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2016年11月18日 (金) 08:01時点における版
安達久美 | |
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別名 | 女ジェフ・ベック[1][2] |
生誕 | 1977年11月11日(47歳)[3][4] |
出身地 | 日本 大阪府貝塚市[5] |
学歴 | ミュージシャンズ・インスティチュート留学 |
ジャンル | ロック |
職業 | ギタリスト、作曲家[6] |
担当楽器 | エレキギター |
活動期間 | 2007年(CDデビュー) - 現在 |
レーベル | ビデオアーツ・ミュージック |
共同作業者 | 則竹裕之、清水興、河野啓三 |
公式サイト | http://www.ragnet.co.jp/artist_adachi.html |
著名使用楽器 | |
ポール・リード・スミス | |
安達久美(あだち くみ、1977年[3]11月11日[4] - )は、日本のギタリスト・作曲家であり[6]、「安達久美クラブパンゲア」のメンバーの一人である。大阪府貝塚市出身[5]。京都府京都市左京区在住[7]。
2007年にアルバム『リトル・ウィング』をリリースし、CDデビューしている[3]。
女性としては珍しいエレキギターの奏者である[8]。その技術力に関して業界から高い評価を受けており、アメリカの楽器メーカー、ポール・リード・スミスなどから専用モデルを提供されるほどである[6][7]。
来歴
幼少期からギターとの出会いまで
安達が生まれ育った大阪泉州はだんじり祭で有名な地域であるが、奇しくもその稽古場の隣に安達の実家があったため、毎年祭の前になると、太鼓や笛の音を聞きながらすごしていた[8]。
5歳上の兄とは、いつも一緒に外で遊ぶほど、仲が良く[5]、兄に対して憧れの念も抱いていた[8]。幼少の頃から他の女の子が興味を示すものにはあまり関心がなく、むしろF1レースなどのモータースポーツが好きだった[9]。あるとき親から人形を買ってもらったが、遊び方がわからず、うっかり人形の目を外してしまったというエピソードもある[9]。外で遊ばないときは、テレビゲームに熱中したこともあったが、意地をはってしまう性格が災いして、体調を崩すほどやりこんでしまったこともあった[4]。
安達が11歳(小5)のとき、兄が自分の手の指を大けがするということがあった[10]。兄のけがのリハビリになればと、兄の友人がエレキギターをプレゼントしたのが、安達にとってギターとの初めての出会いだった[10]。音楽バンドがブームになっていたその当時、兄のギターに興味をもった安達は、兄のいないときにこっそりそれを弾くようになった[5]。
ギターに懸けた青春とアメリカ留学
誰に教わるでもなくギターを始めた安達は、兄の見よう見まねでギターの弾き方を習得した[8]。有名な楽曲もいわゆる「耳コピ」で覚え、完全に自己流でギターを練習に打ち込んでいた[8]。それは、教則本を使って練習していた兄とは対照的であった[5]。ロックやブルースに興味を持った安達は、あるときイギリスのロックグループであるレッド・ツェッペリンの『天国への階段』のイントロに挑戦しようと思い立つ[10]。『天国への階段』は、かなり難易度の高い楽曲であったが、学校から帰ったらすぐさま練習を始め、ときには朝の5時までギターを弾き続けることもあったという[4]。このような悪戦苦闘を1年間続け[4]、結局1曲全てをマスターするに至った[10]。安達は後年、『天国への階段』にはギターを弾くのに必要な技術がほとんど含まれていたと振りかえっている[4]。
ギターの才能に目覚めた安達は、自身のセンスに確信をもち、ますますギターに打ち込んでいった[3]。13歳(中2)のときには、兄のバンドに加わって、ライブハウスのステージに初めて立った[10]。既にプロの道を目指すことに決めていた安達は[4]、アメリカのギタリスト、スコット・ヘンダーソンの元でギターを学びたいと思うようになった[10][11]。
ヘンダーソンがアメリカロサンゼルスの音楽学校「ミュージシャンズ・インスティチュート」の指導者を務めているという情報を得た安達は[5]、早速英語で電話をかけてみたり[11]、パンフレットをとりよせたりした[5]。しかし、入学条件が高卒であることを知り、仕方なく「自宅に最も近い」という理由だけで選んだ高校に進学した[5]。高校時代は、1日に6、7時間は練習に励み、男性たちに混じってライブにも出演することもあった[7]。ときには留学のため、外国人が多く集まるバーに足を運んで英語を練習することもあった[3]。
高校を卒業した安達は、19歳で念願だったミュージシャンズ・インスティチュートに1年間の留学を果たす[4][5]。自らのギターキャリアに自信があった安達は、周囲のレベルの高さに衝撃を受け、落ち込むこともあった[11]。しかし、周囲の音楽に対するハングリー精神に刺激され、自分もまた音楽に対して貪欲に打ち込んだ[11][12]。学校は年中24時間開放されており、ほとんどの時間を練習に費やしていた[11]。長年憧れていたヘンダーソンは厳しい指導者であったので生徒の中には少し及び腰の者もいたが、安達は自分からヘンダーソンに会いに行き、二人でブルースのセッションをしたこともあった[3][10]。
言葉に関しては、最初の半年間は聞き取るだけでも精一杯であったが、音楽学校の仲間とは、音楽を通じてすぐに打ち解けあうことができたと振りかえっている[5]。
帰国後の活動とCDデビュー
帰国後は、歌手「花*花」のサポートギタリストをするなど[5]、スタジオ・ミュージシャンとして広く活動した[10]。またその傍らで、音楽学校時代の友人と共にインストルメンタルトリオである「SLICK」を結成し[13]、ライブ活動を展開した[10]。2002年には活動拠点を大阪から京都に移し[8]、多くの有名ミュージシャンとのセッションに参加した[3]。
ドラマーでT-SQUAREの元メンバーである則竹裕之のライブに出演した際、安達の感性に心を動かされた則竹から「一緒にやらない?」と声をかけられたことをきっかけに[5][7]、2005年5月「クラブパンゲア」(現・安達久美クラブパンゲア)を結成した[8]。
以降、京都を拠点に全国でライブを重ね、その活動範囲を徐々に広げていった[7]。2006年3月には、FMヨコハマに出演し、初となる生演奏を披露した[14]。これらの活動により、ファンたちの支持を集め、2007年3月21日にCDデビューを果たした[7]。デビューアルバムは自作の曲を9曲収録した『リトル・ウィング』(ビデオアーツ・ミュージック)である[7]。2008年3月19日にはセカンドアルバム『ウィナーズ!』(ビデオアーツ・ミュージック)を[3][6][9][10]、2009年8月19日にはサードアルバム『L.G.B.』(ビデオアーツ・ミュージック)を発表した[4][12]。なお、メジャーデビュー後もライブカフェなどでの活動は継続している[15]。
人物・評価
作風
楽譜の読み書きに苦手意識を持っている安達は、視覚・聴覚・触覚などから得られた実体験を元にイメージを膨らませ、新しいメロディーをつくるという、一風変わった方法を用いている[8]。ときには味覚ですらもインスピレーションを高める助けとなる[8]。
例えば、ジャズやフュージョンでは通常みられない変拍子を自分の曲にとりいれているのは、幼少のころに聞いた、だんじり祭の太鼓や笛の音のイメージがあるからだという[8][16]。これに関して、音楽プロデューサーの須田晃夫は、以下のように評している[8]。
この業界では発想できない不可解な調子だが、聞いているうちに耳についたリズムがはまってくる。
元々絵を描くのが得意であり、絵を描く作業と作曲を重ね合わせることもある[9]。このことを同じグループの仲間である清水興からは、「この子は筆がギターに変わっただけ」と表現している[9]。
最近はパソコンで作曲を行うことが多いが、譜面に細かいところまで記すのはやはり苦手であると言っている[17]。
2010年10月9日に福岡で行われたライブを聞いた作曲者の林田恭孝は、安達の作風について以下のように評価している[18]。
目新しさはないが、安達が生まれる前のロックフレーズと複雑なリズムの組み合わせが面白い。刺激的だった初期フュージョンを想起させる。
ポール・リード・スミスの奏者として
安達は、男性に較べると相対的に少ない、エレキギター奏者を職業とする女性の一人として知られ[8]、ポール・リード・スミスからの機材提供を受ける女性ギタリストは安達を含めて2名であるという[2][4]。
難病患者として
2007年3月のメジャーデビューを機に、自分が潰瘍性大腸炎という難病を患っていることをカミングアウトしている[7]。腹痛や下痢などの症状を抑えるため、絶食してライブに臨む[7]。闘病しながらもプロとして邁進する安達の姿勢は医療系の雑誌にも取り上げられている[19]。
その他
副業として、ギター教室も主宰している[5]。
趣味は、マラソンであり、毎日10キロメートル程度走っている。東京マラソンやホノルルマラソンの参加をもくろんでいるが、仕事のスケジュールが合わず、今のところまだ出場したことはない[9]。
作品
アルバム
- リトル・ウィング(2007年3月21日、ビデオアーツ・ミュージック、VACM-1302)
- ウィナーズ!(2008年3月19日、ビデオアーツ・ミュージック、VACM-1352)
- L.G.B.(2009年8月19日、ビデオアーツ・ミュージック、VAZS-0003/4)
出典
- ^ 「安達久美クラブパンゲア」 (音楽がいどガイド) 『日本経済新聞』、2007年3月30日付夕刊、14頁。
- ^ a b 「レディ・ギターのカリスマ 第3章」2009年7月29日、HMV、2011年1月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 野波健祐 「熱血ギター、オヤジ心ギュッ―安達久美、セカンドアルバム『ウィナーズ!』」【大阪】 『朝日新聞』、2008年4月15日付夕刊 (大芸能1)、5頁。
野波健祐 「ギタリスト・安達久美―ロックおやじの魂震わす熱血娘」 (ブレイク5秒前) 『朝日新聞』、2008年3月31日付夕刊 (夕刊be月曜5面)、15頁。 - ^ a b c d e f g h i j 土井淑子 「Music Interview―安達久美」 (New Release) 『Leaf』 第14巻11号、リーフ・パブリケーションズ、2009年9月25日、84頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 花井奈穂子 「泉州発いつか世界へ!―ギタリスト安達久美さん」 (私的・すてき人 57) 『キットプレス』、キットコーポレーション、2009年9月2日。2010年12月28日閲覧。
- ^ a b c d 「パワフルな演奏、気軽に―安達久美ライブ、来月21日に名古屋で」【名古屋】『朝日新聞』、2008年3月28日付夕刊 (各ステージ)、35頁。
- ^ a b c d e f g h i 「女性エレキ奏者、夢のビート刻む―難病耐えCD発売」 『京都新聞』、2007年3月8日 (京都新聞電子版)、元リンク[リンク切れ]。2007年7月4日におけるアーカイブ。2010年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「安達久美 『ゴリラ ゴリラ ゴリラ』―肌で感じ舌で味わう音ユニーク感性―動物観察から曲」 (五感のチカラ―京滋の表現者たち 5) 『京都新聞』、2005年12月18日掲載。2010年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e f 工藤由美 「安達久美―古き良き音楽を私が伝えていけたら」 (CLOSE-UP) 『月刊YMMプレイヤー』 5月号第40巻、プレイヤー・コーポレーション、2008年5月2日、104-105頁。
- ^ a b c d e f g h i j 宝田茂樹 「ギタリスト・安達久美―ナニワの技巧派が熱い!!」 (インタビュー) 『産経新聞』、2008年3月13日8時5分配信 (MSN産経ニュース)、元リンク: 1-2頁[リンク切れ]。2008年5月10日におけるアーカイブ: 1-2頁。2010年12月28日閲覧。
- ^ a b c d e 「ギタリスト安達久美さん」 (二十歳のころ―これから二十歳を迎える若者と昔二十歳だった人々へ) 『PLATon』 2008年3月25日放送分、J-WAVE。2010年12月28日閲覧。
- ^ a b 「レディ・ギター・レボリューション第3章―安達久美クラブパンゲア」 (インタビュー) 『ギター・マガジン』 第30巻9号、リットーミュージック、2009年9月1日、34-35頁。
- ^ 「11/28 笹井克彦(Bs)BJ`s Funky session live!!!!!」、CONTORT、2010年11月3日。2010年12月28日閲覧。
- ^ 「京都から世界目指す、女性ギタリスト登場―8日、横浜・中区でライブ」【神奈川県】『朝日新聞』、2006年3月5日付朝刊 (横浜・1地方)、35頁。
- ^ 『ひろしま LIVE net』、ザメディアジョン、2008年2月6日、43頁。
- ^ 「安達久美(2)」、『The Music Now』 2008年3月23日放送分、abc1008。2010年12月28日閲覧。
- ^ 「バンドおやじの心わしづかみ―“だんじりギタリスト”安達久美」 『夕刊フジ』、2008年3月16日付
- ^ 林田恭孝 「安達久美&小林香織スペシャルジャムセッション―目が離せない若い二人」【西部】 (批評!音楽) 『朝日新聞』、2008年10月31日付夕刊 (ステージ)、4頁。
- ^ 「人『自分主義』―ギターで世界の頂点に立つ―安達久美(ギタリスト)」 『CCJAPAN』 第40号、三雲社、2007年10月26日。