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* 小林峻一 鈴木隆一 『昭和史最大のスパイ・M 日本共産党を壊滅させた男』 ([[ワック]] 2006年) |
* 小林峻一 鈴木隆一 『昭和史最大のスパイ・M 日本共産党を壊滅させた男』 ([[ワック]] 2006年) |
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* [[Bina C. Kiyonaga]]『My Spy Memoir of a CIA Wife』([[:en:Harper Perennial]]、[[2001年]]2月6日)ISBN 978-0-38079497-3 |
* [[Bina C. Kiyonaga]]『My Spy Memoir of a CIA Wife』([[:en:Harper Perennial]]、[[2001年]]2月6日)ISBN 978-0-38079497-3- [[中央情報局]][[スパイ]]だった[[Joe Kiyonaga]]の妻 |
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* [[時事通信社]]『Jiji Top Confidential』「[[名越健郎]]の20世紀アーカイブス(24)秘密資金援助中国が日本共産党に2200万」(No.10935、[[2002年]]1月22日号) |
* [[時事通信社]]『Jiji Top Confidential』「[[名越健郎]]の20世紀アーカイブス(24)秘密資金援助中国が日本共産党に2200万」(No.10935、[[2002年]]1月22日号) |
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* 嶋村藤吉『日本国憲法オカノススム起源論』(内外出版、2009年)<nowiki>ISBN 978-4931410381</nowiki> |
* 嶋村藤吉『日本国憲法オカノススム起源論』(内外出版、2009年)<nowiki>ISBN 978-4931410381</nowiki> |
2016年12月11日 (日) 01:39時点における版
野坂 参三 のさか さんぞう | |
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ファイル:Nosaka Sanzo.jpg 中国共産党幹部時代の野坂 | |
生年月日 | 1892年3月30日 |
出生地 | 日本 山口県萩市 |
没年月日 | 1993年11月14日(101歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学理財科卒業 |
所属政党 |
(グレートブリテン共産党→) (日本共産党→) (中国共産党→) (日本共産党→) 無所属 |
称号 | 在職二五年議員 |
配偶者 | 妻・野坂龍 |
在任期間 | 1958年8月1日 - 1982年7月31日 |
選挙区 | 東京都選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1956年7月8日 - 1977年7月3日 |
在任期間 | 1955年 - 1958年 |
選挙区 | 東京都第1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1946年4月11日 - 1950年6月6日 |
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年(明治25年)3月30日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の政治家、日本共産党議長、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記を務め、名誉議長となる。衆議院議員(3期)・参議院議員(4期)。初名は小野 参弎(おの さんぞう)。中国では岡野 進や林 哲と称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。
生涯
生誕から延安入りまで
山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。
明治31年、明倫尋常小学校入学、萩中学校を経て、県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会や新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、グレートブリテン共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。
日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂榮太郎に影響を与える。のち三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。この釈放から野坂は1931年(昭和6年)に妻の野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン、内務人民委員部(NKVD)のスパイになったという。その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。また、1940年(昭和15年)、中華民国の延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行ったり前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本に帰れるようにしてあげます。共産党第八路軍、日本人岡野進」という内容のビラを配布[1]など、日本帝国主義打倒を目指した活動をおこなった。 野坂は一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった。
帰国と戦後の活動
野坂は第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)1月12日に中国から(直行で帰った事になっていたがソ連経由であった事が後に判明)帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会の荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。また薄田研二は「同志、野坂帰る」ではじまる歓迎詩を朗読した[2]。
先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。また在満邦人の困窮を無視した講演での発言が発端になって、のちに葫芦島在留日本人大送還が開始された。
府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区(大選挙区)から当選した。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対し、憲法前文に「主権が国民に存する」との文言を追加するよう主張した。
ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。1950年(昭和25年)に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。GHQのチャールズ・L・ケーディスと親しくしていたが[3]、レッドパージを受けて地下活動、中国に亡命(北京機関)して武装闘争路線を採った。
1955年(昭和30年)に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任する。1956年(昭和31年)に東京都選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって参議院議員を務めた。1958年(昭和33年)に共産党議長となり、宮本が書記長となった。1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長となった。
最晩年の除名
議員引退後には、1970年代から書きついで来た自叙伝『風雪のあゆみ』を完成(1989年、コミンテルン第7回大会のころまでのことを書いている)させ、1992年には生誕100年ということで、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたこともあった。
しかし、その直後の『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後中央委員会総会において野坂の除名処分が決定された(名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた)。その際、野坂は「残念ながら事実なので処分を認めざるを得ない」と述べた以外は、この件について公に語ることがなかった。これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中にアメリカからコミンテルンのディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったのである。
この発覚以前からかつての同志袴田里見らの、野坂をスパイと疑う声があるほか、ソ連とアメリカとの二重スパイ説もあるが、真相は永久に不明のままとなった。参議院が弔詞を捧げることに対し、共産党は反対した。
その他
- 「徹子の部屋」では「革命運動のために子供を作らなかったが、今では後悔している」と述べていた。ただし、のちに養女・米子をとっている。
- 野坂の妻の龍(りょう)も女性革命家であり、ソ連では逮捕・釈放を経験した。波乱の生涯を1971年に閉じている。
- 新憲法の9条一項には賛成したが、自衛のための武力は保持するべきだと主張した。
- 占領時代、アメリカの使節団が各政党の政策を諮問した際、野坂は日本共産党を代表して発言した。使節団は野坂の意見を評価し、「彼は非常に頭がいい。彼を首相にしてはどうですか?」と言った。驚いたGHQのメンバーは、「彼は共産主義者ですよ。共産主義者を首相にするんですか」と言った。
自伝
- 『風雪のあゆみ』1-8(新日本出版社、1971-89年)
参考文献
- 大森実『戦後秘史』3-4(講談社、1975年。1981年文庫化。※巻末に議長在任中のインタビューあり)
- 井上敏夫『野坂参三予審訊問調書 ある政治的人間の闘争と妥協の記録』 (五月書房 2001年)
- 和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996年3月)
- ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡 日系アメリカ人の戦後史』(彩流社、1995年)
- 小林峻一,加藤昭 『闇の男 野坂参三の百年』(文藝春秋 1993年)
- 小林峻一 鈴木隆一 『昭和史最大のスパイ・M 日本共産党を壊滅させた男』 (ワック 2006年)
- Bina C. Kiyonaga『My Spy Memoir of a CIA Wife』(en:Harper Perennial、2001年2月6日)ISBN 978-0-38079497-3- 中央情報局スパイだったJoe Kiyonagaの妻
- 時事通信社『Jiji Top Confidential』「名越健郎の20世紀アーカイブス(24)秘密資金援助中国が日本共産党に2200万」(No.10935、2002年1月22日号)
- 嶋村藤吉『日本国憲法オカノススム起源論』(内外出版、2009年)ISBN 978-4931410381
脚注
- ^ “シネマの天使編(33)”. 産経新聞 (2011年3月25日). 2011年4月17日閲覧。
- ^ 日本ニュース戦後編第4号|NHK戦争証言アーカイブス
- ^ 竹前栄治『日本占領―GHQ高官の証言』中央公論社、1988年
外部リンク
- 野坂 参三 / クリック 20世紀
- 梅田俊英による和田春樹『歴史としての野坂参三』の書評
- 加藤哲郎 歴史における善意と粛清、副題は「国崎定洞の非業の死からみた『闇の男――野坂参三の百年』の読み方」。季刊『窓』誌第19号(窓社、1994年)、同『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)も参照。