「リチャード・クロス (初代クロス子爵)」の版間の差分
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2016年11月29日 (火) 00:44時点における版
初代クロス子爵 リチャード・クロス Richard Cross 1st Viscount Cross | |
---|---|
1895年頃のクロス卿 | |
生年月日 | 1823年5月30日 |
出生地 | イギリス、イングランド・ランカシャー・レッド・スカー |
没年月日 | 1914年1月8日(90歳没) |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代クロス子爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) |
内閣 |
第二次ディズレーリ内閣 第一次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 |
1874年2月20日 - 1880年4月18日 1885年6月24日 - 1886年1月26日[1] |
内閣 | 第二次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1886年8月3日 - 1892年8月11日[2] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
プレストン選挙区 南西ランカシャー選挙区 ニュートン選挙区[3] |
在任期間 |
1857年3月27日 - 1862年 1868年11月17日 - 1885年11月24日 1885年11月24日 - 1886年8月19日[3] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1886年 - 1914年1月8日[3] |
初代クロス子爵リチャード・アッシュトン・クロス(英語: Richard Assheton Cross, 1st Viscount Cross, GCB, GCSI, PC, FRS、1823年5月30日 - 1914年1月8日)は、イギリスの政治家、貴族。
経歴
1823年5月30日、ウィリアム・クロスとその妻エレンの三男としてイングランド・ランカシャーのレッド・スカーに生まれる[4]。
ラグビー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業し、バチェラー・オブ・アーツ(BA)の学位を取得[5]。その後、リンカーン法曹院やインナー・テンプルで学び、弁護士となる[5]。
1857年から1862年にかけてプレストン選挙区、1868年から1885年にかけて南西ランカシャー選挙区、1885年から1886年にかけてニュートン選挙区から選出され、保守党所属の庶民院議員を務めた[5][4]。
1874年から1880年にかけて第二次ディズレーリ内閣に内務大臣として入閣[5][4]。公衆衛生法や職工住宅法の制定を主導し、スラムや不衛生の抑制を目指した[6]。
1885年から1886年にかけての第一次ソールズベリー侯爵内閣でも内務大臣として入閣した[5][4]。
1886年から1892年の第二次ソールズベリー侯爵内閣ではインド担当大臣 として入閣[5][4]。また1886年にクロス子爵に叙せられ、貴族院へ移籍した[3]。
1895年に成立した第三次ソールズベリー侯爵内閣では初めランカスター公領担当大臣、ついで王璽尚書を務めた[5][4]。1900年に政界引退し、1914年1月8日に90歳で死去した[5][4]。
家族
1852年にジョージアナ・リオンと結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[4]。
- 第1子(長女)ジョージアナ・ハリエット・クロス(-1957):エドワード・ウェントワース・アトキンズ=ボイヤーと結婚
- 第2子(次女)アン・マーガレット・クロス(-1962):ヘンリー・ドーソンと結婚。
- 第3子(長男)ウィリアム・ヘンリー・クロス(1856-1892):第2代クロス子爵リチャード・クロスの父。
- 第4子(次男)ジョン・エドワード・クロス(1858-1921)
- 第5子(三男)チャールズ・フランシス・クロス(1860-1937)
栄典
爵位
勲章
名誉職その他
- 1874年、枢密顧問官(PC)[5]
- 1877年、名誉民事法学博士号(DCL)(オックスフォード大学名誉学位)[5][4]
- 1879年、王立協会フェロー(FRS)[5]
- 1885年、名誉法学博士号(LLD)(セント・アンドルーズ大学名誉学位)[5][4]
- 名誉法学博士号(LLD)(ケンブリッジ大学名誉学位)[4]
- 名誉法学博士号(LLD)(リーズ大学名誉学位)[4]
- ランカシャー州副知事(DL)
- チェシャー治安判事(JP)[4]
- ランカシャー治安判事(JP)[4]
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.509
- ^ 秦(2001) p.511
- ^ a b c d UK Parliament. “Sir Richard Cross” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Lundy, Darryl. “Richard Assheton Cross, 1st Viscount Cross” (英語). thepeerage.com. 2014年6月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n "Cross, Richard Assheton (CRS842RA)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ トレヴェリアン(1975) p.175
参考文献
- G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 3』みすず書房、1975年(昭和50年)。ISBN 978-4622020370。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the Viscount Cross
公職 | ||
---|---|---|
先代 ロバート・ロー |
内務大臣 1874年 - 1880年 |
次代 サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート |
先代 サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコート |
内務大臣 1885年 - 1886年 |
次代 ヒュー・チルダース |
先代 初代キンバリー伯爵 |
インド担当大臣 1886年 - 1892年 |
次代 初代キンバリー伯爵 |
先代 第2代ツウィードマウス男爵 |
ランカスター公領担当大臣 1895年 |
次代 サー・ヘンリー・ジェームズ |
先代 第2代ツウィードマウス男爵 |
王璽尚書 1895年 - 1900年 |
次代 第3代ソールズベリー侯爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 ロバート・タウンリー・パーカー サー・ジョージ・ストリックランド准男爵 |
プレストン選挙区選出庶民院議員 1857年 - 1862年 同一選挙区同時当選者 チャールズ・パスコー・グレンフェル |
次代 チャールズ・パスコー・グレンフェル トマス・ファーマー・ヘスケス |
新設 | 南西ランカシャー選挙区選出庶民院議員 1868年 - 1885年 同一選挙区同時当選者 チャールズ・ターナー(1868-1875) ジョン・アイルランド・ブラックバーン(1875年 - 1885年) |
廃止 |
新設 | ニュートン選挙区選出庶民院議員 1885年 - 1886年 |
次代 トマス・ウッドハウス・リー |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代クロス子爵 1886年 - 1914年 |
次代 リチャード・クロス |