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「金町松戸関所」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
金町松戸関所は、江戸時代に利根川筋江戸川と水戸街道の渡船場、金町と松戸の間に設置された関所である。
[[江戸幕府]]により[[慶長]]年間([[1596年]]-[[1615年]])に旧[[水戸街道]]の江戸防衛の要所として設けられた。金町と対岸の[[松戸宿]]を結ぶ江戸川の渡船場を利用した関所である。常時4名の関所役人が置かれた。[[箱根関所]]に次いで「重関所」に指定され「[[入鉄炮出女|入鉄炮に出女]]」を厳重に取り締まった。[[1869年]]([[明治]]2年)に関所が廃止された後、関所跡は明治末期の江戸川河川敷改修工事の際に消失した。現在は跡地近くに石碑が残されている。
元和2年(1616年)家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16か所)に定め掟書がだされ、利根川筋の渡船場を拠点に設置された関所の一つである。
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関所の関所印や硯箱は[[葛飾区郷土と天文の博物館]]に保存されている<ref>[http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/kdm/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=219&data_id=105040 金町・松戸関所文書] 葛飾デジタルミュージアム(2017年2月12日閲覧)</ref>。

==金町松戸関所の設置==
;関所の位置<br>
金町松戸関所は水戸街道に置かれた唯一の関所である<ref name="大島207">大島(1995)207頁。</ref>。
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延享2年(1745年)『金町松戸御関所絵図』によると、「金町宿のつきる利根川(支流)に越谷川が注ぐ地点で、両面とも川に抱かれたところに、ごく小規模につくられた」という<ref name="大島207"/>。

;定船場の掟書き<br>
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元和2年(1616年)家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた<ref name=":26">『御触書覚保集成』に拠る。(本間(1988)636-637頁)</ref>。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた<ref name="saitama637">本間(1988)、637頁</ref>。
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一 定船場以外の場所において、みだりに往来の者を渡してはならない。<br>
一 女や手負いそのほか怪しい者はいずれの渡川場においても留め置き、早々江戸へ注進すること。但し、酒井忠利発行の手形を所持する者は異議なく通すこと。<br>
一 隣の村へ通行するほどこの渡船場でも通してよい、女人や手負いの者以外でも不審がなければ、その他の領主や代官の手形を所持する者は渡してよい。<br>
一 定船場であっても、女人・手負いまたは怪しい者は、たとえ酒井忠利の手形を所持した者でも、通してはならない。<br>
一 すべて江戸へ来るものは改めるに及ばない。
|『御触書覚保集成』に拠る、本間(1988)636-637頁。}}

;関所の位置づけ<br>
「諸国御関所書付」によると、金町松戸関所は、房川渡中田関所、小岩市川関所、小仏関所、新郷川俣関所に並び重要な関所とされている。
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諸国御関所書付<br>
此印〇重キ御関所<br>
此印△軽キ御関所<br>
 武州葛飾郡<br>
〇一 房川渡中田 御料<br>
〇一 金町松戸  御料<br>
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〇一 小仏    同<br>
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|「諸国御関所書付」、大島(1995)67-68頁}}


;寛政期の関所間の異動<br>
寛政期には、房川渡中田関所、金町松戸関所、小岩市川関所、小仏関所間での番人の異動があった<ref name="石岡110">石岡(2002)、110頁。</ref>。
金町松戸関所については、房川渡中田関所へ「金町松戸関所から足立孝右衛門が以前と同じ待遇、二十四俵四人扶持屋敷家作共で番替となる。その跡へは小岩市川関所の矢嶋勘四郎が番替となった」<ref name="石岡110"/>。関所間の番替はこの時期だけであった<ref name="石岡110"/>。

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;入鉄炮出女<br>
関所の検閲は『金町松戸御関所旧記』に記されており、「入鉄炮出女」の監視が示されている<ref name="大島207-208">大島(1995)207-208頁。</ref>。
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一 手負のもの通行の規定<br>
一 捕えの囚人並びに死骸の通行規定<br>
一 松平周防守が土浦より武具を運ぶに、金町松戸関所を通過するに要する方式<br>
一 関所女通り手形、二ヶ月を限り、相通すべく候<br>
一 引越の節、女通り手形二ヶ月を限り相通すべく候<br>
一 松平大学頭母の遺骸が、水戸国許出棺に付、金町松戸関所を通過<br>
一 猪狩の面々は、京極備前守よりの要請により、昼夜ともに通るを認める<br>
一 牧野備後守の所替に、婦女七百六人の内、減員二十九人、関所を通り笠間に入る<br>
一 父子三人が内藤主殿にお預けにつき、乗物で岩城湯長谷に行くため通過<br>
一 具足三十五領を笠間より江戸屋敷に送るを老中の連署で通過を許す<br>
|『金町松戸御関所旧記』,大島(1995)207-208頁。}}

== 関所の廃止と指定文化財 ==
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金町松戸関所関連の文化財には「金町・松戸関所文書 2冊 附関所印 他」があり、東京都葛飾区指定文化財となっている
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*石岡康子「房川渡中田関所改方制度の変遷」『文書館紀要』(15)、埼玉県立文書館、2002年、 118-88頁。
* 入本英太郎・橋本直子 『葛飾区史跡散歩』 学生社、1993年、88-90頁。
* 東京都歴史教育会編 『新版 東京都の歴史散歩 上』 [[山川出版]]1988年、260-261頁。
*入本英太郎・橋本直子 『葛飾区散歩』 学生社、1993年、88-90頁。
*大島延次郎『改訂版 関所』、株式会社新人物往来社、1995年。
* 山本鉱太郎 『新編 旧水戸街道繁盛記』 崙書房出版、2008年、99-114頁。
*東京都歴史教育会編 『新版 東京都の歴史散歩 上』 [[山川出版社]]、1988年、260-261頁。
*本間清利「第5章 交通と流通」、『新編 埼玉県史 通史編3 近世Ⅰ』、埼玉県、1988年、591-704頁。
*山本鉱太郎 『新編 旧水戸街道繁盛記』 崙書房出版、2008年、99-114頁。
*渡辺和敏「第三部 江戸幕府の関所政策」『近世交通制度の研究』吉川弘文館、1991年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[日本の交通]]
* [[日本の交通]]
* [[江戸川]]

* [[渡船]]
* [[房川渡中田関所]]
* [[小仏関所]]
* [[新郷川俣関所]]
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2017年3月18日 (土) 13:58時点における版

金町松戸関所の位置(日本内)
金町松戸関所
金町松戸関所の位置(石碑「川俣関所跡之記」の位置)

金町松戸関所(かなまちまつどせきしょ)は、江戸幕府により慶長年間(1596年-1615年)に水戸街道の江戸防衛の要所として設けられた。金町と対岸の松戸宿を結ぶ江戸川の渡船場を利用した関所である。現在の東京都葛飾区東金町にあった関所である。金町関所とも称される。

概要

金町松戸関所は、江戸時代に利根川筋江戸川と水戸街道の渡船場、金町と松戸の間に設置された関所である。 元和2年(1616年)家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16か所)に定め掟書がだされ、利根川筋の渡船場を拠点に設置された関所の一つである。 常時4名の関所役人が置かれた。[要出典]「重関所」に指定され「入鉄炮に出女」を厳重に取り締まった。1869年明治2年)に関所が廃止された後、関所跡は明治末期の江戸川河川敷改修工事の際に消失した。[要出典]現在は跡地近くに石碑が残されている。[要出典] 関所の関所印や硯箱は葛飾区郷土と天文の博物館に保存されている[1]

金町松戸関所の設置

関所の位置

金町松戸関所は水戸街道に置かれた唯一の関所である[2]。 江戸川の金町と松戸の渡し場を拠点とした関所で、所在地に伴い金町松戸関所と呼ばれた[2]。 延享2年(1745年)『金町松戸御関所絵図』によると、「金町宿のつきる利根川(支流)に越谷川が注ぐ地点で、両面とも川に抱かれたところに、ごく小規模につくられた」という[2]

定船場の掟書き
利根川・江戸川筋の関所配置[✝ 1]

元和2年(1616年)家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた[3]。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた[4]

一 定船場以外の場所において、みだりに往来の者を渡してはならない。
一 女や手負いそのほか怪しい者はいずれの渡川場においても留め置き、早々江戸へ注進すること。但し、酒井忠利発行の手形を所持する者は異議なく通すこと。
一 隣の村へ通行するほどこの渡船場でも通してよい、女人や手負いの者以外でも不審がなければ、その他の領主や代官の手形を所持する者は渡してよい。
一 定船場であっても、女人・手負いまたは怪しい者は、たとえ酒井忠利の手形を所持した者でも、通してはならない。
一 すべて江戸へ来るものは改めるに及ばない。

— 『御触書覚保集成』に拠る、本間(1988)636-637頁。
関所の位置づけ

「諸国御関所書付」によると、金町松戸関所は、房川渡中田関所、小岩市川関所、小仏関所、新郷川俣関所に並び重要な関所とされている。

諸国御関所書付
此印〇重キ御関所
此印△軽キ御関所
 武州葛飾郡
〇一 房川渡中田 御料
〇一 金町松戸  御料
〇一 小岩市川  同
 同多摩郡
〇一 小仏    同
 同国埼玉郡
〇一 新郷川俣 阿部能登守
   右五ヶ所の分、女共儀は、五留守居証文を以て通る

— 「諸国御関所書付」、大島(1995)67-68頁


寛政期の関所間の異動

寛政期には、房川渡中田関所、金町松戸関所、小岩市川関所、小仏関所間での番人の異動があった[5]。 金町松戸関所については、房川渡中田関所へ「金町松戸関所から足立孝右衛門が以前と同じ待遇、二十四俵四人扶持屋敷家作共で番替となる。その跡へは小岩市川関所の矢嶋勘四郎が番替となった」[5]。関所間の番替はこの時期だけであった[5]

金町松戸関所の検閲

「入鉄炮出女」は、江戸に持ち込まれる鉄炮(「入鉄炮」)と、江戸を出る女(「出女」)を取り締まった[4]。入鉄炮は江戸の治安の警備、出女は、「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が、領国に脱出するのを防止するためであった」という[4]

入鉄炮出女

関所の検閲は『金町松戸御関所旧記』に記されており、「入鉄炮出女」の監視が示されている[6]

一 手負のもの通行の規定
一 捕えの囚人並びに死骸の通行規定
一 松平周防守が土浦より武具を運ぶに、金町松戸関所を通過するに要する方式
一 関所女通り手形、二ヶ月を限り、相通すべく候
一 引越の節、女通り手形二ヶ月を限り相通すべく候
一 松平大学頭母の遺骸が、水戸国許出棺に付、金町松戸関所を通過
一 猪狩の面々は、京極備前守よりの要請により、昼夜ともに通るを認める
一 牧野備後守の所替に、婦女七百六人の内、減員二十九人、関所を通り笠間に入る
一 父子三人が内藤主殿にお預けにつき、乗物で岩城湯長谷に行くため通過
一 具足三十五領を笠間より江戸屋敷に送るを老中の連署で通過を許す

— 『金町松戸御関所旧記』,大島(1995)207-208頁。

関所の廃止と指定文化財

明治2年に関所は廃止となった。「金町の関所址はゴルフ場に変」った[7]。 金町松戸関所関連の文化財には「金町・松戸関所文書 2冊 附関所印 他」があり、東京都葛飾区指定文化財となっている [✝ 2]

脚注

注釈
  1. ^ 原図は渡辺(1991)『近世交通制度の研究』、514頁による。
  2. ^ 葛飾区の指定文化財一覧葛飾区郷土と天文の博物館葛飾区郷土と天文の博物館、閲覧日2017年3月1日。
出典
  1. ^ 金町・松戸関所文書 葛飾デジタルミュージアム(2017年2月12日閲覧)
  2. ^ a b c 大島(1995)207頁。
  3. ^ 『御触書覚保集成』に拠る。(本間(1988)636-637頁)
  4. ^ a b c 本間(1988)、637頁
  5. ^ a b c 石岡(2002)、110頁。
  6. ^ 大島(1995)207-208頁。
  7. ^ 大島(1995)、209頁

参考文献

  • 石岡康子「房川渡中田関所改方制度の変遷」『文書館紀要』(15)、埼玉県立文書館、2002年、 118-88頁。
  • 入本英太郎・橋本直子 『葛飾区史跡散歩』 学生社、1993年、88-90頁。
  • 大島延次郎『改訂版 関所』、株式会社新人物往来社、1995年。
  • 東京都歴史教育会編 『新版 東京都の歴史散歩 上』 山川出版社、1988年、260-261頁。
  • 本間清利「第5章 交通と流通」、『新編 埼玉県史 通史編3 近世Ⅰ』、埼玉県、1988年、591-704頁。
  • 山本鉱太郎 『新編 旧水戸街道繁盛記』 崙書房出版、2008年、99-114頁。
  • 渡辺和敏「第三部 江戸幕府の関所政策」『近世交通制度の研究』吉川弘文館、1991年。

関連項目

座標: 北緯35度78分05.2秒 東経139度88分94.8秒 / 北緯36.301444度 東経140.493000度 / 36.301444; 140.493000 座標: 緯度の分が60以上です
座標: 経度の分が60以上です
座標: 経度の秒が60以上です
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