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2017年1月11日 (水) 01:12時点における版
艦歴 | |
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起工 | 1881年 |
進水 | 1882年11月18日 |
就役 | 1885年 |
鹵獲 | 1895年2月17日 |
除籍 | 1911年4月1日 |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:7,220英t[1] |
全長 | 91.0m |
全幅 | 18.3m |
主機 | 石炭専焼缶8基[1]、 レシプロ蒸気機関2機 2軸推進[1]、6,200hp[1] |
最大速度 | 14.5ノット[1] |
航続距離 | 4,500浬(10ノット時)[1] |
乗員 | 士官、兵員407名[1] |
兵装 | (日本海軍所属時) |
30.5cm20口径連装砲 2基4門[1] | |
15.2cm40口径単装砲 4基4門[1] | |
6ポンド速射砲 2基2門 | |
3ポンド速射砲 8基8門 | |
35.6cm水中魚雷発射管単装3基[1] | |
装甲 | 水線 355mm 甲板 76mm 砲塔 22mm バーベット 305mm |
艦載艇 | 4等水雷艇(後の水雷艇26号型)2隻 |
鎮遠(ちんえん, Zhen Yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄砲塔艦「定遠級」の1隻。建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた。日清戦争において日本海軍に鹵獲され、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。
兵装
主砲は20口径30.5cm連装砲フード付き露砲塔2基、ドイツのクルップ砲で後装砲[注釈 1]。当時のイギリス戦艦が前装砲[注釈 2]を装備していたのに比べて取り扱い性が良い。
日本において、「鎮遠」の砲塔は装甲がなされていると勘違いされることが多々ある[注釈 3]が、上述のように露砲塔に防御力はないに等しいフードを付けたものにすぎなかった。鎮遠を実際に運用したところ、フード内部にこもる発射煙により砲弾装填や照準に支障をきたすため、黄海海戦時にはフードを取り払って戦闘に臨んだ。日本海軍に編入する際の復旧工事で、艦の中央やや後方の両舷に15cm単装砲各1基ずつが増設された。
艦歴
- 1881年 - ドイツ・シュテッティン(現・ポーランド領シュチェチン)のフルカン・シュテッティンで起工。
- 1882年11月28日 - 進水。
- 1885年 - 竣工[注釈 4]
- 1886年8月 - 清国北洋艦隊の旗艦「定遠」らとともに、補修の名目で長崎に入港。その際、上陸した乗員により騒動が起こった(長崎事件)。
- 1894年9月17日 - 黄海海戦中、日本の旗艦「松島」に直撃弾を与えた。大火災を生じながらも厚い甲鉄のおかげで主要部を貫徹されず、威海衛に入った[2]。
- 1895年2月17日 - 威海衛にて鹵獲。
- 1898年(明治31年)3月21日 - 二等戦艦に類別。
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に参加。黄海海戦、旅順攻略戦、日本海海戦に参加。
- 1905年(明治38年)12月11日 - 一等海防艦に類別変更。
- 1908年(明治41年)5月1日 - 運用術練習艦に指定。
- 1911年(明治44年)4月1日 - 除籍。
艦長
- 清国海軍
- 林泰曽 総兵:1886年-1894年
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」および『官報』に基づく。
回航委員長
艤装員長
- 横尾道昱 大佐:1895年9月10日-1895年12月27日
- 有馬新一 大佐:1895年12月27日-1896年7月7日
- 松永雄樹 大佐:1896年8月13日-1897年12月27日
- 沢良煥 大佐:1897年12月27日-1898年6月13日
- 植村永孚 大佐:1898年6月13日-1899年3月22日
- 橋元正明 大佐:1899年3月22日-6月17日
- 早崎源吾 大佐:1899年6月17日-9月29日
- 中山長明 大佐:1899年9月29日-11月20日
- 早崎源吾 大佐:1899年11月20日-1900年5月20日
- 梨羽時起 大佐:1900年5月20日-12月6日
- 鏑木誠 大佐:1903年2月3日-1903年8月1日
- 今井兼昌 大佐:1903年8月1日-1905年6月14日
- 毛利一兵衛 大佐:1905年6月14日-12月12日
- 長井群吉 大佐:1905年12月12日-1906年11月22日
- 石田一郎 大佐:1906年11月22日-1907年12月27日
- 小橋篤蔵 大佐:1907年12月27日-1908年4月7日
- 高木助一 大佐:1908年4月7日-8月28日
- 北野勝也 大佐:1908年8月28日-1909年3月4日
- 秀島成忠 大佐:1909年3月4日-1910年12月1日
同型艦
- 「定遠」
エピソード
- 日本海軍に鹵獲された際、艦内から1891年の北洋艦隊日本訪問記が見つかった。水交社の機関誌『水交社記事』57号(1895年5月)に「東巡日記」として和訳の上、掲載されている。
- 鹵獲後の回航要員に広瀬武夫が乗艦している。
注釈
出典
参考文献
- 浦辺登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年。ISBN 978-4-86329-026-6
- 『世界の艦船増刊第79集 日本戦艦史』海人社
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻』グランプリ出版 ISBN 4-87687-221-X c2053
- 『All the world's fighting ships 1860-1905』(Conway)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規、1995年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規、1995年。
- 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
- 『官報』