「川内型軽巡洋艦」の版間の差分
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{{Infobox 艦級 |
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<div class="thumb tright"> |
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|名称 = 川内型軽巡洋艦 |
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{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
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|画像 = [[Image:Sendai-1.jpg|300px|川内]] |
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|画像説明 = 近代化改装後の川内(1937年8月頃)<ref>[[#写真日本の軍艦第9巻]]p.11下の写真と解説</ref> |
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! colspan=2 style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 川内型軽巡洋艦 |
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|種別 = 二等[[巡洋艦]]<ref name="T15内令238">[[#海軍制度沿革8(1971)]]pp.88-92、大正15年11月29日内令第238号</ref>(軽巡洋艦)<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/> |
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|命名基準 = 川の名 |
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|colspan=2 align=center|[[Image:Sendai-1.jpg|300px|川内]] |
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|運用者 = {{navy|Empire of Japan}} |
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|建造所 = |
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! colspan=2 style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 艦級概観 |
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|建造期間 = |
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|就役期間 = |
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|艦種||軽巡洋艦 |
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|同型艦 = 川内・神通・那珂<ref name="T15内令238"/> |
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|計画数 = |
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|艦名||川の名 |
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|建造数 = 4 |
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|前 |
|前級 = [[長良型軽巡洋艦]] |
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|次級 = ([[最上型重巡洋艦|最上型軽巡洋艦]])<br />[[阿賀野型軽巡洋艦]] |
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|要目注記 = 竣工時 |
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|次型||[[最上型重巡洋艦|最上型軽巡洋艦]](後に[[重巡洋艦|重巡]]に改装)<br />[[阿賀野型軽巡洋艦]] |
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|基準排水量 = 5,195[[トン]]<ref name="S3艦船要目公表範囲">[[#海軍制度沿革11-2(1972)]]pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲、うちpp.1060-1061。</ref> |
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|常備排水量 = 5,595トン<ref name="S3艦船要目公表範囲"/><ref name="川内型計画別表">[[#T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)]]画像1-2、大正10年度着手中型巡洋艦4隻計画に関する件、別表</ref> |
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! colspan=2 style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 性能諸元 (竣工時) |
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|満載排水量 = |
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|全長 = {{Ft in to m|532|0|precision=2|abbr=on|wiki=on}}<!--162.15m--><ref name="JapaneseCruisers1997pp796-798">[[#JapaneseCruisers1997]]pp.796-798, "Sendai Class, Summary Data Tables".</ref><ref name="東・石橋(1990)川内型要目"/><br />那珂新造時:{{Ft in to m|533|0|precision=2|abbr=on|wiki=on}}<!--162.458m--><ref name="JapaneseCruisers1997pp796-798"/><ref name="Ippan-p1">[[#一般計画要領書(二等巡洋艦)]]p.1、但しページ数が振っていないので戦後複写版と同じく表紙の次を1ページとして数えている(以下同様)。</ref><ref name="東・石橋(1990)川内型要目">[[#東・石橋(1990)川内型]]pp.22-23、川内型の要目(新造時)。</ref> |
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|[[排水量]]||基準:5,195[[トン|t]] 常備:5,595t |
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|水線長 = {{Ft in to m|520|1+1/2|precision=2|abbr=on}}<!--158.534m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|垂線間長 = {{Ft in to m|500|0|precision=2|abbr=on}}<!--152.400m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|全長||162.15[[メートル|m]] |
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|全幅 = {{Ft in to m|46|6|precision=2|abbr=on}}<!--14.173m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|- |
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|水線幅 = {{Ft in to m|46|6|precision=2|abbr=on}}<!--14.173m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|全幅||14.17m |
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|吃水 = 常備 {{Ft in to m|15|9|precision=2|abbr=on}}<!--4.801m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|- |
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|深さ = {{Ft in to m|29.05|0|precision=2|abbr=on}}<!--8.854m 一般計画要領書は8.852m--><ref name="Ippan-p1"/> |
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|吃水||4.80m(常備) |
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|推進 = 4軸 x 380[[rpm (単位)|rpm]]<ref name="Ippan-p17">[[#一般計画要領書(二等巡洋艦)]]p.17</ref><br />直径{{Ft in to m|11|0|precision=2|abbr=on}}<!--3.353m--><ref name="Ippan-p17"/>、ピッチ3.429m<ref name="造船技術概要(1987)下p1689">[[#海軍造船技術概要(1987)]]下巻p.1689、機関大体要目。</ref> |
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|主機 = 高圧衝動・低圧反動式(神通は[[ジョン・ブラウン・アンド・カンパニー|ブラウン・カーチス]]式<ref name="造船技術概要(1987)上p306">[[#海軍造船技術概要(1987)]]上巻p.306</ref>)[[蒸気タービン|オール・ギヤード・タービン]]4基<ref name="造船技術概要(1987)下p1690">[[#海軍造船技術概要(1987)]]下巻p.1690</ref> |
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|機関||オールギアードタービン4基4軸 90,000hp |
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|出力 = 90,000[[馬力|shp]]<ref name="川内型計画別表"/> |
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|ボイラー = [[艦本式ボイラー#ロ号艦本式|ロ号艦本式重油専焼水管缶]]大型8基<ref name="Ippan-p17"/><br />同石炭・重油混焼水管缶4基<ref name="Ippan-p17"/> |
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|最大速力||35.25kt |
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|速力 = 35.25[[ノット]]<ref name="造船技術概要(1987)上p309">[[#海軍造船技術概要(1987)]]上巻p.309、天龍及5,500噸型巡洋艦要目比較(新造計画)。</ref><ref name="川内型計画別表"/> |
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|燃料 = [[重油]]1,050トン、[[石炭]]580トン<ref name="造船技術概要(1987)上p309"/><br />または重油1,010トン、石炭570トン<ref name="川内型計画別表"/> |
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|航続距離||14ktで5,000浬 |
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|航続距離 = 5,000[[カイリ]] / 14ノット<ref name="造船技術概要(1987)上p309"/><ref name="川内型計画別表"/> |
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|乗員 |
|乗員 = 川内竣工時定員446名<ref>大正13年4月29日付 海軍内令 第108号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。<!--この数字は特修兵を含まない。--></ref> |
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|兵装 = '''竣工時'''<ref name="造船技術概要(1987)上p309"/><br />[[50口径三年式14cm砲]]単装7基7門<br />[[四〇口径三年式八糎高角砲|40口径三年式8cm単装高角砲]]2門<br />61cm連装[[魚雷発射管|発射管]]4基8門<br />魚雷16本<br />九三式機雷56個 |
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|装甲 = 舷側:63.5mm(25.4+38.1mmHT鋼)<ref name="JapaneseCruisers-pp32,34">[[#JapaneseCruisers1997]]pp.32,34, "Hull and Protection Particulars". p.34,Drawing 1.14, "Kuma Class, Midships Section". p.35, Drawing 1.15, "Jintsu, Midships Section".</ref><br />甲板:28.6mmHT鋼(上甲板)<ref name="JapaneseCruisers-pp32,34"/> |
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|[[大日本帝国海軍兵装一覧|兵装]]||[[50口径三年式14cm砲|50口径14cm単装砲]]7門<br />61cm連装[[魚雷発射管]]4基8門<br />[[四十口径三年式八糎高角砲|40口径8cm単装高角砲]]2門<br />[[十一年式軽機関銃|6.5mm単装機銃]]2挺<br />九三式機雷56個 |
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|搭載機 = 艦偵1機、滑走台1基<ref name="東・石橋(1990)川内型要目"/> |
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|搭載艇 = 1931年時:7隻<ref name="昭和6年要目一覧表1"><!--1931年-->[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」</ref> |
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|航空機|| 1機 |
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|その他 = |
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|} |
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|備考 = トンは英トン |
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</div> |
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}} |
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'''川内型軽巡洋艦'''(せんだいがたけいじゅんようかん)は、[[大日本帝国海軍]]の[[軽巡洋艦]]。同型艦は3隻ある。いわゆる[[5500トン型軽巡洋艦]]の最終グループにあたる。 |
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'''川内型軽巡洋艦'''(せんだいがたけいじゅんようかん)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の二等[[巡洋艦]]<ref name="T15内令238"/>([[軽巡洋艦]])<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。同型艦3隻<ref name="T15内令238"/>。いわゆる[[5500トン型軽巡洋艦]]の第3グループ(最終グループ)にあたる<ref name="東・石橋(1990)川内型p22">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.22</ref>。 |
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==概要== |
==概要== |
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[[File:Oni-Sendai.jpg|thumb|left|250px|本型の武装配置を示した図。]] |
[[File:Oni-Sendai.jpg|thumb|left|250px|本型の武装配置を示した図。]] |
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大正9年度([[1920年]])に[[八八艦隊計画]]が成立し、この中で巡洋艦は大型巡洋艦(8,000トン型)4隻と中型巡洋艦(5,500トン型)8隻の建造が認められた<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。しかしこの八八艦隊がそろった時点で重油消費量の飛躍的な増大が予想された<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。(なお[[1921年]](大正10年)の文書に「重油払底の現状」と書かれており<ref name="大正10年計画備考1"/>、1921年の時点で既に重油が不足していたと思われる)。そこで大正10年度建造予定の5,500トン型については重油専焼缶(ボイラー)を減らし、代わりに重油石炭混焼缶を増やして<ref name="大正10年計画備考1"/>重油消費量減少を計った<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。 |
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こうして完成したのが川内型軽巡洋艦である。 |
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このため[[天龍型軽巡洋艦|天龍型]]から[[長良型軽巡洋艦|長良型]]までの軽巡洋艦は([[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]を除いて)全て3本煙突であったが本型のみ4本煙突となり大きな特徴となっている<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。 |
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当初8隻計画されていた5,500トン型だったが[[1922年]](大正11年)[[ワシントン海軍軍縮条約]]の調印により八八艦隊計画は中止、建造は3隻(川内・神通・那珂)で打ち切られ<ref>[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]pp.269-270</ref>、1隻(加古)が建造取り止めとなった<ref name="加古製造取り止め"/>。(なお残りの巡洋艦は軍縮条約後の新計画により、8,000トン型4隻は[[条約型巡洋艦]]となる[[妙高型重巡洋艦|妙高型]](10,000トン型)4隻へ、5,500トン型4隻は[[古鷹型重巡洋艦|古鷹型]]2隻・[[青葉型重巡洋艦|青葉型]]2隻(7,100トン型)へ変更されて建造された<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。) |
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[[1920年]](大正9年)に予算成立した[[八八艦隊]]計画は日本海軍にとって重油消費量の飛躍的な増大を予想させた。そこで軽巡洋艦については重油専焼缶を減らし、代わりに重油石炭混焼缶を増やして重油消費量減少を計った。すなわち従来の[[長良型軽巡洋艦|長良型]]では「ロ号艦本式専焼缶大型6基、小型4基、混焼缶2基」であった罐を「ロ号艦本式専焼缶8基、混焼缶4基」に変更した。こうして完成したのが川内型軽巡洋艦である。このため[[天龍型軽巡洋艦|天龍型]]から[[長良型軽巡洋艦|長良型]]までの軽巡洋艦は([[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]を除いて)全て3本煙突であったが本型のみ4本煙突となり大きな特徴となっている。 |
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ここにおいて日本海軍は大量17隻の軽巡洋艦<!--(当初は二等巡洋艦であった[[古鷹型重巡洋艦]]を含めれば19隻)-->を保有し、軽巡洋艦の建造は暫く見送られることとなった。 |
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[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン条約]]下で計画された[[最上型重巡洋艦|最上型]]、[[利根型重巡洋艦|利根型]]軽巡洋艦は実質[[重巡洋艦]]であり、次の軽巡洋艦建造計画は[[1942年]](昭和17年)竣工の[[阿賀野型軽巡洋艦|阿賀野型]]まで持ち越された。 |
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戦時中に阿賀野型軽巡が就役するまでは川内型が日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、近代化改装も他の5,500トン型軽巡洋艦よりも優先的に為された<ref name="写真日本の軍艦第9巻p18上">[[#写真日本の軍艦第9巻]]p.18上の写真解説</ref>。そのため、川内型3隻は[[1933年]](昭和8年)以降から[[太平洋戦争]]中期までのほとんどで水雷戦隊の旗艦を務めることとなった<ref name="写真日本の軍艦第9巻p18上"/>。 |
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当初8隻計画されていた'''川内型'''だったが[[ワシントン海軍軍縮条約]]締結により八八艦隊計画は中止、建造は3隻で打ち切られた。ここにおいて日本海軍は大量17隻の軽巡洋艦(当初は二等巡洋艦であった[[古鷹型重巡洋艦]]を含めれば19隻)を保有し、軽巡洋艦の建造は暫く見送られることとなった。[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン条約]]下で計画された[[最上型重巡洋艦|最上型]]、[[利根型重巡洋艦|利根型]]軽巡洋艦は実質[[重巡洋艦]]であり、次の軽巡洋艦建造計画は[[1942年]](昭和17年)竣工の[[阿賀野型軽巡洋艦|阿賀野型]]まで持ち越された。 |
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== 艦型 == |
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[[長良型軽巡洋艦|長良型]]に引き続き61cm連装魚雷発射管を採用。艦首形状も同様に[[1号機雷]]を乗り越えるためにスプーン・バウで設計され川内・神通はスプーン・バウで竣工したが、1号機雷の使用をやめたことによりスプーン・バウの必要性はなくなり、関東大震災で大きく損傷したため建造をやり直した那珂は当初からダブルカーブド・バウにて竣工している。また[[美保関事件]]で艦首を喪失した神通も修理の際にダブルカーブド・バウに改められた。昭和に入ってからの近代化工事では、川内のみが第一煙突の短縮を実施する改装を受けている。また艦首は竣工時のスプーン・バウのままであった点や艦橋が一層低くなっている点などから、神通、那珂との識別は比較的容易であった。神通と那珂は1940年(昭和15年)~1941年(昭和16年)の改修で、後部発射管2基を[[酸素魚雷]]の発射能力を持つ61cm4連装発射管へ換装し前部発射管を撤去しウェルデッキを兵員室に充てる改装を受けた。川内のみ、この改装は受けないまま太平洋戦争に参戦した。神通も川内と同じく61cm連装発射管のままであったとする説もあるが、神通を旗艦とする水雷戦隊の兵装消費記録において九三式酸素魚雷のみが消費されていることから、魚雷発射管の換装を受けていることが確認できる<ref>『帝国海軍 真実の艦艇史2』p175より</ref>。 |
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基本計画番号'''C-33'''<ref name="C-33大体計画図">[[#T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)]]画像9-10、C-33大体計画図</ref>。 |
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[[球磨型軽巡洋艦|球磨型]]・[[長良型軽巡洋艦|長良型]](以下は従来と表記)からの主な変更点は、以下の通り。 |
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=== 機関 === |
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戦時中に阿賀野型軽巡が就役するまでは川内型が日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、近代化改装も他の5500トン型軽巡洋艦よりも優先的に為された。そのため、川内型3隻は長きに渡って水雷戦隊の旗艦を務めることとなった。 |
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上述のように缶(ボイラー)は球磨型・長良型から混焼缶の割合を増やした<ref name="東・石橋(1990)川内型p22"/>。 |
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すなわち従来は「[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式重油専焼缶]]大型6基・小型4基、同混焼缶2基」であった缶を「ロ号艦本式専焼缶大型8基、同混焼缶4基」に変更した<ref name="Ippan-p17"/><ref name="東・石橋(1990)川内型p25">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.25</ref>。これにより石炭のみで最大速力14ノット、航続速力12.5ノットを出せる計画だった<ref name="大正10年計画備考1">[[#T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)]]画像45-49、大正十年度着手中型巡洋艦四隻計画に関する件、備考1「従来ノ軽巡洋艦(球磨級、長良級)ニ在リテ専焼罐十罐混焼罐二罐ヲ有スルモ重油払底ノ現状ニ鑑ミ専焼罐ヲ八罐トシ混焼罐四罐トシ石炭ノミニテ最高速力及航続速力ヲ十四節及十二節半トス」</ref>(従来はそれぞれ10ノット、8ノット<ref name="川内型計画別表"/>)。艦内には第2缶室と第3缶室の間に<ref name="造船技術概要(1987)上p306"/>新たに横断石炭庫を設け、重油タンクの一部を石炭庫に変更した<ref name="大正10年計画備考2">[[#T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)]]画像45-49、大正十年度着手中型巡洋艦四隻計画に関する件、備考2「専焼罐二罐ヲ混焼罐トスルノ結果別ニ横断石炭庫ヲ設ケ重油庫ノ一部ヲ石炭庫ニ變更シ煙突一本ヲ増設スルヲ要スルヲ以テ砲及發射管ノ位置ヲノ變更ヲ要シ従テ倉庫及居住ニ多少ノ變更ヲ生シ重量ノ増加ハ約二十五噸ナレドモ最初ノ球磨ノ計画ニ比シ約九十五噸(發射管ノ増大、飛行機飛揚装置等ノ新設ニ依リ)増加シ其排水量約五千五百九十五噸ト成ルコト別表ノ如シ」</ref>。燃料は石炭は370トン(トンは全て英トン。以下全て同様)から570トンに増加、重油が1,260トンから1,010トンに減少した<ref name="川内型計画別表"/>。 |
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3隻全ての缶が過熱器付になる<ref name="東・石橋(1990)川内型p25"/>(従来は鬼怒のみ過熱器付<ref name="造船技術概要(1987)上p306"/>)。また[[#JapaneseCruisers1997]]では川内型3隻のうち神通のみが過熱器装備としている<ref name="JapaneseCruisers1997p798Machinery">[[#JapaneseCruisers1997]]p.798, "Machinery, Sendai Class, Summary Data Tables".</ref>。 |
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缶室配置は第1缶室と第2缶室に混焼缶を2基ずつ、第3缶室と第4缶室に大型専焼缶4基ずつを搭載するよう改められた<ref name="造船技術概要(1987)上p306"/>。これにより外観上は煙突が4本に増え<ref name="大正10年計画備考2"/>(従来は3本<ref name="JapaneseCruisers1997p29"/>)、前部魚雷発射管(ウェル・デッキ)の位置が1番煙突後方に下げられた<ref name="大正10年計画備考2"/>(従来は1番煙突前)。(前部魚雷発射管の位置については、主砲爆風の影響を少なくするために後方に下げられたともされている<ref name="造船技術概要(1987)上p306"/>)。結果、船首楼甲板が長くなって短艇甲板が短くなり<ref name="JapaneseCruisers-p35-TABLE1.10">[[#JapaneseCruisers1997]]p.35, TABLE 1.10. "Variation in Deck Heights among the 5,500-Ton Cruisers"</ref>、倉庫や居住区の変更も必要とされた<ref name="大正10年計画備考2"/>。 |
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主機は、川内・那珂には[[三菱重工業|三菱造船]]が設計した高圧衝動型・低圧反動型のタービンを搭載、神通は同じ[[川崎造船所]]製造の鬼怒と同様にブラウン・カーチス式タービンを搭載し、別の巡航タービンは搭載していない<ref name="造船技術概要(1987)下p1690"/>。 |
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=== 排水量・速力 === |
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混焼缶の増加などの機関変更での重量増は約25トン、その他に61cm魚雷の採用や航空機搭載設備の新設などにより球磨型から合計95トン増加する計画で<ref name="大正10年計画備考2"/>、排水量は常備で球磨型の5,500トンから本型で5,595トンに増加した<ref name="川内型計画別表"/>。それにより計画吃水は球磨型の15フィート9インチ<ref name="JapaneseCruisers-p34-Drawing1.14">[[#JapaneseCruisers1997]]p.34, Drawing 1.14. "Kuma Class, Midships Section"</ref>から本型では15フィート11インチに増加した<ref name="JapaneseCruisers-p34-Drawing1.15">[[#JapaneseCruisers1997]]p.34, Drawing 1.15. "Jintsu, Midships Section"</ref>。 |
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機関出力に変更は無く90,000馬力の計画で、排水量増により速力は0.25ノット減少する計算だった<ref name="川内型計画別表"/>。球磨型の計画速力は36ノットだったが<ref name="川内型計画別表"/>実際の公試では34.2ノットから35.5ノットであり<ref name="造船技術概要(1987)上p305">[[#海軍造船技術概要(1987)]]上巻p.305</ref>、[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]の公試成績の35.52ノットから本型の計画速力を35.25ノットに定めた<ref name="川内型計画別表"/>。 |
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=== 船体 === |
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C-33大体計画図によると艦首形状はクリッパー・バウで描かれている<ref name="C-33大体計画図"/>。実際には従来と同様に[[1号機雷]]を乗り越えるためのスプーン・バウで竣工した<ref name="東・石橋(1990)川内型p23">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.23</ref>。[[関東大震災]]で大きく損傷したため建造をやり直した那珂のみは[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]や[[古鷹型重巡洋艦|古鷹型]]と同様のダブルカーブド・バウにて竣工<ref>[[#東・石橋(1990)川内型]]p.25-26</ref>、全長が1フィート(0.305m)長くなった<ref name="JapaneseCruisers1997pp796-798"/><ref name="東・石橋(1990)川内型要目"/>。また[[1927年]](昭和2年)の[[美保関事件]]で艦首を損傷した神通も修理の際にダブルカーブド・バウに改められた<ref name="東・石橋(1990)川内型p26">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.26</ref>。なお川内の艦首は最後まで竣工時のスプーン・バウのままであり、神通・那珂との識別は比較的容易であった<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。(川内はその他にも復元性能改善工事で1番煙突を短縮、艦橋全体が一段低くなるなどの相違がある<ref name="石橋(1990)川内型識別p50">[[#石橋(1990)川内型識別]]p.50</ref>)。 |
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短艇甲板の(上甲板からの)高さは従来7フィート(2.13m)だったが<ref name="JapaneseCruisers-p34-Drawing1.14"/>、本型では7フィート6インチ(2.29m)と6インチ(0.152m)高められた<ref name="JapaneseCruisers-p34-Drawing1.15"/>。またビルジ・キールは従来の単板式では能力不足で、長さが短く幅が広いビルドアップ式に改められた<ref name="東・石橋(1990)川内型p25"/>。 |
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=== 防御 === |
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装甲厚は従来と同様だが、機関区画が長くなったために舷側装甲は上部でF(フレーム・ナンバー)71からF197までの長さ252フィート(従来はF77からF197の240フィート)、下部でF77からF195までの236フィート(従来はF83からF195までの224フィート)と、いずれも12フィート長くなっている<ref name="JapaneseCruisers-p32">[[#JapaneseCruisers1997]]p.32, "Hull and Protection Particulaers"</ref>。 |
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=== 砲熕兵装 === |
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砲数に変更は無いが、後部主砲は従来では後部マストの前方に5番・6番砲を装備し、上構後端に7番砲を装備していた<ref name="東・石橋(1990)川内型p24">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.24</ref>。本型では7番砲が前方へ移動して6番砲と背中合わせになり、後部マストは5番砲と6番砲の間に移動した<ref name="東・石橋(1990)川内型p24"/>。 |
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ウェル・デッキが後方に下げられて船首楼甲板が延長されたことから、8cm高角砲の位置はウェル・デッキ直前の船首楼甲板後端の計画だった<ref name="C-33大体計画図"/>。竣工時には従来と同じウェル・デッキ直後の短艇甲板前端に設置されている<ref>[[#東・石橋(1990)川内型]]p.23、第1図</ref><ref name="JapaneseCruisers-p33-Drawing1.13">[[#JapaneseCruisers1997]]p.33, Drawing1.13, "Sendai Class, Side View (as completed 1924)".</ref>。また三年式機砲は3番煙突と4番煙突の間に装備する計画だった<ref name="C-33大体計画図"/>。 |
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=== その他 === |
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艦橋構造や滑走台は基本的に長良型と同様であるが、 |
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艦橋は長良型からわずかに拡大され、<!--格納庫を後部へ拡大して-->格納庫扉は羅針艦橋前面と同一平面になっている(長良型は前面へ飛び出している)<ref name="JapaneseCruisers1997p29">[[#JapaneseCruisers1997]]p.29</ref><ref name="写真日本の軍艦第9巻p57下">[[#写真日本の軍艦第9巻]]p.57下の写真解説</ref>。 |
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前部マストに設置された魚雷戦用の測的所は、従来は竣工後に追加されたが<ref name="東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p215">[[#東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈]]p.215</ref>、本型では竣工時より設置されていた<ref name="JapaneseCruisers1997p179-Drawing5.13">[[#JapaneseCruisers1997]]p.179, Drawing 5.13 "Sendai Class, Sede View of Bridge (as Completed 1925)".</ref>。(なお、関東大震災で竣工が約1年遅れた阿武隈も竣工時より測的所が設置されていた<ref>[[#写真日本の軍艦第8巻]]p.247</ref>)。 |
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== 兵装の変化 == |
== 兵装の変化 == |
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=== 砲熕兵装 === |
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竣工時に2挺が装備されていた6.5mm単装機銃は、1927年ごろ7.7mm単装機銃に交換された。なおこの6.5mmもしくは7.7mm単装機銃の装備位置については短艇甲板との記述が多いが搭載位置が分かる写真などは残っておらず正確な装備位置は不明である。なおこの7.7mm機銃は1942年途中に撤去されたようである。 |
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竣工時に2挺が装備されていた三年式機砲(口径6.5mm)は、[[1933年]](昭和8年)から[[1934年]](昭和9年)にかけての近代化改装で[[ルイス軽機関銃|留式7.7mm機銃]]に交換された<ref name="JapaneseCruisers-p168-TABLE5.4">[[#JapaneseCruisers]]p.168, TABLE 5.4.</ref>。{{要出典|date=2017-05|なおこの6.5mmもしくは7.7mm単装機銃の装備位置については短艇甲板との記述が多いが搭載位置が分かる写真などは残っておらず正確な装備位置は不明である}}。1942年の川内の公式図によると、1番煙突後方の吸気筒上に単装機銃2挺が設置されていたと思われる<ref>畑中省吾「軽巡洋艦 川内 昭和17年 1/350スケール原寸図」『艦船模型スペシャルNo.13』pp.90-92</ref>。{{要出典|date=2017-05|なおこの7.7mm機銃は1942年途中に撤去されたようである。}} |
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ウェルデッキ次位のシェルター甲板上に装備されていた8cm単装高角砲2基は、1932年~36年にかけて九三式13mm連装機銃2基に換装された。この九三式13mm連装機銃は1941年までに九六式25mm連装機銃2基に換装された。 |
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1942年後半に九六式25mm三連装機銃2基が増設されたと考えられる。 |
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那珂については1943年10月には5番主砲を撤去して跡に12.7cm連装高角砲1基を装備、21号電探を装備、九四式爆雷投射機1基を装備していた。 |
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1933年から1934年の近代化改装で、那珂は滑走台の先端に13mm4連装機銃が装備、川内・神通は滑走台を撤去し艦橋前面に機銃台を新設、同機銃を装備した<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。那珂は復元性能改善工事で滑走台を撤去し、機銃を川内・神通と同じ位置に装備した<ref name="東・石橋(1990)川内型p27">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.27</ref>。 |
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航空兵装として竣工時は滑走台からの発艦としていたが、1931年10月、まず神通の滑走台に試作火薬式カタパルトが装備され(鬼怒から移設されたもの)射出実験が行われた。1933~34年に制式採用となった呉式二号三型改一射出機が全艦の6番主砲と7番主砲の間に装備され、滑走台は廃止された。滑走台跡には保式13mm四連装機銃が装備された。滑走台は後に撤去されるが改めて艦橋前部に機銃台が設けられ引き続き保式13mm四連装機銃が装備された。保式13mm四連装機銃は1942年に九三式13mm四連装機銃に交換されている。 |
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短艇甲板前端に装備されていた8cm単装高角砲2基は、1933年から[[1935年]](昭和10年)にかけて[[ホ式十三粍高射機関砲|九三式13mm連装機銃]]2基に換装された<ref name="JapaneseCruisers-p168-TABLE5.4"/>。この13mm機銃は[[1937年]](昭和12年)から[[1938年]](昭和13年)にかけて[[九六式二十五粍高角機銃|九六式25mm連装機銃]]2基に換装された<ref name="JapaneseCruisers-p168-TABLE5.4"/>。 |
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魚雷発射管については、1941年に神通と那珂の2艦が、後部発射管2基を酸素魚雷対応の61cm四連装発射管に換装し、前部発射管を撤去した。 |
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太平洋戦争中の兵装については資料不足でわからないことが多い<ref name="東・石橋(1990)川内型p28"/>。那珂を例にすると、1943年3月時点では5番主砲を撤去して跡に12.7cm連装高角砲1基を装備しその両舷に25mm連装、同3連装を各1基装備、その他に21号電探装備、小発を4隻搭載していた<ref name="東・石橋(1990)川内型p28"/>。 |
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探照灯は竣工時に90cmを前楼に2基・後楼に1基だったものが、1933年と1938年の二度の改善工事があり、1941年においては3艦とも110cmを前楼に2基・後楼に1基となっていた。 |
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=== 航空兵装 === |
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航空兵装として竣工時は滑走台を設置していたが、{{要出典|date=2017-05|1931年10月}}に神通の滑走台に長さ17mの呉式二号二型射出機が装備され<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>(鬼怒から移設されたもの){{要出典|date=2017-05|射出実験が行われた}}。格納庫はそのまま使用され、当時の搭載機は一四式水偵と思われる<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。[[1933年]](昭和8年)以降は九一式水偵の可能性もある<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。 |
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1933年から1934年に行われた近代化改装で3隻とも呉式二号三型改一射出機が7番砲跡(7番砲は上構後端へ移動)に装備された<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。合わせて後部マストは三脚式になり、デリックが装備された<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。一番早く近代化改装が行われた那珂では滑走台が残されていたが、残り2艦は滑走台が撤去された<ref name="東・石橋(1990)川内型p26"/>。那珂も1934年3月に起きた[[友鶴事件]]によって急遽行われた復元性能改善工事で滑走台が撤去された<ref>[[#東・石橋(1990)川内型]]pp.26-27</ref>。 |
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=== 魚雷 === |
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竣工時は[[長良型軽巡洋艦|長良型]]に引き続き八年式(61cm)連装水上発射管4基8門を装備していたが<ref>[[#東・石橋(1990)川内型]]pp.23-24</ref>、神通と那珂は[[1940年]](昭和15年)から[[1941年]](昭和16年)の改装で、後部発射管2基を[[酸素魚雷]]の発射能力を持つ九二式(61cm)4連装水上発射管へ換装し前部発射管を撤去、ウェルデッキを兵員室に充てる改装を受けた<ref>[[#東・石橋(1990)川内型]]pp.27-28</ref>。川内のみ、この改装は受けないまま太平洋戦争を迎えた<ref name="東・石橋(1990)川内型p28">[[#東・石橋(1990)川内型]]p.28</ref>。神通も川内と同じく61cm連装発射管のままであったとする説もあるが、神通を旗艦とする水雷戦隊の兵装消費記録において九三式酸素魚雷のみが消費されていることから、魚雷発射管の換装を受けていることが確認できる<ref>『帝国海軍 真実の艦艇史2』p175より</ref>。 |
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=== 探照灯 === |
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探照灯は竣工時に90cmを前楼に2基・後楼に1基だったものが<ref name="東・石橋(1990)川内型p24"/>、1933年と1938年の二度の改修工事があり、1941年においては3艦とも110cmを前楼に2基・後楼に1基となっていた。 |
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== 同型艦 == |
== 同型艦 == |
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*[[神通 (軽巡洋艦)|神通]] |
*[[神通 (軽巡洋艦)|神通]] |
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*[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]] |
*[[那珂 (軽巡洋艦)|那珂]] |
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* 加古 [I]:大正10年度より建造<ref>[[#S1(T15)公文備考26/2等巡洋艦1隻製造の件]]画像4、予算書。</ref>。[[1921年]](大正10年)3月19日命名<ref name="T10達43">[[#海軍制度沿革8(1971]]p.364、大正10年3月19日、達第43号</ref>、6月9日艦艇類別等級表の二等巡洋艦に登録<ref name="T10達118">[[#海軍制度沿革8(1971]]p.78、大正10年6月9日、達第118号</ref>、11月26日製造訓令<ref name="加古製造訓令">[[#S1(T15)公文備考26/2等巡洋艦1隻製造の件]]画像1-3、官房機密第1777号</ref>。[[1922年]](大正11年)2月15日[[佐世保海軍工廠]]で起工<ref>『重巡古鷹・青葉型』p121より</ref>、3月17日製造取り止め<ref name="加古製造取り止め">[[#S1(T15)公文備考26/軍艦加古工事に関する件]]画像1-2、官房機密第378号。同画像3-5、官房機密第378号の2。</ref>。 |
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* 加古 [I]:大正10年度予算で建造。[[1922年]](大正11年)2月15日起工、同年3月17日建造中止。<ref>『重巡古鷹・青葉型』p121より</ref> |
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* 加茂、木津、名寄:八八艦隊計画により大正11年度より建造予定と推定される<ref name="JapaneseCruisers1997p796">[[#JapaneseCruisers1997]]p.796, "Construction Yards and Dates".</ref>。ワシントン軍縮条約により計画中止<ref name="JapaneseCruisers1997p796"/> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* <!--Eric Lacroix and Linton Wells II-->{{Cite book|author1=Eric Lacroix|author2=Linton Wells II|year=1997|title=Japanese Cruisers of the Pacific War|publisher=Naval Institute Press|ref=JapaneseCruisers1997}} |
|||
* <!--カイグンショウ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第180巻|title=海軍制度沿革 巻八|author=海軍省/編|publisher=原書房|date=1971-10|origyear=1941|ref=海軍制度沿革8(1971)}} |
|||
* <!--カイグンショウ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第182巻|title=海軍制度沿革 巻十の1|author=海軍省/編|publisher=原書房|date=1972-04|origyear=1940|ref=海軍制度沿革10-1(1972)}} |
|||
* <!--カイグンショウ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第185巻|title=海軍制度沿革 巻十一の2|author=海軍省/編|publisher=原書房|date=1972-05|origyear=1941|ref=海軍制度沿革11-2(1972)}} |
|||
* <!--ボウエイチョウ31-->{{Cite book|和書|author=[[防衛庁]]防衛研修所戦史室|title=海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで|volume=[[戦史叢書]]第31巻|year=1969|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref=戦史叢書31海軍軍戦備1}} |
|||
* <!--マキノ1987-->{{Cite book|和書|author=[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]、[[福井静夫]]/編|date=1987-05|title=海軍造船技術概要|publisher=今日の話題社|isbn=4-87565-205-4|ref=海軍造船技術概要(1987)}} |
|||
* <!--マル1990-03-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第8巻 <small>軽巡I</small>|author=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|publisher=光人社|date=1990-03|isbn=4-7698-0458-X|ref=写真日本の軍艦第8巻}} |
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** {{Cite book|和書|author=解説・東清二/作図・石橋孝夫|title=図で見る軽巡『由良・鬼怒・阿武隈』変遷史|pages=212-220|ref=東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈}} |
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* <!--マル1990-04-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small> 日本の軍艦 第9巻 <small>軽巡II</small>|author=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|publisher=光人社|date=1990-04|isbn=4-7698-0459-8|ref=写真日本の軍艦第9巻}} |
|||
** {{Cite journal|和書|author=解説・東清二/作図・石橋孝夫|title=図で見る軽巡『川内型』変遷史|pages=22-28|ref=東・石橋(1990)川内型}} |
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** {{Cite journal|和書|author=石橋孝夫|title=軽巡『川内・神通・那珂』識別はやわかり|pages=50-52|ref=石橋(1990)川内型識別}} |
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*モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.13 5,500トン軽巡と水雷戦隊、モデルアート社、2004年 |
*モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.13 5,500トン軽巡と水雷戦隊、モデルアート社、2004年 |
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*雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第9巻 軽巡Ⅱ、光人社、1990年 |
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* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.32 軽巡 球磨・長良・川内型』(学習研究社、2001年) |
* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.32 軽巡 球磨・長良・川内型』(学習研究社、2001年) |
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* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.44 重巡古鷹・青葉型』(学習研究社、2005年) ISBN 4-05-603323-4 |
* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.44 重巡古鷹・青葉型』(学習研究社、2005年) ISBN 4-05-603323-4 |
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* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51 帝国海軍 真実の艦艇史2』(学習研究社、2005年) |
* [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51 帝国海軍 真実の艦艇史2』(学習研究社、2005年) |
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* {{Cite journal|和書|title=二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査|ref=一般計画要領書(二等巡洋艦)}} |
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* [https://www.jacar.go.jp/ アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) |
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== 脚注 == |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015099300|title=昭和元年(大正15年)公文備考 艦船1 巻26/2等巡洋艦1隻製造の件|ref=S1(T15)公文備考26/2等巡洋艦1隻製造の件}} |
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<references/> |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C04015099400|title=昭和元年(大正15年)公文備考 艦船1 巻26/軍艦加古工事に関する件|ref=S1(T15)公文備考26/軍艦加古工事に関する件}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051365000|title=大正14年 公文備考 巻21 艦船/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)|ref=T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051364900|title=大正14年 公文備考 巻21 艦船/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)|ref=T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)}} |
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== 脚注 == <!-- |
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=== 注釈 === |
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<references group="注釈"/> |
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=== 出典 ===--> |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commons|Category:Sendai class cruiser}} |
{{Commons|Category:Sendai class cruiser}} |
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* [[5500トン型軽巡洋艦]] |
* [[5500トン型軽巡洋艦]] |
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[[Category:日本の巡洋艦|*せんたいかた]] |
[[Category:日本の巡洋艦|*せんたいかた]] |
2017年6月2日 (金) 21:56時点における版
川内型軽巡洋艦 | |
---|---|
近代化改装後の川内(1937年8月頃)[1] | |
基本情報 | |
種別 | 二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)[3] |
命名基準 | 川の名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 川内・神通・那珂[2] |
建造数 | 4 |
前級 | 長良型軽巡洋艦 |
次級 |
(最上型軽巡洋艦) 阿賀野型軽巡洋艦 |
要目 (竣工時) | |
基準排水量 | 5,195トン[4] |
常備排水量 | 5,595トン[4][5] |
全長 | 532 ft 0 in (162.15 m)[6][7] 那珂新造時:533 ft 0 in (162.46 m)[6][8][7] |
水線長 | 520 ft 1+1⁄2 in (158.53 m)[8] |
垂線間長 | 500 ft 0 in (152.40 m)[8] |
最大幅 | 46 ft 6 in (14.17 m)[8] |
水線幅 | 46 ft 6 in (14.17 m)[8] |
深さ | 29.05 ft 0 in (8.85 m)[8] |
吃水 | 常備 15 ft 9 in (4.80 m)[8] |
ボイラー |
ロ号艦本式重油専焼水管缶大型8基[10] 同石炭・重油混焼水管缶4基[10] |
主機 | 高圧衝動・低圧反動式(神通はブラウン・カーチス式[11])オール・ギヤード・タービン4基[12] |
推進器 |
4軸 x 380rpm[10] 直径11 ft 0 in (3.35 m)[10]、ピッチ3.429m[13] |
出力 | 90,000shp[5] |
速力 | 35.25ノット[14][5] |
航続距離 | 5,000カイリ / 14ノット[14][5] |
燃料 |
重油1,050トン、石炭580トン[14] または重油1,010トン、石炭570トン[5] |
乗員 | 川内竣工時定員446名[15] |
兵装 |
竣工時[14] 50口径三年式14cm砲単装7基7門 40口径三年式8cm単装高角砲2門 61cm連装発射管4基8門 魚雷16本 九三式機雷56個 |
装甲 |
舷側:63.5mm(25.4+38.1mmHT鋼)[9] 甲板:28.6mmHT鋼(上甲板)[9] |
搭載機 | 艦偵1機、滑走台1基[7] |
搭載艇 | 1931年時:7隻[16] |
トンは英トン |
川内型軽巡洋艦(せんだいがたけいじゅんようかん)は、日本海軍の二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)[3]。同型艦3隻[2]。いわゆる5500トン型軽巡洋艦の第3グループ(最終グループ)にあたる[3]。
概要
大正9年度(1920年)に八八艦隊計画が成立し、この中で巡洋艦は大型巡洋艦(8,000トン型)4隻と中型巡洋艦(5,500トン型)8隻の建造が認められた[3]。しかしこの八八艦隊がそろった時点で重油消費量の飛躍的な増大が予想された[3]。(なお1921年(大正10年)の文書に「重油払底の現状」と書かれており[17]、1921年の時点で既に重油が不足していたと思われる)。そこで大正10年度建造予定の5,500トン型については重油専焼缶(ボイラー)を減らし、代わりに重油石炭混焼缶を増やして[17]重油消費量減少を計った[3]。 こうして完成したのが川内型軽巡洋艦である。 このため天龍型から長良型までの軽巡洋艦は(夕張を除いて)全て3本煙突であったが本型のみ4本煙突となり大きな特徴となっている[3]。
当初8隻計画されていた5,500トン型だったが1922年(大正11年)ワシントン海軍軍縮条約の調印により八八艦隊計画は中止、建造は3隻(川内・神通・那珂)で打ち切られ[18]、1隻(加古)が建造取り止めとなった[19]。(なお残りの巡洋艦は軍縮条約後の新計画により、8,000トン型4隻は条約型巡洋艦となる妙高型(10,000トン型)4隻へ、5,500トン型4隻は古鷹型2隻・青葉型2隻(7,100トン型)へ変更されて建造された[3]。) ここにおいて日本海軍は大量17隻の軽巡洋艦を保有し、軽巡洋艦の建造は暫く見送られることとなった。 ロンドン条約下で計画された最上型、利根型軽巡洋艦は実質重巡洋艦であり、次の軽巡洋艦建造計画は1942年(昭和17年)竣工の阿賀野型まで持ち越された。
戦時中に阿賀野型軽巡が就役するまでは川内型が日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、近代化改装も他の5,500トン型軽巡洋艦よりも優先的に為された[20]。そのため、川内型3隻は1933年(昭和8年)以降から太平洋戦争中期までのほとんどで水雷戦隊の旗艦を務めることとなった[20]。
艦型
基本計画番号C-33[21]。 球磨型・長良型(以下は従来と表記)からの主な変更点は、以下の通り。
機関
上述のように缶(ボイラー)は球磨型・長良型から混焼缶の割合を増やした[3]。 すなわち従来は「ロ号艦本式重油専焼缶大型6基・小型4基、同混焼缶2基」であった缶を「ロ号艦本式専焼缶大型8基、同混焼缶4基」に変更した[10][22]。これにより石炭のみで最大速力14ノット、航続速力12.5ノットを出せる計画だった[17](従来はそれぞれ10ノット、8ノット[5])。艦内には第2缶室と第3缶室の間に[11]新たに横断石炭庫を設け、重油タンクの一部を石炭庫に変更した[23]。燃料は石炭は370トン(トンは全て英トン。以下全て同様)から570トンに増加、重油が1,260トンから1,010トンに減少した[5]。
3隻全ての缶が過熱器付になる[22](従来は鬼怒のみ過熱器付[11])。また#JapaneseCruisers1997では川内型3隻のうち神通のみが過熱器装備としている[24]。
缶室配置は第1缶室と第2缶室に混焼缶を2基ずつ、第3缶室と第4缶室に大型専焼缶4基ずつを搭載するよう改められた[11]。これにより外観上は煙突が4本に増え[23](従来は3本[25])、前部魚雷発射管(ウェル・デッキ)の位置が1番煙突後方に下げられた[23](従来は1番煙突前)。(前部魚雷発射管の位置については、主砲爆風の影響を少なくするために後方に下げられたともされている[11])。結果、船首楼甲板が長くなって短艇甲板が短くなり[26]、倉庫や居住区の変更も必要とされた[23]。
主機は、川内・那珂には三菱造船が設計した高圧衝動型・低圧反動型のタービンを搭載、神通は同じ川崎造船所製造の鬼怒と同様にブラウン・カーチス式タービンを搭載し、別の巡航タービンは搭載していない[12]。
排水量・速力
混焼缶の増加などの機関変更での重量増は約25トン、その他に61cm魚雷の採用や航空機搭載設備の新設などにより球磨型から合計95トン増加する計画で[23]、排水量は常備で球磨型の5,500トンから本型で5,595トンに増加した[5]。それにより計画吃水は球磨型の15フィート9インチ[27]から本型では15フィート11インチに増加した[28]。
機関出力に変更は無く90,000馬力の計画で、排水量増により速力は0.25ノット減少する計算だった[5]。球磨型の計画速力は36ノットだったが[5]実際の公試では34.2ノットから35.5ノットであり[29]、多摩の公試成績の35.52ノットから本型の計画速力を35.25ノットに定めた[5]。
船体
C-33大体計画図によると艦首形状はクリッパー・バウで描かれている[21]。実際には従来と同様に1号機雷を乗り越えるためのスプーン・バウで竣工した[30]。関東大震災で大きく損傷したため建造をやり直した那珂のみは夕張や古鷹型と同様のダブルカーブド・バウにて竣工[31]、全長が1フィート(0.305m)長くなった[6][7]。また1927年(昭和2年)の美保関事件で艦首を損傷した神通も修理の際にダブルカーブド・バウに改められた[32]。なお川内の艦首は最後まで竣工時のスプーン・バウのままであり、神通・那珂との識別は比較的容易であった[32]。(川内はその他にも復元性能改善工事で1番煙突を短縮、艦橋全体が一段低くなるなどの相違がある[33])。
短艇甲板の(上甲板からの)高さは従来7フィート(2.13m)だったが[27]、本型では7フィート6インチ(2.29m)と6インチ(0.152m)高められた[28]。またビルジ・キールは従来の単板式では能力不足で、長さが短く幅が広いビルドアップ式に改められた[22]。
防御
装甲厚は従来と同様だが、機関区画が長くなったために舷側装甲は上部でF(フレーム・ナンバー)71からF197までの長さ252フィート(従来はF77からF197の240フィート)、下部でF77からF195までの236フィート(従来はF83からF195までの224フィート)と、いずれも12フィート長くなっている[34]。
砲熕兵装
砲数に変更は無いが、後部主砲は従来では後部マストの前方に5番・6番砲を装備し、上構後端に7番砲を装備していた[35]。本型では7番砲が前方へ移動して6番砲と背中合わせになり、後部マストは5番砲と6番砲の間に移動した[35]。
ウェル・デッキが後方に下げられて船首楼甲板が延長されたことから、8cm高角砲の位置はウェル・デッキ直前の船首楼甲板後端の計画だった[21]。竣工時には従来と同じウェル・デッキ直後の短艇甲板前端に設置されている[36][37]。また三年式機砲は3番煙突と4番煙突の間に装備する計画だった[21]。
その他
艦橋構造や滑走台は基本的に長良型と同様であるが、 艦橋は長良型からわずかに拡大され、格納庫扉は羅針艦橋前面と同一平面になっている(長良型は前面へ飛び出している)[25][38]。
前部マストに設置された魚雷戦用の測的所は、従来は竣工後に追加されたが[39]、本型では竣工時より設置されていた[40]。(なお、関東大震災で竣工が約1年遅れた阿武隈も竣工時より測的所が設置されていた[41])。
兵装の変化
砲熕兵装
竣工時に2挺が装備されていた三年式機砲(口径6.5mm)は、1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけての近代化改装で留式7.7mm機銃に交換された[42]。なおこの6.5mmもしくは7.7mm単装機銃の装備位置については短艇甲板との記述が多いが搭載位置が分かる写真などは残っておらず正確な装備位置は不明である[要出典]。1942年の川内の公式図によると、1番煙突後方の吸気筒上に単装機銃2挺が設置されていたと思われる[43]。なおこの7.7mm機銃は1942年途中に撤去されたようである。[要出典]
1933年から1934年の近代化改装で、那珂は滑走台の先端に13mm4連装機銃が装備、川内・神通は滑走台を撤去し艦橋前面に機銃台を新設、同機銃を装備した[32]。那珂は復元性能改善工事で滑走台を撤去し、機銃を川内・神通と同じ位置に装備した[44]。
短艇甲板前端に装備されていた8cm単装高角砲2基は、1933年から1935年(昭和10年)にかけて九三式13mm連装機銃2基に換装された[42]。この13mm機銃は1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて九六式25mm連装機銃2基に換装された[42]。
太平洋戦争中の兵装については資料不足でわからないことが多い[45]。那珂を例にすると、1943年3月時点では5番主砲を撤去して跡に12.7cm連装高角砲1基を装備しその両舷に25mm連装、同3連装を各1基装備、その他に21号電探装備、小発を4隻搭載していた[45]。
航空兵装
航空兵装として竣工時は滑走台を設置していたが、1931年10月[要出典]に神通の滑走台に長さ17mの呉式二号二型射出機が装備され[32](鬼怒から移設されたもの)射出実験が行われた[要出典]。格納庫はそのまま使用され、当時の搭載機は一四式水偵と思われる[32]。1933年(昭和8年)以降は九一式水偵の可能性もある[32]。
1933年から1934年に行われた近代化改装で3隻とも呉式二号三型改一射出機が7番砲跡(7番砲は上構後端へ移動)に装備された[32]。合わせて後部マストは三脚式になり、デリックが装備された[32]。一番早く近代化改装が行われた那珂では滑走台が残されていたが、残り2艦は滑走台が撤去された[32]。那珂も1934年3月に起きた友鶴事件によって急遽行われた復元性能改善工事で滑走台が撤去された[46]。
魚雷
竣工時は長良型に引き続き八年式(61cm)連装水上発射管4基8門を装備していたが[47]、神通と那珂は1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)の改装で、後部発射管2基を酸素魚雷の発射能力を持つ九二式(61cm)4連装水上発射管へ換装し前部発射管を撤去、ウェルデッキを兵員室に充てる改装を受けた[48]。川内のみ、この改装は受けないまま太平洋戦争を迎えた[45]。神通も川内と同じく61cm連装発射管のままであったとする説もあるが、神通を旗艦とする水雷戦隊の兵装消費記録において九三式酸素魚雷のみが消費されていることから、魚雷発射管の換装を受けていることが確認できる[49]。
探照灯
探照灯は竣工時に90cmを前楼に2基・後楼に1基だったものが[35]、1933年と1938年の二度の改修工事があり、1941年においては3艦とも110cmを前楼に2基・後楼に1基となっていた。
同型艦
- 川内
- 神通
- 那珂
- 加古 [I]:大正10年度より建造[50]。1921年(大正10年)3月19日命名[51]、6月9日艦艇類別等級表の二等巡洋艦に登録[52]、11月26日製造訓令[53]。1922年(大正11年)2月15日佐世保海軍工廠で起工[54]、3月17日製造取り止め[19]。
- 加茂、木津、名寄:八八艦隊計画により大正11年度より建造予定と推定される[55]。ワシントン軍縮条約により計画中止[55]
参考文献
- Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫/編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌『丸』編集部/編『写真日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年3月。ISBN 4-7698-0458-X。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫『図で見る軽巡『由良・鬼怒・阿武隈』変遷史』、212-220頁。
- 雑誌『丸』編集部/編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8。
- 解説・東清二/作図・石橋孝夫「図で見る軽巡『川内型』変遷史」。
- 石橋孝夫「軽巡『川内・神通・那珂』識別はやわかり」。
- モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.13 5,500トン軽巡と水雷戦隊、モデルアート社、2004年
- [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.32 軽巡 球磨・長良・川内型』(学習研究社、2001年)
- [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.44 重巡古鷹・青葉型』(学習研究社、2005年) ISBN 4-05-603323-4
- [歴史群像]編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51 帝国海軍 真実の艦艇史2』(学習研究社、2005年)
- 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和元年(大正15年)公文備考 艦船1 巻26/2等巡洋艦1隻製造の件』。Ref.C04015099300。
- 『昭和元年(大正15年)公文備考 艦船1 巻26/軍艦加古工事に関する件』。Ref.C04015099400。
- 『大正14年 公文備考 巻21 艦船/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)』。Ref.C08051365000。
- 『大正14年 公文備考 巻21 艦船/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)』。Ref.C08051364900。
脚注
- ^ #写真日本の軍艦第9巻p.11下の写真と解説
- ^ a b c d #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92、大正15年11月29日内令第238号
- ^ a b c d e f g h i #東・石橋(1990)川内型p.22
- ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲、うちpp.1060-1061。
- ^ a b c d e f g h i j k #T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)画像1-2、大正10年度着手中型巡洋艦4隻計画に関する件、別表
- ^ a b c #JapaneseCruisers1997pp.796-798, "Sendai Class, Summary Data Tables".
- ^ a b c d #東・石橋(1990)川内型pp.22-23、川内型の要目(新造時)。
- ^ a b c d e f g #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.1、但しページ数が振っていないので戦後複写版と同じく表紙の次を1ページとして数えている(以下同様)。
- ^ a b #JapaneseCruisers1997pp.32,34, "Hull and Protection Particulars". p.34,Drawing 1.14, "Kuma Class, Midships Section". p.35, Drawing 1.15, "Jintsu, Midships Section".
- ^ a b c d e #一般計画要領書(二等巡洋艦)p.17
- ^ a b c d e #海軍造船技術概要(1987)上巻p.306
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1690
- ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1689、機関大体要目。
- ^ a b c d #海軍造船技術概要(1987)上巻p.309、天龍及5,500噸型巡洋艦要目比較(新造計画)。
- ^ 大正13年4月29日付 海軍内令 第108号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b c #T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)画像45-49、大正十年度着手中型巡洋艦四隻計画に関する件、備考1「従来ノ軽巡洋艦(球磨級、長良級)ニ在リテ専焼罐十罐混焼罐二罐ヲ有スルモ重油払底ノ現状ニ鑑ミ専焼罐ヲ八罐トシ混焼罐四罐トシ石炭ノミニテ最高速力及航続速力ヲ十四節及十二節半トス」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.269-270
- ^ a b #S1(T15)公文備考26/軍艦加古工事に関する件画像1-2、官房機密第378号。同画像3-5、官房機密第378号の2。
- ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.18上の写真解説
- ^ a b c d #T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(2)画像9-10、C-33大体計画図
- ^ a b c #東・石橋(1990)川内型p.25
- ^ a b c d e #T14公文備考巻21/川内、神通、阿武隈、那珂製造一件(1)画像45-49、大正十年度着手中型巡洋艦四隻計画に関する件、備考2「専焼罐二罐ヲ混焼罐トスルノ結果別ニ横断石炭庫ヲ設ケ重油庫ノ一部ヲ石炭庫ニ變更シ煙突一本ヲ増設スルヲ要スルヲ以テ砲及發射管ノ位置ヲノ變更ヲ要シ従テ倉庫及居住ニ多少ノ變更ヲ生シ重量ノ増加ハ約二十五噸ナレドモ最初ノ球磨ノ計画ニ比シ約九十五噸(發射管ノ増大、飛行機飛揚装置等ノ新設ニ依リ)増加シ其排水量約五千五百九十五噸ト成ルコト別表ノ如シ」
- ^ #JapaneseCruisers1997p.798, "Machinery, Sendai Class, Summary Data Tables".
- ^ a b #JapaneseCruisers1997p.29
- ^ #JapaneseCruisers1997p.35, TABLE 1.10. "Variation in Deck Heights among the 5,500-Ton Cruisers"
- ^ a b #JapaneseCruisers1997p.34, Drawing 1.14. "Kuma Class, Midships Section"
- ^ a b #JapaneseCruisers1997p.34, Drawing 1.15. "Jintsu, Midships Section"
- ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.305
- ^ #東・石橋(1990)川内型p.23
- ^ #東・石橋(1990)川内型p.25-26
- ^ a b c d e f g h i #東・石橋(1990)川内型p.26
- ^ #石橋(1990)川内型識別p.50
- ^ #JapaneseCruisers1997p.32, "Hull and Protection Particulaers"
- ^ a b c #東・石橋(1990)川内型p.24
- ^ #東・石橋(1990)川内型p.23、第1図
- ^ #JapaneseCruisers1997p.33, Drawing1.13, "Sendai Class, Side View (as completed 1924)".
- ^ #写真日本の軍艦第9巻p.57下の写真解説
- ^ #東・石橋(1990)由良鬼怒阿武隈p.215
- ^ #JapaneseCruisers1997p.179, Drawing 5.13 "Sendai Class, Sede View of Bridge (as Completed 1925)".
- ^ #写真日本の軍艦第8巻p.247
- ^ a b c #JapaneseCruisersp.168, TABLE 5.4.
- ^ 畑中省吾「軽巡洋艦 川内 昭和17年 1/350スケール原寸図」『艦船模型スペシャルNo.13』pp.90-92
- ^ #東・石橋(1990)川内型p.27
- ^ a b c #東・石橋(1990)川内型p.28
- ^ #東・石橋(1990)川内型pp.26-27
- ^ #東・石橋(1990)川内型pp.23-24
- ^ #東・石橋(1990)川内型pp.27-28
- ^ 『帝国海軍 真実の艦艇史2』p175より
- ^ #S1(T15)公文備考26/2等巡洋艦1隻製造の件画像4、予算書。
- ^ #海軍制度沿革8(1971p.364、大正10年3月19日、達第43号
- ^ #海軍制度沿革8(1971p.78、大正10年6月9日、達第118号
- ^ #S1(T15)公文備考26/2等巡洋艦1隻製造の件画像1-3、官房機密第1777号
- ^ 『重巡古鷹・青葉型』p121より
- ^ a b #JapaneseCruisers1997p.796, "Construction Yards and Dates".