型[[首長]][[墓]]他が築かれ、[[周防]][[国造]]の本拠地とされている><ref>八木 充 編 『<small>図説</small> 山口県の歴史』、河出書房新社、1998年、64・76頁。</ref>。南方の古柳井水道は、[[畿内]]と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、瀬戸内海の西の入口に位置する。北方の畿内と[[筑紫]]を結ぶ古道は、後に[[官道]]の[[山陽道]]として東西に貫く。この地は、[[倭]]政権も重視した陸海交通の要衝の地である><ref name=ihogawa>小川国治 編 『山口県の歴史』、山川出版社、1998年、42・60頁。</ref>。


石城山神籠石は発掘調査の結果、古代山城であることが確定した<ref name=ihbunnkazai>文化財保護委員会 記念物課 「石城山神籠石の発掘調査」『月刊 文化財』 3/' 65、第一法規出版、1965年、9~12頁。</ref>。しかし、[[日本書紀]]などの史書に記載が無く、築城主・築城年は不明である。[[663年]]の[[白村江の戦い]]で、[[唐]]・[[新羅]]連合軍に大敗したことを契機に、[[7世紀]]後半に築かれたとされている<ref group="注">『月刊 文化財 3/' 65』では、「今後の課題は、・・・年代観さらに各遺跡の編年的序列を確立することである。」と公表する。</ref><ref name=ihkanou>狩野 久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、1~4頁。</ref><ref>八木 充 「百済滅亡前後の戦乱と古代山城」『日本歴史』 第722号、吉川弘文館、2008年、1~15頁。</ref><ref name=ihogawa/><ref>小野忠熈 編 「石城山の神籠石式山城」『日本の古代遺跡 30 山口』、保育社、1986年、68~69頁。</ref>。
石城山神籠石は発掘調査の結果、古代山城であることが確定した<ref name=ihbunnkazai>文化財保護委員会 記念物課 「石城山神籠石の発掘調査」『月刊 文化財』 3/' 65、第一法規出版、1965年、9~12頁。</ref>。しかし、[[日本書紀]]などの史書に記載が無く、築城主・築城年は不明である。[[663年]]の[[白村江の戦い]]で、[[唐]]・[[新羅]]連合軍に大敗したことを契機に、[[7世紀]]後半に築かれたとされている<ref group="注">『月刊 文化財 3/' 65』では、「今後の課題は、・・・年代観さらに各遺跡の編年的序列を確立することである。」と公表する。</ref><ref name=ihkanou>狩野 久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、1~4頁。</ref><ref>八木 充 「百済滅亡前後の戦乱と古代山城」『日本歴史』 第722号、吉川弘文館、2008年、1~15頁。</ref><ref name=ihogawa/><ref>小野忠熈 編 「石城山の神籠石式山城」『日本の古代遺跡 30 山口』、保育社、1986年、68~69頁。</ref>。

2017年3月1日 (水) 14:45時点における版

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石城山神籠石(城)
山口県
石城山神籠石の東水門跡
石城山神籠石の東水門跡
城郭構造 古代山城(神籠石系山城)
築城主 不明
築城年 不明
遺構 土塁・石塁・水門・城門跡
指定文化財 国の史跡「石城山神籠石」
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石城山神籠石(いわきさんこうごいし)は、山口県光市石城山[1]に築かれた、日本古代山城神籠石系山城)である。城跡は、1935年昭和10年)6月7日、国指定史跡「石城山神籠石」に指定されている[2]

石城山神籠石の位置(山口県内)
石城山
石城山
石城山神籠石の位置

概要

石城山神籠石は、周南丘陵の南部の独立的な残丘標高362メートルの石城山に築かれる。山頂部では、四周に広がる低地部に加え、四国九州の山並みも視野に入る。周辺の周防東部は、瀬戸内海に半島状に張り出す。いにしえは、南の陸沿いに海路(古柳井水道)が通じ、室津半島は伊予灘に突出し、東は安芸灘、西は周防灘に面する[3]。熊毛(郡)は、いち早く政権の勢力が波及し、県内最古の大型首長他が築かれ、周防国造の本拠地とされている>[4]。南方の古柳井水道は、畿内と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、瀬戸内海の西の入口に位置する。北方の畿内と筑紫を結ぶ古道は、後に官道山陽道として東西に貫く。この地は、政権も重視した陸海交通の要衝の地である>[5]

石城山神籠石は発掘調査の結果、古代山城であることが確定した[6]。しかし、日本書紀などの史書に記載が無く、築城主・築城年は不明である。663年白村江の戦いで、新羅連合軍に大敗したことを契機に、7世紀後半に築かれたとされている[注 1][7][8][5][9]

石城山の山城は、標高362メートルの石城山の八合目付近を、鉢巻状に城壁が廻る。城壁の総延長は約2.6キロメートルで、石城山の五峰(高日ヶ峰・鶴ヶ峰・大峰・月ヶ峰・星ヶ峰)を取り囲み、標高268メートル~標高342メートルを列石を配した土塁が廻る。東西南北に、谷を横切る場所が4ヶ所あり、石塁水門を設ける。城門は東門と北門の2ヶ所が開く[10]

大論争となった列石遺構は、石城山で切り出された、縦70㎝×巾50~100㎝×厚さ40~60㎝ほどの切石列石で、石城山を廻る[10]。発掘調査の頃は列石が露出した状況であるが、往時は土塁に埋没させていたことが判明した。列石は、土塁の土留施設であるとされた[11]

土塁は高さ約8メートル前後、壁面は60~90度で立ち上がる[注 2]。斜面を削って基礎を固めて列石を並べ、前後を版築土で盛って立ち上げた、内托式[注 3](ないたくしき)の版築土塁[注 4](はんちくどるい)であるとされた[6]

北門に沓石(くついし)と呼ばれる礎石があるが、片方は尾根に移されている。沓石には、コの字型のくり抜きがあり、瀬戸内地方の神籠石に共通する特徴とされている[注 5][10]

2004年平成16年)、集中豪雨で石垣の一部が崩落する。2006年(平成18年)、保存修理工事を完了する[12]。現存の遺構と区別するため、基底部は御影石を使用し、幅2.7m×高さ1.8m、イタビカズラの植生土嚢で覆う。上の列石は幅4m×高さ2.1m、81個の石を布積みする[13]

神籠石を有する自治体が光市に参集し、2007年2月に「第1回 神籠石サミット」、同年10月に「第2回 神籠石サミット」が開催された[注 6][14]。そして、山頂広場に「神籠石サミット」の記念碑の設置と桜の記念植樹が実施された[15]

城内には、国指定の重要文化財の「石城神社本殿」[16]を有する「石城神社」が鎮座する[3]

城内には、江戸幕府長州征討に対する、長州藩の「石城山第二奇兵隊駐屯地跡」が所在する[3]

石城山の山体は、「石城山県立自然公園」に指定されている[3]

関連の歴史

日本書紀』に記載された、白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

関連の調査・研究

遺構に関する内容は、概要に記述の通り。

  • 1909年明治42年)、西原為吉が発見し、学会に紹介された。一般に「神籠石」として知られる遺跡であるが、これを「古代山城」とする説と、「古代霊域跡」とする説とが対立して論争が行われてきた。1935年(昭和10年)、国指定史跡「石城山神籠石」に指定され、保存された[6]
  • 1963年1964年(昭和38年〜39年)、文化財保護委員会(現 文化庁)・山口県教育委員会・大和村教育委員会(現 光市)は、史跡保存の立場から、その規模、性格を明らかにして積極的な保存対策を考究するため、発掘調査を実施した。そして、「従来なおその性格を考える上に決定的な資料をもたなかった神籠石に対する学術調査であったが、・・・」。「その結果石城山神籠石は、土塁をめぐらした古代山城の遺跡であることは疑いのないものである。」と公表する[6]
  • 2009年、第1回 神籠石サミットにあわせて、現状遺構の画像を組み込んだ、1963年~1964年の発掘調査の「石城山神籠石 第一次・第二次調査概要書」が発行された[11]
  • おつぼ山神籠石[注 7]と石城山神籠石の発掘調査は、神籠石論争を山城説に決定させた調査であったとされている[17]
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[7]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 8]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある大野城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 9]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[18]

現地情報

城跡は、「石城山県立自然公園」の指定地内に所在地する。自然公園に加え、史跡公園の役割も担って、駐車場ほかの便益施設が整備されている。遊歩道に沿って歩めば、城跡遺構を見学できる。最寄駅の山陽本線のJR岩田駅からタクシーで約20分、山陽自動車道の熊毛インターチェンジから車で約30分である[19]

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 『月刊 文化財 3/' 65』では、「今後の課題は、・・・年代観さらに各遺跡の編年的序列を確立することである。」と公表する。
  2. ^ 発掘調査の頃は、浸食や発見時に列石が掘り出されて露出し、土塁前面は極一部を除いて消滅状況である。
  3. ^ 城壁背面の自然地形を活用し、斜面にもたせ掛けて築かれた城壁構造。
  4. ^ 土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めた土塁。
  5. ^ 未完成のコの字型の門礎石は、讃岐城山城と播磨城山城に類例がある。そして、鬼ノ城の西門・南門・北門で施工事例が発掘された(向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、85~90頁)。
  6. ^ 2009年、「第四回 神籠石サミット」が開催された後、他の古代山城を有する自治体も加わり、2010年より「古代山城サミット」へと展開されている。
  7. ^ 佐賀県武雄市に所在する、国指定史跡「おつぼ山神籠石」。
  8. ^ 歴史学会・考古学会における華々しい大論争があった(宮小路賀宏・亀田修一 「神籠石論争」『論争・学説 日本の考古学』 第6巻 、雄山閣出版、1987年)。
  9. ^ 1995年(平成7年)の文化財保護法の史跡名勝天然記念物指定基準の改正にともない、「神籠石」は削除され、「城跡」が追加された。

出典

  1. ^ 電子国土基本図(地図情報) - 国土地理院
  2. ^ 石城山神籠石 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ a b c d 小野忠熙 他 著 『石城山 朝鮮式山城の解明と保存』、観光資源保護財団、1978年、5・8頁。
  4. ^ 八木 充 編 『図説 山口県の歴史』、河出書房新社、1998年、64・76頁。
  5. ^ a b 小川国治 編 『山口県の歴史』、山川出版社、1998年、42・60頁。
  6. ^ a b c d 文化財保護委員会 記念物課 「石城山神籠石の発掘調査」『月刊 文化財』 3/' 65、第一法規出版、1965年、9~12頁。
  7. ^ a b 狩野 久 「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』 第21巻 月報21、岩波書店、2015年、1~4頁。
  8. ^ 八木 充 「百済滅亡前後の戦乱と古代山城」『日本歴史』 第722号、吉川弘文館、2008年、1~15頁。
  9. ^ 小野忠熈 編 「石城山の神籠石式山城」『日本の古代遺跡 30 山口』、保育社、1986年、68~69頁。
  10. ^ a b c 小野忠熙 「石城山神籠石」『北九州瀬戸内の古代山城』、名著出版、1983年、212~235頁。
  11. ^ a b 光市教育委員会 編 『石城山神籠石 第一次・第二次調査概要書』、光市、2007年、序文・7頁。
  12. ^ 『史跡 「石城山神籠石」 保存修理事業報告』、光市教育委員会 発行/監修、2006年。
  13. ^ 保存修復工事が工完/列石の背面に版築工法の跡を確認。瀬戸内タイムス(夕刊)、2006年10月4日閲覧。
  14. ^ 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年、45頁。
  15. ^ 石城山を桜の名所に/神籠石サミット記念で植樹日刊 新周南、2008年2月19日閲覧。
  16. ^ 石城神社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  17. ^ 向井一雄 「発掘調査と山城説」『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、36~46頁。
  18. ^ 赤司善彦 「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、10~13頁。
  19. ^ 国指定史跡 石城山神籠石』(パンフレット)、光市教育委員会、2016年。

参考文献

  • 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X
  • 西谷 正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10712-8
  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(特集 西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年。ISBN 978-4-642-08303-4
  • 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-05840-7

関連項目

外部リンク