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{{Infobox scientist |
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{{出典の明記|date=2017年2月}} |
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|名前 = 橋本 宗吉 |
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'''橋本 宗吉'''(はしもと そうきち、[[宝暦]]13年([[1763年]]) - [[天保]]7年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1836年]][[6月14日]]))は日本の[[蘭方医学|蘭方医]]、[[蘭学者]]。初名は直政、のちに鄭。[[字]]は伯敏。[[号 (称号)|号]]は曇斎。門弟に[[中天游]]、[[伏屋素狄]]、[[各務文献]]、[[斎藤方策]]、[[大矢尚斎]]、[[藤田顕藏]]、[[中川元吾]]、[[中川量平]]。交友に[[大高元恭]]。 |
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|画像 = File:Hashimoto,Unsai.jpg |
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|画像説明 = 橋本雲斎肖像画 |
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|誕生名 = |
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|生年月日 = [[宝暦]]13年([[1763年]]){{sfn|大阪文化史論|1979|p=143}} |
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|生誕地 = ''[[阿波国]]、[[大阪]]の説あり''{{sfn|大阪文化史論|1979|p=143}} |
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|没年月日 = [[天保]]7年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1836年]][[6月14日]]) {{sfn|大阪文化史論|1979|p=148}} |
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|死没地 = |
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|配偶者 = |
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|両親 = |
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|学派 = |
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|研究分野 = [[医学]]、[[蘭学]] |
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|研究機関 = |
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|特筆すべき概念 = 西洋医学薬学の紹介{{sfn|和蘭医書の研究と書誌|1997|p=1}}<br/>天文地理学に関する『喝蘭新訳地球全図』の執筆{{sfn|和蘭医書の研究と書誌|1997|p=1}}<br/>[[エレキテル]]を使った実験による電気学上の功績{{sfn|和蘭医書の研究と書誌|1997|p=1}} |
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|影響を受けた人物 = [[大槻玄沢]]、[[小石元俊]]、[[間重富]] |
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|影響を与えた人物 = [[中天游]]{{sfn|大阪文化史論|1979|p=155}}、[[伏屋素狄]]{{sfn|大阪文化史論|1979|p=158}}、各務文献{{sfn|適塾をめぐる人々|1988|p=159}}、藤田顕蔵{{sfn|適塾をめぐる人々|1988|p=159}} |
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|主な受賞歴 = |
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|署名 = |
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'''橋本 宗吉'''(はしもと そうきち、[[宝暦]]13年([[1763年]]) - [[天保]]7年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1836年]][[6月14日]]))または'''橋本 鄭'''(はしもと てい){{sfn|大阪文化史論|1979|p=144}}は日本の[[蘭方医学|蘭方医]]、[[蘭学者]]である。曇斎(どんさい)、絲漢堂とも号した{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。医学、天文学、本草学の翻訳を手がけた。また蘭学書を読み解いて[[エレキテル]]を自作し、エレキテルおよび数々の実験についての記述を残している。これらの業績より、日本の電気学の学術的研究の祖であるとも評される{{sfn|適塾をめぐる人々|1988|p=159}}{{sfn|和蘭医書の研究と書誌|1997|p=1}}{{sfn|大阪文化史論|1979|p=146}}。 |
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== 来歴 == |
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=== 生い立ち === |
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[[阿波国|阿波]]に生まれる(一説には[[大坂]]の生まれ)。大坂で傘職人をしていたが、[[京都]]の蘭方医[[小石元俊]]と天文学者[[間重富]]に才能を見出され、ふたりの紹介と経済的支援を得て27歳で[[江戸]]に遊学する。江戸滞在はわずかな期間であったが、[[大槻玄沢]]の[[芝蘭堂]]に学び、わずか4ヶ月で4万語の[[オランダ語]]を習得したといわれ、玄沢四天王(芝蘭堂四天王)に数えられたという。 |
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祖先は四国の[[阿波国]][[那賀郡]]の[[郷士]]であったと伝えられている{{sfn|大阪文化史論|1979|p=143}}。宗吉の父の代に大阪にでてきた{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。宗吉が阿波の生まれか、大阪の生まれかは不明である{{sfn|大阪文化史論|1979|p=143}}{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。 |
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傘屋で紋書き職人をしていたが、記憶力の良さから評判となり、医者の[[小石元俊]]に見出される{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。小石は、最新の蘭学書を翻訳するために、オランダ語に精通した者を探していた{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。小石は、天文学者であった[[間重富]]と相談し、両名が費用を負担して、橋本宗吉を江戸へ送り、オランダ語を学ばせることにした{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=26}}。寛政2年(1790年)、橋本は江戸に出て[[大槻玄沢]]の門弟となった{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=27}}{{efn|橋本が江戸の大槻玄沢への入門時期は諸説ある{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=41}}。}}。この事情については、[[杉田玄白]]の著『[[蘭学事始]]』にも以下のような記述がある{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=27}}。 |
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大坂へ戻ると小石らのため蘭書を翻訳し、医院と学塾を兼ねた[[私塾]]である[[絲漢堂]]を開き診療と教育活動に務める。また、[[エレキテル]]の研究も行っている。[[文政]]10年(1827年)[[大塩平八郎]]による[[大坂切支丹一件]]が発生すると弟子の[[藤田顕藏]]が逮捕されたため、宗吉も過酷な取調べを受けることになり、絲漢堂も閉鎖に追い込まれた。その後、無実が証明され釈放されたが、[[シーボルト事件]]の影響で蘭学者への風当たりが強まると宗吉は一時[[広島県]]竹原に隠棲した。後に帰阪し私塾を再開する。天保3年(1832年)[[天保の大飢饉]]が発生すると事態打開を図り奔走するがその最中、病の床に就く。一時は回復をみせるも天保6年(1835年)3月26日、看病を続けてくれた1番弟子[[中天游]]が突如この世を去り、自身も天保7年(1836年)5月1日死去。享年74。 |
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{{Quotation| |
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大阪市[[天王寺区]][[上本町]]の[[念仏寺_(天王寺区)|念仏寺]]に墓が再建され置かれている。 |
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大坂に橋本宗吉という男あり。傘屋の紋かくことを業として老親を養い世を営めりと。不学なれども生来奇才あるものゆえ、土地の豪者ども見立てて、力を加え、江戸へ下して玄沢が門に入れたり。わずかの逗留の間、出精し、その大体を学び、帰坂の後も自ら勉めてその業大いに進み、後は医師となりて、ますますこの業を唱え、従遊の人も多く、ようやく訳書をもなし、五畿七道山陽南海諸道の人を誘導し、今におけるいよいよ盛んなりと聞けり。江戸へ来りしは寛政の初年のことなり。 |
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| [[杉田玄白]] | [[蘭学事始]] |
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小石元俊は、橋本宗吉の訳書『蘭科内外三法方典』に序文を寄せ、橋本について以下のように紹介している{{sfn|大阪文化史論|1979|p=143}}。 |
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==著作== |
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*『[[喎蘭新訳地球全図]]』 |
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*『蘭科内外三方法典』 |
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*『阿蘭陀(オランダ)エレキテル究理原』 |
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*『西洋医事集成宝凾』ほか。 |
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{{Quotation| |
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==評価== |
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和蘭之言大都六万、而して則ち之をなすこと四ヶ月、己に能く四万語を暗記す。乃ち還って浪華に帰す。 |
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西洋医学翻訳書『[[解体新書]]』を刊行した江戸の[[杉田玄白]]らと交友し、小石元俊とともに東西の蘭学を結ぶ人物と位置づけられ、[[大坂蘭学]]の基礎を築いた人物と評されている。 |
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| [[小石元俊]] |蘭科内外三法方典 |
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つまり小石元俊の記述によると、橋本は4ヶ月の江戸の滞在でオランダ語4万語を暗記した後、大阪に戻ったことになる。小石元俊と間重富に従事し、彼らの指導の元、蘭学書の翻訳を行った{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=28}}。また彼らの仕事の手伝いをしていたと考えられる。間重富の『月食観測日記』の寛政10年(1798年)10月16日の項には、「橋本宗吉、蘭学者、兼テ測量ノ時ハ手伝イタスモノナリ」と記されている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=54}}。 |
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==交流== |
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*[[中井履軒]] |
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*[[麻田剛立]] |
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*[[杉田玄白]] |
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*[[杉田伯元]] |
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*[[大槻玄沢]] |
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*[[宇田川玄随]] |
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*[[宇田川玄真]] |
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*[[稲村三伯]] |
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*[[山村才助]] |
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*[[間重富]] |
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*[[山片蟠桃]] |
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*[[小石元俊]] |
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*[[木村蒹葭堂]] |
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*[[升屋平右衛門]] |
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*[[大高元恭]] |
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*[[大塩平八郎]] |
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=== 絲漢堂 === |
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橋本が従事していた小石元俊と間重富が相次いで大阪を離れると、寛政8年(1796年)頃、独立して医師を開業した{{sfn|大阪文化史論|1979|p=145}}。享和の初めのころ、居を移し、蘭学塾「絲漢堂」(しかんどう)を開いた{{sfn|大阪文化史論|1979|p=145}}。このころ『喝蘭新訳地球全図』を出版した{{sfn|大阪文化史論|1979|p=145}}。 |
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*『負けてたまるか-大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝-』(柳田昭著、[[関西書院]] 1996/06 ) |
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寛政12年(1800年)、門弟の[[伏屋素狄]]、各務文献、大矢尚斎などと共に霞島の刑場で女刑屍の解剖を行った{{sfn|適塾をめぐる人々|1988|p=160}}。この時の解剖図は各務文献、大矢尚斎が「婦人内景之略図」として詳細に書き残された{{sfn|適塾をめぐる人々|1988|p=160}}。 |
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==外部リンク== |
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*[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-49/basic/5C-49.html 喎蘭新訳地球全図(神戸大学附属図書館)] |
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その後、『蘭科内外三法方典』の執筆にとりかかり、文化元年(1804年)から文化10年(1814年)までに六巻を上梓した{{sfn|大阪文化史論|1979|p=145}}。序文は[[大槻玄沢]]が寄せ、本草・薬方・製薬・治病・奇方秘術などの各部に分かれている{{sfn|大阪文化史論|1979|p=145}}。 |
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=== 静電気学への取り組み === |
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{{see also|百人おどし}} |
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[[File:OlandaShiseiErekiteru 002.jpg|thumb|400px|寺子屋「旭昇堂」でのエレキテルによる[[百人おどし]]の様子表した挿絵]] |
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自著『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の付書によると、天明3年(1782年)の21歳のときに山中という人物の持っていたエレキテルを借りて実験したと書いている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=40}}。 |
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40歳のころから、[[エレキテル]]の研究に没頭した。恐らくは、オランダのボイス(Egbert Buys)が編集した百科事典「{{lang-nl-short|Nieuw en Volkomen Woordenboek van Konsten en Wetenschappen}}{{efn|訳をつければ「工芸と自然の学問についての新しくて完全な事典」}}」を参考にしたと推測される{{sfn|エレキテルの魅力|2007|p=82}}{{sfn|近代日本その科学と技術|1990|p=71}}。この百科事典の中で、電気に関する記述は図版も含めて13ページほどであり、該当箇所の内容は『エレキテル訳説』として橋本宗吉の手で翻訳された{{sfn|エレキテルの魅力|2007|p=82}}。さらにこの事典とヨハネス・ボイス(Johannes Buijs)著「{{lang-nl-short|Natuurkundjg schoolboek}}」を参考に{{sfn|近代日本その科学と技術|1990|p=71}}、[[エレキテル]]を使い自ら行った実験を載せた『阿蘭陀始制エレキテル究理原』を著した{{efn|橋本宗吉と前後して、水戸藩家臣の高森観好もエレキテルの製作を行っている{{sfn|大阪文化史論|1979|p=147}}。}}。[[大槻玄沢]]は『[[厚生新編]]』の「越列吉低力的乙多{{efn|[[エレキテル]]のこと}}」の項で以下のように橋本のことを記している。 |
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{{Quotation| |
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さて近き文化牛未両年のころ、浪華の橋本某という者、右ボイスの著わせる図説およびナチュールブック等の蘭書に載する諸説を読んで、その大体の理を弁え、よってこの器における種々の機巧を発明したり。 |
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| [[大槻玄沢]] | [[厚生新編]] |
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}} |
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橋本は単にエレキテルの原理を解説しただけではなく、エレキテルやライデン瓶を使った種々の実験を行った。これらの実験について、『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の中で解説を行っている。例えば、[[寺子屋]]「旭昇堂」にて百余人の子供に感電実験([[百人おどし]])を行ったと記している{{sfn|大阪文化史論|1979|p=151}}。 |
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[[File:HyakuninObie 01.jpg|thumb|120px|「百人おびえ」と書かれた[[ライデン瓶]]]] |
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また『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、[[ベンジャミン・フランクリン]]の[[凧]]をつかった雷の実験のごとく、泉州佐野で門人の中喜久太が高さ十九間(約40m)の松の木を使い「天の火を取る実験」を行ったことが記されている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}{{efn|この実験を行った中喜久太は、[[重要文化財]]「中家住宅」として保存されており、実験でしようされたと考えられる松の木の植わっていた場所には石碑が建てられた。}}。この他にも『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、エレキテルで焼酎に火をつける実験、エレキテルでカエル・ネズミ・スズメなどを気絶させる実験、エレキテルの静電気で紙人形を踊らせる実験なども書かれている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}。 |
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『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、松原右仲が作ったエレキテルと、それを参考に橋本が作ったと思われるエレキテルの説明が書かれている{{sfn|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002|p=39}}。これらのエレキテルは[[平賀源内]]のエレキテルと異なり、鉄衝(鉄砲の古い筒)に帯電させる方法を取っている{{sfn|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002|p=39}}。 |
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[[ライデン瓶]]に静電気を溜める実験についても記述がある。ライデン瓶として、一升五合入るガラス瓶を用いたと記録している{{sfn|エレキテルの魅力|2007|pp=40-41}}。構造としては、先端に真鍮の球をつけた真鍮棒を、ガラス瓶のなかに差し込み、ガラスとの間を松脂で封じ、瓶の外側に金箔を貼って、瓶の中に金属の削り屑や水などをいれたものである{{sfn|エレキテルの魅力|2007|pp=40-41}}。 |
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このような実験を集めて執筆された『阿蘭陀始制エレキテル究理原』上下二巻は、伏屋素狄の序文の日付から文化8年(1811年)の秋には完成していたはずであるが、文化10年(1813年)2月に出版願が出されている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}。しかし、同年8月に却下され、刊行に到らなかった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}。 |
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{{clear}} |
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=== 西洋医事集成の翻訳 === |
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橋本は蘭学書翻訳の集大成として西洋医事集成の翻訳に取り掛かった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=56}}。本書は当初、本草部24巻、薬方部5巻、製薬部6巻、治病部15巻の合計50巻とする予定であった{{sfn|大阪文化史論|1979|p=148}}。推敲の末、本草編と治病編の二編として合わせて35巻までとし、更に序文や総目次などを載せた首冊1巻を加えた{{sfn|大阪文化史論|1979|p=148}}。文化11年(1814年)、『西洋医事集成宝函』の出版を願い出て、文化13年(1916年)に許可が下り、文政4年まで出版が続けられた{{sfn|大阪文化史論|1979|p=148}}。 |
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その後、加筆訂正が続けられたが、全巻の出版をみずに、橋本は大阪を去った{{sfn|大阪文化史論|1979|p=148}}。 |
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=== 晩年 === |
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文政年間後半の橋本宗吉の行動はよくわかっていない{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=62}}。文政10年(1827年)、橋本は、広島竹原に一時隠遁しといわれる{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=148-149}}。ここには、橋本の弟子で娘婿が医者をしており、これに頼ったものと考えられる{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=148-149}}。 |
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隠遁の要因は明確ではない{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=150-151}}。有力な説として、文政10年に大阪で切支丹婆逮捕事件が起き、橋本の塾に出入りのあった藤田顕蔵がこれに連座して捕縛され{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=150-151}}、これに身の危険を感じたからというものがある{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=150-151}}。また、翌年に起こった[[シーボルト事件]]を察したためという説もある{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=150-151}}。橋本は天保元年(1829年)頃に大阪に戻った{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=148-149}}。このため、事件への連座を恐れたというより単に、娘夫婦の呼び寄せに応じただけという説が有力である{{sfn|大阪文化史論|1979|pp=150-151}}{{efn|大槻如電は、『洋学年表』文政12年のところに「橋本宗吉邪教ニ連坐シテ殺サル」と記している{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=63}}。}}。 |
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=== 死去 === |
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山本積善の『浪速人傑談』によれば、天保7年(1836年)に死去{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=63}}。現大阪市中央区上本町の念仏寺にて葬儀が行われた{{sfn|大阪文化史論|1979|p=152}}。念仏寺の過去帳には同寺に埋葬とあるが、墓石は立てられず、天満町の竜海寺にあったとも伝わる{{sfn|大阪文化史論|1979|p=152}}{{efn|大正時代ごろに天満町の竜海寺の墓標が消えたという話もある{{sfn|大阪文化史論|1979|p=152}}。}}。 |
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== 評価 == |
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=== 電気学の祖 === |
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[[File:OlandaShiseiErekiteru 001.jpg |thumb|「泉州熊取谷にて、天の火を取る図説」と題された挿絵]] |
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[[エレキテル]]を用いて電気実験をした人物として、[[平賀源内]]が知られている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}。これよりも前にエレキテルや電気を紹介した文献として後藤梨春の『紅毛話』や森中良の『紅毛雑話』がある{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=57}}。しかし、エレキテルを単なる好奇や遊戯の対象として、あるいは医療用具としてではなく、自然現象の実験や観察対象として取り扱ったのは橋本が最初であるとされる{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=58}}。橋本が日本の電気学の祖とされる所以である{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=58}}。 |
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例えば、橋本宗吉はエレキテルの原理を説明している{{sfn|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002|p=39}}。例えば「「ヱレキテル」は「ヱレクトリシテイト」と云と倶に琥珀の力と云ことなり是によりて我輩ヱレキテルを魄力車と喚びヱレキテルの気を魄力と呼ぶ」と記述している{{sfn|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002|p=39}}。橋本のエレキテルを使った実験の解説は、30項目に及ぶが、治療目的の記述は2であることから、橋本がエレキテルを自然科学を探求する道具として捉えらていたと推察できる{{sfn|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002|p=40}}。 |
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=== 蘭学者として === |
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大阪の医者、山木積善が文政11年(1828年)に刊行した『海内医林伝』は、主に京都と大阪在住の医師の名簿であるが、この中で橋本宗吉の項に「大坂ノ西洋学ハ宗吉ヨリ始マル」と書かれている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=40}}。 |
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寛政10年(1799年)の11月26日が、太陽暦の1月1日にあたり、大槻玄沢の蘭学塾である[[芝蘭堂]]ではこの日を「[[オランダ正月]]」と称して、祝う宴を開いた{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=48}}。このときの座興として東西蘭学者の番付がつくられた{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=48}}。この番付で、橋本は西の小結に挙げらてている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=48}}。 |
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一方、地理の知識については、[[山村才助]]が厳しく批判している。『喝蘭新訳地球全図』について、師にあたる[[大槻玄沢]]がこれを入手{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=51-52}}。大槻が門弟の山村才助に添削を依頼したのであった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=51-52}}。山村は、『六費弁誤』という小冊を記し、「橋本生ハ、ケダシ和蘭ノ書物ヲ読ミタル人ニハ非ズト見ユ」、「コノ地図ハ上ニ弁ズルゴトクニ夥シク臆説杜撰ヲナス」と痛烈に批判している{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=51-52}}。 |
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=== 翻訳者として === |
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橋本のオランダ語の単語記憶力についてはすでに述べたような逸話が残っている。また長崎の通詞であった、楢林重兵衛が江戸からの帰りに大阪で宿泊した際、門弟の[[伏屋素狄]]の案内で橋本宗吉が訪ねてきた{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=48-49}}。楢林重兵衛が取り出した一冊の蘭書を橋本は「これを読むこと流水のごとく、その解釈することあたかも宿看のもののごとし」という能力をみせ、楢林重兵衛は「(通訳者として)われら、これに衣食するものもかくのごとく敏捷なるは稀なり、愧づべし愧づべし」と述べたという{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=48-49}}。 |
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『西洋医事集成宝函』の出版にあたり、橋本は序文で「自分は泰西医籍を好み、これまでに数部を訳したがみな小冊砕篇である。このたび入手した医事宝函はすこぶる大部のもので、これこそ後世に伝えるに足るものである。西洋には元来必児金鐸西洋には元来、捌必児金鐸という言葉がある。つまり子を持たぬ人が著書を残して子孫に代えることである。自分は不幸にして一男もないので本書を訳して上梓し世を益したい」という内容を書き残している{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=56}}。 |
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=== 医師として === |
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蘭学では名声を馳せたが、医師として世間の評価はあまり高くなかったと推測されている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=59}}。証拠として、[[間重富]]が[[高橋至時]]に送った手紙では、医師としてうまくいっていないことが書かれていた{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=59}}。また江戸時代に作られた大阪の医師番付でも、橋本の評価が必ずしも高いものではなかった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=61}}。例えば、文政3年の医師番付で橋本は、西前頭13枚目に位置されていた{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=61-62}}。他の番付でも前頭中位に橋本を置くものがほとんどであった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=61-62}}。 |
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絲漢堂から東に約1kmの場所に[[大坂銅吹屋]]があった{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=60}}。ここへ火傷治療のために橋本宗吉が、文政3年と天保4年に往診した記録が[[住友家]]の『年々記』に残っている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=60}}{{efn|橋本に対して住友家は謝礼として、薬代金二百五十[[疋]]、肴代金二百疋などを払っている{{sfn|大坂蘭学史話|1979|p=69}}}}。 |
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{{clear}} |
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== 墓石・記念碑 == |
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* 橋本宗吉の墓(大阪府大阪市念仏寺){{sfn|日本科学史散歩|1974|p=31}}{{sfn|エレキテルの魅力|2007|p=53}}{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=290-291}} - {{ウィキ座標|34|40|13.2|N|135|31|13.5|E|地図|name=橋橋本宗吉の墓|地図}}{{sfn|大坂蘭学史話|1979|pp=290-291}} |
|||
: 大正15年(1925年)に、大阪で電気博覧会が開かれる際に、大阪の有志によって、橋本を顕彰するために墓石が建立された{{sfn|大阪文化史論|1979|p=152}}{{sfn|日本科学史散歩|1974|p=30}}。 |
|||
* 橋本宗吉の墓(広島県竹原市照蓮寺){{sfn|エレキテルの魅力|2007|p=53}}- {{ウィキ座標|34|20|55.4|N|132|54|34.6|E|地図|name=橋橋本宗吉の墓|地図}} |
|||
: 「舜誉文雄天真居士」との戒名が刻まれている{{sfn|エレキテルの魅力|2007|p=53}}。 |
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== 著作 == |
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=== 医学書 === |
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* 『蘭科内外三法方典』 |
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* 『西洋医事集成宝函』 |
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=== 地理学 === |
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* 『喝蘭新訳地球全図』 |
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=== 電気学 === |
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* 『阿蘭陀始制エレキテル究理原』上下二巻{{efn|菊池俊彦『エレキテル全書.阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器』として翻字されたものが1978年に出版されている。底本は常陸文庫蔵書本。}} |
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* 『エレキテル訳説』 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author = 明治前日本科学史刊行会|editor = [[日本学士院]]|title = 明治前日本物理化学史|date = 1964|publisher = [[日本学術振興会]]|ncid = BN04573547|ref = {{Harvid|明治前日本物理化学史|1964}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 大矢真一|title = 日本科学史散歩|date = 1974|publisher = 中央公論社|series = 自然選書|ncid = BN02640960|ref = {{Harvid|日本科学史散歩|1974}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 橋本宗吉|title = エレキテル全書・阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器|date = 1978|publisher = 恒和出版|series = 江戸科学古典叢書|volume = 11|ncid = BN01614375|ref = {{Harvid|江戸科学古典叢書11巻|1978}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 中野操|title = 大坂蘭学史話|date = 1979|publisher = 思文閣出版|ncid = BN02787040|ref = {{Harvid|大坂蘭学史話|1979}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 宮本又次|title = 大阪文化史論|date = 1979|publisher = 文献出版|ncid = BN00333778|ref = {{Harvid|大阪文化史論|1979}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 伴忠康|title = 適塾をめぐる人々 : 蘭学の流れ|date = 1988|publisher = 文献出版|ncid = BN09952735|isbn = 4-42221004-1|ref = {{Harvid|適塾をめぐる人々|1988}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 紫藤貞昭|author2 = 矢部一郎|title = 近代日本その科学と技術|date = 1990|publisher = 弘学出版|isbn = 4-87492054-3|ref = {{Harvid|近代日本その科学と技術|1990}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 宮下三郎|title = 和蘭医書の研究と書誌|date = 1997|publisher = 井上書店|ncid = BA33398165|ref = {{Harvid|和蘭医書の研究と書誌|1997}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author = 若井 登|author2 = 井上 恵子|title = 調査研究論文 「ゑれきてる」考証|date = 2002-04|publisher = 総務省郵政研究所|journal =郵政研究所月報 |volume = 15|issue = 4|naid = 40004971391|pages = 32-45| ref = {{Harvid|調査研究論文 「ゑれきてる」考証|2002}} }} |
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* {{Cite book|和書|author = 東徹|title = エレキテルの魅力 : 理科教育と科学史|date = 2007|publisher = 井上書店|isbn = 9784785387808|ref = {{Harvid|エレキテルの魅力|2007}} }} |
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2018年1月6日 (土) 01:34時点における版
橋本 宗吉 | |
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橋本雲斎肖像画 | |
生誕 |
宝暦13年(1763年)[1] 阿波国、大阪の説あり[1] |
死没 | 天保7年5月1日(1836年6月14日) [2] |
研究分野 | 医学、蘭学 |
影響を 受けた人物 | 大槻玄沢、小石元俊、間重富 |
影響を 与えた人物 | 中天游[3]、伏屋素狄[4]、各務文献[5]、藤田顕蔵[5] |
プロジェクト:人物伝 |
橋本 宗吉(はしもと そうきち、宝暦13年(1763年) - 天保7年5月1日(1836年6月14日))または橋本 鄭(はしもと てい)[6]は日本の蘭方医、蘭学者である。曇斎(どんさい)、絲漢堂とも号した[7]。医学、天文学、本草学の翻訳を手がけた。また蘭学書を読み解いてエレキテルを自作し、エレキテルおよび数々の実験についての記述を残している。これらの業績より、日本の電気学の学術的研究の祖であるとも評される[5][8][9]。
来歴
生い立ち
祖先は四国の阿波国那賀郡の郷士であったと伝えられている[1]。宗吉の父の代に大阪にでてきた[7]。宗吉が阿波の生まれか、大阪の生まれかは不明である[1][7]。
傘屋で紋書き職人をしていたが、記憶力の良さから評判となり、医者の小石元俊に見出される[7]。小石は、最新の蘭学書を翻訳するために、オランダ語に精通した者を探していた[7]。小石は、天文学者であった間重富と相談し、両名が費用を負担して、橋本宗吉を江戸へ送り、オランダ語を学ばせることにした[7]。寛政2年(1790年)、橋本は江戸に出て大槻玄沢の門弟となった[10][注釈 1]。この事情については、杉田玄白の著『蘭学事始』にも以下のような記述がある[10]。
小石元俊は、橋本宗吉の訳書『蘭科内外三法方典』に序文を寄せ、橋本について以下のように紹介している[1]。
和蘭之言大都六万、而して則ち之をなすこと四ヶ月、己に能く四万語を暗記す。乃ち還って浪華に帰す。
— 小石元俊 、蘭科内外三法方典
つまり小石元俊の記述によると、橋本は4ヶ月の江戸の滞在でオランダ語4万語を暗記した後、大阪に戻ったことになる。小石元俊と間重富に従事し、彼らの指導の元、蘭学書の翻訳を行った[12]。また彼らの仕事の手伝いをしていたと考えられる。間重富の『月食観測日記』の寛政10年(1798年)10月16日の項には、「橋本宗吉、蘭学者、兼テ測量ノ時ハ手伝イタスモノナリ」と記されている[13]。
絲漢堂
橋本が従事していた小石元俊と間重富が相次いで大阪を離れると、寛政8年(1796年)頃、独立して医師を開業した[14]。享和の初めのころ、居を移し、蘭学塾「絲漢堂」(しかんどう)を開いた[14]。このころ『喝蘭新訳地球全図』を出版した[14]。
寛政12年(1800年)、門弟の伏屋素狄、各務文献、大矢尚斎などと共に霞島の刑場で女刑屍の解剖を行った[15]。この時の解剖図は各務文献、大矢尚斎が「婦人内景之略図」として詳細に書き残された[15]。
その後、『蘭科内外三法方典』の執筆にとりかかり、文化元年(1804年)から文化10年(1814年)までに六巻を上梓した[14]。序文は大槻玄沢が寄せ、本草・薬方・製薬・治病・奇方秘術などの各部に分かれている[14]。
静電気学への取り組み
自著『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の付書によると、天明3年(1782年)の21歳のときに山中という人物の持っていたエレキテルを借りて実験したと書いている[16]。
40歳のころから、エレキテルの研究に没頭した。恐らくは、オランダのボイス(Egbert Buys)が編集した百科事典「蘭: Nieuw en Volkomen Woordenboek van Konsten en Wetenschappen[注釈 2]」を参考にしたと推測される[17][18]。この百科事典の中で、電気に関する記述は図版も含めて13ページほどであり、該当箇所の内容は『エレキテル訳説』として橋本宗吉の手で翻訳された[17]。さらにこの事典とヨハネス・ボイス(Johannes Buijs)著「蘭: Natuurkundjg schoolboek」を参考に[18]、エレキテルを使い自ら行った実験を載せた『阿蘭陀始制エレキテル究理原』を著した[注釈 3]。大槻玄沢は『厚生新編』の「越列吉低力的乙多[注釈 4]」の項で以下のように橋本のことを記している。
橋本は単にエレキテルの原理を解説しただけではなく、エレキテルやライデン瓶を使った種々の実験を行った。これらの実験について、『阿蘭陀始制エレキテル究理原』の中で解説を行っている。例えば、寺子屋「旭昇堂」にて百余人の子供に感電実験(百人おどし)を行ったと記している[20]。
また『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、ベンジャミン・フランクリンの凧をつかった雷の実験のごとく、泉州佐野で門人の中喜久太が高さ十九間(約40m)の松の木を使い「天の火を取る実験」を行ったことが記されている[21][注釈 5]。この他にも『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、エレキテルで焼酎に火をつける実験、エレキテルでカエル・ネズミ・スズメなどを気絶させる実験、エレキテルの静電気で紙人形を踊らせる実験なども書かれている[21]。
『阿蘭陀始制エレキテル究理原』には、松原右仲が作ったエレキテルと、それを参考に橋本が作ったと思われるエレキテルの説明が書かれている[22]。これらのエレキテルは平賀源内のエレキテルと異なり、鉄衝(鉄砲の古い筒)に帯電させる方法を取っている[22]。
ライデン瓶に静電気を溜める実験についても記述がある。ライデン瓶として、一升五合入るガラス瓶を用いたと記録している[23]。構造としては、先端に真鍮の球をつけた真鍮棒を、ガラス瓶のなかに差し込み、ガラスとの間を松脂で封じ、瓶の外側に金箔を貼って、瓶の中に金属の削り屑や水などをいれたものである[23]。
このような実験を集めて執筆された『阿蘭陀始制エレキテル究理原』上下二巻は、伏屋素狄の序文の日付から文化8年(1811年)の秋には完成していたはずであるが、文化10年(1813年)2月に出版願が出されている[21]。しかし、同年8月に却下され、刊行に到らなかった[21]。
西洋医事集成の翻訳
橋本は蘭学書翻訳の集大成として西洋医事集成の翻訳に取り掛かった[24]。本書は当初、本草部24巻、薬方部5巻、製薬部6巻、治病部15巻の合計50巻とする予定であった[2]。推敲の末、本草編と治病編の二編として合わせて35巻までとし、更に序文や総目次などを載せた首冊1巻を加えた[2]。文化11年(1814年)、『西洋医事集成宝函』の出版を願い出て、文化13年(1916年)に許可が下り、文政4年まで出版が続けられた[2]。
その後、加筆訂正が続けられたが、全巻の出版をみずに、橋本は大阪を去った[2]。
晩年
文政年間後半の橋本宗吉の行動はよくわかっていない[25]。文政10年(1827年)、橋本は、広島竹原に一時隠遁しといわれる[26]。ここには、橋本の弟子で娘婿が医者をしており、これに頼ったものと考えられる[26]。
隠遁の要因は明確ではない[27]。有力な説として、文政10年に大阪で切支丹婆逮捕事件が起き、橋本の塾に出入りのあった藤田顕蔵がこれに連座して捕縛され[27]、これに身の危険を感じたからというものがある[27]。また、翌年に起こったシーボルト事件を察したためという説もある[27]。橋本は天保元年(1829年)頃に大阪に戻った[26]。このため、事件への連座を恐れたというより単に、娘夫婦の呼び寄せに応じただけという説が有力である[27][注釈 6]。
死去
山本積善の『浪速人傑談』によれば、天保7年(1836年)に死去[28]。現大阪市中央区上本町の念仏寺にて葬儀が行われた[29]。念仏寺の過去帳には同寺に埋葬とあるが、墓石は立てられず、天満町の竜海寺にあったとも伝わる[29][注釈 7]。
評価
電気学の祖
エレキテルを用いて電気実験をした人物として、平賀源内が知られている[21]。これよりも前にエレキテルや電気を紹介した文献として後藤梨春の『紅毛話』や森中良の『紅毛雑話』がある[21]。しかし、エレキテルを単なる好奇や遊戯の対象として、あるいは医療用具としてではなく、自然現象の実験や観察対象として取り扱ったのは橋本が最初であるとされる[30]。橋本が日本の電気学の祖とされる所以である[30]。
例えば、橋本宗吉はエレキテルの原理を説明している[22]。例えば「「ヱレキテル」は「ヱレクトリシテイト」と云と倶に琥珀の力と云ことなり是によりて我輩ヱレキテルを魄力車と喚びヱレキテルの気を魄力と呼ぶ」と記述している[22]。橋本のエレキテルを使った実験の解説は、30項目に及ぶが、治療目的の記述は2であることから、橋本がエレキテルを自然科学を探求する道具として捉えらていたと推察できる[31]。
蘭学者として
大阪の医者、山木積善が文政11年(1828年)に刊行した『海内医林伝』は、主に京都と大阪在住の医師の名簿であるが、この中で橋本宗吉の項に「大坂ノ西洋学ハ宗吉ヨリ始マル」と書かれている[16]。
寛政10年(1799年)の11月26日が、太陽暦の1月1日にあたり、大槻玄沢の蘭学塾である芝蘭堂ではこの日を「オランダ正月」と称して、祝う宴を開いた[32]。このときの座興として東西蘭学者の番付がつくられた[32]。この番付で、橋本は西の小結に挙げらてている[32]。
一方、地理の知識については、山村才助が厳しく批判している。『喝蘭新訳地球全図』について、師にあたる大槻玄沢がこれを入手[33]。大槻が門弟の山村才助に添削を依頼したのであった[33]。山村は、『六費弁誤』という小冊を記し、「橋本生ハ、ケダシ和蘭ノ書物ヲ読ミタル人ニハ非ズト見ユ」、「コノ地図ハ上ニ弁ズルゴトクニ夥シク臆説杜撰ヲナス」と痛烈に批判している[33]。
翻訳者として
橋本のオランダ語の単語記憶力についてはすでに述べたような逸話が残っている。また長崎の通詞であった、楢林重兵衛が江戸からの帰りに大阪で宿泊した際、門弟の伏屋素狄の案内で橋本宗吉が訪ねてきた[34]。楢林重兵衛が取り出した一冊の蘭書を橋本は「これを読むこと流水のごとく、その解釈することあたかも宿看のもののごとし」という能力をみせ、楢林重兵衛は「(通訳者として)われら、これに衣食するものもかくのごとく敏捷なるは稀なり、愧づべし愧づべし」と述べたという[34]。
『西洋医事集成宝函』の出版にあたり、橋本は序文で「自分は泰西医籍を好み、これまでに数部を訳したがみな小冊砕篇である。このたび入手した医事宝函はすこぶる大部のもので、これこそ後世に伝えるに足るものである。西洋には元来必児金鐸西洋には元来、捌必児金鐸という言葉がある。つまり子を持たぬ人が著書を残して子孫に代えることである。自分は不幸にして一男もないので本書を訳して上梓し世を益したい」という内容を書き残している[24]。
医師として
蘭学では名声を馳せたが、医師として世間の評価はあまり高くなかったと推測されている[35]。証拠として、間重富が高橋至時に送った手紙では、医師としてうまくいっていないことが書かれていた[35]。また江戸時代に作られた大阪の医師番付でも、橋本の評価が必ずしも高いものではなかった[36]。例えば、文政3年の医師番付で橋本は、西前頭13枚目に位置されていた[37]。他の番付でも前頭中位に橋本を置くものがほとんどであった[37]。
絲漢堂から東に約1kmの場所に大坂銅吹屋があった[38]。ここへ火傷治療のために橋本宗吉が、文政3年と天保4年に往診した記録が住友家の『年々記』に残っている[38][注釈 8]。
墓石・記念碑
- 橋本宗吉の墓(大阪府大阪市念仏寺)[40][41][42] - 北緯34度40分13.2秒 東経135度31分13.5秒[42]
- 橋本宗吉の墓(広島県竹原市照蓮寺)[41]- 北緯34度20分55.4秒 東経132度54分34.6秒
- 「舜誉文雄天真居士」との戒名が刻まれている[41]。
- 橋本宗吉絲漢堂跡の碑(大阪府大阪市安堂寺橋通)[40] - 北緯34度40分35.9秒 東経135度30分8.8秒
著作
医学書
- 『蘭科内外三法方典』
- 『西洋医事集成宝函』
地理学
- 『喝蘭新訳地球全図』
電気学
- 『阿蘭陀始制エレキテル究理原』上下二巻[注釈 9]
- 『エレキテル訳説』
脚注
注釈
- ^ 橋本が江戸の大槻玄沢への入門時期は諸説ある[11]。
- ^ 訳をつければ「工芸と自然の学問についての新しくて完全な事典」
- ^ 橋本宗吉と前後して、水戸藩家臣の高森観好もエレキテルの製作を行っている[19]。
- ^ エレキテルのこと
- ^ この実験を行った中喜久太は、重要文化財「中家住宅」として保存されており、実験でしようされたと考えられる松の木の植わっていた場所には石碑が建てられた。
- ^ 大槻如電は、『洋学年表』文政12年のところに「橋本宗吉邪教ニ連坐シテ殺サル」と記している[28]。
- ^ 大正時代ごろに天満町の竜海寺の墓標が消えたという話もある[29]。
- ^ 橋本に対して住友家は謝礼として、薬代金二百五十疋、肴代金二百疋などを払っている[39]
- ^ 菊池俊彦『エレキテル全書.阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器』として翻字されたものが1978年に出版されている。底本は常陸文庫蔵書本。
出典
- ^ a b c d e 大阪文化史論 1979, p. 143.
- ^ a b c d e 大阪文化史論 1979, p. 148.
- ^ 大阪文化史論 1979, p. 155.
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- ^ a b 日本科学史散歩 1974, p. 27.
- ^ 大坂蘭学史話 1979, p. 41.
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- ^ a b c d e 大阪文化史論 1979, p. 145.
- ^ a b 適塾をめぐる人々 1988, p. 160.
- ^ a b 大坂蘭学史話 1979, p. 40.
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- ^ a b c d e f 大坂蘭学史話 1979, p. 57.
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- ^ a b c d e 大阪文化史論 1979, pp. 150–151.
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- ^ a b c d 大阪文化史論 1979, p. 152.
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- ^ a b c 大坂蘭学史話 1979, p. 48.
- ^ a b c 大坂蘭学史話 1979, pp. 51–52.
- ^ a b 大坂蘭学史話 1979, pp. 48–49.
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- ^ a b 日本科学史散歩 1974, p. 31.
- ^ a b c エレキテルの魅力 2007, p. 53.
- ^ a b 大坂蘭学史話 1979, pp. 290–291.
- ^ 日本科学史散歩 1974, p. 30.
参考文献
- 橋本宗吉 著、三崎省三 編『和蘭始制ヱレキテル究理原』三崎省三、1925年。 NCID BN14505292。
- 明治前日本科学史刊行会 著、日本学士院 編『明治前日本物理化学史』日本学術振興会、1964年。 NCID BN04573547。
- 大矢真一『日本科学史散歩』中央公論社〈自然選書〉、1974年。 NCID BN02640960。
- 橋本宗吉『エレキテル全書・阿蘭陀始制エレキテル究理原・遠西奇器述・和蘭奇器』 11巻、恒和出版〈江戸科学古典叢書〉、1978年。 NCID BN01614375。
- 中野操『大坂蘭学史話』思文閣出版、1979年。 NCID BN02787040。
- 宮本又次『大阪文化史論』文献出版、1979年。 NCID BN00333778。
- 伴忠康『適塾をめぐる人々 : 蘭学の流れ』文献出版、1988年。ISBN 4-42221004-1。 NCID BN09952735。
- 紫藤貞昭、矢部一郎『近代日本その科学と技術』弘学出版、1990年。ISBN 4-87492054-3。
- 宮下三郎『和蘭医書の研究と書誌』井上書店、1997年。 NCID BA33398165。
- 若井 登、井上 恵子「調査研究論文 「ゑれきてる」考証」『郵政研究所月報』第15巻第4号、総務省郵政研究所、2002年4月、32-45頁、NAID 40004971391。
- 東徹『エレキテルの魅力 : 理科教育と科学史』井上書店、2007年。ISBN 9784785387808。